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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

暗闇の勢力に立ち向かう事件は相当に進展している。聖書の裁判官とやもめのたとえのごとく、世にはしつこく訴え続けることで、初めて真実が取り上げられる事柄も多数、存在するのだと、筆者は、これまでの様々な戦いを通じて痛感して来た。

できるなら、聖書に登場するやもめのように、神をも畏れぬ裁判官を延々と説得したいとは思わない。それはあまりにも骨の折れる仕事だからだ。だが、高慢な役人、冷血な裁判官、あくどい弁護士、冷酷な上司、事なかれ主義の従業員・・・、ここに列挙できないほど、実にほとほと嫌になるような性格の人々を相手にしながら、筆者はこれまで幾度も自らの主張を訴えて、戦って来た。

その過程で、重要なことが見えて来た。相手がどんな性格の人間であれ、とことん真実を訴えて成果を引き出す秘訣が分かり始めたのである。

ところで、主イエスが語られた不正な裁判官とやもめのたとえを思い出す際、常に筆者の脳裏に思い起こされるのが、あるウクライナのおばあちゃんである。

筆者がウクライナの首都を旅行していた時のこと、我々の一行はまだ明るいうちに街の目抜き通りで警官に呼び止められた。パスポートを出せと言われ、出すと居住登録の書類に不備があるとけちをつけて来る。これは元共産主義国ではよくある言いがかりで、暗黙の賄賂の請求である。我々が抗議しても全く言うことを聞いてくれない。

ところが、その時、我々の一行と共にいた小柄で物静かなおばあちゃんが、突如、体全体から振り絞るような声をあげて、ものすごい剣幕で警官に食ってかかったのだった。

「あんたたち、恥を知らないの? 神をも畏れず、白昼堂々、こんな街中で、市民に何という言いがかりをつけるのよ! この人たちは私の大切な客人なのよ! まだ学生なのよ! 私たちの国の文化を学ぶためにやって来た大切な客人なのよ! 私たちはちゃんと役所に行って手続きもしたのよ! 書類に不備なんてないわ! 私の客人に、あんたたちに指一本、触れさせやしないわよ! 全く恐ろしい、世も末だわ! あんたたちみたいなならず者が、自分の小遣い稼ぎのために、白昼堂々、こんなコソ泥みたいな真似して、貧しい市民や学生に言いがかりをつけて最後のなけなしのお金まで奪い取ろうっていうの? 神はすべてをご存じだわよ! あんたらに良心の呵責はないの! こんな卑怯な真似していないで、さっさと自分のやるべき仕事を果たしなさいよ!」

・・・これは筆者の想像で、実際にはウクライナ語のため、おばあちゃんが叫んでいる内容は、ほとんど分からなかった。だが、それでも心は伝わる。ちょうど大斎期のシーズンで、おばあちゃんは水と黒パンしか口にしておらず、精進の最中だった。色々と宗教的な言い分がちりばめられていたことは分かった。

警官らは、おばあちゃんの圧倒的な剣幕にたじたじとなり、青ざめながら、後ずさりして、「いいか、今度、同じようなことがあったらな・・・」という捨て台詞を残して、我々から手を引いて、立ち去って行った。

おばあちゃんの圧倒的な勝利だった。

だが、何事も執拗に訴えさえすれば、成就するということはない。嘘も百回言えば真実になるということは決してなく、そういう考えは誤りである。真実でなければ、訴えても、嘘の岩盤を貫き通す強度がない。だが、もし訴えの内容が真実であるならば、あきらめず何度もとことん訴えれば、いずれ固い岩盤をも通過する。 

さて、今は事件の関係で詳しく記すことはしないものの、筆者はある記事を思い出している。

それは、筆者に長年敵対しているカルト被害者救済活動の支持者の一人が書いた「干潟は水が腐っているわけではない」という記事である。

残念なことに、この記事の著者は、その後、記事の中で自ら言わんとしていたことのはかり知れない重要性に気づくことなく、思索を途中でやめて、むしろその内容を否定して、180度、違う道を歩み始めてしまった。

しかし、筆者は今ここで、この記事の重要性に改めて言及しておきたいのである。

記事の著者は言う、干潟は、泥沼のように見えるため、外観が悪く、世間には全く有用性がないかのように誤解されがちだが、事実は全く逆で、干潟では、神秘的、奇跡的なほどまでに、環境浄化の作用が働いており、自然界の恵みある有用な働きがなされているのだという。

九州地方には世界的にも珍しい大きな干潟がたくさんある。その歴史的な発生の過程については今は省略するが、当時、この自然界の恵み豊かな由緒ある干潟を根こそぎ破壊しようとしていたのが、農水省が強行している大規模公共事業であり、その公共事業には、巨大利権を巡って、官僚、政治家、様々な業者などが群がっているという。

と、記事の著者はここでいきなり話題を変えて、プロテスタントのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の記事に言及し、村上氏の主張を批判する。

村上氏は、自らの記事の中で、公共事業によって、水が腐った地帯に過ぎない干潟が開拓されて、人工的に河川が造られ、水はけが改良され、穀倉地帯ができたことを素晴らしい成果であると述べて、干潟の悪水を抜くことを、人間の心の中にある悪水を抜くことになぞらえて評価する。

しかし、こうした村上氏の主張を引き合いに出しながら、記事の著者は、これを完全に的外れで不適切なたとえとして、痛烈に批判しているのである。

つまり、この記事の著者に言わせれば、干潟は水の腐った地帯などではなく、むしろ、生態系にとっては極めて有用な作用をもたらすものであり、このように長い時をかけて作られた歴史ある自然界の恵みをただ単に「無用なもの」と決めつけて破壊することで、根こそぎの環境破壊にいそしんでいる政府の公共事業の方が、実際ははるかに有害なのである。

記事の著者は、こうして「干潟=悪(旧体制)」、「政府の公共事業=善(新体制)」と決めつける村上氏のあまりにも短絡的で浅はかな理屈を完全に論破し、覆してしまう。そして、一見、人の目には無益かつ無用に見える見栄えの悪い干潟の中に、整然として人目を引き、有用そうに見える公共事業には全く太刀打ちできないほどに神秘的・驚異的な効用があることを訴えるのである。

その記事の著者が「権力」におもねることなく、また、見かけ倒しの成果に欺かれることなく、一見、力のない、不器用で、見栄えも悪い、見捨てられつつある、もの言わぬ「干潟」の側に立ってこれを擁護しているわけだから、胸のすくような主張である。

ところが、残念なことに、この記事の著者は、村上氏が、干潟の開拓の必要性を述べることで、それを人の心の問題(クリスチャンの心の問題)になぞらえていることを理解しつつも、自らの論理を最後まで推し進めて、干潟の有用性についての議論を、村上氏の主張に具体的に適用して、村上氏の主張の根本的な誤りや危険性に言及することとしなかった。

それどころか、この記事の著者は、この記事に対して早速、村上氏から抗議を受けたことを機に、あっさりとその抗議を受け入れ、自分には村上氏に対する敵意があったと反省の言葉を残して、この記事で始めていたはずの極めて重要な考察を自ら放棄・封印してしまい、むしろ、その後は、まるで村上氏の代弁者か、同氏の活動の宣伝広報係のようになって、それまでとは正反対とも言える道を歩んでしまったのである。

暗闇の勢力は、こうして人の心に芽生えた重要な気づきを常に邪魔するものである。その後は、ご存知の通りであり、この人物は、カルト被害者救済活動の支持者の一人として筆者にも深刻に対立・敵対するに至っている。筆者から見れば、村上氏にいいように利用された上、すべての責任を一身に負わされて、切りすてられようとしているのである。

だが、この人物の見解がどうあれ、筆者はその記事で始められた考察のしっぽを取り上げて、それを当ブログでさらに推し進め、その当時、口にされることのなかった結論を明らかにしたいと考えている。

一つ前の記事でも述べたことであるが、干潟についての以上の議論は、聖書における苦しみの効用というテーマとぴったり重なるのである。

村上氏は公共事業による干潟の開拓を肯定的に評価しながら、それを人の心になぞらえて言う。

「人の心も同じだと思います。悩み苦しみが心の中に流れ込み、行き先を失って、潟になっています。悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

だが、本当にそうだろうか? 村上氏のこの記述はあまりにも浅薄に過ぎないだろうか。

何よりも、村上氏の言うように、人間の「悩み苦しみ」は、本当に人の心の中に溜まった無用な「悪水」でしかないのだろうか? しかも、「話を親身になって聞いてくれる」良き聞き手が現れることによってしか、その「悪水」のはけ口はないというのか?

いや、聖書は決してそのようなことは言っていない。

聖書には、神のために苦しんだ無数の霊的先人たちの生き様が記されている。だが、彼らは、周りに一人の理解者も、同情者もなく、ただ神だけが自分の苦悩を理解して、これを受け止めて下さるという境地を一人で切り抜けねばならなかった。

たとえば、正しい礼拝をしたのに、嫉妬のゆえに兄カインに殺された弟アベル、兄弟たちに妬まれ、エジプトに売られ、ポテパルの家でも苦難を受け、長く投獄されたヨセフ、一人で箱舟を建設し続けたノア、イサクを得るまで長い間、サラと共に忍耐せねばならなかったアブラハム、パロの家を捨てて民を率いてエジプトを脱出したモーセ、義人にも関わらず苦しめられたヨブ、ペニンナに苦しめられ、祭司エリにまで酒に酔っていると思われてたしなめられた不妊の女ハンナ、自分の息子にも裏切られ、数多くの苦難を耐えたダビデ・・・

主イエスご自身も、十字架に向かわれる時には、群衆に裏切られ、弟子たちにまで見捨てられ、神の御前にただお一人で苦難を背負われた。

それから、パウロの投獄、ステパノの殉教、その他、その他…、今ここで列挙することが不可能なほど、信仰者たちはみな神のために苦しんだのである。

一体、誰が彼らの苦悩の「良き聞き手」になって「悪水のはけ口」の役割を果たしてくれたというのであろうか?

そのようなことがおできになる方は、神以外には誰もいない。

聖書は、信者の悩み苦しみについて、決して村上氏のような主張をしておらず、むしろ、逆のことを言っている。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:1-5)

「つまり、あなたがたには、
キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)

「今やわたしは、
あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)

以上の御言葉は、まさしく「苦しみの効能」と言って良いものではないだろうか。

そして、聖書がこのようにキリストのために苦しむことを奨励しているにも関わらず、村上氏が、人間(信者)の悩み苦しみ(≒干潟の水)を、何かあるまじきもの、無用なもの、人の心に溜まった「悪水」のようなものとしてしかとらえず、それを「良き聞き手」(≒公共事業)が話を聞いてやり、心の外に吐き出させることで、「悪水を抜く」ことができるかのように考えている誤りこそ、同氏の誤ったカルト被害者救済活動のベースをなす考え方ではないかと筆者は思う。

このことは、カルト被害者の悩み苦しみをどのように扱うかという村上氏の手法の基礎をもなしている考え方である。

しかし、件の人物も、上記の記事の中で言う、干潟に溜まった水は、決して抜かなければならないような腐った「悪水」ではなく、見かけは泥水のように見えても、干潟の水の中では活発な光合成が行われ、浄化作用が起きているのだと。

同様に、筆者に言わせれば、人間の心の悩み苦しみも、心に溜まった悪水などでは決してなく、その凝縮された苦しみの中でこそ、活発な霊的浄化作用が起きているのである。

むろん、苦しみそのものが人間の魂を浄化できるわけではない。キリスト者の霊と魂を清めることができるのは聖霊だけである。しかしながら、それでも、苦しみがなければ、人間は誰しもすべての逆境を自力で切り抜けることができるかのような高慢な錯覚に陥り、真剣に神を尋ね求めることもなく、祈ることも、信じることもないであろう。

従って、自己過信に陥ることなく、神に従い、自分自身の力によって立つのではなく、真実、信仰によって、神の憐れみと助けによって生きることを学ぶためには、信者はどうしても苦難の中を通ることを避けては通れないのである。

目に見えるカウンセラーや、牧師や、教師たちに、安易に悩みを打ち明けたり、話を聞いてもらい、自分を理解し、慰めてもらおうと願わず、ただ神にのみ、自分の心のすべてを打ち明け、どんなに理不尽な出来事を通過しても、すべてを神の正しい裁きに委ねる時に、信者の苦悩が、神の直接のねぎらい、慰めによって報いられるのである。

誰にも打ち明けることのできない苦しみの中で、信者の魂が練られ、練達が生まれ、希望が生まれるのである。

筆者は一つ前の記事の中で、疑わしい教えを唱えるキリスト教系の団体を通過して来たことを決して後悔するつもりはないと書いた。

異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなもので、生きている限り、根絶することはできないが、免疫抵抗力を持つ健康な人にとっては、害にはならない。健康な人も、このような病原菌と共に生きることによってしか、免疫抵抗力をつけることができない。

信者は誰しも了解しているはずだが、我々はこの地上で堕落した肉体を持っている限り、完全に聖なる人となることはできない。クリスチャンの完全な聖化は、復活の時を待たねばならない。従って、完全なキリストの花嫁たるエクレシアは霊的には存在するものの、この恵みの時代(教会時代)に、目に見える形としては、決して存在することはできない。

そこで、我々がどんなに100%純粋で正しい教えを唱える教会や兄弟姉妹を熱心に探し求めたとしても、そのような存在を地上で見いだすことは、100%無理であると断言できる。我々はこの地上にいる限り、誤りやすく、未熟で、不確かな考えの兄弟姉妹や、教会にしか出会うことはできないのである。エクレシアはこの迷いやすく愚かで未熟な地上的な人々を通して、彼らの心の中にある純粋で熱心で揺るぎない信仰を通じて霊的に体現される。

我々クリスチャンは生きている限り、誤謬や、逸脱や、失敗から解放されることがない。そこに我々の悩み苦しみもある。むろん、このことは決して失敗や誤謬の言い訳とされるべきではない。だが、義のために苦しむこともあれば、自分自身の限界から来る失敗や弱さのゆえに、神に従いたいという願いとの間で葛藤し苦しむこともある。神の完全、神の聖を追い求め、どこまでも真実で正しい生き方を追い求め続けるべきではあっても、同時に、地上の不完全な存在であるがゆえに、神の願っておられる完全に至り着けない苦悩も存在する。

異端の教えに深刻な被害を受けるまで接触する必要はなく、そのようなことを勧めるつもりも筆者にはない。以下で記す通り、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れたように、誤った教えを唱えていると分かった団体からは、離れ去ることを勧める。が、だからと言って、我々が疑わしい教えを100%避けて、完全に正しい教えだけを受けて生きることも、地上にある限り、不可能な相談なのだ。

このことは、カルト被害者にも当てはまる。カルト被害者と呼ばれている人たちは、神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れて、深刻な被害を受けた人々である。その人々の苦しみを自業自得と考え、自分ならばそのような愚かな失敗はしないと考えて笑う人々もあろう。

しかしながら、筆者は思うのだが、事の大小の違いはあれど、我々はみなカルト被害者と同じような失敗を通してしか、何が正しい教えであり、何が誤った教えであるのかを学ぶことはできず、正しい教えを識別する機会もなければ、判断力を養うきっかけも得られないのである。

だから、筆者は、そのように多くの痛みを経験しながら歩んで来た人々が、自らその痛み苦しみを恥じるがごとくに「被害者」と名乗る必要はなく、また、そうした苦悩を教会のせいであるかのように考えて、神に従おうと願った自分の信仰までも恥じる必要はない。むしろ、彼らが負った悩み苦しみは、信仰に立ち続けさえするならば、非常に有益な教訓として生かされうるものであり、何ら恥ずべきものでもなければ、あるまじきものでもない。

カルト被害者のみならず、信者の負った悩み苦しみにはどれも深い意義が存在する。問題は、カルト被害者救済活動に携わる人々が、被害者を募り、彼らが教会で受けた悩み苦しみを「あるまじきこと」のようにとらえさせることにより、神を求めて教会を訪れたことを後悔させ、信仰まで捨てさせようとしている点である。

誤解のないように断っておけば、筆者は決して我々が率先して苦しむべきだと言っているのではない。深刻な被害を負う前にきちんと対処すべき事柄は多くあり、打つべき手さえ打たずにただ悪魔のなすがままに翻弄されて苦しめられるべきと言いたいわけではない。

だが、人には自分でコントロール不可能な状況下で苦しみが与えられることもある。

たとえば、筆者は子供時代に、自分では決断することのできない状況で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に関わることになり、その後、この教団の理念が誤っていると見抜いてこれを離れる際にも、多大なる苦しみを経験した。

だが、今、筆者は、自分の人生を自力で操縦できなかったような子供時代に、この教団に関わったことまでも、まるで自己責任であるかのように考えたりはしない。

神はその当時から、筆者には分からない方法と、深いご計画を持って、筆者をご自分の民として召し、選んで下さっていたのである。そのことは、筆者だけでなく、筆者が子供時代に所属していた教会までもが、後々、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れた事実を見ても、よく分かるように思う。

筆者が子供時代に洗礼を受けると決断した時、家庭内では大きな波乱があり、筆者は大きな苦難に遭遇した。その時、筆者の苦しみを理解する者は、家庭の中にさえ一人もいなかった。それにも関わらず、筆者の神に従いたいという決意は変わらず、それは決して牧師や家族から教えられた結果でもなければ、誰から強制されたものでもなかった。

このように、どの教団教派、どのような組織に属しているかといった問題を完全に超えて、筆者は自分の意志で、目に見える万物を造られた唯一の創造主である聖書の神に従って生きることを決意したのである。

今でも、その決意のことを考えると、感動とも何とも表現しがたい思いがこみ上げて来る。

その当時から、筆者の内心には、自分の人生がどのような終わり方をするのか、筆者の人生は神のために捧げられるのだというおぼろげながらの予感があった。子供時代から、筆者は幾度かそのことを口にしたものである。

筆者には、神のために負わねばならない多くの苦難があることが分かっており、実際にそれを負って来た。世人と変わらない生活を送っていた時代もあったが、それでも、筆者の人生はかならず、神の御前の単独者へと引き戻された。

神は筆者が子供時代から御名のために負って来た代償をことごとくご存じであると今も確信している。筆者自身にはコントロールできない、手の届かないところで起きたすべての事件についても、神がご存じであると思う。そうした事情のゆえに、筆者の受けた苦悩について、筆者を直接、慰め、ねぎらうことができる存在はただ神のみである。

神ご自身しか、そうした出来事が何のためにあったのか、何のために必要なことだったのか、判断できるお方はいないのである。

にも関わらず、村上氏は言う、

「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」


この言葉は、村上氏が自分は「良い聞き手」だと自負しているがゆえに述べている言葉であろう。ある意味で、大した自信だと言える。

だが、その言葉とは裏腹に、村上氏は職務上、知り得た牧師や信徒の個人情報を、あまりにも軽率に取り扱っており、あまりにも口の軽すぎる、信頼できない牧師・相談相手として、カルト被害者の間でさえ有名である。

村上氏はかつて自身のもとに相談にやって来たカルト被害者らの個人情報を加害者サイドの牧師に転送してしまい、それが発覚して、被害者から絶縁を言い渡されたこともあると、筆者は関係者から聞かされている。

また、村上氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離脱した鳴尾教会の山田晃美牧師が、「統一教会に入信していた経歴がある」かのように自身のブログで吹聴しているが、鳴尾教会の公式ブログを読めば、山田牧師に統一教会への入信歴がないことは一目瞭然である。

にも関わらず。なぜ村上氏がそのような虚偽の情報を流布しているのかと言えば、鳴尾教会のブログによると、山田牧師が神学生時代に、(うっかり)身の上話として村上氏に統一教会の話をしたことがきっかけであるという。その際、村上氏の方から、山田氏の話を聞いて、「統一教会に入信していたことにはならないですね」と返答したにも関わらず、村上氏はその時に知り得た同僚の牧師の個人情報を歪曲する形で、デマの流布に及んでいるのである。

それは筆者に関しても同様である。本来、牧師は、自分の教会を訪れた信徒の個人情報を決して口外してはならないはずである。そのようなことは、カトリックの司祭が告解で聞いた信徒の情報を外へ漏らすのと同じくらい重大な職務上の倫理に抵触する行為である。

たとえ信徒が牧師と対立して教会を去ったとしても、牧師は信徒の幸福のために祈るべきであって、自分に歯向かった信徒に報復を果たすために、信徒の中傷を言いふらすような行為は断じて許されるものではない。

にも関わらず、村上氏は、自身の教会に一度でも訪れたことのある筆者に関しても、作り話を公然と流布しており、さらに、上記の記事の著者である件の人物にも、筆者に関する歪曲された情報を提供して、筆者を中傷させることに一役買っていると見られる。

なぜなら、件の人物が公然と流布している作り話の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でただ一人、村上氏以外にはそんな思い込みに満ちた誤った情報を作り上げることが誰もできないと分かっている不確かな情報が、数多く含まれているためである(この点については、いつかそれらの誤謬をまとめて記事にする時が来るのを待たれたい。)

もちろん、筆者に対して悪意を抱いていることが明白な人物に対して、故意に筆者の個人情報を提供したりするような人間が、通常のクリスチャンの中にいるはずがないことは明白である。

さらに言えば、聖書において、キリストが長血の女を癒されたり、足の不自由な人を立ち上がらせたり、悪霊につかれた人を解放されたりしたことが明白であるのに、病に陥ってもいない人間に向かって、おまえは人格障害だと宣言し、人格障害は生涯、治らない不治の病だなどと豪語するような人間が、クリスチャンでないことも明白である。そういう人間は、自分にとっては病こそが動かせない永遠のリアリティで、神の癒しなどは信じられず、信仰はかけらも自分にはありませんと白状しているだけなのである。
 
クリスチャンという存在は、たとえ自分がどんな病にり患することがあったとしても、神の癒しを信じることのできる人々であるが、それ以前に、病にかからないように守って下さる力が神にあることも当然ながら信じている。
 
話を戻せば、村上氏が、筆者に関する事柄のみならず、他の人々との関係においても、職務上知り得た同僚の牧師や信徒らの個人情報を、あまりにも軽率に公共の場所で言いふらしては、自分に好意的でない関係者の信用を貶めるために歪曲して用いている様子を見れば、果たして、このような人物が、「話を親身になって聞いてくれる良い聞き手」と言えようかという疑問が生まれるのは当然である。

むしろ、親身になって話を聞いてくれそうだという外見に欺かれないことの方が重要である。こうした怪しげな牧師や教師やカウンセラーに、「親身になって話を聞いてもらった」結果として、受けた苦悩に対する恨みばかりをより一層、深め、自分はダメな人間だからこんな誤りに陥ったのだなどとくよくよと考えて自分を恥じ、世人と同じようにそつなく生きることだけを目標として自己改善にいそしみ、神を求めて歩んで来た自らの人生の行程を恥じて、やがて信仰までも捨て去るようになるのでは、元も子もない。

このようにして、筆者は、人間の悩み苦しみは、村上氏の言うように、外へ吐き出すことによって浄化される「悪水」では決してないと考える。

人間の悩み苦しみは、そもそも「悪水」になどたとえられるべきものではない。悩み苦しみが心の中に凝縮される中でも、我々が、神を仰ぎ、御言葉の光に照らされて、霊的「光合成」を行うならば、その悩み苦しみの最中から、見事な霊と魂の浄化作用が働き、恵み豊かな神の御業を常に見ることができる。

そして、我々の魂の真の理解者、真の慰め主、ワンダフル・カウンセラーは、キリストのみである。にも関わらず、村上氏の言うように、キリスト以外の目に見える人間の中に、「話を親身になって聞いてくれそうな聞き手」を絶えず探しまわり、そうしてキリストを押しのけながら、あちらの教師からこちらの教師へと、まるで浮草のように移動し、一見、外側だけはきらびやかで有用そうな人間に安易に心を打ち明けようとして欺かれ続けることの方が、はるかに有害で危険である。

繰り返すが、信者の悩み苦しみは、腐った水などでは断じてない。悩み苦しみの中でも、キリストにすべてを打ち明け、御言葉の光に照らされて生きることさえできれば、心はいくらでも肥沃になり得る。悩み苦しみを持って生きることを不格好だと考え、見栄えが悪いがゆえに、そのような生き方は有害で無意味だと決めつける短絡的な考え方をこそ、見当外れな思い込みとして警戒しなければならない。

カルト被害者と称する人々の悩み苦しみについても同様である。一刻も早く悩み苦しみの外に出ることだけを目指している人は多いが、解決は、悩み苦しみそのものをあるまじきことと考えて退けるところにはない。

我々は自ら苦しみを望んだり、その中にとどまり続けようと願う必要はないが、自分にどうすることもできない理由で起きた苦しみまでも、自分の責任で起きたことのように考えて、何とかして自力でそれを解決しようと各種の試行錯誤を重ねたり、それを恥じたりする必要はない。

神に従う過程で、一人一人のキリスト者が歩んで来た道については、神がすべてをご存じである。そして、神は我々が地上で受けた損失を、補って余りあるほどの慰めを与えて下さることのできる方である。

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩編110:71)とある通りである。(共同訳では「卑しめられた」となっている。)

筆者は、干潟の驚くべき効用と同じように、苦しみのもたらす効用を言葉を尽くして説明することはできない。だが、筆者が苦しみを無用なものと決して思わないのは、そこに十字架の死と復活の原則さえ働くならば、苦しんだことをはるかに上回る慰めと喜びが用意されていることを知っているからだ。

神はキリストを信じて喜ぶことだけでなく、キリストのゆえに苦しむことも、私たちに恵みとして許して下さったのであり、一人一人のクリスチャンの苦難の中の従順を重んじて下さる。そうした従順を通して、キリストの苦しみの欠けたところが補われ、全教会のために豊な浄化作用が働くのである。

よって、筆者はキリストのゆえに苦しむことを恥じるどころか、それを喜びたいと思っている。むろん、世の中にははっきりさせなければならないことがたくさんあり、誤りは誤りとして明白にされるべきである。だが、本当の誤りは、疑わしい教えを吟味しながら、神に従おうとして来たクリスチャンの側にあるのではなく、そうしたクリスチャンの歩みを恥ずべきものであるかのように断罪し、信仰のゆえ、御名のゆえの信徒の苦難を無益で無様で不格好なものとして嘲笑しながら退けようとするカルト被害者救済活動の側にある。
 
筆者は、主の御名のために歩んできた道と、御名のために負った苦難に、何一つ恥じるべきところはないと確信している。そのために天には豊かな慰めと褒賞が待ち受けていることをも疑わない。

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前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。
 
なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
  
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。
 
筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。
 
人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。
 
たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。
 
天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。
 
すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。
 
そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。
 
また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。
 
その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。
 
最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。
 
生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。
 
真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。
 
また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。
 
もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。
 
人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。
 
だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。
 
筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。
 
そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。

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