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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

1.手頃で新しい核兵器の時代?

最近、考えるにつれ、分かって来た事柄が一つある。それは、「誰かさん」が、私達に最も考えて欲しくないのは、過去の出来事ではなく、未来に関する事柄なのだということ。たとえばここで、筆者が過去の迷宮入りした冤罪事件や、警察や役所による不正事件や、総理や閣僚の失言をどれほど取り上げて、虐げられた弱い人たちをかばうために、批判を繰り広げ、鋭い推理を展開したとしても、そんな程度のことでは、「誰かさん」にとっては痛くもかゆくもない。

「彼ら」が私達に何よりも知ってほしくない、考えて欲しくない、対策を講じて欲しくないと願っているのは、過去でも現在でもなく、未来に関する事柄なのだ。いや、過去の事件をパズルのように組み合わせて、そこから未来に関する予測を確実に導き出すような人間が現れることを彼らは願っていない。何よりも、個人がきちんと筋道立てて自分の頭で物事を考えられるようになること、悪に対する免疫抵抗力を持つ人々が増えること、多くの人々が時代の波にただ流されて生きるのをやめ、今後の自分の行動に関して、冷静で、客観的に物事を考えられるようになり、どんな行動についても、他人の意見に流されるのでなく、自主性を持って、正しい判断を下そうと考え始めること、そういうことを願わない者たちがいる。

人々が、世界の未来を陰謀によって支配しようとする人たちの悪意に気づき、欺瞞などもう沢山だと怒り、陰謀をこれ以上、許さないという毅然とした態度で立ち向かうこと。つまり、私達が世界経済や宣伝という棍棒("stimul")に追い立てられ、踊らされる家畜であることをやめて、自らの頭で考え、自らのために生きるようになること…。それこそが、世界中の大衆を家畜のように管理したいと思っている何者かが最も恐れ、嫌っている事態なのではないか。

イラン戦争の勃発の可能性は何年も前から指摘されているようである。秘密裏の計画の中に、戦争のターゲットとして、中東の他の諸国も含まれるとの指摘さえある。だが、今日、日本人はイランで起こるかも知れない戦争のことで頭を痛めたりしているだろうか? え?第三次世界大戦の勃発!?
…聞いた人は笑うかも知れない。そんな問題よりも、大臣の進退やら、給付金のことの方が我々にとっては大問題だ。このブログの読者の中にも、現時点で、起こってもいない戦争に対して反対を唱えている筆者を、呆れた馬鹿者だと思う人があるかも知れない。

だが、ノアの箱舟の時にも、その日が来るまで、誰にも分からなかった。人々はノアが気が狂っていると思って、彼を嘲笑しながら、「娶ったり、嫁いだり」して気ままに暮らしていた。だが、それでも、その日は確実にやって来たのだ…。

現代という時代は、何らかの大義名分や美名のもとに、恐るべき欺瞞が進む時代だ。イランで戦争がいつ勃発するか、あるいは別のどこかで次の戦争が起こるのか? そういう事柄を「予言」することがブログの目的ではない。重要なのは、核戦争に対して筆者は反対であるということ、それから、戦争にはどんな正義もないということを主張すること、どんな大義がついていようと、これ以上、軍事産業の繁栄のための戦争を許さないと主張することだ。

これまでにも大勢の人たちが、戦争の欺瞞を暴き出し、軍事産業の暴走の危険視してきたからこそ、今日まで、大戦が勃発していないのかも知れない。たとえ大災害がいつか起こることは止めようがないとしても、主がアブラハムの祈りを聞かれたように、善良な人々の声高な叫びには、社会において悪があふれ出すのをきっと止める力がある。危険がなくならない限り、反戦を訴えよう。

参考までに。イラン戦争の勃発を憂慮する英語サイト
"Nuclear War against Iran by Michel Chossudovsky January 3, 2006"
"Iran: A War Is Coming by John Pilger February 3, 2007"

日本語サイト
イランは核攻撃される? 2006年4月18日  田中 宇
核戦争を準備するアメリカタカ派(ヤパーナ社会フォーラム)

これらのサイトの情報を総合すると、イランで戦争が起こる可能性はかなり現実のものとして感じられるようになる。すでにそれを想定した軍事演習が行われ、小型核を使いたいと考えている者たちは、新しい戦争に向けて盛んに武器を売り込んでいるようだ。だが、アメリカが中東の戦争に参戦するためには、参戦の口実として、またもや新しい「真珠湾攻撃」が必要となるかも知れない。

きっと、お節介な話だと言われてしまうだろうが、筆者はアメリカを物騒な国だと考えている。アメリカに今後旅行の予定がある人は、どうぞ注意されたい。また、以下の記事に登場する「小型核」が中東諸国で大量に使われた場合、ウラル山脈を越えて、中央アジアまで、ユーラシア大陸に汚染が広がるとの懸念もある。
21世紀は本当に歴史に残る大変な時代となりそうである…(歴史が続いたならばの話だが)。

今、被爆国として日本の取るべき立場は何なのか、小型核の問題についてどうか多くの人たちに考えて欲しい。できるだけこの情報をより多くの人たちに伝えて、戦争への警戒を呼びかけて欲しい。いつどこで戦争が起こるかが問題なのではない。どこで起ころうとも、核戦争など絶対に誰にも容認できるものではないということが重要なのだ。

一人ひとりの力は小さくとも、知識人による声を合わせれば、きっと社会を動かす力がある。


2.イランに対する核攻撃の可能性について ミシェル・チョスドフスキーの記事より

以下は、今からすでに2年も前の2006年1月3日にミシェル・チョスドフスキーによって書かれた英文記事"Nuclear War against Iran by Michel Chossudovsky "(上に掲載したものと同じ)の部分的な引用です。この情報が最新のものでないこと、また、ここで予告されている戦争がいまだ起こっていないということを考慮すれば、この記事には色々と議論の余地が残るでしょう。
しかしながら、今後訪れる「核の新しい時代」とはどのようなものか、小型核とは何かを知り、戦争はどのようにして「作られる」のかを考える上で、これは今も参考になる記事だと思います。機械翻訳を参照して手直ししたため、訳に不正確な部分があるかも知れませんが、ご了承下さい。

 

(―――以下引用―――)


イランに対する核戦争

核弾頭を使用してイランに対しあからさまな戦争を引き起こそうとする計画は最終段階にある。
米国、イスラエル、トルコの連合は「着々と準備を進めている」。2005年初頭から様々な軍事演習が実施されてきた。 一方で、米国の攻撃を見越して、イラン軍は12月にペルシャ湾で大規模な軍事演習を実施している。
2005年初頭より、ワシントン、テルアビブ、アンカラ、ブリュッセルにある北大西洋条約機構本部の間で、激しい外交交渉が行われた。最近では、アンカラへ派遣されたCIA長官ポーター・ゴスがトルコのレジェプ・タイイプ・エルドアン首相に、 「イランで核兵器などの軍事目標が空爆された際には、政治的支援、後方支援を提供するよう」要請した。ゴスはトルコの知識人層に対して、軍事作戦への備えと監視に支援を求める、特別な協力を要請したと伝えられる。( DDP 2005年12月30日)

一方、シャロン首相はイスラエル軍は3月末までに攻撃を開始して良いとのゴーサインを与えた。
イスラエル当局関係者は異口同音に、イランに対する軍事攻撃は 遅くとも、2006年3月末までには開始されるだろうと述べている。 3月末という期日は、イランの核エネルギー開発計画に対して、IAEAが行った国連への報告書と一致する。イスラエルの政策立案者は、それらの脅威が報告に影響を与えるか、あるいは少なくとも、海外の支持者らによって安全保障理事会による制裁措置などの何らかの措置を促し、あるいはイスラエルの軍事行動を正当化することになるだろうと信じている。
(ジェームズ・ペトラス 、  イスラエル開戦へのカウントダウン:イランへの集中攻撃、グローバル研究、 2005年12月)

軍事計画は米国によって後押しされ、NATOによっても承認されてきたが、しかし、空中攻撃の計画はNATOでの問題に鑑みて、現段階では不明である。
 

「衝撃と恐怖」作戦
 
軍事行動のための様々な要素が、ネブラスカにあるオファット空軍基地で、アメリカの厳重な指揮の下、アメリカの国防総省と戦略司令本部( USSTRATCOM )によって調整されている 。
イスラエルによって発表される作戦行動は、米国防総省(ペンタゴン)との緊密な連携のもと実施されるだろう。この軍事作戦の司令部は(ワシントンに)集中され、最終的にいつ軍事作戦が開始されるかは米国が決定する。

米軍筋は、イランに対する空爆が、2003年3月にイラクで行われた「衝撃と恐怖」作戦と呼ばれる空爆に匹敵するほどの大規模な展開となりうることを確認した。
米軍によるイランへの空爆は、1981年のイスラエルによるイラクのオシラク核センターへの攻撃をはるかにしのぐ範囲に渡り、2003年のイラクに対する空爆キャンペーンの開始に似たものとなることが予想される。ディエゴガルシアから、もしくは直接アメリカから発射して操作されるB-2ステルス爆弾の威力をフル活用し、それに、カタールのアルデイドやその他戦域にある地域から発射が計画されているF-117ステルス戦闘爆撃機が加えられ、核の攻撃予定地は2ダースには上るものと予想される。

軍事作戦の計画者らは、攻撃リストを政府当局の選択に応じて、最重要の軍事施設を目標とした空爆だけに制限するよう調整することもできるし、あるいは、イラクから米軍に対する反撃として使われるかも知れない原子力兵器、通常兵器を攻撃目標に含むと同時に、それに関連する大量破壊兵器が含まれる広範囲を一連の攻撃予定地として定める選択も可能だとしている。(グローバル・セキュリティ.org 記事参照)

11月に、米国の戦略司令部は「世界の稲妻」作戦と銘打った「世界的規模の攻撃計画」の主要な軍事演習を実施した。「世界の稲妻」作戦には、「仮想敵」に対する、核兵器と通常兵器を合わせた攻撃のシミュレーションも含まれていた。「世界の稲妻」作戦の演習後、米国の戦略司令部は準備万端であると宣言した(以下の分析を参照)。

アジアの新聞雑誌は、「世界の稲妻」作戦の演習における「仮想敵」は北朝鮮であるとみなしたが、演習のタイミングから判断するなら、これは、イランに対して計画された攻撃を見越して実施された演習だったと判断できる。


核戦争に向けてのコンセンサス

EU内からは、政治的に異議を唱える声は全く出ていない。ワシントン、パリ、ベルリン間では協議が続いている。イラクへの侵略の際には、フランス、ドイツから外交レベルで反対が出されたが、今回はそれとは反対に、 ワシントンは大西洋沿岸の同盟国と国連安保理の双方において、「合意」を打ち立てることができた。この合意には中東と中央アジアの広域に影響を与えかねない核兵器の使用も含まれている。

さらに、アラブ諸国の多くが、今や、暗黙のうちに米国とイスラエルの軍事計画の支持者となっている。一年前の2004年11月、イスラエル軍の首脳がブリュッセルにあるNATO本部でエジプト、ヨルダン、チュニジア、モロッコ、アルジェリア、モーリタニアを含む地中海沿岸諸国の6か国のメンバーと会談し、NATOとイスラエルは条約議定書に調印した。この会談の後、シリアの沿岸で米国、イスラエル、トルコを含む合同軍事演習が催され、2005年2月には、イスラエルがアラブの数カ国と共に「反テロ演習」に参加した。

メディアは異口同音にイランを「世界平和への脅威」として非難している。 反戦運動はこのメディア路線を鵜呑みにして来た。米国とイスラエルとが中東で核によるホロコーストを企てている事実があるにも関わらず、反戦・反グローバル化運動はそれを議題に取り上げようとはしない。世界中の世論は、これはイランの核兵器開発を防止するために必要な「外科手術」なのだと言いくるめられてしまっている。

我々には、これは戦争ではなく、イランの核施設への空爆という形を取った、軍事的な平和維持活動なのだと説明されている。


「市民の安全のための」小型核爆弾

報道によって、いくつかの軍事課題の特徴は明らかにされてはいるものの、先制攻撃として戦略的に核兵器を使用することを含めた軍事作戦の広範囲な性質は大幅に歪曲されて伝えられている。
この軍事課題は、2002年のブッシュ政権の政策であった「先制的な」核戦争、つまり、核戦略の見直し報告(Nuclear Posture Review)に基づいている。メディアが誤まった情報を伝えているために、イランに対して核弾頭を含む軍事行動が行われた場合に、破壊的な結果がもたらされるということが、世間にはほとんど伝わっていない。外科手術が、通常兵器と核兵器の双方を用いて行われるという事実は、議論の対象にもなっていない。

2003年の上院の決定によれば、「低い爆発エネルギー」を持つ「小型核爆弾」は、戦略的な核兵器の新しい時代を切り開くものであるとされており、実際には、広島に投下された爆弾の6倍もの爆発力を持ちうるというのに、爆発は地下で起こることが想定されているという理由で、小型爆弾は今や「市民の安全」を守るものであるかのようにみなされている。

核に関する「権威ある」科学者たちの協力を募って行われたプロパガンダ的なキャンペーンにおいて、小型核爆弾は、戦争よりもむしろ平和のための道具であると宣伝されている。爆発エネルギーの低い核爆弾は、今や「戦場での使用」に向けて整えられ、アメリカの進める「テロとの闘い」の次なるステージで、通常兵器と並んで使用の候補に挙げられているのだ。

政府当局者は、低爆発エネルギーの核兵器は(イラン、北朝鮮などの)ならず者国家に対する頼もしい抑止力となると主張する。彼らの理屈では、現存する核兵器は、あまりにも破壊力がありすぎて、本格的な核戦争以外で使用するには適さないというのである。潜在的な敵はそれをよく分かっているため、彼らは報復に核兵器が使われることはないと高をくくっている。しかし、低い爆発エネルギーの核兵器があれば、破壊力が小さいため、実際に使用されることが想定される。そのため、小型核兵器は有力な戦争抑止的効果を持つというのだ。

全くの屁理屈としか言えないこの理論においては、核兵器は平和を樹立し、「二次被害」を予防する手段とされている。ペンタゴンはこの点について、(破壊力が5千トン以下の)「小型核」は、爆発が「地下で起こる」ため、市民には無害だと説明している。
にも関わらず、これらの「小型核」は一つ一つが、爆発して死の灰を撒き散らす際には、1945年に広島に投下されたのと同じ原爆の断片として、重大な被害をもたらすのだ。
長崎と広島における原爆の破壊力は、2万1千~1万5千トン程度であったと推定されている。( 記事)つまり、低爆発エネルギーの小型核は、広島への原爆の3分の1の破壊力を持つことになる。


小型核爆弾とは…
「核」兵器である B61-11が大地を貫通する能力はかなり限られている。テストでは、標高4万フィートから、乾いた大地に投下した場合、たった20フィートしか貫通しないことが判明した。しかし、爆発前にこの爆弾を地中に埋めておけば、地表での爆発時に比べ、はるかに高度な爆発エネルギーが衝撃派として地上に伝わる。これをもし都市で使用するならば、大量の民間人犠牲者が出るだろう。たとえ爆発のエネルギーが最小の0.3-300キロトンの範囲におさまったとしても、核による爆風は放射性物質の巨大なクレーターを生み出し、広範囲に渡って、致死量のγ線を放射する地域が作り出される。

GBU28

ガイド付き爆弾ユニット- 28 ( GBU - 28 ) 記事より

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2009/02/22 (Sun) 社会問題

 グノーシス主義のことをもっと知る目的で、映画『マトリックス』を観ていたのだが、筆者はそこで当然すぎるほど当然かつ重要な事柄に、今更のように、改めて気づいた。
 皆さんは、決定論を信じるだろうか。クリスチャンは多かれ少なかれ、皆決定論者であると言えるだろう。なぜなら、クリスチャンは、世界が全体として滅びに向かっていること、終末に向かっていることを信じ、十字架を除いては、人類の未来に希望がないこと、終末には全世界的な巨大な悪の王国が誕生するであろうことなどを、聖書に基づいて信じているからだ。

 しかし時折、この終末論こそが、クリスチャンを悪に対してあまりにも無力にしてしまい、個々人から悪に立ち向かう力を奪ってしまう。そして、クリスチャンでなくとも事情はほとんど変わらない。
 私達は日々、社会の中で、自分の無力を思い知らされながら生きている。幼い頃から経験させられた過酷な受験戦争、学閥による差別、男女差別、若いがゆえに経験する様々な差別、職場での不当な扱い、世間からの不当な扱い…。
 特別に優遇される一握りの「勝ち組」をのぞいて、一般大衆はいつも自分の無力を思い知らされながら生きている。私達はこの社会の中で、いつもいつも、自分には出来ることが少ないと思い知らされる。そして、その無力感のために、いつの間にか、自分にはどうやっても社会を変えられるはずがないと思い込むようになっている。そのため、この世に悪がはびこっているのを見ても、私達はもはや立ち向かう気持ちさえ起こらず、ただ手をこまねいて冷笑しているだけの傍観者になりがちである。

 だが、そのようであってはいけないのだ。もう一度、自分に平手打ちを加えて、悪に対して立ち向かうよう目を覚まさなければならない。何のために信仰があるのか、思い出さねばならない。筆者は以下の論稿の中で書いた。生きることは変化することだと。言い換えれば、生きているとは、自分をも他人をも含めて、世界にまだ影響を与え、変化させる力が残っているということだ。たとえ自分一人の力がどんなに小さくとも、信仰とは望んでいる事柄を、まだ見ていない事柄を信じる力ではないか。なのに、なぜ私達は、しかも、クリスチャンが、まだ起こっていない事柄、まだ決まっていない事柄について、どこかからか押しつけられた悲観的な予想を無抵抗で、無条件に受け入れなければならない理由があるだろう?

 かつて筆者は以下の記事の中で述べた。イラク戦争を引き起こしたアメリカの国家政策は、次にイラン戦争を引き起こそうと画策している可能性が極めて高いと思われると。また、アメリカ国民に対して、将来、核が使用される可能性があるのではないかと危惧されると。そう書いた当時、筆者はほとんどそれが避けられない未来であると考えていた。
 9.11事件以来、アメリカ国民はあまりにもひどく欺かれているように見える。今でも、筆者の予測では、9.11という偽のテロ事件をアメリカ国民に対して事実であると信じ込ませ、貿易センタービルの中にいた自国民を犠牲にしてまで、イラク戦争を勃発させた悪しき勢力がいるならば、彼らは次なるターゲットとして、イランを狙い定めているだろうことはほぼ間違いない事実であるように感じる。

 そして実際に、学者たちの中からもすでに、イラン戦争が勃発する可能性を指摘する声が上がっている。
 さらに、クリスチャンとして何よりも憂慮すべき最悪な事態として、アメリカのプロテスタントのキリスト教界の中では、イランの国家元首を悪者呼ばわりして、アメリカ国民の心理をイラン戦争へと誘導するような発言がすでに聞かれている。アメリカのクリスチャンたちはそのような「預言者」に誘導されて、イラン戦争が起こるのは時間の問題だと感じているかも知れない。

 何とかして、次なる戦争を引き起こそうと、世論を誘導しようとする作戦がすでに始まっているという兆候は、随所に見出せるのだ。

 しかし、それに調子を合わせるかのように、筆者はかつての記事の中で、ほとんどあきらめの調子で、この戦争がほぼ避けられないものであるかのように述べた。だが、多くの人命を危険にさらすかも知れない深刻な問題に対して、そのような無責任なあきらめと冷笑的な調子は到底、容認されるべきものではない。そこで、ここでそのような傍観者的姿勢を撤回し、本来、その時、言うべきであったことを改めて述べたい。

 イランでの戦争はまだ起こっていない。今ならまだ止められる可能性は十分にある。もし私達が真実に気づいて、悪だくみを悪だくみであると見抜き、数え切れない無実の人々に残酷な苦しみをもたらす卑怯な作戦を白日の元にさらし、それにノーを突きつけることができるならば、だ。

 筆者は皆さんに伝えなければいけない。イラク戦争がどんな悲惨をイラク国民にもたらしたか、私達は今日、知っている。大量破壊兵器が開発された第一次世界大戦以後、あらゆる戦争はただ悪となった。今や戦争に正義はない。結婚式の最中に、花嫁花婿さえ無惨に殺されるような戦争を、どうして聖戦であるかのように私達は呼ぶことができようか。
 
 残念なことに、イラク戦争を私達は止めることはできなかった。だが、イラン戦争なら、まだ止められるかも知れない。
 9.11の事件はあのように不意に起こり、私達はその時、それが欺瞞であることを見抜くための心の準備がまるで出来ていなかった。テレビ画面を通して流される悲惨な映像にまんまと騙され、「テロ事件」により亡くなった人々に同情し、そのようなテロを画策した恐るべきグループが本当にあるのだと信じ、そのようなテロを生み出した母体となる国を警戒せねばならないと信じ、その映像が全世界の信じやすい人々を陥れる恐るべき罠であるということを想像するだけの心の準備ができていなかった。

 当時、世論をたくみに利用して戦争を誘導しようとする悪しき作戦を見抜き、来るべき戦争に反対するだけの心の準備ができていなかったために、私達はイラク戦争の勃発に対して全力で立ち向かうことができなかった。その結果、イラクの国土は世界経済の繁栄のために、あのようにめちゃめちゃにされてしまったのだ。

 もし今、再び同じことが起こるのをただ黙って見ているだけなら、筆者も含めて、未来の歴史においては、来るべき戦争に対して黙っていた皆が卑怯者と呼ばれるだろう。
 イランでの戦争に向けて今後どのような形で導火線が引かれるのかまだ分からない。しかしもしも現在、幾人もの人々が予測しているように、イラク戦争と似たような何らかの形で、世界の世論が次なる戦争へ向けて煽り立てられるとするならば、私達は今から、イラン戦争が起こることに断固反対し、イラン戦争を是認するような発言や風潮をことごとく虚偽として退けていかなければならない。

 たとえアメリカに強制収容所が建設されていようと、50万人分の棺桶が用意されていようと、どんな準備がなされていようとも、どこまで邪悪な計画が進んでいようとも、世界で唯一の被爆国として、日本人はアメリカ国民はもとより、世界のどの国民に対しても、核が使用されることに対して、断固反対の意を示さなければならない。
 クロード・イーザリーが被爆によって亡くなったからと言って、アメリカ国民までが同じ道を辿らなければならないということはない。たとえ罪を犯すことによって人が我が身に滅びを招くことがあるとしても、私達は無実のアメリカ国民が、原爆投下というかつてのアメリカの国策の重い責任を取らされることに同意することはできない。
 
 核爆弾は世界のどの国民に対しても使われてはならないものだ。それだけに、アメリカであわよくば核を使用しようとしている何者かがいるかも知れない可能性に、私達は目を開いて、注意しなければならない。核爆弾の爆発を茶の間のテレビから、お茶受け話として放送するような卑劣な作戦に対して、目を開いて、警告を発しなければならない。もちろん、アメリカ国内だけではない。イラク戦争でも劣化ウラン弾を始めとして核兵器が使われた可能性があることが指摘されており、再び戦争が起これば、そこでもやはり核兵器が使われかねない。

 私達は平時であろうと戦時であろうと、核兵器の使用に対して断固反対の意を示し、どこかで核兵器を使用しようという悪しき意図を持って計画を進めている者がいる可能性があるならば、その正体を可能な限り、明るみに出し、そのようなことが将来起こるかも知れない危険性に対して、声を大にして警告を発し、決して、その計画が実現しないように最後までストップをかけ続けねばならない。

 まだ事件は起こっていない。まだ次なる戦争は起こっていない。まだ何も決まってしまったことなどないのだ。たった一人の力では抵抗することが難しい作戦でも、大勢が欺瞞を見破って立ち向かえば、どんな作戦でも失敗に終わる。世界中の人々の心を自在に操り、全世界の人々に無力感を抱かせて、国や社会を思うがままに支配しようとするような人たちが唱える決定論に騙されてはならない。変えられない未来などどこにもないのだ。

 一つ前の記事の中で、筆者は宗教的阿片としてのペンテコステ派ということについて書いた。クリスチャンは今、どうせ起こるはずもない馬鹿げたリバイバル論、人数だけにこだわる教会成長論にうつつを抜かしたり、虚しいイベントのために走り回ったり、あるいは他国の大統領を「気が狂った男」と呼んで、次なる戦争に向けて世論を扇動しようとする者の言い分に浅はかに煽り立てられているようであってはならない。
 クリスチャンは、自分の生活にも郷土にも何の利益ももたらさない虚しい行事と計画を離れて、目を覚まして、今、自分達の目の前で、現実に起こっていることを見なければならない。

 そして、悪を見つけたならば、勇気を持って立ち向かわなければならない。
 クリスチャンの使命とは、決して、自分の卑小な生活の中だけに閉じこもって、自分一人だけ救いを謳歌して、世界中で泣き叫ぶ他人を見殺しにしながら、平和な生活を送ることではないだろう。

 勇気を持って悪に立ち向かおう。そうすれば悪は逃げ去るに違いない。
 筆者はイラク戦争同様、イラン戦争を是認しない。イラン戦争を是認するようなムードへと世論が煽り立てられることそのものを警戒する。
 特に、クリスチャンが戦争を是認するようであっては、キリスト教界の信用もお終いだ。
 そのことをもっと早くに書いておかなかったことについて、筆者に責任がある。
 日本でもアメリカでも、クリスチャンの真の使命は、アメリカの国家政策に安易に同調することではなく、目を覚まして、どのような戦争、どのような殺人行為に対しても断固、反対することだ。

 遅ればせながら、はっきり述べておこう。筆者はいかなる戦争をも容認しないし、核の使用をも容認しない。
 従って、次なる戦争や、核の使用を画策している者たちがこの世界にいるだろうことが予想されるので、決してそのような者たちの悪しき計画が実現しないように、今後、機会あるごとに、警戒を呼びかけていくつもりだ。
 筆者自身が何かの政治運動を起こすつもりはないが、ただ、もしここに書いてある内容に同意して下さる方がいるならば、どうか身近な人々に警戒を呼びかけて欲しい、今後、この日本や世界に、浅はかな戦争歓迎の世論が決して形成されることがないように。

 私達は9.11のような恐るべき欺瞞がこれ以上繰り返されることがないように、目を覚ましていなければならない。人殺しを推し進めようとする人たちの安易な計画にやすやすと乗せられたり、でっちあげの事件に、これ以上、浅はかに騙されたりしないように自戒し、そのような可能性に対して目を覚ましていることができるように、自分にも、社会にも警戒を訴えていかねばならない。

 真実、クリスチャンを名乗るつもりならば、誰しも、戦争反対を唱えるべきなのだろう。聖書を一度でも読んだことがある人なら誰でも知っているように、主は「殺すなかれ」と人に命じられたのであり、イエスも、歴代預言者も、弟子たちも、剣を取って敵を滅ぼそうとはせず、むしろ、福音を受け入れなかった世にたとえ憎まれ、殺されても、それでも御心に従順であることを選んだ。
 そこで、私達もそれにならうべきである。神の名を用いた聖戦などは地上に存在しない。なのに、どこかの国のプロテスタントのキリスト教界がもしも戦争を是認する動きの中で「気絶」してしまっているならば、彼らの代わりに、日本のクリスチャンは戦争反対を訴えていかねばならない。

 当然すぎるほど当然のことであるが、戦争を含め、あらゆる殺人に反対を訴えることは、クリスチャンに与えられた使命の一つなのだ。

2009/02/19 (Thu) 社会問題

最近の日本は思想統制に向かって確実な歩みを進めているように思うのは筆者だけでしょうか。しかも、それは昔にあったようなはっきりした乱暴な形での「言論統制」ではなく、もっと目に見えにくく、真綿にくるむようなやり方で、じわじわと「言葉狩り」が身に迫ってきているように感じられます。

例えば、ここ1~2年で、筆者は警察による交通安全の取り締まりが異常なほど強化されているように感じ、不安に思うことがありました。え、それが思想統制とどんな関係があるのかって? まあ、ゆっくり聞いて下さい。
数年前、筆者が通勤に車を使っていた頃、「ネズミ捕り」がしかけられている場所は限られており、道を通いなれたドライバーはどこでスピードを落とすべきか、よく分かっていたものです。

ところが、近頃、監視の場所が、車だけしか走行しないような道路から、ショッピング・モールの近くなど、人がよく集まる場所に変わって(広がって)来ているように思うことが多々ありました。もちろん、地方によって事情は様々に異なると思いますが、筆者が特にここ数年で不審に思ったのは、歩道を走っている自転車への取り締まりでした。
始めの頃は、「盗難自転車でないかどうか、調べている」と人々の間で噂されていましたが、法改正とも関係があったと考えられます。

平成20年6月1日の道路交通法改正により、現在、歩道を通行できる自転車は、非常に限られたものとなっています。
 ★自転車及び歩行者専用の標識が無い歩道では いままで通り車道通行。
 ★ただし以下の場合は通行可能になります。
  ・普通自転車の運転者が13歳以下及び70歳以上の人、身体障害者。
  ・車道走行が危険な場合(路上駐車が多い、交通量が多く危険など)やむを得ないとき。
  ※警察官等が歩道を自転車で通行してはならないと指示された場合は指示に従う。

しかし、この改正の内容は非常に曖昧です。
日本では道交法により、自転車は軽車両の一部とみなされており、原則、車道通行が定められていますが、ご存知のように、日本の道路はどれも道幅が狭く、車でさえ窮屈な思いをして走っていることが多く、自転車が安全に通行できる車道などほとんどありません。自転車は原則、車道通行という法内容そのものが、ある意味では、自転車の安全走行を全く考慮に入れていない、時代に合わないものだと言えるでしょう。

ですから、自転車は実際には車道でなく歩道を走っている場合が多いのですが、それについてはこれまで曖昧な規定しかありませんでした。一体、どのような場合であれば、自転車が歩道を通行することが公に認められるのか、20年6月1日に改正された道交法こそ、はっきり述べているだろうと期待しても、実際には、一向に明確になっていません。

最近、知ったところでは、日本における自転車事故の80%は車がからむもので、乱暴な自転車運転による歩行者との接触などの事故は、自転車事故の2割以下程度であるそうです。
つまり、自転車運転の最大の危険性は車との接触にあるのです。

ところが、歩道における自転車を取り締まろうという動きが近年、見られます。警官が帰宅途中の中学生を歩道で呼び止めて、自転車をチェックしていたりする風景に筆者はある時期、毎日のように出くわしました。これは一体、何なのでしょう。何を取り締まっているのでしょうか。筆者にはよく分かりません。
道交法とは全く別のところで、別のねらいがあるように思われてならないのです。

さて、田原総一朗氏が「田母神論文」に関するコラムの中で、「実は今、自衛隊、そして警察が非常にいら立っている」と書いています。
 なぜ、警察や自衛隊が苛立っているのか?
 結論から言えば、それは、国民の不満がたまりにたまって、まず言論的クーデターが起こり、「この言論クーデターが、遠くない将来本物のクーデターになるのではないか、という危機感がある」からです。
「今は、昭和一ケタの時代に似ている」と氏は述べています。つまり、国中に貧しさが溢れ、閉塞感が満ちており、経済的にも、精神的にも新しい需要を開拓するために大陸侵略へと、戦争へと乗り出して行こうとしていた戦前の時代に、今の時代の雰囲気はとてもよく似ているというのです。

 筆者も記事の中で再三に渡り、現在の社会の動向の危険性について述べてきました。このまま社会不安、経済不安が続けば、国民的暴動が起こる可能性がある、革命が起こる可能性さえ十分にある、ということも書きました。昭和一ケタの時代では、戦争という国家的大事業がガス抜きの役割を果たしたのですが、21世紀には何がその役割を果たすのでしょうか…。
 とにかく、鬱憤だけがたまりにたまっていき、それがどこへ向かうかはけ口が未だ分からないことが、警察や自衛隊を不安に陥れて、国民の暴動への恐れから、過剰な取り締まりに追いたてている傾向が見られるのです。

 田原氏の前述の記事の中には次のような事実も書かれています。「(2008年)10月26日に、雨宮処凛さんという女性が『麻生首相の家を見に行こう』と呼びかけ、ニート・フリーター・派遣労働の人たちを中心に約50人と行進を行った。
 事前に渋谷警察の警備課長から、『車道を歩かない、スピーカーを使わない、横断幕を広げないように』と言われた。これらを使用すればデモになるからだ。さらに、『麻生首相の自宅の区域に入ったら50人一塊ではまずいので、5、6人に分かれて歩くように』とも忠告を受けていた。
 彼らはこの忠告に従って行進を始めたわけだが、歩き出して間もなく、麻生首相の自宅区域に行くまでもなく、3人の若者が公務執行妨害の容疑で警視庁公安に逮捕された。僕は、逮捕時の映像も見たが、公務執行妨害もなにも、プラカードを上げとたんに捕まっている。
 渋谷警察の警備課長の忠告通りにやっても逮捕された。この様子を見て、公安も相当いら立っているな、と思った。」

 もちろん、首相官邸への行進ですから、世間からの注目もあり、警戒がされないはずはありませんが、それにしても、危険行為などまるきりないのに、逮捕とは、まるでかつての学生運動を見るようです。国民によるデモを今、どれほど国側が警戒しているか、その緊張と過敏さが見受けられます。

 このようなことの他にも、国民投票法案、裁判員制度等、これまでになく国民の意志が監視されることになりそうな危険のある政策が次々、推し進められています。いずれ、酒鬼薔薇聖斗事件などについても、じっくり書ければと思っているのですが、厳しい法改正の傾向はもっと前から始まっていました。

 ところで、このブログにはアメリカ政策への批判、教界への批判等、トピックだけでも深刻な、誰も話題にしたくないし、考えたくないような内容がたくさん書かれています。今後もそのようなきわどい内容を掲載していくことになるでしょう。
 しかし、そんな内容のためか、筆者自身が検索エンジンを試してみても、このところ、ブログはひっかからないことが多く、今後は検索エンジンそのものからブログが削除される可能性も大いにあるのではないかと筆者は考えています。 (すでに何度かGoogleからは検索から外されているようです。)

 これは相当に深刻な言論統制が進んでいるなと憂慮せざるを得ませんが、もしも言論統制が日本にとって避けられない未来であるならば、筆者はそれに命かけてまで対抗しようとは思っていません。筆者は政治家ではないため、政治運動のために命を捨てるよりも前に、なすべき仕事があると思うからです。
 筆者はもとより自分の投げかけたスローガンにより、人々が突き動かされて、署名運動や、新しい宗教改革運動や、政治運動、何らかの組織的デモが起こるようなことを全く望んでいません。そこで、もしも筆者がここに書いたような内容にたとえ同意して下さる方があったとしても、そのような同志が集まって、特定の団体に対して、何らかの運動に至ることには、断固、反対の意志を表明します。

 教界の問題に関しても、筆者は最後まで、徒党を組むことなく、門外漢の立場を捨てずに、一信徒としての立場から問題を訴えるにとどまるつもりです。
 元々、神学の専門家でない筆者の言い分には、賛否両論あって当然です。ですから、聖職者側からの反論は当然あるべきなのです。聖職者がこのような問題の存在に気づき、このブログが訴えているような、耳障りな警告、不愉快で、暗い問題に対して、何らかの対策を早急に講じる必要があることを感じ、自分自身のホームページやブログや、講壇などの場所で、必要な弁明や改革を行い、教会を主の御心にかなうきれいな場所にしようともっと努めてくれればそれだけで筆者の目的は達せられます。
 筆者のように被害に遭う信徒が教会からいなくなれば、それで良いのです。
 筆者は教界の破滅が避けがたいように感じ、そのように書きながらも、それでも、一個人としては、何とかして主の憐れみにより、教界が福音に立ち直り、真の信仰に戻る道はないだろうかとも願っています。

 そして仮に、たとえ問題が一切、改善されなかったとしても、筆者は教界に立ち向かうことを人生の目的にしてブログを書き続けるつもりはなく、カルト被害者というレッテルを生涯ぶらさげて生きていくつもりもありません。被害者運動を生きがいとし、生きる糧とするつもりもありません。
 すでに書いてきたように、筆者は現在、教界内で行われているカルト被害者救済運動の中に正義を見ていません。この運動は被害者を決して救済していないどころか、被害者をさらなる危険に陥れるものであると判断しているため、被害者はこの活動にはできるだけ関わらない方が良いということを述べてきました。教界によって傷つけられた被害者の救済の方法としては、とにかく教界から一刻も早く離れた方が良いという、まことに貧弱な解決しか今、筆者は提示することができません。
 筆者自身も教界の問題に巻き込まれた一人ですが、このブログは自分の問題に何らかの解決を模索するために書いているのではなく、問題の所在を訴えるために書いており、市井の人として、書くべきことを終えれば、自分の生活に戻るつもりです。ブログの目的はあくまで、クリスチャンに教界の問題について広く考えてもらうきっかけを作ることにあり、この問題に関して、筆者は最終判決を下す立場にはないことを忘れたくないと思います。

 このように、当ブログは社会運動とはまるきり関わりがないものですが、それにしても、筆者の意見は、教界から見ても、今日の日本社会の動向から見ても、完全に「異端児」に属しているものと思われますので(信仰にあっては、決して異端児でありたくありませんが)、もしも「ヒコクミン」と見られるおそれがあると困る、言論統制が進んで行ったとき、このブログのためにとばっちりを食うなんてごめんだ!と思われる方々は、このような思想的に危険なブログへのリンクは決して貼らず、場合によっては、訪れることさえも警戒された方がよろしいかも知れません。

 「光の天使の罠」は元来、教界のカルト化の問題を訴えるために作った期限つきのブログです。どうしてサヴォナローラの名前がサイトに入っているかと言えば、それは筆者は問題を提起するだけにとどまり、具体的な改革に決して加わらないということを自分自身に言い聞かせるためもあります。
 聖職者でない筆者は教界を導いていく立場にありません。そしてその資格がないことを自分にはっきりと言い聞かせておかなければ、古い体制を破壊して、新しい体制を築こうと言う人たちが現れたとき、うかつにも、自分にもそのような資格があるかのように錯覚し、そのような運動に加わろうとするかも知れないからです。

 カルヴァンの恐怖政治のようなことがなぜ起こるのか。以前の問題だらけの体制を打ち壊して、よりよい新しい体制を立てようとする人たちが、なぜ前よりも悪い恐怖政治に陥っていくのか。
 そのことを記事の中でも少しずつ考えて来ましたが、一言で言えば、問題提起をする人と、建設する人はあくまで別者だということです。
 筆者の役割は平信徒としての問題提起にとどまります。もし筆者がそれを忘れて、暴動を起こそうと考える人たちに与したりすれば、たちまち、それは教界を改革するどころか、もっと悪い場所へ変えてしまう恐怖政治へと結びついていくことでしょう。

 安易に破壊することではなく、最後まで、立ち直りの道を模索することこそが必要なのです。努力しても、駄目なものは駄目かも知れませんが、教界の腐敗という問題に立ち向かうために、答えを考えるのは、クリスチャン一人ひとりの仕事です。教界をより良い場所に変えていく工夫を行うのは、何よりも、リーダーである聖職者たちの仕事であるべきです。
 ニッポンキリスト教界の明日を作っていくのは、この教界に属している一人ひとりのクリスチャンです。希望ある明日を作ることができるのか、それとも、破滅が待っているだけなのか。その答えを作り出し、対策を打ち出し、実際に未来を作り上げていくのは、一人ひとりの仕事です。

 それは筆者が頭で考えて、導いていけるような事柄ではありません。また、聖職者たちだけが決めることでもなければ、誰か一人やもしくは数人の優秀なブレーンとなるクリスチャンの頭で計画して運ぶことができるような事柄でもありません。立ち直りの鍵は、個人が真剣に救いに立ち帰り、一人ひとりが真の信仰に立ち戻ることにあり、何らかの集団的な運動を起こすことが教界を救うのではありません。ですから、筆者は教界に対して運動を起こすつもりはありません。

 それがいつになるかはまだ分かりませんが、時期が来れば、このサイトを閉じ、別のサイトに移ることになります。それまでにこれまで書いた文章をもう少し整理していきたいと思います。今後の予定をざっと述べておけば、今後こちらのブログには、国策としてのマインドコントロール、そして教界での弟子訓練、トランスフォーメーションなどのプログラムの危険性について、詳しく分析する内容を挙げていきたいと思っています。

 弟子訓練、繁栄の神学、トランスフォーメーションについては、これまで「危険だと思う」という意見や、「近づかない方が良い」という警告はありました。けれども、何がどのように危険なのか、何がどう聖書から外れているのか、詳細に渡って明確に分析している書物が未だ存在しないように見受けられます。

 筆者は神学者でないので、述べられる事柄は極めて限られていますが、しかしトランスフォーメーションなどの比較的新しい用語は、まだこの教界において実行されて間もないですので、このようなプログラムのためにカルトに陥る教会が現れるより前に、それが危険だと思っているなら、何がどう危険であるのか、きちんと分析し、明確に理由を示すことによって、誰かが警告しておく必要があると思います。
 本当は、筆者のような門外漢がそれをするのでなく、牧師たちがそのようなことを公の場で論じてくれるのが、一番良いと思っていますが、まだまだ、そのような反対の動きが見られないどころか、ますますこのプログラムが推進されていく気配があるため、微力ながら筆者はそれに一石を投じようと思います。

 さて、最後に「言論的クーデタ」の危険について一言書いておきたいと思います。
 政治的なクーデタが起こる時には、いつでも、その理由付けが必要となります。すなわち、何のために前の政権を打ち倒して、新しい政権を成立させる必要があったのか。その理由付けとなる美しい理念、理想、つまり「建国神話」が必要となります。そのために、前の政権がどれほど悪く、民衆を苦しめていたかを説き、それが打倒される必要があったことを人々に説き、新しい政権は、旧政権という怪物を打ち倒した正義の人たちに率いられているのだと、正義の錦の御旗を掲げることによって、クーデタを人々に容認させる必要があります。

 同様にして、クーデタや革命だけでなく、あらゆる社会変革運動が起こります。
 近年は、「心の時代」とも呼ばれるように、これまで傷つけられ、捨てられてきた社会的弱者が利権を回復する風潮が見られます。かつて黒人の権利運動、女性の権利運動がそうであったように、社会的弱者のためのアファーマティヴ・アクションが社会の至るところで、要求されているのです。

 高齢化社会にあっては、ある意味、若者を高齢者のエゴから守るシステムがなくてはなりません。自然の法則だけにまかせておけば、どうしても人数的に多い方の世代が自分に有利な社会を作ろうとすることは避けられないからです。
 老人だけにとって都合の良い社会ができないように、人数の少ない若輩者の世代を、特別に保護するための何らかの政策や法律が必要となります。
 若者を守るためのアファーマティヴ・アクションが今、早急に必要とされています。それを実施するためには、理念的裏づけのある運動が必要となりますが、今はまだ、高齢化社会を生き抜くための若者の権利運動は(残念なことに)ほとんど形さえ見られません。
 けれども、弱者のパワーで社会を変革するという気運があらゆるところに満ちていますので、その中から近いうちに必ず、若者の権利運動がきっと起こることでしょう。

 このように、社会運動においては、虐げられてきた弱者の側からの何らかの正義が提唱されるのが常です。
 ですが、正義とは何なのでしょう。クリスチャンは聖書のことばは絶対的な正義であると考え、御心が天に成るように、地にも成就するようにと祈ります。しかし、聖書的に見ても、終末を終えるまで、この地上も人間も不完全なものにとどまり、神の御心が完全にこの地上に成就することは決してありません。

 つまり、クリスチャンは鏡に見るように、おぼろげに神の言葉を理解し、おぼろげに御心を理解することはできたとしても、この地上に生きる限り、決して、絶対的な正義にはたどりつくことができない存在であり、地上の人間社会には正義は完全な形では存在しえないということを聖書は言っているのです。(ここからも、「地上に神の国を建設できる」と言う人たちの誤りを見ることができます。)

 なぜキリスト教界がここまで腐敗し、堕落したのかという問題を考える上でも、重要なヒントとなるのは、この正義の問題です。教壇に立つ聖職者たちが、自分たちの信じることが、正しいと思い込むあまり、クリスチャンはこの世にあって、不完全な信仰、不完全な正義しか持ち得ない、理解の足らない者であることを忘れてしまい、自分の正しさに自惚れるあまり、自己を省みて、反省し、自己の誤りを自分自身で検証することを忘れてしまったからこそ、このような腐敗が起こったのではないでしょうか。

 同じように、傷つけられた弱者だからと言って、その言い分がいつも正しいとは限りません。弱者の巻き返しのパワーを使って運動を作り上げることはそう難しいことではなく、歴史上も何度も起こって来たことですが、数を頼みとして、あるいは怨念を頼みとして、自分たちの主張のまずさをかえりみることもなく、浅はかな正義を掲げて運動に走っていくことは避けなければならないと思います。

 ある人が、人間の振りかざす相対的な正義を、絶対的な正義だと思い込んでしまうことの危険性を、非常に確かで優れた言葉で警告しているサイトがありますので、引用させていただきます。
「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ、検証を拒否する全体主義的正義について」 

「2ちゃんねらーの言動の傾向を俯瞰してみると、確かに正義感を裏付けとしたものも少なくないように感じる。では、その正義感の実体とはいかなるものか…と分解してみる。松永氏も指摘しているが、2ちゃんねるの話しに限らずおしなべて正義感とは徹頭徹尾後ろ暗いものなのだ正義はその対として悪を以って成り立つ存在であり、本人自身(或いはその意見の立脚点)を正しくするには悪の悪たらしめる要素を比較対比し責め立てることをおいて他ありえない

翻ってみれば、正しさとはそれ自身の検証も当然必要な概念である。正しさはそれを言い出した段階では海のものとも山のものともつかない。もっと突き詰めて言えば、未検証の正しさは疑われて然るべきであり、既に検証された正しさは更に執拗な検証に耐える試練を進んで受け入れるべきものだ。正しさはそういう苛烈な検証を経て少しづつマシになることを信じられて*1いるものである。生まれ落ちたら最後その過ちが認められない限り、疑われ続けるべき宿命を負っている。

『みんなが言っている正しさ』という正しさはこの検証をさせないようにする圧力として作用することが多い。絶対正義である。しかし、この絶対正義と言う奴は危険なのだ。何故危険か?『みんなが言っている正しさ』とは別名をファシズムと言う全体主義的・排外的理念はその性質として、検証を排除することによってファシズムを産み落とすのだ。そして、ファシズムは自らをファシズムと名乗ることは無く『正義』を自称し、足場を固めることに余念が無く、みんなを代表する誰か(もしくは一部少数の複数人)の欲するままに暴虐の限りを尽くす。

繰り返すが、正しさとはそれ自身の検証が必要な概念である。それくらい正しさと言うものはあやふやで儚い。そうであるが故に正しさは追求され、叩きのめされるプロセスを常に辿る必要がある。間違えても空気などに流されてはいけない空気はコミュニケーションの肝要であると同時に、ファシズムの母胎にいつでも成り代わる。検証なき正しさは即ち悪だとみなすくらいで丁度良い。それくらい懐疑的に扱わなければ簡単に流されるのだからゆめゆめ油断は出来ない。」
(太字は筆者による)

 学問の世界では、学問は日々進歩しているものと考えられています。どんな優れた研究者によって書かれた論文も、必ず後学の書いた論文によって凌駕され、乗り越えられていきます。しかし、それは先行研究が間違っていたとか、意味がなかったということではありません。
 先人の到達したものを後学が乗り越えることによって、学問的進歩は成り立つのです。一人ひとりの踏み固めた足跡が重なって、一つの道が出来上がるようなものです。

 2チャンネラーの正義だけが疑問視されるべきではありません。筆者の書いたことも、必ず、検証にかけられ、ボロボロになるまでふるいにかけられ、打ち倒され、残されるものだけが残っていかねばならないのです。そして要らない部分は容赦なく切り捨てられる必要があるのです。
 読者の皆さんには、筆者の書いた内容を大いに疑っていただきたいと思っています。筆者は決して無責任にいい加減なことを書いておいて、後は「読者におまかせ」と言って退場していくつもりはありませんが、それでも、筆者に自分で気づけない部分があるならば、筆者の盲点に気づいた人が容赦なくそれを暴き出すのは当然でしょう。
 とにかく、どのような人の意見も、討論の場にかけられ、批判され、試されなければなりません。

 クリスチャンの信仰も、学術論文と同様に、批判によって試されなければならないと筆者は考えています。信仰という、何かよく分からない、目に見えない、定義しにくい領域だからといって、正論らしき事柄を振り回しておけば誰もが黙って拍手してくれるというものではないでしょう。牧者も、信徒も立場は同じです。自分の意見を確信を持って述べることは悪いことではないですが、どんな意見も、批判されることで、検証に耐えうるまともな論理であることを、世に対して証明する必要があるのです。

 ですから、「空気読めない」という恐ろしい言葉によって、その場の「空気」だけが正しいかのように錯覚し、議論を避けて、雰囲気だけで物事の決着をつけることは何としても避けたいと筆者は思っています。その意味で、このような「異端児的」な「檄文ブログ」が、あえて、この社会の空気を打ち破る耳障りな一石となり、空気に流されることへの筆者自身の抵抗となれば良いと思っています。

 しかし、そのように言いながら、もしもその「空気」を作り出すのが、筆者の一石であったりしようものならば、それはまさに最悪なパラドックスとしか言いようがありません。
 ですから、筆者は言葉巧みに一定方向へ向けて大衆を扇動するという愚かな過ちに陥らないために、このブログを期限付きにするだけでなく、このブログに書いているような内容を軸として、人と集団を作ることは絶対にすまいと思っています。現実の世界では、もちろん、筆者も人間としてクリスチャンや人との交わりの中で生きていきますが、イデオロギーや主義を中心として人と団結することは避けるつもりです。

 教界の問題は、一人ひとりのクリスチャンに与えられた課題です。この問題に関して、聖職者には重い責任が伴うでしょう。しかし、この教界の問題の解決を考えるにあたり、クリスチャンは誰かの意見に惑わされて、聖書に登場する豚の群れのように、扇動されて一定方向へ突進していくことが必要なのではありません。誰もが自分自身で考え、自分なりの答えを出し、それを人生において細々と、けれど確かな足取りで実践していくことが大切なのです。 
 そこで、筆者の書いた言葉は参考として、それぞれのクリスチャンが自分自身で物事を考えるためのたたき台としていただければ幸いです。
 問題は誰にでも提起できます。けれど、答えはあくまで「この星が決めること」なのです。

2009/02/11 (Wed) 社会問題

 今から約10年前に、『アメリカは日本を世界の孤児にする』という本が初版された。ビル・トッテン氏によるこの著書は、「アメリカは世界で最も危険な国である」と述べ、戦争を自国の発展の手段とするアメリカ政策の危険性を指摘する。そして、アメリカの政策に引きずられる限り、日本はアメリカの引き起こした戦争の後処理に奔走させられ、やがて自分も戦争に巻き込まれることは避けられず、その時、アメリカは日本を無慈悲に使い捨てるだろうと述べている。
 まだバブル崩壊後間もなかった出版当時、この本が日本人にそれほどまでに深刻な危機感を呼び起こしたとは思えないが、10年経った現在、トッテン氏の危惧はますます現実味を帯びてきている。

 ただ一つ、ビル・トッテン氏が執筆当時それほどはっきりと予測せず、著書の中に述べなかった事実として、超大国アメリカが予想外に早く没落に向かっていることが挙げられる。ブッシュ政権に向けられた世界中からの非難を見ても、日本よりも、アメリカの方が先に世界の孤児に凋落しそうな勢いだ。『世界の孤児アメリカが日本を道連れにする』と、本の題名を言い変えた方が良いかも知れない。

 アメリカの凋落は、すでに述べたように、アメリカ映画の筋書きにも如実に反映している。アメリカ映画は、かつてはアメリカの威信を世界に見せつけるプロパガンダの役割をかねていたが、最近、映画の中でアメリカ絶対主義的な筋書きが薄れつつある。アメリカ国家の威信の揺らぎ、アメリカ人の自信喪失や、アメリカが幾多の戦争により抱え込んだ歴史的罪悪感が、映画の筋書きにも反映するようになって来た。

 映画『ラストサムライ』もそのような例の一つである。この映画は2003年12月に日本公開され、渡辺謙などの日本人俳優を観に、大勢の人が映画館につめかけた。この映画を観た当初、筆者はこの映画には強い現代的メッセージがこめられているように感じた。すなわち、これは没落していくアメリカ政策の言いなりになるのをやめ、グローバル経済、市場原理主義の理念から早く離れるようにとの、アメリカから日本人に対する最後の良心的警告なのではないかと感じた。今日、筆者はその危機感をますます強めているので、ここでそのことを述べておきたい。

 話が脱線するようだが、文学作品を作る際の一つの手法として、二重のメッセージを筋書きにこめるというやり方がある。それは今日的な政治情勢に鑑みて、率直に公言することがはばかられるようなきわどい内容を、作者があえて述べようと思うとき、小説をおとぎ話の形にしてみたり、時代設定を大昔にしたりすることによって、本当は今現在のことを主張しているのだとは、読者にすぐには分からないようにするというやり方である。あからさまに語ると危険すぎるか、野暮になってしまう内容を、分かる人にしか分からないよう、曖昧にぼかすモザイクのようなものだ。

 例を挙げれば、『権力と闘う良心―カルヴァンと闘うカステリオン―』という本がある。一度記事の中でも取り上げたが、著者シュテファン・ツヴァイクはこの著書の中で、プロテスタントの原理的指導者、カルヴァンの独裁、教義の絶対化、異端の粛清などの政策に見られる残酷さを徹底的に非難している。
 ジャン・カルヴァンという、プロテスタントの教界で今日もたたえられている宗教改革の指導者の実体が、カルト的な傾向を持つ危険な独裁者であり、カルヴァンが異端者を火あぶりにさえしていたという事実をはっきりと今日に伝えている点で、この著書は非常に価値が高い。しかし、同時に、カルヴァンに対するツヴァイクの非難の口調があまりにも強すぎるために、この本はツヴァイクならではの面白さがあまり発揮されておらず、文学作品というよりは、政治演説のように見えるという欠点があることも否めないだろう。

 小説を書く際には、通常、登場人物を初めから「善玉」、「悪玉」と決めつけたりはしないものだ。そんなことをすると、筋書きが見え透いた平板なものになってしまい、読者の退屈を誘う。ところが、ツヴァイクは従来の文学的手法に逆らって、カルヴァンに対するあからさまな憎悪を少しも隠そうとせずに筆を進める。カルヴァンはこの小説においては、ほとんど長所を持たない史上最低の悪役のように描かれている。

 ツヴァイクは本来、悪役を面白く描く力量を持った作家であった。『ジョゼフ・フーシェ』の中で、自分の利益のために幾度でも変節し、政敵を次々売り渡し、信念を鞍替えするフーシェを、彼は最後まで飽きの来ない見事な表現力で描き切った。ところが、それほどの表現力の持ち主であるツヴァイクが、悪役カルヴァンを描く際には、非難に力が入りすぎた。そのようなことが起きたのは、ツヴァイクがこの本を執筆当時、ヒトラー政権を避けて故国オーストリアを離れ、英国に亡命していたという事情を考えれば理解できるだろう。

 英国に亡命中、ツヴァイクは悪化していく英独の関係のために、身の置き所のない、不便な外国暮らしを強いられていた。亡命生活の苦しさ、やるせなさ、そしてドイツ=オーストリア、いやヨーロッパ全土の人々に未曾有の苦難をもたらしたヒトラー政権に対する尽きせぬ憎しみを、彼は著作にぶつける他なかった。(亡命生活の苦悩は、後にツヴァイクを自殺にまで追いやっている。)作家としての彼は、ヒトラーへの憎悪を政治演説として述べるのでなく、自分の作品の中で昇華させようと試みた。そこであえて現代を離れて、昔の時代に逆戻り、宗教改革の時代に託して、自分の主張を表現することに決めた。

 この小説には、従って、そのようなただし書きはないものの、二重の時代設定がされている。主役カルヴァンが、裏側ではヒトラーの仮面をつけており、カルヴァンの時代の裏には、ヒトラーの時代が隠されているのである。

 このような時代設定の二重性、筋書きの二重性は、創作においてはまま使われる手法だ。そして、『ラストサムライ』にも同じことがあてはまる。

 映画『ラストサムライ』は明治維新の時代を描いているが、実在の人物を登場させずに、わざわざ架空の人物を創り上げている。それを見れば、この映画の主たる目的が、決して、史実を語ることにないのは明らかだ。架空の世界を創り上げることには、おとぎ話のような印象を視聴者に与える効果がある。この映画が明治維新という歴史的モチーフを扱いながら、あえて、おとぎ話のような世界を創り上げているのはなぜだろうか? 筆者が判断するに、それは「昔の時代に託して、現代を語る」という二重性をこの映画が帯びているためだ。

 つまり、結論から言えば、『ラストサムライ』は明治維新の物語ではなく、明治維新に話を託して、実は、現代政治について語っているのだ。映画が真に述べたいのは、現代日本人に対する警告である。筋書きを具体的に追いながら、筆者がそのように考える理由を説明していこう。

 明治維新。それは江戸幕府という200年間以上も続いてきた昔ながらの伝統的な文化価値が没落し、日本がそれまで慣れ親しんできた幕府による統治に代わり、西欧物質主義文明、産業文明という、新たな文化価値、経済価値が日本に到来しようとする瀬戸際の時代であった。産業文明に支えられた世界経済の仕組みは、大津波のように世界中の国々に伝播し、その土地の昔ながらの暮らしを駆逐し、世界の国々を次々、近代国家という同じ色に塗り替えた。黒船の来航と共に、その文明の波が、ついに日本にも到達した。

 どの時代でも、新旧二つの体制や価値観が交替する時には、たとえ表面的には平和的に交替が進むように見えても、水面下では、激しい衝突を生む。

 確か、司馬遼太郎が『坂の上の雲』の中で述べていたように思うが、日本人は歴史的にいくつかの場面で、驚くべき変わり身の早さを発揮してきた。明治維新もその一つである。
 自分に有利なものを取り入れる際に、日本人は驚くほどの順応性を示す。日本人が明治維新で示した欧米文化への素早い順応性は、一見、日本人が合理的性質を持っていることの証拠のようにも見える。産業文明の圧倒的な威力を見せつけられた時、日本人の多くは旧い価値にしがみつくことなく、新しい時代の力を素早く自国に取り入れ、発展を目指した。

 ペリーの黒船の威力を見せ付けられた時から、江戸幕府は世界経済の威力の前に没落していくことを運命づけられていた。そして、この封建的体制の没落と共に、それまで誇らしげに栄えてきた江戸文化、そして日本の伝統的な価値観がひっくり返されることも避けられなかった。
 しかし、日本人の中には、新しい力の前にいち早くひれ伏し、明日の利益のために、昨日までの生き方をあっけなく捨ててしまうような順応性(いや、むしろ、レミング的な集団変心)を示すような者が多くいた一方で、今までの生き方に誇りを持っているがゆえに、それを駆逐するような新しい時代の到来を何とか食い止めようと、命と名誉をかけて、明治政府の掲げる近代化に立ち向かって、絶望的な死闘を繰り広げた者たちがいた。映画では、それは、政府軍と闘った勝元らに代表される不平士族たちである。

 映画は、没落を運命づけられた旧い文化の側に立って、破滅に立ち向かって闘った不平士族らを主役にして描いている。つまり、『ラストサムライ』は、歴史的勝者の物語ではなく、敗者の側に立った物語なのだ。

 不平士族が命をかけて守ろうとした旧い文化は、武士道に集約される。
 武士道は日本人にとっての伝統的な戦さの方法であっただけでなく、人生哲学であり、美学であった。剣術は人の生き方そのものであった。何百年間と、日本では時間をかけて磨かれた方法論に基づいた戦いが行われていた。しかし、文明開化の波がこの国に押し寄せると、刀を用いた戦さは、鉄砲や大砲という、工場で大量生産された文明の利器を用いた戦争に代わり、伝統的な美学に基づいた戦さの方法は、大量破壊兵器による無差別殺人に近い戦争という、何の美学もなくロマンもない、無味乾燥な戦闘方法へと取り替えられた。

 明治維新は、一見、日本の遅れた国家体制を近代化し、風通しの悪かった日本の風土を文明開化するという進歩的な目的を成し遂げたかのように今でも宣伝されている。そして江戸時代の鎖国は、日本人の精神性に閉鎖性という負の影響を与え、日本の国際化を大きく妨げる要因となったかのように評されることが多い。だが、実際のところはどうだったのだろうか。

 実は、西欧文明文化が日本に取り入れられたのには、国の発展という表向きの理由とは別に、裏の理由があった。それは、外圧を出世の手段として利用したい日本の売国奴政治家たちが、日本の文化と政治を外国に進んで売り渡すために企んだ策略だったのである。

 先に挙げた『アメリカは日本を世界の孤児にする』の中で、著者は次のように述べている。
 「外圧の危険性を語るときに、私は幕末に黒船で日本にやってきたペリーのことに例えて説明することにしている。あのとき、いくらペリーが進んだ武器を持っていたにしても、日本に上陸してしまえば多勢に無勢で命の保障はなかった。少なくとも、ペリーが無理なことを要求してきたら、追い返すこともできたはずである。だが、それができなかったのは、日本国内に黒船という外圧を利用して幕府を転覆しようという集団がいたからにほかならない。その集団のおかげで、ペリーは丁重に迎えられて、アメリカに有利な条約を結ぶことができたのである。」  
 『アメリカは日本を世界の孤児にする』、ゴマ書房、1998年、p.80。

 トッテン氏が述べていることによれば、日本の現代政治はただアメリカなどの大国の思惑によって引きずり回され、骨抜きにされてきただけでなく、積極的に外圧に屈して国をすすんで売り渡そうとした日本の売国奴的政治家たちの策略によって駄目にされてきたのである。

 ラストサムライの冒頭でも、トッテン氏が述べたような、外圧に祖国を売り渡す売国奴大臣が登場する。産業文明、世界経済の威力という「黒船」の前に喜んで跪き、国を西欧化しようとする大臣、大村である。
 大村は天皇に影響力を持っており、ヨーロッパの優れた兵器や軍隊秩序を我が国に積極的に取り入れることによって、日本を近代化させるべきだと天皇に進言する。だが、大村の真の目的は、日本の国力をヨーロッパ並みの水準に引き上げることにはなく、西欧の軍事産業とのコネを結ぶことによって自分の政治力を確たるものにし、日本における軍事産業の発展の中で漁夫の利を得ることにあった。

 大村は確か英語を流暢に話し、タキシードを着込み、あたかもヨーロッパ的紳士のように振る舞っていたように筆者は記憶している。西洋文明の流行をいち早く取り入れたように振る舞う大村は、見かけは先駆的な人物に見えたかも知れないが、実際には、日本文化を死滅させ、日本人を死の危険に売り渡す兵器を我が国に進んで取り入れようとする売国奴であった。

 先の記事で引用した『風の谷のナウシカ』の原作でもそうだったが、野心的な政治家の手っ取り早い出世の手段は、いつでも、国民を死に追いやる兵器産業に手を染めることだ。国の安全を守るため、国防のためと言いながら、国民を最も危険にさらすような恐ろしい兵器を我が国に売りつけ、兵器産業の繁栄によって漁夫の利を得る政治家は、我が国の防衛のために働いているのではなく、己が利益のために国民の安全を売り渡している売国奴なのだ。

 『ナウシカ』ではシュワの墓所から流れ出るバイオ技術をめぐって、地上の人間が相争い、新兵器開発技術を奪い合うために戦争を繰り広げていた。シュワの墓所は人類を救済するという崇高な目的を掲げて一大宗教のメッカとなっていたが、そこに隠されているバイオ技術という英知を知る墓の守り手たちは、その技術により人類を救済するどころか、人類全体を滅ぼすような兵器を開発する知恵として、バイオ技術を少しずつ、卑しい人間に売り渡し、人間と取引することによって、その宗教勢力を保持していた。シュワの墓所が知恵をもらしたからこそ、人類には巨神兵というおぞましい兵器が開発され、トルメキアとドルクが血で血を洗う戦争を開始しようとしていたのである。  

 さて、ラストサムライに話を戻せば、大村は、日本を近代化するという名目で、ヨーロッパ式の軍隊秩序を自国に学ばせるために、欧米から軍事教官を招聘して武器の使い方を日本人に教え、日本軍に戦闘の訓練をさせようと計画していた。だが、それは日本人が世界に対抗できるだけの武力を身につけ、国際的に認められる国になるという建前とは裏腹に、武器商人の思惑に従って、日本人自身を死の危険にさらす大量破壊兵器を国に導入することを意味していた。
 武器は敵を滅ぼすことにも、我が身を滅ぼすことにも使われうる。抑止力としての武器など本当はどこにも存在しない。武器は全て使われるために存在している。

 大村の後押しにより日本にもたらされた兵器は、後になって、政府軍と不平士族の戦いという日本人同士の血で血を洗う戦争に使用されることになっただけでなく、映画には含まれていないが、その兵器産業は、やがて日本を植民地争奪戦のための帝国主義戦争という愚かな争いの泥沼の中に引きずり込んでいくことになる。

 アメリカの軍人ネイサン・オールグレンは、大村の招聘で日本軍を近代化させる仕事に携わるために来日した。大村は日本軍を世界レベルに引き上げてくれる優秀な「戦場の英雄」を雇ったつもりでいたが、彼の思惑とは裏腹に、オールグレンのような人間が雇われたことは、日本に送り込まれた欧米の軍事教官が、実際の欧米社会では、落ちぶれて使い物にもならない、屑のような人間たちであったことを意味する。

 欧米社会が自国の最新技術を日本のような小国にやすやすと売り渡すはずがない。日本が近代化するために真面目に協力するような親切心を列強が持っているはずがない。そこで、本国ではどこにも雇用の道が閉ざされたような「社会の屑」を食わせるために、欧米は日本への教官の派遣を許したというのが実態だった。

 インディアンとの闘いを勇敢に闘った英雄であると大村が盛んに持ち上げたオールグレンは、戦争後遺症としてのPTSDにかかり、トラウマを紛らすためにアル中となってやけくそに生きていた、英雄どころか、人格破綻者に近い傷痍軍人であった。

 オールグレンはかつてのアメリカ映画に盛んに登場していたような、勇敢な正義漢ではない。彼は罪悪感を抱え、トラウマに冒された弱いヒーローである。
 しかも、驚くべきことに、オールグレンの記憶の中では、インディアンとの戦争は、これまでアメリカの西部劇が誇らしげに描いてきたような、「正義の戦い」ではない。ネイサンにとって、インディアンとの戦争は、残酷な、力にものを言わせただけの、卑怯で、非道な、正義のない戦いであった。オールグレンはこの戦争に参加して、罪もない女や子供まで殺さねばならなかったことに、拭い去れない負い目を感じていた。

 オールグレンは、アメリカ人にフロンティアをもたらすという大義名分で行われた戦争が、軍人である彼の誇りを奪う、偽りの戦争だったと感じていた。南北戦争とインディアンとの戦争が、軍人としての彼に誇りを失わせた。開拓者たちが肥え太る目的のためだけに、何の美学もなく、罪なき、声なき、弱い者たちを殺し、彼らの住まいを力づくで奪い、彼らの文化を野蛮な風習として禁止し、廃止し、武力を備えた者の文化だけが正統で、優れた文化であり、強い者だけがこの地球に堂々と住居をかまえる権利があるかのようにふるまったことは、軍人の道に外れる行為であり、戦争の美学に反しているとオールグレンは感じていた。

 彼は軍人としてあるまじき卑怯な戦いを戦ったことに罪悪感を感じ、そのことで自分を恥じ、PTSDに苦しみながらも、「では、どうすればその罪の意識を払拭し、軍人としての誇りを取り戻せるのか?」という課題に、答えを出せないでいた。彼は自暴自棄になってアルコールに走り、ただ金さえもられば良いという甘い考えで、明治政府のお雇い外国人として来日した。
 
 筆者が知っている限り、アメリカ映画が「フロンティア精神」をこれほどまでに明らかに反省し、悔い改める作品を作ったのは、これが初めてである。このようなアメリカ国民の心理の大きな方向転換の陰には、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争などがあることは否めないだろう。つまり、オールグレンの罪悪感は、現代アメリカ人が、近年に参加した戦争に対して抱えている歴史的罪悪感を暗示しているのだ。

 オールグレンは日本軍の訓練に携わったが、その頃、明治政府軍は全く戦う体勢が整っておらず、近代化に対抗して攻撃をしかけて来た不平士族、勝元らの兵に敗退する。ネイサンと共に軍事教官として来日したガントは戦死し、オールグレンは捕囚となって、勝元の村に連行された。
 その後、捕虜とされたことをきっかけに、オールグレンがどのようにして勝元や村人と親しくなり、武士道の精神や、日本の伝統文化を次第に理解していくかは、映画で詳しく描かれているため、省略する。

 オールグレンは村に滞在して日本人の昔ながらの暮らしぶりを見つめているうちに、次第に、明治政府が掲げている近代化の概念が歪んでいることに気づいた。廃刀令が出され、勝元らのような士族の誇りであった帯刀は違法として禁止された。かつてオールグレンがインディアンの文化を「野蛮なもの」として排斥したように、日本に古来からあった文化は、今、時代に合わない、無秩序で、劣ったものとして、政府によって排斥されようとしていた。だが、ネイサンが実際に目のあたりにした村人たちの暮らしは、決して「劣ったもの」ではなかった。そこには独自の高い文化があり、誇りがあり、自給自足の暮らしがあり、秩序があり、人生哲学や、美学があった。技術が一人ひとりのの生き様と一体となった暮らしがあった。

 武士道は、戦術を知ることが、生きることそのものだと教えていた。ただ優れた武器を手に入れただけで、戦いの方法を知ったかのように思うことは、幼稚な考えであり、人間の思いあがり以外の何物でもない。武器は、それを持つ人の生き様と一体にならなければ意味がなく、ただ強力な武器を手に入れるだけで、人が進歩することはない。道具は、道具を使う人間の優れた人格と一体となって初めて、その力を発揮できる。人がその生き様を示すために多くの道具を手に入れることは必要ない。ただ刀の一本がありさえすれば、抱えきれない武器弾薬によって己の力を誇示するような虚しい生き方は必要ない。武器は人が力を誇示するためにあるのではなく、自分の生き様を少しでも高め、人格の錬成を目指すためにこそある。武器は自分を高め、最後の手段として使うものであって、人を一人でも多く殺すために使うものではなかった。

 オールグレンは士族との暮らしの中で、刀が人生の美学と一体になっていることに気づく。髷や、袴などの装いも人々の暮らしの欠かせない一部となっていた。だが、そのような伝統が、日本人を欧米の新しい文化にできるだけ早く慣れさせ、旧来の価値観は忘れてもらいたいと考える大村たちには都合が悪かった。大村には、日本人が刀の魅力に気づくよりも前に、欧米の武器の威力にひれ伏すことが肝心だった。日本人の目を欧米の文化の魅力に釘付けにしておかねば、新しい武器をこの国に大量に買わせることはできない。そこで大村の勢力は士族の文化を禁止し、帯刀や髷を違法としただけでなく、自分たちの文化を守ろうと政府軍に闘いを挑んでくる厄介者、勝元を暗殺しようと企んだ。

 勝元は天皇に謁見して、売国奴大臣大村が心の内で思い描いている策略をぶちまけ、彼らを信用して日本を売り渡すようなことがないようにと、天皇に忠告した。うわべは「法律を遵守することの大切さ」というきれい事を主張しながら、暗闇で刺客を送り込んで人を暗殺しようとするような大村の態度と異なり、勝元は命をかけて、相手に自分の生き様を示すことによって、自分の言葉に耳を傾けてもらおうと試みる。武力によって、相手を威嚇し、力づくで言うことを聞かせることは、武士の美学に反する。力でねじ伏せるのでなく、生き様によって影響を与えることが彼らの目的である。勝元は天皇の判断に全てを委ね、もしも提案が拒否されれば、死を選ぶことも覚悟の上であると述べる。
 だが、勝元の気迫に気圧されながらも、天皇は優柔不断さから、自分では何も決定しようとしない。

 初めはゲリラ的急襲によって明治政府軍に打撃を加えていた勝元らは、天皇への説得が失敗したことにより、大村との対決、明治政府軍との正面衝突は免れられないと悟る。だが、その頃、明治政府軍はすでにかなりの武器を手に入れ、近代的な軍隊として体勢が整い始めていた。欧米の兵器を知っているオールグレンには、刀を用いた伝統的な騎馬戦では、とても政府軍に勝てる見込みがないことが分かっていた。

 しかしそれでも勝元とオールグレンは、自分たちの生き方を否定する近代化を食い止めるために、勝ち目のない戦いにあえて赴くことを選んだ。それは、戦いに勝つことを目的とした戦争ではなく、戦いを通して、同族である日本人に自分たちの生き様の価値を見せることにより、何が本当に正しい、価値あることなのか、彼らに気づいてもらい、できるなら、日本人がそれまでに培って来た伝統文化に立ち返ってもらうことが目的であった。

 オールグレンは勝元と共に戦うために、鎧兜に身を包み、騎乗の人となって現れる。それはかつてインディアンの「劣った」文化を否定し、それを根絶する側に回ったネイサンが、今度は日本人という「新しいインディアン」の文化を理解し、擁護する側に立つことを意味した。そうすることによって、日本の土着の文化が、欧米の文化に比べて、少しも遜色ないものであり、根絶される理由などどこにもないことを、彼は身をもって証明しようとした。

 それは、過去に滅ぼしたインディアンに対するオールグレンの贖罪行為であった。彼はそれまでよりすがってきた西欧文明の優位性を否定する立場に立ち、たとえ力弱くとも、個人が自分の選んだ生き方を守ろうとするのは当然の権利であり、誰もその生き方を力づくで奪う資格など持たないことを主張しようとしていた。

 勝元ら不平士族の軍勢の前に、近代化された明治政府の軍隊がずらりと整列した。それはヨーロッパ化され、最新の武器と、一糸乱れぬ軍服と、軍隊秩序を身に着けた日本人たちの姿であった。文明開化に魅せられたお役人たちの命令に従って、刀を捨て、髷を切り、それまでの生き方を時代遅れなものとして捨て、刀の代わりに、銃を構え、美しい制服に身を包み、「当世風」のいでたちをした日本人たちだった。
 しかし、その軍隊は、よく見ると、誰も彼もがまるで人形のように同じ服装、同じ表情をしており、まるでロボット兵士が整列しているような、無味乾燥で、異様な軍隊であった。

 それは、短期間で大量に工場生産されたような、個性のない、にわか兵士から成る軍隊だった。長年かけて、剣術の腕を磨くことも、武道を学ぶこともなく、ただ銃という文明の利器を持たされただけで、生きながらの殺人兵器に仕立て上げられた人たち。
 同じ制服を着て、同じ銃を構え、人を殺すことの意味すら分からないまま、無表情に行進していく、同じ顔をした兵士たち。勝元らの目から見ると、それは軍人でもなければ、人間でさえない、ただの人間機械でしかなかっただろう…。

 筆者の目には、このロボット軍隊のような明治政府軍が、高度経済成長期の企業戦士サラリーマンたちの姿に重なり、また、就職氷河期のただ中で、黒烏のような真っ黒なスーツを着てずらりと就職面接に臨んで自己PR文を述べていた若者たちの姿に重なった。受験教育、就職戦争、どれほどの戦争が日本にこのような無表情な軍隊を作り上げてきただろうか?

 騎馬にまたがって鎧兜に身を包み、刀を構えた勝元とオールグレンは、この無表情な政府軍の前に立って、同胞の一人ひとりに向けて、無言のうちにこう訴えているかのようであった。
 「いいか、よく目を開いておれたちを見ろ、おれたちの服装を、武器を、戦い方を見ろ!
 これがおれたちの生き方なんだ! おれたちは誰にも迷惑をかけていない! 自分の信念に従って、自給自足の生活をしたいだけなんだ。
 なのに、時代に合わないというだけで、どうしてこの生き方が否定されなければならない理由があるんだ!?

 見ろ、おれたちは自分たちが作り上げた伝統を守るために、命を懸けようとしている。
 この弓も、刀も、鎧も、兜も、馬も、全ておれたちが工房で厩で丹精込めて作り上げてきたものだ。何百年もかけて、祖先から受け継いできた技術だ。

 おれたちに対抗している、軍隊のおまえらも、やっぱり、命を懸けて戦おうとしているのだろう。
 だが、考えてみて欲しい、おまえたちは、おれたちを殺すことによって、何を得るのか? 何を守ろうとしているのか?
 その制服は、その銃は、その武器は、おまえらが工房で精魂込めて作り上げたものなのか?
 そこに立って命令している上官は、おまえらを長年かけて鍛え上げてくれた人生の師匠なのか?
 おまえらを守るためなら、死んでもいいと思ってくれる勇敢な指導者なのか?

 おまえらは気づかないのか? その教官たちの生気の抜けた顔や、横柄で不遜な態度に。
 そいつらは臆病者で、命かけておまえらを守る気なんか少しもなく、自分の命令一つで、おまえらを無慈悲に死に赴かせようとしているだけなんだ!

 いいか、おれたちは、自分の生き方を守るためなら、死んでも構わないと思う。
 自分の信念を貫いて死ぬなら、それは恥ではなく、むしろ、誇りだ。
 だが、ただお上の命令に考えもなく機械のように従って、同胞であるおれたちに銃を向けているおまえらは、戦場で死んだ後に、一体、何が残るというのか…?

 答えてみて欲しい、おまえらは、西欧文明万歳と言って、西欧文明のためなら、同胞を殺し、自分も命を捨てられるというのか…?
 自分の命が、そんなことのために使い尽くされていくのを情けないと思わないのか?

 いいか、思い出せ、日本人は古来から、権力に従順で、規律をよく守る人たちだった。だが、その規律正しさは、個性を抹殺するために用いられるものではなく、むしろ、個性を守り、豊かに実現する暮らしを作るためのものだったはずではないか?

 日本人にとっての秩序とは、馬鹿馬鹿しい戦争で一億玉砕してでも、『お上万歳』と叫ぶような愚かな信仰ではなかったはずだ。
 思い出せ。武士道は、効率的に殺人をし、道具を使って人を支配するためのマニュアルではなかったはずだ。武士道は人が人として生きるための美学だった。
 
 どんな人間も、一夜にして生産されたりはしない。
 人が人として生長するために、どれほどの鍛錬を積まねばならないことか…。武士道は日本人が生きるにも死ぬにも、美学を持たせてくれた。

 道具は生き様と一体になってこそ価値があるものだ。
 なのに、強力な武器を持たされただけで、ひとかどの人間になったと思いあがっているおまえらは何者なのか? 文明の利器を巧みに扱い、外国語を流暢に話し、試験で高得点を取り、流行の粋な服装をし、ヨーロッパ式の礼儀作法を守ってさえいれば、人格が向上すると、おまえらは本気で信じているのか?

 もう一度、目を覚まして、ちゃんと自分の頭を使って考えてくれ。なぜ刀を持つことが許されなくて、銃ならば許されるんだ?
 なぜ日本人がこれまで育んできた文化や伝統が、別の文化に照らし合わせて、劣ったものとして否定されねばならないのか?
 日本人全体が、外国におもねって自国の文化を恥じ、画一化された軍隊秩序を強いられることが、この国の幸福につながると、おまえらは本気で思っているのか?
 人が自分の望む生き方をすることが、罪悪とされるような社会とは何なのだ?
 人が人に対して生き方を強制することができるとおまえらは本気で信じているのか?

 よく考えてみろ。こんな風な個性を捨て去った画一化、誇りさえ消えうせたような西欧化が日本にとって本当に望ましい道なのか。
 欧米崇拝に陥って、外国人教官の指揮の下で働かされ、日本人としての誇りを奪われてまで、外国の力の前にひざまづくことが、おれたちにとっての幸福なのか。
 
 いい加減に、気づいてくれ。産業文明の威を借りて、成金になることを夢見た財閥と政治家たちが、おれたちの文化を売り渡したんだ。奴らは日本人の従順さと適応能力を、己が利益を得るために、悪用したんだ。
 騙されるんじゃない、文明の力をかさにきて、おまえらに自国の文化を軽蔑させて、無理やり大国のやり方に従わせようとしている日本人は、おれたちの味方なんかじゃない!

 近代化のため、富国強兵のため、グローバル競争に耐えるため、日本の国際化のため、国防のため、安全のためと言って、その実、奴らはますますおまえらを殺すための武器を、この国に大量に売りつけている。そしておまえらをまるで蝿のように次々と戦争で殺していく腹づもりなんだ。
 奴らが企んでいるのは、この国の文化の破壊、この国の自立の破壊と、植民地化だ。産業文明の狙いは、人間の機械化、人間の大量生産、人間の大量使い捨てであって、それは決して、おれたちの幸福に奉仕するものじゃない!

 目を覚ませ! そんな無味乾燥な軍隊がおまえたちを幸福にしてくれることはない!
 目を覚ましてくれ! 道具を使うのは人間であって、道具が人間を使うんじゃないんだ! おれたちが力ある武器の前に跪いたが最後、その武器の所有者は、おれたちの命を最後まで使い捨てにしようと、この国を支配するだろう!
 誇りを取り戻してくれ! おれたちの人生はおれたち一人ひとりのものだ。
 どんな大義名分があろうと、おれたちが自分の人生を奪われるいわれはない。
 おまえら、誇りを取り戻すんだ! 人に人生を使い捨てられることに慣れるな!」

 勝元らは最後まで、自分の生き方を命懸けで提示することによって、政府軍にいる同胞が、自分たちの生き方に理解を示してくれるとの希望を持ち続けた。
 だが、古くさい武器しか持たない勝元らの軍を、文明の利器で武装した政府軍はあっけなく打ち破った。
 政府軍の兵士たちは初めこそ、命がけで銃を構えていたが、勝元の軍隊の隊列が崩れた後は、まるでオルゴールのネジでも回すように、銃弾を発射する機械の取っ手を、自動的に、無表情に回していただけだった。

 一人一人の人間の、命をかけた叫びが、ただのスイッチの一押し、ネジの一回しの前にあっけなく押し潰されて行った。人間一人ひとりが、ごま粒のように、すりおろされ、殺されていった。
 しかも、機械の取っ手を握っているのは、人を殺すことの意味さえ分かっていない、一夜漬けで操作マニュアルを教え込まれたにわか兵士だ。

 第一次大戦が起こった時、兵士らは大量殺戮兵器を用いた機械戦争の不合理さを初めて認識した。その時が来るまでは、あらゆる国々で、戦争はロマンとして語られ、戦争には美学があった。将軍は英雄であり、兵士らの行進は少年達の憧れの的だった。作曲家も軍隊にちなんだ曲を数多く作った。
 しかし、第一次世界大戦によって、大量破壊兵器がこの世界にもたらされた時、人が人ではなく、モノのように殺されていく戦争からは、どんな理想も、尊厳も、美学も、ロマンも奪われた。
 文明の利器は、戦場を無差別殺人の場に変えた。かつての英雄談は、戦争から消え去った。戦争は、人間の尊厳をただ貶め、人間を道具にするだけのものに変わった。

 勝元らの軍勢は政府軍にモノのように殺されていった。だが、その死が逆説的に、機械戦争の不合理さを訴えた。感情豊かな人間が、ゴマ粒以下のような最期を遂げなければならない戦いの不合理さを訴えた。
 勝元は死んでいくことによって、大量破壊兵器による大量殺戮を助長する産業文明が、人類に幸福をもたらすことはあり得ないという事実を逆説的に示そうとした。そのような戦争が「国防のため」であり、「文明開化」による進歩の成果であるという説が、真っ赤な嘘であることを示そうとした。

 政府軍の武器は不平士族を容赦なく殲滅したが、それでも、彼らの死に様が兵士らに何かを感じさせた。
 勝つために戦うのではない。殺すために戦うのでもない。ただ生きるのにも死ぬのにも、自分の生き様を一心に込めること、自分の身体と心の奥深くから沸き出て来る、自分個人の信念のありように基づいて、生きて、死ぬこと――それを目指した勝元らの人生の美学、信念が、同胞日本人の心を打った。

 兵士らは勝元らの生き様と死に様に敬意を表して、頭を垂れた。
 そしてオールグレンはこの戦いに参加したことによって、インディアンの文化を陵辱した罪悪感からようやく解き放たれて、軍人としての誇りを取り戻した。

 生き残ったオールグレンは、勝元の遺刀を、天皇に託すため天皇に謁見する。その時、映画ならではのあり得ない事件が起こった。
 あの優柔不断で幼かった天皇が、なんと、勝元らの生き様と死に様に勇気づけられて、アメリカとの条約の批准を断わったのだ。それが日本のためにならない、アメリカから押しつけられた不平等条約だと気がついて。
 その日米条約の具体的内容は、映画では不明であるが、その条約が日本の国防のためを装いながら、その実、日本を食い物にしたいだけの成り上がり者の政治家による売国的戦略であることに、天皇は気づいたようだった。

 ここで天皇が拒否した不平等条約とは、日米安保条約や、日米ガイドラインを暗に示しているものと考えられる。

 つまり、映画は我々に、あらゆる不平等条約を、勇気を持って破棄するよう教えてくれているのだ。
 日本よ、目を覚ませと言っているのだ。これ以上、アメリカのマインドコントロールに負けるな、文明開化という甘言に騙されるなと…。
 資本主義的グローバル経済は日本を幸福にしない。欧米文化崇拝は日本を幸福にしない。欧米崇拝音頭に踊らされるのをやめて、日本人は自分たちの伝統文化の価値に立ち返る必要がある。自分たちの文化の独自性に誇りをもち、自らの文化を恥じて、それを捨てようとするのをやめなければならない。なぜ日本人は明治維新からこれまで、自分に合った服装を捨てて、自分に合わない他人の衣装ばかりを借りようとするのか?
 日本人よ、誇りを取り戻しなさい。自国のためにならない押しつけ条約と、押しつけ文化を拒否するだけの勇気を持ちなさい。大量破壊兵器という「黒船」の前にあなたたちはこれ以上、跪かなくてよろしい! …映画はそう言っているのだ。

 この映画は、とどのつまり、日本人に対するアメリカ人による良心的平手打ちであった。日本を食い物にする大国の思惑と、売国奴的政治家に騙されないようにとの良心的忠告だった。
 アメリカ映画の方が、日本について、日本の政治よりはるかに自由にものを言っている。これは恥ずべきことであり、情けないことではないだろうか。

 映画は暗黙のうちに、世界経済の枠組みから落ちこぼれた人たちに希望を与えている。
 フリーター、引きこもり、ニート、パート労働者など、軍隊的な日本の学校や企業から不適格者の烙印を押され、落ちこぼれた全ての人々が、そのことで失意に陥る必要は全くないと教えてくれている。
 グローバル経済、市場原理主義という画一化した「軍隊」に入隊することが、文明開化の証であり、人生の進歩だと思ったら大間違いだ。日本を「近代化」させようと企む人たちの真の目的は、人間を大量使い捨てにし、殺人兵器をこの国に輸入し、さらに新しい兵器を売りつけるために、戦争の危険を煽り、無差別殺人のような戦争を絶え間なく起こすことにある。

 筆者は思う。日本人はこれ以上、人生を使い捨てられることに慣れてはいけない。西欧文明の利器を見せびらかされさえすれば、疑うことなく釣られるカモになってはいけない。
 たとえ「時代遅れ」と罵られ、レミングのように流行に突進する大勢と違う道を行くことになっても、人は自分が信じる生き方を守れば良いのであり、自分の生き方を他人によって奪われるいわれはないのだ。

 オールグレンの贖罪は、アメリカの贖罪にそのまま重なる。映画が主張しているのは、いかに文明の力が大きく、その威力が否定できないものであるにせよ、ただ力があるというだけで、文明の覇者が、自分の生き方を正義のように弱い人々に押しつけることは間違っているということだ。社会が「時代に会わない」と決めつけたというだけの理由で、なじみ深い伝統文化が否定されなければならない理由はない。
 価値観や文化は、力によって外から押しつけられるものではない。自分たちの中から生まれ、自分たちが育んできた来たものこそが、伝統であり、文化なのだ。

 「国際化」とか、「グローバル化」とかいうモノサシに踊らされるのはもうやめなければならない。この国にゆかりのものが、何か古くさい、時代遅れな、無価値なものだという考えを植えつけようとする人たちに騙されて、自国の文化を自ら売り飛ばして、外国文化に踊らされるのはもうやめよう。

 文化は自分たちで育むものであり、外から輸入するものではない。生き方は個人の奥深くに根ざしたものであり、外見によって整えることはできない。そして個人が確立した生き様を、外から奪う権利など誰も持ってはいないのだ。
 近代化という名目で、人間の命を使い捨てにしようとする権力者たちの甘言に、これ以上、この国の人々は騙されてはいけない。日本人は、兵器産業という黒船の前に跪くのはもうやめなければならない。そのことをアメリカ発の映画が日本人に対して警告しているのだ。

 ラストサムライは、未だ黒船信仰から目覚められないでいる日本人に対するアメリカ人による良心的平手打ちであった。

2009/02/02 (Mon) 社会問題

1.世界の孤児アメリカが史上最も困難な時代に入った。

全世界から見捨てられたブッシュ政権がついに幕を閉じた。オバマ大統領の登場に時代の進歩を感じ、希望を託す人々もいる。たとえば、カウンセラー、中尾英司氏は記事の中で、「世界が変わる兆しが見え始めた」と、大統領夫妻の登場を涙さえして迎えたと述べている。

だが、「鳩のように純真」なだけでは十分でなく、「蛇のように狡猾であれ」と命じられているクリスチャンの一人として、筆者は、中尾氏の人柄のよさには感心させられながらも、それでも、オバマ政権がアメリカと世界を少しでも方向転換させてくれることに希望をつなぐことはできないと考えている。いや、むしろ、ブッシュとは対極に位置するように見えるオバマ政権の下でこそ、アメリカは史上最悪の苦難に突入することだろう。

性善説に立つ中尾氏に対して、ニヒリスト的クリスチャンである筆者は、性悪説に立ってものを考える。筆者は「時代の進歩」という言葉を信じない。ドストエフスキーが『地下室の手記』の中で述べているように、時代が進んだからと言って、人類の残虐性が少しでもおさまったことがこれまであっただろうか。いや、兵器の質が上がったことも手伝って、人類の血の河は昔に比べてますます太くなり、今や海のように流れている。なのに、なぜ人々は、時代につれて人類が進歩するなどという妄想を信じようとするのか?

Dr.Luke氏は、記事の中で次のように述べている。「この数年、私は『現代、私たちは巨大なフェイクを見せられている』と書いているが、オバマはその最終段階に選ばれた器であるようだ。」
筆者も幾度か述べてきたように、終わりの時代にあっては、悪魔は光の天使の姿でこそやって来る。私たちは見せかけの美しさだけを見て判断せず、中身をじっくり見てからでは何事も判断できない。何事に対してもしっかりと目を覚ましておくために、オバマ政権も壮大な偽装物語の一環なのではないかという疑いをあえて持ちたいと筆者は思う。

よく考えてみて欲しい。オバマ政権に時代の進歩の兆候などが、本当に感じられるだろうか?
アメリカに住んだことのある日本人は、決まって、アメリカ人の人種差別意識の抜きがたい深さに言及する。黄色人種は、白人と結婚でもしない限り、黒人以下の扱いしか受けられず、社会における劣等のステータスから決して這い上がれないそうだ。そのような人種差別意識を何百年と維持して来たアメリカの一般大衆が、ここ最近の数年間で、急に黒人大統領を望むまでに、飛躍的に市民意識を向上させ、過去の人種差別意識を自ら反省して、撤廃するに至ったなどとは到底、信じられない。

黒人でも実力があれば州知事くらいにはなれる時代なのかも知れないが、実力だけで大統領になるのはまず無理だと思われる。オバマ氏の政治家としての経歴が、大統領になるには短かすぎるように思えることも気がかりである。ウィキペディアによれば、彼は1996年にイリノイ州議会上院議員となり、2004年に合衆国上院議員。日本での国会議員にあたるアメリカ合衆国上院議員としての経歴はたった4年だ。選挙で選ばれたアフリカ系上院議員として、彼はアメリカ史上3人目であり、オバマ氏の2004年当選時点で現職アフリカ系上院議員は彼以外にいなかったそうだから、アメリカの政治社会ではいかに未だ黒人議員というものが認知されていないかがよく分かるだろう。

また、アメリカではすでに大統領選そのものが不正にしか行われなくなっており、投票の集計のための機械はたった一つの会社によって独占され、選挙は単なるパフォーマンスと化して、全てが舞台裏で画策され民意など全く反映していないとの指摘がある。

「暗いニュースリンク」記事「票がカウントされないアメリカ」では大統領選の票の集計方法に大きな問題があることが指摘され、田中宇氏による記事「不正が横行するアメリカ大統領選挙」では早くも2004年にディーボールドの機械投票システムに大きな問題があることが指摘されており、オルタナティヴ通信記事「米国大統領選挙は当選者が最初から『何者かによって決められている』」でもやはり投票システムの問題が指摘されている。そして先に挙げた「暗いニュースリンク」の記事、「2004年度大統領選挙における電子投票システム不正への関与が疑われた重要証人が事故死」によれば、ブッシュの大統領選挙の不正疑惑に関する重要な証人であった人物の不審な事故死のニュースが伝えられる。このように、大統領選の不正に関する疑惑は未だ晴れることがない。

さらに、イスラム文化圏に旅行したことのある人なら誰でも知っているだろうが、バラク、フセインという名前はイスラムの人々には馴染み深い名前だ。バラクとは、モンゴル帝国の王族にも見られた歴史ある名であり、中央アジアのアジア人やムスリムには馴染み深い。だが、イラクのフセイン元大統領をあれほどまでに悪者として敵対し、イラク戦争が事実上、終結さえしていないうちに、ムスリムを思わせるファーストネームと、フセインという名をミドルネームに持つ人物を、アメリカ国民が自国の大統領に望むほどに国民意識が変わったとは、筆者は到底、信じられないため、驚く他ない。

日本に置き換えてみれば分かりやすいかも知れない。日本には白人優位主義の他に、アジア的人種差別感情も未だ残っている。現在の日本の政界は、「李首相」、「孫首相」、「黄首相」を自分の国の総理として受け入れられるほど成熟した世界市民意識を持っているだろうか? または、「東条英機」という首相の再登場を容認できるほどに、過去は過去としてきっぱり切り離せる心境になっているだろうか?
筆者には、バラク=フセイン・オバマ大統領がアメリカに誕生したのが、アメリカ国民感情の自然な流れに基づいてのことだとはとても思えない。

これらの事実から推測するに、アメリカ人自らが黒人大統領を望むほどに時代が進んだということは全くあり得ないことだとすぐに分かるだろう。従って、オバマ氏が大統領になったのは、「民意」ではなく、舞台裏による取り決め以外にはないというのが筆者の考えだ。
だが、仮に大統領選挙そのものが不正だったとして、なぜここに来て黒人大統領がどうしてもアメリカに必要なのか?

最も大きな理由は、アメリカ国家の延命策としての看板効果だと思われる。
これまでのブッシュ政権の印象があまりにも悪かったため、アメリカは全世界から非難を浴びて、今、政策転換を迫られている。恐らく、アメリカ国民でさえ、多くはこれまでの政策からの転換を望んでいるのではないだろうか。ハリケーン、カトリーナなどの災害時に見捨てられ、サブプライムローン問題で置き去りにされ、イラク戦争で大きな犠牲を払わされたアメリカの比較的貧しい世帯は、これ以上、社会的弱者が見殺しにされない政治のあり方を望んでいるだろう。

そこで、黒人である、社会的弱者の象徴のようなオバマ氏が大統領になれば、今までアメリカ社会で打ち捨てられてきた弱者は必ず彼に期待を寄せるだろうことは誰しも想像できる。オバマ氏は演説も巧みであるし、クリスチャンから見ても、古狸の政治家と違って、「サタンの毒素にまだ全身まみれておらず」(子羊通信のザアカイ氏の言葉の不正確な引用)、道徳的に清潔そうな印象をかもし出している。

さらに、イスラム圏の人々に親しみのある名前を持つ者が大統領になれば、ブッシュ政権のイラク戦争のために、これまでさんざんアメリカ離れを起こしてきた世界中のイスラムの国々の心を少しでもつなぎとめる効果があると人は考えないだろうか。そうせざるを得ないほどに、ブッシュ政策はアメリカ内外のイスラム教徒、世界のイスラム諸国からの巨大な反発を呼び、アメリカの孤立化を促したのだとも考えられる。

オバマ氏というスターは、バラバラになりかけた民意を一つにまとめるのに大変、役立つ存在だ。彼の醸し出す弱者に優しい、道徳的に清潔な印象は、あたかもアメリカが大々的に政策の方向転換をしたように見せかけるのに非常に有益だ。キング牧師の演説が盛んに引き合いに出されるのも、キング牧師の高い宗教性、道徳的潔癖さをオバマ氏にダブらせる効果を計算づくで狙ってのことだろう。オバマ氏は墜落しかけたアメリカ政府に吸引力を持たせ、ブッシュ政権のために地に堕ちたアメリカのイメージを浄化する看板役者として、あえて担ぎ上げられたのだ。

だが実際には、オバマ政権の取り巻きを見ると、これまでのアメリカの政策と変わる予兆が全く見られないとの指摘もある。(現在の筆者の理解度を超える内容のため、コメントは差し控えるが、次の指摘などは興味深い。「真理のある民主主義を目指す社会経済論」の記事、「オバマ政権に対する鋭い分析記事」「オバマ政権の実態」。)

演説の巧みさなどは決して内心と直結しないものだ。小泉元総理も計算された演出で人を惹きつけていたし、カルト化教会に騙された人たちはよく分かっているだろうが、詐欺師ほど弁舌は巧みなものだ。これはまさかオバマ氏が詐欺師だという意味で言っているのではなく、たとえ仮に彼がどんなに高潔な人物であったとしても、背後にある人々の力と無縁では行動できないという意味だ。
言葉と行いの二つに相違がある場合、どちらが最も信用できるかと言えば、それはもちろん、行いだ。言葉だけで人を判断してはならない。

オバマ氏は今後も巧みな弁舌で民意を惹きつけるだろう。しかし、そのようにしてアメリカの大衆は、オバマ氏の演じるショーに視線を釘付けにされているうちに、気づけば、世界金融危機、戦争という苦難の中で、ジェットコースターに乗ったように振り回されるだろう。未曾有の苦難がアメリカを見舞い、その中で、オバマ氏は「皆さん、私が一緒です、必ず勝利の日が来ます、最後まで試練を耐え抜きましょう」と国民にメッセージを送り、国民を辛苦から逃げ出させないよう、「団結」と「勇気」を呼びかけるスピーカーとなる。アメリカ国民全体が、ホイップクリームのチューブのように最後まで絞り上げられるその心理的下準備のために、オバマ氏は特別に招かれたゲストなのだ。その役目が終わった時が、彼の終わりとなるだろう…。アメリカの白人優位主義的政治家はきっと誰一人、心の底では、彼をアメリカ国民の父であるとは認めていないだろうから。

第二次世界大戦の最中、戦争に参加した国々のラジオからはしきりにプロパガンダ的な内容のメッセージが流されていた。愛国心、勇気、辛苦に耐える力、などの美徳を感動的な言葉でDJが述べていた。国民はスピーカーに涙しつつ耳を傾け、ラジオ記者は国民の英雄となった。記者の役割は、とにかく国民に非道な戦争を最後まで耐えさせること、希望のない泥沼の戦争が終わるまで、「欲しがりません、勝つまでは」というスローガンで国民をまとめ、苦難から逃げ出すことを禁じることにあった。


2.娯楽番組「24」に見るアメリカの衰退ぶり

ご存知の人も多いはず、「24」というシリーズものの番組が今放映されている。アメリカにありがちなヒーロー物であるが、荒唐無稽ながらも、時事的で、迫真性がある筋書きなので愛好者も多いはずだ。このシリーズを知っている人は、番組にパーマー大統領という黒人の大統領が登場していたことをもちろん覚えておられるだろう。そしてローガン大統領がテロリストと結託して国を売り渡していた売国奴であったことや、黒人大統領パーマーが暗殺されたことも。

物語はあくまで物語、現実とは異なるものとして見なければならないが、物語が作成される裏には、製作者側の何らかの意図がある。たとえば、言論の自由のない国では、現実の社会では決して口にできないような批判を、架空の物語に託して、作者が読者に訴えようとすることはよくあるし、たとえ言論の自由がある国であっても、国民に一定の心理効果を与えることを狙って、番組が作られることもある。マインドコントロールのための番組作りは、カルト団体では常套手段だ。

筆者はものを書くことに携わってきた経験から、どうしても、物語の表ではなく、裏側に注目してしまう癖がある。視聴者の感情は、巧みな筋書きさえあれば、自在に動かすことができるということを、物語の舞台裏に回ったことのある人なら誰でも知っているはずだ。筆者の書いた稚拙な記事を通してでは、あまり納得できないかもしれないが、例を挙げれば、この記事の中でさえ、筆者は異なる文体を使い、それぞれの記事が全く異なる雰囲気をかもし出すように意図してきた。架空の物語も登場したし、性格の違う架空の人物も出て来た。まあ、あまり大した効果が生まれていない可能性はおおいにあるが…。

筆者が何を書けば、読者が増え、何を書けば、読者が減るかということも、ブログは確実に教えてくれる。「これ以上、記事を更新しません」と、筆者が今日、記事に書いたとしたら、それを信じて、明日はほとんど人が来なくなる。たとえば、前の記事に「キリスト教界のことはこれ以上書かないし、このブログもそろそろ終わる」と筆者が書いたので、キリスト教界に関心がある人々と、毎日新しい記事が見たいと願っている読者たちは、潮が引くように去って行ったようだ…。
キリスト教界のことを興味本位で調べている読者を面白がらせてあげたいというサービス精神は筆者には全くないので、読者数に関心はないが、いずれにせよ、自分の書いた内容と、人々の反応には明らかな因果関係があるということが分かった。この因果関係をきちんと理解しておれば、意図的に読者を増やしたり、減らしたり、読者の層をふるいわけたりすることが可能なのだ。

このように、計算されつくした演出効果を用いれば、人の気持ちはかなり簡単に操作することができるし、人の関心を高めたり、薄れさせたり、自分の言説に権威を持たせたり、腰を低く見せたり、笑わせたり、泣かせたり、絶望させたり、場合によっては、白を黒と言い含め、人を洗脳することさえ可能なのだ。最近はNHKの大河ドラマのように、登場人物がどんな心理状態で、どんな感情を持っているかまで、ご丁寧にBGMが解説してくれるような番組も多いが、しっかりした脚本があれば、BGMによる解説や、映像がなくても、かなりの程度、読者を内容に感情移入させることができるだろう。

こうして、創作的観点に立って見てみると、最近、アメリカのテレビ番組・映画作りのあり方が大きく変わって来ていることが分かる。

アメリカ人は長年、正義の味方、勧善懲悪のヒーローが大好きであった。かつて、アメリカ発の映画の典型的主人公は、熱血正義感で、健康な肉体を持ち、少しも後ろ暗さのない、明るい人物であった。ヒーローが罪悪感を持つようなことはまれであったし、トラウマに苛まれていたり、肉体的弱さを抱えていることもまれであった。第二次大戦の敗戦を経験し、歴史的罪悪感を抱え込む日本人の目から見れば、そのようなアメリカ型の典型的ヒーローの過剰なまでの自信やお気楽さは、非現実的、異常とさえ映るほどであった。

アメリカ国民のヒーロー好きのためだけにそうなったわけではない。ハリウッド映画産業は、「世界を救うヒーロー」のイメージをアメリカ国家そのものにダブらせることによって、アメリカを世界のリーダーとして全世界に宣伝し、アメリカ国家の良いイメージを広め、アメリカの威信を高めることに貢献してきた。特に冷戦時代はそうであったが、アメリカ映画は、世界へ向けて、アメリカの高潔で力強いイメージを宣伝するためのプロパガンダの役割を引き受けていたのである。

しかし、今日のアメリカ型ヒーローはだんだん、今までのような一枚岩の性格を持った、全く後ろ暗さのない、単純な正義漢ではなくなりつつある。むしろ、罪悪感を抱え、正義を見失い、善と悪との間で揺れ、迷いの中で生きているような、弱さを抱えた人間が頻繁に主人公に登場するようになった。(B級映画ではすでにかなり前からそうであったが、やっとアメリカ映画の主人公が全体的に普通になって来たとも言える…。)
それは「24」のジャック・バウアーもそうだし、次の記事で述べる「ラスト・サムライ」のネイサン・オールグレンにもあてはまる。

さらに、もっと驚くべきことが起こっている。アメリカでは長い間、大統領は全国民からの尊敬を集める、神聖な存在であり、国民の優れたリーダーであった。大統領の威信はアメリカの威信の象徴であり、大統領という職につくには、ただ並外れて有能であるだけでなく、人格的にも高潔であることが要求された。そのような意味で、ケネディの人気はアメリカでは未だ衰えないし、まあ、中にはクリントンのような人物や、ブッシュのような人物もいたにせよ、それでも、ブッシュ政権にあってさえ、大統領の威信は守られて来た。
現実世界ですらそうだったのだから、まして、アメリカの番組の中では、これまで、大統領という職業の高潔さ、名誉をあからさまに汚すような筋書きはほとんど見られなかった。

ところが、「24」ではローガン大統領は悪役であり、売国奴であったことが暴露され、弾劾裁判にかけられた。アメリカの番組がタブーを破って、自らアメリカの誇りである大統領の顔に泥を塗ったのである。これには驚いた。日本でも、「9.11」により国を売った男、ブッシュにローガンを重ねて見た人は多かったのではないだろうか。ひょっとすると、ブッシュを公然と非難できない人たちが、架空の筋書きに暗黙のメッセージを託したのかも知れない…。 
そして、パーマー大統領が、暗黙のうちに、オバマ氏に重なることも不気味な印象を与える。

「24」ではやたら黒人が登場することの不可解さに気づかれた方はどのくらいいただろう。これほど黒人が多数、しかも重要人物として登場する番組がこれまで他にあっただろうか? しかも登場する黒人という黒人がほとんど実に高潔な人間で、善玉で、悪役でないということが極めて不可解だ。今までハリウッドのB級、C級映画では特に、有色人種は常に悪者か、端役であった。ところが、「24」では、大統領だけでなく、弁護士など、登場する黒人たちがいずれも社会的に名誉ある立派な職業についており、重要な役割を果たし、物腰も洗練されて、言説にも信念があって、「カッコイイ」のだ。

何かの意図があって、特別に、黒人の良いイメージを視聴者に植えつけようとしてこのような配役構成になっているとしか筆者には思われなかった。とにかく、アメリカに実際に生きている黒人の大半を占める、貧しくて、教養のない、スラム街のチンピラのような人が一人として登場しないのは奇妙だ。

番組は、世界中の人種差別意識を、一挙に、短期間に排除しようとして意図的に製作されたのではないかと思われた。そのように考えると、「24」は、アメリカ初の黒人大統領を国民に受け入れさせるための心理的下準備の一つであったようにさえ思われてくる。筆者は、すでに述べたように、時代の進歩などまるで信じていないのだが、それでも、人々に時代が進歩して、人類の道徳意識が進んだかのように思わせたい者たちはたくさんいるようだ。そこで、進歩の証拠として、人種差別意識、民族的排外主義のような「野蛮な」風習は撤廃されたかのように宣伝する人々が現れるのではないか。

聖書的世界観に立つならば、そのようにして、人類の「進歩」を叫び、人類の「野蛮性」を駆逐し、やがて人類を「神の高み」にまで引き上げ、人類が「神に成り代わる」ために、争いのない社会を作ろうと、日夜、未来の幸福社会の実現に向けて、準備をしているような人たちがいる。彼らは人類の救済者を名乗るが、実質、人類の敵である。そんな人々によって建設されるのが人類最後のバベルの塔、最後のバビロンである。

(このことについて、クリスチャン・サイドから最も衝撃的な形で問題提起し、警戒を呼びかけているのは、「エレミヤの部屋」である。このサイトには筆者も大いに考えさせられるものがあった。その中の「つの笛」においては、聖書に登場する最後の大淫婦バビロン、獣の国はアメリカ国家そのものであると断言されている。

 このような主張は、アメリカのキリスト教界に疑うこともなくへ右へ倣えすることによって、これまで巨大な腐敗に落ち込んできたニッポンキリスト教界に対しては、厳しい警告となるだろう。
 しかし、筆者は思うのだが、きっと旧ソ連に暮らしていたキリスト教徒も、あの国で起こった恐ろしい現象を見ながら、これこそ聖書の言う終末の王国だと思ったに違いない。ヒトラー政権下のドイツに暮らしたクリスチャンもやはり、この国こそが聖書の言う獣の王国だと思ったに違いない。中国の文化大革命の最中にいたキリスト教徒も、この国は最後のバビロンだと思ったことだろう。今北朝鮮にいるクリスチャンもそう思っているかも知れない。
 …このように、世界史上、バビロンの飛び火現象はいくつもの国で起こって来たが、アメリカもその一つかも知れない。最後のバビロンはいまだ地球上に現れておらず、もしかすると、未来のヨーロッパ(ユーラシア大陸)に誕生する可能性が残っているのではないだろうか? もちろん、それは今のところ筆者のただの推測であるが。)

とにかく、一見、道徳的に見えるものの中に、一見、ヒューマニスティックなものの中にこそ、恐ろしい問題が隠されている。道徳的なきれい事はとことん疑ってみなければならない。現代はそういう時代である。
 

3.イラクの次は、イラン。アメリカで核が炸裂する日が近づいている。

さて話を戻せば、何より恐ろしいのは、「24」の物語の中で、核爆弾がアメリカで炸裂していることだ。筆者は驚いた。このような筋書きは、もはやアメリカ人による、アメリカに対する冒涜行為と言う他ない。番組が、アメリカの誇りである星条旗をズタズタに引き裂いて地に落としているも同然だ。

核の脅威を実体験している日本人でも、原爆被害者の心境を考えると、たとえフィクションであってさえ、他ならぬ日本でもう一度、核爆弾が使われるという生々しい筋書きを持ち出すことはためらわれる。そのような事態は誰も考えたくないし、日本人のトラウマを刺激し、心理的に容認できないため、そんなストーリーを作っても、多分、日本人読者の支持を全く得られないだろうと、作家たちは考える。

今になっても、アメリカが原爆を日本に投下したのは、倫理的な意味合いから白人に対してはとても使用できなかったので、日本人という「劣等人種」を実験台にしたのだという説が根強く存在している。
このように、白人に対しては未だ使われたことのない、人類の誇りを徹底的に陵辱する核爆弾が、他でもなくアメリカ国民に対して使われるという筋書きを、アメリカ人が自国民への娯楽番組として提供したとは、一体、何を意味するのだろうか…? 
これまでのアメリカ国民のプライドの高さ、尊大な自信、国への誇りに照らし合わせて、こんなことは、あり得ないことだ。今、アメリカの誇りがアメリカ人の手によって、引き裂かれようとしている…。

「剣を取る者は剣で滅びる」という法則に従えば、原爆という兵器を人類初に使用したアメリカが、それから60余年を経て、やがて自身が核爆弾の被害を受けることによってその威力を思い知ったとしても不思議ではない。先の記事に挙げた原爆パイロット、クロード・イーザリーも放射線被爆によって人体を冒されるという、まさに因縁としか言いようのない亡くなり方をしているのだ。
…いや、そんな宗教色の濃い、小説のようなプロット、因果応報の理由づけをあえて持ち出さなくとも、アメリカ本土に今、どれほど多くの基地や核兵器が存在しているかを考えれば、それが狙い撃ちされることは当然あり得ることだと思える。日本にあまたある原発も、沖縄の米軍基地に存在するであろう核兵器も、北朝鮮などに攻撃されれば一巻の終わりだと言われている。核兵器というものは所有しているだけで危険なのだ。

アメリカは、「9.11」を引き起こし、戦争のために自国民を売った。この先、この国が自国民に何をしたとしても不思議ではない。そして今もこの国はさらに戦争を起こしたがっている。イラクの次は、イランが標的になるだろうとの趣が強い。
たとえば、次の記事をあなたはどのようにご覧になるだろうか。

「『イスラエルに核の傘』 イラン核保有意識?オバマ氏検討と報道
2008年12月12日 朝刊東京新聞

【カイロ=浜口武司】イスラエル紙ハーレツは十一日、米国のオバマ次期大統領がイスラエルに、イランの核の脅威に対抗するため『核の傘』の提供を検討していると報じた。ウラン濃縮活動を続けるイランが核兵器を保有した場合に備えて、米軍の核抑止力による安全保障をイスラエルに広げる狙いだが、イスラエルではイランの核保有を絶対に阻止するとの“主戦論”が根強く米次期政権との溝が生じそうだ。<以下省略>」

(この新聞記事は「御一新マガジン、レスジェネ」の記事、「オバマ外交、泥沼へのロードマップ」 から引用。)


アメリカは大量破壊兵器の存在を理由に、フセイン政権下イラクに闘いを挑んだ。今また、イランの核保有という脅威を触れ回ることで、今度はイスラエルを焚きつけて戦争を起こそうとしかけているのだろうか。

恐ろしいことに、近い将来、アメリカ+イスラエルvs.イラン戦争が勃発するという危険を最も匂わせているのは、アメリカのプロテスタントのキリスト教界の聖職者の言動である。アメリカのプロテスタントのキリスト教界はかつて、イラク戦争を「聖戦」になぞらえ、こぞってブッシュ政権支持、戦争支持に回った時点で、明らかに、すでに公然とキリストを捨てて、国家の政策のお先棒をかつぎの役割へと堕落する道を選んだ。
それまでは政教分離の原則に従って、政治とは一線を画す趣が強かったキリスト教界は、イラク戦争以来、血に飢えた政府(国防総省)の利益のために、国民心理を新たな戦争へと準備させるための御用聞きの機関のようになってしまったのだ。

筆者が過去の記事の中で引用したデイビッド・ウィルカーソン氏ももはや全くその点で信用ならない人物となっていたことが判明した。筆者はよく知らずに彼の名を記事で用したことを陳謝せねばならない。
「マルコーシュ・メールマガジン」坂達也氏のレポート(2007年6月)は、デイビッド・ウィルカーソン氏の主張について次のように述べている。「彼は既にアメリカが世界のスーパーパワーである時代は過ぎ、今世界のスーパーパワーは中国に移行していると言う事実、また、既に核を保有するイランの大統領をヒトラーに匹敵する気が狂った男(マッド・マン)としてとらえ、彼が世界を大混乱に陥れることを一大使命として、今着々とその準備を進めていることを指摘しております。<中略>ウイルカーソン師は大災害が起こることは時間の問題であり、今こそクリスチャンは聖書に書かれている艱難の時が迫っていることをはっきりと認識しなければならないと説きます。」

 イランの大統領をヒトラーに匹敵する「マッド・マン」と呼び、イランがアメリカどころか世界を破滅させるために画策していると、イランの非道行為をしきりに訴えるウィルカーソン氏は、聖書に述べられている大艱難に向けてクリスチャンの心を整えているというよりは、むしろ、アメリカのクリスチャンたちの心を再び、石油利権がらみの中東でのイラン戦争に向けて整えようとしているだけではないだろうか?
 彼は再び戦争が起こることを覚悟するよう、今度こそ、アメリカ本国が「大災害」に見舞われることに準備するよう、アメリカのクリスチャンに呼びかけているだけではないだろうか?

 一体、アメリカは何人の国家元首を一方的に「マッド・マン」呼ばわりすれば気がすむのだろうか? 「世界を大混乱に陥れることを一大使命として、今着々とその準備を進めて」いたのはあなたたちの前大統領ではないのか?と言いたくなる。
 ここで、筆者も以下の記事の中で、カルト被害者救済活動をしている架空の甲師を反キリストにたとえたことを反省せねばならない。誰がキリスト者で、誰が反キリストか、最終的に判断する力を持っているのは、神ご自身のみである。そのことに敬意を払って、私たちは合理的疑いを持ちつつも、自分の判断だけで、他人に対する最終判決を出さないようにしなければならない。反キリスト、そんな言葉を個人の判断でうかつに使うからこそ、泥沼の宗教裁判が起こるのだ。

 一体、誰が他人を簡単に狂人扱いして精神病院にぶちこんだり、反キリスト扱いして火あぶりにしたり、一国を悪の枢軸呼ばわりして攻撃をしかけたりして、虚しい「正義」のための泥沼の戦争に、罪もない無関係な市民まで引きずりこんで、命を落とさせる権利など持っているだろう? 誰かが他人を「マッド・マン」と呼ぶなら、その証拠をきちんと出さなければならない。でなければただの誹謗中傷としかみなされなくて当然だ。

 確かに、反キリストや偽預言者はこの世にあまたいるだろうし、それらの人物がひどい行為を行っている場合、クリスチャンがそれを明るみに出して、「この人物は信用ならない」と、世の中に警戒を呼びかけることは必要なことだ。だが、そのことと、自分が神の使徒を名乗り、正義の人であると自称して、この世からあらゆる反キリストを駆逐するために、戦争を仕掛けて歩くことは全く別問題だ。
 浅はかな勧善懲悪を呼びかけるような運動は全く信用できない。心底、警戒が必要だ。

 核保有の疑いが昔から強かった北朝鮮の国家元首には長年、手も触れずにおきながら、中東の国家元首にだけは素早く警戒を呼びかけるアメリカ。そんな国家政策のお先棒をかついでいるアメリカのキリスト教界とは何なのだろうか…。

 「エレミヤの部屋」が早くから訴えてきたように、ニッポンキリスト教界の腐敗、カルト化のあらゆる原因は、本当に、アメリカの教界から来ているという疑いが、筆者にはかなり濃厚に感じられるようになってきた。長い間、疑いもなく聖霊派にどっぷり漬かっていた筆者は、そのような「霊的」現象を見聞きしてきただけに、ここで目を覚まし、このブログで今後、この種の問題の危険性を取り上げて行かねばならない。本当は、筆者は、カルト化の問題はもうこりごりで、できるならもう記事を書きやめたいと思っているのだが、当分、このブログを閉じられそうにない状況になって来たように思う。

 ウィルカーソン氏の主張を聞きながらも、やはり核の脅威がアメリカに迫っていると筆者は感じる。アメリカ本国が攻撃の対象となるような戦争が、少しずつ、あの国に近づいて来ているのではないだろうか。
 このような文脈に立って、以下の記事を見ると、誰しも、背筋に悪寒が走るものと思う。

「ジョージア州に用意された50万体分の棺桶」 (「神と悪魔の狭間で」の記事。内容は記事最下部を参照。)

 誰かがアメリカを、そして全世界をあざ笑っているとしか筆者には思えないのだ。売国奴的ブッシュ政権により、アメリカ大統領の威信は汚され、地に堕ちた。その上、アメリカ国民は未だイラクに娘や息子を兵士として送り続けて死なせているというのに、その戦争も終わらないうちに、今度は彼らに、バラク・オバマ氏という、一見、ムスリムと見まごうような名前を持った、黒人の「フセイン大統領」が与えられた。その「フセイン大統領」の下で、アメリカ国民はこれから何か未曾有の困難に直面しようとしている…。
 一体、この筋書きは誰が書いているのだろう? 「あざける者たち」の笑い声が耳に聞こえてくるような気がしてならない。

2009/01/24 (Sat) 社会問題

1.日本に体制崩壊の日が近づいている。

2008年6月8日、秋葉原で派遣社員、加藤智大による無差別殺人が起きた時、とある地方都市にいた筆者にとっても、事件は他人事ではなかった。

社会の底辺に近い身分へと追いやられ、貧しい給料で、何の創造性もない末端の末端の仕事しか与えられず、そこからほとんど這い上がる見込みを持たない派遣社員たち。何の将来の希望も持たず、ただ今という時をやり過ごすためだけに、馬車馬のように働くしかない派遣社員たち。
彼らの間に渦巻く、共通した怨念のようなもの――それがあのような事件に集約されたのだということは、多くの人たちによってすでに指摘されてきた。当時、筆者自身も派遣社員の身分であったが、その職場内においても、何かしら目に見えない、言葉にならない、この先どこへ向かうやらも分からない、危なっかしい怨念のようなものが人々の間にひしひしと漂っていることが感じられた。

「日本には近い将来、組織化された若者のテロが現れるに違いない」と、秋葉原の事件当初から筆者は確信していたが、その後、元厚生省官僚の暗殺、大学教授の暗殺などが起こり、これらの個別の事件がやがて大々的な反政府的活動へと結びつき、組織的テロ活動に変わるのはほとんど時間の問題だと思われる。

今から約一年前、アキバ事件よりも数ヶ月前、筆者は帝政ロシア末期からソビエト体制の成立時点にかけてのタイムスパンをカバーする学術論文を完成させた。それを書いているうちに、現在の日本社会と、19世紀末―20世紀初頭の帝政ロシアの社会との間に非常に類似した構造があることに、気づかないわけにいかなかった。

多くの人々を貧困に陥れる、時代錯誤と言う他ないような、大きな経済的格差。
ますます開いていくばかりの貧富の差は、昔ながらの旧い体制によって生み出されたものである。だが、一つの時代の価値体系が、大多数の人々を非人間的に追いつめるようになると、旧来の体制がもたらした不平等を解消するために、新しい時代の道徳的理念を振りかざして、旧来の体制に闘いを挑む人たちが現れる。すると、古くからの価値観と、新しい時代の理念とが社会において激しくぶつかり合い、混乱を生む。

旧来の価値観が没落し、新しい価値観が登場しようとする時、時代の転換の予兆として、社会にはある共通した特徴が見られる。すなわち、伝統的な身分制度の崩壊と、全ての価値観のファジー(曖昧)化である。旧来から守られて来た伝統や、しきたりが軽視される一方で、型破りで奇抜な流行や、新しい身分制度が登場する。社会で伝統的に維持されて来た職業的身分が崩れ、人々の社会的身分が不安定化するだけでなく、ファッション、音楽、芸術など、文化の様々な分野においても、価値観の曖昧化・多様化が起こる。
いわば、社会の全ての要素が不安定化し、まるで融けてしまう寸前のチョコレートや、砕け散る直前の波頭のように、形を失って、曖昧化するのだ。

筆者は論文を書きつつ、ひしひしと思った。帝政ロシアが崩壊したように、現在の日本の社会体制も遠からず必ず崩壊するだろうと。その予兆として、終身雇用制度の崩壊や、派遣という身分の登場があるのだ。

ロシア国家の体制崩壊を見て、日本にも同様のことが起こると予見した人に、故石井絋基衆議院議員がいる。彼はソビエト体制下ロシアに留学した経験を持ち、当時の体験をもとに、日本の社会を観察した結果、日本にも必ず国家体制の崩壊が起こるだろうと予想した。
日本政府が何らかの対策をきちんと打ち出さない限り、癒着と腐敗にまみれたこの国は、やがて機能不全に陥って、崩壊し、国民は未曾有の混乱の中に投げ出されると彼は考えていた。

筆者の予測も大体、石井議員の予想と似たものである。ただし、筆者は現在の日本をソビエト体制にではなく、その一つ前の帝政ロシアに重ね合わせる。そして、現在の資本主義に基づく「帝政」が崩壊した後に、恐ろしい「社会主義政権」が到来するだろうと予測している。

現在の日本の画一化教育、集団社会、官僚政治などを指して、日本はすでに社会主義国になっていると主張する人々も多いが、筆者は、この日本社会は社会主義をこれまで一度も経験したことはないと判断している。言い換えれば、社会主義というものの恐ろしさを、日本人は現実にはまだ一度も味わったことがない。

石井議員は、日本国の崩壊を食い止めようと、政治の腐敗を正すべく活動した。彼は特に、宗教がらみの政治的腐敗というこの国のタブーに切り込んで行ったため、その結果として、闇の勢力によって謀殺されたのではないかという見方が根強い。(たとえば、弁護士紀藤正樹氏の「真相の究明に全力を」参照。)

議員としての石井氏の活動には十分な敬意を払いつつも、しかし、筆者は、今、この国の上に黒雲のように垂れ込める闇の宗教勢力とまともにぶつかり合うことは誰にも勧められない相談だと考えている。(ニッポンキリスト教界内での泥沼化した訴訟にも、クリスチャンはできるだけ近寄らないことをお勧めする。個人の力では闇の勢力全体に太刀打ちすることは到底、無理だからである。ただ神の裁きに委ねるのみ。)
石井議員が予測したような、日本の体制崩壊への歴史的流れは、個人の力によっては変えようのないものであり、防ぐ方法はない、筆者はそう考えている。


2.今後、日本では若者によるテロが増加の一途を辿ると予想される。

19世紀、帝政ロシアの社会では、国民間の経済格差があまりにも明白となっていた。当時、人口のほとんどを占めていたのは、貧しさの中に留め置かれた無学な農民であり、その上に、ほんのわずかな特権的貴族(貴族の中でも選りすぐりの富豪である上流階級)が、農民の血と汗と涙を吸い上げて成り立っていた。上流階級は全く働かないで生きていけるような人たちで構成されていた。農民には学識がなかったため、自分たちが置かれている状況の不当さを客観的に認識する能力を奪われていた。

だが、不当に抑圧されている本人がたとえ認識できなくとも、あまりにも不平等かつ時代錯誤な体制は、歴史的に、没落していくのが必然である。
このようなロシアの不平等社会に問題提起を投げかけた人々がいた。ロシアは文化的・政治的立ち遅れを解消し、農民を重いくびきから解放すべきだと叫んで、立ち上がった人々がいた。
インテリゲンツィヤと呼ばれる教養ある貴族青年男女たちであった。

インテリ(知識人)という言葉には、今日でも、権力による圧制に立ち向かう良心の人々、という意味合いが込められている。帝政ロシアでは、不公平な世の中をいかに改善すべきか、知識人は様々な方法を駆使して考えた。文筆家は自分の作品を通して、政治家は政治を通して、画家も自分の作品を通して、俳優も演技を通して、どう世の中を改善すべきか、教養人は皆それなりの方法で考え、訴えようとした…。

そのような教養ある人々の層の中から、一部、現行の体制を暴力的テロによって襲撃し、体制ごと破壊してしまうべきだと考える人々、革命家が現れた。
だが、そのような考えを持つ革命家、活動家は、インテリの中のごくわずかであった(いや、革命家はインテリではないという見方もあるだろう。)また、革命家の中にも、暴力否定論者もおり、テロの擁護者は革命家全体の中のごく一部であった。

帝政を崩壊させて農民を解放することを目的として、19世紀ロシアに最初に起こされた大がかりな政治的反乱であるデカブリストの乱を起こしたのも、教養ある貴族青年たちであった。この反乱は鎮圧され、参加者は大量に処罰されるだけに終わった。

20世紀に入ると、ロシアには反体制的な思想傾向を持つ人々が非常に増加して行った。それは当時のロシア政府がいかに、経済格差を是正し、国民的不満を抑えるのに無能だったかをよく物語っている。政府は国民の経済格差を解消するために何ら有効な策を打ち出さないままで、ただ言論の自由を封じ込め、反政府的な思想傾向を持つ者たちを手荒に処罰することだけに専念した。こんな荒っぽい政策を推進する政府が国民から愛想を尽かされ、支持を得られないのは当然のことであった。

弱体化した政府に、各方面から、国民が襲いかかった。
(外国からもまた打撃が加えられたが、今はそのことは脇に置いておく。)

貴族のみならず、町人、商人などのあらゆる社会層に革命家が現れるようになった。警察に追われ、亡命して潜伏し、偽名を使い、職業を偽り、逮捕や流刑の恐怖と隣り合わせで暮らしながら、命懸けで、自分の命を地下活動に捧げるような筋金入りの活動家たちが多数、現れた。それらの活動家の中には、現在のイスラム原理主義の自爆テロ犯のように、信念のためなら命も惜しまず、どんな行為にでも飛び込んでいく、狂信者のような職業的テロリストたちが含まれていた。

20世紀初頭のロシアは、このような筋金入りの革命家や、狂信的テロリストたちがのべつまくなしに大臣や官僚、議員などを殺害する混乱した世の中になっていた。初め、テロリストは非常に高潔な信念(?)に基づいて、限定されたテロだけを実行していたが、テロの暴走、泥沼化と共に、テロは何の志もない、ただの無差別殺人とほとんど変わらないものにまで落ちぶれた。

社会全体に殺人が蔓延したが、当時、ロシア世論はこの殺人に対して感覚麻痺していた。暗殺に対する危機感はほとんどなく、それどころか、悪評高い大臣が殺された折には、世論はそのニュースに歓喜していたくらいであった。

自分たちの代わりに、悪代官を成敗してくれるテロリストに、大衆は同情的だった。テロがあると人々は胸のすくような思いさえ味わった。このような懲罰ムード、浅はかな勧善懲悪に基づく私刑を容認、歓迎していれば、やがてどんなに恐ろしい世の中が到来するか、大衆は分かっていなかった。

極左テロリストがいるかと思えば、極右テロリストもいた。「革命を起こそう」と呼びかける極左勢力の傍らには、「お国のために、皇帝陛下のために命を捧げよう」とする右翼勢力も現れた。両者がターゲットとみなした人々に法律を無視してリンチを加え、闘争が泥沼化した。

最近、日本では厚生省元官僚が暗殺されたが(この事件の真相は謎に包まれているが、それはさておき)、この事件に対する国民の反応は、上記の帝政ロシアの大衆のテロに対する歓迎的なムードを筆者に思い起こさせる。新聞報道などの公式発表を除き、ネット上などの世論では、元官僚の暗殺に対する抗議がほとんどなく、むしろ「さんざん不正を働いて来た官僚が殺されるのは自業自得」というムードが強かった。

日本の世論は、官僚が殺されてもそれに同情できないほどに、現政府に飽き飽きしている。次の段階になれば、大衆自らがテロを望むまでになるだろう。
自民党が民主党と政権交代をすれば世の中は変わる、ということに期待をつないでいる人が、今やほとんど見られなくなった。そんな小手先の対策ではおさまりがつかないほどに、怒りと不満が国中に渦巻き、誰も彼もが政府に愛想をつかしている。年金問題や、警察の裏金作りの問題を始めとして、国家機関の要となる組織がこれほどまでに大がかりな不正と癒着にまみれてしまえば、もはや政府の建て直しは不可能で、一旦更地にするしかないという見方もあるだろう。

弱腰の態度を取り続けている政府は、将来、革命的蜂起によって打倒され、解体されてしまう危険性が大いにある。


3.大政奉還が有効に機能すれば、革命と内乱は回避できるかも知れない。

だが、それにしても、歴史上、日本にはこれまで革命というものは一度も起こったことがない。それには、革命を起こすほどに日本人が市民としての成熟した自覚を持たなかったという理由もあるだろうが、他に、日本の歴史においては、政治的混乱が収集がつかなくなると、いつでも内乱を防ぐために、平和的な解決手段として、「天皇への大政奉還」が持ち出されて来たという理由もある。

江戸幕府の終焉もそうであるが、弱体化して没落しつつある政治勢力が自ら撤退する代わりに、天皇に政権を返還し、天皇が新しい政治勢力を任命することによって、平和的に権力の委譲が行われるのが日本史の常であった。そうしておけば、流血を避けて、平和裏に政権が交替できるからだ。
「大政奉還によるリセット」、これにより、どんなに政治が混乱しようとも、日本史は流血の革命を回避して来られたのである。

第二次世界大戦後、日本を占領したアメリカも、この大政奉還の驚くべき「リセット効果」に注意を払った。もしもGHQが天皇を戦争責任者として追求し、天皇が処刑されるようなことがあったならば、日本国民は求心力を失って、戦争の責任を互いになすりつけあって、万人の万人に対する闘争としての内乱へ突入していたかも知れない。

実際に、多くの旧植民地諸国では、第二次大戦後も長い間、政治的混乱が続いた。経済は荒廃したままで、同士討ち的な内乱が絶えず、民主主義は機能せず、国土の復興が遅れた。

だが、日本では、天皇という求心力が取り払われなかったことにより、驚くほどの短期間で、国民は戦争のショックから立ち上がり、(戦争の記憶をリセットし)、経済復興した。
東京裁判で責任者として裁かれたのは、軍国主義を政策として推進してきた政府であり、天皇ではなかった。こうして、軍国主義という政治勢力が敗退し、見えない形で、天皇に再び権力が返還され、天皇は差し戻された権力に基づいて、新しい民主主義的勢力を任命した。

つまり、戦争終結もまた一つの目に見えない「大政奉還」であったと考えることが可能である。
アメリカは、占領下の日本を早く復興させて、そこから経済的利益を得たかった。そのために、あえて天皇制というリセット・システムを残して、日本国民をまとめるための求心力として機能させたと考えられる。

だが、いつでも混乱を収拾する方法として、大政奉還が可能かどうかは分からない。もしも今後、世界同時不況がより一層日本人を圧迫するようになり、そこに明治維新のような形で、何らかの革命的騒乱が起きたと仮定し、さらに、天皇の登場による平和的解決が失敗した場合、残る選択肢は、国民同士が相争う流血の内戦のみとなる。
それはアメリカなどの外国勢力の軍事的介入による鎮圧を招くであろうし、そのような外国勢力の排除を謳って、日本にも、ミャンマーのような軍事政権が樹立したり、あるいは排外的民族主義政権が成立してしまう危険がある。

とにかく、未曾有の経済危機を乗り越えるにあたり、一体、日本がどんな策を講じるのか、誰の目にもまだ不明である。それに、今のところ、現政府を打ち倒すほどに強力な政治勢力もまだ登場してはいないように見える。だが、このまま政治的・経済的混乱が続くと、日本にも近い将来、組織化されたテロが出現し、無能な政府の排斥を掲げて、政府要人に打撃を加えることが予想される。国民を暴徒化させないために、政府が平和的解決策を打ち出すことが、今、早急に必要とされている。


4.大量失業をきっかけに、国民の不満が全国的な暴動につながる危険性がある。

国民の暴徒化という意味において、最も大きな火種を抱えているのは、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる30代世代だ。20代で就職氷河期に直面して正社員になる機会を失い、以後、アルバイトや派遣社員という低い身分で食いつないできたロスジェネ世代が、今、人口の中核となる年齢に差しかかっている。
社会の中で、これまでいわば捨て駒とされて来た世代だが、彼らはまだ若く、強力な潜在的なパワーを持っていると見られる。この世代が、世界不況を機に、今後、一大勢力として結集する可能性は大いにある。

2009年度半ばまでに首を切られる予定となっている労働者の数は異常なほど多い。もしも、これらの人が一斉に路頭に迷うようなことがあれば、即、失業者が暴徒化して革命的な騒動に走りかねない。政治も思想もへったくれもなく、ただ今日の宿と明日の食い扶持を求める本能だけに基づいて、人々が闘争に走るかも知れない。
もしそのようなことが起きた場合、暴徒化した失業者が怒りの矛先を向けるのは、当然、それまで自分たちを苦しみの中に捨て置いてきた政府や、官僚、政治家、富裕なサラリーマン世代だろう。全国で一揆、商店街への襲撃、焼き打ちなどの騒乱が起きない保証はない。

かつて団塊の世代によって引き起こされた学生運動は、学内でしか力を発揮しなかったことが弱点となって、短期間に鎮圧されて終わった。だが、もしも今回の同時的失業をきっかけに、暴動が全社会的な広がりを見せるようなことがあれば、政府がそれを鎮圧するために断固たる策を講じられるかどうか分からない。

高齢化している日本社会は、今、若者たちの間に政治運動が起こっても、それを厳しく弾圧して、彼らを切り捨てることができない。若者の層を味方につけることなくして、今後、日本は国力を維持していくことができないからだ。若者を切り捨てることは、子孫断絶と、この国の破滅を意味する。

だが、もし大規模暴動が起こり、それを警察と自衛隊が食い止めることができなければ、この国は内戦状態に陥る。ゼネストが起こり、鉄道はストップし、送電は停止し、民営化された郵便局も機能停止し、全国的なストライキによって経済が麻痺状態に陥ることが考えられる。そうすれば、アメリカと北朝鮮と中国が、待ってましたとばかりに、「平和維持活動」と称して、この国に軍隊を送って来るだろう。

こんな明々白々の危険に対しても、政府は明瞭な解決策を何一つとして打ち出せていない。これではまるで暴動を起こして下さいと政府自ら国民に頼んでいるも同然である。


5.ロスジェネ世代の政治化が進んでおり、過激で急進的な政治団体が登場する危険性がある。

さて、昨年末、筆者は知人から、鳥肌実という芸人のライブが若者の間で話題となっている事実を知らされた。「欲しがりません勝つまでは」、「一億玉砕」…、そんな軍国主義時代のスローガンをちりばめた軍服を身につけ、軍国主義グッズを販売し、政治色の濃い演説で人気を集めているこの人物のもとに、派遣労働者が喜んで通っているそうだ。このことからも、筆者はこの先、日本に待ち受けている未来が相当に暗いものであることを思わざるを得なかった。

ほんの少し前まで、派遣の若者たちはジャニーズのライブなどのために惜しみなく給料を使っていた。ところが、今では右翼のようないでたちの芸人の政治色の強いアジ演説を聞くために、わざわざ金を払っている。
鳥肌氏は自称芸人であり、右翼思想の持ち主ではなく、政治的な話題は単なる話芸のネタであるとしているらしい。だが、このような芸人の登場には、それだけでは済まされない何か不穏な雰囲気を筆者は感じた。鳥肌氏を知らない人は一度、興味本位で良いので、彼の公式サイトを覗いてみられたい。

若者たちにとっては、きっと何でも良いのだろう。日頃の鬱憤を吐き出させてくれそうな集会や活動さえあれば。右翼だろうと左翼であろうと、この社会の不平等に対する怒りを吐き出すにもってこいの活動がありさえすれば、若者が手当たり次第、殺到するような時代が来つつある。

若者だけでない。今、国民全体が憤っている。「後期高齢者」として切り捨てられた年配世代も不満を抱えているし、貴重な年金を国家によって泥棒された人たちも怒っている。主婦も食品偽装に怒っている。赤ちゃんを産むために病院をたらいまわしにされる危険の中にある妊婦たちも怒っている。「障害者自立支援法」によって切り捨てられた身体障害者も怒っている。「ホワイトカラー・イグゼンプション」によって残業代をカットされようとしたサラリーマンも怒っている。ルーズソックス、ミニスカート、携帯電話、援助交際などの流行が作り出されたために、さんざん大人たちの餌食にされて来た弱い10代の少年少女たちもまた、口で言い表せない憤りを持て余している。

この社会に渦巻く行き場のない怨念のエネルギーを吸収して、巧みに政治勢力に変えようとする政治団体がこの先、必ず現れるに違いない。その団体が、民衆の不満を煽り、民衆の鬱憤を政治闘争のエネルギーへと変えて行き、民衆を剣に盾にして我が身をかばいながら、着々と自分たちの野心をかなえていき、政権の座に上りつめていく事態となることが非常に心配される。だが、もし政府がそのようなことを恐れるあまり、強硬で弾圧的な態度で国民の監視と統制に乗り出せば、より一層、支持率が落ち、政府の寿命が縮まるだけである。
このような、たまりにたまったマグマのような国民的不満に火がつき、ある日、何かのきっかけで国民全体がキレて暴走して行った場合、その恐るべき破壊のエネルギーを誰が食い止めることができようか。


6.一種の社会主義化なくして、日本は世界同時不況を切り抜けることはできない。

とにかく、今、歴史的に見て、価値観の大きな転換が起ころうとしていることは確かである。
これまで日本社会が推し進めてきた弱肉強食の市場原理主義においては、「負け組」となった人間は、貧乏のどん底に突き落とされ、周囲から軽蔑され、社会福祉制度からあぶれても、当然とみなされて来た。誰もそのような社会の最下層民をあえて救おうとする者はなかった。

不遇が嫌ならば、闘え。勉強して、良い成績を取り、良い大学に入り、良い会社に入り、会社の中で同僚に勝って、出世しろ。金儲けをしろ。有名になれ。それができないなら落ちぶれて当然だ。
それが今までの社会の価値観だった。

だが今、勝ち組よりも、負け組の方が圧倒的多数になろうとしていることにより、このような自由競争によるバランスが保てなくなった。市場原理主義そのものが悪として打ち捨てられようとしている。しかもそれが日本国内だけでなく、世界規模で起ころうとしているのだ。

競争原理の敗退は、受験競争の見直しや、「国民に犠牲を強いる構造改革」の問題が明るみに出ることによって、少しずつ進んできた。今、世界経済の成長率がゼロに落ちることによって、それに最後の一打が加えられようとしている。資本主義的市場経済によりすがった社会のあり方そのものが揺さぶられているのだ。

富の公平な分配と、高齢化社会への対応は、これまでのような市場経済における自由競争に頼っていては維持できず、社会主義的計画経済のような、国家による強制介入なくしては、成り立たないということが徐々に明白になって来ている。

このままではいずれ、多くの国民が飢え死にに追いやられる。このまま手をこまねいていたのではいけない…。
だが、富の公平な分配を行うためには、私有財産の不可侵性という考え方に手をつけるしかない。個人の私有財産に国家が何らかの形で介入し、それを個人から没収した上で、「公平に」再分配する他はない。それが分かっていればこそ、誰もがそこで恐怖を感じ、二の足を踏むのだ。

所有権、つまり、市民の私有財産の不可侵性は、資本主義の根本原則だ。もしも国家が貧しい人たちを救うためにと言って、富裕な人々の私有財産に手をつけ始めると、つまり、格差を是正するために市民の財産を没収したり、土地を国有化したり、巨額の税金などの形で、個人資産の強制的徴発を始めたりして、国家による土地と財産の再分配のようなことを行うなら、そのような社会はもはや資本主義社会ではない。

何かせねばならないと誰もが感じつつも、社会主義が到来することには誰も同意できないため、人々は口をつぐんでいる。


7.新しい時代を率いる勢力はプレカリアートであるが、彼らの作る世の中に期待できることは少ない。

日本が世界同時不況をどのような方法で切り抜けるのか、それはまだ分からない。いずれにせよ、マルクスが提唱した弁証法的歴史観が述べているように、これまで相対的に善とみなされて来た市場原理という価値観が今、没落し、悪として排斥されつつあることは確かだ。だが、それに代わって登場する新しい価値観とは何であろうか?

実は、新しい時代の価値観を知るのはそう難しいことではない。新しい価値観を知るためには、新しい時代の担い手に注目すれば良いのだ。
20世紀には、プロレタリアートの解放を掲げて、諸国で社会主義革命が起きたが、そこではプロレタリアートの解放こそが、革命を支える理念となった(現実にその仕組みが機能したかどうかは別として)。

そのような歴史に鑑みるなら、市場経済というこれまでの価値観が没落するに伴い、これまで市場経済の仕組みによって虐げられてきた社会的弱者が、新しい勢力として台頭すると考えられる。そしてこの勢力こそが、新しい時代の理念の担い手、新しい理想の体現者になるだろう。

それはつまり、これまで弱肉強食の社会によって打ち捨てられてきたニート、引きこもり、ネットカフェ難民、ワーキングプア、派遣労働者、フリーター、ポスドク、ホームレス、パラサイト・シングル、シングル・マザー、母子家庭の子どもたち、身障者などの「社会的弱者たち」が、新たに時代を率いる勢力となって台頭することを意味する。(これらの人々は、その収入の不安定さから、別名、プレカリアートとも呼ばれている。)

彼らが政治的に団結することを待たずとも、高齢化社会においては、今まで熱心に働いて来たサラリーマン世代が老後に追いやられるにつれ、否応なく、ニート世代、ロスト・ジェネレーション世代が台頭してくることは避けられない。

だが、このような予測は暗澹たる印象を我々にもたらす。新時代は、ニートと引きこもりが率いる? ニート政権ができる? 嘘だろう? ニートに、一体、どんな理想があるというんだ? 引きこもりにどんな希望があるというのだ? 彼らにどんな世の中が作れるというのだ!?

今まで社会参加の機会を奪われ続けて来たがゆえに、異なる世代に対する恨みと怒りに燃え、満足な職業訓練も受けず、場合によっては、教育も中途半端にしか受けておらず、社会経験を持たないために、人間が未成熟で、人間関係を築くことを十分に知らない者たち。
もちろん、職業訓練や、教育を受ける機会を十分に与えられなかったことは、決して、彼らの罪に帰されるべき問題ではないが、それにしても、そのことの結果として、彼らが、知識と経験の不足のために、社会を率いる即戦力とはならないことは誰にも否定できないだろう。にも関わらず、そのような人々が実権を握って、社会を動かすようになれば、どんな世が出来上がるだろうか?

…そんな世の中には、ほとんど何も期待できない。そのことはほぼ誰もが同意するだろう。ロシアのプロレタリア政権がどのような末路を辿ったかを見ても、そのことは明白だ。これまで筆者が再三に渡って訴えてきたように、政治的な弱者解放運動というものは、歴史上、初めの初めこそは解放的な輝きを発していても、結局、弱者を真実の解放に導いたことは一度もない。解放という名目で、ただ恐ろしい未来が待ち受けているだけである。

だがそれでも、このような価値観の転換、勢力の転換は、歴史的に見て、避けられないもののように筆者は感じる。市場原理主義が価値を失う以上、それによりすがって生計を立ててきた人たちが同時に権威失墜することもまた避けられない。
ワーキング・プアやロスジェネたちの不満をこれまでろくに受け止めて来なかった政府と国民に、これを防ぐ手立てはない。本当は、強い者は、弱い者をかばうためにこそ、己の権力を行使するべきであった。だが、弱い者を見捨て続けてきた強い者が、今更、平和を唱えても、誰も耳を貸さないに違いない…。


結論: それでも日本の体制崩壊は避けられない。

今、ロスジェネ世代の政治化が進んでいる。一方には、鳥肌実のような、帝政ロシア末期に現れた極右勢力、「黒百人組」を思い出させるような右翼的スローガンを利用する人々と、もう一方には、「ロスジェネ」を創刊したような左翼的な人々がある。
今は平和的に活動しているこれらの団体や人々をすぐに危険視するのは過剰反応というものだろう。だが、若者の政治化が進んでいけば、やがて思想と行動力の双方を備えたもっと先鋭的な団体が登場してくると予想される。そこから原理主義組織のようなものが出て来る可能性が大いにあるので、注意が必要である。

もしも政府が経済対策に無能であり続ければ、必ず、そのような極端で先鋭的な組織が政権を奪取しようとする日が来るだろう。大規模暴動に見舞われた日本が、軍事国家となるか、中国に占領されて属国となるのか、あるいは引きこもりとニートとワーキング・プアに率いられるプレカリアート社会主義政権が樹立することになるのか(ほとんどブラック・ジョークだ)、いずれにせよ、暗雲垂れ込めるような未来予想図があるだけである。

本来、こんな時こそ、キリスト者は社会に希望と平和を訴えるべく活動すべきなのだが、腐敗まみれで弱体化したニッポンキリスト教界には到底、そんな役目を果たす力がないことは明らかなので、クリスチャンはせめて個人の生き方を通して、少しでも世の光となるよう努力する他ない。

聖書的に見ても、神に由来する絶対的な善の他、どんな価値観も、時代と共に移り変わる相対的なものでしかないことが分かる。ある時代が寵児としてもてはやした価値も、次の時代になれば、無価値なものとして捨てられる。歴史はそのような運動を繰り返して来た。

これまで誇らしげに栄えてきた価値観全体が地盤沈下しつつあり、やがて没落していくことは避けられない。それはニッポンキリスト教界の没落であり、公的機関の没落であり、政治の没落であり、市場原理主義の没落である。あらゆる分野に渡って、社会の「模様替え」が要求されるような時代に、今、私たちは入りつつある。

横暴な支配を繰り広げてきた勢力には、近い将来、一種の歴史的制裁の斧が振り下ろされるかも知れない。どこかの教界の偽牧師のように、貧しい者を虐げ、不当に甘い汁を吸ってきた自覚のある者たちはご用心だ。
 

2009/01/17 (Sat) 社会問題
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