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	<title>光の天使の罠</title>
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	<modified>2008-11-29T07:18:38+09:00</modified>
	<author><name>ヴィオロン</name></author>
	<tagline>「読者よ、悟れ。」光と闇を切り分け、時代に警鐘を鳴らす。</tagline>

	<entry>
		<title>ブログの趣旨と目的</title>
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		<id>http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/36/</id>
		<issued>2012-04-30T00:39:36+09:00</issued> 
		<modified>2012-04-30T00:39:36+09:00</modified> 
		<created>2012-04-30T00:39:36+09:00</created> 
		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>目次</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p>
	<strong>ブログの趣旨</strong>　（この記事はいつも最初に表示されます。）</p>
<p>
	このブログの目的は、主としてニッポンキリスト教界になぜ不祥事が多発しているのか、その原因を様々な角度から分析し、探ることにあります。<br />
	プ ロテスタントのキリスト教界には現在、様々な教団教派が存在しますが、いずれの組織にも不祥事を解決するための能力が著しく欠けていることが、多くの人々 によって指摘されています。そして筆者自身もまた、教会内で大きな問題に遭遇することにより、このような事態が見逃せないほど深刻なものであることを思い 知らされました。</p>
<p>
	このブログでは、キリスト教界において多発する不祥事の背景に存在する、教界に特有の階級制度の問題性、また、主にアメリカの神学者・牧師によって提唱されて、日本に輸入される様々な教会成長プログラムの危険性について指摘しました。<br />
	時 には、かなり厳しい口調で、教界や個人の主張を非難しているように見えるかも知れません。しかし、ブログの目的は、キリスト教のイメージそのものを貶めた り、特定の組織を破壊することにはなく、教会の問題について警告を発することによって、聖職者やクリスチャンに一人でも多く、このような問題について考え てもらうきっかけを作り、問題の存在を広く知らしめることにより、教会内で何も知らずに信仰につまずく信徒が少しでも減るよう貢献することにあります。</p>
<p>
	こ こに指摘してあるような問題を解決しない限り、ニッポンキリスト教界には未来がない、と筆者は確信しています。けれども、筆者は個人としてブログにおいて この問題を訴えるにとどまり、政治運動を引き起こすことを目的とはしていません。教界の未来を作っていくのはあくまで一人ひとりのクリスチャンです。そこ で、ここで訴えているような問題をどうとらえ、どう解決していくのかは、牧師や信徒などの一人ひとりのクリスチャンの手に委ねられている業だと思っていま す。<br />
	<br />
	<strong>記事一覧</strong><br />
	以下は、ブログ内記事の簡略的な案内です。</p>
<p>
	<strong>「ニッポンキリスト教界は崩壊前夜」シリーズ</strong><br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/1/">（序）　教会のカルト化をめぐって</a><br />
	&hellip;連続する教会内不祥事がキリスト教界全体を危機にさらしている事実について、また、筆者が教会で体験した恐るべき出来事を述べます。<br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/2/">（１）教会のカルト化をめぐって</a><br />
	&hellip;カルト化問題対策として現在行われている加害者への裁判には果たして効果があるのかどうか論じます。<br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/3/">（２）教会のカルト化をめぐって</a><br />
	&hellip;カルト化問題を促進している要因に、教界における癒着と、各教会、牧師間の激しい競争があることを指摘します。<br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/4/">（３）教会のカルト化をめぐって</a><br />
	&hellip;カルト化問題の最たる原因は、牧師と信徒との間に大きな階級的な溝があって、牧師と信徒との間に不平等な扱いが定着していることにあると指摘します。<br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/5/">（４）教会のカルト化をめぐって</a><br />
	&hellip;プロテスタント特有の他宗教、他宗派への攻撃性、対抗意識には問題があること、また、現在のカルト被害者救済活動は、元来、他宗教との信者奪回争いに由来する、宗教的な抗争であることを指摘します。<br />
	<br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/6/">（１）「カルト被害者救出活動はプロテスタントの十字軍」</a>　<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/7/">（２）</a>、　<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/8/">（３）</a>、　<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/9/">（４）</a><br />
	&hellip; フィクションの物語形式をとりながら、カルト被害者救出活動が始まった当時、この運動はどのようなものであったのか、そこにあった暴力性、強制を指摘し、 そして現在もこの活動がはらんでいる様々な問題について述べます。結論として、カルト被害者救出活動そのものが被害者を救済できていないことを述べます。</p>
<p>
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/10/">（終）カルト化をめぐって</a><br />
	&hellip;現在、キリスト教界全体が以上のような問題構造を直そうとしていないため、教界全体がカルト化という「バビロン」に向かっていること、このままでは教界にとどまることが、信徒の信仰を危険にさらすものでしかないことを述べます。</p>
<p>
	<strong>その他、カルト問題に関する記事</strong><br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/13/">遅すぎた教会のペレストロイカ、カルト被害者救出活動</a><br />
	&hellip;カルト被害者救出活動によって教界を救うにはもう遅すぎるだろうとの筆者の予測を述べます。</p>
<p>
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/14/">偽りの救済活動を信用してはならない。「カルト監視機構」は教界内の秘密警察</a><br />
	&hellip;救済を唱えながら、被害者を食い者にする活動が存在すること、また教界全体を監視する機関が設置されれば教会の自治も成り立たなくなり、民主主義が弾圧される危険性があることを述べます。</p>
<p>
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/15/">カルト化教会の被害者に告ぐ</a><br />
	&hellip;現在行われているカルト被害者救済活動は被害者を食い者にしており、将来の希望がないという筆者の考えを、理由を挙げつつ被害者に向けて訴えます。</p>
<p>
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/21/">ニッポンキリスト教界の恐るべき倒錯　牧師が信徒に救いを求める時代？</a><br />
	&hellip;被害者の力を借りて、カルト問題を解決しようという教界の姿勢は誤っており、信徒を都合よく利用する牧師優位の姿勢に基づいたものでしかないことを指摘します。<br />
	<br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/27/">コリント人への第一の手紙に見る、教会内不祥事の解決策としての司法の有効性</a><br />
	&hellip;被害者による裁判を教会のカルト化の抑止力としたり、牧師の救済のために役立てようとする主張が誤りであることをパウロの書簡を根拠に指摘します。</p>
<p>
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/16/">「主の重荷」　現代日本キリスト教界</a><br />
	&hellip;歪んだ構造をそのまま放置しているキリスト教界は多数の信徒をつまずかせ、正統な信仰から外れてしまっており、エレミヤ、エゼキエルが受けた警告を今日のクリスチャンは真摯に受け取らなければならないことを指摘します。<br />
	<br />
	<strong>「キリスト教界に持ち込まれるグノーシス主義的異端」シリーズ</strong><br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/24/">（１）ペンテコステ派とネオ・リベラリズム</a>、<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/25/">（２）</a><br />
	&hellip;ペンテコステ派が世界各国に普及しているのはなぜなのか。その背景には何があるのか。市上原理主義とそれを支える人間の思考改造としてのネオ・リベラリズムと、ペンテコステ派の掲げる神学の類似性を見ます。</p>
<p>
	<strong>その他、キリスト教に関する覚書</strong><br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/11/">献身とは何か</a><br />
	&hellip;現在、教界において唱えられている「献身」の概念に見られる歪みについて指摘しました。<br />
	<br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/18/">「生命は闇の中にまたたく光」</a><br />
	&hellip;クリスチャンのある群れが、自分達の集団こそは正しいと確信して、何らかの主義により団結し、完成された幸福社会を地上で目指そうとすることの危険性について書きました。</p>
<p>
	<strong>その他、日本社会の問題についての覚書</strong><br />
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/17/">市場原理主義の没落と、新しい時代の価値観についての一考察</a><br />
	&hellip;ワーキング・プアを多数生み出し、若者を使い捨てにしている現在の日本社会の仕組みが、全体として崩壊に向かっていることを予想し、次なる時代はどのようなものになるかを考えます。</p>
<strong>「日本人よ、マインドコントロールから目を覚ませ」シリーズ</strong><br />
&hellip;マインドコントロールを使って信徒を操っているのはカルト宗教だけでない。受験戦争や画一化教育、企業戦士などを生み出してきた国の政策や、戦争を推進するアメリカ政策にもマインドコントロールは多用されている、という観点に立って論じます。<br />
<br />
<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/20/">「ラストサムライ」に見る日本への警告</a><br />
&hellip;日本人は自主性を取り戻し、伝統文化へ立ち返るべきという筆者の見解、日本人が自国の文化を恥じるような「文明開化」は間違っているということを述べます<br />
<br />
<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/22/">「言論的クーデタと思想統制の危険性について」</a><br />
&hellip;日本社会は全体として戦前のようなファシズムへ近づきつつあり、言論統制国家へ変わりつつあるという指摘があることを述べます。<br />
<br />
<strong>その他、世界情勢についての覚書</strong><br />
<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/19/">世界の孤児アメリカがイランを見つめる目</a><br />
&hellip;オバマ政権は希望に満ちた明日を作るのか？　この政権がはらむ危険、イラン戦争が起こる危険性について指摘<br />
<br />
<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/26/">イラン戦争を起こそうとする計画と、核の使用には、断固反対しよう</a>！<br />
&hellip;&nbsp;クリスチャンは、悲観的な決定論に流されることなく、信仰に基づいて、戦争と核の使用には断固反対していこうという呼びかけ。
<p>
	<a href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/29/">殺人兵器にさよならを！！―中東での小型核を使用した核戦争の脅威について―</a><br />
	&hellip;イランで核戦争が起こることを憂慮する記事を紹介。核戦争に、断固、反対しましょう。<br />
	&nbsp;</p>
]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>終わりに　ニッポンキリスト教界の終焉　―教会成長論の欺瞞―</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/32/" />
		<id>http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/32/</id>
		<issued>2009-03-03T02:44:29+09:00</issued> 
		<modified>2009-03-03T02:44:29+09:00</modified> 
		<created>2009-03-03T02:44:29+09:00</created> 
		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>ニッポンキリスト教</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[今、ニッポンキリスト教界が屋台ごと炎上している。ビュン牧師の事件が大々的に報道されたことにより、キリスト教界全体がこうむる打撃は計り知れないほど大きいだろうと感じる。<br />
昨年11月以来、このブログでは、ニッポンキリスト教界全体が近いうちにカルト化し、崩壊するだろうとの予測に立って記事を書いてきた。個人的な感情も入っており、いささか抗議の調子が強すぎるかも知れないと思うこともあった。<br />
<br />
だが、どんな組織も、人間を嘲り、痛めつけるような反社会的活動に走れば、いずれ崩壊する。カルト被害者救済組織がなくては、まともな運営さえできず、いかなる不祥事をも解決する力がないようなニッポンキリスト教界組織に、明るい未来がないことは、誰の目にも明らかだ。今まで大量の信徒を躓かせて知らぬ顔を決め込み、自らの組織拡大だけを念頭に置いて、傲慢な教会運営を行ってきた教界には、破滅から救われる道はもうどこにも残されていないだろうと思う。<br />
<br />
いずれ必ず場所を改めて論じるつもりだが、昨今、教界において流行している教会成長論というものは、結論から言えば、信仰とは全く無縁の、教会組織の繁栄だけを目的とした儲け主義、言い換えるなら、キリスト教界における戦略的なマーケティング理論である。それは、一部の狂った聖職者たちの野望を、信仰という名でカモフラージュしているに過ぎない。<br />
<br />
信仰の成長は極めて個人的かつ内面的なものであって、誰かが外から見ておしはかることはできない。確かに、行いの伴わない信仰は無意味だと聖書は教えているが、かといって、信徒の行いを、教会組織の繁栄のためにどれほど活動したかという点から見て評価しようとすることは誤っているし、危険すぎる。教会という組織の繁栄のために身を粉にして、すすんでただ働きできる人材となることが、クリスチャンの実践的な信仰生活であるかのように教えられてはならない。<br />
<br />
そもそも、活動本位の視点から、クリスチャンの信仰をおしはかろうとすること自体が問題なのだが、たとえ信仰による行いを重要視するにしても、教会組織に利益をもたらす活動だけを重要視するようなことがあってはならない。つきつめるならば、今日、あなたが隣に住んでいる老婦人と一言会話しただけでも、それは信仰生活の重要な一コマになるのだ。平和な心で庭の草木を手入れし、夫や子供のために朝食を作り、職場でハードな仕事に耐え、つつましい日々の穏やかな生活を維持するだけでも、それは信仰の実践なのだ。<br />
<br />
十字架の救いをまさに必要としている人に語りかけることこそが、伝道なのであって、教会組織の人員増加のために伝道するのでは本末転倒である。個別の魂の救いが伝道の目的なのであって、人数を獲得することや、地域を征服することが目的ではない。まるでうるさい街宣車のスピーカーのように、人々の平安をいたずらにかき乱し、不興を買ってまで、自己満足的に福音をがなり立てることが伝道の目的ではないだろう。<br />
<br />
誰か未信者をつかまえては、判で押したようにつまらない話を繰り返し、その人を何か魅力的な餌で釣り上げて、義理人情でがんじがらめにした上で、説得して教会に引きずって行き、回心させて、組織の一員として登録させることが、信仰上の「手柄」のようにみなされるべきではない。私達に与えられたのは、そんなに安っぽい福音ではなかったはずだ。とにかく、信徒数さえ増えれば良いのだという、薄っぺらい教会成長がクリスチャンの信仰的成長をはかるバロメータになってはならない。<br />
<br />
一部の聖職者からは、教会のカルト化現象は、教会成長論を導入した教会が、教会成長を遂げる際に、牧師が不足し、牧会が手薄になることによって生じるとする意見が出されているが、筆者はその考えに全く同意できない。<br />
セル・チャーチ、弟子訓練、その他の教会成長論を導入して、確実に教会が成長したという成功例を筆者はほとんど聞いたことがない。むしろそのようなプログラムを導入したところでは、成長の勢いと同じく、破壊の力が働いて、成長も遂げないうちに組織が崩壊状態に陥った教会の方が多いのではないだろうか。<br />
<br />
実際には、教会成長論こそが、伝道の本質からかけ離れた偽りのプログラムであり、教会のカルト化の原因となっていると筆者は感じる。なぜならば、教会成長論は、個々のクリスチャンを記号化し、数値化することによって、一人ひとりの信徒がどれほどその教会にとってかけがえのない人間であるかということを皆に忘れさせてしまう効果を持っているからだ。<br />
<br />
もしも教会がマクドナルドやモスバーガーのようなところなら、とにかく一人でも多くのお客様にお越しいただき、メニューから沢山注文していただき、店で楽しんでもらい、売上げを伸ばしさえすれば、目的達成したことになるだろう。お客様が誰であろうと、店員はそんなことに構わず、とにかく一人でも多くの人間を呼び込み、均質のサービスを提供することだけに注意を払えばそれで良い。<br />
<br />
だが、キリスト教会はファーストフード店やレストランではないのだ。<br />
教会にとって一人ひとりの信徒は、数でおしはかることができ、とりかえの効く「お客様」ではない。<br />
教会に足を運ぶ信徒一人ひとりは、他の誰とも交換できない、かけがえのない人間であり、その人を失っては、キリストの肢体は機能しないのだ。<br />
<br />
なのに、現在、教会成長論を導入している教会は、例外なく、個人のかけがえのなさを認めていない。その教会に躓いて去って行く信徒がいても、引き止めることも、和解することもない。まるでファーストフード店が、その店を嫌いになった客をあえて引きとめようともせず、新たな顧客獲得だけに邁進しているように、教会は誰彼構わず、不特定多数に向けて、大衆向けに平均化された「お手軽な」福音をばら撒いているだけなのだ&hellip;。<br />
<br />
立派な礼拝堂の建設、メガチャーチへの成長などの野心的プロジェクトの実現の手段として、免罪符を売買しなくとも、その代わりに、「救い」や「礼拝」、「カウンセリング」、「コンサート」などの魅力的な宣伝文句を盛んに用いて、それらのアイテムをお札のように信徒に売りつけるのではまるで同じことではないだろうか。<br />
免罪符どころか、神への礼拝そのものが、自由献金という隠れ蓑の下で、売買の対象となってしまっているのが、今日のニッポンキリスト教界の現状ではないだろうか。<br />
<br />
教会成長論を掲げている教会は、礼拝に足しげく通ってくれて、様々なイベントに協力してくれ、売上げ（＝献金）増加に素直に貢献してくれるような信徒のみを大切にする。そこでは、教会の打ち出したプロジェクトへの貢献度に応じて、信徒の扱いに暗黙のうちに差がある。<br />
できるだけ多くの信徒を組織に登録させて、できるだけ多く奉仕させ、可能な限り多額の献金を集めるために、教会成長論がある。教会成長が第一義的課題となっているような教会では、その計画に対してイエスマンにならない信徒や、ごちゃごちゃとうるさく批判して、協力しない信徒は、まず間違いなく、有形無形の圧力によって、教会から放り出される。<br />
（あなたの教会では、そういう風にして「空気読めない」がゆえに煙たがられて、いつの間にか、いなくなってしまった信徒が多数、いないだろうか。そういう教会は、空気そのものが異常で、信徒が中毒に陥っている可能性があるので注意が必要だ。）<br />
<br />
教会成長論の究極的な目的は、まるでネズミ講のように、末端の信徒を教育して、新たな信徒を積極的に教会に呼び込むための有益な宣伝員、活動要員へと変貌させて、一人ひとりの信徒を組織拡大のための有力な駒としていくことである。この理論においては、信徒は教会成長のための道具でしかなく、かけがえのない成員ではない。信徒がプロジェクトの達成のために努力することに力つきて、教会から姿を消しても、この理論が信徒をとりかえの効く人材として扱っている以上、かけがえのない個人を呼び戻そうという動きが教会内で起きないのは当然のことだ。こうして、教会成長に目を奪われた教会は、どれほど大量に信徒が離脱しようとも、失った人々に注意も払わず、新たな顧客獲得に乗り出していく。<br />
<br />
キリストの肢体をバラバラに切り刻んで、切断した部位をゴミ箱に捨てておきながら、その手足を他のもので補おうと別の組織でつぎはぎし、傷跡と縫い目と癒着と膿だらけになって、なお、自分達がやっていることは正しいと確信している。これは狂気に近い。<br />
<br />
個人のかけがえのなさに注目せず、人間を記号化し、いくらでも採れる魚のようにみなし、人間社会という大海原に、ひたすら組織拡大と献金増加をはかる目的で、魚を釣り上げるために漕ぎ出して行き、小さな収穫では決して満足せず、貪欲にさらなる大漁を目指して、ますます大きな網を張り巡らす。そうやって、人間社会を己が欲求をかなえるための闘技場とみなし、既存の信徒を教会の野心的プロジェクト推進のための資材とし、可能な限り、労働力として使おうとする。<br />
&hellip;このような非人間的な考えに立った教会で、カルト化が起きないわけがない。<br />
<br />
信徒を記号化し、道具化することは、キリストによって自由にされたはずの兄弟姉妹を再び奴隷の鎖につなぐことだ。教会を、信仰によって結び合わされた兄弟姉妹のかけがえのない交わりの場としてとらえず、教会成長のための戦略的マーケティングのための場に変えてしまうことは、教会を強制労働の場に変えることであるから、教会を強盗の巣にするよりももっと悪いことではないだろうか。<br />
<br />
このような非人間的な要素がふんだんに盛り込まれた教会成長論を推進する教会は、神の名を用いながら、その実、一部の権力者の野心をかなえるために、信徒を道具化し、徹底的に搾取しようとしているだけである。弟子訓練、セル・チャーチ、トランスフォーメーションなど、あらゆる教会成長論が全てこの系統に属する。<br />
<br />
もしも、教会成長論は信徒の搾取とは何の関係ないと反論する聖職者がいるならば、その人たちはまず、聖職者に支払われるのと等分の謝礼を、信徒の奉仕にもきちんと支払ってからそう言えばよい。いかなる美名がついていようと、信徒に無賃労働を強制しているような教会には、クリスチャンは絶対に近づかない方が良い。<br />
<br />
もしも、自分の所属している教会に何かおかしな雰囲気や兆候を感じたら、教会への忠誠心など無用だ、とにかく早く逃げ出すことが肝要だ。強いマインドコントロールの力が働いている場所にいながら、自分一人だけ、集団の雰囲気に逆らって、冷静な判断を保つことは至難の業だ。うるさい音楽が大音量でかかっている店で、静かな心を保つことがどれほど難しいかを考えてほしい。<br />
<br />
たとえ所属している教会がたくさんの問題を抱えていても、それをあなたが解決してやらなければならない義務はない。周りの人を変えようと思わない方が良い。もしも教会の中にいる人たちに警告を発したいなら、とにかく、安全な場所へ逃げ出した上で、集団の影響の及ばない場所から、訴えるべきである。<br />
<br />
さて、これまで、キリスト教界のカルト化の問題について書いてきたが、筆者自身は教界に対してすでに部外者の立場にあるので、教界の危険性について警告を発するためだけに記事を書くのはもう終わりにしたいと思っている。今後、キリスト教の様々なプログラムについての分析は続けたいが、このブログは一旦、ここで終了とさせていただきたい。<br />
<br />
筆者の知人が幾人もまだ教界に残っているため、これまで、何とか教界に立ち直りの道はないだろうかとの願いが心をかすめることが多々あった。だが、教界の未来に１％でも希望が残っていると思わせるような、手ぬるい表現をすべきではなかったかも知れない。ニッポンキリスト教界には破滅以外の未来がないという確信は、時と共にさらに強まるばかりだ。<br />
<br />
教界に関わったがゆえに、人生を狂わされ、生活の安全を脅かされ、場合によっては、巨額の借金を負わされたり、性被害にあったり、命を落とす危険まで味わった信徒がいることを私達は忘れてはならない。すでに亡くなった人たちがいることを忘れてはならない。こうなってしまって、一体、何のための福音だろうか。何のための救いだろうか。<br />
このような恐ろしい現状がある教界にとどまり続けることは、個人にとって、あまりにも危険が大きすぎる。疑わしいと思ったら、その集団をすぐに離れることを勧める。証拠を探すまでもない。何かあってからでは遅すぎるのだから。<br />
<br />
これまで、何人かの方にお便りをいただいたことで、教界内に残っている信徒もまた、教会の不祥事、カルト化の問題に対して並々ならぬ関心を持っていることを感じた。できるだけ多くのクリスチャンに問題を考えてもらうために、今後、移転後のブログも、原則、公開を続けることにしようと思っている。<br />
<br />
ご愛読どうもありがとうございました。<br />
（移転先が決まりました。&rarr;　<a href="http://exorientelux.blog.shinobi.jp/">「東洋からの風の便り」</a>）<br />]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>ペンテコステ・カリスマ運動をめぐる対立と、ビュン氏事件の動向について一言</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/31/" />
		<id>http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/31/</id>
		<issued>2009-02-28T12:52:40+09:00</issued> 
		<modified>2009-02-28T12:52:40+09:00</modified> 
		<created>2009-02-28T12:52:40+09:00</created> 
		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>ニッポンキリスト教</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p><strong>１．ペンテコステ・カリスマ運動をめぐる対立について</strong></p>
<p>このブログの最後の課題に、議論がいよいよ近づいて来たのを感じる。<br />
教会成長論、ペンテコステ運動については、まとめるのにもう少し時間がかかる。長い間、待っていただいて申し訳ないが、もう少し経ってから、詳しく内容を書いていく予定だ。いつかその内容を整理し、紙面にて発行することができれば幸いだ。</p>
<p>ペンテコステ・カリスマ運動、弟子訓練などのプログラムの問題性については、筆者自身、以下の記事の中で「阿片」というあまりにも厳しい言葉を使って表現した。だが、それでも、筆者自身がペンテコステの流れを汲む一派に属していたことがあり、そこから汲み取った良い経験もあるという過去を踏まえて、筆者はこの運動をただ「臭いものには蓋」式に、病原菌のように毛嫌いして遠ざけさえすれば、それで事が済むとは思っていない。</p>
<p>「ペンテコステ・カリスマ運動などという胡散臭いものにはとにかく近づかなければ良い」、という立場があるが、筆者は、信徒はともかくとして、専門家である聖職者までが、多くがそのような立場を取って、議論や分析を避けているのでは、何一つ問題は解決できないと思っている。第一、ペンテコステ・カリスマ運動に関わっていないからと言って、その教会が正しいという証拠には少しもならない。</p>
<p>ここでも何度も書いてきたように、今、キリスト教界全体が危機的状況にある。ペンテコステ・カリスマ運動の流れを汲んでいる教会だけが危うい状況にあるのではなく、ほとんど宗派を問わず、どこの教団教会に属していても、カルト化という問題にぶち当たる可能性は十分にあるのだ。</p>
<p>従って、教会のカルト化という問題をただペンテコステ・カリスマ運動のせいにだけして終わりにしようという議論は不毛である。「吉祥寺の森から」の<a target="_blank" href="http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51864047.html">記事</a>でもしきりに話題になっていたように、もしペンテコステ・カリスマ運動の問題性を語ろうと思うならば、この運動の内容を十分に知って吟味した上でなければ、話にならない。何よりも、この運動がこれほどまでに世界的に広がりを見せたのか、その背景に何があるのか、それが大衆クリスチャンのどのようなニーズと合致しているのかをよく考える必要がある。</p>
<p>そもそも、このような運動が世界的な広がりを見せたのには、既存のキリスト教界に決定的に不足しているものを補おうとする意味があったことを忘れることはできない。<br />
ペンテコステ運動が、既存の教会の弱体化、教義の形骸化、教会中心・儀式中心の行いの伴わない信仰生活、伝道における力不足、何よりも伝道の原動力となるはずのクリスチャンの人格的魅力の欠如を、由々しき問題としてとらえたことは正しいことであり、評価に値する。</p>
<p>歴史上、あらゆる社会運動は、必ず、大衆の潜在的ニーズによって支えられてきた。社会のニーズがないのに、ただ宣伝だけで運動を起こすことは誰にもできない。<br />
従って、「ペンテコステ」が登場してきた背景には、既存のプロテスタントのキリスト教界の弱体化があるのだ。その事実を考えることなく、この運動をただ毛嫌いして、それと関わりのない既存の教会に身を寄せさえすれば、それで事態が解決するという考えは、甚だ甘いと言わざるを得ないし、時代の流れに逆行するものだと言えよう。</p>
<p>ペンテコステ・カリスマ運動をめぐる対立を、かつての冷戦時代における、資本主義と社会主義の対立にたとえるのは、ちょっと乱暴かも知れないが、一言言わせていただきたい。資本主義体制に対するアンチテーゼとしての社会主義は、ソビエト体制の70余年ではっきりと結果が出た。社会主義は短命に終わった。（中国や北朝鮮やキューバの体制は、社会主義の残滓として、今は除外する。）だが、ソビエト連邦という社会主義の「お手本」がひどい腐敗に陥って、早々に崩壊したからと言って、私達は敵の敗北を持ってして、資本主義が勝利したと言うことができるだろうか。</p>
<p>社会主義に正義はなかったし、それが人類の新しい歴史を切り開く進歩的体制でなかったことは、ソ連邦の崩壊によって証明されたと言えよう。だが、社会主義が一旦、没落した事実が、すなわち、資本主義に正義があったという証拠になり得るだろうか？　「資本主義の末路はファシズムである」と言った社会主義者たちの言葉には、何の真実性もなかったということの裏づけになるだろうか？<br />
いや、もしも資本主義に正義があったのだとしたら、一体、今日の日本社会におけるこの荒廃状態は何なのだろうか？　高度経済成長期にあれほど達成してきた豊かさが、社会の進歩としての福祉制度の充実が、今日、ただどぶに捨てられるようにして失われて行っている現実をどう説明できるというのだろうか？</p>
<p>体制としての社会主義に正義はなかったかも知れないが、理念としての社会主義には、せめても半面くらいの真理はあっただろう。社会主義は資本主義の悪を克服するために登場してきた。資本主義の悪い側面を糾弾し、これを克服・凌駕することができる、社会の次なる進歩的形態として、この体制は提唱された。それはあいにく、掲げていた目的とは正反対のものしか生み出すことはできなかったし、理念にもそもそも大きな問題があったことは確かだが、それでも、社会主義者が早くから訴えてきた、資本主義の弊害は、今日も少しも変わることがないのである。</p>
<p>これと同様に、ペンテコステ・カリスマ運動が登場して来たのは、既存の教会における欠落を補うためであったという点を忘れることはできない。たとえペンテコステ・カリスマ運動の弊害が続々と明らかになったとしても、既存の教会の欠点が消えない限り、それを補おうとして、また新たな別の運動が出現するだけだろう。</p>
<p>私達は何かを語る際に、まるで試合のように、「どっちが正しいか」という比較的観点から、決着をつけようとする姿勢を捨てねばならない。ペンテコステ運動に関わった教会と、関わらなかった教会の、どちらに正義があったのかを議論するのは時間の無駄である。「どこの組織が正しいか」、勝敗をつけるために議論をするのは不毛である。あらゆる社会体制に問題があり、あらゆる教会組織に問題が起こり得、あらゆる社会の形態が不完全なものでしかなく、この人間社会においては、究極の正義などどこにもなく、究極の社会形態などどこにもありはしないということを忘れないようにして、馬鹿げた優劣のつけあい、序列のつけあいから遠ざからなければならない。</p>
<p>それに、キリスト教の正統な教義を信じている人ならば、誰しも、三位一体の神を認めることだろう。なのに、そこから聖霊だけを除外しようというのは言語道断だ。聖霊降臨、異言には聖書的な根拠がある。なのに、ことさらに聖霊を否定し、異言を病原菌ののように毛嫌いする態度にも、それらを強調しすぎるのと同程度に、問題があると言えよう。<br />
<br />
プロテスタントによく見られる多重分裂と、異なる意見に対する不寛容さ、そして他派への軽蔑と、毒々しいまでの対立を、筆者は本当に嫌に思っている。ペンテコステ・カリスマ運動をめぐって、対立がさらに激化してきたことにも、飽き飽きしている人は多いだろう。プロテスタントのキリスト教界がお互いに分裂し合い、互いを軽蔑し合って、それぞれが新しい群れを主張し、そこで自分達を高めあうための独自を教義を作り、そこからこぼれ落ちた信徒がいれば、勘当して追い出し、残った少数の者たちだけで、独自の村社会にしか通用しないようなルールを作ったからと言って、そこに何の進歩や達成があるだろうか。<br />
<br />
こんな風に分裂していがみあっている最中に、もしも我が国に悲劇的な天災でも起きようものなら、クリスチャンはどうやって団結してそれに立ち向かうことができようか。<br />
<br />
直感と感情だけで物事の決着をつけたり、やたら対立と分裂に至るのはよくない。一つの運動が登場する背景には、必ず、社会的ニーズがある。ペンテコステ・カリスマ運動が教団教派を越えて広がりを見せたことは十分に注目に値し、それだけ見るならば、それは少なくとも分裂分派の運動よりは、評価できる動きであったと言えよう。筆者自身は、この運動をかなり否定的に評価しているが、それでも、私達はこの運動が起こった背景にある理由を慎重に探っていかなければならないと思う。その運動を登場せしめるに至った社会のニーズを十分に踏まえた上で、その運動の是非を論じて行くのでなければ十分な議論にはならない。<br />
&nbsp;</p>
<p><strong>２．ビュン・ジェーチャン氏の事件を通して教界の自浄能力が問われている</strong><br />
<br />
今、世間を騒がせているビュン氏の事件については、相変わらず、筆者は何の関わりもない傍観者だが、事件が社会に投げかけた波紋の大きさと、社会からの反応の素早さには本当に驚かされるばかりだった。まだ司法の場に問題が持ち出されておらず、警察による捜査さえも入らない段階で、世俗のメディアがこの事件を全面的に被害者側を擁護する形で取り上げたことは、未だかつてない事態として受け止めた。<br />
<br />
パワハラ、セクハラの被害者がただ泣き寝入りを強いられることが多かった時代が過ぎ去っただけではない。キリスト教界内で被害を受けた信者たちの訴えが、ただ黙殺され、見殺しにされる時代が、確かに過去のものとなりつつあるのを感じた。この事件の世間における反響の大きさが、これまでカルト化の問題を無視し続けてきたキリスト教界に、重い腰を上げさせるきっかけとならないだろうか。</p>
<p>被害者はもう弱者ではなくなりつつあるのかも知れない。未だ社会における格差増大の勢いはおさまらないとは言え、それでも、社会構造を逆転させるような弱者のパワーがすでに台頭しつつあることが感じられる。社会体制が実際に改革されるまでにはまだ時間がかかるだろうが、それでも、現場では確かに、時代を変える風が吹き始めている。一つの価値観が終わりを告げようとしている。弱肉強食の時代が終わって、弱者による巻き返しの時が来ており、これまで力にまかせてやりたい放題して来た人々にとっては、粛清の風が吹き始めていると言って良かろう。</p>
<p>だが、こうした見方は楽観的に過ぎるかも知れない。事件を無責任に騒ぎ立てるだけの人たちは、何か問題が起これば潮が引くように去って行く。そして逃げ去ることができず、現場に取り残され、最もとばっちりを食わされるのはいつも被害者だ。ビュン氏が、問題をセンセーショナルに取り上げたメディアでなく、ブログでもなく、他ならぬ被害者を告訴する準備を進めているという<a target="_blank" href="http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51865974.html">記事</a>を読んで、筆者はため息をつかざるを得なかった。またしても、被害者が余分な荷を負わされるのか&hellip;？</p>
<p>教会のカルト化の問題に対して、筆者は裁判という手段が解決にそれほど有効だという感触を今まで持ったことがない。裁判を起こして良かったと述べる被害者もいるので、筆者の意見は少数派である可能性がある。だが、ただでさえ、心理的に多くの問題を抱える被害者にとって、裁判は耐えられないほど心身を圧迫する重荷となりかねず、さらに裁判では必ずしもモラルにのっとった判決が出るとは限らず、裁判が被害者の立ち直りにどれほど有効なのかは不明だ。</p>
<p>今回の事件でも、被害者は告訴されるかも知れないというニュースにショックを受けているかも知れない。だが、それでも、この事件を単に端から見ている筆者には、加害者からの裁判という脅しを、被害者はそれほど恐れることはないように見える。以下が筆者の勝手な、個人的予測だ。</p>
<p>セクハラの加害者とされた人間が、被害者を名乗る人物に対して、名誉毀損を主張するためには、「セクハラの事実は無かった」と法廷で立証することが不可欠となるだろう。だが、セクハラの冤罪事件を通してすでに明らかになっているように、加害者とみなされた側が、セクハラの事実を否定することは、極めて難しいのだ。なぜなら、セクハラとは、受けた方がセクハラと感じただけで、セクハラと認定されてしまうような性質のものだからだ。ここでは被害者の個人的感情が極めて重視される。そこで、被害者側からのセクハラの訴えを、加害者が無罪であると主張し、さらに、名誉毀損であるとまで主張して、被害者の有罪性を立証することは、極めて困難な作業となるものと予想される。だからこそ、実際に裁判となれば、違った戦略が出されるかも知れないが&hellip;。</p>
<p>さらに、今回の事件では、ビュン牧師の形勢があまりにも不利すぎるように見えるのだ。筆者はここ数日、彼の身柄の引き渡しが行われるのではないかとさえ思っていた。そして警察が被害届を受理すれば、そこから刑事事件としての捜査が始まる。場合によっては、逮捕も予想される事態となる。<br />
刑事捜査の手が及んだ時点で、実際に裁判を起こすことはとても難しい状況となるのではないだろうか。<br />
<br />
それに、これまで教会をカルト化させた責任のある外国人牧師・宣教師が国外逃亡して、欠席裁判となった例があることを見ても分かるように、教会を破滅に導いた牧師たちが、裁判に登場しても、あまり勝算はないと言えよう。にも関わらず、教会を崩壊させた責任を自ら取ろうとするどころか、教会を置いて母国へ帰り（実質上の逃亡）、セクハラの被害者を国外から逆に訴えようという行為に及ぶことは、言語道断と判断されて、世論のひんしゅくを買いかねない。</p>
<p>これまでの経緯を振り返って、サラン教会による謝罪声明が早々に出されており、韓国側からビュン氏を擁護する動きが今、ほとんど公に見られないこと、そして幾人かの日本の牧師たちによるビュン氏との断絶宣言がすでに出されていること、そして今回、世俗のメディアさえもがこの事件を被害者側に立って取り上げた事実などを合わせると、たとえ今の捜査前の段階では、ビュン氏に冤罪の可能性を100％否定することはできないとしても、あまりにもビュン氏の形勢が不利となっていることは明白なように思う。</p>
<p>特に、気がかりなのは、日本の世論全体にこの事件の波紋がどれほど広がっているか分からないことだ。1月以来、この事件の世間への衝撃は少しもおさまらないどころか、ますます広がる趣を見せている。残念なことだが、ビュン氏が韓国人であったことが、日本人男性のナショナリスティックなプライドを悪い意味で刺激して、火をつけてしまった可能性がある。&quot;韓流ブーム&quot;、&quot;ヨン様現象&quot;によって、すっかり置いてきぼりにされた日本人男性の複雑な心理が、今回のメディア報道による&quot;キリスト教界における韓流カリスマ&quot;バッシングに向いてしまった可能性も、完全に否定することはできない。ひょっとして、それが今回の報道の素早さの最たる原因だったのではなかろうか&hellip;、と考えるのは、小説の読みすぎかも知れない。</p>
<p>いずれにせよ、今、一番必要なことは、第一に、被害者の心身を守ること。そして第二に、キリスト教界全体が、このような不祥事を二度と出さないために、また、これ以上、キリスト教界の評判を落とさないために、何が必要なのかを連帯して考え、協調して解決に当たっていくことだ。<br />
<br />
世間にはあまり知られていないことだが、これまでに、教会のカルト化の問題のために、亡くなった被害者が幾人も出ているのだ。金銭も体力も搾り取られ、ボロボロになるまで搾取された上で、教界組織からポイ捨てされ、その上、他の無理解な牧師や信徒によって、受けた被害さえも否定され、裁判に訴えようにもそれさえ不可能となり、心身ともに追いつめられた信徒たちが、自分を責めながら、信仰にも教会にも絶望して、自殺に至る例があったのだ。</p>
<p>どうか、教会のカルト化という問題の深刻さを見逃さないで欲しい。無神経で残酷な言葉や態度で、被害者を追いつめないで欲しい。被害者が教界を救う使命を負っているのではない。被害を受けていない私達同胞クリスチャンこそが、被害者と教界を救う使命の両方を負っているのだ。これ以上、死者を出してまで、教界がカルト化の問題に蓋をし、全てを被害者の自己責任として片付け、教界の腐敗の全てのしわ寄せを被害者にだけ押しつけることにはどんな意味もないことを理解して欲しい。<br />
<br />
あってはならないことであった今回の事件が、今度こそ、教会が自浄能力を取り戻すための重要な布石となってくれればと願う。</p>]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>素晴らしい翻訳――村上春樹氏のスピーチから――</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/30/" />
		<id>http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/30/</id>
		<issued>2009-02-27T21:24:27+09:00</issued> 
		<modified>2009-02-27T21:24:27+09:00</modified> 
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		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>雑感</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p><a target="_blank" href="http://imago.blog64.fc2.com/">「精神分析じゃない日々」</a>のイマーゴ氏のサイトに掲載されていた、エルサレム賞受賞の際の村上春樹氏のスピーチ原稿です。あまりにも見事な翻訳のため、<a target="_blank" href="http://imago.blog64.fc2.com/blog-date-20090221.html">記事</a>からぜひにも引用させていただきます。<br />
（イマーゴ氏の記事には全文翻訳が掲載されてありますので、どうぞそちらでもお読み下さい。）</p>
<p>私は必ずしも村上春樹の全作品が好きなわけではない。というより、どちらかと言えば、彼の作品はあまり好きではない方だ。けれども、村上春樹氏のスピーチは、私が言いたいことを、そっくりそのまま代弁してくれるような、胸のすくような文章だった。しかも、翻訳は、私が機械翻訳を参照して訳したより、はるかに素晴らしい見事で自然な出来栄え。<br />
ただ、とても心を打たれました。</p>
<p>私はここで、これまで教会のカルト化の問題をひたすら語って来た。けれども、ひょっとすると、中には、私の文章を読んで、次のように非難する人があるかも知れない。<br />
「どうしてきみはいつもふざけた『言葉遊び』のような方法ばかり使って信仰を語ろうとするのか？　どうしてフィクションの物語など登場させるのか？　信仰とは真面目な事柄なのに、きみの文章からは、いつもきみが本気なのか、冗談半分なのか、分からなくなってしまう。しかも、いつもセンセーショナルな題名ばかり並べて、まるでワイドショーきどりだね。そういうやり方はぼくは好かない。いい加減、言葉遊びはやめて、きみもクリスチャンなら、もっと真面目に、純粋に、ストレートに信仰を語りたまえ。きみの心の純粋さが、きみのふざけた文章からは見えないよ。」</p>
<p>けれど、そうではないのだ。ふざけたいがゆえに、私はフィクションの話など登場させているわけではないし、センセーショナルな話題に焦点を絞っているわけではないのだ。<br />
これまで色々な文章を書いてきたが、私もやはり、村上春樹氏と同じように「プロの嘘つき」なのだとつくづく思う。そして「プロの嘘つき」として、これからも文章を綴り続けたいのだ。それは「言葉遊び」を目的としてのことじゃない。ただ、「システム」という巨大な壁に立ち向かい、そこにぶつかって割れ続ける、幾千、幾万の「個人の尊厳」という卵、この小さな小さな命の光に焦点を当て、彼らの苦しみを代弁し、この不条理をいつまでも訴え続けるためだ。</p>
<p>私は、マシュマロのように甘くふやけた、自分の幸福のことばかりに焦点を当てた文章を読むことを個人的に好まない。たとえ、それがどんなにその人にとって嬉しい、幸せな話であったとしても。<br />
世界中の数え切れない人たちが、今も不幸に呻き続けている中で、そのようにして、壁に押しつぶされて消えてゆく人々を、無いがごとくに無視して、ただ自分の幸福だけに酔いしれ、自分だけに与えられた過分な幸せをただ神に感謝しているだけの文章を見ると、私はどうしても、目をつぶり、耳を塞ぎながら、そういう言葉たちを足早に通り過ぎたくなってしまう。</p>
<p>私は、たとえ自分の書く物語がどんなに極端な構造になったとしても、それがどんなに非現実的なまでに、ただ一点にだけ焦点を当ててそれを押し広げるものになったとしても、今後も、壁につぶされる弱い者の側に立って、文章を書いていきたい。それはシステムという巨悪を大きく浮かび上がらせるための闘いだ。だが、巨悪と闘うための政治運動ではない。壁を倒すことが目的なのではない。そんなことが無理であるのは分かっている。ただ、壁に押しつぶされる人々の命かけた悲鳴をより多くの人々の耳に届け、壁というものの不条理性を訴えることによって、一人でも、その壁にぶち当たって、血まみれになる人が減って欲しい、そのために叫ぶことが目的なのだ。<br />
<br />
&hellip;そして、それはすでに壁にぶつかって無惨に壊れ、砕け散った、私のような人たちへの弔いの詩でもある。</p>
<p>教会というところが、システムという壁になることの残酷さ。<br />
教会というところで、人間を道具にし、押しつぶすようなプログラムが実行されていくことの恐さ。<br />
<br />
人間をコントロールし、支配しようとする全てのシステムやプログラムという「壁」の理不尽さを訴え続けること、それが教会でも起こっているという現実を訴え続けることが、私の人生をかけた目標だ。<br />
戦いの武器として与えられているのは、ただ、ペン一本、今はキーボードだけ。それでも、言葉には本来、霊と肉を切り分ける鋭い刃のような力がある。<br />
真実の言葉には力がある。真実の言葉は、まるで鋭利な刃物のように人々の信仰と思いとを切り分ける。<br />
<br />
村上春樹氏が今もまだ紛争が続くイスラエルの、他ならぬエルサレムで次のスピーチを語ったことの意味は大きいと思う。</p>
<p style="text-align: center">―――　以下、イマーゴ氏の記事より、「村上春樹氏のスピーチ」の引用―――</p>
<p>今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。<br />
もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。<br />
外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。<br />
車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。<br />
小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても<br />
不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。<br />
巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。</p>
<p>どうしてこんな事がまかり通っているかって？</p>
<p>答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。<br />
創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。<br />
小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。<br />
ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、<br />
正確に描写する事も困難です。<br />
ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。<br />
ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。<br />
で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか<br />
明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。</p>
<p>しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。<br />
1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。</p>
<p>そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。<br />
結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。<br />
もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。</p>
<p>もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。<br />
国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。<br />
その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。</p>
<p>受賞の報せから何回自問した事でしょうか。<br />
こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、<br />
紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、<br />
圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。<br />
もちろんそんな印象は与えたくありません。<br />
私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。<br />
もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。</p>
<p>でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。<br />
あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。<br />
たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。<br />
「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、<br />
「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。<br />
そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。<br />
その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。</p>
<p>そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。<br />
自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。</p>
<p>政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。<br />
正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。</p>
<p>しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのは<br />
それぞれの書き手にまかされています。<br />
私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。<br />
今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。</p>
<p>にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。<br />
これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。<br />
メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。<br />
どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。<br />
<br />
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」<br />
<br />
ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。<br />
何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、<br />
決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。<br />
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、<br />
そんな仕事に何の価値があるのでしょう？</p>
<p>この暗喩の意味とは？ある場合には、まったく単純で明快すぎます。<br />
爆撃機（bomber）と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。<br />
卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。<br />
これが暗喩の意味するところのひとつです。</p>
<p>しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。<br />
私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。<br />
私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在（soul）です。<br />
私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。<br />
そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。<br />
壁には名前があります。それはシステム（The System）です。<br />
システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、<br />
私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。</p>
<p>私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、<br />
警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。<br />
私は完全に信じています。<br />
つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が<br />
小説家の仕事だとかたく信じています。<br />
それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり<br />
悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。<br />
生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、<br />
体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。<br />
だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。<br />
＜中略＞</p>
<p>今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。<br />
私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。<br />
私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。<br />
どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。<br />
もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、<br />
かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによって<br />
もたらされなければなりません。</p>
<p>ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。<br />
システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。<br />
私たちがシステムを作ったのです。</p>
<p>私が言いたいのは以上です。<br />
エルサレム賞をいただき、感謝しています。</p>]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>殺人兵器にさよならを！！　―中東での小型核による核戦争の脅威について―</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/29/" />
		<id>http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/29/</id>
		<issued>2009-02-22T22:41:44+09:00</issued> 
		<modified>2009-02-22T22:41:44+09:00</modified> 
		<created>2009-02-22T22:41:44+09:00</created> 
		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>社会問題</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p><strong>１．手頃で新しい核兵器の時代？</strong></p>
<p>最近、考えるにつれ、分かって来た事柄が一つある。それは、「誰かさん」が、私達に最も考えて欲しくないのは、過去の出来事ではなく、未来に関する事柄なのだということ。たとえばここで、筆者が過去の迷宮入りした冤罪事件や、警察や役所による不正事件や、総理や閣僚の失言をどれほど取り上げて、虐げられた弱い人たちをかばうために、批判を繰り広げ、鋭い推理を展開したとしても、そんな程度のことでは、「誰かさん」にとっては痛くもかゆくもない。</p>
<p>「彼ら」が私達に何よりも知ってほしくない、考えて欲しくない、対策を講じて欲しくないと願っているのは、過去でも現在でもなく、未来に関する事柄なのだ。いや、過去の事件をパズルのように組み合わせて、そこから未来に関する予測を確実に導き出すような人間が現れることを彼らは願っていない。何よりも、個人がきちんと筋道立てて自分の頭で物事を考えられるようになること、悪に対する免疫抵抗力を持つ人々が増えること、多くの人々が時代の波にただ流されて生きるのをやめ、今後の自分の行動に関して、冷静で、客観的に物事を考えられるようになり、どんな行動についても、他人の意見に流されるのでなく、自主性を持って、正しい判断を下そうと考え始めること、そういうことを願わない者たちがいる。</p>
<p>人々が、世界の未来を陰謀によって支配しようとする人たちの悪意に気づき、欺瞞などもう沢山だと怒り、陰謀をこれ以上、許さないという毅然とした態度で立ち向かうこと。つまり、私達が世界経済や宣伝という棍棒（&quot;stimul&quot;）に追い立てられ、踊らされる家畜であることをやめて、自らの頭で考え、自らのために生きるようになること&hellip;。それこそが、世界中の大衆を家畜のように管理したいと思っている何者かが最も恐れ、嫌っている事態なのではないか。</p>
<p>イラン戦争の勃発の可能性は何年も前から指摘されているようである。秘密裏の計画の中に、戦争のターゲットとして、中東の他の諸国も含まれるとの指摘さえある。だが、今日、日本人はイランで起こるかも知れない戦争のことで頭を痛めたりしているだろうか？　え？第三次世界大戦の勃発！？<br />
&hellip;聞いた人は笑うかも知れない。そんな問題よりも、大臣の進退やら、給付金のことの方が我々にとっては大問題だ。このブログの読者の中にも、現時点で、起こってもいない戦争に対して反対を唱えている筆者を、呆れた馬鹿者だと思う人があるかも知れない。</p>
<p>だが、ノアの箱舟の時にも、その日が来るまで、誰にも分からなかった。人々はノアが気が狂っていると思って、彼を嘲笑しながら、「娶ったり、嫁いだり」して気ままに暮らしていた。だが、それでも、その日は確実にやって来たのだ&hellip;。</p>
<p>現代という時代は、何らかの大義名分や美名のもとに、恐るべき欺瞞が進む時代だ。イランで戦争がいつ勃発するか、あるいは別のどこかで次の戦争が起こるのか？　そういう事柄を「予言」することがブログの目的ではない。重要なのは、核戦争に対して筆者は反対であるということ、それから、戦争にはどんな正義もないということを主張すること、どんな大義がついていようと、これ以上、軍事産業の繁栄のための戦争を許さないと主張することだ。</p>
<p>これまでにも大勢の人たちが、戦争の欺瞞を暴き出し、軍事産業の暴走の危険視してきたからこそ、今日まで、大戦が勃発していないのかも知れない。たとえ大災害がいつか起こることは止めようがないとしても、主がアブラハムの祈りを聞かれたように、善良な人々の声高な叫びには、社会において悪があふれ出すのをきっと止める力がある。危険がなくならない限り、反戦を訴えよう。</p>
<p>参考までに。イラン戦争の勃発を憂慮する英語サイト<br />
<a target="_blank" href="http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&amp;aid=1714">&quot;Nuclear War against Iran by Michel Chossudovsky January 3, 2006&quot;</a><br />
<a target="_blank" href="http://www.antiwar.com/pilger/?articleid=10452">&quot;Iran: A War Is Coming by John Pilger February 3, 2007&quot;</a></p>
<p>日本語サイト<br />
<a target="_blank" href="http://tanakanews.com/g0418iran.htm">イランは核攻撃される？ ２００６年４月１８日　　田中　宇</a><br />
<a target="_blank" href="http://www.kcn.ne.jp/~gauss/jsf/npr.html">核戦争を準備するアメリカタカ派（ヤパーナ社会フォーラム）</a></p>
<p>これらのサイトの情報を総合すると、イランで戦争が起こる可能性はかなり現実のものとして感じられるようになる。すでにそれを想定した軍事演習が行われ、小型核を使いたいと考えている者たちは、新しい戦争に向けて盛んに武器を売り込んでいるようだ。だが、アメリカが中東の戦争に参戦するためには、参戦の口実として、またもや新しい「真珠湾攻撃」が必要となるかも知れない。</p>
<p>きっと、お節介な話だと言われてしまうだろうが、筆者はアメリカを物騒な国だと考えている。アメリカに今後旅行の予定がある人は、どうぞ注意されたい。また、以下の記事に登場する「小型核」が中東諸国で大量に使われた場合、ウラル山脈を越えて、中央アジアまで、ユーラシア大陸に汚染が広がるとの懸念もある。<br />
21世紀は本当に歴史に残る大変な時代となりそうである&hellip;（歴史が続いたならばの話だが）。</p>
<p>今、被爆国として日本の取るべき立場は何なのか、小型核の問題についてどうか多くの人たちに考えて欲しい。できるだけこの情報をより多くの人たちに伝えて、戦争への警戒を呼びかけて欲しい。いつどこで戦争が起こるかが問題なのではない。どこで起ころうとも、核戦争など絶対に誰にも容認できるものではないということが重要なのだ。<br />
<br />
一人ひとりの力は小さくとも、知識人による声を合わせれば、きっと社会を動かす力がある。<br />
<br />
<br />
<strong>２．イランに対する核攻撃の可能性について　ミシェル・チョスドフスキーの記事より</strong></p>
<p>以下は、今からすでに2年も前の2006年1月3日にミシェル・チョスドフスキーによって書かれた<a target="_blank" href="http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&amp;aid=1714">英文記事&quot;Nuclear War against Iran by Michel Chossudovsky &quot;</a>（上に掲載したものと同じ）の部分的な引用です。この情報が最新のものでないこと、また、ここで予告されている戦争がいまだ起こっていないということを考慮すれば、この記事には色々と議論の余地が残るでしょう。<br />
しかしながら、今後訪れる「核の新しい時代」とはどのようなものか、小型核とは何かを知り、戦争はどのようにして「作られる」のかを考える上で、これは今も参考になる記事だと思います。機械翻訳を参照して手直ししたため、訳に不正確な部分があるかも知れませんが、ご了承下さい。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="text-align: center">（―――以下引用―――）</p>
<p><br />
<strong>イランに対する核戦争</strong></p>
<p>核弾頭を使用してイランに対しあからさまな戦争を引き起こそうとする計画は最終段階にある。<br />
米国、イスラエル、トルコの連合は「着々と準備を進めている」。2005年初頭から様々な軍事演習が実施されてきた。 一方で、米国の攻撃を見越して、イラン軍は12月にペルシャ湾で大規模な軍事演習を実施している。 <br />
2005年初頭より、ワシントン、テルアビブ、アンカラ、ブリュッセルにある北大西洋条約機構本部の間で、激しい外交交渉が行われた。最近では、アンカラへ派遣されたCIA長官ポーター・ゴスがトルコのレジェプ・タイイプ・エルドアン首相に、 「イランで核兵器などの軍事目標が空爆された際には、政治的支援、後方支援を提供するよう」要請した。ゴスはトルコの知識人層に対して、軍事作戦への備えと監視に支援を求める、特別な協力を要請したと伝えられる。（ DDP 2005年12月30日）</p>
<p>一方、シャロン首相はイスラエル軍は3月末までに攻撃を開始して良いとのゴーサインを与えた。 <br />
イスラエル当局関係者は異口同音に、イランに対する軍事攻撃は 遅くとも、2006年3月末までには開始されるだろうと述べている。 3月末という期日は、イランの核エネルギー開発計画に対して、IAEAが行った国連への報告書と一致する。イスラエルの政策立案者は、それらの脅威が報告に影響を与えるか、あるいは少なくとも、海外の支持者らによって安全保障理事会による制裁措置などの何らかの措置を促し、あるいはイスラエルの軍事行動を正当化することになるだろうと信じている。 <br />
（ジェームズ・ペトラス 、&nbsp; <a target="_blank" href="http://www.globalresearch.ca/index.php?context=viewArticle&amp;code=PET20051225&amp;articleId=1635">イスラエル開戦へのカウントダウン：イランへの集中攻撃</a>、グローバル研究、 2005年12月）</p>
<p>軍事計画は米国によって後押しされ、NATOによっても承認されてきたが、しかし、空中攻撃の計画はNATOでの問題に鑑みて、現段階では不明である。<br />
&nbsp;</p>
<p><strong>「衝撃と恐怖」作戦</strong><br />
&nbsp;<br />
軍事行動のための様々な要素が、ネブラスカにあるオファット空軍基地で、アメリカの厳重な指揮の下、アメリカの国防総省と戦略司令本部（ USSTRATCOM ）によって調整されている 。 <br />
イスラエルによって発表される作戦行動は、米国防総省（ペンタゴン）との緊密な連携のもと実施されるだろう。この軍事作戦の司令部は（ワシントンに）集中され、最終的にいつ軍事作戦が開始されるかは米国が決定する。</p>
<p>米軍筋は、イランに対する空爆が、2003年3月にイラクで行われた「衝撃と恐怖」作戦と呼ばれる空爆に匹敵するほどの大規模な展開となりうることを確認した。 <br />
米軍によるイランへの空爆は、1981年のイスラエルによるイラクのオシラク核センターへの攻撃をはるかにしのぐ範囲に渡り、2003年のイラクに対する空爆キャンペーンの開始に似たものとなることが予想される。ディエゴガルシアから、もしくは直接アメリカから発射して操作されるB-2ステルス爆弾の威力をフル活用し、それに、カタールのアルデイドやその他戦域にある地域から発射が計画されているF－117ステルス戦闘爆撃機が加えられ、核の攻撃予定地は2ダースには上るものと予想される。</p>
<p>軍事作戦の計画者らは、攻撃リストを政府当局の選択に応じて、最重要の軍事施設を目標とした空爆だけに制限するよう調整することもできるし、あるいは、イラクから米軍に対する反撃として使われるかも知れない原子力兵器、通常兵器を攻撃目標に含むと同時に、それに関連する大量破壊兵器が含まれる広範囲を一連の攻撃予定地として定める選択も可能だとしている。(<a target="_blank" href="http://www.globalsecurity.org/military/ops/iran-strikes.htm">グローバル・セキュリティ.org 記事</a>参照）</p>
<p>11月に、米国の戦略司令部は「世界の稲妻」作戦と銘打った「世界的規模の攻撃計画」の主要な軍事演習を実施した。「世界の稲妻」作戦には、「仮想敵」に対する、核兵器と通常兵器を合わせた攻撃のシミュレーションも含まれていた。「世界の稲妻」作戦の演習後、米国の戦略司令部は準備万端であると宣言した（以下の分析を参照）。</p>
<p>アジアの新聞雑誌は、「世界の稲妻」作戦の演習における「仮想敵」は北朝鮮であるとみなしたが、演習のタイミングから判断するなら、これは、イランに対して計画された攻撃を見越して実施された演習だったと判断できる。</p>
<p><br />
<strong>核戦争に向けてのコンセンサス</strong></p>
<p>EU内からは、政治的に異議を唱える声は全く出ていない。ワシントン、パリ、ベルリン間では協議が続いている。イラクへの侵略の際には、フランス、ドイツから外交レベルで反対が出されたが、今回はそれとは反対に、 ワシントンは大西洋沿岸の同盟国と国連安保理の双方において、「合意」を打ち立てることができた。この合意には中東と中央アジアの広域に影響を与えかねない核兵器の使用も含まれている。</p>
<p>さらに、アラブ諸国の多くが、今や、暗黙のうちに米国とイスラエルの軍事計画の支持者となっている。一年前の2004年11月、イスラエル軍の首脳がブリュッセルにあるNATO本部でエジプト、ヨルダン、チュニジア、モロッコ、アルジェリア、モーリタニアを含む地中海沿岸諸国の6か国のメンバーと会談し、NATOとイスラエルは条約議定書に調印した。この会談の後、シリアの沿岸で米国、イスラエル、トルコを含む合同軍事演習が催され、2005年2月には、イスラエルがアラブの数カ国と共に「反テロ演習」に参加した。</p>
<p>メディアは異口同音にイランを「世界平和への脅威」として非難している。 反戦運動はこのメディア路線を鵜呑みにして来た。米国とイスラエルとが中東で核によるホロコーストを企てている事実があるにも関わらず、反戦・反グローバル化運動はそれを議題に取り上げようとはしない。世界中の世論は、これはイランの核兵器開発を防止するために必要な「外科手術」なのだと言いくるめられてしまっている。</p>
<p>我々には、これは戦争ではなく、イランの核施設への空爆という形を取った、軍事的な平和維持活動なのだと説明されている。</p>
<p><br />
<strong>「市民の安全のための」小型核爆弾</strong></p>
<p>報道によって、いくつかの軍事課題の特徴は明らかにされてはいるものの、先制攻撃として戦略的に核兵器を使用することを含めた軍事作戦の広範囲な性質は大幅に歪曲されて伝えられている。<br />
この軍事課題は、2002年のブッシュ政権の政策であった「先制的な」核戦争、つまり、核戦略の見直し報告（Nuclear Posture Review）に基づいている。メディアが誤まった情報を伝えているために、イランに対して核弾頭を含む軍事行動が行われた場合に、破壊的な結果がもたらされるということが、世間にはほとんど伝わっていない。外科手術が、通常兵器と核兵器の双方を用いて行われるという事実は、議論の対象にもなっていない。</p>
<p>2003年の上院の決定によれば、「低い爆発エネルギー」を持つ「小型核爆弾」は、戦略的な核兵器の新しい時代を切り開くものであるとされており、実際には、広島に投下された爆弾の6倍もの爆発力を持ちうるというのに、爆発は地下で起こることが想定されているという理由で、小型爆弾は今や「市民の安全」を守るものであるかのようにみなされている。</p>
<p>核に関する「権威ある」科学者たちの協力を募って行われたプロパガンダ的なキャンペーンにおいて、小型核爆弾は、戦争よりもむしろ平和のための道具であると宣伝されている。爆発エネルギーの低い核爆弾は、今や「戦場での使用」に向けて整えられ、アメリカの進める「テロとの闘い」の次なるステージで、通常兵器と並んで使用の候補に挙げられているのだ。</p>
<p>政府当局者は、低爆発エネルギーの核兵器は（イラン、北朝鮮などの）ならず者国家に対する頼もしい抑止力となると主張する。彼らの理屈では、現存する核兵器は、あまりにも破壊力がありすぎて、本格的な核戦争以外で使用するには適さないというのである。潜在的な敵はそれをよく分かっているため、彼らは報復に核兵器が使われることはないと高をくくっている。しかし、低い爆発エネルギーの核兵器があれば、破壊力が小さいため、実際に使用されることが想定される。そのため、小型核兵器は有力な戦争抑止的効果を持つというのだ。</p>
<p>全くの屁理屈としか言えないこの理論においては、核兵器は平和を樹立し、「二次被害」を予防する手段とされている。ペンタゴンはこの点について、（破壊力が5千トン以下の）「小型核」は、爆発が「地下で起こる」ため、市民には無害だと説明している。<br />
にも関わらず、これらの「小型核」は一つ一つが、爆発して死の灰を撒き散らす際には、1945年に広島に投下されたのと同じ原爆の断片として、重大な被害をもたらすのだ。<br />
長崎と広島における原爆の破壊力は、2万1千～1万5千トン程度であったと推定されている。( <a target="_blank" href="http://www.warbirdforum.com/hiroshim.htm">記事</a>）つまり、低爆発エネルギーの小型核は、広島への原爆の3分の1の破壊力を持つことになる。</p>
<p><br />
<strong>小型核爆弾とは&hellip;</strong><br />
「核」兵器である B61－11が大地を貫通する能力はかなり限られている。テストでは、標高4万フィートから、乾いた大地に投下した場合、たった20フィートしか貫通しないことが判明した。しかし、爆発前にこの爆弾を地中に埋めておけば、地表での爆発時に比べ、はるかに高度な爆発エネルギーが衝撃派として地上に伝わる。これをもし都市で使用するならば、大量の民間人犠牲者が出るだろう。たとえ爆発のエネルギーが最小の0.3-300キロトンの範囲におさまったとしても、核による爆風は放射性物質の巨大なクレーターを生み出し、広範囲に渡って、致死量の&gamma;線を放射する地域が作り出される。</p>
<p style="text-align: center"><img alt="GBU28" align="baseline" border="0" src="http://file.savonarola.blog.shinobi.jp/Img/1235305379/" /></p>
<p>ガイド付き爆弾ユニット- 28 （ GBU - 28 ） <a target="_blank" href="http://www.fas.org/faspir/2001/v54n1/weapons.htm">記事</a>より</p>]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>コリント人への第一の手紙に見る、教会内不祥事の解決策としての司法の有効性について</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/27/" />
		<id>http://savonarola.blog.shinobi.jp/Entry/27/</id>
		<issued>2009-02-19T22:02:22+09:00</issued> 
		<modified>2009-02-19T22:02:22+09:00</modified> 
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		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>ニッポンキリスト教</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p>　現在、筆者はプロテスタントと資本主義、教会や地域における理想的な神の国の建設というアイディアの問題性と、グノーシス主義という異端について調べている。このような大きなテーマを述べるためには、できるだけ多くの文献に目を通し、それを整理することが必要となるため、まとまった記事を出せるまで、しばらく時間がかかってしまうことをお許しいただきたい。</p>
<p>　そこで、今回はこれまで述べてきたことの総括として、キリスト教界における聖職者による不祥事の解決として、裁判に頼ることが果たして有効かということを、聖書に基づいて、もう一度、はっきり述べておきたい。<br />
　結論から述べれば、教会内不祥事に対する解決は、教会が、聖職者の懲戒免職を含めて、不祥事を起こした者に対する厳しい対応を取ることを除いて他にない。教会が、不祥事を起こした悪徳牧師をかばい続けるだけでなく、あまつさえ、被害者が裁判によって悪徳牧師を救済すべきだという教えを説き、被害者の力による裁判を、教会内不祥事の有効な解決方法として後押しすることなど、聖書は少しも勧めていない。教会内不祥事を司法の場に出てしか解決できないような弱体化した教会が、聖書で何と言われているか、そのことを、ここではっきりさせておきたい。</p>
<p>　教会内で起こった不祥事を司法の場に持ち出すことに関して、よく取り上げられるのは、パウロがコリントの教会に宛てた書簡、「コリント人への第一の手紙、第５、６章」である。そこから引用させていただく。</p>
<p>（第５章１～１３節）<br />
「現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。＜中略＞<br />
<br />
　あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、<strong>わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしよう</strong>ではないか。</p>
<p>　わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者＜中略＞などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。<br />
　しかし、わたしが実際に書いたのは、<strong>兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない。食事を共にしてもいけない</strong>、ということであった。＜中略＞<br />
　<strong>あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。</strong>外の人たちは、神がさばくのである。<strong>その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。</strong>」</p>
<p>　パウロはこの書簡の中で、コリントの教会に起こった性的不祥事の対処方法について触れている。信徒の中のある者が、信仰を持たない人々でさえも及ばないような、乱れた性的放蕩にふけっており、信仰を馬鹿にし、社会規律さえ馬鹿にしている、それにどう対処すれば良いかという相談をパウロは教会の信徒たちから受けた。<br />
　それに対して、パウロはまず、なぜそのようなスキャンダルを引き起こした信者が未だに教会の中に平然ととどまっており、信徒たちとの交わりを保っているのか、そんなことは言語道断だという調子で筆を進める。<br />
<br />
　忌まわしいスキャンダラスな事件を教会内で平然と起こしているような者と、信徒はすぐに交わりを絶たねばならないというのがパウロの結論であった。目には見えないイースト菌が、パン全体を膨らませるように、悪を野放しにしていれば、やがて集団全体が汚染され、堕落させられる。誰か一人の邪悪な行為も、長い間、放置していれば、やがて教会全体を腐敗に陥れる。だからそのような邪悪なパン種が登場した時には、すぐに教会から取り除きなさいとパウロは信徒に忠告しているのだ。</p>
<p>　誤解がないように注意したいのは、ここでパウロが厳しく言及しているのは、「教会の中で公然と行われる悪事」のことであり、「悪を犯しても悔い改めるそぶりもない悪人」のことであるという点だ。これは信仰的にも弱いクリスチャンが、日々の生活の中で幾度もつまずき、罪を犯したくないと思いながらも、それでも自分や他人に罪を犯しながら、戒めを完全に守ることができないで、悔い改めの中に生きていることを指しているのではない。<br />
　ここで言われているのは、どんなに忠告されても、悔い改めのない堕落した生活を送るような信徒、特に性的放蕩、金銭的なむさぼりを平然と、堂々と行い、習慣的に悪事を積み重ねるような信徒のことであり、そのような堕落した信徒（や牧師）の存在に気づいたならば、他の信徒は毅然と立ち上がり、彼を教会から放逐せねばならず、決して黙って目をつぶっていてはいけないということである。</p>
<p>　信徒や牧師を自称する者が、公然と、また習慣的に、恐るべき悪事を積み重ねている場合、それに対して、教会では過度な寛容は禁物である。恐るべき不道徳な生活を改めようともせず、信仰を馬鹿にして、悔い改めないような悪人は、もはや「兄弟姉妹」と呼ばれる資格はない、そのような者と信仰による交わりなど不可能である、パウロはそう言っているのである。<br />
　パウロは、「悔い改めのない悪人とは関わりを断つ」という当然の事柄がコリントの教会で実行されていないことを嘆いている。コリントの教会がこの不祥事を持て余し、何ら自力で解決できないでいる無能力を戒めている。</p>
<p>　引き続き、第６章１～１８へ。<br />
　そのように教会が不祥事の解決を持て余しているような場合、司法の場、すなわち世俗的な裁判に問題を持ち込むことが望ましいものかどうかという問いに対するパウロの答え。</p>
<p>「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起こした場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、<strong>世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。</strong><br />
<br />
　あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、言うまでもないではないか。<strong>それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。</strong>わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。<br />
<br />
　<strong>いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。<br />
</strong>　<strong>そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。</strong>なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。<br />
　まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔うもの、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。＜中略＞</p>
<p>　あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、<strong>キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。</strong>それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。＜中略＞不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。」</p>
<p>　パウロはここで、クリスチャンを名乗る人たち、つまり、世俗的な暮らしを送る信仰のない人たちよりも、はるかに道徳的に優れていなければならないはずの「聖徒たち」が、司法という世俗的な場所に頼らなければ、自分達の内輪で起こった教会内不祥事さえ解決できないでいるという、呆れた無力さを戒め、非難している。<br />
　クリスチャンは本来、その高い道徳性、律法と信仰に基づいた聖い生活によって、この世を超越している存在であるべきである。なのに、この世に頼らなければ、クリスチャンが善悪の判断さえつけられないでいるとは、一体、何事なのか。これは恥ずべき事態ではないか、とパウロは言うのである。</p>
<p>　このような無力、弱体化を公然と世にさらせば、クリスチャンは世の笑い者となるだけだとパウロは示唆している。もしもクリスチャンが内輪で起った争いを司法の場に持ち込めば、世の中の人々は、クリスチャンとは、日頃、神の名をしきりに唱え、正義を掲げていることとは反対に、実際には、内輪の争いさえも自力で解決できない無力な人たちなのだと思うだろう。それだけではなく、クリスチャンとは、「兄弟」と互いに呼び合いながら、お互いを愛し、思いやり、たとえ誰かから不当な扱いを受けても信仰に基づいて耐え忍ばないどころか、むしろ互いに率先して騙し合い、不義を行い、金を巻き上げ合うような、恐るべき人たちなのかと、世の中は考えるだろう。</p>
<p>　そこで、たとえ教会が悪事をなした信徒を裁判の場に引きずり出し、彼に勝訴してみたところで、「クリスチャンとは不祥事ばかりを起こして互いに訴え合うような人たちなのか」と世の中に思われることによって、クリスチャンは面目を失い、この世に敗北するのだ、とパウロは逆説的に論理を展開する。</p>
<p>　この個所は今日、よく誤解されて、特に聖職者によって、歪曲された形で、信徒による教会や牧師への裁判を牽制し、禁止する目的で引用されることが多い。教会内で不祥事の被害をこうむった人たちが、最後の手段として、教会や教会内にいる加害者に対して裁判を起こすことさえも禁じる文脈で、牧師がこの個所を引用することがあるが、それは正しくない。教会内で不祥事の解決を模索しても、何ら見出せず、同胞である信徒に見捨てられ、自らの権利を守るために、最後の手段として、被害者が裁判を起こさざるを得ない状態に陥った時のことを考慮して、このパウロの発言があるわけではない。</p>
<p>　何よりも、この文章をパウロは不祥事の被害者に向けて訴えているのではないことを見逃してはならない。パウロは教会全体、信徒全体に向けて言葉を発しているのだ。<br />
　パウロがここで非難しているのは、教会内の不祥事を知りながら、黙ってそれを見逃してきた大勢の信徒達だ。教会にいる大勢の信徒たちは、教会の中で、不祥事の存在を知りながら、ただ沈黙を守ることで、問題を訴える被害者を見捨て、教会の腐敗を見過ごしにして来た（コリントの教会では特に被害者と呼べる人たちがいたという言及はない。被害者の代わりに、教会の不祥事を憂慮する信徒たちがいたと想像される）。<br />
　不祥事を憂慮する信徒たちが、教会内で問題を解決するよう呼びかけても、ほとんどの信徒はそれに見向きもせず、対策も講じず、どこにも解決を求めようがなくなった一部の信徒たちが、結局、裁判に赴かざるを得なくなるのを、教会全体が、手をこまねいて見ている。そのような態度についてパウロは非難しているのだ。<br />
<br />
　そうやって、事態を見逃せないと判断した一部の信徒たちだけが、悪人を世俗の裁判に訴えるのに任せて、他の大多数の信徒や、教会全体は、自分では何の努力もしようとせずに、問題に対して手をこまねき、ただ裁判が勝訴を勝ち取ることを心の中で期待しながら、一部の信徒と、司法の力だけに頼り切って、教会内の不祥事の解決をまかせきりにしているという態度を、パウロはあるまじき怠慢、無力さだと言っているのだ。</p>
<p>　被害者が司法に泣きつくよりも前に、大勢の信徒がしかるべき対策をきちんと打っていれば、裁判などになるはずがない。教会がきちんと機能していれば、司法の場に問題が持ち越されるはずがない。大勢の信徒たちには、裁判について検討するよりも前に、まず教会の中でなすべき処分があるはずではないか？　&hellip;パウロはそう言っているのだ。</p>
<p>　パウロの視点に立てば、被害者はともかくとして、教会全体が手をこまねいて、教会で起った不祥事に何も対策を打たず、その解決をただ司法の場に任せようとすることは、教会が世に対して最低の無能さを証明することに他ならず、到底、勧められないという結論が出る。何よりも、そうなる前に、まず、不祥事を起こし続けている信徒を教会から放逐することが、教会の仕事である。キリストの肢体を聖く保つために、悪事を犯し続けている者を教会が除名することこそが、教会が真っ先になすべき仕事である。悪事を犯し続ける者と信徒が交わりを保つことは、キリストの肢体である教会を辱め、遊女にまで貶めることにつながる。</p>
<p>　教会内不祥事を司法の場に持ち出して解決することに対する、パウロの言及はここで終わっている。重ねて言うが、これは断じて、教会内で不祥事を解決できる見通しが一切なかった時に、被害者が最後の手段として司法の場に解決を委ねることを禁止している文脈ではない。そうではなくて、これは被害者以外の人たちに対する呼びかけであり、教会全体が不祥事の解決方法として、特定の人間に厳しい措置をとりたくないがために、司法の場に全てを任せようとするような、逃げ腰の態度を取らず、まず、自分達でしっかり不祥事を起こした人物を厳しく処分し、不祥事を教会の中で自力で解決する努力をし、キリストの肢体を聖く保つ方法をしっかり見つける努力をしなさいということが言われているのだ。</p>
<p>　だが、もしも、悪事を犯し続けている者を擁護し、その者と馴れ合い、除名する勇気さえ持たないような、極めて弱体化した教会があるならば、一体、どうなるのだろう？　不祥事が公然と見逃され、悪人が大手を振ってのさばり、聖職者も役員も彼らを除名するそぶりもなく、他の信徒たちも、関係ある牧師も、何を忠告しても馬耳東風で、弱い信徒は嘲られ、犠牲者が増え続け、被害者が自力で裁判を起こさなければ、何一つ解決できないような、恐るべき教会があった場合、どうなるのだろう？<br />
　<br />
　そういう疑問は、パウロの書簡では、あまりにも論外である問題のためか、全く考慮されていない。</p>
<p>　だが、そうした場合、信徒がどうすれば良いのかは、以上で挙げた文脈から容易に判断できよう。筆者がそのような悪徳教会に対して言えるのはただ一つ、「それはもはや教会とは呼べない」ということだけだ。そのような、邪悪なイースト菌を弄び続けた結果、全体が邪悪化し、遊女化したバビロン教会があるならば、そこでは聖徒は食事をすることも避け、交際を絶ち、自分自身が邪悪なパン種によって汚染されることを避けるため、ただ健全な教会を探して、そこを出ることだけが勧められる。</p>
<p>　たとえ遠くからでも、犯罪者顔負けの恐るべき放蕩や、金銭的むさぼりがあるという情報が聞かれる教会や、牧師や信徒が互いに互いを泥沼の裁判で訴え合っているという噂が聞こえるような教会があるなら、そこにはできる限り、信徒は近づかないのが良いだろう。</p>
<p>　邪悪なパン種を弄ぶような人間とは、信徒は関わりを断つべきだ、というのがパウロの勧めであって、キリスト者の使命とは、邪悪な生活を送り続ける元信徒や牧師を回心させ、更生させるために、自分の人生を丸ごと投げ出すことではない。堕落した者との関わりを続けていた場合、ミイラ取りがミイラにならないという保障がどこにあるだろう？<br />
　一信徒の堕落であっても、厳しい措置を取るようパウロは勧める。まして聖職者が堕落した場合、教会がその聖職者のためにこうむる汚染、被害はどれほどの規模に達することだろう。それを考えるならば、邪悪な生活を送る聖職者が解雇されるのは当然である。</p>
<p>　キリストの肢体を遊女に貶めるようなことを、聖職者が率先してやっている教会がもしあるならば、信徒は全速力で、そのような教会から遠ざかった方が良い。誘惑を弄んではいけない、誘惑を避けなさいと聖書にも書いてある。</p>
<p>「まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔うもの、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」</p>]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>イランで戦争を起こそうとする計画と、核の使用には断固、反対しよう！！　―悲観的決定論を受け入れることの危険性について―</title>
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		<issued>2009-02-19T02:48:23+09:00</issued> 
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		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>社会問題</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p>　グノーシス主義のことをもっと知る目的で、映画『マトリックス』を観ていたのだが、筆者はそこで当然すぎるほど当然かつ重要な事柄に、今更のように、改めて気づいた。<br />
　皆さんは、決定論を信じるだろうか。クリスチャンは多かれ少なかれ、皆決定論者であると言えるだろう。なぜなら、クリスチャンは、世界が全体として滅びに向かっていること、終末に向かっていることを信じ、十字架を除いては、人類の未来に希望がないこと、終末には全世界的な巨大な悪の王国が誕生するであろうことなどを、聖書に基づいて信じているからだ。</p>
<p>　しかし時折、この終末論こそが、クリスチャンを悪に対してあまりにも無力にしてしまい、個々人から悪に立ち向かう力を奪ってしまう。そして、クリスチャンでなくとも事情はほとんど変わらない。<br />
　私達は日々、社会の中で、自分の無力を思い知らされながら生きている。幼い頃から経験させられた過酷な受験戦争、学閥による差別、男女差別、若いがゆえに経験する様々な差別、職場での不当な扱い、世間からの不当な扱い&hellip;。<br />
　特別に優遇される一握りの「勝ち組」をのぞいて、一般大衆はいつも自分の無力を思い知らされながら生きている。私達はこの社会の中で、いつもいつも、自分には出来ることが少ないと思い知らされる。そして、その無力感のために、いつの間にか、自分にはどうやっても社会を変えられるはずがないと思い込むようになっている。そのため、この世に悪がはびこっているのを見ても、私達はもはや立ち向かう気持ちさえ起こらず、ただ手をこまねいて冷笑しているだけの傍観者になりがちである。</p>
<p>　だが、そのようであってはいけないのだ。もう一度、自分に平手打ちを加えて、悪に対して立ち向かうよう目を覚まさなければならない。何のために信仰があるのか、思い出さねばならない。筆者は以下の論稿の中で書いた。生きることは変化することだと。言い換えれば、生きているとは、自分をも他人をも含めて、世界にまだ影響を与え、変化させる力が残っているということだ。たとえ自分一人の力がどんなに小さくとも、信仰とは望んでいる事柄を、まだ見ていない事柄を信じる力ではないか。なのに、なぜ私達は、しかも、クリスチャンが、まだ起こっていない事柄、まだ決まっていない事柄について、どこかからか押しつけられた悲観的な予想を無抵抗で、無条件に受け入れなければならない理由があるだろう？</p>
<p>　かつて筆者は以下の記事の中で述べた。イラク戦争を引き起こしたアメリカの国家政策は、次にイラン戦争を引き起こそうと画策している可能性が極めて高いと思われると。また、アメリカ国民に対して、将来、核が使用される可能性があるのではないかと危惧されると。そう書いた当時、筆者はほとんどそれが避けられない未来であると考えていた。<br />
　9.11事件以来、アメリカ国民はあまりにもひどく欺かれているように見える。今でも、筆者の予測では、9.11という偽のテロ事件をアメリカ国民に対して事実であると信じ込ませ、貿易センタービルの中にいた自国民を犠牲にしてまで、イラク戦争を勃発させた悪しき勢力がいるならば、彼らは次なるターゲットとして、イランを狙い定めているだろうことはほぼ間違いない事実であるように感じる。</p>
<p>　そして実際に、学者たちの中からもすでに、イラン戦争が勃発する可能性を指摘する声が上がっている。<br />
　さらに、クリスチャンとして何よりも憂慮すべき最悪な事態として、アメリカのプロテスタントのキリスト教界の中では、イランの国家元首を悪者呼ばわりして、アメリカ国民の心理をイラン戦争へと誘導するような発言がすでに聞かれている。アメリカのクリスチャンたちはそのような「預言者」に誘導されて、イラン戦争が起こるのは時間の問題だと感じているかも知れない。<br />
<br />
　何とかして、次なる戦争を引き起こそうと、世論を誘導しようとする作戦がすでに始まっているという兆候は、随所に見出せるのだ。</p>
<p>　しかし、それに調子を合わせるかのように、筆者はかつての記事の中で、ほとんどあきらめの調子で、この戦争がほぼ避けられないものであるかのように述べた。だが、多くの人命を危険にさらすかも知れない深刻な問題に対して、そのような無責任なあきらめと冷笑的な調子は到底、容認されるべきものではない。そこで、ここでそのような傍観者的姿勢を撤回し、本来、その時、言うべきであったことを改めて述べたい。</p>
<p>　<strong>イランでの戦争はまだ起こっていない。今ならまだ止められる可能性は十分にある。もし私達が真実に気づいて、悪だくみを悪だくみであると見抜き、数え切れない無実の人々に残酷な苦しみをもたらす卑怯な作戦を白日の元にさらし、それにノーを突きつけることができるならば、だ。</strong></p>
<p>　筆者は皆さんに伝えなければいけない。イラク戦争がどんな悲惨をイラク国民にもたらしたか、私達は今日、知っている。大量破壊兵器が開発された第一次世界大戦以後、あらゆる戦争はただ悪となった。今や戦争に正義はない。結婚式の最中に、花嫁花婿さえ無惨に殺されるような戦争を、どうして聖戦であるかのように私達は呼ぶことができようか。<br />
　<br />
　残念なことに、イラク戦争を私達は止めることはできなかった。だが、イラン戦争なら、まだ止められるかも知れない。<br />
　9.11の事件はあのように不意に起こり、私達はその時、それが欺瞞であることを見抜くための心の準備がまるで出来ていなかった。テレビ画面を通して流される悲惨な映像にまんまと騙され、「テロ事件」により亡くなった人々に同情し、そのようなテロを画策した恐るべきグループが本当にあるのだと信じ、そのようなテロを生み出した母体となる国を警戒せねばならないと信じ、その映像が全世界の信じやすい人々を陥れる恐るべき罠であるということを想像するだけの心の準備ができていなかった。</p>
<p>　当時、世論をたくみに利用して戦争を誘導しようとする悪しき作戦を見抜き、来るべき戦争に反対するだけの心の準備ができていなかったために、私達はイラク戦争の勃発に対して全力で立ち向かうことができなかった。その結果、イラクの国土は世界経済の繁栄のために、あのようにめちゃめちゃにされてしまったのだ。</p>
<p>　もし今、再び同じことが起こるのをただ黙って見ているだけなら、筆者も含めて、未来の歴史においては、来るべき戦争に対して黙っていた皆が卑怯者と呼ばれるだろう。<br />
　イランでの戦争に向けて今後どのような形で導火線が引かれるのかまだ分からない。しかしもしも現在、幾人もの人々が予測しているように、イラク戦争と似たような何らかの形で、世界の世論が次なる戦争へ向けて煽り立てられるとするならば、私達は今から、イラン戦争が起こることに断固反対し、イラン戦争を是認するような発言や風潮をことごとく虚偽として退けていかなければならない。</p>
<p>　たとえアメリカに強制収容所が建設されていようと、50万人分の棺桶が用意されていようと、どんな準備がなされていようとも、どこまで邪悪な計画が進んでいようとも、世界で唯一の被爆国として、日本人はアメリカ国民はもとより、世界のどの国民に対しても、核が使用されることに対して、断固反対の意を示さなければならない。<br />
　クロード・イーザリーが被爆によって亡くなったからと言って、アメリカ国民までが同じ道を辿らなければならないということはない。たとえ罪を犯すことによって人が我が身に滅びを招くことがあるとしても、私達は無実のアメリカ国民が、原爆投下というかつてのアメリカの国策の重い責任を取らされることに同意することはできない。<br />
　<br />
　核爆弾は世界のどの国民に対しても使われてはならないものだ。それだけに、アメリカであわよくば核を使用しようとしている何者かがいるかも知れない可能性に、私達は目を開いて、注意しなければならない。核爆弾の爆発を茶の間のテレビから、お茶受け話として放送するような卑劣な作戦に対して、目を開いて、警告を発しなければならない。もちろん、アメリカ国内だけではない。イラク戦争でも劣化ウラン弾を始めとして核兵器が使われた可能性があることが指摘されており、再び戦争が起これば、そこでもやはり核兵器が使われかねない。</p>
<p>　私達は平時であろうと戦時であろうと、核兵器の使用に対して断固反対の意を示し、どこかで核兵器を使用しようという悪しき意図を持って計画を進めている者がいる可能性があるならば、その正体を可能な限り、明るみに出し、そのようなことが将来起こるかも知れない危険性に対して、声を大にして警告を発し、決して、その計画が実現しないように最後までストップをかけ続けねばならない。</p>
<p><strong>　まだ事件は起こっていない。まだ次なる戦争は起こっていない。まだ何も決まってしまったことなどないのだ。たった一人の力では抵抗することが難しい作戦でも、大勢が欺瞞を見破って立ち向かえば、どんな作戦でも失敗に終わる。世界中の人々の心を自在に操り、全世界の人々に無力感を抱かせて、国や社会を思うがままに支配しようとするような人たちが唱える決定論に騙されてはならない。変えられない未来などどこにもないのだ。</strong></p>
<p>　一つ前の記事の中で、筆者は宗教的阿片としてのペンテコステ派ということについて書いた。クリスチャンは今、どうせ起こるはずもない馬鹿げたリバイバル論、人数だけにこだわる教会成長論にうつつを抜かしたり、虚しいイベントのために走り回ったり、あるいは他国の大統領を「気が狂った男」と呼んで、次なる戦争に向けて世論を扇動しようとする者の言い分に浅はかに煽り立てられているようであってはならない。<br />
　クリスチャンは、自分の生活にも郷土にも何の利益ももたらさない虚しい行事と計画を離れて、目を覚まして、今、自分達の目の前で、現実に起こっていることを見なければならない。</p>
<p>　そして、悪を見つけたならば、勇気を持って立ち向かわなければならない。<br />
　クリスチャンの使命とは、決して、自分の卑小な生活の中だけに閉じこもって、自分一人だけ救いを謳歌して、世界中で泣き叫ぶ他人を見殺しにしながら、平和な生活を送ることではないだろう。</p>
<p>　勇気を持って悪に立ち向かおう。そうすれば悪は逃げ去るに違いない。<br />
　筆者はイラク戦争同様、イラン戦争を是認しない。イラン戦争を是認するようなムードへと世論が煽り立てられることそのものを警戒する。<br />
　特に、クリスチャンが戦争を是認するようであっては、キリスト教界の信用もお終いだ。<br />
　そのことをもっと早くに書いておかなかったことについて、筆者に責任がある。<br />
　日本でもアメリカでも、クリスチャンの真の使命は、アメリカの国家政策に安易に同調することではなく、目を覚まして、どのような戦争、どのような殺人行為に対しても断固、反対することだ。</p>
<p>　遅ればせながら、はっきり述べておこう。<strong>筆者はいかなる戦争をも容認しないし、核の使用をも容認しない。<br />
</strong>　従って、次なる戦争や、核の使用を画策している者たちがこの世界にいるだろうことが予想されるので、決してそのような者たちの悪しき計画が実現しないように、今後、機会あるごとに、警戒を呼びかけていくつもりだ。<br />
　筆者自身が何かの政治運動を起こすつもりはないが、ただ、もしここに書いてある内容に同意して下さる方がいるならば、どうか身近な人々に警戒を呼びかけて欲しい、今後、この日本や世界に、浅はかな戦争歓迎の世論が決して形成されることがないように。</p>
<p>　私達は9.11のような恐るべき欺瞞がこれ以上繰り返されることがないように、目を覚ましていなければならない。人殺しを推し進めようとする人たちの安易な計画にやすやすと乗せられたり、でっちあげの事件に、これ以上、浅はかに騙されたりしないように自戒し、そのような可能性に対して目を覚ましていることができるように、自分にも、社会にも警戒を訴えていかねばならない。</p>
<p>　真実、クリスチャンを名乗るつもりならば、誰しも、戦争反対を唱えるべきなのだろう。聖書を一度でも読んだことがある人なら誰でも知っているように、主は「殺すなかれ」と人に命じられたのであり、イエスも、歴代預言者も、弟子たちも、剣を取って敵を滅ぼそうとはせず、むしろ、福音を受け入れなかった世にたとえ憎まれ、殺されても、それでも御心に従順であることを選んだ。<br />
　そこで、私達もそれにならうべきである。神の名を用いた聖戦などは地上に存在しない。なのに、どこかの国のプロテスタントのキリスト教界がもしも戦争を是認する動きの中で「気絶」してしまっているならば、彼らの代わりに、日本のクリスチャンは戦争反対を訴えていかねばならない。</p>
<p>　当然すぎるほど当然のことであるが、<strong>戦争を含め、あらゆる殺人に反対を訴えることは、クリスチャンに与えられた使命の一つなのだ。</strong></p>]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>キリスト教界に持ち込まれるグノーシス主義的異端（２）―ペンテコステ派とネオ・リベラリズム―</title>
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		<issued>2009-02-13T16:03:52+09:00</issued> 
		<modified>2009-02-13T16:03:52+09:00</modified> 
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		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>ニッポンキリスト教</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p><strong>４．宗教的「阿片」としてのペンテコステ派</strong></p>
<p>　前回の記事から引き続き、ル・モンド　ディプロマティークの<a target="_blank" href="http://www.diplo.jp/articles01/0112-4.html">アンドレ・コルタン氏による論説『ペンテコステ派という繁栄の神学』</a>を引用しながら、ペンテコステ派の神学の問題性について説明したい。</p>
<p>　まず、誤解のないように、筆者の立場をきちんと断わっておかねばならない。筆者自身はあくまでクリスチャンの一人でありながらも、ここでペンテコステ派の推進して来た様々な新しいスタイルの神学や宗教行事に疑問を呈する側に立っている。だがそれでも、筆者自身は、聖霊のバプテスマ、異言、預言、神癒が現代のクリスチャンの信仰生活において存在する可能性そのものを否定するつもりはない。今日、イエスの時代に起こった癒しの奇跡などというものは、絶対に起こるはずがないとか、異言などというものは全てたわごとだと決めつける立場には、筆者は立っていない。<br />
<br />
　ペンテコステ派が盛んに求めて来た「聖霊によるバプテスマ」（ペンテコステ派の由来でもある聖霊降臨）の概念はかなり歪められたものとされてしまっていること、特に、あまりにも異言が強調されすぎている点には大きな問題があると感じるものの、それでも筆者は、水による洗礼が存在するように、聖書では「火」にたとえられる聖霊による満たし（聖霊の油注ぎ、あるいは聖霊の油塗り）が確かに存在し、クリスチャンの信仰生活において欠かすことのできない、神から約束された賜物であることを信じている。</p>
<p>　この意味において、コルタン氏と筆者の立場は同じではない。なぜなら、論説を読む限りでは、コルタン氏は異言、預言、神癒の存在を信じていないように見えるし、はっきり書かれているわけではないにせよ、宗教的なものも含めて、あらゆる霊的現象を完全に否定する立場に立っているものと想像されるためである。もしそうであるなら、筆者は奇跡や霊的現象に関して、コルタン氏とは対極の立場に立っていることになる。信仰者として、筆者はあらゆる霊的現象を頭ごなしに否定するつもりはない。</p>
<p>　しかしながら、同時に、霊的現象を完全に否定しはしないものの、今日、神の名を用いながら、本当に神から来たのかどうか分からない、出所不明な怪しげな神秘体験、集団的陶酔状態、精神の錯綜を引き起こすような偽りの宗教行事が多数存在することも確かだと感じる。</p>
<p>　奇跡は、日常的でないからこそ奇跡なのだ。たとえ神が不思議な形で人間の祈りに答え、病を癒されることが現実にあるとしても、日常化された奇跡など、この世に存在するものではない。人間は誰一人として、いつ、どうやって神が働くのかを他人に向かって確実に保障することはできない。従って、ある集会や建物などの中、限定された時空間において、予め奇跡が必ず起こると約束され、人々に向かって予告されることなど、あり得ないのだ。「このクルセードに参加しさえすれば必ず奇跡が起こります」とか、「毎週、私達は水曜日の午後に奇跡の集会を開いています」などと呼びかけられるなら、ほぼ１００％、そのような行事は偽りであり、奇跡の捏造であるから、そんなでっち上げの集会に参加する意味はないと断言して構わないと筆者は思う。</p>
<p>　とにかく、神秘体験をやたら誇張して、信者を集めようとするような傾向のある宗教行事は全て、目的がどこにあるのか疑ってみる必要がある。奇跡が真実であるか、虚偽であるかにこだわる以上に、「この集会の真の目的は何なのか」ということをクリスチャンは考えた方が良いと思う。<br />
　聖書において、イエスは奇跡を行いはしたものの、奇跡に対する群集の反応（熱狂）には非常にシビアで慎重な態度を取られた。イエスは、ご自分が行われた奇跡のことを決して人に話してはならないと弟子に命じられたこともあるし、奇跡ゆえに、群集がイエスを信じてぞろぞろ着いて来ることを快く思われなかった。<br />
<br />
　珍しいもの見たさに集まって来る群衆の心理を、イエスは決して、確かな信仰心であるとはみなさなかった。そして事実、移ろいやすい心を持った群集は、自分達に都合の良い奇跡を行ってくれた時にだけイエスを信じ、イエスが政治的に不利な立場に置かれたと分かった時には、権力者による扇動にあっけなく乗せられて、すぐにイエス反対に回り、十字架を要求したのである。</p>
<p>　クリスチャンに与えられた仕事は、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを刺激してくれる真新しい魅力的な宗教行事に安易に飛びつくことではなく、特に、奇跡やその他の霊的現象を売り物にして人々の好奇心を刺激するような行事に踊らされることではなく、その出所をしっかり吟味し、目的がどこにあり、大衆をどこへ導くものであるのかをよくよく確かめ、見極めることであると思う。</p>
<p>　そうした意味で、コルタン氏が述べている、ペンテコステ派は「新たな『人民の阿片』だろうか」という疑問に、私達は慎重に耳を傾けなければならない。氏は述べている。<br />
　「『神癒』を信じてやまない信者たちは、（保健衛生面も含めて）あらゆる面で打ち棄てられた場所で新たな文化を編み出している。知的エリート層がそう認めないにせよ、大衆の文化と呼んでよいだろう。とはいえ、これは抵抗の文化である。そして同時に、はからずも支配的イデオロギーを再生産する文化である。その意味では、ペンテコステ派は人民の阿片であると言えるだろう。ここで再び、マルクスがこの言葉を発した文脈を思い起こす必要がある。それは、感動なき世界における感動である。 」</p>
<p>　国の福祉制度から見捨てられ、病気になっても、お金がないために、病院でまともな治療さえ受けられない貧しい人々が、最後の頼みの綱として、「神癒」の可能性によりすがるのは至極当然である。その意味で、社会福祉制度からこぼれ落ちた人々にとって、ペンテコステ運動は、生きるための最後の抵抗運動であるとさえ言えよう。しかし、同時に、このような抵抗が、貧しい人々の真の救いにつながることはほとんどないと、知識人は考えている。<br />
　第三世界のクリスチャンが、奇跡を求める大会に日夜、時間を忘れて没頭し、神を求めて叫び、誰にも理解できない異言の祈りに明け暮れ、完全に日常生活から乖離して、痙攣状態に陥ったり、地に倒れ伏したり、七転八倒しながら、集団的熱狂、陶酔状態に陥っているのを見て、このような状態に大衆を陥れるペンテコステ運動を異常だとみなす知識人は多い。<br />
　コルタン氏も論説の中で、キンシャサ・カトリック大学学長のムウェゼ教授の次の発言を取り上げている、「もし厳しい措置をとらずに10年も放置すれば、コンゴという国は堕落した人間、あるいは精神を病んだ人間の集まりになってしまうだろう」。</p>
<p>　一部の冷静な知識人から見れば、ペンテコステ派の熱狂的な宗教行事に参加している人々は、「精神を病んだ人間の集まり」でしかない。つまり、貧しい人々は救いにあずかっているのではなく、何かしら精神を異常状態に陥れる「阿片」に酔いしれているだけだというのだ。</p>
<p>　ところで、「宗教は阿片である」というマルクスの有名な言葉は、ソビエト政権による無理解な宗教弾圧のためもあって、今日、かなり誤解されて解釈されている節があるため、ここで改めてこの言葉の意味を振り返っておきたい。<br />
　<a target="_blank" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3">ウィキペディアの説明</a>を借りれば、「宗教は阿片である」との言葉は、カール・マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』において述べた、次の文章が基礎となっている。<br />
　「宗教は逆境に悩める者の嘆息であり、また、それが魂なき状態の心情であると等しく、無情の世界の感情である。つまり、それは民衆のアヘンである。」<br />
　マルクスがこのような文章を書くヒントとなったのは、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあったハインリッヒ・ハイネによる著作『ルートヴィヒ・ベルネ』（1840年）における「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的なアヘンである」という一節であると考えられている。</p>
<p>　この「宗教は阿片である」というマルクスの言葉の真意はどこにあったのだろうか。なぜ、レーニンなどのソビエトのマルクス主義者はこのマルクスの言葉を基にして、宗教を敵視する政策を取ったのだろうか。<br />
　その答えは、マルクス主義者たちの目から見れば、あらゆる宗教には、民衆に現実の問題を忘れさせてしまい、民衆に不平等な現実からの逃避の場を与え、死後の世界を夢見ることによって、現実に立ち向かう力を奪ってしまうという効果があった点にある。<br />
　マルクス主義者の観点に立てば、虐げられている人々が不当な搾取に気づいて立ち上がることこそが、社会における経済格差の問題を解決し、搾取のない、公平な社会を築くための決め手になるはずであった。ところが、革命の担い手となるはずの虐げられている貧しい人々が、宗教にうつつを抜かしている間は、彼らは永久に、自分達を苦しめている根源的な問題が、社会の経済的格差にあることに気づかなくなる。この世は不公平で不完全なものであるというあきらめ観や、逃避的な宗教行事や、死後の世界における救いに没頭することによって、民衆は自分達が置かれている現実の不平等や貧しさ、苦しみから目を逸らし、自分達を苦しめている真の敵が誰なのかを忘れてしまう側面があるということに、マルクス主義者は危険を感じていた。</p>
<p>　このような見方はある程度、的を射ていると言える。だが、ソビエト連邦崩壊後の今日、私達は、社会主義革命を通して人類の平等な幸福社会が実現できると考えたマルクス主義そのものもまた、他の宗教とほとんど変わらない、一種の「阿片」剤としての効果を持っていたという事実を見ている。<br />
　社会主義国におけるマインドコントロール的な思想教育によって、自分達の国に、近い将来、共産主義ユートピアが到来すると、多くのソビエト国民が心から信じていたからこそ、彼らは極貧の生活を強いられても、なおそれをかいがいしく耐え抜き、ソビエト体制の不合理さに気づくチャンスを失ったのだ。共産主義ユートピアへの信仰が「阿片」となったために、スターリン体制以後、ソビエト体制はノーメンクラトゥーラと呼ばれる官僚が不当に利益をむさぼりながら国を牛耳って、民衆を搾取する不平等な社会となっていたにも関わらず、国民は政治の腐敗に気づかなくなり、その分だけ、体制の崩壊は遅れたのである。<br />
<br />
　もしも、マルクス主義理論に基づいて、社会主義国は将来に共産主義ユートピアを生み出す母体となるという信仰が社会主義国の民衆に行き渡っていなければ、このような不公平な体制に人々が黙って我慢するはずもなく、ソ連邦はもっと早くに国民に見限られて崩壊していただろう。（もちろん、ソビエト権力による過酷な政治的弾圧が、このような事実をたとえ国民が発見しても決して口にできないように、人々を追いつめたことは確かであるが、同時に、心から国の未来を信じるがゆえに、体制の誤りを発見できなくなった人たちがたくさんいたことも確かである。）</p>
<p>　さて、アンドレ・コルタン氏が述べているのは、グローバル資本主義の進める世界的な競争、市場原理主義がかたや貧しい人々をさらなる貧しさの中に追いつめているというのに、肝心の貧しい人々は、ペンテコステ派という「阿片」に酔いしれているがゆえに、社会の不平等にますます気づかなくなっている、その意味において、ペンテコステ派は、貧しい人々を市場の要求に適応させようとする「米国帝国主義だけでなく勝ち誇るネオ・リベラリズムの『霊的部門』」として、市場原理主義のお先棒をかつぎ、世界銀行の望んでいる事柄を着実に実現するための、民衆への投薬となっているということである。</p>
<p>　もっとはっきり言ってしまおう。かつて大英帝国が中国を弱体化させて支配する目的で、阿片を用いて中国の民衆の意識を堕落させ、中国経済を破壊したように、今、ペンテコステ派という「阿片」を積極的に世界中の一般大衆に配り歩くことにより、誰にも気づかれないようにこっそりと、大衆の意識を真に重要な問題から逸らせて、神の名を冠した無意味な行事に没頭させることにより、大衆を弱体化し、より支配しやすくしている勢力があるのではないかということが、この論説では示唆されているのである。<br />
<br />
　熱狂的な宗教行事は、大衆の目を彼らにとって真に重要な問題から逸らさせるための、意図的な意識のかく乱なのではないか。すでに社会の落ちこぼれ組、負け組となりつつある人々に、自分達が罠に陥れられていること、抜け出せない絶望に徐々に絡め取られていっているという事実に、決して最後まで気づかせないようにするための意図的な意識操作として、ペンテコステ派があるのではないか。</p>
<p>　本当は、ペンテコステ派だけでなく、自己啓発セミナー、創価学会、統一教会など、カルトの疑いがあるあらゆる宗教や教えがこの文脈に含まれるかも知れない。だが、今、この記事の中では、ペンテコステ派だけに的を絞って言及しよう。<br />
　ペンテコステ派の活動は、何者かによって意図的に作り出された現実逃避運動であり、世界的な支配をもくろむ人たちの悪しき意図に、人々が決して気づかないようにするための意識のかく乱であり、あらゆる国の国民にこっそりと気を失わせて、各国を弱体化させるために配布されている「阿片」である危険性があるというのだ。<br />
<br />
　それだからこそ、何年経っても、ペンテコステ運動は、掲げている美しいスローガンとは裏腹に、何ら有効な結果を人々にもたらさず、むしろ影響を受けた人々に対して、ただ精神病理的な効果を増し加えて行っているだけなのではないだろうか？　掲げている目的にかなった美しい教会を生み出さず、むしろ、スキャンダルにまみれたカルト化教会を多数、生み出して行っているのは、そのためなのではないか？　<br />
<br />
　&hellip;要するに、コルタン氏の論文は我々にそういうことを示唆しているのである。</p>]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>キリスト教界に持ち込まれるグノーシス主義的異端（１）―ペンテコステ派とネオ・リベラリズム―</title>
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		<issued>2009-02-11T22:56:29+09:00</issued> 
		<modified>2009-02-11T22:56:29+09:00</modified> 
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		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>ニッポンキリスト教</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p><strong>１．教界のカルト化問題はアメリカ発の教会成長プログラムと密接な関係がある</strong></p>
<p>教会のカルト化問題を考察しているうちに、筆者は日本の教会のカルト化という現象が、特にペンテコステ派、聖霊派の各教会に導入されたアメリカ発の最新の教会運営プログラムの失敗と切り離すことができない問題であることを痛感させられました。<br />
一言で言えば、アメリカから随時、もたらされる新しい教会運営の流行のプログラムが、日本の教会に導入されるや、必ずと言っていいほど、何らかの問題を引き起こし、中には組織崩壊にまで至る教会が現れているのです。</p>
<p>従って、日本の教会のカルト化現象は、アメリカ発のペンテコステ派の新しい教会運営プログラムの理念と方法論における問題性を検証することなしには、決して解明できない問題であると、現時点で、筆者は考えています。教会のカルト化は、教界の最新流行のプログラムの弊害が教会にもたらした末期症状であり、その他にも、初期症状から始まって、中間段階の症状がいくつもあることが予想されるのです。</p>
<p>聖霊によるリバイバル、カウンセリング、個人預言、セル・チャーチ、弟子訓練、トランスフォーメーション等、米国のキリスト教界を出発点とする新しい運動は、今日でも随時、日本の教会にもたらされ続けています。それらのプログラムの問題性について、表面的に言及している日本のサイトはいくつかありますし、鋭い直観によって、これらのプログラムを警戒すべきだとする立場に立っている牧師たちも存在しますが、しかし、専門家の観点から、聖職者自身が、以上のようなプログラムの危険性について、詳細な分析に基づいて十分に指摘している書物を見つけることは困難であるように思います。<br />
<br />
しかし、日本に導入されたプログラムが各教会で次々と問題を起こしている以上、この問題に対して早急な対応が求められます。現在、不祥事の話題でもちきりとなっているビュン牧師も推し進めていた「トランスフォーメーション」の行く末も非常に気になり、深刻な問題に陥らないうちに、警告を発することが必要であると筆者は考えます。<br />
そこで、今回から何回かに分けて、ペンテコステ派が提唱してきたそれぞれの新しいプログラムの問題性を指摘したいと思っています。</p>
<p>筆者は神学に関する知識がないため、本来、この話題に深入りするための資格を十分に持っているとは言えません。けれども、同時に、教界自らが、この問題について鋭い切込みを行わない限り、問題は放置されたまま残り、さらに悲惨な末路を辿る教会が現れるという危惧も去らず、それをただ看過することはできません。そこで筆者のブログでは、警告を発することしかできず、十分な検証は、追って、牧師たち、神学の専門家によって行われる必要があることをお断りしつつ、皆様に記事を読んでいただきたいと思います。</p>
<p><br />
<strong>２．ペンテコステ派の巨大イベントには真の信仰を見失わせる危険性がある。</strong><br />
<br />
幸か不幸か、聖霊派に属していた十数年間に、筆者はこの業界に現れた典型的な流行現象をいくつも間近で見聞きする機会に恵まれた。</p>
<p>1993年に開かれた、かの有名な全日本リバイバル甲子園ミッションの際、関西にいてアッセンブリーに属していた筆者は、当然のごとく大会に参加していた。何一つ、疑うこともなく、チケットを知人に配り歩くことさえしていた。</p>
<p>今でも覚えているが、この大会が開かれた時、「きっとキリスト教界に何かが起きる！」という熱い期待感や興奮がクリスチャンの間にあった。とにかく超教派的行事としては未曾有の規模の最初の大会だったのだから。大会では、聖霊派と福音派の対立があったことについて涙ながらに謝罪し、悔悟する牧師も現れ、「これからはキリスト教界内での争いをなくし、牧師同士が対立するのをやめ、各教会が提携して、日本のリバイバルのために団結しよう」という約束事がこの大会前後に何度も聞かれた。</p>
<p>1993年当時、多くのクリスチャンはこのような統一された行事がどこへ信徒を導くのかまだ分かっていなかった。概して、かつてない一致団結がキリスト教界に現れたことを単純に喜び、歓迎するだけだった。信徒が増えず、キリスト教界に変化が見られないことに、多くのクリスチャンが飽き飽きしていたことも手伝って、何か新しい刺激的な行事が、興奮が、熱狂が、現れて欲しいという期待がこの新しい行事に一心にこめられたのだった。<br />
<br />
しかし、甲子園ミッションが掲げていた美しい理想の究極の到達点であるはずの「日本のリバイバル」が、何年間経っても、影も形も見えなかったことで、クリスチャンは失望に陥った。そしてリバイバル・ミッションという行事そのものが、一体何だったのだろうかということを、否応なく、多くの人が考えざるを得なくなった。それが、特にペンテコステに関わりのあった大勢のクリスチャンたちが、真の信仰とは何なのかを自らの頭で考え始めたスタートだったように筆者は思う。</p>
<p>期待していたリバイバルが起こらないという失意の中で、聖霊派の信徒のモチベーションをそれでも支え続けたのは、聖霊によるバプテスマや奇跡を盛んに強調する教えだった。「聖霊の力をこれまで軽視しすぎたために、今日の教会は力を失ってしまったのだ」という考えがそこにあった。<br />
そこで、大勢のクリスチャンが聖霊に頼ることを学ぶことによって、閉塞感（信仰生活の盛り上がりのなさ）を打破できると考えた。覚えているが、アッセンブリーの中で、ベニー・ヒンの大会や著書は当時、さかんに宣伝されていた。ベニー・ヒン著『聖霊様、おはようございます』を始めとして、カルロス・アナコンディア、クラウディオ・フレーソン、ピーター・ワグナー、チョー＝ヨンギ、デーブ・デュエルなどの、この系統に属する聖霊による奇跡やリバイバルを強調する本は、聖会などがある度に、受付などで販売され、筆者もそれを何冊か買って読み、実際に、それらの宣教師が何をしているのかを知ろうと、宣教師たちの開く大会にも参加した。</p>
<p>その頃、「宣教師の開いた大会で人が倒れるとか、奇跡が起きるなんて、あり得ない！　そんなのやらせに決まってる！危険だ！」と主張し、はなから奇跡の存在を受けつけない福音派の信徒も大勢いることを知った。しかし、筆者が自分の目で確かめたところでは、確かに、それらの宣教師の周りでは、やらせではない「何らかの力」が働いていたようだった。奇跡など信じているとも思えない筆者の知人が、参加した大会で地にひっくり返されてしまうという出来事も目の前で起こった。<br />
<br />
現在では、一部の宣教師によって、偽りの奇跡が行われていたことが立証されている。確かに、虚偽の奇跡がたくさんあったことは考えられる。だが、それでも、筆者自身は、その「力」自体が全て偽りであったとは思っていない。中には確かに存在した「奇跡」があるだろうと予想している。ただ、その魔法のような「奇跡」や「力」が、一体、どこから来たものなのか、それを検証し、吟味することこそが、私達に当時、突きつけられていた主要な課題だったのだが&hellip;。</p>
<p>キリスト教図書を販売している書店では、今日でもたくさん見られる、デイビッド・ウィルカーソン、チャック・ピアス、リック・ジョイナーなどの未来預言的な本にも、筆者は目を通した。ニール・アンダーソンの書いたカウンセリングに関する本も、かなり同意できない内容があるため、首をかしげながらではあったが、読んだ。</p>
<p>当時の筆者の一番のお気に入りは、マーリン・キャロザーズの『獄中からの賛美』だった（原題は&quot;Prison to praise&quot;であり、本来は『賛美のとりこ』と訳すのが望ましいと思われる）。デイビッド・ウィルカーソンの『十字架と飛び出しナイフ』は、推理小説のように面白く読めたし、「テレビは悪魔のブラックボックス」と訴えているウィルカーソンの著書を読んだ時は、筆者自身もそれに同意して、ある雨の日の晩、テレビのためにあまりにも人生の多くの時間を無駄に費やしすぎたことを神の前に悔いつつ、まだ営業している店をあちこち探し回って、山のようにたまった自宅のテレビゲームを売り払うことさえもした。（家族から文句が来なかったのが幸いだった&hellip;。）</p>
<p>これらの本はその頃、いずれも、一見、聖書的な内容に基づいたもののように筆者には見えた。本の内容は、今日的な教会の閉鎖性に警鐘を鳴らし、牧者優先の教会運営を改め、力のないこれまでの伝道のあり方を真摯に反省しているように見え、さらに、わくわくするようなスリリングな筋書きがそこにあった。</p>
<p>だが、そのような教えを素直に信じて実行に移し、自分の信仰生活と社会生活にも何かぱっとした展望が開けて欲しいと願った筆者の信仰の「青春の時代」が過ぎ、やがて正しい教会だと思った場所で、カルト化教会の問題に巻き込まれ、牧者の堕落を見、何が正義なのかさっぱり分からないという魂の暗闇を経た後、これら上記の教えそのものを改めて振り返ってみると、そこには、大いに疑い、検証してみる必要のある、怪しげな内容が含まれていたことにようやく気づくことができた。</p>
<p>わくわくするような筋書き、神秘体験、閉塞的な信仰生活に新しい展望を与えてくれそうな魅力的な計画&hellip;、そんなものにすぐさま飛びつくのでは、ニューエイジの運動、自己啓発セミナーに突き動かされる心理と何ら変わらない。<br />
感情を排して、冷静に事実を振り返ってみた時、実際には、聖霊派が飛びついてきた様々なプロジェクトには、神の名を用いながらも、実際には、ニューエイジ的、オカルト的な神秘体験やら、ネズミ講に見られるような大衆扇動、自己啓発セミナーに見られるようなマインドコントロールを推進しているプロジェクトがいくつもあったことに気づかざるを得ない。</p>
<p>そしてそれらの「騒がしい背教」の対極には、「静かな背教」が広がっていた。神秘体験を強調しないなら、では、それこそが正しい教えなのかと言えば、そうとばかりは言えない危険があった。カトリックの聖職者たちの大規模な腐敗はアメリカではあまりにも有名になっているし、日本の福音派と呼ばれる教会の中でも、筆者が遭遇したように、不祥事は多々起こっている。<br />
この記事の中では主に「騒がしい背教」としてのペンテコステ派の新しい教えの問題性を取り上げるつもりだが、聖霊派だけが疑問視されるべきではなく、全ての教えを疑ってみる必要があるだろう。教会内の不祥事を生み出す背景には、必ず、誤った教えがあり、誤ったプロジェクトや、歪んだ教会運営のあり方があることは間違いない。従って、キリスト教界全体で、不祥事が大きな広がりを見せていることは否定できない事実である以上、誤った教えがかなり根深く浸透していると感じざるを得ない。</p>
<p>「プロテスタントも腐敗して駄目、カトリックも駄目なら、ロシア正教に救いを求めれば良いのではないか」、と考える人がいるかも知れない。しかし、そのような安易な考え方もまたあまりお勧めできない。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する修道僧のアリョーシャ・カラマーゾフが今も輝きを放っているため、今日、ロシア正教は日本人にとってエキゾチズムの対象という意味も込めて、親しまれており、警戒されていない。<br />
しかし、日本人の多くが知らないだけで、ロシア正教にも歴史を振り返るなら、すさまじい異端迫害があった（たとえば古儀式派への厳しい弾圧）。さらに、恒常化したカトリックとの争い、そして「モスクワは第三のローマである」（＝かいつまんで言えば、世界で唯一正しい宗教はロシア正教のみであるとする主張）などの怪しげな教えが存在した時代があり、帝政時代に政治的権力と結びついたロシア正教の宗教権力がどれほど傲慢な教えで人々を圧迫していたかは、L.トルストイなどの『アンナ・カレーニナ』などを読めば分かる。<br />
<br />
ソビエト政権の弾圧を経て、今日、ロシア正教が甦ったことに希望を託そうとするクリスチャンもいるが、迫害の歴史があったからと言って、その宗教を美化し、その宗教こそが正しいと考える十分な裏づけにはならない。プーチン政権（プーチンは陰に一歩退きはしたものの、事実上プーチン政権が続行している）は今、ロシア正教を擁護することにより、国民の心を掌握し、中央集権国家を築く基礎の一つとしようとしている。だが、一つの宗教が政権に利用される時、そこには様々な問題が生じてくることは確かだ。</p>
<p>どのキリスト教の宗教勢力を見ても、結局、何らかの宗教宗派という「イレモノ、ハコモノ」だけによりすがって、どこかに所属することに正しさを見つけようとするような安易な考え方では駄目なのだ、という結論が出る。どの宗教、どの宗派に属しているかが問題なのではなく、本当は、ただ、キリストと直結しているかどうか、それこそが、クリスチャンの信仰的生死を分ける問題なのだと言えよう。<br />
そういう意味で、筆者は特定の教団教派を名指しで危険視することはできる限り、したくないと思っている。<br />
<br />
けれど、同時に、間違った方法論、間違った教えを推し進める団体に所属すれば、真に重要なことが何も見えなくなり、信仰そのものさえ失いかねないことは確かだ。<br />
聖霊派においては、巨大なプロジェクトの推進によって、信仰成長がはかられるかのような誤った考えが盛んに吹聴されて来た。それは真の信仰とは何かをクリスチャンに考えさせる上で、大きな障害となった。人間集団が唱えるプロジェクトの内容如何は、個人の信仰を強める保障にはならない。それどころか、集団的なプロジェクトは個人の信仰の成長を奪ってしまう危険性が大いにある。巨大なプロジェクトを推進し、集団的行事だけを見つめるようになれば、個人は信仰の領域においては、ただ神にのみ目を向けなければならないということを忘れ去り、信仰の成長のための時間さえプロジェクトに奪われてしまう危険がある。だが、その危険性はペンテコステ派の内側にいる人々にはほとんどかえりみられることがなかった。</p>
<p><strong><br />
３．繁栄の神学の本当の狙いはネオ・リベラリズムに即した人間を作ることにあるのではないかという主張。ペンテコステ派の掲げる大志と自己啓発セミナーにおける思考変革の類似性</strong><br />
<br />
『ヤベツの祈り』などに今日、見られる「繁栄の神学」を推し進めるペンテコステ派の教えの危険性について、<a target="_blank" href="http://www.diplo.jp/articles01/0112-4.html">『ル・モンド・ディプロマティーク』の電子版2001年12月号</a>において、アンドレ・コルタン氏の興味深い論稿『ペンテコステ派という繁栄の神学』を見ることができる。</p>
<p>筆者は、ここで政治学者コルタン氏が述べている主張を簡潔にとらえ直しながら、今日のペンテコステ派の問題を考察することを試みたい。<br />
アンドレ・コルタン氏はラテンアメリカ諸国でのペンテコステ派の浸透を例に挙げながら、ペンテコステの神学と礼拝スタイルの問題点について分析を進める。<br />
<br />
まず、ペンテコステ派とは何かということから説明すれば、この一派はプロテスタントをルーツとして20世紀初頭に生まれたものであり、1980年代から世界中で本格的な広がりを見せ始めた。ペンテコステ運動の広がりは、ピーター・ワグナーが1980-90年代に推し進めた「聖霊による第三の波」とも密接な関連があるだろう。ペンテコステ派の教義上の特徴としては、新約聖書の使徒行伝に書かれているような聖霊の賜物、異言、癒し、預言、悪霊追い出しの祈りといったものが現実に存在すると信じて、実行に移していることが挙げられる。</p>
<p>コルタン氏はペンテコステを「覚醒運動」という言葉で表現する。つまり、今日でもそうだが、カトリックや福音派と呼ばれる多くの信徒にとって、長年、新約の時代にイエスや使徒が行った奇跡は、クリスチャンにとっては単なる昔話であり、現代の時代にそぐわない、非現実的な記述のようにしか思われなかった。（多くのクリスチャンは今でも、奇跡が現代に起こるとは信じていない。）</p>
<p>ところが、ペンテコステ派の人々は、聖書に書かれている預言者らの奇跡や、イエスが行ったような一連の奇跡は「現代にも起こりうる」という「事実に目ざめた」。この意味で、ペンテコステは「覚醒運動」であり、あるいは「初代教会への回帰運動」、「原初回帰運動」と名づけることもできるだろう。とにかく、これはペンテコステ派の人々による聖書の再解釈の試みであり、忘れられていた事柄を発見して掘り起こし、その事実に「目ざめる」ことによって、信仰生活や人生そのものを劇的に変えられるという信念に基づいた運動であった。</p>
<p>このような新しいスタイルの神学は、長い間、伝統的なキリスト教からは新興宗教とみなされ、カトリックからは特に危険視されて来た。だが、1980年代を過ぎて、世界中にペンテコステ派は現実に流行拡大して行った。その裏に、アメリカ国家による財政的、あるいは政策的後押しがあったという確かな証拠はないものの、それでも、世界のペンテコステ派における礼拝スタイルが、必ず、アメリカのペンテコステ派の礼拝スタイルと一致するという点が注目に値する。<br />
<br />
コルタン氏は述べている、ペンテコステ派が広がりを見せたラテンアメリカの国々で観察されるのは、「信仰スタイルと教義が米国モデルとまったく同様であることだ。アフリカやラテンアメリカの隅々で、これら諸派は大規模な十字軍（いわゆる&quot;クルセード&quot;のこと、筆者注）となってスタジアムで集会を開き、膨大な数の信者や見物人を引き寄せる。『神癒』を見せるテレビ番組が時には24時間体制で流されて、大衆に浸透していく。米国でベストセラーになった宗教本の翻訳は、どんな小さな村でも福音派の書店で手に入れることができる。これらの活動はどれもジミー・スワガート、パット・ロバートソン、ケネス・コープランド、ラインハルト・ボンケ、チョー・ヨンギといった著名なテレビ宣教師の名前と結び付いている。」</p>
<p>もちろん、このようなアメリカ型のペンテコステ派の礼拝スタイルが、ラテンアメリカだけでなく、日本や韓国の教会でも見られることに私達は簡単に同意できるだろう。アメリカ型のペンテコステ派の礼拝、そしてペンテコステ派の教義は書物の形でアジア及び、アフリカ、旧ソ連諸国にも広がりを見せており、今や世界中に伝播しつつある。</p>
<p>教義的な面でも、世界のペンテコステはアメリカのペンテコステ派をルーツとしているとコルタン氏は言う。「神は貧困を喜ばない（豊かになることは罪ではない）とする繁栄の神学」や、「我々の心身や国から悪魔を追い払わなくてはいけないという解放と霊の戦いの神学」、「キリスト教シオニズム」などは全てアメリカを出発点として生まれたものであると氏は述べている。</p>
<p>これらのアメリカ発の新しいペンテコステ的神学は、聖書における「世界宣教命令」を根拠にしながら、全世界のクリスチャンの心を制覇し、同じ信仰に目覚めさせることを公然と目的に掲げる一大運動となっている。フラー神学校で教鞭を執っていたピーター・ワグナーが唱えた「聖霊による第三の波」は、世界中のキリスト教界を覆う新しい霊的運動として提唱された。また、『ヤベツの祈り』を著したブルース・ウィルキンソン博士は、次の<a target="_blank" href="http://www.wlpm.or.jp/pub/wilkinson/wilkinson.htm">プロフィール</a>によると、2001年にグローバル・ビジョン・リソーシズという団体を創設し、ビデオや教材を製作し、世界中の小売店、学校、宣教団体に非営利目的で配布している。「〔神の思いを〕米国にとどまらず世界中のすべての国に、ビデオやテレビやフィルムなどのメディアをとおして届けることが私の目標です」と、氏は世界中にこの繁栄の神学を伝播させることが目標であるとはっきり述べている。</p>
<p>このように世界中のクリスチャンの思考改革に多大な影響力を行使することを公然と目的に掲げて運動しているペンテコステ的な新しい神学が、確かに世界的な広がりを見せているその理由として、コルタン氏は、貧困や病にあえぐ人々の多いラテンアメリカ諸国において、見捨てられた社会の最下層の人々の目に、政治経済は全く希望がないように見える一方、ペンテコステ派の新しい宗教生活のスタイルは、毎日の閉塞的で貧しい生活からの魅力的な逃避の場を人々に与えているという要素があることを指摘している。<br />
奇跡や繁栄を手っ取り早く約束してくれるペンテコステ派の宗教行事は、出口の見えない生活を送る貧しい人々に心のはけ口を与え、希望を与えるため、流行しているというのだ。<br />
<br />
そうした意味で、「ペンテコステ派こそ第三世界におけるキリスト教の未来なのではないか」と考える神学者さえいるほどに、ペンテコステ派は比較的貧しい一般大衆に「受けている」現状がある。アフリカやラテンアメリカでは、改宗者があとを絶たないという。それはペンテコステ派の教義やスタイルが、「大衆の文化を反映している」からだと氏は言うのである。</p>
<p>さらに、ペンテコステ派の拡大には、ただ教義やスタイルが大衆の好みに合致しているという背景があるだけではなく、市場原理主義、ネオ・リベラリズムの政策と合致するという側面もあることを、コルタン氏は憂慮しながら、次のように述べている。<br />
「従来のペンテコステ派や『ネオ・ペンテコステ派』と呼ばれる新しいペンテコステ派、それに同種の教会は、『貧しい人々』を市場の要求に適応させようとしている点において、米国帝国主義だけでなく勝ち誇るネオ・リベラリズムの『霊的部門』となっているのだろうか。集団としての労働者階級ではなく個々人（一般的には貧しい人々）に向け、世界的な布教の成功を告げる『語りの装置』を通じて、これらの宗派はまぎれもなく構造調整プログラムの衝撃を和らげる働きをしている。改宗者に与えられるのは、まさに世界銀行が望んでいるもの、つまり女性と男性へのエンパワーメント（権限付与）であり、自己を信じ、逆境を乗り越えることができると信じる力である。こうして社会から排除された人々が、押し潰されることはない、『再起』しなければいけないと感じるようになるのだ。」</p>
<p>経済学に明るくない筆者には、上記の難解な文章を説明するにあたって、経済学用語を排した、文系的な説明しか用いることができないが、ここでコルタン氏が述べていることを分かりやすくもう一度、噛み砕いてみよう。まず、コルタン氏の言う「勝ち誇るネオ・リベラリズム」とは何なのか。ウィキベディアの説明によれば、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9">新自由主義（ネオ・リベラリズム）</a>とはおよそ次のようなものである。<br />
<br />
「新自由主義の政府は、新古典派経済学の経済モデルを無謬の規範ととらえる市場原理主義に基づき、構造改革（structural adjustment)の政策を実行し、それにより整えられた舞台の上で、経済主体を自由に競争させようとする。＜中略＞すべての個人が整えられた舞台の上で競争しうる原理的な市場主体となるよう、現実の人間を、利己的かつ合理的に行動して自己利益の極大化を図り、自己責任を受け入れる原子的個人に作りかえられようとする。これにより各人は、新古典派経済学が前提する人間類型を受容することが求められるようになる。」</p>
<p>こんな説明では、より分からなくなったという人がいるかも知れない。つまり、平たく言えば、各国が推し進める構造改革により、規制緩和を促進し、一国の自国の産業保護のための規制の枠組みを極力取り払った上で、世界的規模での自由競争をより可能な状態とすることを目標に掲げているのが市場原理主義である（それが世界中で人々を残酷に「勝ち組」と「負け組」にふるいわけ、「負け組」の人生を貧しいものとする、不幸な経済の仕組みであり、果てしなくもうけたいだけの人々の陰謀だという考え方は前々から指摘されている）。<br />
この市場原理主義の掲げる厳しい世界競争に見合うよう、過酷な競争に対応できる強力な精神を持つ社会の成員、つまり、「強い個人」を意図的に作り出そうとする理念的試みが新自由主義であるととらえることができる。</p>
<p>世界規模で厳しい経済競争を推し進めていくためには、個人がよほど強くなければならない。なぜなら、競争が激化すればするほど、その衝突の過酷さに参ってしまい、精神的に、そして経済的に落ちこぼれる人々が多くなるのは当然の結果だからだ。だが、公共事業やサービスを縮小し、福祉にかける財政を切りつめ、小さな政府を作ろうとする市場原理主義の考え方から見れば、経済競争から落ちこぼれた「弱者」が増え続けることは好ましくない。なぜなら、政府が保護しなければならない「落ちこぼれ」が増えると、政府の重荷が増え、それだけ競争が妨げられるからだ。<br />
<br />
公共の福祉をできるだけ切り詰めたい人々にあっては、現在の引きこもりやニート、自殺者のような、競争からはじき出された「負け組」の数をできるだけ減らすことがグローバル競争を実行して行く上で不可欠な条件となる。「負け組」が多くなればなるほど、競争はやりにくくなっていく。大体、参加者の圧倒的多数が負け組となるような競争には誰も参加したくないと初めから思うだろう。自分が得られる利益が元々少ないと分かれば、人々は闘う意欲を失い、世界競争は人々に見向きもされなくなる。</p>
<p>そこで、市場原理主義を推進する人々は、そのような事態を避けるために、とても正常とは思えない考え方を打ち出した。それが上記の説明に見られるような<strong>「（社会が）個人から得られる利益（労働生産性）を極大化する」</strong>という考え方である。「競争に耐えうる強い個人」を養成することにより、できるだけ競争から脱落する人を減らし、落ちこぼれ組を減らし、万人の万人に対する闘争から来る衝突を緩和して、果てしなく世界競争を推し進めようというのである。</p>
<p>もう一度上記の文章を引用してみよう。<br />
「<strong>すべての個人が整えられた舞台の上で競争しうる原理的な市場主体となるよう、現実の人間を、利己的かつ合理的に行動して自己利益の極大化を図り、自己責任を受け入れる原子的個人に作りかえられようとする。</strong>」</p>
<p>&hellip;これは恐ろしい人間改造、思想改造の試みである。この文章が述べている新自由主義の目的は、世界を経済戦争の中に没入させ、一人ひとりの個人を経済的にいつまでも戦うことができる強力な戦士に変えてしまうことにある。どこまでも自分の利益を求めて人と争うことに耐えられる、強く、しぶとく、がめつい精神と、決して夢をあきらめない図太さ、利己主義を持った人間を理想的な「経済戦士」として育て上げ、そのような個人が、自らの強い生存本能と、無限の欲望に基づいて、他者と永遠の競争を繰り広げるような「戦場」を社会の理想とし、あまつさえ、その強い個人は、負けた時にはあっさりと「自己責任」を認めて引き下がれるような人間でなくてはならないと言っているのである。</p>
<p>もっと粗野な表現で言い換えるならば、これは世界を牧場に変えてしまい、人間を家畜化しようとする人たちによる悪しき試みにたとえられる。一匹一匹の個人から雇い主が最大限の利益を得られるよう、一匹一匹の個人を、仲間を向こうに追いやってでも、自分一人が率先してエサに食いつくようなあさましい性格に育て上げ、やがて屠殺される日に備えて、雇い主の利益に貢献するために、自分だけが肥え太ろうとするような愚かで利己的性格を養っておく。そうやって、己の夢の実現だけを貪り食って生き、他人のことなどには目もくれないような、思いやりのない、能天気な個人が養われる。どうせそのような個人が幸福に到達できないのは明らかだが、そうしておくことによって、競争に耐えうる個人が養成され、少なくとも、エサを与えられている間は、家畜（個人）は自分が家畜であることに気づかず、偽りの幸せを謳歌するので、できるだけ競争が長く持ちこたえられるだろうというのだ。</p>
<p>コルタン氏は上品な言葉で全てを説明しており、それに引き換え、筆者の言葉はかなり粗暴であることをお許しいただきたいが、要するに、コルタン氏が憂えているのは、市場という戦場において、個人という戦士から得られる利益の最大化をはかろうとして、個人の思いやライフスタイルを変革しようとするネオ・リベラリズムの恐るべき考え方と、ペンテコステ派の掲げる繁栄の神学や霊的戦略が、奇しくも目的が一致しているということである。</p>
<p>強い経済戦士を作るために個人を改造すると言っても、一人ひとりがもって生まれた能力には元々限界があり、それは外から変えようにもおのずと限度がある。というよりも、外から人を変えるためには教育の充実など、結局、福祉制度や教育制度の充実が必要となり、それは市場原理主義にそぐわない。そこで、一人ひとりへの社会からの投資を極力惜しみつつ、それでも、手っ取り早く人間を強力な存在に変化させるためには、内側から個人のモチベーションを高め、変化させることによって、競争に長く耐えうる忍耐力と希望を養うのが一番良いというのが、ネオ・リベラリズムの本当の狙いだと見られる。特に、精神的に変革が必要なのは、放って置いても気楽に生きていける「勝ち組」の人々ではない。どちらかと言えば「負け組」になった人たちのネガティヴなモチベーションや、低い自己意識を変革することが必要なのである。</p>
<p>別の言い方で言えば、「負け組」となった人たちが、ただ失意に陥って生きる気力を失い、社会のお荷物となって終わりとなるのではもったいないというわけである。その人々が自己を信じ、逆境を切り抜けられると信じ、自分たちは決して社会の不遇によって押し潰されることはないと信じて、絶望的な状況から、奇跡的なパワーを発揮してでも、「再起」し、再び健全な家畜、すなわち競争に耐えうる個人となって、競争の舞台に立ち戻ることができるなら、個人からは無限大の力が引き出されるようになるというのである。たとえ傷病兵でも、リハビリ期間を経れば、戦場に立ち戻れる。こうして、傷ついて弱り果てた戦士も、リサイクルされるなら、戦場から戦士がいなくなることはなく、戦争は果てしなく続行可能になるというわけだ。</p>
<p>そのために、弱くなった者たちへの「勇気づけ」を行い、つまり「負け組」への「エンパワメント」を確実に果たしている一つの流れが、ペンテコステ派だということをコルタン氏は示唆しているのである。<br />
個人が自分の内に秘められた無限大の可能性を発見し、自分の中にある奇跡的な可能性に「目ざめる」ことさえできれば、どんな失意や挫折の中からでも、人々を立ち上がらせることができ、それだけ社会や国家が公共のサービスや福祉にお金をかけずに、個人から引き出せる利益を最大限まで大きくすることができるという、ネオ・リベラリズムの考え方に、ペンテコステ派の神学が大きな貢献を果たしているというのである。</p>
<p>ペンテコステ派だけではない。筆者が見たところによれば、このそら恐ろしい「個人の思考改造計画」は、自己啓発プログラムの中にも見出せるものである。<br />
たとえば、誰でも知っているように、今はカルト的団体との類似性が指摘されて、社会でも相当に問題視されるようになった自己啓発セミナーなどで、まず参加者に最初に語られるのは、「自己の殻を打ち破る」、「本来の自分の可能性を発見する」、「大志を抱く」ことの重要性であった。その他、現在でも日本のビジネスマンなどに愛読されているナポレオン・ヒルの成功の理論においても、自分自身がまず大きな夢を抱いてそれを現実に実行可能と信じきることの重要性が、ビジネスや事業における成功の秘訣として説かれているようである。</p>
<p>これらの自己啓発的プログラムは、まず、個人のモチベーションを最大限に高めることによって、個人が巨大な可能性を発揮して、社会で「勝ち組」となることができると述べている点で一致する。これを、ペンテコステ派に置き変えれば、「奇跡は起こる」、「あなたの病も癒される」、「信仰によりクリスチャンは豊かになれる」などの甘い言葉を盛んに言い聞かせることで、クリスチャンが日常的に、自分は小さくて頼りない人間であり、自分にできることなどほとんどないと思って生きているその自信のなさや、過去の失敗体験から来る恐れ、卑俗な意識を脱して、それらの限界を打ち破らせて、巨大な夢に向かって奮い立ってもらい、目的のために最大限、働ける人間に変えていくということになる。</p>
<p>現実を打ち破るような、到底、かないそうにもないほどの大きな夢を個人に抱かせ、それを実現可能と信じ込ませて、人々を凡庸で限られた日常的な意識から脱却させ、大きな夢のために最大限、働くことのできる労働力に変えていくという目的がそこにある。そうする上で、何よりも重要なことは、人々が過去の失敗体験に基づいて、「こんなに弱い私には、この先もきっと何も大きなことはできないだろう、どうせ夢なんて抱くだけ無駄だ」というネガティヴな考え方を、いつまでもくよくよと持ち続けることをやめさせることである。</p>
<p>ペンテコステ派が盛んに信徒に信じさせようとする「大志」は、自己啓発のプログラムにおける自己への覚醒やブレイク・スルーに非常によく似ている。<br />
「日本にリバイバルが起こる！」という、リバイバル・ミッションなどで提唱された巨大なスローガンは、まず、日本のクリスチャンたちに何よりも、この国にはザビエルが渡来して以来、何十年、何百年間とリバイバルなど起こったためしはなく、20世紀になっても、クリスチャンは「1％の壁も越えられないでいる」というネガティヴな現実を忘れさせる効果を持っていた。そして、クリスチャンは必ず１％の壁を越えられるどころか、やがて日本中が韓国のようにリバイバル化されるのだという、途方もない巨大な夢を抱かせることにより、今までクリスチャンが普通にとどまって来た「ちっぽけな信仰」、「ちっぽけな現実」の閉鎖性を打ち破り、巨大な夢に向かって奮起させることを目的としていた。</p>
<p style="text-align: right">（次回へ続く）<br />
&nbsp;</p>]]> 
		</content>
	</entry>
	<entry>
		<title>「言論的クーデタ」と思想統制の危険性について</title>
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		<issued>2009-02-11T01:16:27+09:00</issued> 
		<modified>2009-02-11T01:16:27+09:00</modified> 
		<created>2009-02-11T01:16:27+09:00</created> 
		<author>
			<name>ヴィオロン</name>
		 </author>
		<dc:subject>社会問題</dc:subject>
		<content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
			<![CDATA[<p>最近の日本は思想統制に向かって確実な歩みを進めているように思うのは筆者だけでしょうか。しかも、それは昔にあったようなはっきりした乱暴な形での「言論統制」ではなく、もっと目に見えにくく、真綿にくるむようなやり方で、じわじわと「言葉狩り」が身に迫ってきているように感じられます。</p>
<p>例えば、ここ１～２年で、筆者は警察による交通安全の取り締まりが異常なほど強化されているように感じ、不安に思うことがありました。え、それが思想統制とどんな関係があるのかって？　まあ、ゆっくり聞いて下さい。<br />
数年前、筆者が通勤に車を使っていた頃、「ネズミ捕り」がしかけられている場所は限られており、道を通いなれたドライバーはどこでスピードを落とすべきか、よく分かっていたものです。</p>
<p>ところが、近頃、監視の場所が、車だけしか走行しないような道路から、ショッピング・モールの近くなど、人がよく集まる場所に変わって（広がって）来ているように思うことが多々ありました。もちろん、地方によって事情は様々に異なると思いますが、筆者が特にここ数年で不審に思ったのは、歩道を走っている自転車への取り締まりでした。<br />
始めの頃は、「盗難自転車でないかどうか、調べている」と人々の間で噂されていましたが、法改正とも関係があったと考えられます。</p>
<p>平成20年6月1日の道路交通法改正により、現在、歩道を通行できる自転車は、非常に限られたものとなっています。 <br />
　★自転車及び歩行者専用の標識が無い歩道では いままで通り車道通行。 <br />
　★ただし以下の場合は通行可能になります。 <br />
　　・普通自転車の運転者が13歳以下及び70歳以上の人、身体障害者。 <br />
　　・車道走行が危険な場合（路上駐車が多い、交通量が多く危険など）やむを得ないとき。 <br />
　　※警察官等が歩道を自転車で通行してはならないと指示された場合は指示に従う。</p>
<p>しかし、この改正の内容は非常に曖昧です。<br />
日本では道交法により、自転車は軽車両の一部とみなされており、原則、車道通行が定められていますが、ご存知のように、日本の道路はどれも道幅が狭く、車でさえ窮屈な思いをして走っていることが多く、自転車が安全に通行できる車道などほとんどありません。自転車は原則、車道通行という法内容そのものが、ある意味では、自転車の安全走行を全く考慮に入れていない、時代に合わないものだと言えるでしょう。</p>
<p>ですから、自転車は実際には車道でなく歩道を走っている場合が多いのですが、それについてはこれまで曖昧な規定しかありませんでした。一体、どのような場合であれば、自転車が歩道を通行することが公に認められるのか、20年6月1日に改正された道交法こそ、はっきり述べているだろうと期待しても、実際には、一向に明確になっていません。</p>
<p>最近、知ったところでは、日本における自転車事故の80%は車がからむもので、乱暴な自転車運転による歩行者との接触などの事故は、自転車事故の2割以下程度であるそうです。<br />
つまり、自転車運転の最大の危険性は車との接触にあるのです。</p>
<p>ところが、歩道における自転車を取り締まろうという動きが近年、見られます。警官が帰宅途中の中学生を歩道で呼び止めて、自転車をチェックしていたりする風景に筆者はある時期、毎日のように出くわしました。これは一体、何なのでしょう。何を取り締まっているのでしょうか。筆者にはよく分かりません。<br />
道交法とは全く別のところで、別のねらいがあるように思われてならないのです。</p>
<p>さて、田原総一朗氏が<a href="http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081113/112209/?P=1">「田母神論文」に関するコラム</a>の中で、「実は今、自衛隊、そして警察が非常にいら立っている」と書いています。<br />
　なぜ、警察や自衛隊が苛立っているのか？<br />
　結論から言えば、それは、国民の不満がたまりにたまって、まず言論的クーデターが起こり、「この言論クーデターが、遠くない将来本物のクーデターになるのではないか、という危機感がある」からです。<br />
「今は、昭和一ケタの時代に似ている」と氏は述べています。つまり、国中に貧しさが溢れ、閉塞感が満ちており、経済的にも、精神的にも新しい需要を開拓するために大陸侵略へと、戦争へと乗り出して行こうとしていた戦前の時代に、今の時代の雰囲気はとてもよく似ているというのです。<br />
<br />
　筆者も記事の中で再三に渡り、現在の社会の動向の危険性について述べてきました。このまま社会不安、経済不安が続けば、国民的暴動が起こる可能性がある、革命が起こる可能性さえ十分にある、ということも書きました。昭和一ケタの時代では、戦争という国家的大事業がガス抜きの役割を果たしたのですが、21世紀には何がその役割を果たすのでしょうか&hellip;。<br />
　とにかく、鬱憤だけがたまりにたまっていき、それがどこへ向かうかはけ口が未だ分からないことが、警察や自衛隊を不安に陥れて、国民の暴動への恐れから、過剰な取り締まりに追いたてている傾向が見られるのです。</p>
<p>　田原氏の前述の記事の中には次のような事実も書かれています。「（2008年）10月26日に、雨宮処凛さんという女性が『麻生首相の家を見に行こう』と呼びかけ、ニート・フリーター・派遣労働の人たちを中心に約50人と行進を行った。<br />
　事前に渋谷警察の警備課長から、『車道を歩かない、スピーカーを使わない、横断幕を広げないように』と言われた。これらを使用すればデモになるからだ。さらに、『麻生首相の自宅の区域に入ったら50人一塊ではまずいので、5、6人に分かれて歩くように』とも忠告を受けていた。<br />
　彼らはこの忠告に従って行進を始めたわけだが、歩き出して間もなく、麻生首相の自宅区域に行くまでもなく、3人の若者が公務執行妨害の容疑で警視庁公安に逮捕された。僕は、逮捕時の映像も見たが、公務執行妨害もなにも、プラカードを上げとたんに捕まっている。<br />
　渋谷警察の警備課長の忠告通りにやっても逮捕された。この様子を見て、公安も相当いら立っているな、と思った。」</p>
<p>　もちろん、首相官邸への行進ですから、世間からの注目もあり、警戒がされないはずはありませんが、それにしても、危険行為などまるきりないのに、逮捕とは、まるでかつての学生運動を見るようです。国民によるデモを今、どれほど国側が警戒しているか、その緊張と過敏さが見受けられます。<br />
<br />
　このようなことの他にも、国民投票法案、裁判員制度等、これまでになく国民の意志が監視されることになりそうな危険のある政策が次々、推し進められています。いずれ、酒鬼薔薇聖斗事件などについても、じっくり書ければと思っているのですが、厳しい法改正の傾向はもっと前から始まっていました。</p>
<p>　ところで、このブログにはアメリカ政策への批判、教界への批判等、トピックだけでも深刻な、誰も話題にしたくないし、考えたくないような内容がたくさん書かれています。今後もそのようなきわどい内容を掲載していくことになるでしょう。<br />
　しかし、そんな内容のためか、筆者自身が検索エンジンを試してみても、このところ、ブログはひっかからないことが多く、今後は検索エンジンそのものからブログが削除される可能性も大いにあるのではないかと筆者は考えています。　（すでに何度かGoogleからは検索から外されているようです。）<br />
<br />
　これは相当に深刻な言論統制が進んでいるなと憂慮せざるを得ませんが、もしも言論統制が日本にとって避けられない未来であるならば、筆者はそれに命かけてまで対抗しようとは思っていません。筆者は政治家ではないため、政治運動のために命を捨てるよりも前に、なすべき仕事があると思うからです。<br />
　筆者はもとより自分の投げかけたスローガンにより、人々が突き動かされて、署名運動や、新しい宗教改革運動や、政治運動、何らかの組織的デモが起こるようなことを全く望んでいません。そこで、もしも筆者がここに書いたような内容にたとえ同意して下さる方があったとしても、そのような同志が集まって、特定の団体に対して、何らかの運動に至ることには、断固、反対の意志を表明します。<br />
<br />
　教界の問題に関しても、筆者は最後まで、徒党を組むことなく、門外漢の立場を捨てずに、一信徒としての立場から問題を訴えるにとどまるつもりです。<br />
　元々、神学の専門家でない筆者の言い分には、賛否両論あって当然です。ですから、聖職者側からの反論は当然あるべきなのです。聖職者がこのような問題の存在に気づき、このブログが訴えているような、耳障りな警告、不愉快で、暗い問題に対して、何らかの対策を早急に講じる必要があることを感じ、自分自身のホームページやブログや、講壇などの場所で、必要な弁明や改革を行い、教会を主の御心にかなうきれいな場所にしようともっと努めてくれればそれだけで筆者の目的は達せられます。<br />
　筆者のように被害に遭う信徒が教会からいなくなれば、それで良いのです。<br />
　筆者は教界の破滅が避けがたいように感じ、そのように書きながらも、それでも、一個人としては、何とかして主の憐れみにより、教界が福音に立ち直り、真の信仰に戻る道はないだろうかとも願っています。</p>
<p>　そして仮に、たとえ問題が一切、改善されなかったとしても、筆者は教界に立ち向かうことを人生の目的にしてブログを書き続けるつもりはなく、カルト被害者というレッテルを生涯ぶらさげて生きていくつもりもありません。被害者運動を生きがいとし、生きる糧とするつもりもありません。<br />
　すでに書いてきたように、筆者は現在、教界内で行われているカルト被害者救済運動の中に正義を見ていません。この運動は被害者を決して救済していないどころか、被害者をさらなる危険に陥れるものであると判断しているため、被害者はこの活動にはできるだけ関わらない方が良いということを述べてきました。教界によって傷つけられた被害者の救済の方法としては、とにかく教界から一刻も早く離れた方が良いという、まことに貧弱な解決しか今、筆者は提示することができません。<br />
　筆者自身も教界の問題に巻き込まれた一人ですが、このブログは自分の問題に何らかの解決を模索するために書いているのではなく、問題の所在を訴えるために書いており、市井の人として、書くべきことを終えれば、自分の生活に戻るつもりです。ブログの目的はあくまで、クリスチャンに教界の問題について広く考えてもらうきっかけを作ることにあり、この問題に関して、筆者は最終判決を下す立場にはないことを忘れたくないと思います。</p>
<p>　このように、当ブログは社会運動とはまるきり関わりがないものですが、それにしても、筆者の意見は、教界から見ても、今日の日本社会の動向から見ても、完全に「異端児」に属しているものと思われますので（信仰にあっては、決して異端児でありたくありませんが）、もしも「ヒコクミン」と見られるおそれがあると困る、言論統制が進んで行ったとき、このブログのためにとばっちりを食うなんてごめんだ！と思われる方々は、このような思想的に危険なブログへのリンクは決して貼らず、場合によっては、訪れることさえも警戒された方がよろしいかも知れません。</p>
<p>　「光の天使の罠」は元来、教界のカルト化の問題を訴えるために作った期限つきのブログです。どうしてサヴォナローラの名前がサイトに入っているかと言えば、それは筆者は問題を提起するだけにとどまり、具体的な改革に決して加わらないということを自分自身に言い聞かせるためもあります。<br />
　聖職者でない筆者は教界を導いていく立場にありません。そしてその資格がないことを自分にはっきりと言い聞かせておかなければ、古い体制を破壊して、新しい体制を築こうと言う人たちが現れたとき、うかつにも、自分にもそのような資格があるかのように錯覚し、そのような運動に加わろうとするかも知れないからです。</p>
<p>　カルヴァンの恐怖政治のようなことがなぜ起こるのか。以前の問題だらけの体制を打ち壊して、よりよい新しい体制を立てようとする人たちが、なぜ前よりも悪い恐怖政治に陥っていくのか。<br />
　そのことを記事の中でも少しずつ考えて来ましたが、一言で言えば、問題提起をする人と、建設する人はあくまで別者だということです。<br />
　筆者の役割は平信徒としての問題提起にとどまります。もし筆者がそれを忘れて、暴動を起こそうと考える人たちに与したりすれば、たちまち、それは教界を改革するどころか、もっと悪い場所へ変えてしまう恐怖政治へと結びついていくことでしょう。</p>
<p>　安易に破壊することではなく、最後まで、立ち直りの道を模索することこそが必要なのです。努力しても、駄目なものは駄目かも知れませんが、教界の腐敗という問題に立ち向かうために、答えを考えるのは、クリスチャン一人ひとりの仕事です。教界をより良い場所に変えていく工夫を行うのは、何よりも、リーダーである聖職者たちの仕事であるべきです。<br />
　ニッポンキリスト教界の明日を作っていくのは、この教界に属している一人ひとりのクリスチャンです。希望ある明日を作ることができるのか、それとも、破滅が待っているだけなのか。その答えを作り出し、対策を打ち出し、実際に未来を作り上げていくのは、一人ひとりの仕事です。<br />
<br />
　それは筆者が頭で考えて、導いていけるような事柄ではありません。また、聖職者たちだけが決めることでもなければ、誰か一人やもしくは数人の優秀なブレーンとなるクリスチャンの頭で計画して運ぶことができるような事柄でもありません。立ち直りの鍵は、個人が真剣に救いに立ち帰り、一人ひとりが真の信仰に立ち戻ることにあり、何らかの集団的な運動を起こすことが教界を救うのではありません。ですから、筆者は教界に対して運動を起こすつもりはありません。</p>
<p>　それがいつになるかはまだ分かりませんが、時期が来れば、このサイトを閉じ、別のサイトに移ることになります。それまでにこれまで書いた文章をもう少し整理していきたいと思います。今後の予定をざっと述べておけば、今後こちらのブログには、国策としてのマインドコントロール、そして教界での弟子訓練、トランスフォーメーションなどのプログラムの危険性について、詳しく分析する内容を挙げていきたいと思っています。</p>
<p>　弟子訓練、繁栄の神学、トランスフォーメーションについては、これまで「危険だと思う」という意見や、「近づかない方が良い」という警告はありました。けれども、何がどのように危険なのか、何がどう聖書から外れているのか、詳細に渡って明確に分析している書物が未だ存在しないように見受けられます。<br />
<br />
　筆者は神学者でないので、述べられる事柄は極めて限られていますが、しかしトランスフォーメーションなどの比較的新しい用語は、まだこの教界において実行されて間もないですので、このようなプログラムのためにカルトに陥る教会が現れるより前に、それが危険だと思っているなら、何がどう危険であるのか、きちんと分析し、明確に理由を示すことによって、誰かが警告しておく必要があると思います。<br />
　本当は、筆者のような門外漢がそれをするのでなく、牧師たちがそのようなことを公の場で論じてくれるのが、一番良いと思っていますが、まだまだ、そのような反対の動きが見られないどころか、ますますこのプログラムが推進されていく気配があるため、微力ながら筆者はそれに一石を投じようと思います。</p>
<p>　さて、最後に「言論的クーデタ」の危険について一言書いておきたいと思います。<br />
　政治的なクーデタが起こる時には、いつでも、その理由付けが必要となります。すなわち、何のために前の政権を打ち倒して、新しい政権を成立させる必要があったのか。その理由付けとなる美しい理念、理想、つまり「建国神話」が必要となります。そのために、前の政権がどれほど悪く、民衆を苦しめていたかを説き、それが打倒される必要があったことを人々に説き、新しい政権は、旧政権という怪物を打ち倒した正義の人たちに率いられているのだと、正義の錦の御旗を掲げることによって、クーデタを人々に容認させる必要があります。<br />
<br />
　同様にして、クーデタや革命だけでなく、あらゆる社会変革運動が起こります。<br />
　近年は、「心の時代」とも呼ばれるように、これまで傷つけられ、捨てられてきた社会的弱者が利権を回復する風潮が見られます。かつて黒人の権利運動、女性の権利運動がそうであったように、社会的弱者のためのアファーマティヴ・アクションが社会の至るところで、要求されているのです。<br />
<br />
　高齢化社会にあっては、ある意味、若者を高齢者のエゴから守るシステムがなくてはなりません。自然の法則だけにまかせておけば、どうしても人数的に多い方の世代が自分に有利な社会を作ろうとすることは避けられないからです。<br />
　老人だけにとって都合の良い社会ができないように、人数の少ない若輩者の世代を、特別に保護するための何らかの政策や法律が必要となります。<br />
　若者を守るためのアファーマティヴ・アクションが今、早急に必要とされています。それを実施するためには、理念的裏づけのある運動が必要となりますが、今はまだ、高齢化社会を生き抜くための若者の権利運動は（残念なことに）ほとんど形さえ見られません。<br />
　けれども、弱者のパワーで社会を変革するという気運があらゆるところに満ちていますので、その中から近いうちに必ず、若者の権利運動がきっと起こることでしょう。<br />
<br />
　このように、社会運動においては、虐げられてきた弱者の側からの何らかの正義が提唱されるのが常です。<br />
　ですが、正義とは何なのでしょう。クリスチャンは聖書のことばは絶対的な正義であると考え、御心が天に成るように、地にも成就するようにと祈ります。しかし、聖書的に見ても、終末を終えるまで、この地上も人間も不完全なものにとどまり、神の御心が完全にこの地上に成就することは決してありません。</p>
<p>　つまり、クリスチャンは鏡に見るように、おぼろげに神の言葉を理解し、おぼろげに御心を理解することはできたとしても、この地上に生きる限り、決して、絶対的な正義にはたどりつくことができない存在であり、地上の人間社会には正義は完全な形では存在しえないということを聖書は言っているのです。（ここからも、「地上に神の国を建設できる」と言う人たちの誤りを見ることができます。）</p>
<p>　なぜキリスト教界がここまで腐敗し、堕落したのかという問題を考える上でも、重要なヒントとなるのは、この正義の問題です。教壇に立つ聖職者たちが、自分たちの信じることが、正しいと思い込むあまり、クリスチャンはこの世にあって、不完全な信仰、不完全な正義しか持ち得ない、理解の足らない者であることを忘れてしまい、自分の正しさに自惚れるあまり、自己を省みて、反省し、自己の誤りを自分自身で検証することを忘れてしまったからこそ、このような腐敗が起こったのではないでしょうか。<br />
<br />
　同じように、傷つけられた弱者だからと言って、その言い分がいつも正しいとは限りません。弱者の巻き返しのパワーを使って運動を作り上げることはそう難しいことではなく、歴史上も何度も起こって来たことですが、数を頼みとして、あるいは怨念を頼みとして、自分たちの主張のまずさをかえりみることもなく、浅はかな正義を掲げて運動に走っていくことは避けなければならないと思います。</p>
<p>　ある人が、人間の振りかざす相対的な正義を、絶対的な正義だと思い込んでしまうことの危険性を、非常に確かで優れた言葉で警告しているサイトがありますので、引用させていただきます。<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/dacs/20070114/1168765019">「２ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ、検証を拒否する全体主義的正義について」</a>　</p>
<p>「２ちゃんねらーの言動の傾向を俯瞰してみると、確かに正義感を裏付けとしたものも少なくないように感じる。では、その正義感の実体とはいかなるものか&hellip;と分解してみる。松永氏も指摘しているが、２ちゃんねるの話しに限らず<strong>おしなべて正義感とは徹頭徹尾後ろ暗いものなのだ</strong>。<strong>正義はその対として悪を以って成り立つ存在であり、本人自身（或いはその意見の立脚点）を正しくするには悪の悪たらしめる要素を比較対比し責め立てることをおいて他ありえない</strong>。</p>
<p>翻ってみれば、<strong>正しさとはそれ自身の検証も当然必要な概念である</strong>。正しさはそれを言い出した段階では海のものとも山のものともつかない。もっと突き詰めて言えば、<strong>未検証の正しさは疑われて然るべきであり、既に検証された正しさは更に執拗な検証に耐える試練を進んで受け入れるべきものだ</strong>。正しさはそういう苛烈な検証を経て少しづつマシになることを信じられて*1いるものである。生まれ落ちたら最後その過ちが認められない限り、疑われ続けるべき宿命を負っている。</p>
<p>『みんなが言っている正しさ』という正しさはこの検証をさせないようにする圧力として作用することが多い。絶対正義である。しかし、この絶対正義と言う奴は危険なのだ。何故危険か？<strong>『みんなが言っている正しさ』とは別名をファシズムと言う</strong>。<strong>全体主義的・排外的理念はその性質として、検証を排除することによってファシズムを産み落とすのだ</strong>。そして、ファシズムは自らをファシズムと名乗ることは無く『正義』を自称し、足場を固めることに余念が無く、みんなを代表する誰か（もしくは一部少数の複数人）の欲するままに暴虐の限りを尽くす。</p>
<p>繰り返すが、<strong>正しさとはそれ自身の検証が必要な概念である</strong>。それくらい正しさと言うものはあやふやで儚い。そうであるが故に正しさは追求され、叩きのめされるプロセスを常に辿る必要がある。<strong>間違えても空気などに流されてはいけない</strong>。<strong>空気はコミュニケーションの肝要であると同時に、ファシズムの母胎にいつでも成り代わる。検証なき正しさは即ち悪だとみなすくらいで丁度良い</strong>。それくらい懐疑的に扱わなければ簡単に流されるのだからゆめゆめ油断は出来ない。」<br />
（太字は筆者による）</p>
<p>　学問の世界では、学問は日々進歩しているものと考えられています。どんな優れた研究者によって書かれた論文も、必ず後学の書いた論文によって凌駕され、乗り越えられていきます。しかし、それは先行研究が間違っていたとか、意味がなかったということではありません。<br />
　先人の到達したものを後学が乗り越えることによって、学問的進歩は成り立つのです。一人ひとりの踏み固めた足跡が重なって、一つの道が出来上がるようなものです。</p>
<p>　２チャンネラーの正義だけが疑問視されるべきではありません。筆者の書いたことも、必ず、検証にかけられ、ボロボロになるまでふるいにかけられ、打ち倒され、残されるものだけが残っていかねばならないのです。そして要らない部分は容赦なく切り捨てられる必要があるのです。<br />
　読者の皆さんには、筆者の書いた内容を大いに疑っていただきたいと思っています。筆者は決して無責任にいい加減なことを書いておいて、後は「読者におまかせ」と言って退場していくつもりはありませんが、それでも、筆者に自分で気づけない部分があるならば、筆者の盲点に気づいた人が容赦なくそれを暴き出すのは当然でしょう。<br />
　とにかく、どのような人の意見も、討論の場にかけられ、批判され、試されなければなりません。</p>
<p>　クリスチャンの信仰も、学術論文と同様に、批判によって試されなければならないと筆者は考えています。信仰という、何かよく分からない、目に見えない、定義しにくい領域だからといって、正論らしき事柄を振り回しておけば誰もが黙って拍手してくれるというものではないでしょう。牧者も、信徒も立場は同じです。自分の意見を確信を持って述べることは悪いことではないですが、どんな意見も、批判されることで、検証に耐えうるまともな論理であることを、世に対して証明する必要があるのです。</p>
<p>　ですから、「空気読めない」という恐ろしい言葉によって、その場の「空気」だけが正しいかのように錯覚し、議論を避けて、雰囲気だけで物事の決着をつけることは何としても避けたいと筆者は思っています。その意味で、このような「異端児的」な「檄文ブログ」が、あえて、この社会の空気を打ち破る耳障りな一石となり、空気に流されることへの筆者自身の抵抗となれば良いと思っています。<br />
<br />
　しかし、そのように言いながら、もしもその「空気」を作り出すのが、筆者の一石であったりしようものならば、それはまさに最悪なパラドックスとしか言いようがありません。<br />
　ですから、筆者は言葉巧みに一定方向へ向けて大衆を扇動するという愚かな過ちに陥らないために、このブログを期限付きにするだけでなく、このブログに書いているような内容を軸として、人と集団を作ることは絶対にすまいと思っています。現実の世界では、もちろん、筆者も人間としてクリスチャンや人との交わりの中で生きていきますが、イデオロギーや主義を中心として人と団結することは避けるつもりです。</p>
<p>　教界の問題は、一人ひとりのクリスチャンに与えられた課題です。この問題に関して、聖職者には重い責任が伴うでしょう。しかし、この教界の問題の解決を考えるにあたり、クリスチャンは誰かの意見に惑わされて、聖書に登場する豚の群れのように、扇動されて一定方向へ突進していくことが必要なのではありません。誰もが自分自身で考え、自分なりの答えを出し、それを人生において細々と、けれど確かな足取りで実践していくことが大切なのです。　<br />
　そこで、筆者の書いた言葉は参考として、それぞれのクリスチャンが自分自身で物事を考えるためのたたき台としていただければ幸いです。<br />
　問題は誰にでも提起できます。けれど、答えはあくまで「この星が決めること」なのです。</p>]]> 
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