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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「ハレルヤ。
 主の僕らよ、主を賛美せよ。
 主の御名を賛美せよ。
 今よりとこしえに
 主の御名がたたえられるように。
 日の昇るところから日の沈むところまで
 主お御名が賛美されるように。

 主はすべての国を超えて高くいまし
 主の栄光は天を超えて輝く。
 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
 主は御座を高く置き
 なお、低く下って天と地を御覧になる。
 弱い者を塵の中から起こし
 乏しい者を芥の中から高く上げ
 自由な人々の列に
 民の自由な人々の列に返してくださる。
 子のない女を家に返し
 子を持つ母の喜びを与えてくださる。
 ハレルヤ。」(詩編113:1-9)

今回、謙虚さとは何かというテーマをさらに少し追記したい。

我々の生活には、神の恵みを大胆に享受することと、暗闇の勢力に立ち向かうという二つの重大なイベントが同時進行で起きて来る。

今週一週間も大きな学習の時であった。

以前にも書いた通り、ジェシー・ペンルイスが、クリスチャン生活に起きることは100%偶然ではないと述べているように、信者の生活には、暗闇の勢力からの攻撃が多々起きて来る。

聖書において、最も試みられた人物として名が挙げられるのはヨブであろう。ヨブはサタンの試みによって、財産、家族を失っただけでなく、自分の健康、友人をも失った。しかし、ヨブはそれらの試練にも関わらず、忍耐を伴う信仰によって、神に義と認められ、失ったすべてを回復する。

このことから、私たちが学べるのは、神がサタンの活動を許しておられるのには、それなりのわけがあること、それは私たちに損失を与えたままで終わりにすることが目的ではないこと、もちろん、信者自身が強くなって、試練に立ち向かうすべを学ぶ必要があると同時に、試練を通して、信者の信仰が練られ、信者が神の御前にへりくだり、忍耐を持って、神の約束待ち望むことを学ぶ必要があるために、そうした苦難がもたらされることが分かる。

真の謙虚さとは、私たちが自分たちは無力で何もできないと考えて、神の約束までも手放して、悪魔のなすがままに翻弄されることではない。だが、同時に、神の約束が成就するまでの間には、それなりの時がある。私たちの人生に試練が起きてくるときには、私たちはほんの少しだけ、頭を下げねばならない。

人間に対して卑屈に平身低頭する必要はない。ただ心の中で、神に対して、自分の人生がことごとく神の御手の中にあることを認め、神にすべてを委ね、己を低くして、試練の時をやり過ごす必要がある。何が起きようとも、神にだけ全幅の信頼を置いていることを告白する必要がある。

筆者はかつては人間の心の裏を読むということはそれほどせず、特に信者であれば、信仰仲間だという気安さも手伝って、他者の発言を勘ぐってみたり、疑ってみることは少なかったが、ここ数年間のうちに、嘘が海のように深まるにつれ、起きた数々の出来事を通して、人間の心の裏側を予め見抜いた上で行動することがどれほど重要であるかを学ばされた。

警戒せねばならないのは、すぐにそれと分かる詐欺師ような人々の甘言だけではない。すでに書いた通り、長年のつきあいのある身近な人々から、親切心を装ってやって来る嘘の助言や、嘘の約束、偽の好意などにも、振り回されるわけにはいかないのである。もしその嘘が見抜けなければ、誰にとっても、命がいくつあっても足りないような時代が到来しているためである。

この世の不動産の広告には良いことづくめの内容しか書かれていないが、現地に行ってみれば、初めてその物件の欠点が分かることも多い。我々はそうした事実が分かったからと言って、いちいち不動産会社に向かって「嘘をついたな」と責めたりはしないかも知れないが、いずれにしても、不動産のみならず、世に溢れている広告には真実性がほとんどないことは確かである。その他にも、求人誌を開けば、存在しているかどうかも明らかでない、ものすごい数の偽りの広告が掲載されている。求人詐欺などだけが問題なのではなく、広告そのものの真実性が極度に薄れている。

今や雀の涙のような賃金で将来性もないアルバイトのように味気ない仕事でさえ、そのほとんどがとてつもない倍率となっていて、存在しないにも等しいおとり広告も同然であるという事実を実際に知っている人たちは少ない。

さらに、広告のみならず、現実生活においても、誰もが自分を粉飾し、自分にとって都合の良いことしか明らかにせず、他者の目に自分を偽っている。そこで、私たちは、世の中にこうして山のように溢れる虚偽の情報の中から、何が真実であるか、何が本当の可能性であるのかを自ら探り出して、真実な関係だけを選択して行かねばならない。それができるかどうかの能力が試されており、そこに命がかかっているのである。

何が真実であるかを見抜ける力があればあるほど、損失が少ない状態で、目的にたどり着くことができるだろう。

だが、忘れてはならないことは、私たちの助けは、そもそも人から来るものではないということだ。私たちは山に向かって目を上げる。私たちの助けは、山よりもはるかに高く、天高く御座におられる唯一の神ご自身からやって来る。

そこで、神ご自身がどういうお方であるかという事実に立脚して、私たちは神の喜ばれる選択を自ら見分けて行かねばならない。神は悪を憎み、嘘偽りを嫌われる方である。人を偏りみず、公平で、不正を憎まれる方である。

その神を信じる人々が、嘘や不正にまみれた粉飾した情報をまき散らす人々に自ら関わって、平和な生活が送れるはずもないことは明らかだ。

だが、結局のところ、神ご自身に比べれば、地上の人間は、どんな人間であれ、移ろいやすい心を持った、当てにならない存在でしかなく、誰一人、本当の意味で頼ることはできない存在である。

そうした中で、私たちは地上社会と全く関わりなく生きて行くわけにはいかない以上、もともと移ろいやすく当てにならない存在である人間社会の中にも、真実、公正、正義を飽くことなく追い求め、嘘偽りのない関係を探し、これを追い求めて行かねばならない。

このことは、誰かに自分の理想を重ね、自分の心にかなう人物が現れるのをひたすら待つという受け身な姿勢を意味しない。どんな人物が相手であれ、その対象となる人々との関係性の中に、限りなく真実な関係を追い求めて行かねばならないということを言っているのである。それができない人々、つまり、最初から真実な関係を願ってもいないような人々とは、関わってはならない。

たとえば、筆者は、先日、見違えるように変化した会社の説明会を案内してくれた親切な友人のことを記事で語ったが、その人間が本当に親切だったと言えるかどうかも定かではない。筆者はその友人の会社に行くことはなく、むしろ、その直後に、その友人の助けなどを借りなくても良い、その友人に感謝を表明する必要のない、しかも、以前に相当に劣悪な環境にあった企業などに改めて希望を見いださなくても良い、別な解決ルートが与えられたのである。

確かに、その友人の働いている会社は、以前に比べれば、かなり良好な環境となっていたと言えるだろう。確かに大きな変化があったのだ。だが、それでベストということではあるまい。しかも、ちょうど筆者が説明会を申し込んだ日が来る前日に、クライアントの都合で予定を変えてもらいたいという電話がその会社から入って来た。すでに何日も前から約束済みである予定を、クライアントのわがままでドタキャンのように突如、変えて欲しいとその会社が言い出したのを聞いて、筆者は、それがこの会社の約束の不確かさをよく物語っていると感じた。筆者はその変更の依頼を断ったが、その時に、この会社には活路が見いだせないということを理解したのだった。

さらに、友人がその後、お盆に実家に帰省する予定になっていると述べたことも、筆者には見逃せない事実であった。しかも、友人はその会社に入るに当たって、何度も、何度も面接を受け直したと述べていた。

そうした事実から、筆者は、友人は本当に筆者に自分と同じ会社に入社して欲しいがために、自分の会社を案内したのではなく、ただ自分がどれほど恵まれた状況にあるかということを、筆者に自慢したかったというのが本当の動機だろうと推測せざるを得なかった。
 
要するに、その知人の助言の中には、また、その会社の約束の中には、「然り」と「否」が混在していることが、様々な出来事を通して確かめられたのである。そこから、これは筆者のために用意された真実な選択ではない、ということが、確実に理解できた。
 
実際に、筆者が見つけ出したのは、神を信じない人々との縁故によらず、「然り」と同時に「否」と言う人々から来る助けによらないで済む別な方法であった。

このように、神が与えて下さる解決は、人知によるものではなく、人の努力や、感情に依拠した解決でもない。そして、嘘偽りに立脚して解決がもたらされることもなければ、不正な方法で達成されることもない。
 
ところで、筆者は今まで様々な環境で働いて来たが、不思議なことに、最も多かったのが、非常に眺望良好な職場であった。

どういうわけか、鳥のように空高いところから、雄大な景色を一望できるような職場に、筆者はしばしば在籍して来たのである。事務所の窓が全面ガラス張りで、東京の町がまるでタワーの天辺から一望するように見える美しい事務所もあれば、あるいは、みなとみらいの風景が高みから一望できるビルもあった。
 
そのような特別の眺望の職場に巡り合うときには、今までの一切の苦労を見ておられ、それをねぎらって下さる神の何かしらの特別な采配、恵みを思わずにいられないものである。
 
これまでに筆者は、人生で抱える様々な問題について、信仰仲間も含め、色々な人々から励まされたり、慰められたり、助けを受けたりして来た。特に、仕事については、実によく祈ってもらったものである。だが、そうして信者に祈りの支援を求めた結果、筆者が痛感して来たことは、人間の同情という感情の不確かさであった。

これまで、筆者の周りには年配者の信者が多く、その中には、専業主婦も相当な人数にのぼっていた。彼女たちは、筆者が仕事を探している時に、快く筆者のために祈ってくれると約束してくれたので、筆者はその言葉を信じて、彼女たちに、これからどんな職場に行きたいと願っているのかを告げ、差し迫っている面接や試験の予定を伝え、もしもこの計画が御心に反していないならば、神が助けて下さるように共に祈って欲しいと何度か依頼して来た。彼女たちはいつも二つ返事で引き受けてくれたものである。

ところが、実際に筆者がその仕事に採用されると、それまでは親切だった信者の態度がガラリと変わるということが、幾たびか起きた。中にはいきなり、「その仕事はあなたにはきっと合わない。すぐに飽きるでしょう」などと捨て台詞を投げつける人が現れたり、筆者があまりにも簡単にその仕事を得たように見えるせいか、憤りに近い感情を示す人々もあった。

要するに、彼女たちは、筆者が祈りの助けを求めた時には、快く同意して祈ってくれたけれども、その祈りが、実際に神に聞き届けられるとは、まるで信じていなかったらしいのである。

彼女たちが見ていたのは、現実社会の世知辛い有様や、筆者の縁故の少なさや、強そうには見えない平凡な外見だけだったのだろう。こうした人々は、神を信じ、神の助けを乞うと言いながらも、筆者が実際に御言葉に従って、神から助けを得て進んで行けるとは全く思っていなかったらしいのだ。

こうした信者らは、筆者が苦境の中にある時には、優しく、同情的に接してくれるが、筆者が大胆に神の助けを得て、苦境から脱し、問題がなくなって自立して、生き生きと暮らし始めると、早速、苦々しい捨て台詞を残して立ち去って行ったりするのであった。

筆者は当初、そうした行動を見る度に、非常に驚いたものであったが、何度か同じ出来事を見るうちに、ようやくこれらの年配者らは、ただ年少者である筆者の置かれている苦境を、自分には関係ないものとして、高みから見物して憐れみ、自分の優越的な地位を誇りたいがゆえに、筆者に同情を示しているだけなのだということを理解した。

もちろん、そのような偽物の同情ではなく、真の同情を示し、共に喜びを分かち合うことのできる信者も決していないわけではなかったことは申し添えておきたい(ただし、まれな存在ではあったが)。
  
こうして、実に数多くの信者らの同情は、本物ではないことが判明するのであった。彼らは、弱みを抱えた人々には常に優しく接するが、自分が世話をしてあげた人間に弱みがなくなって、その人が自立して、もはや彼らの助けを乞う必要もなくなり、彼らの優越的地位が失われてしまうと、その立場の逆転に我慢がならなくなり、まるで自分が恥をかかされたかのような思いになって、憤慨するか、それを機に、関係そのものが終わってしまうといった現象が何度か起きて来たのである。

彼らの目から見れば、いつまでも可哀想に思って、同情の涙を注いであげられる対象が見つかったと思っていたら、あっという間にその人が自立していなくなってしまい、自分の役割がなくなったということなのかも知れない。

だが、いずれにしても、「助ける側」と「助けられる側」との間に常に隔ての壁がもうけられているような関係は、しょせん長続きはしない。「助ける側」に立とうとする人々の同情は、同情の対象となる人々を永久に弱さの中に閉じ込め、その人をいつまでも上から憐れみ、踏み台にすることによって、自分が手柄を得ることを目的とするものでしかなく、決して心から人の解放を願うものではないのである。
 
これと似たような現象が、筆者が関東に移住して来たときにも起きたことを思い出す。筆者が移住する前には、様々な人々が、筆者の状況に心を寄せて、熱心に祈ってくれたり、励ましてくれたりもした。筆者は、その人々の言葉や感情を全く疑うことなく、またその裏を勘ぐっていられるような余裕もなかったので、人々の慰めや支援を非常に嬉しく受け止めていた。

ところが、神が真実に筆者の願いに応えて、様々な恵みを与えて下さり、筆者が移住を決行するだけのすべての必要が備えられ、すべての問題が解決し、筆者の人生にもはや何の苦境もなくなり、一切、人の同情を受けたり、助けを求めねばならないような余地がなくなると、かつて、筆者の目から見れば、最も熱心に祈ってくれて、最もその解決を共に喜んでくれるはずだと思われるような一部の人々が、筆者の目の前で、筆者に与えられた恵みのニュースを聞いて喜ぶどころか、何とも言えない苦々しい表情を浮かべたのである。

彼らの表情には「なんでおまえが」という文字が、まるで書いてあるようにはっきりと読み取れた。その反応は一瞬のことではあったが、筆者はこれを見逃さなかった。彼らの表情には、はっきりと、パリサイ人や律法学者が、イエスが病人を癒されたことに嫌悪感を示したように、とらわれていた人間が解放されて自由になることを許せないと思う憤りが読み取れたのである。
 
そこで、これらの人々も、筆者のために祈ってはくれたが、その祈りが天によって聞き届けられるなどとは、最初から全く信じていなかった人々なのに違いないと推測されるのである。
 
こうした人々も、結局のところ、困っている人々のために尽くしたり、祈ってやることにより、自分がどんなに親切心や同情心溢れる善良な人間であるかを世間にアピールし、自らの優越的な立場を誇り、自己満足することを目的にしているだけであって、初めから人の解放を心から願う気持ちなどはなかったと思われるのである。
  
さらに、こうした人々は、常に自己を粉飾して、自分の目に自分を偽っているために、心の中で非常に屈折した思いを抱えており、神に素直に助けを求めることができないという袋小路に置かれている。だからこそ、他者に起きた解放を喜ぶことができないのである。

彼らはいつも虚勢を張って、自分には一切問題がなく、自分だけは完璧で、落ち度なく、他人を助けられる指導者的な存在であるかのように思い込み、困っていて助けを必要としているのは、常に自分以外の誰かだけだと考え、そのように振る舞っている。

そのようにして彼らは、神の御前でも人の前でも、弱音を吐くことができず、自分は強いと思い込んでいるため、現実に自分がどんな弱さや問題を抱えているのか直視できず、それらの問題について素直に神に助けを求めたり、神の助けを受けることもできず、その結果、永遠にその問題から抜け出せないという苦しみを抱えることになるのである。

だから、こうした人々は、筆者のような人間が、人にどう思われるかに一切構わず、なりふり構わない率直さで、神に向かって弱音を申し上げ、人にも祈りの支援を乞い、本気で自分の願いを口にし、そこへ到達したいと信仰によって表明した結果、祈った問題に対する解決を天から受け取っているのを見ると、ちょうど放蕩息子の兄が、帰宅して父に大喜びで迎えられた弟を見るような思いになって、我慢がならなくなるのである。

これらの人々は、おそらく自分たちだけが天の選ばれた特権階級であって、自分たちは常に人を助けてやる立場にあり、その優位性のある階級の中に、自分たちとは別格の、真に弱く、貧しく、取るに足りない人々が、あたかも対等な存在であるかのように入り込んでくる余地など全くあってはならないと考えているのであろう。

そこで、彼らの思い込みが打破され、神ご自身が、彼らよりもはるかに弱く、劣った、力のない存在であるように見える人々を、塵灰の中から引き上げ、王侯貴族のような服を着せて、神の子供たちの一人として、彼らと対等に迎えられると、彼らは、自分たちが独占していた立場が揺るがされるように感じ、決してこのような事態を放置しておくことができない思いになるのである。

しかし、神の国には、特権階級はなく、これは誰の独占物でもなく、神の国には多くの人々がまるで奪い取るように熱心に殺到しており、信仰の有無以外には、これらの人々が排除される理由もない。
 
それにも関わらず、うわべだけは、あたかも貧しい人々、弱い人々、寄る辺のない人々に福音が届けられ、神の解決が行き届くことを願っているかのように述べる人々の一部が、もう一方では、筆者が最も手に手を取り合って喜んでくれるだろうと考えていた解放の瞬間に、苦々しい表情を見せたことを、筆者は忘れることはないであろう。その表情が、他のどんな言葉よりも雄弁に、彼らの心の内を物語っており、実際に、その後、予想通りの結果が起きたのである。

要するに、福音を人助けの手段のように利用して人前に善人として栄光を受けようとする人々は、神が人間を真に弱さから解放して自由にされると、彼らの助けの手を必要とする人々がいなくなり、失業してしまうため、人間の解放を決して願わず、喜ばないのである。こういう人々は本質的には福音の敵にも近い存在であると言えよう。
 
そういうわけで、話を戻せば、かつての職場の友人は、以上に挙げたような信者(?)たちとは異なり、他人の成功や良いニュースに嫌悪感を示したり、これを否定するなどの非礼な行為は決して行うことはなかったが、それでも、信仰者でないため、筆者の口からすでに別の解決ルートが与えられたという話を聞かされると、「良かったわねえ」と言ってはくれたが、「もう、そんなに早く?」と非常に驚いた様子であった。
  
彼女は筆者がさぞかし思い悩み、落ち込んでいるだろうと思って電話をかけて来たところ、慰めの必要が全くないと分かり、筆者の問題にそんなに早くの解決が与えられるとは全く思っていなかったために当てが外れた様子が伺えた。

筆者にとっては、このようなことは、実に不思議な神の采配である。要するに、神は人に栄光を与えられないのである。筆者にとって、誰が長年の友人であり、親族であり、つきあいの長い、思い入れのある存在であるかなどは全く関係がなく、ヴィオロンを助け得る存在は、天にも地にも、神お一人しかいないということを、神ご自身が、あらゆる機会に示されるのである。
 
神ご自身が、まるで筆者を助けようとした誰かに向かって「あなたは考え違いをしています。この人を助けるのは私の役割であって、あなたの出番は全くありません。人間に過ぎない者は退きなさい」と語られているかのような状況が用意されるのである。
 
だから、キリスト者同士の間であっても、何かの解決が与えられる瞬間までは、共に祈り、進むことができた信者同士が、解決が与えられた瞬間に、道が分かれるということは多々起きる。それによって、特定の誰かが「私が祈ってやったから、ヴィオロンにこの解決が与えられたのだ」などと誇りようがない状況が起きるのである。
  
神が祈りに応えて解決を与えられる瞬間は、人の目から見れば、非常にスピーディで、何の苦労もなく、劇的かつ飛躍的に物事が展開するように見える。多くの場合、人の目には、まるで筆者が神の特別な寵愛とはからいを得て、天高く引き上げられ、他の人々の及ばない安全な高みに置かれたかのように映るのである。

筆者にとって、その解決は、決して他人が考えるほどに早くもなければ、簡単に与えられたものでもないのだが、そのことは、口でどんなに説明しても、人に分かることではあるまい。筆者が一つ一つの問題を乗り越えるに当たり、どれほどの苦労を背負って来たかは、他の人には話しても決して分からず、理解してもらうことが可能であるとも思わない。
 
彼らの目には、信者が暗いトンネルの中を沈黙しながら通っている時の有様は見えないので、最後に起きた劇的解決だけを見て、すべてがあまりにも簡単で、こんなのはあまりにも不公平ではないかとさえ感じるようである。

だが、実のところ、筆者自身も、そんな風に感じないわけではない。神の助けを受けることは、確かに特別な経験である。この世で不信者と信者が公平に扱われるということは決してない。だから、信じる者の上には、確かに、神の特別なはからい、特別な関心、特別な恵みが臨んでいるのである。それは私たちの栄光のためではなく、神ご自身の栄光のために、神がなさる事柄である。
  
筆者は、高い高い空の上から、町全体をはるかに下に見下ろし、この下界の光景の中には、詐欺師たちや嘘つきどもによって日夜繰り広げられるソドムとゴモラの阿鼻叫喚のような地獄も含まれていることを考え、それらの問題をすべて足の下に踏みつけ、後にして来た事実を思い、これは実に不思議なはからいだと思わずにいられない。

新しい出来事が始まれば、かつて起きたことは忘れられ、思い出されもしない。子が生まれるまで、母親は苦労するが、生まれてしまえば、その苦労は何でもなくなると主イエスも言われた通り、新しい天と地が到来する時には、先の出来事はすべて忘れられる。
 
多くの人々は、人間の痛み苦しみだけに注目し、それに解決が与えられるとは信じていないかも知れない。人々は他人事のようにヨブの苦難には注目するが、ヨブに与えられた解決、以前よりもまさった恵みのことはあまり語らない。

だが、筆者は試練の後には、以前よりもさらにまさった恵みが与えられることが、神の御言葉の約束であると固く信じている。しかも、筆者は現在立っている地点を最終目的だとは思っていないため、今の時点で与えられている恵みに満足するつもりもなく、さらに天に近いところへ向かって、まだまだ歩みを進めねばならないと考えている。

こうしたビジョンは、多くの人々には絵空事のようにしか思われず、理解されないだろう。どうして平凡な外見しか持たない筆者にそのように長い行程を歩み通すだけの力があるだろうかと思われるだけであろう。
 
しかし、筆者は、取り立てて力があるようにも見えない無名の人間に世間が示す軽視や侮蔑の眼差しを、重大な出来事であるとは全く思っていない。我々信者が人の目にそのように無力に映るのは、いつの時代も変わりのないことで、我々が土の器である以上、そうなるのが当然なのである。

ただし、そのような中でも、ほんのわずかな瞬間、私たちが己を低くして、土の器としての痛みを黙って潜り抜ければ、その先に、思いもかけない栄光が待っていることをも筆者は知っている。

神は人が負って来た苦労のすべてをご存じで、そもそも人自身の目から見てさえ、取るに足りない力弱い存在である、塵に過ぎない人間に、永遠の御旨をお任せになったのである。そのパラドックスの意味をよくよく考えてみたい。

真の謙虚さとは、人が土の器に過ぎない己の分をわきまえた上で、その土の器に、不相応なほどにはかりしれない神の力と栄光を表すという高貴な使命を人に与えられた神のはかりしれない御旨に瞠目しつつ、この壮大な使命を喜びを持って理解し、受け止め、信仰により負って行くことではないだろうかと筆者は考えている。信じる者のうちには、脆く弱い土の器の部分と、絶大な栄光を帯び神のた力というパラドックスが同居している。人の目に確かに見えるのは、脆くはかない土の器だけであるが、永遠に残るものは、その内に住まわれる偉大な神の力、尊厳、栄光なのである。

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彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)
さて、記事では、これからずっと、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマを追って行きたいと考えているが、このテーマについて、何かしら方法論めいたものを記すのは土台、無理であるばかりか、避けるべきことだと考えている。

なぜなら、こうした問題には決まった方法論というものは存在しないと思うからだ。筆者が考えているのは、信者が何かしら偉大な宣教者や、偉大な人格者となったり、超人的な力を発揮して生きるための方法論を見つけることではない。

もちろん、筆者は、キリストの復活の命が、父なる神の御心にかなった天的な統治そのものであり、そうである以上、この命によって生かされるキリスト者には、様々な不思議が起きることを否定しない。だが、それでも、キリストにある新しい人とは、決して超人めいた存在を意味するのではなく、むしろ、ごくごく自然で素朴な人間なのである。それは、信者がキリストにあって、神が本来かくあれかしと意図してその人を創造された通りの、のびのびとして誰にも似ていない自然な個性を生きることであり、主ご自身がそうであられたように、調和の取れたあるべき人間として、地上を生きることであると考えている。

だが、調和の取れたあるべき人間と言っても、それは決して、どんな苦難や挫折や失敗とも無縁の、何かしら偉大で理想的な人間の標準や鋳型を意味するのではない。そもそも、信者になったとたんに、信者の人格が突如として高められ、すべての心の葛藤がなくなって、どんな困難や苦しみにも直面せずに生きられるようになると考えるのは、大きな間違いである。

むしろ、信者になればこそ、起きて来る葛藤もある。ジョージ・ミュラーやハドソン・テイラーなどの信仰者の伝記を読んでもすぐに分かることだが、信者になって改めて生じる罪との闘い、聖潔への願いなど、キリスト者にならなければ起きない葛藤というものも存在する。また、信仰ゆえの苦難や迫害なども起きて来る。

だが、そのような戦いから来る葛藤をさて置いても、筆者は、キリストにある信者の内的刷新とは、一直線に高みへと昇って行くというような、非常に分かりやすい単純な変化の過程を辿るとは思わない。ワインにも熟成期間があるように、信者の人生には、ただがむしゃらに前進するだけではなく、一見、何のためにあるのかも分からないような「遅延」や「停滞」の時期も必要なのではないかと思う。

これは筆者の自己弁護のために作り出した詭弁ではない。もしそうでなければ、何のために、アブラハムとサラは、待望の息子イサクの誕生をあれほど長い間、待ち望まねばならなかったのか? なぜヤコブはラケルを得る前にレアを娶らねばならなかったのか? なぜヨセフは兄弟に裏切られ、エジプトへ売られねばならなかったのか?そもそも、なぜキリストは十字架にかけれられ、死を経ねばならなかったのか?

信者が意識していなくとも、神は、天然の命から来る衝動が死に絶えるまで、信者の人生に「停滞」や「遅延」のように見える期間を許される。それは神ご自身が用意されるものであって、信者が自ら望んで獲得するものではないが、ある意味、十字架の死の象徴であり、霊的な葬りの期間である。

さて、前回の続きとなるが、筆者はある商人からヴァイオリンを買った。それはそれほどまでに大した楽器ではないので、帰郷の際に、子供の頃から練習していたヴァイオリンを家人に借りてみると、そちらの方が良い音がするように思われた上、体にもよくなじんでいた。むろん、どちらの楽器にも良さはあるのだが、弾き続けた楽器以上のものはない。そして、このなじみ深い楽器を手に取って数週間が過ぎると、子供の頃に練習していた曲がいくつも自然と思い起こされるのだった。

世間では、楽器をマスターするには、15歳頃から、どんなに遅くとも20歳を迎える頃までに、技術的に完成の域に達していないと、一流の水準に達するには遅すぎるものと考えられている。つまり、成人するまでの間に、完全なテクニックをものにできなければ、その後は、どんなにやっても、しょせんプロの水準とはならず、生涯、アマチュアの域を出ないと考えられている。そういうわけで、当然ながら、プロの音楽家を目指す人々は、物心ついたその時からずっと楽器を弾き続ける。10代後半で技術的完成の域に達し、その後、60歳、70歳を迎え、死ぬまでずっと楽器を弾き続けるのである。

しかしながら、以上に記した通り、十代ですでに完成の域に達していなければ、その後はどんなにやっても、しょせん、お楽しみ程度にしかならないという考えは、多くの人々が音楽に取り組むにあたって、あまりにも深い、無意味な絶望感と無力感を与える障壁となっているように筆者は思う。筆者には、果たして、このような考えは本当に正しいのだろうかと首をかしげざるを得ない部分がある。

筆者は、ピアノを弾くにあたって、幾度も、何年間ものブランクを経験したが、不思議なことに、かなり長い間、ピアノの鍵盤に触れずにいても、ある時、ふと練習を再開してみると、最後に弾き辞めた時から、まるでほとんど歳月が経っていないかのように、最後に弾いた時の曲のイメージがそっくり鮮やかに眼前に出現するということが多々起きた。もちろん、忘却や、運動能力の低下が全く起きないわけではないが、それでも、一旦、ある程度の水準に達したものは、そうそう簡単に忘れ去られたりするものではない。むしろ、黙って「寝かせていた」期間に、さらなる熟成を遂げていたと判明することもある(これはブランクなしに弾き続けている時でさえ起きる。三日、四日ほど、取り組んでいる曲をあえて「寝かせておく」と、もう一度弾いた時に、最後に弾いたときよりも圧倒的に曲の完成度があがっていることはよくある。)

このように、音楽には、寝かせておいても、演奏家の人格の成長と共に、沈黙のうちに熟成する可能性があるのだ、と筆者は確信している。その熟成期間が、一日、二日程度でなく、なんと十年以上に渡ることもありうるものと思う。日々、楽器や鍵盤に触れて、がむしゃらに練習し続けることだけが全てではない。演奏家が自分の人生を通して得たすべての経験が総合的に作用して、曲のイメージが完成するのである。その意味では、人が生きれば生きるほど、演奏に深みが増して来るのは当然であり、十代前半の子供たちをまるで神童のごとくもてはやし、若い時期を過ぎてしまえば、すでに演奏家としてのデビューの時期も通り過ぎ、演奏の価値もその後は落ちていくだけであるかのように思い込む風潮は、完全に間違っていると言わざるを得ない。

確かに、語学と同じように、音楽にも、若いうちに基礎を習得してしまわねば、後からのつけ足しが極めて困難な部分が存在することは否めないとはいえ、単に基礎を習得しただけでは、どんなに優れた技術があろうとも、機械仕掛けの人形とほとんど変わらない。さらに、演奏は漬物のように、時間をかけて弾きこまなければ、決してその人のものにはならず、良い味は出て来ない。

筆者は楽譜を読むのは遅い方ではないが、それでも、一つの曲を本当に自分のものにしたいと願うなら、どんなに少なくとも、一カ月以上の時間をかけて、弾きこむことがどうしても必要となる。楽譜通りに弾くだけが目標であれば、場合によっては初見か、数日もあれば十分という曲もたくさんあろう。しかし、それでは、間違いなく弾いたとしても、しょせん「楽譜通り」でしかない。曲に込められた情感、イメージ、思想、芸術性といったものを読み込んで、自分なりの形を完成し、それを思うように表現できるようになるためには、どうしても、一定の時間が必要である。その期間が、一カ月では、あまりに短すぎると言えるだろう。

この「熟成期間」には、必ずしも自分でその曲を弾きこむだけでなく、優れた演奏家の演奏を聴いたり、楽譜を読み直しながら、新たなインスピレーションを受けて、頭の中で曲のイメージを練り直したりすることが有益である。散歩中に思索を巡らしているうちに、それまで何度も聴き、弾いて来た曲のイメージが、突如として「分かった」ということもよくある。

こうして、セールスマンが足しげく営業に通いながら、自分のセールストークを磨いて行くように、曲想を練り上げ、それを完全に自分のものとし、自分自身の言葉として表現するためには、一定の期間がどうしても必要なのである。それはただ間違いなく指を動かして楽器を正しく演奏するために必要な期間ではなく、自分が何を表現しようとしているのか、その全体像を掴むための期間である。

話を戻すと、筆者は、信者の人生にも、このような時期があるかも知れないと思う。人から見れば、一体、何のために必要なのかも分からない、成果からはほど遠いように見える、「無駄な時間」である。同じパッセージをうんざりするほど繰り返しているだけのような時もあれば、まるで演奏など放棄したかのように、楽器から遠ざかり、黙って思索を巡らしているだけの時もあろう。全く何もしていない、という時さえ多く存在するかも知れない。だが、たとえそうであっても、その人の心の内側に深い探求があり、どれだけ多くの困難、どれだけ多くの障害、どれだけ長い遅延や停滞があったとしても、あるいは、生きているうちに達成不可能であるとか、手遅れであると宣告されても、なお諦めきれないほどの切なる希求が存在するのであれば、それは「何もしていない期間」ではないのだ。

その希求とは、ただ優れた楽曲を譜面通りに弾けるようになりたいという程度の浅薄な願いではない。曲の向こう側にあるもの、曲を作り出す源となる壮大な深みに手を伸ばし、何とかしてそこに至りつき、一つになりたいという願いなのである。

このように、筆者は、音楽の場合と同じように、キリストにある新しい人をも、信者が自らの努力によって獲得するのは不可能であると考えている。探求する努力は必要であるとはいえ、それは努力だけによって到達できるものではない。信者の側には、追い求めたいとの切なる希求があるきりで、それを達成させて下さるのはあくまで神である。そして、それは決して、若ければ若いほど良いといったような安直な歩みではなく、人の目には実に不思議な、しばしば逆説的な形で達成されるような気がしてならない。

さて、筆者がこの度、地上のふるさとに戻って来たのは、郷里にある親族を見舞うためであったが、この親族はすでに90歳を超えており、病床にあるため、この年齢から察するに、そろそろ生涯の終わりに来ているのではないかと見られる。しかし、長年、他宗教の信者であったので、帰郷の際、筆者はどちらかと言えば、気が重かった。もっと前に、この親族が健康な時期に、信仰について長く話し合ったが、共通理解に達しなかった記憶も残っている。

そこで、帰省前、筆者は、自分で書いた「死人のことは死人に任せなさい」という記事を思い出し、まるでその記事が不吉な予言となって、今回、別な親族のための思わぬ帰郷を招いたかのように感じたりもした。またもや、筆者は、キリストを受け入れないまま、親族を見送らねばならないのだろうか? そのために帰郷することにどんな意味があるのだろうか?という、敗北感のような感情にも襲われた。

しかしながら、筆者は、その無力感や敗北感にも似た悪しき感情を撃退し、悪魔に恥をかかせ、神に栄光を帰することだけに集中しようと決めたのであった。このところ、筆者はずっと、そういった「いかにもそれらしく感じられる」、「現実はすでに決定済みで、悪しき結末は動かせないものであるかのような感覚」、しかも、「その悪い出来事が、まるでキリスト者のせいで起きたものであるかのように、信者に罪悪感を呼び起こそうとする感覚」に、徹底的に抗って、願いを獲得するまでしぶとく諦めないで神に懇願し続ける姿勢が、信者にとっていかに重要なものであるかを学習させられていた。

そこで、筆者は、長年、他宗教の信者であったからと言って、この親族が聖書の神による救いを拒んだまま亡くなるかも知れない、という予想に、徹底的に抗うことに決めたのであった。筆者が見舞った時、この親族は、まだそれなりに元気ではあるが、他宗教の説教の録音テープを握りしめるようにして聞いており、それを心の安定剤にしようとしているように見えた。そして、残された元気を、食べることや、飲むことや、体の調子を向上させることだけに費やしており、周囲もそれを手助けしており、そこに伝道の余地など微塵も残されているように見えなかった。また、そのチャンスもめぐって来なかった。それゆえ、筆者の心は絶望感に覆われかけた。

が、しかし、数日経って、病床にある親族の様子が少し変わって来た。このまま話すチャンスもないままに別れが来るのであろうかと予想されるほど、コンディションに浮き沈みが見られたとき、筆者は、伝道のチャンスを、改めて神に願い求めた。すると、その機会が少しずつ巡って来たのである。

筆者は、この親族が、出会い頭に、筆者に向かって、「苦しまなくていいように、キリストさんに祈ってもらえるか」と尋ねて来たことをとりあげて、筆者だけが代わりに祈っても、本人に信仰がなければ、神に聞き届けられず、ほとんど意味がないことを話した。そして、自分でキリストを信じるように勧めた。そして、多神教の誤りを指摘し、夫と妻が一対一であるように、人間を救うことのできる神は唯一であり、キリストの十字架以外に救いはなく、他の神々を捨ててでも、この唯一の神だけを信じて祈るべきことを、親族に語った。罪の赦しと、死とよみがえり、永遠の命について話した。すると、かつては信仰を巡って論争めいたやり取りもあったこの親族は抵抗感を示さず、「分かる?」、「信じられる?」との筆者の問いに、素直に頷くのである。

調子の悪い時には、話しかけても反応すらも返さないのが、多神教を否定する筆者の言い分を、抵抗もなく受け入れる姿勢を示したのであった。筆者は、長年、ずっと考えが合わないまま、全く違う世界で生きて来た親族に、まるで火事場泥棒のごとく、残された時間がわずかとなってから駆けつけて伝道している自分自身の無理を思いながらも、それでも、この反応を見たとき、非常に厳粛な気持ちと深い感動に襲われずにいられなかった。こうしなければならない、こうでなければならない、という感じがしたのである。

これとどこかしら似たような現象が、筆者の連れて来た小鳥にも起きた。物音に驚いた小鳥が、鳥かごの金網に自ら足を引っかけて複雑骨折に至り、発見した時には、多量の出血と、足の指に血が通わないことにより、指が紫色になっていたのである。その状態を見た時には、筆者は、正直、足の指が持たないのではないかと恐れを感じた。医者に診てもらうと、解放骨折なので、治るかどうか分からず、もし足の指が壊死すれば、ただ単に足が不自由になるだけでなく、全身に毒素が回って致命的な影響を及ぼすことさえありうると言われた。

筆者はこの状況に対し、心の中で、猛抗議した。何か取り返しのつかない事態が起きて、すでに手遅れとなっているかのような印象と感覚を全身全霊で拒否し、死んだ息子のために預言者エリヤに抗議した女のように、神に願い求めたのであった。すると、医者に連れて行ってから二日ほどで足に再び血色が戻った。骨折が治癒するには時間がかかり、解放骨折となるとさらに治癒に困難が生じると言われているにも関わらず、それから現在に至るまで、小鳥はほぼ完全に近い形で治癒するだろうと思われるほどの驚異的な回復を遂げている。

こうした出来事は筆者に、神の守りが動物一匹に至るまで家族全体に及んでいることと、神には手遅れだとか、不可能はないのだと、改めて感じさせた。いや、どんな状況でも、悪魔のささやきに負けて、御言葉に反する負の結果をたやすく受け入れたりせず、神に心のうちをすべてさらけ出して、しぶとく諦めず、神に直談判するがごとくに懇願し続け、結果を獲得するまでに退かない態度が必要な場合が多々あることを、改めて思い知らされたのであった。
 
むろん、どんなに健康であっても、人間同士には地上でいつか別れが来るとはいえ、人間にとって最も克服しがたい、いや、生まれながらの人間には克服不可能である死をも、キリストは打ち破られて、よみがえられたのだから、我々は一体、何を恐れる必要があろうか?
 
このことを、つまり、十字架の死と復活の原則を、筆者は知っているつもりではあっても、それを自分自身の信仰告白として改めて自分の言葉で表現し、その告白が現実となって、目の前で主のみわざを見せられるとき、それによって、神の御心が何であるかを知らされるとき(神の御心は、人を罪に定めることにはなく、赦すことにあり、人を滅ぼすことにはなく、生かすことにこそある)、自分の信仰のスケールを改めて急速に押し広げられるような、厳粛で感動的な気持ちにさせられる。悪魔のささやきに簡単に耳を貸して敗北を受け入れることの無意味さと、御言葉に反対するものに、最後まで、固く立って抵抗し続けることの重要性、そして、神が我々一人一人の信仰に、どんなに真摯に耳を傾けて下さり、これを喜んで下さる方であるかを思うのである。

他人に向かって信仰の証を語っている時でさえ、筆者自身が、御前に畏れかしこんでひざまずき、「神よ、あなたこそ、我ら人間のただ一人の救い主です」と告白し、瞠目と感動のうちに、神を崇めずにいられないのである。

「平 和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅱテサロニケ 5:23-24)

キリストの命は私たちの霊、魂のためだけでなく、私たちの身体のためでもあります。神は私たちの霊と魂だけが聖くされるだけでは決して満足されません。も ちろん、肉体の完全な贖いは、来臨の時を待たねばなりませんが、地上に生きている間にも、私たちは主イエス・キリストの贖いが私たちの霊、魂、肉体のすべ てに及ぶものであることを知ることができます。繰り返しますが、主イエスの贖いは私たちの肉体のためでもあります。そのことを知って、私たちは思いと、肉 体を攻撃するあらゆる病、弱さ、圧迫、死を拒絶し、信仰によってこの身体を健全なものとして守り通すべきです。

良きサマリヤ人のたとえを私たちは知っています。道に行き倒れていた旅人の姿は私たち自身です。そして隣人とは主イエスです。ある兄弟が語ってくれた通り、律法に照合するなら、民数記19:11-12に記されている、死人に触れた時の3日目の清めは十字架の型です。私たちはかつては真理を知らず、無分別で、情欲と快楽の奴隷となり、悪意と妬みで日々を過ごすだけの生まれながらに神の怒りの子であり、罪によって神に対して死んでいました。

しかし、主イエスは死んでいた私たちのそばを通りかかり、私たちの苦しみを見過ごしになさらず、私たちを抱き上げて乗り物に乗せて、宿へ連れて行ってくださり、その治療にかかる全ての代金を支払ってくださいました。

これは、主イエスの十字架を信じて、私たちが罪と肉とこの世に対して死に、死から命へと移され、神に対して生きる者とされたことを意味します。しかし、聖 霊の証印を受けて、私たちの知ったこの3日目の贖いは手付金に過ぎません。私たちの治療には本当は「もっと費用がかか」るのです。それは私たちの贖いには まだ続きがあることを意味します。

何ということでしょう、主イエスはこう言われるのです、「もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います」(ルカ10:35)と。これは、主イエスが再び戻って来られることと、その時に私たちの完全な贖いをなして下さることを告げています。その時に私たちは7日目の清めを受け、この肉体においても全く聖くされ、復活の身体を受けて、主の栄光の似姿へと変えられるのです。

今、私たちは3日目から7日目の間にいます。7日目は近づいています! この喜びをどうして霊の内に感じずにいられるでしょう? 冒頭に挙げた御言葉はこの観点に立って、私たちが来臨に備えるように呼びかけています、私たちが、霊、魂、肉体のすべてにおいて、来臨の日に「責められるところのないように」、完全に守られるように神に願いなさいと教えているのです。

私たちはこの文脈についてよく考えてみなければなりません。なぜならこの御言葉は、もしも私たちが霊、魂、肉体のすべてにおいて神の完全な守りが備えられ ていることを信じず、その守りの中にとどまらないならば、不信仰のゆえに、来臨の時に責められる者となってしまうかも知れないと警告しているからです。今 回は、特に、私たちの身体が完全に守られることの必要について考えてみましょう。

これは私たちが苦難や病に遭ってはならないと言っているのではありません。ヨブがそうであったように、神は私たちを子として訓練されるために、時に私たち を病にあわせ、肉体を打たれ、苦難にあわせられることがあります。神は苦難を通して私たちの信仰を練られます。しかし、主は決していつまでも怒られ、いつ までも私たちを懲らされる方ではなく、私たちが御手の下にへりくだり、服従を学ぶなら、速やかに私たちにもとの繁栄を、いや、もとの二倍の繁栄をさえ返し て下さり、私たちを自由とし、健やかな者として下さいます。

私たちは忘れてはなりません、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:6)  ですから、私たちは決して、自分から苦難を求めたり、まして、死を求めるべきではありません(否、私たちはすでに死んだ者であって、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです)。ダビデが述べたように、私たちは時に「死の陰の谷」を歩くかも知れませんが、それでも私たちは「わざわいを恐れません」、なぜなら、「あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)

私たちは決して、全ての苦難が神から来ると思うべきではありません。十字架という名目を装う、サタンからやって来るいわれのない圧迫、無用な苦しみ、病、 死は拒絶すべきです! 何が神の与える苦しみで、何が罪やサタンから来るいわれのない苦しみであるか、私たちははっきりと見分けなければなりません。そし て後者を拒絶し、追い返すべきです!

ダビデは言います、「あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4) これは神から来る苦難が、私たちに結果として慰めを、いつくしみ、恵み、命をもたらすことを示しています。しかし、サタンの与える苦難は、人の霊、魂、肉体をいたずらに傷つけ、人生をただ荒廃させるだけなのです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)。 私たちは苦難には二種類あることを見なければなりません。もしも神の御心によって人が懲らされるなら、その時に生じる悲しみは、へりくだり、悔い改め、救 い、平和といった実を結びますが、サタンの与える無用な苦しみは、人を悔い改めや救いに導くことなく、かえって心頑なにし、ただ無益な苦痛を長引かせた上 で、ついには死へと追いやるのです。

私たちはサタンから来る苦しみを拒絶し、サタンによって人生が盗まれ、荒廃させられ、死へと追いやられることを拒絶すべきです! 私たちは死に立ち向か い、主イエスが与えて下さる命を選び取り、しかも、豊かに命を得るべきです。それが神の御心だからです。主イエスは言われました、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10) 

主は地上におられた間、信仰によって応答した人々の病を癒され、死の恐怖のとらわれから解放し、自由を得させました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言った病人に向かって、主は言われました、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)。このことは、私たちが、霊、魂、肉体の全てに渡って、聖められ、新しくされ、完全とされることが、神の御心であり、私たちの肉体も健やかであるようにと神が願っておられることをはっきりと示しています。

ですから、私たちは生きている限り、神のいつくしみと恵みとが、私たちを追ってくることを求めるべきです! 敵前で主が私たちのために食事を整え、私たち の頭に油を注いでくださることを求めるべきです! 悩みの日に、主が私たちの完全な守りの砦となって下さり、私たちを悪しき者の全ての圧迫から完全に守っ て下さることを信じるべきです! 私たちは無用な圧迫を全て退けるべきであり、苦難を日常的なものとして迎え入れてはなりません。たとえ束の間、主に懲ら されることがあっても、断じて、必要以上に苦難の中にとどまろうとしてはなりません!

注意して下さい、多くの異端の書物は、死後の世界の美しさについてまことしやかに語り、私たちの心を巧みに死へと誘います。病、貧困、死を甘く美化する多 くの書物があります。多くの人たちはそれに欺かれて、病や、死をまるで美しいもののように考えて憧れ、まだ主の定められた時が来ないのに、時期尚早な死を 遂げた人々を美化し、それが、神の御心であるかのように勘違いしています。そうしているうちに、自分も早々と召されることを願うようになり、地上で果たす べき召しを軽視するか、あるいは、あきらめてしまうのです。

しかし、私たちは苦しみや、病や、死を美化する誘惑的な教えを心に受け入れるべきではありません! 生きている今から、病や死と戯れたり、死と協定を結ん だりしてはなりません! 私たちはいわれのない病や、無意味な苦しみ、時期尚早な死を断固、拒否すべきです。そして、信仰によってキリストの命を選び取る べきです! なぜなら、御言葉ははっきりと、私たちが御霊によって生きるべきであること、いや、それが私たちに与えられた権利であることを告げているから です、「もしイエスを死人の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

私たちの目の前には、いつでも、命の道と死の道が置かれています。何を信じ、何を選ぶのか、決めるのは私たち自身であり、私たちは自分で意志を活用して、 積極的に御言葉によって真理を選び取り、虚偽を心から退けねばなりません。私たちの肉体のうちには、常に罪と死の法則が働いており、もしも何も考えずに、 ただ肉に従って生きるなら、私たちは死ぬ他ないでしょう。しかし、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、私たちを罪と死の法則から解放したのであり、 この事実を信じ、選び取り、その事実のうちに堅くとどまり、御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)

思い出しましょう、ラザロが死んだ時、主はマルタにこう言われました、わたしは、よみがえりです。いのちですわたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんこのことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

マルタは信仰によってこのことを信じると告白したことにより、死んだ兄弟をよみがえらせてもらいました。使徒の時代にも、命の御霊の法則により、幾人かの死んだ者が復活にあずかったことを私たちは知っています。しかし、私たちはそこからさらに進んで、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんという衝撃的な御言葉の意味を考えてみたいと思います。これは携え上げのことを言っているのではないでしょうか。主はマルタに問うたように、今日、私たちに問うておられるのではないでしょうか、「このことを信じますか」と。

ですから、私たちは死を見ないで生きたまま主にお会いして、携え上げられるかも知れないという望みを持つべきです。いや、それを目指すべきです!

もう一度言いますが、私たちは時ならぬ死を来たらせるだけの世の悲しみや苦難を拒絶して、苦しみを美化したり、苦しみの中で感傷にふけるのをやめて、その ようなものを心から追い出し、命を選び取るべきです。時が来て、もしも主が私たちに殉教を求められるなら、それに従うことも素晴らしいことではあります が、何よりも、携え上げを願うべきではないでしょうか。殉教とは、キリストのよみがえりの証人として立ち続けることと同義ですから、殉教を願うならば、何 よりも、その者自身が、この地上において、死を打ち破ったキリストのまことのよみがえりの命を知って、その命に生きるべきです。復活の命の何であるかを知 ることもないうちに、絡みつく罪と、地上の重荷と、サタンの圧迫にひしがれて打ち倒されることを、私たちは断固、拒否すべきです。私たちは無意味な苦難を きっぱりと拒絶し、死を戸口まで追い返すべきです。ハデスの門を閉ざすべきです!

ラザロの死を目の前にした時、主は「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11:33)ら れました。神は罪と死を憎んでおられます。神が最初に人間を造られた時、そこに死はありませんでした。死はサタンを通して人類に罪が入り込んだ結果として もたらされたのであり、死は罪の終局的な実です。主イエス・キリストは、御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るために、ご自分の肉体を 裂いて十字架で死なれたのであり、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださった(ヘブル2:14-15)のです。

パウロはコリントの教会の信徒たちに宛てて、彼らの間に多く見られる肉体の弱さ、病、死は、不信仰の結果であるとして責めています、「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(Ⅰコリント11:30) 弱 々しさの中に平然ととどまっていたコリントの信徒たちに、パウロは異議を唱えました。死を打ち破った方のよみがえりの命をいただいているのに、彼らのうち に神の命の強さがほとんど現れていないのはどうしてなのでしょう? なぜ信徒たちは絶え間なく圧迫され、地上のことばかりを思い、互いに争い、食い合って 相身を滅ぼし、自分の命のことばかりで絶え間なく思い煩っているのでしょうか? それは神の御心を退けることを意味するのではないでしょうか?

パウロは肉体に一つのとげを与えられていましたが、その弱さ のうちに、絶えず、神の強さの供給を受けていましたので、決して、自分の弱さについて人の同情を乞う必要はありませんでした。また、何か並外れた障害を抱 えている弱者、受難の人として、自分をアピールしたり、人の助けを求める必要もありませんでした。パウロが「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)と言ったとき、それは「キリストの力が私をおおう」ことを誇っていたのであり、彼は「神の強さ」を誇っていたのです。だからこそ、彼は「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)と大胆に言えたのです。

ですから、キリスト者は、断じて、自分の欠陥、自分の弱々しさを誇りとすべきではありませんし、苦しみが作り出す「受難の人」のイメージを、自分の信仰の美的なシンボルにすべきでもありません。神は私たちがどんなに弱くとも、御言葉のうちにとどまり、御言葉を行うならば、
「力ある勇士たちよ」(詩篇103:20)と 呼びかけて下さるのであり、私たちはキリストの強さが自分を覆うことを信じるべきです。欠乏や、弱さや、病や、死と感傷的に戯れ、それらを両手で大事に抱 きかかえ、いつまでも仲良く手を携えて歩けると思ってはなりません。そんなことをすれば、死が私たちを捕えて飲みつくすでしょう。しかし、キリストの命は 統治する命であり、私たちを真に健やかに、自由とします。それは私たちをあらゆる欠乏から解き放ち、死の奴隷的恐怖から解放し、真に健やかに自分自身を治 めることを可能とし、さらには地を治めることさえも可能とします。

「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)、と主は言われました。神の御心は、私たちが非難されるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝」(ピリピ2:15-16)くことです。

このことは私たちの品性や、行いや、霊や魂の状態について言えるだけでなく、身体についてもあてはまります。律法の時代に、神に捧げられたのは傷のない動 物でしたが、私たちは今日、神に捧げられた生きた供え物です。主が望んでおられるのは、傷のない完全な供え物であることを、私たちは思い出す必要があるの ではないでしょうか。多くの人は、それは自分とは関係ないことだと思っていますが、断じて、そうではありません。主が迎えようとしておられるのは、
しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)であり、そのために、神は私たちを世界の基が置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4) 

神が私たちを聖く、傷のない者にしようと願っておられることに心を留める必要 があります。御心を退けてまで、弱さや、傷や、不完全さにしがみつくことに何の意味があるでしょうか。キリストの統治する命がどのような力と性質を伴うも のであったか、私たちは思い出す必要があります。主イエスは言われました、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)

私たちは自分自身から目を離し、青銅の蛇――すなわち十字架のキリストを見上げます。主の死 を見つめ、主の死を受け入れ、主の死と一つとなるならば、私たちは蛇の致命的な毒から救われて、主のよみがえりの命によって生きるのです! 今までは蛇が 私たちをつかんでいましたが、今は、私たちが蛇をつかみ、ふるい落とすのです! 私たちは自分がどのような瞬間へ向かって歩いているのか、もう一度、思い 出す必要があります。私たちは7日目の清めに向かって、すなわち、完全な贖いに向かって歩いているのです! その日には、私たちはキリストとともに栄光の うちに顕れます。もはや死も、悲しみも、苦しみもありません。なぜなら、神ご自身が私たちとともにおられるからです。

「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとと もにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったか らである。」(黙示21:3-4)

今、私たちはまだ死の陰の谷の存在するこの地上を歩いています。私たちの肉体はまだ完全に贖われていません。しかし、私たちは聖霊によって、来るべき世の 前味をすでにいただいています。御国はすでに私たちの只中に来ています。そして、この邪悪な時代の只中にあって、私たちはキリストのまことの命を灯火とし て輝かせる純潔の花嫁として召し出され、立たされているのです。ですから、私たちはキリストのよみがえりの命の絶大な力を、生きて味わい知ることをもっと 追い求めるべきではないでしょうか。キリストとともに死んだのですから、もはやこの世は私たちに害を及ぼすことはできないことを信じるべきではないでしょ うか。私たちはキリストの十字架を通して、自分自身に対して死に、神に対して生かされたのですから、豊かに命を与えて下さるよう神に願い求めて良いのでは ないでしょうか。それによって、神ご自身が栄光をお受けになるのです。主こそまことの牧者、命を与える方、生ける者の神だからです。

私たちはキリストと共なる十字架によって、アダムの命に死に、この世に対して死んで、キリストのまことのよみがえりの命によって、神に対して生かされたこ とを信じています。私たちは絶えず主イエスの死をこの身に帯びています。ですから、この世のもの、地上のものが自分に触れて、死が私たちの内側に入り込む ことを、断固、拒否すべきではないでしょうか。弱さ、欠乏、貧困、思い煩い、死を来たらせる悲しみ、病、死を戸口まで追い返し、ハデスの門を閉ざし、次の 御言葉が、今から私たちの大胆な宣言であるべきではないでしょうか。なぜなら、主イエスがすでにご自分の死によって死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死は勝利に 飲まれてしまったからです。

「死は勝利に飲まれた。…死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげは、どこにあるのか。」!!(Ⅰコリント15:54,55)

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)



(後日追記) この記事はある闘病生活を送る信者にキリストにある健康と癒しを求めることを促すために書いたものであるが、その信者は癒しを信じず、この記事をも半ば嘲笑ぎみに拒否し、健康を求めることはなかった。(健康を求めることについては、キリストによる超自然的な癒しの他にも、移植を受けるなどの現実的な手段があった。たとえそれが応急処置でしかないと言われたとしても、それでも、ある程度、時間を引き延ばすことは可能だったのである。)

その結果として、以前は温泉に行ったり交わりも可能であった信者は、手術による体の切除、抗がん剤治療などに手を伸ばし、さらには生活環境の悪化による転居により、中心部での生活もできなくなった。自分自身の体も含め、次から次へと色々な宝を手放して行かなくてはならなかったのである。もはや二度と以前のように温泉で楽しく交わることなど不可能であろう。

筆者はこのようなことは決してキリスト者の歩むべき道ではないと確信している。信者に一時的な闘病生活はあり得るかも知れないが、長期に渡る、いや生涯抜け出せない不自由な闘病生活とその結果やって来る必然的な弱体化と死ーーこのようなものには断固憎むべきものとして立ち向かい、神に命がけで解放と自由を懇願することがぜひとも必要であると考える。そうでなければ、ただ死に飲まれてしまうだけである。そこにはただ誰にでも分かるこの世の悪魔的法則が働いているだけで、神の解放のみわざもなければ、キリストの命の完全さもない。聖書には、悪霊によってもたらされる病が確かにあって、信者がそれに縛られ続けることが神の御心ではないと分かる。主イエスが長血の女を解放された時のことを思うべきである。

だが、中には病を自ら選び取る信者もいる。闘病生活を美化し、困難な生活を美化し、悲劇や問題の渦中にあって健気に生きているという自己イメージから生じる周囲の同情や共感を捨てられないためである。それは一種の自作自演劇のようなもので、あるいは自己から逃避するためのイチヂクの葉による擬態のようなもので、病によって隠したい何かがその人の心に存在するのである。こうして、何か別のもっと深刻な問題(多くは自分自身の真の姿)から逃げるために、自ら解放よりも苦しみを選び取る人々が存在し、彼らは苦しみによって自己を美化するために、ひっきりなしに、次から次へと自分で問題を呼び込んで来る。その生活は本人が選び取っているので、これを周囲の説得によって変えるのは難しい。なぜ病を憎むべきものとしてとらえないのか、なぜ解放されることに抵抗し、健康になれと言う人を嘲笑するのか、そこに確かに心理的な(霊的な)問題が存在するのであるが、本人はこの世の常識に目を塞がれているので、たとえ説得したところで、目を開く可能性は低い。求められないのに奇跡を行うことは神もなさらない。

こうして、貴重なかけがえのない時間を常に病や問題のために消費し、大切なものを次々に失いながら、ついには当然のごとく死へ至る。筆者は本当にこうした結末を心から憎むべきものと捉えている。

ちなみに、その信者は、キリスト教会からのエクソダスを考えていたこともあったが、夫の病のために教会員が祈ってくれたことに感動したことをきっかけに、キリスト教会からのエクソダスを断念したのであった。ここでも、後ろを振り向く原因となったのは、同情である。病が家庭に深く入りこんでいた。そして、病と親しみ、それがもたらす美しいイメージにのめり込みすぎた結果、誰からも同情される必要のない自由を手にすることよりも、不自由な人間として人に同情されて生きる道を選び取ったのである。

これは筆者の目から見てあまりにも愚かなことであるが、多くの人は同じようにここでつまづいてしまう。すなわち、人に真の解放を見失わせる同情という感情が持つ悪魔的な厄介さに気づかないのである。同情には人を生かす力も、癒す力もなく、かえって心密かに他人を上から目線で哀れみ、蔑みながら、優しさと見せかけて、その人を依存状態に置いて、立ち上がる力を失わせ、不自由な状態に永遠にとどめてしまう。そこで、人からの同情によりかかり、これを受け入れると、不自由な状態に対する憤りと、絶対にそこから立ち上がって自由になってみせるという強い抵抗、自由への希求が失われるのである。

多くの人たちが同情の持つ悪魔的な策略の罠にはまり、人に同情され、注目されただけで満足してしまい、この厭わしい呪われた感情を振り切って、誰からも哀れまれたり、手を差し伸べられたりする必要のない、真に自立したキリストにある完全な命に至り着こうと思わず、かえって弱さを美しいものとして握りしめるのである。人情によってベタベタにされた神の命からほど遠い共同体が、その時 、人を神の約束された命の自由と解放に決して至らせないための束縛の枷として作動する。

 以前に書いていた「キリストと共に天に昇り、御座から統治する」という記事を補足しておきたい。

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、ある日、御霊の光によって、それらを経験的にはっきりと実際として理解させられる、ということは起きるのである。

 筆者自身、この経験を通して、ちょっとやそっとでない変化がもたらされた。いや、十字架の経験は、筆者を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。たとえば、それまで、筆者は信仰を持っていたが、世人とほとんど変わらない人間で、自分の弱さと状況次第では、どんな罪でも犯しうる人間だと感じてきたが、その主と共なる十字架の経験以後、あからさまに罪を犯すことはもうできなくなった。

 聖書に書いてある「新しい霊と心を与える」ということがどういうことなのか、実感を伴って理解したのである。筆者の魂はあらゆる痛みや傷から全く解放されて、生まれたばかりのように生き生きと健康になり、肉的な悪習慣は跡形もなく消え去り、罪なる思いを否んで退けることができるようになった。

 自分が、今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのを理解したのである。

 だから、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではなく、上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれに死を宣告する効力を持っているのである。
 
 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、筆者はそれ以来、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できるようになった。

 周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、筆者を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで信者の歩みが完全になったわけではない。信者の中で生まれた「新しい人」は、まだ力なく、十分に成長していない、子供のようなものである。信者はもはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝つ力をまだ知らず、暗闇からの圧迫が、予期せぬ事件や、突然の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるとき、それに対して信者は、初めのうちは、よくても受け身、悪い場合には、ただ翻弄されて後退を繰り返すだけで、これらの出来事に圧倒的に勝利する秘訣をまだ知らないが、それを掴む必要があるのだ。

 信者の生まれたばかりの新しい人の霊的無力さは、彼が天の高度に霊をはばたかせ、キリストと共に昇天し、主と共に御座から、キリストの御名の権威を持って主と共に治めることを実際に経験し始めれば、変わるであろう。むろん、信者は、資格の上では、すでにキリストと共に死と復活を経て、御座についているのであるが、それがどういうことなのか、実際に経験しなければならないのだ。そして、その経験の過程で、信者の新しい人は、霊的に強められ、信仰が成長し、勝利をおさめながら、キリストの似姿へ成長して行くのである。

 そこで、「キリストと共に天の御座から統治する」ということの意味を、知りたいと筆者は考え、神に願った。そのように霊的に天に昇り、御座から統治するという経験は、信者が暗闇に勝利する生活を送るにあたって、なくてはならない死活的重要性を帯びていると感じたためである。
 
 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を生きて経験することはできないだろう。たとえば、地上の経済がますます悪化し、人心が荒れ、嘘と騙しと搾取が横行する今の世の中にあって、信者の職業の問題、経済の問題などには、信者ただ一人分の命を何とかしてつなぎとめるなどという意味ばかりでなく、それを通して、信者がキリストのまことの命による支配をこの地にもたらし、暗闇の勢力による支配を敗北させ、後退させるという意味を帯びているのである。

 ある信者が、「悪人の富は、善人(信仰者)のためにこそ、蓄えられる」と語ったが、まさにその通りなのである。キリスト者には、御名の権威によって、地の富が蓄えられている倉庫を開錠し、不正な罪人たちの富を天の倉庫に移行するということが可能なのであり、その方法を信者は実際に知らなくてはならない。

 この富の移行は、地上の悪人たちがいつもそうしているように、嘘や不正や脅しや略奪や搾取によるのではなく、ちょうど新約聖書で、ザアカイが主イエスの前に自ら悔い改めて、自分の蓄えた不正な富を虐げられた人々に還元すると述べたときのように、悪人が信仰による義人の前に、自ら己が不正な富を明け渡すという自然な成り行きによる。そのようにして地が天に仕えることが、本来の秩序なのである。そして、信者は、天の正しい霊的統治を地上で持ち運ぶ器なのである。
 
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 もう一度言うが、キリスト者は、主イエスと共に霊的に統治する方法を知らなければならない。そして、それは天の御座の高度から行われるべきことである。

  ただし、ここで少しばかり注意が必要なのは、これはスピリチュアリズムで流行した「アセンション」などとは全く異なる事柄で、アセンションなどは、キリストと共に信者が御座から統治することの偽物に過ぎないという点である。

 悪魔と暗闇の勢力は、人があたかもキリストの十字架を介することなく、神の恵みによらず、自力で自分本来の力に覚醒することによって、何かしら天的存在となり、神のようになれるかのような教えを常に捏造して来た。つまり、今もって彼らは、キリストと共なる死・復活・昇天の体験の偽物を盛んに流布しているのだが、このように偽物が現れて来るのは、本物がそれほどまでに貴重だからに他ならない。

 だから、キリスト者は、虚偽の教えが蔓延していることに幻滅して、本物を探し求めることまでやめるべきではなく、偽物が隠そうとしている本物が必ずあるはずだということに注目して、真に高価な「真珠」である霊的真理を探し続け、御言葉が生きて実際となる経験を求めるべきである。

 キリストの御座からの統治とは、山上の垂訓が実現した世界であり、それは信者の肉的高揚のために行われる自己顕示などとは全く異なる事柄である。信者は、自分に何らかの感覚的な高揚感をもたらす超自然的な体験の有無に左右されることなく、あくまで聖書の御言葉に立脚して、静かで落ち着いた信仰のもとに、これらの事柄(復活、昇天、御座)が、御霊によって信者の内側で実際となることを確信し、それを追い求めるのである。

 たとえ感覚的に何も体験したように感じられずとも、御言葉への確信の中にとどまることが肝心である。

 さらに、筆者がこのような追求の間に学ばされた重要なことがある。それは、キリスト者は、天の御座に就いて主と共に統治する者であるから、地上の経済の悪なる支配に巻き込まれて、その奴隷となってはいけない、ということである。

 筆者はこれまで、さまざまな方法で生計を神に満たしていただいたが、その満たしの方法は一定ではなく、時には、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されることがなかったわけではない。

 なぜなら、信者は天に終身雇用されているのだが、地上においての雇用は変化する可能性があるからだ。地上には何一つ永続的な事柄は存在しない。そこで、この世で、どのような形で生計を満たすかという問題については、主はその時、その時で、いつも筆者に違った答えを下さった。

 だから、筆者はかなり長い間、世人と同じように、この世の職業に就き、まじめに働いて生きようと考えて来たのだが、いつも、その結果として、思い知らされることは、地上の労働なるものは、地上の呪われて堕落した経済の一環として、非常に悪しき呪われた要素をはらんでおり、その支配に身を委ねれば委ねるほど、誰しも、豊かになるどころか、貧しくなっていくだけだということである。

 そのような呪われた悪循環に身を委ねることが、神に喜ばれる信者の生き方ではなく、信者が養われる方法は、常にこの世が規定しているような自己の労働によるのではない別な天的な方法によるのだということを学ばされるのであった。

 だから、どんなに筆者が世人と同じような生活を送ろうと試みても、いつもいつも不思議な展開により、どういうわけか、神は常に労働によらない別の蓄えを用意して下さり、自己の努力によらず、神の恵みによって生きるようにと、筆者に促されたである。むろん、それは不正に蓄えられた富などではなく、むしろ、不正な罪人が裁きを受けて、正しい人のために、蓄えて来た富を明け渡さなければならなくなる、といった結末によって生じるものなのであった。
 
 だから、たとえこの世の経済がまるで呪われた悪循環のようなものとなっており、どんなに多くの世人がそれによって追い詰められ、暗闇の勢力がそれを使って信者の生活をも妨害しようと試みたとしても、結局、最後には、彼らの方が降参して、己が富を信者に明け渡さなくてはならなくなる、ということの連続なのである。そして、そのように不正な罪人が恥をこうむり、悔い改めた時に生まれる富の移行が、信者がこの世的な労働によって得るものよりもはるかに大きいのである。
 
 だから、筆者が言えることは、もし信者がキリストのみに忠実であろうと堅く決意し、主以外の何者にも頼らずに御言葉を守って生きるなら、我々の生存に必要な条件はすべての面において、神が保障して下さると信じて構わないということである。神が信者の義となって下さり、信者のために戦って下さり、信者のために報復し、この世の不正な罪人を屈服させて、彼らに恥をこうむらせ、彼らが義人から収奪して蓄積して来た富を、信者に明け渡させるのである。

 たとえ筆者自身がそういうことを望んでいなくとも、それでも、キリスト者は、地上の経済よりも上位にいて、地に対するキリストの命の霊的統治を及ぼす権威を持つ者なのだということを、どういうわけか、筆者は常に確信せざるを得ない出来事の連続の中に置かれて来たのである。

 キリスト者を騙し、虐げ、踏みにじり、搾取しようとするような者は、必ず恥と損失を受けることになる。そのようにして、地の富が天の宝物庫に移行することは、神の御心にかなっているのである。
 
 だから、筆者は誰かの施しや憐れみにすがって困窮状態を解決してもらわねばならないようなマイナスに陥ったことはこれまで一度もないし、かえって、筆者の「貧しさ」をあざ笑ったり、追い詰めたり、あるいは筆者を騙して損失をこうむらせようとした人々が、常に最後には恥をこうむり、償いをせねばならない事態となって来たのであった。

 たとえ望まなくとも自然にそのようになったのである。今、地上の経済は年々悪化の一途を辿っており、あらゆる組織・企業・団体が悪鬼化し、嘘と騙しと搾取が横行しているにも関わらず、御名の権威を持って、信者が彼らの前に立つとき、地上の悪なる主人たちは、結局、恥をこうむり、己が宝物庫を、キリスト者のために明け渡さなければならなくなるのである。

 だから、キリスト者の使命は、地上の悪なる主人の手下や奴隷となって、その思い通りに動かされ、無益な苦しみを味わうことではない、とはっきり言える。むしろ、聖書に書いてある通り、悪なる人々が、義人を陥れようと、どんな不正な計画を企み、罠を張ったとしても、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、心安らかに歩いて行けば良い。神が、彼らを自分でしかけた罠に突き落とされるからである。その結果、彼らの富が義人の手に移行するということが自然に起きるのである。
 
 だから、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、神に対してのみ忠実であればよく、聖書に書いてある通り、明日のために思い煩うということは、する必要のないことである。むろん、最低限度の管理は必要だが、自分で自分を支えようと絶えず心を悩ませ、限界まで力を振り絞って悲痛な努力をして(もしくは不正な方法論を巡らして)まで己の力で己を養おうと努力する必要はないのである。

 信者はただ率直に、何が自分に必要なのかを天におられる父に向かって祈り、申し上げ、主を信頼して生きれば良い。

 さらに、こうした祈りの際に、非常に有効なのは、信者がただ地上から天に向かって祈りを通して願いを神に懇願するだけでなく、もっと力と権威を持って、天の御座からキリストと共に、御名の権威によって地上に向かって命じるということなのである。

 これをするために、信者には「キリストと共に昇天し、御座につく」という経験が必要になるのだと筆者は考えている。天の御座からの権威をもった祈りは、地上から捧げる懇願の祈りよりももっとはるかに強力な効果を持っているからだ。
 
 信者の地上での行く先、なすべき事は、常に、天に備えられているが、ただ備えられているだけでなく、それは祈りによって、常に信者の心の願いに沿って与えられるものなのである。

  だから、信者はこの世のものさしに従って自分の人生をおしはかり、願いを限定すべきではない。たとえば、地上の経済が悪化しているから、選択肢もないだろうと考えて、信者があえて劣悪な条件に自ら志願したり、二度と関わるまいと決意した領域に戻ろうとしても、その道は常に絶たれる。

 主が信者のために用意して下さるのは、良心に恥じず、自分で自分を苦しめたり、貶めたりする必要がなく、不正に加担せず、なおかつ、信者自身の心の願いに合致し、さらに歴史の立会人になるような生き方である。

  信者にとって生活の糧は、自分で探し回って自己の努力によって得るものではなく、はたまた巧みな自己アピールによって獲得すべきものでもなく、主と信者が共同で作り出して行くものなのである。御霊の知恵が、どのように生きるべきかを信者に常に教えるのである。

  神には無限の多様な知恵があり、無からでも有を呼び起こすことのできる方が我々の主である。その主と共に生きている限り、信者は、神と共に信仰によって、自分の願う事柄を創造しているのであり、神には足りないとか、万策尽きたということが絶対になく、信じる者のために、神は常に豊富に選択肢を用意して下さることができる。

 だから、キリスト者の生活とは、この世の状況がどんなに悪くなって行ったとしても、それに左右されるものでは決してないのである。

  しかしながら、そこに信仰の戦いがある。信者の願いが成就するよりも前に、必ず、暗闇の勢力からの妨害があり、彼らは主が信者のために創造して下さった富が、何としても信者の手に渡らないように、必ず、何らかの方法で妨害して来る。

 その時に、信者は、敗北感や、恐れや、弱さを覚えたり、自分が神に願った恵みを受けるに値しないという怖れの中に沈まないことである。この否定的感覚に対して、徹底的に立ち向かい、これを拒否し、神の勝利に立ち続けて、天の高度を維持しながら、すべての圧迫に立ち向かうことが有効である。

 信者は決して起きる出来事にただ翻弄され、振り回されるだけの立場でいてはいけない。神が約束して下さった栄光に信者を至らせまいとする全ての悪魔の策略を見抜き、これを打破して突き進んでいく積極性が必要なのである。

 このような戦いを経由することなく、願っていた栄光(キリストの似姿)に信者が到達することはまずないと言えよう。悪魔はあらゆることについて信者に敗北をささやき、あらゆる方法で信者を意気消沈させようと試みるだろうが、敗北は悪魔に突き返してやり、絶対に認めないことである。また、敗北的な台詞を人々から投げかけられる時、これをきっぱりと否定することが重要である。

 悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう、と書かれている通り、キリスト者を迫害して来るような連中の悪事は、声を大にして世に告げ知らせれば良い。これについて、黙っている必要はない。この世の罪人がどれほど連帯して信仰によって生きる義人を迫害し、陥れようとしたとしても、キリスト者の内におられる方は、この世全体を合わせたよりもはるかに強いのであり、すでに世に勝った方なのである。

 だから、この世の情勢がどんなに厳しくなっても、信者の生存のために必要なすべては主が天に備えておいて下さり、しかも、それは必要最低限をはるかに上回るものなのであって、それを信仰の戦いを勝ち抜いて獲得することができる、ということを信じずべきである。

 信仰によって、天から地に御心を引き下ろし、地上の富を天に移行することが信者の重要な責務の一つなのだと認識すべきである。

 地は、天に住む者のためにその宝を蓄えており、これを明け渡さなければならない立場にある。キリスト者が地上の人々に仕え、その悪なる支配に翻弄されるのではなく、地上の人々がキリスト者に仕え、天の支配を知らなければならないのであって、これが本当の秩序のありようなのである。信者が地の奴隷になるべきではなく、信者はかえって地の悪なる主人の支配に恥をこうむらせ、これを後退させ、御心にかなう天的秩序を地にもたらすために地上に存在しているのである。

 人の力は、どんなに優れた能力がある人の場合も、年々衰えるだけであるが、主を待ち望む者は新たに力を得る。キリストの死と共に働く偉大な復活の力は、人間的な望みが尽きれば尽きるほど、ますますはっきり現れて来る。

 神を信じてより頼む者が失望に終わることはない、と聖書に書かれている通り、この世の法則と、信仰の法則は逆なのである。この世的な観点から絶望が増し加わる時にこそ、信者の信仰が試されており、信者に約束された天の栄誉も大きい。

 だから、今の時代のような時にこそ、信者は勇気をもって暗闇の勢力の妨害に敢然と立ち向かい、約束された勝利を勝ち取る積極性が必要とされる。たとえ確かな証拠が目に見えるところに何もなくとも、見えない神の偉大なみわざを信じる信仰を生きて働かせるべきである。

 敗北から立ち上がり、勝利の叫びをあげ、凱旋の歌を歌いなさい。もうこれ以上、弱々しい懇願の祈りを捧げていないで、まだ見ていなくとも、天の御座に主と共に座していることを信じ、地に向かって権威を持って命じなさい。

 アダムのために地は実りをもたらさないが、地はキリスト者のためには実りをもたらさなければならない。なぜなら、キリストは、アダムが失敗した統治を実現するために地上に来られ、今やその任務を、信じる者に委ねておられるからである。

 悪人の富は信仰による義人のためにこそ、蓄えられている。地はすべての富をキリストご自身に明け渡すためにこそ、蓄えているのである。彼らが己の欲のために富を蓄えていると思っているのは、勘違いに過ぎない。彼らが義人を虐げて不正な富を増し加えていると思っているのは勘違いに過ぎない。不正な罪人自身も含め、この地上にあるすべては結局、キリストに服従させられることになるのである。

 キリスト者は神の代理人として、霊的に地を治め、地の富の蓄えられている倉庫を開錠する権威を行使できる者である。特に不自然な努力を重ねなくとも、神にのみより頼み、御言葉のうちにとどまりさえすれば、最後には不思議とそういう結果になって、地上の不正な罪人らがキリスト者のために道を譲り、キリスト者のために奉仕し、不正を悔い改めて、その富を明け渡さなくてはならいような成り行きにすべてが進行する。そうなったときに、筆者がここに書いてあることが何だったのかも、分かるであろう。

 だが、これはキリスト者がこの世で権威者となることを意味しない。主イエスや弟子たちが地上にある間、あくまでこの世の経済的支配圏の外に立っていたように、キリスト者は、この世の支配に組み込まれない自由な人間として、それでも、この世の支配を超越した高み(天)から、この世の支配圏に対して権威を持って命じることのできる立場にある。

 このようなことを、筆者は人間的な思いで、あるいは高慢や支配欲もしくは復讐心などから言うのではなく、実際に、キリスト者には、貴い主の御名のゆえに、地を治める権威があって、その権威の前に、地の人々が従わなくてはならない、という秩序が存在することを知ってもらいたいがゆえに、述べているのである。筆者はおびただしい回数、それを見て来たのでそれが事実であることを知っている。
 

高慢とは何であろうか、真の謙遜とは何であろうか。

実は、その実態は、多くのクリスチャンが考えているのとは真逆であると筆者は思う。「私は神の恵みに値しない」という考えほど、うわべは謙遜に見えて、その実、悪質な高慢はない。

筆者は幼い頃からのキリスト教徒であったので、清貧貞潔な生活へのこだわり、社会的弱者への憐れみ、などの感情を物心ついた頃から持っていた。そのため、ある時期が来るまで、貧しいことは悪いことではなく、病に陥ることは悪いことではなく、追い詰められて死を願うことも、悪いことではなく、そのような困難な状況にある人たちに、信者は積極的に手を差し伸べ、大いに同情や共感を持つべきである、と考えていた。

ところが、不思議なことに、信仰生活を送れば送るほど、実際はその逆である、ということが分かって来るのだった。困難の中にある人に同情し、助けの手を差し伸べれば差し伸べるほど、同情する側も、同情される側も、ますます困難の中に居直り、深みにはまり、そこから抜け出せなくなっていくという堂々巡りが起きるのである。

このようなことを言えば、早速、「あなたは社会的弱者を追い詰めるつもりか」という非難がやって来るであろう。ちょうどカルト被害者救済活動の支持者が、この活動の欺瞞性を指摘した筆者を断罪したようにだ。

だが、今、筆者はそんなことを目的にこれを書いているのではない。

筆者が、貧しさや、困難や、病や、死を心から憎むようになったのは、かなり前からのことであり、カルト被害者救済活動と訣別した頃には、すでにその考えの原型が心に固まっていたのだが、その完成となる事件は、KFCで起きた。

その事件も今から振り返ると相当に昔のことであるが、その当時、雇用情勢はますます悪化し、ブラック企業が横行し、正常な仕事を見つけるのが難しくなっていたが、筆者が職を変わる時、兄弟姉妹に祈りの支援を求めていたことが、KFCで災いし、これが嘲笑の材料とされたのである。

KFCにいた信者たちは、筆者よりも20~30歳ほど年上の世代ばかりで、比較的裕福な閑人が多かった。ほとんどが年金生活者か、働いていない者たちであった。だから、月曜から金曜まで真面目に労働に明け暮れ、なお、豊かにならない若者世代の苦しみを、そんな彼らの世代が、理解すること自体が、無理な相談であった。それでも、ある時期までは、信者たちの幾人かは、決して筆者の祈りのリクエストをあざ笑ったりすることなく、共に祈り、それなりに心配もしてくれていたのである。

ところが、KFCがいよいよ異端化していることが明確になる頃、そこにいた兄弟姉妹たちは、あからさまに弱肉強食の原理を信仰生活に持ち込み、そこに世代間格差のエキスも混ぜ合わせて、自分たちが「神によって恵まれた特権的な豊かな信者であって、それ以外の貧しい信者とは違う」と、年少世代の苦境をあからさまに嘲笑するようになったのである。

筆者が彼らに相談事を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたりしたことが、悪用された。そうした相談事が、あたかも筆者が「信仰的に自立できておらず、神の恵みを拒んで人に甘え、人に頼っているがゆえに、いつまでも抜け出せない困難の堂々巡り」であるという決めつけの根拠とされ、「ヴィオロンなどには同情する意味もなければ、助ける価値がない」と結論づけられ、筆者の抱えていた窮状は全て「不信仰の産物」として片付けられて、嘲笑され、踏みつけにする材料とされたのである。

むろん、そのような考えの発信源はほかならぬDr.Lukeであって、同氏がいつものように取り巻きをけしかけて不都合な信者に集団イジメをしかけただけであった。KFCでは筆者の他にも、絶え間なくそのような事件が起きて、年少者でなくとも、何かの理由をつけられては、信徒が見下され、仲間から批判されていたのである。

それが、筆者に矛先が向いたのは、筆者が常日頃から、Luke氏が聖書の御言葉から著しく逸脱していることを、面と向かって同氏に忠告し、かつ、Br.Taka夫妻を含め、メッセンジャーたちが信徒の上に立って勝ち誇っていることを強く非難し、指導者と信徒との霊的姦淫の関係が結ばれるべきではないと言ったので、ついに筆者の「生意気さ」に同氏の我慢の限界が来て、報復行為に及ばれたのであった。

その当時、神への霊的純粋さを失い、なおかつ、決して他の信徒を教える立場から離れることができなかったDr.Lukeにできることといえば、高みに立って、己が富を誇り、聖書に立ち返れと叫ぶ信者の貧しさを嘲笑することくらいしか残っていなかったのであろう。

KFCはもともと外側の物質的豊かさを、まるで内側の霊的豊かさのように誇り、自分たちは「天の特権階級だ」と他人を踏みつけにすることを、よすがのようにしていた。そのような方法で、自分たちは他のクリスチャンに比べ、特別に神に恵まれ、覚えられている存在であることを強調することだけが、この団体の特徴になってしまったのである。Dr.Lukeは取り巻きの老人たち(もはや婦人たちという言葉さえ、使うのがもったいない)を巻き込んで、筆者の置かれていた状況を、筆者を見下すために悪用したのだが、それによって、御言葉から逸れている自分たちに対する筆者の非難をかわせると考えていたのであろう。

だが、以上のような事件は、当時はまだ筆者にとってショッキングに感じられはしたが、ある種の「霊的平手打ち」となり、筆者がよりはっきりと目を覚ますきっかけとなった。その頃から、悪魔に対しては、弱みを見せるどころか、とことん見栄を張らなければならない、ということが筆者に分かって来たのである。

以来、筆者は悪魔に魂を売った連中に、「不信仰だ」などと後ろ指を指されて、嘲笑されるような機会を決して作らないように、自分の生活の欠乏を他者に打ち明けて、祈りの支援を乞うことを、やめてしまった。特に、そのような連中に助けを求めるなど言語道断であるから、彼らとの兄弟姉妹の絆を絶ち切り、彼らをキリストの御身体から断ち切って、彼らと完全に訣別し、自分の生活に起きるすべての状況と、すべての思いを、ただ天の父なる神だけに完全に委ねるようになったのである。

世の中の情勢は、その頃から今に至るまで、寸分たりとも改善することなく、刻一刻と悪くなっているだけである。我々の世代を取り巻く状況は、今も悪化を繰り返しているだけで、何の将来の見込みもない。

だが、だからと言って、筆者がその時代の趨勢に従って歩むべきかと言えば、そんなことは全くないのである。こうした状況は、そもそも果たして筆者の負うべき責任であろうか。むしろ、そういった世の悪しき状況は、どちらかと言えば、年長世代の貪欲と怠慢によって引き起こされたものであり、彼ら自身の罪の結果だと言えよう。それなのに、その状況が、なぜ年少世代に自業自得であるかのようになすりつけられなければならないのか。そんな理由はどこにもないのである。

そんなわけで、筆者はこの「刻一刻と悪化して行く世の情勢」なるものを、自分とは無関係なもの、筆者には責任のないもの、さらに、すでにキリストが十字架で終止符を打たれたもの、神の御心に反する悪魔の憎むべき嘘として、自分から切り離したのであった。

そして、今までのように、「世の中がこうだから」という理由で何かをあきらめ、妥協することをせず、自分が何を願っているのかだけを、世の情勢に頓着せずに、率直に神に申し上げ、あきらめずにそれを神に懇願し続けた。その際、人には全く頼らず、相談もせず、どんな細い道を通らされる時にも、ただ天におられる父なる神だけを見上げ、神がすべてのことを良きにはからって下さるという確信だけを胸に抱いて、今日まで歩み続けて来たのである。

その過程で、筆者は度々、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されるに至った。むろん、まだまだジョージ・ミュラーほどの経験には及ばないことは知っている。それでも、この世には一切、保証を求めず、人に助けも乞わず、ただ祈りだけによって、すべての必要を神に叶えていただく、その秘訣を、筆者は、確かに学び始めたのであり、ミュラーと同じ道を今も歩き続けているのである。むろん、その道は、ミュラーが開拓したものではなく、イエス・キリストが切り開かれたものである。

そうこうしているうちに、筆者に対して己が富を勝ち誇っていた人々は、時代の趨勢の悪化に伴い、凋落して行ったようであった。もともとそうでなくとも、筆者より年長の世代は、普通に考えれば、筆者よりも早く亡くなるのが当然である。彼らが筆者の貧しさや苦しみを嘲笑していた時、筆者はまだ人生のほんの駆け出しであったが、他方、彼らはすでにとうに頂点を通り過ぎ、あとは次の世代にバトンを預けるのみの状態であった。にも関わらず、そんなことも考えずに、彼らは筆者の前で、自らの栄耀栄華を誇っていたのである。今になっても、彼らは舞台から降りるどころか、「神になり」、自分たちの時代を永遠に謳歌するつもりでいるらしい。

だが、もしそのように主張するならば、彼らは老衰にも、死にも、打ち勝たなければならない。普通の老人たちのようにただ老いて、病に倒れ、生活を縮小し、先細りとなって活動をやめるというのではなく、モーセのように、人生最後の瞬間まで、気力が衰えず、生涯の終わりに近づけば近づくほど、ますます若者のように明るい輝きを放ち、神の命の永遠なることを世に立証せねばならない。それでこそ、自分はただの人間ではなく、神が内に生きておられると、はっきり言えるであろう。

今、彼らの凋落を、彼らの不信仰の産物だと筆者が言うのは、彼らの発言の裏返しである。彼らは、自分たちが時代の幸運に見舞われていた時には、それを信仰の手柄のように誇った。もしそうならば、時代が悪化した時に、なぜ彼らの信仰は役に立たず、彼らの凋落を食い止める手立てとならなかったのであろうか。それは最初から、彼らが誇っていたものが、信仰の産物などではなかったからだ。

時代の趨勢によって手に入れただけのものは、時代の趨勢によって奪い取られる。時代に媚びる人間は、時代に逆らう術を持たない。自分が富んでいる時に、貧しい者の悩みを蔑み、悩んでいる者に助けの手を差し伸べることを拒み、祈りの支援を乞うた仲間と共に祈ることを拒み、その人の願いをあざ笑って、蔑み、呪い、貧しい者を自分たちとは全く無関係な人間として突き放していれば、自分自身が衰えて凋落した時に、人からも同じように冷たい態度を返されるのは仕方ないであろう。

だが、筆者にとっては、以上のような人々の仕打ちでさえ、有益な教訓となったと思うのは、人の心には、神の恵みを受けとることに、常に恐れやためらいを感じる瞬間があり、たとえ信者であっても、神の恵みを素直に十分に受け取れるようになるまでには、時間と訓練が必要だからである。

特に、清貧貞潔、弱者救済、などの理念を掲げて生きて来た人ほど、貧しさを憎み、病を憎み、死を憎んでこれを拒絶し、キリストの命を選び取ることが難しい。

彼らは、貧しくあることが高潔であり、弱者であることが、美徳であるかのように思い込んでいるからだ。

そこで、筆者が貧しい時には、それを不信仰だとあざ笑っていた人たちが、いざ自分たちが貧しさや、病や、老齢や、苦難に見舞われると、一体、どうするのかを見ていると、それらの欠乏をまるで自分を飾る美しい衣のように大切に握りしめるのである。

そして、「苦しみや、困難の中で神に従い、健気に生きている自分」を美化する。そして、そのように苦難に耐えるのが信仰だと言い始める。

彼らは病にしがみつく。貧しさにしがみつく。卑小な自分自身にしがみついて、物乞いのぼろ服を後生大事に抱え込み、いつまでも、これを手放そうとしない。「病に打ち勝つ信仰」などと言いながら、いつまでもずっと病の話ばかりを続けているのである。その話をやめられないこと自体が、そのテーマが、彼らの中で過去になっていないことの何よりの証である。そんな姿は、彼らが筆者をかつてあざ笑っていたのと何の違いがあるのであろうか?

人の人生には、その人自身が作り出したとしか思えないような幾多の困難が存在する。多くの人たちは、不幸は不運な偶然や、事故が原因であると思って、可哀想な人々にいたく同情している。

だが、クリスチャンの人生には偶然というものはなく、すべての出来事が、天の采配であると同時に、本人が信仰によって選び取った結末なのである。信者が神の側に立っているのか、悪魔の側に立っているのか、すべての出来事を通して、信者は自分の信仰を表明しなければならないのだ。

だから、たとえ一時的に困難に見舞われることがあったとしても、それも神の栄光のために用いることができることを信じなければならない。預言者が空の器を次々、油で満たしたように、神は信者の生活の欠けを隅々まで満たすことがおできになり、従って、我々の弱さや欠乏は、神によって満たされ、神が栄光を受けられる材料に過ぎないと思うべきなのである。

聖書における病人たちは、主イエスに会って病を癒された。死んだ者たちはよみがえらされた。主イエスは病人たちに同情の涙を注いで、ただ施しをして終わりにはせず、彼らが本当に自立できるまことの命をお与えになった。主は貧しい人たちを空腹のままで去らせたわけではない、目に見えるパンが、目に見えないパンからできていることを教え、すべてを手に入れるための本当の秘訣であるご自身の命を人々にお与えになられたのである。

ところが、どういうわけか、今日のキリスト教では、困っている人たちにキリストの命によって立ち上がるよう求める代わりに、施しや、同情という網でがんじがらめに捕えて、慈善事業に明け暮れている。こうした慈善事業はどんなに繰り返しても、決してキリストの命にたどり着かない。

だが、そのようにして人間が人間の欠乏を満たし合うという関係を離れ、キリストの御名を通して、天におられるまことの神に向かって自分の欠乏を差し出すならば、それは必ず、不思議な方法で満たされるのである。満たされた欠乏は、すでに欠乏ではない。それは神の栄光である。だから、神に従う人間には、どんな困難があっても、それらはすべて神の最善を証する機会へと変えられる。信者を嘲笑していた人たちが真に恥じ入るのは、そのような瞬間が来た時である。らい病人が癒され、死者が立ち上がり、喪にくれていた人たちが喜びに涙し、悲しむ者が慰めを得、貧しい人が食べ飽き、義に飢え渇いていた人が、義に飽き足りるようになる時である。

その瞬間は、遠い未来のことではなく、今なのである。今、すべての欠乏を抱えたまま、天の父なる神の御前に進み出て、神の限りなく愛なること、神の限りなく善なることを告白し、神は信者が悪魔とその手下どもに嘲弄されるままの状態を、決してお見逃しにならないことを信じるべきである。

「主よ、お聞きください、暗闇の軍勢がこう言っています、信者が貧しいままなのは、あなたの助けが足りないからだと。信者が苦しんでいるままなのは、神に見捨てられているからだと。信者に力がないのは、神など存在しないからだと。私に対する侮りの言葉は、すなわち、あなたに対する侮りの言葉であることを覚えて下さい。

しかし、悪魔とその軍勢がどれほどあなたの御名の偉大さを否定し、あなたの助けを貶め、信じる者には助けがないと言ったとしても、私は断固、そのようなことを事実として信じておりません。私は、私が地上で何者であるかに関わらず、ただあなたの御名において、あなたのものとされた人間として、私に対するあなたの守りと助けの常に完全であることを信じています。

御力を現して下さい。この虐げられて、疲れ切って、弱々しくなっている民に、あなたの御名にふさわしい新しい力を与えて下さい。新たな衣を着せ、足腰を強めて立ち上がらせ、枯れた骨のような人々を、一人の新しい人に、神の軍隊に作り変えて立ち上がらせて下さい。御名がこれ以上侮られ、辱められることのないよう、あなたの名で呼ばれている民を、立ち上がらせて下さい・・・。」

「その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。」
 (詩篇第68篇5-6節)

  
神はどんな状態からでも信者の家庭や生活を回復できる。神は信者のどんな失われたものをも回復できるし、無から有を作り出すことのできる方である。

むろん、家のない人に家を供給することもできるし、生活の糧も与えることができる。家族のない人に家族を与えることもできる。

神は絶望の淵にいる人々に希望を与え、仕事を失った人たちに良い仕事を与え、主に信頼する者たちに、生きるために必要な全ての糧と、未来の希望を用意することができる。

我らの望みを実現して下さる方は神である。
我らの万軍の主、ただお一人の神である。
  
神の助けを受けるためにただ一つ必要な条件は、神のみを頼りとすること、主イエス・キリストの御名のみにより頼み、キリストのみに栄光を帰すること、人間の助けに頼らないことである。
 
さて、上に書いたような一つ一つの恵みは、私の人生を通しても豊かに立証済みである。

他方、カルト被害者救済活動なるものに関わり、自分自身を被害者と考えて、神と教会や牧師や、他のクリスチャンを訴えることだけに精を出している人間の人生には、この先も、永久に何の解決もないだろう。

100%保証するが、自分を被害者だと自称している人が、神の幸福にあずかることは決してない。
 
しかし、私自身は、この活動と完全に縁を切って、アッセンブリーズ教団や、村上密氏や、彼を支持する人間たちと訣別してから、家庭のすみずみに至るまで、幸福が回復されたのである。

父は以前よりももっと話をじっくり聞いてくれるようになったし、姉妹関係も回復した。 悩みの時には、親族だけでなく、助けてくれる人たちが常に用意されている。

たとえば、友が必要だと主に願い出れば、神が友を送って下さる。
専門の仕事が必要だと願い出れば、神がこれを与えて下さる。
生活の糧も、ペットも、家も、何もかも、主に願って与えられて来たのである。

そして、私自身の安全も、我が実家も、常に守られている。

これは、私の仕事が常に順調で、私に特別な才覚があって、人並み以上に恵まれた生活を送って来たから言うのではなく、むしろ、私は仕事を変えたり、願いが変わったり、明日の保険などという考えとは無縁のところで生きて来た。

が、それにも関わらず、毎日、毎日、必ず、神が必要の全てを備えて下さり、私の人生を守って下さり、しかも、豊かに守って下さることを、これまで一日、一日、しっかりと確かめて来たのである。
   
カルト被害者救済活動なるものにまだ接触があった頃、私は結局、この活動に何らの希望も解決も見いだせず、将来への展望も何も見いだせないまま、その頃に住んでいた家を手放して、実家に帰らざるを得なくなるという出来事があった。

いよいよ郷里に帰るというその時、筆者が当時、助けを求めて通っていたアッセンブリーズ京都教会の村上密牧師の夫人が、筆者に向かってこう言い放った。

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」

耳を疑うようなこの言葉を聞いたとき、どれほどこの婦人が心冷たい人間であるかを筆者はよくよく思い知った。そして、このような人物から離れられることは幸いだと確信したのである。

つまり、村上牧師夫人は、「あなたがいなくなって寂しくなるわ」と、お世辞でも別れを惜しむでもなく、「なかなか会えないけど、元気で頑張ってね」と励ますでもなく、

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」と、それだけ冷たく言い放ったのである。要するに、そこには、「あなたがいなくなってせいせいするわ、二度と戻って来ないでね」というニュアンスが、はっきりと込められていたのである。

実際のところ、この夫人の冷酷さについては、カルト被害者救済活動に関係していた被害者たちの間でさえ、定評がある。まるで氷の人形のように冷酷で無慈悲かつサディスティックだというのである。

村上夫人の旧姓は津村である。筆者はこの女性の父親である牧師の人柄をよく知っている。その牧師を筆頭に、元津村ファミリーの人間は、大体みなそうなのだが、この女性も、まるでサイボーグ戦士のように無感覚で、他人の心の痛みというものを、およそ理解したり、慰めたりできるような繊細な心の持ち主ではない。

だから、もし誰か心傷ついている時に、相談相手が欲しいと願うなら、絶対に、村上夫妻に助けを求めることだけは、やめておいた方がいい。問題が解決するどころか、彼らの餌食とされ、下手をすれば、それをきっかけとして、死へ追いやられることになるだけであろう。

特に、夫人には何も打ち明けてはいけない。まだ癒えない傷を、切れもしない鈍い刀で無理やりグイグイとこじあけられるように、傷口を押し広げられ、徹底的に痛めつけられることは請け合いである。村上夫妻はサディストなのではないかと感じずにいられないほどのやり方である。

言っておくが、これは筆者が一人だけで主張していることではなく、被害者の間での定評なのである。
 
おそらく、カルト被害者の中では、このような悪質な「カウンセリング」の結果、死に追いやられた人たちもいるのではないかと想像せずにいられない。

こうして、筆者はこれらのサディストたちの親子の両方から逃れて来たことになるが、もうすでに彼らと手を切って何年になるか分からないのに、未だに筆者には、この教会と牧師の関係者とおぼしき連中からの嫌がらせが続いている様子を見れば、一般の人々にも、ここで筆者が主張していることが、嘘とは言えないことがよく立証されるであろう。

沖縄の被害者は村上ファミリーによってもっとひどい恫喝の下に置かれているともっぱらの評判である。
 
このような事実があるわけだから、クリスチャンはどんなに不安を覚える出来事に遭遇しても、カルト被害者救済活動なるものには決して関わらないことをお勧めする。アッセンブリーズ教団にも決して足を向けてはいけない。
 
さて、上記のような牧師夫人の捨て台詞と共にその教会を去ることになる前に、一度だけ、筆者は、関西での生活に不安を覚えたことを、この牧師夫人に打ち明けたことがあった。

当時、筆者はバイクで通勤していたので、もし通勤中に交通事故に遭ったならば、どうすれば良いかという不安が心によぎった。もし自分に万一のことがあると、親族が近くにいないので、すぐに誰かに助けを求められないという不安を語ってしまったのであった。

その時に、この牧師夫人が筆者に答えた言葉が、これまた典型的なサディストとして非常に奮っていた。彼女は表情を変えもせず、こう言い放ったのだ。

「遺書を書いて携帯しておけばいいじゃない。『もし私に万一のことがあったら、村上に葬儀をして下さい』って」

筆者はこの答えを聞いたとき、一体、これが牧師夫人の言葉だろうかと絶句した。

「大丈夫、通勤の道も、神様が必ず守ってくれるわよ、それを信じましょうよ」と励ますでもなく、「私たちがついているわよ。何かあったら、すぐに私たちに電話してね」と言うでもなく、

「もし不慮の事故で自分が死んだ時には、村上密に葬儀をして下さい、と遺書に書いて、その遺書を常時、懐に携帯しておけばいいじゃない」

と言ったのである。

まるで筆者が事故死しても当然であるとでも言いたげなこの死に対する消極的かつ絶望的で不信仰で投げやりな答えと、筆者がまだ何も言わないうちから、筆者の葬儀が京都アッセンブリーズ教会で行われることを当然視しているかのようなこの答えには、本当にドン引きしてしまった。

そして、筆者はあまりにもこの牧師夫人の答えに呆れ果てたので、夫人には面と向かって何も言わなかった(言っても無駄であろう)が、その時、心の中で、「絶対に筆者は死なないし、こんな冷酷人間の思い通りになって、こんな連中に葬儀を頼むようなこともしない」と決意したのであった。
 
大体、そんなことが起きたのでは、神の名折れであり、地獄の笑い者にしかならないであろう。一体、そんな死に方のどこに信仰の意味があると言うのか、信仰者の名が泣く。神の助けを信じると言いながら、悪魔の吹き込む嘘の不安に負けて、犬死するなど言語道断であり、絶対にそのよう悪しき前例を作ってはいけないと、断固、決意したのであった。

当時、筆者の信仰はまだ人間に頼ったり、他者に不安を打ち明けたりするほど未熟で、神の守りの万全さを自ら決意するまでには至っていなかったが、それにしても、そんな当時の筆者にも、上記の牧師夫人の答えは、クリスチャンとしてあるまじき言語道断なものであり、そこには死に対する力強い抵抗もなく、死を打ち破る信仰の勝利もなく、もしかけらほどでも信仰を持っていれば、絶対に出て来るはずのない臆病者の悪魔的・敗北的回答だと理解するだけの力はあった。

だから、神への信仰そのものを全否定し、弱い者たちを冷酷に突き放し、人が死ぬことを当然視してそれを助長しこそすれ、死に対して全く抵抗しようともしないこの牧師夫人の不信仰で冷酷な言葉を、筆者は人に生きる力を失わせるための悪魔の策略としてきっぱり退け、夫人の勧めに従って遺書を書くことを拒み、なおかつ、村上密に葬儀を頼むという言語道断な提案をも退けて、その当時、筆者が親交を結んだ信頼できるクリスチャンの名と携帯番号をノートに記して、「万一の際は、この人物に連絡してください」というメモだけを携帯し、絶対に、何があっても、村上密には連絡が行かないように布石を打ったのであった。

むろん、アッセンブリーズ教団と京都教会といかなる縁も持たない今、筆者に関して、この牧師が乗り出して来ることは決してない。

だが、今ならば、筆者は信仰が成長したので、たとえ上記のような状況に置かれても、もう不安を覚えることはないし、誰にも助けを求めることはないであろうと言える。そもそも、筆者は自らの死に備えて、わざわざ遺書など携帯することはない。それは、筆者の死がもし避けがたいものとして近づいて来る時には、必ず、神が知らせて下さると確信しているからである。

それに、第一、クリスチャンが、携え上げや殉教を願うこともなく、ありふれた事故死や、畳の上での死を当たり前のように受け入れているようでは、信仰者としてもう終わりである。

クリスチャンにとっての死とは、生と同じく、神への証でなければならないのだ。それはありふれた出来事ではなく、主への献身の完成でなければならない。

今、筆者はバイクだけでなく車も運転する。必ずしもいつも近くに駆けつけてくれる誰かが常にいるという状況ではない。

しかし、筆者が乗っているのは、信仰という乗り物であり、その同乗者は神である。神が私の保険であり、私の最も注意深い同乗者であり、助手席のナビゲーターである。だから、私は「もし事故に遭ったなら・・・」などという想定を考えることさえなく、困ったことがあれば、「主よ、どうしましょうか?」と相談する。

これは筆者が格別に熟練したドライバーで、腕に相当の自信があるから言うわけでもないし、筆者の車が特別頑丈にできているためでもない。道に迷うことから、機械のトラブルに見舞われることから、日常生活で、全く相談事が生じないことは決してない。だが、それらはすべて主に持って行くのである。実際、筆者が長年のペーパードライバーから特別な講習もなしに一直線にドライバーに戻った時にも、すべて主のみが守り、助けて下さったのである。

頑丈で確かなのは車でもなければ筆者の腕前でもなく、主の確かな守りである。

さて、こんな有様だったので、カルト被害者救済活動と訣別したことに、筆者は何のためらいも後悔もありはしない。あんな風に冷酷でサディスティックで生きる希望を持たない敗北的な連中と関わっていれば、信者はいつしか最初に持っていたはずの生きる望みさえ奪われて、彼らの嫌がらせの果てに精神的に殺されて本当に死者にされてしまうだけである。

別の記事に書いたが、当時、アッセンブリーズ教団に属していた鳴尾教会で、村上夫人の父である津村牧師に関わってボロボロになるまで使役され、マタハラにも遭い、大切な子供を失った伝道者夫妻の話も今日に伝わっている。だから、筆者が上記のように書いたからと言って、それは決して誇張ではないと確かに言える。
 
神でないものに助けを求めれば、悪魔がつけこんで来るだけである。その挙句の果てに行き着く先は、死でしかない。だから、生きていたいという望みがわずかでもあるならば、一刻も早く人間の指導者に助けを求めることをやめて、そんな敗北の道は早々にお断りするにこしたことはない。

さて、この運動を離れたのはもうはるか昔のことであるが、筆者には、それ以来、家を失うなどということは、一度も起きたことがない。
 
かえって、アッセンブリーズ教団に残った信徒が家を失ったという話を聞くばかりである。

その信者は、かつて筆者がカルト被害者救済活動と対立していたことを、まるで筆者の人徳のなさの結果であるかのように責め、嘲笑していた。要するに、筆者が不器用だから人と対立しているのであって、皆と仲良くしていれば、そんな対立は起きるはずなく、筆者はこの運動の支持者とも和解すべきと彼女は言うのであった。
 
彼女には、自分なら決してそんな対立に巻き込まれはしないという自負があって、自分の八方美人性によほどの自信があったのであろう。何しろ、アッセンブリーズ教団の人間なのだから、そう考えたとしても、不思議ではない。そして、筆者を支援するように口では言いながら、陰では多くの信者たちに、筆者に対する侮蔑的な見方を植えつけていた。
  
だが、筆者はその八方美人的な自称信者の上から目線で自信満々な忠告を聞かなかった。
 
何しろ、神に敵対する人間たちと仲良くすることが信仰の道ではないのである。主に対して不忠実で、聖書の御言葉に従わない人間とは、袂を分かたない限り、自分自身にも彼らと同じ呪いを招くことになるだけであることは、その頃には、もう十分に理解していた。

汚れたものとは分離せよ、それが聖書が随所で信者に警告している原則である。

だから、筆者にはアッセンブリーズ教団に戻る気もなかったし、カルト被害者救済活動に戻る気もなく、その信者の助言を聞く必要もないと分かっていた。さらに、その信者と関わる必要もなかったのである。その最後の点だけが、その頃には分かっていなかった点であった。筆者はその人も「信者」だと思っていたからだ。
 
さて、神に祝福されるための道は、御言葉に忠実に従い、神に従わない悪人どもと手を切ることである。人に好かれ、世の覚えめでたい人間になることなどが信仰生活の目的では決してないのである。そのような生き方を推奨し、神にではなく、世に色目を使って媚びる人間とは早く訣別することが肝心である。
 
さて、話を戻せば、筆者の「貧しさ」や「不器用さ」ゆえの苦労を、さんざん他人事のように嘲笑し、自分ならばもっとうまくやれると上から目線で見下しながら、忠告を繰り返していたその信者は、自分と同じ病院で治療を受けていた自分の障害者の友人にも、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから、あなたとはさよならする」と言い放って、その病院を去って行った。

しかし、その言葉通りに彼女はその後、豊かな生活を送るどころか、かえって夫の給与が下がって、家を手放して、郊外にある実家に戻らざるを得なくなったのであった。

夫を持たない天涯孤独かつ重度の障害者である闘病生活の仲間と、筆者の悩みと孤独の多い信仰生活を、まるで不器用さの証であるかのように、さんざん上から目線で嘲笑した信者の行く末であった。

もしそのアッセンブリー信者の筆者への忠告が正しかったのならば、決してそんな結末にはならなかったであろうと筆者は確信している。設備の良い病院で治療を受けると同時に、より良い家に住み替えるくらいのことができたであろう。

何しろ、どんなに些細なことがきっかけであれ、信仰者がやむなく生活を縮小し、持ち物を手放し、家を失う、という結末は、悪魔を大喜びさせるだけだからである。それはあたかも神の助けが不十分であり、なおかつ、信者が不信仰であることの現れのように世には受け取られる。

だから、もし本当に神を信じているならば、信者は決して自殺によって犬死になどしてはならないし、どんな持ち物も安易に手放してはならないし、世の情勢が悪くなったからと言って、それに影響されて貧しくなって行くこともない。

どんな窮地に追い込まれても、そこから神の偉大さを、信仰を通して立証できるだけの勝利をつかみ取らなければならないのだ。
 
ところが、彼女は、人前で自分の裕福さと器用さ(立ち回りの上手さ)を誇って、自分ほどに器用に生きていない人間を見下して嘲笑していたにも関わらず、時代の趨勢の通りに、より貧しくなっていくという結果を避けられなかったのである。それは、その信者の誇っていた世渡りの才覚が、何ら世の情勢の悪化に立ち向かう力とはならなかったことをはっきりと物語っている。

世と馴れ合う人間は、世が「豊かになれ」と言ってくれる間は、豊かになるが、世に「貧乏になれ」と言われたら、それに全く立ち向かう力を持たないのである。そのような人間は、もし世から「死ね」と言われたら、本当に死んでしまうのに違いない。つまり、彼らが信者を名乗っているのはほんの口先だけのことで、実際には貧しさや病や死の圧迫に対して、信仰によって立ち向かう術を全く持たないのである。一体、そんな信仰に意味があろうだろうか?

我らの神は、そんな時にこそ、我らの力強い助け主となって下さる方である。我らの神は、やもめや、みなし子や、よるべのない者たちを見捨てず、彼らが追い詰められた時の最も力強い砦、最強の保護者である。我々が最も弱く、最も策なく、窮地に追い込まれているようなその時こそ、我らの神の出番があり、神の全能の力が現れる。我らに神以外の全ての助けが断たれるその時にこそ、神の力強さが最も大胆に現れるのだ。
   
それなのに、アッセンブリーズ教団にいるこの人々たちの主張の何と弱々しく敗北的なことだろうか。彼らの言う「信仰」なるものは、この世においてあらゆる死の圧迫に大胆に立ち向かうために全く役に立たない非力なゴミ・ガラクタでしかなく、むしろ、速やかにあの世へ渡って自分を慰めるためのパスポートでしかない。悪魔は大喜びであろう。そのようなものは断じて信仰と呼ばれるべきではない。

だから、そんな様子を見るにつけても、アッセンブリーズ教団やカルト被害者救済活動を擁護することは、誰に対しても、呪いに満ちた悲惨な結果しか招かない、と改めて筆者は確信している。この運動は、世の方しか向いておらず、神の方を向いていないからだ。悪魔と世のなすがままである。それでいながら、どうやって天に蓄えられた宝を信仰によって地上に引き下ろすことなどできよう。こんな運動に関わりながら、神に祝福された人生を送るのは無理な相談である。
 
村上密は、自殺した人間を責めたり、罪に問うのは残酷であって、自殺者は神に拒まれ、天国へ行けないという考えは、クリスチャンの偏見だ、などという趣旨の記事を繰り返しブログに書いているようである。要するに、自殺者も天国に行けるし、神に受け入れられるかのようなデマの流布に加担しているのだ。

このような屁理屈は、死に対する何の抑止力にもなりはせず、死を願う人たちの心の願望をいたずらに助長するだけである。

「自殺しても、罪にはなりません。天国にも行けるし、神様も分かってくれます」
 
そんな風に、人々の自殺願望に太鼓判を押し、死へ向かって背中を押すような、むなしい自己安堵の言葉を、自称「被害者救済活動」に携わる牧師が投げかけているのだから、世も末、言語道断、笑止千万な話である。しかも、それが牧師を名乗っている人間の言葉なのであるから、全く呆れ果てる。

そこに、一体どんな「救済」があるというのか? 死が救済だとでも言うのであろうか?
 
そのような主張から透けて見えてくるのは、この牧師夫妻に関わったために、実際に死に追いやられた被害者が相当数存在するのだろうという暗黙の事実だ。

彼らは、自分たちが救えなかった被害者への無念、自分たちの非力さ、不信仰という罪を覆い隠すために、上記のように自殺者を擁護し、自殺を後押しするような主張をしているだけである、筆者にはそうとしか見えない。
  
だが、キリストは、死に打ち勝った方であり、信じる者に豊かに命を供給される方である。

キリストは、カルバリで悪魔を打ち破り、我々を悪魔のもたらす全ての死の恐怖から救い出し、我々を死の奴隷状態から実際に解放して下さった方なのである。
 
だから、一体、この方への信仰を持っているのに、なぜ、我々が依然、死に怯えて暮らさねばならない理由があるのだろうか。いや、我々は死に立ち向かい、これを断固拒否し、撃退しなければならないのである。
  
筆者自身の確かな経験に立って、ここに警告しておくが、人間に過ぎない村上密に助けを求めた人間は死ぬだけであろう。彼らは救済にもあずかることはないし、受けた被害も回復されない。むしろ、持っていたものまで取り上げられる。

しかし、主イエス・キリストに助けを求める人間は、これらすべてを回復され、単に死に打ち勝つどころか、神の満ち満ちた命の豊かさに至る。
 
だから、筆者は、カルト被害者救済活動に失望し、一旦は、郷里に帰ったが、その後、信仰によってまた新たな家を手に入れて独立できたし、仕事も与えられているし、関西の地を去って後、今度は関東にやって来ることが出来たので、前よりも大きなチャレンジに至った。

まだまだ、このチャレンジは続くのである。むろん、郷里は自然が豊かで食べ物が美味しく、いつでも帰りたいという誘惑はあるが、キリスト者の道は「出て来たところに戻る」ことにはなく、「前に向かって身を伸ばし」、常にまだ見ぬ地へ、天の都を目指すことにある。
 
こうした事柄は、もし筆者がアッセンブリーズ教団や被害者運動などというものにすがっていれば、絶対に起きなかったことばかりで、目に見える人間に助けを求めて、見えない神に従わないことの不毛性をよく物語る事実である。
 
だから、貧しい者はただ主イエス・キリストの御名にすがり、神にのみ助けを求めるが良い。もし本当に神だけに栄光を帰するならば、主は御名に信頼する全ての人たちの願いに応えて、豊かな命を与えて下さる。

神の家族に加えられた人々は、もはやみなし子でもなければ、やもめでもない。神が保護者なのだから、地上の誰にも増して富んでいる人間であり、キリストと共に、天の相続財産が約束された御国の後継者である。

福音書の中で、放蕩息子が帰宅した時に、父親が彼に新しい服を着せ、履物と、指輪をはめてくれたように、神はあらゆる贈り物で、信じる者たちの人生を満たして下さる。
 
だから、真に恵まれて豊かで幸福な人生を生き、人間として地上に生まれて来たことの醍醐味を味わいたいならば、カルト被害者救済活動などという汚れた運動とはさっさと手を切り、被害者をダシにして自分の栄光を求めるような牧師への期待は、可能な限り早く捨てることである。

そして、まことの創造者たる神に立ち返り、神だけに栄光を帰して生きることである。

この唯一の神、我らのまことの造り主なる神を退け、神と教会とクリスチャンを訴える道を選んだ人間には、破滅しか降りかかるものはない。

村上密の最期は、自身の予告にふさわしいものとなるだろう。つまり、彼が自殺を擁護しているのは、自殺した被害者のためではなく、実のところ、自分自身の未来への自己弁明のためなのではないかと思わずにいられない。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。」(ローマ8:6)

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