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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

先の記事で、筆者は、キリストのみに捧げられた聖なる花嫁としてのエクレシアの一員として、人間を頼りとしないで、改めて主にのみ頼って生きる覚悟を固めたと書いた。

これは神が筆者の心を、予め様々な別離に準備させたものであったようにも感じられる。

昨年には、困難な戦いを戦い抜くに当たり、筆者は多くの力添えを得た。しかし、筆者の事件のために、助力してくれた人々は、そのほとんどが、今年の春までには、様々な理由により、筆者のそばを離れて行こうとしている。職務上の異動が複数、他に、信念の違いが浮き彫りとなったケースもある。信仰の違いによる別離が起きる場合には、もしかすると、この地上だけでなく、天においても、別離となる可能性が考えられないことではない。

こうして、人々が散らされて行くのを見ることには、寂しさがないとは言えないが、それでも、このような現象に対して、筆者は予め心の準備がかなり出来ていたものと思う。

昨年の一年間は、それほど大きな心の生長を筆者にもたらしてくれた。この一年間の戦いは、筆者が、一人で立つために十分かつ激しい訓練の期間となったのである。

前々から述べて来たことであるが、筆者は、支持者や、理解者の人数を誇り、肉なる腕を頼りに生きたくないと願っている。預言者エリヤがしたように、ただ神だけを頼りとして、神のみに栄光を帰するために、450人のバアルの預言者を前にしても、一人で向き合うことのできる信仰が常に必要であるものと思う。

そのようにして、神以外の何者にも頼らない自由を保つために、筆者は自分の心が、周囲にいる人々に結び付けられて離れられなくなったり、あるいは、周囲にいる人々の心が、筆者に結び付けられて離れられなくなるよりも前に、彼らが様々な理由により、筆者自身の意思とは関係なく、神の采配により、去って行かざるを得なくなることを、肯定的に受け止めている。

我々の弁護者はキリスト、御霊が私たちのための約束の保証、裁き主は、天におられる父なる神であって、私たちには世の終わりまで共におられる方が一緒であるから、肉なる腕に頼る理由がない。

そういうわけで、「あえて事を難しくする」ために、筆者はますます念入りに、祭壇に水をかけているところである。

さて、代価を払って戦いを最後まで耐え忍んだ人と、それをしなかった人との間では、この先、大きな差が生まれるのではないかと筆者は思う。その差は、最初は小さなもののように見えても、十年も経つ頃には、巨大な差になっているものと見られる。

たとえば、あなたが仮に学校を卒業したばかりの若い世代であり、友人と共に、同じ企業に就職して、入社数ヶ月で、そこがブラック企業であることが判明したとしよう。賃金の支払いは滞りがちで、残業代は支給されず、果ては雇用契約書さえ交付されず、強欲な社長は、すでに多くの社員を不当に解雇している。

あなたと同僚にも、ついに順番が回って来て、共に落ち度もないのに解雇が言い渡された。あなたたちはこの措置を、何も言わずに受け入れるであろうか。働きづめに働いた期間の給与もあきらめて、路頭に迷わされる選択肢を受け入れるだろうか。それとも、何らかの方法でこの悪しき企業に打撃をもたらし、彼らが不当にため込んだ富を吐き出させて、取り返すべきものを取り返すであろうか。

それをするかしないかによって、その後の道は分かれることであろう。だが、受けた打撃を取り返すためには、声を上げて、自分の権利を主張して、戦わなくてはならない。だが、あなたの元同僚は、狭い業界で、そのようなことをすれば、次の就職先は見つからなくなると危ぶんでいる。多分、どの企業も似たり寄ったりの状態だから、このような理不尽をも、甘んじて受け入れる心がなくては、この先、どの企業でも、やっていけないだろう、などと言っている。さて、あなたはどのような選択肢を選ぶだろうか。

筆者の考えはこうである。もし抵抗しなければ、その人は、黙って就職した次なる会社でも、前よりもさらに悪い搾取の犠牲となるだけであり、おそらく、その連鎖は、本人が抵抗して断ち切ろうとしない限り、ずっと続くことであろう。これを断ち切るためには、業界からの根本的なエクソダスが必要になるかも知れない。

奪われたものを取り返す手段は存在する。また、不当な濡れ衣も返上する方法も存在する。多くの人々を傷つけ、獲物ののようにかみ砕き、食い物にして来た要塞のような企業に、恥辱と打撃をもたらし、しかるべき償いをさせてから、これと手を切る方法は、確かに存在する。
 
だが、声を上げる際にも、注意しなければならないことがある。一方には、弱い人々を食い物にする強欲な企業があるかと思えば、その反対には、食い物にされた人々の苦しみをさらに食い物として、強欲な救済ビジネスを展開している人々がいる。ブラック企業との戦いを売り物とし、成功報酬を分捕ろうと待ち構えている長蛇の列がある。このような人々に助けを求めている限り、あなたには、戦ったとしても残るものがない。だから、自分の権利や栄光を安易に他者にかすめ取られないよう、きちんと考えてから行動することが肝心である。

さて、以上の話は、ブラック企業の話をしたいがために持ち出したのではなく、信仰の世界で起きている事柄の比喩として持ち出したものである。筆者がここで言いたいのは、神の国の権益を守るために、代価を払って勇敢に戦った人と、それをしなかった人が、同じ報いを受けることは決してないということである。

キリスト者は、ただ自分のためだけに生きているわけではない。私たちは、自分が不当な濡れ衣を着せられたから、それを晴らそうとしているのではなく、神の御言葉が曲げられ、神ご自身の栄光が傷つけられているから、これに立ち上がって応戦するのであり、私たちの信仰の証しが妨げられることにより、神の国の権益が傷つけられているから、これに断固、立ち向かい、御国の前進に貢献しようとしているのである。従って、ここには、個人の失われた利益をや名誉を取り戻すというだけには決して終わらない、もっと大きな利益というものが存在する。
 
だが、いずれにしても、御言葉に従って、神がキリストを通して私たちにお与え下さった自由の絶大な価値を知って、これを守り通し、行使することができた者と、それをしないで、自由が取り上げられることに甘んじた者との間では、地上の生涯においても、やがて大きな差が現れるだろう。
 
筆者はかつて、神の御言葉の正しさを証明し、不当な言いがかりを跳ね返すために、ある人々に訴訟を勧めたことがあった。弁護士など雇わずとも、勇気と根気があれば、訴訟はできるのだから、諦めてはならないと筆者が言ったところ、彼らは言った。

「ヴィオロンさん、それはきっとあなただからこそ、出来たことだと思いますよ。」
筆者は、眉をひそめて聞き返した。
「どういう意味ですか、それは。私が文章を書くことを得意としていたから、出来たという意味ですか。」
「いや、あなたがとても強い人だからです。」
筆者はますます眉をひそめて問い返した。
「何を言っているんですか。私は一人の弱い人間に過ぎません。それでもこうしていられるのは、私の力ではなく、神様が助けてくれているからです。でも、この私にできるならば、あなたには、私よりも、助けてくれる人たちが、もっとたくさんいて、はるかに有利な立場にあるじゃありませんか。それなのに、私にできて、あなたができないはずがありません。
でも、状況はどうあれ、もしも私たちが真に正しく、御名の栄光のためになる仕事を果たそうとするならば、神様はそのために、必要なすべての手段を与えて下さることは確かです。あなたがたが、勇気を持って、御名のために立ち上がるなら、そのために必要な時間も、費用も、何もかも天が用意して下さいます。それは主のための戦いですから、必要なものは、すべて神ご自身が用意して下さらなければなりません。」
「いやはや・・・、私たちは、あなたを雇いたいくらいですね」
「何ですって?」
筆者は耳を疑い、聞き返した。
「私に何をしたいですって?」
「いや、私たちはあなたを雇いたいくらいだと言ったんですよ」

筆者はその言葉を聞いて心の中で絶句してしまった。だが、うわべはまるで聞かなかったようにして、御国のための権益を守る戦いに参加することを、真剣に検討しておいてもらいたいとのみ提案し、話を終えた。

筆者は、神の国の権益を守るための戦いのためならば、無報酬で働くつもりであったし、せいぜい要求できるとしても、紙代とインク代程度であろうと思っていた。そもそも裕福でない信者らが、弁護士に払うような報酬を筆者に払えるはずがないし、筆者も、金さえ払われれば、誰の味方にでもなる弁護士ではない。筆者はこの世の富に仕えるために、御言葉の証しを書き続けているわけではないし、この世の富の支配下に置かれるつもりもない。

それにも関わらず、もしも誰かが、このように貴重な仕事のために、筆者に金を払うというならば、それは、筆者をはした金で雇うという意味でしかない。つまり、彼らは、はした金でもいいから、筆者に金を払って、自分たちは雇い主であるという顔をすることなしに、弱く無名な存在である筆者に、無報酬で助けられるなど、プライドが許さないと、内心では思っていたものと見られた。

まるでそれは、一人で歩行がおぼつかない病人が、自分よりももっとはるかに重症に見える患者から差し伸べられた助けの手を、こんなにも哀れな人間から同情を受けたくないと、心の中で蔑み、冷たく振り払ったような具合であった。
  
以上のような返事を聞いた時点で、筆者は、彼らには決してこの戦いに参加することは無理であろうことを悟った。多分、彼らには筆者を助けてあげているという思いはあっても、自分たちも、命がけで立ち上がらなければ、救いを保てない恐れがあるとは、考えてもいなかったのに違いない。

だが、すべては神のなさることであるから、神がこの人々を導かれるのに任せようと、筆者は彼らを説得することも、異議を唱えることもなく、少し時間を置いて待った。

数ヶ月後、もう一度、彼らに心中を問い尋ねてみると、彼らは、面倒な争い事を自分から起こすのは嫌だとはっきり返答したので、筆者はそれを聞いて、この人たちのために助力することは必要ないと、主が答えを出されたのだと、ほっと胸をなでおろした。

それはちょうどギデオンが、ミデヤン人の13万5000人の軍隊に立ち向かうために、300人の勇士たちを集めた時のことを思い出させる。

主のための戦いに勝利するためには、数さえ集まれば良いということはない。むしろ、数などなくとも、心から、その戦いのために自分を捧げることに、準備が出来ているほんのわずかな人々がいれば、いなごのような大群にも、十分に立ち向かうことができる。

暗闇の勢力との戦いを貫徹するためには、代価が必要であり、世との間で軋轢が生まれることを望まない人は、これに参加することはできない。ただ人間の利益が侵害されたというだけの理由では、主の権益を守る戦いを共に戦うことはできず、兄弟姉妹との連帯さえも成り立たないのである。

かくて、エクソダスできる人々と、そうでない人々が分かれる。紅海を渡るところまでは、共に進んで行けた多くの信者たちが、その後、荒野に入ると、そこで倒れてしまう。いや、今は、荒野で倒れるというよりも、むしろ、神が奇跡によって開いて下さった紅海を、船頭を雇ってまで逆に渡り、再びファラオの奴隷となって生きるために、エジプトへ舞い戻ってしまうと言った方が良いかもしれない。
 
そのような光景を見る度に、筆者は、愚かな花嫁のたとえを思い出さずにいられない。筆者がどんなに誰かに自由になって欲しいと願ってみたところで、自分自身で代価を払おうとしない人々に、筆者は自分の油を分けてやることはできないし、それは許されない相談なのだと痛感する。

だから、そうした人々は、自分の足りなくなった油を増し加えるために、筆者の助けなど全く借りない代わりに、安価かつ偽物の油を買うために市場に走って行き、その遅れのために、結局、花婿を出迎えることができなくなり、宴会の扉が閉められて終わってしまうのである。

このようにして、今やプロテスタント全体が、御霊の油の欠如により、御言葉の証しを公然と保つことができなくなって、敵の圧迫に屈し、沈黙に入ったのではないかと思われる。この宗派に属するほとんどすべての教会と信者が、教会が迫害されても抵抗せず、御言葉が曲げられても、抗議せず、主の御名が傷つけられているのに、ほえたける獅子の咆哮に怯え、全く立ち上がることなく、腰砕けになって、一切、戦わずして、敗北する道を選んだことは、筆者には唖然とするような出来事である。

このように、神の教会が冒涜されても、立ち上がることができないという極度に情けなく臆病な有様を見ても、筆者は、プロテスタントはもはや霊的に終焉を迎えており、今、新たな信仰回復運動が起こることが必要なのだという確信を強めないわけにいかない。
 
だが、このような状況でも、絶望など一切する必要がないと言えるのは、神はどんな状況からでも、最も先駆的で前衛的な、新鮮な御霊の息吹を持つ新たな霊的運動を起こすことがおできになるからである。今日、信者に求められているのは、プロテスタントの中でも、どの教団教派ならば、多少、マシであるかなどと考えて、教団教派の間を走り回ることではなく、あるいは、プロテスタントが駄目ならば、カトリックに戻れば良いなどと議論することでもない。

新たな革新的で先駆的な信仰回復運動の登場が待たれるのだが、これから起きる信仰回復運動は、かつてのような大規模な大衆運動とはならないであろうと筆者は予想する。それはただ万民祭司という新約の原則を忠実に実行に移すだけで良く、筆者のような、無名の信者が、一人一人、知られざる場所で、ただ御言葉なるキリストご自身だけに忠実に従い、静かに自分の十字架を負って歩みを進めさえすれば良いのだと思わずにいられない。

それは牧師のいない、宗教指導者のいない、宗教団体や組織の枠組みにとらわれることのない、神と信者との直接的で個人的な知られざる信仰の歩みである。

そこで、筆者の周りに団体が築き上げられることは、今もこの先も決してないであろうと言える。筆者が何かを成し遂げる際に、周りに集まって来た人々がいるとしても、彼らも、必ず、やがて散らされることになる。なぜなら、そこにバベルの塔のような、人間の肉なる力が結集することは、神の御心に全く反するからである。
  
改めて、金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通過するよりも難しい、という御言葉を思う。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)

筆者は、招かれただけで終わりたくはない。神の褒賞を受けるために、試練に勝利する者でありたい。そのために、自分の心が、地上の何者にもとらわれることなく、自由であって、ただ主だけに捧げられ、御心の実現だけにいつでも傾けられる状態であって欲しいと強く願う。そこで、筆者と神との間に立ちはだかって、主の栄光の妨げとなりうるようなものは、この先も、何であれ、取り去られる必要があることを認める。

人や物や目に見えるものに心を傾注しすぎることは極めて大きな危険である。そこで、 御国の権益にとって、損失とならないのであれば、筆者は、地上的なすべての別離に対し、「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな。」(ヨブ1:21)と同意したいと考えている。

* * *

さて、話が少し変わるが、裁判手続きを通して、司法の世界を垣間見るようになって、筆者はそこではかりしれないほど大きな学びを得た。

誰もが知っている通り、訴状には、まず最初に、以下のような命令文で、被告に対する請求が記される。
「被告は、××××万円を支払え。」
「被告は、××××をしてはならない。」

このように書き記すことによって、原告はその通りの判決が下されることを裁判官に求める。

しかし、この世においては、ただ訴えが出されただけで、それが認められることはまずなく、通常は、幾度もの弁論手続きが重ねられ、証拠が積み上げられ、議論が尽くされてから、判決が出される。

しかし、筆者はただ原告として以上のような文面を書いてるわけではなく、キリスト者として、キリストの御名の権威を帯びた者として、このような命令文を書いている点で、そこには世人の訴えに込められた以上の重みがあると言えよう。
 
もちろん、筆者は地上においては何者でもないただの無名の市民であって、筆者の訴えが、他の人々の訴えと異なる理由などないかに見えるだろう。しかし、筆者は、信仰によって、キリストの代理として、御名の権威を持って、自らの言葉を発している。そこで、筆者の書いている命令文は、単なる文字である以上に、霊的に、はかりしれないほどに重い意味を持つものであると言えよう。

昨年が来るまで、筆者は主としてブログにおいて、信仰の証を続けて来たが、裁判手続きの場に信仰の証が持ち出されてからは、御名の権威を行使して証する作業が、より厳粛で重い意義を持つようになったと感じている。
 
こうした手続きの中で、極めて重要なことがいくつも分かった。そのうちの一つが、主に依り頼んで生きるキリスト者が、被告として訴えられるようなことは、絶対にあってはならず、また、あり得ない事態だということである。

この世には冤罪事件もあれば、スラップ訴訟もあり、誰かが被告として訴えられたからと言って、決してそのことは、その人々が何かの罪を犯した証拠を意味しない。事実無根の訴えや、不当訴訟といったものも、存在しないわけではないからだ。推定無罪の原則があり、何が事実であるのかは、審理を進めてみなければ分からない。

ところが、信仰の観点から見るならば、キリスト者が被告として訴えられることは、それだけで、深い霊的な敗北の意味を持つのである。そこには、何かしら非常に暗い運命的な意義があることを、筆者は思わないわけにはいかない。

筆者はこれまで、このささやかな信仰の証のブログのために、提訴、反訴、控訴、刑事告訴の脅しを幾度にも渡り受けたが、そうした脅し文句を聞く度に、ただちに以下の御言葉を使って、その脅しの効力を無効化し、敵の放った火矢が、筆者に届く前に、それを空中でへし折って来た。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
 一日中、死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

そういう経緯があったおかげで、聖書の御言葉には、現実に、私たち信じる者を、完全に潔白な者として神の御前に立たせ、敵のすべての言いがかりに満ちた訴えを無効化することのできる絶大な意義があることを、筆者は幾度も実地で学ばされて来たと言える。

キリストの命は、私たち信じる者を、本当に一点の罪の曇りもない、しみもしわもない、完全かつ潔白な存在として立たせることができるのである。

そこで、私たちも、自分を見るとき、主がご覧になるように自分を見なければならない。神が選ばれた民であるにも関わらず、私たちに、被告として訴えられる根拠などがどうしてあって良かろうか。

キリスト者を訴えるという行為は、その者を贖われたキリストの贖いを無効にすることを目的とする行為であって、悪魔と暗闇の勢力のみが抱く願望であると言えるが、そのようなことをする力を、暗闇の勢力はそもそも持っていない。

暗闇の勢力にできることは、せいぜい嘘を振りまいて信者を脅すことだけであり、神の下された永遠の判決を覆すような力は、彼らには付与されていない。そういうわけで、それにも関わらず、キリスト者を名乗る人間が、訴えられて法廷で被告とされることには、何かしら非常に深い、暗い霊的な意味が込められており、筆者の目から見れば、それ自体が、すでに信仰的に敗北を意味することが分かったのである。

一体、自分が有罪者として訴えられている者が、どうして100%の潔白に立って、悪魔と暗闇の勢力を全身全霊で糾弾することができようか? 

そのようなわけで、私たちは、暗闇の勢力の不当な言いがかりには、決して屈してはならないのであり、敵のあらゆる訴えを断固、はねのけて、冒頭に挙げた通り、声を限りに、容赦のない宣告を突きつけ、
  
おまえたちは、××してはならない!!
××することを禁じる!!
××せよ!!

という強い命令を、実行力のある方法で発して、彼らの口を封じなければならいのであって、それ以外の「コミュニケーション」はあり得ないのである。

ところが、ある人々は、それは暗闇の勢力に対して失礼かつ残酷すぎる措置であると考える。彼らは、暗闇の勢力と毅然と向き合って、断固、命令するどころか、かえって、おずおずと

私たちは、あなたたちに××して欲しいと願っています。
××して下さいませんか?

と、もみ手ですり寄るような、弱腰な訴えを口にして、直接交渉に及ぼうとする。

彼らはそのような”礼儀”が、暗闇の勢力に対しても必要だと信じているのである。だが、それは訴えではなく、懇願であるから、そんな言葉は、悪魔と暗闇の勢力にとって、自信を増し加える根拠にはなっても、何の脅威にもならず、痛くもかゆくもない。

彼らはそういう風に、自分たちの意思を問う人間が現れれば、喜んでいついつまでも彼らが頭を下げて自分のもとに懇願しにやって来ざるを得ない状況を作り上げるだけである。

アダムとエバの敗北は、そもそも神ご自身を抜きにして、蛇と直接、口をきいた時点から始まっていた。

そこで、今日、我々キリスト者に必要なのは、聖書の御言葉の権威に固く立って、それに基づいて、闇の勢力に対して、有無を言わさぬ命令を発することだけであって、彼らの意思など問うてはいけないし、中途半端な和解も、懇願も、してはならないのである。

ところで、裁判においては、弁論が重ねられるうちに、必ずある種のクライマックスがやって来る。つまり、どこかの時点で、論敵の嘘と詭弁に満ちた脅しが最大に達する瞬間が来る。そのときが、弁論の激しさが最高潮に達する時であり、裁判のクライマックスだと言えるが、信者は、その時、敵のもたらす恐怖に打ち勝って、敵の最大の武器をへし折ることによって、彼らの武装を解除して、彼らを無力化せねばならない。

それができるかどうかが、勝敗を分ける。つまり、裁判の決着は、判決が述べられる瞬間に初めて訪れるものではなく、むしろ、判決読み上げの瞬間が訪れるよりも前に、私たちキリスト者の中で、霊的な勝利がおさめられていなければならないのである。

そういう意味で、訴訟は一か八かの賭けであってはならず、裁判官の善良な人柄や、証拠の分量や、支援者の人数や、精緻なロジックの組み立てや、運の良さにすべてを委ねるような受け身の態度では、勝利をおさめることはできない。
 
これは裁判のみならず、日常のすべての場面に当てはまることである。キリスト者は、日常生活においても、暗闇の勢力と対峙することが必要となるが、その際、敵が持っている最も強力な武器が何であるかをよく理解し、時が来たときに、これを粉砕して無効化することで、敵の武装を解除することなくして、戦いに勝利して、次のステージへ進むことができない。
 
一つの戦いをクリアできないと、いつまでもずっと同じ問題に悩まされ、脅しつけられ、圧迫されたまま、不自由の中を生きて行くこととなる。
 
私たちキリスト者には、聖書の御言葉を武器として用いて、敵の嘘と詭弁の要塞を破壊して、彼らの武装を解除し、すべてのものをキリストの御名に従わせ、不従順を罰することが可能とされていることを忘れてはならない。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なもののになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅰコリント10:3-6)

さて、「最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。」(Ⅰコリント15:26-27)とある通り、敵(悪魔)の最大の武器とは、死である。従って、悪魔と暗闇の勢力の最大の武器とは、死の恐怖によって、人々を脅かすことであると言えよう。

そこで、当然ながら、キリスト者が暗闇の勢力の武器を粉砕して、彼らの圧迫を打ち破り、勝利を収めるために必要なことも、死の恐怖に打ち勝つことである、と分かる。

このことは、王妃エステルが、ハマンの策略により、ユダヤ人の民が皆殺しにされるかも知れない危機にあった際、この脅しによる圧迫に立ち向かうために、自分自身も死を覚悟した上で、王の前に進み出たエピソードの中にも見て取れる。

私たちも、暗闇の勢力との戦いに勝利するためには、死をも厭わない覚悟で、自分をとことん主の御前に投げ出して、敵の脅しに徹底的に立ち向かうことが必要となるのである。

「今や、我々の神の救い力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉で、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12]10-11)
 
神に従い、御言葉を地に実際として引き下ろし、御心を成就するためには、死をも厭わない決意で、主と共なる十字架において、絶えず霊的な死を帯びて、敵の脅しを打ち破ることがどうしても必要なのであり、そうした決意を抜きにして、主に従い抜いて、敵の武装を解除して勝利をおさめることはできないのである。

そこで、私たちは、敵が最大限の脅しを用いて向かって来るときには、自分自身を完全に主と共なる十字架に同形化して、これに応戦することが必要となる。この世の訴訟においても、そのような瞬間があり、言葉や証拠の争いよりも、もっと深いところで、霊的な激しい戦いが繰り広げられる。この世に現れて来る勝敗は、この領域における霊的な勝敗に沿ったものにしかならないのである。

そこで、キリスト者は、いかなる瞬間においても、まずは御言葉によって、霊的に敵の武器を無効化し、彼らの武装を解除することなくして、自由と栄光を掴むことはできないことを知るべきである。
 
とはいえ、私たちの勝利の根拠は、私たち自身にあるのではなく、カルバリの十字架で、キリストの死と復活を通して、悪魔と暗闇の勢力に下された裁きと滅びの宣告にこそある。それが、私たちが悪魔と暗闇の勢力がもたらそうとする死の恐怖に対して、すでに完全な勝利をおさめていることのすべての根拠である。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)

だから、私たちがなすべきことは、いかなる嘘、詭弁、脅しを受ける瞬間にも、徹底的に十字架の原則に踏みとどまって、キリストの死を、自分自身の死として受け止め、適用し続けることによって、そこにキリストの復活の命が働いて、勝利を得るまで、御言葉を武器に戦い抜くことであると言えよう。
 
私たちを死から命へと移し出す根拠は、ただカルバリにのみ存在するのであって、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの命の源であり、私たちの勝利、栄光、自由の源なのである。

従って、私たちの平和と自由の根拠は、決してこの世との和合にあるのではない。この世との間に軋轢を生まず、強い者たちの意向に逆らわず、世に波風立てず、ご機嫌伺いをすることによって、命を保てる者は、誰一人としていない。それどころか、そのような方法では、かえって命を失うということを、聖書は一貫して教えているのだと言えよう。

従って、私たちが世に接触する時には、深入りしないための警戒が必要である。私たちを生かしているまことの命の源がどこにあるのか、片時も忘れない用心が必要となる。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」(ヨハネ12:24-26)

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「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

オースチンスパークスのこの度の連載は、士師記をテーマとしており、士師記に重ねて、今日の聖徒らの恐るべき弱さの原因について語るところから始まっている。これからどう展開して行くのか、非常に興味深い内容である。

「霊の力の回復」第一章 十字架についての新たな理解 (3)
 
これを読むとき、私たちの霊的な強さは、神への徹底した従順の欠如から来ることが分かる。従順とは、御言葉に従うことであり、従うためには、御言葉と反するものに決して安易な妥協をしないことが必要となる。

ある人々が教会への迫害者に対する裁判に及び、裁判外で和解したところ、賠償金の支払いを約束したはずの相手が国外へ逃げてしまったという。これなども中途半端な妥協の結果としての苦い教訓であると言えよう。

真に和解できる相手ならば良いが、約束を履行するつもりがないか、履行しない可能性のある相手との和解は禁物である。

キリスト教徒は何事においても争うべきでなく、和解を目指すべきだと言う人々がいる。しかし、この世には決して和解してはならない相手、和解が不可能な相手というものが存在する。妥協することが、福音の根幹すなわち永遠の命に関わる問題へと発展する場合があるのだ。

そのように安易な妥協を繰り返し、手を結んではならない者と妥協することが、どれほど主の民から力を失わせるか、主のための証を失わせるか、士師記における主の民の敗北の積み重ねの中に見て取れると、上記の論説でも示唆されているのではないかと思う。

しかし、妥協してはならない相手とは、この世のあれやこれやの人間というよりも、とどのつまりは、サタンである。

ところが、筆者は、最近、ある信者と話をした際に、「何でもサタンのせいにするのはサタンへの責任転嫁だ」などという発言を聞いて、心から驚愕してしまった。筆者はそれとは全く逆の考え方をしているからである。

筆者の考えを述べておこう、「どんなことでもサタンのせいにしてしすぎることはない」と。

本来、サタンが負うべきはずの重荷を、人類がどれほど不当に転嫁されて苦しんでいることか。御言葉の約束を固く信じてて、これを自分に適用しさえすれば、それが自分の重荷ではなく、サタンの重荷であることにすぐに気づいて、解放される権利があるのに、それを知らずに、悪魔から不当に押しつけられた重荷を自分の力で背負おうとして苦しんでいる信者たちがどれほどいるか。

その重荷は、御言葉に基づいて、悪魔にお返しすれば良いのである。それなのに、御言葉を適用して自由になることができるのに、それに気づかず、わざわざ自分で問題解決をせねばならないと考えて苦しんでいる人は多い。不当な重荷を押しつけられているにも関わらず、まだ自分は負うべき重荷を十分に背負っていないなどと自分を責めているのである。そして、あまつさえ、サタンに責任転嫁してはならないなどと荒唐無稽な発言を大真面目にしているのである。
 
だが、そのように無知でいる兄弟姉妹を嘲笑うこともまた禁物である。以上のようなクリスチャンの弱さを見て、「これだからニッポンキリスト教界は・・・」などと言い始めれば、まさに悪魔の思う壺である。兄弟姉妹を責めるのではなく、彼らの目をくらましているサタンをこそ責めなければならない。

(KFCのように、クリスチャンの無知を高みから見下ろしては嘲笑しているグループなどは、クリスチャンを責めながら、決して悪魔を責めようとしないところに大きな罠がある。カルト被害者救済活動が、被害者の無知を責めて、加害者を無罪放免したのと同じ理屈である。確かに、クリスチャンの弱体化は嘆かわしい問題であるとはいえ、キリスト教徒の無知を責めたり、嘲笑するような人々は、それによって、聖徒らを辱めてサタンを無罪放免する側に回っていることを思い知るべきである。)
 
かつて筆者はある交わりにおいて「サタンを責める」ことの有用性を聞かされ、そこから非常に重要な教訓を学んだと考えている。サタンを責めるなどのことは、初めは筆者にも、まるで意味のないことのように思われた。しかし、その後、不当な重荷を負わされないためには、徹底的にサタンと言い争って、御言葉に固く立って、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返すことが必要なのだと学んだ。そして、それが可能なのだと。

もう一度、我々はどんなことでもサタンのせいにしてしすぎということはない、ということを言っておかねばならない。私たちがどれくらい解放されるかは、私たちが不当に負わされている重荷にどれほど気づいて、これをサタンに跳ね返すかにもかかっていると言えよう。筆者が多くの信者に気づいてもらいたいと願わずにいられないことは、サタンだけは、どれほど責めても、責めすぎということはなく、サタンを責めても、いかなる権利侵害も発生せず、八つ当たりにも該当せず、名誉毀損も発生しないことだ。そもそも地獄で永遠の刑罰に定められている存在に対して、私たちがどれほどひどい責め言葉を発したとしても、行き過ぎということはない。サタンには永遠の恥辱がすでに与えられているのだから、今更、回復すべき名誉などあるはずもないことは明白である。

ところが、不思議なことに、キリスト教徒を名乗っている人たちのうちかなりの数が、サタンを憎むこともなく、むしろ、サタンに同情すらしている現状があることを知って、筆者はこれに非常に驚き、嘆かわしい事態だと思っている。

聖書に記されている通り、サタンは「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)であり、私たちクリスチャンを日夜告発する者である。サタンがどれほど執拗に、私たちにいわれのないことで責任転嫁しては、私たちに有罪を宣告しようと機会を狙っているかは、ゼカリヤ書を見ても分かる。

「 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。 」(ゼカリヤ3:1-2)

悪魔は大祭司ヨシュアを訴えたように、今日も、聖徒らを訴えている。サタンがどれほど聖徒らに濡れ衣を着せようと、日夜、神の御前で執拗に聖徒らを訴えているかを考えれば、私たちは、そのいわれのない告発から身を守るために、御言葉で武装する必要を否定することはできない。

私たちには、サタンの執拗さを上回るほどの執拗さで、サタンを神に告発することが必要なのであり、そのために、私たちは自分を贖って下さった神の約束に固く立って、御言葉を防衛の盾として自分自身に適用し、証の言葉を述べなければならないのである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

このように、霊の戦いは何ら荒唐無稽な作り話でもファンタジーでもない。「悪魔の策略」というものがれっきとして存在しており、これに対抗して立つために、主の力によって強められ、神の武具によって武装することが必要なのだと御言葉ははっきり述べている。

これまで当ブログでは、霊の戦いとは、暗闇の軍勢が振りまく嘘に対して、御言葉に立って反論し、激しい論戦を繰り広げ、嘘に打ち勝つことを指すと述べて来た。霊の戦いとは神社に油をまくことでもなければ、悪霊退散の祈祷を行うことでも、訳の分からなお札を家中に張り巡らすことでもない。

私たちの戦いは、悪魔の虚偽に対して、神の御言葉に固く立って反駁し、嘘を打ち破って、人々の思いの中に働く惑わしを打ち破り、この地上において、真理を浸透させて行くことである。
 
むろん、物理的な領域における戦いというものもあるとは思うが、まずもって霊の戦いとは、真理と嘘の間で戦われる激しい攻防戦なのである。そこで、私たちも日常生活において、あらゆる不当な言いがかりや圧迫を受けるであろうが、そもそも自分に非のないことで、悪魔から不当に責任転嫁される筋合いにはないということを、はっきりと言い返さなければならない。どんな些細なことであれ、心に罪悪感をもたらす重荷をきっぱりと拒否して、罪はその真の出所(悪魔)にお返しする必要がある。

その根拠となるものが、小羊の血潮による義認である。これを持って、私たちは自分がどんな事柄においても、誰にも決して責められるべきところのない完全な人だと言えるのである。

しかし、それでもサタンはあることないこと取り上げては、私たちを非難して来るであろうから、私たちはその虚偽に対しては、神に義とされた者として断固立ち向かい、神の開いた法廷の前で、日夜、サタンと対峙して、彼の罪を訴えなければならない。

クリスチャンは望むと望まざるとに関わらず、日夜、サタンから激しい論戦を挑まれ、それに対して御言葉によって勝利することが求められているのである。

ここで注目せねばならないのは、神とサタンが言い争っているのではないということだ。法廷において、対立する陣営として向き合い、論戦を繰り広げているのは、人類(聖徒ら)と悪魔であり、神は両者の言い分に耳を傾け、判決を下す裁判官の立場にある。

神がサタンの言い分に耳を傾けるのかと驚く人があるかも知れないが、ヨブに試練が与えられた時、神は、サタンがまずヨブのような義人でも試練が与えられれば信仰を捨てるだろうと述べた言葉に耳を貸されたことを思い出したい。そして、サタンの提案した挑戦の方法では、決してヨブの信仰を取り去ることができないことを示すために、神はあえてサタンの提案を実行に移すことを許されたのである。

このように、神は今日も、悪魔と信じる者たちの言い分を比較衡量される。しかし、それはサタンに勝利を与えるためではなく、サタンのすべての策略を打ち破って、神の教会が、神の豊かではかりしれない知恵を表し、それによって神に栄光を帰するためである。サタンはあらゆる脅かしを使いさえすれば、信者はみな神への信仰を捨てるものと確信している。しかし、神はそうではないことを知っておられる。知っておられるが、サタンの挑発を跳ね返して、信仰に立ちおおせて神に栄光を帰する仕事を、あえて信者に委ねておられるのである。

神と悪魔との間では、キリストの十字架においてすでに決着が着いているが、被造物の世界において、決着をつけるのは、いわば、私たちの仕事である。

神はキリストの十字架において、私たちを奴隷にしていた罪の債務証書を無効にし、破り捨てられたが、その後、今度は、私たちがサタンへの告発状を書いて、それを携えて、神の御前に立っている。

サタンも被造物であるが、私たちも被造物として、神の創造された世界の主権が誰にあるのかを争っている。悪魔は、それが自分のものだと言う。しかし、私たちはそうでなく、神のものだと言う。私たちは、サタンは不法侵入者であって、サタンが主張している主権は、神から強奪したものでしかないから無効であると訴えている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

私たちに任されている使命は、キリストの勝利を被造物の世界においても打ち立て、御名の権威を行使して、すべてのものが膝をかがめてイエスは主と告白するよう、神の主権、力、支配をこの地に来たらせることである。そのために、私たちは、サタンによる占拠が不法であり、無効であることを訴えて、立ち退きを迫っているのである。
 
私たちが被造物の世界において、御名の主権を取り戻し、かつ行使して、サタンに立ち退きを迫る根拠となるのは、キリストが十字架において悪魔の支配を打ち破られ、私たちを奴隷として拘束していた罪の債務証書を無効とし、死の力を滅ぼされたことである。

この勝利の証文を振りかざして、私たちは日夜、神の法廷において、サタンの言いがかりに立ち向かい、事実を争っているのである。敗北すれば、サタンの領土が広がる。勝利すれば、キリストの主権による支配が広がる。創世記の冒頭で、人類が蛇に遭遇し、神に従うのか、悪魔に従うのか、決断を迫られた時のように、今日も、私たちは神の御言葉と悪魔の言い分のどちらを信じて従うのか、常に決断を迫られている。

だが、創世記と異なるのは、私たちにはすでに律法を成就されたキリストが共におられ、私たちのために知恵と力となって下さっていることである。
 
繰り返すが、神は確かにキリストの十字架において悪魔に勝利を下されたが、その勝利を行使することは、私たちの日々の生活にかかっている。その勝利をこの地に実際として引き下ろし、適用し、キリストの御名によって支配される領域を拡大することは、私たち自身に任された仕事なのである。

その中で、私たちは、私たちを不当に責めるサタンを責め返し、彼に重荷を跳ね返すことがどれほど必要であるかを知らなければいけない。

繰り返すが、サタンの罪というのは、もはや天に到達するほどにうず高く積みあがっており、その上に何を増し加えたとしても、加えたことにならないほどである。サタンはいわば無限大に罪を犯している存在であって、「サタンを責めるのはお門違い」などということは決してあり得ない。
 
人類が罪を犯して堕落したことも、根本的にはサタンのそそのかしによる。確かにキリスト教徒となり神の子供として受け入れられるには、私たち自身が、罪を悔い改め、神に立ち帰ることが必要であるが、それは一度限り永遠に効力を持つものであり、悔い改めとは、悪魔に向かって永遠に懺悔し続けることではない。

すべての罪の起源は、サタンにあり、サタンこそ責められるべき張本人であることを私たちは忘れるべきではない。それを忘れて、霊的に弱体化したクリスチャンばかりを責め続けていれば、いずれ悪魔に加担する羽目になって行くのは避けられないであろう。
 
聖徒らが弱体化したことの責任も、もとを辿ればすべてサタンにあると言えるのであって、サタンにはいかなる同情も憐憫も無用であり、サタンに責任転嫁してはならないなどと言った主張は、すべて荒唐無稽である。それは私たちに真の敵が誰であるかを忘れさせ、私たちのものではない重荷を私たちに背負い込ませようとするための虚偽の策略であると言えよう。

ところが、このような話を始めると、早速、耳を閉ざしてしまう信徒たちが現れる。彼らは悪魔とは何かしら形而上の存在であって、比喩のようなものだと考えて、それが現実の存在だとは信じておらず、悪魔に立ち向かうという話を聞くと、極端なたとえ話や、冗談のような話を聞かされていると考えて、耳を背けるのである。しかし、悪魔の存在を否定すれば、その分だけ、彼らは自分たちをそそのかし、惑わす存在があることに対して無知となり、抵抗する力がなくなって、無力となるのだと言える。

敵が存在しているにも関わらず、敵などいないと考えて防衛を怠るほどに危険なことはない。攻撃を跳ね返すためには、攻撃の源を知らなければならない。しかし、多くの場合、敵からくる攻撃は、物理的なものというよりも、思想的な攻撃である。敵の要塞というものが存在する。嘘、詭弁、屁理屈、神の知恵に逆らう高慢、思いをくらます惑わしなどの策略が存在し、それらを発する要塞となる拠点も存在する。

しかし、私たちは、その要塞をも御言葉に立脚して、神の知恵により、ことごとく論破して、破壊して行くのである。以下の言葉は、預言者エレミヤだけに述べられた言葉ではない。万民祭司の今日の時代には、クリスチャン一人一人がその役目を担わなければならない召しを告げたものに過ぎない。

いつまでも弱さの中にとどまっていてはならない。神の勇士たちよ。小羊の血潮により、贖われた者として、神の義に固く立って、悪魔の嘘に対抗し、主の偉大な力によって強くなり、敵の要塞を破壊して、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせる神の戦士として大胆に前進し、新たな領土を勝ち取りなさい。
 
「主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。  その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 」(エレミヤ1:4-10)

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
 心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙四章一二節、改訂訳)

ヘブル人への手紙四章一二節のこの注目すべき節は、魂と霊の区別、両者を互いに「切り離す」必要性、それがなされる手段をはっきりと示しています。これは、信者が真に「霊の中で神にしたがって」生きる「霊の」人となるためです(ペテロ第一の手紙四章六節)

ペンバーはこの節に関して、次のように指摘しています、「使徒がここで言っているのは、神の御言葉の切り離す力である。祭司が全焼のいけにえの皮をはいで、四肢をばらばらに切り離したように、神の御言葉は人の存在全体を霊、魂、体に切り離す」

フォウセットは次のように記しています、「神の言葉は『生きていて』、『力があり』(活動的・効果的で、ギリシャ語)、『人のより高度な部分である霊から、動物的魂を分けるにまで至る』」「神の言葉は、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し、肉的・動物的なものから霊的なものを分離し、魂から霊を分離する」「神の言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在、魂と霊を分ける」「この描写は、祭司の剣によって、文字通り関節を切り離し、骨髄を刺し通してさらけだす所から取られている」。

神の霊が信者の霊の宮から自由に活動するかわりに、信者は魂の命によって支配されるおそれがあります。この危険性に対して目を開かれている信者にとって、ヘブル人への手紙四章一二節はとても示唆的であり、教訓的です。フォウセットの言葉はこれを示しています。

霊の人になることを願う信者のうちに、ただち次のような疑問が生じるでしょう、「私はどうすればいいのでしょう?どうすれば、私の歩みや奉仕の中にある魂的なものを識別できるのでしょう?」。

いま考察しているテキストによると、私たちは私たちの大祭司に自分を明け渡さなければなりません。この方は「もろもろの天を通って行った」方であり、この方の目に「すべてのものは裸であり、あらわにされています」(ヘブル人への手紙四章一三節)この方が祭司の務めを果たされます。彼は、鋭い両刃の剣である御言葉を用いて、私たちの内にある魂と霊を切り離すまでに刺し通し、「心の思いと意図」さえも識別されます。フォウセットは注解の中で、「『思い』と訳されているギリシャ語は心や感情に言及しており、『意図』または『知的観念』と訳されている言葉は知性に言及している」と記しています。

主は、私たちの肉体的・道徳的弱さに同情することのできる、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブル人への手紙二章一七節、改訂訳)となるために、人となられました。この方だけが、祭儀用の剣*を用いて、思い、感情、知性、知的観念さえも刺し通し、魂の命を忍耐強く「切り離す」ことができます。なんという働きがなされなければならないのでしょう!

聖霊が内住している霊が支配し、あらゆる思いを虜としてキリストに従わせるには、動物的な魂の命が取り除かれなければなりません。ではどうやって、動物的な魂の命は、その「関節と骨髄」さえも貫いて探知され、取り除かれることができるのでしょう?私たちの大祭司は、決してしくじったり、諦めたりされません。主は裁きの中から勝利をもたらされます。ただしそれは、人が自分を主の御手に委ね、主に信頼する場合です。主は神の霊により、生ける御言葉の剣を振るって下さいます。

魂と霊(Soul and Spirit)ジェシー・ペン-ルイス著  第4章 いかにして「魂」と「霊」は切り離されるのか



裁判官に会う日程も決まり、着々と物事が進行している。
 
さて、このところ、悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去るだろうという御言葉の意味を知らされている。今回は、御霊によって歩む生活を考える上で、邪悪な思念を退けるというテーマについて語りたい。

かつて当ブログでは、主と共なる十字架における自己の死について、幾度か語ったことがある。信者の生まれながらの体の邪悪な働きに対しては、主と共なる十字架における霊的な死が信者に適用されることが実際に可能であると。

多くのクリスチャンが、信仰生活の最初に、罪との格闘において、この段階を通る。そして、罪に対する勝利は、人自身の力によるのではなく、御言葉を通して、人間の堕落した肉体に働く主と共なる十字架の死が適用されることによって初めて可能になるのだと知る。

だが、十字架の働きはそこで終わらない。体に対する十字架の霊的死が適用されれば、次なる段階として、魂の命全体に対する十字架の死が適用されるという段階がある。それは、人の天然の肉体と魂に働くアダム来の命の邪悪な働きに対する死である。
 
罪との格闘が、最初は失敗からしか始まらないように、信者が魂の命の邪悪な力に気づいて、これを御言葉によって克服する方法を知るにも、それぞれの段階がある。まずは気づき、抵抗、格闘、勝利といった段階がある。

悪魔は、クリスチャンに対して、あたかもクリスチャン自身が思い描いていることであるかのように見せかけながら、邪悪な思念を外から吹き込むことができる。悪魔は、信者に恐れや、不安や、神に対する疑いや、罪悪感や、その他、信仰を曇らせるあらゆる邪悪で不潔な思念を心の中に混ぜ込もうとする。

それだけではない。悪魔は光の天使に偽装して、信心に見せかけた誤った思想や、常識に偽装した御言葉にさからう悪しき思念を、もっともらしい理屈のように見せかけて、信者に信じ込ませることもできる。

とにかく悪魔は神の栄光を曇らせる様々な虚偽の思いをクリスチャンの思念の中に絶えず注入しようとしており、それによってクリスチャンの自由を奪い、信者が自分で自分を縛り、信仰が働く余地がなくなるように仕向けているのである。

このことを知らないうちは、クリスチャンはそうした悪しき思念が自分自身の思いなのだと勘違いし、それにとらわれたまま生き続けてしまうだろう。

だが、もしもクリスチャンが、悪魔から来た思いを自分の思いであると信じ込み、また、それが抵抗することも、変えることもできない運命的な結論であるかのように信じて受け入れれば、その思念が実際にクリスチャンの霊の内に働いて現実になってしまう。

悪魔が狙っているのはまさにこのことであり、本来は、神の恵みに満ちた御言葉を地上で生きて実践し、御国の秩序を地に引き下ろすために存在しているはずのクリスチャンを、悪魔の思念を実現させるための道具に変えてしまうことなのである。

そこで、信者の心が戦場となる。信者の心には様々な敵矢が撃ち込まれ、神から来たのではない様々な種がまかれるのである。信者がそれに気づいてこれを取り除かない限り、その種は発芽し、雑草のようにはびこり、信者の心全体がやがて神から来たのではない思想に専有されて行くことさえ起きかねない。
 
だが、信者は誰しも天然の魂の命の邪悪な働きについ初めからて熟知しているわけではないので、この戦いは、完全な勝利から始まるというわけにはいかない。まずは信者が様々なきっかけを通して、霊的な敵が、自分の思いの中に、悪魔から来る要素を注入しようとしているということに気づくところから始めねばならない。

幾度かの失敗と、悪しき思念との格闘の末、ようやくクリスチャンは、自分の天然の魂に働く邪悪な衝動を見分けてこれを撃退する必要に気づき、やがて御言葉による実力行使によって、毅然と自分の思いの中に混ぜ込まれようとする様々な誤った考えに抵抗して打ち勝つことができるようになる。
 
信者は、御言葉に合致しない、神に栄光を帰さない、御言葉に敵対する、悪魔に由来する邪悪な考えや、さらに、自分自身に害を及ぼすような考えを、即座にきっぱり拒否する必要があると分かる。

もしもそれが分からないままでは、その信者は自分が一体、何に攻撃されているのかも分からないまま、ただやられっぱなしの状態が続くであろう。こうした無知な状態をすべてのクリスチャンが脱しなければならないのである。
 
たとえば、クリスチャンが稀に誰かからあからさまに呪いの言葉を浴びせられるということも、現実には全く起きないわけではない。しかし、クリスチャンは、そうした悪意ある言葉を聞いたときには、即座にこれを心の中で断ち切らなければならない。なぜなら、御言葉を参照すれば、私たちのためには、すでに木にかかられて呪いとなられた方がおられるので、そうした邪悪な言葉を私たちが身に背負う必要もなければ、そんな責任も全くない。そのことにちゃんと気づかねばならない。

それができなければ、信仰あるクリスチャンでも、呪いの言葉を受け入れてそれを身に引き受けるなどという馬鹿げた事態に至りかねないのである。

だが、悪意を持って第三者から発せられた言葉であれば、それが悪であることは、比較的誰にでも分かりやすい。誰もそれが神から来たものであるとは思わないであろうし、そんな言葉を真に受ける人も少数であろう。

だが、ふと人の心に何気なく思い浮かぶ様々な思念の中にも、そうした邪悪な起源を持つものが含まれていることがあると、気づいているクリスチャンたちはどれくらいいるであろうか。文字通り、自分の心に去来するすべての思いを、御言葉に照らし合わせて吟味し、まことの大祭司なる神の御手に委ねなければならないことを真に知っている人々はどのくらいいるであろうか?
  
邪悪な起源を持つ思いが、まるでその人自身の思いつきであるかのように装って、人の心に外から注入されるということが実際に起きうるのである。いや、四六時中起きていると言って過言でないかも知れない。そこで、信者は自分の魂に対しても、十字架の霊的死の働きが不可欠であることを知らねばならないのである。

たとえば、どんなに敬虔なクリスチャンであっても、何かよく分からない倦怠感、諦念、恐れや不安に駆られたりすることが全くないわけではないだろう。それは一時的な体調不良や、疲れに伴ってやって来るもののように思われるかも知れないが、それだけではない。
 
大概、暗闇の勢力は、信者の体の弱体化に伴って、邪悪な思いを注入するということに注意が必要である。以前にも書いたように記憶しているが、主イエスは十字架上で、痛みを和らげる効果のある酸い葡萄酒を拒まれた。(ただし息を引き取る直前には、それとは違った文脈でこれを受けられたが)。

このことは、イエスが罪なくして罪人の代表として、十字架刑の苦しみを、人工的な緩和なしに余すところなくその身に背負われたことを意味するが、同時に、主イエスが、体の働きを少しでも麻痺させるような薬の服用によって、霊的な命の支配力が弱まることを拒否されたことをも意味する。

つまり、痛みを和らげるためのアルコールを含めた様々な薬の服用は、ただ人間の苦痛を緩和するだけでなく、人間の判断力を鈍らせ、人が自分自身を治める力自体をも鈍らせ、失わせてしまう効果を持つのである。

霊は信者のうちで支配力を持つ司令塔であるが、体の働きと一切無関係にその支配力を実行に移せるわけではない。従って、体の力が弱まり、バランスが崩れれば、それに伴い、人間の思考力、判断力といったもののすべても低下する。霊的な識別力、判断力も、当然ながら、弱まって来る。
 
そこで、サタンは大概、信者の体のバランスが崩れた時に、信者の魂や霊に対する攻撃をしかける。体の弱体化には、過労や、病気やあからさまな災害によって引き起こされる変調もあれば、投薬による感覚の鈍麻もある。そこで、クリスチャンはそうした体の変調・弱体化を可能な限り、避けるべきである。不必要な薬の服用によって、霊的な命の統治の力までが弱まることに無知でいてはならない。
  
サタンが、こうして信者の体の弱体化に乗じて、正体不明の恐れや不安や疑いを注入して来るとき、信者はこれに毅然と立ち向かって、その思念を撃退することが必要となる。どんなに疲れていても、その思念がどこから来るものであるのかをきちんと見分け、受け入れてはならないものを拒否する姿勢を失わないようにせねばならない。

特に、自分や、家族や、自分に属するすべての大切な人々の命に危害を加えようとするような思念、人生で目指していた目標を諦めさせようとしたり、理由もなく失望落胆させる思念といったものには、徹底的に立ち向かって、これを受け入れることを拒否し、気力を奮い起こして立ち上がって抵抗・撃退しなければならない。

こうした格闘により、信者には、生まれながらの魂の命に働く邪悪な思いを否むことの秘訣がだんだん分かって来る。

だが、このことは決して信者が、主に従う上での苦難を一切、背負わなくなることを意味しない。悪しき思いを退けることと、試練と一切無縁の人生を送ることは別である。依然として、信者の人生には、様々な試練は起きて来るのだが、それでも、信者はこれに極めて積極的に立ち向かって、御言葉により大胆に武装して、これを克服し、勝利する秘訣を学ぶようになる。御名のゆえの苦しみを負いつつも、それに対する勝利があることを確信し、その試練の一つ一つを信仰によって乗り越えて行く秘訣を知るのである。
 
理由もなく苦しみにもてあそばれ、サタンのなすがままになることが、日々十字架を取って主に従うことではない、ということを、信者は心して理解しておかねばならない。霊的な戦いは、まさに信者の心の内側で始まるのであって、信者の魂が戦場となり、神の御言葉と悪魔の虚偽との間で、争奪戦の対象となるのだということを覚えておかねばならない。

私たちはすべてのことについて、神の限りなく豊かな命を選ぶのか、それとも、悪魔の押しつけて来る束縛や限界や死を選ぶのか、問われている。文字通り、すべての選択において問われている。私たち自身が、どちらを真実だとみなして受け入れるかによって、その後の人生が変わる。御言葉に根差して、自らの思いをコントロールすること、御言葉に合致しない思いを退けることは、私たちが神の恵みと祝福に満ちた人生を失わないでいるために、必要不可欠な日々の戦いである。

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。
 
さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。
 
ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。
 
その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。
 
嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。
 
ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。
 
私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。
 
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)
 
「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12:4-9)
 
主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
朝方、小鳥たちのさわやかな美しい鳴き声で目が覚めるのはまことに気持ちが良い。外出時には引き留められ、帰宅時にも愛らしい出迎えがある。

猫派、犬派だけでなく、鳥派、というものもおそらくあるのではないかと思う。地に足をつけない生き物だからこそ、好感が持てる。特に、文鳥のように小鳥の中でもとりわけ小さな鳥が、どれほど人間によくなつくものか、知っている人はそう多くはないのかも知れない。

鳥がどこまで人間になつくものか、どこまで鳥とのコミュニケーションが可能か、愛好家を除き、どれほどの人々が知っているだろうか。犬猫には多くのことが期待されるが、鳥には一般にあまり期待がかけられていないように思う。

聖書では、鳩を除いて、鳥一般がそれほど良い生き物とはあまりみなされておらず、しばしば悪霊の象徴として描かれるが、都会暮らしの筆者にとって、残念ながら、鳩はそんなに好感が持てない。むしろ、1アサリオンで2羽買えるという雀の方がよほど愛らしく思える。

色々と珍しく美しい鳥を飼ってみて、それぞれに独特の愛らしさがあり、極彩色の珍しい鳥には目を奪われるが、やはり、素朴で愛らしい庶民的な鳥として、文鳥は異彩を放っていると思う。文鳥は鳥綱スズメ目カエデチョウ科に属するそうだから、ほとんど雀のようなものだろう。

値段的にも手頃なので、文鳥は誰にでも入手できる(ただしよく馴れたものを飼わなければならない)。そこで、独り暮らしの老人や、様々な苦難に追われている人々の家にも、一羽の文鳥がいれば、人々は生きる意欲をこの小さな鳥からも、存分に学べるのではないかと思う。

何しろ、大きな鳥がエネルギッシュなのは当然であるとして、これほど小さな体の鳥がこれほど愛らしく造られ、賢く活発に飛び回って生きているその様子を見ていると、まして人間にはさらにもっと多くのエネルギーと知的可能性が備わっていることは疑いの余地がないと分かって来る。

こうした生き物を見るときに、彼らに注がれる神の愛を思わずにいられない。神の許しなしには、一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)というフレーズを思い出す。それは転じて人間に対する神の愛として受け止められる。勇気を出しなさい、一羽の雀さえ、こうして神が素晴らしく造られ、養っていて下さるのだから、まして人間はもっと神の御前に高価で貴い存在ではないのか。

だが、それは単に人間の貴さを力説して人を自己満足させるための御言葉ではない。冒頭に引用したように、人間に注がれている神の愛は、信者が主の御名の証人として立つことと大いに関係がある。

こうして主が新しい鳥たちに出会せて下さるのも、小さな十字架の死と復活の働きである。
 
さて、参院選が近づいているが、今一つ選挙は盛り上がっていないような印象を受ける。大本営発表は早くも与党に有利な情報ばかりを流しているらしいが、筆者は大本営広報部というものは嘘しか発表しないと理解しているので、全く目にしていない。さて、ネットには次のような面白い記事があったので引用しておきたい。

マスコミに載らない海外記事」からの引用である。翻訳もさることながら、訳者のコメントがいつも気が利いていて面白い。巨城も蟻の一穴から崩れる、と言われる通り、IWJに6000人近くも読者いるのであれば、憂鬱になる必要はないだろう。なぜなら、その6000人がみなインテリであって、自分の耳に入れた情報を隣人に伝えて行く力があれば、それだけでかなりのインパクトがあるからだ。10万人の愚者が定期購読している御用新聞よりも、6千人の知者が購読している民間のメディアの方が力がある。

ここで筆者にはバアルに膝をかがめなかった7千人、という聖書のフレーズが頭をよぎる。

それはバアルの預言者たちの前で、大胆に神の奇跡を行ない、バアルの偽預言者たちを皆殺しにした神の預言者エリヤが、アハブ王を背教によって堕落させた王妃イゼベルに命を狙われ、彼女の追跡を恐れて逃亡していた時に神がエリヤに言われた言葉である。

エリヤはバアルの預言者たちの前であれほど大胆に主の御名を証したのに、なぜイゼベル一人に恐れを感じて荒野へ逃げたのか、という質問を投げかける人がよくいる。どのような方法でイゼベルがエリヤを追い詰めたのかは分からないが、少なくとも、エリヤは追われるのは沢山だ、自分の命を取ってくれと神に願うのである。

しかし、神はそんなエリヤをあざ笑ったり、見捨てたりすることなく、むしろ、食うや食わずで疲労困憊していた彼のために食事を備え(復活のイエスが漁をしていた弟子たちのために食事を整えた光景を思い出す)、そして、国中の全ての人間が背教に落ちたアハブ王とイゼベルの手先になっているわけではないことを告げ知らされる。しっかりしなさい、エリヤよ、あなたは一人で戦っているわけではないのだ、アハブとイゼベルに魂を売らなかった人間が確かに残っているのであり、その数は7千人であると。

筆者は考えている。志の純粋性さえ保てていれば、人数はそう多くなくて良いのだと。当ブログなど、再開当初は訪れる大半はさわやか読者であったが、そんな中でも、記事を書き続けていると、さわやか読者の数はもうほとんど1人、2人程度しか残っておらず、その代わりに、あっと思うような輝きを放つ検索用語で当ブログにたどり着いて来る人々が増えた。

以前のような聖書の脅し文句ではなく、真実、キリストを訪ね求めた人々でなければ、決して使わない御言葉である。

そんな光景を見ていると、御言葉を慕い求める人々が尽きたわけではないことがよく分かって来るのだ。常に筆者を意気阻喪させようと工作に余念がない人々の活動は脇に置いて、主が取り置いて下さった人々のことを考えたい。

ブログを書き続けていると、自ら発表したもののの影響の大きさを常に感じさせられるが、相手は常に人間ではないのである。目に見える読者でもなければ、読者数でもない。はっきり言えば、ものを書いて行く上での影響力の大きさは、情報の質である。

真に美味しいコーヒーや、入手しにくい珍しい鳥を訪ね求めてはるばる行脚する人々がいるように、安っぽい嘘にはうんざりして真実かつ高い質の情報を求めている人々は常に存在しており、そういう人々の要求に応えうるものを作って行けば、必ず、その衝撃力の大きさは現れるのである。

さらに、キリスト者である以上、筆者はただ人間の満足のためだけにものを書き続けているわけではない。これは主の御名による戦いであり、暗闇の勢力に対する衝撃力を伴う攻撃でもあるのだ。敵が我々を意気阻喪させることに余念がないならば、こちらも彼らを意気阻喪させねばならない。それはただ御言葉に基づき、何が真実であって、何が虚偽であるかを明るみに出すことによる。それが我々の霊的戦いなのである。

さて、以下の引用であるが、「スネオファシズム」とは実に言い得て妙である。誰に対するファシズムかと言えば、当然、のび太に対するファシズムである。つまり、我が国の行き先が参院選で問われているわけだが、選択肢は二つに一つだということである。

ジャイアンーースネオーーのび太という三者の関係から思い出すのは、常にキリスト教界や、他の教会や、他の信者を見下すことで、自分たちだけは天の特権階級であると誇って来たある宗教団体である。ペンテコステ・カリスマ運動を通じて、その宗教団体は、カルト被害者救済活動と一体であるが、その宗教団体は、自らの背教を隠すために、筆者にイゼベルの汚名を着せたのであった。しかし、すでに幾度も記事で書いて来た通り、イゼベルと呼ばれるにふさわしいのは、筆者ではなく、異端の教えを臆面もなく言い広めた上で、筆者に濡れ衣を着せようとした人々である。

その団体は、昔から高慢さと自己満悦で有名で、これに関わった人々は、筆者の周りでも、ことごとく手に負えない高慢さに落ちて行き、自分以外の他の信者を見下し、人の弱みをあげつらってはあざ笑うようになった。それを自分たちが「神に祝福されている証拠」だととらえ、どんな風に自分が欲望をかなえたか、どれほど他者には手の届かない非凡な体験をしたか、という話をまるで信仰の手柄であるかのように吹聴して回るようになった。日常の体験だけでなく、その人々は「神の御声を聞いた」とか「御姿を見た」とか、誰が聞いても怪しいとしか感じないような呆れる体験談を盛んに手柄として自慢するのである。
 
しかし、他者に対する優越感しかよすがのない人間というのは、本当に内面が空虚である。常日頃から、自尊心を捨てて、自分よりも強い者に媚びへつらい、魂を売って生きているからこそ、自分よりも弱い者の弱点を暴き立て、これを踏みしだき、優越を誇ることによってしか、自分の惨めさを隠し、憂さ晴らしする方法がないのである。そういう風に、人々の間に見えない階級制度を作り出し、互いの間に差別を敷くことによって、国民を分断し、互いに争わせ、もはやあるまじき出来事がどれほど身の回りで起きても全く心が痛まないほどに他者の痛みに鈍感になり、己の満足しか眼中になくなった人間を大量生産し、そういう愚者を操ることによって、己の統治を強化しようとしている何者かが存在するということを考えてみるべきであろう。他者への優越感を生き甲斐として他者を見下して勝ち誇っているような連中は、みなその格好の操り人形となっているだけである。だが、ある時期が来たら、そういう人々はみな御用となって消え去る。なぜなら、栄枯盛衰、権力というものはどれも永遠ではないからである。

さて、我が国がこれからもずっとジャイアンに踏みしだかれて、自尊心を絶えず傷つけられ、一個の人格として否定されながら、それでも自分よりも成績の劣ったのび太に対する優越感だけを生き甲斐として生きる惨めで意気地なしの「スネオ」であり続けるのか、それとも、のび太を踏みつけにすることで憂さ晴らしをするという虚栄の生き方を捨てて、のび太と共にジャイアンに立ち向かい、誰もが生きられる世界を目指すのか、問われている。

参院選の争点は、アベノミクスでなく、改憲なのだが、何よりも、対米隷属という「長い物には巻かれろ」式の生き方から、いつになればこの国は脱却するのかということが、毎回、問われている。「ジャイアン(米国)」の威を借る「スネオ」(奴隷)として生きることのみっともなさをそろそろ自覚すべき頃合いである。

というのも、ジャイアンの攻撃性は日々強まっており、今までのように、スネオがのび太を馬鹿にし、踏みつけにし、貢がせる程度のことでは、欲望がおさまらなくなって来ているからだ。今、ジャイアンが夢見ているのは、スネオに武器を持たせて、自分の代わりにスネオがのび太を殺す光景を見たいということだ。そのような見世物を俺様に早く寄越せと、ジャイアンは随分前から、スネオにせっつき、スネオを脅すようになっているのだ。さすがのスネオも一応、インテリのはしくれではあるので、こういう要求には我が身の危うさを感じ、蒼白になっている。

だが、ジャイアンは、別の町にもスネオのような、いや、スネオよりももっと凶暴な第二のスネオを抱えているので、スネオが要求をおとなしく飲まないと、殺されるのはのび太ではなくスネオだぞと脅している。いつになったら、そんな呪われた関係から、スネオは抜け出るのか、どこまでジャイアンと共に罪の連帯責任を負い続けるのか。ジャイアンのためなら、殺人者になることも厭わないのか? スネオは、その一線を超えるつもりなのか? そうして、いずれ町ごとジャイアンのための献上物、見世物として、焼け跡のように変えてしまうつもりなのか?

というのも、ジャイアンが、たかがのび太がやられたくらいのことで、満足するはずがない。スネオがのび太をやったら、ジャイアンの要求はさらにエスカレートするだろう。のび太が100人死んでも、ジャイアンの欲望はおさまらない。おそらく、スネオも死んで、町の住人が皆殺しになって、ジャイアン一人残るまで、ジャイアンは満足しないだろう。ジャイアンの猜疑心はそれくらい深いので、自分以外の誰かが生き残っているだけでも、王座を奪われるのではないかと、気が休まる時がないのだ。だから、ジャイアンにとっては、自分以外の誰もいない世界が望ましく、スネオであろうとのび太であろうと、皆が敵なのである。だが、そんなジャイアンの欲望の言いなりになっては、この国土はもはや灰塵と帰して何も残りはすまい。そして、その日にジャイアンは言うだろう、「おまえたちには大変、不幸なことだったな。何しろ、空から原爆が降ってきたんだ。どういういきさつでそんな惨事が起きたのか、俺は全く知らない」と。

むろん、これはジョークであるが、実際に、このような経過を我が国が辿ることはないであろう。なぜなら、歴史は繰り返せないからである。グノーシス主義の原初回帰が不可能であるのと同様、軍国主義の再来も不可能である。以前に起こったことをどんなにもう一度起こそうとしても、それは無理である。

そして、神は義人と悪人とを共に滅ぼすようなことはなさらない。地球が何万回滅びるほどの出来事が起きたとしても、神はご自分を頼る民を必ず守り、救い出して下さる方なのである。十字架の死は、決して霊的死のみでは終わらず、復活の前提なのである。主の御名は誉むべきかな。
 
  
以下は「マスコミに載らない海外記事」から抜粋(太字、赤字は筆者による強調)

大本営広報部とは、全く違う見方をする記事、今朝の日刊IWJガイド・ウィークエンド版をそのまま引用させていただこう。こういう記事・報道を読む人々の人数が、60,000人ではなく、6,000人に満たないという事実を読むたび、毎回、憂鬱になる。
 

■■■ 日刊IWJガイド・ウィークエンド版【参院選まであと15日!】「本日11時より、岩上さんが東電による『メルトダウン』隠蔽に関して郷原信郎弁護士に緊急インタビュー!/イギリスのEUからの離脱が確定、キャメロン首相が辞意表明/IWJでは各党各候補者の街頭演説に関する記事を続々とアップしています!」2016.6.25日号~No.1380号~ ■■■

(2016.6.25 8時00分)

 
おはようございます。IWJで主にテキスト関連の業務を担当している平山と申します。

 
世界は今、大きな曲がり角を迎えているようです。

 
昨日6月24日、イギリスでEU(欧州連合)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱派が52%の票を獲得して48%の残留派をわずかに上回り、過半数に達しました。この結果、これから2年をかけ、イギリスはEUとの離脱協議に入ります。1973年に前身のEC(欧州共同体)に加盟して以降、43年にわたるイギリスのEU加盟に終止符が打たれることになりました。ヨーロッパは、分裂の危機を迎えることになったと言えます。

 
今回の国民投票の結果を受け、イギリスのキャメロン首相は辞意を表明。10月の党大会後に辞職し、イギリスでは新たな首相を選ぶ選挙が行われることになります。

 
イギリスによるEU離脱決定を受け、6月24日の東京市場は大混乱に陥りました。円高が急激に進み、一時1ドル=99円に。これは2年7ヶ月ぶりの値です。日経平均株価も、一時下げ幅が1300円を超えるなど大暴落しました。

 
この事態を受けて麻生太郎財務相は緊急の会見を開き、「足もとの為替に極めて神経質な動きがみられる。世界経済や市場に与えるリスクを極めて憂慮している」と述べました。しかし、円安・株高で輸出企業と富裕層のみが儲けるアベノミクスにおいて、どんな操作を行おうと、外的要因で思惑はこなごなです。

 
アベノミクス・ブームに乗せられて、株に手を出した個人投資家は、これまでも乱高下相場で痛い目にあってきましたが、今回は絶叫に近い悲鳴が聞こえてきそうです。また、こうした中でいつも気になるのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用する国民年金資金です。今回の株価暴落により、いったいいくらの国民の年金が消えたのか、その額ははかりしれません。

 
今回、イギリスでEUからの離脱派が残留派を上回った背景には、EU各国からイギリス国内に流入し続けている移民や難民が、英国人の雇用を脅かしている、というイギリス国内での認識があります。今回の結果を受け、フランスの極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首はただちに歓迎の意を表明。「フランスや他のEU加盟国でも国民投票の実施が必要だ」と語りました。また、米大統領選挙で共和党の指名権獲得を確実にしているドナルド・トランプ氏にとっても、追い風となることは間違いありません。

 
移民・難民を排斥する極右の台頭により、イギリス発、フランス経由、そしてアメリカ着で、戦後の国際秩序がみしみしと音を立てながら崩れ始めているように感じます。同時にこれは、冷戦後に国民国家の役割を相対化してきたグローバリズムにも、ブレーキをかけるものとなる可能性があります。

 
さて、今回のイギリスによるEUからの離脱確定は、日本の参議院議員選挙にどのような影響をもたらすでしょうか。日本人にとっては何よりも最大の気がかりです。

 
自民党改憲草案を見れば一目瞭然ですが、安倍総理が目指す改憲とは、「緊急事態条項」を創設することで基本的人権を停止させるとともに、集団的自衛権を行使して米軍とともに世界中で戦争をする「国防軍」を創設しつつ、天皇を「象徴」ではなく「元首」と戴く「祭政一致の国家神道」の復活を含意するものです。

 
これは、日本が戦前に復古し、国権を強化するベクトルと、米国にどこまでも忠実につき従ってゆく属国化、果ては植民地化へのベクトルという矛盾した真逆の方向を向く2つのベクトルを同時に抱えこむもので、いずれその矛盾によって破綻しかねないように思われます。

 
ただそのウルトラナショナリズム米国隷従のどちらにも共通するのは、日本国民の主権、人権、利益、権利が最小化されてゆくという点です。国民主権、基本的人権の尊重や平和主義といった、戦後の日本社会が日本国憲法を通じて守ってきた人類普遍の原理を覆し、戦後の国際秩序に対して挑戦し、孤立化を招くものです。米国の陰に隠れてさえいれば、あとは国内の国民の声も国際社会の米国以外の国々も無視するという、岩上さんいわく「ジャイアンに依存スネオファシズム」が極大化されます。

 
この時、「スネオ化」した日本の支配層は、「国民は総活躍しろ、血を流せ、死ぬまで働け、ためこんでいる金は吐き出せ、働けなくなったら死ね」と先日の麻生氏の発言を現実化してゆくのでしょう。その意味で、今回のイギリスにおける危機は、日本にとっても対岸の火事ではありません。英国の危機よりも、日本の危機の方がはるかに深刻であるというべきでしょう。

 
悲惨な戦争の記憶とともに築きあげられた平和と人権を守る戦後秩序を守るか、あるいは戦前の軍国主義とも少し違う「スネオファシズム」体制に突入してゆくのか。今回の参院選では、有権者一人ひとりに対し、このような問いが突きつけられていると言えます。

 
今週、IWJでは6月22日に公示を迎えた参院選の取材に、最も時間を割きました。本日の「日刊IWJガイド」は、ウィークエンド版として、今週の岩上さんによるインタビューとIWJによる取材成果をふり返ってゆきたいと思います。

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