「読者よ、悟れ。」光と闇を切り分け、時代に警鐘を鳴らす。

ブログの趣旨 (この記事はいつも最初に表示されます。)

このブログの目的は、主としてニッポンキリスト教界になぜ不祥事が多発しているのか、その原因を様々な角度から分析し、探ることにあります。
プロテスタントのキリスト教界には現在、様々な教団教派が存在しますが、いずれの組織にも不祥事を解決するための能力が著しく欠けていることが、多くの人々によって指摘されています。そして筆者自身もまた、教会内で大きな問題に遭遇することにより、このような事態が見逃せないほど深刻なものであることを思い知らされました。

このブログでは、キリスト教界において多発する不祥事の背景に存在する、教界に特有の階級制度の問題性、また、主にアメリカの神学者・牧師によって提唱されて、日本に輸入される様々な教会成長プログラムの危険性について指摘しました。
時には、かなり厳しい口調で、教界や個人の主張を非難しているように見えるかも知れません。しかし、ブログの目的は、キリスト教のイメージそのものを貶めたり、特定の組織を破壊することにはなく、教会の問題について警告を発することによって、聖職者やクリスチャンに一人でも多く、このような問題について考えてもらうきっかけを作り、問題の存在を広く知らしめることにより、教会内で何も知らずに信仰につまずく信徒が少しでも減るよう貢献することにあります。

ここに指摘してあるような問題を解決しない限り、ニッポンキリスト教界には未来がない、と筆者は確信しています。けれども、筆者は個人としてブログにおいてこの問題を訴えるにとどまり、政治運動を引き起こすことを目的とはしていません。教界の未来を作っていくのはあくまで一人ひとりのクリスチャンです。そこで、ここで訴えているような問題をどうとらえ、どう解決していくのかは、牧師や信徒などの一人ひとりのクリスチャンの手に委ねられている業だと思っています。

記事一覧
以下は、ブログ内記事の簡略的な案内です。

「ニッポンキリスト教界は崩壊前夜」シリーズ
(序) 教会のカルト化をめぐって
…連続する教会内不祥事がキリスト教界全体を危機にさらしている事実について、また、筆者が教会で体験した恐るべき出来事を述べます。
(1)教会のカルト化をめぐって
…カルト化問題対策として現在行われている加害者への裁判には果たして効果があるのかどうか論じます。
(2)教会のカルト化をめぐって
…カルト化問題を促進している要因に、教界における癒着と、各教会、牧師間の激しい競争があることを指摘します。
(3)教会のカルト化をめぐって
…カルト化問題の最たる原因は、牧師と信徒との間に大きな階級的な溝があって、牧師と信徒との間に不平等な扱いが定着していることにあると指摘します。
(4)教会のカルト化をめぐって
…プロテスタント特有の他宗教、他宗派への攻撃性、対抗意識には問題があること、また、現在のカルト被害者救済活動は、元来、他宗教との信者奪回争いに由来する、宗教的な抗争であることを指摘します。

(1)「カルト被害者救出活動はプロテスタントの十字軍」 (2)、 (3)、 (4)
…フィクションの物語形式をとりながら、カルト被害者救出活動が始まった当時、この運動はどのようなものであったのか、そこにあった暴力性、強制を指摘し、そして現在もこの活動がはらんでいる様々な問題について述べます。結論として、カルト被害者救出活動そのものが被害者を救済できていないことを述べます。

(終)カルト化をめぐって
…現在、キリスト教界全体が以上のような問題構造を直そうとしていないため、教界全体がカルト化という「バビロン」に向かっていること、このままでは教界にとどまることが、信徒の信仰を危険にさらすものでしかないことを述べます。

その他、カルト問題に関する記事
遅すぎた教会のペレストロイカ、カルト被害者救出活動
…カルト被害者救出活動によって教界を救うにはもう遅すぎるだろうとの筆者の予測を述べます。

偽りの救済活動を信用してはならない。「カルト監視機構」は教界内の秘密警察
…救済を唱えながら、被害者を食い者にする活動が存在すること、また教界全体を監視する機関が設置されれば教会の自治も成り立たなくなり、民主主義が弾圧される危険性があることを述べます。

カルト化教会の被害者に告ぐ
…現在行われているカルト被害者救済活動は被害者を食い者にしており、将来の希望がないという筆者の考えを、理由を挙げつつ被害者に向けて訴えます。

ニッポンキリスト教界の恐るべき倒錯 牧師が信徒に救いを求める時代?
…被害者の力を借りて、カルト問題を解決しようという教界の姿勢は誤っており、信徒を都合よく利用する牧師優位の姿勢に基づいたものでしかないことを指摘します。

コリント人への第一の手紙に見る、教会内不祥事の解決策としての司法の有効性
…被害者による裁判を教会のカルト化の抑止力としたり、牧師の救済のために役立てようとする主張が誤りであることをパウロの書簡を根拠に指摘します。

「主の重荷」 現代日本キリスト教界
…歪んだ構造をそのまま放置しているキリスト教界は多数の信徒をつまずかせ、正統な信仰から外れてしまっており、エレミヤ、エゼキエルが受けた警告を今日のクリスチャンは真摯に受け取らなければならないことを指摘します。

「キリスト教界に持ち込まれるグノーシス主義的異端」シリーズ
(1)ペンテコステ派とネオ・リベラリズム(2)
…ペンテコステ派が世界各国に普及しているのはなぜなのか。その背景には何があるのか。市上原理主義とそれを支える人間の思考改造としてのネオ・リベラリズムと、ペンテコステ派の掲げる神学の類似性を見ます。

その他、キリスト教に関する覚書
献身とは何か
…現在、教界において唱えられている「献身」の概念に見られる歪みについて指摘しました。

「生命は闇の中にまたたく光」
…クリスチャンのある群れが、自分達の集団こそは正しいと確信して、何らかの主義により団結し、完成された幸福社会を地上で目指そうとすることの危険性について書きました。

その他、日本社会の問題についての覚書
市場原理主義の没落と、新しい時代の価値観についての一考察
…ワーキング・プアを多数生み出し、若者を使い捨てにしている現在の日本社会の仕組みが、全体として崩壊に向かっていることを予想し、次なる時代はどのようなものになるかを考えます。

「日本人よ、マインドコントロールから目を覚ませ」シリーズ
…マインドコントロールを使って信徒を操っているのはカルト宗教だけでない。受験戦争や画一化教育、企業戦士などを生み出してきた国の政策や、戦争を推進するアメリカ政策にもマインドコントロールは多用されている、という観点に立って論じます。

「ラストサムライ」に見る日本への警告
…日本人は自主性を取り戻し、伝統文化へ立ち返るべきという筆者の見解、日本人が自国の文化を恥じるような「文明開化」は間違っているということを述べます

「言論的クーデタと思想統制の危険性について」
…日本社会は全体として戦前のようなファシズムへ近づきつつあり、言論統制国家へ変わりつつあるという指摘があることを述べます。

その他、世界情勢についての覚書
世界の孤児アメリカがイランを見つめる目
…オバマ政権は希望に満ちた明日を作るのか? この政権がはらむ危険、イラン戦争が起こる危険性について指摘

イラン戦争を起こそうとする計画と、核の使用には、断固反対しよう
… クリスチャンは、悲観的な決定論に流されることなく、信仰に基づいて、戦争と核の使用には断固反対していこうという呼びかけ。

殺人兵器にさよならを!!―中東での小型核を使用した核戦争の脅威について―
…イランで核戦争が起こることを憂慮する記事を紹介。核戦争に、断固、反対しましょう。
 

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2010/05/04 (Tue) 目次 Comment(0)
今、ニッポンキリスト教界が屋台ごと炎上している。ビュン牧師の事件が大々的に報道されたことにより、キリスト教界全体がこうむる打撃は計り知れないほど大きいだろうと感じる。
昨年11月以来、このブログでは、ニッポンキリスト教界全体が近いうちにカルト化し、崩壊するだろうとの予測に立って記事を書いてきた。個人的な感情も入っており、いささか抗議の調子が強すぎるかも知れないと思うこともあった。

だが、どんな組織も、人間を嘲り、痛めつけるような反社会的活動に走れば、いずれ崩壊する。カルト被害者救済組織がなくては、まともな運営さえできず、いかなる不祥事をも解決する力がないようなニッポンキリスト教界組織に、明るい未来がないことは、誰の目にも明らかだ。今まで大量の信徒を躓かせて知らぬ顔を決め込み、自らの組織拡大だけを念頭に置いて、傲慢な教会運営を行ってきた教界には、破滅から救われる道はもうどこにも残されていないだろうと思う。

いずれ必ず場所を改めて論じるつもりだが、昨今、教界において流行している教会成長論というものは、結論から言えば、信仰とは全く無縁の、教会組織の繁栄だけを目的とした儲け主義、言い換えるなら、キリスト教界における戦略的なマーケティング理論である。それは、一部の狂った聖職者たちの野望を、信仰という名でカモフラージュしているに過ぎない。

信仰の成長は極めて個人的かつ内面的なものであって、誰かが外から見ておしはかることはできない。確かに、行いの伴わない信仰は無意味だと聖書は教えているが、かといって、信徒の行いを、教会組織の繁栄のためにどれほど活動したかという点から見て評価しようとすることは誤っているし、危険すぎる。教会という組織の繁栄のために身を粉にして、すすんでただ働きできる人材となることが、クリスチャンの実践的な信仰生活であるかのように教えられてはならない。

そもそも、活動本位の視点から、クリスチャンの信仰をおしはかろうとすること自体が問題なのだが、たとえ信仰による行いを重要視するにしても、教会組織に利益をもたらす活動だけを重要視するようなことがあってはならない。つきつめるならば、今日、あなたが隣に住んでいる老婦人と一言会話しただけでも、それは信仰生活の重要な一コマになるのだ。平和な心で庭の草木を手入れし、夫や子供のために朝食を作り、職場でハードな仕事に耐え、つつましい日々の穏やかな生活を維持するだけでも、それは信仰の実践なのだ。

十字架の救いをまさに必要としている人に語りかけることこそが、伝道なのであって、教会組織の人員増加のために伝道するのでは本末転倒である。個別の魂の救いが伝道の目的なのであって、人数を獲得することや、地域を征服することが目的ではない。まるでうるさい街宣車のスピーカーのように、人々の平安をいたずらにかき乱し、不興を買ってまで、自己満足的に福音をがなり立てることが伝道の目的ではないだろう。

誰か未信者をつかまえては、判で押したようにつまらない話を繰り返し、その人を何か魅力的な餌で釣り上げて、義理人情でがんじがらめにした上で、説得して教会に引きずって行き、回心させて、組織の一員として登録させることが、信仰上の「手柄」のようにみなされるべきではない。私達に与えられたのは、そんなに安っぽい福音ではなかったはずだ。とにかく、信徒数さえ増えれば良いのだという、薄っぺらい教会成長がクリスチャンの信仰的成長をはかるバロメータになってはならない。

一部の聖職者からは、教会のカルト化現象は、教会成長論を導入した教会が、教会成長を遂げる際に、牧師が不足し、牧会が手薄になることによって生じるとする意見が出されているが、筆者はその考えに全く同意できない。
セル・チャーチ、弟子訓練、その他の教会成長論を導入して、確実に教会が成長したという成功例を筆者はほとんど聞いたことがない。むしろそのようなプログラムを導入したところでは、成長の勢いと同じく、破壊の力が働いて、成長も遂げないうちに組織が崩壊状態に陥った教会の方が多いのではないだろうか。

実際には、教会成長論こそが、伝道の本質からかけ離れた偽りのプログラムであり、教会のカルト化の原因となっていると筆者は感じる。なぜならば、教会成長論は、個々のクリスチャンを記号化し、数値化することによって、一人ひとりの信徒がどれほどその教会にとってかけがえのない人間であるかということを皆に忘れさせてしまう効果を持っているからだ。

もしも教会がマクドナルドやモスバーガーのようなところなら、とにかく一人でも多くのお客様にお越しいただき、メニューから沢山注文していただき、店で楽しんでもらい、売上げを伸ばしさえすれば、目的達成したことになるだろう。お客様が誰であろうと、店員はそんなことに構わず、とにかく一人でも多くの人間を呼び込み、均質のサービスを提供することだけに注意を払えばそれで良い。

だが、キリスト教会はファーストフード店やレストランではないのだ。
教会にとって一人ひとりの信徒は、数でおしはかることができ、とりかえの効く「お客様」ではない。
教会に足を運ぶ信徒一人ひとりは、他の誰とも交換できない、かけがえのない人間であり、その人を失っては、キリストの肢体は機能しないのだ。

なのに、現在、教会成長論を導入している教会は、例外なく、個人のかけがえのなさを認めていない。その教会に躓いて去って行く信徒がいても、引き止めることも、和解することもない。まるでファーストフード店が、その店を嫌いになった客をあえて引きとめようともせず、新たな顧客獲得だけに邁進しているように、教会は誰彼構わず、不特定多数に向けて、大衆向けに平均化された「お手軽な」福音をばら撒いているだけなのだ…。

立派な礼拝堂の建設、メガチャーチへの成長などの野心的プロジェクトの実現の手段として、免罪符を売買しなくとも、その代わりに、「救い」や「礼拝」、「カウンセリング」、「コンサート」などの魅力的な宣伝文句を盛んに用いて、それらのアイテムをお札のように信徒に売りつけるのではまるで同じことではないだろうか。
免罪符どころか、神への礼拝そのものが、自由献金という隠れ蓑の下で、売買の対象となってしまっているのが、今日のニッポンキリスト教界の現状ではないだろうか。

教会成長論を掲げている教会は、礼拝に足しげく通ってくれて、様々なイベントに協力してくれ、売上げ(=献金)増加に素直に貢献してくれるような信徒のみを大切にする。そこでは、教会の打ち出したプロジェクトへの貢献度に応じて、信徒の扱いに暗黙のうちに差がある。
できるだけ多くの信徒を組織に登録させて、できるだけ多く奉仕させ、可能な限り多額の献金を集めるために、教会成長論がある。教会成長が第一義的課題となっているような教会では、その計画に対してイエスマンにならない信徒や、ごちゃごちゃとうるさく批判して、協力しない信徒は、まず間違いなく、有形無形の圧力によって、教会から放り出される。
(あなたの教会では、そういう風にして「空気読めない」がゆえに煙たがられて、いつの間にか、いなくなってしまった信徒が多数、いないだろうか。そういう教会は、空気そのものが異常で、信徒が中毒に陥っている可能性があるので注意が必要だ。)

教会成長論の究極的な目的は、まるでネズミ講のように、末端の信徒を教育して、新たな信徒を積極的に教会に呼び込むための有益な宣伝員、活動要員へと変貌させて、一人ひとりの信徒を組織拡大のための有力な駒としていくことである。この理論においては、信徒は教会成長のための道具でしかなく、かけがえのない成員ではない。信徒がプロジェクトの達成のために努力することに力つきて、教会から姿を消しても、この理論が信徒をとりかえの効く人材として扱っている以上、かけがえのない個人を呼び戻そうという動きが教会内で起きないのは当然のことだ。こうして、教会成長に目を奪われた教会は、どれほど大量に信徒が離脱しようとも、失った人々に注意も払わず、新たな顧客獲得に乗り出していく。

キリストの肢体をバラバラに切り刻んで、切断した部位をゴミ箱に捨てておきながら、その手足を他のもので補おうと別の組織でつぎはぎし、傷跡と縫い目と癒着と膿だらけになって、なお、自分達がやっていることは正しいと確信している。これは狂気に近い。

個人のかけがえのなさに注目せず、人間を記号化し、いくらでも採れる魚のようにみなし、人間社会という大海原に、ひたすら組織拡大と献金増加をはかる目的で、魚を釣り上げるために漕ぎ出して行き、小さな収穫では決して満足せず、貪欲にさらなる大漁を目指して、ますます大きな網を張り巡らす。そうやって、人間社会を己が欲求をかなえるための闘技場とみなし、既存の信徒を教会の野心的プロジェクト推進のための資材とし、可能な限り、労働力として使おうとする。
…このような非人間的な考えに立った教会で、カルト化が起きないわけがない。

信徒を記号化し、道具化することは、キリストによって自由にされたはずの兄弟姉妹を再び奴隷の鎖につなぐことだ。教会を、信仰によって結び合わされた兄弟姉妹のかけがえのない交わりの場としてとらえず、教会成長のための戦略的マーケティングのための場に変えてしまうことは、教会を強制労働の場に変えることであるから、教会を強盗の巣にするよりももっと悪いことではないだろうか。

このような非人間的な要素がふんだんに盛り込まれた教会成長論を推進する教会は、神の名を用いながら、その実、一部の権力者の野心をかなえるために、信徒を道具化し、徹底的に搾取しようとしているだけである。弟子訓練、セル・チャーチ、トランスフォーメーションなど、あらゆる教会成長論が全てこの系統に属する。

もしも、教会成長論は信徒の搾取とは何の関係ないと反論する聖職者がいるならば、その人たちはまず、聖職者に支払われるのと等分の謝礼を、信徒の奉仕にもきちんと支払ってからそう言えばよい。いかなる美名がついていようと、信徒に無賃労働を強制しているような教会には、クリスチャンは絶対に近づかない方が良い。

もしも、自分の所属している教会に何かおかしな雰囲気や兆候を感じたら、教会への忠誠心など無用だ、とにかく早く逃げ出すことが肝要だ。強いマインドコントロールの力が働いている場所にいながら、自分一人だけ、集団の雰囲気に逆らって、冷静な判断を保つことは至難の業だ。うるさい音楽が大音量でかかっている店で、静かな心を保つことがどれほど難しいかを考えてほしい。

たとえ所属している教会がたくさんの問題を抱えていても、それをあなたが解決してやらなければならない義務はない。周りの人を変えようと思わない方が良い。もしも教会の中にいる人たちに警告を発したいなら、とにかく、安全な場所へ逃げ出した上で、集団の影響の及ばない場所から、訴えるべきである。

さて、これまで、キリスト教界のカルト化の問題について書いてきたが、筆者自身は教界に対してすでに部外者の立場にあるので、教界の危険性について警告を発するためだけに記事を書くのはもう終わりにしたいと思っている。今後、キリスト教の様々なプログラムについての分析は続けたいが、このブログは一旦、ここで終了とさせていただきたい。

筆者の知人が幾人もまだ教界に残っているため、これまで、何とか教界に立ち直りの道はないだろうかとの願いが心をかすめることが多々あった。だが、教界の未来に1%でも希望が残っていると思わせるような、手ぬるい表現をすべきではなかったかも知れない。ニッポンキリスト教界には破滅以外の未来がないという確信は、時と共にさらに強まるばかりだ。

教界に関わったがゆえに、人生を狂わされ、生活の安全を脅かされ、場合によっては、巨額の借金を負わされたり、性被害にあったり、命を落とす危険まで味わった信徒がいることを私達は忘れてはならない。すでに亡くなった人たちがいることを忘れてはならない。こうなってしまって、一体、何のための福音だろうか。何のための救いだろうか。
このような恐ろしい現状がある教界にとどまり続けることは、個人にとって、あまりにも危険が大きすぎる。疑わしいと思ったら、その集団をすぐに離れることを勧める。証拠を探すまでもない。何かあってからでは遅すぎるのだから。

これまで、何人かの方にお便りをいただいたことで、教界内に残っている信徒もまた、教会の不祥事、カルト化の問題に対して並々ならぬ関心を持っていることを感じた。できるだけ多くのクリスチャンに問題を考えてもらうために、今後、移転後のブログも、原則、公開を続けることにしようと思っている。

ご愛読どうもありがとうございました。
(移転先が決まりました。→ 「東洋からの風の便り」

1.ペンテコステ・カリスマ運動をめぐる対立について

このブログの最後の課題に、議論がいよいよ近づいて来たのを感じる。
教会成長論、ペンテコステ運動については、まとめるのにもう少し時間がかかる。長い間、待っていただいて申し訳ないが、もう少し経ってから、詳しく内容を書いていく予定だ。いつかその内容を整理し、紙面にて発行することができれば幸いだ。

ペンテコステ・カリスマ運動、弟子訓練などのプログラムの問題性については、筆者自身、以下の記事の中で「阿片」というあまりにも厳しい言葉を使って表現した。だが、それでも、筆者自身がペンテコステの流れを汲む一派に属していたことがあり、そこから汲み取った良い経験もあるという過去を踏まえて、筆者はこの運動をただ「臭いものには蓋」式に、病原菌のように毛嫌いして遠ざけさえすれば、それで事が済むとは思っていない。

「ペンテコステ・カリスマ運動などという胡散臭いものにはとにかく近づかなければ良い」、という立場があるが、筆者は、信徒はともかくとして、専門家である聖職者までが、多くがそのような立場を取って、議論や分析を避けているのでは、何一つ問題は解決できないと思っている。第一、ペンテコステ・カリスマ運動に関わっていないからと言って、その教会が正しいという証拠には少しもならない。

ここでも何度も書いてきたように、今、キリスト教界全体が危機的状況にある。ペンテコステ・カリスマ運動の流れを汲んでいる教会だけが危うい状況にあるのではなく、ほとんど宗派を問わず、どこの教団教会に属していても、カルト化という問題にぶち当たる可能性は十分にあるのだ。

従って、教会のカルト化という問題をただペンテコステ・カリスマ運動のせいにだけして終わりにしようという議論は不毛である。「吉祥寺の森から」の記事でもしきりに話題になっていたように、もしペンテコステ・カリスマ運動の問題性を語ろうと思うならば、この運動の内容を十分に知って吟味した上でなければ、話にならない。何よりも、この運動がこれほどまでに世界的に広がりを見せたのか、その背景に何があるのか、それが大衆クリスチャンのどのようなニーズと合致しているのかをよく考える必要がある。

そもそも、このような運動が世界的な広がりを見せたのには、既存のキリスト教界に決定的に不足しているものを補おうとする意味があったことを忘れることはできない。
ペンテコステ運動が、既存の教会の弱体化、教義の形骸化、教会中心・儀式中心の行いの伴わない信仰生活、伝道における力不足、何よりも伝道の原動力となるはずのクリスチャンの人格的魅力の欠如を、由々しき問題としてとらえたことは正しいことであり、評価に値する。

歴史上、あらゆる社会運動は、必ず、大衆の潜在的ニーズによって支えられてきた。社会のニーズがないのに、ただ宣伝だけで運動を起こすことは誰にもできない。
従って、「ペンテコステ」が登場してきた背景には、既存のプロテスタントのキリスト教界の弱体化があるのだ。その事実を考えることなく、この運動をただ毛嫌いして、それと関わりのない既存の教会に身を寄せさえすれば、それで事態が解決するという考えは、甚だ甘いと言わざるを得ないし、時代の流れに逆行するものだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動をめぐる対立を、かつての冷戦時代における、資本主義と社会主義の対立にたとえるのは、ちょっと乱暴かも知れないが、一言言わせていただきたい。資本主義体制に対するアンチテーゼとしての社会主義は、ソビエト体制の70余年ではっきりと結果が出た。社会主義は短命に終わった。(中国や北朝鮮やキューバの体制は、社会主義の残滓として、今は除外する。)だが、ソビエト連邦という社会主義の「お手本」がひどい腐敗に陥って、早々に崩壊したからと言って、私達は敵の敗北を持ってして、資本主義が勝利したと言うことができるだろうか。

社会主義に正義はなかったし、それが人類の新しい歴史を切り開く進歩的体制でなかったことは、ソ連邦の崩壊によって証明されたと言えよう。だが、社会主義が一旦、没落した事実が、すなわち、資本主義に正義があったという証拠になり得るだろうか? 「資本主義の末路はファシズムである」と言った社会主義者たちの言葉には、何の真実性もなかったということの裏づけになるだろうか?
いや、もしも資本主義に正義があったのだとしたら、一体、今日の日本社会におけるこの荒廃状態は何なのだろうか? 高度経済成長期にあれほど達成してきた豊かさが、社会の進歩としての福祉制度の充実が、今日、ただどぶに捨てられるようにして失われて行っている現実をどう説明できるというのだろうか?

体制としての社会主義に正義はなかったかも知れないが、理念としての社会主義には、せめても半面くらいの真理はあっただろう。社会主義は資本主義の悪を克服するために登場してきた。資本主義の悪い側面を糾弾し、これを克服・凌駕することができる、社会の次なる進歩的形態として、この体制は提唱された。それはあいにく、掲げていた目的とは正反対のものしか生み出すことはできなかったし、理念にもそもそも大きな問題があったことは確かだが、それでも、社会主義者が早くから訴えてきた、資本主義の弊害は、今日も少しも変わることがないのである。

これと同様に、ペンテコステ・カリスマ運動が登場して来たのは、既存の教会における欠落を補うためであったという点を忘れることはできない。たとえペンテコステ・カリスマ運動の弊害が続々と明らかになったとしても、既存の教会の欠点が消えない限り、それを補おうとして、また新たな別の運動が出現するだけだろう。

私達は何かを語る際に、まるで試合のように、「どっちが正しいか」という比較的観点から、決着をつけようとする姿勢を捨てねばならない。ペンテコステ運動に関わった教会と、関わらなかった教会の、どちらに正義があったのかを議論するのは時間の無駄である。「どこの組織が正しいか」、勝敗をつけるために議論をするのは不毛である。あらゆる社会体制に問題があり、あらゆる教会組織に問題が起こり得、あらゆる社会の形態が不完全なものでしかなく、この人間社会においては、究極の正義などどこにもなく、究極の社会形態などどこにもありはしないということを忘れないようにして、馬鹿げた優劣のつけあい、序列のつけあいから遠ざからなければならない。

それに、キリスト教の正統な教義を信じている人ならば、誰しも、三位一体の神を認めることだろう。なのに、そこから聖霊だけを除外しようというのは言語道断だ。聖霊降臨、異言には聖書的な根拠がある。なのに、ことさらに聖霊を否定し、異言を病原菌ののように毛嫌いする態度にも、それらを強調しすぎるのと同程度に、問題があると言えよう。

プロテスタントによく見られる多重分裂と、異なる意見に対する不寛容さ、そして他派への軽蔑と、毒々しいまでの対立を、筆者は本当に嫌に思っている。ペンテコステ・カリスマ運動をめぐって、対立がさらに激化してきたことにも、飽き飽きしている人は多いだろう。プロテスタントのキリスト教界がお互いに分裂し合い、互いを軽蔑し合って、それぞれが新しい群れを主張し、そこで自分達を高めあうための独自を教義を作り、そこからこぼれ落ちた信徒がいれば、勘当して追い出し、残った少数の者たちだけで、独自の村社会にしか通用しないようなルールを作ったからと言って、そこに何の進歩や達成があるだろうか。

こんな風に分裂していがみあっている最中に、もしも我が国に悲劇的な天災でも起きようものなら、クリスチャンはどうやって団結してそれに立ち向かうことができようか。

直感と感情だけで物事の決着をつけたり、やたら対立と分裂に至るのはよくない。一つの運動が登場する背景には、必ず、社会的ニーズがある。ペンテコステ・カリスマ運動が教団教派を越えて広がりを見せたことは十分に注目に値し、それだけ見るならば、それは少なくとも分裂分派の運動よりは、評価できる動きであったと言えよう。筆者自身は、この運動をかなり否定的に評価しているが、それでも、私達はこの運動が起こった背景にある理由を慎重に探っていかなければならないと思う。その運動を登場せしめるに至った社会のニーズを十分に踏まえた上で、その運動の是非を論じて行くのでなければ十分な議論にはならない。
 

2.ビュン・ジェーチャン氏の事件を通して教界の自浄能力が問われている

今、世間を騒がせているビュン氏の事件については、相変わらず、筆者は何の関わりもない傍観者だが、事件が社会に投げかけた波紋の大きさと、社会からの反応の素早さには本当に驚かされるばかりだった。まだ司法の場に問題が持ち出されておらず、警察による捜査さえも入らない段階で、世俗のメディアがこの事件を全面的に被害者側を擁護する形で取り上げたことは、未だかつてない事態として受け止めた。

パワハラ、セクハラの被害者がただ泣き寝入りを強いられることが多かった時代が過ぎ去っただけではない。キリスト教界内で被害を受けた信者たちの訴えが、ただ黙殺され、見殺しにされる時代が、確かに過去のものとなりつつあるのを感じた。この事件の世間における反響の大きさが、これまでカルト化の問題を無視し続けてきたキリスト教界に、重い腰を上げさせるきっかけとならないだろうか。

被害者はもう弱者ではなくなりつつあるのかも知れない。未だ社会における格差増大の勢いはおさまらないとは言え、それでも、社会構造を逆転させるような弱者のパワーがすでに台頭しつつあることが感じられる。社会体制が実際に改革されるまでにはまだ時間がかかるだろうが、それでも、現場では確かに、時代を変える風が吹き始めている。一つの価値観が終わりを告げようとしている。弱肉強食の時代が終わって、弱者による巻き返しの時が来ており、これまで力にまかせてやりたい放題して来た人々にとっては、粛清の風が吹き始めていると言って良かろう。

だが、こうした見方は楽観的に過ぎるかも知れない。事件を無責任に騒ぎ立てるだけの人たちは、何か問題が起これば潮が引くように去って行く。そして逃げ去ることができず、現場に取り残され、最もとばっちりを食わされるのはいつも被害者だ。ビュン氏が、問題をセンセーショナルに取り上げたメディアでなく、ブログでもなく、他ならぬ被害者を告訴する準備を進めているという記事を読んで、筆者はため息をつかざるを得なかった。またしても、被害者が余分な荷を負わされるのか…?

教会のカルト化の問題に対して、筆者は裁判という手段が解決にそれほど有効だという感触を今まで持ったことがない。裁判を起こして良かったと述べる被害者もいるので、筆者の意見は少数派である可能性がある。だが、ただでさえ、心理的に多くの問題を抱える被害者にとって、裁判は耐えられないほど心身を圧迫する重荷となりかねず、さらに裁判では必ずしもモラルにのっとった判決が出るとは限らず、裁判が被害者の立ち直りにどれほど有効なのかは不明だ。

今回の事件でも、被害者は告訴されるかも知れないというニュースにショックを受けているかも知れない。だが、それでも、この事件を単に端から見ている筆者には、加害者からの裁判という脅しを、被害者はそれほど恐れることはないように見える。以下が筆者の勝手な、個人的予測だ。

セクハラの加害者とされた人間が、被害者を名乗る人物に対して、名誉毀損を主張するためには、「セクハラの事実は無かった」と法廷で立証することが不可欠となるだろう。だが、セクハラの冤罪事件を通してすでに明らかになっているように、加害者とみなされた側が、セクハラの事実を否定することは、極めて難しいのだ。なぜなら、セクハラとは、受けた方がセクハラと感じただけで、セクハラと認定されてしまうような性質のものだからだ。ここでは被害者の個人的感情が極めて重視される。そこで、被害者側からのセクハラの訴えを、加害者が無罪であると主張し、さらに、名誉毀損であるとまで主張して、被害者の有罪性を立証することは、極めて困難な作業となるものと予想される。だからこそ、実際に裁判となれば、違った戦略が出されるかも知れないが…。

さらに、今回の事件では、ビュン牧師の形勢があまりにも不利すぎるように見えるのだ。筆者はここ数日、彼の身柄の引き渡しが行われるのではないかとさえ思っていた。そして警察が被害届を受理すれば、そこから刑事事件としての捜査が始まる。場合によっては、逮捕も予想される事態となる。
刑事捜査の手が及んだ時点で、実際に裁判を起こすことはとても難しい状況となるのではないだろうか。

それに、これまで教会をカルト化させた責任のある外国人牧師・宣教師が国外逃亡して、欠席裁判となった例があることを見ても分かるように、教会を破滅に導いた牧師たちが、裁判に登場しても、あまり勝算はないと言えよう。にも関わらず、教会を崩壊させた責任を自ら取ろうとするどころか、教会を置いて母国へ帰り(実質上の逃亡)、セクハラの被害者を国外から逆に訴えようという行為に及ぶことは、言語道断と判断されて、世論のひんしゅくを買いかねない。

これまでの経緯を振り返って、サラン教会による謝罪声明が早々に出されており、韓国側からビュン氏を擁護する動きが今、ほとんど公に見られないこと、そして幾人かの日本の牧師たちによるビュン氏との断絶宣言がすでに出されていること、そして今回、世俗のメディアさえもがこの事件を被害者側に立って取り上げた事実などを合わせると、たとえ今の捜査前の段階では、ビュン氏に冤罪の可能性を100%否定することはできないとしても、あまりにもビュン氏の形勢が不利となっていることは明白なように思う。

特に、気がかりなのは、日本の世論全体にこの事件の波紋がどれほど広がっているか分からないことだ。1月以来、この事件の世間への衝撃は少しもおさまらないどころか、ますます広がる趣を見せている。残念なことだが、ビュン氏が韓国人であったことが、日本人男性のナショナリスティックなプライドを悪い意味で刺激して、火をつけてしまった可能性がある。"韓流ブーム"、"ヨン様現象"によって、すっかり置いてきぼりにされた日本人男性の複雑な心理が、今回のメディア報道による"キリスト教界における韓流カリスマ"バッシングに向いてしまった可能性も、完全に否定することはできない。ひょっとして、それが今回の報道の素早さの最たる原因だったのではなかろうか…、と考えるのは、小説の読みすぎかも知れない。

いずれにせよ、今、一番必要なことは、第一に、被害者の心身を守ること。そして第二に、キリスト教界全体が、このような不祥事を二度と出さないために、また、これ以上、キリスト教界の評判を落とさないために、何が必要なのかを連帯して考え、協調して解決に当たっていくことだ。

世間にはあまり知られていないことだが、これまでに、教会のカルト化の問題のために、亡くなった被害者が幾人も出ているのだ。金銭も体力も搾り取られ、ボロボロになるまで搾取された上で、教界組織からポイ捨てされ、その上、他の無理解な牧師や信徒によって、受けた被害さえも否定され、裁判に訴えようにもそれさえ不可能となり、心身ともに追いつめられた信徒たちが、自分を責めながら、信仰にも教会にも絶望して、自殺に至る例があったのだ。

どうか、教会のカルト化という問題の深刻さを見逃さないで欲しい。無神経で残酷な言葉や態度で、被害者を追いつめないで欲しい。被害者が教界を救う使命を負っているのではない。被害を受けていない私達同胞クリスチャンこそが、被害者と教界を救う使命の両方を負っているのだ。これ以上、死者を出してまで、教界がカルト化の問題に蓋をし、全てを被害者の自己責任として片付け、教界の腐敗の全てのしわ寄せを被害者にだけ押しつけることにはどんな意味もないことを理解して欲しい。

あってはならないことであった今回の事件が、今度こそ、教会が自浄能力を取り戻すための重要な布石となってくれればと願う。

「精神分析じゃない日々」のイマーゴ氏のサイトに掲載されていた、エルサレム賞受賞の際の村上春樹氏のスピーチ原稿です。あまりにも見事な翻訳のため、記事からぜひにも引用させていただきます。
(イマーゴ氏の記事には全文翻訳が掲載されてありますので、どうぞそちらでもお読み下さい。)

私は必ずしも村上春樹の全作品が好きなわけではない。というより、どちらかと言えば、彼の作品はあまり好きではない方だ。けれども、村上春樹氏のスピーチは、私が言いたいことを、そっくりそのまま代弁してくれるような、胸のすくような文章だった。しかも、翻訳は、私が機械翻訳を参照して訳したより、はるかに素晴らしい見事で自然な出来栄え。
ただ、とても心を打たれました。

私はここで、これまで教会のカルト化の問題をひたすら語って来た。けれども、ひょっとすると、中には、私の文章を読んで、次のように非難する人があるかも知れない。
「どうしてきみはいつもふざけた『言葉遊び』のような方法ばかり使って信仰を語ろうとするのか? どうしてフィクションの物語など登場させるのか? 信仰とは真面目な事柄なのに、きみの文章からは、いつもきみが本気なのか、冗談半分なのか、分からなくなってしまう。しかも、いつもセンセーショナルな題名ばかり並べて、まるでワイドショーきどりだね。そういうやり方はぼくは好かない。いい加減、言葉遊びはやめて、きみもクリスチャンなら、もっと真面目に、純粋に、ストレートに信仰を語りたまえ。きみの心の純粋さが、きみのふざけた文章からは見えないよ。」

けれど、そうではないのだ。ふざけたいがゆえに、私はフィクションの話など登場させているわけではないし、センセーショナルな話題に焦点を絞っているわけではないのだ。
これまで色々な文章を書いてきたが、私もやはり、村上春樹氏と同じように「プロの嘘つき」なのだとつくづく思う。そして「プロの嘘つき」として、これからも文章を綴り続けたいのだ。それは「言葉遊び」を目的としてのことじゃない。ただ、「システム」という巨大な壁に立ち向かい、そこにぶつかって割れ続ける、幾千、幾万の「個人の尊厳」という卵、この小さな小さな命の光に焦点を当て、彼らの苦しみを代弁し、この不条理をいつまでも訴え続けるためだ。

私は、マシュマロのように甘くふやけた、自分の幸福のことばかりに焦点を当てた文章を読むことを個人的に好まない。たとえ、それがどんなにその人にとって嬉しい、幸せな話であったとしても。
世界中の数え切れない人たちが、今も不幸に呻き続けている中で、そのようにして、壁に押しつぶされて消えてゆく人々を、無いがごとくに無視して、ただ自分の幸福だけに酔いしれ、自分だけに与えられた過分な幸せをただ神に感謝しているだけの文章を見ると、私はどうしても、目をつぶり、耳を塞ぎながら、そういう言葉たちを足早に通り過ぎたくなってしまう。

私は、たとえ自分の書く物語がどんなに極端な構造になったとしても、それがどんなに非現実的なまでに、ただ一点にだけ焦点を当ててそれを押し広げるものになったとしても、今後も、壁につぶされる弱い者の側に立って、文章を書いていきたい。それはシステムという巨悪を大きく浮かび上がらせるための闘いだ。だが、巨悪と闘うための政治運動ではない。壁を倒すことが目的なのではない。そんなことが無理であるのは分かっている。ただ、壁に押しつぶされる人々の命かけた悲鳴をより多くの人々の耳に届け、壁というものの不条理性を訴えることによって、一人でも、その壁にぶち当たって、血まみれになる人が減って欲しい、そのために叫ぶことが目的なのだ。

…そして、それはすでに壁にぶつかって無惨に壊れ、砕け散った、私のような人たちへの弔いの詩でもある。

教会というところが、システムという壁になることの残酷さ。
教会というところで、人間を道具にし、押しつぶすようなプログラムが実行されていくことの恐さ。

人間をコントロールし、支配しようとする全てのシステムやプログラムという「壁」の理不尽さを訴え続けること、それが教会でも起こっているという現実を訴え続けることが、私の人生をかけた目標だ。
戦いの武器として与えられているのは、ただ、ペン一本、今はキーボードだけ。それでも、言葉には本来、霊と肉を切り分ける鋭い刃のような力がある。
真実の言葉には力がある。真実の言葉は、まるで鋭利な刃物のように人々の信仰と思いとを切り分ける。

村上春樹氏が今もまだ紛争が続くイスラエルの、他ならぬエルサレムで次のスピーチを語ったことの意味は大きいと思う。

――― 以下、イマーゴ氏の記事より、「村上春樹氏のスピーチ」の引用―――

今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。
もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。
外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。
車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。
小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても
不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。
巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?

答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。
創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。
小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。
ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、
正確に描写する事も困難です。
ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。
ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。
で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか
明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。
1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。
結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。
もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。
国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。
その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。
こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、
紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、
圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。
もちろんそんな印象は与えたくありません。
私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。
もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。
あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。
たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。
「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、
「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。
そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。
その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。
自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。
正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのは
それぞれの書き手にまかされています。
私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。
今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。
これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。
メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。
どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。
何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、
決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、
そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。
爆撃機(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。
卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。
これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。
私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。
私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。
私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。
そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。
壁には名前があります。それはシステム(The System)です。
システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、
私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、
警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。
私は完全に信じています。
つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が
小説家の仕事だとかたく信じています。
それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり
悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。
生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、
体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。
だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
<中略>

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。
私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。
私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。
どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。
もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、
かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによって
もたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。
システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。
私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。
エルサレム賞をいただき、感謝しています。

2009/02/27 (Fri) 雑感 Comment(0)

1.手頃で新しい核兵器の時代?

最近、考えるにつれ、分かって来た事柄が一つある。それは、「誰かさん」が、私達に最も考えて欲しくないのは、過去の出来事ではなく、未来に関する事柄なのだということ。たとえばここで、筆者が過去の迷宮入りした冤罪事件や、警察や役所による不正事件や、総理や閣僚の失言をどれほど取り上げて、虐げられた弱い人たちをかばうために、批判を繰り広げ、鋭い推理を展開したとしても、そんな程度のことでは、「誰かさん」にとっては痛くもかゆくもない。

「彼ら」が私達に何よりも知ってほしくない、考えて欲しくない、対策を講じて欲しくないと願っているのは、過去でも現在でもなく、未来に関する事柄なのだ。いや、過去の事件をパズルのように組み合わせて、そこから未来に関する予測を確実に導き出すような人間が現れることを彼らは願っていない。何よりも、個人がきちんと筋道立てて自分の頭で物事を考えられるようになること、悪に対する免疫抵抗力を持つ人々が増えること、多くの人々が時代の波にただ流されて生きるのをやめ、今後の自分の行動に関して、冷静で、客観的に物事を考えられるようになり、どんな行動についても、他人の意見に流されるのでなく、自主性を持って、正しい判断を下そうと考え始めること、そういうことを願わない者たちがいる。

人々が、世界の未来を陰謀によって支配しようとする人たちの悪意に気づき、欺瞞などもう沢山だと怒り、陰謀をこれ以上、許さないという毅然とした態度で立ち向かうこと。つまり、私達が世界経済や宣伝という棍棒("stimul")に追い立てられ、踊らされる家畜であることをやめて、自らの頭で考え、自らのために生きるようになること…。それこそが、世界中の大衆を家畜のように管理したいと思っている何者かが最も恐れ、嫌っている事態なのではないか。

イラン戦争の勃発の可能性は何年も前から指摘されているようである。秘密裏の計画の中に、戦争のターゲットとして、中東の他の諸国も含まれるとの指摘さえある。だが、今日、日本人はイランで起こるかも知れない戦争のことで頭を痛めたりしているだろうか? え?第三次世界大戦の勃発!?
…聞いた人は笑うかも知れない。そんな問題よりも、大臣の進退やら、給付金のことの方が我々にとっては大問題だ。このブログの読者の中にも、現時点で、起こってもいない戦争に対して反対を唱えている筆者を、呆れた馬鹿者だと思う人があるかも知れない。

だが、ノアの箱舟の時にも、その日が来るまで、誰にも分からなかった。人々はノアが気が狂っていると思って、彼を嘲笑しながら、「娶ったり、嫁いだり」して気ままに暮らしていた。だが、それでも、その日は確実にやって来たのだ…。

現代という時代は、何らかの大義名分や美名のもとに、恐るべき欺瞞が進む時代だ。イランで戦争がいつ勃発するか、あるいは別のどこかで次の戦争が起こるのか? そういう事柄を「予言」することがブログの目的ではない。重要なのは、核戦争に対して筆者は反対であるということ、それから、戦争にはどんな正義もないということを主張すること、どんな大義がついていようと、これ以上、軍事産業の繁栄のための戦争を許さないと主張することだ。

これまでにも大勢の人たちが、戦争の欺瞞を暴き出し、軍事産業の暴走の危険視してきたからこそ、今日まで、大戦が勃発していないのかも知れない。たとえ大災害がいつか起こることは止めようがないとしても、主がアブラハムの祈りを聞かれたように、善良な人々の声高な叫びには、社会において悪があふれ出すのをきっと止める力がある。危険がなくならない限り、反戦を訴えよう。

参考までに。イラン戦争の勃発を憂慮する英語サイト
"Nuclear War against Iran by Michel Chossudovsky January 3, 2006"
"Iran: A War Is Coming by John Pilger February 3, 2007"

日本語サイト
イランは核攻撃される? 2006年4月18日  田中 宇
核戦争を準備するアメリカタカ派(ヤパーナ社会フォーラム)

これらのサイトの情報を総合すると、イランで戦争が起こる可能性はかなり現実のものとして感じられるようになる。すでにそれを想定した軍事演習が行われ、小型核を使いたいと考えている者たちは、新しい戦争に向けて盛んに武器を売り込んでいるようだ。だが、アメリカが中東の戦争に参戦するためには、参戦の口実として、またもや新しい「真珠湾攻撃」が必要となるかも知れない。

きっと、お節介な話だと言われてしまうだろうが、筆者はアメリカを物騒な国だと考えている。アメリカに今後旅行の予定がある人は、どうぞ注意されたい。また、以下の記事に登場する「小型核」が中東諸国で大量に使われた場合、ウラル山脈を越えて、中央アジアまで、ユーラシア大陸に汚染が広がるとの懸念もある。
21世紀は本当に歴史に残る大変な時代となりそうである…(歴史が続いたならばの話だが)。

今、被爆国として日本の取るべき立場は何なのか、小型核の問題についてどうか多くの人たちに考えて欲しい。できるだけこの情報をより多くの人たちに伝えて、戦争への警戒を呼びかけて欲しい。いつどこで戦争が起こるかが問題なのではない。どこで起ころうとも、核戦争など絶対に誰にも容認できるものではないということが重要なのだ。

一人ひとりの力は小さくとも、知識人による声を合わせれば、きっと社会を動かす力がある。


2.イランに対する核攻撃の可能性について ミシェル・チョスドフスキーの記事より

以下は、今からすでに2年も前の2006年1月3日にミシェル・チョスドフスキーによって書かれた英文記事"Nuclear War against Iran by Michel Chossudovsky "(上に掲載したものと同じ)の部分的な引用です。この情報が最新のものでないこと、また、ここで予告されている戦争がいまだ起こっていないということを考慮すれば、この記事には色々と議論の余地が残るでしょう。
しかしながら、今後訪れる「核の新しい時代」とはどのようなものか、小型核とは何かを知り、戦争はどのようにして「作られる」のかを考える上で、これは今も参考になる記事だと思います。機械翻訳を参照して手直ししたため、訳に不正確な部分があるかも知れませんが、ご了承下さい。

 

(―――以下引用―――)


イランに対する核戦争

核弾頭を使用してイランに対しあからさまな戦争を引き起こそうとする計画は最終段階にある。
米国、イスラエル、トルコの連合は「着々と準備を進めている」。2005年初頭から様々な軍事演習が実施されてきた。 一方で、米国の攻撃を見越して、イラン軍は12月にペルシャ湾で大規模な軍事演習を実施している。
2005年初頭より、ワシントン、テルアビブ、アンカラ、ブリュッセルにある北大西洋条約機構本部の間で、激しい外交交渉が行われた。最近では、アンカラへ派遣されたCIA長官ポーター・ゴスがトルコのレジェプ・タイイプ・エルドアン首相に、 「イランで核兵器などの軍事目標が空爆された際には、政治的支援、後方支援を提供するよう」要請した。ゴスはトルコの知識人層に対して、軍事作戦への備えと監視に支援を求める、特別な協力を要請したと伝えられる。( DDP 2005年12月30日)

一方、シャロン首相はイスラエル軍は3月末までに攻撃を開始して良いとのゴーサインを与えた。
イスラエル当局関係者は異口同音に、イランに対する軍事攻撃は 遅くとも、2006年3月末までには開始されるだろうと述べている。 3月末という期日は、イランの核エネルギー開発計画に対して、IAEAが行った国連への報告書と一致する。イスラエルの政策立案者は、それらの脅威が報告に影響を与えるか、あるいは少なくとも、海外の支持者らによって安全保障理事会による制裁措置などの何らかの措置を促し、あるいはイスラエルの軍事行動を正当化することになるだろうと信じている。
(ジェームズ・ペトラス 、  イスラエル開戦へのカウントダウン:イランへの集中攻撃、グローバル研究、 2005年12月)

軍事計画は米国によって後押しされ、NATOによっても承認されてきたが、しかし、空中攻撃の計画はNATOでの問題に鑑みて、現段階では不明である。
 

「衝撃と恐怖」作戦
 
軍事行動のための様々な要素が、ネブラスカにあるオファット空軍基地で、アメリカの厳重な指揮の下、アメリカの国防総省と戦略司令本部( USSTRATCOM )によって調整されている 。
イスラエルによって発表される作戦行動は、米国防総省(ペンタゴン)との緊密な連携のもと実施されるだろう。この軍事作戦の司令部は(ワシントンに)集中され、最終的にいつ軍事作戦が開始されるかは米国が決定する。

米軍筋は、イランに対する空爆が、2003年3月にイラクで行われた「衝撃と恐怖」作戦と呼ばれる空爆に匹敵するほどの大規模な展開となりうることを確認した。
米軍によるイランへの空爆は、1981年のイスラエルによるイラクのオシラク核センターへの攻撃をはるかにしのぐ範囲に渡り、2003年のイラクに対する空爆キャンペーンの開始に似たものとなることが予想される。ディエゴガルシアから、もしくは直接アメリカから発射して操作されるB-2ステルス爆弾の威力をフル活用し、それに、カタールのアルデイドやその他戦域にある地域から発射が計画されているF-117ステルス戦闘爆撃機が加えられ、核の攻撃予定地は2ダースには上るものと予想される。

軍事作戦の計画者らは、攻撃リストを政府当局の選択に応じて、最重要の軍事施設を目標とした空爆だけに制限するよう調整することもできるし、あるいは、イラクから米軍に対する反撃として使われるかも知れない原子力兵器、通常兵器を攻撃目標に含むと同時に、それに関連する大量破壊兵器が含まれる広範囲を一連の攻撃予定地として定める選択も可能だとしている。(グローバル・セキュリティ.org 記事参照)

11月に、米国の戦略司令部は「世界の稲妻」作戦と銘打った「世界的規模の攻撃計画」の主要な軍事演習を実施した。「世界の稲妻」作戦には、「仮想敵」に対する、核兵器と通常兵器を合わせた攻撃のシミュレーションも含まれていた。「世界の稲妻」作戦の演習後、米国の戦略司令部は準備万端であると宣言した(以下の分析を参照)。

アジアの新聞雑誌は、「世界の稲妻」作戦の演習における「仮想敵」は北朝鮮であるとみなしたが、演習のタイミングから判断するなら、これは、イランに対して計画された攻撃を見越して実施された演習だったと判断できる。


核戦争に向けてのコンセンサス

EU内からは、政治的に異議を唱える声は全く出ていない。ワシントン、パリ、ベルリン間では協議が続いている。イラクへの侵略の際には、フランス、ドイツから外交レベルで反対が出されたが、今回はそれとは反対に、 ワシントンは大西洋沿岸の同盟国と国連安保理の双方において、「合意」を打ち立てることができた。この合意には中東と中央アジアの広域に影響を与えかねない核兵器の使用も含まれている。

さらに、アラブ諸国の多くが、今や、暗黙のうちに米国とイスラエルの軍事計画の支持者となっている。一年前の2004年11月、イスラエル軍の首脳がブリュッセルにあるNATO本部でエジプト、ヨルダン、チュニジア、モロッコ、アルジェリア、モーリタニアを含む地中海沿岸諸国の6か国のメンバーと会談し、NATOとイスラエルは条約議定書に調印した。この会談の後、シリアの沿岸で米国、イスラエル、トルコを含む合同軍事演習が催され、2005年2月には、イスラエルがアラブの数カ国と共に「反テロ演習」に参加した。

メディアは異口同音にイランを「世界平和への脅威」として非難している。 反戦運動はこのメディア路線を鵜呑みにして来た。米国とイスラエルとが中東で核によるホロコーストを企てている事実があるにも関わらず、反戦・反グローバル化運動はそれを議題に取り上げようとはしない。世界中の世論は、これはイランの核兵器開発を防止するために必要な「外科手術」なのだと言いくるめられてしまっている。

我々には、これは戦争ではなく、イランの核施設への空爆という形を取った、軍事的な平和維持活動なのだと説明されている。


「市民の安全のための」小型核爆弾

報道によって、いくつかの軍事課題の特徴は明らかにされてはいるものの、先制攻撃として戦略的に核兵器を使用することを含めた軍事作戦の広範囲な性質は大幅に歪曲されて伝えられている。
この軍事課題は、2002年のブッシュ政権の政策であった「先制的な」核戦争、つまり、核戦略の見直し報告(Nuclear Posture Review)に基づいている。メディアが誤まった情報を伝えているために、イランに対して核弾頭を含む軍事行動が行われた場合に、破壊的な結果がもたらされるということが、世間にはほとんど伝わっていない。外科手術が、通常兵器と核兵器の双方を用いて行われるという事実は、議論の対象にもなっていない。

2003年の上院の決定によれば、「低い爆発エネルギー」を持つ「小型核爆弾」は、戦略的な核兵器の新しい時代を切り開くものであるとされており、実際には、広島に投下された爆弾の6倍もの爆発力を持ちうるというのに、爆発は地下で起こることが想定されているという理由で、小型爆弾は今や「市民の安全」を守るものであるかのようにみなされている。

核に関する「権威ある」科学者たちの協力を募って行われたプロパガンダ的なキャンペーンにおいて、小型核爆弾は、戦争よりもむしろ平和のための道具であると宣伝されている。爆発エネルギーの低い核爆弾は、今や「戦場での使用」に向けて整えられ、アメリカの進める「テロとの闘い」の次なるステージで、通常兵器と並んで使用の候補に挙げられているのだ。

政府当局者は、低爆発エネルギーの核兵器は(イラン、北朝鮮などの)ならず者国家に対する頼もしい抑止力となると主張する。彼らの理屈では、現存する核兵器は、あまりにも破壊力がありすぎて、本格的な核戦争以外で使用するには適さないというのである。潜在的な敵はそれをよく分かっているため、彼らは報復に核兵器が使われることはないと高をくくっている。しかし、低い爆発エネルギーの核兵器があれば、破壊力が小さいため、実際に使用されることが想定される。そのため、小型核兵器は有力な戦争抑止的効果を持つというのだ。

全くの屁理屈としか言えないこの理論においては、核兵器は平和を樹立し、「二次被害」を予防する手段とされている。ペンタゴンはこの点について、(破壊力が5千トン以下の)「小型核」は、爆発が「地下で起こる」ため、市民には無害だと説明している。
にも関わらず、これらの「小型核」は一つ一つが、爆発して死の灰を撒き散らす際には、1945年に広島に投下されたのと同じ原爆の断片として、重大な被害をもたらすのだ。
長崎と広島における原爆の破壊力は、2万1千~1万5千トン程度であったと推定されている。( 記事)つまり、低爆発エネルギーの小型核は、広島への原爆の3分の1の破壊力を持つことになる。


小型核爆弾とは…
「核」兵器である B61-11が大地を貫通する能力はかなり限られている。テストでは、標高4万フィートから、乾いた大地に投下した場合、たった20フィートしか貫通しないことが判明した。しかし、爆発前にこの爆弾を地中に埋めておけば、地表での爆発時に比べ、はるかに高度な爆発エネルギーが衝撃派として地上に伝わる。これをもし都市で使用するならば、大量の民間人犠牲者が出るだろう。たとえ爆発のエネルギーが最小の0.3-300キロトンの範囲におさまったとしても、核による爆風は放射性物質の巨大なクレーターを生み出し、広範囲に渡って、致死量のγ線を放射する地域が作り出される。

GBU28

ガイド付き爆弾ユニット- 28 ( GBU - 28 ) 記事より

2009/02/22 (Sun) 社会問題 Comment(0)

 現在、筆者はプロテスタントと資本主義、教会や地域における理想的な神の国の建設というアイディアの問題性と、グノーシス主義という異端について調べている。このような大きなテーマを述べるためには、できるだけ多くの文献に目を通し、それを整理することが必要となるため、まとまった記事を出せるまで、しばらく時間がかかってしまうことをお許しいただきたい。

 そこで、今回はこれまで述べてきたことの総括として、キリスト教界における聖職者による不祥事の解決として、裁判に頼ることが果たして有効かということを、聖書に基づいて、もう一度、はっきり述べておきたい。
 結論から述べれば、教会内不祥事に対する解決は、教会が、聖職者の懲戒免職を含めて、不祥事を起こした者に対する厳しい対応を取ることを除いて他にない。教会が、不祥事を起こした悪徳牧師をかばい続けるだけでなく、あまつさえ、被害者が裁判によって悪徳牧師を救済すべきだという教えを説き、被害者の力による裁判を、教会内不祥事の有効な解決方法として後押しすることなど、聖書は少しも勧めていない。教会内不祥事を司法の場に出てしか解決できないような弱体化した教会が、聖書で何と言われているか、そのことを、ここではっきりさせておきたい。

 教会内で起こった不祥事を司法の場に持ち出すことに関して、よく取り上げられるのは、パウロがコリントの教会に宛てた書簡、「コリント人への第一の手紙、第5、6章」である。そこから引用させていただく。

(第5章1~13節)
「現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。<中略>

 あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者<中略>などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。
 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない。食事を共にしてもいけない、ということであった。<中略>
 あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。

 パウロはこの書簡の中で、コリントの教会に起こった性的不祥事の対処方法について触れている。信徒の中のある者が、信仰を持たない人々でさえも及ばないような、乱れた性的放蕩にふけっており、信仰を馬鹿にし、社会規律さえ馬鹿にしている、それにどう対処すれば良いかという相談をパウロは教会の信徒たちから受けた。
 それに対して、パウロはまず、なぜそのようなスキャンダルを引き起こした信者が未だに教会の中に平然ととどまっており、信徒たちとの交わりを保っているのか、そんなことは言語道断だという調子で筆を進める。

 忌まわしいスキャンダラスな事件を教会内で平然と起こしているような者と、信徒はすぐに交わりを絶たねばならないというのがパウロの結論であった。目には見えないイースト菌が、パン全体を膨らませるように、悪を野放しにしていれば、やがて集団全体が汚染され、堕落させられる。誰か一人の邪悪な行為も、長い間、放置していれば、やがて教会全体を腐敗に陥れる。だからそのような邪悪なパン種が登場した時には、すぐに教会から取り除きなさいとパウロは信徒に忠告しているのだ。

 誤解がないように注意したいのは、ここでパウロが厳しく言及しているのは、「教会の中で公然と行われる悪事」のことであり、「悪を犯しても悔い改めるそぶりもない悪人」のことであるという点だ。これは信仰的にも弱いクリスチャンが、日々の生活の中で幾度もつまずき、罪を犯したくないと思いながらも、それでも自分や他人に罪を犯しながら、戒めを完全に守ることができないで、悔い改めの中に生きていることを指しているのではない。
 ここで言われているのは、どんなに忠告されても、悔い改めのない堕落した生活を送るような信徒、特に性的放蕩、金銭的なむさぼりを平然と、堂々と行い、習慣的に悪事を積み重ねるような信徒のことであり、そのような堕落した信徒(や牧師)の存在に気づいたならば、他の信徒は毅然と立ち上がり、彼を教会から放逐せねばならず、決して黙って目をつぶっていてはいけないということである。

 信徒や牧師を自称する者が、公然と、また習慣的に、恐るべき悪事を積み重ねている場合、それに対して、教会では過度な寛容は禁物である。恐るべき不道徳な生活を改めようともせず、信仰を馬鹿にして、悔い改めないような悪人は、もはや「兄弟姉妹」と呼ばれる資格はない、そのような者と信仰による交わりなど不可能である、パウロはそう言っているのである。
 パウロは、「悔い改めのない悪人とは関わりを断つ」という当然の事柄がコリントの教会で実行されていないことを嘆いている。コリントの教会がこの不祥事を持て余し、何ら自力で解決できないでいる無能力を戒めている。

 引き続き、第6章1~18へ。
 そのように教会が不祥事の解決を持て余しているような場合、司法の場、すなわち世俗的な裁判に問題を持ち込むことが望ましいものかどうかという問いに対するパウロの答え。

「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起こした場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、言うまでもないではないか。それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。

 いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
 そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。
 まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔うもの、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。<中略>

 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。<中略>不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。」

 パウロはここで、クリスチャンを名乗る人たち、つまり、世俗的な暮らしを送る信仰のない人たちよりも、はるかに道徳的に優れていなければならないはずの「聖徒たち」が、司法という世俗的な場所に頼らなければ、自分達の内輪で起こった教会内不祥事さえ解決できないでいるという、呆れた無力さを戒め、非難している。
 クリスチャンは本来、その高い道徳性、律法と信仰に基づいた聖い生活によって、この世を超越している存在であるべきである。なのに、この世に頼らなければ、クリスチャンが善悪の判断さえつけられないでいるとは、一体、何事なのか。これは恥ずべき事態ではないか、とパウロは言うのである。

 このような無力、弱体化を公然と世にさらせば、クリスチャンは世の笑い者となるだけだとパウロは示唆している。もしもクリスチャンが内輪で起った争いを司法の場に持ち込めば、世の中の人々は、クリスチャンとは、日頃、神の名をしきりに唱え、正義を掲げていることとは反対に、実際には、内輪の争いさえも自力で解決できない無力な人たちなのだと思うだろう。それだけではなく、クリスチャンとは、「兄弟」と互いに呼び合いながら、お互いを愛し、思いやり、たとえ誰かから不当な扱いを受けても信仰に基づいて耐え忍ばないどころか、むしろ互いに率先して騙し合い、不義を行い、金を巻き上げ合うような、恐るべき人たちなのかと、世の中は考えるだろう。

 そこで、たとえ教会が悪事をなした信徒を裁判の場に引きずり出し、彼に勝訴してみたところで、「クリスチャンとは不祥事ばかりを起こして互いに訴え合うような人たちなのか」と世の中に思われることによって、クリスチャンは面目を失い、この世に敗北するのだ、とパウロは逆説的に論理を展開する。

 この個所は今日、よく誤解されて、特に聖職者によって、歪曲された形で、信徒による教会や牧師への裁判を牽制し、禁止する目的で引用されることが多い。教会内で不祥事の被害をこうむった人たちが、最後の手段として、教会や教会内にいる加害者に対して裁判を起こすことさえも禁じる文脈で、牧師がこの個所を引用することがあるが、それは正しくない。教会内で不祥事の解決を模索しても、何ら見出せず、同胞である信徒に見捨てられ、自らの権利を守るために、最後の手段として、被害者が裁判を起こさざるを得ない状態に陥った時のことを考慮して、このパウロの発言があるわけではない。

 何よりも、この文章をパウロは不祥事の被害者に向けて訴えているのではないことを見逃してはならない。パウロは教会全体、信徒全体に向けて言葉を発しているのだ。
 パウロがここで非難しているのは、教会内の不祥事を知りながら、黙ってそれを見逃してきた大勢の信徒達だ。教会にいる大勢の信徒たちは、教会の中で、不祥事の存在を知りながら、ただ沈黙を守ることで、問題を訴える被害者を見捨て、教会の腐敗を見過ごしにして来た(コリントの教会では特に被害者と呼べる人たちがいたという言及はない。被害者の代わりに、教会の不祥事を憂慮する信徒たちがいたと想像される)。
 不祥事を憂慮する信徒たちが、教会内で問題を解決するよう呼びかけても、ほとんどの信徒はそれに見向きもせず、対策も講じず、どこにも解決を求めようがなくなった一部の信徒たちが、結局、裁判に赴かざるを得なくなるのを、教会全体が、手をこまねいて見ている。そのような態度についてパウロは非難しているのだ。

 そうやって、事態を見逃せないと判断した一部の信徒たちだけが、悪人を世俗の裁判に訴えるのに任せて、他の大多数の信徒や、教会全体は、自分では何の努力もしようとせずに、問題に対して手をこまねき、ただ裁判が勝訴を勝ち取ることを心の中で期待しながら、一部の信徒と、司法の力だけに頼り切って、教会内の不祥事の解決をまかせきりにしているという態度を、パウロはあるまじき怠慢、無力さだと言っているのだ。

 被害者が司法に泣きつくよりも前に、大勢の信徒がしかるべき対策をきちんと打っていれば、裁判などになるはずがない。教会がきちんと機能していれば、司法の場に問題が持ち越されるはずがない。大勢の信徒たちには、裁判について検討するよりも前に、まず教会の中でなすべき処分があるはずではないか? …パウロはそう言っているのだ。

 パウロの視点に立てば、被害者はともかくとして、教会全体が手をこまねいて、教会で起った不祥事に何も対策を打たず、その解決をただ司法の場に任せようとすることは、教会が世に対して最低の無能さを証明することに他ならず、到底、勧められないという結論が出る。何よりも、そうなる前に、まず、不祥事を起こし続けている信徒を教会から放逐することが、教会の仕事である。キリストの肢体を聖く保つために、悪事を犯し続けている者を教会が除名することこそが、教会が真っ先になすべき仕事である。悪事を犯し続ける者と信徒が交わりを保つことは、キリストの肢体である教会を辱め、遊女にまで貶めることにつながる。

 教会内不祥事を司法の場に持ち出して解決することに対する、パウロの言及はここで終わっている。重ねて言うが、これは断じて、教会内で不祥事を解決できる見通しが一切なかった時に、被害者が最後の手段として司法の場に解決を委ねることを禁止している文脈ではない。そうではなくて、これは被害者以外の人たちに対する呼びかけであり、教会全体が不祥事の解決方法として、特定の人間に厳しい措置をとりたくないがために、司法の場に全てを任せようとするような、逃げ腰の態度を取らず、まず、自分達でしっかり不祥事を起こした人物を厳しく処分し、不祥事を教会の中で自力で解決する努力をし、キリストの肢体を聖く保つ方法をしっかり見つける努力をしなさいということが言われているのだ。

 だが、もしも、悪事を犯し続けている者を擁護し、その者と馴れ合い、除名する勇気さえ持たないような、極めて弱体化した教会があるならば、一体、どうなるのだろう? 不祥事が公然と見逃され、悪人が大手を振ってのさばり、聖職者も役員も彼らを除名するそぶりもなく、他の信徒たちも、関係ある牧師も、何を忠告しても馬耳東風で、弱い信徒は嘲られ、犠牲者が増え続け、被害者が自力で裁判を起こさなければ、何一つ解決できないような、恐るべき教会があった場合、どうなるのだろう?
 
 そういう疑問は、パウロの書簡では、あまりにも論外である問題のためか、全く考慮されていない。

 だが、そうした場合、信徒がどうすれば良いのかは、以上で挙げた文脈から容易に判断できよう。筆者がそのような悪徳教会に対して言えるのはただ一つ、「それはもはや教会とは呼べない」ということだけだ。そのような、邪悪なイースト菌を弄び続けた結果、全体が邪悪化し、遊女化したバビロン教会があるならば、そこでは聖徒は食事をすることも避け、交際を絶ち、自分自身が邪悪なパン種によって汚染されることを避けるため、ただ健全な教会を探して、そこを出ることだけが勧められる。

 たとえ遠くからでも、犯罪者顔負けの恐るべき放蕩や、金銭的むさぼりがあるという情報が聞かれる教会や、牧師や信徒が互いに互いを泥沼の裁判で訴え合っているという噂が聞こえるような教会があるなら、そこにはできる限り、信徒は近づかないのが良いだろう。

 邪悪なパン種を弄ぶような人間とは、信徒は関わりを断つべきだ、というのがパウロの勧めであって、キリスト者の使命とは、邪悪な生活を送り続ける元信徒や牧師を回心させ、更生させるために、自分の人生を丸ごと投げ出すことではない。堕落した者との関わりを続けていた場合、ミイラ取りがミイラにならないという保障がどこにあるだろう?
 一信徒の堕落であっても、厳しい措置を取るようパウロは勧める。まして聖職者が堕落した場合、教会がその聖職者のためにこうむる汚染、被害はどれほどの規模に達することだろう。それを考えるならば、邪悪な生活を送る聖職者が解雇されるのは当然である。

 キリストの肢体を遊女に貶めるようなことを、聖職者が率先してやっている教会がもしあるならば、信徒は全速力で、そのような教会から遠ざかった方が良い。誘惑を弄んではいけない、誘惑を避けなさいと聖書にも書いてある。

「まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔うもの、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」

 グノーシス主義のことをもっと知る目的で、映画『マトリックス』を観ていたのだが、筆者はそこで当然すぎるほど当然かつ重要な事柄に、今更のように、改めて気づいた。
 皆さんは、決定論を信じるだろうか。クリスチャンは多かれ少なかれ、皆決定論者であると言えるだろう。なぜなら、クリスチャンは、世界が全体として滅びに向かっていること、終末に向かっていることを信じ、十字架を除いては、人類の未来に希望がないこと、終末には全世界的な巨大な悪の王国が誕生するであろうことなどを、聖書に基づいて信じているからだ。

 しかし時折、この終末論こそが、クリスチャンを悪に対してあまりにも無力にしてしまい、個々人から悪に立ち向かう力を奪ってしまう。そして、クリスチャンでなくとも事情はほとんど変わらない。
 私達は日々、社会の中で、自分の無力を思い知らされながら生きている。幼い頃から経験させられた過酷な受験戦争、学閥による差別、男女差別、若いがゆえに経験する様々な差別、職場での不当な扱い、世間からの不当な扱い…。
 特別に優遇される一握りの「勝ち組」をのぞいて、一般大衆はいつも自分の無力を思い知らされながら生きている。私達はこの社会の中で、いつもいつも、自分には出来ることが少ないと思い知らされる。そして、その無力感のために、いつの間にか、自分にはどうやっても社会を変えられるはずがないと思い込むようになっている。そのため、この世に悪がはびこっているのを見ても、私達はもはや立ち向かう気持ちさえ起こらず、ただ手をこまねいて冷笑しているだけの傍観者になりがちである。

 だが、そのようであってはいけないのだ。もう一度、自分に平手打ちを加えて、悪に対して立ち向かうよう目を覚まさなければならない。何のために信仰があるのか、思い出さねばならない。筆者は以下の論稿の中で書いた。生きることは変化することだと。言い換えれば、生きているとは、自分をも他人をも含めて、世界にまだ影響を与え、変化させる力が残っているということだ。たとえ自分一人の力がどんなに小さくとも、信仰とは望んでいる事柄を、まだ見ていない事柄を信じる力ではないか。なのに、なぜ私達は、しかも、クリスチャンが、まだ起こっていない事柄、まだ決まっていない事柄について、どこかからか押しつけられた悲観的な予想を無抵抗で、無条件に受け入れなければならない理由があるだろう?

 かつて筆者は以下の記事の中で述べた。イラク戦争を引き起こしたアメリカの国家政策は、次にイラン戦争を引き起こそうと画策している可能性が極めて高いと思われると。また、アメリカ国民に対して、将来、核が使用される可能性があるのではないかと危惧されると。そう書いた当時、筆者はほとんどそれが避けられない未来であると考えていた。
 9.11事件以来、アメリカ国民はあまりにもひどく欺かれているように見える。今でも、筆者の予測では、9.11という偽のテロ事件をアメリカ国民に対して事実であると信じ込ませ、貿易センタービルの中にいた自国民を犠牲にしてまで、イラク戦争を勃発させた悪しき勢力がいるならば、彼らは次なるターゲットとして、イランを狙い定めているだろうことはほぼ間違いない事実であるように感じる。

 そして実際に、学者たちの中からもすでに、イラン戦争が勃発する可能性を指摘する声が上がっている。
 さらに、クリスチャンとして何よりも憂慮すべき最悪な事態として、アメリカのプロテスタントのキリスト教界の中では、イランの国家元首を悪者呼ばわりして、アメリカ国民の心理をイラン戦争へと誘導するような発言がすでに聞かれている。アメリカのクリスチャンたちはそのような「預言者」に誘導されて、イラン戦争が起こるのは時間の問題だと感じているかも知れない。

 何とかして、次なる戦争を引き起こそうと、世論を誘導しようとする作戦がすでに始まっているという兆候は、随所に見出せるのだ。

 しかし、それに調子を合わせるかのように、筆者はかつての記事の中で、ほとんどあきらめの調子で、この戦争がほぼ避けられないものであるかのように述べた。だが、多くの人命を危険にさらすかも知れない深刻な問題に対して、そのような無責任なあきらめと冷笑的な調子は到底、容認されるべきものではない。そこで、ここでそのような傍観者的姿勢を撤回し、本来、その時、言うべきであったことを改めて述べたい。

 イランでの戦争はまだ起こっていない。今ならまだ止められる可能性は十分にある。もし私達が真実に気づいて、悪だくみを悪だくみであると見抜き、数え切れない無実の人々に残酷な苦しみをもたらす卑怯な作戦を白日の元にさらし、それにノーを突きつけることができるならば、だ。

 筆者は皆さんに伝えなければいけない。イラク戦争がどんな悲惨をイラク国民にもたらしたか、私達は今日、知っている。大量破壊兵器が開発された第一次世界大戦以後、あらゆる戦争はただ悪となった。今や戦争に正義はない。結婚式の最中に、花嫁花婿さえ無惨に殺されるような戦争を、どうして聖戦であるかのように私達は呼ぶことができようか。
 
 残念なことに、イラク戦争を私達は止めることはできなかった。だが、イラン戦争なら、まだ止められるかも知れない。
 9.11の事件はあのように不意に起こり、私達はその時、それが欺瞞であることを見抜くための心の準備がまるで出来ていなかった。テレビ画面を通して流される悲惨な映像にまんまと騙され、「テロ事件」により亡くなった人々に同情し、そのようなテロを画策した恐るべきグループが本当にあるのだと信じ、そのようなテロを生み出した母体となる国を警戒せねばならないと信じ、その映像が全世界の信じやすい人々を陥れる恐るべき罠であるということを想像するだけの心の準備ができていなかった。

 当時、世論をたくみに利用して戦争を誘導しようとする悪しき作戦を見抜き、来るべき戦争に反対するだけの心の準備ができていなかったために、私達はイラク戦争の勃発に対して全力で立ち向かうことができなかった。その結果、イラクの国土は世界経済の繁栄のために、あのようにめちゃめちゃにされてしまったのだ。

 もし今、再び同じことが起こるのをただ黙って見ているだけなら、筆者も含めて、未来の歴史においては、来るべき戦争に対して黙っていた皆が卑怯者と呼ばれるだろう。
 イランでの戦争に向けて今後どのような形で導火線が引かれるのかまだ分からない。しかしもしも現在、幾人もの人々が予測しているように、イラク戦争と似たような何らかの形で、世界の世論が次なる戦争へ向けて煽り立てられるとするならば、私達は今から、イラン戦争が起こることに断固反対し、イラン戦争を是認するような発言や風潮をことごとく虚偽として退けていかなければならない。

 たとえアメリカに強制収容所が建設されていようと、50万人分の棺桶が用意されていようと、どんな準備がなされていようとも、どこまで邪悪な計画が進んでいようとも、世界で唯一の被爆国として、日本人はアメリカ国民はもとより、世界のどの国民に対しても、核が使用されることに対して、断固反対の意を示さなければならない。
 クロード・イーザリーが被爆によって亡くなったからと言って、アメリカ国民までが同じ道を辿らなければならないということはない。たとえ罪を犯すことによって人が我が身に滅びを招くことがあるとしても、私達は無実のアメリカ国民が、原爆投下というかつてのアメリカの国策の重い責任を取らされることに同意することはできない。
 
 核爆弾は世界のどの国民に対しても使われてはならないものだ。それだけに、アメリカであわよくば核を使用しようとしている何者かがいるかも知れない可能性に、私達は目を開いて、注意しなければならない。核爆弾の爆発を茶の間のテレビから、お茶受け話として放送するような卑劣な作戦に対して、目を開いて、警告を発しなければならない。もちろん、アメリカ国内だけではない。イラク戦争でも劣化ウラン弾を始めとして核兵器が使われた可能性があることが指摘されており、再び戦争が起これば、そこでもやはり核兵器が使われかねない。

 私達は平時であろうと戦時であろうと、核兵器の使用に対して断固反対の意を示し、どこかで核兵器を使用しようという悪しき意図を持って計画を進めている者がいる可能性があるならば、その正体を可能な限り、明るみに出し、そのようなことが将来起こるかも知れない危険性に対して、声を大にして警告を発し、決して、その計画が実現しないように最後までストップをかけ続けねばならない。

 まだ事件は起こっていない。まだ次なる戦争は起こっていない。まだ何も決まってしまったことなどないのだ。たった一人の力では抵抗することが難しい作戦でも、大勢が欺瞞を見破って立ち向かえば、どんな作戦でも失敗に終わる。世界中の人々の心を自在に操り、全世界の人々に無力感を抱かせて、国や社会を思うがままに支配しようとするような人たちが唱える決定論に騙されてはならない。変えられない未来などどこにもないのだ。

 一つ前の記事の中で、筆者は宗教的阿片としてのペンテコステ派ということについて書いた。クリスチャンは今、どうせ起こるはずもない馬鹿げたリバイバル論、人数だけにこだわる教会成長論にうつつを抜かしたり、虚しいイベントのために走り回ったり、あるいは他国の大統領を「気が狂った男」と呼んで、次なる戦争に向けて世論を扇動しようとする者の言い分に浅はかに煽り立てられているようであってはならない。
 クリスチャンは、自分の生活にも郷土にも何の利益ももたらさない虚しい行事と計画を離れて、目を覚まして、今、自分達の目の前で、現実に起こっていることを見なければならない。

 そして、悪を見つけたならば、勇気を持って立ち向かわなければならない。
 クリスチャンの使命とは、決して、自分の卑小な生活の中だけに閉じこもって、自分一人だけ救いを謳歌して、世界中で泣き叫ぶ他人を見殺しにしながら、平和な生活を送ることではないだろう。

 勇気を持って悪に立ち向かおう。そうすれば悪は逃げ去るに違いない。
 筆者はイラク戦争同様、イラン戦争を是認しない。イラン戦争を是認するようなムードへと世論が煽り立てられることそのものを警戒する。
 特に、クリスチャンが戦争を是認するようであっては、キリスト教界の信用もお終いだ。
 そのことをもっと早くに書いておかなかったことについて、筆者に責任がある。
 日本でもアメリカでも、クリスチャンの真の使命は、アメリカの国家政策に安易に同調することではなく、目を覚まして、どのような戦争、どのような殺人行為に対しても断固、反対することだ。

 遅ればせながら、はっきり述べておこう。筆者はいかなる戦争をも容認しないし、核の使用をも容認しない。
 従って、次なる戦争や、核の使用を画策している者たちがこの世界にいるだろうことが予想されるので、決してそのような者たちの悪しき計画が実現しないように、今後、機会あるごとに、警戒を呼びかけていくつもりだ。
 筆者自身が何かの政治運動を起こすつもりはないが、ただ、もしここに書いてある内容に同意して下さる方がいるならば、どうか身近な人々に警戒を呼びかけて欲しい、今後、この日本や世界に、浅はかな戦争歓迎の世論が決して形成されることがないように。

 私達は9.11のような恐るべき欺瞞がこれ以上繰り返されることがないように、目を覚ましていなければならない。人殺しを推し進めようとする人たちの安易な計画にやすやすと乗せられたり、でっちあげの事件に、これ以上、浅はかに騙されたりしないように自戒し、そのような可能性に対して目を覚ましていることができるように、自分にも、社会にも警戒を訴えていかねばならない。

 真実、クリスチャンを名乗るつもりならば、誰しも、戦争反対を唱えるべきなのだろう。聖書を一度でも読んだことがある人なら誰でも知っているように、主は「殺すなかれ」と人に命じられたのであり、イエスも、歴代預言者も、弟子たちも、剣を取って敵を滅ぼそうとはせず、むしろ、福音を受け入れなかった世にたとえ憎まれ、殺されても、それでも御心に従順であることを選んだ。
 そこで、私達もそれにならうべきである。神の名を用いた聖戦などは地上に存在しない。なのに、どこかの国のプロテスタントのキリスト教界がもしも戦争を是認する動きの中で「気絶」してしまっているならば、彼らの代わりに、日本のクリスチャンは戦争反対を訴えていかねばならない。

 当然すぎるほど当然のことであるが、戦争を含め、あらゆる殺人に反対を訴えることは、クリスチャンに与えられた使命の一つなのだ。

2009/02/19 (Thu) 社会問題 Comment(0)

4.宗教的「阿片」としてのペンテコステ派

 前回の記事から引き続き、ル・モンド ディプロマティークのアンドレ・コルタン氏による論説『ペンテコステ派という繁栄の神学』を引用しながら、ペンテコステ派の神学の問題性について説明したい。

 まず、誤解のないように、筆者の立場をきちんと断わっておかねばならない。筆者自身はあくまでクリスチャンの一人でありながらも、ここでペンテコステ派の推進して来た様々な新しいスタイルの神学や宗教行事に疑問を呈する側に立っている。だがそれでも、筆者自身は、聖霊のバプテスマ、異言、預言、神癒が現代のクリスチャンの信仰生活において存在する可能性そのものを否定するつもりはない。今日、イエスの時代に起こった癒しの奇跡などというものは、絶対に起こるはずがないとか、異言などというものは全てたわごとだと決めつける立場には、筆者は立っていない。

 ペンテコステ派が盛んに求めて来た「聖霊によるバプテスマ」(ペンテコステ派の由来でもある聖霊降臨)の概念はかなり歪められたものとされてしまっていること、特に、あまりにも異言が強調されすぎている点には大きな問題があると感じるものの、それでも筆者は、水による洗礼が存在するように、聖書では「火」にたとえられる聖霊による満たし(聖霊の油注ぎ、あるいは聖霊の油塗り)が確かに存在し、クリスチャンの信仰生活において欠かすことのできない、神から約束された賜物であることを信じている。

 この意味において、コルタン氏と筆者の立場は同じではない。なぜなら、論説を読む限りでは、コルタン氏は異言、預言、神癒の存在を信じていないように見えるし、はっきり書かれているわけではないにせよ、宗教的なものも含めて、あらゆる霊的現象を完全に否定する立場に立っているものと想像されるためである。もしそうであるなら、筆者は奇跡や霊的現象に関して、コルタン氏とは対極の立場に立っていることになる。信仰者として、筆者はあらゆる霊的現象を頭ごなしに否定するつもりはない。

 しかしながら、同時に、霊的現象を完全に否定しはしないものの、今日、神の名を用いながら、本当に神から来たのかどうか分からない、出所不明な怪しげな神秘体験、集団的陶酔状態、精神の錯綜を引き起こすような偽りの宗教行事が多数存在することも確かだと感じる。

 奇跡は、日常的でないからこそ奇跡なのだ。たとえ神が不思議な形で人間の祈りに答え、病を癒されることが現実にあるとしても、日常化された奇跡など、この世に存在するものではない。人間は誰一人として、いつ、どうやって神が働くのかを他人に向かって確実に保障することはできない。従って、ある集会や建物などの中、限定された時空間において、予め奇跡が必ず起こると約束され、人々に向かって予告されることなど、あり得ないのだ。「このクルセードに参加しさえすれば必ず奇跡が起こります」とか、「毎週、私達は水曜日の午後に奇跡の集会を開いています」などと呼びかけられるなら、ほぼ100%、そのような行事は偽りであり、奇跡の捏造であるから、そんなでっち上げの集会に参加する意味はないと断言して構わないと筆者は思う。

 とにかく、神秘体験をやたら誇張して、信者を集めようとするような傾向のある宗教行事は全て、目的がどこにあるのか疑ってみる必要がある。奇跡が真実であるか、虚偽であるかにこだわる以上に、「この集会の真の目的は何なのか」ということをクリスチャンは考えた方が良いと思う。
 聖書において、イエスは奇跡を行いはしたものの、奇跡に対する群集の反応(熱狂)には非常にシビアで慎重な態度を取られた。イエスは、ご自分が行われた奇跡のことを決して人に話してはならないと弟子に命じられたこともあるし、奇跡ゆえに、群集がイエスを信じてぞろぞろ着いて来ることを快く思われなかった。

 珍しいもの見たさに集まって来る群衆の心理を、イエスは決して、確かな信仰心であるとはみなさなかった。そして事実、移ろいやすい心を持った群集は、自分達に都合の良い奇跡を行ってくれた時にだけイエスを信じ、イエスが政治的に不利な立場に置かれたと分かった時には、権力者による扇動にあっけなく乗せられて、すぐにイエス反対に回り、十字架を要求したのである。

 クリスチャンに与えられた仕事は、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを刺激してくれる真新しい魅力的な宗教行事に安易に飛びつくことではなく、特に、奇跡やその他の霊的現象を売り物にして人々の好奇心を刺激するような行事に踊らされることではなく、その出所をしっかり吟味し、目的がどこにあり、大衆をどこへ導くものであるのかをよくよく確かめ、見極めることであると思う。

 そうした意味で、コルタン氏が述べている、ペンテコステ派は「新たな『人民の阿片』だろうか」という疑問に、私達は慎重に耳を傾けなければならない。氏は述べている。
 「『神癒』を信じてやまない信者たちは、(保健衛生面も含めて)あらゆる面で打ち棄てられた場所で新たな文化を編み出している。知的エリート層がそう認めないにせよ、大衆の文化と呼んでよいだろう。とはいえ、これは抵抗の文化である。そして同時に、はからずも支配的イデオロギーを再生産する文化である。その意味では、ペンテコステ派は人民の阿片であると言えるだろう。ここで再び、マルクスがこの言葉を発した文脈を思い起こす必要がある。それは、感動なき世界における感動である。 」

 国の福祉制度から見捨てられ、病気になっても、お金がないために、病院でまともな治療さえ受けられない貧しい人々が、最後の頼みの綱として、「神癒」の可能性によりすがるのは至極当然である。その意味で、社会福祉制度からこぼれ落ちた人々にとって、ペンテコステ運動は、生きるための最後の抵抗運動であるとさえ言えよう。しかし、同時に、このような抵抗が、貧しい人々の真の救いにつながることはほとんどないと、知識人は考えている。
 第三世界のクリスチャンが、奇跡を求める大会に日夜、時間を忘れて没頭し、神を求めて叫び、誰にも理解できない異言の祈りに明け暮れ、完全に日常生活から乖離して、痙攣状態に陥ったり、地に倒れ伏したり、七転八倒しながら、集団的熱狂、陶酔状態に陥っているのを見て、このような状態に大衆を陥れるペンテコステ運動を異常だとみなす知識人は多い。
 コルタン氏も論説の中で、キンシャサ・カトリック大学学長のムウェゼ教授の次の発言を取り上げている、「もし厳しい措置をとらずに10年も放置すれば、コンゴという国は堕落した人間、あるいは精神を病んだ人間の集まりになってしまうだろう」。

 一部の冷静な知識人から見れば、ペンテコステ派の熱狂的な宗教行事に参加している人々は、「精神を病んだ人間の集まり」でしかない。つまり、貧しい人々は救いにあずかっているのではなく、何かしら精神を異常状態に陥れる「阿片」に酔いしれているだけだというのだ。

 ところで、「宗教は阿片である」というマルクスの有名な言葉は、ソビエト政権による無理解な宗教弾圧のためもあって、今日、かなり誤解されて解釈されている節があるため、ここで改めてこの言葉の意味を振り返っておきたい。
 ウィキペディアの説明を借りれば、「宗教は阿片である」との言葉は、カール・マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』において述べた、次の文章が基礎となっている。
 「宗教は逆境に悩める者の嘆息であり、また、それが魂なき状態の心情であると等しく、無情の世界の感情である。つまり、それは民衆のアヘンである。」
 マルクスがこのような文章を書くヒントとなったのは、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあったハインリッヒ・ハイネによる著作『ルートヴィヒ・ベルネ』(1840年)における「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的なアヘンである」という一節であると考えられている。

 この「宗教は阿片である」というマルクスの言葉の真意はどこにあったのだろうか。なぜ、レーニンなどのソビエトのマルクス主義者はこのマルクスの言葉を基にして、宗教を敵視する政策を取ったのだろうか。
 その答えは、マルクス主義者たちの目から見れば、あらゆる宗教には、民衆に現実の問題を忘れさせてしまい、民衆に不平等な現実からの逃避の場を与え、死後の世界を夢見ることによって、現実に立ち向かう力を奪ってしまうという効果があった点にある。
 マルクス主義者の観点に立てば、虐げられている人々が不当な搾取に気づいて立ち上がることこそが、社会における経済格差の問題を解決し、搾取のない、公平な社会を築くための決め手になるはずであった。ところが、革命の担い手となるはずの虐げられている貧しい人々が、宗教にうつつを抜かしている間は、彼らは永久に、自分達を苦しめている根源的な問題が、社会の経済的格差にあることに気づかなくなる。この世は不公平で不完全なものであるというあきらめ観や、逃避的な宗教行事や、死後の世界における救いに没頭することによって、民衆は自分達が置かれている現実の不平等や貧しさ、苦しみから目を逸らし、自分達を苦しめている真の敵が誰なのかを忘れてしまう側面があるということに、マルクス主義者は危険を感じていた。

 このような見方はある程度、的を射ていると言える。だが、ソビエト連邦崩壊後の今日、私達は、社会主義革命を通して人類の平等な幸福社会が実現できると考えたマルクス主義そのものもまた、他の宗教とほとんど変わらない、一種の「阿片」剤としての効果を持っていたという事実を見ている。
 社会主義国におけるマインドコントロール的な思想教育によって、自分達の国に、近い将来、共産主義ユートピアが到来すると、多くのソビエト国民が心から信じていたからこそ、彼らは極貧の生活を強いられても、なおそれをかいがいしく耐え抜き、ソビエト体制の不合理さに気づくチャンスを失ったのだ。共産主義ユートピアへの信仰が「阿片」となったために、スターリン体制以後、ソビエト体制はノーメンクラトゥーラと呼ばれる官僚が不当に利益をむさぼりながら国を牛耳って、民衆を搾取する不平等な社会となっていたにも関わらず、国民は政治の腐敗に気づかなくなり、その分だけ、体制の崩壊は遅れたのである。

 もしも、マルクス主義理論に基づいて、社会主義国は将来に共産主義ユートピアを生み出す母体となるという信仰が社会主義国の民衆に行き渡っていなければ、このような不公平な体制に人々が黙って我慢するはずもなく、ソ連邦はもっと早くに国民に見限られて崩壊していただろう。(もちろん、ソビエト権力による過酷な政治的弾圧が、このような事実をたとえ国民が発見しても決して口にできないように、人々を追いつめたことは確かであるが、同時に、心から国の未来を信じるがゆえに、体制の誤りを発見できなくなった人たちがたくさんいたことも確かである。)

 さて、アンドレ・コルタン氏が述べているのは、グローバル資本主義の進める世界的な競争、市場原理主義がかたや貧しい人々をさらなる貧しさの中に追いつめているというのに、肝心の貧しい人々は、ペンテコステ派という「阿片」に酔いしれているがゆえに、社会の不平等にますます気づかなくなっている、その意味において、ペンテコステ派は、貧しい人々を市場の要求に適応させようとする「米国帝国主義だけでなく勝ち誇るネオ・リベラリズムの『霊的部門』」として、市場原理主義のお先棒をかつぎ、世界銀行の望んでいる事柄を着実に実現するための、民衆への投薬となっているということである。

 もっとはっきり言ってしまおう。かつて大英帝国が中国を弱体化させて支配する目的で、阿片を用いて中国の民衆の意識を堕落させ、中国経済を破壊したように、今、ペンテコステ派という「阿片」を積極的に世界中の一般大衆に配り歩くことにより、誰にも気づかれないようにこっそりと、大衆の意識を真に重要な問題から逸らせて、神の名を冠した無意味な行事に没頭させることにより、大衆を弱体化し、より支配しやすくしている勢力があるのではないかということが、この論説では示唆されているのである。

 熱狂的な宗教行事は、大衆の目を彼らにとって真に重要な問題から逸らさせるための、意図的な意識のかく乱なのではないか。すでに社会の落ちこぼれ組、負け組となりつつある人々に、自分達が罠に陥れられていること、抜け出せない絶望に徐々に絡め取られていっているという事実に、決して最後まで気づかせないようにするための意図的な意識操作として、ペンテコステ派があるのではないか。

 本当は、ペンテコステ派だけでなく、自己啓発セミナー、創価学会、統一教会など、カルトの疑いがあるあらゆる宗教や教えがこの文脈に含まれるかも知れない。だが、今、この記事の中では、ペンテコステ派だけに的を絞って言及しよう。
 ペンテコステ派の活動は、何者かによって意図的に作り出された現実逃避運動であり、世界的な支配をもくろむ人たちの悪しき意図に、人々が決して気づかないようにするための意識のかく乱であり、あらゆる国の国民にこっそりと気を失わせて、各国を弱体化させるために配布されている「阿片」である危険性があるというのだ。

 それだからこそ、何年経っても、ペンテコステ運動は、掲げている美しいスローガンとは裏腹に、何ら有効な結果を人々にもたらさず、むしろ影響を受けた人々に対して、ただ精神病理的な効果を増し加えて行っているだけなのではないだろうか? 掲げている目的にかなった美しい教会を生み出さず、むしろ、スキャンダルにまみれたカルト化教会を多数、生み出して行っているのは、そのためなのではないか? 

 …要するに、コルタン氏の論文は我々にそういうことを示唆しているのである。

1.教界のカルト化問題はアメリカ発の教会成長プログラムと密接な関係がある

教会のカルト化問題を考察しているうちに、筆者は日本の教会のカルト化という現象が、特にペンテコステ派、聖霊派の各教会に導入されたアメリカ発の最新の教会運営プログラムの失敗と切り離すことができない問題であることを痛感させられました。
一言で言えば、アメリカから随時、もたらされる新しい教会運営の流行のプログラムが、日本の教会に導入されるや、必ずと言っていいほど、何らかの問題を引き起こし、中には組織崩壊にまで至る教会が現れているのです。

従って、日本の教会のカルト化現象は、アメリカ発のペンテコステ派の新しい教会運営プログラムの理念と方法論における問題性を検証することなしには、決して解明できない問題であると、現時点で、筆者は考えています。教会のカルト化は、教界の最新流行のプログラムの弊害が教会にもたらした末期症状であり、その他にも、初期症状から始まって、中間段階の症状がいくつもあることが予想されるのです。

聖霊によるリバイバル、カウンセリング、個人預言、セル・チャーチ、弟子訓練、トランスフォーメーション等、米国のキリスト教界を出発点とする新しい運動は、今日でも随時、日本の教会にもたらされ続けています。それらのプログラムの問題性について、表面的に言及している日本のサイトはいくつかありますし、鋭い直観によって、これらのプログラムを警戒すべきだとする立場に立っている牧師たちも存在しますが、しかし、専門家の観点から、聖職者自身が、以上のようなプログラムの危険性について、詳細な分析に基づいて十分に指摘している書物を見つけることは困難であるように思います。

しかし、日本に導入されたプログラムが各教会で次々と問題を起こしている以上、この問題に対して早急な対応が求められます。現在、不祥事の話題でもちきりとなっているビュン牧師も推し進めていた「トランスフォーメーション」の行く末も非常に気になり、深刻な問題に陥らないうちに、警告を発することが必要であると筆者は考えます。
そこで、今回から何回かに分けて、ペンテコステ派が提唱してきたそれぞれの新しいプログラムの問題性を指摘したいと思っています。

筆者は神学に関する知識がないため、本来、この話題に深入りするための資格を十分に持っているとは言えません。けれども、同時に、教界自らが、この問題について鋭い切込みを行わない限り、問題は放置されたまま残り、さらに悲惨な末路を辿る教会が現れるという危惧も去らず、それをただ看過することはできません。そこで筆者のブログでは、警告を発することしかできず、十分な検証は、追って、牧師たち、神学の専門家によって行われる必要があることをお断りしつつ、皆様に記事を読んでいただきたいと思います。


2.ペンテコステ派の巨大イベントには真の信仰を見失わせる危険性がある。

幸か不幸か、聖霊派に属していた十数年間に、筆者はこの業界に現れた典型的な流行現象をいくつも間近で見聞きする機会に恵まれた。

1993年に開かれた、かの有名な全日本リバイバル甲子園ミッションの際、関西にいてアッセンブリーに属していた筆者は、当然のごとく大会に参加していた。何一つ、疑うこともなく、チケットを知人に配り歩くことさえしていた。

今でも覚えているが、この大会が開かれた時、「きっとキリスト教界に何かが起きる!」という熱い期待感や興奮がクリスチャンの間にあった。とにかく超教派的行事としては未曾有の規模の最初の大会だったのだから。大会では、聖霊派と福音派の対立があったことについて涙ながらに謝罪し、悔悟する牧師も現れ、「これからはキリスト教界内での争いをなくし、牧師同士が対立するのをやめ、各教会が提携して、日本のリバイバルのために団結しよう」という約束事がこの大会前後に何度も聞かれた。

1993年当時、多くのクリスチャンはこのような統一された行事がどこへ信徒を導くのかまだ分かっていなかった。概して、かつてない一致団結がキリスト教界に現れたことを単純に喜び、歓迎するだけだった。信徒が増えず、キリスト教界に変化が見られないことに、多くのクリスチャンが飽き飽きしていたことも手伝って、何か新しい刺激的な行事が、興奮が、熱狂が、現れて欲しいという期待がこの新しい行事に一心にこめられたのだった。

しかし、甲子園ミッションが掲げていた美しい理想の究極の到達点であるはずの「日本のリバイバル」が、何年間経っても、影も形も見えなかったことで、クリスチャンは失望に陥った。そしてリバイバル・ミッションという行事そのものが、一体何だったのだろうかということを、否応なく、多くの人が考えざるを得なくなった。それが、特にペンテコステに関わりのあった大勢のクリスチャンたちが、真の信仰とは何なのかを自らの頭で考え始めたスタートだったように筆者は思う。

期待していたリバイバルが起こらないという失意の中で、聖霊派の信徒のモチベーションをそれでも支え続けたのは、聖霊によるバプテスマや奇跡を盛んに強調する教えだった。「聖霊の力をこれまで軽視しすぎたために、今日の教会は力を失ってしまったのだ」という考えがそこにあった。
そこで、大勢のクリスチャンが聖霊に頼ることを学ぶことによって、閉塞感(信仰生活の盛り上がりのなさ)を打破できると考えた。覚えているが、アッセンブリーの中で、ベニー・ヒンの大会や著書は当時、さかんに宣伝されていた。ベニー・ヒン著『聖霊様、おはようございます』を始めとして、カルロス・アナコンディア、クラウディオ・フレーソン、ピーター・ワグナー、チョー=ヨンギ、デーブ・デュエルなどの、この系統に属する聖霊による奇跡やリバイバルを強調する本は、聖会などがある度に、受付などで販売され、筆者もそれを何冊か買って読み、実際に、それらの宣教師が何をしているのかを知ろうと、宣教師たちの開く大会にも参加した。

その頃、「宣教師の開いた大会で人が倒れるとか、奇跡が起きるなんて、あり得ない! そんなのやらせに決まってる!危険だ!」と主張し、はなから奇跡の存在を受けつけない福音派の信徒も大勢いることを知った。しかし、筆者が自分の目で確かめたところでは、確かに、それらの宣教師の周りでは、やらせではない「何らかの力」が働いていたようだった。奇跡など信じているとも思えない筆者の知人が、参加した大会で地にひっくり返されてしまうという出来事も目の前で起こった。

現在では、一部の宣教師によって、偽りの奇跡が行われていたことが立証されている。確かに、虚偽の奇跡がたくさんあったことは考えられる。だが、それでも、筆者自身は、その「力」自体が全て偽りであったとは思っていない。中には確かに存在した「奇跡」があるだろうと予想している。ただ、その魔法のような「奇跡」や「力」が、一体、どこから来たものなのか、それを検証し、吟味することこそが、私達に当時、突きつけられていた主要な課題だったのだが…。

キリスト教図書を販売している書店では、今日でもたくさん見られる、デイビッド・ウィルカーソン、チャック・ピアス、リック・ジョイナーなどの未来預言的な本にも、筆者は目を通した。ニール・アンダーソンの書いたカウンセリングに関する本も、かなり同意できない内容があるため、首をかしげながらではあったが、読んだ。

当時の筆者の一番のお気に入りは、マーリン・キャロザーズの『獄中からの賛美』だった(原題は"Prison to praise"であり、本来は『賛美のとりこ』と訳すのが望ましいと思われる)。デイビッド・ウィルカーソンの『十字架と飛び出しナイフ』は、推理小説のように面白く読めたし、「テレビは悪魔のブラックボックス」と訴えているウィルカーソンの著書を読んだ時は、筆者自身もそれに同意して、ある雨の日の晩、テレビのためにあまりにも人生の多くの時間を無駄に費やしすぎたことを神の前に悔いつつ、まだ営業している店をあちこち探し回って、山のようにたまった自宅のテレビゲームを売り払うことさえもした。(家族から文句が来なかったのが幸いだった…。)

これらの本はその頃、いずれも、一見、聖書的な内容に基づいたもののように筆者には見えた。本の内容は、今日的な教会の閉鎖性に警鐘を鳴らし、牧者優先の教会運営を改め、力のないこれまでの伝道のあり方を真摯に反省しているように見え、さらに、わくわくするようなスリリングな筋書きがそこにあった。

だが、そのような教えを素直に信じて実行に移し、自分の信仰生活と社会生活にも何かぱっとした展望が開けて欲しいと願った筆者の信仰の「青春の時代」が過ぎ、やがて正しい教会だと思った場所で、カルト化教会の問題に巻き込まれ、牧者の堕落を見、何が正義なのかさっぱり分からないという魂の暗闇を経た後、これら上記の教えそのものを改めて振り返ってみると、そこには、大いに疑い、検証してみる必要のある、怪しげな内容が含まれていたことにようやく気づくことができた。

わくわくするような筋書き、神秘体験、閉塞的な信仰生活に新しい展望を与えてくれそうな魅力的な計画…、そんなものにすぐさま飛びつくのでは、ニューエイジの運動、自己啓発セミナーに突き動かされる心理と何ら変わらない。
感情を排して、冷静に事実を振り返ってみた時、実際には、聖霊派が飛びついてきた様々なプロジェクトには、神の名を用いながらも、実際には、ニューエイジ的、オカルト的な神秘体験やら、ネズミ講に見られるような大衆扇動、自己啓発セミナーに見られるようなマインドコントロールを推進しているプロジェクトがいくつもあったことに気づかざるを得ない。

そしてそれらの「騒がしい背教」の対極には、「静かな背教」が広がっていた。神秘体験を強調しないなら、では、それこそが正しい教えなのかと言えば、そうとばかりは言えない危険があった。カトリックの聖職者たちの大規模な腐敗はアメリカではあまりにも有名になっているし、日本の福音派と呼ばれる教会の中でも、筆者が遭遇したように、不祥事は多々起こっている。
この記事の中では主に「騒がしい背教」としてのペンテコステ派の新しい教えの問題性を取り上げるつもりだが、聖霊派だけが疑問視されるべきではなく、全ての教えを疑ってみる必要があるだろう。教会内の不祥事を生み出す背景には、必ず、誤った教えがあり、誤ったプロジェクトや、歪んだ教会運営のあり方があることは間違いない。従って、キリスト教界全体で、不祥事が大きな広がりを見せていることは否定できない事実である以上、誤った教えがかなり根深く浸透していると感じざるを得ない。

「プロテスタントも腐敗して駄目、カトリックも駄目なら、ロシア正教に救いを求めれば良いのではないか」、と考える人がいるかも知れない。しかし、そのような安易な考え方もまたあまりお勧めできない。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する修道僧のアリョーシャ・カラマーゾフが今も輝きを放っているため、今日、ロシア正教は日本人にとってエキゾチズムの対象という意味も込めて、親しまれており、警戒されていない。
しかし、日本人の多くが知らないだけで、ロシア正教にも歴史を振り返るなら、すさまじい異端迫害があった(たとえば古儀式派への厳しい弾圧)。さらに、恒常化したカトリックとの争い、そして「モスクワは第三のローマである」(=かいつまんで言えば、世界で唯一正しい宗教はロシア正教のみであるとする主張)などの怪しげな教えが存在した時代があり、帝政時代に政治的権力と結びついたロシア正教の宗教権力がどれほど傲慢な教えで人々を圧迫していたかは、L.トルストイなどの『アンナ・カレーニナ』などを読めば分かる。

ソビエト政権の弾圧を経て、今日、ロシア正教が甦ったことに希望を託そうとするクリスチャンもいるが、迫害の歴史があったからと言って、その宗教を美化し、その宗教こそが正しいと考える十分な裏づけにはならない。プーチン政権(プーチンは陰に一歩退きはしたものの、事実上プーチン政権が続行している)は今、ロシア正教を擁護することにより、国民の心を掌握し、中央集権国家を築く基礎の一つとしようとしている。だが、一つの宗教が政権に利用される時、そこには様々な問題が生じてくることは確かだ。

どのキリスト教の宗教勢力を見ても、結局、何らかの宗教宗派という「イレモノ、ハコモノ」だけによりすがって、どこかに所属することに正しさを見つけようとするような安易な考え方では駄目なのだ、という結論が出る。どの宗教、どの宗派に属しているかが問題なのではなく、本当は、ただ、キリストと直結しているかどうか、それこそが、クリスチャンの信仰的生死を分ける問題なのだと言えよう。
そういう意味で、筆者は特定の教団教派を名指しで危険視することはできる限り、したくないと思っている。

けれど、同時に、間違った方法論、間違った教えを推し進める団体に所属すれば、真に重要なことが何も見えなくなり、信仰そのものさえ失いかねないことは確かだ。
聖霊派においては、巨大なプロジェクトの推進によって、信仰成長がはかられるかのような誤った考えが盛んに吹聴されて来た。それは真の信仰とは何かをクリスチャンに考えさせる上で、大きな障害となった。人間集団が唱えるプロジェクトの内容如何は、個人の信仰を強める保障にはならない。それどころか、集団的なプロジェクトは個人の信仰の成長を奪ってしまう危険性が大いにある。巨大なプロジェクトを推進し、集団的行事だけを見つめるようになれば、個人は信仰の領域においては、ただ神にのみ目を向けなければならないということを忘れ去り、信仰の成長のための時間さえプロジェクトに奪われてしまう危険がある。だが、その危険性はペンテコステ派の内側にいる人々にはほとんどかえりみられることがなかった。


3.繁栄の神学の本当の狙いはネオ・リベラリズムに即した人間を作ることにあるのではないかという主張。ペンテコステ派の掲げる大志と自己啓発セミナーにおける思考変革の類似性


『ヤベツの祈り』などに今日、見られる「繁栄の神学」を推し進めるペンテコステ派の教えの危険性について、『ル・モンド・ディプロマティーク』の電子版2001年12月号において、アンドレ・コルタン氏の興味深い論稿『ペンテコステ派という繁栄の神学』を見ることができる。

筆者は、ここで政治学者コルタン氏が述べている主張を簡潔にとらえ直しながら、今日のペンテコステ派の問題を考察することを試みたい。
アンドレ・コルタン氏はラテンアメリカ諸国でのペンテコステ派の浸透を例に挙げながら、ペンテコステの神学と礼拝スタイルの問題点について分析を進める。

まず、ペンテコステ派とは何かということから説明すれば、この一派はプロテスタントをルーツとして20世紀初頭に生まれたものであり、1980年代から世界中で本格的な広がりを見せ始めた。ペンテコステ運動の広がりは、ピーター・ワグナーが1980-90年代に推し進めた「聖霊による第三の波」とも密接な関連があるだろう。ペンテコステ派の教義上の特徴としては、新約聖書の使徒行伝に書かれているような聖霊の賜物、異言、癒し、預言、悪霊追い出しの祈りといったものが現実に存在すると信じて、実行に移していることが挙げられる。

コルタン氏はペンテコステを「覚醒運動」という言葉で表現する。つまり、今日でもそうだが、カトリックや福音派と呼ばれる多くの信徒にとって、長年、新約の時代にイエスや使徒が行った奇跡は、クリスチャンにとっては単なる昔話であり、現代の時代にそぐわない、非現実的な記述のようにしか思われなかった。(多くのクリスチャンは今でも、奇跡が現代に起こるとは信じていない。)

ところが、ペンテコステ派の人々は、聖書に書かれている預言者らの奇跡や、イエスが行ったような一連の奇跡は「現代にも起こりうる」という「事実に目ざめた」。この意味で、ペンテコステは「覚醒運動」であり、あるいは「初代教会への回帰運動」、「原初回帰運動」と名づけることもできるだろう。とにかく、これはペンテコステ派の人々による聖書の再解釈の試みであり、忘れられていた事柄を発見して掘り起こし、その事実に「目ざめる」ことによって、信仰生活や人生そのものを劇的に変えられるという信念に基づいた運動であった。

このような新しいスタイルの神学は、長い間、伝統的なキリスト教からは新興宗教とみなされ、カトリックからは特に危険視されて来た。だが、1980年代を過ぎて、世界中にペンテコステ派は現実に流行拡大して行った。その裏に、アメリカ国家による財政的、あるいは政策的後押しがあったという確かな証拠はないものの、それでも、世界のペンテコステ派における礼拝スタイルが、必ず、アメリカのペンテコステ派の礼拝スタイルと一致するという点が注目に値する。

コルタン氏は述べている、ペンテコステ派が広がりを見せたラテンアメリカの国々で観察されるのは、「信仰スタイルと教義が米国モデルとまったく同様であることだ。アフリカやラテンアメリカの隅々で、これら諸派は大規模な十字軍(いわゆる"クルセード"のこと、筆者注)となってスタジアムで集会を開き、膨大な数の信者や見物人を引き寄せる。『神癒』を見せるテレビ番組が時には24時間体制で流されて、大衆に浸透していく。米国でベストセラーになった宗教本の翻訳は、どんな小さな村でも福音派の書店で手に入れることができる。これらの活動はどれもジミー・スワガート、パット・ロバートソン、ケネス・コープランド、ラインハルト・ボンケ、チョー・ヨンギといった著名なテレビ宣教師の名前と結び付いている。」

もちろん、このようなアメリカ型のペンテコステ派の礼拝スタイルが、ラテンアメリカだけでなく、日本や韓国の教会でも見られることに私達は簡単に同意できるだろう。アメリカ型のペンテコステ派の礼拝、そしてペンテコステ派の教義は書物の形でアジア及び、アフリカ、旧ソ連諸国にも広がりを見せており、今や世界中に伝播しつつある。

教義的な面でも、世界のペンテコステはアメリカのペンテコステ派をルーツとしているとコルタン氏は言う。「神は貧困を喜ばない(豊かになることは罪ではない)とする繁栄の神学」や、「我々の心身や国から悪魔を追い払わなくてはいけないという解放と霊の戦いの神学」、「キリスト教シオニズム」などは全てアメリカを出発点として生まれたものであると氏は述べている。

これらのアメリカ発の新しいペンテコステ的神学は、聖書における「世界宣教命令」を根拠にしながら、全世界のクリスチャンの心を制覇し、同じ信仰に目覚めさせることを公然と目的に掲げる一大運動となっている。フラー神学校で教鞭を執っていたピーター・ワグナーが唱えた「聖霊による第三の波」は、世界中のキリスト教界を覆う新しい霊的運動として提唱された。また、『ヤベツの祈り』を著したブルース・ウィルキンソン博士は、次のプロフィールによると、2001年にグローバル・ビジョン・リソーシズという団体を創設し、ビデオや教材を製作し、世界中の小売店、学校、宣教団体に非営利目的で配布している。「〔神の思いを〕米国にとどまらず世界中のすべての国に、ビデオやテレビやフィルムなどのメディアをとおして届けることが私の目標です」と、氏は世界中にこの繁栄の神学を伝播させることが目標であるとはっきり述べている。

このように世界中のクリスチャンの思考改革に多大な影響力を行使することを公然と目的に掲げて運動しているペンテコステ的な新しい神学が、確かに世界的な広がりを見せているその理由として、コルタン氏は、貧困や病にあえぐ人々の多いラテンアメリカ諸国において、見捨てられた社会の最下層の人々の目に、政治経済は全く希望がないように見える一方、ペンテコステ派の新しい宗教生活のスタイルは、毎日の閉塞的で貧しい生活からの魅力的な逃避の場を人々に与えているという要素があることを指摘している。
奇跡や繁栄を手っ取り早く約束してくれるペンテコステ派の宗教行事は、出口の見えない生活を送る貧しい人々に心のはけ口を与え、希望を与えるため、流行しているというのだ。

そうした意味で、「ペンテコステ派こそ第三世界におけるキリスト教の未来なのではないか」と考える神学者さえいるほどに、ペンテコステ派は比較的貧しい一般大衆に「受けている」現状がある。アフリカやラテンアメリカでは、改宗者があとを絶たないという。それはペンテコステ派の教義やスタイルが、「大衆の文化を反映している」からだと氏は言うのである。

さらに、ペンテコステ派の拡大には、ただ教義やスタイルが大衆の好みに合致しているという背景があるだけではなく、市場原理主義、ネオ・リベラリズムの政策と合致するという側面もあることを、コルタン氏は憂慮しながら、次のように述べている。
「従来のペンテコステ派や『ネオ・ペンテコステ派』と呼ばれる新しいペンテコステ派、それに同種の教会は、『貧しい人々』を市場の要求に適応させようとしている点において、米国帝国主義だけでなく勝ち誇るネオ・リベラリズムの『霊的部門』となっているのだろうか。集団としての労働者階級ではなく個々人(一般的には貧しい人々)に向け、世界的な布教の成功を告げる『語りの装置』を通じて、これらの宗派はまぎれもなく構造調整プログラムの衝撃を和らげる働きをしている。改宗者に与えられるのは、まさに世界銀行が望んでいるもの、つまり女性と男性へのエンパワーメント(権限付与)であり、自己を信じ、逆境を乗り越えることができると信じる力である。こうして社会から排除された人々が、押し潰されることはない、『再起』しなければいけないと感じるようになるのだ。」

経済学に明るくない筆者には、上記の難解な文章を説明するにあたって、経済学用語を排した、文系的な説明しか用いることができないが、ここでコルタン氏が述べていることを分かりやすくもう一度、噛み砕いてみよう。まず、コルタン氏の言う「勝ち誇るネオ・リベラリズム」とは何なのか。ウィキベディアの説明によれば、新自由主義(ネオ・リベラリズム)とはおよそ次のようなものである。

「新自由主義の政府は、新古典派経済学の経済モデルを無謬の規範ととらえる市場原理主義に基づき、構造改革(structural adjustment)の政策を実行し、それにより整えられた舞台の上で、経済主体を自由に競争させようとする。<中略>すべての個人が整えられた舞台の上で競争しうる原理的な市場主体となるよう、現実の人間を、利己的かつ合理的に行動して自己利益の極大化を図り、自己責任を受け入れる原子的個人に作りかえられようとする。これにより各人は、新古典派経済学が前提する人間類型を受容することが求められるようになる。」

こんな説明では、より分からなくなったという人がいるかも知れない。つまり、平たく言えば、各国が推し進める構造改革により、規制緩和を促進し、一国の自国の産業保護のための規制の枠組みを極力取り払った上で、世界的規模での自由競争をより可能な状態とすることを目標に掲げているのが市場原理主義である(それが世界中で人々を残酷に「勝ち組」と「負け組」にふるいわけ、「負け組」の人生を貧しいものとする、不幸な経済の仕組みであり、果てしなくもうけたいだけの人々の陰謀だという考え方は前々から指摘されている)。
この市場原理主義の掲げる厳しい世界競争に見合うよう、過酷な競争に対応できる強力な精神を持つ社会の成員、つまり、「強い個人」を意図的に作り出そうとする理念的試みが新自由主義であるととらえることができる。

世界規模で厳しい経済競争を推し進めていくためには、個人がよほど強くなければならない。なぜなら、競争が激化すればするほど、その衝突の過酷さに参ってしまい、精神的に、そして経済的に落ちこぼれる人々が多くなるのは当然の結果だからだ。だが、公共事業やサービスを縮小し、福祉にかける財政を切りつめ、小さな政府を作ろうとする市場原理主義の考え方から見れば、経済競争から落ちこぼれた「弱者」が増え続けることは好ましくない。なぜなら、政府が保護しなければならない「落ちこぼれ」が増えると、政府の重荷が増え、それだけ競争が妨げられるからだ。

公共の福祉をできるだけ切り詰めたい人々にあっては、現在の引きこもりやニート、自殺者のような、競争からはじき出された「負け組」の数をできるだけ減らすことがグローバル競争を実行して行く上で不可欠な条件となる。「負け組」が多くなればなるほど、競争はやりにくくなっていく。大体、参加者の圧倒的多数が負け組となるような競争には誰も参加したくないと初めから思うだろう。自分が得られる利益が元々少ないと分かれば、人々は闘う意欲を失い、世界競争は人々に見向きもされなくなる。

そこで、市場原理主義を推進する人々は、そのような事態を避けるために、とても正常とは思えない考え方を打ち出した。それが上記の説明に見られるような「(社会が)個人から得られる利益(労働生産性)を極大化する」という考え方である。「競争に耐えうる強い個人」を養成することにより、できるだけ競争から脱落する人を減らし、落ちこぼれ組を減らし、万人の万人に対する闘争から来る衝突を緩和して、果てしなく世界競争を推し進めようというのである。

もう一度上記の文章を引用してみよう。
すべての個人が整えられた舞台の上で競争しうる原理的な市場主体となるよう、現実の人間を、利己的かつ合理的に行動して自己利益の極大化を図り、自己責任を受け入れる原子的個人に作りかえられようとする。

…これは恐ろしい人間改造、思想改造の試みである。この文章が述べている新自由主義の目的は、世界を経済戦争の中に没入させ、一人ひとりの個人を経済的にいつまでも戦うことができる強力な戦士に変えてしまうことにある。どこまでも自分の利益を求めて人と争うことに耐えられる、強く、しぶとく、がめつい精神と、決して夢をあきらめない図太さ、利己主義を持った人間を理想的な「経済戦士」として育て上げ、そのような個人が、自らの強い生存本能と、無限の欲望に基づいて、他者と永遠の競争を繰り広げるような「戦場」を社会の理想とし、あまつさえ、その強い個人は、負けた時にはあっさりと「自己責任」を認めて引き下がれるような人間でなくてはならないと言っているのである。

もっと粗野な表現で言い換えるならば、これは世界を牧場に変えてしまい、人間を家畜化しようとする人たちによる悪しき試みにたとえられる。一匹一匹の個人から雇い主が最大限の利益を得られるよう、一匹一匹の個人を、仲間を向こうに追いやってでも、自分一人が率先してエサに食いつくようなあさましい性格に育て上げ、やがて屠殺される日に備えて、雇い主の利益に貢献するために、自分だけが肥え太ろうとするような愚かで利己的性格を養っておく。そうやって、己の夢の実現だけを貪り食って生き、他人のことなどには目もくれないような、思いやりのない、能天気な個人が養われる。どうせそのような個人が幸福に到達できないのは明らかだが、そうしておくことによって、競争に耐えうる個人が養成され、少なくとも、エサを与えられている間は、家畜(個人)は自分が家畜であることに気づかず、偽りの幸せを謳歌するので、できるだけ競争が長く持ちこたえられるだろうというのだ。

コルタン氏は上品な言葉で全てを説明しており、それに引き換え、筆者の言葉はかなり粗暴であることをお許しいただきたいが、要するに、コルタン氏が憂えているのは、市場という戦場において、個人という戦士から得られる利益の最大化をはかろうとして、個人の思いやライフスタイルを変革しようとするネオ・リベラリズムの恐るべき考え方と、ペンテコステ派の掲げる繁栄の神学や霊的戦略が、奇しくも目的が一致しているということである。

強い経済戦士を作るために個人を改造すると言っても、一人ひとりがもって生まれた能力には元々限界があり、それは外から変えようにもおのずと限度がある。というよりも、外から人を変えるためには教育の充実など、結局、福祉制度や教育制度の充実が必要となり、それは市場原理主義にそぐわない。そこで、一人ひとりへの社会からの投資を極力惜しみつつ、それでも、手っ取り早く人間を強力な存在に変化させるためには、内側から個人のモチベーションを高め、変化させることによって、競争に長く耐えうる忍耐力と希望を養うのが一番良いというのが、ネオ・リベラリズムの本当の狙いだと見られる。特に、精神的に変革が必要なのは、放って置いても気楽に生きていける「勝ち組」の人々ではない。どちらかと言えば「負け組」になった人たちのネガティヴなモチベーションや、低い自己意識を変革することが必要なのである。

別の言い方で言えば、「負け組」となった人たちが、ただ失意に陥って生きる気力を失い、社会のお荷物となって終わりとなるのではもったいないというわけである。その人々が自己を信じ、逆境を切り抜けられると信じ、自分たちは決して社会の不遇によって押し潰されることはないと信じて、絶望的な状況から、奇跡的なパワーを発揮してでも、「再起」し、再び健全な家畜、すなわち競争に耐えうる個人となって、競争の舞台に立ち戻ることができるなら、個人からは無限大の力が引き出されるようになるというのである。たとえ傷病兵でも、リハビリ期間を経れば、戦場に立ち戻れる。こうして、傷ついて弱り果てた戦士も、リサイクルされるなら、戦場から戦士がいなくなることはなく、戦争は果てしなく続行可能になるというわけだ。

そのために、弱くなった者たちへの「勇気づけ」を行い、つまり「負け組」への「エンパワメント」を確実に果たしている一つの流れが、ペンテコステ派だということをコルタン氏は示唆しているのである。
個人が自分の内に秘められた無限大の可能性を発見し、自分の中にある奇跡的な可能性に「目ざめる」ことさえできれば、どんな失意や挫折の中からでも、人々を立ち上がらせることができ、それだけ社会や国家が公共のサービスや福祉にお金をかけずに、個人から引き出せる利益を最大限まで大きくすることができるという、ネオ・リベラリズムの考え方に、ペンテコステ派の神学が大きな貢献を果たしているというのである。

ペンテコステ派だけではない。筆者が見たところによれば、このそら恐ろしい「個人の思考改造計画」は、自己啓発プログラムの中にも見出せるものである。
たとえば、誰でも知っているように、今はカルト的団体との類似性が指摘されて、社会でも相当に問題視されるようになった自己啓発セミナーなどで、まず参加者に最初に語られるのは、「自己の殻を打ち破る」、「本来の自分の可能性を発見する」、「大志を抱く」ことの重要性であった。その他、現在でも日本のビジネスマンなどに愛読されているナポレオン・ヒルの成功の理論においても、自分自身がまず大きな夢を抱いてそれを現実に実行可能と信じきることの重要性が、ビジネスや事業における成功の秘訣として説かれているようである。

これらの自己啓発的プログラムは、まず、個人のモチベーションを最大限に高めることによって、個人が巨大な可能性を発揮して、社会で「勝ち組」となることができると述べている点で一致する。これを、ペンテコステ派に置き変えれば、「奇跡は起こる」、「あなたの病も癒される」、「信仰によりクリスチャンは豊かになれる」などの甘い言葉を盛んに言い聞かせることで、クリスチャンが日常的に、自分は小さくて頼りない人間であり、自分にできることなどほとんどないと思って生きているその自信のなさや、過去の失敗体験から来る恐れ、卑俗な意識を脱して、それらの限界を打ち破らせて、巨大な夢に向かって奮い立ってもらい、目的のために最大限、働ける人間に変えていくということになる。

現実を打ち破るような、到底、かないそうにもないほどの大きな夢を個人に抱かせ、それを実現可能と信じ込ませて、人々を凡庸で限られた日常的な意識から脱却させ、大きな夢のために最大限、働くことのできる労働力に変えていくという目的がそこにある。そうする上で、何よりも重要なことは、人々が過去の失敗体験に基づいて、「こんなに弱い私には、この先もきっと何も大きなことはできないだろう、どうせ夢なんて抱くだけ無駄だ」というネガティヴな考え方を、いつまでもくよくよと持ち続けることをやめさせることである。

ペンテコステ派が盛んに信徒に信じさせようとする「大志」は、自己啓発のプログラムにおける自己への覚醒やブレイク・スルーに非常によく似ている。
「日本にリバイバルが起こる!」という、リバイバル・ミッションなどで提唱された巨大なスローガンは、まず、日本のクリスチャンたちに何よりも、この国にはザビエルが渡来して以来、何十年、何百年間とリバイバルなど起こったためしはなく、20世紀になっても、クリスチャンは「1%の壁も越えられないでいる」というネガティヴな現実を忘れさせる効果を持っていた。そして、クリスチャンは必ず1%の壁を越えられるどころか、やがて日本中が韓国のようにリバイバル化されるのだという、途方もない巨大な夢を抱かせることにより、今までクリスチャンが普通にとどまって来た「ちっぽけな信仰」、「ちっぽけな現実」の閉鎖性を打ち破り、巨大な夢に向かって奮起させることを目的としていた。

(次回へ続く)
 

最近の日本は思想統制に向かって確実な歩みを進めているように思うのは筆者だけでしょうか。しかも、それは昔にあったようなはっきりした乱暴な形での「言論統制」ではなく、もっと目に見えにくく、真綿にくるむようなやり方で、じわじわと「言葉狩り」が身に迫ってきているように感じられます。

例えば、ここ1~2年で、筆者は警察による交通安全の取り締まりが異常なほど強化されているように感じ、不安に思うことがありました。え、それが思想統制とどんな関係があるのかって? まあ、ゆっくり聞いて下さい。
数年前、筆者が通勤に車を使っていた頃、「ネズミ捕り」がしかけられている場所は限られており、道を通いなれたドライバーはどこでスピードを落とすべきか、よく分かっていたものです。

ところが、近頃、監視の場所が、車だけしか走行しないような道路から、ショッピング・モールの近くなど、人がよく集まる場所に変わって(広がって)来ているように思うことが多々ありました。もちろん、地方によって事情は様々に異なると思いますが、筆者が特にここ数年で不審に思ったのは、歩道を走っている自転車への取り締まりでした。
始めの頃は、「盗難自転車でないかどうか、調べている」と人々の間で噂されていましたが、法改正とも関係があったと考えられます。

平成20年6月1日の道路交通法改正により、現在、歩道を通行できる自転車は、非常に限られたものとなっています。
 ★自転車及び歩行者専用の標識が無い歩道では いままで通り車道通行。
 ★ただし以下の場合は通行可能になります。
  ・普通自転車の運転者が13歳以下及び70歳以上の人、身体障害者。
  ・車道走行が危険な場合(路上駐車が多い、交通量が多く危険など)やむを得ないとき。
  ※警察官等が歩道を自転車で通行してはならないと指示された場合は指示に従う。

しかし、この改正の内容は非常に曖昧です。
日本では道交法により、自転車は軽車両の一部とみなされており、原則、車道通行が定められていますが、ご存知のように、日本の道路はどれも道幅が狭く、車でさえ窮屈な思いをして走っていることが多く、自転車が安全に通行できる車道などほとんどありません。自転車は原則、車道通行という法内容そのものが、ある意味では、自転車の安全走行を全く考慮に入れていない、時代に合わないものだと言えるでしょう。

ですから、自転車は実際には車道でなく歩道を走っている場合が多いのですが、それについてはこれまで曖昧な規定しかありませんでした。一体、どのような場合であれば、自転車が歩道を通行することが公に認められるのか、20年6月1日に改正された道交法こそ、はっきり述べているだろうと期待しても、実際には、一向に明確になっていません。

最近、知ったところでは、日本における自転車事故の80%は車がからむもので、乱暴な自転車運転による歩行者との接触などの事故は、自転車事故の2割以下程度であるそうです。
つまり、自転車運転の最大の危険性は車との接触にあるのです。

ところが、歩道における自転車を取り締まろうという動きが近年、見られます。警官が帰宅途中の中学生を歩道で呼び止めて、自転車をチェックしていたりする風景に筆者はある時期、毎日のように出くわしました。これは一体、何なのでしょう。何を取り締まっているのでしょうか。筆者にはよく分かりません。
道交法とは全く別のところで、別のねらいがあるように思われてならないのです。

さて、田原総一朗氏が「田母神論文」に関するコラムの中で、「実は今、自衛隊、そして警察が非常にいら立っている」と書いています。
 なぜ、警察や自衛隊が苛立っているのか?
 結論から言えば、それは、国民の不満がたまりにたまって、まず言論的クーデターが起こり、「この言論クーデターが、遠くない将来本物のクーデターになるのではないか、という危機感がある」からです。
「今は、昭和一ケタの時代に似ている」と氏は述べています。つまり、国中に貧しさが溢れ、閉塞感が満ちており、経済的にも、精神的にも新しい需要を開拓するために大陸侵略へと、戦争へと乗り出して行こうとしていた戦前の時代に、今の時代の雰囲気はとてもよく似ているというのです。

 筆者も記事の中で再三に渡り、現在の社会の動向の危険性について述べてきました。このまま社会不安、経済不安が続けば、国民的暴動が起こる可能性がある、革命が起こる可能性さえ十分にある、ということも書きました。昭和一ケタの時代では、戦争という国家的大事業がガス抜きの役割を果たしたのですが、21世紀には何がその役割を果たすのでしょうか…。
 とにかく、鬱憤だけがたまりにたまっていき、それがどこへ向かうかはけ口が未だ分からないことが、警察や自衛隊を不安に陥れて、国民の暴動への恐れから、過剰な取り締まりに追いたてている傾向が見られるのです。

 田原氏の前述の記事の中には次のような事実も書かれています。「(2008年)10月26日に、雨宮処凛さんという女性が『麻生首相の家を見に行こう』と呼びかけ、ニート・フリーター・派遣労働の人たちを中心に約50人と行進を行った。
 事前に渋谷警察の警備課長から、『車道を歩かない、スピーカーを使わない、横断幕を広げないように』と言われた。これらを使用すればデモになるからだ。さらに、『麻生首相の自宅の区域に入ったら50人一塊ではまずいので、5、6人に分かれて歩くように』とも忠告を受けていた。
 彼らはこの忠告に従って行進を始めたわけだが、歩き出して間もなく、麻生首相の自宅区域に行くまでもなく、3人の若者が公務執行妨害の容疑で警視庁公安に逮捕された。僕は、逮捕時の映像も見たが、公務執行妨害もなにも、プラカードを上げとたんに捕まっている。
 渋谷警察の警備課長の忠告通りにやっても逮捕された。この様子を見て、公安も相当いら立っているな、と思った。」

 もちろん、首相官邸への行進ですから、世間からの注目もあり、警戒がされないはずはありませんが、それにしても、危険行為などまるきりないのに、逮捕とは、まるでかつての学生運動を見るようです。国民によるデモを今、どれほど国側が警戒しているか、その緊張と過敏さが見受けられます。

 このようなことの他にも、国民投票法案、裁判員制度等、これまでになく国民の意志が監視されることになりそうな危険のある政策が次々、推し進められています。いずれ、酒鬼薔薇聖斗事件などについても、じっくり書ければと思っているのですが、厳しい法改正の傾向はもっと前から始まっていました。

 ところで、このブログにはアメリカ政策への批判、教界への批判等、トピックだけでも深刻な、誰も話題にしたくないし、考えたくないような内容がたくさん書かれています。今後もそのようなきわどい内容を掲載していくことになるでしょう。
 しかし、そんな内容のためか、筆者自身が検索エンジンを試してみても、このところ、ブログはひっかからないことが多く、今後は検索エンジンそのものからブログが削除される可能性も大いにあるのではないかと筆者は考えています。 (すでに何度かGoogleからは検索から外されているようです。)

 これは相当に深刻な言論統制が進んでいるなと憂慮せざるを得ませんが、もしも言論統制が日本にとって避けられない未来であるならば、筆者はそれに命かけてまで対抗しようとは思っていません。筆者は政治家ではないため、政治運動のために命を捨てるよりも前に、なすべき仕事があると思うからです。
 筆者はもとより自分の投げかけたスローガンにより、人々が突き動かされて、署名運動や、新しい宗教改革運動や、政治運動、何らかの組織的デモが起こるようなことを全く望んでいません。そこで、もしも筆者がここに書いたような内容にたとえ同意して下さる方があったとしても、そのような同志が集まって、特定の団体に対して、何らかの運動に至ることには、断固、反対の意志を表明します。

 教界の問題に関しても、筆者は最後まで、徒党を組むことなく、門外漢の立場を捨てずに、一信徒としての立場から問題を訴えるにとどまるつもりです。
 元々、神学の専門家でない筆者の言い分には、賛否両論あって当然です。ですから、聖職者側からの反論は当然あるべきなのです。聖職者がこのような問題の存在に気づき、このブログが訴えているような、耳障りな警告、不愉快で、暗い問題に対して、何らかの対策を早急に講じる必要があることを感じ、自分自身のホームページやブログや、講壇などの場所で、必要な弁明や改革を行い、教会を主の御心にかなうきれいな場所にしようともっと努めてくれればそれだけで筆者の目的は達せられます。
 筆者のように被害に遭う信徒が教会からいなくなれば、それで良いのです。
 筆者は教界の破滅が避けがたいように感じ、そのように書きながらも、それでも、一個人としては、何とかして主の憐れみにより、教界が福音に立ち直り、真の信仰に戻る道はないだろうかとも願っています。

 そして仮に、たとえ問題が一切、改善されなかったとしても、筆者は教界に立ち向かうことを人生の目的にしてブログを書き続けるつもりはなく、カルト被害者というレッテルを生涯ぶらさげて生きていくつもりもありません。被害者運動を生きがいとし、生きる糧とするつもりもありません。
 すでに書いてきたように、筆者は現在、教界内で行われているカルト被害者救済運動の中に正義を見ていません。この運動は被害者を決して救済していないどころか、被害者をさらなる危険に陥れるものであると判断しているため、被害者はこの活動にはできるだけ関わらない方が良いということを述べてきました。教界によって傷つけられた被害者の救済の方法としては、とにかく教界から一刻も早く離れた方が良いという、まことに貧弱な解決しか今、筆者は提示することができません。
 筆者自身も教界の問題に巻き込まれた一人ですが、このブログは自分の問題に何らかの解決を模索するために書いているのではなく、問題の所在を訴えるために書いており、市井の人として、書くべきことを終えれば、自分の生活に戻るつもりです。ブログの目的はあくまで、クリスチャンに教界の問題について広く考えてもらうきっかけを作ることにあり、この問題に関して、筆者は最終判決を下す立場にはないことを忘れたくないと思います。

 このように、当ブログは社会運動とはまるきり関わりがないものですが、それにしても、筆者の意見は、教界から見ても、今日の日本社会の動向から見ても、完全に「異端児」に属しているものと思われますので(信仰にあっては、決して異端児でありたくありませんが)、もしも「ヒコクミン」と見られるおそれがあると困る、言論統制が進んで行ったとき、このブログのためにとばっちりを食うなんてごめんだ!と思われる方々は、このような思想的に危険なブログへのリンクは決して貼らず、場合によっては、訪れることさえも警戒された方がよろしいかも知れません。

 「光の天使の罠」は元来、教界のカルト化の問題を訴えるために作った期限つきのブログです。どうしてサヴォナローラの名前がサイトに入っているかと言えば、それは筆者は問題を提起するだけにとどまり、具体的な改革に決して加わらないということを自分自身に言い聞かせるためもあります。
 聖職者でない筆者は教界を導いていく立場にありません。そしてその資格がないことを自分にはっきりと言い聞かせておかなければ、古い体制を破壊して、新しい体制を築こうと言う人たちが現れたとき、うかつにも、自分にもそのような資格があるかのように錯覚し、そのような運動に加わろうとするかも知れないからです。

 カルヴァンの恐怖政治のようなことがなぜ起こるのか。以前の問題だらけの体制を打ち壊して、よりよい新しい体制を立てようとする人たちが、なぜ前よりも悪い恐怖政治に陥っていくのか。
 そのことを記事の中でも少しずつ考えて来ましたが、一言で言えば、問題提起をする人と、建設する人はあくまで別者だということです。
 筆者の役割は平信徒としての問題提起にとどまります。もし筆者がそれを忘れて、暴動を起こそうと考える人たちに与したりすれば、たちまち、それは教界を改革するどころか、もっと悪い場所へ変えてしまう恐怖政治へと結びついていくことでしょう。

 安易に破壊することではなく、最後まで、立ち直りの道を模索することこそが必要なのです。努力しても、駄目なものは駄目かも知れませんが、教界の腐敗という問題に立ち向かうために、答えを考えるのは、クリスチャン一人ひとりの仕事です。教界をより良い場所に変えていく工夫を行うのは、何よりも、リーダーである聖職者たちの仕事であるべきです。
 ニッポンキリスト教界の明日を作っていくのは、この教界に属している一人ひとりのクリスチャンです。希望ある明日を作ることができるのか、それとも、破滅が待っているだけなのか。その答えを作り出し、対策を打ち出し、実際に未来を作り上げていくのは、一人ひとりの仕事です。

 それは筆者が頭で考えて、導いていけるような事柄ではありません。また、聖職者たちだけが決めることでもなければ、誰か一人やもしくは数人の優秀なブレーンとなるクリスチャンの頭で計画して運ぶことができるような事柄でもありません。立ち直りの鍵は、個人が真剣に救いに立ち帰り、一人ひとりが真の信仰に立ち戻ることにあり、何らかの集団的な運動を起こすことが教界を救うのではありません。ですから、筆者は教界に対して運動を起こすつもりはありません。

 それがいつになるかはまだ分かりませんが、時期が来れば、このサイトを閉じ、別のサイトに移ることになります。それまでにこれまで書いた文章をもう少し整理していきたいと思います。今後の予定をざっと述べておけば、今後こちらのブログには、国策としてのマインドコントロール、そして教界での弟子訓練、トランスフォーメーションなどのプログラムの危険性について、詳しく分析する内容を挙げていきたいと思っています。

 弟子訓練、繁栄の神学、トランスフォーメーションについては、これまで「危険だと思う」という意見や、「近づかない方が良い」という警告はありました。けれども、何がどのように危険なのか、何がどう聖書から外れているのか、詳細に渡って明確に分析している書物が未だ存在しないように見受けられます。

 筆者は神学者でないので、述べられる事柄は極めて限られていますが、しかしトランスフォーメーションなどの比較的新しい用語は、まだこの教界において実行されて間もないですので、このようなプログラムのためにカルトに陥る教会が現れるより前に、それが危険だと思っているなら、何がどう危険であるのか、きちんと分析し、明確に理由を示すことによって、誰かが警告しておく必要があると思います。
 本当は、筆者のような門外漢がそれをするのでなく、牧師たちがそのようなことを公の場で論じてくれるのが、一番良いと思っていますが、まだまだ、そのような反対の動きが見られないどころか、ますますこのプログラムが推進されていく気配があるため、微力ながら筆者はそれに一石を投じようと思います。

 さて、最後に「言論的クーデタ」の危険について一言書いておきたいと思います。
 政治的なクーデタが起こる時には、いつでも、その理由付けが必要となります。すなわち、何のために前の政権を打ち倒して、新しい政権を成立させる必要があったのか。その理由付けとなる美しい理念、理想、つまり「建国神話」が必要となります。そのために、前の政権がどれほど悪く、民衆を苦しめていたかを説き、それが打倒される必要があったことを人々に説き、新しい政権は、旧政権という怪物を打ち倒した正義の人たちに率いられているのだと、正義の錦の御旗を掲げることによって、クーデタを人々に容認させる必要があります。

 同様にして、クーデタや革命だけでなく、あらゆる社会変革運動が起こります。
 近年は、「心の時代」とも呼ばれるように、これまで傷つけられ、捨てられてきた社会的弱者が利権を回復する風潮が見られます。かつて黒人の権利運動、女性の権利運動がそうであったように、社会的弱者のためのアファーマティヴ・アクションが社会の至るところで、要求されているのです。

 高齢化社会にあっては、ある意味、若者を高齢者のエゴから守るシステムがなくてはなりません。自然の法則だけにまかせておけば、どうしても人数的に多い方の世代が自分に有利な社会を作ろうとすることは避けられないからです。
 老人だけにとって都合の良い社会ができないように、人数の少ない若輩者の世代を、特別に保護するための何らかの政策や法律が必要となります。
 若者を守るためのアファーマティヴ・アクションが今、早急に必要とされています。それを実施するためには、理念的裏づけのある運動が必要となりますが、今はまだ、高齢化社会を生き抜くための若者の権利運動は(残念なことに)ほとんど形さえ見られません。
 けれども、弱者のパワーで社会を変革するという気運があらゆるところに満ちていますので、その中から近いうちに必ず、若者の権利運動がきっと起こることでしょう。

 このように、社会運動においては、虐げられてきた弱者の側からの何らかの正義が提唱されるのが常です。
 ですが、正義とは何なのでしょう。クリスチャンは聖書のことばは絶対的な正義であると考え、御心が天に成るように、地にも成就するようにと祈ります。しかし、聖書的に見ても、終末を終えるまで、この地上も人間も不完全なものにとどまり、神の御心が完全にこの地上に成就することは決してありません。

 つまり、クリスチャンは鏡に見るように、おぼろげに神の言葉を理解し、おぼろげに御心を理解することはできたとしても、この地上に生きる限り、決して、絶対的な正義にはたどりつくことができない存在であり、地上の人間社会には正義は完全な形では存在しえないということを聖書は言っているのです。(ここからも、「地上に神の国を建設できる」と言う人たちの誤りを見ることができます。)

 なぜキリスト教界がここまで腐敗し、堕落したのかという問題を考える上でも、重要なヒントとなるのは、この正義の問題です。教壇に立つ聖職者たちが、自分たちの信じることが、正しいと思い込むあまり、クリスチャンはこの世にあって、不完全な信仰、不完全な正義しか持ち得ない、理解の足らない者であることを忘れてしまい、自分の正しさに自惚れるあまり、自己を省みて、反省し、自己の誤りを自分自身で検証することを忘れてしまったからこそ、このような腐敗が起こったのではないでしょうか。

 同じように、傷つけられた弱者だからと言って、その言い分がいつも正しいとは限りません。弱者の巻き返しのパワーを使って運動を作り上げることはそう難しいことではなく、歴史上も何度も起こって来たことですが、数を頼みとして、あるいは怨念を頼みとして、自分たちの主張のまずさをかえりみることもなく、浅はかな正義を掲げて運動に走っていくことは避けなければならないと思います。

 ある人が、人間の振りかざす相対的な正義を、絶対的な正義だと思い込んでしまうことの危険性を、非常に確かで優れた言葉で警告しているサイトがありますので、引用させていただきます。
「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ、検証を拒否する全体主義的正義について」 

「2ちゃんねらーの言動の傾向を俯瞰してみると、確かに正義感を裏付けとしたものも少なくないように感じる。では、その正義感の実体とはいかなるものか…と分解してみる。松永氏も指摘しているが、2ちゃんねるの話しに限らずおしなべて正義感とは徹頭徹尾後ろ暗いものなのだ正義はその対として悪を以って成り立つ存在であり、本人自身(或いはその意見の立脚点)を正しくするには悪の悪たらしめる要素を比較対比し責め立てることをおいて他ありえない

翻ってみれば、正しさとはそれ自身の検証も当然必要な概念である。正しさはそれを言い出した段階では海のものとも山のものともつかない。もっと突き詰めて言えば、未検証の正しさは疑われて然るべきであり、既に検証された正しさは更に執拗な検証に耐える試練を進んで受け入れるべきものだ。正しさはそういう苛烈な検証を経て少しづつマシになることを信じられて*1いるものである。生まれ落ちたら最後その過ちが認められない限り、疑われ続けるべき宿命を負っている。

『みんなが言っている正しさ』という正しさはこの検証をさせないようにする圧力として作用することが多い。絶対正義である。しかし、この絶対正義と言う奴は危険なのだ。何故危険か?『みんなが言っている正しさ』とは別名をファシズムと言う全体主義的・排外的理念はその性質として、検証を排除することによってファシズムを産み落とすのだ。そして、ファシズムは自らをファシズムと名乗ることは無く『正義』を自称し、足場を固めることに余念が無く、みんなを代表する誰か(もしくは一部少数の複数人)の欲するままに暴虐の限りを尽くす。

繰り返すが、正しさとはそれ自身の検証が必要な概念である。それくらい正しさと言うものはあやふやで儚い。そうであるが故に正しさは追求され、叩きのめされるプロセスを常に辿る必要がある。間違えても空気などに流されてはいけない空気はコミュニケーションの肝要であると同時に、ファシズムの母胎にいつでも成り代わる。検証なき正しさは即ち悪だとみなすくらいで丁度良い。それくらい懐疑的に扱わなければ簡単に流されるのだからゆめゆめ油断は出来ない。」
(太字は筆者による)

 学問の世界では、学問は日々進歩しているものと考えられています。どんな優れた研究者によって書かれた論文も、必ず後学の書いた論文によって凌駕され、乗り越えられていきます。しかし、それは先行研究が間違っていたとか、意味がなかったということではありません。
 先人の到達したものを後学が乗り越えることによって、学問的進歩は成り立つのです。一人ひとりの踏み固めた足跡が重なって、一つの道が出来上がるようなものです。

 2チャンネラーの正義だけが疑問視されるべきではありません。筆者の書いたことも、必ず、検証にかけられ、ボロボロになるまでふるいにかけられ、打ち倒され、残されるものだけが残っていかねばならないのです。そして要らない部分は容赦なく切り捨てられる必要があるのです。
 読者の皆さんには、筆者の書いた内容を大いに疑っていただきたいと思っています。筆者は決して無責任にいい加減なことを書いておいて、後は「読者におまかせ」と言って退場していくつもりはありませんが、それでも、筆者に自分で気づけない部分があるならば、筆者の盲点に気づいた人が容赦なくそれを暴き出すのは当然でしょう。
 とにかく、どのような人の意見も、討論の場にかけられ、批判され、試されなければなりません。

 クリスチャンの信仰も、学術論文と同様に、批判によって試されなければならないと筆者は考えています。信仰という、何かよく分からない、目に見えない、定義しにくい領域だからといって、正論らしき事柄を振り回しておけば誰もが黙って拍手してくれるというものではないでしょう。牧者も、信徒も立場は同じです。自分の意見を確信を持って述べることは悪いことではないですが、どんな意見も、批判されることで、検証に耐えうるまともな論理であることを、世に対して証明する必要があるのです。

 ですから、「空気読めない」という恐ろしい言葉によって、その場の「空気」だけが正しいかのように錯覚し、議論を避けて、雰囲気だけで物事の決着をつけることは何としても避けたいと筆者は思っています。その意味で、このような「異端児的」な「檄文ブログ」が、あえて、この社会の空気を打ち破る耳障りな一石となり、空気に流されることへの筆者自身の抵抗となれば良いと思っています。

 しかし、そのように言いながら、もしもその「空気」を作り出すのが、筆者の一石であったりしようものならば、それはまさに最悪なパラドックスとしか言いようがありません。
 ですから、筆者は言葉巧みに一定方向へ向けて大衆を扇動するという愚かな過ちに陥らないために、このブログを期限付きにするだけでなく、このブログに書いているような内容を軸として、人と集団を作ることは絶対にすまいと思っています。現実の世界では、もちろん、筆者も人間としてクリスチャンや人との交わりの中で生きていきますが、イデオロギーや主義を中心として人と団結することは避けるつもりです。

 教界の問題は、一人ひとりのクリスチャンに与えられた課題です。この問題に関して、聖職者には重い責任が伴うでしょう。しかし、この教界の問題の解決を考えるにあたり、クリスチャンは誰かの意見に惑わされて、聖書に登場する豚の群れのように、扇動されて一定方向へ突進していくことが必要なのではありません。誰もが自分自身で考え、自分なりの答えを出し、それを人生において細々と、けれど確かな足取りで実践していくことが大切なのです。 
 そこで、筆者の書いた言葉は参考として、それぞれのクリスチャンが自分自身で物事を考えるためのたたき台としていただければ幸いです。
 問題は誰にでも提起できます。けれど、答えはあくまで「この星が決めること」なのです。

2009/02/11 (Wed) 社会問題 Comment(0)

1.ビュン氏事件に見るカルト化問題への韓国教会の素早い対応と、弟子訓練の危険性

大分前に記事の中で、筆者は「吉祥寺の森から」ブログの記事「卞在昌(ビュン・ジェーチャン)の性的猥褻行為 」にリンクを張った。以来、今に至るまで、ここにはビュン氏関連のニュースはほとんどないというのに、異常現象として、ビュン氏の名前でのアクセスが後を絶たない。

しかも、ブラウザの言語が「韓国語」であるアクセス、日本外(恐らく韓国)からのアクセスであろうと思われるものがいくつもあった。最初のうちは、数日も経てば潮が引くように減少するに違いないと考えていたが、今になっても、「ビュン(氏)」の検索用語で辿り着いて来る人々が後を絶たないのには、正直、不気味な感じさえ覚えている。

このような関心には、2月8日の「クリスチャン新聞」によるビュン氏事件の報道の影響もあるかも知れないが、それだけではない。報道以前から、この事件の行く末を非常な関心を持って追い続けている一大勢力がある。しかも恐らく最も熱い関心は日本国外から注がれているものと見られる。今後、日本において韓国のキリスト教勢力はどのように活動すべきなのか、今後の方針を検討する意味合いもこめて、日本人クリスチャンがこの事件に対して示している反応を詳しく調査している人たちがいると思われる。

いずれにせよ、ビュン氏の引き起こした不祥事に対して、韓国クリスチャンの対応は素早かった。この事件に関する詳しい事情を今現在、知らずにいる筆者は、ただ「吉祥寺の森から」に全面的に頼って判断することしかできないが、当該ブログによれば、事件報道後、1ヶ月と経たない1月25日に、ビュン氏への支援を行ったサラン教会の主任牧師兼、国際弟子訓練院院長である玉漢欽(オク・ハンフム)氏が声明文を出し、関係者からの報告を吟味した結果、事件の「信憑性の極めて高いことと事案の深刻さ」をはっきりと認めた。

玉氏は、そこで、「この度の性的な不祥事はあくまでも卞牧師個人の過ちであり、弟子訓練とは何ら関係のないもの」として、自分の組織が推進してきた弟子訓練のプログラムや理念と、今回の不祥事はあくまで別物であるとして切り離しながらも、しかし、「サラン教会自体もまたこの事件による大きな被害者であることは確かであるとは言え、卞牧師の犯した不祥事による害悪が広まってしまったことについて、私たちは彼に対する監督責任をこの間十分果たせなかったという責めを、免れることはできないでしょう」と、自分達の教会に監督責任があったことを認め、「その意味で、痛みを負われた被害者たちやそのご家族、また信徒の方々に、私は心から深くお詫びを申し上げたいと思います」と謝罪している。

もちろん、弟子訓練のプログラムそのものに何ら欠陥があるわけではないという玉氏の主張には疑問の余地が大いに残ると筆者は考えている。弟子訓練の問題性については、今後、専門的な観点からの詳細な議論が不可欠であり、その議論を省略して、ここで性急に結論を下すことはできないが、それでも、玉氏自身が触れているように、弟子訓練というプログラムを導入した日本の教会の中には、大いなる腐敗に陥ったものが少なくない。
「大変心が痛むことには、日本で弟子訓練を標榜している牧師・宣教師たちの中で、卞牧師だけでなく、他にも何人かの不心得者が、真の弟子訓練牧会とは程遠い、誤った方法で教会形成をしており、それが日本における弟子訓練の評判を、著しく下げているという情報にも、現在接しています。」

問題は、日本の諸教会における弟子訓練プログラムの度重なる失敗を、一部の「不心得者」だけの責任として片付けることができるかどうかである。この問題については、今後、我々は議論を深めていかなければならない。

弟子訓練の導入により、想像を絶するような悲惨な結果がもたらされた教会の実例として、京都シティ・チャーチが挙げられる。ヒッピー出身の宣教師デローは、京都シティ・チャーチにおいて、弟子訓練と称して、幾人もの若い献身者に極貧の集団生活を強いて、強制的な奉仕や献金を行わせて信徒からの利益をむさぼり尽くした。事件が社会に発覚した後は、国外逃亡して行方をくらました。この教会で弟子訓練という名目で、どのような恐ろしいことが行われていたかは、被害者が自身の体験に基づいたブログ「コアラさんのブログ-CURURU」において、詐欺的マインドコントロールのステップを17段階に分けて詳細に分析しているので、最初の記事を紹介しておきたい。


2.カルト化の問題に対する日本キリスト教界の自浄能力の欠如と、被害者の力によって教界が無力を補おうとする矛盾

さて、韓国サラン教会の声明文の内容は今後、専門家の検討にまかせるとしても、この教会の取った不祥事への対応の迅速さは評価に値する。不祥事があっても隠蔽するばかりで、自浄能力が欠如しており、身内の悪徳牧師をかばい続けて絶縁宣言をする勇気さえ持てず、裁判で牧師への判決が確定してなお、言い逃れを続けているような日本のプロテスタント界とは、雲泥の差があると言えよう。

筆者は、自身がアッセンブリーに在籍していた事情も手伝って、この教団が行ってきたカルト化対策問題を参考にしながら、これまで日本の教会のカルト化対策について考察して来た。だが、日本の教界のカルト化対策の稚拙さ、対応の遅れには、今も呆れるばかりである。
アッセンブリー京都教会牧師であり「宗教トラブルセンター」の代表である村上密氏は、ブログにおける記事「教会の自浄能力」の中で、各教団の理事会などの組織は、概して、刑事事件、重大な民事事件を扱いなれておらず、不祥事を解決する能力が不足していることを認めている。氏は、「キリスト教会が自浄力に乏しいというのが私の感想です」と述べた上で、では教界内不祥事を解決する役割は、誰が担うべきなのかという問題に対して、次のように述べている。

「罪と向き合わない牧師は、罪を犯し続けます。もはやその暴走を止めることのできるのは、弱い立場だと思われている被害者です。弱い立場でも、被害が明白であれば、出るところ(裁判)に出れば勝訴します。裁判は加害者に罪と向き合わせ、罪に伴う罰と賠償の大きさに気づく機会を与え、来たる最後の審判までに悔い改めの機会を与え、魂を救済する方法なのです。」

だが、上記のような論法があまりにも大きな矛盾を抱えていることは明白である。教界に自浄能力が欠如しているその責任は教界自身にあるのであって、このことに関する具体的な責任者は、あくまで理事などの役職についている聖職者である。そのことは誰にも否定し得ない事実だ。ところが、教界側の怠慢という問題の解決を第一義的な優先事項とせず、むしろその問題の解決を差し置いて、加害者の暴走を食い止める役割を、よりによって被害者に期待することは言語道断な行為ではないだろうか。

不祥事を起こした聖職者が教職を即刻、離れ去るべきであることは言うまでもない。しかし、そのような断固たる処置を取らないでいる教界の怠慢に対しては、何ら有効な策を打ち出さないでおきながら、被害を受けた信者自身が、あくまで個別の裁判という方法を通して、自腹を切って、加害者である聖職者の人格的立ち直りに貢献することが望ましいと、被害者に訴えかける主張は、滅茶苦茶であり、被害者サイドの限界を無視して個人に過大な要求をつきつけるものである。

仮に英語が分からない教師が教壇に立って生徒に英語を教え、生徒から授業が理解できないと苦情を受けていたとしよう。教師はいつまで経っても自分が能力不足の教師であることを認めようとせず、学校も教師をかばうばかりで、このひどい教師を解雇しようともしない。そのことで生徒から相談を受けた他の教師が教室にやって来て、被害を受けている生徒たちを焚きつけて、このまま学校側の対応だけを待っていたのでは何にもならないから、生徒自らが立ち上がって、授業を中断して裁判所へ行き、教師の解雇を要求する裁判を起こすよう勧め、あまつさえ、英語を理解できる生徒が、英語を教えるとはどういうことかを、裁判を通して、この能力不足の教師に証明してやらねばならないと言うのだとしたら、そんな学校はまさに異常と言う他ない。

「弱い立場にある生徒こそが、能力不足の教師に自らの欠点と向き合い、教鞭を取ることに伴う責任の重さと、生徒に与えた損害の大きさに気づく機会を与え、教師としての出直しの機会を与え、彼の生涯を破滅から救済してやれるのです。」
そんな論理が成り立つだろうか?

能力不足の教師は教師としての訓練を受け直す他なく、生徒側の努力によって教師の人生を「救済してやる」ことなど不可能である。そんな支離滅裂な主張は、あまりにも生徒を馬鹿にしている。それでは、一体、教師という職業の専門性の意味はどこにあるというのだろうか?

本来、聖職者こそが、人間の罪に対して最も敏感であり、罪を犯さないよう人に教える存在でなければならない。ところが、その聖職者が罪に対して最も鈍感になっている場合、そのような聖職者は、牧者としての訓練を一から受け直す他ない。神学校からやり直し、牧師としての再教育を受けるべきであり、それができないなら教団や役員会の決定により教会を解雇されて当然である。
一体、そのような能力不足の牧師を、信徒が救済してやらねばならない理由がどこにあるのだろう?

さらに、悪徳牧師が裁判によって回心する可能性が極めて低いことはすでに裁判によって実証されている。裁判は、何らかの犯罪行為が存在したことを社会に知らしめる手段になりえても、加害者の魂や人格を救済する場には決してならない。

虐待的傾向のある牧師は、自己愛性人格障害のような深刻な障害に陥っている可能性があり、その場合、専門家による治療が必要とされる。だが現実問題、このような心理的障害に対しては、医学さえもはっきりした治療法を提示していないのだ。犯罪者の更生は、専門家の知恵を必要とする科学的にも未知の仕事であり、どうしてそれを医療関係者以外の門外漢、ましてや被害者が扱えるだろうか。

何よりも大きな矛盾は、本来、人の魂の救済の道を教える専門家であるはずの聖職者に、なぜ伝道の訓練も受けたことのない信徒が、「来るべき最後の審判に備えて」、聖職者に「悔い改めの機会を与え」、「魂の救済の方法」を模索してやらねばならないのかという点である。
「倒錯かくも極まれり」と、筆者も叫びたくなる。教会というところでは、信徒の熱心なはからいによって、堕落した牧師が悔い改めの機会を得て、魂を救われることが期待されていようとは! これでは牧師の職務の意味は一体、どこにあるのだろう? まるで、八百屋の主人が、大根を買いに八百屋に来た客から、大根を買おうとしているような笑止千万な話である。 

このような恐ろしい問題ある限り、ニッポンキリスト教界には近寄らないことが信者にとってはやはり最善の道であると筆者は主張する他ない。
たとえ百歩譲って、仮に裁判が村上氏の言うように、加害者が「罪と向き合う」有効な手段になりえる場合があったとしても、そもそも教会とは、堕落した聖職者を命がけで信徒が救済してやらねばならない場所ではないはずだ。信徒はあくまで自分に合った、道徳的に正しい教会を探し、誤った教会と、そこで起こる無意味な争い事からは一刻も早く離れ去った方が良いと筆者は思う。

もしも裁判で人の魂が救える可能性があるなら、何のために教会が地上に存在する意味があるのだろう。そんな方法が真実、有効だと信じるならば、牧師は裁判官に職を譲って、さっさと辞職すればよろしい。

カルト化教会の被害者が、悪徳牧師を更生させるための裁判という絶望的な取り組みに、一生をかけて関わる価値は全くない。むしろ、聖書のたとえに登場する愚かな花嫁のように、人の救いにかまけているうちに、自分の救いを失うことがないように、信者は注意し、愚かな人々の問題に巻き込まれて、人生を滅茶苦茶にされないうちに、問題のある教会からは離れた方が良いだろう。


3.専門家としての役割が果たせない牧師は辞職すべきである。

上記のような問題を語ると、ある信者は言った。「自浄能力がないから他浄?そんなこと言っているようじゃ、牧師は本当に総辞職するしかないわね。」
…とうごまの木の下で自分の預言が外れたことを嘆いたヨナのように、神の憐れみにより、筆者の予測が裏切られ、教界というゴモラの街にも、再生の道が与えられればどんなに良いだろうかと筆者は考える。だが、どんなに期待をこめて眺めても、この教界の落ち込んでいる腐敗はあまりにも深く、到底、立ち直りの可能性が見出せないということを、絶望的な思いで筆者は感じるばかりだ。

非常識な牧師たちに総辞職という挑戦状が突きつけられることは、少しも新しい現象ではない。がん患者に対する新しい医療のあり方を医師の側から打ち出して、全国的に有名になったクリスチャンの樋野興夫氏がかつて教界に向けて同様の主張を打ち出したことがあった。関西出身で、アッセンブリー教団とも親交があった牧師中川健一氏が主催するハーベストタイムミニストリーズ出版から出された、『がん哲学から人生を読み解く』という彼の著書が偶然、我が家の本棚におさまっていたので、そこに掲載されている中川健一氏と樋野氏との次のような興味深いやり取りを抜粋しておきたい。 

"「牧師は総辞職せよ」の真意

中川 <略>二年ほど前に、私が先生に初めてお会いした集会でしたが、あの時、「牧師総辞職論」というのを打ち上げられましたね。あの会議では、他のことは忘れましたが、これだけは覚えているのですが、非常に衝撃的で、チャレンジを受けて、納得出来たのです。
 しかしメディアで取り上げられた時に、どうもその言葉だけが独り歩きして、多分に誤解された面があったように感じるのですが、今日は先生に、弁明の機会を与えたいと思っております。「牧師総辞職論」の真意を教えていただけませんか。

樋野 あの時は、干されましたね。キリスト教系の新聞の一面に出ました。「牧師は総辞職せよ」とですね。みんな言いますよ、「信徒の分際で何を言っている」とか。その時、「牧師総辞職論」だけを言ったわけではないんです。五つのことを言いました。
 まず「宣教師はがん細胞になれ」と言ったのに、それは無視されましたね。それから「ビジネスマンは胆力(たんりき)を持て」とも言ったのです。キリスト教系の新聞に「新渡戸稲造、南原繁、内村鑑三、矢内原忠雄の特集をせよ」と言ったのですが、これも無視されました。生き残ったのが、「牧師総辞職論」です。
 私も教会に行っていますから、牧師を個人的に攻撃しているわけではないんです。これはビジネス社会で言えば、会社が赤字続きであれば社長はクビでしょう。その会のテーマは「日本は何故一%の壁を破れないか」ということだったから、戦後ずっとこの状態なのだから、それなら牧師が総辞職したほうがいいと言ったのです。<中略>
 もう少し教会のあり方というか、牧師のあり方とかを考えるべきですね。一般的には、牧師には受けは良くなかったようです。クリスチャンや一般の方からはメールが来て、「良く言ってくれた」と言っておりましたが、牧師から見れば腹が立つでしょう。
 問題は、「今の時期に、牧師も考えよ」ということです。そうすれば、少しは変わるでしょう。

中川 牧師の側から言うと、こういう発言があった時に言葉尻、あるいは言葉の表面をとらえるのではなくて、どういう意図で、どういう深みからそういう言葉が出て来ているかということを感じ取れるセンスが必要です。それを表面的に反応していると、いかにも子どもっぽいという感じがします。<略>"
『がん哲学から人生を読み解く』、樋野興夫著、ハーベストタイムミニストリーズ出版部、2006年、pp.42-45.

この著書からは、筆者が読んだ限りでは、クリスチャン向けに平易に書き下ろしたためか、あるいは紙面に限りがありすぎるためか、樋野氏のライフワークである肝心の「がん哲学」の主張があまりはっきりとは見えて来ないように思われたのが残念であった。また、抜粋からも分かるように、「弁明の機会を与えたい」とか、「干されました」、「信徒の分際で」など、風通しの悪い業界における聖職者たちの横柄な態度、平信徒への不遜な目線がはからずも、一般人にまで透けて見えてしまうような表現がしばしば見受けられた。

ニッポンキリスト教界の牧師たちが伝道の主要目的に「日本のリバイバル」や「教会成長」を掲げるようになって久しい。だが、そのような目的を掲げて牧師たちがプロジェクトを推し進めるのであれば、目的が達せられなかった場合、自分たちのマーケティングの方法に問題があったことを素直に認めて、牧師が何らかの責任を取るのは当然である。
元々、信者数の増加しか念頭に入れないような浅はかなビッグ・イベントに精魂を費やすこと自体が、伝道の本来的な目的から著しく逸脱していると筆者は思うのだが、その問題をさし置いても、一旦、目標を打ち出したのであれば、一定期間で成果が上がらなければ、方法論の見直しを行い、失敗の責任の所在を明らかにして、プロジェクトを実現不可能とみなして終わらせることは不可欠だ。

その意味で、牧師が信徒の増加計画を本気で推進するなら、プロジェクトが失敗した場合に、進退をかけて責任を取る覚悟を固めるべきだという樋野氏の主張は、一般人から見れば、至極もっともである。
だが、そのような樋野氏の常識的な主張に対して、教界の聖職者たちがどれほど巨大な反発を示したかは、上記のやり取りから容易に想像できよう。

中川氏は対談の中で、一見、業界の一部の聖職者の子どもっぽい反発を嘆いているように見えるが、その実、対談そのものが、一信徒の極論に対して聖職者があえて「弁明の機会を与え」てやるという形になっていることは見逃せない。このことからも、ニッポンキリスト教界において、聖職者と平信徒との間に、いかに越えがたい深淵が横たわっているかが垣間見える。

樋野氏は現在もハーベストタイムミニストリーズと密接なかかわりがあるようで、同出版社の月刊デボーション誌"Clay"の巻末にも論説を寄せている。だが、一旦、業界から「干された」と自ら述べている樋野氏をハーベストが「拾い上げた」ことに、何かしら穏やかならぬものを感じるのは、筆者だけであろうか…。

カルト化問題に際しても筆者はさんざん感じてきたことだが、この教界は、一旦教界にたてついた信者を決して赦そうとしない古くさい体質をいまだに引きずっている。さらに、一部の聖職者には、たとえカルトの被害者であろうと、利用できる信徒からは、奉仕・献金という形でとことん生き血を吸い上げようという恐るべき傾向さえ見られる。恐ろしいことだが、教界と悶着があった人物は、そのトラブルから「救ってやる」との名目で、教界に再利用されてしまう危険性が多分にある。

そこで、一旦、教界から危険視されたことのあるような信者は、この教界によって永遠のリサイクル資材とされないために、二度と教界に関わらない方が良いと筆者は考える。
ハーベストタイムミニストリーズには、イスラエル情勢(シオニズム問題)、カルト対策問題、中川氏の盛んな執筆活動など、クリスチャンの議論が集中しそうな問題が複雑に絡み合っており、今は言及を避けたいが、今後の動向が注目される。とにかく、これまでにも各界の著名人を招いて番組の視聴率を上げ、支持基盤を作り上げてきたハーベストタイムが、「がん哲学外来」の提唱によって今や日本の医療において時の人となっている樋野氏との関わりから得られるものがことさらに大きいことは確かだろう。


4.とんびに油揚げをさらわれないためにも、教界は同士討ちをやめて我が身を正すべきである。

さて、最初の話題に戻れば、日本のキリスト教界には長年かけて韓国勢力が浸透してきたが、その真の目的がどこにあるのかを考えたことがあるクリスチャンはどのくらいいるだろうか。筆者の属していたアッセンブリー教団でも、かつて幾度にも渡り、韓国人の若い伝道師たちを日本に招聘して、日本人信徒との交流の場を設けたことがあった。さらに最近は、「韓流ブーム」のあおりを受けて、日本のキリスト教界には韓国勢の活躍が盛んになっている。多くの韓国の若い伝道師たちが、日本宣教のために母国を離れ、この国に来て生活しており、韓国語などを教えるサークルを開きながら、若者伝道を繰り広げている。

A教団にいた当時、筆者は韓国との交流イベントに何の疑問も持たない子供であったが、今となっては、そのような「文化交流」の大義名分だけを無邪気に信じることはできない。
ただし、こう言ったからと言って、途端に、筆者が排外主義的なナショナリストの視点に立って、韓国人のキリスト教勢力を日本から撤退させよと叫んでいるとか、キリスト教界における日本人による民族自治を掲げて単一民族(もちろん、そんなものは日本に存在しない)に基づく教会運営を目指しているとか、浅はかに決めつけないでいただきたいと思う。

かつてフランシスコ・ザビエルが日本に派遣され、日本にキリスト教が伝来した昔から今日に至るまで、他国からこの国に遣わされた宣教師が、ただ日本人にキリスト教を布教することだけを純粋に目的として活動していたことはなかった。たとえ宣教師自身は、私心抜きに民衆への伝道を目指していたとしても、彼を派遣した元の団体には別の政治的意図があった。

ザビエルが属していたイエズス会は、ローマ教皇の権力に絶対服従することを誓った修道会であり、イエズス会の当時の重要な任務の一つは、カトリックに攻撃を挑んで来るプロテスタントの勢力拡大を食い止め、プロテスタントに打ち勝つために、世界のできるだけ多くの地域をカトリックの影響下に取り込むことだった。一言で言えば、プロテスタントとの勢力争いに勝って、カトリック宗教権力が拡大するために手足となっていた組織がイエズス会であり、その目的のために、イエズス会は、派遣した先の国や地域に大きな影響を与えることができるような優れた修道士の育成に力を注いだ。そこで、教養高く、学問と芸術に秀で、人格的にも優れており、高い志を持って、献身的に地元の民衆に仕えることのできるような人材が育成されて、現地に派遣され、優秀な宣教師たちは、派遣先の国の民衆の信頼を勝ち得て、その地域に密着して活動しながら、その社会に関する詳細で多岐に渡るデータを集めた報告書を本国に送った。

欧米の国々では歴史的に、よく知らない国々の政治・経済・文化を調査するにあたり、まず、斥候のように宣教師を遣わすというのが慣わしであった。日本だけでなく、どこの国の民衆も、宗教権力には弱いものだ。神の名前を持ち出されると、民衆は畏れの気持ちを抱き、相手に対する敵愾心や、疑う能力をなくしてしまう。そこが民衆の愚かさであり、謙虚さでもある。だが、そうして修道士や僧侶が派遣された裏にある目的は、派遣元の国や団体が、やがてその地域で思うままの影響力を行使するために、まず地域に関する情報を集め、愛想の良い宣教師の笑顔によって、地元民の警戒心を解かせることにあった。

宣教師の派遣という形での、日本における諸外国の偵察、影響力拡大は、歴史を通して行われて来たことであり、キリシタンの殉教なども、その文脈を離れて、ただ信仰の問題としてだけ論じることはできないと筆者は考えている。殉教の問題に関しては、いずれ稿を改めて詳しく考察することができれば幸いである。

とにかく、宣教師の派遣は外国の情報収集と影響力拡大のためにこの国で古くから用いられた手段であり、現在の日本における韓国人キリスト教勢力の活動だけが例外であるとみなす理由はどこにもない。

韓国は大陸にあって、人々はいつ他国から侵略されて国が消滅するか分からない危険の中で暮らして来た。さらに、米ソという超大国の軍事的脅威のために、南北分断という悲劇まで味わわされた苦い歴史があるだけに、韓国人は、日本人に比べ、したたかで、シビアだとよく言われる。一見、感情的なように見えて、物事に本音と建前があることをよくわきまえている。
他方、島国の鎖国状態の中で長く歴史を過ごして、他国に侵略されることもなく、モンゴルの襲来さえも「神風」で撃退したなどと、信じがたいことをかなり長い間、大真面目に吹聴してきた日本人には、大陸の諸民族のしたたかさを理解できず、すぐにアンフェアだ、ずるさだと決めつける傾向さえ見られる。

だが、外国人に対してまで自国の伝統的コミュニケーション方法を押しつけ、それが上手く行かない場合には相手ばかりを非難して終わりにするのには無理があろう。日本人は、本気で国際化するつもりがあるなら、英語を学習しただけで満足して終わるべきでなく、外国人のしたたかさの裏を読むほどに、狡猾にならねばならない。

侵略された歴史を持たず、戦後も、経済復興だけを目標に、平和ボケの中にまどろんできた日本人には、ユーラシア大陸に暮らすあらゆる民族が持つ逆境に立ち向かう不屈の精神、図太さ、政治的な計算に長けた狡猾さなどに太刀打ちできるだけの強さが養われなかった。あからさまに人を出し抜くことや、非難が表ざたになることを嫌い過ぎるがゆえに、対立を避けて何事も闇の中の談合によって予め決定するというような悪しき伝統も、日本人の精神的ひ弱さに追い討ちをかけた。談合は、狭い島国にひしめいて暮らさざるを得ないことから生まれた日本人の当然の生活の知恵である一方で、外国人とのやりとりにおいてはそれが裏目に出て、不利な結果を負わされることも多い。

確執や対立が表面化しない、無菌室のように守られた世界で生きることに慣れすぎている日本人は、一旦、燃え上がった対立の中に身を置きながら、紛争を粘り強く解決していくために必要となる不屈の意志を持たない。それどころか、一旦、確執が表ざたになると、臆病に逃げ出したり、詭弁を弄して問題から逃げたりして、驚くほどの解決能力の無さを露呈する場合がある。

馴れ合いと癒着の中で不祥事を続発しているプロテスタントのキリスト教界が、聖職者の不祥事に対して未だに決然たる策を取れないでいることにも、そのような日本人の臆病な姿勢が見える。教界内部にいる人たちには色々な言い訳があるのだろうが、しかし、自分達の組織内で起こった不祥事の責任さえはっきり取れないでいる彼らの姿勢は、外から見れば、駄々をこねている赤ん坊のように幼稚なものとしか映らないだろう。

今日、内紛により弱体化している日本のキリスト教界には、様々な外国勢力や新しい理念が流れ込んで、混乱にさらに拍車がかかっているような状況だ。アメリカのキリスト教界の流行を浅はかに取り入れ、内政干渉の排除を主張するできるだけの自主性も持たなかったニッポンキリスト教界は、アメリカの教界が転ぶたびに、自らも道連れにされ、手痛いツケを支払わされて来た。

そして、民主主義的な情報公開の努力をサボり、重要な事柄のほとんどが密室での談合により決められているこの教界は、今や、一個人の努力の賜物であるブログに全面的に頼らなければ、クリスチャンが教界の動向を知ることもできないほどに、非民主的運営に堕している。たとえば、韓国人クリスチャンが、日本のキリスト教界の動向を判断するに当たって、各教団のホームページを見るよりも、「吉祥寺の森から」などの個人のブログの情報により多くの時間を割いているとしたら、それは、何という情けない事態だろうか。そうなったのには、情報公開の作業を長年サボり続けてきた教界の怠慢以外に、どんな理由があるだろうか? それなのに、個人の力による情報公開を未だに非難し続けている聖職者がいる。情報公開に踏み切った個人を訴訟に訴えたり、悪質な書き込みを続けたりしている聖職者は、それがどんなに時代錯誤な行為であるかに気づいていない。

聖職者たちが自分達の利権を守ることしか考えずに、阿吽の呼吸で馴れ合って教会運営をしているうちに、ここまで腐敗が進行してしまった。樋野氏の表現を借りれば、「一%の壁も越えられない」でいるくせに、これほど不祥事を多発し、それに対する自浄能力の欠如を牧師自らが公然と認めるほどに弱体化している教界が、「日本のリバイバル」などをいくら唱えてみたところで、世間の失笑を買うだけに終わることは目に見えている。

歴史的に見て、様々な宗教団体によるスパイ合戦やら、勢力拡大運動は日常的に繰り広げられてきた。プロテスタントのクリスチャンも、我が身にだけはそのような戦争は起こらないと高をくくっているわけにはいかない。キリスト教界は、聖職者階級だけを守ろうとして、同士討ち的な内輪もめに精力を費やしているうちに、外からあっけなく城を攻め落とされ、捕囚とされるようなことがないよう用心が必要だ。日本における外国のキリスト教勢力の拡大が、純粋にこの国へのキリスト教の布教だけを目的としていると思っているクリスチャンがいるとしたら、それはよほどのお人よしだと言わざるを得ない。

日本の聖職者たちはいい加減に自立して、我が身を自分で正せるようにならなければいけない。自分の靴下さえも使用人に履かせてもらいながら、天下国家を論じていたオブローモフのように、講壇ではさんざん正論をぶっておきながら、自分の襟すら、信者に正してもらわなければ生きられない牧師がいるという矛盾を何とかすべきである。被害者の力をあてにせず、聖職者が自分たちの不始末を自力で解決できる能力を持たずして、教界に生き残りの可能性はない。

 今から約10年前に、『アメリカは日本を世界の孤児にする』という本が初版された。ビル・トッテン氏によるこの著書は、「アメリカは世界で最も危険な国である」と述べ、戦争を自国の発展の手段とするアメリカ政策の危険性を指摘する。そして、アメリカの政策に引きずられる限り、日本はアメリカの引き起こした戦争の後処理に奔走させられ、やがて自分も戦争に巻き込まれることは避けられず、その時、アメリカは日本を無慈悲に使い捨てるだろうと述べている。
 まだバブル崩壊後間もなかった出版当時、この本が日本人にそれほどまでに深刻な危機感を呼び起こしたとは思えないが、10年経った現在、トッテン氏の危惧はますます現実味を帯びてきている。

 ただ一つ、ビル・トッテン氏が執筆当時それほどはっきりと予測せず、著書の中に述べなかった事実として、超大国アメリカが予想外に早く没落に向かっていることが挙げられる。ブッシュ政権に向けられた世界中からの非難を見ても、日本よりも、アメリカの方が先に世界の孤児に凋落しそうな勢いだ。『世界の孤児アメリカが日本を道連れにする』と、本の題名を言い変えた方が良いかも知れない。

 アメリカの凋落は、すでに述べたように、アメリカ映画の筋書きにも如実に反映している。アメリカ映画は、かつてはアメリカの威信を世界に見せつけるプロパガンダの役割をかねていたが、最近、映画の中でアメリカ絶対主義的な筋書きが薄れつつある。アメリカ国家の威信の揺らぎ、アメリカ人の自信喪失や、アメリカが幾多の戦争により抱え込んだ歴史的罪悪感が、映画の筋書きにも反映するようになって来た。

 映画『ラストサムライ』もそのような例の一つである。この映画は2003年12月に日本公開され、渡辺謙などの日本人俳優を観に、大勢の人が映画館につめかけた。この映画を観た当初、筆者はこの映画には強い現代的メッセージがこめられているように感じた。すなわち、これは没落していくアメリカ政策の言いなりになるのをやめ、グローバル経済、市場原理主義の理念から早く離れるようにとの、アメリカから日本人に対する最後の良心的警告なのではないかと感じた。今日、筆者はその危機感をますます強めているので、ここでそのことを述べておきたい。

 話が脱線するようだが、文学作品を作る際の一つの手法として、二重のメッセージを筋書きにこめるというやり方がある。それは今日的な政治情勢に鑑みて、率直に公言することがはばかられるようなきわどい内容を、作者があえて述べようと思うとき、小説をおとぎ話の形にしてみたり、時代設定を大昔にしたりすることによって、本当は今現在のことを主張しているのだとは、読者にすぐには分からないようにするというやり方である。あからさまに語ると危険すぎるか、野暮になってしまう内容を、分かる人にしか分からないよう、曖昧にぼかすモザイクのようなものだ。

 例を挙げれば、『権力と闘う良心―カルヴァンと闘うカステリオン―』という本がある。一度記事の中でも取り上げたが、著者シュテファン・ツヴァイクはこの著書の中で、プロテスタントの原理的指導者、カルヴァンの独裁、教義の絶対化、異端の粛清などの政策に見られる残酷さを徹底的に非難している。
 ジャン・カルヴァンという、プロテスタントの教界で今日もたたえられている宗教改革の指導者の実体が、カルト的な傾向を持つ危険な独裁者であり、カルヴァンが異端者を火あぶりにさえしていたという事実をはっきりと今日に伝えている点で、この著書は非常に価値が高い。しかし、同時に、カルヴァンに対するツヴァイクの非難の口調があまりにも強すぎるために、この本はツヴァイクならではの面白さがあまり発揮されておらず、文学作品というよりは、政治演説のように見えるという欠点があることも否めないだろう。

 小説を書く際には、通常、登場人物を初めから「善玉」、「悪玉」と決めつけたりはしないものだ。そんなことをすると、筋書きが見え透いた平板なものになってしまい、読者の退屈を誘う。ところが、ツヴァイクは従来の文学的手法に逆らって、カルヴァンに対するあからさまな憎悪を少しも隠そうとせずに筆を進める。カルヴァンはこの小説においては、ほとんど長所を持たない史上最低の悪役のように描かれている。

 ツヴァイクは本来、悪役を面白く描く力量を持った作家であった。『ジョゼフ・フーシェ』の中で、自分の利益のために幾度でも変節し、政敵を次々売り渡し、信念を鞍替えするフーシェを、彼は最後まで飽きの来ない見事な表現力で描き切った。ところが、それほどの表現力の持ち主であるツヴァイクが、悪役カルヴァンを描く際には、非難に力が入りすぎた。そのようなことが起きたのは、ツヴァイクがこの本を執筆当時、ヒトラー政権を避けて故国オーストリアを離れ、英国に亡命していたという事情を考えれば理解できるだろう。

 英国に亡命中、ツヴァイクは悪化していく英独の関係のために、身の置き所のない、不便な外国暮らしを強いられていた。亡命生活の苦しさ、やるせなさ、そしてドイツ=オーストリア、いやヨーロッパ全土の人々に未曾有の苦難をもたらしたヒトラー政権に対する尽きせぬ憎しみを、彼は著作にぶつける他なかった。(亡命生活の苦悩は、後にツヴァイクを自殺にまで追いやっている。)作家としての彼は、ヒトラーへの憎悪を政治演説として述べるのでなく、自分の作品の中で昇華させようと試みた。そこであえて現代を離れて、昔の時代に逆戻り、宗教改革の時代に託して、自分の主張を表現することに決めた。

 この小説には、従って、そのようなただし書きはないものの、二重の時代設定がされている。主役カルヴァンが、裏側ではヒトラーの仮面をつけており、カルヴァンの時代の裏には、ヒトラーの時代が隠されているのである。

 このような時代設定の二重性、筋書きの二重性は、創作においてはまま使われる手法だ。そして、『ラストサムライ』にも同じことがあてはまる。

 映画『ラストサムライ』は明治維新の時代を描いているが、実在の人物を登場させずに、わざわざ架空の人物を創り上げている。それを見れば、この映画の主たる目的が、決して、史実を語ることにないのは明らかだ。架空の世界を創り上げることには、おとぎ話のような印象を視聴者に与える効果がある。この映画が明治維新という歴史的モチーフを扱いながら、あえて、おとぎ話のような世界を創り上げているのはなぜだろうか? 筆者が判断するに、それは「昔の時代に託して、現代を語る」という二重性をこの映画が帯びているためだ。

 つまり、結論から言えば、『ラストサムライ』は明治維新の物語ではなく、明治維新に話を託して、実は、現代政治について語っているのだ。映画が真に述べたいのは、現代日本人に対する警告である。筋書きを具体的に追いながら、筆者がそのように考える理由を説明していこう。

 明治維新。それは江戸幕府という200年間以上も続いてきた昔ながらの伝統的な文化価値が没落し、日本がそれまで慣れ親しんできた幕府による統治に代わり、西欧物質主義文明、産業文明という、新たな文化価値、経済価値が日本に到来しようとする瀬戸際の時代であった。産業文明に支えられた世界経済の仕組みは、大津波のように世界中の国々に伝播し、その土地の昔ながらの暮らしを駆逐し、世界の国々を次々、近代国家という同じ色に塗り替えた。黒船の来航と共に、その文明の波が、ついに日本にも到達した。

 どの時代でも、新旧二つの体制や価値観が交替する時には、たとえ表面的には平和的に交替が進むように見えても、水面下では、激しい衝突を生む。

 確か、司馬遼太郎が『坂の上の雲』の中で述べていたように思うが、日本人は歴史的にいくつかの場面で、驚くべき変わり身の早さを発揮してきた。明治維新もその一つである。
 自分に有利なものを取り入れる際に、日本人は驚くほどの順応性を示す。日本人が明治維新で示した欧米文化への素早い順応性は、一見、日本人が合理的性質を持っていることの証拠のようにも見える。産業文明の圧倒的な威力を見せつけられた時、日本人の多くは旧い価値にしがみつくことなく、新しい時代の力を素早く自国に取り入れ、発展を目指した。

 ペリーの黒船の威力を見せ付けられた時から、江戸幕府は世界経済の威力の前に没落していくことを運命づけられていた。そして、この封建的体制の没落と共に、それまで誇らしげに栄えてきた江戸文化、そして日本の伝統的な価値観がひっくり返されることも避けられなかった。
 しかし、日本人の中には、新しい力の前にいち早くひれ伏し、明日の利益のために、昨日までの生き方をあっけなく捨ててしまうような順応性(いや、むしろ、レミング的な集団変心)を示すような者が多くいた一方で、今までの生き方に誇りを持っているがゆえに、それを駆逐するような新しい時代の到来を何とか食い止めようと、命と名誉をかけて、明治政府の掲げる近代化に立ち向かって、絶望的な死闘を繰り広げた者たちがいた。映画では、それは、政府軍と闘った勝元らに代表される不平士族たちである。

 映画は、没落を運命づけられた旧い文化の側に立って、破滅に立ち向かって闘った不平士族らを主役にして描いている。つまり、『ラストサムライ』は、歴史的勝者の物語ではなく、敗者の側に立った物語なのだ。

 不平士族が命をかけて守ろうとした旧い文化は、武士道に集約される。
 武士道は日本人にとっての伝統的な戦さの方法であっただけでなく、人生哲学であり、美学であった。剣術は人の生き方そのものであった。何百年間と、日本では時間をかけて磨かれた方法論に基づいた戦いが行われていた。しかし、文明開化の波がこの国に押し寄せると、刀を用いた戦さは、鉄砲や大砲という、工場で大量生産された文明の利器を用いた戦争に代わり、伝統的な美学に基づいた戦さの方法は、大量破壊兵器による無差別殺人に近い戦争という、何の美学もなくロマンもない、無味乾燥な戦闘方法へと取り替えられた。

 明治維新は、一見、日本の遅れた国家体制を近代化し、風通しの悪かった日本の風土を文明開化するという進歩的な目的を成し遂げたかのように今でも宣伝されている。そして江戸時代の鎖国は、日本人の精神性に閉鎖性という負の影響を与え、日本の国際化を大きく妨げる要因となったかのように評されることが多い。だが、実際のところはどうだったのだろうか。

 実は、西欧文明文化が日本に取り入れられたのには、国の発展という表向きの理由とは別に、裏の理由があった。それは、外圧を出世の手段として利用したい日本の売国奴政治家たちが、日本の文化と政治を外国に進んで売り渡すために企んだ策略だったのである。

 先に挙げた『アメリカは日本を世界の孤児にする』の中で、著者は次のように述べている。
 「外圧の危険性を語るときに、私は幕末に黒船で日本にやってきたペリーのことに例えて説明することにしている。あのとき、いくらペリーが進んだ武器を持っていたにしても、日本に上陸してしまえば多勢に無勢で命の保障はなかった。少なくとも、ペリーが無理なことを要求してきたら、追い返すこともできたはずである。だが、それができなかったのは、日本国内に黒船という外圧を利用して幕府を転覆しようという集団がいたからにほかならない。その集団のおかげで、ペリーは丁重に迎えられて、アメリカに有利な条約を結ぶことができたのである。」  
 『アメリカは日本を世界の孤児にする』、ゴマ書房、1998年、p.80。

 トッテン氏が述べていることによれば、日本の現代政治はただアメリカなどの大国の思惑によって引きずり回され、骨抜きにされてきただけでなく、積極的に外圧に屈して国をすすんで売り渡そうとした日本の売国奴的政治家たちの策略によって駄目にされてきたのである。

 ラストサムライの冒頭でも、トッテン氏が述べたような、外圧に祖国を売り渡す売国奴大臣が登場する。産業文明、世界経済の威力という「黒船」の前に喜んで跪き、国を西欧化しようとする大臣、大村である。
 大村は天皇に影響力を持っており、ヨーロッパの優れた兵器や軍隊秩序を我が国に積極的に取り入れることによって、日本を近代化させるべきだと天皇に進言する。だが、大村の真の目的は、日本の国力をヨーロッパ並みの水準に引き上げることにはなく、西欧の軍事産業とのコネを結ぶことによって自分の政治力を確たるものにし、日本における軍事産業の発展の中で漁夫の利を得ることにあった。

 大村は確か英語を流暢に話し、タキシードを着込み、あたかもヨーロッパ的紳士のように振る舞っていたように筆者は記憶している。西洋文明の流行をいち早く取り入れたように振る舞う大村は、見かけは先駆的な人物に見えたかも知れないが、実際には、日本文化を死滅させ、日本人を死の危険に売り渡す兵器を我が国に進んで取り入れようとする売国奴であった。

 先の記事で引用した『風の谷のナウシカ』の原作でもそうだったが、野心的な政治家の手っ取り早い出世の手段は、いつでも、国民を死に追いやる兵器産業に手を染めることだ。国の安全を守るため、国防のためと言いながら、国民を最も危険にさらすような恐ろしい兵器を我が国に売りつけ、兵器産業の繁栄によって漁夫の利を得る政治家は、我が国の防衛のために働いているのではなく、己が利益のために国民の安全を売り渡している売国奴なのだ。

 『ナウシカ』ではシュワの墓所から流れ出るバイオ技術をめぐって、地上の人間が相争い、新兵器開発技術を奪い合うために戦争を繰り広げていた。シュワの墓所は人類を救済するという崇高な目的を掲げて一大宗教のメッカとなっていたが、そこに隠されているバイオ技術という英知を知る墓の守り手たちは、その技術により人類を救済するどころか、人類全体を滅ぼすような兵器を開発する知恵として、バイオ技術を少しずつ、卑しい人間に売り渡し、人間と取引することによって、その宗教勢力を保持していた。シュワの墓所が知恵をもらしたからこそ、人類には巨神兵というおぞましい兵器が開発され、トルメキアとドルクが血で血を洗う戦争を開始しようとしていたのである。  

 さて、ラストサムライに話を戻せば、大村は、日本を近代化するという名目で、ヨーロッパ式の軍隊秩序を自国に学ばせるために、欧米から軍事教官を招聘して武器の使い方を日本人に教え、日本軍に戦闘の訓練をさせようと計画していた。だが、それは日本人が世界に対抗できるだけの武力を身につけ、国際的に認められる国になるという建前とは裏腹に、武器商人の思惑に従って、日本人自身を死の危険にさらす大量破壊兵器を国に導入することを意味していた。
 武器は敵を滅ぼすことにも、我が身を滅ぼすことにも使われうる。抑止力としての武器など本当はどこにも存在しない。武器は全て使われるために存在している。

 大村の後押しにより日本にもたらされた兵器は、後になって、政府軍と不平士族の戦いという日本人同士の血で血を洗う戦争に使用されることになっただけでなく、映画には含まれていないが、その兵器産業は、やがて日本を植民地争奪戦のための帝国主義戦争という愚かな争いの泥沼の中に引きずり込んでいくことになる。

 アメリカの軍人ネイサン・オールグレンは、大村の招聘で日本軍を近代化させる仕事に携わるために来日した。大村は日本軍を世界レベルに引き上げてくれる優秀な「戦場の英雄」を雇ったつもりでいたが、彼の思惑とは裏腹に、オールグレンのような人間が雇われたことは、日本に送り込まれた欧米の軍事教官が、実際の欧米社会では、落ちぶれて使い物にもならない、屑のような人間たちであったことを意味する。

 欧米社会が自国の最新技術を日本のような小国にやすやすと売り渡すはずがない。日本が近代化するために真面目に協力するような親切心を列強が持っているはずがない。そこで、本国ではどこにも雇用の道が閉ざされたような「社会の屑」を食わせるために、欧米は日本への教官の派遣を許したというのが実態だった。

 インディアンとの闘いを勇敢に闘った英雄であると大村が盛んに持ち上げたオールグレンは、戦争後遺症としてのPTSDにかかり、トラウマを紛らすためにアル中となってやけくそに生きていた、英雄どころか、人格破綻者に近い傷痍軍人であった。

 オールグレンはかつてのアメリカ映画に盛んに登場していたような、勇敢な正義漢ではない。彼は罪悪感を抱え、トラウマに冒された弱いヒーローである。
 しかも、驚くべきことに、オールグレンの記憶の中では、インディアンとの戦争は、これまでアメリカの西部劇が誇らしげに描いてきたような、「正義の戦い」ではない。ネイサンにとって、インディアンとの戦争は、残酷な、力にものを言わせただけの、卑怯で、非道な、正義のない戦いであった。オールグレンはこの戦争に参加して、罪もない女や子供まで殺さねばならなかったことに、拭い去れない負い目を感じていた。

 オールグレンは、アメリカ人にフロンティアをもたらすという大義名分で行われた戦争が、軍人である彼の誇りを奪う、偽りの戦争だったと感じていた。南北戦争とインディアンとの戦争が、軍人としての彼に誇りを失わせた。開拓者たちが肥え太る目的のためだけに、何の美学もなく、罪なき、声なき、弱い者たちを殺し、彼らの住まいを力づくで奪い、彼らの文化を野蛮な風習として禁止し、廃止し、武力を備えた者の文化だけが正統で、優れた文化であり、強い者だけがこの地球に堂々と住居をかまえる権利があるかのようにふるまったことは、軍人の道に外れる行為であり、戦争の美学に反しているとオールグレンは感じていた。

 彼は軍人としてあるまじき卑怯な戦いを戦ったことに罪悪感を感じ、そのことで自分を恥じ、PTSDに苦しみながらも、「では、どうすればその罪の意識を払拭し、軍人としての誇りを取り戻せるのか?」という課題に、答えを出せないでいた。彼は自暴自棄になってアルコールに走り、ただ金さえもられば良いという甘い考えで、明治政府のお雇い外国人として来日した。
 
 筆者が知っている限り、アメリカ映画が「フロンティア精神」をこれほどまでに明らかに反省し、悔い改める作品を作ったのは、これが初めてである。このようなアメリカ国民の心理の大きな方向転換の陰には、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争などがあることは否めないだろう。つまり、オールグレンの罪悪感は、現代アメリカ人が、近年に参加した戦争に対して抱えている歴史的罪悪感を暗示しているのだ。

 オールグレンは日本軍の訓練に携わったが、その頃、明治政府軍は全く戦う体勢が整っておらず、近代化に対抗して攻撃をしかけて来た不平士族、勝元らの兵に敗退する。ネイサンと共に軍事教官として来日したガントは戦死し、オールグレンは捕囚となって、勝元の村に連行された。
 その後、捕虜とされたことをきっかけに、オールグレンがどのようにして勝元や村人と親しくなり、武士道の精神や、日本の伝統文化を次第に理解していくかは、映画で詳しく描かれているため、省略する。

 オールグレンは村に滞在して日本人の昔ながらの暮らしぶりを見つめているうちに、次第に、明治政府が掲げている近代化の概念が歪んでいることに気づいた。廃刀令が出され、勝元らのような士族の誇りであった帯刀は違法として禁止された。かつてオールグレンがインディアンの文化を「野蛮なもの」として排斥したように、日本に古来からあった文化は、今、時代に合わない、無秩序で、劣ったものとして、政府によって排斥されようとしていた。だが、ネイサンが実際に目のあたりにした村人たちの暮らしは、決して「劣ったもの」ではなかった。そこには独自の高い文化があり、誇りがあり、自給自足の暮らしがあり、秩序があり、人生哲学や、美学があった。技術が一人ひとりのの生き様と一体となった暮らしがあった。

 武士道は、戦術を知ることが、生きることそのものだと教えていた。ただ優れた武器を手に入れただけで、戦いの方法を知ったかのように思うことは、幼稚な考えであり、人間の思いあがり以外の何物でもない。武器は、それを持つ人の生き様と一体にならなければ意味がなく、ただ強力な武器を手に入れるだけで、人が進歩することはない。道具は、道具を使う人間の優れた人格と一体となって初めて、その力を発揮できる。人がその生き様を示すために多くの道具を手に入れることは必要ない。ただ刀の一本がありさえすれば、抱えきれない武器弾薬によって己の力を誇示するような虚しい生き方は必要ない。武器は人が力を誇示するためにあるのではなく、自分の生き様を少しでも高め、人格の錬成を目指すためにこそある。武器は自分を高め、最後の手段として使うものであって、人を一人でも多く殺すために使うものではなかった。

 オールグレンは士族との暮らしの中で、刀が人生の美学と一体になっていることに気づく。髷や、袴などの装いも人々の暮らしの欠かせない一部となっていた。だが、そのような伝統が、日本人を欧米の新しい文化にできるだけ早く慣れさせ、旧来の価値観は忘れてもらいたいと考える大村たちには都合が悪かった。大村には、日本人が刀の魅力に気づくよりも前に、欧米の武器の威力にひれ伏すことが肝心だった。日本人の目を欧米の文化の魅力に釘付けにしておかねば、新しい武器をこの国に大量に買わせることはできない。そこで大村の勢力は士族の文化を禁止し、帯刀や髷を違法としただけでなく、自分たちの文化を守ろうと政府軍に闘いを挑んでくる厄介者、勝元を暗殺しようと企んだ。

 勝元は天皇に謁見して、売国奴大臣大村が心の内で思い描いている策略をぶちまけ、彼らを信用して日本を売り渡すようなことがないようにと、天皇に忠告した。うわべは「法律を遵守することの大切さ」というきれい事を主張しながら、暗闇で刺客を送り込んで人を暗殺しようとするような大村の態度と異なり、勝元は命をかけて、相手に自分の生き様を示すことによって、自分の言葉に耳を傾けてもらおうと試みる。武力によって、相手を威嚇し、力づくで言うことを聞かせることは、武士の美学に反する。力でねじ伏せるのでなく、生き様によって影響を与えることが彼らの目的である。勝元は天皇の判断に全てを委ね、もしも提案が拒否されれば、死を選ぶことも覚悟の上であると述べる。
 だが、勝元の気迫に気圧されながらも、天皇は優柔不断さから、自分では何も決定しようとしない。

 初めはゲリラ的急襲によって明治政府軍に打撃を加えていた勝元らは、天皇への説得が失敗したことにより、大村との対決、明治政府軍との正面衝突は免れられないと悟る。だが、その頃、明治政府軍はすでにかなりの武器を手に入れ、近代的な軍隊として体勢が整い始めていた。欧米の兵器を知っているオールグレンには、刀を用いた伝統的な騎馬戦では、とても政府軍に勝てる見込みがないことが分かっていた。

 しかしそれでも勝元とオールグレンは、自分たちの生き方を否定する近代化を食い止めるために、勝ち目のない戦いにあえて赴くことを選んだ。それは、戦いに勝つことを目的とした戦争ではなく、戦いを通して、同族である日本人に自分たちの生き様の価値を見せることにより、何が本当に正しい、価値あることなのか、彼らに気づいてもらい、できるなら、日本人がそれまでに培って来た伝統文化に立ち返ってもらうことが目的であった。

 オールグレンは勝元と共に戦うために、鎧兜に身を包み、騎乗の人となって現れる。それはかつてインディアンの「劣った」文化を否定し、それを根絶する側に回ったネイサンが、今度は日本人という「新しいインディアン」の文化を理解し、擁護する側に立つことを意味した。そうすることによって、日本の土着の文化が、欧米の文化に比べて、少しも遜色ないものであり、根絶される理由などどこにもないことを、彼は身をもって証明しようとした。

 それは、過去に滅ぼしたインディアンに対するオールグレンの贖罪行為であった。彼はそれまでよりすがってきた西欧文明の優位性を否定する立場に立ち、たとえ力弱くとも、個人が自分の選んだ生き方を守ろうとするのは当然の権利であり、誰もその生き方を力づくで奪う資格など持たないことを主張しようとしていた。

 勝元ら不平士族の軍勢の前に、近代化された明治政府の軍隊がずらりと整列した。それはヨーロッパ化され、最新の武器と、一糸乱れぬ軍服と、軍隊秩序を身に着けた日本人たちの姿であった。文明開化に魅せられたお役人たちの命令に従って、刀を捨て、髷を切り、それまでの生き方を時代遅れなものとして捨て、刀の代わりに、銃を構え、美しい制服に身を包み、「当世風」のいでたちをした日本人たちだった。
 しかし、その軍隊は、よく見ると、誰も彼もがまるで人形のように同じ服装、同じ表情をしており、まるでロボット兵士が整列しているような、無味乾燥で、異様な軍隊であった。

 それは、短期間で大量に工場生産されたような、個性のない、にわか兵士から成る軍隊だった。長年かけて、剣術の腕を磨くことも、武道を学ぶこともなく、ただ銃という文明の利器を持たされただけで、生きながらの殺人兵器に仕立て上げられた人たち。
 同じ制服を着て、同じ銃を構え、人を殺すことの意味すら分からないまま、無表情に行進していく、同じ顔をした兵士たち。勝元らの目から見ると、それは軍人でもなければ、人間でさえない、ただの人間機械でしかなかっただろう…。

 筆者の目には、このロボット軍隊のような明治政府軍が、高度経済成長期の企業戦士サラリーマンたちの姿に重なり、また、就職氷河期のただ中で、黒烏のような真っ黒なスーツを着てずらりと就職面接に臨んで自己PR文を述べていた若者たちの姿に重なった。受験教育、就職戦争、どれほどの戦争が日本にこのような無表情な軍隊を作り上げてきただろうか?

 騎馬にまたがって鎧兜に身を包み、刀を構えた勝元とオールグレンは、この無表情な政府軍の前に立って、同胞の一人ひとりに向けて、無言のうちにこう訴えているかのようであった。
 「いいか、よく目を開いておれたちを見ろ、おれたちの服装を、武器を、戦い方を見ろ!
 これがおれたちの生き方なんだ! おれたちは誰にも迷惑をかけていない! 自分の信念に従って、自給自足の生活をしたいだけなんだ。
 なのに、時代に合わないというだけで、どうしてこの生き方が否定されなければならない理由があるんだ!?

 見ろ、おれたちは自分たちが作り上げた伝統を守るために、命を懸けようとしている。
 この弓も、刀も、鎧も、兜も、馬も、全ておれたちが工房で厩で丹精込めて作り上げてきたものだ。何百年もかけて、祖先から受け継いできた技術だ。

 おれたちに対抗している、軍隊のおまえらも、やっぱり、命を懸けて戦おうとしているのだろう。
 だが、考えてみて欲しい、おまえたちは、おれたちを殺すことによって、何を得るのか? 何を守ろうとしているのか?
 その制服は、その銃は、その武器は、おまえらが工房で精魂込めて作り上げたものなのか?
 そこに立って命令している上官は、おまえらを長年かけて鍛え上げてくれた人生の師匠なのか?
 おまえらを守るためなら、死んでもいいと思ってくれる勇敢な指導者なのか?

 おまえらは気づかないのか? その教官たちの生気の抜けた顔や、横柄で不遜な態度に。
 そいつらは臆病者で、命かけておまえらを守る気なんか少しもなく、自分の命令一つで、おまえらを無慈悲に死に赴かせようとしているだけなんだ!

 いいか、おれたちは、自分の生き方を守るためなら、死んでも構わないと思う。
 自分の信念を貫いて死ぬなら、それは恥ではなく、むしろ、誇りだ。
 だが、ただお上の命令に考えもなく機械のように従って、同胞であるおれたちに銃を向けているおまえらは、戦場で死んだ後に、一体、何が残るというのか…?

 答えてみて欲しい、おまえらは、西欧文明万歳と言って、西欧文明のためなら、同胞を殺し、自分も命を捨てられるというのか…?
 自分の命が、そんなことのために使い尽くされていくのを情けないと思わないのか?

 いいか、思い出せ、日本人は古来から、権力に従順で、規律をよく守る人たちだった。だが、その規律正しさは、個性を抹殺するために用いられるものではなく、むしろ、個性を守り、豊かに実現する暮らしを作るためのものだったはずではないか?

 日本人にとっての秩序とは、馬鹿馬鹿しい戦争で一億玉砕してでも、『お上万歳』と叫ぶような愚かな信仰ではなかったはずだ。
 思い出せ。武士道は、効率的に殺人をし、道具を使って人を支配するためのマニュアルではなかったはずだ。武士道は人が人として生きるための美学だった。
 
 どんな人間も、一夜にして生産されたりはしない。
 人が人として生長するために、どれほどの鍛錬を積まねばならないことか…。武士道は日本人が生きるにも死ぬにも、美学を持たせてくれた。

 道具は生き様と一体になってこそ価値があるものだ。
 なのに、強力な武器を持たされただけで、ひとかどの人間になったと思いあがっているおまえらは何者なのか? 文明の利器を巧みに扱い、外国語を流暢に話し、試験で高得点を取り、流行の粋な服装をし、ヨーロッパ式の礼儀作法を守ってさえいれば、人格が向上すると、おまえらは本気で信じているのか?

 もう一度、目を覚まして、ちゃんと自分の頭を使って考えてくれ。なぜ刀を持つことが許されなくて、銃ならば許されるんだ?
 なぜ日本人がこれまで育んできた文化や伝統が、別の文化に照らし合わせて、劣ったものとして否定されねばならないのか?
 日本人全体が、外国におもねって自国の文化を恥じ、画一化された軍隊秩序を強いられることが、この国の幸福につながると、おまえらは本気で思っているのか?
 人が自分の望む生き方をすることが、罪悪とされるような社会とは何なのだ?
 人が人に対して生き方を強制することができるとおまえらは本気で信じているのか?

 よく考えてみろ。こんな風な個性を捨て去った画一化、誇りさえ消えうせたような西欧化が日本にとって本当に望ましい道なのか。
 欧米崇拝に陥って、外国人教官の指揮の下で働かされ、日本人としての誇りを奪われてまで、外国の力の前にひざまづくことが、おれたちにとっての幸福なのか。
 
 いい加減に、気づいてくれ。産業文明の威を借りて、成金になることを夢見た財閥と政治家たちが、おれたちの文化を売り渡したんだ。奴らは日本人の従順さと適応能力を、己が利益を得るために、悪用したんだ。
 騙されるんじゃない、文明の力をかさにきて、おまえらに自国の文化を軽蔑させて、無理やり大国のやり方に従わせようとしている日本人は、おれたちの味方なんかじゃない!

 近代化のため、富国強兵のため、グローバル競争に耐えるため、日本の国際化のため、国防のため、安全のためと言って、その実、奴らはますますおまえらを殺すための武器を、この国に大量に売りつけている。そしておまえらをまるで蝿のように次々と戦争で殺していく腹づもりなんだ。
 奴らが企んでいるのは、この国の文化の破壊、この国の自立の破壊と、植民地化だ。産業文明の狙いは、人間の機械化、人間の大量生産、人間の大量使い捨てであって、それは決して、おれたちの幸福に奉仕するものじゃない!

 目を覚ませ! そんな無味乾燥な軍隊がおまえたちを幸福にしてくれることはない!
 目を覚ましてくれ! 道具を使うのは人間であって、道具が人間を使うんじゃないんだ! おれたちが力ある武器の前に跪いたが最後、その武器の所有者は、おれたちの命を最後まで使い捨てにしようと、この国を支配するだろう!
 誇りを取り戻してくれ! おれたちの人生はおれたち一人ひとりのものだ。
 どんな大義名分があろうと、おれたちが自分の人生を奪われるいわれはない。
 おまえら、誇りを取り戻すんだ! 人に人生を使い捨てられることに慣れるな!」

 勝元らは最後まで、自分の生き方を命懸けで提示することによって、政府軍にいる同胞が、自分たちの生き方に理解を示してくれるとの希望を持ち続けた。
 だが、古くさい武器しか持たない勝元らの軍を、文明の利器で武装した政府軍はあっけなく打ち破った。
 政府軍の兵士たちは初めこそ、命がけで銃を構えていたが、勝元の軍隊の隊列が崩れた後は、まるでオルゴールのネジでも回すように、銃弾を発射する機械の取っ手を、自動的に、無表情に回していただけだった。

 一人一人の人間の、命をかけた叫びが、ただのスイッチの一押し、ネジの一回しの前にあっけなく押し潰されて行った。人間一人ひとりが、ごま粒のように、すりおろされ、殺されていった。
 しかも、機械の取っ手を握っているのは、人を殺すことの意味さえ分かっていない、一夜漬けで操作マニュアルを教え込まれたにわか兵士だ。

 第一次大戦が起こった時、兵士らは大量殺戮兵器を用いた機械戦争の不合理さを初めて認識した。その時が来るまでは、あらゆる国々で、戦争はロマンとして語られ、戦争には美学があった。将軍は英雄であり、兵士らの行進は少年達の憧れの的だった。作曲家も軍隊にちなんだ曲を数多く作った。
 しかし、第一次世界大戦によって、大量破壊兵器がこの世界にもたらされた時、人が人ではなく、モノのように殺されていく戦争からは、どんな理想も、尊厳も、美学も、ロマンも奪われた。
 文明の利器は、戦場を無差別殺人の場に変えた。かつての英雄談は、戦争から消え去った。戦争は、人間の尊厳をただ貶め、人間を道具にするだけのものに変わった。

 勝元らの軍勢は政府軍にモノのように殺されていった。だが、その死が逆説的に、機械戦争の不合理さを訴えた。感情豊かな人間が、ゴマ粒以下のような最期を遂げなければならない戦いの不合理さを訴えた。
 勝元は死んでいくことによって、大量破壊兵器による大量殺戮を助長する産業文明が、人類に幸福をもたらすことはあり得ないという事実を逆説的に示そうとした。そのような戦争が「国防のため」であり、「文明開化」による進歩の成果であるという説が、真っ赤な嘘であることを示そうとした。

 政府軍の武器は不平士族を容赦なく殲滅したが、それでも、彼らの死に様が兵士らに何かを感じさせた。
 勝つために戦うのではない。殺すために戦うのでもない。ただ生きるのにも死ぬのにも、自分の生き様を一心に込めること、自分の身体と心の奥深くから沸き出て来る、自分個人の信念のありように基づいて、生きて、死ぬこと――それを目指した勝元らの人生の美学、信念が、同胞日本人の心を打った。

 兵士らは勝元らの生き様と死に様に敬意を表して、頭を垂れた。
 そしてオールグレンはこの戦いに参加したことによって、インディアンの文化を陵辱した罪悪感からようやく解き放たれて、軍人としての誇りを取り戻した。

 生き残ったオールグレンは、勝元の遺刀を、天皇に託すため天皇に謁見する。その時、映画ならではのあり得ない事件が起こった。
 あの優柔不断で幼かった天皇が、なんと、勝元らの生き様と死に様に勇気づけられて、アメリカとの条約の批准を断わったのだ。それが日本のためにならない、アメリカから押しつけられた不平等条約だと気がついて。
 その日米条約の具体的内容は、映画では不明であるが、その条約が日本の国防のためを装いながら、その実、日本を食い物にしたいだけの成り上がり者の政治家による売国的戦略であることに、天皇は気づいたようだった。

 ここで天皇が拒否した不平等条約とは、日米安保条約や、日米ガイドラインを暗に示しているものと考えられる。

 つまり、映画は我々に、あらゆる不平等条約を、勇気を持って破棄するよう教えてくれているのだ。
 日本よ、目を覚ませと言っているのだ。これ以上、アメリカのマインドコントロールに負けるな、文明開化という甘言に騙されるなと…。
 資本主義的グローバル経済は日本を幸福にしない。欧米文化崇拝は日本を幸福にしない。欧米崇拝音頭に踊らされるのをやめて、日本人は自分たちの伝統文化の価値に立ち返る必要がある。自分たちの文化の独自性に誇りをもち、自らの文化を恥じて、それを捨てようとするのをやめなければならない。なぜ日本人は明治維新からこれまで、自分に合った服装を捨てて、自分に合わない他人の衣装ばかりを借りようとするのか?
 日本人よ、誇りを取り戻しなさい。自国のためにならない押しつけ条約と、押しつけ文化を拒否するだけの勇気を持ちなさい。大量破壊兵器という「黒船」の前にあなたたちはこれ以上、跪かなくてよろしい! …映画はそう言っているのだ。

 この映画は、とどのつまり、日本人に対するアメリカ人による良心的平手打ちであった。日本を食い物にする大国の思惑と、売国奴的政治家に騙されないようにとの良心的忠告だった。
 アメリカ映画の方が、日本について、日本の政治よりはるかに自由にものを言っている。これは恥ずべきことであり、情けないことではないだろうか。

 映画は暗黙のうちに、世界経済の枠組みから落ちこぼれた人たちに希望を与えている。
 フリーター、引きこもり、ニート、パート労働者など、軍隊的な日本の学校や企業から不適格者の烙印を押され、落ちこぼれた全ての人々が、そのことで失意に陥る必要は全くないと教えてくれている。
 グローバル経済、市場原理主義という画一化した「軍隊」に入隊することが、文明開化の証であり、人生の進歩だと思ったら大間違いだ。日本を「近代化」させようと企む人たちの真の目的は、人間を大量使い捨てにし、殺人兵器をこの国に輸入し、さらに新しい兵器を売りつけるために、戦争の危険を煽り、無差別殺人のような戦争を絶え間なく起こすことにある。

 筆者は思う。日本人はこれ以上、人生を使い捨てられることに慣れてはいけない。西欧文明の利器を見せびらかされさえすれば、疑うことなく釣られるカモになってはいけない。
 たとえ「時代遅れ」と罵られ、レミングのように流行に突進する大勢と違う道を行くことになっても、人は自分が信じる生き方を守れば良いのであり、自分の生き方を他人によって奪われるいわれはないのだ。

 オールグレンの贖罪は、アメリカの贖罪にそのまま重なる。映画が主張しているのは、いかに文明の力が大きく、その威力が否定できないものであるにせよ、ただ力があるというだけで、文明の覇者が、自分の生き方を正義のように弱い人々に押しつけることは間違っているということだ。社会が「時代に会わない」と決めつけたというだけの理由で、なじみ深い伝統文化が否定されなければならない理由はない。
 価値観や文化は、力によって外から押しつけられるものではない。自分たちの中から生まれ、自分たちが育んできた来たものこそが、伝統であり、文化なのだ。

 「国際化」とか、「グローバル化」とかいうモノサシに踊らされるのはもうやめなければならない。この国にゆかりのものが、何か古くさい、時代遅れな、無価値なものだという考えを植えつけようとする人たちに騙されて、自国の文化を自ら売り飛ばして、外国文化に踊らされるのはもうやめよう。

 文化は自分たちで育むものであり、外から輸入するものではない。生き方は個人の奥深くに根ざしたものであり、外見によって整えることはできない。そして個人が確立した生き様を、外から奪う権利など誰も持ってはいないのだ。
 近代化という名目で、人間の命を使い捨てにしようとする権力者たちの甘言に、これ以上、この国の人々は騙されてはいけない。日本人は、兵器産業という黒船の前に跪くのはもうやめなければならない。そのことをアメリカ発の映画が日本人に対して警告しているのだ。

 ラストサムライは、未だ黒船信仰から目覚められないでいる日本人に対するアメリカ人による良心的平手打ちであった。

2009/02/02 (Mon) 社会問題 Comment(1)

1.世界の孤児アメリカが史上最も困難な時代に入った。

全世界から見捨てられたブッシュ政権がついに幕を閉じた。オバマ大統領の登場に時代の進歩を感じ、希望を託す人々もいる。たとえば、カウンセラー、中尾英司氏は記事の中で、「世界が変わる兆しが見え始めた」と、大統領夫妻の登場を涙さえして迎えたと述べている。

だが、「鳩のように純真」なだけでは十分でなく、「蛇のように狡猾であれ」と命じられているクリスチャンの一人として、筆者は、中尾氏の人柄のよさには感心させられながらも、それでも、オバマ政権がアメリカと世界を少しでも方向転換させてくれることに希望をつなぐことはできないと考えている。いや、むしろ、ブッシュとは対極に位置するように見えるオバマ政権の下でこそ、アメリカは史上最悪の苦難に突入することだろう。

性善説に立つ中尾氏に対して、ニヒリスト的クリスチャンである筆者は、性悪説に立ってものを考える。筆者は「時代の進歩」という言葉を信じない。ドストエフスキーが『地下室の手記』の中で述べているように、時代が進んだからと言って、人類の残虐性が少しでもおさまったことがこれまであっただろうか。いや、兵器の質が上がったことも手伝って、人類の血の河は昔に比べてますます太くなり、今や海のように流れている。なのに、なぜ人々は、時代につれて人類が進歩するなどという妄想を信じようとするのか?

Dr.Luke氏は、記事の中で次のように述べている。「この数年、私は『現代、私たちは巨大なフェイクを見せられている』と書いているが、オバマはその最終段階に選ばれた器であるようだ。」
筆者も幾度か述べてきたように、終わりの時代にあっては、悪魔は光の天使の姿でこそやって来る。私たちは見せかけの美しさだけを見て判断せず、中身をじっくり見てからでは何事も判断できない。何事に対してもしっかりと目を覚ましておくために、オバマ政権も壮大な偽装物語の一環なのではないかという疑いをあえて持ちたいと筆者は思う。

よく考えてみて欲しい。オバマ政権に時代の進歩の兆候などが、本当に感じられるだろうか?
アメリカに住んだことのある日本人は、決まって、アメリカ人の人種差別意識の抜きがたい深さに言及する。黄色人種は、白人と結婚でもしない限り、黒人以下の扱いしか受けられず、社会における劣等のステータスから決して這い上がれないそうだ。そのような人種差別意識を何百年と維持して来たアメリカの一般大衆が、ここ最近の数年間で、急に黒人大統領を望むまでに、飛躍的に市民意識を向上させ、過去の人種差別意識を自ら反省して、撤廃するに至ったなどとは到底、信じられない。

黒人でも実力があれば州知事くらいにはなれる時代なのかも知れないが、実力だけで大統領になるのはまず無理だと思われる。オバマ氏の政治家としての経歴が、大統領になるには短かすぎるように思えることも気がかりである。ウィキペディアによれば、彼は1996年にイリノイ州議会上院議員となり、2004年に合衆国上院議員。日本での国会議員にあたるアメリカ合衆国上院議員としての経歴はたった4年だ。選挙で選ばれたアフリカ系上院議員として、彼はアメリカ史上3人目であり、オバマ氏の2004年当選時点で現職アフリカ系上院議員は彼以外にいなかったそうだから、アメリカの政治社会ではいかに未だ黒人議員というものが認知されていないかがよく分かるだろう。

また、アメリカではすでに大統領選そのものが不正にしか行われなくなっており、投票の集計のための機械はたった一つの会社によって独占され、選挙は単なるパフォーマンスと化して、全てが舞台裏で画策され民意など全く反映していないとの指摘がある。

「暗いニュースリンク」記事「票がカウントされないアメリカ」では大統領選の票の集計方法に大きな問題があることが指摘され、田中宇氏による記事「不正が横行するアメリカ大統領選挙」では早くも2004年にディーボールドの機械投票システムに大きな問題があることが指摘されており、オルタナティヴ通信記事「米国大統領選挙は当選者が最初から『何者かによって決められている』」でもやはり投票システムの問題が指摘されている。そして先に挙げた「暗いニュースリンク」の記事、「2004年度大統領選挙における電子投票システム不正への関与が疑われた重要証人が事故死」によれば、ブッシュの大統領選挙の不正疑惑に関する重要な証人であった人物の不審な事故死のニュースが伝えられる。このように、大統領選の不正に関する疑惑は未だ晴れることがない。

さらに、イスラム文化圏に旅行したことのある人なら誰でも知っているだろうが、バラク、フセインという名前はイスラムの人々には馴染み深い名前だ。バラクとは、モンゴル帝国の王族にも見られた歴史ある名であり、中央アジアのアジア人やムスリムには馴染み深い。だが、イラクのフセイン元大統領をあれほどまでに悪者として敵対し、イラク戦争が事実上、終結さえしていないうちに、ムスリムを思わせるファーストネームと、フセインという名をミドルネームに持つ人物を、アメリカ国民が自国の大統領に望むほどに国民意識が変わったとは、筆者は到底、信じられないため、驚く他ない。

日本に置き換えてみれば分かりやすいかも知れない。日本には白人優位主義の他に、アジア的人種差別感情も未だ残っている。現在の日本の政界は、「李首相」、「孫首相」、「黄首相」を自分の国の総理として受け入れられるほど成熟した世界市民意識を持っているだろうか? または、「東条英機」という首相の再登場を容認できるほどに、過去は過去としてきっぱり切り離せる心境になっているだろうか?
筆者には、バラク=フセイン・オバマ大統領がアメリカに誕生したのが、アメリカ国民感情の自然な流れに基づいてのことだとはとても思えない。

これらの事実から推測するに、アメリカ人自らが黒人大統領を望むほどに時代が進んだということは全くあり得ないことだとすぐに分かるだろう。従って、オバマ氏が大統領になったのは、「民意」ではなく、舞台裏による取り決め以外にはないというのが筆者の考えだ。
だが、仮に大統領選挙そのものが不正だったとして、なぜここに来て黒人大統領がどうしてもアメリカに必要なのか?

最も大きな理由は、アメリカ国家の延命策としての看板効果だと思われる。
これまでのブッシュ政権の印象があまりにも悪かったため、アメリカは全世界から非難を浴びて、今、政策転換を迫られている。恐らく、アメリカ国民でさえ、多くはこれまでの政策からの転換を望んでいるのではないだろうか。ハリケーン、カトリーナなどの災害時に見捨てられ、サブプライムローン問題で置き去りにされ、イラク戦争で大きな犠牲を払わされたアメリカの比較的貧しい世帯は、これ以上、社会的弱者が見殺しにされない政治のあり方を望んでいるだろう。

そこで、黒人である、社会的弱者の象徴のようなオバマ氏が大統領になれば、今までアメリカ社会で打ち捨てられてきた弱者は必ず彼に期待を寄せるだろうことは誰しも想像できる。オバマ氏は演説も巧みであるし、クリスチャンから見ても、古狸の政治家と違って、「サタンの毒素にまだ全身まみれておらず」(子羊通信のザアカイ氏の言葉の不正確な引用)、道徳的に清潔そうな印象をかもし出している。

さらに、イスラム圏の人々に親しみのある名前を持つ者が大統領になれば、ブッシュ政権のイラク戦争のために、これまでさんざんアメリカ離れを起こしてきた世界中のイスラムの国々の心を少しでもつなぎとめる効果があると人は考えないだろうか。そうせざるを得ないほどに、ブッシュ政策はアメリカ内外のイスラム教徒、世界のイスラム諸国からの巨大な反発を呼び、アメリカの孤立化を促したのだとも考えられる。

オバマ氏というスターは、バラバラになりかけた民意を一つにまとめるのに大変、役立つ存在だ。彼の醸し出す弱者に優しい、道徳的に清潔な印象は、あたかもアメリカが大々的に政策の方向転換をしたように見せかけるのに非常に有益だ。キング牧師の演説が盛んに引き合いに出されるのも、キング牧師の高い宗教性、道徳的潔癖さをオバマ氏にダブらせる効果を計算づくで狙ってのことだろう。オバマ氏は墜落しかけたアメリカ政府に吸引力を持たせ、ブッシュ政権のために地に堕ちたアメリカのイメージを浄化する看板役者として、あえて担ぎ上げられたのだ。

だが実際には、オバマ政権の取り巻きを見ると、これまでのアメリカの政策と変わる予兆が全く見られないとの指摘もある。(現在の筆者の理解度を超える内容のため、コメントは差し控えるが、次の指摘などは興味深い。「真理のある民主主義を目指す社会経済論」の記事、「オバマ政権に対する鋭い分析記事」「オバマ政権の実態」。)

演説の巧みさなどは決して内心と直結しないものだ。小泉元総理も計算された演出で人を惹きつけていたし、カルト化教会に騙された人たちはよく分かっているだろうが、詐欺師ほど弁舌は巧みなものだ。これはまさかオバマ氏が詐欺師だという意味で言っているのではなく、たとえ仮に彼がどんなに高潔な人物であったとしても、背後にある人々の力と無縁では行動できないという意味だ。
言葉と行いの二つに相違がある場合、どちらが最も信用できるかと言えば、それはもちろん、行いだ。言葉だけで人を判断してはならない。

オバマ氏は今後も巧みな弁舌で民意を惹きつけるだろう。しかし、そのようにしてアメリカの大衆は、オバマ氏の演じるショーに視線を釘付けにされているうちに、気づけば、世界金融危機、戦争という苦難の中で、ジェットコースターに乗ったように振り回されるだろう。未曾有の苦難がアメリカを見舞い、その中で、オバマ氏は「皆さん、私が一緒です、必ず勝利の日が来ます、最後まで試練を耐え抜きましょう」と国民にメッセージを送り、国民を辛苦から逃げ出させないよう、「団結」と「勇気」を呼びかけるスピーカーとなる。アメリカ国民全体が、ホイップクリームのチューブのように最後まで絞り上げられるその心理的下準備のために、オバマ氏は特別に招かれたゲストなのだ。その役目が終わった時が、彼の終わりとなるだろう…。アメリカの白人優位主義的政治家はきっと誰一人、心の底では、彼をアメリカ国民の父であるとは認めていないだろうから。

第二次世界大戦の最中、戦争に参加した国々のラジオからはしきりにプロパガンダ的な内容のメッセージが流されていた。愛国心、勇気、辛苦に耐える力、などの美徳を感動的な言葉でDJが述べていた。国民はスピーカーに涙しつつ耳を傾け、ラジオ記者は国民の英雄となった。記者の役割は、とにかく国民に非道な戦争を最後まで耐えさせること、希望のない泥沼の戦争が終わるまで、「欲しがりません、勝つまでは」というスローガンで国民をまとめ、苦難から逃げ出すことを禁じることにあった。


2.娯楽番組「24」に見るアメリカの衰退ぶり

ご存知の人も多いはず、「24」というシリーズものの番組が今放映されている。アメリカにありがちなヒーロー物であるが、荒唐無稽ながらも、時事的で、迫真性がある筋書きなので愛好者も多いはずだ。このシリーズを知っている人は、番組にパーマー大統領という黒人の大統領が登場していたことをもちろん覚えておられるだろう。そしてローガン大統領がテロリストと結託して国を売り渡していた売国奴であったことや、黒人大統領パーマーが暗殺されたことも。

物語はあくまで物語、現実とは異なるものとして見なければならないが、物語が作成される裏には、製作者側の何らかの意図がある。たとえば、言論の自由のない国では、現実の社会では決して口にできないような批判を、架空の物語に託して、作者が読者に訴えようとすることはよくあるし、たとえ言論の自由がある国であっても、国民に一定の心理効果を与えることを狙って、番組が作られることもある。マインドコントロールのための番組作りは、カルト団体では常套手段だ。

筆者はものを書くことに携わってきた経験から、どうしても、物語の表ではなく、裏側に注目してしまう癖がある。視聴者の感情は、巧みな筋書きさえあれば、自在に動かすことができるということを、物語の舞台裏に回ったことのある人なら誰でも知っているはずだ。筆者の書いた稚拙な記事を通してでは、あまり納得できないかもしれないが、例を挙げれば、この記事の中でさえ、筆者は異なる文体を使い、それぞれの記事が全く異なる雰囲気をかもし出すように意図してきた。架空の物語も登場したし、性格の違う架空の人物も出て来た。まあ、あまり大した効果が生まれていない可能性はおおいにあるが…。

筆者が何を書けば、読者が増え、何を書けば、読者が減るかということも、ブログは確実に教えてくれる。「これ以上、記事を更新しません」と、筆者が今日、記事に書いたとしたら、それを信じて、明日はほとんど人が来なくなる。たとえば、前の記事に「キリスト教界のことはこれ以上書かないし、このブログもそろそろ終わる」と筆者が書いたので、キリスト教界に関心がある人々と、毎日新しい記事が見たいと願っている読者たちは、潮が引くように去って行ったようだ…。
キリスト教界のことを興味本位で調べている読者を面白がらせてあげたいというサービス精神は筆者には全くないので、読者数に関心はないが、いずれにせよ、自分の書いた内容と、人々の反応には明らかな因果関係があるということが分かった。この因果関係をきちんと理解しておれば、意図的に読者を増やしたり、減らしたり、読者の層をふるいわけたりすることが可能なのだ。

このように、計算されつくした演出効果を用いれば、人の気持ちはかなり簡単に操作することができるし、人の関心を高めたり、薄れさせたり、自分の言説に権威を持たせたり、腰を低く見せたり、笑わせたり、泣かせたり、絶望させたり、場合によっては、白を黒と言い含め、人を洗脳することさえ可能なのだ。最近はNHKの大河ドラマのように、登場人物がどんな心理状態で、どんな感情を持っているかまで、ご丁寧にBGMが解説してくれるような番組も多いが、しっかりした脚本があれば、BGMによる解説や、映像がなくても、かなりの程度、読者を内容に感情移入させることができるだろう。

こうして、創作的観点に立って見てみると、最近、アメリカのテレビ番組・映画作りのあり方が大きく変わって来ていることが分かる。

アメリカ人は長年、正義の味方、勧善懲悪のヒーローが大好きであった。かつて、アメリカ発の映画の典型的主人公は、熱血正義感で、健康な肉体を持ち、少しも後ろ暗さのない、明るい人物であった。ヒーローが罪悪感を持つようなことはまれであったし、トラウマに苛まれていたり、肉体的弱さを抱えていることもまれであった。第二次大戦の敗戦を経験し、歴史的罪悪感を抱え込む日本人の目から見れば、そのようなアメリカ型の典型的ヒーローの過剰なまでの自信やお気楽さは、非現実的、異常とさえ映るほどであった。

アメリカ国民のヒーロー好きのためだけにそうなったわけではない。ハリウッド映画産業は、「世界を救うヒーロー」のイメージをアメリカ国家そのものにダブらせることによって、アメリカを世界のリーダーとして全世界に宣伝し、アメリカ国家の良いイメージを広め、アメリカの威信を高めることに貢献してきた。特に冷戦時代はそうであったが、アメリカ映画は、世界へ向けて、アメリカの高潔で力強いイメージを宣伝するためのプロパガンダの役割を引き受けていたのである。

しかし、今日のアメリカ型ヒーローはだんだん、今までのような一枚岩の性格を持った、全く後ろ暗さのない、単純な正義漢ではなくなりつつある。むしろ、罪悪感を抱え、正義を見失い、善と悪との間で揺れ、迷いの中で生きているような、弱さを抱えた人間が頻繁に主人公に登場するようになった。(B級映画ではすでにかなり前からそうであったが、やっとアメリカ映画の主人公が全体的に普通になって来たとも言える…。)
それは「24」のジャック・バウアーもそうだし、次の記事で述べる「ラスト・サムライ」のネイサン・オールグレンにもあてはまる。

さらに、もっと驚くべきことが起こっている。アメリカでは長い間、大統領は全国民からの尊敬を集める、神聖な存在であり、国民の優れたリーダーであった。大統領の威信はアメリカの威信の象徴であり、大統領という職につくには、ただ並外れて有能であるだけでなく、人格的にも高潔であることが要求された。そのような意味で、ケネディの人気はアメリカでは未だ衰えないし、まあ、中にはクリントンのような人物や、ブッシュのような人物もいたにせよ、それでも、ブッシュ政権にあってさえ、大統領の威信は守られて来た。
現実世界ですらそうだったのだから、まして、アメリカの番組の中では、これまで、大統領という職業の高潔さ、名誉をあからさまに汚すような筋書きはほとんど見られなかった。

ところが、「24」ではローガン大統領は悪役であり、売国奴であったことが暴露され、弾劾裁判にかけられた。アメリカの番組がタブーを破って、自らアメリカの誇りである大統領の顔に泥を塗ったのである。これには驚いた。日本でも、「9.11」により国を売った男、ブッシュにローガンを重ねて見た人は多かったのではないだろうか。ひょっとすると、ブッシュを公然と非難できない人たちが、架空の筋書きに暗黙のメッセージを託したのかも知れない…。 
そして、パーマー大統領が、暗黙のうちに、オバマ氏に重なることも不気味な印象を与える。

「24」ではやたら黒人が登場することの不可解さに気づかれた方はどのくらいいただろう。これほど黒人が多数、しかも重要人物として登場する番組がこれまで他にあっただろうか? しかも登場する黒人という黒人がほとんど実に高潔な人間で、善玉で、悪役でないということが極めて不可解だ。今までハリウッドのB級、C級映画では特に、有色人種は常に悪者か、端役であった。ところが、「24」では、大統領だけでなく、弁護士など、登場する黒人たちがいずれも社会的に名誉ある立派な職業についており、重要な役割を果たし、物腰も洗練されて、言説にも信念があって、「カッコイイ」のだ。

何かの意図があって、特別に、黒人の良いイメージを視聴者に植えつけようとしてこのような配役構成になっているとしか筆者には思われなかった。とにかく、アメリカに実際に生きている黒人の大半を占める、貧しくて、教養のない、スラム街のチンピラのような人が一人として登場しないのは奇妙だ。

番組は、世界中の人種差別意識を、一挙に、短期間に排除しようとして意図的に製作されたのではないかと思われた。そのように考えると、「24」は、アメリカ初の黒人大統領を国民に受け入れさせるための心理的下準備の一つであったようにさえ思われてくる。筆者は、すでに述べたように、時代の進歩などまるで信じていないのだが、それでも、人々に時代が進歩して、人類の道徳意識が進んだかのように思わせたい者たちはたくさんいるようだ。そこで、進歩の証拠として、人種差別意識、民族的排外主義のような「野蛮な」風習は撤廃されたかのように宣伝する人々が現れるのではないか。

聖書的世界観に立つならば、そのようにして、人類の「進歩」を叫び、人類の「野蛮性」を駆逐し、やがて人類を「神の高み」にまで引き上げ、人類が「神に成り代わる」ために、争いのない社会を作ろうと、日夜、未来の幸福社会の実現に向けて、準備をしているような人たちがいる。彼らは人類の救済者を名乗るが、実質、人類の敵である。そんな人々によって建設されるのが人類最後のバベルの塔、最後のバビロンである。

(このことについて、クリスチャン・サイドから最も衝撃的な形で問題提起し、警戒を呼びかけているのは、「エレミヤの部屋」である。このサイトには筆者も大いに考えさせられるものがあった。その中の「つの笛」においては、聖書に登場する最後の大淫婦バビロン、獣の国はアメリカ国家そのものであると断言されている。

 このような主張は、アメリカのキリスト教界に疑うこともなくへ右へ倣えすることによって、これまで巨大な腐敗に落ち込んできたニッポンキリスト教界に対しては、厳しい警告となるだろう。
 しかし、筆者は思うのだが、きっと旧ソ連に暮らしていたキリスト教徒も、あの国で起こった恐ろしい現象を見ながら、これこそ聖書の言う終末の王国だと思ったに違いない。ヒトラー政権下のドイツに暮らしたクリスチャンもやはり、この国こそが聖書の言う獣の王国だと思ったに違いない。中国の文化大革命の最中にいたキリスト教徒も、この国は最後のバビロンだと思ったことだろう。今北朝鮮にいるクリスチャンもそう思っているかも知れない。
 …このように、世界史上、バビロンの飛び火現象はいくつもの国で起こって来たが、アメリカもその一つかも知れない。最後のバビロンはいまだ地球上に現れておらず、もしかすると、未来のヨーロッパ(ユーラシア大陸)に誕生する可能性が残っているのではないだろうか? もちろん、それは今のところ筆者のただの推測であるが。)

とにかく、一見、道徳的に見えるものの中に、一見、ヒューマニスティックなものの中にこそ、恐ろしい問題が隠されている。道徳的なきれい事はとことん疑ってみなければならない。現代はそういう時代である。
 

3.イラクの次は、イラン。アメリカで核が炸裂する日が近づいている。

さて話を戻せば、何より恐ろしいのは、「24」の物語の中で、核爆弾がアメリカで炸裂していることだ。筆者は驚いた。このような筋書きは、もはやアメリカ人による、アメリカに対する冒涜行為と言う他ない。番組が、アメリカの誇りである星条旗をズタズタに引き裂いて地に落としているも同然だ。

核の脅威を実体験している日本人でも、原爆被害者の心境を考えると、たとえフィクションであってさえ、他ならぬ日本でもう一度、核爆弾が使われるという生々しい筋書きを持ち出すことはためらわれる。そのような事態は誰も考えたくないし、日本人のトラウマを刺激し、心理的に容認できないため、そんなストーリーを作っても、多分、日本人読者の支持を全く得られないだろうと、作家たちは考える。

今になっても、アメリカが原爆を日本に投下したのは、倫理的な意味合いから白人に対してはとても使用できなかったので、日本人という「劣等人種」を実験台にしたのだという説が根強く存在している。
このように、白人に対しては未だ使われたことのない、人類の誇りを徹底的に陵辱する核爆弾が、他でもなくアメリカ国民に対して使われるという筋書きを、アメリカ人が自国民への娯楽番組として提供したとは、一体、何を意味するのだろうか…? 
これまでのアメリカ国民のプライドの高さ、尊大な自信、国への誇りに照らし合わせて、こんなことは、あり得ないことだ。今、アメリカの誇りがアメリカ人の手によって、引き裂かれようとしている…。

「剣を取る者は剣で滅びる」という法則に従えば、原爆という兵器を人類初に使用したアメリカが、それから60余年を経て、やがて自身が核爆弾の被害を受けることによってその威力を思い知ったとしても不思議ではない。先の記事に挙げた原爆パイロット、クロード・イーザリーも放射線被爆によって人体を冒されるという、まさに因縁としか言いようのない亡くなり方をしているのだ。
…いや、そんな宗教色の濃い、小説のようなプロット、因果応報の理由づけをあえて持ち出さなくとも、アメリカ本土に今、どれほど多くの基地や核兵器が存在しているかを考えれば、それが狙い撃ちされることは当然あり得ることだと思える。日本にあまたある原発も、沖縄の米軍基地に存在するであろう核兵器も、北朝鮮などに攻撃されれば一巻の終わりだと言われている。核兵器というものは所有しているだけで危険なのだ。

アメリカは、「9.11」を引き起こし、戦争のために自国民を売った。この先、この国が自国民に何をしたとしても不思議ではない。そして今もこの国はさらに戦争を起こしたがっている。イラクの次は、イランが標的になるだろうとの趣が強い。
たとえば、次の記事をあなたはどのようにご覧になるだろうか。

「『イスラエルに核の傘』 イラン核保有意識?オバマ氏検討と報道
2008年12月12日 朝刊東京新聞

【カイロ=浜口武司】イスラエル紙ハーレツは十一日、米国のオバマ次期大統領がイスラエルに、イランの核の脅威に対抗するため『核の傘』の提供を検討していると報じた。ウラン濃縮活動を続けるイランが核兵器を保有した場合に備えて、米軍の核抑止力による安全保障をイスラエルに広げる狙いだが、イスラエルではイランの核保有を絶対に阻止するとの“主戦論”が根強く米次期政権との溝が生じそうだ。<以下省略>」

(この新聞記事は「御一新マガジン、レスジェネ」の記事、「オバマ外交、泥沼へのロードマップ」 から引用。)


アメリカは大量破壊兵器の存在を理由に、フセイン政権下イラクに闘いを挑んだ。今また、イランの核保有という脅威を触れ回ることで、今度はイスラエルを焚きつけて戦争を起こそうとしかけているのだろうか。

恐ろしいことに、近い将来、アメリカ+イスラエルvs.イラン戦争が勃発するという危険を最も匂わせているのは、アメリカのプロテスタントのキリスト教界の聖職者の言動である。アメリカのプロテスタントのキリスト教界はかつて、イラク戦争を「聖戦」になぞらえ、こぞってブッシュ政権支持、戦争支持に回った時点で、明らかに、すでに公然とキリストを捨てて、国家の政策のお先棒をかつぎの役割へと堕落する道を選んだ。
それまでは政教分離の原則に従って、政治とは一線を画す趣が強かったキリスト教界は、イラク戦争以来、血に飢えた政府(国防総省)の利益のために、国民心理を新たな戦争へと準備させるための御用聞きの機関のようになってしまったのだ。

筆者が過去の記事の中で引用したデイビッド・ウィルカーソン氏ももはや全くその点で信用ならない人物となっていたことが判明した。筆者はよく知らずに彼の名を記事で用したことを陳謝せねばならない。
「マルコーシュ・メールマガジン」坂達也氏のレポート(2007年6月)は、デイビッド・ウィルカーソン氏の主張について次のように述べている。「彼は既にアメリカが世界のスーパーパワーである時代は過ぎ、今世界のスーパーパワーは中国に移行していると言う事実、また、既に核を保有するイランの大統領をヒトラーに匹敵する気が狂った男(マッド・マン)としてとらえ、彼が世界を大混乱に陥れることを一大使命として、今着々とその準備を進めていることを指摘しております。<中略>ウイルカーソン師は大災害が起こることは時間の問題であり、今こそクリスチャンは聖書に書かれている艱難の時が迫っていることをはっきりと認識しなければならないと説きます。」

 イランの大統領をヒトラーに匹敵する「マッド・マン」と呼び、イランがアメリカどころか世界を破滅させるために画策していると、イランの非道行為をしきりに訴えるウィルカーソン氏は、聖書に述べられている大艱難に向けてクリスチャンの心を整えているというよりは、むしろ、アメリカのクリスチャンたちの心を再び、石油利権がらみの中東でのイラン戦争に向けて整えようとしているだけではないだろうか?
 彼は再び戦争が起こることを覚悟するよう、今度こそ、アメリカ本国が「大災害」に見舞われることに準備するよう、アメリカのクリスチャンに呼びかけているだけではないだろうか?

 一体、アメリカは何人の国家元首を一方的に「マッド・マン」呼ばわりすれば気がすむのだろうか? 「世界を大混乱に陥れることを一大使命として、今着々とその準備を進めて」いたのはあなたたちの前大統領ではないのか?と言いたくなる。
 ここで、筆者も以下の記事の中で、カルト被害者救済活動をしている架空の甲師を反キリストにたとえたことを反省せねばならない。誰がキリスト者で、誰が反キリストか、最終的に判断する力を持っているのは、神ご自身のみである。そのことに敬意を払って、私たちは合理的疑いを持ちつつも、自分の判断だけで、他人に対する最終判決を出さないようにしなければならない。反キリスト、そんな言葉を個人の判断でうかつに使うからこそ、泥沼の宗教裁判が起こるのだ。

 一体、誰が他人を簡単に狂人扱いして精神病院にぶちこんだり、反キリスト扱いして火あぶりにしたり、一国を悪の枢軸呼ばわりして攻撃をしかけたりして、虚しい「正義」のための泥沼の戦争に、罪もない無関係な市民まで引きずりこんで、命を落とさせる権利など持っているだろう? 誰かが他人を「マッド・マン」と呼ぶなら、その証拠をきちんと出さなければならない。でなければただの誹謗中傷としかみなされなくて当然だ。

 確かに、反キリストや偽預言者はこの世にあまたいるだろうし、それらの人物がひどい行為を行っている場合、クリスチャンがそれを明るみに出して、「この人物は信用ならない」と、世の中に警戒を呼びかけることは必要なことだ。だが、そのことと、自分が神の使徒を名乗り、正義の人であると自称して、この世からあらゆる反キリストを駆逐するために、戦争を仕掛けて歩くことは全く別問題だ。
 浅はかな勧善懲悪を呼びかけるような運動は全く信用できない。心底、警戒が必要だ。

 核保有の疑いが昔から強かった北朝鮮の国家元首には長年、手も触れずにおきながら、中東の国家元首にだけは素早く警戒を呼びかけるアメリカ。そんな国家政策のお先棒をかついでいるアメリカのキリスト教界とは何なのだろうか…。

 「エレミヤの部屋」が早くから訴えてきたように、ニッポンキリスト教界の腐敗、カルト化のあらゆる原因は、本当に、アメリカの教界から来ているという疑いが、筆者にはかなり濃厚に感じられるようになってきた。長い間、疑いもなく聖霊派にどっぷり漬かっていた筆者は、そのような「霊的」現象を見聞きしてきただけに、ここで目を覚まし、このブログで今後、この種の問題の危険性を取り上げて行かねばならない。本当は、筆者は、カルト化の問題はもうこりごりで、できるならもう記事を書きやめたいと思っているのだが、当分、このブログを閉じられそうにない状況になって来たように思う。

 ウィルカーソン氏の主張を聞きながらも、やはり核の脅威がアメリカに迫っていると筆者は感じる。アメリカ本国が攻撃の対象となるような戦争が、少しずつ、あの国に近づいて来ているのではないだろうか。
 このような文脈に立って、以下の記事を見ると、誰しも、背筋に悪寒が走るものと思う。

「ジョージア州に用意された50万体分の棺桶」 (「神と悪魔の狭間で」の記事。内容は記事最下部を参照。)

 誰かがアメリカを、そして全世界をあざ笑っているとしか筆者には思えないのだ。売国奴的ブッシュ政権により、アメリカ大統領の威信は汚され、地に堕ちた。その上、アメリカ国民は未だイラクに娘や息子を兵士として送り続けて死なせているというのに、その戦争も終わらないうちに、今度は彼らに、バラク・オバマ氏という、一見、ムスリムと見まごうような名前を持った、黒人の「フセイン大統領」が与えられた。その「フセイン大統領」の下で、アメリカ国民はこれから何か未曾有の困難に直面しようとしている…。
 一体、この筋書きは誰が書いているのだろう? 「あざける者たち」の笑い声が耳に聞こえてくるような気がしてならない。

2009/01/24 (Sat) 社会問題 Comment(0)

キリスト教界内の問題は今、激戦を極めており、宣戦布告につぐ宣戦布告がなされている模様ですが、こちらではこれ以後、その話題はお休みしたいと思います。

アンチ・テーゼは、それ以上のものには決してなり得ませんし、役目を果たし終えると消滅していきます。何かに対して石を投げるという作業は、建設のために石を積む作業とは違います。そのことを肝に応じておくために、私はこのブログを期限付きのものにしようと決意しています。
言うべき事柄を言い終えたら、自分の生きる場所で建設作業に向かうために、新しい仕事に取りかからねばなりません。そろそろこのブログも終わりに近づいているかと思います。

キリスト教界がもし自分自身の力で襟を正すことさえできれば、個人が自分の言葉で教界を批判する必要はありません。そのような自浄能力が教界にありさえすれば、誰しも裁判に訴えられる危険性まで考慮しつつ、この教界に向けて警告を発する必要はないことでしょう。

聖職者の中には、自分に不利な情報を載せられたからと言って、あちこちで個人の立ち上げたブログを叩いている人たちが一部、見受けられますが、反論されたいならば、自分自身の責任においてブログを立ち上げるなり、HPを作るなり、新聞やパンフレットを印刷するなりされればそれで済むことです。

ところが、自分が裁判に訴えられることを恐れるがゆえに、自分個人の責任では何も発言しようとせず、他者が書いたものに便乗して匿名で人を非難するような臆病な姿勢が多々見受けられることは残念です。それは、日々講壇に立って公に人を教える聖職者には全くふさわしくありませんし、世間一般から見ても、大変、卑怯な態度と見られておかしくありません。そのような行為を個人は控えた方が良いと私は考えます。

そして、何よりも、キリスト教界の中に適切な情報公開の場がないからこそ、クリスチャン個人が自分の力で情報を公開したり、情報を入手したりせねばならない現状があるのです。キリスト教界内に、中立的で、公平な報道ができ、客観的な立場からものを言うメディアを作り上げる努力が、今後、ぜひとも必要です。

カルト撲滅のための機関を作るよりも、各教団の中で、信徒からのフィードバックをちゃんと受けつけながら、透明性ある情報公開ができる場所を設けることの方が早急に必要とされているのではないでしょうか…。

さて、最近、「キリストのみが完成者である」ということを私は強く心に憶えました。「キリストの肢体」であるキリスト者の集まりに期待する気持ちは、カルト化教会に裏切られて以後も、私の心からなかなかなくなりませんでした。今でも、組織優先ではない、自由でさわやかなクリスチャンの集まりが地上のどこかにあって欲しいという願いは消えません。

けれども、どんなに小さな集団でも、人間集団である以上、間違わないという保証はどこにもないことも事実です。自分の心の中にある非現実的で身勝手な欲望を、権威者やリーダー、またはある集団に投影し、そのかなわぬ夢のために虚しく奉仕したり、誰かを現人神のように拝するという失敗は、一度で終わりにせねばなりません。

クリスチャンがよく使う、「私たちは」という言葉が、個人的に私にはとても嫌なものに感じられます。「私たちの群れは…」、「私たちの交わりは…」、「私たちの教会は…」、「私たちの信仰は…」、「私たちの教義は…」というような文脈で、「私たち」という言葉が使われるのを何度も聞かされてきましたが、これらの表現には、どうしても、この地球上に生きる人間を、「我々」と「あなたたち」の二種類に分別し、同じ考え、同じ雰囲気、同じ嗜好、同じ主義をもった「我々」だけで団結し、それとは違った傾向を持つ「あなた」をよそに追いやってしまおうとする力が働いているように思われてなりません。

主の祈りにおいて、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と私たちが唱える時の「我ら」は、決して「私たちの団体だけ」を指すのではありません。それは人類のことであり、神を信じる全てのクリスチャンを含んでいます。それは決して、「彼ら」への対立項としての「我ら」ではありません。

人には他人と群れたいという願望があり、人が集まると団体を作ろうとする力が働きます。何とかして、傷つくことなく、安全に、群れたいとの欲求から、人は自分と異質な人間を集団から排除しようとする手段に出ることがしばしばあります。
しかし人間というものは基本的に一人ひとり、全く違うものであり、同質の者、気の合う者だけで仲良くやろうというプランは決して実現できませんし、そのような考え方は集団のあり方を健全な方向へは導かないでしょう。

主はあえて私を打ち砕くために、全く異質な集団の中に私を遣わされたことが何度かあったのだろうと思いめぐらします。けれどそのような「テスト」の中で、私は常にテストの意味さえ分からないまま、落第点を取り続けてきただろうことも想像できます。
傷つきたくない、非難されたくない、失敗したくない、嫌な思いをさせられたくないという恐れのために、何とかして安全に群れられるその保証として、同質と思われない者は極力、避けようとする行為に走ってしまいがちです。

けれどそのような「同質を求める気持ち」が、ある集団の教義となり、主義となり、思想となり、信仰告白となり、教会の建物となり、団体の名前になり、バッジになっていき、さらに、それが極端な「バッジ主義」としての民族主義やら、排外主義やらにまで発展していくのです。「同じカラー」で染まろうとする人々、他人も同じカラーに染めなければ気がすまない人たちを見る度に、私の心に沸き起こる不気味な感じは消えることはありません。

健全な交わりを望みながらも、カルト化教会という最悪の場所に「導かれ」(不信仰ゆえの部分が大きいですが、それもまた最後には主のご計画の中で統合されるであろうと信じます)、怒涛のような日々をくぐり抜けて、都会を離れ、暮らしているうちに、最近、信仰とは極めて個人的なものであって、横のつながりによって維持できる部分は信仰のほんの一部でしかないということに思い至りました。

キリスト教界内の争いを見て、何一つ信用できそうなものが見当たらず、「一体どこの誰なら信用できるんだろう?」と暗澹たる気持ちで考えた時期もありましたが、そのようなことを思っている時に、心に迫ったのは、「完成者はただキリスト一人のみである」という強い言葉でした。

「完成者はただキリストお一人である。」
そのことに気づくまで、「誰も信用できない」と考えることにためらいを感じていました。「これは信用に値しない」と、どんなに理性で結論が出ていることがあっても、どこかで、そのような究極的な結論を出すことをためらい、あるいはそのような結論を出すことは、私自身が、人を信じられない疑心暗鬼な人間であることの証明とされるのではないか、という後ろめたさを覚えることもありました。「こんなに疑ってばかりではどこに希望があるのだろう?」、「そんな考えではどんな社会にも絶望するしかないのではないか?」と、どこからか私を試みる声が内側にありました。

けれども、「キリストだけが完成者である」ということを心に留めた時、疑心暗鬼を後ろめたく思う心は消えました。誰のことも無理に信用しようとする必要などないのです。人間は皆不完全で罪深い存在でしかないことを心に留めることの方が、安易に信用することよりはるかに重要です。
信用に値する人間が見当たらなくなった時、世の中がたとえどんなに真っ暗に見えたとしても、そこで無理に笑顔を取り繕って、明るく希望に満ちた言葉をそらぞらしく述べる必要はなく、ただ完成者であるイエスだけを見上げて生きて行く姿勢があれば良いのだと、頭では分かっていたことが、心でも納得でき、疑問が晴れました。

あらゆる宗教が、世界とは「苦」であると述べています。伝道の書もそう言いますし、仏教もそう言います。以前には、毎日を何の不安もなく、明るく楽しく暮らしている人々がいると、自分もそのようにならなければいけないと思い、世界を「苦」と感じるような自分の感覚こそが、おかしいのではないかと疑うこともありました。今は「苦」であるものを、あえて「楽」であるかのように見せかけることの方がおかしいのだと思います。

興味深いことに、仏教では、悟りの境地に達せられたのは釈尊のみであるが、釈尊も未だご修行中の身としています。釈尊すら「修行中」の身であるとは、何とも、驚きではありませんか! 仏教の悟りとは何と永遠にも近いものなのでしょう!?

けれども、私はキリスト教の人格的完成も決してこれに劣るものではないと思っています。私は個人的に、生命の本質は「永遠」と「変化」にあると考えています。つまり、生命は永遠という気の遠くなる時間の中で、常に新しく変化するものなのです。

人が死ぬということはこの地球上では数少ない絶対的な事実の一つです。にも関わらず、人間には生まれつき誰一人として、死ぬことを自然に受け入れられる心境が備わっていません。人類が何万年もかけて生成と死滅を繰り返しながらも、未だ死に慣れられないでいるというのは、何とも不自然な話です。それは、そもそも人間には、神に生み出されたあらゆる生命と同じく、「永遠」を思う気持ちが備わっているからなのではないでしょうか…。

あらゆる命は永遠を目指すのです。たとえ限りあるこの地上に、期限付きで生かされているだけの存在であることをどんなに理屈では知っていても、永遠を志向することをやめられないのが、生命なのです。それは生命は本来的に永遠だからだと私は信じます。
死というものは、聖書的に見るなら、人間の堕落後に入り込んできたものであり、生命の本来的姿ではありません。

「永遠」と言うと人には何だか退屈に思われることがあります。「天国とは人間が神を永遠にたたえる場所である」と言われると、敬虔なクリスチャンでさえ、思わず「永遠に神をたたえるなんて、退屈なイメージじゃないか…」と思うことがあります。それは、人間が決して一枚の静物画の中におさまりたくない生き物だからです。人間には常に「変化」を望む気持ちがあります。人間の感覚においては、天国にも変化があって欲しいのです。

そして私は、天国にも変化があるだろうと想像します。どんなものになるかは分かりませんが、この地球上で奏でられる交響曲の第一楽章が、短調のまま壮大なフィナーレに突入し、燃え上がって終わった後で、長調の、静かで美しいメロディーが二楽章をかなで始めるのです。どんな二楽章なのでしょうか? 判断材料はほとんど与えられていません。私たちはまだ一楽章の時を生きており、それを演奏するだけで精一杯なため、先のことを知る由もありません。でもきっとそれは最高に美しい、そしてドラマチックな二楽章になるに違いありません。

生命の本質はきっと「永遠」であり、「変化」なのでしょう。そこで、生命の源である神もまた変化する存在なのではないかと私は思うのです。ここで言う変化とは、不完全なものが完全になるための変化ではありません。イエスは人格の完成者であり、神は絶対者であり、「昨日も今日も永遠に変わらない」存在です。その神が「ご修行中」であられるということはあり得ません。けれども、たとえ神がその特徴において決して変わることがない完成者であったとしても、生命の躍動という意味においては、神ですら、常に変化する存在なのではないか…と私は考えるのです。

旧約聖書において神は、ご自分の計画を「思いなおしたり」することのある方として描かれています。幼い頃、このような神の性質は私には不可解で、「全知全能の絶対者が何かを後悔するなんてあり得ない」と思っていましたが、これは聖書の神が決して静止状態になく、常に変化し躍動しながら、人間と共にこの地上にも生きている存在だからではないかと思うのです。変化するということは、言葉で言い表すのは難しいですが、「生きる」ことそのものなのではないかと思うのです。もしもそうだとすれば、最高の完成者である神ですら、人と共に苦しんだり悲しんだりしながら、時間の中を進んでいるというのに、この世に生きる人間が何らかの完成形としての静止状態(絶対的幸福)に達することなどあり得ないことになります。

そこで、未完成かつ移ろいやすい人間を浅はかに信用しろと私たちに迫ってくる何者かがいたとすれば、その人の考えは非常におかしいものだということになりましょう。

この世はそれでも「人を信用しろ、権威には服従しろ、不満ばかりを述べていないで、生きる希望を抱け、幸福を模索しろ」と、ひたすらこの世の明く軽い側面ばかりを強調し、私たちに「生きることは苦しいこと」であることを忘れさせ、ただ元気で、笑顔でいることを強制してきます。けれどそんな世の中はどうかしているのです。あらゆる宗教が言うように、世の中が「苦」であるなら、無理に世の風潮に迎合して明るく振る舞うなんて、大した矛盾です。

だからこそ、イエスは「貧しい人は幸いです」という矛盾したメッセージをクリスチャンに送っているのです。クリスチャンが神にあって「喜ぶ」とは、「私はこんなに恵まれて、こんなにもお金に不自由なく、健康で暮らせて、祝福されて、やりたいことがいっぱいあって、家族がいて、楽しい生活が送れて、感謝だ!」というような、当然の理由があっての幸せを喜ぶこととは違います。クリスチャンが「喜ぶ」とは、本当は「不幸でありながらも、苦難の中にありながらも、人間不信の中にあっても、貧しさの中にあっても、孤独であっても、虐げられて、喜ぶ理由が何一つなくとも、ただ主を見上げて喜ぶ」ということです。それは虐待に遭っても歯を食いしばって我慢し続けてそれを喜べとか、貧しさを甘んじて受けろとか、現状がどんなに理不尽でも抗議してはいけないとか、そんな意味ではありません。

どのような状況であっても、神は人間と共におられるということを、あなたたちは覚えて、生きる希望にしなさいということをイエスは言われた、私はそう解釈しています。
ですから、私たちは不幸なとき、その不幸を偽って、幸福であるかのように装う必要もなければ、楽しみが何一つないのに、無理やり笑顔を作る必要もないでしょう。ただ、そんな時にも、神がクリスチャンをお見捨てにはなっていないこと、そのことだけを喜べば良いのです。

カルト化教会での事件があってから今日まで、私が過ごした日々は、カルト化教会への絶望はもちろんのこと、カルト救済活動にも幻滅し、被害者との関わりにおいても、今ひとつ納得できない部分が残り、自己の人生においても、絶望すべき事柄が山のように毎日、積まれ、誰も、そして何一つ信用できないということを徹底的に思い知らされた日々でした。

その日々は、私という人間が十字架につけられて死んでいく日々でもありました。まず、以前から持っていた夢が死んだだけでなく、教会への期待も死んで行き、希望に満ちた信徒の交わりへの期待も死に、信仰の定義も一旦、死ななければならず、個人生活もまた微塵に打ち砕かれました。それまで維持してきた空白のない履歴書という概念にも死ななければなりませんでした。これに耐えることは非常に難しいものがありました。

最も大変だったのは、私自身がそれまで人生で培ってきた理想というものを全て捨てることでした。そしてこの記事を書く段になって、ようやく、私はカルト化牧師があのようであってはならなかったと主張する自己の理想、自己のものさし、自分のヒューマニズムに死ぬことができた気がします。

残念なことですが、私は自分の言葉によって誰一人の運命も変える力はありません。私が悪徳牧師に怒りを抱いて、彼の言語道断な行為を非難して、彼を変えようとして頑張っても、恐らく、その努力は水泡と帰すでしょう。私は虚しいことのために努力していることになります。
彼はあのままであってはならないという、自分の理想を、私は手放さねばなりませんでした。相手の失敗のためにどんなに大きな犠牲を払わされたのだとしても、自己の理想に死なねばなりませんでした。

これまで記事を書き続ける原動力となったカルト化教会への義憤を主の前に捨て去ることは、人間的にはとてもつらいことであり、理性では納得できない事柄でした。悪を野放しにして、どんな良い結果が世に生まれるというのでしょう? けれど、理性が拒否する一方で、それがぜひとも自分に必要なことであるということを心で理解することができました。

キリスト以外のものを義として認めることは、たとえそれがヒューマニズムであろうと、自分が思い描いた究極の理想であろうと、忌まわしいことなのです。

また、カルト化教会の問題で私の力になってくれなかったり、突き放すような台詞を口にした人々に対する悲しみと義憤も次第に去っていきました。
全ての人々が私と同じような、罪人の一人に過ぎず、私は彼らを糾弾することに一生を費やすべきでなく、一人ひとりの行いに応じて、主が裁かれるということだけを確信していればそれで良いのです。

こうして、自己に死ぬこと数ヶ月を経て、ようやく「十字架の閉じ込め」の中で、私という人間が再生(新生)を許されつつあることを感じます。自分で引用した文章の中にも、ヒントがありました。そう、悪は他人の中だけにあるのではない。悪は人類全体の問題である。そして自分にも、その根があるのだと。

「他人の中にある魔物と闘っているうちに、自分も魔物にならないように」という、ある犯罪者の言葉を、私は一生、気に留めておくことでしょう。事実、その通りだからです。「私は間違わない」という確信に立ったが最後、どんなクリスチャンも、それまで積み上げてきたあらゆる実績をたちまち失って、人格が崩壊していくことでしょう。

どんな集団にも情報公開の作業は確かに必要です。個人の横暴に対しては、勇気を持って抗議すべき場面が往々にしてあります。黙っているだけではいけません。個人が正義を振りかざすことが僭越だとか言って陰に隠れている場合ではありません。個人の理想など巨悪の前には無意味だとか、卑怯なごたくを述べて沈黙すべきでない瞬間が人生には多々あります。
腐敗した教会の問題を見過ごしにせず、危険な情報があれば随時、一般に公開していくことは、クリスチャンに与えられた使命の一つでしょう。

正しいと信じることを主張することに何も問題はありません。非難すべきことを非難するということに問題はありません。しかし、何か一つのあるまじき事柄に抗議するということと、その抗議を全生涯をかけて実現すべき目標、信念、主義にまで発展させて、自己の無謬性を確信しながら、「あらゆる悪との闘い」に乗りだしていくことは、全く意味が違います。

強い理想を持っている人ほど、悪を見逃せず、悪との対決が全人生の課題となってしまうようなことがしばしば起こります。中には一見、自分の人生の課題に立ち向かっているように見えても、実は、巨悪との闘いに飲み込まれて、個人としての人生を奪われているだけの場合があります。人間は一人ひとり、自分が置かれた場所で、個人の人生を生きるべきです。「苦しみのない幸福社会」を目指して、生涯、悪事と闘う選択肢を選んだ者は、そのことで自分個人の人生を押しつぶしてしまいます。そういうことは良くありません。その意味でも、教界へのアンチ・テーゼであるこのブログはもう少しすれば役目を終えるでしょう。

被害者が被害者意識を手放すのは本当に難しいことであり、ハードルの高い要求です。けれども、私たち自身の内部にも、加害者が住んでいる可能性があるということを覚えておかねばなりません。

どんな人間にも完全な義はなく、ただ悪の五十歩百歩があるだけで、私たちは神の手にある駒のような存在に過ぎません。主はそれを思いやりを持って扱って下さいますが、時に、私たちの意図に反して、火に投げ込まれたり、地面にたたきつけて粉々に打ち砕かれるようなことも起きます。

私たちは闇の世界の中を進んでいるのであり、試練を全て回避することはできません。人間の心のもたらす無限の暗闇の中で立ちすくみながら、ただ遠くに輝く十字架を見上げて涙することしかできない時があります。
『風の谷のナウシカ』の主人公の言葉を借りるなら、私たちの「生命は闇の中にまたたく光」であり、人は闇に包囲されて一生を生きることを宿命づけられた存在です。時には、私たちの生命そのものが暗闇に飲み込まれてしまったかのように光を失ってしまうこともあるでしょう。

長くなるので引用はできるだけ避けますが、原作の『風の谷のナウシカ』のラストでは、人類救済計画を推し進めるシュワの墓所の主に出会って、ナウシカが彼の救済計画に徹底的に抗議します。墓所の主の言う「汚れない人類」の姿など、人類の本当の理想ではあり得ず、完成者となることによって神に成り代わろうと願う人間の思いあがりの他の何物でもないと彼女は見破るのです。

墓所の主:「虚無だ、それは虚無だ!! お前は危険な闇だ。生命は光だ!」
ナウシカ:「ちがう、いのちは闇の中にまたたく光だ!!」

人間の命とは闇なのでしょうか、光なのでしょうか。誰の心にも闇の部分があり、人間は光とも闇ともつかない存在です。人間は不完全であり、常に発展途上にある存在です。人間のその闇の部分をないがごとくに否定して、人類を完全な存在、善なる存在、光なる存在に変えようとするシュワの墓所の計画は、非現実的なものであり、究極の理想主義によって、現実の人間を全て断罪し、否定し、根絶することにしかつながりませんでした。

他方、ナウシカにとって重要だったのは、未来の人類が汚れない姿に浄化されることではなく、現在を生きる人々が、汚れて、苦しみもだえ、屈辱と、滅びの中にあっても、なお生きることを目指すことそのものだったのです。

「苦しみや滅びは我々の一部になっている」
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」
「生命は生命の力で生きている。その朝が来るなら、私たちはその朝へ向かって生きよう。私たちは血を吐きつつくりかえしくりかえしその朝を越えて飛ぶ鳥だ!!」

 人には血を吐きながら、くりかえし越えて飛ばなければならない朝がいくつもやって来るでしょう。なぜ、これほどの苦しみが?…と思う出来事が誰の人生にも幾度かはあるでしょう。そんな時、怒りと恨みに燃えて、ただ敵の破滅を願う感情に圧倒され、魂を食いつぶされてしまう瞬間も多々あるでしょう。私たちの魂が光ではなく闇と化す瞬間です。けれど、墜落しても、血を吐いても、やっぱり、飛んで行くしかないのです。神はそのこともご存知で、私たちを哀れんで下さるでしょう。
 
 クリスチャンの生きる目的は、人類の理想が勝利して、この社会に争いと対立がなくなり、腐敗と堕落がなくなり、人間が罪汚れない存在として、神の高みに引き上げられることでは決してなく、ただ、闇にまたたく光として、キリストを見上げながら、闇の世界においてかすかでもいいから、光を輝かせながら生きていくこと、それだけなのです。

 この世にあって、決して私たちは目的地に達することはないでしょう。勝利の日が来ることさえあるかどうか、ただ墜落死してしまうのか、予測できません。
 けれども、世の光であるとは、闇の中で、土の器に入れられて、風前の灯のようにゆらめきながら、くすぶり続ける燈芯であることを指しているのです。

 悲しみを否定することではなく、悲しみと共に生きる力こそが必要なのではないでしょうか。苦しみを避けようとするのでなく、苦しみと共に生きるすべを学ぶことが必要なのではないでしょうか。怒りと敵愾心と復讐心を持っていても、それを消火できる日まで必ず主は待って下さることを信じ、忍耐強く、自分自身の復讐の刃を、実力行使として振り上げないようにしていくことが重要なのではないでしょうか。

 その朝がどんなに遠く、耐え難いものであったとしても、何千回と挑戦しているうちに、いつかきっと、乗り越えることができる日が来るかも知れません。世は苦しみの場所で、人間は汚れており、人類には希望がありません。けれども、同時に、たとえ虚無の深淵を通らされても、そこからでも神が与えられる生命には、いたわりと友情をも生み出す力が与えられているのだと信じましょう…。

 この世の闇と虚無に飲み込まれ、今なおそれにとらえられながらも、それでも、一人ひとりの生命は消すことのできない輝きをこの世に放っているのです。解放されることが目的なのではなく、生きること自体が目的なのです。生きることがすなわち、闇の中に光を輝かせることそのものなのです。 

2009/01/20 (Tue) 雑感 Comment(2)

1.日本に体制崩壊の日が近づいている。

2008年6月8日、秋葉原で派遣社員、加藤智大による無差別殺人が起きた時、とある地方都市にいた筆者にとっても、事件は他人事ではなかった。

社会の底辺に近い身分へと追いやられ、貧しい給料で、何の創造性もない末端の末端の仕事しか与えられず、そこからほとんど這い上がる見込みを持たない派遣社員たち。何の将来の希望も持たず、ただ今という時をやり過ごすためだけに、馬車馬のように働くしかない派遣社員たち。
彼らの間に渦巻く、共通した怨念のようなもの――それがあのような事件に集約されたのだということは、多くの人たちによってすでに指摘されてきた。当時、筆者自身も派遣社員の身分であったが、その職場内においても、何かしら目に見えない、言葉にならない、この先どこへ向かうやらも分からない、危なっかしい怨念のようなものが人々の間にひしひしと漂っていることが感じられた。

「日本には近い将来、組織化された若者のテロが現れるに違いない」と、秋葉原の事件当初から筆者は確信していたが、その後、元厚生省官僚の暗殺、大学教授の暗殺などが起こり、これらの個別の事件がやがて大々的な反政府的活動へと結びつき、組織的テロ活動に変わるのはほとんど時間の問題だと思われる。

今から約一年前、アキバ事件よりも数ヶ月前、筆者は帝政ロシア末期からソビエト体制の成立時点にかけてのタイムスパンをカバーする学術論文を完成させた。それを書いているうちに、現在の日本社会と、19世紀末―20世紀初頭の帝政ロシアの社会との間に非常に類似した構造があることに、気づかないわけにいかなかった。

多くの人々を貧困に陥れる、時代錯誤と言う他ないような、大きな経済的格差。
ますます開いていくばかりの貧富の差は、昔ながらの旧い体制によって生み出されたものである。だが、一つの時代の価値体系が、大多数の人々を非人間的に追いつめるようになると、旧来の体制がもたらした不平等を解消するために、新しい時代の道徳的理念を振りかざして、旧来の体制に闘いを挑む人たちが現れる。すると、古くからの価値観と、新しい時代の理念とが社会において激しくぶつかり合い、混乱を生む。

旧来の価値観が没落し、新しい価値観が登場しようとする時、時代の転換の予兆として、社会にはある共通した特徴が見られる。すなわち、伝統的な身分制度の崩壊と、全ての価値観のファジー(曖昧)化である。旧来から守られて来た伝統や、しきたりが軽視される一方で、型破りで奇抜な流行や、新しい身分制度が登場する。社会で伝統的に維持されて来た職業的身分が崩れ、人々の社会的身分が不安定化するだけでなく、ファッション、音楽、芸術など、文化の様々な分野においても、価値観の曖昧化・多様化が起こる。
いわば、社会の全ての要素が不安定化し、まるで融けてしまう寸前のチョコレートや、砕け散る直前の波頭のように、形を失って、曖昧化するのだ。

筆者は論文を書きつつ、ひしひしと思った。帝政ロシアが崩壊したように、現在の日本の社会体制も遠からず必ず崩壊するだろうと。その予兆として、終身雇用制度の崩壊や、派遣という身分の登場があるのだ。

ロシア国家の体制崩壊を見て、日本にも同様のことが起こると予見した人に、故石井絋基衆議院議員がいる。彼はソビエト体制下ロシアに留学した経験を持ち、当時の体験をもとに、日本の社会を観察した結果、日本にも必ず国家体制の崩壊が起こるだろうと予想した。
日本政府が何らかの対策をきちんと打ち出さない限り、癒着と腐敗にまみれたこの国は、やがて機能不全に陥って、崩壊し、国民は未曾有の混乱の中に投げ出されると彼は考えていた。

筆者の予測も大体、石井議員の予想と似たものである。ただし、筆者は現在の日本をソビエト体制にではなく、その一つ前の帝政ロシアに重ね合わせる。そして、現在の資本主義に基づく「帝政」が崩壊した後に、恐ろしい「社会主義政権」が到来するだろうと予測している。

現在の日本の画一化教育、集団社会、官僚政治などを指して、日本はすでに社会主義国になっていると主張する人々も多いが、筆者は、この日本社会は社会主義をこれまで一度も経験したことはないと判断している。言い換えれば、社会主義というものの恐ろしさを、日本人は現実にはまだ一度も味わったことがない。

石井議員は、日本国の崩壊を食い止めようと、政治の腐敗を正すべく活動した。彼は特に、宗教がらみの政治的腐敗というこの国のタブーに切り込んで行ったため、その結果として、闇の勢力によって謀殺されたのではないかという見方が根強い。(たとえば、弁護士紀藤正樹氏の「真相の究明に全力を」参照。)

議員としての石井氏の活動には十分な敬意を払いつつも、しかし、筆者は、今、この国の上に黒雲のように垂れ込める闇の宗教勢力とまともにぶつかり合うことは誰にも勧められない相談だと考えている。(ニッポンキリスト教界内での泥沼化した訴訟にも、クリスチャンはできるだけ近寄らないことをお勧めする。個人の力では闇の勢力全体に太刀打ちすることは到底、無理だからである。ただ神の裁きに委ねるのみ。)
石井議員が予測したような、日本の体制崩壊への歴史的流れは、個人の力によっては変えようのないものであり、防ぐ方法はない、筆者はそう考えている。


2.今後、日本では若者によるテロが増加の一途を辿ると予想される。

19世紀、帝政ロシアの社会では、国民間の経済格差があまりにも明白となっていた。当時、人口のほとんどを占めていたのは、貧しさの中に留め置かれた無学な農民であり、その上に、ほんのわずかな特権的貴族(貴族の中でも選りすぐりの富豪である上流階級)が、農民の血と汗と涙を吸い上げて成り立っていた。上流階級は全く働かないで生きていけるような人たちで構成されていた。農民には学識がなかったため、自分たちが置かれている状況の不当さを客観的に認識する能力を奪われていた。

だが、不当に抑圧されている本人がたとえ認識できなくとも、あまりにも不平等かつ時代錯誤な体制は、歴史的に、没落していくのが必然である。
このようなロシアの不平等社会に問題提起を投げかけた人々がいた。ロシアは文化的・政治的立ち遅れを解消し、農民を重いくびきから解放すべきだと叫んで、立ち上がった人々がいた。
インテリゲンツィヤと呼ばれる教養ある貴族青年男女たちであった。

インテリ(知識人)という言葉には、今日でも、権力による圧制に立ち向かう良心の人々、という意味合いが込められている。帝政ロシアでは、不公平な世の中をいかに改善すべきか、知識人は様々な方法を駆使して考えた。文筆家は自分の作品を通して、政治家は政治を通して、画家も自分の作品を通して、俳優も演技を通して、どう世の中を改善すべきか、教養人は皆それなりの方法で考え、訴えようとした…。

そのような教養ある人々の層の中から、一部、現行の体制を暴力的テロによって襲撃し、体制ごと破壊してしまうべきだと考える人々、革命家が現れた。
だが、そのような考えを持つ革命家、活動家は、インテリの中のごくわずかであった(いや、革命家はインテリではないという見方もあるだろう。)また、革命家の中にも、暴力否定論者もおり、テロの擁護者は革命家全体の中のごく一部であった。

帝政を崩壊させて農民を解放することを目的として、19世紀ロシアに最初に起こされた大がかりな政治的反乱であるデカブリストの乱を起こしたのも、教養ある貴族青年たちであった。この反乱は鎮圧され、参加者は大量に処罰されるだけに終わった。

20世紀に入ると、ロシアには反体制的な思想傾向を持つ人々が非常に増加して行った。それは当時のロシア政府がいかに、経済格差を是正し、国民的不満を抑えるのに無能だったかをよく物語っている。政府は国民の経済格差を解消するために何ら有効な策を打ち出さないままで、ただ言論の自由を封じ込め、反政府的な思想傾向を持つ者たちを手荒に処罰することだけに専念した。こんな荒っぽい政策を推進する政府が国民から愛想を尽かされ、支持を得られないのは当然のことであった。

弱体化した政府に、各方面から、国民が襲いかかった。
(外国からもまた打撃が加えられたが、今はそのことは脇に置いておく。)

貴族のみならず、町人、商人などのあらゆる社会層に革命家が現れるようになった。警察に追われ、亡命して潜伏し、偽名を使い、職業を偽り、逮捕や流刑の恐怖と隣り合わせで暮らしながら、命懸けで、自分の命を地下活動に捧げるような筋金入りの活動家たちが多数、現れた。それらの活動家の中には、現在のイスラム原理主義の自爆テロ犯のように、信念のためなら命も惜しまず、どんな行為にでも飛び込んでいく、狂信者のような職業的テロリストたちが含まれていた。

20世紀初頭のロシアは、このような筋金入りの革命家や、狂信的テロリストたちがのべつまくなしに大臣や官僚、議員などを殺害する混乱した世の中になっていた。初め、テロリストは非常に高潔な信念(?)に基づいて、限定されたテロだけを実行していたが、テロの暴走、泥沼化と共に、テロは何の志もない、ただの無差別殺人とほとんど変わらないものにまで落ちぶれた。

社会全体に殺人が蔓延したが、当時、ロシア世論はこの殺人に対して感覚麻痺していた。暗殺に対する危機感はほとんどなく、それどころか、悪評高い大臣が殺された折には、世論はそのニュースに歓喜していたくらいであった。

自分たちの代わりに、悪代官を成敗してくれるテロリストに、大衆は同情的だった。テロがあると人々は胸のすくような思いさえ味わった。このような懲罰ムード、浅はかな勧善懲悪に基づく私刑を容認、歓迎していれば、やがてどんなに恐ろしい世の中が到来するか、大衆は分かっていなかった。

極左テロリストがいるかと思えば、極右テロリストもいた。「革命を起こそう」と呼びかける極左勢力の傍らには、「お国のために、皇帝陛下のために命を捧げよう」とする右翼勢力も現れた。両者がターゲットとみなした人々に法律を無視してリンチを加え、闘争が泥沼化した。

最近、日本では厚生省元官僚が暗殺されたが(この事件の真相は謎に包まれているが、それはさておき)、この事件に対する国民の反応は、上記の帝政ロシアの大衆のテロに対する歓迎的なムードを筆者に思い起こさせる。新聞報道などの公式発表を除き、ネット上などの世論では、元官僚の暗殺に対する抗議がほとんどなく、むしろ「さんざん不正を働いて来た官僚が殺されるのは自業自得」というムードが強かった。

日本の世論は、官僚が殺されてもそれに同情できないほどに、現政府に飽き飽きしている。次の段階になれば、大衆自らがテロを望むまでになるだろう。
自民党が民主党と政権交代をすれば世の中は変わる、ということに期待をつないでいる人が、今やほとんど見られなくなった。そんな小手先の対策ではおさまりがつかないほどに、怒りと不満が国中に渦巻き、誰も彼もが政府に愛想をつかしている。年金問題や、警察の裏金作りの問題を始めとして、国家機関の要となる組織がこれほどまでに大がかりな不正と癒着にまみれてしまえば、もはや政府の建て直しは不可能で、一旦更地にするしかないという見方もあるだろう。

弱腰の態度を取り続けている政府は、将来、革命的蜂起によって打倒され、解体されてしまう危険性が大いにある。


3.大政奉還が有効に機能すれば、革命と内乱は回避できるかも知れない。

だが、それにしても、歴史上、日本にはこれまで革命というものは一度も起こったことがない。それには、革命を起こすほどに日本人が市民としての成熟した自覚を持たなかったという理由もあるだろうが、他に、日本の歴史においては、政治的混乱が収集がつかなくなると、いつでも内乱を防ぐために、平和的な解決手段として、「天皇への大政奉還」が持ち出されて来たという理由もある。

江戸幕府の終焉もそうであるが、弱体化して没落しつつある政治勢力が自ら撤退する代わりに、天皇に政権を返還し、天皇が新しい政治勢力を任命することによって、平和的に権力の委譲が行われるのが日本史の常であった。そうしておけば、流血を避けて、平和裏に政権が交替できるからだ。
「大政奉還によるリセット」、これにより、どんなに政治が混乱しようとも、日本史は流血の革命を回避して来られたのである。

第二次世界大戦後、日本を占領したアメリカも、この大政奉還の驚くべき「リセット効果」に注意を払った。もしもGHQが天皇を戦争責任者として追求し、天皇が処刑されるようなことがあったならば、日本国民は求心力を失って、戦争の責任を互いになすりつけあって、万人の万人に対する闘争としての内乱へ突入していたかも知れない。

実際に、多くの旧植民地諸国では、第二次大戦後も長い間、政治的混乱が続いた。経済は荒廃したままで、同士討ち的な内乱が絶えず、民主主義は機能せず、国土の復興が遅れた。

だが、日本では、天皇という求心力が取り払われなかったことにより、驚くほどの短期間で、国民は戦争のショックから立ち上がり、(戦争の記憶をリセットし)、経済復興した。
東京裁判で責任者として裁かれたのは、軍国主義を政策として推進してきた政府であり、天皇ではなかった。こうして、軍国主義という政治勢力が敗退し、見えない形で、天皇に再び権力が返還され、天皇は差し戻された権力に基づいて、新しい民主主義的勢力を任命した。

つまり、戦争終結もまた一つの目に見えない「大政奉還」であったと考えることが可能である。
アメリカは、占領下の日本を早く復興させて、そこから経済的利益を得たかった。そのために、あえて天皇制というリセット・システムを残して、日本国民をまとめるための求心力として機能させたと考えられる。

だが、いつでも混乱を収拾する方法として、大政奉還が可能かどうかは分からない。もしも今後、世界同時不況がより一層日本人を圧迫するようになり、そこに明治維新のような形で、何らかの革命的騒乱が起きたと仮定し、さらに、天皇の登場による平和的解決が失敗した場合、残る選択肢は、国民同士が相争う流血の内戦のみとなる。
それはアメリカなどの外国勢力の軍事的介入による鎮圧を招くであろうし、そのような外国勢力の排除を謳って、日本にも、ミャンマーのような軍事政権が樹立したり、あるいは排外的民族主義政権が成立してしまう危険がある。

とにかく、未曾有の経済危機を乗り越えるにあたり、一体、日本がどんな策を講じるのか、誰の目にもまだ不明である。それに、今のところ、現政府を打ち倒すほどに強力な政治勢力もまだ登場してはいないように見える。だが、このまま政治的・経済的混乱が続くと、日本にも近い将来、組織化されたテロが出現し、無能な政府の排斥を掲げて、政府要人に打撃を加えることが予想される。国民を暴徒化させないために、政府が平和的解決策を打ち出すことが、今、早急に必要とされている。


4.大量失業をきっかけに、国民の不満が全国的な暴動につながる危険性がある。

国民の暴徒化という意味において、最も大きな火種を抱えているのは、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる30代世代だ。20代で就職氷河期に直面して正社員になる機会を失い、以後、アルバイトや派遣社員という低い身分で食いつないできたロスジェネ世代が、今、人口の中核となる年齢に差しかかっている。
社会の中で、これまでいわば捨て駒とされて来た世代だが、彼らはまだ若く、強力な潜在的なパワーを持っていると見られる。この世代が、世界不況を機に、今後、一大勢力として結集する可能性は大いにある。

2009年度半ばまでに首を切られる予定となっている労働者の数は異常なほど多い。もしも、これらの人が一斉に路頭に迷うようなことがあれば、即、失業者が暴徒化して革命的な騒動に走りかねない。政治も思想もへったくれもなく、ただ今日の宿と明日の食い扶持を求める本能だけに基づいて、人々が闘争に走るかも知れない。
もしそのようなことが起きた場合、暴徒化した失業者が怒りの矛先を向けるのは、当然、それまで自分たちを苦しみの中に捨て置いてきた政府や、官僚、政治家、富裕なサラリーマン世代だろう。全国で一揆、商店街への襲撃、焼き打ちなどの騒乱が起きない保証はない。

かつて団塊の世代によって引き起こされた学生運動は、学内でしか力を発揮しなかったことが弱点となって、短期間に鎮圧されて終わった。だが、もしも今回の同時的失業をきっかけに、暴動が全社会的な広がりを見せるようなことがあれば、政府がそれを鎮圧するために断固たる策を講じられるかどうか分からない。

高齢化している日本社会は、今、若者たちの間に政治運動が起こっても、それを厳しく弾圧して、彼らを切り捨てることができない。若者の層を味方につけることなくして、今後、日本は国力を維持していくことができないからだ。若者を切り捨てることは、子孫断絶と、この国の破滅を意味する。

だが、もし大規模暴動が起こり、それを警察と自衛隊が食い止めることができなければ、この国は内戦状態に陥る。ゼネストが起こり、鉄道はストップし、送電は停止し、民営化された郵便局も機能停止し、全国的なストライキによって経済が麻痺状態に陥ることが考えられる。そうすれば、アメリカと北朝鮮と中国が、待ってましたとばかりに、「平和維持活動」と称して、この国に軍隊を送って来るだろう。

こんな明々白々の危険に対しても、政府は明瞭な解決策を何一つとして打ち出せていない。これではまるで暴動を起こして下さいと政府自ら国民に頼んでいるも同然である。


5.ロスジェネ世代の政治化が進んでおり、過激で急進的な政治団体が登場する危険性がある。

さて、昨年末、筆者は知人から、鳥肌実という芸人のライブが若者の間で話題となっている事実を知らされた。「欲しがりません勝つまでは」、「一億玉砕」…、そんな軍国主義時代のスローガンをちりばめた軍服を身につけ、軍国主義グッズを販売し、政治色の濃い演説で人気を集めているこの人物のもとに、派遣労働者が喜んで通っているそうだ。このことからも、筆者はこの先、日本に待ち受けている未来が相当に暗いものであることを思わざるを得なかった。

ほんの少し前まで、派遣の若者たちはジャニーズのライブなどのために惜しみなく給料を使っていた。ところが、今では右翼のようないでたちの芸人の政治色の強いアジ演説を聞くために、わざわざ金を払っている。
鳥肌氏は自称芸人であり、右翼思想の持ち主ではなく、政治的な話題は単なる話芸のネタであるとしているらしい。だが、このような芸人の登場には、それだけでは済まされない何か不穏な雰囲気を筆者は感じた。鳥肌氏を知らない人は一度、興味本位で良いので、彼の公式サイトを覗いてみられたい。

若者たちにとっては、きっと何でも良いのだろう。日頃の鬱憤を吐き出させてくれそうな集会や活動さえあれば。右翼だろうと左翼であろうと、この社会の不平等に対する怒りを吐き出すにもってこいの活動がありさえすれば、若者が手当たり次第、殺到するような時代が来つつある。

若者だけでない。今、国民全体が憤っている。「後期高齢者」として切り捨てられた年配世代も不満を抱えているし、貴重な年金を国家によって泥棒された人たちも怒っている。主婦も食品偽装に怒っている。赤ちゃんを産むために病院をたらいまわしにされる危険の中にある妊婦たちも怒っている。「障害者自立支援法」によって切り捨てられた身体障害者も怒っている。「ホワイトカラー・イグゼンプション」によって残業代をカットされようとしたサラリーマンも怒っている。ルーズソックス、ミニスカート、携帯電話、援助交際などの流行が作り出されたために、さんざん大人たちの餌食にされて来た弱い10代の少年少女たちもまた、口で言い表せない憤りを持て余している。

この社会に渦巻く行き場のない怨念のエネルギーを吸収して、巧みに政治勢力に変えようとする政治団体がこの先、必ず現れるに違いない。その団体が、民衆の不満を煽り、民衆の鬱憤を政治闘争のエネルギーへと変えて行き、民衆を剣に盾にして我が身をかばいながら、着々と自分たちの野心をかなえていき、政権の座に上りつめていく事態となることが非常に心配される。だが、もし政府がそのようなことを恐れるあまり、強硬で弾圧的な態度で国民の監視と統制に乗り出せば、より一層、支持率が落ち、政府の寿命が縮まるだけである。
このような、たまりにたまったマグマのような国民的不満に火がつき、ある日、何かのきっかけで国民全体がキレて暴走して行った場合、その恐るべき破壊のエネルギーを誰が食い止めることができようか。


6.一種の社会主義化なくして、日本は世界同時不況を切り抜けることはできない。

とにかく、今、歴史的に見て、価値観の大きな転換が起ころうとしていることは確かである。
これまで日本社会が推し進めてきた弱肉強食の市場原理主義においては、「負け組」となった人間は、貧乏のどん底に突き落とされ、周囲から軽蔑され、社会福祉制度からあぶれても、当然とみなされて来た。誰もそのような社会の最下層民をあえて救おうとする者はなかった。

不遇が嫌ならば、闘え。勉強して、良い成績を取り、良い大学に入り、良い会社に入り、会社の中で同僚に勝って、出世しろ。金儲けをしろ。有名になれ。それができないなら落ちぶれて当然だ。
それが今までの社会の価値観だった。

だが今、勝ち組よりも、負け組の方が圧倒的多数になろうとしていることにより、このような自由競争によるバランスが保てなくなった。市場原理主義そのものが悪として打ち捨てられようとしている。しかもそれが日本国内だけでなく、世界規模で起ころうとしているのだ。

競争原理の敗退は、受験競争の見直しや、「国民に犠牲を強いる構造改革」の問題が明るみに出ることによって、少しずつ進んできた。今、世界経済の成長率がゼロに落ちることによって、それに最後の一打が加えられようとしている。資本主義的市場経済によりすがった社会のあり方そのものが揺さぶられているのだ。

富の公平な分配と、高齢化社会への対応は、これまでのような市場経済における自由競争に頼っていては維持できず、社会主義的計画経済のような、国家による強制介入なくしては、成り立たないということが徐々に明白になって来ている。

このままではいずれ、多くの国民が飢え死にに追いやられる。このまま手をこまねいていたのではいけない…。
だが、富の公平な分配を行うためには、私有財産の不可侵性という考え方に手をつけるしかない。個人の私有財産に国家が何らかの形で介入し、それを個人から没収した上で、「公平に」再分配する他はない。それが分かっていればこそ、誰もがそこで恐怖を感じ、二の足を踏むのだ。

所有権、つまり、市民の私有財産の不可侵性は、資本主義の根本原則だ。もしも国家が貧しい人たちを救うためにと言って、富裕な人々の私有財産に手をつけ始めると、つまり、格差を是正するために市民の財産を没収したり、土地を国有化したり、巨額の税金などの形で、個人資産の強制的徴発を始めたりして、国家による土地と財産の再分配のようなことを行うなら、そのような社会はもはや資本主義社会ではない。

何かせねばならないと誰もが感じつつも、社会主義が到来することには誰も同意できないため、人々は口をつぐんでいる。


7.新しい時代を率いる勢力はプレカリアートであるが、彼らの作る世の中に期待できることは少ない。

日本が世界同時不況をどのような方法で切り抜けるのか、それはまだ分からない。いずれにせよ、マルクスが提唱した弁証法的歴史観が述べているように、これまで相対的に善とみなされて来た市場原理という価値観が今、没落し、悪として排斥されつつあることは確かだ。だが、それに代わって登場する新しい価値観とは何であろうか?

実は、新しい時代の価値観を知るのはそう難しいことではない。新しい価値観を知るためには、新しい時代の担い手に注目すれば良いのだ。
20世紀には、プロレタリアートの解放を掲げて、諸国で社会主義革命が起きたが、そこではプロレタリアートの解放こそが、革命を支える理念となった(現実にその仕組みが機能したかどうかは別として)。

そのような歴史に鑑みるなら、市場経済というこれまでの価値観が没落するに伴い、これまで市場経済の仕組みによって虐げられてきた社会的弱者が、新しい勢力として台頭すると考えられる。そしてこの勢力こそが、新しい時代の理念の担い手、新しい理想の体現者になるだろう。

それはつまり、これまで弱肉強食の社会によって打ち捨てられてきたニート、引きこもり、ネットカフェ難民、ワーキングプア、派遣労働者、フリーター、ポスドク、ホームレス、パラサイト・シングル、シングル・マザー、母子家庭の子どもたち、身障者などの「社会的弱者たち」が、新たに時代を率いる勢力となって台頭することを意味する。(これらの人々は、その収入の不安定さから、別名、プレカリアートとも呼ばれている。)

彼らが政治的に団結することを待たずとも、高齢化社会においては、今まで熱心に働いて来たサラリーマン世代が老後に追いやられるにつれ、否応なく、ニート世代、ロスト・ジェネレーション世代が台頭してくることは避けられない。

だが、このような予測は暗澹たる印象を我々にもたらす。新時代は、ニートと引きこもりが率いる? ニート政権ができる? 嘘だろう? ニートに、一体、どんな理想があるというんだ? 引きこもりにどんな希望があるというのだ? 彼らにどんな世の中が作れるというのだ!?

今まで社会参加の機会を奪われ続けて来たがゆえに、異なる世代に対する恨みと怒りに燃え、満足な職業訓練も受けず、場合によっては、教育も中途半端にしか受けておらず、社会経験を持たないために、人間が未成熟で、人間関係を築くことを十分に知らない者たち。
もちろん、職業訓練や、教育を受ける機会を十分に与えられなかったことは、決して、彼らの罪に帰されるべき問題ではないが、それにしても、そのことの結果として、彼らが、知識と経験の不足のために、社会を率いる即戦力とはならないことは誰にも否定できないだろう。にも関わらず、そのような人々が実権を握って、社会を動かすようになれば、どんな世が出来上がるだろうか?

…そんな世の中には、ほとんど何も期待できない。そのことはほぼ誰もが同意するだろう。ロシアのプロレタリア政権がどのような末路を辿ったかを見ても、そのことは明白だ。これまで筆者が再三に渡って訴えてきたように、政治的な弱者解放運動というものは、歴史上、初めの初めこそは解放的な輝きを発していても、結局、弱者を真実の解放に導いたことは一度もない。解放という名目で、ただ恐ろしい未来が待ち受けているだけである。

だがそれでも、このような価値観の転換、勢力の転換は、歴史的に見て、避けられないもののように筆者は感じる。市場原理主義が価値を失う以上、それによりすがって生計を立ててきた人たちが同時に権威失墜することもまた避けられない。
ワーキング・プアやロスジェネたちの不満をこれまでろくに受け止めて来なかった政府と国民に、これを防ぐ手立てはない。本当は、強い者は、弱い者をかばうためにこそ、己の権力を行使するべきであった。だが、弱い者を見捨て続けてきた強い者が、今更、平和を唱えても、誰も耳を貸さないに違いない…。


結論: それでも日本の体制崩壊は避けられない。

今、ロスジェネ世代の政治化が進んでいる。一方には、鳥肌実のような、帝政ロシア末期に現れた極右勢力、「黒百人組」を思い出させるような右翼的スローガンを利用する人々と、もう一方には、「ロスジェネ」を創刊したような左翼的な人々がある。
今は平和的に活動しているこれらの団体や人々をすぐに危険視するのは過剰反応というものだろう。だが、若者の政治化が進んでいけば、やがて思想と行動力の双方を備えたもっと先鋭的な団体が登場してくると予想される。そこから原理主義組織のようなものが出て来る可能性が大いにあるので、注意が必要である。

もしも政府が経済対策に無能であり続ければ、必ず、そのような極端で先鋭的な組織が政権を奪取しようとする日が来るだろう。大規模暴動に見舞われた日本が、軍事国家となるか、中国に占領されて属国となるのか、あるいは引きこもりとニートとワーキング・プアに率いられるプレカリアート社会主義政権が樹立することになるのか(ほとんどブラック・ジョークだ)、いずれにせよ、暗雲垂れ込めるような未来予想図があるだけである。

本来、こんな時こそ、キリスト者は社会に希望と平和を訴えるべく活動すべきなのだが、腐敗まみれで弱体化したニッポンキリスト教界には到底、そんな役目を果たす力がないことは明らかなので、クリスチャンはせめて個人の生き方を通して、少しでも世の光となるよう努力する他ない。

聖書的に見ても、神に由来する絶対的な善の他、どんな価値観も、時代と共に移り変わる相対的なものでしかないことが分かる。ある時代が寵児としてもてはやした価値も、次の時代になれば、無価値なものとして捨てられる。歴史はそのような運動を繰り返して来た。

これまで誇らしげに栄えてきた価値観全体が地盤沈下しつつあり、やがて没落していくことは避けられない。それはニッポンキリスト教界の没落であり、公的機関の没落であり、政治の没落であり、市場原理主義の没落である。あらゆる分野に渡って、社会の「模様替え」が要求されるような時代に、今、私たちは入りつつある。

横暴な支配を繰り広げてきた勢力には、近い将来、一種の歴史的制裁の斧が振り下ろされるかも知れない。どこかの教界の偽牧師のように、貧しい者を虐げ、不当に甘い汁を吸ってきた自覚のある者たちはご用心だ。
 

2009/01/17 (Sat) 社会問題 Comment(1)

「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。
彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、
主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。
彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、
『あなたは平安を得る』と言い、
また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、
『あなたがたに災いはこない』と言う。」 エレミヤ書23:16-17

「あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という
偽りの言葉を頼みとしてはならない。」 エレミヤ書7:4
 

1.カルト化教会から脱出した被害者たちは悔い改めれば主の助けを得ることができる。

私たちは神に裁かれるよりも前に、自分で自分を裁くことをせねばなりません。そうすることによって、神の怒りから未然に身を避けることができます。それができる人は幸いです。
一つ前の記事に私は自分に都合の良い嘘を書きました。訂正せねばなりません。私を含め、被害者がカルト化教会に躓いたのは、信仰に対する迫害ゆえではなく、ほとんどは自らの不信仰ゆえの出来事だったと言えるでしょう。

自分の動機をすみずみまで思い返せば、私たち被害者は純粋に主に仕えようという思いだけで、カルト化教会に通ったのではなかったことが分からないでしょうか。
神に仕えようとして教会に通ったかのように自分では信じていましたが、実際のところは、己の欲望を追い求めていただけだったのです。

もしも私たちが真実の福音を知っていたならば、あのような偽教会に躓くことはありえなかったでしょう。主とは誰であるか本当に分かっていたならば、恥知らずな偽牧者の欺瞞に騙されることなく、彼らの正体を暴くことができていたでしょう。それができなかったことが、私たちにその頃、真の信仰がなかったことを何より証拠立てています。

多くのカルト化教会では、英会話や、留学、祝福と繁栄を約束してくれる魅力的な個人預言、同世代との楽しい集会や、イベント、コンサート、学校などでの名誉ある職業などといった、訪れた人を惹きつける様々な「ご馳走」が用意されています。被害者の多くは、そのような魅力的なエサにつられてそこに取り込まれてしまいます。さらに、カルト化教会では、義理人情によって人を縛り、集団から抜け出すことを難しくしていますが、私たちの多くは、人目を気にして、はみだし者や失格者とみなされたくないばかりに、その団体に仕えました。

日本人として幼少期から、集団の中で波風立てずに立ち回るようみっちり教育されたことが、カルト化教会ではあだとなって、仕えてはならない集団に仕えるという結果を生んでしまいました。人々のための思いやりや、礼儀といった、本来、美徳となってもおかしくなかった義理人情が、カルト化教会では、神への背信へとつながっていったのです。

私たちは人の目に、神に熱心に仕える者のように見られたかったがために、奉仕にいそしみました。偽牧者や偽宣教師などの権威者から寵愛を得て、人間集団の中で脚光を浴び、人から認められたいがために奉仕をしました。人間の愛と、自分の名誉を求めるあまりに、カルト化教会での悪しき奉仕競争の深みにはまって行ったのです。

私たちは主の愛を何よりも求めたのではありませんでした。神の名を語って、神のためと言いながら、結局、神を退けてまで、人間の温もりと自己の名声を求め、味気ない日々の生活を飛躍的に彩りあるものに変えてくれそうな面白い行事を求めていたのでした。
私たちが第一としていたのは、神ではなく、「自分を喜ばせてくれる何か」でした。神を第一とすることより自分を楽しませることを優先しようとしていた私たちのその弱点、エゴイズムを、カルト化教会の権威者は巧みに見抜いて、そこを足がかりにして、私たちを餌食として行ったのです。

カルト化教会に行っていた頃の私たちは、ナルシスが水鏡に映った自分の姿に恋をしたように、自分自身がそれぞれに思い描いた夢に魅せられていただけです。
神を愛していたのではなく、自分自身の夢に魅了されて、教会に通っていたのでした。
偽牧者、偽預言者たちは、私たちが心に思い描いた夢を察知して、あたかもその夢がその教会にいればかなうかのような幻を見せ、て私たちを魚のようにやすやすと釣り上げました。
厳しい現実に忍耐をもって直面するよりも、安易に自分の夢がかなって欲しいと夢見ていた私たちは、現実を退けて、自分に都合の良い幻、カルト化教会の権威者の甘言の方を信じることを選んでしまいました。

私たちの自己中心な夢と、詐欺師たちの欲望とが出会って化学反応を起こし、悪しき一致と連帯を生み出したのです。

結局、どんなに「神のために」という名目で奉仕をしていたにせよ、私たちが仕えていた対象は、本当は、神ではなく、自分の願望、自分の夢だったと言わざるを得ません。もちろん、初めからそうだったとは言いません。教会を訪れた初めは、純粋な信仰を願っていたかも知れませんが、悪しき教会に滞在しているうちに、徐々に、人間を中心とする誤った信仰の中に導きいれられて行ったのです。
カルト化教会での生活は、とても信仰とは呼べるものでなかったことは確かです。

もちろん、当時、私たちが真の信仰を持っていなかったことの全責任が、ただ私たちだけに帰されるべきではありません。誰からも真の信仰とは何か教えてもらえず、正しい教えを求めても、偽教師にしか出会うことができず、偽りの信仰だけを教え込まれ、曲がった道に強制的に無理やり引きずられて行ったことが、私たちだけの責任であるはずがありません。そのようにして人を邪教に導きいれる偽教師、偽牧者たちの罪は、聖書的に許されないほど重いものです。

けれども、私たちは他人の罪に言及するよりも前に、まず、自分自身を省みることから始めねばなりません。どんなに他人の罪をあげつらっても、それによって、自分の罪を少しでも軽減できるわけではないのですから。

被害者の皆さん、私たちは被害者でありながら、同時に、カルト化教会の悪しき繁栄を助長していた背教の民であったということを忘れてはなりません。私たち一人ひとりの抱いた身勝手な夢、人間に対する恐れや、自己満足や虚栄心から出た奉仕が、カルト化教会の繁栄を支えていたことを忘れるわけにはいきません。権威者に逆らえないという臆病さ、人に認められたい自己顕示欲、自分が選んだものが間違っていたとは思いたくないという自己正当化の思いなどが交じり合って、あのような集団への長期間の奉仕を生んでいたのです。

今となって、背信の教会を支えていた自分自身の責任を全く放棄して、ただ「私は被害者だった」という都合の良い立場に逃げ込むことはできません。

カルト化教会に仕えた日々は、不信仰の日々であり、人間崇拝、組織崇拝という偶像崇拝、神に対する裏切り、姦淫の日々でした。このような不信仰が厳しく罰せられるのは当然のことです。
私たちがカルト化教会で得た恐ろしいまでの経験は、真実の福音を曲げて背教に仕えていた私たちへの神の御怒りの結果であり、自業自得の罰だったと言っても過言ではないでしょう。

「あなたの悪事はあなたを懲らしめ、
あなたの背信はあなたを責める。
あなたが、あなたの神、主を捨てることの
悪しくかつ苦いことであるのを見て知るがよい。
わたしを恐れることがあなたのうちにないのだ」と万軍の神、主は言われる。」
エレミヤ書2:19(以下、特に記入のないものは全てエレミヤ書からの引用。)

けれども、私たちはあの恐ろしいソドム、エジプトを脱出して、平和な生活に戻ることが出来たことを喜んでいます。そしてあの時、真実を見抜けなかった自分の愚かさを悔いています。取り返しのつかない失敗によって人生を失ってしまった日々を嘆いています。神への心からの奉仕だと思っていたものが、恐るべき背信行為であり、虚偽に加担する重大な罪であったこと、神への真心からの献身だと思っていたものが、偽牧者の私腹を肥やすための奉仕でしかなく、神が最も嫌われる偶像崇拝であった…、それらのことが分かり、これ以上ないくらいに失意落胆しています。人生の大切な時期、若さ、宝であった諸々のもの、友人、名誉、貯金、家族、職業…、あらゆる可能性と富を失って、恥をこうむって、死を思うほどの絶望に落ち込みました。

被害者は失われた自分の人生を思ってよりも、神に背いたことを思って、嘆き、何夜も泣き明かしました。正しいと信じていた信仰が、愚劣な間違いであり、裏切られて悪事に加担させられていた罪を思って、激しく泣きました。けれども、こうして、罪を認め、打ち砕かれた被害者の魂に対して、神は必ずもう一度、顔を向けて下さり、私たちのために祝福を取り戻して下さると私は信じています。

「裸の山の上に声が聞こえる。
 イスラエルの民が悲しみ祈るのである。
 彼らが曲った道に歩み、その神、主を忘れたからだ。
『背信の子どもたちよ、帰れ。
 わたしはあなたがたの背信をいやす』」3:21-22

「『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。
 わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない。
 わたしはいつくしみ深い者である。
 いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。
 ただあなたは自分の罪を認め、
 あなたの神、主にそむいて
 すべての青木の下で異なる神々に
 あなたの愛を惜しまず与えたこと、
 わたしの声に聞き従わなかったことを
 言いあらわせと、主は言われる。
 主は言われる、背信の子らよ、帰れ。
 わたしはあなたの夫だからである。<中略>
 わたしは自分の心にかなう牧者をあなたがたに与える。
 彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う」3:11-15

私たち一人ひとりが、カルト化教会に仕えたことが罪であったことを言い表しさえするならば、神は私たちの背信を癒して下さいます。これまで、私たち自身が自分から背いて捨てて来たにも関わらず、主はもう一度、私たちの思いやり深い「夫」に戻って下さると約束して下さるでしょう。
「わたしはあなたの夫だ」と主はおっしゃって下さいます。
こうして、私たちには温かい「家庭」が戻り、病気の時や悲しい時に、私たちを思いやってくれ、生涯、楽しく、忠実に連れ添う魂の伴侶が与えられるのです。


2.神は堕落したニッポンキリスト教界の偽教会と偽牧師を撃ち滅ぼされる。

けれども、エレミヤ書では、背信を悔やんでいるイスラエルにはこのように赦しの約束が与えられる一方、ユダとエルサレムにいる人々に対しては厳しい警告(バビロン捕囚の予告)が発せられています。
なぜなら、後者は、イスラエルの背信を見て、身を正すどころか、ますます増長して自分も意気揚々と背信に落ち込んで行きました。そのような人々に、神はもはや悔い改めの機会を与えておられません。彼らには神の怒りが怒涛のように降り注ぎ、とてつもない困難が待ち構えています。

私は、このユダとエルサレムの人々に対する警告が、今日のニッポンキリスト教界全体に対する象徴的な警告であると受け止めています。なぜなら、真っ先に背信に堕ちたカルト化教会が、どれほど恥と苦しみをこうむったかを実際に目の前にしているにも関わらず、その教訓に学んで我が身を正すことを全くせず、躓いた同胞に助けの手を差し伸べることもせず、相変わらずカルト化教会とすこしも変わらない拝金主義的な偽りの神学、人に優しい曲った神学だけを説き続けているこのニッポンキリスト教界に、神の恐ろしい裁きが下らないはずがないと思うからです。

「わが民のうちに悪い者があって、
 鳥をとる人のように身をかがめてうかがい、
 わなを置いて人を捕らえる。
 かごに鳥が満ちているように、
 彼らの家は不義の宝で満ちている。
 それゆえ、彼らは大いなる者、裕福な者となり、
 肥えて、つやがあり、
 その悪しき行いには際限がない。
 彼らは公正に、みなしごの訴えをさばいて、
 それを助けようとはせず、
 また貧しい人の訴えをさばかない。
 主は言われる。わたしはこのような事のために、
 彼らを罰しないであろうか。
 わたしはこのような民に、
 あだを返さないであろうか。』5:26-29

「驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている。
 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、
 わが民はこのようにすることを愛している。
 しかしあなたがたは
 その終わりにはどうするつもりか。」5:30-31 

これは今日のニッポンキリスト教界を支配する偽牧者たちの姿そのものではないでしょうか。
信者の目から隠された、教団教派の不透明な資金の流れが存在し、それによって聖職者が肥え太っています。信者の無償奉仕やなけなしの献金の上に聖職者階級があぐらをかく仕組みが全体として成り立っています。
律法は貧しい人たちややもめ、寡婦、外国人寄留者を丁寧に扱うように教えています。なのに、「みことばの奉仕者が教会から生活の糧を得るのは当然」と言いながら、その財源をみなしご同然の社会で孤立した人たちや、生きていくのもやっとの貧しい人たちの給料から出させた献金でまかなっている聖職者は、貧しい人たちを虐げていないと言えるでしょうか。貧しい者を虐げて得た富は、不義の宝と何の違いがあるでしょうか。

何人もの伝道師を侍従のように周りに侍らせ、自分では日用の雑事さえせず、お仕着せの贅沢な生活を送っている聖職者たちがいます。太鼓もちの信者に祭り上げられて、神の人のようにたたえられて自信満々になっている聖職者たちがいます。まるで牧師のファンクラブに成り下がったような教会があります。

多くの教会が、自分たちの権勢を世の中に見せ付けるためだけのビッグ・イベントに全勢力を費やしています。その虚しい興行のために信徒は骨身を削って献金や奉仕に駆け回り、へとへとです。

今日、そのような堕落した教会の忌まわしい風景は、別にカルト化教会でなくても、普通に見られるのです。神はこのうわべだけ美しく、内側は汚れきった墓のような偶像崇拝の殿堂を、不意に襲う災という形で焼きつくされないものでしょうか。

 「ベニヤミンの人々よ、
 エルサレムの中から避難せよ。
 テコアでラッパを吹き、
 ベテハケレムに合図の火をあげよ。
 北から災いが臨み、大いなる滅びが来るからである。
 わたしは美しい、たおやかなシオンの娘を滅ぼす。
 牧者たちは、その群れをひきいてきて、
 彼女を攻め、彼女の周囲に天幕を張る。<中略>

 万軍の主はこう言われる、
 『あなたがたは彼女の木を切り倒し、
 エルサレムにむかって塁を築け。
 これは罰すべき町である。
 そのうちにはただ圧制だけがある。
 井戸に新しい水がわくように、
 彼女はその悪を常に流す。
 そのうちには暴虐と破滅とが聞える。
 わたしの前に病と傷とが絶えない。<中略>

 夫も妻も、老いた人も、
 年のひじょうに進んだ人も捕えられ、
 彼らの家と畑と妻とは共に他人に渡る。
 わたしが手を伸ばして、
 この地に住む者を撃つからである』と主は言われる。
 『それは彼らが、小さい者から大きい者まで、
 みな不正な利をむさぼり、
 また預言者から祭司にいたるまで、
 みな偽りを行っているからだ。
 彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、
 平安がないのに『平安、平安』と言っている。
 彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。
 すこしも恥ずかしいとは思わず、
 また恥じることを知らなかった。
 それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。
 わたしが彼らを罰するとき、
 彼らは倒れる』と主は言われる。」6:1-15

空虚なイベントの連続、そのための無償奉仕と献金の要求という「圧制」に、信徒が苦しめられています。愛のない教会内では争いが絶えないために、「病と傷」を負って涙ながらに教会を離れる信徒が絶えません。井戸水がこんこんと湧き出るように、毎年、ニッポンキリスト教界はカルト化教会という悪を終わりなく垂れ流しています。カルト化教会の「暴虐と破滅」はこの教界を源として生み出されているのです。
カウンセリングと称して、聖職者たちは主の癒しに頼らず、「手軽に信徒の心の傷を癒そう」とします。神の愛と寛容さばかりを強調し、平安と祝福と繁栄の神学ばかりを語り、容赦なく罪を裁かれる神の聖なる怒りのことはほとんど説教で触れられません。

信徒を虐げ、貧しい者に助けの手を差し伸べず、むしろ彼らの命をむさぼり食いながら、ほとんどの聖職者がそれを「恥ずべきこと」だと思っていません。聖職者を神のように祭り上げているおべっか使いの信徒たちも、自分たちの愚かさにまるで気づいていません。こんなアイドル・タレントのファンクラブのように成り下がっている教会が主の宮を名乗る資格があるでしょうか? いや、そこに君臨しているのは権威を持った聖職者という現人神の偶像です。そんな忌むべき殿堂が主によって撃ち倒されずにおかれるでしょうか?

「地よ、聞け、見よ、わたしはこの民に災をくだす。
 それは彼らのたくらみの実である。
 彼らがわたしの言葉に気をつけず、
 わたしのおきてを捨てたからである。<略>
 あなたがたの燔祭はわたしには喜ばしくなく、
 あなたがたの犠牲もうれしくはない。
 それゆえ主はこう言われる。
 『見よ、わたしはこの民の前につまずく石を置く、
 人々は父も子も共にそれにつまずき、隣り人もその友も滅びる』6:19-21

 デイビッド・ウィルカーソン氏が著書の中で、早くから「ロックは悪魔の音楽」と訴え、賛美歌におけるロックの使用に警告を発していたにも関わらず、今日、特に聖霊派はその警告を馬耳東風と聞き流し、若者に媚びてますますロック調の新しい賛美歌を生み出しています。チャールズ・ウェスレーの作った美しい賛美歌には見向きもせず、今日の聖霊派の多くの教会の賛美歌の中では、騒々しいバンドが雄たけびを上げ、無意味で空虚な歌詞が空回りし、霊感のない、音楽とさえ言えないような単調な和音とメロディーの繰り返しが、ひたすら肉的な高揚感だけをあおります。そこには、自己満足的なエクスタシーのようなものはあっても、主の前に心鎮めて、洗練された芸術的な形式を用いて、静かに主に愛を語り、厳かに信仰告白を述べようとする調子は全く見られません。

 神はカインの捧げ物から顔を背けられたように、今日の教会の捧げる騒々しい賛美や拝金主義的な捧げ物からは顔を背けられることでしょう。今日の多くの教会は、主にとって単なる耐え難い重荷にしかなっていないのではないでしょうか。

 「見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、
 あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、
 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、
 『われわれは救われた』と言い、
 しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。
 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には強盗の巣と見えるのか。
 わたし自身、そう見たと主は言われる。<中略>
 わたしはあなたがたに、しきりに語ったけれども、あなたがたは聞かず、
 あなたがたを呼んだけれども答えなかった。<中略>
 わたしは、あなたがたのすべての兄弟、すなわちエフライムのすべての子孫を捨てたように、
 わたしの前からあなたがたをも捨てる。
 あなたはこの民のために祈ってはならない。
 彼らのために嘆き、祈ってはならない。
 またわたしに、とりなしをしてはならない。
 わたしはあなたの求めを聞かない。」7:8-16

 新約聖書を通して、神殿を商売の場に変えた人たちに対するイエスの激しい怒りを知っているにも関わらず、私たちは何度、主の宮を強盗の巣に変えれば気が済むのでしょうか? 何回同じ過ちを繰り返せば学ぶのでしょうか?
しるしと不思議と奇跡のためのクルセード、牧師と信徒の自己満足のためにだけ催される騒々しいコンサートや興行的イベント、クリスチャンの究極的な自己満足的な幻想である一億総福音化、日本全国のリバイバルを目的として果てしなく催される巨大イベントのチケットが礼拝堂で貧しい信徒にノルマのように売りさばかれています。
世界各地で震災や紛争が起きる度に、礼拝では「義捐金」が募られ、教会は集めた金を誇らしげに教団に差し出しますが、そうやって対外的に見栄を張る一方、聖職者も信徒たちも、貧しい隣人を助けるためには自分の懐から一銭も出そうとしないのです。教界の身勝手な夢幻の売買と見栄の張り合いのために、礼拝堂は公然と商売の場に変えられています。

 「我こそはクリスチャン」であるかのようにふるまいながら、貧しい者の懐から献金を盗み、富と名誉欲との姦淫にふけり、隣人を軽蔑し、祝福された人を妬みながら、絶えず互いに足を引っ張り合っている信仰者とは何者でしょうか。一つの教会内でさえ相争い、信者同士、牧師同士が絶えず分裂していがみ合っているのです。
 「主よ、主よ」と盛んに信心深い台詞を使い、もっともらしく長々と祈り、「わたしは救われた!」と豪語して、救われていない人たちを哀れんで自己満悦に浸っていながら、心の中にはいかにしてもっと金を集め、自分の権勢を拡大するかという欲望だけがあって、隣人へのいたわりや愛が全くないのです。このような人々が礼拝を捧げている対象は、神ではなく、自分の欲望という偶像です。主はそのような不信の民をどうして捨てられないことがあるでしょうか。
 そのような人たちに約束されているのは、恐ろしい裁き以外の何だと言うのでしょう?

「主は言われる、ユダの民はわたしの前に悪を行い、
 わたしの名をもってとなえられる家に、
 憎むべき者を置いてそこを汚した。
 またベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、
 むすこ娘を火に焼いた。
 わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。
 主は言われる、それゆえに見よ、その所をトペテ、ベンヒンノムの谷と呼ばないで、
 ほふりの谷と呼ぶ日が来る。
 それはほかに場所がないので、トペテに葬るからである。
 この民の死体は空の鳥と地の獣の食物となり、これを追い払う者もない。
 そのときわたしはユダの町々とエルサレムのちまたに、
 喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声を絶やす。
 この地は荒れ果てるからである。

 主は言われる、その時ユダの王たちの骨と、そのつかさたちの骨と、
 祭司たちの骨と、預言者たちの骨と、エルサレムに住む人々の骨は墓より掘り出されて、
 彼らの愛し、仕え、従い、求め、また拝んだ、日と月と天の衆群の前にさらされる。
 その骨は集める者も葬る者もなく、地のおもてに糞土のようになる。
 この悪しき民のうちの残っている残りの者はみな、わたしが追いやった場所で、
 生きることよりも死ぬことを願うようになると、万軍の主は言われる。」7:30-8:3

 教会で催される終わりない興行的催しのために、生活を圧迫されてへとへとになっている信徒の家庭は、教会のために人身御供にされていると言えないでしょうか? 奉仕に疲れ果てて、自分の子どもたちの面倒さえろくにみられないでいる親がいます。そんな家庭では、子どもたちまでが、教会での奉仕に借り出されている始末です。(児童労働は法律で禁止されているのに、教会での無償奉仕ならば良いというのでしょうか?)
 このような風景は、かつて背教に陥った人々が、自分の娘や息子たちを人身御供として偶像の神にいけにえに捧げたことと何の違いがあるでしょう? 私たちは自分の家庭を壊してまで、教会に奉仕することによって、自分の家庭をまるごと偶像にいけにえに捧げているのです! 自分の家庭や社会生活が圧迫されて、伴侶や子どもが犠牲になるような形で、教会に仕えることなど、神は「命じなかったし、考えたこともなかった」と言われるに違いありません。それなのに、聖職者は信徒たちの重い負担を知りながら、その犠牲には目をつぶって、さらに過酷な奉仕を奨励しているのです。

 このようにして自分を喜ばせるためだけの終わりなき興行という自慰行為のために信徒の生活を食いつぶしてきた教会は、いずれ、廃墟とされるに違いありません。

「牧者よ、嘆き叫べ。
 群れのかしらたちよ、灰の中にまろべ。
 あなたがたのほふられる日、
 散らされる日が来たからだ。
 あなたがたは選び分けられた雄羊のように倒れる。
 牧者には、のがれ場なく、
 群れのかしらたちには逃げる所がない。
 牧者の叫び声と、群れのかしらたちの嘆きの声が聞える。
 主が彼らの牧場を滅ぼしておられるからだ。
 主の激しい怒りによって、
 平和な牧場は荒れていく。
 ししのように彼はその巣を出た。
 主のつるぎと、その激しい怒りによって、
 彼らの地は荒地となった」25:34-38

 この警告が特別に、「牧者」に向けて発せられていることに注意しましょう。牧者が神に背くという罪のとりかえしのつかない重さをよく語っています。背信の教会が破滅するその日、信徒にはまだ逃れの道が用意されているかも知れませんが、牧者と信徒のリーダーたちは、念入りに「選び分けられ」、「逃げる所なく」追いつめられていきます。
 主は「彼らの牧場」ごと滅ぼしておしまいになります。「平和だった牧場」は、激しい主の怒りという災難の前に、崩れ落ち、廃墟となります。これは教会が詐欺にかかったり、とてつもない災害に見舞われて、破産し、教会の土地や建物さえ買収されて、聖職者が仕事を失い、未曾有の苦難を経て、群れが離散していくということを暗示してはいないでしょうか。

 偽牧者に対するエレミヤ書の厳しい警告は、何よりもエゼキエル書34章のことばと響きあっています。

「わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。
 牧者は群れを養うべき者ではないか。
 ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、
 群れを養わない。
 あなたがたは弱った者を強くせず、
 病んでいるものをいやさず、
 傷ついたものをつつまず、
 迷い出た者を引き返らせず、
 うせた者を尋ねず、
 彼らを手荒く、きびしく治めている。
 彼らは牧者がいないために散り、
 野のもろもろの獣のえじきになる。
 わが羊は散らされている。
 彼らはもろもろの山と、
 もろもろの高き丘にさまよい、
 わが羊は地の全面に散らされているが、
 これを捜す者もなく、尋ねる者もいない。
 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
 主なる神は言われる、わたしは生きている。
 わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、
 その牧者はいない。
 わが牧者はわが羊を尋ねない。
 牧者は自分自身を養うが、わが羊を養わない。
 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。
 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、
 わたしの羊を彼らの手に求め、
 彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、
 再び牧者自身を養わせない。
 またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。<中略>
 わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、
 わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。<中略>
 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、
 傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、
 肥えたものと強いものとは、これを監督する。
 わたしは公平をもって彼らを養う。」エゼキエル書34:2-16

 ニッポンキリスト教界の様々な教会では、牧師が貧しい信徒をさらに貧しさの中に追いやるような厚かましい無償奉仕と、信徒からの献金の上にあぐらをかいて、自分を肥え太らせています。自分自身は教会から最上の利益(献金からの給料)をいただきながら、信徒には残り滓さえも与えようとはしません。信徒は無償でこき使われているだけです。

 「あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、
 また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、
 これは、あまりのことではないか。
 わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、
 あなたがたの足で汚したものを、飲まなければならないのか。」エゼキエル書34:17-19

 教会の中で躓き、群れを追われるように去って行った信徒に、牧師は何の連絡も取らないことがほとんどです。自分と対立した信徒と和解の作業をしません。教会内で不祥事が起こり、あるいは日常生活のトラブルのために、弱り果てている信徒がいても、ひたすら傲慢な態度で聖句を振りかざすばかりで、傷ついた心を愛で包むことをしません。教会で躓き、教会を去って行った元信徒は、新しく行った先の教会で大きなトラブルに巻き込まれたり、あるいは信仰の灯火を失って、世間で希望のない日々を送ったりしているのに、この教界には、離散した信徒を不幸な目に遭わせないようにと、優しく声をかけて呼び戻そうとする牧師はほとんどいません。どんなに信徒が大量に教会から離脱しても、牧師は離脱者に対しては厳しく接するだけで、我が身を振り返って、至らない点を反省しようとはしません。

 おびただしい数のクリスチャンが教会に躓き、教会から離れて、仲間からもはぐれ、各地で様々な苦難の餌食となっています。その教会で洗礼を受け、信徒として認められ、共に聖餐にあずかった同胞がどれだけいなくなろうとも、教会は彼らを呼び戻そうともしません。教会は、たくさん奉仕や献金をして、金づるとなってくれそうな信徒たちだけに媚びへつらい、自分たちに隷従せず、権威者に不満を持っているような信徒には見向きもしません。聖職者たちが自分を肥え太らせるためだけに信徒を集めているのです。自分たちに利益をもたらさないような貧しい信徒、病気の信徒、心の問題を抱えた信徒を、聖職者は滅びるにまかせます。
 こんなものは群れを養う牧者ではありません。むしろ羊を食う狼が牧者に扮装しているだけです。

 主はこのような偽牧者を、必ず、敵として滅ぼすと約束されないでしょうか。偽牧者の手から信徒を救い出し、二度と信徒を強欲な聖職者たちの餌食にさせず、偽牧者たちはこれまでのように羊を食ってのうのうと生き延びることができなくなる日が来ると言われないでしょうか。偽牧者たちは失職し、偽牧場は打ち壊され、廃墟と化すのです。そして離散して弱り果てている信徒には、主みずからが牧者となって下さることが約束されます。

「わたしは彼らと平和の契約を結び、
 国の内から野獣を追い払う。
 彼らは心を安んじて荒野に住み、
 森の中に眠る。<中略>
 わたしが彼らのくびきの棒を砕き、
 彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、
 彼らはわたしが主であることを悟る。
 彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめとられることなく、
 地の獣も彼らを食うことはない。
 彼らは心を安んじて住み、
 彼らを恐れさせる者はない。
 わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。
 彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく、
 重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。
 彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、
 彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、
 主なる神は言われる。
 あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。
 わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる。」34:25-31

 主は偽教会、偽牧場、偽牧者を必ず滅ぼされます。主の怒りの前にこのような堕落した教会が立ちおおせるはずがありません。そして追い散らされて、牧者を失って、失意のうちにある信徒たちは、再び呼び戻され、強められる時が来るのです。

 …何千年も前に預言者エレミヤとエゼキエルが神から受けた啓示を、文字通りに、現代の日本の教会にあてはめることができるものかと、食ってかかる人たちもいるでしょう。このような警告を、決して自分たちに対するものとして受け止めたくない人々は、その根拠として様々な学説を振りかざすことでしょう。私は神学者ではありませんから、そのような人々と議論するつもりはありませんし、それができるだけの専門知識も持ち合わせていないことは正直に告白しておきます。

 けれども、クリスチャンが聖書を理解するのに、必ずしも神学に関する専門知識は必要ないことは、聖書が教えています。聖霊みずからが私たちに教えてくださると聖書は言います。私たちがただ素直な心でこの聖書のみことばを読む時、ここに書かれている偽牧場の姿が、今日のニッポンキリスト教界の忌まわしい姿とそのままそっくり重なることに驚かずにいられるでしょうか。
 ニッポンキリスト教界には近々、恐ろしい災いが裁きとして必ずふりかかるだろうと私は予想しています。これは、多くのクリスチャンがすでにかなり前から警告を発していることです。たくさんのクリスチャンが同じ警告を教界に向けて発している、そのことだけで、教界にはそれに耳を貸すだけの十分な根拠があると言えるのではないでしょうか。

 ニッポンキリスト教界という偽牧場の崩壊と詐欺師的な聖職者の権威失墜、――そのような恐ろしい事態が起こるよりも前に、主の前に自らの罪を悔い、これまで争って傷つけてきた隣人と和解し、二度と強欲な生活に走ることなく、主の前に襟を正して生きていくことができるクリスチャンは幸いです。

私は警告します。クリスチャンの皆さんが、カルト被害者救済活動を安易に信用しないように。
このように申し上げると、被害者側から多くの反論があるだろうと予想しています。でも、どうかすぐに結論を出そうとせずに、私の言い分を最後まで聞いて下さるようお願いします。

私は決して、カルト化教会の横暴な牧師や頑なな聖職者の側に立って、被害者の痛みを無視し、聖職者による不当な権力濫用を擁護しようとしてこれを書いているのではありません。
カルト化教会が誰からも非難されずに末永くこの世に存続することを願って、これを書いているのではありません。

私自身もカルトの被害者でしたので、被害者の痛みは想像できます。
純粋に、神に仕えようとして教会に通ったのに、教会に騙され、聖職者の権力欲のために犠牲にされた信者が、一時は死を思うほど絶望を味わったその苦しみを、私自身が知っています。

プロテスタントの教界に「カルト被害者救済活動」があったおかげで、カルト化教会からかろうじて救い出された被害者がいることを私は知っています。
十分の一どころか、五分の一献金や、食うや食わずの集団的奉仕などの酷い生活を強いられていた被害者は、もしこの活動がなかったならば、今もカルト化教会で生きるか死ぬかの絶望的な生活を強いられていたかも知れません。

けれども、カルトの被害者が一部、救い出された、その事実だけを持ってして、カルト被害者救済活動を信用してしまうのは、あまりにも浅はかな考えです。そのことを私は皆さんに警告せねばなりません。

どうか思い出して下さい。かつて、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリン、毛沢東、昭和天皇がほぼ同時期に台頭し、世界中の国々で恐ろしいファシズム、全体主義が支配していた時、ヨーロッパのほとんどの国々は戦争に巻き込まれ焦土化していましたが、唯一、本土決戦を行わなかったアメリカが、第二次世界大戦を終わらせるために大きな貢献をしました。
アメリカが原爆を日本に投下して、日本の軍国主義時代には終止符が打たれました。

アメリカが終戦のために果たした役割は大きく、日本に軍国主義時代が続いていれば、もっともっと多くの日本人が絶望的な戦争続行のために、「一億玉砕」の犠牲となって死んで行ったことでしょう。
でも、だからといって、戦争を終わらせたアメリカは、日本にとって真実の解放者であり、信頼に値するパートナー足りえたでしょうか?

同じように、アジアの国々へ行けば、今でも、旧日本軍が大陸に進出したことにより、植民地の隷属状態から解放されたと喜ぶアジア人たちに私たちは出会うことができます。でも、これらの少数のアジア人の感謝があるからといって、日本がかつて大陸で犯した残虐行為を少しでも正当化し、日本がアジア諸国にとって真実、信頼できるパートナーだったと言い切ることができるでしょうか?
いいえ、たとえ少数の人々が解放されたことが事実であるにせよ、そのために日本が取った卑劣な手段を私たちは決して正当化することはできません。

同様に、たとえ戦争を終わらせるためと言う名目であったにせよ、アメリカが日本への原爆投下という手段に出たことは、日本人にとって到底、肯定・容認できる事柄ではありません。
この原爆投下が、放射線が人体にどのような影響を与えるかを調べるための実験をかねていたことはよく知られていますし、さらに、当時、アメリカ人ですら、この原爆には疑問を持っていた人たちがいたのです。たとえば、日本に原爆を投下したパイロット、、クロード・イーザリーは後になって、この原爆投下が道徳的に見て大きな罪であり、恐るべき間違いであったと悟り、その罪悪感をアメリカ社会に向けて声を大に主張しましたが、アメリカ国家により彼は狂人とみなされて、精神病院に監禁されて社会活動の場を失いました。

そして戦後、社会主義国ソビエトと資本主義国アメリカとの間で熾烈な冷戦が繰り広げられ、アメリカは、何よりもソビエト連邦の脅威に対抗するためという名目で、軍事力を拡大し、世界平和の見張り番として力をつけていきました。
確かにソビエト連邦は人類史上稀に見るほどのひどい国でした。あらゆる悪事に手を染め、数え切れぬ無実の人々に「テロリスト」の汚名を着せて強制収容所に送り込み、そこで奴隷労働に従事させました。ソビエト体制によって不幸に追いやられた人の数は計り知れません。この体制そのものが人類の敵であったと言って過言ではありません。もちろん、天皇を現人神としていた日本の軍国主義体制も、やっぱり人類の敵であったでしょうけれども…。

けれども悪魔のような社会主義国、ソ連に対抗するためにアメリカが取った手段は、果たして正当なものだったと言えるでしょうか?
アメリカはソビエトと一緒になって世界中で民主主義を脅かす卑劣なスパイ合戦を繰り広げただけではありません。ソ連を凌駕するためといって、世界を滅ぼせるほどの軍事的脅威を身に着けました。そしてソ連崩壊後の今になっても、他国には決して自分と同等の軍事力を身に着けることを許していません。
アメリカは本土決戦をせずに(自分の身を切らずに)、世界中のあらゆる戦争に介入し、戦争という軍事産業を経済基盤として、自国の経済発展の手段としてきました。
アメリカ経済を発展させてきたその一番の原動力は、いつでも、戦争、戦争でした。

紛争解決を口実にアメリカは世界の国々に乗り込んで行き、頼まれてもいないのに、その国の監視人かつ後見人となって、その国の自治を奪い、事実上、その国を属国化してきました。
けれど、中には属国化されているのに、そのことに気づいていない愚劣な国もあります。
その最たる例が日本です。

日本は今でもアメリカに占領されています、心理的に、多分、世界中のどの国よりもひどく。アメリカによって日本は精神的に占領され、マインドコントロールされ、支配されているのです。
アメリカは日本を軍国主義から「解放してやった」と言いながら、今になっても決して日本に独立国家としてのプライドを回復させようとはしていません。

日本がアメリカに守ってもらうためとして結んだ日米ガイドラインでは、日本は有事の場合にはアメリカの「後方支援」に回ることが約束されています。このガイドラインは、一言で言うならば、アメリカが戦争をしたいと思った時、いつでも日本を戦場にして良いし、日本全土を米軍基地化して良いということを定めた取り決めです。
これはアメリカ本土を決戦の場にせず、世界の中心、アメリカ本土が被害をこうむらないように、都合よく、極東というアメリカにとってはどうでも良い最果ての国、日本を戦場にするために設けられた規則であり、やがてアメリカの思惑通りに日本国憲法が改正されれば、日本人兵士を都合よく前線で死に追いやるためにガイドラインが利用されることは疑いの余地がなく、これが日本を守るための条約ではないことは火を見るよりも明らかです。にも関わらず、それが自国を守るために設けられた約束事であるように思っている日本人は、心底、アメリカにマインドコントロールされて、自分を見失っているとしか言いようがありません。

こうしてアメリカは戦争終結やら、平和を口実にして、他国を事実上、属国化しているだけでなく、自国の兵士をも使い捨てにする政策を取っています。ベトナム戦争、イラク戦争への介入時には、アメリカ国内でも大きな反戦の議論が巻き起こりました。戦争は泥沼化し、アメリカ兵は大きな打撃をこうむりました。けれどこれらの兵士が戦争で負った後遺症に対して、アメリカはきちんとした償いをしたことがありません。

9.11の事件が、イラク戦争を無理やり導入するために、アメリカが自らでっちあげであった捏造事件であった可能性が高いことが、ネット上で指摘されています。かなり信憑性の高い情報です。もしそうだとすれば、貿易センタービルで亡くなった人たちは、アメリカの同胞によって計画的に殺されたことになります。
戦争によって肥え太ってきたアメリカは、ついに、無実の自国民を殺してまで、戦争を推し進めなければならないほどになっているのでしょうか?

アメリカがイラク戦争を引き起こす大きな口実となった「大量破壊兵器」の存在は、ついに、フセイン政権崩壊後も、裏づけが取れませんでした。
「大量破壊兵器」という忌まわしい脅威を取り除くための、つまり平和のための戦争であったと言いながら、その「脅威」は存在していたかどうかすら、今も分からないというのです。
そんな曖昧な話のために、現在、イラクの一般市民は、たとえ平和な市民のめでたい結婚式の最中であっても、花嫁、花婿も問わず無惨に殺されているのです。こんな馬鹿な話があるでしょうか。

そして9.11以降、「愛国者法」が制定されたため、アメリカ国民はこのアメリカの無茶苦茶な政策に対して異議を唱えられなくなりました。「愛国者法」は軍国主義時代の日本の「治安維持法」と機能的にはほとんど同じです。国の政策に従わない人間を「非国民」として粛清するための法律なのです。
現在、アメリカ国土には反政府的な思想傾向を持つ人間を投獄するための大がかりな強制収容所が建設されているという噂がネット上で流れています。もしそれが本当であるならば、この「自由の国」アメリカはかつて自分があれほどまでに敵対視していたソビエト連邦とほとんど同じ国にまで堕落してしまったことになります。
ついに、アメリカはかつての敵と同化してしまう一歩手前まで来ているのです。

ここには、とにかく戦争をしたい、戦争がなければ生きられない、というアメリカの死に物狂いの姿があるだけです。そしてそのようなアメリカの戦争欲は、イラク戦争によるアメリカ国民の大量の犠牲を生み出しただけでなく、ついにアメリカの内部崩壊、アメリカがこれまで経験して来なかった本土決戦(=内戦)の一歩手前まで近づいています。

闘争を糧に生きる人たちの末期症状をここに見ることができます。闘争で生きる者は、闘争なくしては生きられず、平和の中では生きられないのです。
平和のために闘争する、敵を根絶するために闘うと言いながら、彼らの中では、目的と手段が逆転し、現実に、永遠の闘争だけが目的となるのです。
平和であっては彼らは生きられないので、平和が来ないように、あえて闘争の火種を起こし続け、それを恥知らずにも「平和のために」やっているように見せかけるのです。
そうこうしているうちに、だんだん、闘いは卑劣なものとなり、最後には敵と一体化するまでに非人間的な体制が出来上がるのです。

こんな国が世界平和の守り手であるはずがありません。
そしてそのような無限の闘争本能にとりつかれた国は、やがて食い者にする相手を失って、我が身をずたずたに切り裂くところまで行き着くでしょう。

カルト化教会にいた被害者の皆さん。
一体、この話がカルト化教会の問題と何の関係があるのかと、首をかしげておられる方があるかも知れません。今、きちんと脈絡を説明しますから、待って下さい。

被害者の皆さん、皆さんが「全体主義教会」、「ファシスト教会」としか思えない恐ろしい教会の支配から助け出され、解放されたことは良いことでした。
あのまま、恐ろしい教会に皆さんが居続けた方が良かった、人生を奪われ続けていた方が良かったなどと言うつもりは私には毛頭ありません。
拝金主義的な牧師、性的に堕落した牧師、福音を曲げ、狼のように信者の金や生活をむさぼる偽牧者たち、そんな恐ろしい人たちが君臨するカルト化教会を擁護するつもりは私には微塵もありません。
そんな体制は一刻も早く崩壊すべきだと思います。

でも、だからと言って、被害者の皆さんは、あなたたちを誤った教会から助けてくれた人物を早々に救世主扱いしたり、その人が決して間違うことのない善良な人間だと心から信用するのはまだ早すぎるということにどうか気づいて下さい。

助けられたからといって、助けてくれた人の奴隷になる必要はありませんし、その人に精神や生活を支配される必要もありませんし、その人の個人的プロジェクトを生涯かけて支援し続ける必要もありません。これからの人生でもずっとその人に依存し続けて生きる必要はありません。

被害者は、自信とプライドを取り戻し、独立して、人の指図に従うのでなく、主の導きの中で、自分の人生を生きていくことが何より望ましいのです。
いつまでも誰か一人の権威者によりすがり、その人に仕え続けて、彼に絶対的な忠誠を誓って生きるのでは、カルト時代の隷属状態と何ら変わりありません。

忘れないで下さい、あなたを助けてくれた人も、間違いやすい一人の人間に過ぎないのです。
助けてもらったからといって、その人に絶対的に帰依するとか、その人のプロジェクトなら何でも賛成するといった愚かな立場を取らず、何事も色眼鏡を外して、普通の批判精神を忘れないで見るようにして下さい。

解放されたことを喜び、感謝するのは良いですが、それを解放してくれた他人のイメージの無制限な美化の根拠としたり、解放者への依存、妄信、隷従のきっかけにすることがないよう注意してください。
どんな人間をも、私たちは現人神のように祭り上げてはいけません。カルト化教会の牧師たちも、そのように信徒によって祭り上げられたからこそ、恐ろしい腐敗と権力濫用に落ち込んで行ったことを思い出さなければなりません。支える人がいないのに、一人で独裁者になれる人間はいません。
クリスチャンは決して人間不信になる必要はありませんが、あらゆる人間に対する健全な疑いを忘れてはなりません。人を神に祭り上げて無条件に信じることは偶像崇拝です。

そしてもう一つ、どうか覚えておいて下さい。闘いは政治家にとっていつでも手っ取り早い出世の手段であったことを。
戦争という軍事産業を糧に成長して来た国があるように、人間間の闘争、集団間の闘争は、いつでも、出世を望む政治家たちの格好の餌食とされてきました。

善良な人々には、想像もできないでしょうけれども、自分の権力を拡大しようとたくらむ人たちは、いつでも弱者を餌食にしてこそ台頭して来たのです。
弱者を餌食にするとは、弱者を身体的、金銭的に虐げることだけを意味せず、弱者を解放してやるという名目で、大勢の社会的弱者を味方につけて、自分の勢力拡大をはかることもまた、弱者を餌食にする手段の一つなのです。

ある運動が、弱者の痛みに同情的で、弱者の権利をたくさん擁護し、弱者の側に立っている優しい思いやりある運動のように見えるからといって、その運動が正当なものであると判断するのは早すぎます。
むしろ、歴史を振り返ると、弱者を擁護する政治運動というのは、途中で道を誤って恐ろしいファシズムに堕ちていったことの方が圧倒的に多いのです。

あのソビエト体制も、虐げられた弱い労働者を不当な搾取から解放するという名目で生まれました。
ヒトラーも、第一次世界大戦で荒廃したドイツの再興、平和を掲げて登場して来ました。
カンボジアで大殺戮を行ったポル=ポトも、やはり弱者の解放を掲げました。
旧日本軍も、植民地化されていたアジアの解放を掲げて、大陸を侵略しました。

世界中の恐ろしい非人間的体制のほとんどが「弱者の解放」という名目で台頭して来たこと、弱者を擁護するためと言って、大勢の人間に抑圧を加えて来たことを思い出しましょう。有史以来、弱者を解放せねばならないということを理由に、これまでどれほどの侵略や戦争や干渉や殺戮や占領や支配が正当化されてきたか分からないことを、私たちは決して忘れてはなりません。

「弱者の解放運動」というものは、歴史を振り返れば、恐ろしい危険をはらんだ運動だったことの方が多いのです。初めのうちは、確かにそれによって解放された人々がいたように見えたかも知れません。初めのうちは、それは人類を解放に導く夢のような改革に見えたことでしょう。けれど、そのような運動が、やがて大量殺戮を生み、日常的な戦争状態が、弱者を擁護するため、という口実で人々の生活を押しつぶしていったのです。

私たちは、弱者をかばうという言葉が持つ神々しさ、救済という言葉の美しさに惑わされることなく、どんな運動であろうと、真実をじっくり見極めるようにしなければなりません。

カルト化教会の被害者の皆さんは、自分たちに同情的に接してくれる運動だけをすぐに信用しようとする心の衝動を抑えて、感情ではなく、理性に立って、物事を判断するようにしなければなりません。
「私たち被害者の痛みに同情してくれるから良い運動、私たちに同情してくれないから悪い運動」というような、浅はかな決めつけをしないようにしなければなりません。

今、キリスト教界で「カルトとの闘い」を推し進める上で、敵への先制攻撃という考え方が普及しています。これは、カルト化教会の横暴な権力者たちに、被害者がこれ以上攻撃されることを防ぐために、横暴な権力者を被害者が先に告訴してしまえという考え方です。
けれども、この考え方は、ただキリスト教界に泥沼のような疑心暗鬼の訴訟社会をもたらすだけに終わらず、さらなる危険へとつながっていきます。

私自身の体験から言わせていただければ、カルト化教会の権力者たちが虐待の被害者を黙らせるために、被害者を次々告訴するという手段に出ることは滅多にありません。なぜなら、黙らせるべき被害者の数が多すぎるために、牧師が一人ひとりに訴訟を起こしていれば切りがないという理由があることに加えて、カルト化教会の権力者たちは、自分たちが悪事を行っていることを内心でよく知っているために、なかなか公の場に出て来て勝負をしようとはしないからです。

それでも、もしもカルト化教会の権力者が本当に自分の身をかばおうと、被害者を不当に起訴したとしましょう。確かに、キリスト教界の権力者によって不当に起訴されたクリスチャンはすでに存在します。けれども、そのようなことが起こった時は、相手の不当な言い分に打ち勝つために、被害者は堂々と自分を弁護して闘うことができます。山谷少佐や杉本氏などは、不当な告訴を恐れることなく、堂々と法廷で自分にかけられた悪意の濡れ衣を退けています。

確かに、訴訟を起こされることは誰にとっても気持ちの良い話ではなく、特に、カルト化教会内ですでに様々な打撃を受けて、精魂尽きて弱り果てている被害者にとっては、耐え切れないような最後の重荷になってしまう可能性があります。
そのような方々にとっては、私が申し上げていることは非常に残酷な主張のように聞こえるかも知れません。

けれども、どうかそれでももう一度、よく考えてみて下さい。自分が悪徳牧師によって起訴されないために、先に悪徳牧師を起訴してしまえば良い、という先制攻撃の考え方は大変危険です。それはアメリカが「テロの脅威」を口実にしてあらゆる国々に戦争を起こし、世界中の紛争という「有事」に介入しながら、他国での紛争を着々と自国の発展の手段として利用しているのと、一つ間違えば、全く同じ行為になってしまうのです。

本当にあるかどうか分からない危険性への恐れを払拭するために、他者と闘うという選択肢を選んだ者は、しばしば、必要以上の自己防衛に走って、相手に対して過剰な攻撃性を発揮してしまうことがあります。それに闘いを日常化しているうちに、本当の平和を作り出すことの大切な意味を見失ってしまう危険があります。

どうか気づいて下さい、私たちは特定の人間への不信感を、訴訟という先制攻撃によって払拭することは決してできません。悪徳牧師を起訴したからといって、悪徳牧師からの嫌がらせの可能性を完全になくすことは決してできないのです。人への不信感をなくすためには、日頃から地道に信頼関係を築き上げるしか手段はありません。
信頼関係を築き得ないような相手に対しては、たとえどのような方法を駆使しようとも、不信感をなくすことはできないし、その相手からの報復や嫌がらせの可能性を完全に滅却することもできないのです。

この曲がった時代にあって、私たちは日常的に恐怖や不信の中で暮らしています。けれども、人間の脅威から私たちを守ってくれるのは、先制攻撃としての訴訟ではなく、何よりも、主の守りの力であることを再確認しましょう。

どうか目を開いてよく確かめて下さい。今、まるで自分が日本のキリスト教界の平和の守り手であるかのように、キリスト教界の全ての「有事」に干渉しようとしている者がいないでしょうか? 「カルトの脅威」を理由にして、あらゆる教会の紛争に介入しようとしている存在がないでしょうか? そのような存在は、本当に弱者を助けるために有事に干渉しているのでしょうか? それとも、もっと他の目的がそこには隠されていないでしょうか?

他国の脅威に対抗するため、攻撃を未然に防ぐためという理由で、先制攻撃に走ってきたアメリカが、今、どのような状態にまで堕ちているかを考えて下さい。
私たちはこのアメリカと同じ態度を取るべきではありません。敵との闘争を日常化して生きていくべきではないのです。

クリスチャンの皆さん、しもべは主人以上のものではないと聖書は言います。私たちの主人であり、長兄であられるイエスが福音のために徹底的に不利な立場に立たされたにも関わらず、イエスに従う私たちが、真理のために不当に追い込まれることを免れられるはずがないのではありませんか。

クリスチャンにとって、迫害とは、決して人生で無縁のものではないはずです。私たちは迫害を恐れ、脅威を恐れ、自分が不利な立場に立たされることを何とかして未然に防ごうと、そのことだけに汲々として生きるべきではありません。たとえどのような脅威があっても、毅然と立って、たとえ不利な状況に立たされることがあっても、心から主に信頼して生きられるように努力すべきではないでしょうか。

繰り返します、恐れに突き動かされて自己防衛のための攻撃に走ってはいけません。弱者解放のスローガンを掲げている運動があるからと言って、安易に信用してはいけません。それが本当に弱者の側に立った運動であるのか、それとも歴史上生まれて来たあまたの運動のように、人々をさらなる隷属状態に陥れてファシズムを生むものでしかないのか、私たちはじっくりと時間をかけて見極めなければなりません。
歴史的教訓を踏まえて、表向きの美辞麗句だけを浅はかに信用しないようにしなければならないのです。

被害者の皆さん、自分が助けられたからといって、「カルト被害者救済活動」全体を美化するのは早すぎます。
この運動は元々、キリスト教以外のカルト宗教との信者の奪い合いという、政治闘争を糧に生まれて来たものです。敵(カルト)を抑圧することを目的に活動している一種の懲罰運動なのです。敵を成敗することを柱にしている闘争であり、現代日本の宗教戦争であり、宗教裁判であり、異端審問なのです。

思い出して下さい、中世の十字軍や異端審問が人類に何らかの平和をもたらしたでしょうか?
いいえ、戦争と平和は決してイコールで結ばれることはありません。

闘争によって生まれた者は、闘争によって生きるしかなく、最後まで、終わりない闘争を繰り広げることしかできません。そして闘争の中で自滅していくしかないのです。それはこのような運動全てに働く絶対法則のようなものです。
そのような運動にあっては、平和のためにと、どんなに表向き唱えていても、それは見せかけだけに終わり、運動は必ず、平和そのものに敵対する運動に変わっていくのです。

初めはもっともらしい、誰もが認めるような「敵」と闘っていたかも知れませんが、敵がいなくなると、新たな闘争を作り出すために、でっちあげてでも「敵」を作り出さなければならなくなり、そうやって、闘いによって利益を得る少数の人たちのために、永遠に、終わらない闘争が引き起こされ、圧倒的多数の無実の人たちが魔女狩りのような宗教裁判によって粛清されていくことになるのです。

どうかこの恐ろしさに気づいて下さい、平和のために、と言っている運動が、実は、平和そのものを敵として闘う運動に変わるということが歴史上、実際に幾度も起こってきたのです。
今また「カルトとの闘い」という名目で、同じようなことが起こるのは避けねばなりません。この運動が拡大していき、全国の教会を飲み込むようなことがあれば、大変なことになると私は懸念しています。

繰り返しますが、私はカルト化教会を擁護しているのではありません。
カルト化教会は悪です。カルト化教会は存在すべきではありません。
けれども、悪の破滅を願うあまり、私たち自身が悪と同化するようなことは避けましょう。
情報を公開し、警告は発しましょう、けれども自らの力で相手を抑圧し、相手の首をしめることは私たちの仕事ではないと思います。
悪人を成敗すること、それは必ず主がして下さいます。何よりも、時代錯誤な悪徳教会には、もとより長く生き残る道などあるはずがありません。カルト化教会にはしょせん破滅が運命づけられているのです。私たちはただ一刻も早く、焼け落ちる火宅からは身を避けて逃げ延びるだけです。

何よりも恐ろしく、気をつけるべきは、カルト化教会だけではありません。一つの悪を成敗するという口実で、別の種類のもっと恐ろしい悪が台頭することです。そのようなことがないように、私たちは、気をつけて見張っていなければなりません。

被害者の皆さん、どうか忘れないで下さい、私たちが真に心を尽くし、人生を費やすべきプロジェクトは、この世から抑圧や苦しみをなくすための解放運動ではありません。
抑圧のない世界、苦しみのない世界を願うことは人間に本来的に備わっている欲求ですが、この世においてそれは実現不可能な願いです。

どうか気づこうではありませんか、たとえ苦しみから抜け出せなくとも、たとえ意味の分からない苦しみの最中にあっても、たとえ世の中全体から負け組として見捨てられたように思えても、私たち一人ひとりが主の計画の中で確実に生かされている事実に変わりはありません。

苦しみが取り去られることを願うこと自体は決して悪いことではありませんが、それだけが人生の目標にならないように注意しましょう。どんな環境にあっても、主への信頼に生きることができ、どんな条件下でも、主の導きを理解することができる賢明さを私たちが持つようになることが、恐らくは、信仰生活において一番肝心な事柄であり、主の御心にかなった事柄なのだと私は信じます。

主はヨセフが牢の中にいた時にもお見捨てにはなりませんでした。私たち被害者は、カルト化教会という牢獄の中で、なぜ人生を理不尽に奪わなければならなかったのか、そのことの意味を、生きているうちに、完全に理解することはきっとできないでしょう。けれども、主にあってはそのことに意味があったのだと信じましょう。
私たちは自分の苦しみを(ただ主にあって)喜びこそすれ、それを恥ずべきものとして否定して、そのようなことが二度と誰の身にも起こらないようにという理由で、キリスト教社会からあらゆる抑圧をなくすための政治闘争に飛び込んで行くべきではないと思います。

私たちは、カルトの危険について警告を発し続けながらも、カルト化教会がいち早く滅びてなくなるようにとそのことだけを願いながら生きるのではなく、何よりも、主の御心が地になされるようにと祈りましょう。

被害者の皆さん、カルト化教会の惨状について多くの人たちに警告して下さい。他の人が知らずにこんな恐ろしい教会に近寄らないように、警告を発してください。
けれども、カルトをめぐって今、教界で繰り広げられている闘いにはどうか一線を画して下さい。闘いを生きる手段とする人たちの口車に乗せられてカルト撲滅運動に生涯を捧げないで下さい。

自分自身がカルト被害者でもある私の目から見て、現在のカルト被害者救済活動のあり方は非常な危険をはらんでいます。教界によって虐げられた弱い信徒たちを大勢味方につけることによって、今、この教界内で、新しい勢力が台頭しようとしています。その勢力は、抑圧を武器に、闘争を武器に成長して来た勢力です。敵を成敗することで成長してきた運動なのです。歴史を振り返って、そんな運動が、掲げている公約をちゃんと守って、平和で幸せな世の中を作ったことは一度もありません。

被害者の皆さん、どうか慎重になってください。一つの教会で人生を奪われた上、この上まだ誰か野心的な人間に都合よく利用されることだけは避けようではありませんか。
人間と組織がいかに信用できないものであるか、それを思い知らされるためにこそ、私たちはカルト化教会をくぐり抜けて来たのではありませんか?
人や組織に仕えるのでなく、主に仕えて人生を生きようではありませんか。

人を自由にする真理を私たちは授かったのです。この上、組織や個人の下僕となることは必要ありません。
キリスト教界全体が今、とても危険な場所になっていることを多くの人たちが指摘しています。カルトとみなされているかどうかに関係なく、様々な教会にあらゆる疑惑が持ち上がり、さらに、カルトからの救出を唱えている組織ですら、私の目から見れば、大変危険なのです。

あまりにも悲しいことですが、今、十分に信頼に値すると言えるキリスト教的組織を私はここに一つも挙げることができません。カルト被害者救済活動の行く末も、私たちは慎重に見守らねばなりません。もしも危険な兆候が現れれば、重症にならないうちに、声を大にして反対しなければなりません

被害者の皆さん、不当に抑圧されたことに、黙っていられない気持ちは皆同じです。けれども、どうか復讐や怒りなどの感情に安易に流されて今再び誰か権力者の闘争の材料とされて生きることがないよう、知恵を駆使して、理性を働かせて、静かに注意深く事態を見守りながら、主にあってそれぞれの生活を穏やかに生きましょう。
被害者の回復と立ち直りを心から願います。

私たちは他人を理解しようと思うと、想像力を働かせなければならない。自分で経験しないことはなかなか分からない。だから、人は他人を理解する際に、自分の経験を参考にし、自分自身を参考にしようとする。自分の性格から他人の性格をおしはかろうとする。
だからこそ、優しい人には残忍な人が理解できない。善良な人間には悪人が理解できない。無欲な人間には権力欲にとりつかれた人間が理解できない。自分の性質にないものを、人はなかなか理解することができない…。

悪人の底知れぬ恐ろしさを、多くの人々が理解できないのは、悪人の持つ悪への異常なほどの執着、偏執狂的な権力欲を、自分の中にほとんど見出せないためである。

聖書に登場する裏切り者のユダについて考えてみよう。色々な時代の様々な人間が、何とかユダの人格を理解しようと苦しんできた。多くの人たちが、人類の中に、悪魔のような人間が存在していたとはどうしても納得できなかった。そこで、作家たちは特にそうであるが、彼らは自分に理解できるユダ、「人間的なユダ」の姿を思い浮かべようと苦心した。
彼らは考えた。きっと、ユダはそれほどまでに我々とかけ離れたような人物ではなかったはずだ…、ユダは決して特別に堕落した人間存在ではなく、我々誰にでもあるような長所と欠点を兼ね備えた、ごくごくありふれた人間だったに違いない、ただ、欠点に打ち勝てなかったために、彼は師を裏切るという恥ずべき行為に及んでしまっただけなのだ…。
そのようにしてユダの人間性を描き出し、彼の罪状を誰にでも理解できる平板なものとして描き出し、あまつさえ、人間的なユダの姿に同情を注ごうとさえした。

ある人々は、ユダにも救いの可能性はあったはずだと主張する。ユダの肉体は破滅的最期を遂げたが、神はユダの魂をきっと救われたに違いないとの主張もある。ユダはただ単純に弱者を現実に助けたいという思いが勝ったゆえに、イエスの活動の真意が理解できなかっただけであり、ユダはユダなりにイエスを尊敬し、イエスの唱える愛にいつも心惹かれながらも、同時に、金に対する執着心や、師に対する猜疑心や嫉妬にさいなまれ、その狭間で葛藤し、ついに誤った方を選んでしまっただけの可哀想な人間なのだ…。

だが、イエスはイスカリオテのユダを指してこう言われた、「そのうち一人は悪魔である」、「そのような人間は生まれて来ない方が良かった」。

この言葉の持つ衝撃的な意味を額面どおりに受け取る時、ユダにも救いの可能性があったとか、ユダもまた、心弱いだけの、どこにでもいるような人間であったとか、ユダにはユダなりの心の葛藤があり、善に心惹かれていたはずだ、などという想像は微塵に砕け散るのである。
ユダを我々にも理解できるそこそこ善良な心弱い小市民的人間として描き出そうとする一切の苦労が、イエスの述べたこの恐ろしい言葉の前に砕け散ってしまう。

いばらがあざみを生じるはずがなく、葡萄の木が野いちごの実をつけるはずがない。
良い幹からは良い枝が生じ、良い幹が悪い枝をつけることはありえないのだ。

だとすれば、毒麦の種は最初から毒麦であったのであり、良い種が途中で変質して毒麦に変わるということはまずありえないと分かる。
ユダは最初から裏切り者であった。イエスはそれを見抜いた上で彼を弟子に引き抜いたのだ。ユダは筋金入りの、職業的スパイであった。彼の行動は我々の想像を超えるほどのしっかりした信念と主義に基づいており、良心と欲望との狭間でのひ弱な葛藤などなかっただろう。

物事を考える際はいつでも徹底的に議論を掘り下げ、決して聖域を作らないことが大切だ。
悪人を理解しようとする際に、自分自身の信念のぐらつきやすさ、いい加減さ、性格のお人好しさ、行動の不徹底を参考にして、悪人の悪を情状酌量をして、か弱いものとして想像しても意味がない。悪人に情けをかける必要はないのだ。悪人はあるがままの悪人として理解することが肝要だ。

筆者はかねてから思って来たが、クリスチャンには二種類の人々がいる。
一つ目の種類は、キリストを信じて、心打ち砕かれて謙虚になり、ある程度の失敗はあったとしても、大体において、人格がキリストの似姿となるように、人生の試練を通して品性が練られる人々。人に仕える謙虚な人間として、人格が麗しく変えられる人々。

もう一つの種類は、キリストを信じたがゆえに、自分には罪がなくなったと安心して尊大にふんぞりかえり、自分は神に召し出された特別な人間なのだと誇大妄想的な自惚れを抱いて、自己の正当性を信じるがあまり、自分は絶対に間違いなど犯さないと自己の無謬性を確信するまでに至り、その不遜な自信とプライドの中で一切の自己反省能力を失ってしまい、他者に対して横柄で思いやりなく、自己顕示欲の強い、権力欲にとりつかれたプライドの塊のような人間になってしまう人々。

歴史的に、この二つの種類の人間がともにクリスチャンを名乗ってきた。キリスト教との出会いは、ある人々にあっては、人生を良く生まれ変わらせる転機になるが、別な人々にとっては、人生を破滅させる躓きのもととなってしまう。後者の人々は、キリストに「つまずいた」一群だ。ところが、キリスト教の歴代の宗教権力を構成してきたのは、大体において後者だったのであり、この種の人々は、イエスが「まむしの子らよ」と呼んだあの偽善者の学者たちの姿にそっくりである。

筆者は思う。きっとこのような人々は、イエスに出会わなかった方がずっと良かったのだ。キリスト教などというものに出会わない方が幸せな人生を送れただろう。救いを知った後の方が、救いを知らない前よりも、はるかに心の状態が悪くなってしまったのだ。可哀想な人たち。ユダもそうだが、キリスト教と無縁でさえいれば、彼らは善良な小市民として、世俗の世界で静かな人生を生きられたかも知れないのに。

キリスト教は、死後の裁きを待たずとも、生前のこの世で人々を真っ二つにふるいわける試金石になるらしい。この宗教はこれまで善良なクリスチャンたちと同時に、心底、性根の腐ったクリスチャンたちを生み出してきた。後者がどれほどの殺戮と、残虐行為などの歴史的悪事を積み重ねてきただろう。宗教裁判、異端審問、魔女狩り、戦争、十字軍、侵略、カルト…。
世間には、キリスト教に対して憎悪に近い感情を持つ人々が存在する。だが、その人たちが、もしも蛇の子孫としか思えないような根腐れした傲慢なクリスチャン、偽善的でふんぞり返ったクリスチャン、教義だけ知っていても何ら行いが伴わない似非クリスチャンたちのひどい姿を見て、この宗教を毛嫌いするようになったのであれば、それは無理もないという気がする。

筆者がこのように言うと、「私も似非クリスチャンです」と名乗り出る自信のないクリスチャンがいるかも知れない。だが、筆者が似非と呼ぶのはそういう人たちのことではない。
本当の偽クリスチャン(偽預言者、偽牧者)は、自分は誰よりも神に近い存在であるかのように錯覚し、周囲に対してもそのように振る舞い、自己の無謬性を心底、確信しているから、彼らが自分から己の偽善や誤りを認めて名乗り出るようなことは決してないだろう。

さて、筆者は今、ある恐ろしい疑惑について思いめぐらしている。以下の記事の中で、筆者は甲師という架空の人物に話を託して、カルト被害者救済活動に漂うある種のいかがわしさを強調して分析してきた。だが、その際、筆者もまた通常人の例に漏れず、手ぬるい描写に墜ちることによって、悪人に情状酌量の余地を与えてしまったらしい。

筆者は甲師を「まむしの子孫」として描くことはできなかった。なぜなら筆者は悪人を描くことが苦手で、登場人物を心から憎むということができないからだ。筆者は甲師に愛着のようなものさえ抱いていた。そこで、筆者は甲師をかつては心から主を崇めていた正しい牧師だったが、何らかのきっかけで道を踏み誤ってしまった牧師であるかのように描いた。

だが、それは筆者の描写が手ぬるかったのだと、今は解釈している。
その点では、大審問官を律法学者、パリサイ主義者たちの後継者、福音に敵対する徹底的な悪人として描いたドストエフスキーの作品の方がはるかに現実的だと言えよう。
だが、誤りが分かった時点で、「本当の甲師」はどのような人物なのか、筆者はそれを補足しておかねばならない。

それからもう一つ、殉死という考えについて、浅はかに殉死を美化していると受け取られかねない曖昧な表現を用いて、これに対する警告を発さなかったことをも筆者は訂正しなければならない。

本当はきちんと物語の続きを描写することによって話を補いたいのだが、あいにく、プロットを練っている時間がない。だから、ここでかいつまんで説明することをお許しいただきたい。改めて言う必要もないだろうが、ここに登場する甲師とは筆者の作った架空の人物である。
 

カルト被害者救済活動を推進する甲師のプロジェクトを
クリスチャンが決して支援してはならない理由

 反キリストは初めから反キリストであり、その本質は(彼の犯す悪事の規模が加速度的に増大することはあっても)最初から最後まで変わらない。甲師が正しい福音を述べ伝える牧師であったことはこれまでに果たして一度でもあったのだろうか。もしも甲師が偽牧者であったとするならば、彼のミニストリーには初めから何の正義もなかったと考えるのが妥当だろう。
 甲師はプロテスタントのれっきとした教団に属し、牧師という名誉ある職業に就き、それなりの功績を挙げ、社会から尊敬を集めている。甲にはすこしも横暴な態度がなく、人の話をじっくりとよく聞くタイプで、信徒から慕われている。こんな甲師を、なぜ我々はそこまで疑わなければならないのか?

 その根拠として、まず、甲師の回心の信憑性を吟味することから始めたい。甲師にはかつてカルト的宗教団体に入信していた経歴があることはすでに述べた。では、どうして甲はカルトを離れて、キリスト教に入信することになったのか。なぜそのような劇的な「転身」がありえたのか?
 甲自身はこのことについて次のように説明している。彼は「主の御声」を聴いて、悔い改めたのだと。ある時、カルト団体の奉仕にいそしんでいた甲は、突然、己の内に神からの語りかけを聴いた。それはパウロの回心とそっくりであった。声は言った、「甲よ、あなたはここで何をしているのか。私はあなたが迫害しているイエスである…」
 甲はその「御声」を聴いた瞬間、自分が今までカルト団体を本物の宗教だと思い込んで奉仕してきたことが、間違っていたと悟った。そして本当の救い主はイエス・キリストだと理解して、泣いて地にひれ伏し、カルトを抜けることを心に誓ったのだという。

 だが、今の曲がった時代にあって、ひたすら「しるし」を求めて騒いでいる聖霊派に属しているクリスチャン以外のキリスト教徒は、このような話を聞いて、いぶかしく思わない方がどうかしている。まず、甲が個人的に神の「御声」を聞いたということそのものが、本人以外の誰にも確かめようのない、検証不可能な事実であるだけに、第三者には非常に疑わしく感じられる。それが作り話ではないという証拠がどこにもないのである。実際に、多くのカルト化した教会の牧師たちは、常日頃から、直接、神の「御声」を聴いていたと証言している。

(パウロの回心の場合には、パウロが突如盲目に陥ったことにより、主が彼を討たれたことが第三者にもはっきり見える形での証拠となった。さらに、アナニヤがパウロの回心に立ち会うことにより、パウロに起こった出来事の証人となった。甲の劇的な回心の話には証人が一人もいない。)
 本人の証言だけでは、その人が本当に神を信じて神から遣わされたクリスチャンであることの十分な証拠にはならない。

 次に、仮に、甲の回心が偽物であったと仮定してみよう。では、回心していないのに回心したふりをし、信仰もないのにキリスト教の牧師を演じ続けている甲は、一体、何者なのだろうか。まさか、そんな無意味なごっこ遊びに精を出せるほど、彼の人生も暇ではあるまい?
 これに対して答えられる一つの可能性は、甲は今も隠れカルト信者であり、キリスト教を調査し、キリスト教界を崩壊させるためにカルトから特別に派遣されたスパイであるということ。
 二つ目の可能性は、甲自身がカルト団体を去り際だと思い、見切りをつけていたが、キリスト教界に牧師として一躍転身するために、自分に箔をつけてくれそうなもっともらしい召命の体験を捏造したということ。
 三つ目の可能性は、神の御声を聴いたということは、甲自身の想像の世界の出来事であったが、彼はそれを幻聴だとは決して思わず、今でもその正当性を確信し続けている病人であるということ。
 四つ目の可能性は、その「御声」は確かに存在したものであったが、その発信源は神ではない何者かであったということ…。

 いずれにせよ、この甲の劇的な回心の話は、非常にうさんくさい感じがするので要注意だ。
 そして、もしもキリスト教を本気で敵対視する宗教が日本にあるならば、キリスト教界を弱体化して骨抜きにするために、スパイとして偽牧師をこの組織に潜入させることくらいは朝飯前だということを覚えておく必要がある。
 何しろ、この業界には、牧師になるための資格試験がほとんどないのだ。本人が献身の決意を固めたということの他に、牧師となるために必要な条件がなく、誰もその献身の内容さえも本気で吟味せず、さらに、神学校さえ卒業しなくても、牧師を名乗ることが可能なのだ。
 これほど牧師になることが簡単な業界なのだから、仮に偽装牧師がもぐりこんだところで、誰も気づきはしない。
 まさか、そこまでする奴があるか? そんなのは想像の話だろう? と笑っている人があるかも知れない。
 だが、平和な市民団体のデモをぶっ潰すために、警察が団体にスパイを送り込んだりすることはいつの世の中でも当たり前に行われている。ただそれを我々市民が知らされていないだけの話だ。

 次に、前の記事で筆者は、カルト被害者救済活動は教界の遅すぎたペレストロイカであり、この教界そのものの滅亡を止めることはできない、従って、甲師のような人物は、一見、改革を進めているように見えても、ゴルバチョフと同様に、業界全体が沈没する時に一緒に失脚するだろう、という意味のことを書いた。
 だが、失脚してくれればまだ良い。失脚しない可能性も大いにあって、その場合、非常に恐ろしい事態となる。想像するに、甲師のように世故に長けた人間であれば、どう転んでも自分が不利にならないように予め布石を打っておくことだろう。

 民衆の暴動や一揆は、組織化されなければただの暴動で終わっていく。鎮圧されればそれまでとなり、暴動参加者は治安を乱したとして処罰される。
 だが、政治的に組織化された民衆の暴動は、もはや暴動ではなく、革命である。
 暴動は鎮圧されて終わるが、革命は、政権そのものを打ち倒して、体制を全く塗り替えてしまうため、犯罪行為とみなされず、むしろ偉業としてたたえられる。何度も暴動が起これば、現今の政権は揺るがされ、弱体化していく。そうして政権が弱体化したところを狙って、権力を奪取するための革命を起こす。革命が成功すれば、新しい政府が作られる。革命を起こした者は救済者として名乗り出て、民衆のリーダーとなり、弱者のためと銘打って、自分の望む体制を敷くことができる。

 甲師は今、全国のカルト化教会をぶっ潰すことによって、戦国時代の武将が敵の城を攻め落とし、日本地図を塗り替えたように、着々と己が領土を拡大し、日本のキリスト教界の地図を塗り替えている。これはキリスト教界におけるM&Aである。甲が一つカルト化教会を叩くごとに、その教会のみならず、教界全体が揺さぶられ、権威失墜し、弱体化する。関が原の決戦があり、最後の武将がいなくなれば、教界全体が崩壊して、次なる時代――すなわち甲幕府が成立する。
 甲はそれを狙っている。
 甲が目指しているのは、単にクリスチャン・ヴィレッジという、限られた小さな地域限定の王国を築くことではない。
 甲の夢はもっと大きく、全国制覇である。甲が欲しいのは、日本のキリスト教界全体を思うままに牛耳ることができる最高権力なのだ。

 善良な市民にはどうしても、悪人たちの恐ろしいまでの権力欲が理解できず、物事をどうしても表面的な主義主張のレベルで捉えてしまう。甲が日本にキリスト教を広めるために牧師をやっていると思うのは間違いだ。悪人にあっては、キリスト教を口実にして、己が権力を拡大することだけが伝道の真の目的なのだ。

 だが、甲の野望が実現するまでにはまだまだ時間がかかる。教団教派の対立がある限り、キリスト教界には戦国時代が続き、「幕府」など成立するはずがないから、甲はまずは教団教派の併合を待たなければならない。甲はすでに自分の教団内ではダントツの勢力を誇っており、甲の属している教団には甲に並ぶ者がなく、教団全体が甲の教会に吸収されていくのは時間の問題であるが、他の教団はまだ独立性を保っていて、甲の影響力の下にはない。そこで他教団も弱体化させた上で、吸収合併しなければならない。そうでなければ、甲は本当に日本のプロテスタント教界の覇者となることはできないだろう。

甲はまだ牧師の中では十分に若く、あと15年は少なくとも現役で勤められる。この間に、キリスト教界を思い切りぶっ叩き、ありとあらゆる教会を弱体化させ、カルトの疑いがあるところは徹底的に叩いて吸収し、行き詰まったら、カルトであろうとなかろうと、あらゆる言いがかりをつけて教会を破壊し、吸収していかねばならない。

だが、わざわざそんな手荒な手段に出なくとも、信徒の高齢化のために、どうせ全国の教会が経営難に陥るのは目に見えている。そうして弱体化した教会を次々併合するのは簡単だ。教団自体も弱体化するところが出て来るだろう。そうすれば、「この困難な時代ですからみんなで協力しましょう」と呼びかけて、できるだけ沢山の教団教派を吸収していけば良い。頑固で非協力的な牧師がいれば、カルトのリーダーとして首を飛ばすだけだ。唯々諾々として甲の言い分に従って来るようなひ弱な牧師しか業界には残さなければ良い。

こうして教界内でM&Aを繰り返した挙句、まるで銀行が次々合併したように、聖霊派、福音派を問わず、主義も主張も違うはずの様々な教団教派が合併を繰り返して看板をかけかえる。やがて「全日本統一キリスト教団」のようなものが生まれて来るだろう。どんな名前になるかはまだ分からないが、とにかく甲がそこでリーダー格の牧師となっていることは間違いない。何しろ、そこまで吸収合併を繰り返し、業界を統一再編したのは甲の手柄に違いないから。

そして全国の教団教派が一つの組織に統一された暁には、甲はそこに念願だった「カルト監視機構」を設立するだろう。それは一種のオンブズマンとして導入されるが、その監視機構は恐ろしい危険性をはらんでいる。そもそも、なぜこの機構の設立に対して、既存の教会の牧師たちがこれまで執拗に反対してきたのか、考えてみよう。そこには実は、耳を貸すに値するだけの十分な理由があったのだ。

 20世紀初頭に、ロシア革命によって帝政ロシアが崩壊し、「労働者と農民の国」ソビエト体制が成立した時、革命とほぼ同時に、チェーカー(反革命・サボタージュ取締り非常委員会)というものが国家機関の中に設立された。ソビエトの指導者レーニンは当初、新しく成立した労働者の解放的な国では、善良な労働者たちが国を導くので、悪事はほとんどなくなるだろうと考えていた。そこで、チェーカーは、かつての体制の下僕であった資本家の悪者たちを最小限度、処罰するためだけに設けられた小さな取締り機関になるはずであった。やがて取り締まるべき悪人もいなくなれば、その機関は役目を終えて消滅するだろうと指導者は安易に考えていた。
だが、組織というものは、ひとたび創られると、自分からは永久に活動をやめようとせず、むしろ生き残りをかけて肥大化していくものである。最初、最小限度の取り締まりのために設置された「非常」、つまり期間限定の委員会が、時と共に、恐るべき規模へと拡大発展していき、無期限の、史上最大規模の懲罰機関へと変わって行った。

 チェーカーはやがて常設の秘密警察(KGBの前身)となり、その秘密警察が市民に対してはかりしれない権限を行使するようになった。最初、旧い体制に仕えた悪者たちだけを処罰するはずだった秘密警察は、やがて膨大な数の無実の市民にテロリストの嫌疑をかけて、市民だけでなく大物政治家、大臣、役人を問わず、あらゆる人々に事実無根の罪状をでっちあげては、ひたすら犯罪者として人を処刑するか、あるいは強制収容所に引っ張っていく恐ろしい機関へと変わった。大した取調べもなく、強制的な自白だけを根拠に、大勢の人々が無実の罪で投獄された。犯罪者扱いされた市民は、強制収容所で「再教育」を受けさせられ、奴隷的労働に従事させられた。ソビエト体制が鎖国政策に走っていた間、囚人による奴隷労働がこの国の経済を支えていたのである。

 もしも「カルト監視機構」が日本のプロテスタントのキリスト教界全体を監視する常設の機関となったら、どんなに恐ろしい事態が持ち上がるだろうか。我々は上記の歴史的事例から学ばなければならない。
 牧師や信徒に対する抑圧的な監視機関が常設の機関となるということは、キリスト教界の中に秘密警察が設立されることに等しい。

 甲はその恐ろしさに何も気づいておらず、オンブズマンが設置されれば、業界の中でカルトに陥る教会が減って良くなるだろうと浅はかに考えている。だが、他の牧師たちは、自分たちの礼拝が隅々まで甲によって監視されることの恐ろしさや、信徒の悪質な密告によって、自分がいつ会議であらぬ罪に対して弁明を求められるか分からないこと、証明もできないような些細な疑惑のために、いつ自分がカルト的牧師というレッテルを貼られて首を切られるかも分からないような事態が持ち上がることに強い拒否感を示している。

 「カルト監視機構」――それは、どのくらいの権限を持って、どのような活動を繰り広げることになるのだろう。立法と司法と行政の全ての側面を同時に兼ね備えることになるのだろうか? 教界内にはいつでもカルトが存在しているとは限らない。もしもカルト化教会や牧師が教界から絶えていなくなったら、この機関はどこに活動の場を求めるのだろうか? まさか自然解体するとは思えない。
さらに、万が一、この機構が不正な活動を行った時、誰がその暴走を食い止められるのだろうか。オンブズマンといえども人間の集まりである以上、絶対に誤らないという保証はあるまい。もしも悪しき企みを抱いた何者かがこの組織を巧く使って自分の野心をかなえようとして実権を握ったらどうするのか? 「監視機構」そのものを「監視」する役目は誰が果たすのだろうか?
…誰一人として、このような疑問にはっきりした予測を持って答えられる者はいない。

牧師たちは、「カルト監視機構」が事実上、どんな牧師でも粛清でき、どんな教会でもぶっ潰すことができる無制限の権力となって、教界全体に恐怖政治を敷くことを恐れている。それが甲の独裁体制を維持する手足のような機関となることを恐れている。さらに、近い将来、甲よりももっと野心的な人物が登場して、その機関を自在に悪用することを恐れている。彼らの恐れには正当性があり、それはただ我が身かわいさだけから出た考えではない。

カルト監視機構とは、牧師と信徒に対するれっきとした抑圧機関なのであり、プロテスタントに設けられる一種の異端審問所となる。それは牧師や信徒を処罰したり追放したりするなど、業界内で何らかの拘束力を行使する権限を持つだろう。このカルト監視機構が常設機関となることは、キリスト教界内に秘密警察が設けられることに他ならず、秘密警察の初代長官には、甲師が就任することが早くも決まっている。それは甲師以外の牧師にとっては、まさに恐怖の時代が到来することを意味する。

だからこそ、甲師は決してプロテスタントのキリスト教界で政権を掌握してはいけないのだ。信徒は甲師の野心的プロジェクトに決して出番を与えてはならない。甲師はすでに自分の活動において「仮想敵」を設けて、敵を叩くことによって、教界の弱体化と内部崩壊をひたすら助長しているが、甲師の実権が拡大して、彼の勢力が教界全体を食い破って、教界を配下に治めるような日が来れば、教界全体が彼の唱える「カルトとの闘い」に飲み込まれて行くだろう。

今、日本を含め世界がアメリカの引き起こしたイラク戦争の後始末に奔走させられているように、甲師の権力が教界に君臨するようなことがあれば、教界全体がカルトとの闘いに引き込まれて行き、あらゆる教会がそのために大いなる犠牲を強いられることだろう。その時、「カルト」という言葉は今で言う「テロリスト」と同じように、まことに曖昧な用語として一人歩きするようになり、クリスチャンの誰もが「カルト」のレッテルを貼られて、甲師によって粛清される可能性に怯え、甲師とカルト監視機構に逆らえなくなり、「カルトとの闘い」という名目で、教界内に事実上の恐怖政治が繰り広げられることになるのは避けられないものと考えられる。

大勢の信徒や牧師たちがカルトの疑いをかけられて、教会をやめさせられる日が来るかも知れない。あるいは「一から教義を学びなおしなさい」と再教育を受けさせられる日が来るかも知れない。
確かに、カルト化教会は現実に存在しているし、それは放っておくことはできない問題だ。だが、解決方法は、甲師がやっているように、カルト化教会をぶっ潰して併合することにあるのではない。分裂ではなく、一致と協力の旗印のもとに、同胞に手を差し伸べ続けること、各教会の独立性を認めながら、その立ち直りを根気強く支えていくこと、自分もいつ道を踏み誤るか分からない一人の弱い人間として、他人を監視するのではなくまず己をこそ監視すること、決して自己の無謬性を確信して、自分自身が裁き手になろうとしないことが肝心だ…。

悪が他人の中にあると思って、それを根絶しようとして闘っている者は、必ず、最後にその攻撃の刃を自分自身に向けねばならなくなる。仮想敵の概念は必ず一人歩きするようになり、あらゆる人間がそこに含まれるようになる。
教界内のカルト化教会を仮想敵扱いして、それとの闘いを日常化するようなことはあってはならない。闘争を日常化することは伝道の本質からかけ離れている。伝道の本質は、闘いによって疑心暗鬼を増大させ、敵を滅ぼすことではなく、悔い改めと和解、そして愛による信頼の種を蒔くことにある。滅ぼすことと生み育てることは決してイコールにならない。「罪を憎んで人を憎まず」、敵のために祈りこそすれ、敵との闘争を日常化している人物を信用してはならない。

キリスト教界内でM&Aを繰り返すことによって勢力拡大してきた牧師を信じてはいけない。このような人物をさらに祭り上げて、教界の独裁者にしてしまうようなことはあってはならない。甲師のような人物は弱者の味方などではない。ただ弱者の暴動を巧妙に組織化することによって、己が権力を拡大する手段とし、教界内の政権奪取を狙っているだけなのだ。
そのことが分からず、彼が掲げている美的・解放的スローガンを文字通り信用してあっけなく騙されてしまうところが、善良なクリスチャンのどうしようもないお人好しさだ。だが、初めに言ったように、悪人の悪は善良な人々の想像を越えている。悪人は自分が提唱する美的スローガンなど少しも信じていない。彼らが信じているのは、ただ一つ、金と権力、それだけであり、スローガンは彼らが権力を握るための口実に過ぎない。

長くなったので、殉教の話は次項に譲ることにしよう。

(1/9に改定)

年明け早々に、「カルト化教会」の疑惑リストにまた新たな教会が続々と浮上しているという情報が、筆者の目にも飛び込んで来た。(ブログ「吉祥寺の森から」記事「卞在昌(ビュン・ジェーチャン)の性的猥褻行為 」村上密blog記事「Kの問題」、参照)。
現在、これらの教会で多大な被害に巻き込まれ、困惑している方たちには申し訳ないが、一傍観者の立場から発言させていただくならば、こうして、際限なくカルト化教会を生み出し続けている「ニッポンキリスト教界」にはほとほと呆れ果てるし、愛想が尽きると言う他ない。

毎年のように、新たなカルト化教会という汚物を生み出し続け、カルト被害者救済活動組織という専門的廃棄物処理班の助けを借りなければ、存続さえも危ういニッポンキリスト教界。
カルト化教会とは、もしかすると、この業界の副産物どころか、主力商品だったのかも知れない。

これが「キリストの肢体」を名乗っている組織の実態である。「肢体」が「死体」となってあたり中に腐臭を撒き散らしていると言う他に、どんな表現がふさわしいだろう。腐敗にまみれたニッポンキリスト教界は、泥舟に乗って今しも沈もうとしている「かちかち山の狸」さながらに、破滅の一歩手前にある。これが果たして、神の名を語るにふさわしい組織なのかどうか、それが結んでいる実を見れば、三歳児でも判断できよう。

悪魔がしばしば光の天使の形を取って現れることはクリスチャンならば誰しも知っている。悪魔的なものが必ずしも奇形・異形の姿を取り、ぞっとするような悪鬼の姿で人の前に現れるとは限らない。むしろ優しい物腰しと、麗しい外見、五感を楽しませてくれる巧みな演技と、滑らかな言葉とを駆使しながら、致命的な毒素はひた隠しにして人前に登場する。
しかも、悪魔が用いる毒には即効性がなく、アダムを滅ぼした死の力同様に、その毒は人を緩慢に破滅させていくものであるため、毒を盛られた本人には自分が滅びへ向かわされていることが最期の最期になるまで分からない。欺かれていることが分からず、むしろ祝福へ、繁栄へ向かっているのだと信じて疑わない。このような目くらまし的な時間稼ぎの間に、毒素は人の全身に回り、確実に死の力にとらえられた人間が、気づいた時にはもう手遅れである。

「欲がはらんで罪を生み、罪がはらんで死を生む。」

古くから知られるこの聖書のみことばに従って、誤った欲望を抱いた時点で、そこに働く死の力を見分けることができていたならば! 大がかりな悪事に加担して、到底、一人では負いきれない裁きを刈り取るよりも前に、まだ小さな躓きに過ぎないうちに、自分の誤りに気づいて引き返すことができる人は幸いだ!

人が滅びに向かって踏み出す初めの第一歩は、極めて小さなものである。自ら望んで犯罪を犯すような人はこの社会には稀であるから、ほとんどの人たちは、別に悪事を犯そうと思って、悪事に引き込まれていくわけではない。
いつの時代も騙しのテクニックは同じだ――人々が神の目の前に正しい事柄を選び取るのではなく、人の目から見て麗しいもの、つまり、自分に「良かれ」と思う事柄を選び取ること――、それこそがいつの時代も相変わらず、人が滅びに至る最初の第一歩なのだ。自分への「良かれ」は、人の目に最初は少しも悪事のように見えないどころか、極めて美しく、理知的で、時にかなった、思いやりある選択のように見えるだろう。

この終わりの時代にあっては、詐欺は、人類を救うためと銘打って行われることに注意しなければならない。人に優しい、人類救済的な、美的スローガンを謳って、大勢の人々を救ってやるように見せかけながら、その裏で、想像もできないような非道・残虐行為を堂々と行うこと――それが当世風の詐欺の手法だから、クリスチャンは美的スローガンに対してはよくよく用心が必要である。

最初はごくごく小さな人間中心主義であったものが、時と共に膨らんでいき、大規模な悪事へと発展する。個人の横暴が集団的サディズムとなり、業界全体の大がかりな腐敗に変わり、やがて集団そのものの自滅を導く。キリストの愛を語って、人間の救済を訴えてきたキリスト教界が、羊頭狗肉の代物となって久しい。ニッポンキリスト教界は長い時間をかけて現在の末期症状まで辿り着いた。あまりにも多くの善良な信徒を偽りで惑わし、傷つけ、食い者にし、引き返せる橋をとうに越えてしまった。後は一旦滅亡を待つしかなかろう。イエス時代のユダヤ教の神殿がそうであったように、今日の日本におけるキリスト教的宗教組織の宮においても、中心を占めているのは、キリスト者ではない何者かである。

福音を受け入れることができないこの世の堕落した性質は、イエス時代から今に至るまで何一つ変わってはいない。そのこの世を出発点として、大々的に「人類救済」や「人間の浄化」を訴える何らかのイデオロギーや、社会運動などが登場して来る時、その運動の真の終着駅がどこにあるのか、クリスチャンはよくよく考えて用心する必要がある。

クリスチャンなら誰しも知っているように、人間の悪を根絶するためには、ただイエスの血潮によるきよめによる他に道はなく、人間から罪なる性質を消し去ることができるのはただ十字架の力のみである。
従って、何らかの組織が、十字架による個人の救いとは別に、組織改革によって大がかりな悪の根絶や、弱者救済を謳っている場合、それは十字架を介さない救いとして、真実の救済とはむしろ正反対の目的へ人を導くだろうことを予想して警戒しなければならない。

いずれもう一度、別の記事の中で引用するつもりであるが、悪とは何かということを考える上で、有力な参考となる、ある人物の文章をここに抜粋しておきたい。これを書いた人物は犯罪者である。多分、読者はご存知だろう。

 "大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、
 事実は全くそれに反している。
 通常、現実の魔吻は、本当に普通な“彼”の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、
 実際、そのように振る舞う。
 彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう…
 ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみや、プラスチックで出来た桃の方が、実物は不完全な
 形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや挑はこういう風でな
 ければならないと俺たちが思いこんでしまうように。"

この文章は、恐るべき虚偽が大手を振って横行している今の"詐欺"時代にあって、事物を判断する際に、決して外見に頼ってはならないことをわざわざ私たちに教えてくれているのである。
大から小にいたるまであらゆる集団が詐欺にふけっているような今の時代にあって、筆者自身もまた、自分の小さな人生において、見せかけが正反対の二つのものが、根底では同じ一つの悪の根に通じているという状況に、幾度も、遭遇させられた。

たとえば、訪れた求職者に対して、懇切丁寧に、謙虚な物腰で応対する派遣会社もあれば、横柄でぶっきらぼうな態度しか取らない派遣会社もあるだろう。だが、表面的な物腰が正反対だったからと言って、両者が、労働者の低賃金からさらに上前をはねるハイエナのような派遣会社の実態から少しでも遠ざかっているということがあるだろうか。看板が美しかろうと、醜かろうと、社員の態度がどうあろうと、派遣会社である以上、会社としての実態はほぼ変わらない。個性的な包装紙の下には、労働者をいつでもクビ切れるモノ同然の状態でやり取りし、生活さえままならない低賃金で人を搾取する人身売買的な組織という中身があるだけである。

同様に、ニッポンキリスト教界にも美しい教会と醜い教会の両方が存在するだろう。だが、それがニッポンキリスト教界という、教団教派の作り出す幻想的なショーに包まれた虚構の世界に属している以上、真の信仰者にとってそのような組織が危険な存在であることは疑いがない。

今日、正真正銘、キリストの身体である教会を信者が見つけ出すことは極めて難しく、そのような教会を見つけたいならば、組織の掲げる看板に頼るのをやめて、「実によって見分ける」ことを始めるしかない。しかもその「実」を見分ける作業すら、困難を極める場合がある。「徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう」ような立派な団体や人物さえもが、悪に通じている可能性があるなどとどうして疑うことができるだろう?

このように、実を見分けることさえも困難な絶望的な時代であるが、さしあたり、少しくらいは何かの役に立つかも知れないので、筆者自身が理解した、堕落した宗教組織に共通する骨組みを以下に記しておく。

・堕落した宗教組織においては、悪魔に服している下っぱの悪霊的存在たちが、それぞれ限られた一定の時空間内に、ある種の「結界」を作り出し、そこで支配力を行使する。彼らの縄張りの中心には「牙城」としての組織、建物があり、その城が彼らの権威を象徴している。
 一定の時空間を支配する悪霊的な力は、そのパワーの由来が「正当」なものであることを主張する。たとえば、その集団が神によって特別に召し出された人々の群れであると主張する。その組織全体や指導者がどれほど「正しい」理念に導かれて有益な活動をしているかを、訪れた人たちに説くことにより、人々が彼らを信用して、その霊の支配下に進み出るよう仕向ける。メンバーとなった人間に対しては、その悪霊的影響下から外へ出さないように、縄張りの中で多くの時間を過ごすよう仕向ける。教会を中心として、絶え間なく催される聖書勉強会、セミナー、サークル、聖霊待望会等。今日の教界における組織中心、空間中心主義の信仰生活がこれである。

・その集団内でしか通用しない独特のヒエラルキーと政治闘争がある。
 栄光に包まれた「先生たち」で構成される上層部と、その下に、誇りを奪われて使役されるだけの下々の人々という階級が存在する。上層部の繁栄と権力拡大のために下層階級は経済的に使役されているが、その搾取は上層部に「神から委ねられた権威」という形でカモフラージュされているため、下々の人間はその不当さに気づかない。祭り上げられた上層部の人々は、自己に対して不遜なまでの誇りをもっており、しばしば一般人以上に優雅で贅沢な、現実から解離したような生活を送っている。が、必ずしも彼らが事実、有能で、その功績が世間で評価されているとは限らない。この上層階級の先生たちの中には、一般人以下の能力しか発揮しないのにふんぞり返っているような傲慢な人々が多く見られ、謙虚に人に仕える者たちはほとんどいない。上層部の中では絶えず権力争いがあるが、その熾烈さ残酷さは、下々の目からは隠されている。

・組織が仮想敵を持っている場合が多い。
 ある特定の集団を敵対視し、「正義のための闘い」を恒常的に繰り広げることによって、メンバーの心に「自分たちは正しい」という誇大妄想的な自信と、現実にはない力を錯覚させ、愛によらない団結心を養っている。

・人間が使い捨てにされている。
 個人にはかけがえのない価値があり、その人がいなくてはキリストの肢体は全体として機能しないという事実が否定されている。下層メンバーは特に取り替えの効く人材として扱われる。組織のルールに従わなくなったメンバーはどんなに功績があっても切り捨てられる。政治的に失脚した上層部の人間もまた恥をこうむる。利用価値がなくなった人間は誰でも即座に捨てられる。

・人の個性や個性的人生の価値に目を向けさせない。
 下層メンバーは、自分は無力で、自分個人の人生など無価値だと思わせられているか、あるいは自分の人生に対する関心が薄れるほどに組織の用事に没頭させられているために、組織のヒエラルキーの中で自分がどれほど重要な役割を果たすかが、人生の至上課題であるかのように錯覚している。自分個人の人生の重要性を見失っているため、個人としての人生にほとんど進歩がないまま堂々巡りを繰り返している。にも関わらず、社会から隔離されたような小さな組織における自分自身が、真実の自分自身なのだと錯覚している。
 メンバーの生活は組織を中心に回っており、たとえ日曜日にしかその組織の中にいないとしても、そのために多大な犠牲を払わされており、たとえ家庭があっても、家庭ごと組織に飲み込まれているか、あるいは家庭や社会において個人が果たす役割が軽視されている。組織のヒエラルキーの中で上に上がっていくことだけが優れた働きであるかのように奨励される。
 メンバーの家庭や職場で問題があっても、それは組織内で全く取るに足りない出来事として注意を払われないため、メンバーは現実の人生の問題が何も解決しないのに、ひたすら組織に通いつめている。組織はメンバーの足腰を強めて社会に送り出すための場所ではなく、メンバーにとって、苦しい現実からのただの避難所のように機能している。

・メンバーがその組織から離脱することに後ろめたさや恐怖を感じるように仕向けている。
 メンバーが自分勝手に別の「縄張り」に移動しないように、組織は何らかの囲い込み政策を取っている。たとえば籍を置くことによって人員を固定化しようとする。あるいは、主人(リーダー)を幾度も変えるのは不道徳であると思わせたり、集団を離脱すると何らかの「祟り」や不名誉があるかのように信じ込ませている。

・組織が地域限定の影響力しか持たない。
 大宣教命令などの世界的規模のスローガンを掲げている割には、その組織の活動範囲は狭い。組織を離脱すると制裁を受けるとメンバーに信じ込ませているが、実際には、そのような制裁が加えられることは稀である。縄張りを離れたメンバーは別の悪霊的存在の支配下に入ったものと考えられて、新しい主人(リーダー)の裁量に委ねられるため、前の支配者が離脱者に何らかの制裁を加えようと、深追いしてくることは滅多にない。むしろメンバーが組織から離脱した途端に、全てが夢だったかのように、かつての集団との一切の縁が切れてしまうことがよくある。

・一旦、組織を離脱したことのある人間は、前科者として扱われる。
 組織を離脱して、二度とその業界に関わらないでいる限りにおいては、元メンバーは安全でいられるが、再び何らかの関係が生じて業界に立ち戻るとき、そのメンバーは「転向者」として差別的に扱われ、その裏切りに対して留保されていた制裁を受けることがある。転向者の情報はブラックリストに掲載され、目に見えない形で初めの縄張りから次の縄張りへと伝えられる。前の主人(リーダー)が追いかけて来ない代わりに、新しい主人がその人間に罰を加えるのだ。一つの組織から離脱した経験のある者は、その負い目があるがゆえに、次の組織からなかなか離脱できない。一旦、自分たちへの忠誠を放棄し、組織を裏切った「前科者」を決して許さず、二度と信用せず、二流の扱いしかしないことが、堕落した宗教組織共通の性質である。

このような性質に鑑みるならば、一旦、ソドムを脱出したならば、二度とそこへ戻ろうとしない方が賢明である。苦労して脱出したのに、エジプトに還ろうなどという気を起こさない方が良い。教界を脱出したなら、二度とその結果に足を踏み入れないがよろしい。さもなくば、筆者の身に起こったようなことがあなたの身にも起きるかも知れない。どんなに慣れ親しんだ環境であっても、そこはあなたの故郷ではないのだ。長年、記憶に馴染んだ礼拝形式、耳に馴染んだ賛美歌を退けるのはためらわれるかも知れないが、教界に対する里心など無用である。「故郷」に戻ろうと後ろを振り返り、国境を越えた途端に、「国外逃亡の罪」を着せられ、再教育のための更正施設に送られるのがオチだろう。一度目の逃亡は簡単にできても、二度目の逃亡は命懸けになり、そして三度目はもうないかも知れない。

記事の本題に戻れば、この「業界」で現在、行われているカルト被害者救済活動は、業界全体の滅びを食い止めるにはあまりに無力であるだけでなく、これは教界が決して自ら開けてはならないパンドラの箱であったことが、間もなく明らかになるだろう。
前述したように、ある体制が非人間的な悪事をたくさん行い、その残虐性が一定限度を越えると、その体制は「橋を越える」。つまり、引き返すことも、軌道修正することも不可能な地点を越えてしまい、組織は崩壊へ向かうしかなくなるのだ。いつニッポンキリスト教界が「橋を渡った」のか、筆者は知らない。いずれにせよ、多くの信徒を躓かせて、群れを離散させ、聖職者が肥え太るために、容赦なく信徒をただ働きさせて、食い者にしてきたこの教界の悪がすでに限界に達するほどに満ちていることだけは確かであろう。

フルシチョフがスターリン批判を行い、ゴルバチョフがペレストロイカを行ったが、そのような小手先の修正によっては、ソビエト体制のそれまでの歴史的悪事を覆うには、もはや手遅れであった。それどころか、この「善良な(?)」軌道修正があだとなって、世界中の市民がソビエト体制の悪事への批判精神に目ざめてしまい、結果的に、ソビエト体制はそれまでの巨悪を隠しおおせることができなくなって、市民の名誉回復など全ての作業を放り出したまま、道徳的な荷の重さに耐え切れなくなって、自ら潰れた。

カルト被害者救済活動は、キリスト教界が自ら行っているペレストロイカ(立て直し)である。だが、時すでに遅く、このショック療法によっては、この業界を救うことはもうできないものと思われる。むしろ患者をさらなる末期的けいれん状態に追い込み、ついには息の根まで止めてしまうことになるだけであろう。
世間はもはやこのペレストロイカに期待を寄せていない。グラスノスチ(情報公開)によって終わりなく明るみに出されるキリスト教界の不祥事に、世間がどれほどうんざりしているか、それが業界全体の信用をどれほど貶めているか、活動に従事する人々には分からないのだろうか。
ニッポンキリスト教界によるグラスノスチは、一部の教会の不祥事を暴き出すにとどまらず、この教界の巨悪を浮き彫りにするだろう。それによって、教界の権威と信用そのものが揺るがされ、業界全体の破滅を導く導火線に火がつけられる。それはこの業界が滅ぶべくして滅んでいくプロセスの一つである。

善良な牧師や信徒たちは、このような事柄には関わらない方が賢明だと思われる。政治闘争から手を引き、伝道という本来の仕事に専念するのが無難だろう。もしも野心があってどうしても政治闘争に参加したい先生たちがいるならば、創価学会員がやっているように、選挙に立候補して、議員センセイとなって国会へ赴けば良いではないか。そうすれば、カルト救済活動などよりもはるかに大きな、この国全体を「救済」する活動に着手できて良いだろう。

人は必死になって敵と闘っているうちに、いつの間にか暗い谷間に誘い込まれ、援軍を失って、孤立することがある。政治闘争に関わっている人たちは、"人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、 真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた"、ということにならないように気をつけられたい。
ある組織が、外部の人間を仮想敵として闘っているうちはまだいいが、攻撃が己が組織の内部に向けられるようになれば、内部崩壊が間近だというサインである。

"今まで生きてきた中で、“敵”とはほぼ当たり前の存在のように思える。 
 良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。 
 しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。
 そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。
 人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。"

カルト被害者の救済活動、解放運動に関わっている人たちは、どうかよく気をつけてもう一度、考えられたい。本当に、敵は己の外にいるのだろうか? あなたたちが敵視すべきはカルト化教会だけなのだろうか?
悪の根は、外部の組織だけにあるのだろうか? いや、あなたたちの組織の中にこそ、腐敗の根が潜んでいたのではあるまいか? あなたたちの手法にこそ、敵が使ったのと同じ卑劣なやり方が潜んでいたのではあるまいか? 「魔物」は他人の中にではなく、自己の内にこそ住んでいるのではないか?

他人の心の中にある「魔物」を根絶しようと闘っている人たちは、しばしば、攻撃の対象がいつの間にか、己の内なる敵にすりかわっていることに気づく。身近な例を引き合いに出すなら、初めはウサマ・ビン=ラディンと、アルカイダに限定されていたはずの「テロとの闘い」が、いつの間にか世界中のテロリストとの闘いへとすり替わっていることの異常さにあなたは気づかないだろうか。「テロとの闘い」はビン=ラディンとフセインが死んでも終わらないどころか、今ますます闘いが激化していることをいぶかしく思わない人がいるだろうか。

「テロとの闘い」はいつの間にか、最初の小さな概念を離れて一人歩きするようになり、無限に拡大解釈されて、国家間の戦争まで引き起こし、終わりなき国際協力事業となっている。今、世界のイスラム教徒たちは、原理主義とは無関係な穏やかな信仰を維持している人々でさえ、自分たちがキリスト教文化圏から「仮想敵」とみなされていることに怯え、命の危険を感じて、この「テロとの闘い」に抗議を申し入れている。

「テロとの闘い」を名目とするイラク戦争で殺された一般市民は数え切れない。テロとの闘いは、一部のテロリストを滅ぼすだけでなく、全世界を疑心暗鬼に陥れ、罪もない一般市民を巻き添えにする流血の惨事に拡大している。「テロとの闘い」という「魔物」が、食い尽くすべき者を求めて世界中をさまよっている。

日本もすでにこの闘いのために多額の協力資金と出動を要求されているが、やがてそのうち、テロリストは日本にも上陸して活動しているという疑惑が持ち上がることだろう。そして全社会的警戒態勢が敷かれるだろう。あと10年も経たないうちに、日本社会にもそこかしこにテロリストが潜伏しているという話になるものと思われる。

「仮想敵」がいつの間にか、膨大な規模に押し広げられて一人歩きし、人々の生活の隅々にまで入り込んで、身近な隣人への恐ろしい疑惑へと変わっていく…。どいつもこいつもテロリスト、みんなで摘発しようテロリスト…、そんな恐ろしい時代が間もなくやって来る。その時代には、かつてテロリストがアルカイダだけを指していた頃が懐かしく思われるだろう。
いや、そもそも本当にアルカイダなんてものは、存在していたのか? 誰一人、その実態を詳しく知ってはいない。かつてスターリン体制下で、「テロリスト」という汚名を着せられて、どれほど多くの市民が無実にも関わらず粛清されただろうか? そのような市民の「テロ活動」は、国家ぐるみで生み出された大がかりな嘘であった。独裁者が権力を拡大し、大勢の市民を粛清して恐怖に陥れるために、「テロリスト」というレッテルが口実として使われたのだ。

初めは小さな闘いであったものが、膨大な規模に押し広げられて、全世界を恐怖に陥れる。
闘争が日常となり、平和のための闘いであったはずのものが、終わりなき混乱を生み出していく。
いつまで経っても平和は来ない。ただ闘いだけが続き、戦争という産業が、食い尽くすべきものを求めて、終わりなく世界をさまよう。

「テロとの闘い」、それは誰かが人類の中に終わりなき闘いと疑心暗鬼の種を蒔くために作り上げた口実だったのだろう。「9.11」や「アルカイダ」といったものは、永遠の戦争を引き起こしたい人々が作り出した都合の良いきっかけであり、たとえ事件そのものがあったことは否定できないにせよ、それらの事件は誰かに都合よく脚色されて、大がかりな犯罪的計画の実現のために着々と利用されているシナリオの一部に過ぎない…。

"魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、 その深淵もこちらを見つめているのである。"

「仮想敵」を軸にして人々が団結し、ある組織の中で、外部の敵との闘争が日常化する時、その闘いは、いつしか内部抗争に転化する。外なる敵ではなく、内なる敵への攻撃にすり替わる。その内部抗争は組織そのものを同士討ちに陥れ、疑心暗鬼のために組織は内部崩壊する。
根絶すべき悪が、己の外にあると思って他人と闘っていたら、いつしか最後に、自分自身を敵として滅ぼさなくてはならなくなるのだ。

このことは歴史によって幾度も証明されて来た。カトリックの異端審問然り、プロテスタントの異端審問然り、日本における学生運動然り、ソビエト体制然り、カンボジアのポル=ポト体制然り、現在のアメリカの「テロとの闘い」然り…。

いつの時代にも、どんな運動の中であれ、「仮想敵」は一旦作り出されると、無限に拡大解釈されるようになって、あらゆる人々の命と生活を脅かす根拠となっていく。善良なスローガンの下で、ある集団を「悪」と断定して、特定の人間に闘いを挑むような運動を信用してはならない。人類の中のある種の集団を「仮想敵」として扱い、二項対立的な善悪の闘いを挑む運動が、人類そのものに攻撃を加えるに至らなかったことが今まであっただろうか?

浅はかな善悪の二項対立を掲げる政治運動に巻き込まれてはならない。それは必ずや非人間的粛清を生む。十字架なしに人間の中にある悪を根絶するためには、人類そのものを全滅させるしか方法がないのだ。
(このことをまだ十分に知らない人は、どうかジョージ・オーウェルの著作や、アーサー・ケストラーの著作を参考にされたい。)

「カルト被害者救済活動」の歴史をじっくり眺めると、あらゆる二元論的な構図を持った闘争につきものの「外ゲバから内ゲバへの転化」という変化が、すでに起こっていることが分かる。最初はキリスト教界以外の他宗教という外部カルトに闘いを挑んでいた活動が、すでに教界の内なるカルトを敵対視して攻撃するようになっている。次なる段階では、それがカルトであるか否かを問わず、激烈な同士討ちという内部抗争に火がつき、教界全体が疑心暗鬼に陥って、最後には、組織全体が滅茶苦茶な混乱の中で崩壊するだろう。この活動は徐々に、同士討ちによる内部崩壊という最期のシナリオへ近づいているのだ。

(内ゲバとは内部抗争を指す。ゲヴァルトとはドイツ語で暴力の意、団塊の世代が引き起こした学生運動で使われた用語)。

信徒が使い捨てられるような教界では、牧師もまた使い捨てである。A教団は、これまでカルト被害者救済活動を推進することによって、そこから利益を得て、組織の美名を高める材料としてきたが、この救済活動が、ひとたび組織の権威そのものを揺るがし、組織を内部分裂の中で瓦解させてしまう危険があると判断すれば、教団はその活動から手を引き、今度はそれを切り捨てにかかってくるだろう。

一時は正義の人のように世界から喝采を受けてペレストロイカを進めていたゴルバチョフが大統領の座を追われた時のことを思い出そう。軌道修正さえすれば、ソビエト体制そのものは存続させられると考えていたことが彼の誤算であった。ソビエト体制の枠組みの中でしか、政治家としての手腕を発揮できなかったことが、ゴルバチョフの限界であった。だが、彼のペレストロイカが喝采を浴びていた最中に、あの体制の崩壊を間近な現実として理解していた人がどれくらいいただろう?
 
ニッポンキリスト教界を軌道修正しようと闘っている牧者=政治家センセイたちは、この体制と共に自分が失脚しないように注意が必要だ。残酷なようだが、かちかち山の狸の乗った泥舟に救いはないのだ。滅ぶべくして滅んでいくものを誰も止めようがない。

こんな時には、闘争からは身を引き、主の前に心を鎮めて、真の信仰に立ち戻り、小さくても穏やかな自分の生活の一区画を守りながら、神を愛し、隣人を愛して生きることに徹したい。そうしていれば、どこでいつどのような体制が崩壊しようとも、決して奪われることのない平安がその人の心にあるだろう。

どうか、この記事を読んでいる人たちが、ここにある批判をよりどころとして、カルト被害者救済活動をしている人たちに直接、闘いを挑むようなことがないように注意を喚起したい。筆者は教界内で政治運動を組織するつもりは全くない。闘争からは極力、退いて、日々の生活の中で、自分の信仰を穏やかに養うことに注意を向けよう。

「大乗仏法の通弊は、善悪の因果も修証の因果も無視して、無事平等の邪見に堕しているところにあります。すなわち弥陀はわれわれ凡夫に代って骨折って成仏して下すった、弥陀の成仏はすなわち我が成仏であるから、このうえさらに修行する必要はない、ただ報恩のお念仏さえ唱えていればよいのだと誤解し、また釈尊は三袛百大劫という長い間、お骨折り下すって、一見明星によって大悟大徹なされ、衆生本来成仏なりと獅子吼遊ばされた。だからわれわれは本来成仏底なのだから、いまさら修行の必要はない、ただ報恩の行持さえつとめ得ればよいと、妄解している、何というタワケ共でありましょう。

 いったい他人(弥陀、釈迦)のたべた飯の味が、たべない自分(未悟者)にわかりますか。そんな都合のよいことは断じてありえぬのです。

 また、まだ悟らぬものには、念仏の意義も報恩の意味も行持の精神も、絶対にわかるはずがないのです。いわんや念仏、報恩の実行をやです。
 現代はこのような狂者共が大手を振って横行している時代ですから、御用心が肝要です。
 さらに多少か修行したものの病気は、小悟、小見、仏見、法見を妄認して、大悟大徹なりと誤り、軽心、慢心、放懶、堕着をもって解脱自在なりと誤り、もって自分をも他人をも邪道にひき入れ、仏法を破壊してしまうものです。これも修行者の用心を要するところです。」

原田祖岳著作集(一)『禅と人生』、原書房、pp.80-81.

この冒頭の文章は、筆者が恐れ知らずにも仏教を語ろうとして持ち出したものではない。ただ、どこの宗教の世界も同じなのだなぁ…とこの本を読んでいてつくづく感じさせられた。上記の文章をキリスト教用語に翻訳してみると、大体、このようになるだろうか。

「今日のキリスト教にあまねく見られる弊害は、善行に励む必要性も、キリストの似姿となるべく自己に死ぬ必要性をも無視して、ただ平穏無事に座していれば良いとの邪見に堕しているところにあります。すなわち神が私たち罪深い人間に代わって私たちを救って下さった、神の救いはイコール私たちの救いであるから、この上さらに努力する必要はない、ただありがたく聖句さえ信じていればよいのだと誤解し、また、イエス・キリストが苦しんで断食して祈り、十字架を背負って死に、私たちの罪の身代わりとなられた。だから私たちはすでに罪赦されて神の子になっているのだから、いまさら自己鍛錬の必要はない、ただありがたく礼拝にさえ通っていれば良いと、妄解している、何というタワケ共でありましょう。

 いったい他人(イエス)のたべた飯の味が、たべない自分(信徒)にわかりますか。そんな都合のよいことは断じてありえぬのです。

 また、日々の生活の中で己の十字架を背負うことをしないものには、聖句の意味も恵みの意味も礼拝の精神も、絶対にわかるはずがないのです。ましてその聖句を実践し、恵みを生かすことなどできるはずがありません。
 現代はこのような狂信者たちが大手を振って横行している時代ですから、用心が肝要です。
 さらに、多少なりともキリスト教を聞きかじった者の病気は、未だ浅はかな理解、浅はかな知識しかなく、神に対するおぼろげな理解と、教義に対するおぼろげな理解しかないものを、まるで大それた知識や理解を持っているかのように思い誤り、自分自身には軽薄さ、慢心、放埓、惰性しかないのにそれをキリストの与えたもうた自由であるかのように誤解し、そのように説くことにより自分をも他人をも邪道にひき入れ、キリスト教を破壊してしまうものです。これも求道者の用心を要するところです。」

原田祖岳師は昭和36年に92歳で亡くなったそうだ。仏教の悟りは凡夫(悟りのない一般大衆)には一生かかっても会得できないかも知れない大変なものだそうだが、ろくな修行もせず、ろくな悟りに達しないうちに、何もかも悟ったように自惚れて、にわか知識をひけらかして教えを垂れる偽教師が仏教の世界にも多いということを、師は幾度もこの著書の中で訴えて嘆いている。
仏教界においても、早くから、そのような警告がすでに発せられていたのだなと感慨深かった。

わずかな知識を得ただけで、何か物事の真髄を悟ったかのように思い込み、大したものでもない知識を他人にひけらかしては自己満悦に至るだけでなく、あまつさえ、その浅はかな理解をもって他人に教えを垂れようという態度に出る…、そのような人間が教師になったなら、生徒にとってはまことに最悪の事態である。
だが、仏教のように時間をかけての悟りを要求されず、托鉢に出ることも、丁稚奉公をして人生の刻苦を思い知る必要もなく、わずかな年数で神学校を卒業すれば誰でも牧師になれるプロテスタントのキリスト教界には、あまりにもこういう連中が多い。まあ、いつの時代のどの宗教でも事情は大差ないのかも知れないが…。

聖書の引用文を使ってしか、人と話せないクリスチャンがいる。
他人の文章をいくら大量に引用したからといって、それは決してその人自身の人格に根ざした言葉にはならないし、その人の信念の証にもならないというのに。
引用を多用すればするほど、本文の価値は薄れる。
聖書に登場する悪霊たちも、多くはみことばを知っていて、みことばを語っていたことを考えれば、みことばを引用しただけで言説に説得力が増し、権威が生じると思うのは大した誤解だ。

人の言葉には、本来、それぞれの文体があり、リズムがある。言葉はその人自身の奥深いところからから流れ出て来るものであり、その人の魂の吐息のようなものだ。
神は人間に言葉を与えたもうた。それは決して、人間が聖書の文句だけをちりばめて、聖書的知識をひけらかしながら、印籠で人を脅すように、聖句を用いて会話することを目的としてのことではなかった。

キリスト者は皆、イエスの似姿を目指しながら、己の十字架を背負って生きている。己を捨てて自分の十字架を背負うとは、決して、自分自身としての生活や、個性や、果てはDNAまで放棄して、自分でない何者かに成り代わろうとして虚しく努力することを意味しない。
キリストのために自分を捨てるとは、自己の生まれ持った性質を根こそぎ放棄して、自分でない何者かになることを目指したり、自分自身として語ることをやめて、ひたすら聖句の暗唱に終始するという意味ではない。

自分を捨てるためには、まず、自分を獲得していることが前提となるが、現代人のどのくらいの人が、自分自身と真面目に向き合うことをしているだろう?
ソクラテスは「汝自身を知れ」と言ったが、それはやはり古代ギリシアにも己を知っている人間は少なかったということなのであろう。
自己探求はあらゆる哲学と宗教の始まりであり、その道は奥深い。
まず、自分を知るためにもがき、あがいたことのない人間に、獲得していない自分を捨てることなどできようはずがない。

そして自分を捨てるとは、一旦、獲得した自分自身に頼ることをやめて、キリストへの信頼の上に立って、自分としての毎日を送るということを意味する。
それは決して、自己を放棄してキリストに成り代わろうとすることを意味しない(それは事実上、不可能なだけでなく、恐るべき思いあがりである)。
ただ、キリストへの全面的な信頼の上に立って、自分に与えられた小さな限界の中で、キリストを見上げながら生きていく道をあえて選ぶということだ。

キリスト者として生きることは、よく誤解されているように、肉的な自分を捨てて、何かしら高邁な存在となるために、自分としての性質を根こそぎ否定し捨て去ろうと努力することを意味しない。個人の生活を捨てて、どこか山里の奥深くに隠居して苦労することを意味しない。または、誰しもが牧師になるために自分の夢や人生をあきらめることをも意味しない。

キリスト者として生きるとは、むしろ自分自身としての性質に深く立脚しながら、ただ、神のご計画に信頼して人生を委ねて生きることを意味するだけだ。
その時、キリスト者の中では、その人の個性が圧迫されるどころか、十分に輝き出すだけでなく、何かその人の個性を越える普遍的なものが同時に輝き出て来る。
聖フランチェスコにも、シュヴァイツァーにも、ヘレン・ケラーにも、エミー・カーマイケルにも、マザー・テレサにもあった、キリストの似姿としての普遍的な輝きが、どのキリスト者の人格の中からも香り立つように流れ出て来るだろう。

ベートーヴェンの音楽は、彼の個性が十分に発揮されていながら、その個性の強さが決して音楽全体を損なうようなものにならず、むしろ彼の音楽性を普遍的レベルにまで高める要素の一つとして調和している。そのために、彼の楽曲は彼の個性の枠を超えて、さらに時代の好みも超えて、今もなお価値あるものとして残っている。
キリスト者の信仰生活とは、同じように、個人の個性を土台にしながら、なお個性を超える、そして時代をも超える、キリストの似姿としての普遍性を同時に持つものであるはずだと、筆者は考える。

ところが、キリスト者になりながら、その人自身の個性が十分に発揮されず、むしろ圧迫されて死滅していき、その人の人格的魅力がキリストの人格の衣を着て十分に外に輝き出ることがなく、その人本来の命の息吹がますます死滅していくような人がいる。
筆者自身もそのような道を歩んでいたことがあった。だが、そのような信仰生活は決定的に何かがおかしいのだ。

キリスト者を名乗る者の中には、「献身」を本来の自己、真実の自己からの逃避のために利用している者たちがいる。
自分が本来持っている低い自己評価(自信のなさ)から逃れようと、夢のような「献身生活」を思い描き、実際に献身することにより、飛躍的に神に近づき、人生の諸問題が解決し、自己価値が向上するかのように考えている人たちがいる。
神学生や牧師たちが「献身」への強い思い入れを語る時の、あの恍惚とした表情、自己陶酔感、自己満悦、そうしたものには筆者は早くから非常に強い疑念を抱いて来た。
そうした「献身者」たちは、自分が「特別な、神に選ばれた存在」であり、一般信徒とは別格の貴い存在であるとの確信があることで共通している。そして、その確信に立って、一般人には薄気味悪く感じられるほどの自信とプライドを抱いている。実際にはそれは何の根拠もないものなのだが…。

のっぺらぼうの言葉、文体を持たない言葉でしか語れないクリスチャンがいる。
聖書の引用文を使ってしか人と話せないクリスチャンたちの文章には、魂が感じられず、文章の背後にある人格がまるで感じられない。
そういう人たちは、実際に接してみれば分かるが、個人としての喜怒哀楽の感情を豊かに表現することができず、人格が空洞化していることが感じられる。彼らはただいかなる瞬間にも「クリスチャンとしていかにあるべきか」ということだけを念頭に置いて生活し、理想的クリスチャンを演じ続けようと必死に努力するあまり、自分自身であることをとうに放棄してしまっている。そしてそうやってひたすら自己の滅却に努めることが、信仰的なことであると誤解している。

筆者はこういうクリスチャンに出会うと、まるで遠くから何者かにリモコン操作で操られているサイボーグ戦士を見るような、非常に不気味な感覚を覚える。
本人と話していても、その人本人が、その人の中に不在なのである。

イエスが「まむしの子らよ」と呼ばれた律法学者やパリサイ主義者たちは、聖書に精通していた立派な学者たちだった。彼らが持っていた知識は、アダムとエバが蛇に騙された時に手に入れたものと同じ、人の魂を決して生かすことのできない知識であった。
クリスチャンと名乗り、宗教知識には通じているが、人格的な内容が不在のまま突っ走っているような人たちは、実は、全くキリスト者ではなく、上記のような人たちの子孫なのかも知れない。そしてそのことを彼らは無意識のうちにも知っているのではないだろうか。
このような人格不在のクリスチャンたちは、必死になって「選び」を強調する。自分たちは神に選ばれた存在であり、常に神の召しに応え続けている至高の存在であり、ただの信者に勝って、高く掲げられるべき存在であると彼らは絶えず主張している。

だが、「先の者が後になる」ことは聖書ではよくあることだ。カインの捧げものは、アベルの捧げものにかなわず、神に受け入れられなかった。長子であったエサウが弟ヤコブに出し抜かれ、父に忠実に仕え続けた放蕩息子の兄が弟の前で面子を失い、選民であったはずのユダヤ民族が十字架を理解できずに、異邦人たちに先に福音が伝えられ、高位聖職者であったはずのユダヤ教の祭司たちが、無学な大工出身のイエスにすっかり追い抜かれてしまった…。

「選び」の上にあぐらをかいて、自己満悦に浸っているような人たちは、聖書では、必ずと言っていいほど、誰かに出し抜かれて歯噛みしなければならない。
「選び」は「信仰」に勝らない。選ばれた人が皆、救いにあずかるわけではない。死に物狂いで、時には人への遠慮や、礼儀作法さえかなぐり捨てて、人の恨みを買い、人生の谷間のどん底に突き落とされながらでも、ただ最後までキリストにすがり続けた人たちが、結局は、神のそば近くに進み出ることができるのだろう。

献身とは、かつてのある日、礼拝の最中に、牧師になるようにとの召しを心に受けたとか、ある時、牧師になることを決意して神学校へ行ったとか、そんな単純なことを決して意味しない。
献身とは、日々、土の器としての自分の限界を担いながら、時には転び、まろびつつ、それでも地に足をつけた歩みの中で、キリストの似姿となることを実践しながら生きていくこと、ただ、それだけである。
献身とはこの教界で、フルタイムの牧師になった人たちが盛んに自慢げにひけらかすような専門的タームではない。献身という何か特別な行事が、人生に存在しているかのように思ったら、それは間違いだ。献身という言葉に特別に崇高なイメージを抱いて、それが自分の人生を劇的に変えてくれる行事のように思っているとすれば、それは大きな間違いだ。

人間はたった一つの行事によって、己から逃れられる(己を劇的に変えられる)ほどに単純な存在ではない。人はどのような難行苦行を経ようとも、生まれ持った自己からは死ぬまで逃避することはできない。にも関わらず、献身により、自己を放棄できたと本当に信じて、そのことを誇っているような人々は、何か考え方が根本的に誤っていると言えよう。
キリスト者の生活は、本来、その人の個性に深く根ざしたものであり、優等生的なクリスチャンを演じ続けることによって、自己から逃避することとは正反対である。
仏教の悟りと同列に並べることはできないにしても、キリストへの献身とは、本来、人が生涯かかって成し遂げるべき大仕事なのだ。自分自身でありながら、キリストの似姿として生きるとはどのようなことか、一生かかって学び続けなければならない。宗教的知識を持っていることは、決して、必ずしも、その人が本当にキリスト者として歩んでいることを意味しない。

自分の教会から、そして世間からどんなに尊敬を集めて、高い地位にあろうとも、社交的で、礼儀正しく、温厚に見える人物であろうとも、暇な時間、ネットの前に座り、自分の名前を検索サイトに打ちこみながら、自分に対する世間の評判をいち早くチェックして、不都合な言動があれば、サイトの管理人に真っ先に苦情を申し入れようと、人々の言論を監視しているような牧師には要注意だ。
自分のみてくれに多大な気を配り、「選ばれた存在」である「神への奉仕者」としての自分自身の崇高なイメージを誰にも汚されまいと、日夜、信徒たちの言動に細かく気を配っているような牧師には要注意だ。

土の器としての人間の性質は一生消えることはない。その惨めな性質も、無力も、一生消えることはない。だが、その限られた可能性の中で、あえて無限の神の力を束の間の閃光のように内側から輝かせることが、キリスト者の生活であり、キリスト者の醍醐味である。
なのに、信徒の個性をただ罪深いものとして全面的に捨てさせようとする牧師がいるとすれば、そのような態度は根本的に間違っている。
個性的な人生を奪われ、感情さえも滅却してしまった上で、奉仕と献身にひたすら突き進む無感覚なロボットとして生きることが、神への麗しい献身であり、信仰生活であるとうそぶく人たちに騙されてはいけない。
教会で奉仕にいそしみ、メッセージを語り、教会で開かれる聖書勉強会に足しげく通っていれば、信仰が前進するかのような思い込みを抱かされてはならない。

信仰者の生活とは、もっともっとその人の個性に根ざした、その人しか生きることのできない生活を指している。献身とは日々の暮らしの中で、その人がキリストを見上げることそのものである。

2008/12/29 (Mon) 雑感 Comment(0)

結論: 教会から脱出せよ。最後に残るのは借金。教会を見舞う詐欺。

かつて、ニーチェやドストエフスキーが20世紀を目前にして、来るべき世紀の大衆社会が行き着く先はファシズムであると予見した。その後も、資本主義の末路がファシズムであることは多くの人々によって指摘されたが、資本主義に対抗すべく生み出された社会主義もまた全体主義という同じ破滅の道を辿った。
すなわち、20世紀の大衆社会は、経済体制に関係なく、その社会の末期症状としての全体主義、ファシズムという副産物を生んだのである。

これまで見て来たように、「教会のカルト化」という問題は、ニッポンキリスト教界の歪んだ社会そのものに根があり、いわば、カルトはニッポンキリスト教界の歪んだ社会が必然的に生み出す副産物であることを我々は理解した。
ここから、さらに議論を一歩進めれば、カルト化はニッポンキリスト教界全体が避けて通れない運命的な末路であると言うことができる。

あらゆる証明段階を省いて、ただ結論だけを述べるなら、ニッポンキリスト教界全体にはカルト化以外の将来は全くない。カルト化はニッポンキリスト教界全体の運命的な末路である。だから、今、教界に関係しているクリスチャンは、この組織から逃げなさい。教界全体がファシズムに至らない前に、まだ選択の自由が残っているうちに。それが筆者が「教会のカルト化」問題に関してクリスチャンに言えることの全てである。

多くの信者が、実際に教会を離脱するに当たり、さまざまなしがらみを感じてためらう。教会に置いているたくさんの「荷物」、そのしがらみを断ち切らない限り、組織との縁を切ることはできない。

ウォッチマン・ニー氏が真の信仰とは何かを考えた際に、教団教派の存在を否定し、聖書的根拠を持たない教団と訣別すべく、教会籍を抜いたことは知られている。(時代の先見者ウォッチマン・ニー 「宗派を離れ去る」参照。「…わたしはこの会話から、自分がメソジスト教会の会員として、一種の協力関係にある、ということを知りました。たとえメソジスト教会のいっさいの制度に、事実上、加わっていなくても、名義上では、関係がない、と言うわけにはいきません。もし主に従いたいなら、ただ行ないの上でメソジスト教会の会員にならないだけでなく、名前をも、メソジスト教会から取り除かなければなりません。」)

筆者もここしばらく、教界に置いてきた「荷物」である自分の教会籍のことを考えていた。
筆者はアッセンブリーで洗礼を受け、長い間、アッセンブリー教団の信者であったが、その後、フリーメソジスト教団によって教会籍を半ば奪われてしまったような状態にある。
多くの信者が、カルト化した団体を離れる際には、脱会の手続きを取る。村上密氏は記事(2008年12月8日)の中で、脱会は信者からの強い抗議の意志表示であるから、信者が脱会の手続きを取ることで、その団体にある程度の打撃を与えることができるとしている。

確かに、脱会しない限り、筆者はその教会の人員に数え続けられることになるのかも知れない。そうすると、そのひどい教会に対しても、筆者は何がしかの共犯関係にあることになるのだろうか? そのことで、目に見えない道義的な責任を負うことになるのだろうか?
「教会籍」というカルト的教団に置いてきた荷物を整理するために、筆者はあの団体にもう一度、戻り、彼らと接触すべきなのだろうか?
だが、それ以前に、そもそも「教会籍」とは何なのか、そのことから改めて考えてみよう。

この「教会籍」については、ずっと前から、筆者は考えさせられて来た。今から10年以上前、アッセンブリーにいた頃、筆者はこの教会籍制度のために、多くの信徒が不当に苦しめられているのに気づいた。当時、筆者がいた教会の中でも、信徒の教会籍を、牧師が信徒の自由を奪って教会にとどめ置くために、脅しのように利用している現実が見られた。

身勝手な牧師たちは、決まって、一旦、自分の教会に獲得した信徒を失うことに、強い拒否反応を示す。それは信徒を失うことが、自分の権勢を縮小することにつながると彼らが解釈しているためである。
信者が転会を希望しても、牧師が承諾しないことはままある。転居などのやむを得ない理由や、他教会への出張奉仕を目的とする転会であるならば、牧師は拒絶しないことが多いが、牧師と真っ向から対立して教会を去っていくような信徒に対して、牧師がスムーズに転会の手続きに応じることはこの教界ではまれである。

むしろ転会を申し出た信者への嫌がらせと、転会を阻止する意味を込めて、牧師は信徒の教会籍をいつまでも手中に握り続け、決して返そうとせず、信徒が転会を希望する先の教会へも送ろうとしないことがよくある。当時、そうやって教会籍を失ったまま、泣く泣く転会していかなければならなかった信徒の例を筆者はいやというほど見聞きしてきた(自分もまたそうなるとは予測できなかったが…)。

さらに、多くの「幽霊信徒」の存在が教会内にある。とうの昔に、何かの理由のために、教会に来なくなっているのに、いつまでもその教会に登録されたままの幽霊信徒たち。このような人たちの籍とは、一体、誰のために教会内に存在しているのだろうか。

さらに、教会に残っている多くの信徒たちは、「きれいな教会籍」を残しておくために、別の教会に移りたいと願いながらも、その決断をためらっていた。教会をあちこち変わると、それが籍に記載されて残ってしまうことを彼らは気にしていた。まるで戸籍に関する日本人の古来の考え方のように、教会を転々とすると、「教会籍が汚れる」という考え方をしている人々がいた。
また、「ジプシー・クリスチャン」という言葉も、その頃、まるで転会を希望する信徒への聖職者側からの脅し文句のようにあちらこちらで耳にした。それは、「複数の教会をジプシーのように勝手気ままに渡り歩きながら、結局、どこの教会にも定着できずにいる無責任でわがままな信徒。キリスト教社会のはみ出し者」というような侮蔑的な意味合いを込めた呼び名だった。

教会のみならず、色々な場所で、組織に定着できないことが、個人のわがままであるとしか見られないような時代だった。「ジプシー・クリスチャン」と教界から見なされることを恐れるあまり、転会したくてもできない信徒たちが現実にいたことを筆者は知っている。

今から9年程前、筆者はアッセンブリーのある伝道師に、このような教会籍という制度のあり方はおかしいのではないかと質問した。結果、得られた回答は、教会籍は、欧米の教会にはない制度であるにも関わらず、キリスト教を伝統文化の土壌に持たない日本においては、キリスト教布教のためにこの制度がぜひ必要であると判断されて早くから導入された、今となってはいかんともしがたい、というような内容であった。

その後、筆者の身近でも、教会籍を理由にした問題が起こった。ある知り合いは、アッセンブリーのとある教会で信仰に導かれ、洗礼を受けようと決心したが、教会で受けた洗礼前講座で、洗礼を受けるための心構えの一つとして、洗礼前に洗礼誓約書を教会に提出し、その教会の教会員となる誓約をしなければならないと説明された。彼は洗礼を受けることが、なぜ教会に会員登録することに直接、結びつくのか理解できず、そのことで牧師と議論したが、牧師側からは彼にとって何ら明確な回答と思われる返事が得られなかったため、結局、洗礼も誓約も両方、断念するに至った。この話を聞いた時、筆者は随分、やるせない気がした。

多くの教会では、教会で洗礼を受けることが、すなわちその教会の会員になることに等しいと、まるで当たり前のように説明されている。
教会員になると、日曜礼拝への出席義務から始まって、奉仕の義務や、献金の義務など、組織としての教会を維持していくために信徒として協力する義務が生じる。
では、教会員になることで、信徒に何か権利が生じるのだろうか。それに対する答えはあまりに貧弱だ。
一般的に、在籍年数が少ない信徒には、役員になる道が開かれておらず、教会内で意志決定権を求められる場が(年一回程度の信徒総会の他に)ほとんどないことを考えれば、会員になったからといって、特別に生じる権利は(投票権を置いては)ほとんどない、と言えよう。

教会をただ使用するだけなら、会員でなくとも可能である。教会はノンクリスチャンにも開かれているし、礼拝堂を使うことも、礼拝に出席することも、聖餐式に出席することも、聖書勉強会に参加することも、ゴスペルなどの活動に参加することも、他の信徒と交流することも、牧師の指導を仰ぐことも、会員でなくてもできる。
願い出るなら、会員でなくとも、教会の収支報告を閲覧することもできるであろうし、牧師の理解を得られれば、週報棚に自分の場所を作ってもらうことも十分に可能だ。

従って、教会員になって、教会籍を持ったからといって、何か特別に大きなメリットが信者の側に生じるということは全くない。むしろ、まるで重いローンの返済が始まるように、教会員になった途端、教会への諸々の義務が発生してくるのだ。

本来、キリストを信じて洗礼を受けることと、特定の社会団体の一員になるということは、全く無関係の出来事であるはずだと筆者は思う。にも関わらず、洗礼を受けることと教会員になることが、直接イコールで結びつけられている現状に、疑問を抱かない方がおかしいのだが、このことに聖書的根拠を見つけることは不可能なのではないかと筆者は考えている。

一般的に言って、洗礼を受ける前後の信者の気持ちというものは、生涯を通じて、最も信仰的に純粋な時期であろう。それは人の心が最も無垢で、打ち砕かれている時であり、逆にいうと、非常に無防備になっていて人を信用しやすく、不安定で危ない時期でもある。
イエス・キリストの十字架への感謝の気持ちや、自分を信仰に導いてくれた信仰の仲間たちへの信頼、今までの身勝手な自己に死ななければならないという決意、そして回心してから始まる新しい生活への期待…、そういった楽観的で夢のような期待が膨らみ、逆に自分の現実生活は変容を迫られるべきであり、大したものではないと感じている。教会や信徒に夢を抱くあまり、人間に対する警戒心は極端に弱まっている。

このようにして、ある人が神に対しても人に対しても、最も深く心を開いて信用する方向に傾いている時に、教会は彼にただ洗礼という恵みの素晴らしさを語るだけでなく、彼が気づかぬようにこっそりと、そこに本来、信仰とは関係ないはずの、教会組織への忠誠の誓約という「要らないオマケ」を忍ばせる。

洗礼と同時に、彼は教会を維持する義務を負うことへ同意するよう求められる。
多くの人はこの仕掛けに気づかず、当然のこととしてそれにサインする。
そして後になって、内容のない虚しい礼拝や、堂々巡りの会議への出席義務や、終わりなき興行的催しを支えるための消耗する奉仕や、黒字が決して信徒に還元されることのない教会財政を何とかするための多額の献金という、予想よりもはるかに重い年貢を払い続ける義務が、いつの間にか、自分に課せられていることに気づいて、首をかしげねばならない。

もちろん、全ての教会が洗礼を必ずしも教会への会員登録とワンセットにして提供しているわけではない。アッセンブリーの中でも、このことについては異論があるかも知れない。
だが、信徒の方から特に疑問を持って、自分から拒否でもしない限り、この教団の多くの教会では、洗礼を受けることが教会員になることと同一視され、当然のように信徒に課せられていることは事実である。いや、それはアッセンブリーに決して限らない話であろう。

多くの教会は、その団体の教会員となることが非常に有意義なことであると信徒に思わせている。信徒の交わりに正式に受け入れられることは名誉なことであるとされ、教会組織のために奉仕することは、すなわち、神に仕える名誉ある仕事であるとされている。
だが、名誉ある信徒の交わりは、会員が教会に通い続け、金を払い続けている限りにおいてしか保たれない。すでに述べたように、「カネの切れ目が縁の切れ目」であり、会員が教会に通わなくなると、たちまち、教会からの連絡は途絶え、週報と諸通知の郵送さえストップする場合も少なくない。あるいは献金袋だけが送られてくる例もある。
幽霊会員になった会員には、信徒総会があっても、何の通知もないのが当然であるし、礼拝へ出席しなくなってどんなに年数が経った信徒に対しても、信徒が自分から望まない限り、教会から彼に教会籍が返却されることはまずない。
こんな薄っぺらい関係が、聖書の言う「信徒の交わり」の実態であるはずがない。

神は時空間を越える存在である。従って、その神の力により、血肉を越えて霊的絆によって結ばれたはずの兄弟同士であるキリスト者たちは、本来、時空間にとらわれない絆によってつながっているはずであり、そこで、信徒たちが互いに、特定の時空間に制限されたつきあいしかできないというのはおかしい。
ところが、今日のニッポンキリスト教界では、キリスト者を時空を超越した神の力から引き離し、ひたすら限定された時空間へ閉じ込めようとする強力な力が働いている。

同じ会堂で、キリストの身体として、同じパンを共に裂き、イエスの血であるぶどう酒にあずかった信徒たちは、互いに同じ血流の流れる同じ細胞を持つキリストという身体の肢体であることを互いに確認し合ったはずである。
そうであるならば、本来、信徒がどこへ行こうとも、何を考えようとも、これらの信徒が、キリストの身体としてつながっている事実は永遠に変わらない。

にも関わらず、キリストの身体であることを確認しあったはずの同胞の交わりの永遠性を、今日の教界は少しも認めていない。一つの会堂、同じ礼拝という限られた時空間にもはや身を寄せなくなった信徒に対して、他の信徒たちはあまりにも簡単に同胞意識を捨ててしまう。
教会という限定された時空間の中でしか、信徒の交わりは有効性を持たず、その時空間を離れた信徒に対しては、まるで彼が「別の縄張り」に寝返って敵となってしまったかのようなよそよそしい態度を取る。そして「別の縄張り」に手を出すことを恐れているとしか思えないような逃げ腰な態度で、かつての同胞にコンタクトを取るのをやめてしまう。

このようなかつての同胞信徒たちの態度が随分冷たいものに思われるために、傷つく人がいても無理もない。だが、このことは、今日の教界における信徒の交わりが、一個の教会という限定された時空間の中で演出された、その敷地内でしか効力を発揮できない一種の虚構であり、ショーであり、仮想現実であると考えれば納得できるだろう。
ディズニーランドやUSJで行われるショーは、その施設の中にいるうちはまるで現実のことのように感じられ、楽しめるが、公園の敷地を一歩外に出れば、厳しい現実の中に、幻のようにはかなく消えてしまうヴァーチャル・リアリティの世界だ。それらのショーは限定された時空間の中で、人を酔わせるために、相当に計算ずくで様々な演出効果を用いることによって、かなりのリアリティを持った仮想現実に仕上げられている。

礼拝を始めとして、今日の教界で行われる様々な催しや交わりは全て、このような仮想現実に相当、近いものである。キリストの無限の力によって自由な交わりを作り上げるのでなく、計算されつくした人為効果を様々に駆使して作り上げる一種のショーになってしまっているからこそ、教会組織の外に一歩出た途端、あったはずの信徒の交わりさえ幻のように消えてしまうのだ。

人が現実の様々な物体から精巧な模型を作り出すように、様々な行事という仮想現実の舞台を演出することにより、キリストによる自由で永遠の結びつきを持つ信徒の交わりの模型を作り出しているのが今日の教会の姿である。模型は模型であって、決して物本来の用途に用いることはできない。どんなに美しく精巧に出来ていたとしても、しょせん、しばらくの間、本物であるかのように人を欺くことができるだけで、それによって人が満たされることは決してない。

このことについては、Mr.Sugar氏がブログ「山暮らしのキリスト」の中であまりにも見事な表現を用いて問題の核心を突いているので、ここに彼の文章をそっくり引用することをどうかお許しいただきたい。

「安定でなく唯一点キリスト」(2008年3月5日)
"人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。
即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能
が働いているのです。

その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。
<中略>
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。
そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。



教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

「臨機応変、伸縮自在、進出鬼没」(2008年7月20日の記事)
"エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。
そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です。

このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。 "

(太字は筆者による強調)

ニッポンキリスト教界は、教会籍制度を導入することにより、信徒を限定された時空間に固定しようと努めているだけでなく、信徒を数値化し、人格を持った存在としてではなく数として背番号をつけるかのように扱い、さらには幽霊信徒を作り出すことによって、相当に、信徒数を水増ししてどこへやら報告しているものと考えられる。
現在、日本ではクリスチャン人口は総人口の1%以下と説明されているが、そのパーセンテージさえ、多くの水増しを含んだものである可能性がある。一体、事実上のクリスチャン人口はどれくらいなのだろう。

このような教会籍制度というものの存在は、多くの信徒にとって躓きの源となってきた。
教会籍制度は、一言で言えば、教団組織の生き残り策として導入されたものであり、教団側にとってだけ都合の良い性質のものであり、もちろん、聖書的根拠はない。それは元々、信徒のために導入されたものでなく、信仰的な意味合いから導入された制度でもないのだから、それが信徒に不当な圧迫や苦しみをもたらしたとしても不思議ではない。
多くの信徒が、この教会籍のために、まるで農奴制時代の農奴のように、移転の自由を奪われて、居たくもない教会に不当に留め置かれているのが現実なのだ。

さらに恐ろしい問題として、筆者はアッセンブリーに在籍していた時に、多くの高齢信徒が教会を離れたくても離れられない理由が、墓地にあることに気づいた。
高齢の信徒にとっては、特に、死後、教会の墓地に入ることが、手放すことのできない目前の利益となっているのだ。無縁仏になることを恐れるように、高齢のクリスチャンたちは教会を離れると、入るべき墓を失ってしまうことを恐れている。
そして教会はそのような信徒の恐れを巧みに利用して、高齢信徒が教会から離れられないように仕向けている。死んだ後の処遇への恐れが、生前の信仰生活から自由を奪っているのである。何という恐ろしいことであろうか。

筆者は自分の教会籍が悪徳牧師によって奪われてしまった時、アッセンブリー内の教会に相談をもちかけ、随分な犠牲を払って遠い教会にまで足を運んだが、それにより筆者の問題は何一つ解決に至らなかった。それどころか、筆者の側から転会を望んだにも関わらず、現在、教会に通えない状態にある筆者に、その教会から一通の週報さえ送られて来ることはなかった。
これは仲間とみなされていないという通告に等しい。

アッセンブリーは筆者が洗礼を受けた教団であり、長年、関わってきた教団だが、アッセンブリーの方で、筆者を大切にしようとする動きはこれまで全くと言っていいほど見受けられなかった。
筆者が子供の頃から、長年、仕えてきたN教会は、約10年前、T牧師の罷免騒動という事件のために信徒が真っ二つに分裂、信徒の大量離脱が起こり、教会組織は半ば崩壊しかけた。今もこのN教会はその事件の余波から立ち直っていないが、T牧師を辞職に追い込んだこの教会の「謀反人信徒ども」への教団側の眼差しは極めて冷ややかなものであると感じざるを得ない。

教団にとっては、教会も信徒もただの金づるであり、収入源でしかないのだろう。長い間、奉仕と献金という形でN教会に忠実に仕えてきた信徒たちを、教団側はただ捨て置いただけであり、そして今も見捨て続けている。筆者だけではない。筆者の親族と知人も含め、この教団と教会の存続のために、どれだけ大勢の人たちが、何十年間、膨大な月日と労力と資金を投入してきたことだろう。
なのに、この教団が現在、そういう古参信徒のためにしてくれていることは何一つない。離散した信徒を呼び戻そうとの動きも一切見られない。ただ巻き上げるだけ巻き上げて、尊敬も払わず、感謝もなく、これ以上、搾り取れないと判断したら、ポイ捨てしただけ、いや、初めから使い捨てにする目的で信徒と関わってきたのか、そう見られて全く不思議はない。

アッセンブリー教団には、一度、牧師への謀反に関わった疑いのあるような信徒は、誰一人、二度と、この教団には要らないという不文律でもあるのだろう、そう想像せざるを得ない。

T牧師と深いつながりがあるアッセンブリーのある牧師は、筆者に面と向かってこう言った、「ああいう事件があったおかげで、日本社会には危険な教会もあるということが分かって、あなたはかえって勉強になったんじゃない?」
全く、何という呆れた情けない台詞であろうか。夜道で暴漢に襲われた人に対して、「これで世の中の恐さが分かって、あなたも勉強になって良かったでしょう」と言う人があるだろうか?
そして10年ぶりにT牧師の姿を筆者は見ることができたが、彼は親族の取り計らいにより、まだ教職を続けていただけでなく、「私は証になるような死に方がしたい」と豪語していた。それを聞いた時、筆者は心の中に寒々とした風が吹きぬけるような思いがした。

あなたは、まだそうやって己の力によりすがって生きているのか。
未だに己の力によりすがった信仰しか、持てないでいるのか。
あなたの自己中心性のせいで、どれほど多くの信徒が教会を失い、信仰の灯火さえも失いかけて、悩みと孤独のさ中でさまよわなければならなかったか。
T牧師よ、あなたが「証になるような生き方」をできていれば、こんなにも大量の信徒があなたに躓くことはなかった。
私は教会に躓いたことで、自分を石に打ちつけられ、粉々に砕かれた。
自分のそれまでの信仰がいかに間違ったものであったか、教界に騙されたことによって直視せざるを得なくなった。N教会の多くの信徒がそうであっただろう。
だが、信徒の躓きの原因を作り出したあなたは未だに、人には、自分の力で「証になるような」生き方も、死に方もできないということが分かっていないのか。未だ自分は人の模範となるべく召しを受けた人間だと思い込み、存在しない崇高な自己を隠れ蓑に使って、本当のあるがままの自己の惨めさから目を背け続けているのか…。

キリスト者の歩みとは、己の決意と努力によっては、何一つ良いものを生じ得ないことを理解して、己を捨てて、キリストに委ねることの連続でなければならないはずだ。なのに、死を間近にしても、自分の力にしがみつき続け、自分の力を過信している牧師とは一体何なのであろうか。その自己中心主義こそが、彼の牧会生活に破滅をもたらした最大原因であるというのに!

一つや二つの教団が腐敗に陥っているだけでない。今、教団教派を問わず、このキリスト教界全体が、偽りの教えの風に惑わされ、恐ろしいまでの人間の数値化と拝金主義に堕ちてゆき、堕落の中で最期の時を迎えようとしている。なのに、組織の側に立っている人間には、誰にも、その破滅が確かなものとして見えていないのだ。
アッセンブリーとフリーメソジスト、二つの教団に、筆者は沢山の「荷物」を置いてきた。
もはや取り返すこともできない歳月と多くの労力。人生のたくさんの行事と大切な記憶。教会籍。

だが、筆者はこれらの「荷物」を力ずくで取り返すことはやめようと考えている。
もしも教会籍が残されているために、筆者とあの教団との間に何らかの目に見えないつながりが今でも生じるとするなら、そのつながりに応えるべきは、筆者のみならず、教団側もまた同じであるはずだ。
教会籍のために、筆者に教団に対する何らかの義務が生じるとするならば、教団側にもまた筆者に愛を示し続ける義務が生じているはずだ。教会籍とは、本来、そういう双方通行のものでなければおかしい。
従って、神の前に、教会籍のことで責任が問われるとすれば、それは教団もまた同じはずなのだ。

いつか、教団の要職にある人々が、神と人との前に、果たすべきであった義務を問われる時が来るだろう。信徒の義務だけを一方的に強調し続けてきた牧師たちが、主の前で、あるいは社会の前で、牧者としての自分自身が果たすべきであったにも関わらず、果たしてこなかった大いなる義務について責任追及される時が来るだろう。その時、大量の幽霊信徒たちの教会籍が、彼らにとってまことに不利な証拠となるに違いない。

かつてソビエト体制が崩壊した時、あの国から大量の国家機密文書が流出したことは今もまだ記憶に新しい。過去にソビエト国家が市民に対してどれほどの悪事を働いてきたかをつぶさに示す公文書が終わりなく発見され、国家によって不当に粛清された人々の悲劇の運命も、その公的記録には含まれていた。

同じように、いつか、ニッポンキリスト教界が崩壊する時、そこから大量の公的記録が流出する日が来るだろう。その中に、筆者の教会籍も含まれているかも知れない。
誰が牧者であり、誰がハイエナだったのか。それが人々の目に公然と明らかとなる日が来よう。
その日が来るまで、裁きは主の御手に委ねたい。

真の信仰者の国籍は天にある。その輝かしく自由な国籍は、永遠の権利として信徒に保障されているのであり、地上の国籍のように限られた時空間にしか通用しない有効期限付きのパスポートではない。
それを確かに手にするまでの期間、クリスチャンはこの世のどこにも定住することができない寄留者であり続けるだろう。彼の姿は、時に勇敢な遊牧民のように見え、時に打ち捨てられたやもめのようであり、風雨にさらされても帰る場所を持たない哀れなジプシーのように見えるかも知れない。
だが、この世にあっては寄留者であり、どのようなパスポートによっても地にとどめおかれないことは、クリスチャンの本質である。

教界がどのように信徒の固定化のために教会籍を用いようとも、信徒に与えられた信仰の火はそんなものによって決して消されることもなく、押しつぶされることもないことが証明されよう。
主はくすぶる燈芯をも消される方ではない。限定されたルシファーの時空間から、同胞であることを否定されて叩き出され、失意のうちにある兄弟姉妹たちの心の灯火が、この終わりの日に、人間の努力によってでなく、主の力によって息を吹き返すであろうことを筆者は信じている。
砕かれた骨に命が吹き入れられるように、教団側から死んだとみなされた信者たちの信仰が蘇る日が来よう。

そして、繰り返すが、ニッポンキリスト教界が崩壊するその日まで、決して、善良なクリスチャンがこの教界の中にとどまっているようなことがないように、筆者はもう一度、呼びかけたい。
筆者がすでに耳にしているところによれば、多くの教会はすでに深刻な財政危機を目前にしている。現時点で、全国の教会を見渡しても、立派な会堂の建築ローンが赤字として残っていない教会の方が少ないものと思われる。そしてこれらの経営赤字の重荷が、いずれ信徒の肩に直接、のしかかってくることは当然のごとく予想できる。

ある教会は、礼拝堂のローンを終わらせるために、教会債の発行に踏み切ったと聞いている。教会が信徒に一口何万円かの教会債を分担して買わせることにより、信徒たちにワリカンで借金を負担させ、ローンを完済したのである。

だが、教会債とは何なのか。それは法的には何の有効性も持たない紙切れであり、信徒が将来的に教会債を換金しようと教会に働きかけても、その時、教会に金が残っている保証はどこにもない。その時点で、教会がすでに財政破綻していれば、その借金は永遠に返済されないだろう。つまり、教会債という建前で、信徒は教会のローンを自腹を切って支払っていることになりかねないのだ。

教会債などというものを信徒は買ってはいけない。不当な借金を負わされる前にそこから逃げなさい。義理も人情も関係ない。この世の組織としての教会と一緒に心中しなければならない義務は信徒にはないのだから。人間関係がおかしくなって、牧師が独裁的になっているような教会に、自分の気持ちを無視してまでも、信徒が残らなければならない義務はどこにもない。教会籍も、在籍年数も関係ない。役員としての義務も、墓もまた関係ない。裸一貫になってもいいから、そこから逃げなさい。

主よりも組織を優先するような信仰になってはいけない。主の前に正しい生き方をすることよりも、人々に義理立てすることを優先するような人間中心の信仰になってはならない。組織への信仰は偶像礼拝の第一歩である。あなたが主の前に心清らかでいられさえすれば、あなたの全ての必要を整えるのは主ご自身の仕事である。牧師があなたの未来を握っているわけではない。人の全ての必要を満たしてくださる方は主の他にはない。組織ではなく、主への信仰に戻りなさい。
ニッポンキリスト教界の教会から逃げなさい。
筆者が教界の中にいる善良なクリスチャンに言えることはそれだけである。

最後に、恐ろしい予測がある。財政危機に追い込まれたニッポンキリスト教界を、最後に、詐欺が見舞うというシナリオである。Dr.Luke氏が彼のミニストリーに送られてきた手紙をブログで公表しており、このようなことがすでに各地で起こっているので、知恵ある者は注意されたい。
今、悪しき企みを抱いている何者かが、日本の教会がどれもこれも深刻な財政赤字にあることを見抜いた上で、そこにつけこもうと海外から狙っている。クリスチャンを名乗る何者かから、またはどこかの由緒あるキリスト教団体から、多額の金額の寄付の話が教会にもちかけられる時は要注意だ。
本当に財政危機にあって困っている教会は、藁にもすがる気持ちで、その提案に飛びつきかねない。いや、多くの日本人がこの嘘をすでに見抜いているので、相手は次回から、もっと巧妙な方法を使って来るだろう。
このような提案は、ニッポンキリスト教界が今後、避けては通れない一連の苦難の前哨戦としての大がかりな詐欺がすでに始まっていることを意味する。

財政難の上に、詐欺で生じた借金まで信徒が負わされるいわれは全くないから、ニッポンキリスト教界のような団体から信徒は早く離れた方がよろしい。今まで信徒をむさぼり食ってきた教界は、自身が何者かによってむさぼり食われることによって最期を遂げると考えられる。「悪者どもは騙し、騙されながら、悪道に堕ちていく」のだ。そんな恐ろしい時が来るまでこの団体に残っていてはいけない。

宇宙の星たちが役目を終えると爆発して死んでいくように、この世のあらゆる組織や団体は、社会において何らかの役目を果たし終えると、崩壊し、消えていくと筆者は考えている。会社ならば倒産しておしまいになる。会社が消えゆく場合にも、そこには社長や社員の自殺、未払い賃金や、夜逃げ、家族の崩壊など、あらゆる個々の悲劇のドラマがある。一つの社会全体が末期状態に陥った時、それはファシズムという末期症状を生み、そこで悲運に巻き込まれる人は数知れない。

ニッポンキリスト教界はすでに爆発前の末期段階に入っている。日本からキリスト教組織全体がすっかり消えてしまうことはないと思われるが、少なくとも、現在のような形態の教界は来るべき時代の試練に決して耐えることができず、一旦、根こそぎ焼きつくされるだろう。そう、Salt氏が記事(12/02 No.1772「復活」)に書いているように、「世俗的教会にはこの世で自己実現できない極めて魅力の乏しい人たちが身勝手な救いを求めて群がるので、神はこれをゴキブリホイホイのように館ごと焼却されるだろう。」 そうだ、限られた時空間に閉じ込められ、もがいているうちに、信仰の息吹を失ってしまった信徒の死骸がいっぱいに詰まった「ゴキブリホイホイ」が、やがて家ごと焼きつくされる時が来る。その後で到来するであろうキリスト教組織は、前のものよりも、もっと恐ろしいものになると筆者は考えているので油断がならないが、とにかく、組織に対する信仰は死ななければならない。

クリスチャンの方々、どうかホイホイと共に焼きつくされるゴキブリにならないで下さい!!



補足:
「教会のカルト化」問題」を考察するにあたって重要な参考資料として引用します。
「Mr.Sugar氏のブログ「山暮らしのキリスト」の記事「家々 Vs. シナゴーグ」(2007年6月28日)
「人の命はライフ、生活もライフ、人生もライフ、みな同じライフである。
神は明らかに、とりすましたワンセットの 時間と場所が固定された
日曜礼拝などではなく 人の普通のライフが好きなのだ。
無制限な復活のキリストが
礼拝堂の中 日曜日の10時半からの1時間のみに
限定されることなど決して無いのである。」

同上、「集まりに見る復活のキリストVs.固定化」(2008年5月2日)から引用。
「復活のキリストの表現としての当時のエクレシヤと集会の姿は 
現今のキリスト教に見られるようなあり方とは全く
似ても似つかないものであった事は誰の目にも明らかです。
しかし、私達が決して看過出来ないポイントは その両者は 極端な対極に
さえ位置していると言う事実にあるのです。今日 大手を振ってまかり通って
いる「固定化現象」はどうでもよい問題ではなく、神と復活のキリストに
真っ向から対立する何物かである、と言うことです。」

最後に、何の申し合わせもなく、筆者が記事を上げたのとほぼ同時期に、山谷少佐がブログの記事(12/25)の中で、悪魔による三つの誘惑に触れられ、また、Salt氏がプロテスタンティズムの問題点に言及(12/16 「主の前の独り」No.1285)されていたことは、本当に驚くべきことでした。

<つづき 3>

 甲の当惑をよそに、若者だけが静かに話を続けた。
「イエスの目の前で、悪魔が描き出した地上の王国の幻の中には、地上の全ての豊かさが含まれていただけでなく、人類全体の幸福もありました。そこではユダヤ民族は、もはやローマ人の圧制の下になく、地上には苦しみも圧迫も重税もなく、イエスの名はユダヤ人の解放者として皆に讃えられていました。使徒ペテロやアンデレの幸せそうな姿が見えます。ユダヤ人たちは皆、地上のくびきから彼らを解放してくれたイエスを王として誉めたたえ、感謝しています。その王国の中には、誰一人、横暴や苦難、貧困や病気に耐える者はいません。全ての人が安全でいられ、もはやどこにも苦しみや病のない幸福な世界…、そのような世界をぜひとも創造してはどうか、そのために必要な知恵を貸してやろうといって、悪魔はイエスを誘惑したのです。
 悪魔は、イエスが人間社会を幸福にしたいと心から願っているのを知っていました。そこで、あらゆる人間を幸せにしてやれる知恵が自分にはある、人間社会を苦しみや病から解き放ち、不公平のない平等なものにするための知恵が自分にはある、悪魔はイエスにそう言いました。神が創った世界は矛盾だらけで、苦しみに満ちていますが、悪魔の自分には、人間をあらゆる苦難から解き放ち、幸せにするためのより良い知恵があるのだ、だから、この自分を頼って理想の王国を建設してはどうかね…、そうやって悪魔はイエスに話をもちかけたのです。

 甲先生、先生の敗北は、ずっと前から、少しずつ始まっていました。甲先生のカルト救出活動は、最初は傷ついた一人ひとりを愛で覆うために行われていたはずですが、いつの間にか、それが『人類の幸福』のためのプロジェクトにすり変わっていったのです。
 主は『小さき者』を憐れむようにと、先生のもとに遣わされました。世の中から見捨てられ、道具にされている人々を先生のところに送り、彼らに愛を示すように先生に求められたのです。なのに、いつの間にか、先生の救済活動は、『小さき者』一人ひとりに、十分な愛を示すためのプロジェクトではなくなって、先生がご自身の権勢を拡大し、その力によって、世の中の構造を覆し、地上の圧制をなくすというプロジェクトにすり変わっていったのです。

 イエスはローマ帝国に立ち向かって、ユダヤ人をくびきから解放することを決して伝道の目的にはなさいませんでした。もしそうしていれば、イエスは大勢のユダヤ人を自由にすることができ、多くの貧困と圧迫をなくすことができたはずで、きっと多くのユダヤ人に感謝されていたことでしょう。何よりも、彼が十字架にかかったときの、信徒たちのあの失望はなかったことでしょう。けれど、イエスは決して、地上的支配からの解放を目的にされず、また、解放される人の人数や、解放の規模には注目されませんでした。

 それぞれの時代には、それぞれの権力があり、支配の形がありますが、イエスの伝道は、決して時代の権力構造を覆すための政治闘争ではありませんでした。人の心に、時代を超える、普遍的な愛の種をまくことが彼の使命だったのです。イエスは、ローマ帝国がもたらしたくびきからの解放を願っていた多くの信者たちに失望され、見放されることを分かりながら、それでも、少数の信徒たちの心に、本当の真理の種を蒔くことこそが、神の御心にかなう行いだと知っていたのです。

 神は決して、教会の規模や信徒の人数に注目されることはありません。神のプロジェクトはいつだって、量ではなく質が求められるのです。なのに、甲先生のプロジェクトは、一人ひとりに十分な質の愛を示すことから離れて、いつの間にか、量を確保することや、規模を拡大すること、政治闘争に打ち勝って、この時代に権勢を誇示することを目的に変化していきました。

 先生が最近、支援する被害者を選んでいらっしゃることをぼくは知っています。どんなに痛ましい、正義を曲げるような訴えを耳にしても、その被害者が孤立していたり、精神的に不安定であったり、裁判になりそうにもない小さな事件だったりして、その被害者を援護しても、ご自分に利益がないと判断された場合、先生はそのような事件には巧みに関わらないように、避けておられます。
 さらに、甲先生はボランティアと言いながら、かなりの謝礼を受け取ってきています。必要経費は全て被害者に支払わせて、ご自身が自腹を切って彼らを援助せらねばならないような状況になることを、極力、避けておられます。

 主はこうおっしゃいました、『私から遣わされたということで、この小さき者に水を一杯でも飲ませたなら、それは忘れられることはない』と。けれども、甲先生は、『小さき者』に飲ませる一杯の水を、被害者に有料で買わせているだけでなく、神が助けてやれと言って先生に遣わした『小さき者』たちを、ご自分の得にならないという理由で退けるようになってしまわれました。
 先生は今、世間からは、被害者を無償で助ける『良きサマリヤ人』のように思われていますが、事実は、本当の行き倒れ人を避けて通る高慢な祭司になってしまっているのです。サマリヤ人は、行き倒れ人のためのホテル代も、治療費も、喜んで自分で支払ったのです。ところが先生は、自分でホテルを予約することができず、治療費も支払えないような被害者を相手にしなくなっています。そしてご自分が治療代を立て替えなければならなかったような場合、必ず後で返済を要求するのです」

 甲はじっと若者を見つめた。色々な事件のことが一瞬で頭を駆け巡った。一体、どの事件のことを指して、若者はこうやって自分を非難しているのだろう。どんな証拠をこの若者が握っているのだろう。最近、関わった被害者たちの顔ぶれを甲は思い浮かべてみた。自分の知らないところで、誰かがこの若者に苦情を漏らしたに違いない。「甲先生は私のために、何の助けにもなってくれなかったんです…」と、自分の悪評を言いふらしているような被害者がきっといるに違いない。一体、それは誰なのだ。

 甲は心に沸き起こる疑念を抑えて、やっとのことで言った。
「…誰だって身体はひとつなんだよ。ただの理想なら、誰にでも簡単に言えるけれど、私にだって限界があるんだ。私にだって家庭があるし、自分の生活がある。いくら、困っている人を助けてあげたいと思っても、24時間、人のために駆け回っていられるわけじゃない。それに、私のところには、すでに200人近い被害者がつめかけてきているんだよ。

 今、教会の不祥事は増えていくばかりで、この分野での働き手はあまりにも少ない。こんな人手不足の状況では、残念だけれど、全ての被害者に対して、私が『良きサマリヤ人』になることはできない相談だよ。でも、それは私が責められるようなことじゃない。被害者の方でも、私がスーパーマンじゃないことを、ちゃんと理解してくれなくちゃいけないよ」

 若者はきっぱりと言い返した。
「でも、できないことを約束して、人に期待を抱かせるのは不誠実ではないでしょうか。丙教会の事件が明るみに出た時、ざっと数えただけでも、被害者は30人はいました。甲先生はあの事件が起こった時、すでに全国に150人以上の被害者を抱えておられ、その全員が回復途上にありました。
 どうやって一人の人間に過ぎない甲先生が、100人以上の被害者に同時的に必要なケアを行えるというのです? すでに目いっぱいの人数を抱えておられたのに、先生ご自身が、丙教会の被害者をケアするのは自分だと名乗りを上げて、より限界状態に陥っていったのではありませんか…? ご自分の限界を分かっていらっしゃらないのは、被害者ではなく、先生の方ではありませんか?」

 甲は不愉快な表情で黙り込んだ。
「きっと、ぼくはとてもお気に障ることを申し上げているのだと思いますが、ご無礼をどうか許して下さい。
 大分前から、甲先生の活動は看板だけが大きくて、実体がないものに変化していきました。特に、丙教会の事件があって以後、先生は弁護士に大きな仕事を回すことができたので、顔が効くようになりました。大勢の被害者が原告となる裁判では、巨大な金額が動きます。ですから、それは弁護士にとってかなり実入りの良い仕事になりますし、何よりも、丙教会のような裁判に関わることは、弁護士にとってキャリアになります。でも、その裁判費用は、皆、被害者が背負うことでまかなわれています。裁判のために借金をしている被害者もいます。

 先生は神学校にも、多くの被害者を学生として送り込んでいるため、学校にも顔が効くようになりました。近頃、神学校はどこも閑古鳥が鳴いているような有様ですから、学校側は生徒が増えて大喜びです。もちろん、その教育費は被害者もちです。
 …こうやって、甲先生は、被害者の存在をビジネス化していき、多方面で新しい需要をつくりだすことに成功なさいました。そのことにより、教界内のもたれあいの構図をさらに強固なものにして、社会とのつながりを作り、カルト被害者の存在を一大産業に変えたのです。

 …でも、そのために、先生でもなく、教会でもなく、被害者だけがさらに重いくびきを負わされていることに、先生はお気づきでしょうか。先生は被害者をご自分の教会の信徒数に数え、奉仕者として積極的に登用するなどして、一旦、カルト化教会でしぼりとられた彼らを、ご自分の権勢の拡大のために、さらに、しぼりとっています。そうやって、無償で助けてあげたはずの人からさえ、代価を要求しておられるのです。

 ダビデ王がイスラエルの人口調査を行ったことは主の前に罪でした。人間を数値化することにより、己が権勢を誇ることは、いつの時代にも、主に忌み嫌われる悪事なのです。なのに、先生は今、『うちの教会の献身者は何人、神学生は何人、私が助けた被害者は数百人にのぼる』と、堂々と人前で誇っておられます。先生は被害者を人として見ておられません、全ての信徒をただご自分の権勢を拡大するための駒として見ておられるのです」

 甲は憤って、宙に腰を浮かして言い返した。
「言葉をつつしみなさい!そんな言い方は不適切だよ!私と被害者に対する中傷になりかねない!
 いいかい、裁判は、傷つけられた名誉を回復するために、被害者自身が選んだ選択だし、神学校に行くことも、彼らが選んだ道だ。それを私がまるで強制したかのように、あるいは、教界ビジネスのためにそうさせたかのように言われるのは、不本意だし、そんな事実は全くないよ!

 それに、私がまるで被害者を自分のために利用しているかのようにきみは言うけれども、私が助けた被害者が、必ずしもここの教会員になっていないことは、誰が見たってすぐに分かる事実だ。元カルト信者で、教会とは何の関わりのないところで生きている人は大勢いるよ。私が自分の教会員にすることを目的に、被害者を選んだりしていないことは、そのことでちゃんと証明されているはずだよ!

 それから、私が神学校や弁護士に顔が効くようになったときみは言うけれど、そんな事実が本当にあるんなら、ぜひ証拠を見せてもらいたいものだね。たとえ万が一にも、そういう結果があったとしても、それは結果論であって、最初からそれを目的に、私が被害者のための救済活動をしていたかのように言われるのは、とんでもない事実のすり替えであって、中傷だ。
 活動の結果として、私は有名になったかも知れない。けれど、それはただの結果に過ぎないよ。そんな風に、原因と結果をすりかえて、私がまるで売名行為を目的として救済活動をやっていたかのように、本末転倒なことを主張してもらっては本当に困るよ。

 大体、きみの言うことには何の証拠もないことばかりだ。被害者ビジネス!? そんな、私がまるで被害者を食い者にすることが目的で、彼らに関わってきたかのような言い方をされると、非常に迷惑なんだよ。私は被害者の魂と、人生を助けるために身を粉にして働いているというのに、それじゃあ、まるで正反対だ、随分な誹謗中傷だよ。
 …これだけ話をして来たのに、きみがそのような考え方しか持てないでいるのはとても残念だ。いいかい、きみがただの思い込みで、証拠もないのに、そのような発言を今後も色んなところで繰り返すつもりなら、たとえきみが相手でも、私は訴えを起こすことも辞さないよ」

「そうでしょうね…、先生は引き返せる地点をとうに過ぎてしまわれました。ですから、今更、ぼくが申し上げることを素直に聞いて下さるとは、ぼくも思っていません」
 若者は残念そうに、だが、きっぱりと言った。
 甲は憤りを隠せず、強い口調で若者をいさめた。
「人の言い分を素直な気持ちで聞くべきなのは、私ではなく、きみの方じゃないか? まだ牧師としての経験も積んでいない若いきみが、この教団の中で、いたずらに先達を非難するようなことを軽はずみに言わない方がいい。きみも組織の人間だし、組織の中でこの先、やっていかなくちゃいけないんだ。
 若いからこそ、きみはそういう大胆な物言いをしているんだろうが、きみも人と協調することを少しずつでも学んだ方がいいよ。自分の意見を持つことは誰にも禁止されていないが、証拠もないのに、自分の意見をやたらに振り回すのはやめた方がいいし、それがただの思い込みなら、根拠もないくせに、いたずらに人の活動をこきおろすのは、たいがいにしなさい。
 …まあ、きみ相手に裁判を起こすほど、私も幼稚で暇じゃないから、今の発言は、聞かなかったことにしてあげていいけれどね。

 いいかい、きみがカルト救出のことについて、本当に真剣に知りたいと思っているなら、まずきみ自身が、私の下で何年間か働いて、その活動の現実をよく学んでから発言しなさい。きみが本気なら、私は教えてあげてもいいと思っているよ。ちゃんと自分のその目で見て、実際に関わって、確かめて、事実関係をよく理解してから、意見を言うのなら、私もそれを尊重しないわけじゃない。でも、ろくに関わっていないのに、ただ傍からの憶測だけに基づいて、物事をあれやこれや批判するのはやめた方がいいよ。いいかい、私はきみのために、はっきりと、真剣に忠告しているんだよ」

 甲は額に青筋を立ててそう言い終えると、何とか気持ちを落ち着けようと努力しながら、もう一度ゆっくり椅子に腰を下ろした。
「先生、もしぼくの発言が、先生にとって不愉快ならば、謝ります。でも、先生の方も、ぼくの発言くらいで、そんなにまでも激怒されるなんて、もしかして、ちゃんとお食事を召し上がっておられないからじゃないですか?」
「食事!? いきなり、何の話だね?」
 甲は苛立ちを露に問い返した。
「…おかしいですか? 先生ご自身がおっしゃっていることじゃありませんか。日々のパンをおろそかにしてはいけないって。たった一つの栄養素が欠けただけでも、人は悲観的になったり、怒りっぽくなったりするもんだって」
 甲はむっとして言い返した。
「何を言っているんだ、私はどんなに忙しくても、食事をおそろかにしないし、自分の生活の必要一切をおろそかにしないよう、いつも気をつけているよ」
 若者は甲をまじまじと見つめた。
「…先生、ぼくが言いたいのは、人が怒るのは、栄養の欠如のせいなんかじゃないってことです。牧師が信徒に当り散らしたり、信徒を虐待したりすることが起こるのは、何よりも、牧者たる彼自身が、主から注意を逸らしてしまったことが、最大原因なんですよ…」

「きみが何が言いたいのか、よく分からないんだが」
 甲は不愉快そうな表情で若者を見つめた。
 若者は続けた。
「人が粗暴になるのは、真理から注意が逸れてしまい、つまり、霊のパンが欠けて、人間的な思いでいっぱいになるからです。それなのに、一体、いつから甲先生は地上のパンの必要性を説くだけになって、霊のパンの欠乏に言及するのをおやめになったんでしょうか」
「何を言ってるんだね、私は霊のパンの必要について語るのをやめたつもりは全くない。今でも説教のたびごとに、その重要性は十分に説いているつもりだ…」

 若者は甲の反論がまるで聞こえないかのように続けた。
「神に従うためには、人は全ての誘惑に打ち勝たねばならないんです。三つのうち、たった一つの誘惑に負けただけでも、人は結局、全部の誘惑に負けたことになるんです。
 さっき言ったように、第三の誘惑に敗北したことによって、甲先生はそれまでの二つの勝利を全て駄目にしてしまわれました。

 しるしと不思議と奇跡という、地上のパンを否定したはずの先生が、今、改めて、十分な食事と睡眠という地上のパンの必要性を説いておられることは嘆かわしい事実です。荒野で繁栄の神学をきっぱり拒絶なさったはずの先生が、今、家族と共に囲む豊かな食事と、安心して眠れる快適な寝床、24時間いつでも駆け込んでくるモンスター信徒によって脅かされないで済む安全で快適な生活、…そんな生活の甘い繁栄の必要性を盛んに説いておられることは嘆かわしい事実です。
 パウロは、『剣にも、裸にも、飢えにも、牢獄にも、耐える秘訣を学んだ』と言っているのに、甲先生は『牧師には快適な食事と快適な寝床と快適な家庭生活がぜひとも必要であり、それが一つでも欠けると精神が不安定化し、ミニストリーが不安定化する恐れがあるから、牧師は自分の生活の快適さと安全を失わないように十分に気を配るべきである』と、盛んにおっしゃっています。この二つには、どれほどの違いがあるでしょう?
 甲先生はいつの間にか、主の知恵によってではなく、この世のパンによって生きるようになってしまわれたんです、嘆かわしいことです」

 甲牧師は顔面蒼白になって、若者を見つめた。何か言わねばならない、自己の正当性を主張せねばならない、こんなことを言われて、ただ黙っているわけにはいかない…、それは分かっているのに、なぜか若者の言葉に圧倒されて何も言えなかった。若者は身じろぎもせず、大胆に言った。

「甲先生は、救出活動を主の御名のためではなく、ご自分の栄誉のための活動にすりかえられました。神は『小さき者』を辱めるために先生のもとに遣わしたのではありませんし、先生の作った箱庭の材料とするために遣わしたのでもありません。なのに、先生は訪れた被害者の弱みをたてにとって、被害者をご自分の信念の前に跪かせ、ご自分のプロジェクトに仕えさせる道具とし、ご自分の夢見ている囚人村の囚人にしようとしているんです。
 先生は被害者に完全なる主権を回復して、自分本来の自由な人生を歩ませようとする代わりに、彼らをかばってやるという名目で、被害者を自分の組織にとどまらせ、自分に依存させ、その一員として鎖でつないでしまっています。

 ちょうど、日本を占領したアメリカが、日本を守ってやるという名目で、占領後もこの国を半ば植民地化して支配しているように、被害者のために安全基地を作ってやるという名目で、先生は、被害者の心と生活を絶対に自分から自立させないよう支配なさっておられるんです。

 アメリカは敗戦のことで日本人に罪悪感を抱かせ、その罪悪感をいつまでも刺激し続けることで、日本人のプライドを骨抜きにし、劣等感を抱かせています。日本の伝統文化を価値のないもののように思わせ、アメリカ優位の文化を押しつけ、それを自国の需要拡大の手段にしています。それと同じように、先生はカルト入信暦という被害者の弱みを、彼らのコンプレックスにかえてしまい、それをたてにとって、彼らにご自分の優位性、ご自分の信仰の正しさを確信させて、ご自分の信仰を優れたものとして被害者に押しつけ、受け取らせ、そうすることによって、新たな宗教ビジネスを生み出しています。そうやって、先生は被害者をご自分の組織に都合よく操って、彼らの人生を支配しているんです。

 先生が行っているカルト被害者救済活動というのは、この世の人心支配の形態の一つでしかありません。それはサタンとの契約に基づく支配です。この活動により有名となられた先生は、ご自身をさらに有名にしようと、今度はご自分の王国都市を築かれることを考えついたんです。

 でも、ご存知のように、この地上を支配しているのは悪魔ですから、その悪魔の承認なしに、人はいかなる都市をも地上に建てることはできません。この地上に続いている宗教都市というものは、多かれ少なかれ、悪魔との契約の上にのみ成り立っているんですよ…。
 神の国は人の心にあって、地上の権勢とは無縁です。それなのに、キリスト教的な都市を地上に建設するという夢は、とどのつまり、悪魔がキリスト者を誘惑しようとして見せる幻でしかありません。そして、悪魔はうそつきですから、一度たりとも、人間との約束をきちんと守ったことはありません。見せびらかして、騙し、働かせながら、約束の報酬を、絶対に人には与えようとしないんです…。
 
 甲先生はお気づきになっていらっしゃらないようですが、悪魔は今、先生が罠にはまって、彼らの王国を建設する作業のために、労働に取りかかっていることに大喜びです。先生はご存知でなくとも、今、先生が建設を進めていらっしゃるものは、神ではなく、悪魔への献上物なんです。
 先生がこれまで被害者たちにそうしてきたように、悪魔もまた、自分の野心をかなえるためならば、借金を負わせてでも、先生を働かせるつもりでいます。そして役目が終わったら、建設労働者としての先生を使い捨てするつもりなんです。

 今、この教団の内外で、甲先生に向かって振り上げるための刃をせっせと砥いでいる連中がいます。彼らは先生のプロジェクトを盗む目的で、先生をいずれ殺そうとして刃を砥いでいるんです。
 大丈夫です、主は先生の命を守られます。けれども、先生がたとえ夢の都市を築くことができたとしても、それは必ず第三者にかすめとられ、先生ご自身がそこに足を踏み入れることは決してないでしょう。

 覚えておられるでしょうか。旧約聖書の中で、預言者モーセが、ただ一回だけ、荒野で民の要求に気圧されて、民の飢え渇きを満たすために奇跡を行ったことがありました。それが神の怒りに触れ、40年間も忍耐強く、民を荒野で導いてきたモーセは、その一回限りの失敗のために、約束の地に入る権利を失ってしまったのです。
 民衆の要求に押されて、民衆の肉体的・精神的必要を満たすために、指導者が神から委ねられた権威を神の承認なしに濫用することを、神は絶対に見過ごしにされません。預言者が大衆の要求に屈し、神から委ねられた権威を、ただ大衆を喜ばせるために使うということは、神の目に忌むべきことであり、恐るべき罪なのです。

 甲先生、神は人間がどんなに最善のものを努力によって作り出したとしても、それをこっぱみじんに打ち砕かれ、退けられます。人間の知性と人間の努力によって作り出される義は、人にとってどんなに気高いものであろうと、到底、神の義にかなわないのです。従って、人間としてのぼくらが、被害者に教えられることは何一つありません。ぼくらはただ、彼らをキリストのもとへ案内することができるだけです。

 先生は被害者の前でご自分の『義』を誇り、ご自分の義を、被害者の義に勝るものとして提示してこられました。でも、本当はどちらも主の前に正しいものではあり得ず、ただ人間による虚しい自己義認があるに過ぎなかったんです。でも先生は、ご自分の信仰が彼らの信仰よりも格段に優れたものであるかのように主張されただけでなく、本当はご自身も、被害者同様に弱く脆い器であるのに、そのことを隠して、ご自分の架空の強さ賢さを被害者の前で演出なさいました。
 そして、そうやって自己を偽って演出しているうちに、先生は主が創られた先生ご自身本来の姿は何であったのかをお忘れになり、主の義の前に、ご自分の義がどれほどちっぽけで無力なものであったかを忘れておしまいになりました。次第に、先生は主の道を軽んじて、主のご計画を曲げてでも、ご自分の思いの方へ引き寄せようとするまでになってしまわれたのです。

 今、甲先生は、虐げられている被害者にとって、まことに耳障りの良い『甘い神学』を唱えておられます。この世で傷ついた人たちが、自分の思いを正当化し、聖書でなく、自分の感覚だけに従って、何が正しいのかを判断することを助長するような教えを、先生は盛んに語っておられます。
 たとえば、夫が暴力をふるい、命の危険を感じるならば、妻は夫と離婚しても良いと語ることによって、先生は最初の逸脱を犯しました。今や、その教えが高じて、夫が浮気をするなら、妻は大いに彼と離婚してよろしい、と、先生は拡大解釈するまでになっています。
 その他にも、虐待的な両親が相手なら、子供は両親と和解しなくても良い、誰の忠告にも耳を貸さないような虐待的牧師は、裁判に訴えて、排斥すればよい、等々。弱者の立場に傾倒するあまり、人と人との関係を根気強く修復する努力をせずに、それが修復不可能にまで崩れてしまうような制裁を科すことを、先生は平気で人に勧め、助長なさるようになっています…。

 ぼくは離婚した人や、両親と和解できない子供や、虐待牧師を赦せない信徒を裁くつもりはありません。そういう人たちが互いに対立せざるを得ない痛み苦しみは理解できますし、ぼくらが互いに愛し合えず、和解できないでいる罪は、心から悔い改めるならば、神は赦して下さると思っています。
 けれども、同時に、ぼくらは忘れてはなりません。主がおっしゃったのは、あくまで『離婚してはいけない』、『両親を敬え』、『汝の敵を愛せよ』、『悪人のために祈れ』ということでした。それはぼくらの力を超えているがゆえに、ぼくらにとっては途方もなくハードルの高い課題に見えます。けれどその課題に応えることができない自分の無力さをかえりみて、主の前に、自分の赦せない心を泣きながら悔い、できません、赦してくださいと、ひれ伏すという過程を経ないのに、ぼくらの心の狭さや自己中心性、罪がただで赦されるとは、到底、思えないのです。

 甲先生、離婚することは罪です。両親を愛さないことも罪です。悪人のためにとりなさないことも罪なのです。でも、ぼくらがその罪を十字架へ持っていくならば、その罪は赦されるでしょう。
 ぼくが恐ろしく思うのは、甲先生が、あたかも人々の罪が、十字架なしに赦されるかのように人に教えていることです。先生があまりにも弱者に対して都合の良い神学を語るので、心に憎しみや、怒りや、赦せない思いなどの苦々しい負の根を抱えた人たちが、自分の心を主の前に少しも恥じることなく、手っ取り早く免罪符をもらおうと、先生のもとに殺到しています。

 被害者が加害者を憎み続けることが、主の目から見てどんなに大きな罪であるかを、先生は教えていません。むしろ憎しみと軽蔑を助長するようなことをおっしゃっています。そのような軽蔑が人の心にどれほどの頑なさと驕りを生んで行き、その人の人生をじわじわと滅ぼしていくか、加害者に対する負の感情を持ち続けることが、どれほど被害者の心身の健康にとって有害であるか、その弊害を何も教えず、そのような心の負の領域を、十字架によって取り払う必要性も主張せずに、先生がただ被害者の訴えにいつまでも同情的に頷くことしかしていないないために、被害者は今や自分の怒りと復讐心には、聖書に照らし合わせて何一つ問題はないと思い込むまでになっています。

 先生は被害者の要求に気圧されて、被害者の心情に都合の良いように神学を曲げてしまわれました。そういう『人に優しい間違った教え』を広めることによって、先生は、被害者の心の中に、神によって決して赦されることのない、消えない罪の領域を作り上げ、自分は正しく、相手は間違っているという、聖書に基づかない傲慢な自己義認と、悪人に対する復讐心を植えつけ、和解ではなく分裂を助長し、神によらない裁きを、すなわち人間による私刑を是認されているのだということが、まだお分かりにならないのでしょうか?

 人間同士の争いに気を取られるあまり、先生は、被害者自身もまた、主の前に大きな罪を抱えた罪人であり、被害者の訴える正義も、主の正義の前には完全に打ち砕かれるべき、虚しい、小さなものに過ぎないということを語ることを忘れてしまっています。

 このようなことを神が黙ってお赦しになるでしょうか。
 甲先生、先生はいずれ、先生自身が分裂敵対させてきた教界と、先生の唱える蜜のような甘い神学に群がってきた信徒の双方から、大きな突き上げを食らわされ、追いつめられるでしょう。聖書が言うように、不正によってできた富を使ってでも、先生が『小さき者』を助けて来たのなら、その時、先生をかばってくれる人たちはもっといたでしょうに。けれども、先生は多くの『小さき者』を見捨てられました。ですから、その日にあなたを弁護する人々はわずかしかいません。
 人に優しい神学によって、先生が集めて来られた信徒たちが、先生の与える地上のパンでは満足しきれなくなって、もっとパンを寄越せと叫んで、先生に襲いかかる日が来ます。そしてそれに追い討ちをかけるように、教団の規則が振り下ろされ、先生はご自分が築いた地上の王国を追われるでしょう。
 その王国はもとより悪魔の偏在のために作られたものですから、神は決してその捧げ物を喜んでお受け取りにはなりません。

 主は甲先生をお見捨てにはなりません。主は、先生が真心から主をあがめていた時期をお忘れにはなりません。でも、甲先生の地上的栄誉は必ず取り去られるでしょう。『剣を取るものは剣で滅びる』と聖書にある通り、先生はご自分が行使して来られた分裂という武器によって打ち滅ぼされるのです」

 甲は驚きのあまり何も言えなかった。話の初めにはあれほど饒舌に出て来ていた言葉が、何一つ出て来なかった。若者は憐れみを込めるような眼差しで、しばらくじっと甲を見つめていた。
「…では、お話しなければならないことは全て終わりました。お時間を割いていただいてありがとうございました」
 若者は立ち上がって、丁寧に礼をした。甲もつられて立ち上がったが、ぼんやりしていたので、礼を返すことも、手を差し出すことも忘れていた。
「では、どうぞお元気で、甲先生」

 くるりと踵を返し、応接室を出て行った若者が、信徒の誰かに挨拶して、正面玄関の戸を閉める音が聞こえた。

 甲は呆然とその場に立ち尽くしていたが、はっと我に返って、執務室に急いだ。いっぱいに本が詰まった本棚の中から、今年発行されたばかりの、教団の全ての牧師の名が記載されている年鑑を取り出すと、デスクの上に乱暴に広げ、大急ぎでページをめくった。妙な胸騒ぎがした。今会った若者は、本当にこの教団の牧師だっただろうか? 本当にあんな人物がこの教団にいただろうか…?
 年鑑の最後のページに、ようやく若手牧師の顔写真を見つけて、甲はほっと胸をなでおろした。やはり記憶違いではなかったのだ。

 何の動機でそうしたのか彼には分からなかった。好奇心がそうさせたのか、疑いがそうさせたのか…。気づくと甲は執務室で電話の受話器を取り上げて、年鑑に書いてある通りの山小屋教会の電話番号をダイヤルしていた。受話器の向こうで呼び出し音が鳴り響いた。

 何を私は馬鹿なことをしているんだろうか、と甲は心の中で思った。牧師が留守なんだから、どうせ誰も出やしないことは分かりきっている…。
 十回目ほど呼び出し音が鳴った後、誰かが受話器を上げるのが聞こえた。
「はい、山小屋教会ですが、どちら様でしょうか?」

「私は甲牧師と申します。そちらの牧師先生は今いらっしゃいますか?」
 準備していたわけでもないのに、なぜか台詞がすらすらと出て来たことに甲は自分でも驚いた。
「いいえ、ここには牧師はいませんが」
 老人と言っていいくらいの、年配の男性の声が答えた。
「いつ頃、戻って来られるでしょうか? ぜひにもお話したいことがあるので、私、甲から電話があったとお伝えいただければありがたいのですが」
「先生はもう戻って来られません」
「はあ? どういうことです?」
 甲はすっとんきょうな声を出した。
「先生は殉教なさいました」
 電話の向こうの声が言った。甲は絶句した。
 センセイハジュンキョウナサイマシタ…? すぐには意味が飲み込めず、言葉だけが頭の中で鳴り響いた。
「どういうことでしょうか、詳しくお話をお聞かせいただければありがたいのですが…。それに、失礼ですが、あなた様はどちら様です?」
 受話器を持つ手の震えを押しとどめようとしながら、甲は尋ねた。

「私は近くの寺の住職です、教会の者ではありません。今、先生の遺品整理のために、こちらに参っていたところです。
 何もご存知ないようですから、お話しましょう。実は、三週間ほど前に、こちらの地方で大雪があったのですが、その大雪の時に、村の女の子が一人行方不明になりましてね。こちらの教会にも捜索の依頼が出されて、先生は村人と一緒に女の子を探しに出て行かれ、そのまま、雪崩にあって帰らぬ人となったのです。私たちが先生を探し出した時、先生はすでに息絶えていらっしゃいましたが、身体の下にかばっておられた女の子は、無事、病院に運ばれました。村中が皆、このニュースに驚き、心から先生を惜しみました。お若くて、将来が有望な方でしたのに、本当に残念なことでした…」

「それは本当なんですか? 三週間前に亡くなったんですって? そんな馬鹿な。そんな話を私は教団から何も聞いていませんよ、それに彼はたった今…」
 言いかけた甲の声が聞こえなかったのか、住職はそのまま話し続けた。

「確かに三週間前のことでした。お通夜の前に、ここの信徒がそちらの教団教区に牧師の派遣を依頼したはずです。でも、どなたにも断わられたと聞いています。何しろ、大雪で県道が封鎖されて、村が孤立していましたからね、来ようにも、誰も来られなかったんでしょう。
 仕方がないので、ここの信徒と私と、村の数人が立ち会って、お通夜と葬儀を済ませました。信徒が賛美歌を歌って、私が般若心経をあげさせてもらいました。おかしな葬式だったかも知れませんが、牧師がいなかったのですから、まあ、仕方がありません。
 生前に先生からお聞きしていた話によりますと、先生は天涯孤独のご境涯であられたようで、ご家族はとうになくなっているそうですから、どなたにも連絡はしませんでした。今、甲先生からお電話をいただいたのが、牧師さんからの初めてのお電話ですよ。
 え? ご遺体ですか? 先生のご遺体は私がお引取りし、荼毘にふして寺の墓地に納めました。墓石にはちゃんと十字架を刻ませましたよ。墓碑銘には『愛は全ての咎を覆う』と書かせてもらいました。それが先生のお好きな言葉だと聞いていたものですから…。先生は生前から随分と仏教にご理解があられましたから、まあ、寺の墓地に埋葬されたからといって、決して不愉快に思われるような方ではないと信じていますよ…」

 甲は住職に礼を言うと、電話を切った。にわかには信じがたかった。全てが自分をからかうための悪い冗談なのではないかという疑いを、甲は拭い去れなかった。不意に、執務室をノックする音が聞こえた。
「甲先生、電車が雪で止まったせいで、こんなに遅れてしまって、申し訳ありません。今からでも、カウンセリングは間に合いますか…?」
 見ると、執務室のドアの外に、見慣れた三人の親子連れが立っていた。仕事を終えたばかりなのか、疲れた表情の両親に、青ざめた顔でうつむいている背が高く髪の長い女の子。いずれも融けた雪のためにぐっしょりと濡れたコートを着ている。
「ああ、いらっしゃい、構いませんよ、今からやりましょう…」
 甲はそう言って、いつものように笑って、執務室の扉を閉めようとしたが、手は震え、表情はこわばって、笑顔にならなかった。ドアの隙間から見えている時計にふと目をやって、甲は驚いた。針は4時30分を指していた。
 窓の外には、日暮れ前の太陽を浴びて、オレンジ色に輝きながら、粉雪が舞っていた。

<終>

*この話はフィクションであり、登場人物は現実に存在しません。

 

<つづき 2>

 若者は熱心に語りだした。
「先生、問題は、誰が赦しを与えるかということにあると思うんですよ。
 パウロの回心の時には、人間は誰もそこに介在していなかった。パウロの自己義認を打ち砕いたのは、ただ神ご自身だけでした。しかも、神は長々とした説得によってパウロの言い分を論破されたわけじゃない。ただ、悲しみに満ちた御声で、『なぜ私を迫害するのか…』と言って、ご自身を示されただけです。

 パウロはその一瞬で、自分が今まで正義だと信じてやって来たことが、神に敵対する行為だったと分かって、きっと、呆然としたことでしょう。そして、深い深い絶望に沈んだことでしょう。
 …でも、だからといって、そこに誰かクリスチャンがやって来て、『ほら、あんたのやっていたことはこんなに間違っていたんだ、私たちに謝りなさい、見えるように悔い改めなさい』と、傷口に塩を塗りこむようなことを言って、彼を辱めたわけじゃありません。アナニヤもそんな話し方はしなかった。

 パウロの心が回復するまで、彼は光を失って、主と二人きりでいました。アナニヤに会って、パウロの回復期間は瞬時に終わりました。その後も、パウロが失意のどん底にあったという記述は聖書にはありません。ユダヤ教徒パウロが、使徒パウロに変わって大胆に福音を語り始めたとき、彼は過去を反省してはいましたが、誤った過去のために、クリスチャンの前で卑屈な態度を取ることは一切ありませんでした。
 もちろん、一部、パウロの回心を疑って、陰でごちゃごちゃ言うクリスチャンはいたかも知れません。けれど、ほとんどのクリスチャンは、パウロの告白を信用し、彼が本当に信用に値する人間かどうかを、目に見える形で確かめようとして、彼に公の場で懺悔を求めたり、彼の回心の真偽を試したり、過去のことでパウロに卑屈に振る舞うよう要求することはしませんでした」

「そうだね、それはきみの言う通りだと思うけど、それが何だい?」
 甲牧師はだんだん若者の反論を面白く感じ始めていた。
「…ところが、現在、カルトに入っている人たちをカルトから引き出すに当たって、多くのクリスチャンたちが、まるで彼らの言質をとろうとでもするように、元カルト信者の誤った過去や、間違った教義理解を強調し過ぎると思うんです。
 たとえば、洗礼を受けようとしているクリスチャンたちに、ぼくらは、過去の誤りを公然と認めるように求めたりするでしょうか。確かに、神を信じなければ、取り除くことのできない罪が人間にあることについて、ぼくらは語りますが、だからといって、これからクリスチャンになろうとする人々に対して、『福音を知らなかった頃の身勝手で恥知らずな生き方について』、赤裸々に告白するよう求めて、その人たちに恥をかかせたりしません。
 ところが、異端的教義に陥った信者に対しては、ぼくらクリスチャンの目はあまりにも厳しすぎるような気がするんです。

 正確に言うなら、異端的教義そのものに対するクリスチャンの態度が問題なんです。異端に対して、クリスチャンがこれまで取ってきた態度は、歴史的に見ても、あまりにも厳しすぎるように思えてなりません。カトリックの魔女狩りだけじゃありません。プロテスタントがこれまで色々な異端的な宗教や教えに対して向けて来た、非難がましい態度の中にも、ぼくは何か恐ろしいまでの自己義認や、敵愾心、そういうものが含まれているように思えてならないんです。

 カルトに入っていた人たちは、ぼくらクリスチャンのそういう目線を無意識のうちに感じて、恐れています。ですから、彼らは自分たちの過去を語る時、今でもそれを非常に引け目に感じているように見えますし、時には、上目遣いにこちらを見ているように見える時があります。
 特に、強い力で説得されて、改宗させられた人であればあるほど、クリスチャンの仲間入りをしても、過去を恥じている一種の卑屈さのようなものが、未だに態度に感じられることがあります。だからこそ、その過ちを何とか拭い去とうとして、彼らは今、熱心にキリスト教を学んでいるのではないかと思われるんです。

 一言で言えば、彼らにとっては、カルトにいたことが、過去になっていないことが問題なんです。
 パウロの回心は一瞬のものだったのに、一部の元カルト信者は今に至るまでも懺悔し続けていて、その懺悔が未だ終わっていないんです。
 さらに、そのようにしていつまでも彼らに懺悔を続けさせようとしているクリスチャンがいるような気がします。カルトに入っていた人たちに、いかにその過去が愚かなものであったか、繰り返し語らせることによって、いつまでもその人たちの『誤り』をほじくりかえし、まるでおどすようにして弱みを思い知らせ、いつまでも彼らの心をカルト時代に引き戻しては、そこから救ってやった自分たちへの恩義を語らせようとするクリスチャンが多いように思います。
 その一方で、そうやって、元カルト信者の傷をほじくり返し、プライドを傷つけ続けている自分たちの浅ましさ、残酷さには気づきもしないのです。

 他宗教や異端的教義の愚かさをどんなに暴いても、それによって、キリスト教の優位性を逆説的に証明することはできません。なのに、異端的な教えに入っている人たちの非を責めて立てることによって、自分たちの信仰の正当性を証明しようとするクリスチャンがあまりにも多すぎます。そのことにぼくはとても心穏やかではいられないんです」

 若者の感情の波に押し流されまいとしながら、甲は静かに言葉を返した。
「きみが言っている意味は、私にも分からないでもないよ。まあ、それは異端問題というよりも、あらゆる犯罪につきものの、二次被害というやつなんじゃないかと私は思うけれどね。
 被害者たちはもとより悲惨な過去のために相当、傷ついているのに、残念ながら、彼らを本当に温かく、優しく受け止めるのに、十分な理解がクリスチャン側にあるとはまだまだ言えない。この教会の中にだって、一部、被害者たちを色眼鏡で見て、見下すような人たちが全くいないわけじゃない。
 そうなると、被害者たちは最初に受けた傷の上に、周囲の人たちの心ない行動や、無神経な発言によって二重に傷つく危険があるわけだ。

 …でもねえ、そういう問題を食い止めるのは本当に難しいよ。被害者と同様に、被害を受けなかった者たちが精神的に成長しなければいけないからね。両者が成長して、初めて、そういう問題は防げるようになる。それには時代が進歩する必要があるから、時間がかかるよ」

「先生、さっきも言ったように、問題は誰が赦しを与えるかというところにあると思うんです。パウロの罪を赦し、パウロの心の傷を癒し、パウロに安心を与えたのは、神ご自身であって、人間の誰かではありませんでした。
 今の心理学的な見地から見れば、何十人ものクリスチャンの殺害に加担したパウロが立ち直るためには、どれだけの年数のカウンセリングが必要だったか分かりません。随分、長い間、治療に通わなければいけなかったことは確かでしょう…。
 でも実際には、彼のためにカウンセリングをしてあげたクリスチャンがいたわけじゃありません。パウロの罪からの赦しと解放は、彼が十字架を知った途端、瞬時に訪れました。彼が自分の罪を十字架に重ねた時、罪は全て赦されたのです。そしてパウロはその赦しを完全なものとして受け取ったからこそ、以後、罪悪感に苦しめられて、クリスチャンの前で卑屈な態度を取るということがなかったのです」

「それはそうだよ。でも、今は聖書の時代とは違って、医学も進歩しているんだ。マインドコントロールを受けた被害者の立ち直りは、一瞬で終わるようなものじゃないってことは、学問の世界ではとうに常識になっているよ。カルトの影響力のために、奥深くまで思考を歪められて、あらゆる物事に対して正常な判断が下せなくなっている被害者たちには、まず、彼らに自分の思考や認知の歪みに気づかせてやり、そこから抜け出るように助けてあげる専門家がいなくては、とても彼らは立ち直れないどころか、日常生活にすら戻れないんだ。

 回復のためには、どうしても被害者の過去に遡って、治療する必要がある。どの時点でその人がどのように騙されて、コントロールされて、利用されていたのか、本人に気づかせてやることが大事なんだよ。過去を振り返らずには、治療はない。そこがこの種の治療の本当に難しいところなんだ。
 それをただ『過去の傷をほじくり返すのはいけない』なんて言って、過去に蓋をしてしまったら、被害者たちが植えつけられた思考の歪みや、認知の歪みから抜け出すことは永久に解決不能になると思うね」

「本当にそうなんでしょうか…? ぼくには、心理学の専門家からそのように言われるなら、まだ話は分かるのですが、ぼくらの仕事は牧会であって、心理学的なカウンセリングがぼくらの専門ではありません。医学はその時代によって進歩しています、言い換えれば、時代特有の限界のようなものが医学にはあるわけですが、福音の本質は2000年前から変わりません。
 医師とは違う立場に立っていればこそ、ぼくらは医学的限界にとらわれることなく、物事を自由に考えられる可能性を与えられているんじゃないかと思うんですが…。

 甲先生、そもそも、マインドコントロールとは何でしょうか。それを受けているのは、カルトの被害者だけと言えるでしょうか。
 先生、ぼくらは絶えざるマインドコントロールの中にいると言っておかしくありません。受験教育もそうですし、就職戦争もそうですし、会社での出世競争や、牧師間の競争もまた然りです。和をもって尊しとなす、という昔ながらの日本社会の精神風土そのものもそうです。各時代によって、ぼくらはその『時代の価値観』を強烈に押し付けられ、それによってマインドコントロールされ、大きく踊らされながら、人生を生きているんじゃないかと思いますよ。

 日本人は他人の目線を気にするように幼い頃から躾けられて育てられています。他人の目線、特に、親や学校の教師や、先生と呼ばれる色々な人々…、つまり、地位や力のある立派な人たちの目線にかなうように振る舞うことを、幼い頃から美徳として教え込まれています。
 そういう、他人からの目線という、外から押しつけられた価値観と評価に従って、ぼくらは泣いたり、笑ったり、得意絶頂になったり、自信喪失して自殺を思ったり、とにかくあらゆる激しい反応をして生きています。学校で取ったテストの一点が、子供の生死を分けることもあります。

 そういう反応を、ぼくらは自分の心の中から出て来た自由な行動のように思っていますが、実は、社会の中に仕掛けられた大がかりな装置によって計画的に生み出された反応であるとは、気づいていません。あたかも自分で選んだように思える行動さえも、選ばされた結果なのであって、本当に個人の自由な選択だと言えるような行動は、ぼくらの行動の中には何一つとしてないか、あってもごくごくわずかだということに、大半の人たちが気づいていません。

 外からの評価は、たとえるなら、個人のサイズに合わない、だぶだぶの服や、窮屈な服のようなもので、それを無理やり着せられても、そういうものが個人の幸せに役立つことはありません。
 他人から押しつけられた物差しは、本当にその人自身を幸せにするために役に立ちません。それなのに、その自分のためにならない物差しにすがりつき、それなくしては生きられないように感じ、その窮屈な物差しの上で失格者とされることを死ぬほど恐れて、過酷な競争の中で身をすり減らし、競争の結果に一喜一憂するように踊らされて、人生を狂わされながら、生きているのがぼくら現代人の姿なのです。

 『人はうわべを見るが、神は心を見る』と、聖書は言います。キリスト者の目線は、本来、世の中の評価、つまり、自分の外面的な評価だけを重んじるようであってはなりません。キリスト者の生涯は、神の目線とこの世の目線との狭間での闘いです。けれども、ぼくらは心底、時代の風潮に毒されているせいで、自分の心の中から、自分には合わない、必要もない、絶望的な物差しを取り払うことがどうしてもできないでいるんです。

 先生、ぼくにはこう思えるんです。今のこの世の中全体が、巨大なカルト的社会であって、ぼくら市民は、そこでマインドコントロールされながら、それに気づきもしないでいる愚かな信者だと。ぼくら自身がマインドコントロールされていることに気づいていないのに、どうやってカルトの信者の心だけを取り扱うことができるでしょう。このように言っても、決して言いすぎではないように、ぼくは思うんですけれど…」

 甲は面白そうな表情で問い返した。
「何だか、話が随分と、壮大なテーマになってきたね。面白い話だが、残り時間はあまりないから、きみの言いたいことを簡潔に言いなさい。もし世の中全体がカルトだと仮定して、要約すると、きみの話はどういう結論になるんだい?」

「先生、『盲人が盲人を手引きすれば二人とも穴に落ちる』と聖書は言っています。マインドコントロールに心底毒されているのは、被害者だけでなく、ぼくらも同じです。いや、カルトの元信者は、奪われた人生の大きさに気づいた分だけ、ぼくらよりはまだましと言えるかも知れません。
 キリスト者として、ぼくらは人間的な物差し、社会の物差しに踊らされるマインドコントロールとは絶えず闘わなければなりません。でも、ぼくらはこの闘いの中では、一生かけても、勝利者になれるかどうか分からないんです。

 先生、人の力にはあまりにも限界があります。ぼくらの肉的な思いは人間社会が提示する利益にとても弱くて、自力でそれに打ち勝つことはとてもでないけれどできません。そこでは、己の力に絶望して、主の力にただよりすがる他ありません。
 けれども、今ぼくらの教界が行っているカウンセリングとは一体、何なのでしょう?
 聖書は『泣く者と共に泣け』と言っています。つまり人の傷と痛みによりそうことを聖書は勧めていますが、でも、癒す力は神のみにあって、最高のカウンセラーは聖霊ご自身であるとしています。赦しと癒しについて、人が人に頼るように聖書は教えていません。

 ぼくは疑問に思うんですが、牧師がカウンセリングを通して、信徒の弱みを引き出し、その傷口を手当てしてやるようにふるまって、あたかも自分の力で信徒の罪悪感と痛みをなだめてやれるかのように見せかけて、信徒の心を徐々に自分に向けさせ、自分に力があることを信徒に信じ込ませていくということは、聖書的に見て、肯定されうる行為なのでしょうか。
 ひどい場合には、牧師がカウンセラーの資格をひけらかし、自分にはあたかも人の心を癒す力があるかのように世間に見せかけています。でも、それは、真実、癒す力を持っている主に対する冒涜行為ではないでしょうか? それは真実の癒し主とは誰であるかということを、大勢のクリスチャンに忘れさせてしまう、間違ったやり方のように思えてならないのですが…」

 甲はしばらく黙り込んだが、やがて静かな口調で話しだした。
「…まあ、きみは色々と深い疑問を提示してくれたよ。そのことについて私も考えなければならない点があるように思うよ。ただ、私には一つ聞きたいことがあるね。きみはカルト被害者でもなければ、救出活動に関わっているわけでもない。それなのになぜそこまで、この活動にこだわるんだね? そもそも、きみは何のためにここへやって来たんだ?」

「ぼくは、主が弱い人たちによりそわれたように、ぼくらが弱い人たちによりそうとは、どういうことを意味するのか、本当に知りたいと思っているんです。それを考える上で、今のこの教界がやっているカルトの救出活動には、どうしても納得できない点があるのです。それを申し上げたくて、ぶしつけにも質問させていただきましたが、ご無礼をどうぞお許しください」
 若者はそう言って、甲に頭を下げた。

「それで、何かい、きみの聞きたかった疑問に、私は十分に答えられただろうか?」
 甲は腕を組んで、彼を斜めから見下ろした。何だか、気持ちが落ち着かなかった。
「あらかたのことはお伺いしました。でも、もう一つだけ、聞きたいことがあります。お時間は大丈夫でしょうか?」
 若者には少しも遠慮する気がないらしい。甲は不愉快だった。彼はため息をついて、ちらりと時計を見た。
 一体、どういうことだろうか。時計の針はまだ2時38分を指している。さっきから5分も経っていないではないか。いまいましいことだ、多分、電池切れなんだろう…。甲は腕時計を見やったが、驚いたことに、腕時計もやはり2時38分を指していた。

 どうやら、今日は時間がとことん若者に味方しているらしい。甲は苛立ちを抑えて言った。
「それで、最後の質問とは何だろう? 早く話しなさい」
「ありがとうございます、お忙しいのに、甲先生」
 若者は笑顔を見せた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて質問させていただきます。甲先生の教会はすでに様々な教会を併合して巨大になっています。全国に支部を持つようになって、やがてはそれを拠点として、クリスチャン・ヴィレッジを作って、日本にキリスト教徒のコミュニティの名を知らしめることを先生は目指しておられます。でも、それが本当に神の御心であり、神の御名を告げ知らせる行為だと、先生は思っていらっしゃるのでしょうか?」

 甲はカチャンと音を立ててコーヒー・カップをテーブルに置いた。
「…きみが何が言いたいのか、よく分からないんだが、要するに、私の運動に反対だということを言いたいのかい?」
 若者は黙っている。甲は腕を組んで、彼を見下ろすような姿勢のまま続けた。
「…まあ、きみだっていっぱしの牧師だから、自分のポリシーがあっても悪くない。別に、私のやることなすこと、きみの賛成をもらおうなんて思っていないよ。若い時は、誰しも理想主義者で、年配者に対して、なかなか挑戦的な発言をするものだ。
 いいかい、私に質問をぶつけて、試せるものがあると思っているなら、何でも試せばいいよ。私は人の反対意見には寛容だからね。でも、実際には、人に聞くだけじゃなく、自分でやってみないと分からないことが山ほどあることはきみも分かっているだろうね?
 それで? きみの言いたいことを続けなさい」

 若者は真面目な表情で身じろぎもせずに言った。
「先生、神は遍在しますが、悪魔は偏在するでしょうか?」
 いきなり質問の矛先が変わったので、甲は面食らいながら答えた。
「…そういうことは、きみは神学校で学んできたんじゃないのかね? いいかい、悪魔は偏在しないし、人の心を読むこともできない、私はそう解釈しているよ」
「そうですよね、それにはぼくも同感です。それじゃあ、悪魔は神のように偏在したいと願っていないでしょうか?」
「やれやれ、きみの質問は少しも一つで終わらないじゃないか…。まあいい、そうだね、悪魔は神に対抗することを願っている存在だから、きっと当然、神のように遍在できたらと願うだろうね」
「やっぱり、先生もそう思われますか? では、偏在できない者が、偏在するためには、どうすればいいか、甲先生には何かお考えがありますか?」
「さあねえ…、そんなことは考えたこともないから、聞かれても分からないよ」
 甲は眉をひそめた。こんな質問がいつまで続くのだろう。若者は何が言いたいのだろうか。甲はじれったくなった。

「甲先生、『ユビキタス・ネットワーク・ソリューション』という言葉をお聞きになったことはありますか?」
 出し抜けに若者が言った。
「いいや、聞いたことないが、何だね、それは?」
「先生、ぼくが献身前にIT関連の会社で働いていたことは、先生もご存知だと思います。ユビキタス・ネットワーク・ソリューションというのは、通信業界では広く使われている用語なんです。昔、電電公社が日本国中に電信柱を建てて、末端の離島に至るまで、広く電話による通信網を整備したように、今、携帯電話、パソコン等の端末を通して、誰がいつどこにいても、インターネットなどの通信網にアクセスできるように、世界中で通信網を整備しようという計画が進められているんです。それが『ユビキタス・ネットワーク』であり、日本でも、国の政策として、あらゆる通信会社を通して進められているんですよ」
 甲はぽんと手を打った。
「そうだ、それで思い出したよ、ユビキタスというのは、ラテン語で『偏在する』という意味だったね。そうだ、神は遍在するという意味だ。神学用語として昔、習ったよ」

「そうなんですよ。ですから、『ユビキタス・ネットワーク』というのは、個人が時空間を越えて不特定多数の人間にアクセスし、影響力を行使することができるようになる、そういうネットワークのことを言うんです」
 若者はそう言って、甲を見つめたまま、黙った。
「ふうん、誰でもいつでもどこからでもアクセスできるようになる…か。それによって、世の中はますます便利になるだろうね。便利なツールは一度手にしてしまうと、なかなか手放せないのが人間だ。ネットワークが整備されれば、この教会も、もっと多くの支部に礼拝を同時中継できるようになって便利だろうね」

「甲先生はご自分の礼拝を、今でも支部の方々が同時的に見れるようにインターネットで中継していらっしゃるのですよね?」
「そうだよ、インターネットを通して、同じ礼拝を、時空間を越えて、皆で共有することがすでに可能になっているんだ。まだ全ての支部に行き届いているわけじゃないけどね。いずれはそうなるはずだ。これはとてもいいことだよ。日本にリバイバルが起これば、今以上に、もっと多くの人たちが、ぼくらと同じ礼拝を共有することができるようになる」

 若者は表情を曇らせた。
「先生、それは長年起こらなかったリバイバルが、もしも将来、この日本に起こったならばの話ですよね。逆にいうと、もしも万が一にもそういうことが起きたなら、全国のあらゆるキリスト教徒がたった一つのネットワークに統合されていき、その群れに加わらない信徒は輪から締め出され、信者であるとは認められず、迫害される…、そういう時代になりかねません」
 甲はいぶかしげな表情になった。
「それはどうかな? 本当にそんなことになるかなあ?」
「甲先生、先生はご自分でお作りになっているものが何であるか、少しも、分かっていらっしゃらないんだとぼくは思います」
「何、それはどういう意味だね?」
 若者の無礼な言葉に、甲はつい、きつい語調で聞き返した。若者は恐れる様子もなく、まっすぐに甲を見つめて言った。

「先生、さっき、偏在するのはただ神のみ、という話をしましたよね。人がどこにいようとも、個人の心や行動をことごとく把握できるのは、神様お一人だけです。時空間を超越した存在は、この世に神だけなんです。なのに、その偏在性を、神でない何者かが、または誰か人間が手に入れようとしているのだとしたら、それは恐ろしいことだと思われませんか?」
 甲は不思議そうに眉をひそめた。
「甲先生が建設しようとしているのは、地上の王国であって、それは空中の権を持つ者、すなわち悪魔が見せる幻であって、神から来たものではないんですよ…」

「何だって、 一体、どういう根拠できみはそんなことを言うんだね…?」
 甲は驚いて聞き返した。
「キリストが荒野で悪魔から受けた誘惑のことを、クリスチャンなら誰でも知っています。先生、悪魔がイエスに提示した第三の誘惑は何だったでしょうか?」
「…きみが私に何を言いたいのか、さっぱり分からないよ。悪魔の誘惑が何だったか、そんなことは、きみ自身が知っているだろう。私に聞くようなことじゃない。それがどうかしたのかね?」
 甲は苛立たしげに訊いた。

「先生、悪魔は荒野で断食して祈っていたイエスをつかまえて、三つの誘惑で惑わそうとしました。一つ目の誘惑は、石をパンに変える奇跡を起こして、試練を避けて取ってはどうかという提案でした。もう一つは、高い崖から飛び降りて、ひと思いに人生を終わらせ、この苦しい試練から逃げ出してはどうかという誘惑でした。神がイエスを本当に愛しておられるなら、命かけてイエスが試練から逃げ出しても、必ず助けてくれるだろうと悪魔はそそのかしたのです。三つ目は…」
「栄耀栄華を極めた王国の幻を見せて、私に跪くなら、それを全て与えると悪魔は言ったよ」
 甲が口を挟んだ。
「そうです、その最後の誘惑に、先生は負けてしまわれたんです」
「そりゃ、随分と、聞き捨てならない話だ。一体、どういう根拠があってそう言っているんだね?」
 あまりにも突拍子もない若者の話の展開ぶりに、甲は呆れて、さっきまでの苛立ちはどこかへ消えていた。あまりにも荒唐無稽な話だ…、こいつは冗談でも言っているんじゃないだろうか、内心、甲はそう思った。

 だが、若者は大真面目に話し続けた。
「甲先生、第一の誘惑に先生はひっかからなかった。石をパンに変える奇跡を、先生は立派に拒否なさいました。
 近年、アメリカの様々な宣教師たちが来日しては、奇跡のクルセードと銘打って、しるしと不思議と奇跡を売り物にする集会を盛んに開くようになりました。教団の多くの牧師たちが、そのような奇跡の売買を歓呼して迎えたのに対し、甲先生は早くからその危険性を指摘し、反対なさいました。
 人の欲望を満たす目に見えるパンを売り物にして、大衆を惑わすような伝道は間違っている、目に見えない命のパンを与えるという地道な伝道を選ぶべきだと先生はおっしゃいました。そこで、甲先生の教会は奇跡を売り物にする興行的なイベントには関わっていません。これは立派なことだったと思います。

 それから、第二の誘惑にも、先生は打ち勝たれました。先生の教会が色々と苦しいところを通ってきたことや、先生が同業者からたくさんの不当な非難を浴びせられたことをぼくは知っています。でも、先生はそこから逃げ出そうとして人間的な解決に頼ることはせず、貧困や、同業者から憎まれ、孤立するという苦難をも忍ばれました。先生は繁栄の神学を拒絶なさいました。アメリカの宣教師も日本の牧師も、今日、多くが、キリスト教の『ご利益』を盛んに強調しながら伝道しています。けれど、先生はご利益信仰を訴えることで信者を増やそうとすることはありませんでした。

 先生が貧しかった時、苦労していた時、先生は主なる神の愛を悪用してまで、その試練を回避し、ご自分の豊かさと安全を得るために、神の愛を試みようとすることはありませんでした。そして先生の教会は、現世利益のメッセージによってではなく、ひとえに主の祝福により拡大していきました。

 けれども、最後の誘惑が来た時、先生はそれに負けてしまわれたのです。大勢の信徒が自分を跪拝する地上の王国…、そこに誘惑があることを甲先生は見抜くことができず、その計画に魂を売ってしまったんです。奇跡と、繁栄には背を向けることができた先生が、名声と権力と、苦しみのない幸福社会というものの前に、すっかり目がくらんで、それに跪いてしまったんです」

 甲は何も言えずにおし黙った。こんなひどい中傷をされて黙っているわけにはいかない。だが、甲の頭の中では言葉が空回りするばかりで、何と言って反論すれば良いか分からなかった。

<つづく>

<つづき 1>

甲は牧師として申し分のない成功の中にあった。全国のキリスト教会にはどこでも、信徒の高齢化のために、概して、滅亡の危機が迫っているというのに、甲の教会にとっては、それさえ大した心配ではなかった。
何しろ、甲の教会には20代、30代の若者がたくさんいるのだ。礼拝賛美には魅力的なロック・バンドが使われ、礼拝には若者が詰めかけてきて、少々勢いがありすぎるほどだ。英会話クラスにはかなりの数の外国人と、留学中に英語がペラペラになったような、若く有望な日本人学生が沢山集って、お洒落な雰囲気になっている。

若者たちは、しょっちゅう、甲教会でパーティーを開いている。和やかな雰囲気のそのパーティーの席には、いつも新しい顔ぶれが見られた。さらに、甲教会の日曜学校にも活気がある。幼い生徒たちを率いているのはバイタリティのある若い教師だ。
音楽に秀でた者、語学に秀でた者、若い料理人、若者伝道に秀でた者…、多彩な才能を持つ若者たちが、たくさん甲教会には出入りしている。平日には勇士が集まって公園伝道にでかける。その路傍伝道は、かつての時代のような、通行人に見向きもされない、独りよがりな伝道ではない。若者がわいわいがやがや集まって、実に楽しい伝道を繰り広げるので、公園に来ている子供たちやママさんたちは、それを楽しみに公園にやって来るほどだ。

甲教会の若者だけでなく、甲自身の家庭の子供たちも順調に成長していた。甲の息子のうち一人は大学卒業間近だが就職の内定も決まっている。
甲の生活にはほとんど心配事がなかった。教会内の雑用のほとんどは若い伝道師たちがやってくれる。甲が自らの手を煩わせなければならないような雑用はほとんどなく、彼はカウンセリングや救出活動に専念することができた。
が、一つだけ甲牧師には不愉快なことがあった。最近、神学校を出たばかりの若い牧師が、甲教会を訪ねて来たのだが、その時の会話から受けた印象から、甲はなかなか立ち直ることができなかった。

それは年末が間近に迫る忙しい時期だった。
見慣れない風情の、みすぼらしいジャンパーを羽織った蒼白い顔の若者が、平日に、何の前触れもなく甲教会を訪れた。若者の額には、延びすぎた前髪がはりついて、融けた雪がその先から頬に滴り落ちていた。その日、この地方には珍しく粉雪が舞っており、若者は全身、雪にまみれていた。
 信徒がこの若者を甲牧師のもとへ案内して来た時、クリスマスの飾り付けを教会員と一緒にやっていた甲は、すぐには彼が誰だか思い出せなかった。どこかで会ったような気がするものの、毎日、たくさんの人々と面談している甲には、なかなか名前が思い浮かばない。

「お久しぶりですね、お元気でしたか、甲先生?」
 若者の声を聞いて、ようやく、甲はそれが三年ほど前に、神学校を卒業して、地方教会に赴任する直前に、自分のところへ挨拶に来た若者であることに思い当たった。彼が赴任したのは、どこかの片田舎の小さな教会だったはずだが、さてどこだったろう…?と、甲は心の中で首をひねった。甲は記憶力には自信がある方だったので、滅多に人に関する情報を忘れることはなかったが、この若い牧師に関しては、ずっと前に一度会った時のことしか、思い出せなかった。
「やあきみ、赴任して確か…、三年くらいだったよね。どうだい、きみの教会は?」
 壁に打ちつけようとしていたリースを信徒に手渡しながら、甲は若者に訊いた。

「ぼちぼちですよ。甲先生のところは相変わらず勢いがありますね。若い人たちがいっぱいいるし、賛美にも迫力がある。この調子なら、今後もどんどん成長していきそうですね…」
 若者は、礼拝堂で飾り付けをしているにぎやかな青年たちを楽しそうに見回した。

 若手牧師の誉め言葉に、まんざらでもなさそうに笑いながら、甲は彼を応接室に導いた。
「まあ、座りたまえ。そんなに雪まみれで、外は寒かったろう? コーヒーでもどうだい?」
「え、先生はご自分でコーヒーを淹れられるんですか?」
 若者はびっくりしたように訊いた。
「もちろんだよ。私には使用人なんていないからね。きみのところでは誰か信徒がお茶を入れてくれるのかい? それとも、きみは新婚なんだっけ?」
 若者は肩をすくめて笑った。
「ぼくは独身ですし、教会員は1名しかいません。何しろ、山小屋の教会で、電気も水道も通ってませんから、毎朝、山から薪を運んで来ては、囲炉裏に火を起こして、近くの川から水を汲んで来て、ようやく一日が始まるんです。
ペチカの上にアルミニウムの薬缶を置いて、それがしゅーっと音を立てて沸き始めた頃に、信徒が下界から教会まで登って来る。それも80歳になる農民のおじいさんです。彼が毎日、米やら野菜やらを携えて来てくれるんです。もちろん、ぼくも平日の天気の良い日には下界に降りて、村の田んぼや畑で農作業をやりますよ。その報酬として米や野菜をもらっているんです。そのおじいさんが、日曜になると、村の人を何人か誘って、ぼくの説教を聞きに来てくれます」

 甲はそれを聞いて、信じられないかのように驚いた表情をしたが、すぐにいつもどおりの笑顔に戻った。
「大自然の山暮らしかぁ。それはいいねえ。風情だねぇ。もちろん、苦労はあるだろうけど、そうやって世俗を離れたら、全てを主の御手に委ねきっている満足感があるんじゃないかい?」
「その通りですよ。初めは何もかも知らないことばかりで、一人では何もできませんでした。でも不思議と、全ての必要が整えられてきたんですよ。ご存知だとは思いますが、甲先生、ぼくの教会は、初めから山小屋にあったわけじゃなくて、初めは村の中に立派な礼拝堂を構えていたんです。小さな家の教会ではあったけれど、30人くらいは礼拝堂に入れたんじゃないかな…。

でも、前任牧師が突然に心臓発作で亡くなられた後、教会にはすごい借金が残っていることが分かって、信徒たちはみんな散り散りになってしまったんです。ぼくが赴任した時、教会にはただ借金の証書が残っていただけで、会員名簿もなかったし、教会の備品も一つとして置いてありませんでした。礼拝が行われなくなってから、誰が持ち去ったのか知りませんが、礼拝堂はただのがらん堂になっていて、パイプ椅子一つさえなかったんです。
ぼくは村中を回って、信徒を訪ね求めましたが、見つかった信徒はあのおじいさんたった一人きりでした。きっと誰も借金を肩代わりしたくなかったから、名乗り出なかったんでしょうね…。そこで、ぼくは礼拝堂を売り払いました。村の人たちには、教会が赤字経営に陥って、大勢に迷惑をかけたことをお詫びして、これからは借金のない教会運営を目指すことを約束しました。それで今、ぼくは山小屋に住んでいるんです」

 甲牧師は目を丸くした。
「ほう…、きみみたいに若い人が、牧会活動の初めからそんな困難に直面していたとはねぇ…。でも、若い身空で、そんな風に辛抱しながら、教会を立て直す気になったとは、感心だよ」
 若者はコーヒーを一口飲んで、ほっとため息をついた。
「…いいえ、ぼくなんてまだまだですよ。何しろ、学校を出たてで、独身ですから、どこへ行っても、若造扱いです。過疎化した村ですから、教会に来てくれる人たちは皆、ぼくの三倍以上の年齢で、中には、何とかぼくに見合いをさせようと、縁談ばかり持って来る人もいます。断わると角が立ちますしねぇ。
…それにあの村には昔からのお寺があって、村人は大抵、そこの檀家さんになっているんです。最初は大変だったんですよ。そこの和尚さんもかなり高齢の方ですが、以前は何かと、うちの教会の牧師とモメていたらしく、初めは、ぼくの存在をとても警戒していました。

 でも、ぼくが礼拝堂を売り払って、電気も水道もない山小屋に住んで、別にお寺の信者を奪うわけでもなく、村になじむための生活をゆっくり始めたのを見て、和尚さんはようやくぼくが敵じゃないことを分かってくれたらしいです。三年経った今では、村で行事があると、ぼくと和尚さんはどちらが行くべきか、連絡を取って相談するまでになりました。もちろん、お寺が取り仕切る行事の方が村では圧倒的に多いんですけど、それでも、ちらほらとぼくにも仕事が回って来るようになったんです。

 電話はちゃんと通じていますから、ぼくの方ではお葬式でも定礎式でも何でもいつでもOKです。伝道は農作業の合間に毎日やってます。ぼくと和尚さんは仲良くなりました。正直な話、ぼくは時々、お時へ行って、仏教の経典を勉強することもあるし、和尚さんが聖書を教えて欲しいと言ってぼくのところに来ることもある。何だか、笑い話みたいですけどね。
 この間、村人が一人亡くなったんですが、亡くなる直前に、枕元で信仰に導くことができました。本人はキリスト教の葬儀を望んだんですが、家族が反対したので、お葬式では、妥協案として、和尚さんがお経をあげたその後で、ぼくが祈ったんですよ、ねえ、信じられますか?」

 甲はできるだけ面白そうな表情で若者に頷いてみせた。
「…そうかい、それはよくやったね。まあ、色々大変だろうけど、今が辛抱だよ。きみはまだ若いから、可能性がある。そのうち信徒も増えて、もう一度礼拝堂を建てられる時が来るだろうよ。私も期待してるよ。この教団もきみのような優秀な人材にはすごく期待を寄せてるんじゃないかと思うよ。
 もしも牧会中に、何か嫌なことがあったら、私のところに来れば、カウンセリングをしてあげていいよ。
 …ここだけの話、牧師の中には、牧会活動で追いつめられて、私のところへ泣きに来る者もいるんだよ。残念なことだが、今の時代、牧会活動はとても難しくなっているんだ。中学や高校で学級崩壊があるみたいに、今、各地で教会崩壊が起こっている。…ほんとにここだけの話にして欲しいが、モンスター信徒なんてものも、中には出て来るようになった。きみも色々、気をつけなくちゃいけないよ、信徒の中にはほんとに変なのもいるからね」
「…そうですか、ご配慮いたみいります。甲先生」
 若者はそう言って、コーヒーを底まで飲み干した。

「おや、もう飲んだんだね? 美味しかっただろう、そのコーヒーは。これはある信徒が自分で豆を焙煎して、持って来てくれるんだよ。何だったら、おかわりをあげようか?」
「ありがとうございます。何しろ、外はとても寒くて、凍え切っていたものですから…。申し訳ありません、甲先生」
 若者は嬉しそうに言って、コーヒー・カップを差し出した。部屋を出がけに、甲はちらりと彼を振り返った。見ると、青年の着ているジャケットはかなり古ぼけて、煤けている。それなりに美男子で、精一杯めかしこんできたつもりだったのかもしれないが、若者の髪は、どこか油じみており、その上、煤がこびりついていた。手の甲は荒れて幾重もの皺が刻まれ、コーヒー・カップを握っていた節くれた指の爪先には、泥がいっぱいに詰まっていた。

他方、甲の方は、バリ島に旅行をしてきたばかりの信徒からもらった長袖の民族模様のシャツを着ていた。鮮やかな赤色が美しく、甲も気に入っていて、平日にはよく着ている。甲は若者の貧相で不憫な姿から思わず目をそらすと、部屋を出て行き、二杯目のコーヒーを台所で淹れて、戻って来た。

「それで…、きみ、今日は一体どうしたんだね? 何の前触れもなく、急に訪ねて来るなんて、何か深刻な相談事でもできたのかい? 前もって知らせてくれていたら、ちゃんと時間を取ったんだがなぁ…、ごめんよ、私には次のカウンセリングが控えていて、30分ほどしかきみのために時間を取ってあげられない。何だったら、夕方まで待っていてくれてもいいんだが?」
 甲が時計を見上げると、2時30分だった。若者は首を振った。
「そんなにお手間は取らせません。とても気になることがあって、ぜひ先生にお伺いしたいと思ってやって来たんです。突然、お邪魔して、ご迷惑でしたでしょうか?」
「…いや、そんなことはないよ。で、私に聞きたいことって、何だね?」

 甲はカウンセリングのことを思い出して、少し落ち着かない気持ちになった。あの丙教会で被害を受けた少女が両親と共に教会にやって来るのだ。これまでも何度かカウンセリングをして来たが、未だ少女には回復のきざしがない。何を聞いても、返事は帰って来ず、泣いてばかりだ。
 …とにかく、親子が来るまでに、この派手なシャツを着替えておかねばならない。でも、その時間があるだろうか、と甲は不安そうにもう一度、時計を見上げた。

 若者は甲の心配には少しも気づかない様子で、神妙な顔で話を切り出した。
「先生、ぼくらの教団には、牧師の転勤制度というものがありますよね? それはどういう由来で出来たのか、お伺いしておきたいんですが?」
 甲は目を丸くした。
「おや、そんなことなら、きみは赴任前にちゃんと説明を受けたはずだけどな。大切なことだから、必ず説明されるはずなんだけど…? まあいい、きみが忘れているだけかも知れないけど、もう一度、説明してあげよう。

 あのね、転勤制度というのはね、その昔、この教団にいた人たちが、一人の牧師が一つの教会にいつまでもい続けると、どうしても牧会活動がマンネリ化して、牧師が教会で我が物顔に振る舞うようになったりして良くないと考えて、そういうことを防止するために作った規則なんだよ。
 特に、若いうちは、牧師は定期的に教会を変わった方がいいとぼくも思うよ。教会を私物化してはいけないということを身を持って学んだ方がいいからね。
 まあ、とにかく、転勤制度は、そんな風に、牧師のための戒めの意味をこめて作られた規則なんだよ」

 若者は不安そうな表情で身を乗り出した。
「先生、それがぼくにはとても気になるんです。ぼくは三年かけてようやく自分の教会に慣れてきたばかりなのに、それでも、もし教団から転勤を命じられたら、行かなくちゃならないんですか?」
 甲はソファにふかぶかと背を埋めて、哀れむような表情で彼を見つめた。
「うん…、教団の規則だから、仕方がないと思うね。たとえ気が向かなくても、それも神様の御心、人生勉強だと思って、従えばいいと思うよ。御心ならば、後のことは神様が何とかしてくれるさ…」

 若者は不承不承、頷いた。甲はそれを見て心の中でいぶかしく思った。
 この若者は、まさか礼拝堂もなく、電気も水道もなく、信徒がたった一人しかいないような山小屋教会に未練があるのだろうか。普通だったら、そんな教会から転勤を命ぜられるなら、一刻も早く、喜んでどこへでも赴くと思うのだが…。教団の方でも、誰一人次の牧師のなり手がないような、そんな貧乏教会からこの若者を転勤させるとはとても思えない。その山小屋教会がつぶれでもしない限り、この先何年経っても、多分、この若者に転勤が出るようなことはきっとないだろう…。
 甲は続けた。
「確かにね、この転勤制度には色んな意見があって、それに反対している人もいるよ。この教団内では、一部、転勤が出ても命令に逆らって、自分の気持ちだけで教会に居残っている人たちがいたり、あるいは、無理やり教会ごとまるがかえで、教団を離脱してしまったりする牧師がいないわけじゃない。けれど、私はそういうやり方にはあまり感心しないな。組織に属するなら、規則にも服すべきだよ」

 若者は顔を上げた。
「じゃあ、甲先生も、転勤を命じられたら、この教会を置いて行かれますか? この教会の設計段階から、甲先生は関わっておられたと聞いていますが? それに、甲先生が来られたばかりの頃、この教会は荒れて大変だったという噂も耳にしています。甲先生の功績あってこそ、ここまで大きくなったのでしょう? それに、ここはカルト被害者救済活動の有名な拠点でもあります。それでも、ここを去られるお覚悟ですか?」

 若手牧師の大胆な質問に、甲牧師は一瞬、眉根を寄せて押し黙った。やれやれ、こんな風に、うかつに返事が出来ないような単刀直入な質問を投げかけてくるとは、この罪のない顔をした若者は、もしかすると、何かを探りにここへやって来たのかも知れない。
 今や政治家のような有名人となっている甲のもとには、時折、よからぬ魂胆を隠し持って近寄って来る人間もいた。同業者の中には、甲の何気ない台詞を悪質な中傷に変えて言いふらす者もいる。誰に対してでも、うっかり失言などしようものなら命取りになりかねない。同業者の間だからといって、気安く話したりせず、言質をとられないよう気をつけねばならない。

 甲は若者の質問に微笑んで答えた。
「…さっき言ったように、規則には従うべきだと私は思っているよ。この教団に属している限り、私もその規則に従って、転勤命令が出されるなら、行くのは当然だと思うね。慣れ親しんだ教会であればこそ、離れるのは寂しいだろうけど、仕方ないよ、教会は私の持ち物じゃないんだからね」

「じゃあ、もしそうなったら、先生のクリスチャン・ヴィレッジの計画はどうなるんです?」
 甲はその質問に肩をすくめて、天井を仰いだ。
「さあねえ…、蒔く人がいれば、刈る人もいる。私は種を蒔いただけだ、それを刈り取る役目は別の人のものかも知れないよ。今、クリスチャン・ヴィレッジのために、私は骨折っている最中だけど、そのプロジェクトが他の人に譲り渡させるなら、きっと後任者が何か良い手を考えてくれるだろうさ」

 若者はため息をついた。
「そうですか…、先生は転勤を覚悟しておられるんですね。でも、不思議ですね、どうして甲先生には転勤命令が一向に出ないんでしょう? もうかれこれ25年もこの教会にいらっしゃるのに?」
 甲は顔をしかめた。最近の若者は、随分と、大胆な口を利くようになったな…。コーヒー・カップをゆっくりと口に運びながら、甲は答えた。
「さあね、転勤は教団が決めることだからね、私にも分からないよ。
 でも、私の想像では、きっとそれは、私が救出活動で全国で有名になっているから、この教会にとどまって、この先もこの活動を続けていった方がいいと教団が判断しているからじゃないかな? もちろん、本当のところは私だってその理由を知っているわけじゃないんだけどね。
 それに、きみも知っているように、この私だって、もうちょっと若い頃には、一度、転勤させられているんだよ。だからこれはまんざら不公平というわけじゃない」

「そうなんですか…、分かりました。でも、お伺いしたいんですが、この教団では、ある牧師には数年で転勤が命じられますが、ある牧師には、何十年経っても、転勤が出されません。だからずっと同じところで牧会している牧師がいるかと思えば、教会を変わってばかりの牧師もいる。それって、何かおかしいんじゃないですか? 一つの教会に一人の牧師がいつまでもとどまってはならないという規則本来の趣旨に反しているじゃありませんか」

 甲は若者がいつまでもこの話題にこだわっていることに、内心、不愉快になりながら、腕を組んだ。
「それはどうかねぇ。私は、教団の決定は、ただの不公平ではなくて、きっと何か重要な理由があるに違いないと思っているよ。でも、きみがそれを不公平だと思うんなら、私に言うのでなく、直接、教団に聞いてみてはどうだい?」
 若者はしぶしぶ引き下がった。
「そうですね…。じゃあ、一度、直接、聞いてみます。それから、他にも質問があるんですが、甲先生、よろしいですか?」
 甲は時計の針を見上げた。なんと、さっきからまだたった2分と経っていない。
「うーん…、次のカウンセリングまでに支度をしなくちゃいけないから、実を言うと、少し時間が欲しいんだけど、でも、あと10分くらいなら大丈夫だと思うよ。それで? 質問は?」

「甲先生はカルト救出活動において大きな功績を挙げられましたよね。今、日本中で先生の存在を知らない人はいないほどです」
「そうかも知れないね。で、それがどうかしたのかい?」
「甲先生、先生は、大黒柱が腐って、屋台骨のぐらついたようなたくさんの教会を…、つまりカルト化した教会を取り壊して、ご自分の教会に加えられました。そこにいた信徒たちは、前のひどい牧師の圧迫から解放されて、甲先生の教会の一員になったことをとても喜んでいると聞いています。
 でも、先生はその人たちを以前の圧迫から救ってあげた代わりに、彼らの教会をご自分の母屋の離れにしてしまい、彼らから母屋に住む権利を取り上げてしまったことにお気づきでしょうか?」

 甲はさらに眉根を寄せて、じっと若者を見つめた。どういう了見なのだ、この若者は、こんなぶしつけなことをあからさまに訊いてくるとは。そもそも、この若者は、どういう動機でここにやって来たのかもさっぱり不明だ。私の救済活動に文句があって、非難しに来たのだろうか…。

 だが、甲は心の動揺を一切外には表さず、平静に落ち着いて答えた。
「もしかして、カルト被害者たちが、ここの教会の支部になったことを指して、きみがそういう風に表現しているのだったら、それは筋違いというものだよ。被害者たちは自分から望んでここの一員になりたいと申し出たんだ。別に、私がそれを強制したわけでも何でもない。
 それに、この件についてのきみの表現は不適切だと思うね。私は被害者たちの教会を、たとえ屋台骨がぐらついていたにせよ、決して、取り壊したりなんかしていない、むしろ、屋台骨を修復して、再建してあげたんだ。だって、カルト化した教会の被害者たちは、放っておいたら、教会を失っていたかもしれない、でも、私がいたおかげで、彼らは教会を失わずに済んだんだよ」

「この教会の支部になることが、彼らが教会を失わずに済んだことになるんですか?」
 若者は聞き返した。甲は苛立たしげに言った。
「何か勘違いをしているんじゃないかな、きみは。支部になるということには、決して、格が下がるとか、服従するとかいう意味はない。それは、きみの言うような、『母屋の離れ』とかいうような妙な意味合いじゃないんだよ。
支部になるということは、ただ、この教会と同じ理念を持っている人たちが、地理的には離れているけれども、同じ気持ちで同じ礼拝を捧げたいという思いで、私たちと一つの同じ組織に属するというだけのことなんだよ。
 …もともと私たちは皆キリストの枝なんだ。枝に優劣があるわけじゃない。この教会だって、本部というわけじゃなくて、枝の一つに過ぎない。全ての教会が平等にキリストに属している枝なんだ」

「でも先生、実際には、組織としては、この教会を本部として、その下に、支部があるわけでしょう? 北海道にはアイヌ民族が済んでいますし、琉球・沖縄はもともと日本本土とは別の国でした。その人たちの教会を、日本本土の教会に所属させて、その一支部にしてしまうことは、彼ら土地の人々の自主性と誇りを奪うことにならないでしょうか?」

 甲はあからさまにため息をついた。
「やれやれ…、きみには自分の山小屋教会があって、その心配をしていればいいのに、どうしてそんなにも真剣にこの教会の構成に関心を持つのか、私にはよく分からないねぇ…。けど、まあ、きみのような疑問を持つ人が他にもいなかったわけじゃない。その度ごとに私は、ちゃんと説明してきた。
 いいかい、この教会には北海道支部があるけど、それは何もアイヌの人々ばかりで構成されているわけじゃないし、沖縄支部だって、琉球人ばかりってわけじゃないよ。だから、北海道や沖縄の教会をこの教会に所属させることが、何も、彼らの民族としての自主性を奪って、日本本土優位の考え方を押しつけることにつながるというようなことは、私は少しも思っちゃいない。そういう主張は、何だか極端だと思うよ。

 それに何よりも、彼らが自分たちで望んでこの甲教会の支部になりたいと言ってくれたんだ。もしきみが言うように、そのことで誇りと自主性が奪われたりする危険があるなら、どうして彼らがそんなことを自分から願ったりするだろう? 自分たちのためにならないことなら、拒否していたんじゃないかな?」

「でも、被害者は長年に渡って、虐げられて、支配されてきた人たちです。その人たちが自信と誇りを完全に取り戻すには、時間がかかりますよね? 今までさんざん人に依存するように仕向けられてきた人たちが、真に回復しないうちに下した決断は、どうしても誰かに依存したものになりがちじゃないでしょうか…。
 そういう状態にある人たちの決断が、本当に心からの自由な決断や、公平で客観的な判断になり得るとは思えません。ですから、周りにいる人たちは、彼らの依存心の上にあぐらをかくことがないように、気をつけるべきではないのでしょうか?」

 甲は腕を組んだまま、ソファの背もたれにもたれかかった。
「きみはカルト被害者救済という活動のことをほとんど分かっていないようだな。素人ほど、そんな風な判断を下したがるものだ。本当は、物事はそんな風に杓子定規に進められるものじゃないんだよ」
「そうなんですか…、やっぱり、これは素人判断なんでしょうか、もしそうだったらすみません。ぼくにはよく分からないので、詳しく教えて下されば嬉しいんですが」
 若者は謙虚に引き下がった。それを見て、甲は少し安心して、態度を和らげた。

「確かに、きみの言う通り、被害者の心の回復には時間がかかるよ。彼らが本当に自主性を取り戻し、人に依存しないで、自信を持って、物事を決断できるようになるには、時間がかかる。
 『スタンフォードの監獄実験』の結果がはっきりと示しているように、たった数週間の虐待体験によって出来たトラウマでさえも、それを癒すのには何十年ものカウンセリングが必要になるんだ。それを考えれば、何年間もカルトにいたような被害者が、本当に回復するには、ものすごい時間がかかることは、当然だ。それはきみにも分かるね?

 でもね、だからこそ、焦っちゃいけないんだよ。被害者にすぐに完璧を期待しようなんて思っちゃいけない。たとえば、考えてごらん、繭の中で羽化しようとしているさなぎを、その変身が完了しないうちに、繭をこじ開けて外界に取り出したとしたら、どうなると思う? さなぎはただ死んでしまうだけなんだよ。
 いいかい、支部というのはね、ちょうど、さなぎを包んであげる繭のようなものなんだ。被害者が本当に自主性を取り戻すときまで、その道の専門家である私たちが、彼らを大切に守って、彼らが外界の厳しい風にさらされて、耐える力がないような試練に直面して、絶望したりしなくて済むように、何よりも、落ち着いた環境で回復に専念できるように、安全基地を作ってあげねばならないんだよ」

 若者は感心したように言った。
「へぇぇ…、そうなんですか。じゃあ、先生の教会の支部というのは、被害者をそっと包んであげる保護膜のようなもの、つまり、さなぎにとっての繭だというわけなんですね。それじゃあ、さなぎが羽化して、役目を終えたら、その繭はなくなるんですか?」
 甲は若者の終わりない質問に、うんざりしながらも、何とか平静を装って答えた。
「うーん、そうだね、多分、役目を終えたものは、なくなるかも知れないね…。それがいつのことか分からないけれど、もし北海道や沖縄の被害者たちが、私たちの支えなんてもう必要ないと判断する時が来て、この教会の支部から独立したいと願うなら、いつだって、それはできるんだよ。たとえ今すぐにだってね。
 もちろん、彼らが私たちと協力関係でいつづけたいと願ってくれるなら、それも喜んで受け入れるつもりだ。私たちはどちらだっていいんだよ。誰も彼らの意思決定を邪魔しないし、何かを強引に勧めたり、独立を禁止したりするわけじゃないよ」

 若者は首をかしげた。
「先生、真理があるところには、自由があると聖書は言いますよね。主権が完全に回復されないのに、自由はありません。だから、依存状態に自由はありませんよね。だとしたら、被害者は、人に頼っている依存状態では、自由ではないということになりますが?」
 甲は再び、ちらりと時計を見上げた。2時35分だ。今日はどうしてこうも時間が経つのが遅いんだろう。

「きみの話は何だか堂々巡りになっているみたいだよ。主権が回復しないのに、自由はない、そりゃそうだろうね。でも、それは一般論としてはそうであって、実際には、全ての依存が悪いものであるわけじゃない。人間は皆、助け合って生きている。皆、互いに依存し合っているんだよ。一人だけで独立して生きている人はいない。その助け合いは、ある角度から見れば、依存状態かも知れないが、でも、それは決して主権を脅かすような不健全な依存じゃない。
 いいかい、健全な助け合いは決して悪いものじゃないんだ。でも、その助け合いが、助け合いを超えて、相手の人格に対する支配になって来た時、その依存は主権を脅かす不健全なものに変わるんだ。
 私たちが被害者を保護しているのは、決して彼らの主権を脅かしたり、独立を損なうためじゃない、彼らに健全な依存の場を提供し、そしてこちらも助けてもらうという、協力関係を作っているだけなんだよ。被害者と私たちの関係は、協力関係なんだ。
 私は決して被害者をこの教会に不健全な形で依存させるつもりはないよ。私たちが提供している助け合いは、彼らを私たちに従属させるためじゃなくて、彼らを自由にし、本当の自信と自主性を取り戻させるためにこそ、提供しているんだ。それが支部の目的なんだ」

「つまり、支部にすることは、健全な依存関係を作り出すことであって、不健全に依存させたり、主権を脅かすことではない…、先生はそうおっしゃるわけですね?」
「その通りだよ。今言ったように、支部とは協力関係であって、従属関係じゃないんだ。確かに、この世の組織としてはタテのつながりがあるかも知れないが、私たちはキリストの枝として皆対等であるんだから、キリストにあっては、私たちにはヨコのつながりしかないんだよ」

 甲の返答に若者はどこかしら納得できないような表情だった。
「先生、それに関連して思うんですが、自由意志の下で選択したものでなければ、人間は、本当に自分で選んだものだとは言えませんよね? 強制のもとでの選択、もしくは自信喪失状態や、人権を奪われたところで行った選択は、自由な選択ではありませんよね?
 そこで、ある人がキリスト教に改宗したとして、それが監禁状態の下で選んだ教義だとすれば、それは到底、自由に選んだ教義とは言えないし、その人の心からの選択だとも、言えないのではないでしょうか」
「うーん、それは何かね、私たちの昔のカルト救出活動のことを指して言っているのかい? きみの話はえらく話題がころころ変わるから、面食らうなあ…」
 甲は呆れたように肩をすくめた。
「だが、まあ、いい。確かに、私たちの昔の救出活動には、色々と反省すべき点があったことは私も認めているよ。監禁というのは、やっぱり良くなかった。相手の身体の自由を奪うことだからね。確かにそういう状態で選ばせたものは、完全な自由の下での選択とは言えない。それだけに、せっかく説得して改宗してもらっても、私たちにとっても、成功の意味が薄くなってしまうのが残念だ…。
 でも、だからこそ、過去の反省に立って、今、私たちは穏やかな救出活動をしているんだよ。誰も強制的な方法を取っていない。だから、強制の中で押しつけた教義なんて今は存在しない。被害者たちは自由に教義を選び取っている。もし保護膜としての繭さえも要らないと彼らが判断するなら、すぐにでも、支部を拒否することができる。被害者たちは自由なんだ…」

 若者は甲が話し終えないうちに、反論を始めた。
「でも先生、たとえ人を監禁しなくとも、『あなたの信仰は間違っている』と断定して、その人がそれまで培ってきた知識や人生経験を否定して、価値がないもののように思わせて、つまり、その人の信念を侮辱して、その人に恥をかかせるという圧力を加えた上で、相手の信じてきた教えと生き方に代わる、新たな価値として、キリスト教の正しい信仰を教え込んでいくというのは、一種の強制であり、洗脳であり、マインドコントロールではないでしょうか。ぼくにはそう思えてならないんですが?」

 甲はそれを聞いて、苦々しい顔で、ソファにもたれかかった。
「先生、どうかされましたか? 何だか、お顔の色が悪いようですが」
 甲は若者の度重なるぶしつけな質問に苛立ちを募らせていたのだが、何とか自力で不愉快さを克服して、静かな口調で言った。

「…きみはカルトについて何も知らない。だからそんな風な考えになるんだよ。洗脳とか、マインドコントロールという言葉は、きみみたいに何も知らない人が、自分の思い込みだけで使っていい言葉じゃない。そこには複雑で専門的な定義があって、巧妙な仕掛けや段階が含まれているんだ。きみはカルトのことについて、もっともっと勉強しないと、とても私と対等な議論はできないよ」
「そうですか…、それは残念ですね。じゃあ、このお話はそろそろ終わりましょうか」
 若者は心からがっかりした表情で引き下がった。

 甲は若者の勉強不足と大胆な質問に、内心、呆れながらも、このまま、まずい雰囲気のまま話を切り上げたくなかった。それに、もう少しこの若者に、自分の活動の意義を理解してもらいたいという気持ちが甲の中に芽生えた。
「…でも、まあ、きみもせっかく来てくれたんだし、これから先、会う機会があるかどうかも分からないから、もう少しだけ、きみの疑問につきあってあげてもいいよ。ところで何かね、さっきから聞いていれば、きみはカルト被害者救出活動にえらく関心があるようだけど、もしかして、将来的に、そういうことをやりたいという希望でもあるのか?」
 若者は急に目を輝かせた。
「そうなんですよ、先生、ぼくには色々と知りたいことがあって、そのためには、まずその道の専門家であられる甲先生にお聞きするのが一番だと思ったものですから」

 甲は心の中でため息をついた。やれやれ、関心があるなら、まずは甲の著書や論文を一つでも読んで勉強すればいいのに。時間をかけてじっくり先行文献を読んで、専門知識を蓄えることはしようとせずに、すぐに人を当てにして、分からないことがあれば、何でも人に聞けば、教えてもらえると思っている。
 大体、アポイントメントも取らず、相手の都合も確かめずに、全くの手ぶらで、急に押しかけて来た上に、自分の聞きたいことだけを臆面もなく質問してくる、人に教えを乞おうとする態度がまるでなっていない。そんな礼儀もわきまえない若者の質問に、丁寧に応えてやらねばならない義務はどこにもないのだが…。

 だが、甲はその考えをすぐに思い直した。
 片田舎の山小屋に引っ込んで、苦労させられているこの若者にとっては、情報を入手する手段さえ、ひょっとするとないのかも知れない。新聞も雑誌もパソコンもないような毎日を送っていて、もしかするとこの甲との会話が、彼にとっては思いがけない清涼剤となっているのかも知れない。
 いや、たとえどんな事情があったにせよ、ここを訪ねて来る前に、断わりの電話一本くらいは寄越せたはずだ。しかし、まあ、いい。つまらないことにこだわるのはよそう…。

 甲はもう一度、同情的な眼差しで若者を見やった。彼はよれよれのジーンズに、底が薄くなった運動靴を履いている。信徒がたった一人の教会から、この若者が受け取れる給料はきっとないのに違いない。これだけ貧相な服しか着られないところを見ると、相当に貧乏で、多分、親からの仕送りに頼って生活しているのだろう。書籍を取り寄せる資金もないのだとしたら、この若者にカルトの先行文献を読めというのも無理な注文かも知れない。そうだ、若者に勉強の機会を与えてやることは、先達の義務だ。ここで、私が寛容であるところを見せてやらねば…。
 深く息を吸い込んでから、甲は言った。
「いいかい、今から言うことは、きみだからこそ教えてあげることだから、よく覚えておきなさい。

 私はね、正直な話、あらゆる説得行為には、きみの考える洗脳とか、強制のようなものが、一切含まれないわけじゃないと思っているんだよ。何しろ、説得とは相手の意志を変えさせる行為なんだ。強い力によって、人の意志を揺り動かそうとする何者かがいなければ、人は誰も自分から考えを変えようとはしない。いいかい、私たちがただ待っているだけで、相手が私たちと同じ考えを持ってくれることは永久にないんだよ。

 …だからこそ、人を説得する際には、相手の現実を揺さぶって、彼が今信じているものでは満足できなくなって、自分は変わらなくちゃならない、今とは違った考え方を、違った生き方を獲得しなくちゃならないと思うように仕向けなくちゃいけないんだ。
 今現在、相手が信じているものが、どれほどその人にとって価値があるものであろうと、私たちはそれを打ち砕き、そんなものよりも、はるかに良い価値、もっと正しい価値がこの世にはあって、そのより良い方を選ばなきゃ、彼にとって損だということを分からせてやるんだ。
 つまり、カルトの教義なんかよりも、もっと正しい教義がこの世に存在していて、それを信じた方がはるかに得だってことを、彼に分からせなくちゃいけない。

 いいかい、相手が今持っているベターを棄てて、ベストを選択するように仕向けること、それこそが説得の極意なんだよ。そのために、ベストにとって敵となるベターをまず駆逐しなけりゃいけない。ベターなんてものにすがりついているせいで、ベストを選べないでいる相手が、どんなに馬鹿らしく人生を浪費しているか、分からせてあげなくちゃいけないんだ。
 …でも、相手は自分が獲得したものが、ベターじゃなくてベストだと思い込んでいるから、自信満々で、彼のベターを私たちに見せびらかしてくるだろう。けれど、そんなみみっちい自信はこっぱみじんに打ち砕かなければいけない。相手が今信じているものは、本当は全く無価値というわけじゃないかも知れないけれど、単なるベターであって、ベストじゃないという意味においては、無価値なんだ。いや、無価値というよりも、有害なんだよ。
それは半面の真理であって、完全な真理じゃない。半面の真理は、完全な真理の敵であって、完全な真理の理解を妨げる有害な障害物なんだよ。
 何しろ、カルトを信じている限り、その人は本当の真理に決して到達できないんだから、そういう意味において、カルトの教えは真理を妨げる障害物でしかない。そういうものを残して置いちゃいけない。

 でも、それを私たちが力ずくで一掃するんじゃなくて、相手自身に分からせることが重要なんだ。彼がカルトの教えという、屑のような、おもちゃのような武器にすがりついて、そのデタラメな武器をめったやたらに振り回すのを自分から止めて、そのおもちゃに価値がないことを理解して、棄てるように話を持って行くんだ。その上で、もっとより良い価値を獲得したいと、彼が思うような方向に、私たちは話を運ばなきゃいけない。屑のようなおもちゃと引き換えに、もっと輝く、本物の武器を、本当の人生の遊び道具を、人生を幸福にするための鍵を、つまり、真理を手渡してあげるんだ。
 いや…、正確に言うなら、私たちが彼に真理を手渡すんじゃない、それが欲しいと思って、相手の方からこちらに手を伸ばしてくるように仕向けるんだ。いいかい、自分の手で掴ませるんだよ。彼自身に確信させて、選ばせるんだ。そうすれば、二度とその確信は揺らがない。人は自分で掴んだものに対しては、驚くほど執着するものだ。より良い真理を教え、人にそれを自分で掴ませる。それが説得というもののやり方なんだ」

 甲が自信たっぷりに、説得工作のやり方について長広舌をふるうのを、若者は不思議そうな面持ちで聞いていた。
「…つまり、先生は、カルトの教えが、キリスト教という普遍の真理の理解を妨げる障害物であることを、被害者自身に分からせて、カルトの教えの有害性と虚しさに気づかせることによって、彼が自分でそれに絶望して、教義を放棄して、新しい教義を掴もうとするようにしなければならない、とおっしゃっているんですね?」
「そうだよ、もう一度言うが、本当の真理とは何かという問題は、彼自身に考えさせるんだよ。私たちはそのための材料を提供するだけだ。
 ただし、重要なのは、その前に、一度、彼の妄信と過信に基づいた現実を揺り動かし、粉々に打ち砕いておかなければならないことだ。彼がすがりついてきた現実が、どんなに無意味であるか、愚かであるか、思い知らせなくちゃ、その先はないんだ。
 もしもそこで、私たちが黙っていたら、彼は永久に自分ではその誤りに気づかないだろうね。洗脳されているんだから。洗脳を解くことは生易しいことじゃない。だからこそ、私たち専門家の出番だ。
 私たちは容赦なく真実を語るよ。カルト信者には、自分たちが今まで信じてきたものの正体を知って、多少は、挫折感を味わってもらわなくちゃいけないし、惨めな思いもしてもらわなくちゃいけない。

 自分の誤りに気づいてもらうためには、ただ優しく話していただけじゃだめなんだ。今までの生き方、考え方に対しては徹底的に絶望してもらう必要があるから、強い口調で反論したり、いさめないといけない時があるし、何よりも、揺るぎない権威と自信を持って、相手の前に立つことができなくちゃいけない。もちろん、私たちは被害者の弱い人格に対する温かい配慮を、決して、忘れはしないけれども、それは誤った教義に対してまでも寛容に接し、生ぬるい態度で何でも大目にみるという意味じゃない。

 …でも、この説得のやり方を洗脳だ、マインドコントロールだと言ってしまうのは極論だよ。人の意志を変えさせようとするわずかな圧迫が働いたからといって、穏やかな説得行為まで含めて、全て洗脳だと言い切ってしまえば、人を説得することなんて、誰もやってはいけない犯罪行為だということになる。
 もしそんなことになれば、そもそも、どうやってクリスチャンは伝道するんだね? 人の意志を変えさせようと他人に圧力をかけることが全て罪だということになれば、誤った考えに陥って希望を失っている人や、過激な団体に人生を奪われている人に、誰がどうやって福音を述べ伝え、彼らをとらわれから解放するんだね? 人の意志を変えるために圧力をかけることがいけないというなら、宣教そのものができなくなってしまうじゃないか」

 若者はしばらく考え込んだ。
「そうですね、先生がおっしゃることももっともですね…。でも、甲先生、キリストは『全世界に福音を述べ伝えなさい』と命じられましたが、それは罪からの解放のニュースを人々に伝えよと言われたのであって、間違った教えを駆逐するために、自分と違う教えを信じている人たちと議論して、彼らを論破し、その矛盾と誤りを暴きなさいと言われたわけではないんじゃないかと思うんですが…。

 聖書はにせ預言者は警戒せよと呼びかけていますが、他の宗教の人たちに闘いを挑むようには言っていません。アブラハムも偶像礼拝をする人々とあえて闘おうとはせず、黙って、偶像礼拝のはびこる街を後にしたじゃありませんか?

 神はどの宗教のどの宗派を信じている人々に対しても、よほどのことがない限り、決して強制介入なさいません。聖書を見る限りにおいて、神が最も嫌われるのは、自分の欲望を神に祭り上げようとする人々や、キリストの名を語りながら偽りの教えを広める者、神の赦しなしに自らを義人だと誇る者、隣人に暴虐を行う者、不正を行う者、弱い者を躓かせて悪に導く者…。そういう人たちです。それ以外の、神が放置しておられる他宗教の信者に、ぼくらが切り込んでいくことは、何だか、分を超えているように思うのですが?」

 甲はすかさず答えた。
「…まあ、一般にはそういう考えもないわけじゃない。宗教同士の争いを嫌っている人たちは日本にもいっぱいいるからね。そういう人たちにとっては、ぼくらがカルト被害者の救出活動をしていることさえ、『信教の自由』を脅かす行為のように映ることがあるらしい。若者が何を信じようと、信じまいと、人の勝手じゃないか、それがたとえカルトの教義であっても、他人がとやかく言うのはおかしい、というわけだよ。
 でも、牧師である私がそれに賛成するわけに行かないし、きみの立場も私と同じはずだよ。私たちはクリスチャンでない人々に、自分から福音を伝えなければならない立場にある。なのに、きみは、神が放置しているのに自分が働くわけにいかないと言って、他の宗教の人々への伝道を否定するつもりかい?
 それとも、説得や議論という方法は全てマインドコントロールだと言って、ただ自分から教会に足を運んでくれる人たちだけを安穏と待って、その人たちだけに伝道するつもりなのか? それで信徒が増えると思うか? そんな消極的なやり方で、誤った教えの中で絶望しかけている人をどうやって助けるんだ? 困っている人たちにどうやって福音を述べ伝えるんだろう? そんな必要はないときみは思っているのかい?」

「いいえ、そういうわけじゃありませんけど…」
 若者は口ごもった。甲は勢いづいて話し続けた。
「…私が思うに、神が人に強制介入なさらないそのわけは、伝道が人の手に委ねられたわざだからだ。神は福音を伝えるという使命を、我々至らないクリスチャンにわざわざ召しとして託しておられるんだよ。召された限り、私たちは、その使命に忠実に応えなければならない。だから、人々に福音を述べ伝えるの私たちの義務だ、もちろん、カルトの中にいる人たちに対してもね」
 若者は相変わらず腑に落ちない表情のまま言った。
「先生、ぼくも困っている人々に福音を伝えることは悪いことではないし、ぼくらの義務だとも思っています。でも、それは、人々のそれまでの生き方や信念をあからさまに否定して、その愚かさを暴き出して相手に恥をかかせて、自信喪失させて、代わりに福音を押しつけるということではないと思っています。

 …つまり、伝道とは、愛と思いやりに基づいた行為であるべきで、相手の考えや生き方を否定することによって、人の心に消えない恥と罪悪感を抱かせて、それまでの生き方を放棄させ、それと引き換えのようにして、ぼくらが考える正しい教義を押しつけていって、理想的な、優等生のクリスチャンになってもらうという意味じゃないはずです…」

 甲はしばらく考えてから言った。
「私たちは…、誰にも恥をかかせたりしていないし、誰の生き方も否定しないし、人に教義を押しつけることもしていないよ。被害者には思いやりを持って接している。説得の最中でもね。ただし、さっきも言ったように、相手の人格に対して思いやりを持って接するということと、何が真理であるかを呵責なく追究していくということは意味が違う。
 真理を真剣に追究すればこそ、私たちは間違った考えはどんどん駆逐していかねばならないと思っている。たとえば、きみはオウム真理教のような宗教が、『信教の自由』という言葉のもとに保護されていいと思うか? 確かに、人には信教の自由はあるよ。でもそれは、その信念が、非人間的で反社会的なものでない場合にしか通用しない。自分自身を追いつめ、虐待し、社会に反旗を翻して多くの人たちを危険に晒すような教えを、信教の自由ということを口実にして擁護しようとする人たちを、ただ黙って放っておくわけにはいかない。
 だから私たちは、そういう信者に対しては、その教えがどんなに危険で、間違っているものであるか、目の前で容赦なく、その問題点を明るみに出して見せるよ。そうしなければ、その人たちがそのような教えを信じたことの間違いに気づいて、教えを放棄することなんてないんだからね。

 でもね、私はカルトの教え自体は許しがたく思っているけれども、でも、カルトに入った人たちの心に息づいている真理への探究心そのものは、とても評価しているんだよ。
 …いいかい、カルトの元信者たちは、みんな真理を探究することにとても熱心だ。その熱心さが余って、彼らはカルトに入ったんだ。その教えを放棄した後になっても、ほとんどの人たちが、自分から望んで、キリスト教の正しい教義を理解したいと思うに至る。
 彼らはまさか、きみが言うような、優等生的なクリスチャンになりたいがために、教義を学んでいるんじゃない。私たちだって、そんなことのために彼らに教義を教えているんじゃない。
 被害者たちは自分で真理を知りたいと強く切望しているんだよ。彼らは真理への探究心が人一倍強い人たちなんだ。だからこそ、私たちはその探求を応援してあげたいんだ。

 私はね、神は人が真理を追究する上で、道に迷っても、それをお赦しにならないような心の狭いお方じゃないと考えている。考えてもみてごらん、聖書には神に向かって一度も不平を漏らしたことのないような優等生クリスチャンなんて、一人もいやしない。いや、エノクとか、ダニエルとか、ほんの少しくらいは、いたかも知れないけどね…。
 ほら、あの使徒パウロにだって、ユダヤ教のカルトに入信していた過去があった。パウロもそれが真理だと信じ込んで、愚かにも、クリスチャンを迫害する側に回っていたことがあった。でも、そのパウロをも、神は回心させて、過去の罪を赦された。
 私は、パウロが真理を探究する上で、誤った道に足を踏み入れてしまった罪を、神が赦されたのと同じように、私たちもまた、被害者たちのカルト入信暦を赦すべきだと思っている。カルトの教えそのものは放棄させなくちゃいけないけれど、一旦、悔い改めた人たちの罪を、いつまでも責め続けるつもりは私には一切ないよ」
「本当に、そうなんでしょうか…」
 若者は納得しない表情のまま黙り込んだ。

 何て物分りの悪い奴なんだ、これほど丁寧に説明しても、まだ話が通じていないとは…!
 甲は腕を組んだまま、若者をじっと見つめ、彼が次に何を言い出すのか待った。

<つづく>

プロテスタントの「カルト被害者救出活動」の問題点を示すための一つの寓話

昔、といっても、今から四半世紀ほど前のことだが、日本のプロテスタントのキリスト教界の中に、甲という教会があった。そこの主任牧師である甲は、ある時、カルト化した団体の信者のために、救済活動をしてあげようと思いついた。実は、甲がそのような動機を持ったのには理由があった。

以前、甲自身が、キリスト教界からはカルトと名指しされている、ある宗教団体に入信していた。甲の幼い頃、家庭内には暴力があり、青年時代、甲は荒れて、人生の意味を模索するために、様々な教えを訪ね求めた。そのうちにカルトに勧誘され、短い間であったが、甲はそこに入信していた。
甲はカルトから足を洗った後になっても、ずっと思っていた。前途ある若者がカルトに走らなければならないような日本社会はおかしい。家庭にも社会にも希望が持てず、カルトに惹かれていく若者たちの心の痛みは、甲にとって、自分の体験から想像して、同情に余りあるものだ。だが、カルトにいる限り、若者に幸せは来ないことも分かっている。彼らは福音を知らない限り、解放されることはないのだ。そこで、甲は自分と同じような若者を助けてやりたいと思っていた。

初め、若かった甲は、同じようにカルトからの救出活動をしている牧師の見習いから入った。自分が以前に入信していたような他宗教の「カルト」から若者を救出することが、彼の活動だった。その頃、プロテスタントのキリスト教界では、キリスト教が「過激なカルト」であると断定したいくつもの宗教団体から、信者を救出する活動が、れっきとした公の活動の一部になっていた。教団もそのプロジェクトを推進していた。
そんな時、オウム真理教の起こしたサリン事件が世間の大反響を呼んだ。この事件をきっかけとして、カルトからの救出活動の看板を掲げているキリスト教会には、多くの支持者ができただけでなく、「カルト」に走って疾走した子供の親たちがさらにたくさん駆け込んで来るようになった。
もちろん、子供と言っても、カルト団体に勧誘されるくらいだから、もう立派な青年である。大半が20代の前途ある若者だ。

「うちの子が統一教会に…」「創価学会に…」「エホバの証人に…」「ヤマギシ会に…」「パナウェーブ研究所に…」「オウムに…」「アーレフに…」と、親たちは涙ながらに牧師に泣きついてくる。「どうしたらいいんでしょう? あの子はもう家にも帰って来ないし、どこにいるのかも分からないんです。最後に話した時には、ヤクザのようなすごい目つきで睨まれ、私たちは悪魔の手下だから、たとえ親といえども、これ以上、関わるわけにはいかない、もう縁を切る、探さないでくれと言われました。話しても、我が子のようでなく、わけのわからない言葉を振りかざすばかりで、話が通じないんです。このままではあの子はどこかへ行ってしまって、二度と戻らなくなります。私たちは何とか我が子を取り戻したいんです。お願いですから、協力してもらえませんか?」

そんな風に泣きついてくる両親が、甲のところにも現れた。甲は彼らにまずお説教する。「あのね、子供がカルトに入るのは、まず親に問題があって、家庭に問題があるからなんですよ。何かに対する抵抗という意味合いがなければ、子供はカルトになんか入りません。ですから、まずあなたたち親が、その子を追いつめるような、居心地の悪い家庭を作ってしまったことを反省して、考え方を改め、家庭のあり方を改めないことには、子供を取り戻すことなんてできませんよ。本気で子供を取り戻したいなら、あなたたちがまず反省して、罪を悔い改めなさい。どうです、聖書は人間は皆、罪人と言っています。まずは聖書をしっかり学んで、自分たちがして来たことが何であったのか、振り返ってはどうです…?」

そうして、甲は親の「再教育」に着手する。親にキリスト教の勉強をするように言い渡し、キリスト教の書籍を購入させ、礼拝に来るよう言いつけ、聖書勉強会へ呼び、できるなら、洗礼まで導いていき、クリスチャンになってもらう。その上で、彼らと共に、カルト団体に入って共同生活を送り、社会から姿を消してしまった息子や娘たちへ接触する方法を練る。

「救出」のための説得工作の方法は、大まかに次のようなものだった。
何人かの牧師や伝道師、信徒たちと協力して、甲はカルトに入信した若者を宗教的な共同生活の場から一般社会におびき出す。その際の理由は何でもいい。家族から子供に手紙を書いてもらい、会ってくれるよう頼む。親族でなければ処理できないような重大な相談事がある。どうしても子供がいなければ決められないことなのだ。少しの時間を割いてくれるだけでいい。議論することが目的でないので、宗教の話はしないし、家族以外の人は同席しないから、話し合いに応じて欲しい…。

家族の話し合いの場に、喫茶店を指定する。本当の目的は気取られないように隠して、子供をおびき出す。そして偽の話し合いが終わって、カルトの共同生活に戻るために、喫茶店を出てきた子供を、路上で待ち伏せしていたクリスチャンたちが、羽交い絞めにして捕まえて、用意しておいた車に無理やり押し込む。子供は叫び声を上げ、抵抗する。通行人が不審に思って警察に通報すると厄介なことになるから、できるだけ早く、子供を拉致して、連れ去らねばならない。連れ去る先は、鉄格子が窓にはまった密室のアパートだ。叫んでも隣に声が聞こえず、どこにも逃げ口がないように、部屋は一つで窓の少ないところを用意しておく。それも予め教会が借りておいたアパートだ。

カルト団体から急に密室に連れて来られた子供は、暴れる。暴れる。自分が悪魔の集団に狙われて、真理から引き離す目的で、かっさらわれたのだと本気で信じているので、命懸けの脱走を企てる。隙を見ては逃げ出して、何とか仲間のもとに、真理のもとに、カルトの共同生活に戻ろうとする。
いや、多分、カルト団体にいようといまいと、誰でも、突然、路上で見知らぬ得体の知れない団体に力づくで拉致され、車に押し込まれ、窓に鉄格子のはまったアパートに連れて来られて監禁されたりすれば、力の限り、抵抗しようとするのが当たり前だろうが…。

だからこそ、そこで子供にとって一番身近な存在である両親が登場せねばならない。何のためにこんな手荒な方法を取らざるを得なかったのか、目的は何なのか、両親が説明する。子供を24時間、監視し、カルトから出るよう説得するのは主に両親の役目だ。アパートに交替で泊り込み、一切外出させず、トイレに行くときでさえ監視せねばならない。子供が抗議のために自殺する恐れもあるので、自殺できる道具は全て取り上げねばならない。電話はないし、ラジオもテレビもない。外界との通信や接触は全て制限されて、四六時中監視された、独房のようなアパートで、両親は心を鬼にして、我が子という囚人を監視する看守にならねばならない。

この監視の中に、牧師やクリスチャン・カウンセラーが時折、交替でやって来て、子供の説得に当たる。子供が入信したカルト団体の教義がどんなに間違っているか、その教義がどんなに支離滅裂で、矛盾に満ちた、非人間的で、反社会的なものかを延々と語る。そんなところにいれば、人生が破滅するだけだということを分からせる。子供の反論があれば、ことごとく論破する。
子供の気持ちはすぐに変わらないことは分かっている。だからこそ、時間が勝負だ。毎日、毎日、根気強く説得し続け、いかにカルトの教えが間違っているかを説き、ねじ伏せる。何ヶ月もがそうやって過ぎていく。両親はこの監視生活と説得工作のためにへとへとだ。会社からアパートに直行するサラリーマンの父親も、仕事どころではない。毎日子供のための食事と生活用品を用意して、家とアパートを行き来する母親も、疲れ切っている。皆がへとへとだ。だが、ここであきらめてはならない…。

何ヶ月も時が経って、半年、そして一年が過ぎようとする頃、初めは両親をあれほど猛烈に敵視し、牧師を敵視して、絶対に信念を曲げまいと頑なに抵抗し、脱走のことだけを考えていた子供に変化が現れる。彼は根負けして、自説を折る時が来る。
大体、そんなにまで時間をかけて、しかも大勢で説得されれば、よほど意志強固な人間以外は、自説を曲げざるを得ないのが当然だろう。そんな方法に頼るなら、きっとおよそどんな洗脳でも可能になるに違いない。もしかすると、世界中のあらゆるスパイ組織が、洗脳されたスパイを作り上げるために、同じ方法を駆使しているかも知れない…。
何しろ降伏しなければ、外に出ることもできないのだ。自説を放棄して、用意された「踏み絵」を踏まねば、自由に知り合いに電話したり、好きな本を読むことさえもできないのだ。要するに、「転向」しないことには、一般市民としてのまともな生活がないのだ。どのくらいの人々が、そのような監禁状態の中で、信念を守り続けることができるだろう…?

だが、子供が単に回心したふりをしているだけの場合もあるから、彼の降伏が偽装でないのかどうか、周囲はよく注意せねばならない。子供が正真正銘、心からカルトの教義を棄てた、それは偽装ではなく、心からの回心であって、もはや彼には両親のもとから逃亡する恐れはなく、カルトに戻る恐れもない、そう判断した時に初めて、甲は密室の監禁を解いてやり、子供をアパートから青空の下へ連れ出す。
ああ、子供にとっては、何ヶ月ぶりの青空だろうか。彼はまるで病み上がりの病人のように、呆けたような表情で、空を、街を、行き交う人々を見つめている。甲はすかさず彼をキリスト教会に連れて行き、そこで礼拝に出席させる。子供にとっては何もかもが新しい。白紙に戻された子供の頭に、そこにまだ何も埋め込まれないうちに、彼の思考が柔軟で、甲に対して彼が心を開いているうちに、甲は彼の心と頭にキリスト教の教義を教え込んでいく、今度こそ、絶対に、変わることがないように、どんな悪質な団体によってもその真理が奪われることのないように…。

これは間違った行動ではない、と甲は思っている。キリスト教は世界で唯一正しい宗教であり、この世の真理なのだ。カルトで人生を奪われるしかなかった子供の人生を、まだ将来があるうちに救い出し、彼を通常の社会生活に戻してやり、両親との愛を育めるように家庭に戻してやり、誤った教義を棄てさせて、正しい真理を教え込んでいくことは、正しい行いであり、神の目にかなう活動であるはずだ、従って、自分たちが非難される筋合いは全くないはずだ…。

親は子供が家庭に戻って来たので、涙ながらに牧師に感謝する。説得工作中も、ことあるごとに「お車代」などと称して、牧師に金を献上する。彼らにとって、牧師やカウンセラーは命綱なのだ。手術前の患者が、藁にもすがるような気持ちで、医者につけ届けを渡すように、彼らは牧師に熱心に金を捧げる。
「いや、謝礼なんて、要りませんよ。これは正義のための、神様のための働きであって、私の生活のための仕事ではありませんからね…。私たちはこれをボランティアでやっているんです、教会員にもそのように説明して理解を得ています。ですから、お金なんで要らないんですよ」

初めは、そう言って断わっていた牧師の方でも、二度、三度、四度、五度と親から金を渡されているうちに、だんだん、受け取らざるを得ない心境になる。子供がカルトの教義を放棄した時、歓喜の涙にくれている親が、何とかして牧師に礼を受け取らせようとするのは、人として当然の心理だ。金が駄目でも、物なら良いだろうと思った親たちは、タクシー券を持って来たり、高価な果物や、デパートの商品券、ブランドものの時計や衣服などの形で、「感謝の気持ち」を表そうとする。子を思う彼らの親心を誰が押しとどめることができよう。

両親たちはまた、教会に来ては、礼拝中に莫大な献金を捧げる。礼拝中に捧げられた献金は教会のものだが、それ以外の献金は、全て手ずから牧師へ渡っているため、世間の誰もその存在を知らない。時には、礼拝中の献金でも、「牧師一家の必要のために」と封筒に書かれて捧げられることもある。
そうだ、甲牧師は心のうちに思う、私たちだってそれなりに努力したのだから、少しくらいは礼を受け取ることはできるはずだ。必要経費だって、それなりにかかっているのだから。ボランティアだからといって、経費代も交通費も受け取ってはならないという法はないだろう…。

こうして、莫大な金額が、子供の知らぬ間に、親から牧師へと渡って行った。そのことは牧師と親以外に、地上の誰も知らない。教会も知らない。なぜなら、甲たちが講壇から語る説明しか聞いていない信徒は、馬鹿正直にも、「カルト被害者救出活動はボランティアです」という甲の言い分を額面どおりに信じているからだ。
本当は、世の中には、差し引きゼロのボランティアなどというものは何一つ存在し得ないということを、彼らは知らないのだ。ボランティアと銘打つ活動にだって、必要経費は生じる。もしその経費代がどこからかまかなわれなければ、ボランティアも赤字に陥り、続かなくなる。なぜボランティアが続いているのか、それは裏を返せば、ボランティアに金が支払われているからに他ならない。
この世には本当は、「無償のボランティア」などどこにも存在しないのだ。だが、そんな細かいことは世間は知らなくてよろしい…。

甲牧師は他の牧師たちの下で、このようにして、プロテスタントのキリスト教界による「カルト被害者救出活動」に関わってきた。だが、この活動には深刻な問題点があることが分かった。「救出」のやり方が荒っぽすぎるのだ。路上での拉致、アパートへの何ヶ月にも渡る監禁、それは暴力行為とみなされておかしくなかった。この説得工作がきっかけで正気を取り戻せた信者もいるにはいたが、そうでない信者もいて、後者の場合、弊害が大きすぎた。
一つの密室のアパートを拠点にして、そこに何人もの信者を入れ替わり連れて来ては、まるで使いまわしの代用監獄のように、そこで説得工作を行うというやり方にも、問題があった。身体の自由、思想と良心の自由を力づくで奪われ、自尊心を傷つけられ、暴力で押さえ込まれて、拉致監禁された信徒には、その恐怖が消えないトラウマとなって、自分をそのように扱った両親と牧師、カウンセラーを生涯、許すことができなくなった者もいた。牧師と両親の荒っぽい仕打ちのために、人間不信となり、一生、家族との和解が不可能となっただけでなく、果ては、こうした「救出活動」が基本的人権を脅かす憲法違反の重大犯罪であるとして、両親と牧師を訴える裁判を起こす信者も現れた…。

さらに、それに追い討ちをかけるように、強奪に近い形で信者を奪われた「カルト団体」の方でも、威信を傷つけられて、黙ってはいなかった。「カルト団体」の側から、キリスト教界による強硬な信者奪回に対して抗議がなされ、やっぱり、裁判が起こされた。キリスト教界はこうして、カルト団体と、元信者の両方からの訴えにより、板ばさみ状態に追い込まれた。

他宗教という「カルト」からの信者奪回という「救出活動」が行き詰まりに達しているのは火を見るより明らかだった。甲牧師は運よくまだ誰からも訴えられていなかったし、訴えられた他の牧師が窮地に陥っているのを見て、自分だけはもっと上手く立ち回らねばと思った。そこでほどほどのところで、甲はこの荒っぽい「救出活動」から手を引いた。その時、それに代わって、甲の視界に入ったのが、他宗教の「カルト」ではなく、キリスト教の中の「カルト」を扱うという選択肢だった。

気がつけば、他宗教の「カルト」を目の敵にして闘っているうちに、どういうわけか、キリスト教界の中でも、カルトとしか言いようのない教会が現れるようになっていた。弟子訓練、セルチャーチ、聖霊によるリバイバル、カウンセリング…、キリスト教界が取り入れたアメリカ発の最新のプログラムが、全国の教会に導入され、浸透していくや否や、どういうわけか、それらの「良薬」のために、必ずといっていいほど、何らかの「ひきつけ」を起こして、機能不全に陥る教会が現れるのだ。
「弟子訓練のためと言われ、うちの教会では、こんなにもひどい圧迫的な奉仕が要求されています」、「セルチャーチでは、セルリーダーによってあらいざらい罪を告白するよう強要されるので、プライバシーが保てません」、「カウンセリングと称して牧師から性生活を報告するよう求められ、性的虐待を受けました」、「リバイバルのための聖会で、『あなたは悪霊にとりつかれている』と名指しで非難され、何人もの信者に寄ってたかって、悪霊追い出しの祈りをされ、ひどい目に遭いました…」

そんな相談が続々と甲に寄せられるようになった。甲はこれらの事例を教団につぶさに報告した。だが、教団はなかなか問題を認めず、対策に着手しようともしない。次々と導入したアメリカ発の新しいプログラムが日本の教会でどのような効果を生んだのか、何の反省もせずにおいて、むしろ問題を提起した信徒たちの方を、胡散臭い目で見て、彼らが教会に居られなくなるよう追い込んでいる牧師もいた。甲牧師は、このような状態を見た時、自分が活動すべき場所はここだと感じた。

諸教会から、落伍者のごとく冷たく見放され、自教会を追い出されるか、あるいは失ってしまっている信者たちを、自分の教会に導いて、信仰を養ってあげねばならない、甲はそう思った。
そこで甲は、カルト化教会の元信者たちを呼び集めて、「正しい聖書教育」を開始した。説得の方法は、以前の救出活動で十分に学んで来た。元カルト信者の「間違った」聖書の読み方を指摘し、根気強く、彼らの思考の論理的矛盾に気づかせてやり、反論を論破するのだ。
さらに、失意のうちにある彼らにカウンセリングもしてやり、悲しみと痛みに満ちた記憶から立ち直らせねばならない。甲は、カウンセラーの資格も取り、キリスト教の元カルトに騙されていた信者を、正統なキリスト教徒に立ち返らせるための、「奪回救出カウンセラー」として、キリスト教界内で知られるようになった。

他宗教から信者を奪回することに比べ、キリスト教内のカルトの方がはるかに扱いやすいことに甲牧師は気づいた。カルトと名指しされた教会の牧師から恨みを買うのは避けられないが、それは他宗教の権力を敵に回すほどの大変な闘いにはならない。キリスト教界全体は甲の働きにおおむね同情的だ。従って、孤立無援の闘いを強いられているのは、甲ではなく、カルト化教会の牧師の方なのだ。

さらに、カルト化教会の信者たちは聖書の「正しい読み方」は知らなくても、聖書自体はよく知っており、勉強熱心だ。概して、カルト化教会に長くいたような信徒は、信仰に関して、通常のクリスチャンの何倍も熱心なものだ。何しろ、以前にいた教会で尋常でない量の奉仕を任されてきたのだから、真面目に働くことをよく知っている。
そこで、カルトから「こちらの世界」に戻って来ても、やっぱり、彼らは人一倍、熱心なままだ。聖書を熱心に勉強するし、自分から勉強会にも出て来るし、奉仕もたくさん引き受けて、次々に色んなことを学んで成長して行こうとする。それに、カルト化教会が目をつけただけあって、何と言っても、年齢がまだ若い。本当に有望な若者たちなのだ。間違った教えから脱しさえすれば、これほど信仰熱心で模範的なクリスチャンは他にいまい。

甲牧師が助け出した信者の中には、人生のやり直しが十分に利く20代前半の青年Aもいる。彼は甲牧師の再教育を受けた後、神学校に通って牧師になりたいと言って献身した。青年Bは、自分が助けられたように、他のカルト信者たちを救出するために働けるようになりたいと願っている。救出カウンセラーを目指すCも現れた。これらの青年たちの誰もが、甲牧師が自分の人生を救ってくれたことに心から感謝の意を示している。
「私はあのままカルトにいたら、どうなっていたか、分かりません。きっと人生が破滅していたでしょう。この教会が、甲先生が、早いうちに私を助けてくれて、真理を教えてくれて、本当に良かったと思っています…」

けれども、その一方で、彼らはカルトから甲教会に救出されたばかりの頃、甲牧師の説得から受けたひどい印象については、一様に黙っている。甲牧師があの時、まだカルトに「洗脳」されていた彼らに対して、どれだけ高飛車に、彼らの「間違った信仰」を指摘し、「間違った教義理解」を看破し、彼らの意見を打ち破って、「真理」を主張し、彼らの論理的矛盾を次々と赤裸々に明るみに出したことだろう。

「ほうらね、分かったでしょ? きみはこれまで少しも聖書をちゃんと読めていなかったんだよ。どんなに熱心に勉強してきたつもりでも、きみが今まで教えられたことは全部、間違った荒唐無稽な教えだったんだ。ね、だからこそ、ちゃんと聖書を学びなおす必要があるって、今こそ分かったでしょ? もう一度、この教会で、一から、先入観を取り払って、聖書を読むことを、きみは学ばなくっちゃいけないよ。信仰において、今までのキャリアを棄てて、一から出直し、再出発することが必要なんだよ。ちょうどいい、この教会できみに聖書の読み方を教えてあげられる人がいるから、勉強会に出なさい。もっと学びたかったら、私が知っている聖書通信講座KTKを紹介するから、そこに申込書を送りなさい…」

元信者は、自分たちが愚かな嘘を信じ込まされていたことを、甲牧師からあからさまに指摘されて、それを認めざるを得ないと思う。だが、その時、どんなに恥ずかしい思いをさせられただろう。今までの自分たちの熱心さが、人生をかけてやって来たことが、何にも役に立たない、愚かで間違った活動であったことに気づかされ、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、全身の力が抜け堕ちるような絶望的な思いを味わわされた。

だが、若者らしい反骨精神が彼らを絶望から奮い立たせる。このままで終わってなるものか、このまま間違った教義を教え込まれた間違ったカルト信者という屈辱の中だけで、人生を終えてよいものかと、彼らは奮起する。もう一度人生をやり直したいとの強い願いから、甲牧師に言われたとおり、「聖書を学び直し」、甲牧師の教会の勉強会に熱心に参加し、「信仰の再出発」への一歩を踏み出す。そして優秀な献身者になり、神学生やカウンセラーの卵になって、ようやくほっとする。
初めは「カルト出身の信者」という色眼鏡でしか彼らを見ようとしなかった甲教会の信徒たちも、若者たちがそこまで優秀に「立ち直った」のを見て、優しい応援の態度に変わっている。だが、元信者たちは時々、苦々しい気持ちで思い出す、自分たちの「誤り」があれほど徹底的に暴露されたときの、あの恥ずかしい気持ち、プライドを傷つけられたという感じ、憤り、屈辱…。そして、彼らは思う、誤った教えに足を踏み入れて、反社会的な活動をしていた自分たちに非があったことは確かだが、自分たちが真理から逸れていたことは確かだが、それにしても、元カルト信者の「誤り」を指摘し、元カルト信者を「正しい教え」によってねじ伏せていく時の、甲牧師の目に浮かんでいた、あの満足そうな笑みは、目の端にきらりと光る輝きは、何だったのだろうか…。

こうして、キリスト教の元カルト信者たちの「再教育」に成功した甲教会は、積極的な奉仕者を何人も手に入れることができた。元カルト信者から多数の献身者や神学生が出たので、甲牧師は誇らしげに、教団にそれを報告することができた。だんだん、教団内での甲の立場は変わってきた。初めは、同業者を敵視するかのような甲の活動を、冷ややかな目で眺めていた牧師たちも、態度が変わって、甲の活動を丁重に扱うようになった。甲牧師は気づいた。教界は全く注意を払わなかったが、元カルト信者は、実は、大変有益な働き手に変身する可能性を秘めた、宝石の原石のようなものだったのだ、そうだ、私は金の卵を拾っていたのだ…。

さらに、甲牧師は、カルト化して崩壊した教会の跡地を訪れた。そこにあった乙教会は、セルを導入したが、あまりにも過激な活動があだとなって、支持基盤を失って、崩壊寸前の状態になっていた。信徒の群れは離散し、セルは空中分解し、牧師は逃亡して、いなくなっていた。飼う者のいなくなった乙教会の哀れな羊の群れに、甲は心を痛めた。

自分たちの教会がカルトに走って滅亡したことを深く悔やみながら、行き場もなく途方に暮れている乙教会の群れに同情した甲牧師は、自分が彼らの牧者になってやることを考えついた。甲牧師の提案を聞いて、取り残された羊たちは、主を失った心細さも手伝って、大喜びした。
こうして、甲の教会に、乙教会が合体し、甲教会の乙支部というものが出来た。乙教会は甲の教会から随分、遠いところにあったので、乙教会の信徒が甲教会に通うことはできず、そこで彼らは甲教会の地方支部となることに同意したのだ。
だが、教団内には甲教会の他に、支部を持っているような教会はなかったから、他の牧師の中には、なぜ甲は乙教会を新しい教会として教団に登録せずに、乙教会の独立性を失わせてまで、甲教会に併合し、支部化しなければならないのかという批判の声が上がった。
だが、甲牧師はそれを無視した。自分が奪回した信者たちを自分の教会に登録して何が悪い? それは信徒たち自身が望んだことなのだから、誰も文句を言う筋合いにあるまい。それに、今までカルト化教会の信徒を黙って見捨ててきた牧師たちが、今更、文句を言うのはおかしいじゃないか・・・。

甲が見渡すと、北海道、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、鳥取、九州、沖縄…、全国の都道府県に、カルト化して崩壊したか、もしくは崩壊途上にあるキリスト教会は数限りなくあった。甲牧師はできるだけたくさんの教会を訪れて、元信者から話を聞いて、失意にある彼らを慰めてやり、取り残された信者たちを、次々、自分の教会に招いて、転会に導いてやった。

こうして、甲教会には多数の支部が出来た。東京支部、大阪支部、山口支部、熊本支部、沖縄支部…。
人も随分増えた。世の中のノンクリスチャンたちにただ普通に伝道しているよりも、「カルト化教会信者救出活動」をしていた方が、随分早く、信徒数が増加することが分かった。初めからそれを予期して始めた活動ではなかったものの、「救出活動」は、甲教会に思いがけない「教会成長」をもたらしてくれたのだ。

さらに、ある思いがけない事件によって、甲は世間の脚光を浴びることになった。丙という教会で起こった出来事は、キリスト教界だけでなく、世間全体を震撼させた。丙教会の丙牧師は、何十人という幼い少女たちに次々と性的暴行を行い、献金1億円以上を教会から横領し、自らをキリストの再来と名乗り、自分を信じねばクリスチャンは皆地獄へ堕ちるという、どうしようもない異端的教義を振りかざし、それによって信徒に恐怖を抱かせて、自分の教会に奉仕させ、虐待に応じさせていたことが明らかとなった。この丙教会の堕落ぶりが大々的にメディアに取り上げられ、世論によってバッシングされたため、それに伴い、甲牧師の活動も一躍、脚光を浴びたのだ。

丙教会の腐敗ぶりがメディアに報道された時、甲牧師は真っ先に、そこの信徒を助けようと名乗り出て、現地に赴いた。それは他の牧師にこの仕事を取られないためでもあった。甲の「救出活動」を初めは非難していたような牧師の中にも、それに効果があることが分かると、甲の真似をしようとする者が現れていた。甲はそのような同業者たちの右へ倣え式の態度が嫌だった。彼には、「カルト被害者救出活動」の第一人者は自分だという自負があった。世間を揺るがせるような大規模事件を扱えるのは、今までこの活動にずっと従事して来た自分の他にはいない。経験も浅い他の新人にこの「シマ」を奪われてなるものか…。

甲牧師は、丙教会の事件の被害者にカウンセリングを行うのは自分だと、同業者の誰よりも早く宣言した。待ち構えていたテレビのニュース記者のフラッシュが、甲を迎えた。甲の発言はニュースに取り上げられた。「被害を受けた少女たちの救済に取り組むことを、いちはやく、甲牧師が宣言しています…」

それがきっかけとなり、甲牧師の活動は、キリスト教界の枠組みを越えて、全国的にあまねく知られるようになった。「あんなひどい教会があるなんて、許せません。私はクリスチャンではありませんが、可哀想な少女を救うために、ぜひこれからも頑張って欲しいので、献金を送ります」
そんな激励の手紙が、クリスチャン以外の人からも、続々、甲に寄せられるようになった。

こうして甲の「救済活動」は全国的に有名となった。甲が後押しして、カルト化教会の被害者による大々的裁判が各地で繰り広げられるようになり、それが各新聞雑誌に取り上げられることで、さらに甲の知名度は増して行った。裁判がある度に、甲は「被害者代表」として現地へ飛び、判決後の記者会見に姿を見せて、記者の前でコメントを述べる。
甲は被害者ではないし、原告の一人でもない。弁護人でもない。何ゆえ、甲は裁判に関わっているのだろう。甲の立場とは一体、何なのだろうか。だが、そんな細かいことにこだわる人はほとんどいない。甲はいまや公に認められた「救出カウンセラー」であり、甲の「救出活動」は、現実にはかりしれない名声を彼にもたらし、甲の教会の大いなる成長の原動力になって来たのだ。

「カルト被害者救出活動」、それはもはや甲にとって、決して手放すことの出来ないライフワークとなっている。

今、人生の円熟期を迎えている甲には新たな野心的プロジェクトがある。それは、甲教会を中心として、周辺地域に「クリスチャン・コミュニティ・ヴィレッジ」を築くことである。クリスチャンの学生が安心して住める学生寮、ミッション系の大学や専門学校、キリスト教主義の病院など、様々な施設を誘致し、要するにキリスト教的な一大都市を建設することが彼の次なる夢なのだ。

甲の教会は巨大化して、教団の中で一大勢力を誇っている。もはや教団を食い破ってしまいかねないほどの成長力だ。教団の中ではもう正面切って、甲に反対する者は誰もいない。甲ほど有名になった牧師も他にいない。それに、甲がカルト化教会をたくさん取り潰してきたため、甲ににらまれることを恐れて、何も言えなくなっている牧師たちが、同業者の中にかなりいる。

全く、弱々しい教団だ…、と甲は思う。きみたち牧師は知らないだろうけど、この教団にも、随分、危ない教会がたくさんあるんだよ。「うちの教会はカルトです」と、私に内密に泣きついて来るような信徒が、この教団内にも大勢いるんだよ。まあ、牧師たちにとっては、そういうことは、知らぬが仏というものだろうけどね。
全く、我が身をかえりみて、反省する能力のない牧師の行く末は、まことに惨めなものだということに、いい加減、気づけばいいのに…。信徒の高齢化が進んで、ただでさえ牧会活動が行き詰まりを見せているというのに、この教団には、ろくな方向転換さえできないどころか、未だ自分のちっぽけな牙城にしがみついているだけの、先の見通しが全くない牧師ばかりがごろごろしているんだ。
やれやれ、これでは全く、先が思いやられる、と甲は思う、だからこそ、私のような先見の明のある者が、教団全体をしっかり導いてやらねばいけないのだ…。

<つづく>