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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

外出先で車を走らせていると、ふとある教会を通り過ぎたが、その掲示板に「キリストと婚約」という説教題が書いてあった。 筆者はむろん、その教会に立ち寄るつもりも、礼拝説教を聞くつもりもないが、象徴的なタイトルだと心に留めた。

折しも、最近のオリーブ園には、オースチンスパークスの「キリストとの合一」の連載が始まったところである。

筆者は、ここ最近、ますますキリスト以外の何者にも頼ることなく、地上の人間との関わりに一切、心奪われることなく、ただ信仰だけによって生きるべきだとの確信を心に強めている。

上記の御言葉は、口語訳では、こうなっている、「 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。 」

「ただ一人男子キリスト・・・」、この聖書の表現は、何ら嘘でもなければ、誇張でもない。なぜなら、花嫁なる民(エクレシア)にとって、花婿なる男性は、キリストただお一人だけなのであるから。
 
パウロは、キリストがご自分の花嫁を愛されるのと同じように激しい愛情を持って、自分が養い育てて来た信徒らを見つめ、もしや万が一にも、彼らの心が、キリスト以外のものに奪われ、神を悲しませやしまいかと、気をもんでいたのである。

パウロがいた当時のコリントの教会には様々な問題が起き、信徒たちの信仰も、頼りないものであったかも知れないが、パウロは、そうした現状を見るのではなく、神がご覧になっている花嫁としての教会の姿を見つめ、キリストご自身を反映したその美しさ、その完全さに、心奪われるほどまでに熱心な愛情を注いでいたのである。

エクレシアの一員たる私たち信徒は、自分がそのような眼差しで神に見つめられていることに気づいているだろうか。

さて、この人間社会に生きていると、不思議な出会いが多々あり、他者から熱心な好感を表明されたりすることも、時にはある。人は誰でも他人から好意を示されることに、悪い気はしないものだが、パウロが信徒たちを見つめていたような、熱心な愛情をこめて見つめられれば、なおさらのこと、情にほだされそうにもなるだろう。

ところが、筆者はここ最近、どんなに人から好意を受けようとも、どれほど賞賛と支持を受けようとも、人間の互助組合としての、人間の連帯からは、一切、離脱して、人間的な慰めにすがらず、ただキリストのみを頼りとして、キリストのためにのみ、生きるべきだという確信が、心に増し加わっている。

これは、筆者が人間嫌いの偏屈で頑固な変わり者であるがゆえに言うのではない。パウロも、別な箇所では次のように述べている。

「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。<略>ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

兄弟たち。わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:16-31)

これは驚くべき言葉であり、パウロが実際に、キリストに結ばれた信者たちは、まことの伴侶なるキリストだけのために生きるのが理想であると考えていたこと(そしてパウロはそれを実践して生きたこと)をよく物語っている。

従って、冒頭に挙げた「キリストと婚約させた」という言葉は、パウロにとっては文字通りの意味を持っていたのであって、パウロ自身、キリストにのみ捧げられたエクレシアの一員として、生涯、キリストを満足させるためだけに生きたのである。
 
それだけでなく、パウロがここで、妻を持つことを、物を売ったり買ったり、喜んだり泣いたりするといった浮き世の些事と同列に論じていることに、注意したい。今日の世の中の多くの人々にとって、自分の望み通りの伴侶を得て、安定した家庭を築くことは、死活的な重要性を帯びた一大事であろうが、パウロは、そのようなことは、すべて永遠とは何の関係もない、移ろいゆくこの世の有様に過ぎず、取るに足らない地上的な事柄でしかないと、切り捨てているのである。

そして、人の目に自分がどう映るか、どうやって人を喜ばせるかといったことばかりに気を遣うのではなく、どうやって神を喜ばせるかに第一に心を砕いて生きるべきだと、信徒に語り続けるのである。

そこで今、筆者も、もしもこの世の人々が、私たち信じる者に、人間的な長所や魅力を見いだすとすれば、それはすべて、我々の生来の資質から来るものではなく、ただキリストご自身に贖われたエクレシアとしての栄光に満ちた輝きに由来するものだと考える。

神が筆者のために、キリストを贖いの犠牲としてお与え下さり、筆者が御子の命と性質にあずかっているからこそ、筆者にかけがえのない価値が生まれるのであって、もしも筆者が、ただ一人の男子キリストだけのために捧げられた聖なる花嫁(エクレシア)であるというステータスを自ら捨てるようなことがあれば、筆者の魅力、輝き、新鮮さといったすべての美点は、たちまちのうちに無いもののように消え去ってしまうことであろう。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

人間はみな神の宮として造られたのであって、宮は、神がその中に入ってこそ、初めて意味を持つ。ただ空っぽの、神不在の宮は、どんなに美しく造られていようとも、無価値である。

このようなわけで、筆者は、人々の優しさや好意、賞賛や賛同に触れるときには、注意しなければならないと思っている。神の目にではなく、人間の目に自分がどう見られるかを気にして生きるようになることは、キリスト者にとって重大な罠だからである。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)
 
筆者は大勢の人々が手に手を取って入って行く滅びに至る広い門を非常に忌むべきものとみなしており、これを拒み、ただキリストのつつましい花嫁として、人の目には評価されない十字架の道を歩んで行きたいのである。

つい今しがたも、これまで神の御前で単独者として、共に孤独な戦いを戦い抜きたいと願った人々の一部が、広い門へと逸れて行ってしまったのを見た。

彼らは、組織から離脱した人々であったが、再び、組織に所属することを選んだと筆者に告げて来たのである。

こういう事例を、筆者は今まで、数えきれないほど見て来た。腐敗した宗教団体からエクソダスし、人間の指導者につき従うことを拒み、神の御前の単独者として、聖なる花婿であるキリストだけを忠実に待ち望む花嫁として、孤独をも、恥をも耐えて、戦いを忍んで勇敢に生きようと決意した信者たちの、実に多くが、実際に孤独と迫害の中で、一人では立ちおおせなくなって、人間的な助けを求めて組織へと戻って行った。

筆者から見れば、そのようなことは、エジプトを脱出した人々が、再びエジプトに戻るのと同じ、信仰の後退であり、しかも、そういうことが起きる際、彼らが戻って行く先の組織は、決まって、彼らが先に所属していた組織よりも、もっと後進的で、命の息吹の感じられない、死んだ古い組織なのである。だから、そのような場所へ戻れば、彼らは前よりも悪い状態に陥りかねないと筆者はいつも危惧している。

そういう現象が起きるほど、信仰の試練を一人で立派に耐え抜くことは、大勢の人々にとって難しい。彼らにとって、リアリティと見えているのは、目に見えるこの世であって、見えない天ではない。

多くの人々は、神から疎外されることよりも、社会から疎外され、世から偏屈で頑固な変わり者だと非難されることを恐れる。彼らは、神との間で齟齬が生じることよりも、社会との間に軋轢が生まれることを恐れる。さらに、世に迎合しないことによって、生活の糧が失われることを何より恐れる。

昔の信仰の先人たちは、地上的な保障が何もないところで、ただ信仰だけによって、天からの富によって支えられて生きる方法を知っていたが、今日は、聖職者と呼ばれる人々の中にも、荒野にあっても、信仰によって生きる秘訣を心得ている人は、ほとんど見当たらない。

孤独や、窮乏や、迫害や、行きづまりが見えて来たとき、ほとんどの人たちは、それを信仰によって乗り越えられると思わず、回れ右して退却して行くしかないと考える。

今、真の意味で、神の国の働き人であり続けられる人々が、西を向いても、東を向いても、ほとんど見当たらないのである。

だが、荒野が嫌だからと、エジプトに戻れば、奴隷としての日々が待っているだけだ。それでも、彼らの目には、荒野で死に耐えるよりは、エジプトで再び奴隷となって生き延びる方が安全だと映る。人間の互助組合の助けを借りれば、せめて暮らしは保障されて、厳しい寒さや熱さを和らげることができると思うのであろう。だが、それは誤りである。

あるジャーナリストが、安倍政権が続いた先に待ち受けているものは、ベネズエラのような運命だと訴えているが、実際に、日本全土が、ここ数年で、恐ろしいほどの貧しさの中に落ち込んでおり、この先、それが和らぐ見込みは今のところ見いだせない。

宗教団体などの人間の作った互助組合も、貧しさの煽りを受けており、従って、一人では信仰の試練を忍び通せないと考える人たちが、身を寄せ合って寒さをしのごうとしても、そこで延命できるのは、せいぜい、一日か、二日程度である。無いものは無いのであって、分かち合えばさらに減るだけである。

何度も書いて来た通り、我々が無事にそして有り余る命の豊かさの中で生き残るためのただ一つの有効な手段は、どんな団体に所属するかという点にはなく、神の国とその義を第一として生きることにこそある。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)


この法則のおかげで、筆者は今もこうして神の義に立って証を続けることが可能となっている。だが、筆者は、これから先、ただ神の御前に義とされるだけでなく、栄光にたどり着かねばならないと考えている。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

栄光を受けるとは、信仰の試練を立派に耐え忍び、勝利をおさめ、ただ「合格」基準に達するだけでなく、「よくやった」として褒賞にあずかることを意味する。
 
今、筆者は、エジプトで宰相となったヨセフが、来るべき大きな飢饉を予見して、それに備えて何年も前から、穀物の備蓄を命じたように、来るべき霊的飢饉に備えて、天に宝を貯蓄しておくことが必要だと考えている。それは目に見える飢饉が現実に迫っているだけでなく、霊的なひどい飢饉がすでに到来しつつあるためである。
 
イエスは言われた、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、貴方の心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)

しかし、一体、天に富を蓄えるとは、何を具体的に意味するのだろうか。
 
ここで、主イエスが、弟子たちに向かって、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある。」と言われたことを思い出したい。

「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)

主イエスは、神の御心を行い、そのわざを成し遂げることが、ご自分の食物だと言われた。これは、神の国と神の義を追い求めれば、すべてのものが添えて与えられるという御言葉とほとんど変わらない意味を持つ。

神の御心を行うとは、神を愛し、その御言葉に従って、神が贖われた兄弟姉妹を愛し、貧しい者を虐げず、他人の物を奪わず、人を欺かず、とらわれ人を自由にし、悲しむ人を慰め、正義を行い、真実を尊び、神が真実で憐れみ深い方であるように、慈しみ深く生き、悪や虐げや暴虐から遠ざかること等を意味する。

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。 」(ミカ6:8)

神の御心を行い、神の慈しみに生きるならば、必ず、その人の生涯は、主ご自身が守って下さり、神がその人のすべての必要を満たして下さる。そのことは、ダビデも以下のように書いている通りである。

「主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。
 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない 
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。
 主は正義を愛される。
 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。」(詩編37:23-29)

では、荒野で倒れた人々には、何が足りなかったのだろうか。彼らには、食物の少ない荒野にあっても、そこには、神の御言葉という、自分を生かす、目に見えない朽ちない食物があることが、発見できなかったのである。

彼らには、目に見える食物が目の前にないとき、目に見えない食物から、どうやって目に見える食物を取り出すのか、その秘訣が分からなかったのである。

そうなったのは、彼らには、信仰がなかったために、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)という事実が見えていなかったためである。

すなわち、我々信仰者は、見えない神の御言葉を通して、目に見えるものを実体として呼び起こし、引き出すことができるのであり、すべてのものはそのようにして神の御言葉によって出来たのであるが、その法則が、彼らには分からなかったのである。
 
宗教組織によりすがれば、安全な信仰生活を送れると考えることが、どうして間違っているのかという根拠もここにある。組織や団体は「目に見えるもの」である。しかし、信仰により、私たちが神の国を受け継ぐ者であることを保証し、まことの命の糧を与えてくれるのは、これらの「目に見えるもの」ではなく、目には見えない、内に住んで下さる聖霊である。

私たちがこの内なる御霊を通して、キリストご自身から全てを引き出す秘訣を学ぶことを捨てて、ただ厳しい試練を一人で耐え抜く自信がないために、あるいは、手っ取り早く安全な生活の保障を得たいがために、自分が生きている根拠を、「目に見えないもの(神の御言葉)」ではなく、「目に見えるもの(団体)」に取り替えると、私たちにすべてを供給してくれるまことの命の働きがやみ、やがて命の源が失われてしまうのである。

では、我々は一体、どうやって、逆境を切り抜け、信仰によって、御言葉による創造を行い、無いところから、有るものを呼び出し、朽ちない宝を生み出していくのか?
 
今、我々を取り巻く目に見える世界は、徐々に貧困化している。憎むべき悪魔は、今日もほえたける獅子のように、弱く貧しい無知な人々を、獲物のように食い尽くそうと、あたりを徘徊し、見つければ、虐げ、騙し、脅し、ゆすり、たかり、財産を巻き上げ、路頭に迷わせ、骨までしゃぶりつくそうと狙っている。

悪魔と暗闇の勢力は、人々を飢餓状態に陥れ、互いに憎み合わせ、殺し合わせ、あわよくば共食いにさえ陥らせたいと、グロテスクな計画に心躍らせているのかも知れない。

しかし、我々信じる者たちは、信仰によって、まるで熟練した腕前を持つ狩人のように、吠えたける獅子に御言葉を矢のように打ち込み、これを捕獲して、分捕りものとして縛り上げ、檻に入れて持ち帰り、凱旋の行進の中で、さらしものにした後で、蔵に食料として備蓄しておくことができる。

武装を解除してしまえば、それはもはや獣ではなく、おとなしい動物であり、食べ物にもなろうし、家畜にもなろうし、獣が従えていた捕虜たちも、当然ながら、分捕り物となるであろう。

このような話を聞いて、きっとこれは非常に悪い冗談か、皮肉を言っているに違いない、と思う人もあるかも知れないが、そういう人には、エステル記の終わりを読んで欲しい。

ハマンは王の家臣に過ぎなかったが、自分が王の代理人であるかのように慢心し、モルデカイが自分を拝まないことに腹を立て、ユダヤ人を皆殺しにしようとはかった。その謀略が王妃エステルによって暴かれ、ハマンがモルデカイを吊るそうとして庭に作った処刑台は、かえってハマンを吊るす処刑台となり、ハマンが所有していた豪邸は、王妃エステルに与えられた。ハマンがはめていた王の指輪は、モルデカイに与えられ、モルデカイはハマンのものであった家の管理を任されただけでなく、かつてハマンが占めていた地位を受け継ぎ、さらにそれを超えて、家臣というよりも、一人の王のようにさえなったのである。

さらに、ユダヤ人には、ユダヤ人を殺す目的で武装した人々を、逆に殺して財産を奪い取ることが許可された。エステル記8~9章にはこうある、

「その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。 」

「モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。」

「モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。」


むろん、これは旧約聖書中の出来事であって、これを現代のキリスト教徒に文字通りに当てはめるわけにはいかない。

しかしながら、これは霊的絵図であって、今日、キリスト者に任されている使命が、御言葉を武器として用いて、暗闇の勢力が占領していた領域を、キリスト者に明け渡させることにあることを、はっきり示している。それが成就すると、暗闇の勢力の首領が恥をこうむって退却するだけでなく、明け渡しに伴い、財産の移譲が行われる。「もろもろの支配と権威」が武装解除されて、主の民の凱旋の行進の中に捕虜として連行され、さらしものとされる際に、それらの支配と権威が不当に占領して来たすべての富も、光の子らに明け渡されるのである。

そのことが、「善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。」という箴言13:22の御言葉にも表れている。

次のコロサイの書に記されている御言葉の中には、何を根拠に彼らが武装を解除されるかが示されている。むろん、根拠となるのは、信じる者の罪を一切、無効にするキリストの十字架である。私たち信じる者が一切の罪を赦され、義とされる代わりに、私たちを捕虜とし奴隷として拘束していた暗闇の勢力が罪に定められ、恥をこうむるのである。
 
「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

このように、神の御心を行って生きるとは、御言葉を現実の目に見える世界に適用し、そこに貫き通して、神に敵対する勢力との間で起きる、激しい争奪戦に打ち勝って、暗闇の勢力が不当に占領していた目に見えない領土を奪還することを意味する。

それはただ単に困っている人々を助け、貧しい人々に施し、とらわれ人を自由にするといった、人間に対する善良な行いや、慈善事業を意味するのではない。

神の御心を行って生きることは、御言葉を用いて、神に逆らい、人間を虐げ、苦しみの中に閉じ込めている暗闇の勢力の支配を打ち破り、彼らが不当に占領していた領域と、所有物を吐き出させて、これを愛する御子キリストの、光の子らの支配下に移譲する戦いを意味する。

これが、永遠に至る収穫を得て天に富を蓄えること、また、目に見えない神の御言葉を行使して、そこから地上的な利益を引き出すことの具体的な意味である。しかし、この戦いが持つはかりしれない重要な意義、および、その戦いの方法を実際に知っている人は、信者の中にも、ほとんどいないであろうと思う。<続く>

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「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話、福音の神秘を大胆に示すことができるようん、わたしのためにも祈ってください。

わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)
 
オリーブ園の直近のオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (11)」も依然としてタイムリーな内容である。

この論説は、今日の弱体化した教会(エクレシア)が主の霊によって力づけられ、上から生まれた人々によって構成され、霊的な戦いに対して十分に備えられ、訓練された戦闘員となる必要性を訴えている。

前回の記事にも書いた通り、今日、クリスチャンと呼ばれている民の多くは、戦争が勃発しているのに、そのことを知らされずに非武装のまま土地に残された民間人のようである(まして非クリスチャンは戦いがあることなど全く知らされていない最も無防備な人々である)。

しかし、彼らが知らなくとも、戦いの火蓋はすでに切って落とされており、暗闇の勢力の欺きの活動が存在し、敵の襲来が迫っているのは事実であるから、彼らがずっと無防備のままであれば、やがて捕えられ、捕虜として引いていかれ、緩慢な死に追いやられるか、たちまち暴虐に見舞われるか、いずれにしても、悲劇が待ち構えているだけである。

そのような結果に至らないために、我々は戦って勝利をおさめなければならない。だが、今日、戦いがあることを知って、神の武具で武装して、きちんと戦闘に備えているクリスチャンはほとんど見当たらない嘆かわしい現状がある。

そこで、一部、ごくわずかに訓練を受け、戦いに備えて武装することを知っている信者が、無防備な民のために見張り人となり、防御兵の役目を果たさなければならない。

バビロンの倒壊はすでに始まっているのであり、私たちはその滅びに巻き込まれないよう、自分だけでなく、多くの人々をも避難させる役目を担っている。サムソンは最期の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を倒壊させ、自分もその下敷きとなって死んだが、今日、私たちはキリストの十字架の死と復活を帯びているから、自分自身と人々を倒壊する火宅から生きて助け出す力を持っている(ただし霊的には絶えず死をくぐらなければならない)。

私たちが激しい戦いの中で、自己の安寧を最優先して、さっさとあきらめて退却するのか、それとも最後までその戦いの中に踏みとどまって、勝利を確信し、人々を説得して避難させ、彼らが川を渡り終わるまで、そこで最後まで契約の箱を抱えあげて立ち尽くせるかどうかで、多くの人々の命運までが決まってしまう。

エクソダスは一人だけで成し遂げられるものではなく、多くの人々がそれに続くのである。彼らが紅海を渡り終えるまで、海を切り開き、道を支えている誰かが必要である。

筆者は長い間、そのことを知らず、筆者自身も、自分が戦闘員として立たされていることに気づいていない一人であったが、それでも神の子供の一人として、さまざまな訓練を受けることになり、それが戦闘員とされるための訓練であることが、徐々に分かって来た。そうこうしているうちに、ついには、自分の生まれながらの弱さや限界、あるいは知恵の不足をすべて補って、自分のものではない、神の上からの力が私たちの内に働き、どんな激しい戦いをも最後までくぐり抜けることを十分に可能にしてくれるため、私たちはそれを最後まで信じて立ちおおせなければならないことが分かったのである。
  
オースチンスパークスが以下で「非戦闘員」と呼んでいる人々は、ほとんどが、いわゆる既存のキリスト教の組織や団体の枠組みの中にいる人々である。それらの団体の構成員は、血縁や、友人関係や、その他の地上の生まれながらの魂の情愛による絆や、縁故によってほとんど占められており、神の命によって生まれたのでない大勢の人々、また、地上的な人間関係の絆でがんじがらめとされている。その団体は全く霊的な戦いがあることも知らず、その戦いに巻き込まれないために、垣を巡らし、城壁を作り、その中に閉じこもってしまった人々である。

しかし、聖書におけるエクレシアはそのようなものではなく、神の新しい命によって上から生まれ、キリストの頭首権に服する人々によって構成される目に見えない共同体である。そして、私たちは自己の安全のために、自分の団体の中に閉じこもるのでなく、絶えず全世界に出て行って、福音を宣べ伝える使命を帯びている。

自覚があろうとなかろうと、一人一人のクリスチャンは、常に新しい霊的領土を獲得するための戦いの中に置かれているのであり、私たちの信仰的態度は、私たちが身を置いている見えない領域に、誰の支配が及ぶのか、すなわち、キリストの主権が打ち立てられるのか、それとも、それに反する者の主権が打ち立てられるのか、激しい支配権の争奪戦の行方を決定する。

私たちはそこで暗闇の勢力の支配を駆逐し、彼らが恐怖によって人々を従わせようとするわざを打ち壊して、そこに自分たちが掲げているキリストの御名の旗を打ち立てて、キリストの主権を確立せねばならず、その作業によって、私たち自身のみならず、大勢の人々が、暗闇の支配下から解放され、まことの命なる方の支配へと移し出されるのである。

しかし、それは決して、私たちがこの世の力によって支配権を奪還するというクーデターによって成し遂げられるものではない。むしろ、私たちが最も弱くされて主と共に十字架の死を通ることによって、そこに逆説的に復活の命が働くという方法でなくてはならない。

その時、私たちの弱さの中に、私たちのものではないはかりしれない神の力が働き、私たちが霊的に経由した死と復活が、すさまじいまでの衝撃力となって、これまで暗闇の勢力の欺きにとらえられて盲目とされていた多くの人々にも波及し、人々は自ら事の本質を悟り、神に直接、連なって、愛する御子の支配下にかくまわれ、そこで御名のために命をかけて戦うことのできる戦闘員へと変えられて行くのである。

次の御言葉は、今日の荒廃した状態の教会にも、当てはまるものであり、終末の時代のことだけを指して言われたわけではないと筆者は信じている。

シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。
 

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。 わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。

あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。

わが民は永遠にはずかしめられることがない。 あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。


その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。
 
だが、上記の御言葉を、聖霊を受ける必要性だけをことさらに強調する運動と混同することはできない。私たちの信仰生活の中心に位置するものは、いつでもキリストの十字架の死と復活でなくてはならない。十字架を中心に据えず、自分への祝福や、霊的現象ばかりを追い求めれば、必ずや別な目的へと逸れて行くことであろう。

必要なのは、万民祭司の時代にふさわしく、私たち一人一人の信者がキリストに直接、連なり、神の霊によって上から生まれ、直接、御霊から教わる民となることである。そして、日々、自分の十字架を取って主に従い、子としての訓練を受け入れることである。
  
私たちは地上的な団体に所属して形骸化した信仰生活を送ることを神に従うことと同一視するのではなく、上から生まれ、神の教会の中に、直接、上から置かれ、そこで使命を与えられ、果たすことの意味を考えなければならない。

戸口で自己を焼き尽くされた上で、目に見えない共同体であるエクレシアの中に入れられ、そこで神が望んでおられる役割を果たすことの意義を考えなければならない。エクレシアはただ単にキリストが再び来られるのを待ち望んでいる聖なる花嫁であるだけでなく、頭首なるキリストの意を受けて、それを地に実現するための神の最強の軍隊でもある。神の多種多様な知恵が、教会を通して、天上の諸々の主権や権威に対して知らしめられ、教会を通じて、サタンのわざが打ち壊され、サタンが天から投げ落とされ、神に栄光が帰されるのである。

エクレシアには主の安息が満ちていると同時に、これは花婿の栄光のために戦う花嫁でもある。そして、そのような役割を確実に教会が果たせるようになるためには、幾度も述べた通り、一人一人の構成員が真に主と共なる十字架の死と復活を経て、神の命によって上から生まれ、エクレシアの中に上から入れられ、それぞれの場所に置かれる必要がある。そうなって初めて、それぞれに置かれた場所で、自分にどのような召しが与えられているのか、各自が理解して、これを果たせるようになるのである。

私たちは、主の御名によって呼ばれる軍隊の一人として、目に見えない霊的なミッションを担う戦闘員として、自分に与えられている召しが、確かに自分自身の思いから来たものではなく、神から来たものであることを確信し、どんな犠牲が伴っても、それを最後まで貫徹して勝利をおさめ、成果を勝ち取るまであきらめないという強い願いを持つ必要がある。

そのような召しを与えて下さることは、ただ神だけに可能であるが、私たちクリスチャンは一人一人が本来、みなそのように神の武具で武装し、戦いに熟練し、霊的に訓練された戦闘員となる必要があり、エクレシアはそのように整えられた戦闘員によって神の栄光のために大胆なわざがなされるべき場所なのである。
 
以下、オースチンスパークスの論説から。

  最も霊的な事柄に関しても、多くの非戦闘員がいるおそれがあります。彼らがその中にいるのは、そこから出るのを恐れているからです。彼らは撤退しようとしません。それは自分に何が起きるのかを恐れているため、あるいはその中に友人がいるため、あるいはそれに個人的関心を持っているため、あるいはそれに全く同意しているためです。

主に私たちの心を探ってもらって次のように自問しましょう。「なぜ私はこの中にいるのでしょう?私がその中にいるのは、上からその中に入ったからでしょうか?神が御自身に関する強力な経験に基づいて私をその中に置かれたので、それ以外どうしようもないためでしょうか?それは辞めたり、引き下がったり、他の何かに行ったりできるものではなく、私の命なのです」。

神がそこに一つの民を獲得される時、彼の主権が宣言される扉が開かれます。とても多くの人々は隅にいて傍観しています。それが正しいのかどうかまったく確信がなく、それは完全に安全なのかどうか疑問に思っています。そして、状況を分析しています。これは彼らがその中にない証拠です。主の主権は、その中におらず、そしてその中に上から入ったことのない人々のせいで、停滞させられるおそれがあります。

 私たちは神に属する事柄の中に上から入らなければなりません。協会や運動に加わるようにキリスト教に加わることはできません。そのように神の事柄の中に入ることはできません。「上から入る」という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたは疑問に思っておられるでしょう。私が言わんとしているのは、あなたは死んで葬られ、今や天の側から中に入ったということです。それは開かれた天を通ってであり、あなた自身の心の中にイエス・キリストが啓示されるという方法によってです。これはあなたにとって地的事柄では全くありません。その起源は天にあります。

 

「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:42-48)

一つ前の記事で触れた天に召された夫婦のことを書きたい。筆者はこの夫人から生前、一度だけ、有意義な叱責を受けたことがあった。

夫人が三渓園に筆者を誘い出してくれて、いつものように親しく交わりのひと時を持とうとした際のことである。その日は、筆者の霊的コンディションがそれまでと違い、交わりのために整えられておらず、最悪の状態にあった。

私たちは出店のテーブルに着き、夫人は道すがら買った筆者の大好きな桜餅を取り出して、団らんのひとときを持とうとしたが、その時、

「あら、お茶がないわね。あなた、買って来てくれる?」

と、気づいて筆者に言った。

筆者は立ち上がって、近くにある出店をいくつか覗いてみたが、目ぼしいものがなく、早々に引き返して来た。筆者が手ぶらで戻って来たのを見て、夫人は呆れて言った。

「あら、どうしたの?」

筆者が見つからなかったと言うと、夫人は呆れた様子で、

「お茶を売ってないわけないじゃない。もっとよく探さなきゃ」

と言ったが、筆者があまりに疲れ果ててもう行きたくない様子なのを見て言った。

「もういいわ、あなたはそこで待ってなさい、私が見つけて来るから」

夫人は自分で店を回り、すぐに戻って来て、ペットボトルのお茶を筆者の目の前に置いて言った。

「ほらね、すぐに見つかったでしょう。一体、あなたはどこを探したのよ?」

夫人はそれから筆者に向かってお説教を始めた。

「あなたには言わなくちゃいけないことがあるわ。このお茶のことだけじゃないのよ。あなたはいつもこんな風に、ちょっとした困難にぶつかったら、もう自分の望みを早々と簡単にあきらめてしまうの? この世のことなら、まだそれでも許されるかも知れないけれども、神様に従うに当たって、そんな姿勢では、この先、あなたは進んで行けなくなるわよ。
信仰を立派に守り通すためには、どんな困難があっても、それを突破して、最後まで望みを捨てずに進んで行く勇気と強さが必要なのよ。それがこんな情けないことでどうするの。あなたはもっと強くならなくちゃいけないわ。自分の目的を最後まであきらめずに貫き通すことをもっと学ばなくちゃいけないわ」

夫人が筆者に説教などしたのは、後にも先にもこの時一度限りであった。しかし、それを聞いている間にも、筆者はただぼんやりと力なく笑うだけであった。

実は、そのようなことになったのには原因があった。

この頃、筆者は、夫人からの再三に渡る忠告を無視して、仕事に打ち込み、毎日のように終電近くまで会社に残って残業していた。専門の仕事で実力を発揮し、自分で自分を支えなければならないというプレッシャーがあり、また、他の人々の負担を軽減することが期待されていたのである。

そのため、ようやく休日が来て、夫人に交わりに呼び出されても、疲労のあまり、指定された外出先に出て行くのがやっとで、美しい風景にも、心ここにあらずの状態で、ペットボトル一本の買い出しを頼まれても、果たせないほどに、疲れ切っていたのである。

残業だけではない、ほんのわずかな人数しかいない狭いオフィスで毎日のように変わる不安定な力関係、経営者からの無理筋の要求、愚かしい紛争にも、辟易するまでに心を疲弊させられていた。そして、それがまるで筆者の人生の中で重大事件のように心の座を占めていたのである。

夫人はそれまで常に率先して気前よく他者を助ける側に回っていたため、信仰の交わりにおいて、筆者は夫人から何かを要求されたことがなく、苦言を呈されるなどのこともそれまで一度もなかった。夫人はすべてにおいて満ち足りており、いかなる形でも、誰にも助けを求める必要がなく、筆者に買い出しを頼むどころか、いつも自分から交わりに必要なものを持ち寄っていたので、年少者に使いを頼むなどのこともなかったのである。

しかし、この時ばかりは、事情が違った。夫人は、筆者が主の道から逸れかけていることを知っており、筆者の陥りかけている悲惨な状況の危険性を指し示すために、あえて筆者に買い物を命じた(ものと考えられる)。そして、筆者はそのどうでも良いような些細な買い物をさえ、遂行する力がなくなっていたことを示されたのである。

その事件が示していた結論は、筆者が、このままこの世の価値観に没入し、神の国とその義ではないものを第一として生きる方向へ進めば、デリラに欺かれたサムソンに勇士としての力が失われたのと同じように、筆者の内なる力と尊厳は完全に消え失せ、筆者はわしのように翼をかって、天高く舞い上がるどころか、ペットボトル一本のお茶さえ買う力がないほど、弱々しい人間となり、地を這うように生きるしかなくなるということであった。そんなことでは、やがて夫人にも呆れられ、交わりからも脱落し、ついには自分の生活も失って、命さえなくなるであろう。

そういった方向性を、夫人は暗に指し示したのである。そして、どちらを選ぶのか、筆者に選択を迫ったのであった。 しかし、筆者は、その当時、そのような忠告は、働かなくて良い立場にある夫人の浮世離れした生活スタイルに過ぎないかのように思い、自分のような者に他にいかなる選択肢があるのかと、心の中で弁明するだけであった。

そんな考えが根本的に誤っていたことは、その後すぐに判明した。会社は残業代を支払わなくなり、残業代は定額制に移行し、それに同意しない社員は、愚痴や不満を経営者に告げ口されて、栄えある記念行事の前夜に、密室で契約打ち切りを言い渡されるという残酷な仕打ちに遭わされたのである。

そういう出来事を見て、筆者もようやく目が覚めたのだが、こうした結果を実際に見るまでは、夫人の忠告の正しさが分からなかった。自分で自分を支えなければならないというプレッシャーはそれほど大きく、筆者はこの世の仕組みがいかに御国の法則とかけ離れているか、まだ具体的にほとんど学んでいなかったのである。

夫人はそうしたことを見越した上で、筆者に様々な忠告をしてくれた。その当時、筆者はまだ多くのことを理解していなかったとはいえ、筆者は、故意に神の御心に反したわけではなく、ただ考えが甘く、経験が不足していただけであったので、神は筆者の正しい導き手として、その後も、忍耐強く、筆者に幾度も教訓を与え、筆者が天的な法則を学び、それを理解し、それに沿って生きられるよう手助けして下さった。

天的な法則と言っても、何もそれは神秘的な漠然としたものはない。それはただ神の国とその義、および、神を第一とする信徒の交わりを、この世のすべての関係や価値よりも優先して生きよというものである。筆者の内なる力、人としての尊厳、自由なゆとりある生活は、このように天の御国の権益を第一として生きる時、初めて保たれるのである。
 
命を保ち、自由と豊かさに至り着きたいならば、神の国とその義を第一として生きなさい。地上での生活や利益を最優先する態度では、囚人同然の生活が待っているだけであり、最後には、必死でつなごうとした命さえ、失われて終わるだけである。
 
そのように、それから今日まで何年間もかけて、筆者は御言葉の正しさを実地で試し、ことごとく証明して来たのである。
 
筆者の人間としての力は、地上にある限り、いつでもごく限られたものに過ぎないが、それでも、真に神を第一に尊んで生きるならば、筆者の限界の中でも、十分にすべてを行うことができるよう、神ご自身がすべてを整え、按配して下さる。

主ご自身が筆者の知恵と力となって下さり、決して筆者が行き詰まりに達して立ち止まることがないよう、守り、育て、養って下さる。

このように、天的な法則に従っている限り、人は雄々しく、強く、気高く、賢い、すべてに不足のない、自由な人として生きることができる。この世の問題に巻き込まれて疲弊し切ったり、行き詰まり、方々に助けを求めて人としての尊厳を失うことはない。

主イエスは、父なる神の御心を行うことが、ご自分の隠れた糧だとおっしゃられたが、それはこういうわけであり、私たちは天の雇用主にこそ喜ばれる生活を送らなければならず、そのことが私たちの地上生活において真のサラリーとなるのである。

この天的な道から逸れるや否や、私たちの力はすぐに失われる。地上では、この世の弱肉強食の原理が働くだけで、自力で自分を保つ力のない弱い人間は、真っ先に残酷で容赦のない結末へと追いやられるだけである。何らこの世における後ろ盾をも優位をも持たないキリスト者の存在などは、地の塩たる役目を失えば、まるで吹けば飛ぶ木の葉のように、この世の事件に翻弄された挙句、世人よりももっとひどい残酷な結末に追いやられるだけである。

そこで、私たちは、無駄な損失を避けるためにも、ただ神の力によって支えられ、守られて生きることこそ、この地上で人としての尊厳を保って生きる唯一の道であることを、できるだけ早期に学ぶ必要がある。天の父なる神に喜ばれる仕事をしてこそ、この世におけるすべての必要が満たされ、生存が保たれることを早期に知らなければならない。

いや、ただ生存が保たれるだけではない。もしも天的な法則に従って生きるならば、私たちは自分の肉体的限界、精神的限界、時間的な制約といったすべての物理的限界の中にありつつも、それを超えて、いかなる限界によっても脅かされることなく、何にも不足することのない、自由と豊かさの中を生きることができるのである。

それが天高く、わしのように翼をかって、自由に雄々しく舞い上がることの意味である。地上の限界に満ちた法則を、はるか足の下に踏みしだき、一人の有限な人間でありながら、一人ではとてもなし得ないような数多くの有益な仕事を果たすことができる。

そこに私たちの尊厳、高貴さがある。しかし、そういう人生が実現するためには、私たちが、まことの命であり、すべての供給源であるキリストに頼り、御父の喜ばれることが何であるかをわきまえて、私たちの真の雇用主を喜ばせるために生きねばならない。

キリストは、人間として地上に来られたとき、罪の他は、私たちと同じようにすべての人間的な弱さと限界を持っておられたが、それにも関わらず、彼はその限界によって、一切、神の御旨を実現するに当たり制約を受けられなかった。

キリストは、地上的な制約の中を生きられたにも関わらず、それによって全く損なわれず、不足することもない完全な人だったのである。キリストは万物を足の下に統べ治める方として、この世の物理法則もご自分に従えることのできる、真に完全な人である。そのキリストにある私たちは今日、自分も彼と同様に生きられることを知る必要がある。

実のところ、物理法則は、私たちを縛るためにあるものではなく、かえって生かすために存在している。
 
考えてもみれば良い、もしも私たちが見栄えの良い鳥かごを買い、そこに美しい鳥のヒナたちを買って入れるとすれば、それは一体、何のためであろうか? まさか様々な限界によって鳥たちを脅かし、苦しめるためではあるまい?

神が目に見える万物を人間のために創造され、その中に私たちを置かれたのも、本来は、同様の目的と配慮からである。それは決して幾多の限界によって私たちを脅かし、苦しめることが目的ではなかったのである。

この地球だけでなく、時空間を含め、すべての造られた被造物は、本来は、人間を生かし、人間に奉仕するためにこそある。しかし、アダムの堕落後、そのような創造の本来的な目的は失われたので、これを回復するには、私たちが真に完全な人であるキリストと霊的に一つに結び合わされ、この世を超えた新たな御国の法則の中を生きることが必要である。

この天的な法則は、この世の言葉で言い尽くすことはできないが、肝心なのは、何をするに当たっても、まずはただお一人の神に栄光を帰することを第一優先し、そのためにこの世的な利益や価値観を二義的なものとして扱う態度を貫くことである。

そうして御国の権益を第一とする姿勢を保つならば、その生き様に対しては、神が最終責任を負って下さる。しかも、それはこの世を超える永遠の保証である。

この世の経営者は、あなたがどんなにその意に従って奉仕してみたところで、あなたの生活を微塵も保障してくれず、むしろ、あなたから取れるものをすべて取り上げ、もう取るものがなくなったと判断した時点で、あなたを捨てて路頭に迷わすであろう。しかし、良き羊飼いである神は、あなたがその御声に忠実に聞き従うならば、あなたに命を与え、あなたを緑の牧場に、憩いの水際へ導いて下さる。あなたはそこで安らかに眠り、安らかに食べ、安心して好きなだけ駆け回ることができる。
  
人間に過ぎない者の栄光のために、自分自身をなげうてば、ただ破滅が待っているだけであるが、天の雇用主であり、まことの羊飼いなるお方の支配下を出なければ、自由が約束されている。

そこで、私たちは、神に栄光を帰するために、毎瞬、自分の力によって生きるのでなく、神の知恵と力に頼って、天的な法則に従って生きることを選び取るのである。

筆者は、この安らかな恵みをもっとよく知りたいと思っている。神の愛と憐れみの深さを、その恵みの大きさを、生きてもっとよく知りたいと思っている。何よりも、キリストにある新しい人の麗しい尊厳、高貴な生活をもっとよく知りたいと願っている。

以前の筆者は、困った時に神に助けを求め、神がもしも助けて下さるならば、その代わりに自分の人生を神に捧げても良いなどといった、まるで取引のような祈りをよくしていたものだが、今はそのような祈り方はもうしない。

むしろ、神は私たちの同労者であり、最も忠実な相談役であり、慰め主である。もちろん、神は私たちの主であり、私たちはその僕であるから、私たちが神と対等になることは決してなく、私たちが、御言葉に服従しなければならない立場にあることは変わらないとはいえ、神はへりくだっておられるので、私たちに必要な時に、いつでも喜んで助けを与え、私たちを支えて下さる。神は忠実な僕にとっては、決して僕を脅かす恐ろしい主人ではない。私たちが心の最も奥底まで信頼して打ち明けることのできる、最も親しい相談役、確かな助言者である。

筆者は夫人が世を去って後、様々な困難を突破して、決して望みを捨てずにあきらめることなく前進する方法を少しずつ学んだ。今はもう悪しき経営者のために、身を粉にして残業するなどの愚かな振る舞いはしない代わりに、御言葉の正しさを生きて証明するためならば、どんなにでも時間を費やし、困難を乗り越え、決してあきらめずに結果を勝ち取りたいと願っている。

こうして、だんだん「お茶」のストックにも、バリエーションが出て来たような気がする。今ならば、筆者は夫人から意志薄弱で弱々しい人間であるかのように叱責を受けることはないのではないか? 

もしも主がお要りようならば――。もしも主が本当に私をお要りようならば、そのためにこそ、喜んで自分の持てるすべてを捧げよう。スカルの井戸で、イエスのために水を汲んだサマリヤの女のように、あるいは、ダビデの渇きを癒すために、決死の覚悟で敵陣に乗り込んで飲み水を獲得した僕たちのように、私たちは神の御心の満足のためになら、地上で自分の限界ある存在をすべてなげうってでも勇敢に進んで行くべきである。その働きが私たちの地上での糧となって行くのである。

私たちの心も、体も、すべては神の栄光のために聖別されて捧げられた生きた供え物である。他の誰のものでもない。そこで、もしも誰かが働いて豊かな報酬を得たいと思うならば、まずは主のために、御国のために、神から栄誉を受けるために働きなさい。フルタイムで御国のために働きなさい。そうすれば、やがて思いもしない豊かさにあずかり、どんな困難に遭遇しても行き詰ることなく、常に幸福に満ち足りて生きることができるだろう。

こうして、私たちは、地上で天の権益のために身を費やす代わりに、それによって失われるものとは比べるべくもない、巨大で重い天の報酬にあずかる。その報酬とは、御父、御子、聖霊の交わりの中に入れられること、そして、私たちの主なる神からの誉め言葉である。

キリストが再び地上に来られる時までに、大いなる祝賀式典に備えて、彼のために栄光の花道を整え、豪勢な食卓を用意せねばならない。
 
だが、神が喜ばれる祝宴の食卓とは一体、何だろうか? それは神の御心を満足させるべく整えられた人の心である。かつてバプテスマのヨハネが人々を悔い改めに導き、主イエスの到来のために道を整えたのと同様、地上にあるすべてのものが、御前に膝をかがめ、すべての思いがとりことされてキリストに従う日のために、私たちが道を整えなければならないのである。

そのために、私たちは自分自身を叱咤激励し、忍耐しながら、奮闘を続け、幾多の戦いをくぐり抜けて、収穫を勝ち取っている。地上にける信徒の交わりのためにも、いくつかの物品を持ち寄るが、何よりも、主の満足を勝ち得るために、日々、働いているのである。
 
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものにあるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)
「ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。
ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。

ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らは、ますます彼を憎んだ。ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。 わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。 すると兄弟たちは彼に向かって、「あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか」と言って、彼の夢とその言葉のゆえにますます彼を憎んだ。

ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。 彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。  兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。 」(創世記第37章1-11節)

ヨセフはキリストにあって統治する新しい人の予表である。ヨセフが子供の頃に見た夢は、将来起きることの予表であった。それは彼の高慢さが生んだ幻ではなく、主が彼に与えられたビジョンであった。

だが、そのビジョンが実現するために、ヨセフは長い長い苦難の月日を通らねばならなかった。彼は非常に幼い日に、自分がやがて一家の中で最高の地位につき、支配者になることを予見したにも関わらず、その直後に起きたことは、兄たちに妬まれ、奴隷としてエジプトに売られるという痛ましい事件であり、その後も、僕として仕えていた家で讒言を受けて投獄されるなどし、その高貴なつとめが明らかになるまで、長い長い苦難を経過した。

その試練の後で、初めて、ヨセフが幼い日に予見した彼の本来的なつとめが実現するのである。

ヨセフの他に抜きんでた高貴なつとめ、これはキリストのつとめを予表するものである。むろん、ヨセフはイスラエルの民、そして今日の主の民の象徴でもある。闇の中にあって、またたく星のように命の光を堅持する者、人類の中から初穂として贖われる者たちの象徴である。

そこで、今日のキリスト者の歩みも、ヨセフや、あるいはヨブの人生に似たものとなる。神が与えられた幻が、非常に高貴で崇高なものであって、この世を超越したものであればあるほど、それには十字架の霊的死という代価が常に伴う。

復活の命が働く前に、大きな死の力が働く。主の僕らには必ず、十字架の死に甘んずるべき期間が存在する。しかし、その死の只中から、失われたものを回復して余りあるまことの命の力が働き、それがやがて強くなって、死を飲み込んでしまう。後者の結果がはっきりとキリスト者の人生に結実せねばならない。
 
私たちはこの復活の命の力の統治をまだまだほとんど知らないのである。

キリスト者は誰しも万物を足の下にしておられる方を内にいただいているため、この世のすべてを超越して生きる者である。ところが、キリスト者を取り巻く現実はまるでそれとは逆に見える。むしろ、キリスト者の方が、絶えずこの世から攻撃を受け、圧迫されているかに見える。

しかし、それこそが、私たちたちが何を信じるかの戦いである。この世が優勢で、キリスト者が持ち運んでいる御子の支配にまさっているかの有様が覆り、キリストの御霊による命の支配が、現実となって現れるまでに、信仰者は幾多の苦難や試練を信仰によって通過し、勝利をおさめる術を学ばなければならない。

さて、人は一体、何を目指して激しい試練を通過することができるのだろうか。それは望みによる。これまで、御霊に導かれて生きる生活において、人の望みがどれほど重要な役目を果たすか、幾度か触れて来た。しかし、このことを理解するためには、ある意味で、キリスト教の従来の常識の枠組みの外に出てみなければならない。福音伝道やら、日曜礼拝やらといった形式を守ることを敬虔さと取り違える宗教的な枠組みの中では、個人の望みが持つ大きな意義と可能性はほとんど忘れ去られるだけに終わるためである。

私たちが前進し続けられる原動力は、各自が心の中で抱いている望みにこそある。その望みは、人それぞれに異なり、キリストにあって自由とされた私たちが、自分の人生をどう生きるのかという極めて個人的な人生設計を意味する。牧師になることや、宗教指導者になることや、偉大な伝道者、偉人となることが目的ではなく、神の御前で、人知れず、自分の人生をどう生きたいのか、どうすれば神の御心にかなう人生を送れるのか、各自が心の中で、他者とは全く異なる独自のビジョンや、目標を持ち、率直に自分の願いを神に申し上げ、それを神と同労して実現に至らせることである。

その中で、もしもキリスト者として与えられた高貴な使命が本物であれば、どんな試練があろうとも、やがてヨセフのように抜きんでた崇高な霊的使命――祭司としての使命――が明らかになるはずである。

* * *

不思議なほど、心に静寂があり、すべての必要が備えられる。

もしも神が味方して下さるならば、すべての必要は備えられ、心配しなければならないことは何もない。しかし、神が味方して下さらないならば、私たちの存在はたちまちに塵灰のようになってしまう。

だが、真に神が味方して下さる戦いを戦いたいならば、私たちは心の中からデリラを追い出し、神の御前に祭司として敗れ口に立ってとりなす姿勢を保たなければならない。

ここでは、デリラとは全人類(旧創造)のことである。私たちは、人の賞賛、人の理解、慰めを求めるのではなく、それらすべてを退けてでも、ただお一人の神からの栄誉だけを求め続ける。

しかし、そうして行く時に、人の理解や慰めも、あるいは賞賛でさえ、ちゃんと後から着いて来るのである。人間の利益を最優先して生きるのではなく、ただお一人の神からの栄誉、神の(御国の)権益を第一に求める姿勢を貫くことで、必ず、この世においても、ヨブに失われたすべての子供たちや財産が取り戻されたように、神は必ず必要な助け手、援護者、理解者、友を送って下さる。

神は私たちが人間に過ぎないことを知っておられ、私たちのこの世での生存がいかに短いものであるかも知っておられ、地上での生存に必要なすべてを備えて下さる。

だが、困難な局面に、神はただ味方して下さるどころか、余りある祝福を与えて下さったことを、時が過ぎても、筆者はきっと忘れはしないであろう。

地上にいる間は、まだ何もかも終わったと言って安堵できる状況にはないが、ヨブの失った子供たち――は、確かに、また新しい子供たちとして、神の手から彼に返されたのだ。すさまじい戦いの中で失われたものが何であれ、キリスト者の人生にはそれを補って余りある豊かな回復がある。そのことを、私たちは生きて示さなければならないのである。

神がどれほど信じる者を祝福して下さろうと考えておられるか、どれほど大きな恵みを用意して下さっているか、どれほどはかりしれない大きな愛で、私たちを守り、包み、見守り、そして助けて下さるか、私たちは自分で想像することもできないが、これを生きて示さなければならない。

エステルに向かって王は言った、あなたが望むなら、王国の半分でもやると。王国の半分をやるとは、全部をやるのと同じことだ。王と共に共同統治者になるという意味である。だが、私たちは、それがキリストを通して、私たち自身に宣告されている言葉だと気づいているだろうか?

私たちはあまりにも死の恐怖におののきすぎて、金の笏が述べられても、まだ命へと入れられたことを自覚していないのではないだろうか。「あなたは何を望むのか」――そう問い尋ねられても、まだためらって答えられないでいるのではないだろうか。

しかし、心の内で答えは決まっている。

王よ、私が望むのは、財宝でもなければ、土地でもありません。あなたの正義をこの地に実現していただきたいのです。私たちの民を脅かしている勢力があります。その者たちは、主の民に泥を浴びせ、あなたの名を穢し、ついに主の民を殺そうと計画しています。しかし、彼らは自分で掘った穴に落ちなければならないのです。

王は問う、そのような狼藉者がいるとは。一体、それは誰なのか。

王妃は答える、それはあなたの名を使って、あなたの代理人のように振る舞って栄光を浴びているあの高慢な大臣ハマンとその取り巻きです。彼は自分にひざまずこうとしないモルデカイを憎み、モルデカイが属している主の民を圧迫し、殺しさえすれば、自分に逆らう者は誰もいなくなると考えています。しかし、その次には、彼はあなたの玉座を狙おうとしているのです。彼が目指しているのは、自分が王になること、自分が神のような絶対者になることなのです。

王は言う、王は私一人だけだ。他に王はいない。

王妃は答える、その通りです。ハマンは大臣であって、王ではありません。その大臣としての権威も、あなたが授けたのでなければ、彼は自分では何も手に入れられません。しかし、彼はあなたの代理人のように振る舞う中で高慢になり、自分の分を超えました。彼は心の中で、自分こそ王だと思っているのです。私たちは自分たちの命が惜しいからこのように申し上げているわけではありません。ハマンがあなたの統治を奪い、覆そうとしているからこう申し上げるのです。王よ、もしこの国を、この民を惜しんで下さるならば、ハマンに好き放題させることをやめて、あなたが支配者であることをぜひとも表していただきたいのです。

* * *
私たちはまだまだ戦いの初歩にあるが、新しい時代が来ようとしている。

人々はこの悪しき時代にほとほと嫌気がさしており、新しい時代を切に求めている。

おびただしい量の嘘と、不正と、不信と、陰口と、猜疑と、分裂分断に対抗して、真実、正義、信頼、協力が取って代わる。

どれほど嘘や陰口を触れ回り、分裂分断工作をしかける人々が現れても、なお消えない、しっかりした愛情、信頼が生まれ、言葉にも態度にもよらない、心の深いところでの信念に基づく協力や連帯が生まれる。

それは人工的に作り上げられた絆ではない。私たちは、連帯している大きな勢力だと、メガホンを持って声を大に叫ぶことはない。たくさんの旗を立てて、我ここにありとアピールすることもない。しかし、この連帯は、さざなみのように静かに広がって行く。心ある勇士はこの指にとまれ、共に最後まで戦い抜こうと、言外に呼びかける声が、理解者を呼んで行く。

今回、幾人もの人たちから協力を得ている。決して細部まで明らかにすることはないとはいえ、実に大勢の人々が、この件のために奉仕することになったのである。そこには、明らかに天の采配としか言えない様々な巡り合わせがあった。その中には、協力したなどとは一切考えていない人たちまでも含まれる。ただ筆者にはよく分かるのである、それが確かに主の御助けであることが。
 
長い歴史の間に起きたことをすべて明らかにすることに意義があった。むろん、まだ証明作業はこの先も続くのであって、それは生きている限り、私たちがキリストの復活の証人であり続けることを意味するのだが、神が人間を創造された目的は、人々をソドムとゴモラの住人のようにして町ごと、国ごと滅ぼすことにはないと、筆者ははっきり言える。

敗れ口に立ってとりなす作業は、峠を越えた。バアルにひざをかがめない民を、神はどこからでも必ず呼び起こして下さることがおできになる。ただし、招集をかけるのは私たち自身の仕事であって、常に主の山に備えがあることを信じて、進んで行かなければならない。だが、そんなにも遠くまで探し求める必要はない。ささげもののための羊は、振り向けばすぐそこにある。

私たちの愛する御子キリスト、彼こそ神を満足させる生きた永遠のささげものの小羊であり、私たちが神の御心を満足させるためにささげねばならないものは、すべて彼を通して供給される。

筆者は今まで知らなかった新しい法則を学びつつある。それは、およそ地上のすべてはキリスト者のために備えられたものだということ。そこには、地上の物流、経済だけでなく、人も、人の心も含まれている。ハドソン・テイラーは祈りだけによって、他者の心を動かす術を学んだが、筆者も、同じように、天を経由して人の心に働きかけるだろう。

神が僕のためにすべての必要を備えて下さり、必要を天から直接、供給される。我々の目の前にあるものは、すべて征服すべき霊的領土なのである。日々、新たなる収穫を勝ち取って行かねばならない。そして、そこに目に見えない復活の旗を立てて行かなければならない。神の勇士たちよ、奮い立ち、力を取り戻して立ち上がり、大胆に前進し続けなさい。御国を地にもたらすために。地に平和がなるように。
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
  
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。
 
このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)
オリーブ園に非常にタイムリーな記事が載っているため、転載したい。オースチン-スパークスの「土台のある都」 第六章 都――天の統治の座 (5)から。


三.その行政上の特徴

 教会に関して、また私たちの現在の題目である「土台のある都」としての教会のために、この手紙の中に示されている三番目の点は、その行政上の特徴です。この手紙の中にこれを明らかに示す数々の事柄が示されています。この都、この教会を構成するこの民の天的性質と霊性のゆえに、そこには一つの強力な行政上の要素があります。これに関して一つか二つの節を見ることにしましょう。

 エペソ一・二一~二二。「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました……」。主御自身と共に、そして教会の主権的かしらとしての彼の地位から始まります。

 二章六節。「キリスト・イエスの中で、私たちを彼と共に復活させ、彼と共に天上に座らせて下さいました」。ですから、彼の地位だけでなく彼の存在とも一つになる特権を私たちは与えられています。私たちは彼と霊的に結ばれたと見なされています。天上における彼の地位だけでなく、天上における彼の存在とも一つなのです。それはあらゆる支配、権威、力、主権等を遥かに超えています。教会は彼のこの地位とつながっています。

 三章一〇節。「それは今や天上にいる主権者たちや権力者たちに対して、教会を通して神の多様な知恵を知らせるためです」。これは行政上の要素ではないでしょうか?教会により、神は主権者たちや権力者たちという知的存在を支配しておられること、この知的存在に強い印象を与え、彼らを教え、御自分の多くの面にわたる知恵を知らせておられることは、極めて明白です。

 六章一二節から。この天上では、教会は戦いの中にあると見なされている一方で、教会は権力の座にあるとも見なされています。これは優位に立つため、優勢になるための戦いではなく、むしろ優位性を示すため、次の事実を示すための戦いです。すなわち、これらの主権者たちや権力者たちは敗北しており、天上にあるキリストとその教会とに服しているという事実です

 ここでエペソ六章と黙示録一二章とを比較する必要があります。エペソ六章では、教会は天上で主権者たちや権力者たちと格闘中であると見なされています。黙示録一二章の場合、一つの群れが悪しき者、暗闇の軍勢の激しい襲撃を受けています。その後、この群れはそれらの軍勢を天から投げ落とし、それらの軍勢が活動していた領域を統治する地位を完全かつ最終的に受け継ぎます。これがこの戦い、敵との大きな最後の戦いの終わりです。この戦いにより、敵は空中または天上の自分の場所から投げ落とされます。エペソ六章から黙示録一二章に目を向けるとよいでしょう。エペソ六章では戦い、代々にわたる戦いが進んでいます。黙示録一二章では、この戦いが最高潮に達していることがわかります。その結果、依然として天上にいたエペソ六章のこれらの軍勢は天から追い出され、もはやそれらのための場所は見つからなくなります。そして教会は天に残されて、王座の支配する地位を完全に占めます。



 以上の記事では、キリストは万物のかしらであり、万物を足の下に従わせ、「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方であるが、教会は、万物のうちから初穂として贖われたキリストに連なる存在として、キリストをかしらとしてその支配に服し、キリストと共に復活し、彼と共に天に座らされた者として、サタンが最終的な滅びと罰を受けるまでの間、この世を超越したキリストの目に見えない絶大な支配を、この地上において目に見える形で体現し、サタンのわざを打ち壊し、サタンを天から投げ落としながら、神の国の前進に寄与すべきミッションを負っていることが理解できる。
 
 前の記事にも書いた通り、キリスト者はこのように誰しもが、自覚しようとすまいと、暗闇の勢力との間での主権の激しい争奪戦にすでに巻き込まれているのである。
 
 それは、霊的陣地を巡る激しい争奪戦であり、戦いを開始するからには、必ず、勝利をゴールとせねばならない。
 
 この争奪戦の原則は、この世のチェスや将棋やオセロなどのゲームと基本的に同じである。戦いに勝利して、敵を敗北に追い込み、敵の財産を奪い、陣地を勝ち取り、そこに敵である暗闇の勢力の支配とは異なる、キリストの復活の命の支配を打ち立てることが目的なのである。

 パウロは次のように述べた、わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

   すなわち、キリスト者は誰しも霊的戦いに遭遇しており、その戦いの中で、敵の要塞を打ち破り、敵の屁理屈をすべて打破し、敵の武装を解除して、その領土を明け渡させ、財産を分捕り、敵軍を捕虜として自らの隊列に加える権限を与えられているのである。

 キリスト者はこの戦いに無知であってはならない。霊的な敵を敗北に追い込み、捕虜として引いて行き、凱旋の行進で辱めてさらしものとして処罰を加えるまで、決して退かない覚悟を決めねばならない。
 
 だが、神の民と暗闇の勢力との間の争いについては、往々にしてクリスチャンがあまりにも未熟かつ無知なので、神の子供たちよりも、暗闇の勢力の方がはるかに狡猾で戦いに精通しており、それゆえに、先に神の子供たちに攻撃をしかけて優位に立とうとして来ることが多い。

 たとえば、カルト被害者救済活動を率いる村上密が、教会に恨みを持つ被害者を募っては、諸教会に裁判をしかけ、その教会を弱体化して、牧師を追放し、自らの教会に併合する(ブランチ化する)ということを繰り返して来たことをよく考えてもらいたい。

 彼らは、諸教会に激しい戦いをしかけて弱体化・疲弊させるために、自称被害者らを募り、その証言を利用しては、諸教会を中傷し、リーダーに悪者のレッテルを貼り、ネガティヴ・キャンペーンを張って悪評をまき散らし、信徒の離散を促し、さらに、それでも教会に残った信徒には、密偵を送り込んでは分裂工作をしかけて結束を弱め、それでも教会が陥落しなければ、教会に裁判をしかけ、教会が徹底的に弱体化したところを狙って、リーダーを追放し、教会の領土、信徒、財産を奪って、暗闇の勢力の財産に加えるのである

 このようなことは、福音伝道を主たる職務とする牧師の活動に全くそぐわないことは言うまでもないが、しかし、こうした彼らの活動は何よりも、暗闇の勢力が、村上密という一人の人間を利用しながら、神の教会に激しい戦いをしかけて、教会を弱体化させては陥落し、暗闇の領土として加えて支配するという方法論を取って来たことをよく示している。

 これは神の教会と暗闇の勢力との間で、激しい陣地の争奪戦がすでに開始していることを表している。すでに数多くの教会が脅しつけられて圧迫を受け、降伏するか、弱体化しており、Dr.Luke率いるKFCなども、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によってすでに陥落された恥ずべき集会の一つであると言える。

 我々は、こうして、霊的な敵が、神の教会に執拗かつ激しい攻撃をしかけては教会を城のごとく陥落し、暗闇の領土に併合しようともくろんでいると分かっている以上、キリスト者の側でも、これに積極的に応戦して、敵に反撃し、敵の作戦を打破し、その悪しき計画を破綻せて、むしろ、敵の領土を奪い取って、キリストの復活の命によって支配される陣地を拡大せねばならない必要性に直面していることに気づかねばならない。

 つまり、我々は敵の望んでいることと正反対の現実が起きるよう、手を尽くして立ち向かわねばならないのである。

 敵が以上のように卑劣な方法と作戦を用いて、キリストの花嫁たる諸教会を蹂躙・冒涜し、教会から神の聖を取り除こうとしているならば、神の子供たちも、ただその作戦から自らを防御するだけでなく、これに徹底的に応戦して、敵に反撃して勝利をおさめなければならない。

 敵の中傷に対して、それが嘘であると説明して自己弁護しているだけでは全く足りない。霊的な敵どもは、神の教会を地上から殲滅・駆逐することを目的としており、その目的を成就しない限り、決して攻撃の手を休めることもなく、ターゲットから手を引くつもりもないことを理解して、これはどちらかが殲滅されるまで、決して終わらない戦いであって、神の子供たちも、決して手をこまねいていてはならず、敵と同じだけ執拗さと激しい憤りを持って、敵軍が完全に殲滅して力を失うまで、徹底的に攻撃をしかけて敗北に追い込まねばならないことを自覚すべきなのである。

 むろん、我々は誰からも戦いをしかけられていないのに、自ら誰をも攻撃する必要はないし、誰からも憎まれていないのに、誰をも憎む必要はない。

 しかし、神の教会の殲滅を目的として悪霊の思いを体現して活動している人間どもが確かに存在するという事実が分かったならば、これらの連中は完全に福音の敵であるから、それに立ち向かう過程で、容赦してはいけないことを知るべきである。彼らが自ら犯した悪事に対する処罰を受け、恥をかかされ、逃げ去り、彼らが神の教会をさらしものにして嘲笑したのと同じように、いや、その何倍も、嘲笑され、辱められ、さらしものとされる結果に追い込むまで、決して攻撃の手を緩めてはならないのである。

 なぜなら、こちらが徹底的に応戦しない限り、彼らは次々と教会に打撃を与えては教会を破壊することを決してやめないからである。キリスト者は敵のわざを完全に破壊するために、具体的な反撃を行わねばならないのである。
 
 それは、真の意味での「聖戦」であり「十字軍」である。

 ほとんどのクリスチャンは、信仰生活とは、教会で讃美歌を歌い、楽しい昼食会を開き、お気に入りの信徒たちと歓談にふけり、折り紙を折ったり、キャンプに行ったりすることだと考えており、霊的な戦いが常に進行中であることを全く知らないし、意にも解さない。

 しかし、そのような未熟なクリスチャンであっても、思ってもみない激しい攻撃をしかけられれば、さすがに何かが起きていることに気づかないわけにいかないだろう。

 だが、落胆することは全くない。戦いが起きるときには、それを機に、キリスト者の側でも、積極的に敵の要塞を打ち砕き、敵陣を我が物として勝ち取るチャンスが与えられていることを思うべきである。

 神は、我々が勇敢にその戦いを戦い抜いて、勝利をおさめることを願っておられる。

 そこで、こちら側も、勝利するまで退かない覚悟を固めねばならない。

 さて、我々が用いる武器とは、敵が用いているような肉による方法ではない。我々は聖書の御言葉に立って武装することで、敵の嘘を論破して打ち破り、彼らの暴虐を声を大にして非難し、彼らの悪事の証拠を白日のもとに晒すことで力を失わせ、また、この世のあらゆる正当かつ常識的で合法的な手段に則り、彼らを武装解除して抑える(縛り上げる)ために必要な具体的な措置を取るのである。

 そのように反撃を続けることで、我々は敵の要塞を最終的に陥落し、敵の領土を完全に明け渡させて、これを神の国の主権が及ぶ領域に加え、敵軍のリーダーとその手下たちを戦利品として勝ち取ることができる。彼らを凱旋の行列でさらし者として辱め、処罰することが可能である。

 多くのクリスチャンは、全くと言っていいほど次の重要な事実を知らない。

 すなわち、神の教会を冒涜・蹂躙することは、この世においても、来るべき世においても、重い罪に相当するにも関わらず、サタンを中傷することは少しも罪にはならないのだと。サタンにはどれほど激しい憎悪と悪罵の言葉を浴びせても、決してやりすぎということはなく、どんなに口汚い非難や冒涜の言葉でさえ、むしろ全く足りないくらいなのである。

 クリスチャンには、悪魔に対する憎しみがなくてはならない。何よりも、悪を憎む心がなくてはならない。悪魔の犯した罪が、永遠の刑罰に相当することを考えれば、クリスチャンが悪魔に対して向けるべき憎しみと非難は底なしであって当然なのだ。

 我々は贖われる前の記憶では、滅びゆくアダムである人間の一人として生まれているので、どのような人間に対しても、まずは同胞としての憐れみの感情を持つであろう。同じ人間に対して憎しみや敵意を向けたり、戦いの相手とみなすことはためらわれるはずだ。

 しかし、信仰者になった以上、我々は、ただ単に人間的なものの見方から、全ての人間を自らの同胞として考えることをやめて、神の側から物事を見、神の国の権益に立って、何が神に栄光をもたらすかという観点で物事を見るように、思考を変えて行かなくてはならない。

 その過程で、私たちは、たとえクリスチャンの同胞を名乗り、兄弟姉妹を名乗っていたとしても、明らかに贖われていないと分かる行動を取る者たち、もっと言えば、明らかに暗闇の勢力の手先となって、聖徒たちに敵対し、神の教会やクリスチャンの破壊と殲滅を願い、それを職業として実行に移しているような者たちに対しては、兄弟姉妹としての容赦や憐れみを決して持ってはいけないことを知るべきなのである。

 こういう悪しき人々の存在を利用しながら、霊的な敵が、キリスト者の殲滅と死を願って攻撃をしかけている以上、キリスト者の側が、こうした敵どもに対する憐れみや容赦を持つことは、自ら敗北を望み、死を望んでいるのと同じであり、それは憐れみではなく、取り除かれねばならない甘さ、弱さでしかないことを理解せねばならない。

 神の教会は、教会を冒涜して荒らし回る者たちの薄汚い手をはねのけて、キリストの花嫁たる高貴さと尊厳を公然と証明せねばならない。

 その根拠として、教会はすでに「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方の頭首権に服し、この方と共に、この方の御名によって、この世だけでなく来るべき世においても、すべての支配、権威、力、主権を超える絶大な権威を与えられていることを思うべきである。

 サタンを天から投げ落とす権威は、教会にこそ与えられている。神はその仕事を教会に託しておられるのだから、教会はその権威を大胆に行使すべきである。それによって暗闇の勢力が権威を行使していた領域を明け渡させ、そこにキリストの復活の命による支配を打ち立て、御国の前進に貢献すべきなのである。

 キリストの花嫁は、花婿なるキリストのゆえに、高貴で聖なる貴い存在であり、勇敢な戦士のように強い存在でもある。この花嫁は、決して穢れた者たちに自分を冒涜させたり、蹂躙させたりすることはせず、むしろ、最後までキリストに対する貞潔を捨てず、むしろ、穢れた者たちが、この花嫁のゆえに、恥をかかされて敗退するよう、勇敢に戦いを戦い通す。

 この花嫁は、賢い花嫁であり、花婿なるキリストが地上に来られるまでの間に、花婿に栄光を帰するよう迎えるべくすべての支度を整える。

 繰り返すが、教会は、キリストの花嫁であるから、キリスト以外の何者にも服することをせず、神の知恵に逆らうあらゆる高慢を論破し、暗闇の勢力を敗北に追い込み、その陣地と手下を戦利品として勝ち取りながら、そこにキリストの支配権を打ち立てて、神の国の前進に寄与し、花婿なるキリストに栄光を帰すべきなのである。

 悪魔がほえたけるししのごとく獲物を求めて徘徊していても、全く恐れるに足らない。勝利はキリストにあり、教会にあるのだから。
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