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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

久々に裁判に関する進捗報告を一つ。

カルト被害者を名乗る人々はよくよく見ておいて欲しい。 もしもキリスト教会であなたが何かの事件に遭遇したとして、受けた被害の相談をあなたは誰かに行いたいと考える。むろん、それを禁じる法はなく、誰かに話せば胸の内がすっきりすると思うのも当然だろう。

だが、そこで誰を相手に相談すべきかは、よくよく考えて検討することをお勧めする。特に、宗教トラブル相談センターに赴くことが妥当かどうかは、よくよく熟慮することをお勧めする。

なぜなら、相談と引き換えに、あなたは個人情報を収集され、その後、もしも相談した相手に何かの不審や疑問を感じても、いざ批判の言葉を口にすれば、たちまちネット上ですさまじい制裁を加えられるだけかも知れないからだ。

あなたは相談内容をことごとく公表されて、個人情報を暴かれ、人生の道を踏み誤り、カルト宗教の洗脳を受けた信者と呼ばれ、プライバシー権を侵害された上、そうした事件の解決を目的に、相手を調停や訴訟の場に呼び出し、公に議論しようとしても、その相手は、決して裁判所からの呼び出しに応じて速やかに出頭しようともせず、色々な理屈をつけては、逃げ回るだけかも知れないからである。

あなたは教会で遭遇したごくごく些細なトラブルをきっかけに、それとは比べものにもならないほどの巨大な重荷を背負い込まされることになるかも知れないからだ。

以下は、アッセンリーズ・オブ・ゴッド教団京都七條基督教会、宗教トラブル相談センターの村上密牧師が、当ブログ執筆者を原告として提起された訴訟の第一回口頭弁論期日について、「バングラデシュへの出張」を理由に、事件の京都の裁判所への移送を申し立て、それが裁判所により却下された通知である。

かつて被告A(杉本徳久)は、自らのブログで、被告が申し立てさえすれば、事件を被告の住所の管轄裁判所に移送できるかのように主張していたが、そのような主張が虚偽でしかないことが、この決定によっても証明された。

原告が知っている限り、一般に、原告の住所地の所轄裁判所で提起された損害賠償請求事件に、被告の希望に基づいて、移送の申立が認められるための条件は、かなり厳しい。被告が、仮に次回、別な理由を持ち出して移送を希望したとしても、同じように却下となる可能性は極めて高い。

それにしても、自分が正義の味方のように、カルトをやっつける側に回る時には、意気揚々と法廷闘争を呼びかけ、他の牧師を法廷に引きずり出すことをいとわない人間が、いざ自分が被告として法廷に呼び出されると、何かと理由をつけては出頭をしぶるというのは、感心できる態度ではない。

公に名を名乗り、TVにも出演しながら、全国をカルト被害者への支援のために飛び回っていることをアピールしている牧師ならば、誰からどんな訴えがなされたとしても、正々堂々とそれを受けて立ち、持論を展開して公の場で反駁すれば良いだけであり、自分にとって不利な訴えにも、根気強く、透明性のある形で、公に反論している姿が、信頼を呼ぶのである。それをしようとしないのは、自分にとって不都合なことには向き合うつもりがなく、そもそもやましい思いがあるから出頭したくないのだろう、などと憶測されても仕方がない。
 
しかも、海外出張という一過性の出来事を理由に、移送の申立が認められる見込みがほとんどないのは、誰にでも事前に予想できることである。そこで、この移送の申立は、自分が出頭を拒むための口実であるだけでなく、事件の解決を何とかして先延ばしにし、自分に不利な判決を先送りするための苦肉の策だと思われても仕方がないだろう。

それにしても、海外宣教師でもない牧師が、この時期にわざわざ出張というのは・・・。一般信徒から提起された訴訟に向き合うことが、そんなにも怖くて、バングラデシュまで逃亡せねばならないのか、という憶測を呼ぶのも仕方がない。

断っておけば、第一回目の口頭弁論には、被告は出頭しないこともできる。しかし、出頭しなければ、自分の口から主張を説明できないので、誤解が生じ、不利な判決が下される恐れが増し加わるだけだ。そして、二回目以降の期日には、出頭しないことはできない。

審理が長引けば長引くほど、被告として呼び出される回数が増え、答弁する苦労や、交通費が増し加わるだけのことである。それくらいなら、一度ですっきりとカタをつけるために、全力で準備した方が、よほど重荷が減るだろうに。
 
さて、被告らの答弁書が提出されたので、原告も準備書面を作成したが、村上密の答弁書は2頁、杉本徳久の答弁書は6頁と、相も変わらず、真面目に答弁しようという意気込みが全く感じられない。

原告が提起した訴状は約200頁。それに対し、この分量の反駁では、訴状の冒頭部分にさえ反駁したことにならず、自分の主張の正当性を広く世に訴えて、自分の権利を守るつもりが初めから全くない、とみなされても仕方がないことであろう。

具体的な根拠も伴わない一方的な「言いっぱなし」のスタイルが認められるのは、ネット上だけのことである。それ以外の文書では、すべての主張に具体的かつ客観性のある論拠を示すことなしには、どんな主張も正当と認められることはない。
 
神に対しても、人に対しても、原則は同じだが、自分がどのような権利を持っているのか、きちんと根拠を示して、他者に訴え、公然と自らの願いを正当なものであると主張することをしないのに、その人の言い分が認められることは、決してない。

主張しないということは、最初から、自分の権利を放棄し、自分に有利な判決をあきらめているのと同じことである。

被告らの主張には、依然として、いかなる信憑性のある具体的な根拠も示されておらず、仮に二回目、三回目の期日を開いたとしても、そこで新たな証拠等が提出されて、今以上に有意義な議論が行われる見込みがほとんどない様子は誰にでも分かる。

そこで、彼らの答弁書の分量・内容の薄さが、今後の審理の進行に甚大な影響を与えることはほぼ間違いないと予想される。



 


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「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。

ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えてのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(Ⅱコリント11:2-4)

ウィルソンは、霊的にはただ一人の夫であるキリストと結ばれた花嫁であるはずだったのが、いつの間にか、別な存在と「結婚」させられ、いつの間にか、「違った霊」を受けてその導きのもとに歩み始めていた。そのことをまず真っ先に察知して懸念したのは彼の妻であった。
 
 

ある時は結婚記念日を祝う際、私は妻に武術の用事が
あるから明日にしようと言ったこともあった。
他にも色々と家族行事を武術のために後回しにした。



ある週末の日、妻と私が喋っていた時、
妻は昨夜見た夢について話し始めた。
私は夢に意味など無いと信じていたが、
妻は夢についてとても悩んでいた。

「エリック、これは主から来たものだと思う」



「あなたの学校の上級ランクの人たちが、
手をつないで輪になって立っていたのを見たの」
「その外側には彼らの家族が周りに立っていた。」

内側の輪がどんどん縮まるごとに、
家族はどんどん輪の外へと追いやられていた

妻が夢の話をしたあと、
彼女がその夢にとても悩まされているのを見た。


ウィルソンの妻は、正夢を見たのであり、そこでは、上級ランクの者たちが結ばれている「輪」は、家族との絆よりも強く、家族の絆を排除してしまうような残酷な「輪」だった。これはちょうど「皇国」のために命を捧げると誓い、家族を捨てて死へ赴いた三島由紀夫と盾の会のメンバーを思い出させる。

三島の盾の会と同じように、武士道に命を捧げることを誓ったウィルソンら武術学校の生徒らは、自分自身の生涯をその「道」に捧げるという、誓いによって結び合わされており、その「輪」は家族の絆よりも強い、死による絆だったのである。

 
(映画”MISHIMA"から)
 
先に述べたように、「道」とは永遠の循環を示す「輪」なのである。『龍の正体』の最後においても、この「道」が「輪(和)」であり、日輪(太陽神)であることが明かされている。
 
私たちはこのような「輪(和)」で結ばれているのは、武士道に生きることを誓った一部の人々だけだと考えているかも知れない。そういうものは、極端な宗教カルトのようなもので、今日の我々とは関係がないと。しかし、本当に、そうだろうか。私たちはこれを一部の人々だけの極端な生き様と笑うことができるだろうか? 

たとえば、戦後の日本の企業社会においても、企業戦士と呼ばれたサラリーマンたちは、妻子を置き去りにして、この「輪(和)」の闘いの中に生きる男社会を作ったのではなかったろうか? あるいは、受験のための競争社会となり、いじめによる多数の自殺者を出している学校教育も、子供たちを家庭から引き離して、この「輪(和)」に引き入れるものではないだろうか? 非正規雇用が拡大し、完全なヒエラルキーに基づく固定化された身分社会のようになっている現在の雇用情勢も、残酷な排除の「輪(和)」ではないだろうか? 

こうして、この残酷に人間を犠牲にし、死へ追いやる「輪(和)」は、今日も目には見えない武士道として、多くの日本の集団を貫く過酷な競争と排除の原理となり、人々から平穏な家庭生活から奪い去り、闘いの中で討ち死にさせている。
 
だが、ウィルソンは妻の忠告も退け、さらなる暗闇に足を踏み入れて行くことになる。

私は憤りを感じた。
今思えば、それが何を主にして仕えるかの分かれ目だった。
彼女が私を人生で一番大切に思っている
武術から引き離そうとしているように感じた。
それですごく怒りに満たされた。
彼女は理解していないと思った。

そして私はますます特訓に励んだ。
若い頃の夢の間に
何物をも立ちはだからせないと思ったからだ。

しかし理解していなかったのは
私の方だった。
それは私の自分本位の欲望を
妻と私の間に置いたからだった。

命を与える聖書の言葉は
今日、私たち一人一人に語りかけている。

「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、
あなたの目をわたしの道に注げ。」(箴言23:26)

「夫たる者よ。キリストが教会を愛して
そのためにご自身をささげられたように
妻を愛しなさい。」(エペソ5:23)

すべての男性に立ち向かう闘いは
妻と子を自分よりも愛することだ。
苛立ちと反抗で私は
呼んでおられる神から心を遠ざけた。
服従することが勝利と自由へ導くということに気づかずに。」

 
ウィルソンは自分を縛り、幸福から遠ざけて行く偽りの契約の重さを認識していなかった。その「道」は、彼が幼少期に味わったトラウマを無意識に再現する道であり、妻子を捨て、子供にも取り返しのつかない悲劇を味わわせる道であった。
 
 


  

「願っていた夜がついに来た。
闘い相手と私はカンフーの弟子の資格を貰うことになった。
プライベートな儀式で上級ランク者しか
参加できなかった。
武術の訓練をし、教えたりしながら
17年も経ったあと
少し先に黒帯をとったライバルと共に
第五の夜明けのランクが与えられることになった。

私はその時のことを鮮明に覚えている。
師匠が我々二人と共に
弟子の資格式に入って来た。
二人とも同じ日に儀式を行った。
我々二人はこの30年間で初めての
第五の夜明けのランク受領者となった。

儀式の時、師匠が長い杖を持って入ってきた。
杖には馬の毛のようなものがあって、彫刻が刻まれていた。

儀式が終わり、皆がいなくなったあと、
私たちは師匠にそれについて尋ねてみた。
その杖は何処から来たのですか?
今まで何年もこの学校にいて
一度もそのようなものを見たことが無かった。
「この杖は誰かが弟子の資格を取った時のためだけに出すものだ」

後でわかったことは、それはシャーマンの杖だった。
師匠は主を愛していて、キリスト教だと
告白していたが、光と闇とを混ぜていた。

儀式から一週間たったころ、個人授業を
闘った仲間と一緒に受けていた時
忘れられない言葉を師匠が言った。
あなたが今学んでいることは
百年前だと魔術師とみなされていた事柄だ


ウィルソンが「結婚」(重婚)させられた相手が、どういう霊なのかが次第に分かって来た。儀式の度に、新たな異教のシンボルが登場する。師匠が持っていたのは、魔術師の杖であった。師匠はキリスト教徒を装っていたが、裏の顔があり、キリストへの信仰と、異教への信仰と、混ぜ合わせた霊を持っていたのである。
 
 



それからの二年半の特訓は想像以上のものであった。
平均台や梅花は柱の上で騎馬立ちしながら名何時間も毎日瞑想して
「気」と呼ばれる神秘的な力を引き出す訓練をしていた。
瞑想と深呼吸とイメージトレーニングをしながら、
体の温度を変えたり
精神力で環境や戦う相手に影響を及ぼしたりすることを学んだ。

訓練を進めるために、やむをえず私は神の言葉の
はっきりした啓示から妥協していった。
不従順の道を進むにつれ、心は頑なになり、
父なる神の愛する声が聞こえにくくなっていった。

神の言葉が取り去られると、私の人生の基礎が崩れ始めた。
家族と家庭が嵐によって吹き飛ばされていった。
私と神との絆と妻との契約とが壊れていった。

弟子の資格をとったあと、結婚生活が危うくなり始めていた。
そして私は誰にも相談できない悩みと格闘していた。

結婚を維持させ妻子を守るという
使命感と反対方向に私を向かわせる武術。
いまだかつてなかった難問だった。

ウィルソンの武術の特訓が、もはや体を鍛えるためのものではなくなりつつあった。彼は体の温度を変えたり、精神力で環境や対戦相手に影響を及ぼすなど、人体の通常の限界を超えた訓練を行い、自分の体を変容させ、超自然的な力を発揮する術を学んでいたのである。

通常、このようなことは、霊によって行われることであり、キリストの霊は、よみがえりの命であり、すべてを統治する神の非受造の神の命であるから、その命には、物理現象を治め、人の心にも、影響を及ぼす力がある。信者は御霊を受けて、神の言葉に従って生きる時、口では説明できない様々な不思議な現象が、祈りや信仰を通して起きて来ることを知っている。信者はそれを神が祈りに応えて下さったのだと思う。むろん、そうである。だが、同時に、それは信者の内に住んでいるキリストの御霊の働きでもある。御霊は万物を支配されるキリストの霊であるから、そこには統治という原則が存在するのである。

だが、邪悪な悪霊も、御霊の働きを模倣し、肉の力で「永遠の命」の働きを再現しようとする。

内丹術が人体を「気」によって変容させ、最終的には人を「道」と一体化させて、不老不死(永遠)に到達することを目的としていたことを思い出したい。ウィルソンの行っていた訓練はそのような人体の変容の始まりであった。

ウィルソンの家庭生活はこの頃から明らかに破綻し始める。
 

武術で学んできた技術や思想は
罪と闘って自由を得る助けにはならなかった。
武術では、なんであっても適度にとれば害はないと教わった。
絶対的な原則、白黒など無かった。
すべては真ん中の灰色。

神の言葉で明白に「人は二人の主人に
仕えることはできない」と書いてある。

しかし私はこの16年間それをしようとしていた。
家族と一緒に毎週教会に通ったが、
心は神のことと家庭のことから遠ざかっていた。
私は武術と肉の欲を妻との間に置いた。
そして神と妻との契約との間にも。

これはたぶん人生の中で一番激しい戦いだった。
長年武術を学び、古コンタクトで闘ったりして、
自分ではどんな困難にも立ち向かえる自信があった。
でも気づけば師匠の教えも
鍛えてきたものもこの困難には役に立たなかった。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく
もろもろもの支配と、権威と、やみの世の主権者
また天上にいる悪の霊に対する闘いである。」(エペソ6:12)

教会の中や家庭の中だけに闘いは限らず、
自分自身の中にも激しい戦いが起こる。
向かい合っていた敵は心の中に潜んでいた。

そして自分の欲望や肉欲から自由になる方法が
わからなかった。その声から逃れることも。

その声とは我々が長年聞き従ってきたものであり、
テレビ、映画、音楽や雑誌などを通じて
今日も語りかけている。
そして私にとっては師匠や武術を通しても語ってきた。

「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、
神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。
わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって
立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いを
とりこにしてキリストに服従させる。」(第二コリント10:4-5)

しかし主なるキリストがただで与えようとしている
勝利に身を任せる者はなんと少ないことだろう。
真のクリスチャン…本当に主の弟子になることは
ただキリストを信じるだけでは足りない。
週に一回教会へ行って、朝に少し聖句を読んで
慌てて世の中に出かける以上のものだ。

主 エホバ ヤーヴェはあなたの人生の
7割を要求しているのではない。
生まれ変わるということは
すべてを捧げるということだ。
人生のすべてだ。

武術界では、キリストを見上げる代わりに、
自分の内面を見つめることを教わった。
神の聖なる御言葉の啓示より
自分の気持ちに従うことが第一だった。
そして闘いがあった。

600年前に天で起こった闘いは今もなお続いている。
目には見えないが、すべての男女、
子供のうちに激しい闘いが存在する。
日々、暗闇の中や内なる敵と
闘っている人たちが我々のまわりにいる。
常に命のパンと水に飢え渇いている魂がいる。

彼らは本当にキリストの言葉を信じ、その救いの業や
愛を知っている弟子を見てみたいと望んでいる。

私は一番主を必要としている時に
はっきりとした識別力が必要な時
私は聖霊の指示に対し盲と聾になっていた。

結婚生活の問題を解決したかったが、
聖書を読んでも昔のように理解することができなかった。
私の中で光が闇となり、悪が善に見えた。
それは聖書では「霊によって霊のことを解釈するのである」
(第一コリント2:13)と書かれているからである。

武術や師匠やメディアを通した龍の声に
長年耳を傾けていた為か、
天の父の御言葉が分からなくなった。

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。
すなわち、それは神の律法に従わず、
否、従い得ないのである。」(ローマ8:7)

 
 
ウィルソンは言う、「武術界では、キリストを見上げる代わりに、自分の内面を見つめることを教わった。」グノーシス主義は、神と人とが本来的に同一であるとみなして、神を探求すると言いながら、人に「本来的な自己を取り戻す」という口実で、自分自身を見つめさせる。神を仰がず、自分自身を見させるのである。

パウロはローマ人への手紙の第8章で、人間の内側では、肉の思いと霊の思いとの激しい葛藤があり、肉の思いは神に敵対し、神に従い得ないと書いている。しかし、人間の堕落を認めないグノーシス主義は、肉と霊とを区別しない。そして、堕落した肉を本来的に神と同一の「神聖な要素」の一部とみなすのである。そのため、グノーシス主義とは、「肉の復権」の思想なのだと言える。また、これに基づいて生まれるすべての思想も、人間の邪悪さを聖とみなし、光を闇とし、善を悪とし、すべての物事をさかさまに、あべこべに見るのである。

仏教では、仏(悟りを得た者)に備わる四つの知恵とされるものの一つに、大円鏡智(だいえんきょうち)というものがある。これは万物を鏡に映すようにしてそありのままの姿を真理として把握するという意味である。

だが、 鏡に映すと、すべてのものがさかまさに見えるのは言うまでもない。ここで言う「鏡」とは、聖書の神の側から見た真理ではなく、堕落した被造物が造り出した認識の世界、人間の側から見た事物の有様であり、大円鏡智なるものは、グノーシス主義の「鏡」と同じで、人間の認識が神の認識に取って代わって、普遍の真理、リアリティとなってしまっているのである。

それは「本体」がなくなり、「影」に過ぎない「映像」が自分は本物だと主張している世界であるため、それゆえ、そこで言われる「真理」はすべてがさかさまで、転倒してひっくり返っているのである。創造主の側に真理があるのではなく、被造物の認識の中に真理があるとみなすと、必ず、すべてが裏返しになった偽りの「真理」が出来上がってしまうのである。これが、グノーシス主義の「鏡」が作り出すさかさまの世界観である。

六ヶ月くらい自分の中で闘い悩んでいた。
でもそれは武術の教え通りに闘ったのである。
自分の強い意志と特訓で治めようとした。

しかしどんなに強くても、キリストの力無しでは、
人間はとうていサタンや悪天使たちに打勝つことができない。
何も解決しないことに苛立つあまり、龍の声に耳を傾け、
自己の自由を選び、とうとう離婚届を出した。

家庭が壊れた経過は言葉では言い表せない。
多くの人は、神の言葉を聞くよりも、
自分の肉の声に聞き従うと。
どれだけその選択で取り返し難い影響を
永遠に受けるか気づいていない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。 だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)
 



田舎の家から引越しトラックで出て行った日を
今でもはっきりと覚えている。

それは家に帰る最後の日で
残りの家具をとりに行くところだった。
砂利を敷いたドライブウェーに駐車する時、
私は妻と小さい息子が玄関で天に向かって
助けを祈り泣き叫んでいたのに気づかなかった。

そしてトラックで出て行く時
六歳の娘が後ろから走ってきて
「パパ、パパ、待って!行かないで!」
と泣き叫んでいたことにも気づかなかった。

何年かしてから私の去ったことが、
どれだけ妻子につらい思いをさせたかを知らされた。
 

 
ウィルソンが肉に従って歩むに連れて、彼の内側で、愛が冷え、無慈悲さ、頑なさ、冷酷さ、自己中心性など、強情で冷たい性格が育って行った。体を変容させる試みは、彼の心までも変容させた。ただし、それは彼が願っていたような変容ではなく、「神のように」なることとは裏腹に、事実は、悪魔の姿に近づいて行った。

ウィルソンが子供たちを無慈悲に捨てた行動の中には、無意識のうちに、彼自身が父に捨てられたという心の傷が影響していただろう。「気」を汲み出す訓練が、激しい苦痛の連続であったように、悪霊は、人間の加害者意識や被害者意識を通じて働く。加害者意識と被害者意識は表裏一体であり、被害者意識を抱えたままの人間は、いつ加害者に転ずるか分からない暴力性を秘めている。肉にある生き方は、憎しみと怨念と暴力の道で、永遠に終わらない心の傷の連鎖を生み出すだけである。
 
 

  

妻のサラは信仰の闘いをし始めた。
彼女は主が約束の言葉を守らないはずはないと固く信じていた。

彼女は毎日神の約束を繰り返し音読した。
「神が合わせたものを人は離してはならない」
(マルコ10:9)

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して
救われるからである。聖書は、『すべて彼を信じる者は
失望に終わることがない』と言っている。」
(ローマ10:10-11)

妻が聖書朗読、断食や祈りをしていた時に、
私は自分が若い時から夢に見た
武術の深い闇に自らのめり込んで行った。

神が自分の良心に語り掛ける声をずっと打ち消そうとしたが、
良心の声と神の声の問いかけが続き、罪の呵責に苦しんだ。



妻が子供たちを私のアパートに連れてくる時、
妻がとても痩せ細っているのに、
目が喜びに満ちていたのを覚えている。
それがなぜか私には理解できなかった。
私が一生懸命になって得ようとしていたものを
妻は既に持っていた。

しかしどんなに走っても、
どんなに娯楽で気を紛らわせようとしても、
一人で夜ベッドに横たわる時、深い沈黙に包まれた。

「どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。
そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は
海の波のようになり」(イザヤ48:18)

「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、
何ものも彼らをつまずかすことはできません。」
(詩編119:165)


それでも、ウィルソンの探求は終わらず、彼は新たな師匠と出会う。そして、その師匠との出会いが、武術に隠された悪魔的な起源を知らされるきっかけとなった。(写真は前の師匠。陰陽道のシンボルや、武士道などの言葉が道着に記されている。)
 



もっと深い知識と力を学びたいと思い、
中国の内家拳の太極拳、八卦拳や気功などに励んでみた。
ある週末、親しい友達が熟練した武術者が
来るからとトレーニング講座に誘ってくれた。
そこは私の住んでいるところから数時間離れた町にあった。

私はこの武術者に会いに行くのがとても楽しみだった。
なぜなら彼は名声ランクも高かった。
なにより彼は内なる力「気」を実演したり
教えたりすることのできる人だった。
彼は第十の夜明けとして認められていて、
二つの拳法のカンフーと中国の気功を教える資格を持っていた。
気功の目的とは、武術と医学のために、
「気」の力を育てるためのものだ。

講座での訓練が終わったあと、
その師匠が来て数人かの生徒たちと話した。
そして黒帯とその従える生徒たちに
訓練についての指示を与えたのち
彼らはその指示通りに行うために去って行った。

師匠と二人きりになった時、彼は私を個人的に名指した。
私は彼と初めて会うのだが、彼はこの出会いは偶然ではないと言う。
ある中国のことわざで「弟子が準備が出来た時に、師は現れる。』

その日から、私はこの師匠の元で訓練する機会を徹底的に探した。
彼には、私を教える知識があるばかりでなく、
第五の夜明けの上の生徒の進行を見守る権威があったからである。
長年彼と付き合った中で一番記憶に残るものがある。

ある夜、激しい訓練が終わった後、
師匠は「気」を獲得する方法についてのなざを語り始めた。
しかし期待していたのとは違って、
中国の勇士や賢人について語るのではなく、
現代の音楽家ジミ・ヘンドリックスや
エリック・クラフトンなどの才能について語り始めた。



カンフーで使うエネルギーを
有名な音楽家が欲望に満ちたロックミュージックに
注いでいたエネルギーと比べていた。

その時彼が教えてくれたのは
初心者は「気」は「内なる力」と教わり、
中級レベルでは「気」は「息」と教わり、
上級レベルでは「気」を「霊」と教わる。

そしてこの霊的なエネルギーが何千という違う形で現れる。
それは武術者にとっては速度と力い使われ、
ホリスティック治療家は
患者を癒す振動エネルギーとして用い
会社重役や指導者は部下を
巧みに制御し影響することに用い、
役者は観客を虜にさせるような演技をするため、
音楽家はパフォーマンスに活気をつけさせ、
聴衆の感情や心を意のままに動かすために、
霊的なエネルギーは使われる。

 
新しい師匠に出会って、初めてウィルソンはそれまでは「内なる力」や「息」のようなものだと教えらえていた「気」の正体が「霊」であることを明かされる。「気」は「霊」から引き出されるエネルギーなのである。

その霊的なパワーが一種の見えない「波動」となって、音楽の演奏や、気功による治療や、企業活動などの場面で、人間関係に影響を及ぼし、自分の望む効果を相手から引き出すために利用されているのである。

だが、一体、それは何の「霊」から引き出されるエネルギーなのか? ウィルソンは師匠の自宅を訪問した際に、その秘密を知ることになる。
 

数年間この師匠の下で訓練を受け
もし本当にこの人の教えをすべて受け入れるなら
もはや他の主人に仕えることが出来ないと気づいた。

弟子が師匠から離れて別な学校で教師になって
教え始めるというのは珍しいことではない。
私はそうすることにした。

そして忠誠が引き裂かれたと悩む必要がなくなった所で
東洋武術に隠された力を探ろうとし始めた。

その力は見えるものであったが、その力が何処から
来るのかは常にわからないあやふやなままであった。

私はよく師匠の住んで教えている町まで
六時間かけて運転して行った。
ある時、師匠の家を訪問した。
ここで世界中の弟子たちが長年闘って
訓練してきた裏の秘密を知った。



師匠の家に入ると、意外なものを見た。
長年親しんだ少林拳の将軍や伝統的な着物を
着た僧などの絵が貼ってあるのではなく
部屋のすべての壁に飾ってあったのは、
等身大のヒンズー教の神々の壁掛けであった。

 

  
 
自分の頭の中で危険信号が鳴り響いた。
聖句の警告や子供の時教わったもの
今まで押し殺してきたものが、
すべて浮かび上がってきた。

師匠はその日、私に不思議な質問をしてきた。
「もしも、武術がすべて少林拳から始まったのであれば、
なぜこんなにも多く同じ思想で違う表し方が存在するのだろうか?」
私はそれを聞いて驚いたが、しかし興味深いと思った。
この質問の答えは長年探していたものだったが、
どう言葉で表現していいか分からなかったものだった。
危険信号がさらに大きくなった。



師匠の家にはヒンドゥー教の神々の壁掛けが飾られていたが、それによって、武術で見られるあの圧倒的なパワーが、聖書の神ではない、異教の神々すなわち悪魔と悪霊に由来して引き出されるエネルギーであることが徐々に分かって来た。師匠は示唆する、武術は少林拳から始まったのではないと。もっともっと古い起源があると。そして、そのことは、むろん、ただ武術だけに限るのではない。太古からあるものが、武術を含め、あらゆる分野において、様々なバリエーションとなって現れているに過ぎないのだ。

では、その太古からある起源とは何なのか? すべてのバリエーションに共通する型とは何なのか?

何事も徹底的に究明しようとするウィルソンは、ついに自分をそれまで導いてきた武術のパワーの根源がどこにあるかを知ることになる。すなわち、彼がそれまで追って来た「霊」の思想の起源を発見する。
 

その年は2007年であった。
武術では、夢見てきたことを何もかも成し遂げた。
ある夜、八卦掌のクラスを教えていた時のことだった。
八卦掌は太極拳と良く似ていてゆっくりとした正確な動きで
深呼吸や瞑想しながら動きに集中した。
私は生徒たちを円を描くように歩かせながら、
深呼吸や手のしぐさに集中していた。

それをしている間に、生徒の目を見た。
彼らが本当に武術の力を引き出しているか
どうかを確かめるためだった。

すると目を見ていると、生徒全員が催眠状態のような目つきをして
汗でびしょぬれであることに気づいた。
武術の経験のある私は、こんな軽い運動で
汗をかくなど人間的に不可能だと思った。
肉体訓練や柔軟体操などしてなかったはずだ。

その瞬間、私の精神は上に引き上げられて
生徒にフォームを教えている間に、まるで上から見下ろすように、
生徒たちと私が道場の床で作っている形が見えた。
こんなことはかつて経験したことはなかった。
まるでミステリー・サークルみたいだった。
百姓が畑に出るとただの散乱した畑であっても、
上から見下ろして鳥瞰図にしてみれば模様の形が見えてくる。



私が見た形は円で、その中心に点があって
まるで図星のようなものだった。
この形に関して非常に悩んだのは、
同じ形がすべての武術文学、書き物、師匠達の
様々な本などに載ってあるのを見たからだ。

その夜家に帰って自分の本棚をあさってみた。
合気道、日本武術、カンフー、気功、中国武術と
どの本を見ても同じ円の形があった。
そしてその意味もわかった。
それは太陽の神「道」をさすものであった。

生徒たちにどう説明するか迷った。
どうやって百人近くの人に
これまで学校で教えていた武術というものが、
太陽の神の霊を呼び出すものであったと伝えられるのか。


今までにも説明して来たように、「道」(=世界の根源となる混沌)とは、グノーシス主義の「虚無の深淵」や「鏡」、仏教の「空(無)」と本質的に同じ概念であり、日輪すなわち太陽神と一体である。シンボルとしての「道」は、永遠の循環を表す円(輪)である。

それが分かれば、たとえば、禅において、悟りに至る諸段階を、十枚の絵で表してるとされる「十牛図」が、なぜすべて円の中に描かれているのかも分かる。この円は「道」なのである。
 

十牛図

ウィルソンは、それまで人生で最も大切な価値だと信じて来た武術が、反聖書的な悪魔的な教えを起源としていることに気づいた時、その事実から目を背けなかった。彼はただ力が欲しかったのではなく、真実が知りたかったのである。そこで、彼は生徒たちにも、「輪」のシンボルについて調べさせた。すると、「道」(=「輪」=「鏡」=「太陽神)のシンボルは文化の壁を超えて様々なところに見られることが分かる。



そこで次の週、上級クラスに宿題の課題を出した。
家に帰ってこの形の意味を探してくるように
と言ってその円を黒板に描いた。

その次の週、クラスでは深い沈黙があった。
水を打ったような静けさだった。
すべての生徒たちは厳粛な表情をしていた。

私は一人ひとりにクラスの前で何を見つけたか発表させた。
宿題の課題を出す時、どこでその意味を
探しても構わないと前もって伝えてあった。

歴史の本、アステカやマヤ文化、エジプトやローマ、バビロン、
刺青の本やウィッカなど魔術の本からも探していた。







 





  どこで探したにせよ、結論は同じであった。
太陽の神の象徴、中国では「道」や
「陰と陽」などで表されている。
 


(陰と陽 Wikipedia「内丹術」から陰陽道大極図)

そしてある生徒が「これはどういうことですか?」と聞いて来た。
これからどうすればいいのですか?何が変わるのですか?
私は彼らに言った「これからはもう八卦掌を教えない」

しかしまだそれ以外にもありそうだと思い、
夜帰宅してまた本を探り始めた。
太極拳、ヨガ、気功、少林派のものも調べてみた。
調べているうちに想像以上に色々と発見してしまった。


武術の圧倒的なパワーが、反聖書的な、悪魔的な起源を有する悪霊による被造物崇拝から来るものであると分かった以上、もうこのようなものを教えることはできない、とウィルソンは考える。彼はそれが分かったにも関わらず、なお自分をごまかして、武術にすがり続けようとは思わなかった。

だが、武術の思想の誤りが分かると同時に、彼が歩んできた道が、聖書の神に逆らい、悪霊に従う誤った道であり、それによって彼は自分の家族を破滅させてしまったのだという事実がはっきりと見えて来た。幼い頃から親しんできたキリスト教の信仰が、彼の心に呼びかけていた。今、まことの神に立ち戻らなければ、彼の人生も家族の人生も破滅すると。
 

昔、母が不安そうにしていた記憶が蘇った。
そして武術で学んでいた霊的な力で私は家族を
破滅に追いやったのだとはっきりと見えてきた。

主は私を呼んでおられた「子よ、今こそ帰ってきなさい」
彼は私に繋がれていた鎖を解放しようと闘われていた。
そして妻子に変わらない忠誠の約束を示すために。
主は私と私の家族を仲直りさせていたと
同時に私の盲の目を回復させていた。

その週のうちに私は生徒たちに発表をした。
もう内家拳の太極拳や気功も八卦掌も
少林派のカンフーですら教えない。
私は肉体的な武術を霊的な武術から引き離そうとしていた。
しかしこれは非常に難しかった。
六、七カ月挑戦してみたところ、
肉体的特訓を霊的な基のある武術から
引き離すことは不可能であると気づいた。

この発表した時、たぶん生徒の四割は去った。
これは経済的打撃が強かった。
それだけではなく、長年付き添ってくれた
生徒が去っていくのをみるのも精神的に堪えた。
 

ウィルソンはそれでも何とかして武術から悪しき霊的な教えだけを切り離して、肉体的訓練の部分だけは残せないかと試行錯誤してみたが、それは不可能であることが分かった。思想はすべての土台であり、その上に生じる現われの部分だけを、思想と切り離して残すことはできない。だが、肉体的特訓ができないことを表明すると、多くの生徒は去って行った。経済的にも、これ以上、武術を教え続けることはもうできないことが明白であった。

しかし、ウィルソンが儀式を通して結ばれ、長年、心を捧げて来た対象には、ウィルソンが武術の精神と訣別することを決めても、そう簡単にウィルソンを手放すつもりはなかった。武術の精神とは、彼を飲み込もうとし続けて来た死の力である。
 

ある夜、クラスを教え終わったあと帰宅した。
真夜中近かった。
ドアを入ってジムバッグを
玄関近くにおろして台所に歩いて行った。
飲み物を取りに冷蔵庫を開けようとしたその時、
首筋に一気に鳥肌が立った。
なにか得体の知れない大きなものが
後ろに迫っているのを感じた。



それはひどく恐ろしいものだった。
長年武術の特訓をして、怖いものなど
自分にはもうないと思っていたのに、
しかし後ろにいたものは私を恐怖に陥れた。

もうどうしていいかわからなかった。
師匠たちに教わったことや読んで学んだ
知識などが頭の中をよぎった。
ここは闘うべきか? 逃げるべきか?
しかしどれも通用しなかった。
どちらも無意味だった。

何が後ろから見下ろしているのかと
みるのは怖かった。
4メートル近くあるように感じた。
その瞬間だった。
耳の中である名前が聞こえてきた。
「イエス・キリスト」
それを聞いたとたん一筋の希望が見えた。

もしかしたら、こんなに反抗した道を
歩んできた私を救って下さるのでは?
家族や他の人を傷つけてきたのに、私を救ってくださるのか?

使徒行伝2章の21節では
私達に約束が与えられている。
「その時、主の名を呼び求める者は
みな救われるであろう」と。

そんなに簡単なのだろうか?
本当に可能なのだろうか?
本当に私の声を聞き届けてくださるのか?
その時、私はひざまづいて、
上を見上げ、思いっきり叫んだ。
「イエス様、助けてください!
主よ、助けてください!」



どれくらい泣いたかは覚えていない。
頬に涙が伝った。
後ろの気配はまだ消えず、ただひたすら
イエス・キリストの名前を呼んだ。

永遠のように長く感じた時間が過ぎ去ったあと
誰かもうひとり部屋に入ってくる気配がした。
そして入ってきた人は、私の後ろにいた
巨大な悪霊のような人をつかんで、
部屋からぶっ飛ばした。
それは見えなかったが、
でも見えるかのように感じた。

私は涙でぐしょぐしょで、ずっと主に向かって呼んだ。
その時から、主は私の個人的な救い主だと知った。
その時から、主は力強い救い主だと私は知った。

2007年8月、離婚の5年後、南フロリダの静かな浜辺で
妻サラと私は聖なる結婚の契約を結びなおした。


2008年にイザヤ・ミニストリー誕生。
我が家は信仰によって、
「主がどんなに大きなことをしてくださったか。またどんなに
あわれんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ5:19)
というキリストの訓戒に従った。 



むろん、この最後の部分をどう受け止めるかはその人次第であろう。筆者は、ウィルソンを殺そうと迫って来たのは、悪魔的な起源を持つ死の力であったとみなす。それが「道」の正体である。永遠の循環を示す蛇の輪は、人間を死と呪いから決して逃がすまいという悪魔の決意を示している。だが、キリストは死を打ち破った方であり、信じる者をそこから解放する力を持っている。

ウィルソンの中で真理が勝った。徹底的に物事を見極めようとしていた彼の性格、知らされた真理から目を背けなかったことが幸いして、彼は信仰を取り戻したのである。他方、彼の師匠たちのような人々は、武術の起源がキリスト教にないことを知りながら、武術が与えてくれる力、栄誉に魅了されて、これを手放さず、うわべだけはキリスト教徒を演じながら、他の神々に仕え続けたものと思われる。

映画"MISHIMA"や、『龍の正体』は、どちらも東洋的な文化の中からは、決して提起できなかったであろう鋭い問題提起を行ている。

『龍の正体』では、「気」を通して「道」(永遠)との合一を目指す思想が、悪魔的な思想であり、「道」とは死そのものであること、また、「気」を引き出す訓練は、人間のトラウマ、利己主義、敵意、憎悪、怨念、憎しみ、欲望などの肉の思いを通して生まれて来るものであることを見て来た。

東洋思想の「道」とは、死に脅かされる被害者としての人類が、自力で永遠性を身に着けて、死を克服して、神のようになろうと、自分を脅かす者に闘いを挑む道である。だが、武術が敵としているのは、悪魔ではなく、聖書の神である。武術は、人類による単なる自己防御の手段ではなく、人類に死の判決を下した神ご自身に対する、悪魔と暗闇の軍勢による反逆の闘いの一部なのである。

十二神将の像に見られるすまじい形相には、自分に永遠の滅びの判決を下した神に対する悪魔の敵意、憎しみ、憤り、怨念、攻撃性が反映していると言えよう。それゆえ、その「道」を行く者は誰でもやがては悪魔と一体化して、鬼と化すのである。

だが、今や、映画の冒頭の警告にあるように、東洋神秘主義の教えは、キリスト教文化圏にも入り込み、それが欧米を経由して東洋に逆輸入されるようになって来ている。ペンテコステ・カリスマ運動も、東洋神秘主義がキリスト教と混合した上で、それが我が国に逆輸入されて入って来たものである。そのことは、ペンテコステ運動が、武術が誇るのと同じような魔術的な超自然的な力を通して神に近づくことを目指している様子からも分かる。そのペンテコステ運動の只中から、カルト被害者救済活動が生まれて来たことは、偶然ではない。

悪霊は、人間の傷やトラウマを足がかりにして、そこから内に侵入し、怨念や憎しみをパワーに変えて活動する。加害者意識と被害者意識はどちらも、悪霊の働く通路であり、人はこれを神に委ね、癒しを求めて祈る必要がある。

ダビデは祈った。

「神よ、わたしを究め
わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。
御覧ください
わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)

ここで「迷いの道」と訳されている部分は、別の訳では、「傷ついた道」、「悪しき道」となっている。人が心傷つき、トラウマを心に抱えれば、無意識のうちに、そこから他人にも自分と同じ苦しみを味わわせることで報復を果たそうとする終わりなき罪の連鎖が生まれる。

だが、人は自分で自分の心を見極めることはできない。人の心を深みまで探って下さり、病んだ部分を探し出して、それを癒し、「とこしえの道」へと人を導いて下さる方は、神だけである。そして、その方に従うためには、人は自分を捨てねばならない。自力で武装して、自力で弱さを克服し、自衛することをやめ、弱さのゆえに十字架につけられたキリストと一つとなって、その死に神のよみがえりの命の力が働くことを信じねばならないのである。

さて、武術がどのように悪魔的な起源を持つものであるかを知るために、『龍の正体』の解説に戻ろう。ウィルソンはその後、大学に通いつつ、ビルマ拳法の学校に通うようになり、そこで5年間の月日をかけて黒帯を取り、キックボクシングの大会に出場して勝利をおさめる。その成功体験が、彼の虚栄心とプライドをさらに建て上げることになる。
 

「クリーブランドの町にいた頃、
いくつかの武術学校に通った。
最初に通った武術学校は
一心流空手道だった。
大学に通いつつ、二年半訓練を受けた。
それからある武術のクラスが
YMCAで行われていると耳にした。<略>

そこで習ったのがバンドー空手だった。
ビルマの国から来たものだ。
中国や日本、沖縄の武術の影響が強く
色んなものがごちゃまぜになった武術だった。
フルコンタクトが基本でボクシング
徒手格闘、五形拳もあった。
カンフーと少し違った動物が出てきたが、
似ていたのですぐに慣れた。

五年間の訓練でやっと黒帯が貰えた。

その直後、全国キックボクシング大会に
出場することになった。
こんな大きな大会に出たのは初めてで
ものすごく緊張した。
あんな大勢の前で戦ったことが無かった。
スポットライトが当たり、本当に緊張した。
リングに上がった時、大勢の観客を見渡し、
ラウンドガールが水着姿で番号を持って歩くのを見て
これは現実か?と思った。
とにかくリングの反対側の相手を見た。
そして、彼と目が合った瞬間、周りのすべてが消えた。
もう誰も見えず、何も聞こえず、観客は姿を消し、
ただ目の前にある闘いだけが重要だった。

振り返れば、あの闘いはすごく自分を変えた。
試合後、自分と自分の武術チーム仲間について
書かれた新聞記事が出ていた。
非常に優れた成績を獲得したと書いてあった。
自分の中のプライドがまた少し膨らんだ。


ウィルソンは、ある意味で、パウロがそうだったように、何事も徹底的に追求して熱心に極めようとするタイプだったらしく、一つの成功体験だけで満足することなく、自分にはまだ足りないものがあると感じ、なんと最初に学んでいた武術学校へ戻って、緑帯からやり直そうとする。
 

「ビルマ拳法で黒帯を取ってから
師匠たちは他の生徒たちを指導するよう勧めてきた。
だが何か足りないものを感じていた。
まだ獲得していないものがあったからだ。

すぐに私は最初に通っていた武術学校に戻ることにした。
最初に始めたところで自分の能力を試してみたかった。
だがその選択が暗闇への道に導くことになるとは
少しも気づかなかった。

武術学校史上四人目の黒帯獲得者に
出会ったのはこの頃だった。
その儀式は今まで見たことが無いようなもので
畏敬の念を起こさせるようなものだった。

最初の学校に戻って、緑帯からまたやり直し。
六ヶ月のうちに優等緑帯になり、
一年半後には茶帯になった。
師匠は私が黒帯になって教えるようになりたい
と思っていることを知っていた。

その頃に、優等茶帯が黒帯になる儀式が行われた。
ろうそくが並べられ、かなり本格的なものだった。
茶帯の人が黒帯を受けとるところで
師匠の目が私を見つめていたのを覚えている。
自分もいつかこの日が来る。
この学校で黒帯を取る日が来ると悟った。」



最初に通った武術学校で、ウィルソンは、人体の限界を超えた魔法のような驚異的な技を使うためには、「気」というものを引き出す秘訣を学ばねばならないことを知らされる。彼がはっきりと「暗闇への道」に引き込まれて行くのは、彼が「気」を汲み出す訓練を始めてからのことであった。

すでに述べたように、「気」というものの存在は、科学的には全く立証されていない。これは中国の伝統的な思想に由来する、非科学的な、純粋に東洋的な概念である。

中国の伝統的な思想では、「気」とは天地万物を構成する見えない根源的なエネルギーであるとみなされており、すべての物質に「気」が宿っているため、人が自らの体内にある「気」を汲み出し、養うことで、体の状態を変容させる修行法(=内丹術)が歴史を通じて編み出されて来たのである。

今や「気」という概念は世界中に広まり、欧米諸国においても、ヨガや瞑想、あらゆるトレーニングの宣伝広告に使われており、あたかも人間が簡単に「気」を高めることで体の調子を良好にし、人生を好転できるかのように謳われている。

だが、多くの人々は、そのその源流となる思想が、東洋神秘主義にあることや、「気」を引き出すために通らなければならないとされる激しい苦痛に満ちた修行のことを知らない。

ウィルソンが通っていた武術学校は、キリスト教文化圏の学校であるから、その師匠は、「気」が東洋思想に由来する異教的概念であることは明かさず、それはただ「神が人間に植えつけた内なる力」であると説明していた。

「気」こそ、圧倒的で驚異的な技を生み出すエネルギーの源であることに気づいたウィルソンは、自分もその力が欲しいと願う。だが、「気」を技に適用する方法を学ぶことは、黒帯のような選ばれた者だけに許された訓練であり、その訓練は、閉じた扉の向こうで行われる、武術の奥義の世界を意味していた。
 

「1999年私はこの学校で黒帯を取る五人目となった。
30年間での五人目だった。
14年もの特訓を経ての取得だった。
一番激しい内家拳(太極拳・形意拳・八卦掌など)の特訓は
閉じた扉の奥の上級クラスの中で行われた。

その特訓で私たちが教わった思想に
「気」というものがあった。
今日ではテレビなどで
良く使われる言葉だ。
歯医者の待合室にある健康雑誌にすら載っている。
しかし80年や90年代の頃は、誰にでも
通用する言葉ではなかった。

師匠が私たちに説明した「気」とは
神が人間の中に植えつけたもの、内なる力である。
それを自分の中から引き出して
技と一緒に使う必要があるのだと。
サンドバッグを蹴るにしても、
二百回腕立て伏せするにしても、
その「気」を内側から引き出して
一緒に使わなければいけない。

そしてこれこそ必要不可欠な力であり、
茶帯や上級茶帯や黒帯が成す驚異的な技は
すべてこの力に基づいている。

現代の映画やハリウッドや
ドキュメンタリー番組などで見かける
200キロの氷を一撃で打ち砕く技
鉛筆二本折るような話ではなくて
本格的なすごい力。

こういった技はどうしたらできるのかと
上級緑帯の頃に師匠に聞いたことがある。
こういう訓練は黒帯限定だと返された。
そういう訓練のための準備については教えられるが
「気」を汲み出す方法を学ぶのは
黒帯になってからの話だと言われた。」


 
ウィルソンは緑帯の時に、まずは「気」を汲み出す方法を学ぶ訓練を始めるように言われる。だが、その訓練は痛みの連続だった。生徒同士が、渾身の力で平手打ちを加え合う、板で腹を打つ、といった暴力的な訓練を通じて、激しい痛み苦しみが加えられ、それによって引き出される憎悪、敵意、攻撃性の只中から、「気」が引き出されるというのであった。

 


緑帯の頃、この「気」を出す準備訓練

というものは痛みの特訓だった。
この訓練をする数週間前から師匠は私たちに
これから始めることを少しずつ話した。

まず最初に自分と同等の実力の相手を選び、
そしてお互いに平手で顔を打ちあった。
私が相手を引っ叩いたら、交代で向こうも私を引っ叩いた。
最初は普通に叩くのだが、だんだんと一発ごとに強く叩く。
相手が私を強くたたけば、私はそれ以上にもっと強く叩く。<略>

緑帯たちはお互いに緊張していて
控えめに打ち合っていた。
だが茶帯の方は本格的に平手で叩きあっていた。
サメのようにお互いの攻撃性で刺激を増していた。
顔が終わったら、腕、そして足にうつった。

そのうち約3センチの太さの板を持ち出してきた。
この板は頑丈なオークやヒッコリーの木で出来ていた。
そして体を引き締めて、相手に板で腹の方を打たせる。
そして打たれる際に思いっきり息を吐き出す。

師匠は私たちにこれが内なる力を
引き出す第一歩なのだと説明した。

あの夜あったことは、今となれば
あの頃よりも理解できると思う。
特訓が終わったあと、師匠が私たちにその夜は格闘を禁じた。
いつも特訓が終わった後は、互いに格闘をし、
訓練するのが上級クラスの特徴だった。
数年後、師匠にどうしてかを尋ねてみた。
「あまりにもテンションが上がりすぎてお互いを傷つけてしまう。
あの状態だとお互いに手加減はしないだろう」
彼の言葉は私の頭に残った。」 


 
「気」を引き出す訓練の最中には、生徒たちがあまりにも激しい痛みを互いに加え合い、敵意が高まったために、そのまま格闘に入れば、相手を死に至らせてしまう可能性があることを師匠は理解しており、格闘を禁じた。

一体、これほどまでの憎悪、殺意、攻撃性を通じてでなければ、養えない「気」とは何なのだろうか?
 
そこで、「気」を汲み出すことで、人体を変容することを目指す内丹術が、一体、どのような経緯で生まれたのかを見てみたい。これは調べてみると、老荘思想、神仙思想、禅宗、儒家の思想など、数々の思想を合体して出来た思想・修行法であることが分かる。

特に、注目されるのは、これが神仙思想の流れを汲んでいることである。神仙思想では、不老不死の神仙(仙人)が実在するとみなして、人間は生を養い(養生術)、丹(または金丹)という薬を作り服用する(錬丹術)などの修行を行うことで、神仙となり、不老不死(永遠性)を手に入れられるなどとしていた。

この神仙思想がやがて道教に取り入れられて、煉丹術となり、そこでは金などを液体として服用する「外丹」と、体内で気を養う「内丹」の二つの方法が編み出され、金属などを摂取する方法は人体に有害であったため、次第に廃れて行き、不老不死の素となる要素を体内に求める内丹術の方が後まで残った見られる。とはいえ、外丹術は中国の医薬学の発展を促し、火薬の発明の基礎になるなどしている。

このような経緯を見ると、内丹術が「気」を汲み出し、練ることで何を最終的に目指しているのかが見えて来る。この思想では、万物が生まれる前の「混沌とした状態」を「道」と呼び、この「道」こそが物質世界の真の根源であり、「道」が目に見える物質を生み出す際のエネルギーが見えない「気」だとみなす。

内丹術は、人間も「気」によって生み出され、構成されているため、人がいたずらな「気」の消耗を防ぎ、自らの体内で「気」を集め、これを練り、「内丹」という霊薬を生み出す方法を学べば、損なわれた人間の生命エネルギーが回復されて、生み出された当時の人間の自然なありようが回復され、最終的には「道」との一体化が成し遂げられるとする。

だが、端的に構造だけを見つめれば、この思想に表れているのも、やはり、グノーシス主義と同じ「原初回帰」の願望であり、時間軸を逆にすることで、人間が、創造される前の状態に自力で回帰することで、神と一体化し、永遠の命に到達しようという欲望であることが分かる。

つまり、この思想が目指しているのは、 ただ「気」を集めてこれを「内丹」として再生させることで、人体の生命力を回復しようという単なる健康法のレベルの達成ではなく、それをはるかに超えて、人間が自ら「気」を養う修行を通して「本来の自己」に立ち戻り、「道との合一に至る」ことによって、永遠性を身に着けることなのである。
 

内丹術の修煉とは、本来純粋な気を宿して生まれ、生から死への過程で欲望などで損耗しつつある人体の気を「内丹」として再生させ、気としての自己の身心を生成論的過程の逆行、存在論的根源への復帰のコースにのせ、利己たる存在を超えて本来の自己に立ち戻り、天地と同様の永遠性から、ついには道との合一に至るという実践技法である。(Wikipedia 「内丹術」より)



ここで「道」と呼ばれているものは、「神秘なる母性」「虚無の深淵」「空=無」「永遠の循環(輪)」に置き換えることができよう。そう考えれば、そのままグノーシス主義の思想が成立する。結局のところ、内丹術が目指している究極的な目的は、人間が生まれながらの自己のままで、「神」(道)と合一し、永遠存在となることなのである。

中心概念の「道」は、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指し、道家と儒家で説かれる概念である。『老子』は第一章と第二十五章で、世界の根源である混沌を「道」と呼び、道は天地万物の一切を生みだす霊妙な働きがあるとする。それは「無為自然」で、おのずからそうなるという自然の働きそのものである。第十四章で、道は姿や形はなく目で視ることも聴くこともできないとされる。<略>『荘子』は「知北遊篇」の東郭子で、真実在としての「道」はこの眼前の世界を離れて在るのではなく、万物は道を含み「万物は道のあらわれ」であると説き、道はこの現実世界にこそ在ると示す。「齊物論篇」は、人為による二元的判断を捨て去ってありのままの真実を観れば、人間を含む一切の万物は齊(ひと)しく同じであると「万物齊同」を説き、道は通じて一と為すと「万物の一体」を言う。<略>

『老子』第二十五章は「大なれば曰(ここ)に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る」と万物の循環を説き、『易経』は万物を陰陽魚太極図に示される、陰陽の消長する運動体であるとする。仙学では、宇宙の万物にはすべて生成があれば必ず死滅の終わりがあり、一切が止むことがない生死消長の変化の過程とされ、虚無だけが唯一永久不変不滅のものである。虚の中に物はなく、質も象もないから天地が崩壊しても虚空だけは生死を超越し、崩壊することがない。虚無は「道」である。
Wikipedia 「内丹術」より)


 このような概念は、まさに神と人とが本来的に同一であるとするサタンの偽りの「道」である。聖書において、イエスはわたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われたように、聖書におけるイエス・キリストという「道」は、不可逆的な一方通行の道である。人間は堕落した存在である自己に、キリストへの信仰によって一度限り永遠に死んで、彼のよみがえりの命にあずかり、新たな自己として父なる神のもとへ召されるのであって、このプロセスを逆行する者は、自分を救いから切り離すことになるだけであり、呪われた存在である。

しかし、東洋思想における「道」は、直線的な概念ではなく、曲線を描いて円(輪)となる。東洋思想の「道」、すなわち、世界の根源である混沌には、形はないとされるが、もしそれをあえて象徴として表すならば、永遠の循環としてのウロボロスの輪と同じものになるだろう。なぜなら、創造された当初の状態に人間が自力で回帰することにより、人が「神」(=混沌)と一体化して永遠の存在になれるとする教えは、時間軸を完全に無視してこれを逆行するものであり、永遠の堂々巡りとして、円を描くからである。このように、サタンの「道」は、直線ではなく、原初回帰の無限ループとしての「輪」なのである。

よって、これはグノーシス主義と同じように、物質世界に存在する人間が、キリストへの信仰を持つことなく、本来的に神と同一の性質を持つとみなす反聖書的な悪魔的思想である。世間一般で宣伝されている「気を養うことで健康を回復する」とか、「運気を高める」などということは、いわば、この思想のほんの前半部分に過ぎない。「不老不死に到達する」「神のような永遠の存在になる」という隠れた後半部分こそこの思想の中核である。

ウィルソンは、「気」という概念の背景に、そのような反聖書的で悪魔的な思想が込められているとは気づかずに、訓練に励むが、後になって、彼は「気」を通じて人間を自己を強化する術の完成である「武士道」は、人間の内に憎しみと怨念をかきたて、人が生涯を戦いに投じる戦士となって神に反逆する道であると結論づける。
 

 

「武術では色んな拳法に分かれていて、

ある拳法では内家拳と外家拳というものがある。
外家拳は肉体を鍛えることに集中するが、
内家拳は内なる力「気」を引き出すことに集中する。

そしてすべての武術はその武士道という言葉に基づいている。
武士の道、武士の心、その道を行けば、
武士になる、いわゆる戦士になる。
しかし、エホバ、神の戦士ではなく、肉の戦士である。

「サタンは戦争を喜ぶ。なぜなら戦争は魂の最悪の激情をかきたて
悪と流血に染まった犠牲者たちを永遠に葬り去ってしまうからである。
なぜなら、そうすることによって人々の心を神の日に立つ備えの働きから
そらすことができるからである」
(各時代の大争闘下巻第36章351ページ)」
 
「その時から、武術とは闘いや自己防御だけに限らず、
武道、生き方の一つであると気づき始めた。
武道は武術の道で「道」がつくものは
すべて生き方を示す。合気道、空手道、柔道…。」


  

(映画”MISHIMA"から)



さて、アメリカ軍には、第二次世界大戦とその後の沖縄駐留などを通して、1950年頃から東洋世界の武術が積極的に取り入れられた。その後、60年代から米国にはヨガやヒッピー・ムーブメントを通して、東洋の文化が流行し出す。カンフー映画なども多数、作り出されて茶の間に流され、東洋神秘主義があたかも「文化」の一部のようになって行く。
 

「キリスト教の集まりの中でも、
多くのクリスチャンが質問をする。
自己防御の何が悪い?
国の軍隊はどうなのか?
法律を守らせる役目のある人はどうなのか?
よく質問されるのは「お巡りさんはどうなの?」
もし彼らが格闘の仕方を知らなければ国はどうなる?
軍隊で訓練したり、弱いものを守ることは、
武術で学ぶ事柄と明らかな違いがある。

アメリカの軍隊で武術を取り入れ始めたのは1950年頃である。<略>
1950年頃、第二次世界大戦後、
軍隊は武術を持ち帰ってきた。
多くの軍隊は戦争の頃、沖縄に配置され、
そこで武術というものを知った。
小柄な東洋人が不可能に思える技や
超人的な力と速さを持っているのを彼らは見た。
そこで、その技を持ち帰り、また東洋の師匠たちの
多くがアメリカに上陸してきた。
始めは日本人や沖縄人が柔道や柔術を教えていた。
そのうち60年代に東洋の文化が流行りだし
ヨガやヒッピー運動と繋がっていった。

こういった武術や神秘的思想、哲学が、
私たちの国に持ち込まれている間、
メディアはそれらを取り上げた。
武術に関する映画が出始めたのはその頃だった。<略>
こういうヒーロー達が次々と
私たちの家族や子供たちの脳裏に埋め込まれていった。
伝統的なキリスト教徒でさえ
今までオカルトと思っていたものに対して、
これは肉体的な運動?
我々がまだ発見していない人間の
エネルギーなのか?と思い始めている。
私にとってこれらの映画は魅力的であった。
私たちにも現実にできるものだったからだ。」


  
沖縄の空手道の師匠である船越義珍は、武術は勝ち負けではなく、人間の品性を養い、建て上げるものだと述べたそうだが、その言葉は、米国で武術の宣伝のために大いに利用された。しかし、ウィルソンは、武術が人に学ばせようとしている本当の品性は、表向きに宣伝されているような美しいものとは全く異なると言う。武術がどんな品性にかたどって人を形造ろうとしているのか、それは船越の書物を見れば分かると。
 

「現代の武術の基を据えた者がいた。
その名は船越義珍である。
彼は現代の空手の父と呼ばれている。
彼の引用が読んだ色んな本に書かれてあり、
道場の壁に良く貼ってあったりする。

両親が子供たちを連れて空手を習いに行く時、
船越の言葉が彼らの心を掴むのである。
船越はこのような言葉を語った。
「武術は勝ち負けではない…競争や敵を打ち負かすことではない。
参加者の品性を完全にするものである。」

その引用を見た親たちは思う。
すばらしい!こういうものを子供に与えたい。
品性を極めさせ、やる気を起こしたい。
自制や自信をつけて欲しい。

しかし殆どの親たちが知らず、師匠すらも
見せないのは、船越の本の表紙だ。
表紙の絵を見れば、どういう品性にかたどっていくのかに気づく。

戦う精神。
数年前、私はこの表紙の絵を見て、
これは何処から来たのだろうかと思った。
こんな怒りに満ちた怖い鬼のようなものを
理由なしに表紙にするはずがない。
調べてみるとそれは
十二支の守り神の一人であった。

この絵がパンチや蹴り、闘いなどの
芸術のたしなみを通して見える真の姿であった。
武術とは武の芸術である。
果たしてこういう品性を自分と自分の子供たちに
受け継いでほしいものであろうか?」

 


船越の本の表紙にあるグロテスクな絵は、武術が形造ろうとしている人間の本当の姿をよく物語っている。怒り、憎しみ、怨念に満ちた鬼のような人間の顔。しかも、その姿はもはや人間の姿からもほど遠く、鬼というより、妖怪のようである。

これは調べて行くと、十二神将、十二夜叉大将などと呼ばれ、大乗仏教で悟りを得た仏の一人とされる「薬師如来」を護衛する「神々」であるとされている。しかし、夜叉(悪鬼)という言葉からも分かるように、これはもとはインドの古代宗教で悪鬼とされていた存在が、仏教に取り入れられたものである。

私たちは、多くの寺院で、知らず知らずのうちに次のような恐ろしい形相をした、甲冑をつけた武将の像が飾られているのを至る所で見て来たはずだ。



   
 


左から順に、新薬師十二神将毘羯羅、奈良興福寺十二神将像波夷羅)、新薬師寺十二神将像、(伐折羅)、浄瑠璃寺伝来・十二神将立像『辰神』、大興寺木造十二神将(巳神将)新薬師寺十二神将伐折羅(CG)(写真の掲載元はリンクで示しています。)


 一体、なぜ悪鬼とされていた存在が、仏教に取り込まれて守り神とされたのか。そのいきさつは明らかではないが、そこには、般若の面と同じ原則が働いていると思われてならない。

つまり、般若(悟り)にはもともと二つの面があり、表向きの顔は、すべての戦いが終わり、涅槃の安らぎに到達した平安な顔であり、裏の顔は、怨念と憎しみに満ちた般若の面である。それと同じように、薬師如来という、悟りに達し、現世で人類にあらゆる幸福を願う幸福の象徴のような「仏」と、永遠に戦いを終えることのない悪鬼の武将たちとは、表裏一体なのである。

一般には、薬師如来とは、「約壺を持つ仏」として、医薬を司る「仏」とみなされ、現世において病気や厄災に苦しむ衆生の治癒を祈願し、安楽を与える現世利益の象徴である。薬師如来と、錬丹術との間には、直接的な関連は見いだせないが、薬師如来への「信仰」の根底にも、深い文脈では、人間が不老不死に自力で辿り着こうとした錬丹術と同じ欲望が流れていることは明らかである。
 
薬師如来は十二の祈願を捧げたというが、その内容を見て行くと、まさに人間のすべての欲望を叶えるユートピアである。そこには、男女同権の基礎のようなことまでも含まれているから驚きで、共産主義思想が生まれるよりもはるかに前に、すでに共産主義のような特徴を備えていたのである。
 

  1. 全ての人を仏にする。(=光明普照)
  2. 全ての人を明るく照らし、善行できるようにする。(=随意成弁)
  3. 全ての人が悟りを得るために必要なものを手に入れられるようにする。(=施無尽物)
  4. 全ての人を大乗仏教の教えに導く。(=安立大乗)
  5. 全ての人に戒律を守れるように援ける。(=具戒清浄)
  6. 全ての人の生まれつきの身体上の障害や苦痛、病気を無くす。(=諸根具足)
  7. 全ての人の病を除き窮乏から救う。(=除病安楽)
  8. 女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く。(=転女得仏)
  9. 全ての精神的な苦痛や煩悩から解かれるように援ける。(=安立正見)
  10. 国法による災いなどの災難や苦痛から解放する。(=苦悩解脱)
  11. 全ての人が飢えや渇きに苦しむことがないようにする。(=飽食安楽)
  12. 全ての人に衣服を与え、寒さや困窮から救済する。(=美衣満)

十二の大願の意味(十二の大願とは) から



だが、大乗仏教は、一方ではこのように人間が現世において悟りに達し、すべての苦しみや欠乏から解かれ、自己存在を永遠にまで高められるかのように説きながら、そこへ至るために、人が通らなければならないもう一つの苦しみの道として、十二神将の恐ろしい姿を突きつける。つまり、人類が地上を幸福の楽園に変えて、現世と彼岸とが一体化したユートピアに至るためには、このように憎しみと怨念に満ちた悪鬼たちによる激しい自己防衛の死闘の道を通らねばならず、彼岸の理想は、悪魔の庇護のもとにしか成立しないことを暗示しているのである。
 
さて、ウィルソンは知らず知らずの間に、武術を通して、このような邪悪な東洋的世界観の中に取り込まれて行くことになる。
 

「黒帯(中国ではブラック・サッシュ)
あるいはカンフーの第一夜明けの獲得に近づいていた頃
私は一番最強の競争相手と闘っていた。
彼は私と同じ上級茶帯であった。
上級茶帯から黒帯になるまで二年半掛かった。
私と競争相手は毎週闘った。
彼は私より50キロ重かった。
彼との闘いによって、どんな困難でも
乗り越えるという自信はお互いについた。

ある夕方、師匠が格闘中の私たちの間に入り、
私の目を見つめて、もう良いだろうと言った。
そして私を引き寄せ、五月はどうだ?と日にちを言ってきた。
私はその意味をすぐに悟り、彼は私に微笑んだ。

その日が来た時、妻と子供たちを連れて私は学校まで運転した。
そこには卒業生、上級ランク、茶帯、上級茶帯、緑帯などが
参加するのが長年の伝統だった。

車から降りると師匠、師父は上級ランクの人たちに
私の妻子を学校に案内させた。
そして彼は私を学校の外にある別の部屋へ連れて行き、座らせて
エリック、話したいことがある。今は理解できなくても
いつか理解できるだろう
今から始まることは昇進する儀式
というよりも結婚式に近い
そして彼は部屋から出て、私を一人で考える時間を与えた。



ウィルソンはこの頃はまだ武術とキリスト教の信仰は両立するものだと考えていたため、自分の晴れの昇進の儀式を妻子に祝ってもらおうと、ためらいなく妻や子供たちを学校へ連れて行った。しかし、師匠は、この時からすでに分かっていた、もしも彼が武術の道を究めようとするならば、必ず、途中で妻子を捨てねばならなくなることを。

師匠がウィルソンに黒帯を取る儀式が「結婚式」と同じであると述べたのは、それによって、ウィルソンが新たな存在と「結婚」することを示唆していた。一体、誰との結婚なのか? 師匠を導いているのと同じ霊との結婚である。つまり、キリストに属さない、キリストの霊とは異なる霊的姦淫の霊としての東洋思想の霊との結婚である。その儀式が持つ邪悪な意味を師匠は知っていたが、ウィルソンは理解していなかった。
 

「儀式の準備が出来た一時間後に私は学校に戻ってきた。
歩く道にはろうそくが備えてあった。
先に師匠が歩いて来て、上級ランク、
茶帯、上級茶帯、緑帯と続き、
茶帯がろうそくを持ち歩いて、
それを一人ずつ置いていった。
まるで炎の道を作るように。
私が最後に来て、ろうそくの道を通って行って前に座った。

学校には何百人もの人がいた。
師匠と一緒い前に座ると、
彼は足を組んで私の前に座った。
そして師匠はスピーチを始めた。
私の今までの業績と克服した困難について。

彼が話している間、そばを見ると
きゅうすと二つのろうそくがあった。
彼はお茶を飲む前にそこのろうそくを
指で消しなさいと言った。
そのあとお茶を酌み交わした。
それで同じ器でお茶を飲んだ。
それは象徴的な行動で、
彼の教えは私の教えとなって、彼の命は私の命、
彼の霊は私の霊となって、私と彼は一つになったのである



クリスチャンはこれが「異なる霊との聖餐式」であることを理解できる。キリストへの信仰に立つ者は、霊においてキリストに花嫁として結ばれており、その信仰の中で、地上における自分の配偶者や家族を愛し、仕える。聖餐は、信じる者がキリストの体の一部とされて、彼の血によって清められ、主の死と一体となっていることを証するものである。この体と血潮にあずかっていればこそ、信者は、潮によって罪を清められ、死を超えて、彼のよみがえりの命にあずかり、信者も家族も、あらゆる呪い、災いから遠ざけられて、神の命の中に隠されている。キリストがすでに呪いとなって木にかかって下さったからである。パンとぶどう酒による聖餐式は、信者がキリストの体の一部であることを確認するものである。

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:23-26)
 
 
だが、これとは異なる「別の聖餐式」が存在する。映画"MISHIMA"においても、三島由紀夫と盾の会のメンバーたちが、各自がそれぞれ自分の血を垂らした杯を共に飲み干す場面が登場する。
 

 



血を入れた杯を飲むことは、その血によって、飲んだ者同士が霊的に一つに結ばれる契約を意味する。それゆえ、彼らは肉親や愛する人々を捨てて、団結して最後の決戦としての自決へ赴いたのである。

ウィルソンが出席した儀式は、もう一つの聖餐を意味した。注がれたのはお茶であったが、それは混ぜ合わせた血、混ぜ合わせた霊を象徴していた。炎はおそらく地獄の炎の象徴であろう。キリストの霊ではない、異なる霊との聖餐にあずかれば、人はその霊と一つになる。その時、武術の先人たちにならって、彼も怨念、憎しみ、憤怒によってすべてを焼き尽くす地獄の炎の道に生きることが誓われたのである。ウィルソンは師匠と同じ霊にあずかり、キリストとの結合とは異なる霊との結合の中を歩むことになった。

以下の聖書の御言葉は、ただ単に娼婦との関係を避けるようにという警告ではない。そこには「キリストの霊とは異なる霊と交わることを避けなさい」という警告が含まれている。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。

人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか、あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:15-20)

ウィルソンが新たに「結婚」した霊は、キリストの霊とは異なる「高慢の霊」であり、ただちにウィルソンに人々に仕えることをやめさせて、彼に地上的な栄光を受けさせ、人前で自分を偉い人間と見せるよう促した。
 



「儀式の後、食事をし、生徒たちやその家族が

大勢集まっていた。
私は人を助けることを教育されていたので、
上級ランクや緑帯と連なって食事の給仕を手伝おうとした。

すると師匠が私の肩を叩いて引き寄せて、
「あなたはもう彼らと同じではない。
給仕を手伝うな。ここに来て座りなさい」

そこで私はテーブルに行き、黒帯の仲間と共に座り、
師匠も私の隣に座った。
「あなたが給仕されるのですよ」と彼は私に言った。
そこで緑帯達が次々に食事を持ってきた。

その時、何かこれはおかしいという
シグナルを神が送っていたような気がする。
これは神の言葉と相反する行動だからである。

マタイの福音書の20章にイエスは言っている。
「そこで、イエスは彼らを
呼び寄せて言われた、
『あなたがたの知っているとおり、
異邦人の支配者たちはその民を治め、
また偉い人たちは、その民の上に
権力をふるっている。
あなたがたの間では
そうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で
偉くなりたいと思う者は
仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと
思う者は僕とならねばならない。』」
(マタイ20:25-27)

考えが頭の中を廻った。私が仕える立場なのに
なぜ仕えられているのだろうか?

しかし、その時14年間育ててきたプライドが
仕えられる立場を気に入っていた。
注目を浴びるのも嫌いではなかった。」

  
黒帯を取るための「結婚」の儀式を境に、ウィルソンは武術にのめり込み、特に、魔術のような技を使えるようになるために「気」を引き出す修行に熱中することになる。その過程は、同時に、彼がどんどん家族から引き離されて行く過程でもあった。
 

「儀式の次の週、学校に戻り
いつもの個人授業を受けた。
もっと武術に進みたいと思い、
個人教授をすることにしていた。

その日、師匠は私に鋭い質問を投げかけた。
儀式の後、師匠と私との間の何かが変わった気がした。
今まで上目線だったのに、まるで生徒を師匠から
遠のかせていた壁が外されたみたいだった。
「エリック、黒帯をとった今
これから何をしたいのか?」
「あなたのもっている能力が欲しいです」
14年間師匠を見ていたが彼の成す技は魔法のようだった。
師匠は私にもう少しほかの武術に励むようにと勧めてくれた。<略>

師匠は「気」を引き出す訓練にのみ
集中することだと言った。
そこで私はどんな武術で訓練するにしても
これらの業がどう「気」と関連するか、
どうやってこの武術を使って
超人的な技をこなせるかを考えた。

少林寺の書き物には「師匠と弟子の絆は血よりも強い」
訓練のために週に五、六回通った。
そして安息日に教会に行くのは週に一日、
他の日は武術の特訓に励んでいた。
友人たちと出かける時もいつも武術関係だった
武術がすべての中心になっていた。
武術の中に深く入り込んでいけばいくほど
家族との関係から少しずつ引き離されていった

 

<続く>

さて、ここで少しだけ、映画『龍の正体』の解説を離れたい。ウィルソン青年が武術を身に着け、次第に自信とプライドを増し加え、キリスト教の信仰を離れて行く様子を見ながら、筆者は、カルト被害者救済活動を率いている村上密牧師のブログ内容を思い出さずにいられない。

カルト被害者救済活動が、当初は拉致監禁という方法を用いて、暴力的にカルト宗教から信者を奪還し、密室で説得工作を行い、強制的に彼らの信仰を打ち砕いていたことは、すでに述べた通りである。

最近では、このような方法で信者の心を無理やり入れ替えることはできない相談であることが常識となりつつある。拉致監禁などという暴力を用いた方法に非難が集まり、それが信教の自由、身体の自由の侵害を含む人権侵害であるとして、カルト宗教の側からも訴訟などが起こされているだけではない。

そのような暴力的な方法で人の心を変えようとする説得工作自体に、大きな問題があり、そのような方法で棄教を強制された人は、心に深い傷を負い、場合によっては、強い洗脳を短期間で一挙に解こうとすることで、人格が崩壊する恐れさえあるとされている。

筆者はこれまで、そのようにして強制的に脱会させられ、クリスチャンとなった人たちと幾度か接触したことがあるが、その際、彼らの内心が根本的に変化して、心底からのクリスチャンになったとは思えない何かの違和感を感じ続けて来た。

むろん、そうした脱会者らは、表面的には穏やかで、敬虔そうに見える。彼らは口では、脱会できて良かった、何某先生のおかげでカルトから足を洗うことができて、自分は本当に幸運であった、などと一様に感謝を述べるが、一旦、彼らの心の琴線に触れるような話をすれば、心の内側に隠されていた憤りと憎しみが噴出する。これらの人々は、本当に解決すべき問題と向き合わないまま、表面的な回心を経て、キリスト教に入信させられた上、自分の精神的支柱を打ち砕かれているため、あまりにも傷ついた自己を抱えており、デリケートな話になると、常に感情的な爆発に直面する恐れがある。

だが、カルトでの洗脳が終わったかと思うと、今度はカルト被害者救済活動によって、新たな洗脳を施され、自我をへし折られたまま、いつまで経っても本当の自分を取り戻すことができずに、力の強い指導者の言いなりになって生きねばならないことは、本当に哀れである。

筆者から見て、本当に注目せねばならない問題とは、この人々がカルトに入ったことが間違っていたという事実ではなく、むしろ、なぜ彼らが、カルトに逃避の場を求めずにいられなかったかという理由である。

人は自分に何も悩みがないのに、いきなりカルトに接近したりはしない。青年期にカルト宗教に接近する人たちのほとんどは、そのきっかけとなる何かの悩み苦しみ、人生や世界に対する疑問を抱えており、そうした悩みのきっかけとなるのは、ほとんどが家庭内問題ではないかと筆者は見ている。

人は幼少期から受けた教育の中に、何かしらカルト的な教えに心惹かれるような土壌がなければ、そのような宗教に抵抗感を覚えずに接近して行くことはなかなか少ない。つまり、常日頃から何かしら「カルトと似たような教育」を家庭で施されているために、抵抗感が薄められている場合が少なくないのである。

そこで、こうした人々が最も考えなければならない問題は、一体、自分が何の問題からの逃避を求めてカルトに接近したのか、という具体的な理由である。それは家庭内の問題であったかも知れないし、親の暴力や暴言、抑圧的な態度、あるいは両親の離婚、学校や職場のいじめであったりと、原因は様々であろう。

だが、いずれにせよ、彼らが、一体、自分は何から逃げるためにカルトへ走ったのか、自分の個人的な人生にスポットライトを当てて、その本当の原因に迫ってこれと向き合って問題解決しようとしない限り、ただカルトの教義の誤りだけを認めただけでは、彼らが心の深いところで抱えている問題は何ら解決しないままなのである。

そのような状況だと、彼らはキリスト教に改宗しても、以前から引きずり続けて来た問題をまた新たな宗教の中に持ち込み、さらなる厄介な問題を引き起こし、それに巻き込まれて行くことになるだけなのである。

そこで、カルト被害者救済活動が、なぜこうした人々がカルトへ走らざるを得なかったのかという本当の原因を考えてこれを解こうとするのではなく、ただ親たちの訴えだけに耳を傾け、子供たちが親に迷惑をかけて、人生を棒に振っているという理由で、子供たちの信仰を強制的に打ち砕いて、誤りを認めさせ、その逃避をやめさせようとして来たことは、非常にまずい悪質なやり方であったと言えよう。

もしもこれらの人々がカルトに助けを求めた最も深い理由が、家庭内問題にあった場合、ただ親たちの言い分だけを鵜呑みにする被害者救済活動では、子供たちがカルトへ走った真の原因を探り出して明るみに出すどころか、それをより深く隠ぺいし、見えにくくして、こじらせる結果にしかならないためである。

その危険性は、村上密自身の人生を見ても分かることだ。村上は、若い時分に統一教会に入信していたわけであるから、本当は、こうした問題点を理解していておかしくなかった。暴力的に信仰を打ち砕かれることが人の心にもたらす傷や、強い者が支配する理不尽な環境の家庭や学校や社会からの逃避の場を求めてカルトに走らざるを得ない者たちの心の痛みを理解していておかしくなかった。

にも関わらず、なぜ村上は、暴力的に他人の意志を打ち砕いてまで棄教させるという活動に関わり、これを「救済」ととらえていたのだろうか。それを考える上で興味深い材料が、村上のブログに記載されているので、今回、その問題について具体的に考えてみたい。

この問題を理解する鍵となるのは、村上と父との関係である。村上はブログにおいて幾度も、幾度も、子供時代に父から暴力を振るわれ、深刻な虐待を受けていたことを示唆する記述を行っている。ただし、村上自身は現在に至っても、これを虐待と認識しておらず、実はそのことこそ、村上の抱える最も深刻な問題なのである。
 
通常、牧師は回心前などに、学校で級友と流血沙汰の喧嘩をしたことがあったとしても、それは信仰を持つ前の神を知らなかった頃の行為であるから、愚かだったと思いこそすれ、そのような話は福音伝道のためにならないと思い、公に告白しないことであろう。

ところが、村上密は今になっても、自信ありげに、子供時代の殴り合いの喧嘩を武勇伝のごとく吹聴している。村上はいくつかの記事で、高校時代に他の生徒ににらまれた際、殴り返して撃退し、それに懲りた相手方の生徒が、自ら転校して行って勝利をおさめたという話を自慢げに繰り返している。

だが、この記述の中で、注目すべきは、そのような喧嘩の仕方を村上に教えたのが、彼の父であったことである。父が息子に喧嘩の仕方を教えていたので、高校時代には、村上はすでに相手を殴るだけでなく、蹴倒して蹴り回すなどの術をも身に着けていたのだという。

村上の父は、言葉で息子を諭すよりも、体で「教える」タイプの人間だったらしいが、そのように喧嘩の仕方を教わったことで、いじめっ子を撃退できたことが、村上の中では誤った「成功体験」となり、村上は牧師になった今でも、それを「父のけんかの教え」と呼んで(あえて「教え」という言葉を使っていることに注意したい)、「父の先見の明に感じ入った」などの賞賛の言葉を記している。未だに「父に忠実な息子」であることを誇りとし、その教えの中に悪しき思いが入り込んでいることに気づかないのである。
 

高校1年生の時のことである。Aが私の机でパンを食べ散らかした。私はごみをかき集めて、Aの机の上に置いた。Aは授業が始まってから、教師の目を盗んで、パンくずを私に投げてきた。授業が終わって教師が退室すると、ぬしゃ~(おまえは)と言い寄り、つかみ合い、殴りかかってきた。椅子や机がなぎ倒され、けんかの場所がべランダになった。私は父の言いつけを守ってきた。1発、2発は殴られてやれ。3発目は油断して殴ってくるのでカウンターで急所を殴り返せ。忠実に相手の鼻を拳骨で殴った。たちどころに鼻から血が流れだし、戦意を喪失した。私は蹴倒して、蹴りまわそうかと、父のけんかの教えを再現しようと思ったが、さずがに同級生たちが束になって止めにかかった。Aは翌日から高校に来なくなった。いつまでも来ないので心配していたら、転校していったとのことだった。高校生の時「わる」に絡まれたのはこの時一度だけだった。以後は争いのない高校生活を終えた。

それでも、私は二度高校をやめようと思った。一度はけんかの後、退学か停学かを受けるのではないかと思い、どうせなら自主退学をしようと覚悟していた。ところが、担任教師がこのことを知っても何も処分について口にしなかった。正当防衛が成立しているからである。ちょっと行き過ぎた正当防衛である。父の先見の明に感じ入った。<略>
拳骨で平和を 2018年 04月 25日 )


この記事の後半で、その当時に村上が禅に心惹かれていたと記述されていることも興味深く、やはり、東洋思想からの思想的な影響を感じさせる。筆者はDr.Lukeを初めて実際に見かけた際にも、どこかしら禅寺の僧侶を思わせるような人物だという印象を記事に記している。(筆者は実際に禅寺がどういうところであるかを知っているので、これは単なる印象批評ではない。)

村上は暴力事件については、さらに、なんと保育園時代から、年長者に兄を相手に、相当な手傷を負わせることで、兄から手を出されることがなくなり、不戦の関係が築かれたと自慢している。
 

私は兄とけんかした記憶がない。これは両親と兄から聞いた話である。私は保育園児の頃に兄とけんかをした。肥後刀の取り合いになって、貸して、貸さんのやり取りになった。兄は怒って、肥後刀を私に投げた。それが私の左目の目じりの端で眼球まで数ミリの骨の部分に当たった。瞬く間に左目は血だらけになり、ポタポタと血が流れ出した。私は近くにあった鎌を手にかけて上段に兄の頭に振り下ろした。兄は頭から血がだらだらと流れた。兄弟とも血まみれになった。急いで病院に連れて行かれたと聞いた。昨年、兄と何かを話しているとき、まだ、あの時の傷が目じりに残っているよと話すと、おる(私)もまだ頭に傷が残とっととたいと頭の傷を指した。互いに大笑いした。私たちは私たちのけんかがどのような結果になるかを経験した。その結果、私たちは互いを恐れ、暗黙のうちに不戦の関係を築いたのではないかと思う。口げんかさえ記憶にない。
血まみれのけんか   2018年 04月 25日)


幼児だから力が足りなかっただけで、もう少し成長していれば、殺人事件になっていてもおかしくなかった。このことから分かるのは、村上は、かっとなると、見境のない行動に出て、身内が相手であっても、とてつもない暴力性を発揮する可能性のある性格の持ち主だということである。

だが、なぜ幼児期から、村上はこのような衝動的な行動に出ていたのであろうか? おそらく、この兄弟喧嘩が発生したこと自体に、親の影響が相当にあったと思われる。村上の父がどのような人間であるかは、以下に挙げる記事からも分かるが、父の影響を受けて、すでにこのような幼児期から、村上は、自分の家庭では、「目には目を、力には力でやり返せ」といった、力の論理で生きるしか、身を守る術はないという考えを会得しており、口で説得したり、言葉を用いて相手をねじ伏せるよりも前に、まず手が先に出て、体でやり返し、本能的な自己防衛の思いから、相手に打撃を与え、痛い思いを味わわせることで、自分を守ろうとする方法論が身に着いていたと思われる。そして、そのような方法論を村上に体得させたのは、他ならぬ父だったのである。
 

子どもの頃、けんかして泣いて帰ると、父からげん骨を食らう。やり返してこい。何かで泣いていると、男が泣くもんじゃない。馬鹿たれ。なんば泣くか、とげん骨である。父の前では涙を見せられない。歯を食いしばって我慢するしかない。おかげで奥歯が擦り切れた。けんかに負けないように、教えてくれと言っていないのに、勝つ方法を教えてくれた。以来、けんかで負けたことはない。負けるかんか(ママ)はしない。父親の方が怖い。

高校の時である。クラスのワルがけんかを仕掛けてきた。二発殴らせてやった。向こうは安心して三発を打ってきた。それで相手の鼻をカウンターで打ち返した。鼻血を流して戦意喪失。クラスメートが間に入って止めた。相手は翌日から学校に来なくなった。転校したのだろう。以来、私はけんかをしなくなった。その代り、論争に負けないように努めた。こうやって、私の性格は父のげん骨で作られた。父の最高傑作品ではない。父の前で泣かないだけだから。クリスチャンになって、天の父の前ではよく涙を流すようになった。私は二人の父親を使い分け、次第に変わってきた。
ところが、自分が父親になって、子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている。父親の血は私の中に流れていたわけである。そのたぎる血も、頭を打つのは止めてください。手でおしりを叩くぐらいにしてくださいとの懇願に転向を余儀なくされた。そして父親と同じように子たちが中学生になる前には手をあげることを止めた。
父とげん骨 2017年 11月 19日)


 
これはまさに武術に励むことで、いじめっ子を撃退し、プライドを立て上げようとしたウィルソン少年の姿を彷彿とさせる。村上ははっきり述べている、「私の性格は父のげん骨で作られたと――。これは非常に恐ろしい告白である。彼はキリストの成分が自分を形作ったのだと言っておらず、父の暴力が自分の性格を形作ったと言うのである。

クリスチャンには、「二人の父親」はいてはならず、まして「二人の父親の使い分け」などあってはならない。だが、村上の告白は、クリスチャンになった後でも、村上の中には、キリストの教えと、もう一つ、それとは異なる肉の父親が教えた「力の論理」がずっと併存して息づいていたことを示している。

村上は少年時代に、たとえ子供のけんかであっても、負けて帰って来ることは恥であると父に責められ、自分で自分の身を守れと言われ、力の論理を体得させられた。すでに保育園時代から、村上は、自分の家庭では、力が弱いがゆえに喧嘩に負けても、誰からも同情などしてもらえず、相手が兄であっても、負けることは恥であり、涙を見せることは心の弱さの証拠でしかなく、馬鹿にされるだけだと学んでいたのではないかと思われる。

以上の喧嘩に関するすさまじい記述は、どれもこれも、村上が少年時代に、親から事実上の虐待を受けていたことをよく物語る。たとえば、子供同士の喧嘩で負けて帰って来た子供を、親が慰めず、子供の心配をするどころか、みっともないと叱りつけたり、「泣いてはならない」と命じたり、「喧嘩の仕方を教えてやる」という口実で、父が子供に取っ組み合いのわざをしかけるなどの行為は、れっきとした虐待である。さらにもっとひどい虐待の様子も、後述するように、村上の記事にはいくつも記されている。
 
親の庇護がなければ、子供はもともと生きていけない存在である。弱い子供に自分で自分の身を守れるはずがない。ところが、親が、子供の弱さをかばうどころか、子供自身が強くなって自衛するのが当然であり、それができないのは恥だと教え、弱い子供を突き放し、泣くことさえ禁じるのは、ただ親が子供への保護責任を放棄しているだけである。

だが、問題は、村上が未だに自分の親のこのような行動が、深刻な虐待であったという意識をまるで持っていないことである。それどころか、村上はキリスト者になっても未だに、そうした父の「教え」が、自分に役に立ったと考えて、それによって得られた「成功体験」を重んじ、継承しているのである。

級友に暴力を振るい、級友が学校に来なくなった時点で、村上は、自分の暴力が、イジメ問題に発展し、自分が学校で罰せられるかも知れないという自覚を持っていたと書いている。正当防衛を主張するには、明らかに分を超えてやり過ぎたのだ。しかも、相手が不登校になってしまえば、何が原因であれ、やはりそれはあるまじき結末だ。きちんと和解して両方が同じ教室で学べるように決着をつけるべきだったのだ。

ところが、学校側は無責任で、和解の努力もせず、村上は罰を受けることもなく、ただ喧嘩の相手となった生徒だけが転校するという重荷を負うことで、事件が済まされてしまった。そのことは、村上にとって悪しき「成功体験」となる。この時、村上の中では、大人たちの世界では、たとえどんな卑劣な方法を使おうと、どんなにやり過ぎようとも、とにかく力の勝負で勝ちさえすれば、それが勝利としてまかり通るのだ、従って、そのような方法で自分が身を守ったのは正しいことだったのだという認識がさらに強化されたと思われる。

それは、喧嘩に負けることを恥であると普段から教えて来た父親の言葉に、学校側も呼応して同じ見解を示したことを意味する。そこで示されたのは、世間は「力の論理」で成り立っている、何が正義であるとか、真実であるとか、何がほどほどの妥協点であるかなどは関係なく、「力の論理」で相手を打ち負かした者が、勝つのだという理屈であった。

こうして、村上はキリスト教に改宗した後も、暴力で弱い者を打ち負かすことを恥とせず、何事をも父から教わった「力の論理」によって解決しようとし、力によって身を守れた者が勝つのであって、それができなかった者は敗北するのが当然だという考え方を持ち続けることになる。そして、キリスト教とは根本的に相容れないこのもう一つの肉的な教えを、キリスト教と同時に使い分けて行くのである。

村上の「力の論理」は、村上自身が親となった際にも、自らの子供への体罰という形で受け継がれる。 

前にも書いたことだが、筆者は村上密の教会に実際に通い、村上の家族を実際に目撃しているが、一番最初に疑問に思ったのは、村上の妻が少しも幸せそうでない、ということであった。

牧師がワンマンでないか、本当に謙虚な人格を持ち、周囲のことを思いやっているかどうかをはかる最も良いバロメーターは、妻との協力がどれくらいうまくいっているか、牧師夫人が本当に生き生きして満たされて行動しているかに注目することである。牧師の行動はいくらでもごまかせるが、牧師夫人が幸せであるかどうかは、人の目にごまかすことができない。
 
村上自身は、筆者の前で、一度も怒鳴り散らしたり、不機嫌なところを見せたり、取り乱した態度を取ることはなかった。むしろ、常に温和で人好きのする態度を見せていたので、筆者は初めの頃、村上の人柄に全く不信感を持たなかった。だが、おかしなことに、まだ若く、幸せいっぱいの家族であるはずの村上ファミリーの様子が筆者にはどうにも変に感じられたのであった。子供たちは比較的、のびのびしているように見えた(弱さを見せることを禁じられていたので、そのように振る舞うようしつけられていたのかも知れない)。だが、夫人は、村上と接触する時でさえ、感情を押し殺したような表情で、伸び伸びした態度も、心の余裕もないことが分かった。
 
これは非常に奇妙なことであった。特に、被害者のケアに当たるという仕事を常日頃から夫婦でやっているのであれば、夫人の側には、夫の手が回らない部分まで、慈愛に満ちた思いやりある行き届いた態度が求められるのが通常であるが、そういうものからはほど遠い夫人の行動を見たあたりから、この家族は何かどこかが変なのではないかという気が筆者にははっきりとし始めたのである。

だが、以上の村上の記事などを読めば、なぜそのようなことになっていたのか、その理由もある程度は理解できよう。村上は、決して信徒らの目には触れない場所で、子供への折檻を行っていたと自ら告白しているのである。しかも、その折檻は、子供が何かあるまじきいたずらに手を染め、あるいは万引きしたり、非行に走ったりと、誰が考えても社会的に容認できない行動に走ったために加えられた体罰ではなく、ただ「子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている」と村上が書いている通り、ただ子供が気落ちして、心弱くなっているところを目撃しただけで、それを「罪」のようにみなして殴っていた、というのであるから驚きである。

その記事からも分かるのは、おそらく、村上は、かっとなれば、突然火がついたように自制心を失い、普段とはまるで違った形相になって、子供を思い切り打ち据えずにいられなかったのだろうということだ。決して人前で弱さを見せるなと、自分が幼少期から父に厳しく叩き込まれたために、子供たちが弱さを見せただけでも、許せない思いになり、見境なく手を出さずにいられなかったのである。
 
しかし、妻を含め、周りで見ていた者たちは、村上の血相を変えた尋常ならぬ様子に怯え、その体罰に命の危険をさえ感じていたのであろう。その記述は、幾度、やめて下さいと、妻も懇願したか分からない様子を伺わせる。だが、村上を止めることは誰にもできない相談であった。

こうしたことは、まさにこれまで書いて来た「般若の面」を思わせる出来事である。明らかに、村上には、表向きの、弱者に対して優しく親切そうな表情とは別の、牧師として第三者に接触している時には、決して見せることのない、もう一つの顔があった。彼は二つの面を使い分けており、隠れたもう一つの面が隠されていたのである。

その「鬼の面」は、カルト被害者に対して親切で、思いやり深く、彼らの心の傷や弱さに寄り添い、それに我が事のように共感を寄せる牧師という表向きの顔とは全く逆の、決して人が自分の弱さを打ち明けることも、そのために涙を流すことも許さず、力の勝負で「負けて帰って来る」こと自体を恥とみなし、負けて帰って来た者にはさらなる罰を加えてこれを恥として責め立てるような、残酷な般若の面だったのである。

その鬼の面は、村上自身にもコントロールできない「父親の血筋」であり、一旦感情に火がつくと、自分の生んだ子供たちという最も身近な愛する者たちにさえ、容赦なく手をあげ、向けられるような憎しみだったのである。

だが、村上は、自分の中にそのような「父親の血」が流れていることを、以上の記事でも、反省すべきあるまじき出来事としてはとらえていない。むしろ、子供が中学生になる前に手をあげることをやめたのだから、それでいいではないか、と言いたげだ。自分は親から教えられた通りのことを忠実にやっているだけで、それで自分も無事に生きて来たのだから、それはしつけであり、処世術であって、何が悪いと言いたげである。

自分の仕打ちが、子供たちの心の中で深い傷となり、それを見ている者にもはかりしれないショックとトラウマを与え、自分が育てた子供たちが、いずれ親になって、自分と同じことを繰り返すかも知れないということには、全く思いが至っていないのである。

さらに、もっと注目すべきは、村上が統一教会から脱会したいきさつである。

筆者はまだ幼い頃に、筆者が所属していた教会に、村上がやって来て、セミナーやら講演やらを開いていたことがあるのを覚えている。そのような集会の一つで、村上は直接、自分の口で、どうやって統一教会を脱会したのかといういきさつを語っていた。

一方では、村上は、統一教会の用事であったのか、それとも他の仕事であったのかは分からないが、トラックか何かを運転中に、「密、密、なぜ私を迫害するのか」というキリストの声を聞いて、滂沱の涙を流して自分の誤った信仰を悔い改めた、などと話していた。

あたかも、パウロのダマスコ途上の回心のような、劇的で自主的な回心があったような話しぶりであったが、この種の話はかなり眉唾物だと思わざるを得ない。

ところが、そのように話した舌の根も乾かないうちに、村上は、統一教会を脱会するに当たり、もう一つの決定的事件が起きたことを自ら告白していたのである。彼は会衆からの質問に答えて、「統一教会を脱会する際、父から半殺しの目に遭わされ、力づくで連れ戻された」と自分で語っていたのであった。

「半殺しの目に遭わされた――」、この非常に穏やかならぬ、牧師にふさわしくない言葉に、筆者は驚き、それが記憶にとどめられた。 今、村上のブログを開いてみると、やはりその言葉は、筆者の思い過ごしでもなく、誇張でもなく、まさしく事実であったことが分かる。村上は脱会のいきさつについて、次のように語っている。

統一教会の研修に参加するため家を出た。その後、家は大騒動。父と兄と叔父が、私が匿われている場所を捜し当てた。父が2階にいる私を見つけ出し、私が死んでも帰らないというので、父が殺して連れて帰ると言って、殴る、蹴る、引き回す。2階から髪の毛をつかんで引きずりおろし、車で連れ帰された。

11月に熊本で兄と母と一緒に食事をしているとき、先の話をしていると、兄が、そるわ~、おとっつあんじゃなか、おったい。用心棒がおっと思ったけん、木刀ば持って殴り込んだたい。わっが、死っでん帰らんていうけん、うちくらわし、けたぐっ、ぞびきまわし、連れち帰ったたい。兄から記憶違いを起こしていることに気づかされた。私の瞼に浮かぶ、手をあげる父は実は兄だったとは。驚きである。そして、兄が、おまえがにぐっといかんけん、3日間、ロープでしばって、座敷にとじこめとったたい。おまえは3日間、めしもくわんでおったたい。この辺の記憶はない。母がそぎゃんだったたい、と言ったので確かだろう。私は兄に、その節は大変お世話になりました、とその場でお礼を言った。その場で私たちは大笑いをした。

兄が、おまえはこまかっとき、おやじに梁からロープで吊るされ、竹ん棒でたたかれたこつば~あったたい。母が、あんたはなきもせんで、歯ばかみしめっ、引きつけばおこして気おとしゃせか~、しんぱいしたとたい。
これも記憶にない。記憶は作り変えられ、消されるものだと分かっているが、自分のことでわかって驚いている。

一部を熊本弁で書いた。迫力ある場面、追憶する話し方、このような話し方はどれもなじみの言葉である。「その場で私たちは大笑いした。」つらい事、悲しい事、大変なことも笑いでくるむ話し方は我が家の話し方である。
記憶は作られ 削られる 2017年 12月 12日)


ここでは、笑いごとではない話が、笑いごとのように済まされている。しかも、この記述は、本当のところは、どうだったのか分からないと思わせる。父と兄と叔父の三人が、村上を連れ戻すために、統一教会のアジトに殴り込んだのだ。そこで行われた乱闘において、誰が村上に手心を加えたのかは、今となっては誰にも分からない。それは兄だったのかも知れないし、父だったのかも知れないし、叔父だったのかも知れない。いずれにせよ、みなの連携プレーがあったのだ。みなが一体となって暴力を振るっていたことはほぼ間違いない。兄が後になって父をかばっているだけの可能性も高く、記憶違いをしているのが誰なのかすらももう分からない。

さらに、この話の中には、村上が小さい時から、父が彼をロープで縛って、梁から吊るし、竹刀のような棒で打ち据えていたなどのことも書かれている。しかも、子供は泣くことも許されなかった。幼い頃から、このようなすさまじい有様だったのだから、この父ならば、何でもやりかねないと思うのは当然である。

いずれにせよ、親族たちの暴力的な連携プレーで、村上青年がカルトから連れ戻されたのは確かであり、そこで誰がどれくらい村上に直接、手を下したのかなどは重要な問題ではない。とにかく村上青年は、父、兄、叔父の三人によって、殴る、蹴る、引き回す、髪の毛をつかんで階段を引きずりおろす、殺してでも連れ戻してやる、などの暴行と暴言を受け、無理やり拉致されて、車に詰め込まれ、その後、家では、逃げないようにロープで縛られた上、座敷に閉じ込められて、三日間、飲まず食わずだった、ということが分かるだけである。

全く恐ろしいほどの暴力沙汰の脱会劇である。しかも、これを身内がみなで一致協力してやったというのだから、恐ろしく、通常であれば、これほどのことをされてしまうと、身内に対する不信感から、完全に周囲に対して心を閉ざしてしまったとしても不思議ではない。村上の場合、そうならなかったのは、おそらく、普段からそのような暴力沙汰が、珍しいことでなかったためであると思われる。
 
こうして、「死んでも帰らない」と豪語していた村上青年の脱走劇は、あえなく暴力によって打ち砕かれて終わった。そもそもなぜ村上が統一教会に心惹かれ始めたのか、その動機はそれほど定かではなく、世界を滅びから救うとか、日本が罪の懺悔を果たすとか、統一教会が表向きに掲げているスローガンはいくらもあって、そのどれに心惹かれたのかも定かではない。

だが、村上自身の記述を読むにつけても、想像されることはただ一つ、そういった統一教会の唱えている表向きのスローガンへの傾倒とはまた別に、村上には、自分の家庭から何とかして逃げたい、もしくは、家庭で味わい続けて来た苦痛の意味を知りたい、という動機があって、その逃避の場を統一教会にしか求められないと考えて、カルトに走ったというのが真の動機ではないかということだ。

「死んでも帰らない」という穏やかならぬ村上青年の言葉が、家や、親に対する悲壮なまでの抵抗の決意を表しているように思われてならない。それがただ統一教会の洗脳だけの結果であったとは思えず、もっと深い動機から出たものであったと考えざるを得ないのである。とにかく、それが本人にとっても命がけの家庭からの逃走劇だったことを思わせる。

だが、不幸なことに、その命がけの試みさえも、中途で打ち砕かれて、再び、彼は以前と同じ牢獄に引き戻されてしまった。ロープで縛られ、身体の自由も奪われ、憔悴の果てに、飲まず食わずで時を過ごし、それによって、「どんな卑劣な手を使ってでも、最終的には、力の強い者が勝つのだ」という、村上家の暗黙の掟が、またもや彼に体で叩き込まれたのである。

肉の父親による暴力的な支配と、家に恥をもたらさないように行動をすることだけを第一とする価値観は、文鮮明の教えよりももっと強かった。肉の父に対する反抗は、どんなことをしても許されず、カルトに走り、父に逆らい、家の恥となる行動をしたことに対する罰は耐え難く重かった。

村上はこうして統一教会に逃げることで、何とか得ようとしていた家庭からの脱出口も失ってしまう。そして、そのまま、一体、自分がどんな問題に悩み、何からの解決を求めてカルトに走ったのか、という根本問題をさえ、自分で封印してしまった。もはや父親に対する抵抗はどんなものであれ、許されないものとなり、父が間違っているかもしれないなど、考えることもできないタブーとなった。
 
村上は実際には、幾度も、幾度も、弱い立場にある子供としての自分からのSOSを無言のうちに発していたのであろう。カルトに走ることも、親に対するSOSだったのだ。ところが、親からも親族からも、その言い分に耳を傾けてもらうことができず、ただ一方的に自分の心の弱さだけが「悪」であると決めつけられ、暴力的に発言の機会を奪われ、口を塞がれ、意志を打ち砕かれて従わされた。彼は、ウィンストン・スミスのように、絶対的な権力によって無理やり自分の意志を打ち砕かれたことにより、暴力事件によって深い心の傷を負ったと考えられる。

そのために、村上は、自分の子供たちが心の弱さを見せることさえ許せなくなり、キリスト教の牧師になった後も、カルト被害者救済活動という名目で、自分以外のカルト信者に対して、自分が受けたのと同様の暴力行為を行うことで、暴力の連鎖を生み始めたのである。つまり、他のカルトへ走った信者らに対しても、拉致監禁という方法で、自分がされたのと同じような暴力に走り、他の信者らの信仰を容赦なく打ち砕いて来たのである。それは信仰がなせるわざではなく、人の心の傷が生み出す連鎖であり、救済ではなく、トラウマの連鎖であった。

いかにカルトから脱会させることを目的に掲げていても、暴力を振りかざす親の理屈が間違っていることを心から理解せず、親から訣別を果たすことができないままであった村上は、傷ついた自分の心と向き合う機会が失われたまま、その傷を、今度は他人に植えつけ始めたのである。

村上の信仰は、いわば、強者の論理によって獲得されたものであると言えるだろう。彼は暴力的に自立の試みを妨げられたため、父を批判することが未だに出来ず、「それで人はその父と母を離れて・・・ 」(創世記2:24)というステップが未だに完了していないのである。しかも、ただ両親から離れられないでいるだけでなく、受け継いではならない「父親の血(肉による力の論理、暴力の連鎖)」に疑問も持たずにこれをそのまま継承してしまっているのである。

それゆえ、牧師であるにも関わらず、このような物騒な暴力事件の話を自慢げにブログに書いているわけだが、しかし、その心の中には、「とにかく勝ったのだから、あれで良かった」という思いと、「なぜ自分があんなことをされなければならなかったのか」という思いが無意識に交差しているように見える。

村上は気づいていないであろうが、彼が救おうとしているのは、カルト被害者ではなく、本当は、痛めつけられた自分自身なのである。弱く、言葉を発することもできず、立ち向かう力もなかったがゆえに、無視され、侮られ、踏みつけにされ、否定され、傷つけられ、それでも立ち上がるよう強制されて来た自分を救いたいという動機が、被害者への共感を生んでいるのである。

だが、彼は、それを父親が自分に教えたのと同じ理屈で成し遂げようとしていることろに誤りがある。すなわち、弱い被害者たちに「裁判」という力を付与し、自分の力で戦わせることによって、彼らに自衛の方法を教え、この世の力を帯びさせて勝利をおさめさせようとしているところに誤りがある。

村上は自浄作用の働かない教会では、被害者の訴えは浮かばれず、そんな教会は教会とは呼べず、「だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まり」だと決めつける。

互いが和解できなければ、それは裁判に持っていくべきではなく、教会の中で正しく裁かれるべきである。それをしないで、世の裁判に訴えることは敗北であると言うのである。<略>パウロは教会の中に「兄弟の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(1コリント6:5)と語りかけている。赦しなさいは仲裁ではない。正しく判断をしないならば加害者への加担である。教会の中で正義と公平を持って裁く人がいないなら、教会は教会性を失ってしまうことになる。すなわち、もはや教会は教会ではなくなっているわけである。どんなに礼拝会や祈り会に出席者が多くても、賢い者のいない教会、正しい判断をすることにできない教会となる。不正が正されず、不正のはびこる教会、だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まりとなる。
誤用される聖句 2018年 04月 19日) 


しかし、このようなものは本当の解決とは言えない。人間の世界で起きる真に残酷な「被害」は、決して人が口に出せるようなものではなく、裁判にも持ち出せるようなものでもない。世の中には、赤ん坊や、子供を含め、自分が受けた不当な仕打ちを、決して論理的に説明することもできず、それを代わりに訴えてくれる味方もいない人々が数多くいる。

村上は言う、教会が教会性を失わないためには(何を持って「教会性」と考えているのかは不明だが)、裁判によって、被害者を救済せねばならないと。外から力を行使して、教会を正さねばならないと。

しかし、そういう理屈だと、人が言葉にもできず、裁判にもできず、誰にも打ち明けられない問題は、どこへ消えて行くのであろうか? 誰に助けを求めることもできない環境に置かれ、訴えを出すこともできない人々の「被害」はどこへ行くのであろうか? 自ら立ち上がり、理屈を駆使して相手を言い負かし、裁判という力を行使して、それによって勝利をおさめて、初めて教会が「教会性」を取り戻すというなら、被害者が名乗り出ず、訴えもしないがゆえに、誰も気づかない不正はどこへ消えるのであろうか? それらは神の御前に悪事でさえなかったことになるのだろうか?
 
村上が述べていることは、どこまでも終わりなき「力の論理」であって、そこには、被害者といえども、ただ力を行使することに成功した者の訴えだけが、最終的に認められるという理屈しか存在せず、すべてのことを公平に裁かれる神が不在なのである。
 
このような考え方は、被害者の中にも、格差を生み出す。裁判で勝ったのか、どれくらいの賠償金を取り返せたのか、相手をどれくらい重い罪に問うことができたのか。どれくらい短い間で訴えを終わらせたか。効果的な裁判を行えたか。弁護士はいたのか。云々。

だが、私たちの聖書の神は、そういうお方ではない。我々の聖書の神は、乳飲み子、みどりご、やもめ、寄る辺ない者全ての庇護者であり、自分で声を上げることができないすべての弱い人々の味方であって、一人一人の思いを知っておられ、自ら立ち上がることのできない人々のために正義を行って下さるのである。

村上の論理の矛盾と破綻は、この世の力を行使しなければ、決して教会に是正はあり得ないと考えている点にある。それでは、教会の主人は人間ということになってしまい、教会は神の支配が及んでいる領域ではないと言っているも同然である。つまり、そこでは、正しい裁きを行う者は、常に人間でなくてはならず、神が裁きを行われるということを信じてもおらず、それに任せるつもりもいないのである。

だが、人間の行う裁きは、そもそも偏っていて、不公平であり、必ずしも正しいものとは限らない。現に、世間では、冤罪事件で有罪とされた人もおり、裁判という枠におさまらない悪しき事件は日々、膨大に起きている。裁判の判決さえ、しばしば公正でなく、まして、裁判に訴えることもできない人々の訴えはどうなるのか。

教会の問題を裁判所に持ち出し、そこで勝利を収められさえすれば、勝ったことになるという村上の理屈は、結局、自分の父がしたのと同じ方法で、弱者に自衛を求めているだけなのであり、弱い者に力の論理を身に着けさせ、それによって武装した者が勝つのだという教えなのである。

村上は、弱者が自分に従順で、自分の「教え」を忠実に学んでいるうちは、助けようとするであろうが、それは離脱を許さない残酷な支配であり、その優しさは本当のものではない。彼は決して自分が許した範囲外に、弱い者たちが出て行くことを許さない。

村上は、彼の活動に反対する一人や二人の人間だけに対して残酷なまでの非難を繰り広げているだけではない。村上の教団の配下から出て行こうとした牧師や信徒たちにも、同じように残忍な非難の刀を振りかざして、彼らを打ちのめそうと、彼らに落伍者の烙印を押し、離脱した教会を再び傘下に連れ戻すべく、裁判にまで及んで敗北している。

こうしたすべての行為は、村上が統一教会に走ることで、家から脱走することを決して許さず、彼の行為を「家の恥」とみなして断罪し、彼を辱めて滅多打ちにして、力づくで座敷牢に閉じ込めてまで、その意志を暴力的に打ち砕き、家庭に連れ戻した父親の行為の二の舞でしかない。

村上が被害者たちに言い募っているのは結局、こういうことである、「おまえら子供たちは家を守るために勇敢に戦いに出ていけ。そして勝って戻って来い。自分を傷つけた者を打ちのめし、そいつに勝利を果たして、我が家に栄光を携えて戻って来い。正義がこの世に存在することを思い知らせてやれ。おまえの存在はこの家のためにあるのだ。おまえは家に栄光をもたらす道具であって、そこから出て行くことは決して許さない。」
 
分かるだろうか、こうした発想の根底にあるのは、「母を守る」という東洋思想の危機感と同じなのである。「家が脅かされているから、家族の成員が皆立ち上がって家を守らなければならない。そのために、一人一人が力を身に着けて、自衛しなければならない」ということである。『国体の本義』が、家の名誉のために、ためらいなく皆が死ぬことを奨励しているように、もし家の名誉を守る戦いの最中で命を落とすのであれば、それは名誉の戦死として扱われるのである。

村上が、自死に対して寛容なのも、おそらくそのためであろう。被害者が脅かされながらも、決して家や両親に逆らって自分を守ろうとすることなく、むしろ、家の犠牲となって、その名誉のために命を落としたのなら、それは名誉の戦死であって責められるべきことではないというわけである。自死した本人を免罪しようとしているというより、家と親たちを守ろうとしているのである。
 
このような世界観に立って、彼は教会というものも「脅かされる家」と見ている。だが、そこで抜け落ちているのは、教会の支配者は人間ではなく神であって、神の正しい裁きが存在し、それに委ねる必要があるという点と、教会を脅かしているのは、あれやこれやの人間ではなく、最終的にはサタンであるから、人間相手の戦いで、教会を脅威から守ることは決してできないという点である。

人間相手の戦いには「目には目を」の法則が働いて、「殺す者は殺される」という結果に至るだけである。

村上のブログからは、当ブログの他にも、村上の行き過ぎた活動を批判し、村上を名誉毀損で訴えようと具体的に動いている勢力があるらしいことが分かる。以下で言う「スピリチュアル系カルト」とはその他の記事を合わせて読めば分かるように、当ブログとは一切無関係である。

最近、スピリチュアル系カルトからのインターネット上での嫌がらせが増えている。それは指導者がヒステリーを起こしているからである。名誉棄損されていると信者に警察に相談に行かせたりしている。事実、警察から注意とも警告とも思われる電話があったが、別に私の意見を述べているだけで、名誉棄損になるような記事ではない。一種の脅しである。自分たちのネット上の攻撃は悪質であることを棚に上げてである。国外からだとどうすることもできないが、国内であれば対処できる。エスカレートしてきているので、こちらも対処しなければならないレベルになってきた。放っておいて罪がまし加わるのを待つのがいいのか。軽いうちに止めさせる方がいいのか。後者の方が相手思いかもしれない。   (スピリチュアル系カルト 2018年 04月 16日)

この記事によると、すでに警察からも警告が入っているらしく、そうなると、事件はかなり深いものと予想される。実際に名誉毀損による告訴が成立している可能性も十分に考えられる。
 
今や村上についてはかなり各方面から物騒な話題が持ち上がり、だんだん抜き差しならない事態になって行っていることが分かる。むろん、カルトと名指しされる団体に自ら首を突っ込み続けると、いずれ手に負えない反撃が来ることはもともと予想されていたことである。村上から被害者を通じて思わぬ干渉を受けた団体は、当然ながら、反撃に出て来るであろう。相手はもともと正常な団体ではないのだから、そのような争いに自ら首を突っ込み続ければ、いずれは命の危険にも遭遇する。そのような戦いが、牧師の正常な活動ではないことは言うまでもない。

しかも、村上は、自分だけは決して誤りを犯すことはないという前提に立って物事を考えているようであるが、彼が他人に振りかざした厳しい基準が、彼自身に適用されるのだ。和解できない場合には、いずれ村上自身が裁判に引き出され、決着を求められることになる。その時、他人に憐れみを示さなかった彼に対する裁きは容赦のないものとなろう。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

さらに、村上が次のように書いていることも実に要注意である。

聖書には、殺してはならないとの神の命令があり、時には、殺せとの神の命令がある。殺してはならないが浸透し過ぎて、殺せがないかのように思っている人がいる。聖書には、赦しなさいとの神の命令があり、時には、裁きなさいとの命令もある。赦しなさいが浸透し過ぎて、裁きをしてはならないかのように思っている人がいる。

偏った聖書理解によって、被害者が被る言葉には滑稽なのがある。謝罪もしない加害者に対して、聖書には赦しなさいと教えているから赦しなさい。それでも赦せないでいると、赦しなさいと聖書に書いてあるのに赦さないあなたは神に逆らている。それは罪だと裁かれる。赦しなさいと言っている人が自分の言うことに従わない人を裁くわけである。(偏った理解   2018年 04月 08日)

   
これは非常に恐ろしい記述である。誰一人、村上に殺人について尋ねたわけではないのに、彼は自らこのように「聖書は殺人をも禁じているわけではない」という誰も聞いたことのない自らの奇抜な「信仰告白」を繰り返す。ここで村上が、「殺せ」という命令と「裁きなさい」という命令を一つに結びつけて話していることは注意である。このことは、村上自身の中で、この世の強制力である裁判を用いて教会の問題を解決しようとすることと、殺人とが、同じ力の論理に属するものとして同一線上にあることをよく物語っている。

だが、彼が聖書が殺人を正当化していると述べる根拠として、引き合いに出しているのは旧約聖書の記述である(「クリスチャンの裁判」 参照)。聖書において、神が主の民に神に背いた人々や異教徒を「殺せ」と命じたのは、旧約聖書の時代の話であり、新約になってからは、そのような命令は一切、主の民に下されておらず、むしろ、キリストは弱さのゆえに十字架につけられ、主の民が殺される側に回り、殉教している。村上がなぜ問われてもいないのに、聖書を悪用しつつ、「聖書は必ずしも殺人を禁じているわけではない」と、殺人を正当化しようとしているのか、いぶかしく思われる。

そこには「自死を正当化する」という目的と、もう一つ、「殺して連れ帰る」という父の言葉が暗黙のうちに反映していると思われる。村上は、沖縄の被害者のグループ「カイロスの会」で、自死は罪ではないと語り、大変な物議をかもした。このように、彼は自死を罪とみなすどころか、むしろ、奨励するかのような言葉を発しているが、そこには、子供が自死するまでその思いに気づけず、子供を犠牲としてしまった残された遺族らが、これ以上、罪悪感を感じたくないという自己正当化の思いが代弁されていることに加え、子供が家の恥になる行為に手を染めるくらいならば、親は子供を殺すことも厭わないという父の発言を正当化する思いが暗黙のうちに含まれているものと見られる。

暴力的な手段を講じて強制的に相手の意志を打ち砕いてでも、自分の信念の正しさを相手に押しつけることは、それ自体、精神的殺人であると言えよう。このように、聖書を悪用しながら、「正義のためなら殺人も厭わない」という誤った思いを正当化しようとする村上の姿勢は、暴力による強制的な脱会工作だけでなく、アッセンブリー教団に背いた教会や信徒にとことん誹謗中傷を浴びせ、破滅に追い込むまで手を緩めないという行動にも表れている。

村上は、他の人々を差し置いてでも、傷ついた自分自身の心に目を向け、自分自身が幼い頃から父によって受け続けて来た暴力、虐待を悪しきものとして憎み、これを退け、下からの出自である「父親の血」を断ち切り、「父のげん骨で作られた」性格と訣別し、真に親離れを成し遂げなければ、父親が自分に向けて来た殺意を、自分の心の中に育み続けることになるであろう。そうなれば、たとえ憎き敵に復讐を果たしても、彼自身がいずれ死の中に飲み込まれて終わるだけである。それはカインの道であっても、アベルの道ではない。憎悪は新たな憎悪を生むだけで、鉄拳では平和は作れない。それは血塗られた悪魔の道であって、断じてキリスト者の道ではないのである。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

さて、今回から、しばらく以下の映画『龍の正体』などを通して、武士道が「魂の力」を開発して人が神のようになろうとする東洋的神秘主義に由来するものであり、今日、それがキリスト教の中に入り込んでいることの危険性について考察したい。

ペンテコステ運動の指導者などが行使している超自然的な力も、東洋的神秘主義に由来するものと理解できるため、この動画は、この運動の危険性を考える上でも、非常に参考になるものである。

今日、もしも信者が「肉のものと霊のもの」を見分けることができなければ、信者は「魂の力」を開発して超常的なパワーだけを得ることで、あたかも神の聖霊を受けたかのように錯覚したり、キリストの十字架の霊的死を経ないのに、それによって自分が偉大な霊的存在になったかのように錯覚する危険性がある。

また、信者がこうした力に手を伸ばしてしまう背景には、「魂の力」を引き出し、自己を強めることによって、心の内側にある自信喪失や被害者意識や自己憐憫などと言った心の傷を隠したいという動機が隠れていることが多い。

家庭で受けた心の傷や、人生で味わった数々の自信喪失などのトラウマから抜け出したいと願うがゆえに、信者は手っ取り早く自らの心の傷を覆い隠して、自分自身の弱さから目を背け、自分を強めるために、こうした超常的なパワーを手に入れたいと願うことが多いのである。

『龍の正体』では、武術がキリスト教の信仰と両立できるかのように誤解したまま、少年時代から武術の訓練にのめり込んで行ったウィルソンというクリスチャンの男性が登場する。彼の告白を通して、私たちは、武術の起源とその本当の目的がどこにあるのかを理解することができる。

詳細は動画を見てもらえば分かるが、この映画が言わんとしているのは、武士道は決してキリスト教の信仰と両立するものではなく、その起源は悪魔的なものだということである。 また、この映画は、ここ数十年間の間にキリスト教界に積極的に入り込んだ東洋神秘主義の武術に対して警告を呼びかけている。

一見、武術は無害な自己啓発やスポーツや芸術の一部のようにみなされ、巷に広まっているが、その奥に潜むものは何なのか。その起源は、東洋神秘主義思想にあり、決して、キリスト教と両立するものではなく、その道を行けば、悪魔の虜とされてしまうだけである。以下では、要所をピックアップしながら、ペンテコステ運動やカルト被害者救済活動の危険性と会わせて解説して行きたい。
  
  


  
 
  



「今日、武術はスポーツや健康維持または芸術として見なされている。

しかし、武術とは昔からそうだっただろうか?
超人的な技術で観衆を驚かせる彼らは一体何者なのか?
彼らはどうやってこの能力を得たのか?

なぜこの10数年の間に東洋神秘主義思想がキリスト教会の
中に広がっているのか?

それはただ競技の技術に焦点を当てているのだろうか?
それとも千年の平和をもたらす道徳的指導者に準備させる
ためのものなのか?

この東洋神秘的武術は自己啓発のためのものか?
それとも背後に何者かが潜んでいるのか?」


 
さて、ウィルソン少年が武術に心惹かれるようになったきっかけは、物心つかないうちに、テレビで小柄な東洋人が不可能に近いような技を使う場面を見たことであった。
 



「初めて武術のことを知ったのは4歳か5歳のことだった。
 小柄な東洋人が不可能に近い技を使うのを見て驚いた。
 あの日から私の中に小さな種が植え付けられた。
 その種は静かに育って行った。


「テレビで小柄な老人が超自然的な武術を披露するのを見た。
 卵を地面に置いて、その上に片足で立ち、20秒ほど、そのままだった。
 その時の映像がずっと私の脳裏に焼きついた。

 すごい、奇跡だ、と思った。」

「あの日見たものを忘れることはなかった。
 あんな技を使えるようになりたいと夢見るようになった。
 だがその裏に潜む暗闇に気づかなかった。
 そして、その選択によって自分と周りの人々の人生が
 どんな影響を受けるかにも。

 
だが、少年が、東洋人の使う魔法のような武術に心惹かれたのは、ただ神業のような芸が脳裏に焼き付いたためだけではなかった。彼は家庭の問題に見舞われており、12歳の時に、両親が離婚、父親を失った少年は、自分は愛される価値のない子供として見捨てられ、人生が滅茶苦茶になったかのように感じた。

両親の離婚によって生じた心の傷、被害者意識や自己憐憫から抜け出し、失意や、男性として生きる上で必要不可欠な人生のモデルを失ってしまったという空虚感を埋め合わせようと、少年は、自分の力で強くなりたい、自分で自分を守るために強くならねばならない、と意識するようになる。おそらく、そこには、無意識のうちに、残されてすべての苦労を一人で負わされている母を守りたいという気持ちもあっただろう。

人生の嵐に立ち向かう力もない弱い子供でありながら、世間の様々な脅威から自分で自分を守って生きるしかない立場に立たされたことが、彼の中で、無意識のうちに、自己を強めることによって、何者にも脅かされることのない、神のような力強い者になろうとする東洋神秘主義の武術への共感に結びついて行ったのである。
  

 

 
12歳の時、両親は離婚した。人生が滅茶苦茶になった気がした。
親に対する怒りが込み上げてきて反抗するようになった。
傷つけるつもりではないと分かっていたが、
見捨てられ、拒絶され、守られる価値が無いのだと感じた。
この頃から、人生の目的、生きる意味、男としての価値を探し始めた。
そして母に武術の学校に行きたいと言うようになった。」


  
ウィルソン少年は母と共に、街で開かれていた沖縄流の空手道場を尋ねる。だが、ウィルソンの家庭は敬虔なクリスチャンの信仰を持っていたため、彼の母は、訪れた道場に違和感を持つ。キリスト教信仰によって育てられた少年自身も、武術の訓練の風景に心惹かれながらも、同時に、よく分からない違和感を持った。幸い、授業料は高く、母子家庭には負担が大きすぎたために、その道場に通うことはできなかった。
 

「帰り道は魂が抜かれたようだった感じだったことを覚えている。
夢がやっと叶うと思っていた。
しかし授業料は高く、
母と二人で町の中を歩いていると気まずい雰囲気だった。
お金のことというより、
道場自体の何かに違和感を感じている様子だった。
実は私も同じ気持ちだった。
勿論、この習い事をできたらとすごく興奮はしていたが、
何か異質なものを感じた。

キリスト教の家庭で育ち、
安息日にはいつも教会に通っていた私には、
何かがどこかで噛み合わなかった。

道場で見た力、猛威、武の芸術世界の数々を、
自分の中でどう整理したらよいか分からなくて
良い気持ちにはならなかったので、忘れることにした。

それに母にとってはそんなに簡単に無視できる問題ではないと
なんとなく分かっていたから
家に帰ったその夜、母には何も聞けなかった。
でも私には母の考えていることが分かっていた。」


この告白の中では言及されてはいないが、もしかしたら、ウィルソン少年の両親が離婚した原因には、父の暴力などがあったかも知れない。彼の母親が敬虔なクリスチャンであったことを考えると、母親が自ら離婚を望んだと思えず、それにも関わらず、そのような結末が避けられなかったのは、それほどやむを得ない深刻な事情があったためと思われるためである。もしかすると、母親は、道場で行使される「力」の中に、自分自身が受けた深刻な出来事の片鱗のようなものを見いだしたのかも知れない。
 
だが、少年と武術との接近はそれで終わらなかった。キリスト教の信仰と関係ない道場で武術を学ぶことはできないという彼の悩みを解決するかのように、友達からキリスト教的な武術学校があることを知らされたのである。
 

「ある時、親友の兄に食堂で会った。
彼は高校の3年か4年の先輩で、
私は高校に入ったばかりだった。
彼は近くの武術学校でカンフーを習っていると言った。
習い始めて一年か二年ということだった。
私は彼に質問をした。
「どれくらいのお金がかかるの?」
すると彼は「毎晩一ドルだ」
「本当?」「うん本当だよ。」
「どんな学校なの?」と彼に聞いた。
母の心配する顔がよぎった。
「教えている先生はクリスチャンで毎晩聖句を読んでから
訓練したり格闘に励むんだ」
「キリスト教の学校だし、毎回払うのはたったの一ドル。
契約もいらないよ」
私はそれを聞いてとても喜んだ。眠っていた夢と希望が
一斉に蘇ってきたから。
家に帰って母に話すと彼女も喜んでくれた。
次の週、友達と二人で学校を訪問してみた。」



武術学校に行ってみると、訓練生たちは白帯、緑帯、茶帯、黒帯という四つのステージに分けられており、学校始まって25年の歴史の中で、黒帯を取ったのはたった3人だけだった。

ウィルソン少年は、武術の力を身に着けることで、世界の状況をコントロールする力を身に着けたいと願う。彼は自分の人生が、様々な状況に一方的に振り回されているばかりで、自分で人生をコントロールできておらず、自分が本当に人生の主となって、状況をコントロールする力を手に入れねばならないと願う。その背景には、両親の離婚という、自分にはどうすることもできない出来事によって心傷つけられ、運命に翻弄されるだけの弱い自分から逃れたいという思いがあった。
 

「最初の日は男たちがお互いを蹴ったり、
色んな格闘するのをみて圧倒される気持ちだった。
これこそが真の力だと思った。
いや力というよりコントロールだと。
自分の人生はコントロールできていないように見えた。
状況や成り行きに身を任せるだけで、
何も抵抗できずにいた。
だからコントロールできる力が欲しかった。
問題を一人で対処したり自分にもっと自信をつけて
一旦これと決めたら諦めずに
やり遂げるという人間になりたかった。」



さて、これまで当ブログでは、グノーシス主義はヒエラルキーの教えだということを繰り返し述べて来たが、ウィルソンの通った武術の学校にもヒエラルキーがあった。グノーシス主義は、もともと神聖な叡智(グノーシス)は、限られた人数の選ばれた人々にしか知ることのできないものであるとして、真理の知識を少数の人々に限定する教えである。そこで、この教えは、霊性のヒエラルキーを定め、その階段を徐々に上に上って行くことにより、「より高い霊性が身に着く」かのように宣伝して、もっと優れた者になりたいと願う人間の欲望を刺激して、その教えの中に深く引き込んで行くのである。それゆえ、こうした思想に基づくすべての運動には、階層を上に上らない限り伝授されることのない秘儀のような儀式がある。




カンフーの学校では階層制度があり、
白帯は初心者なので緑帯の言うことを聞き、
緑帯は茶帯に脅えていて
茶帯は黒帯となるべく関わらないように避けていた。
いわゆるつつき順だ(強いものが弱いものをつつく)

私が入った頃に気になったことは
緑帯が一週間に一度、皆が帰った夜の十時ごろに、
特別な訓練を師父(先生)から受けていたことだった。
訓練する時ドアを閉め、誰もそこで何が起こっているか、
見ることも話すことも出来なかった。

裏では何をやっているのだろう?
私も訓練にあずかりたいと思った
それほど緑帯の技は優れていた。
あのドアの奥に入れば、特別な技が
手に入るのかと思うと、
早く緑帯になりたかった。


ウィルソンは緑帯になった時に「特別な授業」を受けることになるが、それに当たり、まず新人が受けるべき最初の秘儀を受ける。それは次のように、新人の腹を他の生徒たちが集まって思い切り素手で叩くというものであった。



「緑帯になった後
特別な授業を受けることにした。
最初に新人が入った時の儀式があり、
床の上で仰向けになり、他の生徒たちが、
新人のシャツを上げ、
授業を受ける一人一人が新人の腹を
思いっきり強く平手で叩いた。
だが儀式で誰もけがはしなかった。
ただ私の腹の痣は4、5日くらい
消えなかったのを覚えている。
強い刺激を受け腹の表面に
血が浮かんでくるからだ。
でも、その儀式を経たあと自分が認められた気がした。
まるで努力の結果の報酬であるかのように。」


当ブログでは、前回まで、三島由紀夫の割腹自殺、イスカリオテのユダの自殺時に腹が裂けたことなどを取り上げ、キリストの十字架に敵対して歩むグノーシス主義者にとって「腹」は特別な意味を持つ部位であることを見て来た。

ここで、再び、「腹」が、儀式の中で重要な部位として登場する。そこで、東洋神秘主義において「腹」とはどのような意味を持っているのかを調べてみると、これは古来からの中国思想において極めて重要な役割を担う体の部位だと見なされて来たことが分かる。中国思想においては、「気」こそ、自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの根源であると考えられて来た。あらゆる現象や変化は、「気」が動き流動することによって現れ、「気」が無くなると、その物質や生命体は存在できなくなり、消滅するとされたのである。

そこで、「気」の作用によって、人間が自分の体の状態を強化し、人間存在と生命の意味を極める方法を編み出そうという試みがなされ、そのための修行法の一つである内丹術においては、ヘソの下あたりの「丹田(たんでん)」に「気」を集めて煉ることにより、霊薬の内丹を作り出すことができるとされて来た。

おそらく、腹を叩くという儀式は、「丹田」に「気」を集めることと密接な関連があるのだろう。今日でも、「丹田に気を集める」、「気を練る」、などの方法は、禅、神道、仏教、気功、ヨガなど東洋神秘主義の流れを汲むすべての流派で使われている。

ただし、西洋医学において「気」といったものの存在や、「丹田」という体の部位は確認されていない。これは科学的には何ら証明されていない純粋に東洋的な概念である。「気」や「内丹術」がグノーシス主義的世界観とどのような関わりを持つか、さらに詳しい内容については、追って述べることにしたいが、結論から言えば、西洋思想のものの考え方が、デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」という言葉にも表れているように、「精神=頭」を中心として、あらゆる物事を知性よってわきまえようとするものであるとすれば、東洋思想は、知性や思考とは関係のなく、より情意的に、また本能的で動物的なエネルギーによって、物事をわきまえようとするものであり、その試みは「頭」ではなく「腹」を中心に始まっていると言えるかも知れない。

そういう意味で、「キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)という聖書の御言葉の警告は、決して故なきことではなく、実際に、東洋思想世界では、「腹を神」とする教義体系のようなものさえ、長年かけて作り上げられて来たと言えるのである。

さて、ウィルソンは父親との関係が全くなくなっていたわけではないらしく、大学進学の際に父と共に住むことが決まった。その時にはウィルソンが成長していたためか、親子の確執はなくなっていたようだが、それも、ウィルソンがキリスト教の信仰から離れて武術にのめり込んだことと無関係ではなかったかも知れない。ウィルソンが母親の世界観から離れ、父親の世界観により近いものを持ったために、温和な関係が築けるようになった可能性も考えられる。

以下の告白からは、彼が武術にのめり込んで行くのと同時に、キリスト教の信仰から遠ざかって行った様子が分かる。力によって人や物事を制圧し、コントロールすることを学ぶに連れて、彼にとって、信仰は何ら現実的解決を与えない味気ない理想論のようにしか見えなくなって行ったのである。

「高校卒業する頃に
父が大学の学資を出すと言ってきた。
チャタヌーガの町から外れた所だが
遺書に住むなら大学資金を出してやろう」
引越しが決まった。
武術学校を去るのは残念だった。
他にも武術学校があるとは知らなかった。
我が校が一番の武術学校だ。
ここのように教える学校は他にない、と教えられていた。
それが果たして本当かを探る良い機会でもあった。

テネシー州のクリーブランドという町に引っ越してから、
武術学校を電話帳で探すことにした。
電話帳をあけると、町が大きいほど
武術学校や道場が多く、
ある広告では、師匠の名前と黒帯何段とか、
第五、第六の夜明けや
どれだけ経験があるかなど
どういった武術を教えているかが書かれていた。

ほとんどの広告は、自分を守ろう、自信を持とう、
自尊心を高めよう、などと書かれており、目を惹きつける。
何が皆に欠けているかを広告は知っている。

改心した後に気づいたことは、すべての欠けたところは、
イエス・キリストによって本当に満たされるということ。
神に対する絶対的信仰の中でのみ見つかるということだった。

しかし、当時の私はまだそれを悟っていなかった。
神と教会から離れたのは14歳の時だった。<略>

少しずつ、私は敵の計画によって、
一つの宗教から別の宗教へと変わっていった。
教会の中で見つからない答えを武術の中で見出そうとした。

あいにく、私の求める答えはそこにあった。
自信がついて自分の生活をコントロールできていた。
もういじめっ子も怖くなくなり、頑固一徹になっていった。
時々口のほうが先走って
自分が出来る以上のことを言ったりもした。
武術で鍛えた技によりプライドが
自分の中で大きくなっていた。



こうして、武術を身に着けたことにより、ウィルソンはいじめっ子にも勝てるようになり、学校生活でもあたかも自分が悩んでいた数々の問題に勝利をおさめる力を得たように思えた。彼はそうして力によって問題を制圧し、勝利をおさめ、人生のコントロール権を得たかのように錯覚する度に、自分が本当は少しも成長したわけでなく、生まれながらの自己中心なプライドが大きく膨らんでいるだけであることに気づかなった。

<続く>

さて、これまでの記事で、グノーシス主義の本質は「肉のものを霊のものに見せかける」という偽装にあり、人類が堕落した天然の「肉の力」によって自力で神に到達しようと試みであると見て来た。

そこで、今回からは、しばらくの間、御霊によって歩む上で、信者が「肉のもの」と「霊のもの」を見分けることがどんなに重要であるかについて考えるため、キリスト教に入り込んだグノーシス主義が、どのような形で「肉のものを霊のものに見せかけようとする」か、その手法について詳しく見て行きたい。

先に説明したように、グノーシス主義思想は、聖書の「二分性」に強い拒否反応を示す。そして、切り離されたものの統合、対極にあるものの融合を訴えるが、そのような考えは、彼らが神と人との区別を認めないことから始まっている。

人類が神によって被造物として創造され、さらに罪の堕落によって神と分離したことを、この思想は認めない。そして、依然として、人類が創造される前の状態、堕落によって神との交わりを失う前の状態に、自力で回帰することを目指し、あたかもそれが可能であるかのように教える。

そのようにして、物質世界の被造物を霊なる神と同一であるとみなしている意味で、グノーシス主義は、神が霊であることを認めず、霊的世界があることをも認めず、仮に「霊」という言葉を使ったとしても、実際には、すべてを目に見える物質世界に置き換え、物質世界の被造物を神とする被造物崇拝の教えであり、それゆえ、あらゆる唯物論の起源であると言える。

唯物論も、汎神論や、東洋思想のように、「目に見える全宇宙と神とは一体である」とみなす思想も、基本的に、すべてグノーシス主義に含まれる。

要するに、グノーシス主義とは、神と人とが本質的に同一であって、人間がキリストの十字架の死を経ることなく、この物質世界にあるもの(人の生まれながらの天然の自己を含む)を通して、神に到達することができるという神秘主義の思想全体を指すのである。そこで、神という概念を用いておらずとも、物質世界にあるものがすべてであるとする唯物論は大きく見ればグノーシス主義の変種の一つである。また、グノーシス主義それ自体の神話のプロットにも見られるように、神は霊であると言って、至高神という存在があると主張していても、それを「虚無の深淵」と同一視し、事実上、神の概念を骨抜きにしているのでは、結局、被造物を神としているのと同じである。そのような意味で、仏教のように、すべては「空=無」であるとみなす思想も、事実上、グノーシス主義と同じ虚無の深淵を神としているのである。

グノーシス主義の特徴は、「あらゆる分離(区別、二分性)」を否定することにあるため、まず、この思想は神と人との分離を否定することから始まり、清いものと汚れたものの区別、霊なるものと肉のものの区別、男と女の区別を否定するなど、文字通りあらゆる区別を否定する。そして、本来的に相容れず、統合することができるはずもないものの統合を唱える。

ペンテコステ・カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、聖書の父性原理の二分性が人を精神病理に陥れる脅威になっていると主張して、キリスト教に「母性原理」を補う必要があると主張したが、そのような主張も、よく見れば、鈴木大拙のような東洋思想家の主張とまさに瓜二つである。

グノーシス主義と東洋思想は本来的に同じものであるが、そこでは、あらゆる対称性を超えた永遠の輪という概念を作り出すことによって、全世界のすべての造られたものが、終局的にはこの「輪」と同一であると結論づける。その「輪」(和)とは、虚無の深淵であり、死である。

だが、表向きは、この「輪」は、ウロボロスの輪に見るように、対極にあるものの統合の象徴ということになっているので、それは単なる虚無や、死だけを表す単純な概念ではないとされ、むしろ、破壊や死でありながら、創造の始まりであるということにされている。要するに、この「輪」の中に、生成と消滅、聖と俗、神と人類、精神と肉体、男と女などのすべてが含まれているというわけである。

しかしながら、このように、あらゆる区別を廃して対極にあるすべての概念を「統合」するというのは、人間が勝手に作り出した錬金術のような無理筋の詐術に過ぎず、事実、そのようなことは不可能事である。それゆえ、グノーシス主義の用いる「輪」は、実際意には、存在しないフィクションの概念であり、そこから始まり、グノーシス主義の「言語」は、すべてがこの「輪」と同様に、二重の概念を帯びたダブルスピークで出来上がっており、それゆえ、偽善的で、自己矛盾しており、不誠実で、虚偽だと言える。

たとえば、すでに見たように、般若心経も「不生不滅」「不垢不浄」(生成も消滅もなく、清さも汚れもない)など、対極にある概念をひとつにまとめ、その後、「無色無受想行識     無限耳鼻舌身意    無色声香味触法      無限界乃至無意識界    無無明     亦無無明尽      乃至無老死      亦無老死尽   無苦集滅道     無知亦無得」などと、延々とダブルスピークを続ける。 要するに、何もかも正反対のものが究極的には「無=空=輪」に集約されるわけであるから、対極にある概念を区別すること自体が必要なく、そのような区別はもとより存在しないも同然であり、意味をなさないというのである。      

ダブルスピークと言えば、思い出されるのは、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」という、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたディストピアの世界で人々の洗脳のために使われるスローガンであろう。オーウェルの作品は、ただ単にフィクションの域を超えて、ソビエト体制その他の実際に存在した全体主義体制の特徴を明白に描き出しており、今日も、全体主義を非難する際に手本のように引き合いに出されることが多い。

いわば、このような現実にも存在した全体主義ディストピアを生み出す原型となる思想が、グノーシス主義なのであり、この思想の中には、人を欺くための詐術が満ちていると言えよう。今、改めて『1984年』のあらすじを開いて読んでみると、そこにグノーシス主義が作り出す世界観が広がっており、それが慄然とするほどまでに、現代の我が国の政治状況、および、キリスト教界におけるペンテコステ・カリスマ運動に酷似していることを思わないでいられない。
 

 Wikipediaからのジョージ・オーウェルの『1984年』のあらすじの抜粋

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

オセアニアに内属しているロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらに、ウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。

ころが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は、「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら“心から”党を愛すようになるのであった。

本編の後に『ニュースピークの諸原理』と題された作者不詳の解説文が附されており、これが標準的英語の過去形で記されていることが、スミスの時代より遠い未来においてこの支配体制が破られることを暗示している。<略>
 




党には中枢の党内局(2009年新訳では党中枢) (inner party) と一般党員の党外局(2009年新訳では党外郭) (outer party) がある。党内局員は黒いオーバーオール(かつての労働者階級の作業着だったとされる)を着用し、貴族制的な支配階級(上層階級)で、世襲でなく能力によって選ばれ、テレスクリーンを消すことができる特権すらある。

党外局員は青いオーバーオールを着る中間層(中層階級)で、党や政府の実務の大半をこなす官僚たちである。党の主要な監視対象は、上層階級に対して立ち上がる可能性のある中層階級である党外局員であり、党内局員も党外局員も反抗の意思を少しでも見せたら密告などに遭い、思想警察(思考警察)に連行され「蒸発」してゆく。「蒸発」した人間は存在の痕跡を全て削除され(例外あり)、その者は初めからこの世に存在していなかった(ニュースピークで言う「非存在」)として扱われる。

党に関わりを持たない人々はプロレ(2009年新訳ではプロール、the proles、プロレタリアの略)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たちであるが、娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、またその他「プロレフィード(Prolefeed、直訳すると「プロレの餌」)」と呼ばれる、党の制作した人畜無害な小説や映画、音楽、ポルノなど)が提供されている。彼らに対する政治教育は行われておらず、識字率も半分以下である。多くはテレスクリーンさえ持っておらずそれゆえ監視もされていないが、党はプロレ階層を社会を転覆させる能力のある脅威であるとは全く見ておらず、動物を放し飼いにするように接している。彼らは10代から働き、早くに子供を作って60歳までには死んでしまう。重労働が彼らを蝕み、彼らの住む貧民地区にはおびただしい犯罪が横行している。

党外局員およびプロレの生活水準はきわめて低いが、テレスクリーンによる宣伝によれば日用品などの生産は毎年驚くほど伸び続けており、1950年代の革命以前の社会は言語を絶するほどの貧しさだったという。もっとも過去の統計や過去に発表された目標数値は改竄され続けており、今より昔のほうが生活が豊かだったことを証明することは不可能である。

人間の性本能や愛情は抑圧されている。党は神経学的に性本能を抹殺し、性行為から快楽を除去しようと試みており、党や「ビッグ・ブラザー」以外への愛情は必要としない。プロレの性に関しては放置されているが、党員の場合、結婚は党への奉仕のために子供を生むための「儀礼」であり、男女間に肉欲がある場合は結婚を許可されない。若者の間には「青年反セックス連盟」というものがあり、完全な独身主義を提唱し性を汚すキャンペーンを行っている。


     
 
戦前回帰を唱える日本会議勢力によって占められた今日の我が国では、まさに「オセアニア化」が進んでいる。与党が国会の議席の大半を占めたことで、一党独裁化が極端に進み、ビッグ・ブラザーはまだ一応は生きた人間の形を取って国民の前に姿を現してはいるとはいえ、自分が事実上の神であるかのように高慢に振る舞い、ビッグ・ブラザーに逆らった人々は、「蒸発」とまではいかないものの、たとえ高級官僚であっても、捏造されたスキャンダルで職を追われ、社会的に抹殺されつつある。

これらの政権に逆らった人々に対しては、ネットやTVや新聞雑誌という「テレスクリーン」を通して、さまざまなネガティブ・キャンペーンが張られ、国民の憎悪が煽られている。

さらに、賃上げがあったとか、景気は上向いているとかいった虚構の成功談が盛んに宣伝されているが、その恩恵を受けているのは社会のごくわずかな最上層部だけであり、一般大衆労働者の中で、誰一人そのようなことを実感できる者はおらず、この噂話の真偽のほどは全く定かではない。折しも、高級官僚は日々、公文書の改ざんに手を染めていたことが発覚し、それが発覚しても何の悪びれることもなく、まだ自殺するほどの良心が残っていた者がわずかにいたことだけでも奇跡のようである。

国民の大半を占める労働者は精神をむしばむ有害な娯楽をあてがわれ、重労働と貧困によって疲弊させられ、人としての尊厳を奪われたまま、家畜のように搾取され、死へと追いやられている。ピラミッドの最下層に位置する一般大衆労働者への締めつけは年々強化されており、社会保障費は削減され続け、社会的弱者はネットで吊し上られ、今、機能停止している国会では、ちょうど与党だけの独断で「働き方改革」法案が強引に審議入りしたところである。この法案によって、我が国の一般大衆労働者にはより一層、総動員体制が押しつけられ、アウシュヴィッツ行きの列車の発車時間が早まろうとしている。

ビッグ・ブラザーに忠誠を誓う高級官僚や報道関係者の性的不祥事は大目に見られ、セクハラや暴行事件を起こしても処罰もされずに見逃される一方で、庶民のうちである芸能人等は、若さの絶頂を過ぎてもまだ結婚できずに独身のまま過ごすことを余儀なくされた上、彼らの自由恋愛は厳しい統制の対象となる。ちょうど最近でも、独身の芸能人が意中の少女に恋心ゆえにわずかに接近を試みたところ、その肉欲が厳格な処罰に値する悪しき暴力事件であるとして公に懺悔を迫られていることろである。

さらに、漢字も読めない大臣や議員が国政を動かし、ツイッターやフェイスブックや匿名掲示板やブログのコメント欄といった極めて短い文章しか書けないツールが登場したことにより、極端に言語を省略した「ニュースピーク」への国民の言語の切り替えが進行中である。

何よりも、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」のスローガンの通り、国家の安全のためと称して戦争法が推し進められ、自衛隊は海外の戦闘地域へ派遣され、武器が輸出され、共謀罪が制定されて、人々の自由や人権を脅かし、教育現場でも、国家の経済政策に役立つ人間の育成ばかりが重視されて、カネ儲けと直接関わりのない人文科学は隅に追いやられ、知性の破壊が進んでいる。
 
他にも、続ければきりがないほどの類似点が挙げられるであろう。何しろ、日本会議もその源流はグノーシス主義であるから、それが政権を握れば、我が国がディストピアと化すのは当然である。

しかし、当ブログにおいて、主眼となるテーマは、キリスト教界に入り込むグノーシス主義的異端であるから、今はペンテコステ・カリスマ運動に話を移したい。

今日、まるでキリスト教の一派であるかのように、大きな顔をしてこの宗教の中に座を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、実は純粋なキリスト教ではなく、東洋思想と合体して出来た異端であることをこれまで見て来た。

グノーシス主義は、「肉的なもの」を「霊的なもの」であるかのように見せかけて、人を騙す詐欺の教えであり、ペンテコステ・カリスマ運動にはこの騙しのテクニックがちりばめられている。片方では、彼らは自分たちが「聖霊のバプテスマ」と呼んでいる偽りの霊を受ければ、信者は神のように高められ、超常的なパワーを発揮し、人間には理解できない言語で話ができるようになるとして、霊的な事柄を追求するクリスチャンの心をひきつけながら欺いている。

他方では、そうした肉的な教えに耳を貸さなかったり、それに関わってひどい目に遭わされて疑問を感じるようになった信者には、私営の秘密警察・思想警察と化した「カルト被害者救済活動」をけしかけて言論統制を行う。この運動は、文字通りすべての教会と信者を監視の対象として7自らの監督下に置こうとしており、その指示に服さない信徒には、盛んにネガティブ・キャンペーンを張って中傷して教会から追い出し、暴力的脅迫により沈黙に追いやっている。

インターネットは、カルト被害者救済活動の支持者らが信者を支配するための双方通行の「テレスクリーン」として用いられている。彼らはこの「鏡」を通して、要注意とみなした信者らを監視し、彼らの思惑に従わない信者らをディスカウント・中傷し、脅し、傷つけて、黙らせようとしている。それによって、彼らの 「ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている」(BIG BROTHER IS WATCHING YOU) という標語を実現しようとしているのである。

ここにおける「ビッグ・ブラザー」とは、人格というより、虚無の深淵としての「鏡」そのものであろう。そのような「鏡」の一つがインターネットであり、スマホや携帯電話などのツールであり、それらが人々の思想を監視するための双方通行の「テレスクリーン」の役目を果たしているのであり、神のようになりたいと願う者が、どこにでも偏在して「すべてを見通す目」を持つための手段として用いられているのである。

さて、これまでの記事では、ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教と東洋思想の合体であることを、主として思想面から分析して来た。ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の父性原理に母性原理(ここで言う母とは被造物のこと)をつけ加えよと主張していることなどは、まさにこの運動の東洋思想とのほぼ完全な一致をよく表しているが、これから先、記事では、思想面のみならず、現象面を通しても、この運動の起源が東洋的神秘主義にあることを見て行きたい。
 
実は、ペンテコステ・カリスマ運動は、現象面においても、東洋的神秘主義に起源があることが明白なのである。ペンテコステ運動のミニストリーが、いかに超常現象を強調するものであるかは、今更、説明せずとも、多くの人々の知るところである。この運動は必ずと言って良いほど、彼らが「聖霊」と呼んでいる偽りの霊が引き起こす「しるし・不思議・奇跡」などの超常現象を強調する。
 
彼らの見せる奇跡の多くは偽物であるが、中には、本物の超常現象もある。筆者はかつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にいた時代に、この教団の教会がしきりにペンテコステ運動の名だたる「宣教師」たちのセミナーや大会を推奨していたこともあって、そうした偽りの宣教師たちが海外から来日して開いた大会などを見聞きしたことがある。

ある大会で、次のような光景が繰り広げられた。詳細は覚えていないが、南米の国々などからやって来たと思われる白人の宣教師の一人が、講演中に、会衆に向かってステージに上がるよう指示した。ペンテコステ運動の集会では実によくある光景である。人々は何が起きるかと期待しながら、ぞろぞろステージに上がって行った。筆者と同伴者らもステージに上がった。そこで、偽りの宣教師が、ステージで何かを命じた(その言葉は、外国語だったせいか、それとも、異言だったためなのか、当時の筆者には意味が理解できなかった。)会衆の多くは、宣教師が命じれば、自分たちは床に倒れることになると初めから期待していたものと思われ、実際にそうなったのである。

むろん、スーツを決め込んだ白人の宣教師は、マイクの前に立っているだけで、誰にも指一本触れていない。ただ言葉で何かを命じ、わずかに手振りをしただけである。それだけで、ステージのかなり端の方にいた会衆たちにも、何かの衝撃波が到達したらしく、人々はよろめき、中には倒れる者もあった。

だが、筆者はそういう話を色んな場所で聞いて、眉唾ものだと思い、疑っていた。会衆が倒されることばかりに期待を寄せているから、倒れたいという自分の願望によって自ら倒れているだけなのではないかと疑っていたのだ。そこで、筆者は、半信半疑で、目をかっきと開いたまま、冷静に会衆の様子を見ていたが、宣教師はステージの上を歩き回り、まだ床に倒されていないで立ったままでいる人々に、手をかざすなどしてさらに倒し始めた。その時、宣教師のそば近くにたまたまいた筆者の同行者の一人が、宣教師の手の一振りで、吹き飛ばされるようにして完全に床に引き倒されてしまった。

今や大勢の会衆が当たり前のように床に転がるように倒れていたが、人々は催眠状態か恍惚状態にあるようで、そこには何か異常なことが起きたという危機感が全くなかった。倒された人々がパニックになることもなく、けいれんしていた人を世話する係まで用意されており、そうした出来事はすべてまるでありふれた日常的な風景に過ぎないかのような雰囲気があった。
 
だが、筆者は、自分の周りの人々に起きた異常を忘れなかった。引き倒された筆者の知人は、床に頭を打ち付けることもなく、また、倒れた衝撃で何らの不愉快な感覚を味わった様子もなく、瞬間的に気を失って、何か心地よい恍惚状態の中で、眠るように目をつぶっていた。おそらくその大会で自分が倒された事実さえ今となっては全く覚えていないほどであろうと思う。明らかに、その偽りの宣教師が、身振りと手振りだけで知人を地面に引き倒したことは明らかだったが、その倒れ方は、まるで風にあおられて自然に床に落ちた木の葉や、ティッシュペーパーか何かのように、音もなく滑るように瞬間的に仰向けに引き倒されたのであり、よく電車などで見かけるように、気分が悪くなった人が自主的に床に倒れ込む様子とは全く違っていた。数分程度、倒れたまま、目をつぶり、気を失っていたが、呻いたり、苦しんだりしている様子もなく、完全に無意識の状態に置かれていたのである。その後、意識を取り戻して起き上がっても、困った様子もなく、異変を感じている様子もなく、普通に行動し始めた。

その衝撃波は、筆者には何一つ影響を及ぼさなかったが、筆者はその時、目撃した異常を忘れなかった。その出来事を通して、偽りの宣教師たちが強調している「超常現象」が、必ずしも捏造された奇跡や、サクラの演出などによるヤラセばかりではなく(そういうものも多いかも知れないが)、実際に偽りの宣教師たちの中には、明らかに何かの人間離れした超自然的な力を行使できる者がいることを知ったのである。

今から考えると、その力は、仏教やヒンドゥー教の僧侶やシャーマンたちが、修行を通して得られる、魂の力を開発した超常的な能力だったに違いないものと思われる。当時、来日していたペンテコステ運動の「霊の指導者」たちは、ほとんどが白人であったが、彼らは東洋的神秘主義に由来する力を身に着けていたのである。

東洋思想とは、神と人とが本来的に一つであるという神秘主義思想であるが、ただ単に頭の中だけで考え出され、頭脳を通して理解される思想とは異なり、人間が修行を通して自己を鍛え、実際に神と合一したと言えるような神秘体験をし、何かの超自然的な力を行使できるようになるための「秘儀」を含んでいる。そして、それはインドやその他の地域で絶えず開発・利用されて来た能力であるとはいえ、日本にも伝来し、我が国では武士道という最も完成された形を取って現れたのである。

私たちは、三島由紀夫が武士道を通して自分を鍛えようとしていた事実や、有名な武士道の書『葉隠』の中に、「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」という一節があることなどを知っている。

武士道とは、いわば、「虚無の深淵」を神とし、すべての目に見えるものが本質的にこの「虚無の深淵」と一体であるとみなす東洋的思想の神秘主義の完成として作り出された「死の美学」である。武士道の極意は、いかに人間が常日頃から死と一体化し、死を美学として完成させるために生きるかを示す方法論のようなものである。彼らは、生きているうちから死と一体化することにより、死によって脅かされている儚く脆い生命の「美」を極めようとするのである。

だが、武士道を「美学」とみなすことは、この誤った思想のほんの表面的だけを見る偽りである。武士道とは、ただ単に水面に浮かぶうかたかや、散って行く桜を眺めては、その無常に思いを馳せ、情緒的感慨に浸ってため息をつくという種類のものではなく、残酷な力の行使である。儚く脆い命を愛で、自分も儚い命として自分を守り、自己完成を目指すという美しい響きとは裏腹に、その本質は、憎しみと怨念のパワー、堕落した魂の力に由来する暴力の行使なのである。

そのような東洋的神秘主義に由来する力が、キリスト教界に入り込んでいること、まさにその魂の力こそが、ペンテコステ・カリスマ運動の本質であることを、次回以降の記事で、実際に、様々な動画などを例に取り、詳しく見て行きたい。

・ハンセン病の絶対隔離政策に見る、「慈愛」や「同情」を装う偽りの救済事業」の危険性
 
さて、これまで、グノーシス主義がしきりにキリスト教の父性原理に基づく二分性を糾弾し、「慈愛」や「慈悲」によってすべてを包容する「母性的情愛」を高く掲げていることを見て来た。

今回、私たちは、グノーシス主義がしきりに善良な要素として掲げる「母性的情愛」なるものが、本当に人間を解放することに少しでも貢献するのか、むしろ、「慈悲」や「同情」といったうわべだけは美しく響く概念が、どれほどその美名とは裏腹に、人間をディスカウントして貶め、人を弱さの中に閉じ込めてそこから受け出せないように支配する口実として利用されるかということを、以前にも一度触れたことのあるハンセン病の絶対隔離政策を例に見ていきたい。

ハンセン病患者に対する強制隔離政策は、我が国で、約90年以上も続けられて来た。

ハンセン病は、我が国では、古来から、世間では「家系に伝わる不治の病」「業病」などと呼ばれて、不当な差別の対象とみなされて来た過去があるが、我が国で、国家レベルでハンセン病者に対する差別的な隔離政策が推進されるようになったのは、明治になってからのことであった。
 
明治になってから、我が国は、近代国家としての体裁を急ごしらえで身に着けようと、西欧諸国にならって文明開化を急いだ。「内地雑居」により、欧米人が自由に日本国内を行き来できるようになった頃、当時の日本政府は、ハンセン病患者の存在を、文明開化した国にはふさわしくない、未開の国の無秩序状態を示す「国家の恥」とみなして、ハンセン病者を「国辱」であるかのように考え、排除を決定したのであった。

つまり、欧米人の前で、国家の見栄や体裁を保ちたいという理由で、国はハンセン病者を社会的に抹殺・隔離・根絶することを決め、それに基づいて、明治以降、平成に至るまで、政府が率先して絶対隔離政策を長年に渡り、推し進めて来たのである。

以下は、後ほど紹介するように、絶対隔離政策がようやく違憲として廃止された後、2005年に厚労省でとりまとめられた「ハンセン病問題に関する検証会議による最終報告書」からの抜粋である。そこには、明治政府が、1907年に「癩予防ニ関スル件」という法を定め、ハンセン病者の隔離政策に踏み切った理由が、対外的な見栄を保つためであったことが示されている。
 
そこから、欧米人と肩を並べる列強として、文明開化された強い軍事力を持つ国であることを対外的に演出したかった当時の明治政府から見て、ハンセン病患者は、アイヌ民族や、精神障害者と並んで、「野蛮」や「汚濁」を象徴する存在として、覆い隠さねばならない存在とみなされたことが分かる。

 

当時の日本の衛生政策は、防疫、すなわちコレラなどの急性感染症への対処に追われていて、とてもハンセン病への対策を実施する余裕はなく、ハンセン病患者への医療は、こうした宗教的施設に依存するばかりであった。

では、なぜ、1907(明治40)年、法律「癩予防ニ関スル件」を公布し、国家はハンセン病患者の隔離に踏み切ったのであろうか。その契機は2 つある。1 つは、1897(明治30)年、ベルリンで開かれた万国癩会議で、ハンセン病が感染症であり、その予防策として隔離がよいと確認されたことであり、もう1 つは1899(明治32)年に欧米諸国との間の条約の改正により新条約が発効し、「内地雑居」が開始されたことである。

「内地雑居」により、欧米人たちは日本国内を自由に居住し、旅行できるようになった。

当時、
ハンセン病には遺伝病という認識が支配的であったため、患者は家族・親戚への差別を恐れて、自宅に隠れて暮らすか、家を出て放浪して行方をくらますかの、いずれかの境遇を強いられていた。

放浪する患者のなかには、神社・仏閣などの門前で物乞いする者も多く、「内地雑居」が始まると、そうした放浪患者の姿を欧米人に見られることは国家の屈辱と考えられた。なぜならば、当時、ハンセン病は北米やヨーロッパには少なく、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどに多くの患者を発生させていたからである。

1900(明治33)年12 月、内務省が初めておこなったハンセン病患者調査では、患者数3 万0359 人、「血統戸数」19 万9075 戸、「血統家族人口」99 万9300 人と報告されている(国立療養所史研究会編『国立療養所史』らい編、厚生問題研究会、1975 年)。ここで、「血統」という表現を使用しているが、これは内務省がまだハンセン病=遺伝病説に固執していたということではなく、家族に患者を抱えている戸数と家族の人口という意味である。すなわち、「血統家族人口」とは、家族間で感染している可能性があり、今後、発症するかも知れないという人口を意味しているのである。

この数字は、国家にとって大きな衝撃であった。日清戦争に勝利し、条約の改正にも成功した本にとり、アジア・アフリカの植民地並みの患者が存在することは国辱以外のなにものでもなかった。

ちょうど、この頃、1899(明治32)年に「北海道旧土人保護法」が成立し、1900(明治33)年には「精神病者監護法」が成立しているが、法律「癩予防ニ関スル件」もまた、これらの法律とともに「内地雑居」との関連性をもって評価されるべきであろう。


すなわち、アイヌ民族への「保護」を掲げた「北海道旧土人保護法」や精神障害者の座敷牢ヘの監禁を認めた「精神病者監護法」について、小熊英二は「欧米人の視線から<野蛮>ないし<汚濁>とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策」の一環とみなしているが(『<日本人>の境界』、新曜社、1998 年)、法律「癩予防ニ関スル件」もまた、その一環とみなすべきである。

(厚労省「ハンセン病問題に関する検証会議、最終報告書」、pp.52-53)



こうして、もともと国家の対外的な面子を保つ上で、ハンセン病患者の存在自体を「国辱」とみなす考え方が生まれ、それを土台に、光田健輔のように、ハンセン病患者の治癒後も含めた生涯に渡る絶対隔離の必要性や、断種による患者根絶の必要性を強力に唱える(ある意味ではマッドサイエンティストのような)医師が登場して、多大なる影響を行使した結果、「癩予防ニ関スル件」、「無らい県運動」、「らい予防法」などの、日本政府による数々の非人道的な絶対隔離政策が成立して行ったのである。

このように、医学的な見地に立つよりも、むしろ、中世あるいはヘイトのような差別感情に基づくものと呼んだ方がよい我が国におけるハンセン病者への絶対隔離政策は、1943年にアメリカ合衆国で「プロミン」の治療効果が報告されて、ハンセン病の治療が可能となり、その後、これを改良した治療薬が開発されて、ハンセン病が事実上、不治の病ではなくなった後も、撤廃されることなく長年、続行された。

「らい予防法」に基づく絶対隔離政策がようやく終焉を迎えたのは、2001年5月11日に国立ハンセン病療養所に入所している元ハンセン病患者が起こした「らい予防法違憲国家賠償訴訟」において、熊本地裁が絶対隔離政策を違憲とする判決を出し、国が控訴を断念し、ハンセン病患者・元患者に謝罪を行ってからのことである。

1953年(昭和28年8月15日)に制定された「らい予防法」それ自体は、1996年(平成8年4月1日)の第136回国会で廃止されていたものの、この時点では、「らい予防法」に基づく「絶対隔離政策」や「患者絶滅政策」の違憲性は何らまともに検証されていなかった。こうした政策そのものが反人間的な違憲の法であったことが初めて明らかにされたのは、上記の熊本地裁判決においてである。

その熊本地裁判決が出された翌年の2002年に、政府は「ハンセン病政策の歴史と実態について、科学的、歴史的に多方面から検証を行い、再発防止の提言を行う」ことを目的に、検証会議を設置し、その後、2年半に及ぶ調査の結果、2005年3月1日に検証会議が「最終報告書」をとりまとめて厚生労働省へ提出した。

この最終報告書は、検証会議が行った療養所における患者や元患者への膨大な聞き取りや実態調査、さらに、長い歴史時代に渡って培われた差別構造についての多角的な考察や検証などを含んでおり、極めて重大な意義を有するものであるが、それでも、この調査報告がまとめられただけでは、それはハンセン病者らの不当に奪われて来た人権が回復されるための最初の一歩に過ぎない。

その後、政府は、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」を設けることににより、絶対隔離政策の犠牲となった元患者らへの補償金の支給を決定したものの、この補償金は、法律の施行からわずかに5年間の間しか請求できないと制限がつけられ、その5年の間に請求がなければ、受給できないものとされて、2006年6月で請求期間が終了した。

だが、その申請期間に、この法律の対象となりうるどれだけの患者・元患者らが、この法律の存在を知って、請求を行ったのかは、その後の調査もなく不明である。何しろ、90年間もの長きに渡り、差別と隔離の歴史が続き、自分の病気を患者が公表することもはばかられる環境が作り出されて来たのだ。その後で、ようやくその悪法が違憲と認定されてから、わずかに5年の間に、新しい法律に基づき、補償金の申請をせよというのは、あまりにも元患者らにとって、不親切・不案内かつ配慮に欠ける措置ではないだろうか。

療養所を退所した後、かつて隔離されていた過去をひた隠しにしながら息をひそめて生きたであろう多くの人々の存在を考えてみると、未だ差別意識に苦しめられているがゆえに、そのような権利があることを知っても、あえて行使しなかった人々もいると思われる。しかも、この補償金が違憲の法律によって家族のメンバーを残酷に家庭から奪われた人々などは対象としていないことにも、決してこれが政府による隔離政策に対する十分な反省や償いを示すものとは言い難いことは明らかである。

国は戦後、かつての軍人やその遺族に手厚い恩給や年金を支給しているのであるから、長年、隔離され、人権を奪われ続けて来たハンセン病者やその家族に対する補償は、決して期限付きの自主申請に基づいて行われるべきものではなかったと考えられてならない。

政府が90年以上もに渡る隔離政策の後で、療養所の入所者や退所者に関するきちんとした後追い調査をせずに、補償金の受け取りをただ元患者らの自主申告に委ねたことは、大きな間違いであると思われてならない。

こうして、元患者らへの、隔離によって奪われた人生の年月や、残酷な断種政策によって侵害された人権に対する償い、また、隔離施設の中で、非人間的な差別的扱いのもとで開かれた「特別法廷」で出された判決の再検証などの取り組みについては、法曹界からの声などは上がっているが、政府からは、今も個別の訴えがない限り、遅々としてなされていないのが現状であると言える。

もしも真の「国辱」とは何であるか、真の「野蛮」や「未開」の概念とは何を意味するかを考えるなら、このように、政府が自ら不当に弾圧して来た人々の人権の回復に積極的でなおい態度を取り、いたずらに補償金の受け取りを制限し、絶対隔離政策のもたらした害を個人の責任として押しつけて放置するような態度を取っていることこそ、文明国家の恥であると言えよう。

さて、以上で挙げたハンセン病に関する検証会議の最終報告書は、「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書」(厚労省)および「ハンセン病事業検証調査」(公益財団法人日弁連法務研究財団)のホームページで見ることができる。
 
だが、おかしなことに、厚労省が出しているホームページでは、「第四  1953年の「らい予防法」―強制隔離の強化拡大の理由と責任― 」における「第4  藤楓協会および皇室の役割」の項目には、個別のリンクが貼られていない。

よくよく探せば、この項目は、その上にある第三の全体版に合体されていることが分かるが、他のすべての項目では個別のPDFが存在するにも関わらず、皇室の責任を問うたこの項目だけに、個別のPDFのリンクが存在しないことは、非常に奇妙に感じられる。偶然のミスなのであろうか。

さて、以下では、この最終報告書を参照しつつ、皇室および、宗教界の中から、キリスト教を例にとりつつ、これらの宗教勢力が、なぜ絶対隔離政策を廃止する原動力とならないどころか、むしろ、強力にこの人権侵害を黙認し、むしろ、擁護するための大義名分の役割を果たしたのか、それぞれの「救済観」の誤りという問題に照らし合わせながら、考えてみようと思う。

まず、皇室からである。

ハンセン病者は、「慈悲深い皇室」というプロパガンダを国民に流布するために大いに利用された。絶対隔離政策は、ただ暴力的に患者を隔離するという方法で推進されたのではなく、皇室がハンセン病者に「慈愛の涙を注ぎ、救済の手を差し伸べる」という「神話」や美談によってカモフラージュされながら、推進されたのである。

> 近代日本の皇后像を研究した片野真佐子は、「皇室を慈善恩賞の府、とりわけ慈善の府となし、皇恩の広大さを目に見えるかたちで国民に知らしめるもっとも有効な事業はなにか。的は『救癩』事業にしぼられた。問題は国家の体面にかかっている。『癩』の問題を放置する国家を、西洋社会は文明国家と認めないからである」と述べ、皇室と「救癩」の接点となったのが貞明皇后節子さだこであったと結論する(片野真佐子『皇后の近代』講談社、2003 年)。

たしかに、貞明皇后(節子は1926 年12 月25 日に大正天皇が死去した後は皇太后となるが、本報告書においては諡名である貞明皇后で表記を統一する)は、1930(昭和5)年、癩予防協会設立の基金に「御手許金」を「下賜」し、1932(昭和7)年11 月10 日には、大宮御所の歌会で「癩患者を慰めて」と題して「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」などの歌を詠むなど、皇室の「救癩」の象徴となっていく。

では、なぜ、象徴の役割が貞明皇后でなければならなかったのか。これについては、片野も引用している次田大三郎「地方局の思い出を語る・上」(『自治時報』1959 年5 月号)に詳しい。それによれば、癩予防協会設立時、内務省地方局長であった次田は内相安達謙蔵に対し、「一つ、皇室のお力を借りられたらいいのではないか。大臣が皇后に拝謁されて、あの光明皇后―奈良時代の光明皇后の先例にもあるから、皇后が、そういう哀れなるらい患者のために大御心をわずらわすということにされたらいいと思う。そういうことをお願いなすつて、皇后がそれをやつてくださるということであれば、それはもう皇室中心の日本で、きゆう然として世論がそれにしたがつて来るだろうと思う」と述べ、安達もそのとおりに、貞明皇后に願い出て、同意を得たという

次田は、隔離政策に国民の理解を得るための「プロパガンダの一つの方法」として、貞明皇后を担ごうとしている。そして、その根拠は光明皇后の「救癩」伝説にあった。かつて、光明皇后がハンセン病患者の背を流し、膿を吸ったという伝承を現代に再現する意味で、貞明皇后は象徴となり得たのである。 
(ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 p,144)



光明皇后に関する「神話」に重ね合わせる形で、貞明皇后が「救癩」の象徴として担ぎ出された。それは、皇室が主体となって、ハンセン病者を「救う」という「お涙頂戴物語」を隠れ蓑にして、政府が事実上、「国辱」とみなしていたハンセン病者を、可能な限り、穏便かつ早急に社会から排除するためであった。

そのために、「皇后じきじきにハンセン病者の苦悩に寄り添い、慈悲をかけられた」という「救済神話」が作り出され、恐るべき隔離政策が、皇室に由来する費用の下に、「同情」の名のもとに進められて行った。

こうして、「慈悲」や「救済」の概念の下、ハンセン病者の「根絶」や「絶対隔離」という忌むべき政策の非人道性が覆い隠され、国を挙げての人権侵害が正当化されたのである。
 

貞明皇后は、すでに1925(大正14)年、後藤静香が主宰する教化団体希望社を介してハンセン病患者の処遇に関心をいだき、「女官一同」の名で、金一封を後藤に贈っていた(加藤義徳「後藤静香と救癩運動」、『JLM』571 号、1980 年11 月)。希望社は全生病院への慰問や群馬県草津の鈴蘭園への支援をおこなうなど、隔離を前提にした患者の「救済」を実践し、希望社が発行する『希望』は宮中の女官にも読まれていた。

貞明皇后は安達内相の申し出を受けて、1930(昭和5)年11 月10 日、「御手許金」24 万8000円を内相と拓務相に「下賜」した。このうち、20 万円が癩予防協会の基金に組み込まれ、残りは日本国内と朝鮮・台湾の計10 か所の私立療養所への補助、公立療養所職員への慰安、および公私立療養所入所者への慰安に使用された(関屋貞三郎『皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業』、癩予防協会、1935 年)。

その際、入江大宮大夫より「熟ら思召さるゝには世に不幸な者多しと雖も癩病患者の如く治療の方難く家庭の楽もなき悲惨なるものあらしと最も御同情遊はされ、又其の患者を救護し事務に尽瘁する人々の献身的の至誠に深く御感動あらせられ、今般此種の社会事業に対し夫々御下賜あるべき旨御沙汰あらせらる」という「謹話」が発表され、貞明皇后の「同情」が強調された(『山桜』12 巻10 号、1930 年10 月)。

また、1934(昭和9)年3 月、中央社会事業協会主催の社会事業中央講習会で、「皇室と社会事業」の題で講演した前宮内次官関谷貞三郎も、貞明皇后と「救癩」の関わりについて詳しく論じている。この講演は、同協会より冊子になり刊行されているが、全体47 頁のうち、貞明皇后と「救癩」についての叙述が7 頁を占めている。講演は、古代から近代に至る内容であったことを考えると、その比重の大きさは否定できない。<略>

貞明皇后のハンセン病患者への「仁慈」は植民地にも流布される。<略>

さらに、1942(昭和17)年、「大東亜共栄圏」に日本のハンセン病患者を送り出し、現地の患者を看護させようという「救癩挺身隊」構想が、長島愛生園などから提起されると、同園事務官宮川量(ペンネーム東洋癩生)は「八紘一宇の理念さらに我等に尊い皇室の御仁慈がある。これを大東亜の病める兄弟姉妹に頒ち与へ、共に大恵に浴さしめたい」と訴え(東洋癩生「大東亜救癩進軍譜」、『愛生』13 巻1 号、1943 年1 月)、入所者の間にも、隔離された自分たちでも御国に奉公できるという意識が強まり、星塚敬愛園の入所者は、貞明皇后の「つれづれの友となりても慰めよ」の歌をもとに皇室の「仁慈」が「大東亜共栄圏」のすべてのハンセン病患者を救済する「御歌海を渡る日」を待望していた(南幸男「南方救癩に処する我等病者の心構え」、『愛生』13 巻3 号、1943 年3 月)。

結局、「救癩挺身隊」構想は、戦局の悪化で実現しなかったが、貞明皇后のハンセン病患者への「仁慈」がこうして、患者の戦争動員の論理にも適応されていった。

このように、ハンセン病患者は皇室の「仁慈」を顕在化させる恰好の対象とされた。しかし、その一方で、ハンセン病患者は皇室の権威を借りて排除された事実も指摘しなければならない。
(同上,pp.144-145)



もちろん、この残酷な絶対隔離政策に、患者自身が抵抗しなかったわけではない。当時のハンセン療養所では、強制的に隔離された患者たちが、脱走や逃亡を企てたり、反乱が起きることもなかったわけではない。

しかしながら、療養所では、貞明皇后がハンセン病者を哀れんで詠んだとされる歌や、皇后の「慈愛」に満ちた「救癩」の取り組みがしきりに強調されることにより、隔離された患者らの心には、「皇后じきじきに関心を持って下さるのだから、私たちは国家の恥として見捨てられ、抹殺された存在ではない」とか、「私たちは差別されているだけの惨めで哀れな存在ではない」などという考えが植えつけられ、患者らは、皇后が自分たちに慈悲を垂れたという美談によって自分を慰めることで、おとなしく隔離に自主的に応じるようマインドコントロールがなされて行ったのである。

こうしてハンセン病者は、皇室が「慈悲深い救済者」であり、見捨てられた社会的弱者の「救済事業」を主体的に行っているという「美談」や「神話」を作り出し、身分差別を強化・固定化していくための大いなるプロパガンダとして利用されたのである。

そうした伝統は戦後になっても受け継がれる。

こうした藤楓協会が国民に強く訴えたのが皇室の「仁慈」である。一般的に、日本の医療・福祉関係の施設・団体には多くの皇族が顔を並べている。日本赤十字社を筆頭に多くの皇族が名誉総裁などの地位を占め、また、皇族が旅行すると必ずと言っていいほど、病院や福祉施設を慰問する。

戦前は、男性皇族は軍務に就き、女性皇族は軍事救護や福祉に関わるという、まさに厳父と慈母というイエ制度に基づくジェンダー的役割分担をおこなってきたが、戦後は男女とも、福祉の顔を国民に向けることになった。

ハンセン病に関しては、特にそれが顕著である。藤楓協会のみならず、菊池恵楓園、邑久光明園の園名には、いまだに皇后たちの印章や謚号が使われている。戦後の皇族は、どれほどハンセン病と関わってきたのか。

皇族のなかでは高松宮宣仁が頻繁に療養所を訪れている。高松宮は、藤楓協会の初代総裁であり、1987(昭和62)年に死去した後は、妻の喜久子が総裁を継いだ。貞明皇后に続き、高松宮は皇室のハンセン病患者への「仁慈」の象徴となった。

ここで、特に注目するべきは占領期の高松宮の行動である。高松宮は1947(昭和22)年から1951(昭和26)年までの5 年間に、全国9 か所の療養所を廻っている。これは、高松宮の自発的なものだったとは考えられない。皇族の行動には、それなりの意味がある。(同上,pp.151-152)


ロイヤルファミリーという特権階級の存在意義を世間に納得させ、その威光を社会に輝かせるためには、彼らが絶えず、自分たちが最もひどく搾取している対象である弱い人々を気にかけ、特に打ち捨てられた社会的弱者に関心を寄せ、彼らに救援の手を差し伸べているというポーズを取ることが必要不可欠である。

やんごとなき人々が「慈悲深い姿」を社会に見せることが、支配階級を存続させるための絶好のプロパガンダであるという認識は、日本だけに限ったことではない。

そのような慈善事業は、一見、支配階級が格差や差別によってできた溝を埋め合わせるために行っているように見えるかも知れないが、真の目的はそれとは正反対である。それは格差や身分による差別をより一層、強化・固定し、永遠にそれが覆されることがないよう、支配階級に対する弱者の怨念の一種のガス抜き、うわべだけのプロパガンダとしてなされているだけなのである。

つまり、やんごとなき人々が、雲上人の高みから、どん底の苦しみの中にいる人々に関心を示し、同情の涙にくれて手を差し伸べるという「神話」が作り出されることにより、うわべだけ、「差別する側」と、「差別される側」との間の感情的対立が緩和され、両者の和解が成立したかのように見える。

差別階級は、「慈悲」の名のもとに、被差別階級のために涙を流し、被差別階級は、その涙を見て、自分たちの労苦がかえりみられ、差別階級が反省を示して歩み寄りをしてくれたかのように考えて自分を慰める。ところが、現実には、「慈悲」という隠れ蓑の下で、「哀れむ側」と「哀れまれる側」との間にある圧倒的な不公平や身分差別は、なくなるどころか、より一層、強固に固定されて行く。

「哀れむ側・施す側・助ける側」だけが一方的に栄光を受け、「助けられる側」は、ますます惨めな境遇の中に閉じ込められて、支配階級の栄光と満足の道具とされて行くのである。

従って、その慈善事業は、実際には、社会的強者を永久に強者のままにしておき、社会的弱者を永久に弱者のままに留め置くための「ポーズ」でしかない。その実態は、「救済」どころか、「不当な支配や搾取の正当化」であり、人々を弱さの中に閉じ込め続けることで、永遠に搾取の対象とすることにあり、実際には「救済事業」という見せかけの美しい名目とは正反対の役目を果たしているのである。

こうして、「慈愛」や「同情」や「救済」の美名のもとに行われる排除、支配、差別、隔離、マインドコントロールが存在する。

当時、ハンセン病のほとんどの療養所では、貞明皇后がハンセン病者を「慰める」ために詠んだとされる歌が、皇室からハンセン病者への「御恵み」として宣伝された。以下の記述を通して、ハンセン病者を利用して「慈愛に満ちた皇室」のイメージが作り出され、それがまるでカースト制のような、差別に基づく支配構造を固定化するために大いに利用されていた様子が分かる。

「我々国民として最も尊ぶ皇室」の威光を輝かせるためには、それと正反対の「日本で一番虐げられて居る、踏みにじられている癩者」の存在が大いに役立ったのである。

「癩予防協会」は、1931 年3 月に、絶対隔離政策を支持する世論作りのために、大正天皇の后、貞明皇太后節子が深く関わり設立されたものである。この時ハンセン病医療のために出された節子の「下賜金」25 万円の内の10 万円が設立の基金とされているが、基金ということ以上に、皇太后節子の関わりは世論形成に大きな意味を持った。

癩予防協会は、節子の誕生日である6 月25 日を「癩予防デー」と定め、「癩撲滅」「絶対隔離推進」の世論喚起の取り組みを行い、11 月10 日を「御恵みの日」と定め、「我々国民として最も尊ぶ皇室皇太后陛下が日本で一番虐げられて居る、踏みにじられている癩者に御手を下し給ふた」ことが皇室の慈愛として強調されていったのである。

ハンセン病問題における皇室の存在の大きさは、節子が「癩患者を慰めて」と題して詠んだ「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という歌の歌碑が、私立も含めて、ほとんど全ての療養所(菊池恵楓園は額装のみ。現在は倉庫に格納されている)に存在し、現在も大切に扱われていることからもうかがえる。「御恵みの日」の11 月10 日は、この歌が詠まれた日にちなんでいる。

光田健輔は、療養所内の反応を「患者たちにとりては、境遇上虐げられ、さいなまれた夜が明けたように有難く思うたことであろう」と述べ、「その声が療養所から叫ばれるとき、民衆は一日も早く病者を恩恵の楽天地に送ることを心がけるであろう」(『愛生』3 号 1932 年)というように、皇太后節子の存在を、絶対隔離政策推進の大きな力として感じとっている
(同上、pp.436-437)


だが、こうして、残酷な隔離政策、差別と支配の構図の上に立って、ハンセン病者を利用して存分に栄光を受けたのは皇室だけではなく、宗教界も同じであった。

最終報告書には、キリスト教がどのように隔離政策の推進に利用されたかというくだりもあるため、読んでみよう。
 

信仰によって苦難もよく之を征服する事を得べく、苦難に遭遇し初めて真の信仰に生きる事が出来るのだ、我々は苦難に打ち勝ち初めて意義ある人生の光明を見出す事が出来る。(「苦難の恵み」仁人 『甲田の裾』1931 年9 月号)

苦難を恵みとして受けとめ、それに打ち勝つことが「真の信仰」なのだと受けとめられている。
このように信仰による安らぎを与える「慰安教化」活動は、そのまま入所者に対して「隔離の受容」を植え付けていくことと表裏となるものであった。

2)「隔離の受容」の植え付け

「隔離の受容」の植え付け、このことが、ハンセン病問題に対する宗教の責任を明確にしていくうえでもっとも重要な事柄と言える部分である。

まずキリスト教の事例から考えていきたいが、多磨全生園のある入所者は、次のように述べ、ンセン病は天主(神)が人間に対して許可した疾病で、それには霊的すなわち宗教的な意味があるはずだと主張している。<略>

十字架の贖罪にしめされた天主の愛を知り、新生を経験した癩者の魂は、かつては自らの生ける屍を埋めるために来た墳墓である癩園を、聖寵の花園に変える。肉親との離別の寂寥、病まざりしならば知り得たであろう人間生活の諸々の愉しみ、病気の肉体的苦痛、それらをすべていと小さい犠牲として捧げる。それらは云いがたい霊魂の冨となって、彼の中に浄らかな喜びを溢れさせるだろう。」 (「癩と信仰」光岡良二『声』1954 年6 月号)

イエスの十字架上での苦しみと死を通して神の愛を知る者は、苦しみを神に捧げる貴い犠牲として受け入れることができ、そのことが療養所の中で生きていく上で喜びをもたらすとの理解である。

一言で言えば、病気とそれゆえの隔離の苦しみを受容し耐え忍び、喜びと変えて療養生活を営んでいくための支えとして、キリスト教は役割を果たしてきたと言える。そのことは、次の神山復生病院院長岩下壮一の「祖国の血を浄化せよ」というタイトルの講演でも顕著である。

この講演で岩下は、宗教あるいは信仰の果たす役割を「納得の装置」とみなし、なぜこの病気にかかったかという質問にどう答えるのかとの友人の質問に、「これはただの道徳や慈悲の心では解決できない、信仰の世界に入らなければ納得させることができない、実に癩問題には必然、宗教問題が伴わなければ満足な解決は得られない」(『岩下壮一全集・第8 巻』)との考えを示している。

ここでの信仰の世界とは隔離政策を受容し、自分の病気の苦しみを犠牲として神に捧げることである(岩下壮一「病者の栄光の日近づく!」『声』No.736 1937 年5 月号)。要するに隔離政策の中で生きていくには十字架にかかったイエスを思い起こす信仰によって不満や怒りを鎮め、さらに皇恩を感謝して生きるようにと促していくのである。
(同上、pp.444-445)

ここで、宗教あるいは信仰が、あらゆる理不尽な人権侵害に対する「納得の装置」としての役割を果たしたと指摘されていることは興味深い。

療養所において、キリスト教界の伝道者らは、ハンセン病患者が、このような病にり患したという不幸な事実だけでなく、その上に、政府の不当な絶対隔離政策によって社会から排除されて、残酷に人権を剥奪されて暮らさねばならなくなったという不幸をも、あたかも「キリストの十字架の苦難」にならうことであるかのように説くことにより、患者らの抵抗を静めることに貢献した。

キリスト教の伝道者らは、療養所を訪問しても、病者に向かって、苦しみの中に、「神の御心」を見いだすことによって、苦難を感謝しつつ耐え忍ぶように説いて聞かせるばかりで、決して政府の隔離政策そのものの不当性を訴えることはなかった。

このように、患者らが病という苦しみに冒されるだけでなく、絶対隔離政策という人権侵害の苦しみまでも耐え忍ぶことを、伝道者らは「霊的研鑽を積み、神に近づくための尊い宗教儀式」であるかのように説こうとしたのである。

このように、国家神道だけでなく、キリスト教界も、信仰を隠れ蓑にしつつ、患者らに不当な苦難を、抵抗することなく、甘んじて受け入れるように教え、人権侵害を正当化し、覆い隠す一種の「アヘン」(「納得の装置」)としての役割を果たした。さらに、カトリックは、そこからすすんで、患者らが療養所に隔離されていること自体を、あたかも出家者が俗世を離れて山奥で隠遁生活をするように、修道院生活と同一視することで、患者らが世俗の社会を離れて霊的な修練を積み、神に近づくことに専念できる生活は幸いであるとする考え方までも生んだ。
 

さらにキリスト教の信仰を持つものに対しての隔離の受容ということの極めつけは、療養所を修
道院と見なすことである。前出の多磨全生園の入所者は「癩と信仰」というタイトルで次のように記している。

「癩園にも特有の人間の悪意があり、醜さがある。其処と言えども原罪、自罪から自由に離れた世界ではない。しかし国家社会の保護の下に、生存競争の激しさから免れ、静穏な療養にいそしむ事の出来る此処は、世の嵐からの避難所であり、憩いの場所であり、或る意味でのユートピアであろう。この様な環境を最もよく利用する道は、此処を肉体的疾患の療養の地としてのみでなく霊魂の鍛錬、浄化の場所として用いることであろう。自らの療養生活を修院生活として自覚し実践することであろう。」 (『声』918 号、1954 年6 月号)

カトリック教会には修道生活の伝統と生活が美しく伝えられており、療養所を修道院と見なして生活することを理想とするようなメンタリティーも、カトリックの信者にとって隔離の受容に大きな役割を果たしたと思われるである。

そしてこの療養所は「修道院」という考え方は、カトリック系私立療養所の入所者にとって、大きな意味をもつものであった。

このたびの検証会議のなかで行われた被害実態調査の調査結果からもうかがえることであるが、カトリック系の療養所においては園内結婚は認められていなかったといってよい。それはカトリックの教義と深くかかわっており、療養所で働き生活をするシスターたちは、「清貧」「従順」「貞潔」がモットーとされ、信仰の上において男女関係を絶つ生活が貫かれていた。そのことが宗教的に価値のある生き方として、入所者に対しても求められていったのである。また、子孫をもうけること以外の目的での性交渉はカトリックの倫理観に強く反するものとされ、断種や堕胎は宗教上の「罪」であり許されるものではなかった。

これらのことから、国立療養所において隔離がもたらした大きな人権侵害である「断種」「堕胎」「不妊」手術は、カトリック系療養所では、国立のそれとはまったく背景の違うところで、少なくとも建前上は実施されなかったのである。

この結果、結婚をしようと思う入所者は、国立療養所などに移っていくより仕方がなかった。

また、患者作業についても、国立のそれとはやや趣を異にするといってよい。
カトリック系療養所において、「労働」は、毎日の「ミサ」と並んでひとつの「宗教的行為」と位置づけられていた。前にも触れたが、1959 年にカトリック系宗教誌で、神山復生病院の70 周年の特集が組まれた時、そのキャッチコピーが「祈りかつ働く生活」であった。

宗教施設における労働は、「神の願いを地上に実現するための行為」なのである。これは「修道院」の精神であり、神山復生病院が修道院になぞらえていたことがうかがえる。そのような修道院的環境の中で、患者作業への従事を施設側は入所者に求め、それに応えようとした入所者が存在していたことは確かであろう。国立療養所の患者作業との違いとして注目しておきたい。
(同上,pp.444-445)


この指摘は、カトリックの修道院生活を決してロマンチックで浅はかな幻想で美化してはおらず、修道院生活の中に、根本的に療養所生活に通じる「人権の剥奪」という概念が横たわっていることを見ている点で、非常に興味深いと言える。

むしろ、療養所生活の残酷さを通して、修道院生活の残酷さをも浮かび上がらせているとさえ言えるかも知れない。

こうして、療養所が修道院と同一視されることにより、「神への献身」「清貧」「貞潔」「従順」といった美名のもとで、患者らに、私有財産の剥奪、社会からの隔離、結婚の禁止や、子供を持つことの禁止などの様々な人権の制限・剥奪を加える行為が、宗教的な装いによって正当化されたのであり、その行為の残酷さが覆い隠されたのである。それらのことは、あたかも信者となった患者自身が自主的に望んで行われる神への献身であるかのようにみなされたのである。

さらに、療養所では、患者らの労働が奨励され、患者自身への日常生活の世話や、死んだ者の火葬でさえ、患者たち自身の仕事とされていたが、こうした労働についても、「カトリック系療養所において、「労働」は、毎日の「ミサ」と並んでひとつの「宗教的行為」と位置づけられていた。」。こうした刑務所の強制労働のような作業も、搾取や、支配や、苦役ではなく、自主的な宗教儀式の一環であるかのように、美化され、正当化されていたのである。

さて、最終報告書では、キリスト教界のみならず、仏教や天理教などが絶対隔離政策に果たした役割についても公平に記述されており、全宗教界がこの隔離政策の推進に加担した事実があるわけだが、本記事では、それぞれの宗教について語ることが目的ではないため、そろそろ最終報告書の記述を離れよう。

なぜ、これらの宗教は、絶対隔離政策の非人間性を何一つ指摘することもなく、むしろ、それに対する抵抗を眠らせる「アヘン」(「納得の装置」)としての役割を果たしたのであろうか。

その問題を考えるとき、私たちは、こうした宗教すべてが、それ自体が、「隔離」の原則に基づいて成立しており、ハンセン病者が隔離されていたのみならず、これらの宗教そのものも、人間に真の自由を与えず、むしろ、「愛」や「慈悲」の名のもとで、弱さの中に閉じ込め、人間の作り出したヒエラルキーの下に束縛することしかできないという、全く同じ構図を持っていた事実を見ることができるのではないだろうか。

筆者は、以上の宗教はすべてグノーシス主義的ヒエラルキーに基づいて成立した偽りの宗教であるがゆえに、本質的に、ハンセン病者に対する絶対隔離政策と同じ弊害を内に宿していたと考えている。たとえば、貞明皇后が、戦前の日本社会のヒエラルキーの頂点に存在する者として、最下位に位置するハンセン病者に慈悲を垂れるという構図は、グノーシス主義的な「簒奪の模倣」の願望を、ある程度満足させるものである。

つまり、至高者のような、下々の者たちには手の届かない高みにいる存在が、ほんの束の間、最下級の者たちに自分を現すだけで、下級の者たちにとっては、「神に等しい存在」である者が、自分たちに「存在を分かち与え」てくれた行為であるかのように、この上ない幸いとして受け止められる。

だが、現実には、何一つ、分かち与えられるものはなく、かえって奪い去られるだけである。慈悲という名目で、やんごとなき人々は、下級の者たちを救うどころか、より一層、辱める。「行くことかたきわれにかはりて」と詠まれた通り、貞明皇后が自ら直接ハンセン病者の世話をすることはなく、彼らの前に姿を現すこともない。患者に求められているのは、ただ「皇后が慈悲を示された」というフィクションの物語に感涙し、それを理由に、自分たちに対して行われている人権侵害を黙って受け入れ、耐え忍ことだけである。下賜金さえ、療養所の隔離政策を推進するために投入されたに過ぎず、ハンセン病者の自由のために用意された費用ではない。

これとほぼ同じ構図が、カトリックのヒエラルキーや、プロテスタントの牧師制度にも、見いだせるのである。もちろん、キリスト教以外の宗教も皆同じなのだが、伝道者らは常にハンセン病者よりも高いところに立って、彼らに慈悲を垂れる存在として、患者らのもとを訪れた。それらの宗教は、それぞれの人間の抱える弱さに、常に「救済」めいた解決案を示すことと引き換えに、信者となった者たちを、宗教指導者とのヒエラルキーに従属させ、かつ、信者が宗教団体のもとに来て、これに所属し、奉仕や献金をすることで仕えるよう奨励する側面を持っていた。

いわば、これらの宗教そのものが、大きく見れば、信者を俗世から「隔離」し、宗教団体の支配の道具として行くという側面を持っており、信者を人間を中心とする宗教的なヒエラルキーの中に束縛して行くちう性質を持つものなのである。そして、常にそのきっかけとして大いに利用されるのが、人間の抱える弱さや問題なのである。

キリスト教に入信する多くの信者たちは、この世で味わった何らかの挫折体験をきっかけに、己が罪を自覚し、それを克服する手立てを見つけようと教会を訪れる。しかし、教会の方では、彼らの弱さに耳を傾け、相談に乗り、助けの手を差し伸べるように見せかけながら、実際には、その悩み相談をきっかけに、信者となる人々から、「救い」を質に取る形で、その信者を宗教指導者を頂点とするヒエラルキーの中に組み込み、神に奉仕するという名目で、支配を受け入れさせた上、宗教団体の中に束縛し、「隔離」して行く。

はっきり言えば、キリスト教界であろうと、それ以外の宗教界であろうと、目に見える人間を宗教指導者として立て、信者がその者の教えに従い、宗教団体に帰依することで、人間が人間に「救済」を与えようとするすべての宗教には、本質的に、ハンセン病者の隔離政策に通じる残酷な支配と搾取、「隔離」の側面が含まれていると言えるのである。そうであるがゆえに、これらの宗教は、絶対隔離政策の誤りを見抜くこともできず、それを糾弾することができる立場にも初めからなかったと言えるのである。

当ブログではこれまで、ペンテコステ・カリスマ運動から出現して来たカルト被害者救済活動を例として、なぜこのような「弱者救済運動」が、偽りであると言えるのかを説明して来たが、つまるところ、この弱者救済活動の失敗も、国家神道がハンセン病者を「救済」という名目で隔離したのと同様に、「人間による人間の救済はすべて偽りである」という事実を表しているだけなのである。

うわべは「慈悲」や「同情」に基づいてなされる人間による人間の「救済事業」の究極的な目的は、決して人間を弱さから解放することにはなく、むしろ、弱さの中に永久に閉じ込めて支配することにこそある。それは「イゼベルの霊」のなせるわざであり、支配する者とされる者とのヒエラルキーの中に、弱さを抱える人間を永久に閉じ込める事を目的とする偽りの「救済」なのである。

人の弱みを足がかりにして、「救う側」と「救われる側」の差別が作り出され、その差別構造を固定化するために「慈悲」や「同情」という名目が用いられる。それをありがたいものとして受け入れれば、ターゲットとされた人間はどんどんディスカウントされて、その支配に抗う力を失って行くのである。

こうしたグノーシス主義的被造物崇拝と偽りのヒエラルキーのもたらす歪んだ差別と支配の構造が、ハンセン病者の絶対隔離政策には、究極の形で現れていただけであると、当ブログでは考えている。療養所の外に出れば、そこには自由な世界が広がっていたのかと言えば、全くそうではなかったのである。

療養所を訪れた宗教界の人々は、ただハンセン病に罹患していなかっただけで、宗教界にも、療養所と本質的にはそれほど変わらない風景が広がっていた。軍国主義時代の日本人の国民生活は自由でなく、宗教界の信者の生活も同じであった。人々は自分たちの弱みを宗教団体や社会に質に取られつつ、現人神のような誰かに生殺与奪の権を握られて、その者に仕えることで、自分を正当化し、何とかして自分の弱さを克服しようともがきながら、現実には、いつまで経ってもその弱さを克服できずに、支配と搾取の関係の中に閉じ込められ、隔離されていただけなのである。

さて、当ブログの本題に戻ろう。私たちは一体、どうすればこのようなグノーシス主義的な忌まわしい差別や支配と搾取の構造から逃れ出ることができるのであろうか? 

どうすればイエスが与えようとされた自由に人は至り着くことができるのであろうか?

そのためには、まずは目に見える宗教指導者に帰依することをやめることであろう。「やんごとなき人々」を探し出しては、彼らに自分の悩みや問題を打ち明け、他人に弱さを解決してもらおうと、彼らの「慈悲」や「同情」を乞うことをやめ、目に見える一切の教師たちを心の中から投げ捨てて、ただ目に見えない神だけに頼り、神にすべての重荷を負ってもらうことである。

イエスは地上におられた間、人々に同情の涙を注ぐことによって永久に人を弱さの中に閉じ込めようとはされなかった。むしろ、ご自分の復活の命を、信じる人たちに分け与えることにより、ご自身が救いとなって、その人を内側から解放されたのである。イエスは盲人の目を開き、足の不自由な人を立ち上がらせ、らい病患者を癒され、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われた。

人間は被造物に助けを求めている限り、罪に罪を増し加えるだけで、決して解放されない。キリストだけが唯一の救い主であり、十字架を通して人を内側から解放する力を持っておられるのである。

あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<略>まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4:21-23)

あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要はありません。この油が万事について教えます。それは真理であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26)

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)

主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

・「イゼベルの霊」(被造物崇拝)による歪んだ支配がグノーシス主義者の心にもたらす尽きせぬ怨念と復讐心

さて、ようやく本題に戻ろう。当ブログでは、東洋的な「母なるもの」を神とする母性崇拝の思想は、グノーシス主義的被造物崇拝に起源があることを論証して来た。 

グノーシス主義とは、唯物論の教えでもある。なぜなら、この教えは聖書とは反対に、見えるものが、見えないものではなく、見えるものから出来たとしているためである。

聖書の秩序は、次のように言う、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)

グノーシス主義は聖書の唱えるこの秩序をさかさまにする。グノーシス主義は、まず第一に、世界の創造を、「神の言葉」によるものではなく、神が自分自身の像を水面に映し出すようにして、自らの「似像」を造ることによって始まったとしている時点で、「目に見えるものが見えるものからできた」かのように聖書の秩序を壊している。

グノーシス主義とは、父なる神がすべてを創造し、支配する方であるという原則を逆転させて、被造物に過ぎない者が、父なる神の神聖を盗み取ることで、被造物自身が神となって、父なる神を被造物の欲望に従わせようとすることを正当化する教えだということを見て来た。

そこで、我々は、鈴木大拙がしきりに説いていたように、「母を守る」ことを至高の価値とする東洋思想の考えの根本にあるのも、グノーシス主義であり、そこで言われている「母」とは、被造物全体を指しており、要するに、人類を指しているのだと理解することができる。

結局、東洋思想における「母を守る」という思想は、グノーシス主義の言う「ソフィアの過失を修正する」ことと同義なのである。つまり、それは神ご自身から、神のご性質を不当に盗もうとした悪魔と、その悪魔につき従って堕落した人類の欲望を正当化することに、人類は全生涯を捧げて生きよ、という悪しき思想なのである。

キリスト教を知らず、東洋思想の中だけで育てられた人間は、無意識のうちに「母を守る」ことを至高の概念のように考えて生きているため、このような考えが罪であることを知らない。

だが、クリスチャンとなっても、未だそうした思想から抜け出せない大勢の人々が存在する。彼らは無意識のうちに、人類を至高者のように考える被造物中心の思想に従っているため、クリスチャンを名乗っていても、実際には、神を人間の欲望を叶える道具とし、人間の栄誉を保ち、人間が恥をかかなくて済むことだけを第一として行動する。

そして、聖書の御言葉に基づき、人間の悪なる本質を明らかにするような言説を見つけると、憤激して立ち向かって来ることもある。

このような人々は、父なる神の目に、唯一正しいと認められる存在が、キリストだけであるという事実を認めようとせず、キリストだけに従うと言いながらも、同時に、キリストに匹敵する「誰か」を担ぎ上げ、その人間を宗教指導者とし、神のように栄光を帰しながら、その人物を拝み、誉めたたえる。

最後には、その人物を栄光化するだけでなく、その人物に従っている自分自身をも、神だと宣言して誉め讃えるまでに至るのである。

そういうことは、教祖を再臨のキリストと同一視する異端の宗教団体だけで起きることだと考えるのは浅はかである。目に見える人間を神の代理人のようにみなし、信徒にまさる階級であるとして、ほとんど絶対化している牧師制度は、教祖を再臨のキリストとして拝む宗教と実質的に何も変わらない。

だからこそ、異端の宗教団体で起きているのとほぼ変わらない腐敗した現象が、キリスト教界でも起き続けているのである。それはプロテスタントに限った話ではなく、カトリックも同様である。

そういう問題はすべて、彼らが根本的に人間の本性を偽り、人類について美化されたフィクションを作り出してこれを教会に持ち込み、その幻想のフィクションの象徴として、現人神のような宗教リーダーを作り出し、その人物を拝み、褒めたたえることにより、人類の欲望を賛美しているために起きているのである。

私たちは、先の記事で、大田俊寛氏がグノーシス主義における「父なる神」の概念はフィクションであるが、「父とはフィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である」と述べ、「フィクションとしての父」が、家制度の基礎となり、共同体社会の基礎となり、都市国家の基礎となって行ったと説明していることを見て来た。

聖書を参照する限り、私たちは、人類には神と悪魔という二種類の「父」が存在することを見て取れる。イエスは偽善的なユダヤ人たちに向かい、彼らは悪魔を父として生まれた種族であるとはっきり指摘された。

「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。<略>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ18:43-47)

だが、ここで、悪魔を父として生まれたと指摘されたユダヤ人たちは、地上的な自分の生まれに大いなる誇りを持つ人々であった。彼らはアブラハムを父祖に持つ選ばれた民であり、それぞれ立派な出自を持っており、自分の家系図について大いに誇るところがあっただろう。他方、それに比べ、異邦人たちは、選民でないため、初めから救いに縁のない人々として蔑まれていた。

ところが、イエスは、生まれながらの出自がどれほど由緒あるものであれ、さらに行いの上でも、律法を落ち度なく守っていたとしても、信仰がないユダヤ人たちは、悪魔を父とする民であり、悪魔の欲望を満たすためにしか生きていないと宣告し、ユダヤ人たちが最もよりどころにしている地上の由緒ある生まれを根こそぎ否定されたのである。

こうした記述からも、我々は、グノーシス主義が言う「フィクションとしての父」とは、本質的に悪魔を指しているとみなせる。イエスが述べた通り、悪魔は「偽り者」であって、「彼の内には真理がな」く、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」ためである。まさに「フィクションとしての父」という呼び名がふさわしい。

しかし、聖書の父なる神は、「わたしはある」と言われる方であり、フィクションとしての父ではない。すでに述べたように、聖書の父なる神は、ご自分の子供たちが誰であるかをちゃんと見分け、ご自分の子として受け入れた者に、父として「宣誓」をされる。イエスがバプテスマを受けられた時に、神はイエスがご自分の心にかなう子供であることをはっきりと他の者にも分かるように示されたのである。

しかし、グノーシス主義の「父」はもともとフィクションであって、お飾り的な存在でしかないため、決して我が子が誰であるのかを、人前ではっきりと宣言することなく、それを良いことに、「子」の側でも、好き勝手に「父」の権威を濫用して、詐称に詐称を繰り返す。

「万世一系」などとされる天皇家に関する神話も同様で、神武天皇などと言う存在は、学術的にも実在性が認められていないようだが、こうした神話を継承しようとする勢力から見れば、重要なのは、実在性が認められるかどうかという議論や、生物学的な血統が証明されうるかといった問題ではない。

ただ「神聖なる始祖」の威光を代々継承するために「家」制度が続いて来たのだという「神話」が維持されることにより、その「家」のルーツが正当化され、権威づけられ、栄光を失わなければそれで良いのである。

当ブログでは、かつて「国体の本義」を通して、国家神道においては、「生み生まれるという親子の立体関係」がほとんど絶対視されており、その「生み生まれる親子関係」に基づいて、臣民と天皇との関係が定義されていたことを述べた。

このような親子関係は、地上における「生み生まれる親子関係」を指しているとは言っても、文字通りの生物学的な絆を指すのではない。そこには大いなるフィクションが混じり込んでいるのであって、そこで重要なのは、生物学的な血統が証明されるかどうかではなく、たとえその「親子関係」が虚構のものであろうと、「神聖な始祖」から「神聖な火花」を受け継ぐ「家制度」が存続して来たという「フィクション」が維持されることが肝心なのである。

さらにそのような神話に基づく家制度が、「一大家族國家」として、国家レベルにまで高められたのが戦前の国家神道である。

こうして、国家レベルで「万世一系の天皇家」というフィクションが作り出され、それと並行して、国民レベルでは「ご先祖様」を「神聖な始祖」として崇拝する「家制度」が存続した。

しかしながら、こうした神話が社会に何をもたらしたかは明らかである。グノーシス主義が「父とは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」と主張するのとは裏腹に、そのような壮大なフィクションによって、人間社会が統御されたり、秩序が保たれることはない。逆に、国家レベルにまで膨らんだ虚構の神話は、大勢の人々を破滅に巻き込みながら、最後には風船のように弾け飛んで消えてなくなったのである。

こうしたグノーシス主義的な神話は、国家神道や、先祖崇拝に基づく家制度のみならず、王権神授説や、国民全員の負託によって国家権力が出来たという現代社会の国家観などにも、共通して流れていることであろう。

要するに、この世には、時代を超えて常に人間存在に意義を与え、社会のヒエラルキーを成り立たせるための何らかの「神話」が存在しており、要するに、現実がどうあれ、この世全体が、悪しき者の支配下にあって、偽りの父である悪魔が作り出す「壮大なフィクション」によって、様々な権威づけがなされ、それによってあたかも社会が「統御されている」かのように、見せかけの秩序と幻想が保たれているという事実は、時代を超えて変わらないのである。

「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)

だが、そのようにしてフィクションに過ぎない神話の守り手となった人々には、虚偽を真実であるかのように告白し、先祖の罪をかばい立てするために辻褄合わせの嘘をつき続けて生きるという大いなる苦悩が降りかかる。

そのような「フィクション」に閉じ込められた人々は、一方では、家族の絆や、天皇と臣民の関係や、国家的なレベルで作り出された神話や、宗教指導者との関係や、独裁者から信任を得ていることなどを誇りとし、その関係を神聖なもののように誉め讃えながらも、もう一方では、「父なる神」を骨抜きにして自分を支配する「母」なる被造物に対する尽きせぬ憎悪と復讐心を無意識のうちに心に募らせて行くことになる。

もちろん、彼らには、自分が本当は「母」を憎んでいるのだという意識はない。自分が身を委ねているヒエラルキーや、それを成り立たせている価値観が幻想だという認識もなく、それに反逆する意図もない。だが、これまで書いて来たように、人類のアイデンティティは「喪失した父」を真に回復することによってしか見いだせないため、「父」を名目だけの存在として、その存在を骨抜きにし、「フィクション」にしてしまう「母」の存在は、決して「子」にとってためにならず、「母」の呪縛(被造物崇拝の呪縛)はかえって「子」を破滅に追い込むだけなのである。

すでに述べて来たように、目に見えるものを神とする「イゼベルの霊」(被造物崇拝)は、「子」を永遠に自立させず、自分の罪をかばうための道具として支配する。そこで、人類の罪をかばい立てするという無理な仕事を負わされて、その神話のために犠牲になって生きるしかなくなった人々には、自分は神に拒まれ続けて、「父」を喪失したまま生きねばならないという鬱屈した怨念がたまりにたまって行くのである。

何しろ、彼らが敬愛する「母」は、どんなに思いを寄せて仕えても、彼を「嬰児」のように扱い、道具として支配し、利用するだけで、決して自由を与えず、一人の人間としてのプライドをも認めない。

そうであるがゆえに、人類はそういう「母」を敬愛しているつもりでありながらも、その支配を受ければ受けるほど、「母への歪んだ愛」が、やがて本人の中で、憎しみと怨念と復讐心に変わっていくのである。
 
彼らは「母」と運命共同体として結ばれているため、その関係から抜け出ることができず、「母」に直接反逆することができない。そのため、彼らの憎しみと怒りは、本来、向かうべき「母」へは向かわず、「母よりも弱い女性」に向けられるという屈折した形を取ることになる。

一言で言えば、彼らの怨念は、自分自身を疎外し、「母」を脅かす「父」の存在へと向かい、ここに、グノーシス主義者による「神殺し」というプロットが生じるのであるが、目に見えない「父なる神」を殺すことは、人間には不可能なため、グノーシス主義者に残された手段は、「父なる神」の似姿が投影されている神の教会を破壊し、神の神殿である自分自身を破壊することだけとなる。

「イゼベルの霊」による支配に耐え切れなくなった人々の怨念は、まずは神に愛される神の子供たちへ向かう。すなわち、キリストの花嫁である「エクレシア」へと向かい、教会の破壊という形になって現れ、最後に、神の神殿として創造された自分自身へ向かい、「自分殺し」となって終わるのである。

ここで、当ブログでは、なぜ村上密や唐沢治や杉本徳久のようなカルト被害者救済活動の支持者が、キリスト教そのものを告発することをライフワークにして来たのかを思い出したい。しかも、彼らがとりわけ女性指導者や女性信者などを標的に攻撃をしかけて来たことを思い出されたい。

「イゼベルの霊」による支配は、東洋的な「情」による支配であるが、これはマザー・コンプレックスとも密接な関係があることは幾度か記した。なぜなら、「父」(男性)という存在が、知性に基づいてすべての物事に善悪の区別をつけ、秩序や規則によって支配する象徴であるとすれば、「母」(女性)は、すべてを善悪の区別なく慈愛によって包容する情意的な存在だからである。

一人のグノーシス主義者が誕生する背景には、このような「母性的な情愛による支配」が、「父性的な知性や規則による支配」に比べ、圧倒的に優位にある環境で育ったという事情があることは珍しくない。もう一度、鈴木大拙の言葉を通して、どれほど「母性的な要素」が東洋民族の心理の根本となっているかを振り返ろう。
 
 

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.13-14、太字、下線は筆者による)


このような「女性的な情愛による支配」は、母だけでなく、祖母からの支配という形で現れることもある。たとえば、杉本がブログで祖母から溺愛にも近い愛情を注がれて育った事実を記したり、長い間、親しい人々の間で「ちゃん付け」で呼ばれるなどして、ある種の子どもを喜んでいた事実を自ら記していることは興味深い。

杉本はこうしたことが、自分の心を圧迫し、束縛する枷となったという事実を認めていないのであろう。しかし、実際には、その記事が書き記された時、杉本は自ら三十代であったことを告白しているわけだから、その年齢になっても、まだ「ちゃん付け」で呼んでくれる人が少なくなったと寂しがったり、祖母に溺愛されて育った親族関係を強調するなどの行為は、大人の社会人である男性としては、相当に年齢不相応な子供っぽさを感じさせる行動である。だが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の告白には、これよりももっと年配の信者であっても、年齢相応の落ち着きが全く感じられない例が少なくないことはすでに述べて来た通りである。
 
このように、子供時代から「父性的な要素」よりも「母性的な要素」を重んじる環境の中で、無意識のうちに、「女性的なるものの」に心を絡めとられ、その代弁者として行動することを求められながら生きて人々の心の中には、本来であれば、父親をモデルとして作られるはずの、健全な自己像、揺るぎない自信、確固たるアイデンティティが喪失しており、「自分が何なのか分からない」という、不確かでコンプレックスに満ちた自己が形成されることが多い。

しかしながら、本来であれば、聖書に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)とあるように、人間はまず、生み生まれるという、肉による家族関係を離れて、初めて一人前となるのであるから、父からも母からも離れねばならない。

この地上の人間社会においては、肉による自分の両親に心から満足している人はほとんどいないであろう。ある人々は、両親が優れた知性や美貌の持ち主でなく、億万長者でなかったがゆえに、自分が子供として受けられる恵みが不足していたと考えるであろう。いずれにしても、肉による親子関係は、いつも子供にとって不公平であり、それゆえ、大変に不完全なものでしかない。

聖書は、そのような肉による地上の親子関係に対して、信仰者は十字架を通して死ぬ必要性を説いている。そして、そのことは一般的に考えても、常識にかなっていると言えるだろう。人が一人前になるためには、父からも離れねばならないが、まず最初に離れねばならない存在が「母」である。まずは、母のへその緒から分離され、次に乳離れし、精神的にも、「母」を離れて新たな家庭へと旅立って行かねばならない。

ところが、この分離が上手くいかず、いつまでも「母」なる被造物とへその緒で結ばれ、「母」の子宮に閉じ込められるがごとく、嬰児扱いが続き、「生み生まれる関係」から脱することができなくなると、人は精神的に大人になることができなくなり、著しい幼児化が起きるなど、精神が歪められてしまう。

それは個人の家庭のレベルだけでなく、国家レベルでも起きうる。たとえば、臣民は天皇の「赤子」であると教えられたり、牧師夫妻を「霊の父・母」として、信徒はその「子」であるなどと教えを受けた人々は、目に見える被造物を「母」として、これとへその緒でつながれたまま、いつまでも分離することができなくなり、健全なアイデンティティを失ってしまうのである。

こういった形で、「母なるもの」に心を絡め取り、被造物崇拝から離れられなくなってしまった人々は、自分を優しく包み込み、すべてを許容してくれる慈愛に満ちた「母」こそが、自分の心を不当に抑圧し、正常な「父なる神」のモデルを失わせて、自分から健全な模範を奪い去ったなどとは疑うこともできないため、彼らの心の内に無意識に蓄積された憎しみや怨念は、「弱い女性たち」に向けられることになる。

その結果として、この種の自立できず、自信を喪失して、コンプレックスを抱える人々の多くは、常に弱みを持った女性を探し出しては、その女性たちを助けてやる風を装いながら、彼女の心を支配して、彼女たちから誉めそやされることで、自分の傷ついた自尊心を埋め合わせようとしたり、もしくは、自分たちから見て「格下」の存在のように見える女性たちを虐め抜いて抑圧することで、自分のコンプレックスや自信喪失を覆い隠そうとする。

このような形で、彼らは自分の心を抑圧し、支配して来た「母なるもの」に対する復讐を果たそうとしているのである。

だが、そこに、我々は「自分よりも弱い女性を抑圧し、罵倒・嘲笑することでしか、男性としてのプライドを保てない」という惨めな人格を見るだけでなく、より深い文脈において、そこには、以下に記すように、被造物の理想であるキリストの花嫁たる「エクレシア」を冒涜し、蹂躙することでしか、神の御前での自分の罪深さ、愚かさ、弱さ、醜さから目を背けることのできない人間の心理を見るのである。
 
 
・神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」
 
グノーシス主義の「母性崇拝」は、被造物自身を高める教えであるから、それを受け入れた人間に、当初は、陶酔感や、解放感にも似た心地よい満足をもたらすかも知れない。東洋的な「母なるもの」は、人にとって、初めの頃は、自分を優しく包み込み、生かし、守り、養ってくれる生命の源のように見え、かつ、慈愛に満ちた理想像であり、憧憬の的と映る。

彼らは、その「母なるもの」の延長上に、自分が慕う女性美があり、自分の自立もあるのだと考えようとする。「母なるもの」を慕い、追い求めることが、そのまま、未来に理想的な「妻」を得ようとする願望へとつながり、自分が完全な存在になることへとつながるのだと考えようとする。だが、時が経つうちに、そのようなことは不可能であると分かって来る。

「母なるもの」に心を捧げるグノーシス主義者にとって、「母なるもの」の支配は、次第に重荷になって来る。彼は自分では「母」を敬愛し、そこに「最高の女性美」を見ているつもりでおり、憧憬の念を抱いているのであって、憎んでいるのではないと思うかも知れない。

ところが、どんなにその「母なるもの」を守って、離れずに生きても、実際には、いつまでも嬰児として扱われているという屈辱感が募るばかりで、「母なるもの」を追えば追うほど、ますます悔しさと惨めさを味わうことになる。

グノーシス主義における「母」は、一見、慈愛に満ちた存在であるかのように見えても、人の心を拘束し、支配するだけで、決して自分自身を彼に与えようとはせず、人を一人前の存在とも認めないため、グノーシス主義者の心の内側では、「母なるものへの憧憬」が、次第に「憎しみ」や「怨念」へと変化して行くことになる。

その変化の過程を、以前も引用した映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "の中から、三島由紀夫の小説の『金閣寺』の主人公の言葉を引用して見てみよう。

 

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」 「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」


ここで主人公の言う「永遠の美」とは、鈴木大拙の言う東洋思想の「母なるもの」や、ゲーテの言う「永遠の女性」、老子の言う「玄牝」などと本質的に同じであるとみなせる。『金閣寺』の主人公は、金閣寺を「永遠の女性美」として崇め、金閣寺を守り、これを離れず、絶えず追い求めることで、自らの憧憬の対象との一体化を目指そうとしている点で、まさに「神秘なる母性」を至高の存在と崇める東洋思想の担い手であり、根本的にはグノーシス主義者であると言える。

ところが、三島の『金閣寺』の主人公は、吃音という障害ゆえに、自己に深刻なコンプレックスを抱えている。そのコンプレックスゆえに、主人公は、金閣寺という心の理想にはおろか、地上のどんな女性にも近付けない。

(*ここで言う吃音という問題は、より深く象徴的な意味では、人類の罪を示している。人類が罪ゆえに感じる恥の意識や、コンプレックス全般が、吃音の中に象徴されているのである。)

こうしてコンプレックスゆえに、どんな女性からも一人前とみなされることがなく、一人の男性として完全な自信を持てない主人公の苦悩は、金閣寺と関係において、究極的な形にまでクローズアップされ、凝縮される。金閣寺は彼にとって、最高の美の化身であり、女性美の究極的完成であり、彼はこれと一体化し、我が物とすることさえできれば、すべてのコンプレックスから逃れて、完全な存在になれるはずである。

いわば、金閣寺は、この主人公にとって、待ち望んだ花嫁のような存在であり、彼を一人前にしてくれる「妻」のような存在なのである。金閣寺が得られさえすれば、彼は不足だらけの卑俗で惨めな自己から脱して、真のあるべき男性となり、欠けたところのない、非の打ちどころのない一人前の完全な人間となれるだろうという予感を持っている。

戦中には、金閣寺が戦火にさらされ、破壊されたり、消失するかも知れない危険に直面していると考えることによって、この主人公は、自分が憧れている金閣寺も、自分と同じように、弱い存在として、共に受難を受けているのだと考えて心を慰め、金閣と一体になれずとも、騎士のように金閣を守ることによって、自分は金閣から必要とされているのだという誇りを持つことができた。

ところが、金閣の美は、戦火によっても少しも動かされることなく、この「永遠の美」は、地上の何物によっても影響を受けず、不動の美をたたえているだけで、戦争も含め、地上の一切の醜く、歪んで、不自然で、不完全なものを寄せつけない。

主人公が金閣寺を守ってやることによって、金閣寺に少しでも近づけるかのような幻想は、むなしく砕け散った。金閣寺はそれ自体が完全であり、独立しており、永遠に誰の助けも必要としておらず、まして、コンプレックスだらけで醜い主人公の存在など全く寄せつけず、初めから必要としていなかった。

そのことが分かり、主人公は打ちのめされる。金閣寺は常に完璧で、弱さのかけらも見せず、とりつく島がない。どんなに憧れ、熱心に追い求め、守ってやろとしても、主人公の手を冷たく振り払うだけで、彼にとっての「永遠の美」は、どこまで行っても、不完全な人間とは交わることがない。それはまさに人間を寄せつけない「サンクチュアリ」である。

金閣寺は、主人公の心を一方的に捕えることはしても、彼の側からの接近を許さず、金閣寺から彼に突きつけられる回答は、いつも「(あなたはあまりにも惨めで低い存在でありすぎるがゆえに、永遠の美には)値しない」という結論だけであった。

主人公は、自分が理想として拝んでいるものから絶えず「値しない」という宣告だけを突きつけられるという繰り返しに絶望する。金閣寺と一体化することによってしか、完全な存在になれないにも関わらず、金閣寺が自分を拒んでいることにより、その目的は永遠に達成不可能となっているのだ。

そうなっても彼は金閣という偶像を心の中から捨てることができず、そのせいで、ただでさえ、人前でもコンプレックスを覚えずにいられない上に、金閣寺のように完璧な美と絶えず比較されて、絶えず途方もない屈辱と惨めさを味わわねばならない。

ついに主人公は、自分にそれほどまでの耐え難い惨めさしか味わわせることのない金閣寺を憎しみの対象とみなし、「殺そう」と考える。自分の心を一方的に支配し、翻弄するだけで、決して、その存在を自分には与えず、常に自分とは比較にもならない崇高な存在として、高みにいて勝ち誇り、自分に疎外される惨めさと屈辱だけを味わわせる金閣寺を焼き払うことによって、彼は自分を拒み、惨めにさせるだけの「永遠の女性美」に対して復讐を成し遂げ、これを否定し、美醜の概念そのものを葬り去ることによって、それを乗り越えることができると考えようとするのである。

主人公は、寺という有限なる物質を焼き払うことによって、目に見えない「永遠の女性美」という、それまで自ら信奉して来た理想自体に復讐を果たそうとしたのであった。

彼は、言わば、「神殺し」のような作業に着手したわけであるが、正確に言えば、彼が破壊したのは神ではなく、神を入れるための「器」であり、「神の宮」である。

「宮」を冒涜し、破壊することによって、彼は、自分自身がそれまで「神」として拝んできた理想を否定し、それを否定的に乗り越えることで、自分自身が「神聖」となり、誰にも支配されることのない絶対的な主人になろうとしたのである。



三島由紀夫は、小説『金閣寺』の原文において、主人公による金閣寺へのこの放火という犯罪行為を、決して悪なる所業として断罪してはいない。小説は、主人公に厳しい報いの足音が近づいていることを知らせながらも、主人公の心に生じた何かしらの清々しい解放感を描くところで終わっている。

このことは、三島自身が、グノーシス主義者であって、この放火をどちらかと言えば、「解放」という側面からとらえていたことを意味する。そのような立場は、三島自身の最期にもよく表れている。

しかしながら、上記の映画は、ある意味では、小説よりも進んで、三島の描こうとした内面的な葛藤を、決して主人公の立場に一方的に肩入れすることなく、より客観的にとらえている。

この映画を観れば、それが決して主人公の放火をすがすがしい「解放」として描いたり、その行為に賛同することはしておらず、かええって三島自身の生きていた世界観の歪みをもそれなりに理解した上で、三島の人生に重ねて、この主人公の心に起きた悲劇と絶望を描き出そうとつとめていることが分かる。

この主人公は、金閣寺を葬り去ることによって、自分を苦しめている「被造物の理想像」から解放されようと考えたのだと言える。だが、逆説的に、彼が自分を疎外しているとして憎み、否定しようとした「金閣寺」は、彼自身の存在でもあった。

それは「神の宮」であるがゆえに、主人公が自分を殺すことと同義だったのである。むろん、物語は、主人公が金閣寺を焼き払ったところで終わっているため、その後、主人公が逮捕されて刑罰を受けねばならないとか、それによって主人公の人生は破滅し、金閣に身を捧げることだけが唯一の人生目標だった彼は、残る人生において、抜け殻同然となるといった事実は描写しない。

しかしながら、我々は、小説の枠組みを超えて、ここに不思議なパラドックスが存在しているのを見ることができる。つまり、金閣寺を焼き払うことにより、自ら神を「簒奪」し、「神」になろうと、「神の宮」の強奪と破壊行為に及び、「神殺し」を試みた人間は、結局、自分で自分の首を絞め、滅ぼすことになったというパラドックスである。

筆者は、三島由紀夫は無意識かも知れないが、この物語を書いた時点で、自分の最期を予告していたも同然だと考える。

聖書によれば、人はみな神の宮とされるために創造されたとあり、神の神殿を壊す者は、自分を破壊しているのと同じで、やがて自滅へ至るのである。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなた方に宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:15-16)

むろん、聖書がここで「神殿」という言葉で指しているのは、直接的には、キリストへの信仰を有し、神の霊を内側に持っているクリスチャンを指すのであって、信仰のない人々を「神の神殿」であると呼んでいるわけではない。また、仏教の寺を、キリスト教における神の宮と同一視することもできない。

とはいえ、深い霊的な意味においては、人はみな神の宮となるべく創造されたのであって、どれほど堕落して、神から遠く離れて生きており、聖書の御言葉を信じてもいないにせよ、それでも、人に備わっている宮としての機能がすべて否定されるわけではないのである。

むろん、「神不在」の宮は、宮として機能しておらず、荒れ果てて死んだ器も同然であるが、それでも、あらゆる「宮」には、神の霊を入れる器という意味が込められているのであって、そこで、人が神の宮を破壊するという行為に及ぶことは、同時に、神の霊を入れるための器であり、神の宮となるべく創造された自分自身を破壊するという行為を象徴的に意味するのである。

だからこそ、『金閣寺』の主人公は、金閣寺を焼失させることによって、自分を苦しめていたコンプレックスの呪縛から解放されることはなく、かえって金閣寺と共に自分の人生を失うことになるのである。

彼は金閣寺の理想だけを否定して、その理想から神聖な要素を奪い、自分はこの「神」を否定的に乗り越えて生き残ったつもりだったかも知れないが、実際には、彼の人生は、金閣寺の焼失と共に終わったのである。

これと同様に、天皇を神として「生み生まれる関係」の中に、人間社会の理想を追求しようした三島も、彼自身の「金閣寺」に拒まれた結果、その理想を入れる宮であった自分自身を破壊するという行為に出ざるを得なくなる。天皇も、自衛隊も、三島の語る「理想」には耳を貸さず、彼は自分自身の理想から置いてきぼりにされたのであるが、その時、彼が選んだのは、自分は、自分の信じる理想に「値しない」という事実を直視することではなく、自分自身の存在を抹殺することで、その理想がもともと自分には達成不可能であって、自分はそこから疎外されているという現実から目を背けることであった。

三島が否定しようとした現実とは、彼がどんなに肉体を鍛え、研鑽を積み、崇高な理想を語っても、罪にまみれた人間の一人にすぎない彼には、決して自力では完全に至り着くことができず、どんな理想をも打ち立てることができないという事実である。むろん、三島だけでなく、三島が期待をかけたすべての人間がそれと同様なのである。彼らが望んでいる理想に「値しない」というのがあらゆる人間の出発点である。

しかし、『金閣寺』には、「永遠の女性美」との対比の中で自分が味わう惨めさやコンプレックスを受け入れることを拒み、かえって「永遠の女性美」を滅ぼすことで、自分の罪や弱さから逃れ、自分を義として、罪から解放されようとした主人公の姿が描かれている。

その主人公の姿は、かなりの程度、三島自身に重なる。彼は弱さ、罪、歪んだもの、醜いもの、不完全なものが本質的に悪であることを知り、その克服につとめながら、それを自力で自分から切り離すことができないと分かった時、自ら目指して来た「完全なもの」を否定することで、自己存在の不完全さを否定し去ろうとしたのである。

グノーシス主義がそれを信じた人間にもたらす結論とは、常にこのようなものである。

聖書が教える事実とは、人には生まれながらの自己のまま、キリストの十字架の死を介さずに、神に受け入れられることは決してないというものである。

人には創造された時点で、宮となるべき機能はあるかも知れないが、神がそこへ入って来られない限り、その宮は、単なる死んだ器でしかない。

人の生まれながらの自己がもたらす自覚は、自分は神から遠く離れ、神に拒絶されているという罪の意識だけであって、肉体を改造しようと、精神を改しようと、どんな方法を使っても、人がその罪威意識を自力で払拭して神に至り着くことはできない。

キリストと共なる十字架の霊的死を通って、初めて、人は「新しく造られた者」として神に受け入れられる神の子供とされる。

だが、それが達成されるためには、人がまず己が罪を認めて神の御前に悔い改めねばならない。自己の不完全さ、醜さ、愚かさ、弱さ、欠点、恥といったものを、自分に思い知らせる存在をことごとく退けることで、自分の不完全さから目を背けようとするのではなく、まずはそういうものが究極的には、すべて自己の罪に由来する当然の結果であるとして理解せねばならないい。

もちろん、吃音者を馬鹿にしたり、障害者を嘲ったりする人々の心が陰険であり、力の強弱によって人間の価値がおしはかられるこの世の社会の価値基準そのものが歪んでいるのであるが、だが、だからと言って、自分が暴力を行使して破壊活動に及ぶことによって「強者」の側に立てば、自己の不完全さから逃れられるかと言えば、そうではない。彼はその行為の報いとしてさらに大きな暴力に飲み込まれるだけであり、それでは終わりなき力の争いしか生まれるものはないのである。

人間の不完全さは、すべて究極的には人間自身の罪から来るものであって、神の御前に悔い改めて贖われることなくして、どんなにそれを不当な差別だと叫んでも、人ガ自分でそこから逃れることはできない。

「自分は差別された被害者だ!」などと叫んだり、自分の弱さをダシにして同情を乞うことで、自己正当化をはかることも、自己欺瞞でしかない。

ところが、自分の弱さが罪から来るものであることを認めず、自分に恥の意識をもたらすという理由で、完全なものを否定し、蹂躙、冒涜することによって、自分自身の罪から目を背け、あたかも自分が聖なる正しい存在になったかのように思い込もうとしているのが、カルト被害者救済活動の支持者のような人々なのである。

以上の映画では、三島とおぼしき人物が、幼少期から祖母の精神的な支配を強く受けて成長したために、祖母によって自分が体の弱い人間であると思い込まされ、それゆえ、人前で自信が持てなくなり、大人になっても、絶えず自分の弱さについて恥とコンプレックスを持たずにいられなくなった様子が描かれている。

そこで成長してからの彼は、体を鍛えるなど、様々な方法を通して、自己のコンプレックスから逃れる道を模索し続けたのだが、自分を一人の人間として認めず、永遠に道具として支配する「母なるもの」の支配こそが、そうしたコンプレックスをもたらした元凶であると思い至らなかったために、自分のコンプレックスの真の原因を見いだすこともなく、見当外れな方法でその克服を試みては挫折し続けるのである。

そうこうしているうちに、当初は、「祖母」や「母」という存在に限定されていたはずの、彼の心を支配する「母なる存在」は、やがて彼の中で無限大とも言える巨大なスケールにまで拡大して行き、「神話」となり、「天皇崇拝」といった国家レベルの思想にまでなって行き、耐えられないほどの重圧として、彼自身を押しつぶし、粉々に打ち砕くのである。

「永遠の女性美」なるものが、無限に拡大して、人間の心を打ち砕き、押しつぶしたのである。なぜそのようなことが起きたのかと言えば、彼が誉め讃えていた「永遠の女性美」はリアリティではなく、真のリアリティは、目に見える被造物の側にはなく、目に見えない父なる神の側にあったためである。それにも関わらず、影に過ぎない被造物を「本体」としたことによって、そのフィクションの鏡を見つめるうちに、フィクションが現実とされ、それに合致しない(値しない)彼の自己は奪い去られて消失したのである。

結局、東洋思想は、聖書が言うように、神と人との間に、罪による超え難い断絶があることを認めず、神と人とは本来的に一つであるとして、「神と人との融和」を唱える。そして、「すべてを慈愛によって包含する母」の存在を高く掲げる。

ところが、おかしなことに、そのような思想を実践に移そうとすると、その「慈愛に満ちた母」であるはずのものが、逆説的に、人類をことごく残酷に疎外し、自分の子供たちを「慈愛によって包み込む」はずが、ことごとく「値しない」という宣告を突きつけるのである。

「金閣寺」から疎外されたのは、主人公だけではない。天皇崇拝の思想を信じる三島も含め、は、どれほど多くの人々をこうした被造物崇拝の思想のために弾圧され、疎外されて、殺されたか数知れない。天皇崇拝は、すべての「臣民」を自分から疎外したとも言える。

このように、キリスト教の神が人間を疎外しているのではなく、神と人との断絶を認めず、地上の「生み生まれる関係」こそ、人間生活の根本であるかのように教えるグノーシス主義こそ、絶えず人間を残酷に疎外し続けているのであり、こうした思想を信じると、人は結果的に「父を喪失」するだけでなく、「母」をも喪失して終わることになる。「父なし子」であるだけでなく、「みなし子」にまでなってしまうのである。

彼らは自分たちのルーツを正当化し、自己を取り戻そうとして、かえってすべてのルーツを失い、自己をも失ってしまうという結果に至るのである。

繰り返すが、被造物は、本来は、キリストの花嫁たる教会となるために創造されたため、被造物それ自体では完全となることはできず、被造物は本体の影に過ぎず、そこにリアリティはないのである。

にも関わらず、被造物がリアリティであるかのように誉め讃え、人が己を神として、自力で理想状態へ至り着こうとすると、自己の尊厳、自己肯定感、健全な自己愛が持てなくなるだけでなく、最後には彼らの自己も消えてなくなる。

『金閣寺』の主人公が、寺を焼き払った行為の中には、自分の理想の否定だけでなく、神の宮を破壊する行為を通して、自分自身を否定し、さらに、そこには象徴的な意味で、贖われた被造物の総体である「エクレシア」殺しという悪魔の欲望も込められていると言える。

なぜなら、真の意味での「女性美」は、キリストの花嫁たるエクレシアにしか見いだせないからである。(東洋思想における被造物崇拝は、エクレシアの歪んだ摸造としてのバビロン崇拝と同一である。)

カルト被害者救済活動の支持者は、神の宮である教会を冒涜、破壊し、蹂躙すれば、キリストの花嫁から、神聖な花嫁たる性質を強奪して、我が物とでき、かつ、自分自身の罪や弱さからも目を背けられると考えようとした。

ところが、その試みは成らず、結果として、彼らの恥だけが残り、アベルの流された血が天に向かって叫ぶように、彼らが犯した行為自体が、彼らが最も人前で隠したかった自己の罪、恥、弱さの証拠となる。

彼らがどんなに自分を苦しめる「永遠の女性美」を否定しようとして神の教会に害を加えたとしても、それによって、彼らの罪がいささかも取り去られることはなく、ますます罪が増し加わるだけである。

アベルを殺し、エクレシアを破壊して、自分の罪の証人を目の前から消し去っても、それでも、自分の罪から逃れられないことが分かると、彼らはその事実から目を背けるために、次なる行動に出るしかなくなる。すなわち、神の神殿として作られた自分自身の破壊である。

エクレシアの破壊という行為に手を染めた人間には、例外なく、自分が目指していた究極の目的から疎外されて、自分を滅ぼすという結果が降りかかる。今、現実の物語のプロットは、この最後のステージにさしかかろうとしている最中である。

さて、民事調停ではいかなる妥協も歩み寄りも示さず、当ブログの主張を「棄却する」などと豪語していた杉本徳久が、調停の期日後に、当ブログに新たなメールを送りつけて来たので、ここに掲載しておく。

 杉本徳久が3月28日に送りつけて来た新たな迷惑メール

杉本は、わざわざ公の開かれた場所で、自分の主張を具体的に提示して、和解を探るために交渉するチャンスが与えられているにも関わらず、そこでは自分の非を一切認めず、一歩たりとも譲歩せず、自分の主張内容を客観的に論証することも、具体内容さえ明らかにすることもなく、誰にも理解できない要求をただ一方的に突きつけただけで、合意にも至っていない。

にも関わらず、早速、そこで提示した自分の一方的な要求を、あたかも当ブログが履行する義務でも負ったかのように、人目につかない場所で、他人の人生に不当に干渉し続けようとする杉本の行為には、呆れ果てるほかない。

正当な手段では決して問題解決をはかることができず、真実に向き合う勇気もなく、正々堂々と他人に向き合えない臆病で卑怯な性格を見ることができる。

杉本は自分が今まで他人にして来たように、自分自身が標的とされて記事を書かれたことが、よほど身に堪えたのだと見られるが、以上のメールの中で、何とかして筆者の非難の矛先を、自分から他人へと逸らそうとしている。

だが、証拠もないのに、他人の悪口を第三者へ宛てたメールの中に書き連ねていれば、さらなる名誉棄損や侮辱罪で訴えられる可能性が高まるだけだ。
 
村上密はおそらく今までと同様、自分は決して矢面に立つことなく、杉本と筆者をぶつけ、戦わせることにより、自分は手を下すことなく、当ブログを駆逐し、自分はネット上のキリスト教界批判の分野において、ナンバーワンの座を得ようと考えているものと思われる。

それと同様のことを、おそらく唐沢治も考えていたであろうことはすでに述べた。唐沢から見れば、杉本も筆者も、KFCを批判しているため、どちらが勝利をおさめようと、一定の利益が得られることになる。

これが牧師というものの実態である。信徒同士を争わせ、戦わせ、自分はそれを高みの見物しながら、自分自身の地位の安泰をはかる。唐沢であろうと、村上であろうと、坂井であろうと、結局、彼らは牧師階級を守るという、全く同じ利益のもとに結託して、ほとんど同じ働きをなしているのだ。つまり、彼らは、キリスト教界内のカースト制度を温存する目的で、信徒を踏み台にし、互いに戦わせながら、それによって自分の利益を得ているのである。
 
だが、すでに見て来た通り、唐沢は、本気で杉本や村上と対立する気は全くないため、Dr.Lukeは彼らの競争相手ではない。残るは筆者一人である。

そこで、杉本は村上の代弁者として、村上の意向を忠実に「忖度」して、自分自身を捨て駒・当て馬とすることによって、必死に当ブログの更新を中断させ、相打ちに持ち込もうと試みているのだと考えられる。

そのことは、以上の杉本のメールの内容からも理解できるし、さらに、村上密が他ならぬ3月23日に自らのブログに以下のごとく大量の投稿をしているという異常現象を通しても伺える。村上は、民事調停への出席を蹴ったこの日に、なんと29本もの記事をブログに投稿しているのである。

ちなみに、さわやか読者らは、大抵、当ブログの更新が途絶えて何時間も経ってから騒ぎ出すのが常であるが、筆者が本日、村上のブログを訪問して、当ブログの欄外のコメント欄で、この異常な投稿数について書き記した途端、早速、ほとんど時間を置かずに、フェイスブックから、以下の読者が当ブログに押し寄せて来た。

p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑古参のさわやか読者、どれだけの工作がこの特定のIPアドレスから行われているかを間もなく発表予定。いつかは必ず人物が特定される。)
pl960.ag1111.nttpc.ne.jp
69.171.240.21
66.220.151.210
31.13.114.55
66.220.151.182
pl6728.ag5354.nttpc.ne.jp
p3b935fcf.hyognt01.ap.so-net.ne.jp
fs76eee8bc.tkyc210.ap.nuro.jp

(追記:3.31)
pl14651.ag1212.nttpc.ne.jp
p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑この日も朝一で来ている。ほとんど主犯格と言えよう。) 

(4.1)
softbank219209223053.bbtec.net 
   
調停が行われた当日にも、フェイスブックを利用して当ブログを訪れたのは以下の面々である。

55.10.134.27.ap.yournet.ne.jp
185.89.219.166
pw126199005109.18.panda-world.ne.jp
16.199.183.58.megaegg.ne.jp
p701203-ipngn1802sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
ool-2f16ab0a.static.optonline.net
softbank126209003004.bbtec.net
sp49-98-53-109.mse.spmode.ne.jp
 
しかし、フェイスブックは最も個人が特定されやすい危険な媒体である。匿名の2ちゃんねるが不評であり信頼低下が著しいため、彼らは別な媒体に移動しつつあるのかも知れないが、そういうことを繰り返しているうちに、彼らはやがて自ら身元を明かす時が来る。杉本がメールで画像を添付して来たように、それを見ている人々が身元を特定して通報することが十分にあり得るからだ。

当ブログのさわやか読者はほとんどが毎回、そのようにして徐々に自分自身の存在を明かすというパターンを辿っている。悪霊に導かれる人々には、自己顕示欲という捨てがたい欲望があるため、危険を承知で自分たちの存在を誇示しないわけに行かないのである。

いずれにしても、今回の記事のテーマはさわやか読者ではない。杉本もさわやか読者も自分たちに注目を集めることによって、記事の本題を逸らそうとする人々である。そこで、今回は、杉本がどれほど当ブログで批判されても、それだけではほとんど反応しない人々が、村上に関わる話題が持ち上がると、これほど素早く反応を起こすことに注目されたい。
 
以上とはまた別に、連日、Yahoo!、Google、Bing などの検索サイトで工作を繰り返し、当ブログの順位を下落させ、検索結果から駆逐するために活動している部隊がある(重複している部分もある)。だが、村上に関する話題が出ない限り、決して起きることのない騒ぎがある。
 
さわやか読者らは、検索結果を操作し、話題をかく乱し、印象操作を行うことによって、「本命」の村上密をかばおうとしているのである。だが、彼らのすべてが村上密をかばうという目的だけのために活動しているとは言わない。杉本徳久を含め、彼らは牧師階級そのものを温存するために、牧師階級の手先となって活動している勢力であると言った方が良い。

さて、村上密が自分に関する評判にどれほど敏感に目を光らせているかについては、かつて何年も前に、杉本徳久が、自らのブログに、村上密という牧師を「全く信用していない」と記し、村上の記事内容を批判した際、その直後に、村上からクレームをつけられ、反省文のような記事を書かされている様子からもよく分かる。

その当時、水面下でどんな圧力があったのか知らないが、その出来事や、当ブログ執筆者が村上から受けた人格攻撃を通しても分かることは、村上密という人物は、少しでも自分に対して批判的な言動があれば、決してそれを放置せず、ただちにクレームをつけ、さらにそれで効果がなければ報復措置に出る人間だということである。

村上密に関する記述を巡っては、当ブログに関しても、連日、工作員部隊が、隅から隅まで発言に目を光らせており、少しでも批判的な言動がなされれば、すぐに飛んで来る。そして、批判を行った者を揶揄したり、嘲笑したりするコメントを別の場所に投稿することによって、批判者を追い込み、批判的な言説が広まらないように印象操作を続けているのである。

こうした工作員部隊の活動は、アベンジャーズとも呼ばれている自民党ネットサポーターズクラブの動きを彷彿とさせる。アベ様を身を呈して守ろうとしている人たちと、密様を守ろうとしている部隊の動きは、筆者から見れば、瓜二つに見える。「誤報」などという言葉を使って、論敵を貶めようとする言葉の遣い方もよく似ているが、やはり統一教会がらみだからであろうか、こうして批判者を封じ込めようとする手口までそっくりなのだ。

自民党ネトサポに関しては、彼らのネット上の書き込みが金で行われていた事実が判明している。そこで、牧師という階級制度を温存するために、捨て身の作戦に出ているこれらの者たちの書き込みも、印象操作のためのシナリオに基づき、世論の誘導のために行われているのであって、決して自発的なものではない可能性を我々は十分に疑ってみなければならない。
 
以前から何度も書いて来たように、我々は、統一教会がキリスト教界にスパイを送ることなど決してないなどと安心している場合ではない。キリスト教の中に、キリスト教とは無縁かつ異質な勢力を送り込み、彼らの圧力によって神に忠実に従うクリスチャンを駆逐して行くということは、異端の勢力が必ず取る方法である。ペンテコステ・カリスマ運動もそのようにして既存の教会を破壊して来た歴史がある。

村上密が全くクリスチャンの利益のために行動していないことは、村上の言動から一目瞭然であり、村上が仕えているのは、聖書とは「別の福音」であることは何度も述べて来たが、それならば、村上は一体、どこの宗教、誰の利益に仕えているということになるのであろうか。

しかし、それにしても、村上密が3月23日に開かれた調停の場に出て来ることもなく、自らのブログに引きこもろうとするかのように、記事を大量に投稿した行為は、どこから見ても異常でしかない。引きこもりの患者ならば、他にすることもないので、一日に10本以上の記事を投稿するようなこともあるかも知れないが、29本の投稿は行き過ぎである。何のためになされた行為なのか、必然性もなく、牧師にも関わらず、ここまでブログに入れ込んでいる姿はもはや異常と言われても仕方がない。

このことは、当ブログが、村上のブログを引きこもり老人のモノローグ的回顧録も同然であると評したことの腹いせに、筆者が期日に出かけ、ブログを更新できなかった日に、大量投稿を繰り返すことにより、遅れを挽回しようとしたと考えられないわけでもないが、あまりにも異常な行動なので、そういう動機では単純に片づけられないものがある。

しかも、その後の記事において、村上はまたもや信徒の恥を晒すような相談内容を漏洩している。以前と何も変わってはいない。人間関係などを仔細に描写するだけで、相談者が明らかになってしまう危険もかえりみず、いつまで経っても、信徒の個人情報を守ろうとする姿勢がないことに呆れるしかない。 

さて、一日に29本の記事の投稿という異常行動は、調停の期日当日の村上の不安心理をよく示していると考えられる。やはり、この日、村上は杉本一人をスケープゴートとするかのように矢面に立たせ、自分は公の場に姿さえ現さなかったことに、内心ではよほどの罪悪感や、忸怩たる思いがあり、居ても経ってもいられない心境だったのだろうと感じさせる。

以下を見れば、これがただ不安心理の表れとしか見えないのは当然である。光のもとへ出る勇気がないために、藪の中に隠れて石を投げることしかできない幼稚な生き方しかできない人間が、一体、誰であったのかは、読者の前に明々白々である。
  

3月23日の村上密の記事投稿数(全29本)

権威について [ 2018-03 -23 23:37] 
権威2018-03 -23 23:28 ] 
宗教的権威に対して [ 2018-03 -23 23:20 ]
政治的権威に対して [ 2018-03 -23 23:14 ]
司法的権威に対して [ 2018-03 -23 23:07 ]
司法的権威を持つ者への注意事項
 [ 2018-03 -23 23:03 ]
政治的権威を持つ者への注意事項 [ 2018-03 -23 22:58 ]
権威について 21
 [ 2018-03 -23 22:50 ]
権威について 20
2018-03 -23 22:25 ]
権威について 192018-03 -23 22:23 ]
権威について 182018-03 -23 22:20 ]
権威について 17
2018-03 -23 22:18 ]
権威について 162018-03 -23 22:15 ]
権威について 152018-03 -23 22:12 ]
権威について 142018-03 -23 22:00 ]
権威について 13
2018-03 -23 21:56 ]
権威について 122018-03 -23 21:54 ]
権威について 112018-03 -23 21:51 ]
権威について 102018-03 -23 21:47 ]
権威について 92018-03 -23 21:45 ]
権威について 82018-03 -23 21:42 ]
権威について 72018-03 -23 21:40 ]
権威について 62018-03 -23 21:33 ]
権威について 52018-03 -23 21:32 ]
権威について 42018-03 -23 21:29 ]
権威について 32018-03 -23 21:26 ]
権威について 22018-03 -23 21:19 ]
赦し2018-03 -23 20:39 ]
権威について 12018-03 -23 10:10 ] 
  


 
 だが、断っておくが、人間は、それほどまでに単純な生き物ではない。うわべでは自らの非を認めなくとも、良心においては、自分がどんなに卑劣な行為に及んでいるかはちゃんと分かっている。そこで、この先、杉本をスケープゴートにすればするほど、村上は罪悪感の重さに耐え切れなくなるだろうと筆者は予想している。

しかも、上記メールに見るように、杉本がこの期に及んでもまだいじらしく村上をかばっているだけに、村上が自分一人、ブログに引きこもって、モノローグ的回想を延々と綴っている行為は、誰から見ても納得できるものではない。神と人の前で、こうして信者を利用して破滅させた村上の罪ははかりしれないほど重いものとなろう。

だが、だからと言って、筆者は決してそのことで杉本を犠牲者として擁護するつもりはない。我々は、以上に挙げた杉本のメールの文面を通して、杉本という人物がどれほど深くグノーシス主義に汚染されてしまっているか、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でもないにも関わらず、村上密にどれほど深く心酔し、まるで運命共同体のように、この牧師の意向を「忖度」し、身を呈してこの牧師をかばおうとするほどまでに、深くマインドコントロールされてしまっているかをはっきりと見ることができる。

そのようにまで自分を見失って他人の欲望の奴隷となって行動したことの罪は、全て本人に跳ね返る。聖書は、キリストにあって自由とされた信者は、二度と人間の奴隷となってはいけないと教えている。しかも、あれほどカルトの危険性を訴えていた本人がこうなったことには、誰も同情しないだろう。

杉本と村上の例を通して、我々は、互いに面識があるかないかとか、同じ教団に所属しているとかいないとか言ったことに関わらず、離れたところにいても、これほどまでに深い精神的絆(癒着)が生まれることがあり得ると分かる。村上密による遠隔操作、重症のマインドコントロールを思わせる行動である。
 
杉本が当ブログに対していわれのないバッシングをしかけ続けた行為も、やはり杉本が村上の意向を忖度して、村上密の利益のためになされたのだろうと筆者は改めて思う。杉本はこれまで常に村上密の「影」として、村上の心を「忖度」しているつもりになって、村上の利益をおもんばかって行動して来た。そして、村上密にはそういう杉本の行動を止めようとした形跡が全くない。
 
杉本は、村上密のために、村上をキリスト教批判の分野においてナンバーワンとして担ぐためならば、自分自身は捨て駒となって、罪を問われても構わないという姿勢で、当ブログに体当たりしているのであるから、もはやこういう人間関係は、カルトの教組と信者との結びつきにも近く、教祖を守るためならば、どんな罪に問われても構わず、死んでも良いとする信者の姿を彷彿とさせる。

かつて杉本は、筆者を妄想教組に従うカルト信者のように形容していたが、蓋を開けてみれば、それは他ならぬ杉本自身だったことがこうして明らかになっているのである。

 だが、彼らがどれだけそのように所属教団や所属教会をも無視した異常な連帯を用いて、当ブログを圧迫したとしても、この先、誰の主張が駆逐されるのかは明らかである。

以前にも書いた通り、クリスチャンは、試金石である。本物のクリスチャンであれば、誰かがその人間にぶつかればぶつかるほど、かえってぶつかった人間の本質が見えて来る。

石とダイヤモンドでは勝負にならず、高速でダイヤモンドにぶつけられた石は、粉々に砕け散るしかないように、霊的法則性についても同様のことが言える。人間の主張対主張の争いにおいては、もしもどちらかが聖書の真理に堅く立っている場合には、虚偽の主張は根こそぎ粉砕されるしかない。

キリストご自身が生ける「石」となって、偽善者たちの上に落ちかかり、その教えを粉砕してしまったように、今日も、クリスチャンたちは、神の神殿を構成する「生ける石」として、嘘を粉々に打ち砕いてしまう役割を担っている。

それは、私たちが願おうと願うまいと、避けられない結果として起きて来る。このリトマス試験紙としての役割は、「地の塩」としての役割であり、自分の意志で取り除くことができるものではなく、その役目を果たせなくなれば、外に捨てられて踏みつけられるだけで、クリスチャンとしての意味もない。

そして、杉本も村上も、自分たちの主張に正当な論拠がなく、公の場所に提示すれば、それが否定され、粉砕される運命にあることを知っていればこそ、可能な限り、公の場で、当ブログの主張と直接、対峙することを避け、暗闇から非合法な方法で言いがかりをつけることで、意見表明を断念させようとしているのである。

以上のような事情があるため、当ブログでは、あえてこの先も、杉本から送りつけられる全ての迷惑メールや、さわやか読者らの動向を、逐一、仔細な注釈や分析を加えた上で、すべて公開して行くつもりである。
 
さて、筆者は、この先、杉本に一つだけ期待していることがある。それは杉本がこれから訴訟等を通して、公の場で、どれほど多くの情報を証拠として提示して来るかということである。

ソ連が崩壊する前には、ペレストロイカとグラースノスチがあり、その過程で、あまりにも多くの体制の腐敗・不正に関する闇の事件の情報が明るみに出て来たことが、この体制の決定的な信頼の失墜と崩壊を導いた。

このように、悪しき体制の崩壊には、まず信頼の失墜が先立つ。杉本はこれまでクリスチャンに関する情報を暗闇で密かに収集しては、クリスチャンを脅しつける材料として利用して来たが、当ブログではこの度、その「鏡」をくるりと反転して、逆に杉本からの情報収集を始めた。

まずは杉本が調停で証拠として出して来た唐沢治のメールを公開したが、それによって、当ブログがDr.LukeとKFCに関して述べて来た主張にも、かなりの裏づけが取れたと言える。

しかしながら、こんな程度では済まない大量の情報が、杉本徳久という「要塞」の中に、まだ数多く眠っているものと見られる。そして、当ブログでは、その情報に多大なる関心を寄せている。それだからこそ、前々から、杉本は、一人の人間でありながら、同時に、反聖書的な思想の体現者であり、霊的要塞なのだと述べて来たのである。

訴訟になれば、彼らは今まで以上に多くの証拠を出して具体的に反駁せねばならないが、その過程で、どれだけの情報が明らかになるのかが、最も注目するところである。

杉本徳久という人物は、うわべだけは敬虔そうな態度を装う”自称”クリスチャンたちが、密かなところで隠れて行って来た悪事、嘘、密告、裏切り、中傷、讒言、監視、陰謀、分裂工作などに関する様々な情報を嫌というほど握っている証人であると見られ、そうした情報を出させることにより、事の真相を明らかにすることには、とてつもなく大きな意義があると考えられる。

しかも、通常であれば、犯罪事件で訴えられたことが分かっている被疑者は、自分に捜査が及ぶ前に、証拠隠滅を図るであろうが、杉本という人物にだけはその原則が当てはまらない。未だに刑事事件となった事実さえ認めようとしない杉本は、まるで現実感覚がないがゆえに、逆に自分が難を逃れるために、この先、開き直って自分の握っている情報をとことんまで吐き出して来る可能性がある。

杉本が、ブログに記したコメントの一つさえ、削除を要求しても、応じない人間であったことを考えれば、杉本が自称クリスチャンたちに関して握っている不利な情報を隠滅するとは考えにくい。クリスチャンを貶めることが最初から彼らの目的であったにも関わらず、その材料を自ら手放すとは思えないからである。

そして、当ブログでは、杉本の存在を通して、うわべだけ敬虔を装う”信者”が、暗闇の中で、どれほど陰湿かつ卑劣な陰謀に加担し、神の子供たちを貶める行為に手を染めて来たかという情報が明らかになることは、大いに結構であり、望ましい展開だと考えている。
 
現在になっても、当ブログがまだ、人に優しく、耳に心地よい信仰告白を行う場だと考えている読者がいるとすれば、その人には、大変、残念なことであるが、当ブログにはそのような目的は初めからないので、人間の弱さを根こそぎ明るみに出すような話題を不快に感じられるならば、読まないことをお勧めするしかない。

なぜなら、聖書は言う、

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父がお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8:16-18)

ある人は言うかも知れない、「ヴィオロンさん、あなたは杉本が、カルト監視機構の設立を訴えていた村上密の活動に共感して、教会の不祥事をブログで発表し続けたことを、キリスト教の信用を失墜させる行為であると非難しています。それならば、あなた自身が、クリスチャンの堕落を明らかにすることは、同じようにキリスト教の信用を失墜させる結果になるだけだと思いませんか?」

筆者はそれに答えて、決してそうは思わないと言おう。なぜなら、たとえば「私たちはエロヒム(神々)だ!」と臆面もなく集会で宣言しているDr.Lukeこと唐沢治が、真にクリスチャンであって、聖書の御言葉に基づくキリスト教を布教しているなどと、どうしてあなたは思うことができようか。

だとすれば、KFCのメッセージが反聖書的であることを具体的な根拠と共に明らかにしたからと言って、それがキリスト教の信用を低下させる行為であるとは言えないであろう。むしろ、逆である。

ペンテコステ・カリスマ運動についても同様のことが言える。キリスト教の中にこっそりと滅びに至る異端を混ぜ込む「疑似キリスト教」の骨子を明らかにし、なぜペンテコステ・カリスマ運動がこれほどまでの混乱をキリスト教界に引き起こして来たのか、それをこの教えの本質を明らかにすることによって理論的に証明し、このような偽りを聖書の御言葉から公然と分離し、取り除いて行くことこそ、キリスト教の信頼の回復のために欠かせない過程ではないだろうか。
 
さらに、牧師制度の根本的な誤りを明らかにすることの重要性がある。村上密のような牧師が、いかにカルト化教会の牧師が自らの権威を絶対化していると批判したとしても、その村上自身が牧師である以上、そのような主張は大いなる自己矛盾でしかない。

唐沢治であろうと、村上密であろうと、彼らの論理破綻はまさに同じ点にある。他の牧師を批判する前に、自分自身が牧師の職を辞さなければならない。なぜなら、牧師が自らの権威を絶対化することが誤りなのではなく、牧師制度そのものが、必ず、権力の絶対化を引き起こす誤った制度なのであり、それを認めず、一部の牧師だけを批判する彼らの主張は、甚だしく合理性を欠いており、さらに自分自身を絶対化している彼らの行動とも相矛盾盾するものでしかないからだ。

このことは、かつてあれほど牧師制度を批判し、キリスト教界を批判していたDr.Lukeが、結局、自分のミニストリーに反対した信者について、虚偽の情報を言い広めて印象操作を行うまでに身を落とした様子からもよく分かる。まさにカルト化である。自分の活動の批判者を誰彼弾圧せずにいられない村上は言わずもがなである。
 
しかし、そうしたカルト化現象も、もしも村上や唐沢が、人々の目にヒーローのように映るフィクションの自分自身の姿を作り出し、それを見つめさせることによってしか、自己肯定、自己安堵を得られず、自己認識ができないという精神的弱さを克服することさえできていれば、起きなかったであろう。
 
だが、彼らには後戻りの道はなく、おそらくこの先も、最後まで虚構の自己像を演じ続けることで、真の自分自身から逃避するしか道はあるまい。
 
我々は、臆病さや卑怯さのために、彼らと同様に、ありもしない幻想の自己に逃げ込むことはせず、恐れることなく、真実な自分の姿を見つめたい。そして、真実な自分の姿とは、聖書に書いてある通り、アダムに属する人間はすべて堕落しており、弁明の余地なく、すべて十字架で廃棄されなければならないという事実である。

キリスト教の信用を失墜させないとは、決して人間に媚び、人間の機嫌を損なわず、人間の威光を傷つけないために、人間に関して楽観的で、美化された虚偽の幻想を流布することを意味しない。

キリスト教が唯一正しい方であるとしているのは、聖書の父なる神、独り子なるキリストだけであって、人間については徹底的に悲観的で絶望的な結論しか提示していない。

キリスト教は人間を賛美したり、神を信じているクリスチャンを美化し、誉め讃えるための教えではない。
 
聖書が教える人間の本質とは以下の通りである。

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

聖書はすべての人間が、義人ではなく、堕落・腐敗しており、信用ならないことを教えている。だからこそ、被造物はすべて死を通らねばならないのであって、キリストの十字架以外にはいかなる救いも存在しない。

にも関わらず、あまりに大勢のクリスチャンが、キリスト教を自分のうわべを飾り、人前で自分を義と見せかけるための手段として用いている。彼らはうわべだけは敬虔そうに振る舞い、数々の儀式には精通しており、熱心かも知れないが、神を知らず、神に近づくことも考えておらず、聖書の御言葉への従順さも、神の御前での心の清さも求めない。何よりも、彼らは偽善的で、誠実さ、真実、御言葉への従順が欠けているのである。

彼らはアダムに属する人間の自己が、キリストと共なる十字架で死に渡されねばならないことを認めず、神を信じていると言いながら、自分が受ける恵みのことばかりを強調し、こっそりと、神を自分の魂の情愛や欲望を満たす手段へと変えてしまう。ない。そして、古い命に基づく情愛を賛美し、その情に基づく関係を兄弟姉妹の交わりと呼び、堕落した魂の情愛によって、神の教会を築き上げようとして失敗し、結局、異端に逸れて行くのである。

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

それはちょうど、地上の会社組織が、人間の欲望に仕える団体であるがゆえに、人々に尊ばれているのと同じである。ある企業の社長が人前に敬われ、栄光を受けるとすれば、それは、その会社が人々の欲望を満たす手段だからである。人々は、ある会社の社長を尊ぶとき、本当は、その会社の社名や、社長の人物を尊んでいるのではなく、その社長の背後に存在しており、自分の欲望を都合よくかなえてくれる手段としての会社を尊んでいるのである。つまるところ、社長を尊んでいるというよりも、自分の欲望を尊んでいるのだと言って良い。

これと全く同じ原則が、牧師という制度や職業にも当てはまる。

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分の御を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。

私たちは、そもそも人間という存在を欺瞞に満ちた幻想の美しい花輪で飾り立てることをやめ、聖書の突きつける厳しい現実を決して目を背けることなく直視せねばならない。

そこで、話を戻せば、当ブログでは、杉本を含め、カルト被害者救済活動の陣営がこの先、出して来る情報を通して、いかにも敬虔そうに振る舞う「信者」たちが、隠れたところで行って来た悪事が明らかになることは、全く問題ではないと考えている。むしろ、そうした情報が明るみに出されることにより、うわべの外見だけで人を判断し、無意味に人を美化しようとする偽りの幻想が打ち砕かれて恥をかかされ、退散して行くことは、まことに望ましい結果だと考えている。

私たちは、クリスチャンになったからと言って、人間というものの堕落した本質から決して目を背けるべきではない。誰にも嫌われたくないからという理由で、人の耳に心地よい言葉を語り、人間に過ぎない者を賛美したり、自分自身を美化したりして、神を自分の欲望をかなえ、自分が栄光を受ける道具として利用することは、聖書の福音に対する裏切り行為でしかない。

そんなことをしていれば、結局、神の御前で真理を否定して、救いから除外されるだけだ。

クリスチャンは、神が預言者エゼキエルに語られた内容を知らないわけではないと思う。

「彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。
彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。
彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。
人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」。
この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。
彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。」(エゼキエル書第2章)
 
旧約聖書において、神が人に語られる時、その内容が、人間の耳にとって心地よいものだったことはほとんどない。特に、自分たちは神に仕えていると自負する民にとって、それは厳しすぎる宣告と思われるほどに、彼らの罪を暴き出すものであり、耳を背けたくなるほど、受け入れがたい内容ばかりだった。その原則は、新約になっても変わらない。主イエスは、地上に来られた当時、律法学者やパリサイ人たちが、自分こそは神の代理人だと考えて、自分を聖なる存在のようにみなして思い上がり、民に誉めそやされ、民に君臨し、民を収奪していることの罪を指摘し、彼らの面目を失わせたのである。

だとすれば、現代だけは例外などということがどうしてあるだろうか。さばきは神の家から始まる、と書いてある通り、今日も、自分たちこそ敬虔な信者であって、御言葉の教師であると自認している人々こそ、最も厳しい裁きを受けねばならないのである。

このようなわけで、筆者は、万民祭司のこの時代、キリスト教界に秩序が回復されることがもしあるとすれば、それは一人一人のクリスチャンが、牧師制度を離れ、直接、キリストに従うようになる時だけであると考えている。

少なくとも、筆者が知っている限り、2008~2009年当時には、牧師制度と訣別し、キリスト教界を出て、信徒たちが真に対等な兄弟姉妹として交わることのできる場を追い求め、直接、御霊から御言葉から教わり、キリストに連なろうとする信仰者たちが存在した。そういう議論がタブー視されることもなく公然と展開されていた。

それから随分、状況は変わったが、その時に明らかにされた結論が、後になって変わることは決してない。当ブログの出発点は、牧師制度を離れなければ、正しいキリスト教の信仰は決して得られないというものであり、筆者が神を知ったのも、一切の地上的な組織や団体を離れ、いかなる宗教指導者からも離れた後のことである。

そこで、我々は一度得られた確信を決して捨てることなく、汚れた一切のものとの分離を保ち続け、前進して行かねばならない。我々の側から、心を清め、神に近づくためには、それが必要であり、神に忌み嫌われるものを一切捨てる覚悟なしには、誰も神に近づくことはできず、神が近づいて下さることも決してない。



★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義


牧師がイエス・キリストに成り代わっている

・国家レベルで広がるグノーシス主義~人間を神とする現人神崇拝からのエクソダスの必要性~
  

本題に入る前に、再び、政局について書いておきたい。やはり、佐川前国税庁長官の国会における証人喚問は、予想した通り、単なる見世物であり、安倍夫妻が逃げ切るための出来レース、ガス抜きだったという印象を受ける。しかも、これをインターネットでリアルタイムで実況中継しようとしていた菅野完氏のツイッターが直前に凍結されるなど、この国の暗黒状態をよくよく物語る出来事が進行中である。

当ブログが、何年も前から、暗闇の勢力からいわれのない攻撃を受けて来たことも、我が国が統一教会や日本会議などのオカルト勢力に占拠されている現状と無関係であるとは思えず、もはや安倍政権になってから何でもありとなったこの国には、言論の自由もなくなりつつある上、巷でささやかれているように、公文書の改ざんも、明らかになっていないだけで、他にも数えきれないほど横行しているものと思われる。

公文書が改ざんされたということは、ただ公務員の仕事に信頼が持てなくなったなどという次元の問題ではなく、国の存立基盤が根本から揺るがされていることを意味する。今やこの国そのものが、オカルト・ヤクザ勢力に乗っ取られ、どんどん書き換えられ、「フィクション」になりつつあるのが現状なのである。

我が国は、すでに何年も前から、全体主義社会と化しており、表面的に平和に無事に生きようと願う人々は、悪魔に魂を売るしかない状況だ。そのことは、官僚の世界でトップクラスに至るまで腐敗が進行し、誰もが粉飾に手を染めている事実からもよく分かる。こうした腐敗と癒着が、官僚の世界だけにとどまるはずがなく、当然、民間にも深く浸透しているはずである。
 
筆者はこうした世の腐敗の中に、牧師を神のように崇めるキリスト教界の堕落を見る思いがする。以下でも詳しく論じるが、牧師制度は、決してキリスト教に由来するものではなく、その起源は被造物を神とするグノーシス主義に由来するのである。

多くの信仰の先人たちが、目に見える人間をリーダーとして、それを頂点にいただく地上の組織や団体を作ることは、キリスト教と本質的に相容れないことに気づき、聖書に忠実なエクレシアを求め、そうした団体をエクソダスして行った。

今や信仰とは関係ない地上社会においても、バビロン化が極度に進んだ結果、誰かをボスとして、その人物に雇用され、生殺与奪を握られて生きることが、結局、教会に籍を置くことにより、救いを教会に質に取られてしまっている信者の状態とほとんど変わらなくなっているものと思う。

独裁国家では、独裁者に異議を唱えた人物に、平和な暮らしはない。投獄されるか、殺されるか、国外追放されるなどして、厳しい迫害が待っているだけである。牧師制度に異議を唱えた信徒も、同様に、教会から悪魔扱いされて追放されるということが多々起きている現状であるが、国ごとグノーシス主義に乗っ取られた我が国では、国家レベルでカルト化が進行中なのである。

首相夫妻が、事実上の現人神となり、「真の父母」となって国民に君臨しており、オカルト信仰によってこの国を動かしている。彼らおよび彼らの作った体制を拝むことを拒否した人々は、「人民の敵」のごとくネガキャンにさらされ、社会的な抹殺へと追いやられているのである。

だが、至る所からほころびが出ている現在、こんなにも腐敗し切った愚かな体制が長く続くことはあり得ない。

筆者は、ペンテコステ運動が米国から持ち込まれたものであるように、日本会議も米国発(源流はイスラエル)から輸入されたものではないかと考える。米国ではロシアの悪魔化のプロパガンダが一層、進んでいるようだが、巨悪から目を逸らすために、「巨大な悪役の像」を作り上げては、自ら犯した悪事のすべての責任をその悪役に転嫁するというのは、彼らの常套手段である。

米国がイスラエル及び他の国々と組んでこれまで行って来たすべての悪事を、ロシアを巨大な悪役に仕立てることでオールリセットしようとしていることは、もはや人々の共通認識となりつつあるように思う。ロシアという国もそれなりに相当に厄介な「フィクション」であるとはいえ、こんなお手軽かつ馬鹿馬鹿しい卑劣な手段によりすべての悪事を帳消しにできるはずがないことは明白である。

こうしたすべてのことには、決して偶然ではない霊的影響があり、筆者は自分が様々な意味で、古い時代と新しい時代の歴史の交差点に立っていることを感じる。結論から言えば、信仰の世界は、この世と合わせ鏡であるから、筆者があるべき場所に確固として立つことにより、こうした支離滅裂な国際情勢や、この国の悲惨な現状にも幾分か変化が訪れる可能性があると考える。

さて、筆者は、これまでの記事にも書いて来たように、暗闇の勢力に真実を語らせるためには、訴訟を通して答弁を公開させるしか残された手段はないと確信している。筆者はこれまで自分から訴訟を提起したことは一度もなく、また、村上徳久や杉本密の行って来た行為を、キリスト教界の内側の問題としてとらえていた頃には、教会の問題を世に持ち出すべきではないという聖書の御言葉に基づき、訴訟という手段を使って彼らの引き起こした争いを解決することを回避して来た。

だが、今や杉本徳久や村上密という人物はキリスト教徒ではなく、彼らには信仰の片鱗もなく、彼らを信者と同様に扱う理由はどこにもない上、筆者が個人的な思惑により彼らと対立しているわけではなく、この争いは彼らの側からしかけられたものであることを明白にするためにも、ネット上の議論を出て、きちんと実社会において公にしかるべき形で決着をつけることがぜひとも必要であると考える。

その作業を通して、これまで杉本や村上のような人物が、自分の側から率先してクリスチャンに訴訟をふっかけることにより、自分たちがあたかも悪を退治する正義の味方であるかのようなポーズを取り続けて来たことの欺瞞性が、より一層、公衆の面前で明らかになるであろうと思う。
 
また、それを通して、聖書の御言葉に反逆する者たちは、どんなにこの世の常識を振りかざしているように見えても、結局は、この世の常識や法制度をも平然と踏みにじり、すべての善悪の基準をあざけり、踏みにじりながら、自分が何者にも服する必要のない神であるかのような思い上がりに陥り、己が欲望を高く掲げるのだという事実が明らかになるだろうと思う。

彼らがこの世の法廷において敗訴したという記録を作ることは、非常に重要である。訴訟は、ヤクザ者の専売特許ではなく、そんな者たちのために作られた制度でもない。クリスチャンはそうしたこの世の手続きにあまりにも無知であるべきではない。

本当のことを言えば、筆者にとっては、個人情報を収集されるとか、実名を開示されるとか、名誉を毀損されるとかいった問題は、本質的に重要ではなく、実に些末な問題でしかないのだ。実名を公表してブログを書いている人々は、世に数多く存在し、そうした人々は厳しい批判にも時にさらされている。筆者が実名を公開しないのは、杉本や村上のようにさかんに自分の名を売りながら、宗教指導者や改革者をきどる気がないためで、自分の名を冠したミニストリーのようなものを作って、人前に栄光を受けたくないからである。

さらに、筆者の実名が特定されないことによって、筆者に関わる人々のプライバシーも保たれる。当ブログでは、牧師や指導者として自分を公にし、自ら自分の情報を明かした人々以外については、たとえ敵のように行動する信者があったとしても、実名を公開したり、彼らを特定できる個人情報を開示したりはしていない。

もしも自分のミニストリーを作って有名になろうと願ったならば、筆者にもそのチャンスは十分にあったであろうと思う。ブログを金もうけの手段とし、何かの新しい教えを宣べる教祖となって、人々に君臨しようと考えたなら、そのための才覚がゼロだったとは思わない。そういう悪しき目的のために、筆者がこれまで地上で積み上げて来た様々な経験や肩書を存分に利用することも可能だったろう。今から先も、様々な戦いに勝利をおさめれば、筆者の名を使って、筆者を担ぎ上げようとする人々が出て来ないとも限らない。

だが、筆者はそういうことを全く願っていないので、無名氏のままであり続け、自分の名を売るまいと考えているのである。地上で栄光を受ければ、天での栄光はもうないからだ。

当ブログに対して引き起こされている様々な戦いは、神の国の権益に関わる問題であって、個人の諸権利に関わる問題ではない。ここで本質的に重要なのは、ヴィオロン何某といった地上の人間の諸権利が侵害されているといった個人的なレベルの問題ではなく、聖書の神の御言葉が否定され、キリスト教が歪められ、聖書の神と神の教会が冒涜され、神の国の権益が侵され、真実と正義が曲げられているという問題なのである。

個人の諸権利を主張することは、聖書の御言葉に基づく信仰を公然と守り、神の国の権益を守るために必要な現実的措置として行っているだけのことであり、それが本質的に重要な問題なのでは全くないのである。

ちなみに、3月23日という日は、本当にいわくつきな日だったらしく、札幌では、元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏と、日本会議の強力な代弁者の一人であると見られ、筋金入りの改憲派でもある櫻井よしこ氏との間で本人尋問が行われた日であったらしい。
 

【慰安婦記事訴訟】植村隆氏、櫻井よしこ氏双方の本人尋問 札幌地裁で7月6日に結審
03/23 19:50 産経新聞

 元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏(59)が、記事を「捏造」と書かれ名誉を傷つけられたとして、ジャーナリストの櫻井よしこ氏や出版社3社に損害賠償などを求めた訴訟で、植村氏と櫻井氏双方の本人尋問が23日、札幌地裁(岡山忠広裁判長)であった。7月6日に結審する。
  植村氏は朝日新聞記者だった平成3年8月、元慰安婦が「『女子挺身隊』の名で連行された」とした大阪本社発行の記事について、「連れていかれた所で監禁され意に反して慰安婦にさせられた。だまされて戦場に連れて行かれた。一連の行為で『連行』と書いた」とした。また、「当時の韓国では慰安婦が『挺身隊』を意味していた」と証言し、意図的に慰安婦と挺身隊を結びつけたのではないと主張した。
  一方、櫻井氏は、後に作り話と判明した吉田清治氏の「女子挺身隊の名のもとで強制連行された」に呼応する形で植村氏の記事が書かれたと主張。「植村氏は(吉田氏の)作り話の被害者が実際にいると書いた」とその影響力の大きさを指摘した上で「植村氏は公開討論の呼びかけにも応じてこなかった」と批判した。  


   この裁判については、植村隆氏を支える市民団体が以下の記事を発表している。

櫻井よしこ氏が自身のウソを認める! 「捏造決めつけ」記述にも重大な誤り
札幌第11回■詳報  次回7月6日に結審、判決は秋以降に

札幌訴訟の第11回口頭弁論が3月23日、札幌地裁で開かれ、原告植村隆氏、被告櫻井よしこ氏に対する長時間の本人尋問があった。

この尋問で、櫻井氏は、いくつかの記述に誤りがあることを認めた。この記述は捏造決めつけの根拠となるものであるため、植村氏に対する誹謗中傷が根も葉もないものであることがはっきりした。櫻井氏本人がウソを認めたことにより、櫻井氏の根拠は大きく揺らぎ、崩れた。櫻井氏はその一部については、訂正を約束した。
<続きは本文参照。>

 
当ブログは、これまでこの訴訟を追って来ていないため、内容について深く立ち入ることはできないが、大筋を見る限り、この裁判は、「大日本帝国」の復活を願い、戦前の軍国主義路線の誤りを認めず、従軍慰安婦などの問題はすべてなかったこととして闇に葬りたい日本会議を支持する櫻井よしこ氏が、慰安婦問題を掘り下げる報道を不当にバッシングし、そのようなテーマを追求するジャーナリストに不当な打撃を加えて、このテーマ自体を葬り去ろうとする趣旨の記事を発表したため、記者がバッシングから身を守り、自分が行った報道の正しさを立証するために起こさざるを得なくなった訴訟であるという印象を受ける。

市民団体の報道によれば、櫻井氏は徐々に誤りを認め、自分の主張が捏造であったことを認めざるを得ない立場に追い込まれているようだ。 

植村氏が起こした裁判は、名誉毀損の被害を取り返すという、ただ自分の権利を守ることだけが目的ではなく、自分が報道した内容が真実であることを論証して、慰安婦問題が闇に葬り去られて社会の利益が損なわれることのないよう必要なアクションを取ったものだと考えらえる。

報道関係者でなくとも、自分が述べた言葉が真実であることを証明するためならば、それを公に論証する機会として、裁判を用いることは、時には必要であろう。そのようにして自分の言葉の真実性を主張するためには、自分の権利が侵害されたという訴えの形を取るしか今のところ方法がないのが実状である。

日本会議サイドは、櫻井よしこ氏を大いに利用して、慰安婦問題を報道した植村氏を個人攻撃させることで、慰安婦問題に触れると、誰でもこういう結果になるので、慰安婦問題など掘り下げない方が良いですよ、という見せしめ事例にしようとしたのではないかと考えられる。

筆者や当ブログに対して行われて来た攻撃もそれと同じで、牧師制度を批判したり、ペンテコステ・カリスマ運動の偽りを証明したり、カルト被害者救済活動を批判したりすれば、徹底的な報復を受け、人生に害を及ぼされるので、そのような厄介なテーマを、クリスチャンは扱わず、決して言及しない方が良いですよ、という見せしめのためになされたと思われる。

このように、あるテーマそのものをタブーとするために、個人攻撃が行われるということはままある。だが、筆者が書いている内容は真実であり、杉本や村上が書いていることは虚偽である以上、どちらが消し去られなければならないのかは明白だ。しかも、これはこの世のみならず、来るべき世にまで及ぶほどの永遠性を持つ普遍的テーマを巡る論争なのである。

虚偽の情報によって真実が駆逐されねばならない理由はなく、ましてそれが永遠性を持つテーマに関するものならば、なおさらだ。そこで筆者は、杉本が当ブログを誹謗するために書いた虚偽と人権侵害に満ち溢れる記事を一刻も早く削除してもらいたいがために、そのための取引材料として、当ブログ記事を差し出したりするつもりはさらさらない。そのようなことをすれば、敵の脅しに屈したことにしかならない。

だが、誰が真実を述べているのかということを証明するにふさわしい場が、判定者のいないインターネット上の議論や匿名の掲示板の無責任なコメント投稿欄ということはあるまい。そこで、より公共性・社会性のある形で決着をつけなければならないのである。

さて、筆者が個人的にキリストの十字架の死と復活のより深い意味を知って、関東へ来た2009年8月に政権交代があった。おそらく、その頃、関東へ来た筆者に求められていたのは、人間の指導者につき従わず、神にのみ従って歩むことであり、決して、人間の指導者を頂点とする組織に所属することではなかったものと思う。

その点で、KFCは偽りであり、その他の人間のリーダーを担ぐすべての交わりや集会も虚偽であった。牧師制度と手を切りながらも、それと類似するすべての人間による支配を断ち切り、その偽りなることを証明できなかったことが、筆者の霊的停滞の原因なのであり、今から考えると、そのようにしてリーダーを担ぐ団体の虚偽なることを証明することこそ、筆者に当初から求められていた課題だったのであろうと考える。

筆者は、その当時、聖書に基づくエクレシアを探し求めていたとはいえ、それはKFCや、誰かをリーダーとし、その人間を事実上の神とする集会に受け入れられたり、その集会にいる信者らと仲良くして、そこに定着することとは全く無関係であった。そのようなことを目的に、筆者はこの地へ召されてやって来たわけではない。神が筆者を召し出されたのは、人間的な思いや欲望に基づいて、人間の作ったヒエラルキーに依存する自己満足的な共同体を作って、それをエクレシアと呼ぶことでは全くなかった。そのような悪しき目的とは全く異なる目的が、当初から存在していたのである。

人間を中心に作り出された団体は、すべて過ぎ行くアンシャン・レジームに過ぎず、万民祭司とされているこの時代、いい加減に、現人神なる人間のリーダーに従うという腐敗とは一切無縁の、新しいエクレシアの姿が出現しなければならず、新しい時代が来なければならないのである。筆者はその新しい時代の新しい思想の担い手としてこの地へやって来た。その後、長く続く停滞が訪れたように見えるが、それでも、筆者が召された当初の目的が変わらないならば、遅かれ早かれ、その目的は姿を現すのであり、それは筆者が人間の生まれながらの情愛に基づく肉なる絆を根こそぎ断ち切り、神の国の権益にのみに立つ者として行動するときに初めて可能となるのだろうと思う。

筆者はアダムに属する「人類」を離れる覚悟を固めねばならないわけで、今その時が来ているように思う。筆者は、筆者が杉本や村上に対して訴訟を起こすことが、地上のアダムとしての出自を完全に断ち切ることとどこかで霊的につながっていると考えている。これまでの筆者は、人間的な感情を優先しすぎるがゆえに、してはならない妥協をし続けて来たのである。その人間的な感情こそ、牧師制度に類するすべての制度を偽りであるとして、毅然と退けることをしなかった筆者の甘さなのである。(今、そうした呪われた団体が、どれほど筆者の足手まといとなっているかを考えればそのことは明白である。)

そこで、筆者は人間的な情愛を優先するがゆえに、物事を曖昧にしたまま決着をつけずに終わりにしようとする甘さを根こそぎ払拭せねばならないと考えている。

一部の人々は、筆者が訴訟を提起しようとしていることを、あたかも筆者の個人感情に基づく残酷な報復措置であるかのように主張するかも知れないが、その考え方は転倒しているとはっきり言う。

物事にきちんと決着をつけないまま、無責任なネット上だけで、当事者でもない者が、野次馬のごとく対立を煽りつつ、責任の所在も分からない匿名のコメントを延々と半永久的に書き連ね続けることの方が、訴訟を起こすことに比べ、はるかに残酷で無責任で有害な行動であり、かつ限度を超えて行き過ぎた報復措置、私的制裁であると言えよう。そのような無責任な行動に比べ、この世の法に従い、きちんとルールを守って論敵と対峙することは、はるかに公正かつ公平な措置であり、それにかかる時間も限られているし、それによって下されるペナルティの度合いも限られている。
 
筆者がもしも自分の個人の利益を優先したいだけの人間であれば、これほどの手間暇を裂いて、ペンテコステ・カリスマ運動の異端性や、カルト被害者救済活動の誤りや、グノーシス主義の分析など行う必要もなく、早々に取引に応じて、不都合な記事を削除してもらう代わりに、手間のかかる当ブログにおける議論もさっさとやめてしまえば良いだけである。

だが、問題は、筆者個人の利益などではなく、聖書の御言葉の真実性という永遠のテーマなのである。聖書の神が否定され、神の御言葉が曲げられ、キリスト教が歪められ、神の教会が蹂躙され、正義が曲げられ、真実が葬り去られようとしている時に、筆者が、自分の利益が最優先だからと、悪魔との取引に応じて沈黙したりすれば、来るべき日に、神は筆者に向かって「わたしはあなたを知らない」と言われ、筆者は恥ずべきクリスチャンとして見捨てられるだけである。

繰り返すが、ここで問題となっているのは、個人の利益などではなく、神の国の権益である。自分の個人的・地上的な利益よりも、神の国の権益を優先し、主と共なる十字架において古き人としての自己を完全に死に渡すクリスチャンが現れないことには、神の国の地上における前進もない。

代価をいとわず、主と共なる十字架において自己を徹底的に死に渡すという過程を、信仰によって貫き通す個人が現れることによって初めて、神の国の前進が地上にもたらされるのであって、誰一人としてそのように代価を払って主に従う者も現れないならば、そんな社会を神が守らねばならない義務はない。そのような社会は、教会も含めて、ますますバビロン化が進み、ソドムとゴモラ同様、地獄のようなところになって滅びるしかないであろう。

日々代価を払って主に従うクリスチャンの信仰を通して、初めて神の国が地上に引き下ろされるのであり、そのようにして神に従う一群が現れる時、初めて、教会だけでなく、この世の地上の政治体制にも影響が及び、変化が訪れるのである。
 

キリスト教が信仰によって「神を知る」ことが可能であるとしているのに対し、「神は不可知である」とするグノーシス主義が人類にもたらす悲劇

さて、筆者が当ブログを始めたのは2008年頃であるが、その頃から、当ブログでは、キリスト教界に誤った教理が満ち溢れていることを検証し、牧師制度の誤りを主張し、聖書に基づく真実なキリスト教とは何なのか探求して来た。

当初は「何が誤った教えであるか」ということに重点的に目を向けていたが、「何が真実であるか」に注意を払わねば、偽りを明るみに出すこともできないと気づき、途中から、当ブログでは、改めて聖書の御言葉に立ち戻り、神ご自身を真剣に尋ね求め始めた。

その過程で、聖霊派の教団の中などにいたのでは、決して知る機会もなかったであろう聖書の真理(キリストと共なる十字架の死と復活という十字架のより深い働き)を知らされ、筆者は、初めて以下のエレミヤ書にあるように、聖書に書かれている「主を知る」ということの意味を知ったのである。
  
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 」(エレミヤ31:33-34)
 
前の記事で、贋作は、オリジナルと対比されて初めて、贋作であることが証明されうると書いたが、その原則は、何が正しいキリスト教であり、何が誤ったキリスト教であるか、という問題を解く際にも、同じように適用される。

我々自身が、真実なキリスト教の信仰に立ち、神によって選び出され、神の子供とされた、主を知るクリスチャンとして生きないことには、どれほど偽りのキリスト教を分析し、非難したとしても、それを当事者として「神の国の権益に関わる被害」として訴えることができないのである。
 
クリスチャンとは、文字通りの意味では、「キリストに属する者」、「キリストの復活の証人」であるが、現実には、クリスチャンを名乗っているすべての者が、必ずしもキリストのものとされた、キリストの証人であるわけではない。

今日、クリスチャンを名乗っている人々の中には、数えきれないほど、神を知らず、キリストのものとされておらず、神を知ろうともしていない人々が存在する。毎週日曜、どこかの教会で開かれる礼拝に出席し、讃美歌を歌い、聖書を読み、うわべだけ敬虔そうに見える生活を送ることによって、神を知ることはできない。そういう形式を通して神に近づくことはできない。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝するときが来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、神を礼拝するとは、日曜ごとにどこかの団体へ出かけて行き、人間に過ぎない誰かの語るメッセージに耳を傾けることとは何の関係もないことである。「神を知る」ことは、聖書の御言葉に立つ信仰によって、人の霊の内側で起きることであり、神によって与えられる啓示であるため、形式によってそのような啓示を得ることは誰にもできず、それを外側から見て分かるように客観的に立証することもできない。

そこで、誰がキリストに属する本当のクリスチャンであって、誰がそうでないのか、我々が、それを区別するために与えられている唯一の方法は、外見的要素によってそれを区別しようとすることではなく、ただその人物が述べた言葉や行動を、聖書に照らし合わせて検証することだけである。その人間が述べている証の言葉とその人物の行動を検証することだけである。

そのような検証作業によって初めて、クリスチャンを名乗るある人物が、本当に神に知られているクリスチャンであるのか、そうでないのか、その人物を導く霊の性質を確かめることができる。

その人物が真にキリストの証人であれば、その人の言動には、聖書との齟齬がないはずである。だがもし、その人の言動に、嘘やごまかし、自己矛盾、トリック、歪曲、捏造などが見られ、聖書との齟齬、不透明さが見つかれば、その人は見せかけだけの信者で、内的では、キリストを全く知らず、キリストの御霊に導かれてもおらず、神の子供とされてもいない、非クリスチャンである可能性が極めて高い。

主を知らずとも、様々な教義を身にまとい、うわべだけはあたかも神を知っているかのように、敬虔そうに振る舞うことは可能である。しかし、それがその人の内側の本質から出て来るものでない外側の演技のようなものに過ぎなければ、必ず、その人の言動は偽善的なものとして、あちこちにほころびをきたすことになる。
 
だからこそ、聖書は愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)と言うのである。

さて、ようやく話を本題へ戻すが、当ブログでは、今日、あたかも正統なキリスト教であるかのように、プロテスタントの一部を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、「偽物のキリスト教」であって、もとを辿ればグノーシス主義に行き着くことを再三、述べて来た。

グノーシス主義とは、一言で言えば、創造主ではなく被造物を崇める「被造物崇拝」の教えである。 筆者が幾度となく強調して来た、異教的な母性崇拝の原理(「イゼベルの霊」)も、被造物崇拝を指すのである。

異教的な女性原理の崇拝における「女性」とは、文字通りの女性ではなく、神の助け手となるべく、霊的な女性として神によって創造された人類を指す。

「イゼベルの霊」の教えとは、要するに、人類を神以上に高く掲げて神として賛美する教えなのである。

この世には、表面的に見れば、様々に異なる思想が存在しているように感じられるかも知れないが、根本的には、大きく分けて、たった二つの思想しか存在しない。キリスト教とグノーシス主義である。

異端はすべてグノーシス主義に由来するものであり、究極的には「被造物崇拝」の教え、人類の自己崇拝である。

だからこそ、異端や異端化されたキリスト教には、必ずと言って良いほど、目に見える人間を指導者として担ぎ上げ、その人間をキリスト以上の存在として絶対化するという特徴が現れるのである。

そして、それに基づいてこそ、筆者は、牧師制度とは、グノーシス主義にルーツを持つ、聖書に根本から抵触する制度であり、牧師制度を取り入れた教会は絶対的に腐敗すると述べて来たのである。

さて、キリスト教とグノーシス主義という、真っ向から対立する二つの思想には、数えきれない違いが挙げられようが、根本的な違いは一つであり、それは「人間には神を知る道があるのか、ないのか」という問いに対して、両者が正反対の答えを出している点にある。

結論から言えば、聖書が「父なる神」は「わたしは有る」(出エジプト3:14)という方であって、れっきとしたリアリティであり、信仰を通じて、人は神を知ることができるとしているのに対し、グノーシス主義は、「父なる神」をフィクション同然の概念とする。

聖書の記述はすべて「父なる神」の計画を中心に「父なる神」の観点から書かれたものであるのに対し、グノーシス主義の神話的プロットは、すべて「父なる神」に創造された被造物の側から、被造物の都合に従って書かれた物語であると言える。

聖書の記述が、「父なる神」の御思いを中心に展開される物語であるのに対し、グノーシス主義の物語における主役は、「父なる神」(真の至高者)ではなく、「父なる神」に創造された被造物なのである。

グノーシス主義における「父なる神」(真の至高者)は、人格もなく、意志もなく、存在すらも、あるかないか分からない「虚無の深淵」であり、いわば、被造物の存在に口実や意義を与えるための添え物のような、名ばかりの存在に過ぎず、物語の最後まで、確固たる登場人物として自分自身を現して舞台に登場することのない不可知的存在である。

こうして、グノーシス主義の本質が、父なる神の概念を「フィクション」とするところにこそ、この偽りの神話とそれに導かれる人々の悲劇の根本原因があるのだと言える。

当ブログでは、以前から、グノーシス主義とは、「母の過ち」によって生まれた「父なし子」としての人類が、確たる証拠もないのに、「父なる神(真の至高者)」の子孫であると一方的に名乗り出て、神の家への復帰を企てるという、実にナンセンスな「神の家の乗っ取り」物語であると主張して来たが、大田俊寛著『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』(春秋社、2009年)は、この考えに驚くほど多くの裏づけを与えてくれる。

この文献は決してグノーシス主義を批判するために書かれたものではないが、それにも関わらず、グノーシス主義における「父」とは何かというテーマだけでなく、「父」を喪失した人類が、完全な自己や、健全な「自己愛」を探し求めて、精神分析やカウンセリングやインターネットといった「鏡」を通しての自己認識に病的に明け暮れるようになることの危険性など、まさにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが陥っているいくつもの「病理現象」についても、実に多くの示唆を与えてくれる。

この文献を参照しつつ改めて思うことは、ペンテコステ・カリスマ運動の本質はまさにグノーシス主義であり、グノーシス主義とは何かを理解することによってしか、この運動の誤った本質を明らかにすることは決してできないということである。

ペンテコステ・カリスマ運動があたかもキリスト教であるかのように理解して、聖書だけを用いて、この運動の間違いを分析しようとしているうちには、決して解けなかった実に多くの謎が、この運動がグノーシス主義を手本に出来上がったものであると仮定すれば、驚くほどあっさりと解けるのである。

今日、グノーシス主義の研究なくして、キリスト教に流入し、襲いかかっている異端の本質を掴むことが、どれほど困難であるかを思わされる。初代教会があれほどの労力を費やしてグノーシス主義と格闘し、対決したのは、決してゆえなきことではない。現代にも、グノーシス主義という異端がゾンビのようによみがえり、見えないところで教会に襲いかかり、キリスト教を骨抜きにしている事実に、クリスチャンは決して無知であってはならないと筆者は確信する。

~「父なる神」をフィクションとし、人類をもフィクションとするグノーシス主義を信じる人間の自己の内面の空虚化と荒廃の実例~

さて、このところ、政局が目まぐるしく変化しているので最初に一言述べておきたい。昨年、7月末から大阪拘置所に長期拘留され、家族との面会すらも断られ続けて来た籠池泰典氏に野党がようやく接見を果たしたという。

裁判もなく詐欺罪の容疑だけでこれほど長期拘留する法的根拠は疑わしく、ただこれ以上安倍政権に不利な証言を行わないよう、口封じのためだけに、勾留されているのは明らかである。今や安倍政権にたてつく「政治犯」を収容する監獄のようになりつつある大阪拘置所が「バスティーユ監獄」にたとえられ、首相夫人(安倍昭恵)が「マリー・アントワネット」になぞらえられるのはまことに無理もない。

「私人」と言いながら、歴代の首相夫人と比べても、破格の特権的な待遇で警護され、公務員の付き人を5人もつけていたこともあるという昭恵夫人は、夫である首相が国会で厳しい追及を受けている最中にも、全国各地での公演活動をやめず、野党を罵倒したり侮辱するような書き込みに、軽率に「いいね!」ボタンを押してはひんしゅくと買っている。このように状況をわきまえない奔放な行動を繰り返すお騒がせ者で、その上、森友事案に深く関与したことが明白となり、国有地の不当な売却や、公文書改ざんという重大な犯罪に関与した疑いが濃厚であるのに、国会への招致も拒み、権限もないのに国政を陰から操る「私人」に、公金を大量につぎこむ意味がどこにあるのかと、国民に怒りがおさまらないのは当然だ。そうした総理夫人の姿が、民衆が飢えている時に「パンがないなら、お菓子を食べれば良いじゃない」と言い放ったとされるマリー・アントワネットの姿を彷彿とさせるのは仕方がない。

さらに、安倍首相の八方美人的な外交も行き詰りに達し、トランプ大統領からも「人を出し抜こうとして薄ら笑いを浮かべている」かのように勘ぐられて疑いの眼差しを向けられ、ロシアからも北方領土を返せる見込みなど全くないとの宣告を突きつけられて共同開発も進まず、国際的に、もはや相手にする者もなくなりつつある状況を見ていると、国内にも国外にも逃げ場のなくなりつつある安倍夫妻は、やがて本当にルイ16世とマリー・アントワネットのような終わりを辿るかも知れないと感じられて来る。

筆者は、これを機に、我が国に新たな革命勢力が台頭すれば良いと言いたいわけではない。この政権が転覆した後に、どういう時代が来るのか、それは一つの懸念事項である。だが、いずれにせよ、安倍政権が終わらないことには、この国にはいかなる希望ある未来もないことだけは確かであろう。そのことはもはや国民の共通認識に近くなって来ているように感じる。

安倍政権に盾突いた人々が、官僚であれ、民間人であれ、執拗に人格攻撃を受けては、社会的に抹殺され、ブラック企業や裁量労働制などが実質的に広がり、国民の貧窮化が進み、国力が低下している中、国家総動員体制のような無理な苦労が国民に要求され、税は重くなる一方で、軍備が拡張され、最後には、政権が誤った政策を自ら認めて撤回することができないプライドのゆえに、再び、軍事力に頼って無謀な戦争を起こしてすべてを都合よくオールリセットしようとするしか残された道がなくなるという、一度すでに辿り、結論が初めから見え透いている破滅へ転げ落ちるだけのこの暗黒時代が早く終わらないことには、この国には何一つ進歩もなく、希望ある未来もなく、未来が向こうから愛想を尽かして立ち去るであろう。
 
さて、筆者は政治家ではないので、政治運動に参加することを通して政局を変えようとはしないが、クリスチャンとして、霊的な戦いを勇敢に戦い通すことによって闇を払うことに貢献できると考えている。それが当ブログの役割なのである。

当ブログが聖書に基づく真実な信仰を求めて探求を始めたのが2008年、それから一年近くで、筆者自身が神と出会うという実りある収穫を得て、2009年8月末に戦後、初めて政権交代がなされたが、こうしたことが偶然に起きたようには思われない。
 
また、この度、籠池氏に野党が接見を果たしたのが、ちょうど筆者が当ブログに執拗に根拠のない言いがかりをつけては記事の削除を要求し続けて来たブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および、杉本に筆者の個人情報を提供して誹謗中傷を幇助した疑いが濃厚であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密を民事調停に呼び出した日に当たることも、とても偶然とは思われない。


・ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が民事調停で出した空疎な答弁書とグノーシス主義の関連性について

ちなみに、杉本徳久と村上密に対して当ブログが起こした民事調停は、予想の通り、まるでお子様のようなレベルでしかなく、筆者が出した100枚近くの答弁書は、十分に訴訟に対応できる内容であり、民事調停のレベルをはるかに超えていたため、一刻も早く訴訟に移行すべきものと思う。

だが、お子様のレベルの「話し合い」とはいえ、叩けばそれなりに埃は出るもので、今回、収穫がゼロだったわけではない。

村上密は予想通り、具体的な反駁も寄越さず、調停に姿を見せることもなかった。その一方、杉本徳久は当日になって時間ぎりぎりに現れ、たった2枚しかない人を馬鹿にした内容の答弁書を提出した。

今回の二人の対応から、これまでクリスチャンや教会に次々と言いがかりをつけては、裁判に及んできた村上密と杉本徳久の正体が、さらにはっきりしたと言えよう。

村上は、自分に不利な訴えには極力、耳を貸したくないという狡い性格の持ち主であり、杉本も、とてもではないが、訴訟に対応できるような人物ではない。クリスチャンをこれまで訴訟によって恫喝して来たこの二人が、実際には、自ら訴訟を受けて立つような力量が全くない人間であることは、今回のことではっきりと証明されたと言えよう。

以下で記す通り、杉本の答弁書における反駁を読めば、それがまるでお話にならないほどに幼稚なレベルのものであることは、誰にでも分かる。

むろん、杉本には弁護士などいなかった。あれほど筆者に向かって、再三、弁護士を通じて連絡せよと要求し、弁護士相手でなければ、話にもならないという態度を見せていたにも関わらず、結局、杉本には、自分が訴えられた際、弁護士をつける経済的余裕が全くなかった様子が、今回のことで明らかになったのである。

ちなみに、杉本徳久は、株式会社メディアテラスの代表を名乗っている人物であるから、単なる一般人としての「私人」ではない。杉本の行為は、すべてこの会社の代表としての振る舞いであると世間に受け止められることになる。

それが、期日当日の時間ぎりぎりになって、ようやく裁判所に答弁書を出すというのは、まるでブラック企業に雇用された悪徳弁護士が使うような汚い手口である。そういうことをすると、参加者全員が、事前に答弁書をきちんと読んで協議に備える時間がなくなるため、審理に悪影響を及ぼす。いたずらに協議を長引かせて結論を先送りすることだけを目的とする、非常に印象の悪い、人を馬鹿にした利己的な行動である。

さらに、杉本が出して来た答弁書は以下の通りであるが、その内容を見ると、基本的な言葉遣いさえなっておらず、証拠書類の番号の振り方さえ間違っており、弁護士が一度も目を通していないことが明白であるだけでなく、大の大人が書いた文章とも思えず、小学生程度の算数さえできるのかどうか危ぶまれる内容である。

  
(図1、2 杉本徳久が民事調停の期日当日に提出した「とんちんかんでお話にならない」ほど幼稚な答弁書)

杉本は答弁書の冒頭において、筆者の主張を「棄却する」などと書いているが、正しい表現は、「否認する」である。訴えを棄却するのは裁判所にも関わらず、まるで自分に誰かの訴えを「棄却する」権限があるかのように考えているこの言葉からも、杉本の傲慢さが透けて見える。
 
 杉本はこのたった2枚しかないあまりにも手抜き作業であることが明白な答弁書によって、筆者の訴えを一方的に「棄却」したつもりになっている上、調停を起こす費用もすべて筆者に負担させた上で、自分は一銭の賠償金も支払うことなく、勝手に「3日以内」と根拠も不明な期日を一方的に指定して、自分のブログ記事を削除する代わりに、筆者のブログからも、都合の悪い記事を削除せよと叫んでいるのである。

きちんとした弁護士であれば、申立書に記された一つ一つの項目ごとに、きちんとその内容を踏まえた上で、否認する旨とその具体理由をちゃんと書き記すものであるが、杉本の答弁書には一切、具体的な反駁がなく、反論している内容さえ、申立書には書かれていない内容ばかりである。

筆者の申立書には、段落ごとに番号もふってあり、無数の段落がある。それがたった2枚の答弁書の数行だけの文章で、筆者の全ての主張に反駁したつもりになり、これを「棄却する」とまで宣言しているとは。厚かましさ・愚かさに呆れ果てることを通り越して、もはやただ苦笑するのみである。

小学生でももう少しましな文章を書くであろう。しかも、杉本が出した証拠の大半も、筆者のブログをただ印刷しただけのもので、答弁書の本文と照らし合わせても、必然性が全く感じられない添付書類であった。その上、証拠書類の番号のふり方さえ間違って、番号が飛んでいるのだから、夏休みの終わりになって宿題を片づける小学生のように、期日当日になって慌てて作成したのだろうと笑うだけだ。

杉本が弁護士に相談を行った実績がないことが、この答弁書の内容からはよく分かる。無料相談くらいなら、利用したかも知れないが。

要するに、杉本の答弁は、杉本自身の言葉を使えば、完全に「とんちんかんでお話しにならない」レベルのものであり、とことんまでの手抜き作業であり、さらに、杉本が筆者に投げつけて来た言葉を使えば、この答弁書こそ、「思い上がった上に、市井の常識をわきまえない、あまりにも自己中心な内容」と非難されてしかるべき内容であったと言えよう。

筆者は近々、このようにお子様レベルの不毛な民事調停を打ち切って、訴訟に移行するつもりである。訴訟となれば、こんな人を馬鹿にした無内容の答弁書など提出している余裕などは全くない。信憑性のある反駁ができなければ、敗訴に終わるだけである。また、村上密も反駁を寄越さないわけには行かなくなる。さらに申立内容によっては、申立人の住所地で裁判を行う道が開けるため、わざわざ被告の住所地へ足を運ぶ手間も省ける。移送を申し立てても、被告の希望が認められる見込みはほぼなくなるであろう。

以上のような経緯から察するに、杉本と坂井氏が対決したという裁判も、しょせん、民事調停以下のレベルだったのだろうと想像されてならない。つまり、杉本は、きちんとした訴訟が提起されれば、およそ勝ち目のない人間であり、これまでただ自分の方から先に訴訟をふっかけることにより、心の準備のできていないクリスチャンを恫喝して黙らせて来ただけなのである。

かつて杉本徳久は2009年頃に、2ちゃんねるの書き込み内容が名誉毀損であるとして、2ちゃんねるに削除要請を行おうとした様子が、掲示板「株式会社メディアテラス(杉本徳久)」に残っている。

確かに2ちゃんねるは悪質な掲示板であり、しかも、杉本がこの当時から2ちゃんねるに、コメント番号を指定することさえも不可能なほどに大量の書き込みをされて、ほぼストーカーのごとく追いかけられていたことを考えれば、多少、彼の言い分にも、同情の余地があると言えないわけではない。

だが、それでも、そのような事態となったのは、杉本自身が自らのブログであまりにも多くのクリスチャンに自ら喧嘩を売って、実名で誹謗中傷を重ねて来た結果であることや、また、削除を要請するに当たっては、どんな掲示板であろうと、どれほど書き込み数が多かろうと、杉本自身が、どの部分をどんな理由で削除依頼するのか、手間がかかっても、やはりそれだけは最低限度、明らかに指定しておかねばならないことを考えれば、一方的な同情の余地は残らない。

その当然の形式を整える手間を怠ったがゆえに、杉本は2ちゃんねるに削除依頼を出しても、依頼として扱ってももらえないまま、門前払いされた経緯がよく分かるのである。

こうしたことからも分かるのは、杉本徳久は、常に自分が主張している内容の正当性を、他者にも客観的に分かるように具体的に根拠を示して証明するという作業をしないということである。今回の民事調停の答弁書もそうなのであるが、杉本はいつも「自分が迷惑を受けて嫌な思いをしていることは、あなた方にも当然、分かるはずだ!」という理屈で、自分の要求を何一つ客観的に証明することなく、相手がそれを理解して飲むのが当然であるとして、一方的に押し通そうと突きつけて来るのである。

しかも、杉本は、そうして客観的な手間を省いた分だけ、常に刑事告訴やら、民事提訴やらといった脅し文句を凶器のように振り回して、相手に要求を飲めと脅すばかりなのである。

杉本はこうした手抜きな要求の結果として、以上の掲示板でも、自分の出した削除依頼を、必要条件を全く満たしていないため審査にも考慮にも値しないと言われて「棄却」され、「門前払い」された上、削除を求めた書き込みや、そこで引用した誹謗中傷のコメントの転載も含めて、それをさらに半永久的にさらしものとされる材料として増し加えてしまい、削除依頼をもあきらめざるを得ない結果に追い込まれたのである。

2ちゃんねるはこのように悪質な掲示板であるとはいえ、それでも、2ちゃんねるで事件に巻き込まれた人々の中には、努力に努力を重ねて、刑事事件にこぎつけたり、その他の方法で、第三者機関を通して、削除にこぎつけている例もある。

彼らはおそらく膨大な手間暇をかけては証拠書類を集め、読みたくもないコメントを一つ一つ丹念に探し出してコピーし、番号を指定して、そこでどんな人権侵害が行われているのか、何が事実であってそうでないのか、自分の主張を精魂込めて練り上げた上、しかるべき場所に書類を持参し、何度も何度も様々な公的機関に足を運んで話を重ねつつ、あきらめることなく、自分の主張が認められて実現にこぎつけるまで、手続きを重ねて来たのである。

ところが、杉本は、そうした努力を一切払わず、ただ「私が言いたいことはあなたにも分かるはずだ」という子供のような理屈で、常に周囲の者たちが、自分の意向を「忖度」してくれるよう当然のごとく求め、「忖度」してくれない他人は、告訴したり、個人情報を暴露するなどと脅して言うことを聞かせようとし、筆者のような形で事件を解決しようとする他人が現れると、その他人の努力に便乗して、調停や裁判を自分のリクエストを提示する場として都合よく利用しようとするのである。

しかも、訴えを起こされても、自分の非を一切認めず、何の譲歩も行なわずに、ただ他人だけに一方的な代価を払わせて、自分の願いを実現しようとするのである。そこに、杉本徳久という人間のどうしようもない卑怯さ、利己主義、怠慢が見て取れる。

杉本は、筆者に送りつけて来た恫喝メールの内容からも分かるように、おそらく、これまで自分の願いを実現するために必要となる苦労をして来たことがないのであろう。周りの者たちが、常に自分の意向を尊重してくれて、面倒な作業を何もしなくても、願いが叶うのが当然という環境で、甘やかされて育って来たのではないかと想像される。

自分よりも強い者には媚びておとなしく従うが、そうして自分をひっこめて願いをあきらめた分だけ、自分よりも弱い者を恫喝し、八つ当たりすることでしか、自分の弱さ、卑怯さ、臆病さをごまかそうとするしかないのだろう。

杉本が勝訴した裁判がこれまでにいくつかあるそうだが、こんな風に自分の主張を客観的に論証する手間さえ省く無精者に敗訴するなど、あまりにも恥ずかしくみっともなく馬鹿げたことである。多分、訴訟に及ばれた側が、あまりにも不慣れで、心の準備ができておらず、弁護士を雇ったりして、十分に対策を打つ手間暇がなかったせいでそうなっただけであろう。クリスチャンの中には、そういう風に世の事柄に格別疎い人々も多い。

この度、杉本が出して来た答弁書を見るにつけても、このような手抜き作業では、訴訟には絶対に勝てないことは明白である。弁護士がついているかどうかといった問題ですらない。たとえ弁護士がついていたとしても、依頼人自身が、自分が何を言いたいのかさえ分からず、自分の主張を明確にして相手に反駁することさえできない状況で、当事者でもない弁護士が、それを補って完璧な主張を作り上げてやることは無理である。

まあ、とてつもない大金を積めば、そういう面倒な作業をも代行してくれる弁護士がいないわけではないだろうが、企業であればそういうことができても、個人のレベルではまず無理である。だから、この答弁書を見ただけで、いざ訴訟になった時の結果は初めから明らかだと言えよう。

繰り返すが、これが今まで数々のクリスチャンを訴訟の脅しで黙らせて来た男のみっともない答弁なのである。まだ分析は以下でも続くが、まずはよくよくご覧になられたい。

さて、このようにお子様レベルの民事調停であるとはいえども、それでも、杉本が今回、出して来た証拠の中にも、それなりに収穫と言えるものが、二つだけあった。

それは、杉本の生年月日を記した社会福祉士登録証と、唐沢治が杉本に送信したというメールである。


(図3 杉本が出して来た社会福祉士の資格者証 社会福祉士にあるまじき社会的弱者への侮蔑・嘲笑をブログで公然と行っておきながら、こうして資格を誇示しようとする態度に呆れる。しかも、資格取得から2年しか経っていないのに、自分は駆け出しに過ぎないという認識が全く欠けている様子にも呆れ果てるのみ。)

杉本徳久は、大学院修士課程まで出ており、博士号の取得は諦めたようであるが、修士でも、研究者として生きるのでなければ、一般人の学歴としては十分であろう。にも関わらず、杉本は博士号を取得しなかったことが、それほど自信喪失やトラウマにつながったのであろうか。大学院卒の肩書では満足できなかったようである。

杉本はこの度、社会福祉士の国家資格を取得したことが、よほど自慢の種だったらしく、唐沢のメールの文面からも、杉本がソーシャルワーカーの資格を取得したことを唐沢に向かって大いに自慢していたらしい様子が読み取れる。


(図4 唐沢治が杉本徳久に送ったメール。唐沢の信用ならない嘘つきな性格がよく分かる内容であり、唐沢が水面下でどれほどこれまで事態を常にこじらせてきたか、その様子も見て取れるが、それでも、杉本が坂井氏と唐沢を裁判で破ったにも関わらず、2017年になってもまだこうして唐沢にも筆者と同様に因縁をつけては絡み続け、嫌がらせメールを送りつけていた様子にも、唖然とし、恐れ入ると苦笑するほかない。杉本は、こうして明らかになっている人々の他にも、一体、どれだけの人物にこうして隠れたところで言いがかりをつけては嫌がらせメールの送信を繰り返して来たのであろうか。)

だが、このタイミングで、杉本が自分が何より大切にしている国家資格者証を、筆者に向かって出して来た気が知れない。

特に、杉本が今までクリスチャンに対して裁判をしかけては個人情報を収集し、その情報をダシにして、クリスチャンを貶め、中傷して来たことを思うと、まさにそれは自滅行為であるとしか言えない。

杉本徳久や、村上密が、これまでクリスチャンに対して取って来た行動は、古代社会における、シャーマンの呪詛の祈祷をも思わせるものである。

古代社会や、今でも文明の行き届いていない社会では、シャーマンのような呪術師が、誰かから金をもらって、ターゲットとする人を呪い殺すための祈祷を捧げる依頼を受けるなどのことが、おそらく日常的に行われていると思われる。

その際に、シャーマンは、依頼者に、ターゲットとなる人物の髪の毛など、身の回りの品を持って来させ、それをもとに藁人形などを作っては、その人形を本人に見立てて、連日、呪いの祈祷を捧げるのである。

筆者は、村上密や杉本徳久のして来た行為は、シャーマンによる「呪い」や「冒涜」とほとんど変わりないものだと考えている。彼らは自分たちが憎んでいる相手(クリスチャン)の個人情報を何らかの方法で入手しては、それを不当な形で利用して、その情報を土台に、まるで「藁人形」でも作るように、本人の歪んだ「像」を作り出し、その像を侮辱・嘲笑することで、ターゲットとなる人間の人生に危害を加えようとして来たのである。

杉本は自分がこれまでそのようにクリスチャンをターゲットとして呪詛のような行為に及んできた事実を少しでも考えれば、自分が宝としている情報を、敵方のサイドに提供することが、どれほどの自滅行為であるか、分からなかったとは思えない。

しかも、当ブログでは、杉本の行った行為は、ソーシャルワーカーの信用を著しく傷つけるもので、国家資格の剥奪に値すると何度も書いているのである。

にも関わらず、杉本が危険もかえりみずに以上のように国家資格者証を誇示したことは、筆者から見れば、杉本を破滅に導こうとしている悪霊のなせるわざであるとしか言えないのである。

これまで書いて来たように、社会福祉士の仕事内容は、社会的弱者を助けることにあり、社会的弱者を嘲笑したり、罵倒することにはない。精神障害者も、社会的弱者に含まれるのは明らかだ。にも関わらず、杉本は、筆者のような健康な人間を、何の根拠もなく精神異常、人格障害と決めつけて罵倒・嘲笑した上、さらに、精神障害者が一般的に就労困難であったり、社会に適応困難な状態にあるなどの苦しい状況をあげつらいながら、これを罵倒・嘲笑したのだ。

自分が助けねばならない社会的弱者全般をターゲットとして侮辱するようなソーシャルワーカーが全国のどこにいるだろうか。こうした記述内容を通して、杉本がおよそソーシャルワーカーにふさわしくない人格の持ち主であることがよく分かるのである。

杉本が資格を取得したのは、決して社会的弱者を助けるためではなく、ただ自分よりも弱く困っている人間を上から目線で見下げ、彼らを「助けてやっている」という優越感を味わうためでしなかったのではないかと強く疑われる。

さらに、この証書を通して、杉本が国家資格を取得したのは、平成28年3月であり(交付は4月)、取得からまだたった2年しか経っていない事実も分かる。これでは、社会福祉士として、まだほんの駆け出しではないか。

現場で10年くらい実践を積み、プロと言えるような実績がそれなりに出来上がってから、人前で資格を自慢するならばともかくとして、よくもこんなにも短期間で、ただ資格を取ったという表面的な事実だけを理由に、これほど他者に対して傲岸不遜な態度に出られるものだと呆れざるを得ない。

筆者は、まだ唐沢治と親交があった頃、杉本が福祉関係の仕事を始めたという情報を入手した唐沢が「杉本にそんな仕事が続くはずがない」と述べて苦笑していたことを思い出す。

それでも、しばらくの間は続いたのであろう。だが、その努力すらも、今回のような行動を取ることによって、杉本は自分で台無しにしてしまっているのである。

杉本は、以前には、株式会社メディアテラスの代表であるという身分をしきりに強調していた。今やそれをあまり口にしなくなり、かえって、ソーシャルワーカーであることを誇示している様子を見ても、メディアテラスという会社は、ネットで幽霊会社と言われていることは事実無根でなく、極めて厳しい経営実態にあると懸念されてならない。

杉本は会社の事業として、音楽スタジオやら、他にも様々な事業を手がけようとしていたようであるが、あまりに手を広げすぎて、趣味と実益が結び付かなかったのであろうし、仮にそうした事業が先見性のあるものだったとしても、「随想 吉祥寺の森から」のようなブログで、あれほど数多くの人々の実名を出して誹謗中傷し、自分からクリスチャンを訴えるための争いを起こし、さらにそれを手柄のように吹聴していたのでは、会社の代表としては、およそ世間の理解や信頼を得られない。事業が成功する見込みを自ら潰しているも同然である。

杉本は筆者のように、杉本とは一切面識のなかった無関係な人間をも、ただインターネットで一つのコメントの削除依頼を受けたというだけの理由で、これほど長きに渡って執拗に脅しつけ、嫌がらせを重ねて来たのであるから、そんな人物と、ビジネスで金銭の絡む取引をしたいと願う人が現れるはずもないことは明白である。

しかも、以上の民事調停の答弁書を見ても、杉本が自分にとって不利な訴えは何一つ認めず、一銭の賠償金さえも払わず、他人の労に便乗して、自分の望む結果を得ようとしているケチさ、無精さ、利己主義がよく伝わって来る。そこから察するに、およそメディアテラスという会社が、自社の評判を大切にして、人との調和を重んじる会社だと考える根拠は何一つ存在しない。

昨今、中小零細企業の社長は、他人に向かって威張りちらしているわけにいかず、大変な苦労を背負っているものだ。旅行業やサービス業の社長は、社長と言っても、名ばかりで、実際には、顧客のクレームのために、社員が負わない苦情を一身に背負って、絶えず駆け回らねばならない。どれほど顧客から会社に言いがかりのようなクレームをつけられても、言い返さず、謙虚に頭を下げて誤解を解く努力を続けながら、人々の理解と賛同を勝ち得て、事業展開をせねばならないのだ。

それが、杉本のように、他人の些細な言動に腹を立てては、それを理由に、根拠もない言いがかりをつけ、記事を削除せよと一方的な要求を突きつけ、果ては告訴をふりかざして脅したりしながら、力づくで人に言うことを聞かせようと試み、果ては訴えられてもデタラメな答弁書ばかり出して身勝手な要求を繰り返すだけであれば、そういう人間をビジネスパートナーとして選ぶ人はいなくなるのが当然である。

どういう経緯があって事業展開が難しくなったのかは知らないが、杉本は会社代表という身分を誇示することが難しくなった次には、今度は、ソーシャルワーカーの資格に飛びつき、国からのお墨付きをもらい、弱者救済をライフワークとすることで、新たな活路と自信の源を見いだそうとしたのだと思われる。

だが、こうして、大学院、会社経営、社会福祉士と、次々と自分のよりどころとする立場や肩書を変え、自分の手がけた一つ一つの試みを、何一つ、時間をかけて苦労を耐え忍びながら成功へと導くこともできないままに、熱中の対象を次々と取り替え、うわべだけの資格によって身を飾ろうと試みても、そんな試みが成功へとつながる見込みは極めて薄い。だからこそ、今回のような藪蛇な展開になっているのである。

杉本は、今回、社会福祉士の資格者証を出せば、自分の身分保証や、信頼を得る材料となると考えたかったのかも知れないが、刑事事件で有罪が確定すれば、当然、国家資格を剥奪されるだけであると、当ブログでは再三、予告している。筆者から見れば、杉本はただ厚労省に資格取消を求めて通報される際の手間を自ら省いているだけなのである。

最後に、杉本は答弁書において、自分の身にまだ捜査が及んでおらず、逮捕令状も出ておらず、身柄拘束も、取り調べも行なわれていないことを理由に挙げて、自分が刑事告訴されたという事実そのものを否定し、今回の訴えは事件にならないなどと一方的に決めつけ、迷惑行為防止条例にて警告を受けた事実をも否定しようとしている。

杉本が、自分が告訴された事実を何とかして嘘であると考え、否定したい様子がひしひしと伝わって来る。いつものように、筆者の「狂言」と決めつけたいのだろう。

こうして、自分が名誉毀損で訴えられているにも関わらず、都合の悪い事実を否定するばかりで、事態を収拾する努力もせず、自分の人権侵害のブログをまるで取引材料のように振りかざし、筆者の起こした調停の場を自分に都合よく利用して、筆者のブログから気に入らない記事を削除させるための機会に変えようと、「喧嘩両成敗」に持ち込もうとしている態度に、どこまで常識がないのかと心底、呆れる。

しかも、杉本は例によってどの記事の削除を要求しているのか、自分の要求の内容さえも具体的に明らかにしていないのであるから、こんな主張は、最初から通る見込みがなく、なかったも同然に空中に散じ、胡散霧消していくだけである。

要するに、杉本の取っている行動は、自分の書いた犯罪的な誹謗中傷の記事をダシにして、依然、筆者を脅し、その記事を一刻も早く削除して欲しいと願うなら、筆者が刑事告訴を取り下げ、事件自体をなかったことにし、筆者のブログからも、杉本の気に入らない記事を即刻、削除して、杉本の犯罪行為をすべてなかったことにして水に流せと、筆者を脅しているのと同じである。

どこまで限りなく卑怯な人間なのだろうかと呆れるばかりだが、しかしながら、こうした杉本の主張が、この先、杉本に非常に不利な結果を生む材料となるのは避けられないだろう。

杉本は答弁書において警察から連絡を受けた事実を否定していないが、もしも杉本が名誉毀損で告訴されておらず、迷惑行為防止条例にも違反していないというならば、一体、何のために、刑事が杉本に連絡せねばならない理由があるのだろうか。

刑事は実際に杉本にブログの削除を要求しており、ブログを更新しないようにとも警告し、二度と筆者に関する誹謗中傷の記事を書いたり、嫌がらせメールを送信しないようにと警告し、この度、名誉毀損で告訴状が受理された旨も伝えている。警察が介入した結果として、杉本のブログの一つ「神々の風景 religsious scene」が実際に削除されたのである。

にも関わらず、杉本はこうした事実をすべて否定することが、この先、自分にどれほど不利な結果をもたらすかを予想していない。杉本の主張は、警察に向かって、「本当に事件になっているというなら、その証拠にちゃんと捜査令状、逮捕令状を出して、取り調べをしろ!」と言っているのと同じなのだが、警察とて、そうまで言われれば、事件になっていることを自ら証明せざるを得ない立場に追い込まれる。(警察も捜査義務を怠ったとして追及されることは望ましくないためである。)

杉本のこうした発言は、かえって敵方のアクションにきっかけを与えているだけであり、警察が民事調停で杉本が反省を示し、自主的に記事を削除するかも知れないことを最後の望みとして行動を留保して来ただけであるとは思いも至らないのである。

杉本はこれまでにも、自分の吐いた容赦のない言葉の報いとして、数々の災難を身に招いて来た。完全に自分自身の言葉で罠にはまってしまっているのである。

たとえば、杉本が根拠もないのに、当ブログで自分が「サタン呼ばわりされている」と主張したり、「自分が冒涜された」などと主張して、次々と当ブログへのバッシング記事を書かなければ、当ブログでも、反論のために杉本の名を記して記事を書き記す必要もなかったであろう。

さらに、もしも杉本からの当ブログへの一方的な刑事告訴の脅しがなければ、杉本自身が刑事告訴されるという展開にもならなかったろう。この他にも、杉本は「一度口から出した言葉は取消できない」と述べたり、「民事で巨額の賠償金を支払っても、刑事事件の捜査は続く」などと、自分で自分の情状酌量の余地をなくすような、容赦のない非難の言葉をブログで他者に向かって吐き続けている。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのないさばきが下されます。」(ヤコブ2:13)と聖書にある通り、他人に対して容赦のない態度を取った人間が、自分だけは憐れみを受けることはできない相談である。こうして他人に向かって吐いた憐れみのない言葉の数々が、すべて杉本自身に跳ね返ることになると、杉本は考えてもみない。これは悪霊が彼に言わせている言葉の数々であろうと思うが、大変に恐ろしいことである。

このように、自分の取った行為の責任ときちんと向き合うこともできない空疎な人間が、どんなにうわべだけ、様々な立派な肩書や資格を振りかざして身を飾ったとしても、しょせんクジャクの羽をつけたカラスでしかなく、決してそれによって内面の空疎さを埋めることはできない。

そして、内面が空虚であればこそ、こうした人々は、その空虚さを突かれ、自分を他者に奪われ続けるのである。

次回以降の記事でも詳しく論じるが、筆者の目から見れば、村上密も、杉本徳久も、唐沢治も、「自分がない」という点では、共通しており、内面の空虚さとコンプレックスを埋め合わせるために、常に他者の眼差しの中に、自分への承認や賛同を見つけようとし、それを通して、自己を取り戻そうと、「弱者を救済するヒーロー」のような虚構の自己を演じ続けているのである。

彼らにとっては、他者の眼差しこそ、自分自身を映し出す「鏡」であり、インターネットも、そのような「鏡」の一つである。彼らはこれまで、そうした「鏡」としての他人の眼差しの中に、他人が喜ぶような「理想的な自己像」を投影し、他者からの賞賛や賛同を得ることで、自分を確認しようとして来たのであるが、そういうありもしないヒーローのような自己像の演出を重ねているうちに、「鏡」を通してしか自己を認識できないという心理的弱点があだとなり、結局、「鏡」の方が「本体」以上のリアリティとなり、「鏡」に人生を乗っ取られてしまったのである。

彼らがブログ等において演出している「理想的な存在としての自己像」も虚構であると同様、その他の無数の歪んだ「鏡」が映し出す彼らの自己像も誤りであり、もはや彼ら自身が、どれが彼らの本当の自己像であるのかさえ、すっかり分からなくなっているのである。
 
「鏡」はしょせん「鏡」に過ぎず、そこに真実が映し出されることなど永久にない。鏡の表面には、凸凹があったり、光が乱反射したりして、「本体」を正しく反映することさえ、至難の業である。

にも関わらず、確固たる自分がない人々は、絶えず、他人の眼差しという「鏡」に映る自己像を確かめることでしか、自分を認識できず、自信を得ることもできないため、その弱さのせいで、どんどん虚構の「鏡」の世界に取り込まれ、他人に自己像を奪われ続け、ついに「鏡」の世界で「本体」を喪失したまま、帰らぬ人となってしまうのである。

これは大変に恐ろしい事態である。杉本は、すでに2ちゃんねるによって、長年に渡り、「自己像」を侵害されて、奪い取られ、上書きされ続けて来たが、今やその上に、唐沢のブログの指摘があり、当ブログの指摘もあり、多数の「鏡」によって、杉本の像は根本から書き変えられ続けているのである。

杉本はそれに抵抗するために走り回っているが、その主張があまりにもお粗末であるために、どこへ行っても相手にされず、それどころか、ついに杉本自身のブログが名誉毀損であり人権侵害であるとして削除され、消滅しかかっているのであり、さらにこの先、杉本の訴えが裁判においても「棄却」されるなどした日には、杉本にはもはや「自分自身とは何か」ということを、自らの口で主張する手段がなくなる。

こうして、ついに「本体」が消え去って「鏡」だけが残るのである。杉本が主張した内容はすべて無かったこととされて消え失せ、他者が杉本に向かって述べた様々な言葉や印象批評だけが、「杉本の像」として定着し、残って行くのである。

これが、他人からの「お墨付き」を得ることによってしか、自己を確かめられない空疎な人間が決まって辿る悲劇の結末である。

ところで、「剽窃」だとか、「乗っ取り」だとかいう主張が成立するのは、あくまで「本体」がれっきとして存在し、誰かがこれを証明しうる場合のみである。たとえば、無断複製を違法であると主張するためには、オリジナルの所有者が出て来て、オリジナルとは何かを提示した上で、問題となる内容がオリジナルから違法にコピーされたものであることを証明しなければならない。

オリジナルが存在しないか、誰もそれを証明できない事柄については、コピーという概念も存在せず、「贋作」や「無断複製」や「違法な改変」や「剽窃」という主張自体が成立しない。「本体」が確かに存在していないものについては、どんなにたくさんの歪んだ「鏡」が作り出されても、誰一人として、それを権利侵害だと主張できないのである。

杉本が、これまで自分自身に確かなよりどころとなる自己がないことを埋め合わせるために、会社の代表や、国家資格といったうわべだけのステータスで身を飾り、あるいは、苦しんでいる他者を助けることで、自分の内面の空虚さを補えるかのように考えたことは、錯覚でしかない。

そうしたものはすべて「鏡」なのである。そして、杉本ブログそれ自体も「鏡」である。そのような「鏡」に人が自分を映し出し、その像に熱中すればするほど、その人間は、確かなリアリティを失って、「鏡」の世界に自分を吸い取られて行くだけである。

そして、ついに最後には「本体」が「鏡」に吸収されて消失し、フィクションとなり、神話となり、その代わりに、ただ歪んだ「コピー」だけが、リアリティであるかのように残ることのである。

結論から言えば、グノーシス主義の本質とは、もともとオリジナルとしての「本体」が存在しない、無数のフィクションの物語である。

次回以降に論ずるが、グノーシス主義が「父なる神」をフィクションとしていることは、つまるところ、グノーシス主義が「父なる神」に創造された人類も、結局は「フィクションである」と主張しているに等しい。

ペンテコステ・カリスマ運動も、その本質は、グノーシス主義であり、こうして、人類の自己の本質がもともと「フィクション」であるという教えを信じた人々の内側には、確かな自己がなくなる。

彼らは、心の内に空虚な深淵を抱え、人々の眼差しという「鏡」に映る不正確な映像を手がかりにする以外には、自己存在を証明するための手立てが何もなくなり、それゆえ、「鏡」を通して、自分の見たくない欠点を暴露されることを病的なまでに恐れ、気に入らない「鏡」を根こそぎ破壊しようとの行為に出たりするのである。

だが、もし「本体」がリアリティとして存在しなければ、「鏡」によってどんな権利侵害を受けたと感じても、それを権利侵害だと主張する根拠もまたないのである。

彼らに出来ることは、ただ一つ、一つの「鏡」に映った気に入らない自己像を否定するために、別な「鏡」を持って来て、これが自分だと宣言することでしかないのだが、もともとその鏡は、どれもこれも不正確なもので、そこに映った像も乱れ、影のようなものでしかないため、その人物が「鏡」を基にして行う証言は、あらゆる面で辻褄の合わない、嘘で埋め尽くされた、整合性の取れないものとなって行く。

結局、自分がないからこそ、そのようなデタラメなつぎはぎの証言が生まれるのであって、そのような人間には、デタラメな証言を行う以外に、自分が何者であるかを客観的に証明する手段もない。そのため、そのデタラメな証言のゆえに、その人間が何者であり、何を言いたかったのかは、結局、最後まで誰にも分からないまま、その人間そのものが不明な塊となって消え去って終わる。

こうして、確固たる自己を持たない人間の内部には、自己の代わりに、ただ虚無の深淵が横たわっているだけなので、そのブラックホールのような虚無性の隙をついて、そこには、何でもありとばかりに、あらゆる種類のゴミが投棄され、贋作やコピーなどのありとあらゆる偽の創作物語が詰め込まれ、虚偽によって埋め尽くされて行くのである。

それが、グノーシス主義の本質なのである。グノーシス主義は、人間の自己存在をフィクションとして消し去るものであり、そんな教えを信じている限り、その人物には、自分が失われて、デタラメな創作物語によって自分がどんどん書き換えられて行くことに抵抗する術もない。
 
繰り返すが、どんなにそれを「デタラメな創作物語」だと声高に非難しようとしても、もともとオリジナルが存在しない以上、コピーも存在せず、人権侵害も存在せず、名誉毀損もないのである。虚無の深淵が仮にサタン呼ばわりされたところで、誰もそれを虚無の深淵に対する権利侵害であるとして虚無の深淵の代理人となってこれを是正できないのと同様である。

それに引き換え、「わたしはある」という方を信じ、聖書のまことの父なる神を知っているクリスチャンは、グノーシス主義者のように虚無の深淵を信じているわけではなく、キリストの復活の命にあって再生された確かな自己を持ち、神に対して生きる人々であるから、こうして再生されたクリスチャンの主張も、確固たるリアリティであり、誰かが勝手に書き換えたりすることはできず、そのようなことを試みた人間は、当然ながら、人権侵害のかどで罰せられる。

武蔵野簡裁の付近は、横浜のように海風が吹くこともなく、起伏もない平地の開けた都会で、桜が咲き、人々は穏やかに行き交い、街はのどかで平和であった。確かに、ここに住む住民にとっては、この都会に生きていることが、ステータスに感じられているのかも知れない。民事調停では、相手方と顔を合わせることはないため、杉本徳久なる人物の印象は分からなかったが、四捨五入すれば50歳にもなろうという男に会いたいという願いは筆者には全くない。一体どういう理由で、こんなにも平和そうに見える街から、こんなにも常軌を逸した人物が生まれて来るのか、ただただ理解に苦しみ、首をかしげるばかりである。

改めて杉本のような人物を生んだペンテコステ・カリスマ運動とグノーシス主義を心の底から非難しないわけには行かないと感じるのみである。

・ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神とする東洋的異教の母性崇拝(「イゼベルの霊」)に支配される運動である。
 
さて、これまでにも当ブログでは、ペンテコステ運動とは、イゼベルの霊(一言で言えば、異教的母性崇拝の思想)に導かれる運動である、ということを再三に渡り、述べて来た。はっきり言えば、ペンテコステ運動とは、異教に由来する非キリスト教的な思想に基づく「神の家の乗っ取り運動」なのである。
  
ペンテコステ運動にははっきりした教義体系が存在せず、教義体系を明らかにする文献も少なく、ただ「聖霊のバプテスマ」を受けて「異言」を語るなどの超常現象ばかりを重んじるため、自然と、この運動の問題について語られる場合にも、現象面の分析で終わりがちであり、教義面からこの運動の根本的な危険性を洗い出す議論は少ない。

とはいえ、それでもペンテコステ運動の教義の基礎を明らかにしていると見られる文献はいくつか存在し、それを手がかりにこの運動の異常性を教義面から論証することは可能である。

そうした文献の一つが、大きく見れば、ペンテコステ運動の中にひとくくりにできるカリスマ運動の指導者である手束正昭氏の言説である。当ブログではすでに幾度も述べて来たように、手束氏は、すべての物事にはっきりとした区別をつけて、何が善であり、何が悪であるかを峻別する聖書の二元論を非難して、キリスト教は、このようにすべてに区別をもうけようとする父性原理ばかりが強すぎて、すべてを慈愛によって包容する母性原理が足りず、それゆえ、バランスが取れていないため、キリスト教は精神異常や狂気を生むなどと主張する。

ペンテコステ・カリスマ運動にもし「教義」というものがあるとすれば、それはこのように伝統的なキリスト教にあたかも「重大な欠陥」が存在しており、それゆえ、キリスト教が「人を精神異常に追い込む狂気の根源」となっているかのように主張し、それを口実に、あたかも聖書の御言葉だけでは不十分であるかのように、キリスト教の中に聖書にはない「何か」を巧みに持ち込み、つけ加えることにあると言えよう。

彼らがキリスト教につけ加えようとしているその「何か」とは、聖書の二元論という「父性原理」を骨抜きにするための「母性原理」である。
 
彼らの理屈によると、キリスト教では、何が善で何が悪であるかを厳しく区別する父性原理の二分性が人間を苦しめ、狂気に追いやっているという。そして、「キリスト教は、あまりにも厳しすぎる区別をもうけたがために、人間を狂気や精神異常に追いやる宗教となった。そこで、そのようなことの起きない、人にやさしいキリスト教を新たに作り出さねばならない」と主張し、そのために、キリスト教は父性原理の二元論を廃し、物事に区別をつけずにすべてを慈愛によって優しく包容する、母のような寛容さを補うべきである、と言うのである。

こうして、ペンテコステ・カリスマ運動は、まずはキリスト教を「ディスカウント」し、もともと聖書にはない「何か」を、あたかも聖書の教理に補われるべき要素であるかのように主張して、「慈愛」や「慈悲」などの美しい言葉を口実に、キリスト教を骨抜きにするような、すべてを曖昧にして包容する「母性的要素」を、キリスト教につけ加えよと要求するのである。
 
だが、当ブログの読者であれば、このような形でキリスト教に「母性原理」をつけ加えると、どういう恐るべき結果がもたらされるかは、あえて説明しなくとも了解しているものと思う。

それでも、キリスト教の「父性原理」に、キリスト教にはない「母性原理」をつけ加えようとすれば、何が起きるのか、それを「家庭内紛争」にたとえながら、あえて説明したい。

家庭の中で、父は、一般的に、規則や権威を象徴する存在である。そこで、ある家で、父親が子供に向かって「宿題はかならず毎日夜の8時までには終えて、夜9時には就寝しなさい」というルールを定め、子供がルールを破った場合には、罰を受けなければならないと定めたとしよう。

しかし、子供がルールを破り、父親が叱責と罰を加えようとする度に、母親が飛んで来て、「お父さん、あなたの決めたルールはあまりにも厳しすぎて理不尽で、それを理由に子供を罰するなんて、残酷すぎます。そんなにまでも、すべてをはっきりさせる必要が本当にあるんでしょうか。あなたはいつも小さなことで目くじら立てては、子供を叱っていますが、あなたのやり方では、子供は委縮してしまってのびのび成長できません。教育上有害です。」などと言って、毎回、子供をかばったら、その子はどのように成長するだろうか。

母親は子供をかばってさらに言う、「お父さん、今日、この子は宿題をまだ終えていないのに、あなたは9時だからもう寝なさいと言いますね。でも、それじゃあ、この子は明日、学校で、宿題を忘れたと言って、友達の前で、自分だけ恥をかかされ、先生から怒られなければいけなくなるんですよ。あなたはこの子が友達の前で恥ずかしい思いをして、それが原因でいじめられるようになっても、何とも思わないんですか? あなたはそうやって、いつも規則を守ることの方が、人間の感情よりも優先されるべきだと言いますが、あなたは私から見れば、規則を口実にして、ただ子供に対して威張り散らして、鬱憤晴らしをしたいだけなんです。そんな動機で、可愛い我が子を危険にさらすことは私には許せません。この子の宿題は私が代わりにやってあげますから、あなたは何も言わないで下さい。私はあなたの定めたルールにも、罰をもうけることにも反対です。」

母親がこんな風に主張すれば、家庭の秩序は成り立たなくなる。おそらく、子供は父の権威を侮るようになり、父を平然と見下げるだけでなく、父は自分の幸福を願っておらず、いたずらに権威を振りかざして自分を威圧し、罰しようとしているだけなのだと考えて、父を憎むようにさえなるだろう。そして、自分が恥をかかず、心傷つけられず、罰せられないで済むように、自分に都合の良いことを言ってくれる母の言うことだけを聞くようになり、母にべったりと甘え、そのうち、自分はどんな過ちを犯しても、決して罰を受けることなどないと高をくくるようになり、一言で言えば、途方もなく甘やかされて、駄目になってしまうに違いない。

このように、ルールを定め、それによって物事の是非をはっきりさせて、ルールを破ったものには罰をもうけるという、父性原理に基づく二元論的な考え方と、何もかも白黒つけずに「母のような慈愛によって」包含しようとする母性原理に基づく考え方は、決して相容れない。このことからも、キリスト教に「父性原理」と「母性原理」を同居させようとする試みは、決してうまくいくことがないと言える。そのようなことをすれば、キリスト教は骨抜きにされ、崩壊するだけである。
 
にも関わらず、ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教の「父性原理」が悪の根源であるかのように主張して、これを否定して、そこに「母性的な要素」をつけ加えることで、キリスト教の「残酷さ」や「偏狭さ」を改革できると言うのである。一見、その言い分は、「愛」や「憐れみ」にカモフラージュされているため、人の耳には心地よく響くであろうが、その教えを受ければ、信者はもはやキリスト教徒ではなくなり、異端の教えによってすっかり自己を肥大化させられた、およそ信者と呼べないばかりか人としても駄目な人間になってしまうだけである。
 
一言で言えば、ペンテコステ・カリスマ運動は、それ自体が、キリスト教に偽装しつつも、キリスト教を骨抜きにして崩壊させるために登場して来た異端の教えなのである。そして、この運動が主張する「母性原理」なるものの起源も、東洋的な非キリスト教的異教にある。

これまで確認して来たように、ペンテコステ・カリスマ運動がキリスト教に足りないと言って導入しようと試みている「母性的要素」とは、もとを辿れば、非キリスト教・異教的な宗教哲学から受け継がれた母性崇拝に由来する。

多くのオリエント・東洋宗教哲学においては、キリスト教のように、「父なる神」が万物を生み出したとは考えられておらず、万物の生命の源として、女性原理の象徴である「神秘なる母性」が讃えられる。(この「母性原理」は、様々な宗教神話において「女神」の形を取って現れたり、あるいは、必ずしも人格を持たない万物の生命の源として「神秘なる母性」、「神秘なる混沌」などと呼ばれる。老子はこれを「玄牝」と呼んだ。)

早い話が、ペンテコステ・カリスマ運動とは、 このように異教に由来する原則を、公然とキリスト教の中に持ち込もうと試みているだけであって、この運動は、西洋的な伝統的なキリスト教と、東洋的・オリエント的な母性崇拝を混ぜ合わせて出来上がった混合宗教なのである。
 
このことを理解すれば、我々は、なぜペンテコステ運動の只中から生まれて来たカルト被害者救済活動のような運動に影響を受けた人々が、クリスチャンに向かってしきりに「精神異常者」のレッテルを貼って中傷しようとしているのかを理解できるだろう。

彼らは、たとえば、完全に健康な筆者に向かっても、何の根拠もなく、「立ち直り不可能な人格障害に陥っている」かのような決めつけを長年に渡って行って筆者を中傷しているのだが、こうして彼らがクリスチャンに「精神異常」というレッテルを貼りたがる背景には、そもそもペンテコステ・カリスマ運動が、「伝統的な西洋的キリスト教は、人間を狂気に陥らせる宗教だ」とみなして非難していることが挙げられる。

つまり、この運動が、聖書に基づく純粋なキリスト教そのものにあたかも重大な欠陥があって、それがために「父性原理ばかりが強すぎるキリスト教が、人を狂気に陥れている」かのように主張しているからこそ、その運動の支持者たちは、キリスト教だけでなく、聖書に忠実に従うクリスチャンたちにも、「狂気の宗教」を信じる「精神異常」のカルト信者といったレッテルを貼り、さかんにディスカウントしているわけなのである。

ペンテコステ・カリスマ運動は、あたかもキリスト教の一派のように、プロテスタントの中で座を占めているが、以上のようにキリスト教をディスカウントして聖書にはない新たな要素をつけ加えるよう主張している人々が、クリスチャンであろうはずなく、この運動は、ただキリスト教に偽装して、キリスト教を内側から骨抜きにして破壊するために登場して来た、根本的に異端の教えなのである。

彼らは、(彼らに言わせれば)「狂気を生み出す根源」でしかないキリスト教の父性原理(二元論、御言葉による切り分け)を攻撃して否定し、御言葉に忠実に従うクリスチャンに狂気のレッテルを貼って、真にクリスチャンを駆逐したいがためにこそ、日夜、以上のように根拠もない印象操作や人格攻撃にいそしんでいるだけなのである。そのような異常な一群を生み出すペンテコステ・カリスマ運動が、聖書を土台にしていないことは明々白々である。

しかし、終末においては、このようにキリスト教の装いをした忌むべき混合宗教が、世界規模で登場することになると予告されている。それが聖書の黙示録に登場する「大淫婦バビロン」であり、彼女が「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも、バビロンとは、キリスト教と、それとは異質な異教的な要素の混合物であることが分かる。

その「混ぜ物」こそ、東洋・オリエント的異教に由来する母性崇拝の原理であって、ひいては、人間を神とする反逆の思想なのである。


・ペンテコステ・カリスマ運動は、「母」の罪を擁護し、私生児として生まれた「父なし子」を「神の家の後継者」であるかのように詐称するグノーシス主義神話に基づく「神の家の乗っ取り運動」である
 
さて、ここで、非キリスト教的異教が「母性崇拝」を掲げていることは、決して意味のないことではないと断っておきたい。

聖書によれば、万物を生み出したのは「父なる神」であって、母性原理は生命の源ではない。

聖書では、キリストを生んだ処女マリアを例にとっても、彼女はあくまで聖霊によってみごもったのであり、彼女の「女性原理」がキリストを生んだわけではない。イサクを産んだサラも同様で、父なる神の「約束」があって初めてイサクが生まれた。黙示録には、龍に迫害されながら、男の子を生む女が登場するが、この女も、諸説あるとはいえ、母なるエルサレムや、エクレシアを象徴していると考えられており、エクレシアがキリストに属する御霊の実を生むにあたっても、やはり単独で子供を生めるわけでなく、必ず、そこには御霊による働き、御言葉に基づく約束がある。

聖書において、これらの女たちが幾度も「夫のない女」「一人残された女」「産まず女」などと、蔑称のような言葉を用いて、霊的に独身・未婚であると強調されているのは、彼女たちには、キリストを抜きにして自分の力では決してまことの生命を生み出す力がないことをよく表していると言える。

つまり、聖書においては、生命を生み出す根源は、常に神の側にあり、被造物それ自体には、キリストとの結合なくして、自力でキリストに属する産物を生むことは決してできないのである。

ところが、カリスマ運動の指導者の手束正昭氏は、すでに見て来たように、聖霊を「母なる霊」と定義することによって、「父なる神」と「母なる聖霊」と「子」の「三位一体」という、聖書には全く記されていない異常な教理を主張し、あたかも、キリストが「父なる神」という父性原理の象徴と、「母なる聖霊」という母性原理の象徴との結合の結果として生まれたかのようにみなし、「母なる霊」という呼び名で、異教に由来する母性崇拝の原理をキリスト教に偽装して持ち込もうとする。

このような異端的な教説では、まだ「母なる霊」が単独で子を産み出したまでは言い切られていないが、聖書にはない「母性原理(母なる霊)」がつけ加えられることによって、神の独り子であるキリストが、あたかも「母なる霊」によって生み出されたかのように主張されている。

こうして、手束氏の考える「キリスト教」には、東洋・オリエント的母性崇拝の思想が公然と持ち込まれ、それによって聖書の教理までがすっかり変質させられているのである。

そして、これまでにも書いて来たように、このように生命を生み出す根源が、あたかも「母性原理」にあるかのように唱える主張は、異教に由来するだけでなく、もとを辿れば、グノーシス主義に起源がある。

グノーシス主義には、すでに述べたように、共通して、女性人格が単独で生命を生み出すという神話的プロットがある。そこで、万物の生命の根源があたかも女性原理にあるかのように唱える異教的な思想は、大きく見れば、すべて根源的にグノーシス主義を土台にして成り立っていると言える。

このように、異教的な思想が、「父性原理」よりも「母性原理」を高く掲げるのは、神と被造物との主従関係の逆転するためであり、結論から言えば、異端とは、唯物論的な被造物崇拝の教えなのである。
 
聖書によれば、神は人類をご自分に似せて、ご自分の助け手として創造された。そこで、人類は神に対して霊的に女性の立場にある。また、聖書においては、男が先に創造され、男をもとに女が造られている。

だが、すべての異端的思想は、この正当な秩序を覆し、神によって創造された被造物に過ぎない人類(霊的に女性)を、あたかも創造主であるかのように主張し、神以上に高く掲げる。

東洋的な異教が「女性原理」を「父性原理」よりも高く掲げようとするのは、その背景に、「本来は神に似せて、神から生み出された被造物に過ぎない人類を、創造主である神以上に高く掲げたい」とする欲望があるためである。

フェミニズム神学(およそ異端なので本当は神学という名に値しないが)は、「女が男から造られた、男よりも弱い被造物だという聖書の記述は、女を男の付属物に貶める男尊女卑の考えであって、誤りである」などと主張して、聖書の記述を否定する。

母性原理を高く掲げる異教的な思想もこれと同じ理屈を用いて、「人類が神によって、神に似せて創造された被造物だという考え方は、人類を神よりも劣ったものとみなしている点で、人類に対する許しがたい差別・蔑視であって、事実ではない。我々はキリスト教の神による人類へのこのような蔑視を決して認められない」と主張して、神と人類との関係を逆転しようとしているのである。

このように、東洋的な異教の思想において誉めたたえられている「女性原理」とは、文字通りの女性を指すのではなく、被造物全体、もっと言えば、神の被造物としての人類全体を象徴しているのだと言える。そして、ペンテコステ・カリスマ運動のような思想が、キリスト教の「父性原理」の中に「母性原理」を持ち込むことで、両者を競合させ、最終的には「母性原理」によって「父性原理」を骨抜きにし、駆逐して行こうとしていることにも、創造主と被造物との関係を逆転させようという意図が込められている。

そこで言われる「父性原理」とは、父なる神を指している一方、「母性原理」は人類全体を指しており、結局、ペンテコステ・カリスマ運動も、神によって創造された被造物に過ぎない人類を、神と対等か、神以上に高く掲げ、人類を神と同一視して、聖書の父なる神に反逆して、創造主と被造物の関係を逆転させようとしている教えなのである。
 
このように、東洋思想が「女性原理こそ万物の生命の源」であると主張していることには、結局、「我々人類は、誰の手にもよらずに単独で生まれた独立した存在であって、誰の被造物でもない。そして、我々自身が、神のように、単独で生命を生み出す力を持つ、神に等しい存在なのだ。」という主張が込められているのである。

そして、このような東洋的な母性崇拝をキリスト教に混ぜ込んで出来上がったペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた人々は、その教えがもたらす当然の結果として、聖書が教える「人類は神によって造られた被造物に過ぎず、創造主である神に服する義務がある」という基本原則に反抗して、被造物である自分自身を「神」として最高の地位につけようと高く掲げるようになり、自画自賛に溺れて行くのだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教にそのような悪しき結果をもたらす致命的な毒素としての「女性原理」を受け入れよと迫っているのである。

(ちなみに、筆者はペンテコステ・カリスマ運動のみならず、「エクレシア崇拝」に陥ることも、以上と同様の反聖書的な考え方であるとみなしている。クリスチャンが自分たちの集会を絶対化したり、賛美するようになれば、それ自体が偶像崇拝に該当する。エクレシアであろうと、何であろうと、被造物に過ぎないものを、キリスト以上に高く掲げることは、すべて「女性原理の崇拝」と同じなのである。)

さて、これまで、グノーシス主義には「女が単独で子を産む」という聖書に反する考え方があると記した。グノーシス主義には神話はないが、神話的プロットと呼んでも差し支えないような共通の筋書きがあり、大きくまとめると、それは以下のようになる。

➀ 万物を生み出す「まことの父(真の至高者)」の能力を見て、「女性人格」がそれを嫉み、自分もその能力が欲しいと願う
② その結果、「女性人格」が規則を破って、「男性人格」の参与なく、単独で子を産む
③ 「女性人格」はその違反の結果として天界から転落しかかり、違反の結果生まれた「子」も転落して醜く愚かな「悪神」となって下界を支配する
④ しかし、「女性人格」が単独で生んだ「子」(悪神)の子孫である「人類」は、悪神よりも賢く、知識の啓示を受けて、自分には「まことの父(真の至高者)」に由来する「神聖な霊の欠片」が受け継がれており、自分の本当の父は「悪神」ではなく、「まことの父」なのだと気づく。
⑤ 人類は、こうして自分が「まことの父」の子孫であると自ら名乗り出ることによって、「母の過ち」を修正し、「母子」ともに天界へ復帰する。

このような物語では、第一に、女性人格が単独で子を生むという違反を犯すことによって、万物の生命を生み出す力は、誰にあるのか、「父なる神」にあるのか、それとも、「母なる神」にあるのかが全く分からないという混乱が持ち上がる。

そして、さらに、人類は、女性人格が単独で生んだ子の子孫であるとされることによって、人類は事実上、父がいないも同然の存在(父を喪失した存在)となる。

だが、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生んだということは、より深い文脈では、グノーシス主義が、「人類とは、聖書の神によって創造された被造物などでは決してなく、誰にも創造されることなく、自力で生まれた独立する存在なのだ」と言わんとしていることを意味する。

グノーシス主義は、旧約聖書における神を「悪神」とみなし、これをヤルダバオトとか、デーミウルゴスなどと呼び、無知で愚かな神として徹底的に侮蔑する。グノーシス主義のプロットによれば、この「悪神」こそ、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生むという違反に及んだ結果生まれた、醜く、愚かな、出来そこないの「神」である。

この「悪神」は、出来そこないの醜い産物であるにも関わらず、身の程知らずな思い上がりに陥って、自分こそ至高の神であり、他の神はないと思い込み、「わたしの他に神はいない」「わたしは妬む神である」などと豪語しながら、「神」の称号を不当に独り占めしていると、グノーシス主義は言う。そして、悪神であるがゆえに、彼の創造した被造物はすべて醜く不完全で、それゆえ、地上は不幸に満ちていると言うわけである。

グノーシス主義はこのようなフィクションを作り出すことにより、聖書が「神は唯一である」と述べていることを嘲笑し、聖書の神が「妬む神」であって、決して神という称号を他に明け渡すことがないという事実を徹底的に否定・侮蔑・嘲笑しながら、聖書における神を、醜く愚かな「悪神」にたとえて冒涜する一方、その悪神の子孫であるはずの人類を、悪神よりも賢く高貴な存在として描き、人類こそまことの「神」の子孫であるから、悪神を否定的に超えて天界に復帰できると主張するのである。

だが、このようなものは随分虫の良い身勝手な話であって、額面通りに受けとる方がどうかしていると言えよう。

グノーシス主義の以上のような神話的プロットでは、いくつもの論理破綻と言っても良い規則破りが犯されている。

まず第一に、グノーシス主義においては、あらゆる概念が「対」としてとられ、単独では完全でないとされているにも関わらず、女性人格であるソフィアが、対となるべき男性人格の了承なくして、単独で子を産みたいと願い、実際にその行為に及ぶ時点で、「対」の原則が破壊されている。

次に、その「母」である女性人格は、単独で子を産むという「違反行為」を犯したわけだから、普通に考えれば、その結果、生まれた「子」は、誰を「父」としているのか分からず、それを立証する手立てもないはずである。要するに、その「子」は私生児である。

グノーシス主義の一部の物語によれば、人類は、女性人格が違反を犯して単独で生んだ悪神から生まれた子孫であるだけでなく、悪神が自分を生んだ母を知らずに凌辱して生まれたのが人類だという。単なる「私生児」であるだけでなく、あまりにも悲劇的な生い立ちである。

にも関わらず、グノーシス主義においては、そのような「悪神」によって創造された素性も知れない「人類」(ソフィアが違反の結果生んだ愚かで醜い「悪神」の子孫)が、どういうわけか、悪神よりも上位の神の似像として造られ、その息を吹き込まれているため、悪神を超える存在であり、「神聖な知識の啓示」を受けて、自分は天界にいる「真の至高者(真の父)」のDNA(「神聖なる霊の欠片」)を受け継ぐ神聖なる存在であると気づくことによって、「真の父」の後継者であると自ら名乗り出て、「母の過ち」を修正して、「母子」ともに天界に復帰するのだというのである。

このような話を聞いていると、この「母子」はどこまでも得体の知れない存在だと思わずにいられない。

なぜなら、グノーシス主義が、「人類」は「真の至高者」の子孫であると主張していることには、いかなる客観的な根拠も存在せず、その神話的なプロットの中でさえ、「真の至高者」の側からの「子」への承認や賛同(認知)はなく、「人類」が自分は「真の至高者」の子孫であると主張しているのは、完全に自称の域を出ない、思い込みのような話でしかなく、極言するならば、詐称と呼んで差し支えないほどに疑惑に満ちた主張だと言えるからなのである。
  
そして、人類が本当に「真の至高者」の子孫だというならば、「真の至高者」がそのプロットに登場して、自分の子として人類を認知しないのは一体、なぜなのかという疑問が生まれよう。しかし、グノーシス主義における「真の至高者」とは、そもそもそれ自体が、あたかも人格を持たない虚無の深遠、混沌のような概念であるため、この神話は初めから「真の至高者」の存在や意志など全く無視して出来上がっていると言えるのである。

こうして、グノーシス主義の神話的プロットでは、どこまでも「父」がないがしろにされ、「母」だけが重んじられる一方的なストーリーが展開されるが、こうして、「父」からの承認や応答を一切抜きにして、「違反」を犯した「母」と、「知識の啓示」を受けたと自称する「子」だけが、何一つ客観的な証拠のない、思い込みのような主張により、自分たちは「まことの父」の正当な子孫であるから、神の家に復帰させよと主張して、「母の過ち」を正当化し、母子ともに名誉回復して幸せになろうと目指す、というのが最終目的なのだから、こんな話はあまりにも眉唾ものと思われるのである。

一言で言えば、この話は、家の相続権を巡る争いであるが、一目見ても、これほど素性の分からない「母子」に本当に「真の至高者」の子孫として名乗り出る資格があるのかという疑いが生じるのは当然である。
 
さらに、このような出生の汚点を抱えて生まれた「子」としての人類は随分、不幸な存在である。まず、「母」が極めて身勝手な存在であり、「母」は自分の過ちによって、不幸な出生の「子」を誕生させた上、自分の名誉を挽回するために、「子」を生涯、自分の欲望の道具として束縛してしまう。「子」は、「母」をかばって自分のルーツを正当化し、出生の汚点を取り除くためには、「母の過ち」を修正するために生きるしかなく、証拠があろうとなかろうと、自分が「真の至高者」の子孫であると名乗り出るしか手立てがないという状況に置かれている。この「母子」は不幸な運命共同体であって、こういう状況に置かれている限り、「子」には「母」から自立できる見込みは全くない。

この物語では、「母」の過ちによって、すべてが狂わされたにも関わらず、その過ちがとがめられることもなく、罰せられることもなく、その後、屁理屈のような主張が延々と積み連ねられることによって、「母の過ち」修正して正当化することが最終目的であるとされ、そのために、人類が存在するとされ、連綿と不幸が生み出されているのである。

この物語だけを眺めても、本当の「犯人」は決してグノーシス主義が徹底的に侮蔑する「悪神」ではないだろうと思われて当然である。なぜなら、この「悪神」も、ソフィアの過失のために誕生した不幸な産物に過ぎないためである。にも関わらず、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、その「悪神」だけが悪者とされ、ソフィアの過ちが咎められず、人類の使命が「母の過ちを修正する」ことにあるとされているがゆえに、この物語はどこまで行っても不当な主張に満ち溢れた荒唐無稽な内容なのである。
 
このように得体の知れない「神話」が、キリスト教に偽装して、キリスト教の中に公然と入り込んで来ると、当然ながら、真にキリストによって生まれ、神の国の正統な後継者たる神の子供たちが、迫害される結果になるのは避けられない。信仰もなく、キリストによって生まれた事実もなく、場合によっては、聖書の父なる神をさえ信じていない、全く素性の明らかでない人々が、公然と神の家(教会)の後継者を詐称して、神の子供たちであるクリスチャンたちを脅かし、駆逐するようになるのは避けられない。

「父」を裏切ってひそかに誰の子とも知れない子を産んだ「母」と、誰を「父」としているのかも分からない「子」がタグを組んで、自分たちこそ神の正当な子孫であって、神の家の正当な後継者であるかのように主張して、天界に復帰を企てるというグノーシス主義的な「神話」が、キリスト教の中に入り込むと、結局、真に聖書に従うクリスチャンたちを迫害し、教会から追い出して、神の家を乗っ取ろうとする運動が生まれるのは当然である。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教に「母性原理をつけ加えよ」と主張することによって、以上のような悪しき目的を果たし、正当な資格がないにも関わらず、不当に神の家を乗っ取ろうと目論んでいるのだと言える。この運動は、本来的にキリスト教に属さない、聖書の神に属さないはずのものを、あたかも正当なキリスト教であるかのように主張して、神の家を乗っ取り、堕落させるために生み出された運動なのである。

だからこそ、カルト被害者救済活動などという恐るべき忌むべき運動も、ペンテコステ・カリスマ運動の只中から生まれて来ているのである。

カルト被害者救済活動が目的としているのも、結局は、「母の過ちを修正すること」、すなわち、人類の罪を、人類が自力で修正することなのである。

この運動は、何らかの原因があって、教会生活につまずき、信仰生活につまずき、聖書の神への信仰を捨て、教会やクリスチャンに恨みを持った人々が、信仰がないため、本来は、教会の一員となる資格もないにも関わらず、自分たちの被害者意識を口実にして、教会を責め、クリスチャンに罪悪感を持たせることにより、自分たちを教会の一員として受け入れよと迫っているのである。

教会はキリストの十字架の贖いを通して罪赦され、贖われた人々のものであるはずなので、信仰のない人々には無縁であるはずだが、この人々は、贖われていないか、贖いを自ら否定しているのに、被害者意識を口実に、自分たちが神の家に入り込む資格があると主張して、自分たちを神の子として「認知」するよう、クリスチャンに迫っているのであるから、このようなものは、神の家の乗っ取り運動である。

このように神の家の正当な相続権を持たない「私生児」が、信仰もないのに、教会を占拠し、正当な相続権を持つ神の子供たちであるクリスチャンを脅かし、迫害し、負い出しているのである。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動の教義の異端性を考えるなら、この異端的運動の只中から、こうした極めて異常な歪んだ「救済運動」が生まれて来たのも、まさに必然と言える。

さて、ここまでは、これまでの記事においても幾度か述べて来た内容と重なるが、ここから先は、「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション」(大田俊寛著、春秋社、2009年)という、このテーマを掘り下げるに当たり、議論の材料を与えてくれそうな極めて興味深い文献なども参考にしながら、ペンテコステ運動のグノーシス主義的起源をめぐる議論の中核にさらに迫っていきたい。

だが、結論から述べておけば、「父性原理を重んじ、母性原理をないがしろにする伝統的なキリスト教の二元論が、人間を狂気に追い込む原因となっている」などというペンテコステ・カリスマ運動の主張は、完全な偽りであって、笑止千万な荒唐無稽である。

むしろ、真実は、それとは全く逆であり、以上のような論理破綻したグノーシス主義的「神話」こそ、人間の精神を著しく害し、精神異常に追い込む狂気の根源なのである。

すでに述べたように、母性崇拝(女性原理の崇拝)の思想とは、被造物である人類が、あたかも創造主であって、自分自身が神であるかのように唱え、まことの神に反逆する反聖書的な思想のことなのであるが、グノーシス主義はまさにそのような聖書に対するすべての反逆的思想の土台となる思想である。

そして、グノーシス主義の「神話」とは、罪を犯した者が決して己が罪を認めず、過ちの責任も取らずに、本来、罰せられて然るべきにも関わらず、罰を免れて自己正当化をはかり、堕落したルーツしか持たない者が、そのルーツをごまかして、自分を神の子であると詐称して、自己正当化をはかるために作り出された終わりなき嘘であるため、この「神話」では、一つの嘘をごまかすために、次の嘘が作り出され、そうして人類が自分のルーツをごまかすために、果てしなく嘘で塗り固めた「創作神話」が述べられ続けているのである。

そのような荒唐無稽な神話に没入して行った挙句、その人の精神の正常性が保たれることはまずない。

繰り返すが、聖書の二元論が人を狂気に追い込むのではなく、グノーシス主義的荒唐無稽な神話が、人を狂気に追い込むのである。だからこそ、この異端の影響を受けたペンテコステ・カリスマ運動からは、至る所で、眉をひそめるような混乱が引き起こされ、また、カルト被害者救済活動のように、信仰を持たない人間から見ても、全く異常であるとしか言えない運動ばかりが登場し続けているのである。

<続く>

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

以上の御言葉ほど、カルト被害者救済活動の支持者らの悪しき心の本性にぴったりと当てはまるものはきっと他にないだろう。

カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師を支持する杉本徳久のような人々は、これまでプロテスタントの諸教会や牧師やクリスチャンにさんざん言いがかりをつけては、信者らを裁判に引きずり出しては打撃を加えて来た。

しかし、彼らはいざ自分たちが訴えられると、その訴えから全速力で逃走し、自らの社会的信用を完全に失墜させるという醜い逃亡劇を繰り広げている。

以下は、当ブログ執筆者が、村上密および杉本徳久の2名に対し、当ブログが彼らから受けた長年に渡る執拗な嫌がらせ工作に対する民事上の責任を追及するために起こした民事調停の期日呼び出し状であり、裁判所からの正式な召喚状である。

  しかし、すでに述べたように、カルト被害者救済活動の支持者らは、自分たちが行っている悪事が明るみに出されるのを恐れて、光のもとへ出て来て、人前できちんと自分を弁護しようともせず、ただ闇から闇へと逃げ回っている。
   
彼らはこうして闇から闇へと逃走し続けることによって、聖徒らとの和解のチャンスを踏みにじり、自分たちの身にさらなる神の御怒りを招き、厳しい裁きに自分自身をさらしているのである。

筆者は、以上の連中は、出廷の義務がないことを逆手に取り、期日に裁判所にやって来て、きちんとした弁明を行う可能性は極めて低いだろうと予想している。

先の記事でも述べた通り、村上密は、事件を京都に移送しろと身勝手な要求を出し、京都でなければ行くつもりがないと出廷を拒んでいるだけでなく、筆者が送った100頁ほどの申立書に対しても、たった一枚の反駁の答弁書すらも送って来ていない。

筆者の申立書には、当ブログが受けた嫌がらせの経緯が仔細に書かれているため、追って内容を公開する予定であるが、村上はそれに対して、「自分こそ実名で色々書かれて迷惑だ。ここには書ききれない」などと子供じみた返答しかしておらず、こうして具体的な反論がないということは、事実上、筆者の言い分を認めているに等しい。

およそこれまで「被害者の味方」をきどって様々な裁判を戦い通して来た人間の言い分とは思えず、完全に人をなめきった対応であると言えよう。

村上はこうして、自分がこれまで頼みとして来た裁判所からの呼び出しも蹴とばしながら、今やネットの陰に隠れて、コメント投稿欄さえない完全に一方通行のブログで、依然、自分があたかもキリスト教界を取り締まる資格と権限を持つ人間であるかのような(誇大)妄想に基づく恥ずかしい自画自賛の記事を書き連ねている。

村上のそのブログ記事も、昨今は劣化が激しく、まるで引きこもり老人のモノローグ的回顧録や、惰性で書かれた小学生の夏休みの感想文のようになりつつある。

このように、村上密は、反響も得られない自作自演ブログを書き連ねることの方が、裁判所へ出廷して、公の場所できちんと客観的な証拠を提示しながら自分の主張を述べることよりも、はるかに優先されるべき重要課題であるかのように考えているらしいのであるが、こうして自分にとって不都合な事実からはひたすら逃げ続けながら、都合の良い夢想のような見解を並べ、ただ他者を非難するだけのブログに引きこもっている様子を見ると、このようにまで現実感覚を失ったことは、精神の異常さえ疑われてもおかしくないほどの恐るべき思考の退行現象だと言わざるを得ない。

もはやこうなってはカルトを取り締まるどころの話ではないだろう。

村上は、神学校時代に宗教法人法を学び、「その甲斐あって、教会運営の問題を扱う時、教団を越えて取り組むことができるようになった。」などとブログでうそぶいているが、村上がもし宗教法人法の基本的精神をほんのわずかでも理解していれば、諸教会の規則を踏み越えて教会に外から介入することが、いかに宗教法人法になじまない行為であり、憲法上保障された信教の自由の侵害に当たるかは、初歩の初歩として理解していておかしくないはずである。

もちろん、宗教法人法は、世俗的な事柄しか規定しておらず、宗教法人法に限らず、信教の自由に鑑みて、宗教団体の教義について外から介入できる法は存在しない。にも関わらず、村上や杉本が自分の属さない宗教団体の教義が「異端である」とケチをつけて、運営に介入しようとしていることは、それ自体が、信教の自由の否定であり、著しい侵害行為である。

杉本徳久も村上密も、その論理の破綻は明白であり、彼らは一見、法を盾に取って、宗教団体の腐敗の是正を呼びかけているように見えるが、その論をじっくり眺めると、彼らは常に感情論を振りかざしては、「法律が定めている規制以上に厳しい制裁を!」と叫んでいるだけの様子がよく分かる。

たとえば、村上は最新の記事の中で、韓国の摂理の教組が出所したことに触れ、足輪をつけただけでは、宗教団体内での被害を食い止めることができず、「これでは防止にならない。」と言う。

だが、それでは一体何をすれば解決になるのかという問いが生じよう。摂理の教祖を死ぬまで監禁するか、いっそ死刑に処せば、当然、被害はもう発生しないことは明白である。だが、そのようなことが正しい解決方法だと言いたいのであろうか。

村上は、この点に全く答えようとしない。杉本および村上は、常に「被害の防止」を口実にして、法の定めを超えて、もっと厳しい措置をと、法に基づかない制裁を声高に叫ぶ。だが、その一方で、彼らは、なぜ宗教法人法も含め、この世の法は、人間の自由を最大限に尊重し、規制を最小限度に抑えているのか、もっと言えば、なぜ聖書の神が、人間の自由意志を尊重し、罪を犯す自由をも人間に与えられたのか、その意味を全く理解しようとしない。
   
村上密が、他人だけを強制的に裁判に引きずり出しておきながら、自分自身は出廷することから逃げ続けている様子を見ても、村上は、他人には法の定めを超える厳しい制裁を科すことに同意しても、自分自身は法に服するつもりが全くなく、裁きからも逃げ回り、要するに、村上自身は自分だけはいかなる法にも服さなくて良いと考えている様子がよく分かるのである。

村上はこの度、これまでネット上でクリスチャンを貶めるために一致協力して来た杉本徳久をも、弁護することもなく責任を押しつけ、切り捨てようと、「トカゲの尻尾切り」に走っている。

さらに、親分が親分なら子分も子分で、杉本も村上同様に、わざわざ自宅付近の武蔵野簡裁で開かれる期日に出廷するかどうか、期限までに回答もせず、むろん一枚の反駁の答弁書も出さず、ただ逃げ回っている。

読者はこの有様をよくよく見てもらいたい。これが、これまでプロテスタントの諸教会のカルト化を取り締まるなどと豪語しては、諸教会に自ら裁判を起こし、名を売って来たカルト被害者救済活動の支持者らたちの責任のなすりつけ合いと醜態なのである。

これまで正義の味方の仮面をかぶって活動して来た彼らの内心が、どれほど卑怯で、臆病で、利己的で、二重性を帯びているかがよく分かる行動であろう。要するに、彼らは、他人にだけは極めて厳しい基準を振りかざし、他者だけを裁きながら、自分自身は一切、法に服する姿勢が欠落しており、自分自身の犯した行為についてふさわしい裁きを受けるつもりもない様子がよく分かるのである。

もしも彼らがこれまで述べて来たように、筆者の主張が不当であると言いたいならば、公の場所へ出て来て、十分な証拠を用意して反駁すれば良いだけの話であるが、彼らには決してそれはできまい。

なぜなら、筆者が述べていることは、何ら不当な主張ではなく、彼らにはそれに反駁できるだけの証拠がないからだ。第三者の前に双方の言い分を持ち出せば、どちらに信憑性があるかは明らかだ。従って、彼らは、己が罪を認めないためには、どこまでも逃げ回るしか残された道がないのである。

また、杉本と村上は、これまで様々なクリスチャンに訴訟を吹っかけては、裁判資料という形で、クリスチャンの個人情報を強制的に収取し、嘲りの対象として来た。そういう醜悪な過去があるのだから、彼らはこの先、自分たちがクリスチャンの呼び出しに応えて裁判所に赴けば、したたかな反撃を受けると分かっているはずだ。

彼らは、自分たちがこれまで信者らに対して犯して来た悪行の罪深さを分かっていればこそ、信者からの反撃怖さに、決してこれから先、公の世界に出て議論はできないだろうと筆者は予想する。

まさに、悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。と聖書が言う通り、闇へ闇へと逃げて行くしかないのである。

こういうわけで、村上や杉本のようなカルト被害者救済活動の支持者らは、今回の民事調停に出廷しようとすまいと、この先、二度と自分から教会や信者らに対して裁判を起こすことができなくなるだろうと思う。

他人だけは率先して裁判に訴えるが、いざ自分自身が訴えられると、逃げ回り、「市民社会の一員」として、全く責任ある行動ができない幼稚な大人たちが起こす裁判など、あまりにみっともなく情けなく恥ずかしいため、今後、誰一人として見向きもせず、取り合いもしないからである。

かつて杉本は筆者に送りつけたおびただしい数の恫喝書簡の中で、「ヴィオロンさん、いつまでも逃げ回っていないできちんと対処して下さい!」とか「市民社会の一員としてふさわしい行動を!」などと叫んでいたが、自分ができもしないことを他人に要求するなど、おこがましさの極み、呆れるばかりである。

さて、当ブログには、杉本と思しきIPアドレスから最後にアクセスがあったのは、お友達の工作員仲間が懸命に検索結果の操作にいそしんでいた以下の深夜の時間帯であり、それ以後、同IPアドレスからは、当ブログへのアクセスは行われていない様子である。

それを見ても、杉本は筆者が武蔵野へ赴くことを極度に恐れており、自分にこの先、降りかかろうとしている災難を直視する勇気もなく、この事件から逃げられるだけ逃げのびようと決めて、すでに武蔵野からも逃走している可能性さえ思わされる(むろん、事実は神のみぞ知るだが)。


 杉本と思われるIPアドレス
 
<追記>本記事の投稿後、本人登場。
この先、どこへも逃げようはありません。



だが、そのようなことも初めから織り込み済みである。刑事事件になっている以上、わざわざ自己弁明の機会も棒に振って逃げ続ければ、この先、ますます不利で厳しい結果がふりかかることになるだけなのだ。

刑事事件に関してネットに出回っている情報は、とにかく早期の対応、早期の弁護が重要だという弁護士の助言ばかりである。これは早い段階で、本人が真摯な反省の態度を示し、社会人として、信用の置ける責任ある行動を取り、事態を収拾するために必要な努力を払い、自分で自分を弁護しようと懸命に努力することが、たとえ罰を逃れられない場合であっても、罪の軽減のために、どれほど重要な決め手であるかをよく物語っている。

それを親切にも与えられた自己弁護の機会を理由もなく蹴って出廷もせず、証拠を出して反駁もせず、自分の行為に一切の責任を取らず、ブログの削除もせずにただ逃げ回っているだけとあれば、当然、極度に心証が悪くなって行くのは避けられない。

おそらく、杉本は良心的でまともな弁護士に助言を求めなかったものと想像される。何度も言うように、きちんとした弁護士がついていれば、自らを弁護する絶好の機会が与えられているのに、裁判所に赴かないようにといった言語道断な助言を行うことは決してなかったであろう。

杉本はこれまで、筆者が「カルト被害者を冒涜した」とか、当ブログの記事が自分への誹謗中傷であるとか、正当な根拠もないのにさまざまな言いがかりをつけては、筆者を脅し、筆者から杉本を訴えるようにと、身勝手な要求を突きつけ、ソーシャルワーカーであるにも関わらず、自身のブログで、社会的弱者の困窮状態を上から目線であざ笑いつつ、筆者に弁護士を通して連絡を寄越せと、再三、一方的に要求して来た。

だが、そうして人を脅し続けた杉本に、果たして、自分が訴えられた時にきちんと弁護士を雇う経済余裕があるのかどうか、それはこれから杉本自身が証明せねばならない。

目下、杉本は、弁護士からの書面はおろか、自分自身の答弁さえ、裁判所が定めた期限までに送って来ないのだから、眩暈がするような自己矛盾である。どこまで自分の述べた言葉に責任を取ろうとしない卑怯者なのかと呆れるのみだ。

他人には最大限の手間と出費を要求しておきながら、自分自身は、自己を守るためだけにも、ほんのわずかな労をさえ厭うのである。こんなオブローモフ主義者のような不精者のために本気で弁護する人間が現れるとはとてもではないが思えない。

ちなみに、無精者オブローモフは、聖女のようなオリガにも、愛想を尽かされ、立ち直りは不可能との烙印を押され、見限られた。杉本もグレゴ氏とよく似たような将来が待ち受けているのではないか。自分が破滅に瀕しているのに、自分の問題を棚に上げ、他人の問題ばかりに首を突っ込み、他者の立ち直り云々を論じようとすること自体、あまりにおこがましく、僭越で、見当違いである。

杉本は今後の自分の人生の更生のためにこそ、すべての労力を注ぎ、自分の人生に降りかかろうとしている災難を思って泣き叫ぶべきであろう。

何度も言うが、これが、今まで「カルトと勇敢に戦う正義の味方」を演じながら、諸教会に裁判を吹っかけ、あたかも被害者を救うために、不当な濡れ衣を耐え忍んでいるかのように演じて、世間の同情票を乞い続けて来た者たちの惨めで哀れな末路なのである。

あまりにもみっともなく、情けなく、目も当てられない醜悪としか言えず、この醜い逃亡劇と罪の擦り付け合いにより、彼らには、戦う前からすでに敗北と裁きが確定していると言えよう。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

「信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

さて、以上の図は「刑事事件弁護士ナビ」から転載したものであるが、杉本はこの先ニュッサのグレゴリウス氏(それにしても異常なペンネームだ)と同様の行程を辿ることになる。以上の図を参照すると、グレゴリウス氏が不起訴になったのは、勾留後のことであり、この段階で、(Dr.Lukeが書いている内容によると)、グレゴ氏の主治医が心神喪失を主張したことが、不起訴へ向けて決定的影響を与えたと思われる。

お騒がせ者のグレゴ氏のブログは、すでに正式に削除されたようだが、そこには当時、同氏の破綻した生活状態や、仕事に就けない無念、同居人から責め立てられるなどして肩身の狭い思いをしながら暮らしていることの愚痴が延々と綴られていた。Webに残っている情報によると、不起訴になった後でも、以下のような愚痴が書き連ねられていたようである。

「 2011/4/21 4:13

 今だから書くが、私は不起訴になった。

 けれど、このことは精神的、社会的、経済的に、徹底して崩壊させた。未だに人のたくさんいるところはこわくて冷や汗が出る。友人はひとりを残してみな逃げ去った。仕事を失い、得る見込みもない。もはや、ホームレスになるかわからぬ明日をも知れぬ我が身である。けれど、これらの惨憺たる状況のなかで、しみじみと・・・(*続きは本文にて) 」


グレゴ氏の文章は常に大袈裟で誇張された表現に満ちていたため、どこまで本当なのかも判別がつかないが、それでも、この記述は、嘘とは言えないであろう。不起訴になっても、これだけの害が降りかかるのだから、起訴されて有罪になった人物は、一体、どれほどの損失をこうむるのであろうか。

それが予想されればこそ、筆者はこれまで再三、カルト被害者救済活動の支持者の陣営に、和解を呼びかけ、自己弁明の機会や、悔い改めのチャンスを提供して来たのである。

だが、筆者が思うに、おそらく、彼らはそうした機会を決して有益に活かすことなく、ことごとく踏みにじり、悪用することしかできまい。筆者は前々から、神は彼らが情状酌量の余地を徹底的に遠ざけ、最も厳しい結末を選ばせるのではないかと考えている。

なぜなら、彼らはもはや引き返せる橋をとうに超えてしまっているからだ。彼らは神の教会と全クリスチャンのみならず、神ご自身を敵に回しながら逃亡しているのである。

しかし、筆者自身は、彼らがどのように行動するかに関係なく、あくまで光のもとに出て行き、神と人との前で公然と恥じることなく自分の主張を提示し続けるつもりである。そうして、筆者が単なるポーズとしてではなく、事実、最後まで彼らに扉を開き、和解の呼びかけを続けたことが公然と証明されよう。

カルト被害者救済活動の支持者らは、せっかく与えられた猶予や、弁明の機会や、人の憐れみや情けをとことん踏みにじり、その当然の報いとして、最も厳しい結果を身に受けることになるのである。

さて、グレゴ氏は、当時、Dr.Lukeから受けた「呪いの予言」が、自分の人生を破滅させたのだと主張していた。カルト被害者救済活動の支持らは、今になってもまだ、グレゴ氏が破滅したのは、Dr.Lukeのせいであると言って、グレゴ氏を被害者にしたいと考えているのかもしれない。

だが、筆者に言わせれば、それはDr.Lukeのせいにして済まされるような問題ではない。グレゴ氏がDr.Lukeに勝てなかったのは、グレゴ氏が悪魔の言いがかりに対して全く無防備で、御言葉によって装して、毅然と立ち向かう姿勢を全く見せなかったことの当然の結末である。

我々はクリスチャンとして、あらゆる方面から、不当な言いがかりや非難に直面する。それは悪魔や、その手下となった詐欺師連中からやって来る時もあれば、仲の良かったクリスチャンの兄弟姉妹から来る時もあろう。しかし、誰からどのような非難を受けようとも、それに対して、我々は最後まで神の義に堅く立って、御言葉によって武装し、血潮と、信仰の守りの盾によって、悪魔の放つ罪定めの火矢に対抗し、防戦し続けなければならない義務を負う。

我々を弁護して下さるのは神であり、聖霊であり、御言葉が我々の武器であり、信仰が守りの盾であるが、我々自身がキリストの贖いによって義とされたという確信に揺るがされることなく立ち続けないことには、神でさえ我々を弁護できないからだ。

そこで、我々は自分がどんなに不完全であるように思える時にも、信仰によって神の完全な武具を着て、暗闇の勢力を相手取った戦いにおいて、完全な勝利をおさめねばならない。

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

筆者は、杉本が当ブログにしきりに言いがかりをつけては刑事告訴すると恫喝していた頃、幾度となく、以下の聖書の御言葉を引用し、彼の悪しき計画は成就しないと予告した。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、地のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

キリスト者にはこうして力強く絶大な勝利が約束されている。御言葉に従い、神のうちに隠れることさえできれば、無敵といっても良い権限が与えられているのである。

にも関わらず、クリスチャンを名乗っている者が、自分で自分を被害者だと主張して、不当な言い分を反駁もせずに受け入れ、いわれのない罪定めや呪いの言葉を退けもしないならば、そのような臆病者は、悪魔と暗闇の勢力に思う存分弄ばれて、被害の上にも被害が増し加わり、果てしなく人生の重荷が増し加わって行くだけであろう。

このようにして、信者は常に問われている、自分のせいで生じたのではない、自分では負うこともできない罪の負債を、自分で背負おうとして破滅するのか。それとも、キリストがすでにすべての罪を十字架上で負って下さった以上、もはや自分で重荷を負い続けることは必要なく、罪は自分から取り除かれたものであるとみなし、私たちのために日々重荷を担われる方にその荷をお任せするのか。

カルト被害者救済活動の支持者らの中には、自分の抱える「生きづらさ」を何とか克服しようと、「カウンセリング」を通して自分自身を粘土のようにこね回しながら自己改善に取り組んでいる者たちがいる。

だが、そのようにして彼らが自分の重荷を神に委ねようともせず、そうした重荷をもたらした主たる原因である悪魔を糾弾することもせず、むしろ、悪魔が押しつけて来る「生きづらさ」を、まるで自分自身の責任であるかのように抱え込み、蟻地獄の中でもがくようにもがきながら、絶えず、その重さに下へ下へと引っ張られ、それでも自分は他の誰かに比べて少しはましな状態になり進歩はあったなどと気休めを言っている時点で、彼らはすでに悪魔の術策にすっかりはまってしまっていると言えよう。

そういう問題は、もともとすべて人間の手に負えるものではなく、どんなに努力を重ねてみたところで、人が自分で改善などできる問題ではないため、我々はそうした重荷を一刻も早く自分自身の手から切り離して、我々自身の古き自己と共に、キリストの十字架の死に渡すべきなのである。

にも関わらず、自分を被害者だと主張している人々は、悪魔の押しつけて来る不当な重荷を自分のものであるかのように受け入れ、その責任を引き受けているわけであるから、これでは戦う前から敗北を認めているのと同じである。

本当は、その重荷は、クリスチャンには負う義務もないため、敵に背負っていただくのが正しい処置であると、気づかなければならないのである。暗闇の勢力はやり方が汚いため、次々と不当に押しつけられる「生きづらさ」を、クリスチャンが自分のせいで起きたことのように考えて対処しようとしていれば、雪だるま式に負債が膨らんで、気づけば負いきれないほどの巨額のマイナスが生じるだけである。

そこで、クリスチャンは、誰からどんな「被害」を受けようとも、決してそこで生じた「マイナス」を自分のものとして主張してはならない。ただ聖書の御言葉に基づき、その「損害」を毅然と跳ね返し、それが自分には決して害を及ぼす力を持たない虚偽でしかないことを公然と証明すべきなのである。

クリスチャンにはどんな状況にあっても、主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)と宣言できる特権を与えられており、また、そう宣言すべきなのである。

わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:5-6)

そこで、筆者は、今回、村上密・杉本徳久の両者による悪事を世に訴えて責任追及しているとはいえ、彼らが出廷もせず、最後までこの呼び出しを嘲り、踏みにじったとしても、だからと言って、筆者の生活はそんなことではいささかも影響されないと断っておく。

筆者の生活の守り主は神であり、その生活は、悪党に依存しなければやっていけないような弱々しいものではない。神はこれまで常に筆者の生活を守って下さったが、この先も、筆者を守り、かつ、栄えさせて下さる。キリストの御言葉に堅く立つ者の足は、よろめくことなく、遠く遠くまで歩いて行くことができる。

最後につけ加えておきたいが、先の記事にも記したように、Dr.Lukeが2010年8月29日にグレゴリウス氏へ送った以下の和解の呼びかけ「雲さんへの伝言 」は、筆者がDr.Lukeの書いた文章を土台にこれを大幅に加筆修正して作成されたものである。

当時、Dr.Lukeはこの呼びかけを見て「よく見れば唐沢文体でないことはすぐに分かる」と言っていたが、これは合作というよりも、むしろ、筆者の文章と言うべきである。(ちなみに、これ以外の用件で、筆者がゴーストライターのような仕事をしたことはない。)

以下の文章を改めて読めば、グレゴリウス氏の非がどこにあるために彼が自己防衛できなかったのかが明白に分かるだろう。Dr.Lukeがどれほど心理操作に長けており、グレゴ氏と最初から和解する気がなく、ただポーズのためだけに和解を呼びかけ、筆者の文章を利用したのだとしても、それでも、この呼びかけの中には、決してDr.Lukeのせいにして済ませられない決定的に重要な要素が含まれている。

それは、この呼びかけの中で、グレゴ氏が、Dr.Lukeとかつて「主の御名によって」また「血潮によって」和解した事実があったのに、それを自ら反故にしたと記述されていることである。この呼びかけで、Dr.Lukeはグレゴ氏にもう一度、「キリストによって結ばれた兄弟同士として」「二心を廃し」、「キリストの血潮に立って」、和解を呼びかけている。

Dr.Lukeがこの呼びかけを筆者に推敲させたのは、おそらく、Dr.Lukeの心の中に当時から欠けていた真実な信仰と誠心誠意を補うためだったと推測されるが、とにもかくにも、Dr.Lukeはこうして筆者を利用することにより、実際に、御言葉によって自分の主張を武装することに成功したのだ。

その時点で、Dr.Lukeはグレゴ氏に比べて圧倒的に有利に立ったと言えるかも知れない。御言葉に対しては、御言葉をもってしか応戦することはできず、相手の主張を粉砕できるだけの、より強度のある論理が必要となる。その場合は、信仰対信仰の対決になる。

我々が注意しておかねばならないのは、人間的な感情の対立や確執のレベルで、信者同士がどれだけ対立しても、それだけならば、痴話喧嘩のような話でしかなく、誰の人生にも重大な影響は及ぼさないが、その紛争に聖書の御言葉が関わって来ると、その対立は人間的な対立を超えて、霊的次元の対立にまで発展する危険をはらむことである。

クリスチャンを相手取った紛争で、どちらか一方が、聖書の御言葉によって固く武装しているような場合には、よくよく注意しなければならない。なぜなら、その人間の呼びかけにどのように反応・応答するかが、対戦相手の人生を決めてしまいかねないからである。

この点こそ、信仰を持たない者が、クリスチャンを相手取って争う際に、最も気を付けねばならない点なのであるが、不信者には決して理解することができないがゆえに、不信者にとって巨大な罠となる点なのである。

不信者は、みすぼらしく弱々しく疑わしそうに見えるクリスチャンを相手に争う際、まさか自分の目の前にいる人間が、単なる人間ではなく、神が弁護しておられる聖徒なのだとは気づかない。そして、人間的な確執や対立の次元で衝突しているつもりでいるうちに、いつの間にか、永遠の領域で決定的に自分の利益を損う重大な過失を犯してしまいかねないのである。

不信者は、信仰がないゆえに、信者を相手取った戦いの恐ろしさが分からず、その背後に神がついておられる信者を侮辱したり、敵に回したりすると、一歩間違えば、この世だけでなく、来るべき世においても、破滅に至ることの恐ろしさが分からない。

だからこそ、筆者は何度も、カルト被害者救済活動の支持者らが、神の教会やクリスチャンを相手取って争い続けることの恐ろしさを述べて来たのである。そういうことをしていると、その者は、いずれ神ご自身を敵に回すことになると。

長いが、当時の和解の呼びかけを引用しておこう。

「雲さん、もう一度、あなたに呼びかけたいと思います。あなたがどこかでこの文章を読んで下さっていることを願いつつ…。

雲さん、もしも、あなたがこの文章を読まれたなら、ぜひ、私とお会いしていただきたいのです。直接、私に連絡しづらいのであれば、山谷少佐を通じて、連絡して下さっても構いません。

なぜ私があなたにお会いしたいのかと言えば、会って、事実関係について、あなたを責めるためではありません。二人で話し合いをして、何とか全ての誤解と行き違いを解き、あなたと合意に達し、以前のような、キリストの御身体に属する兄弟同士としての、親しいお交わりを回復できないかと願っているのです。

雲さん、私も今、あなたと同じように、時の人となって騒がれています。Dr.Lukeは数え切れない中傷を受けて、衆目にさらされており、もはや地に落ちて、泥まみれになっているも同然なのです。ですから、雲さんの置かれている現在のつらい心境が、私に分からないわけではありません。

それでも、私が雲さんにどうしても出て来ていただき、私に会って欲しいと願うのは、何とかして直接、雲さんの真のお気持ちを確かめられないかと思うからです。

事実関係について触れるつもりはないと言いながら、細かいことを振り返るのを許して下さい。私にはどうしても腑に落ちないことがあります。2004年10月、あの掲示板で、二人は和解できていたものと、私は思っておりました。雲さんが追い詰められていたので、見るに見かねて、私が掲示板に登場し、あなたが傷つけられたと感じられたその思いは理解しました。そこで、私はあなたの求めに100%応じて、謝罪いたしましたね。「私の裁きをあなたに委ねます」とも書きました。

あなたは「主の名によって赦します」、と言って下さり、すぐにあなたから長いメールがありました。「こちらの気持ちを書かせていただきますね…」と、心中を率直に吐露して下さり、最後に、「私にとってあの謝罪で十分です」と、結んで下さいました。あなたとの交わりが回復されて、私はとても嬉しく思いました。

さらに、2005年5月、雲さんからメールをいただきましたが、その中では、今度は、雲さんの方から、あの時はご自分が悪かったと、丁重に謝罪して下さり、祈りの要請もして下さいました。私はあなたが赦して下さったことを感謝しています、とお答えしました。すると、神は別の次元に導いてくださった、と喜びの報告を下さいましたね。

そして2006年10月には、私が旧いブログで、上記の件について証した際、あなたの方からコメントを下さり、

「私がその当事者です。あの時は、Lukeさんが和解の手を差し出してくださり本当に感謝しております。また、私もキリストの血のゆえに赦してくださったこともありがとうございました。そのために、私は恨みと苦き思いから解き放たれて神の愛の道を再び歩むことができるようになりました。LukeさんとKFCの愛する兄弟姉妹たちに、さらに豊かな祝福がありますように。」

「また、エタさん、本当にありがとうございます。機会があれば、と思います。いまだ、御心配されている方々がいるとのこと、心動かされます。本当に、多大な御迷惑と心痛をおあたえして申し訳ありませんでした。どうぞ、皆様によろしくお伝えください」

と、書いて下さいました。私はあなたの証を本当に嬉しく受け止め、キリストが十字架で流された御血によって、私たちは敵対を解かれ、すっかり和解できたのだと思っておりました。

ところがこの和解について、あなたは後になって、杉本氏のブログの書き込みの中で、これはただあなたがフリをしただけだったとして、和解は本心ではなかったかのように、反故にされ、その上、Dr.Lukeによって、この話が「美談にされている」と、揶揄されました。まるでこの和解が、私の一方的な作り話であったかのようにです。

けれども、同じ2006年11月に、私の旧いブログ上で、あなたはこのようにも書いておられます。

「Commented by Luke 2006年11月16日(木)07:14山谷スレは凄いことになっていますね。ところがうれしい記事を見つけました。雲さん、まだ来てくださっていますか?おめでとうございます^^あなたの論にアーメンですよ。

Commented by 雲 2006年11月16日(木)08:02ありがとうございます。今年3月に結婚しました。山谷少佐の件は黙ってられなくて発言してしまいました。お恥ずかしい限りです。

Commented by Luke 2006年11月16日(木)12:25これはうれしいご報告です^^ずっと気にしておりましたので、感謝です。彼女も私のことを赦してくださるとうれしいのですが。

God bless!

Commented by 雲 2006年11月16日(木)14:43もう赦していると思います。KFCとLukeさんにますます主の祝福がありますように。」

これにも、私は大いなる喜びを覚え、祝福しました。

それから、最後に私があなたがたと接触したのは、2007年7月のこと、彼女の方からも、自分たちをおゆるしくださいとメールをいただき、私は「もうゆるされています」と祝福をお祈りしました。

ですから、その後、私はてっきり、雲さんは幸福な生活を歩んでおられるものと信じて喜び、安心しきっておりました。ところが、杉本氏のブログにあなたが書かれたコメントを通して、あなた方が予想外の状況にあることを知り、非常に驚きました。また、和解はフリだったので反故にすると、一方的に書いておられたので、これにはとても困惑せずにいられませんでした。

雲さん、あなたは掲示板で、「主の名によってゆるします」と言って下さり、メールで、「公の和解は神の前での和解」と言って下さったのです。さらに、私の旧いブログ上では、「キリストの血によって」とまで書いて下さっています。

この言葉を正直に受け止めるならば、あなたは、主の御名と、キリストの御血によって語られたご自分の言葉を、後になって、あれはただフリをしただけだった、と反故にしたことになります。雲さんはよく言っておられましたね、あなたの最も嫌いなものは、「二心」であると。偽善や、二心を嫌っておられた雲さんなのに、なぜキリストの御血によって語った言葉を、反故にできるのか、私にはあなたの思いがどうしても理解できないのです。

雲さん、この点について、何か行き違いや誤解があったのでしょうか?私が知りたいと思っているのは、本当に、これらすべては、あなたのフリにだったのかどうかということです。あなたとすっかり和解できていたと思っていたのは、私一人の思い込みでしたでしょうか?もしも、あなたがおっしゃるとおり、それがフリだったのだとしたら、それがあなたにとっての真実であるとして、私は受け止めたいと思っています。

ですから、あなたの本心を正直に教えて欲しいと願います。それとも、あなたには、この他に、何か私の知らない、別なわだかまりや、不満があって、それを私に伝えたいと思って、このような方法を取られたのでしょうか?私はあなたの本当の気持ちを聞かせていただきたいと思っています。どうぞ、直接、私に会って、正直な気持ちを語ってくれませんか。

また、雲さん、あなたは公の場において、ウォッチマン・ニーや、私の教えは、カルトであり、ホラー以外の何ものでもないとおっしゃいました。それはきっと、私には分からない、あなたなりのお考えに基づいて、これ以上、この教えにはまる人々が出ないように、つまり、キリストの御体が損傷を受けないようにと、警告を発せられたおつもりだったのだろうと思います。

もしも、あなたのおっしゃるように、ニーや私が、主の御体に対して、損傷を与えるのでしたら、私はいつでも降りるつもりです。正直なところを申し上げれば、兄弟姉妹は、もう自立して歩んでおられますし、私という存在は、必要不可欠な存在ではなくなりつつあると言っても、過言ではありません。今、私はただ主の御体にある一人として、何らかの形で、兄弟姉妹に仕えたいと願っているだけです。

もしも私に改めるべき点があるならば、改めなければならないと考えています。ですから、何を根拠にして、あなたがニーや私の教えをカルトとまで主張しておられるのか、率直なご意見を、忌憚なくお聞かせいただきたいと思うのです。このことについて、どうかあなたの思いを直接、私に語っていただけませんか。

雲さん、あなたはご自分の主張を一方的に展開された後、私との対話の場を設けることなく、篭ってしまわれました。もしも、二人が直接、話し合うことなく、このまま時だけが経っていけば、互いの思いのずれは、どんどん大きくなっていき、和解はますます難しくなっていくような気がいたします。願わくは、今のうちに、あなたと以前のような交わりを取り戻せたらと、私は願っております。もしも何か私の知らない誤解や、わだかまりがあるならば、主が私にそれを知らせて下さいます様に。そして、何とかしてそれを解き、兄弟の絆を取り戻すことを祈ります。

雲さん、もしこの呼びかけに、あなたが心を開いて下さり、私との対話を望んでいただけるなら、まずは雲さんの方から、ぜひ私にご連絡をいただけませんでしょうか? 私は雲さんご自身の口から、直接、この事件について本当のお気持ちを語っていただきたいと願っています。」

筆者は、以上と同様の呼びかけを、当時、杉本徳久に対しても「Sさんへの手紙」としてしたためたが、杉本も、グレゴ氏と同様、決して和解の呼びかけに応じようとはせず、自らを弁護する道を退け、杉本は特に与えられた和解のチャンスさえも嘲りながら、クリスチャンを憎み、侮辱し続ける道を自ら選んだ。

こうした和解の呼びかけには、脅しの文句の一つも含まれておらず、完全に相手の自由意志に委ねようとする謙虚な内容であるため、無視することも、踏みにじることも、簡単にできよう。

しかしながら、その呼びかけの中には、キリスト者であれば、絶対に無視することのできない、いくつもの重要なポイントが含まれている。信仰者であれば、それに応答しないわけにいかないことがすぐに分かるはずだ。

そこには、キリストの流された血潮に対して、主の御名に対して、聖書の御言葉に対して、キリストの御身体に対して、どのように関わり、どのように応答するのか、といった問いかけが含まれている。信者が、こうした問題をはっきりさせないで黙っておくことには、永遠のリスクが伴う。

にも関わらず、ただ呼びかけを行った人間が嫌いだとか、応答する気が起きないといった人間的な動機で、呼びかけを拒否するにとどまらず、そこに含まれているキリストの血潮、主の御名、御身体を嘲り、踏みにじる行動に及んだなら、その人間は、ただあれやこれやのクリスチャンを侮辱しただけには終わらず、永遠の領域において、神に対して赦されない冒涜行為を犯してしまう危険が生じるのである。

人間的な対立であれば、いくらでも撤回や謝罪や和解が可能である。しかし、信者を名乗っていた人間が、自分を罪から贖う小羊の血、すべてにまさる権威である主の御名、キリストの花嫁であり、御身体なる教会を嘲り、踏みにじると、その者は、自分で自分の救いを退けたことになるため、人間的な確執や対立をはるかに超えた霊的次元で、神ご自身を敵に回して破滅するという結果になってしまうのである。

ここにクリスチャンや教会を相手取った戦いのはかりしれない恐ろしさがある。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

おそらく、杉本徳久はグレゴリウス氏の場合よりも、さらに悲惨かつ深刻な形で、自分自身の救いを退け、自分のための贖いを否定するのではないかと思われる。

2010年当時から、杉本がDr.Lukeから受けた民事提訴の予告をどれほど内心で恐れていたかは、ブログを通してはっきりと読者に伝わっている。当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたDr.Lukeには、杉本を提訴することが十分に可能であった。Dr.Lukeがそれに踏み切ってさえいれば、争いは早期に終結していた可能性が高い。

だが、Dr.Lukeはグレゴ氏に対する和解の呼びかけも筆者に推敲させたくらいなので、杉本の不当な主張に断固立ち向かって勝利をおさめることが、クリスチャンとして当然の責務であるという考えはなかったのであろう。結果として、偽預言者と呼ばれても、その汚名を晴らそうとしなかった。

そこで、筆者がその跡を継いで、杉本が当時から恐れていた事柄を実行している。いや、Dr.Lukeが当初から筆者の名を引き合いに出して杉本に提訴の予告を行うなど、筋の通らない主張をしていたことを考えても、おそらく、杉本に引導を渡すことは、最初から筆者の仕事だったのではあるまいか。

だが、筆者は、杉本が今回の調停に応じなければ、この先、杉本を「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言われる方に、直接、引き渡す。杉本は暗闇に引き渡され、その後、筆者が自分で杉本に向き合うことはおそらくもうないであろう。

ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

筆者はこれまでカルト被害者救済活動の支持者らが、常に人の情けや憐れみを悪用し、どれだけチャンスが与えられても、決して光の方に来ようとせず、罪を悔い改めようともしなかったことを知っている。だから、そうした性質がこの先、変わるという楽観を筆者は持たない。彼らはあまりにも心を頑なにされているため、悔い改めることも、和解することも不可能な地点にいるのではないかと、最悪の予想をしている。だからこそ、この事件の結末は彼らにとって非常に厳しいものとなると考えられるのだ。

杉本はこの事件から逃げたつもりでも、やがて「生ける神の手に落ちる」ことになる。それは恐ろしい事態であり、そんな事態になるくらいならば、まだ筆者と直接、向き合っていた方がはるかにましだったと後になって分かるであろう。

こうして、自分を贖って下さった御子を足蹴にし、自らの罪を清めた血潮を汚れたものとし、聖霊を冒涜する者の末路は、非常に恐ろしいものとなる。

「神は愛だから誰をも裁いたりなさらない」などとうそぶき、カルト被害者救済活動に賛同していた者は、この活動の支持者らが今後どういう末路を辿るのかによくよく注目されたい。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

「愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)

以上に挙げた聖書の御言葉にあるように、人は試されなければ、その本質は決して分からない。

そのことは、とりわけ牧師や信徒に当てはまる。そこで、見かけが正義漢で善良そうに見える人間ほど、内実は一体、どうなのか、よくよく試してみることをお勧めする。その人間が表向きに掲げている美しいスローガンを、他人に向かって振りかざすだけでなく、自分自身も本当に守るつもりがあるのか、試してみることをお勧めする。

今回、当ブログでは、これまで自称「被害者」の信徒らを募っては、次々とプロテスタントのキリスト教会に「カルト化の疑い」ありとレッテルを貼り、裁判をふっかけて来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密という人間の薄っぺらい人間性を見せつけられる出来事に遭遇したため、そのことを書いておきたい。

ここしばらく、このような物騒な話題が続いていることに飽き飽きしている読者もいるかも知れないが、もうしばらく辛抱していただきたい。

筆者は、この度、今月(2018年3月)下旬の期日に向けて、村上密および杉本徳久を民事調停に呼び出した。場所は武蔵野簡裁だ。この調停は、杉本が長年に渡り、当ブログに対して執拗な嫌がらせ行為に及んで来たことに対する民事上の責任追及であるが、村上密も杉本の行為を幇助した疑いが極めて濃厚であるため、両名を呼び出したのである。

これは裁判に至る前段階である。民事調停というのはADR(裁判外紛争解決手続き)の一種で、参加は任意で不参加の罰則はない。決定に不服があったからと言って、上告などの制度もなく、即、裁判に至るわけでもない。

民事調停は裁判とは異なるが、その代わり、利点もあり、裁判のような大事に至る前に、また、裁判ほどの長期化を避けて紛争解決しておきたいと願う人々にとっては都合の良い場だ。裁判のようにきっちりと法的概念に照らし合わせてすべてが白黒つけられるわけではなく、弁護士でなくては作成できないほどの緻密な文書も要らず、話し合いの性質が高いため、裁判よりは緩やかな基準で物事の解決がはかられる。

民事調停は、このように話し合いの性質が高いという特性を利用して、夫婦の離婚の話し合いや、子供の親権に関する争いなど、家庭に関わる紛争にも大いに利用されており、大きなもめ事から小さなもめ事まで、市民に開かれた場だと言えよう。

ところで、なぜ筆者が今回、出席さえ義務づけられていない、拘束力のない手段をあえて取ったかというと、筆者は突然、誰かに裁判をふっかけるとか、突然、誰かを予告なく逮捕に至らせるとか、そういうやり方が好きではないからだ。

裁判にすれば、欠席のまま終了するリスクが減ることは分かっている。だが、筆者は、グレゴリウス氏が訴えられた時に、その事件を傍から見ていてつくづく思ったのだが、可能な限り、強制力を行使することを最小限度に控え、まずは本人の意志を活かす余地のある場から始めたいと思うのだ。

たとえば、本来、刑事事件になると、被告訴人には、自分が訴えられた事実が前もって告げられることは決してなく、捜査が進んで行くうちに、本人が特定され、突然、ある日、逮捕に至るというケースが稀ではない。それまでに任意の事情聴取が行われるかどうかも分からず、本人は自分に捜査が及んでいることを全く知らないまま、突然、青天の霹靂のように逮捕されるということも起きうる。

だが、それでは、突如、そのような目に遭わされた人間にとっては、あまりにもはかりしれない衝撃となろう。

むろん、告訴されている事実を相手に告げれば、証拠隠滅や逃亡などの恐れが出て来るので、通常、そんなことは決してしない。ただし、当ブログに対して行われた嫌がらせについては、今更、証拠隠滅もないものと筆者は考えている。従って、今回の措置には筆者の意向や決断が大きく影響している。

筆者は、手荒な措置を恐れるがゆえに、緩やかな手段を取りたいわけではない。ただ我々の信じている神が、突如として人を罰したりは決してなさらず、何度も、何度も、真理の道に立ち返るよう、人々に警告を行い、最後の最後まで、人間の自由意志による判断に物事を委ねておられ、最後の最後の段階になってから、ようやく裁きを行われるというその性質を、筆者は自分自身も持ちたく思っており、見習うべきと考えているのである。

だから、筆者は、どんな紛争についても、いきなり裁判、ではなく、まずは話し合いの場を、というのが、常識人の考える当然のルールであろうと思う。刑事事件として扱うにしても、いきなり逮捕、有罪ありきではない。まずは何度も、何度も、問題行為をやめるよう警告が繰り返され、その一つ一つの忠告が次々と破られて行き、何を言っても、本人に全く反省の態度が見られず、いかなる忠告や叱責も全く効き目がなく、自分が引き起こした事件に対する自覚が完全に皆無で、それをやめる意図もなく、罰せられる以外にその行為が悪であることを自覚してもらう道が他にないと分かってから、初めて、強制力を持った措置が取られるべきであると思う。

むろん、事件化されることは、物事は有罪の方向へ向かっていくということなのであるが、それでも、その中でも、踏むべき手順を一つ一つ踏んで、他に残る手段が何もないことが分かってから、最後に強制力を持った措置が取られるべきだと考える。

そのようにすべてのプロセスを十分に踏み、なおかつ、本人にも弁明の機会を与えたにも関わらず、本人がそれを嘲笑い、踏みつけにしたというのであれば、その後、強制力を行使する最悪の結果になっても、それが不可避であって行き過ぎた報復措置でないことは誰もが認めることになろう。

そこで、筆者の場合は、ただ扉を開いていますよという、うわべだけのパフォーマンスではなく、きちんとした段取りを踏んで、物事の本質、人の心の本質を底の底まで確かめるために、一つ一つ時間をかけて踏まなければならない手順があると考えているのである。

このようにして、筆者の紛争解決のやり方は、まずは緩やかな措置から始まり、それが功を奏さなければ、次第に、取る措置の難度・強度が増していくというものである。律儀すぎるかも知れないが、そのように段取りを踏まずに、いきなり強制的な措置を取ることには、あまり賛成できない(そうすることを恐れるがゆえに言うのではなく、神と人との前に、証明しなければならない段取りがあると考えているのである)。

だが、村上は今回、裁判ではなく、それよりも緩やかな民事調停が取られたという事実を自分に都合よく理解してか、事件を京都に移送することを希望しており、京都でなければ出席しないと言い張り、話し合いに応じる姿勢すら見せていないらしい。

それを聞いても、何という滅茶苦茶な話だろうかと筆者は呆れている。村上は事実上、残る二人に京都まで来いと言っているに等しい。要するに、自分一人さえ交通費と時間が浮けばそれでいいというスタンスらしい。

しかも、村上は、サラリーマンでなく、自営業者でもなく、信徒からの献金を受けて生計を成り立たせている牧師なのだ。交通費を惜しまなければならないほどに赤貧の貧乏人でもなければ、働き蟻のように働いて平日に裁判所へ赴いただけで生計が破綻するようなパートやアルバイトの勤め人でもない。

そこで、読者は注意されたい。こういった些細な返答からも、村上の利己主義は明白に見えて来るであろう。自分一人さえ楽であればそれでよく、他の人々が自分のためにこうむる都合など考えもしないのだ。というより、京都への移送の嘆願は、そもそも調停に参加しないための言い訳でしかないと見るべきだろう。

これでも本当に牧師なのだろうか。これでは通常人よりももっと不誠実ということになりかねない。

しかも、村上は、今回、筆者の出した約50頁近くの申立書(証拠書類を含めるとおよそ100頁にはなる)に対し、一枚の反駁の答弁書も送って来ず、ただ裁判所の照会書のフォーマットに、短く「私こそ実名で色々書かれて迷惑しています。ここには書ききれません。」などと三行程度の呆れるほどに子供じみた回答しかしていないと聞いている。

やる気のなさが最初から見えている、人を馬鹿にした回答である。

このことから、村上が筆者をどれほど見下げているか、どれほど民事調停をなめてかかっているか、どれほど自分の教会の元信徒を軽んじているかがよく分かるが、それでも筆者は、ここではっきりと言っておきたい。

村上は事態の深刻さを何も分かっていないようだが、これは村上が筆者一人だけに対して取っている行動ではなく、神と全教会と全クリスチャンの前で取っている行動なのである。

そこで、もし本当に村上が今回の調停期日に武蔵野へ出て来なければ、村上の活動はこれでもうお終いであると筆者は断言しておく。村上の社会的信用は完全に地に落ちることになる。

村上が筆者を見下げるのは今に始まったことでなく別に結構だが、村上自身がこれまで裁判を振りかざして来たにも関わらず、自分への訴えだけは忌避するような態度を取れば、村上の信用はそれでお終いである。

なぜなら、裁判というものは、自分が相手を訴えることもできる代わりに、自分自身が訴えられた場合にも、きちんと応じてそれなりの責任は取りますよ、という双方通行の姿勢がなければ、決して世間の信用を得られないからだ。

これまで村上は、「自分は命をかけてカルトと戦っている」などと正義漢ぶって豪語しながら、「カルト化している」とみなした教会や牧師たちを相手取って裁判を起こして来た。そして、そうした裁判のことを、村上は誇らしげに自分の手柄のように語って来た。

村上は、自分がそうして次々と教会やクリスチャンを裁判に訴えるのであれば、当然ながら、自分が訴えられた時にも、それを受けて立つ姿勢がなければならない。

他人だけを訴えておきながら、いざ自分自身が訴えられる段になると、忙しいだの、遠いだの、様々な逃げ口上を並べて、ろくに反駁もせず、雲隠れするのであれば、もはやそんな人間のふりかざすご都合主義的な「裁判」など、誰一人見向きもしなくなるだろう。

しかも、村上はこれまで様々な教会に対し、「被害者」を名乗る元信徒を募っては、裁判をけしかけて来たのだから、村上自身の教会の「元信徒」である筆者が訴えを起こす場合にも、当然ながら、それに向き合う道義的な義務が生じるであろう。

どんなに不当な訴えを出されたと感じても、やましいことがなければ、きちんと開かれた場所へ出て来て、十分な証拠を提示して、論拠を示して反駁すればいいだけのことだ。オープンな姿勢を見せること、不当な主張にも忍耐強く、正当な手段で向き合っている姿勢をアピールすることは、市民からの信頼を勝ち得るために必要なアクションだ。

それが、裁判所から呼び出されても、遠いとか、書ききれないとか、子供の寝言のようなことを並べて、真面目に対応もせず、姿さえ見せないというのでは、ネットの影に隠れて自分は言いたい放題、一方通行の場所で、自分に都合の良い嘘ばかりを並べ、いざその言葉の証拠を求められ、責任を追及されると、早速、全速力で遁走し、世間の前で堂々と勝負することもできずに、敵前逃亡して逃げ回るしかないという最低最悪の印象を免れられない。出て来ないのは、やましいことがあるからだろうと憶測されるのは当然である。

しかも、TVにまで出て記者会見までして名前を売っているのに、実名で色々書かれて迷惑だとか、自分を未成年の中学生か何かだとでも思っているのだろうか、と呆れる。政治家や芸能人などの有名人が、どれほどの批判に耐えているか分からないのだろうか。ましてや、村上は自分自身が他の牧師にどれほど容赦のない批判を浴びせて来たかを、都合よく忘れ去ったのであろうか?

あれほど「被害者を助ける勇敢な正義の味方」をきどって、諸教会に裁判をふっかけておきながら、いざ自分が訴えられると、しょせん、この程度なのか。市民や元信徒から責任を追及されても、出るべきところに出る勇気さえ持たない臆病者なのか。肩をすくめざるを得ない。

読者の方々は、村上が元信徒からの民事調停の訴えから逃げているというこの事実を決して見逃さないでもらいたい。

さらに、筆者は先の記事で、村上が杉本を切り捨てにかかっていると書いたが、今回のことで、多分、それも本当のことになりつつあるのだろうという印象を受けている。

今回、杉本は出席について回答していないが、杉本は刑事責任を問われている以上、この先、どちらにせよ、逃げることができなくなる。弁明の機会や交渉の機会が与えられているのに、そこに出て来なければ、どんどん立場が不利になって行くだけなのだ。逃げれば逃げるほど、ますます世間の心証は悪くなる。刑事事件の結末がはっきりしてから裁判をするよりも、今の段階で和解の姿勢を示しておいた方が有利なことも確かである。

村上密がネットではこれまで相方のように協力しながらクリスチャンを貶めて来た杉本を、この度、積極的に弁護してやる気もないらしい態度にも、筆者は心底、呆れている。だが、これは実に村上らしい態度だ。

これまで村上は、周知の通り、杉本ブログをさんざん利用して、村上自身とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に都合の良い偏った虚偽の情報を発表して来た(今ここで紙面を割いて詳しく論証しないが、鳴尾教会に関する記事などを読めば、杉本ブログの情報源が村上と同一であることは一目瞭然である。こうした事柄については後ほど詳しく証拠を提示して論じる予定であるから、その発表を待たれたい)。が、いざその虚偽情報の責任を問われる段階になると、村上は杉本一人にそれを押しつけて、自分は陰に隠れようというのか。

村上にとって信徒とは、そういう都合の良い、捨て駒のような存在なのか。政治家の秘書のように、牧師をかばうためなら、信徒が罪をかぶるのは当然だと考えているのだろうか。

おそらく、杉本は村上にとって、初めから「捨て駒」であり、「とかげの尻尾」だったのだろうと筆者は思う。筆者が最も許せないのはその点なのである。杉本の行為も、当然ながら、筆者には許し難いが、ある意味では、それよりも許し難いと言えるのが、村上の行為である。

村上が、カルト化教会の牧師が信徒を利己主義の犠牲にする行為を非難しながらも、自分自身は、筆者や同僚の牧師や信徒ら(杉本でさえ、ある意味では村上の犠牲者だと言える)を、自分の利益のために犠牲にしてはばからない態度を取っていることは、言語道断な行為である。これでは一体、村上はどの口で他の牧師たちが信徒を犠牲にしていると非難できるのであろうか?

読者は、この事件を通して、ぜひとも村上密の人柄をよくよく観察して判断してもらいたい。村上はこれまで自分が栄光を受けられる場面であれば、それが東京であれ、どこであれ、率先して駆けつけたものだ。しかし、村上はそのようにして物事の「おいしいところ」をつまむことには積極的でも、今、自分にとって不都合な事柄は、徹底的に避けて通りたいという姿勢を示している。この偏ったご都合主義的な行動を、読者はよくよく見て脳裏に焼き付けてもらいたい。

杉本もそうなのだが、住所氏名電話番号を公開しているからと言って、必ずしも物事に責任を取るつもりがあるという姿勢には直結しない。牧師だから、権威者だから、有名人だから、信用できるというわけでもない。要は、牧師であろうが、信徒であろうが、自分のしたことに最後まで責任を持って向き合えるかどうか、そこにすべてがかかっている。

繰り返すが、今回、期日に出て来なければ、村上密の活動の社会的信用は、地に落ちるだろう。自分が「元信徒」から訴えを受けても、見向きもせず、振り返りもしないような牧師が、他の牧師にだけは、元信徒を「被害者」としてけしかけ、「被害者」の言い分に耳を傾けよ、などと訴えても、説得力はゼロである。まずは自分への訴えをきちんと解決・処理してから、他人への訴えに取り組めと言われて、どの教会でも門前払いになるのが関の山だ。

村上の信奉者は、今、彼の行動をよくよく見て脳裏に焼き付けておくことだ。なぜなら、人は不利な状況に立たされた時、初めてその本質が現れるからだ。順境にあって威勢の良い言葉だけを並べているときに、その人の人間性を判断することは難しい。その人が責められ、不利な立場に立たされた時に、初めてその人の本当の人間性が現れて来る。くれぐれも、聖書の御言葉を都合よくちりばめただけの本質的に無内容の綺麗事に目を奪われることなく、きちんと行動を見てその人の本質を確かめられたい。

さて、こうして、世間に波風立てつつ行動するのはかなり大変な労力の要ることであるし、勇気も、犠牲も要ることである。村上はかつてブログで、「自分は命をかけてカルトと戦っている」のに、筆者は「藪の中から石を投げているだけの非常識で幼稚な生き方」をしているとあざ笑っていた。

だが、今、筆者は読者の前で、はっきりと言わせてもらいたい。事実は全く逆ではないかと。自分に都合が悪くなると、途端に「藪に隠れて石を投げる」だけになるのは、村上自身ではないのかと。

もちろん、頭の中で想像を極度に巡らせて、筆者を含め、数々のクリスチャンを「極端に危険人物化」して、巨大な悪役の像を仕立て上げては、無責任な「創作物語」を綴っているのも、村上と杉本であって、筆者ではない。そして、今回のように信頼の失墜を自ら招くような行為を続けていれば、そのうち、杉本のみならず、村上自身にも、「交流も少ない所」に住まざるを得ないという条件が、おのずと跳ね返ることになろう。

他人だけを裁判に引きずり出してあらゆる苦悩を味わわせておいて、自分は訴えられても逃げ隠れし続けるような牧師の言い分に、誰がこの先、真面目に耳を傾けるであろうか。むろん、信徒から受けた相談内容を軽率に口外しているような牧師のもとに、相談を持ち込もうとする信徒がいなくなることは言うまでもない。

筆者は、当ブログを始めた当初は、命がけでキリスト教界の腐敗と是正を訴えるつもりであったが、その目的はその後、少しずつ変化して行った。とはいえ、今になっても、相変わらず、記事を書くことには、命をかけるような代価が必要だ。いや、記事を書くことではない。キリストに従うことそれ自体が、自分のすべてをかけて行う価値のあることだ。もし命をかけるというなら、文章を書くことではなく、神を愛すること、神に従うことにこそ、かけるべきである。

筆者はクリスチャンであるから、「和を持って貴しとなす」式に、世間に波風立てず、すべての物事を曖昧にして、切り分けを否定しながら、人間の心だけを満足させるような生き方を是としない。たとえ波風が立つことになっても、人の感情を時には害することになっても、あくまで聖書の御言葉に基づき、何が神の御心であって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が虚偽であるのか、すべてにはっきりと公然と区別をつけるべきであると考えている。

だから、筆者は自分の主張を取り下げるつもりはない。時間はかかっても、また、代償は必要となっても、真実を訴え続ければ、嘘の牙城はかならず崩れると信じている。多くの先人たちもこういういばらの道を辿ったが、彼らの名誉はきちんと回復されているのだから、何も心配することはない。

最後に、またも村上が愚かしい内容の記事を書いている。

「全き者であれは、行いではない。倫理的完全の要求ではない。義は与えられるものであって、獲得するものではない。「律法を行なうことによっては、だれ一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20)パウロは、信仰による義、神の前に正しいとされる道(ローマ3章21~5:21)を教えている。「義の賜物」(ローマ5:21)でわかるとおり、義は神から与えられるものであって、自分で獲得する義(自己義)ではない。神の前には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)行いとは別の道、神の前を歩み(信仰生活を)続けよう。

これはきっと村上が、自分は完全無欠な人間でなくてもいいと自己弁護するため、もしくは開き直るために書いたのか、あるいは、村上の率いるカルト被害者救済活動が、筆者の言うような「自己義に基づくものではない」と弁明するために書かれた記事なのだろう。

だが、もしも村上が、自分で書いているように、神は「倫理的完全を人に要求しておられない」と本気で主張しているならば、それでは、これまで村上自身が、信仰によって義とされたはずの他の牧師やクリスチャンを「倫理の欠如」によって訴え、責め立てて来た根拠はどこにあるというのだろうか?

村上がこれまでこの世の法によってさんざん他教会の内情に干渉し、「聖なる法」よりも「この世の法」を高く掲げてクリスチャンを裁く行為に手を染めて来た根拠はどこにあるのだろうか?

そんな活動に手を染めながら、村上は、いざ自分が責められる段階になると、今更、自分だけは、「義人はいない」と豪語して、「信仰による義」に隠れられると考えているのだろうか? 

いや、もしも村上が本当に「信仰による義」に立っているなら、村上は、逃げも隠れもせず、堂々と裁判所に赴くことができるはずではないか。何しろ、信仰による義は、この世の法を超越するのだ。神によって義とされている信者は、決してこの世のいかなる法によっても罪に定められたりはしない。

にも関わらず、村上が裁判所へ来ることを避けているのは、本当は、自分には「律法による義」も、「信仰による義」も、両方ないことが初めから分かっているためではないのか?

筆者は以前にこう書いた。

神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

村上が本当にクリスチャンであるなら、以上の御言葉を見失うことは決してないはずだ。すなわち、筆者が村上に反感を持ち、村上に対する訴えを両手に抱えているのを見れば、大急ぎで供え物を祭壇の前に置いて、筆者のもとにすっとんで来て、まずは筆者と和解をしてから、「神の前を歩こう」と豪語するだろう。それができないことが、村上が内心ではクリスチャンではなく、信仰による義に立っていないことの何よりの証拠である。

だとすれば、聖なる法だけでなく、この世の法も、こんな人間に味方しはしない。だが、筆者は、この先、村上に対峙する仕事は、おそらく、誰よりも彼に貶められた牧師たちの仕事になるのではないかという気がしている。

繰り返すが、読者らは、今回の出来事を通して、よくよく村上の人間性を見極められたい。(果たして、こんな人物を恐れて口をつぐむ必要がどこにあるのかと。)

神は人前での信仰による告白を重んじて下さる。我々は聖書の御言葉に立ってこれを守って生きていることを、神の前だけでなく、人々の前でも告白し、証明しなければならない立場に置かれている。

クリスチャンから訴えられているにも関わらず、その兄弟姉妹との和解を目指そうともしない村上密に、信仰による義など欠片もないことは誰の目にも明々白々である。



 




 

~ 奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④」の続きである。

 さて、そろそろ、神の教会は、キリスト教と教会と信者全体を冒涜し、呪うような狼藉者たちに、団結して立ち向かうべき時が来ているのではないかと筆者は思う。

 前回、取り上げた村上密の最新の記事には、次のような一文がある。

「権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。」

 この文章から読み取れるのは、村上が何とかして教会にケチをつけ、教会に打撃を与えるチャンスを伺い、教会財産を一銭でも減らし、教会を貧しくしようと、教会に恨みを持つ不信者(こんな人々は信者とは呼べないが)をけしかけては、教会に対する裁判を起こすチャンスを狙っている様子だ。

 同氏が牧師であるにも関わらず、何とか口実を見つけては教会に争いをしかけ、教会財産を不信者のもとに移したいと願っている様子が伺える。

 自浄作用が働かないから裁判に出るというのであれば、見込みのある裁判をせねばならない。
 
だが、「法の力を借り」たとしても、村上の言うような裁判には、勝ち目がないことが明白であることはすでに述べた。従って、村上の主張は、「聖なる法」である教会規則になじまないばかりか、「この世の法」に照らし合わせても、非現実的な世迷いごとでしかない。
  
「自浄作用」をなくしているのは、村上密と同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であって、それ以外の教会ではない。
 
村上自身の言葉を使えば、事実は以下の通りとなるだろう。

「村上密は、自らのブログにおいて、かつての同僚、「同じ釜の飯を食った」牧師たちであっても、教団と袂を分かった者については、個人情報を漏えいし、それを歪曲する形で、彼らを誹謗中傷する材料としている。また、同氏は、かつて自分の教会に相談に訪れていた信徒であっても、気に食わなくなれば、信徒の個人情報を漏えい・悪用しては、信徒を中傷している。

このようなことは、同氏の牧師としての倫理の徹底的な欠如を証明しているだけでなく、牧師としての守秘義務違反、信者のプライバシーの侵害、パワハラ、個人情報の漏洩などの深刻重大な人権侵害に相当する可能性が大である。


となれば、当然、村上の行為によって被害を受けた信徒や牧師には、村上密に対して精神的・もしくは物質的な損害に対する賠償請求を行う道が開けて来る。村上は牧師を名乗っているのだから、本来、牧師の活動を正すのは教会や教団であるべきで、この世の法を用いることは適当でない。しかしながら、自浄作用が全く働かなくなっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、牧師としての職務から完全に逸脱しており、クリスチャンとしての信仰の欠片も見られない村上についてだけは話は別である。兄弟姉妹としてのいかなる忠告も、話し合いも効果のない人間の行動を押さえるためには、当然ながら、この世の裁判を考慮に入れる必要が出て来る。」

このように、損害賠償、慰謝料請求は諸教会に対してでなく、村上牧師とその活動に「悪のり」して兄弟姉妹を誹謗中傷する者たちに対して行われるのが最もふさわしい。

村上は、元信徒を裁判に焚き付けては教会から受けた被害を取り返すよう主張して来たのだから、その主張は同氏自身にも全くその通りに適用されねばならない。自分は人を訴えておきながら、自分が訴えられれば、逃げ回るというのでは、あまりにも往生際が悪い。

筆者は、村上とその活動の支持者らが行って来た人権侵害に対して、被害を受けた牧師や教会や信徒らは、黙っておらず、必要な法的アクションを取ることを強くお勧めする。取れる手段は色々ある。この人々は、キリスト教を断罪しているのだから、兄弟姉妹として扱う根拠がなく、法的措置以外の方法で、このタイプの人々に主張の誤りを認めさせたり、責任を取らせることは決してできないと筆者は考える。

クリスチャンは世の光なのであるから、虚偽の訴えに対して沈黙していてはならない。偽牧師、偽預言者、偽信徒だなどといわれなく非難されて黙っているなど論外である。おくびょう者の行き着く先も、地獄の火の池なのだから。
 
今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて、
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」
(黙示12:10-12)

さて、最後に、ハガルとイシマエル、サラとイサクの話をつけ足して記事を終わりたい。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。

 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:21-31)
 
カルト被害者救済活動は、幾度も述べて来たように、生まれながらの人間の正義を掲げるものであって、神の義に反し、御霊に基づく運動ではない。「肉によって生まれた」運動である。

ところが、これまで、信仰に基づかないこの偽りの運動が、全教会を圧迫し、信者を無差別的に迫害して来た。「肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。

しかも、多くの信者たちが自らこの悪しき運動に降伏宣言し、汚し言を言う獣のような彼らの主張の前にひざまずき、彼らの軍門に下った。それによって兄弟姉妹を売った。だが、このようなことに対して、聖書は何と言っているか。

奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである

 さて、女奴隷とその子が追い出されるためには、サラとイサクが成長して強くならなければならない。その時、初めて、肉にあるものと霊にあるものの関係が逆転し、御霊によって生まれた子らが「しかるべき地位を取り返す」のである。

 この仕事を、神はクリスチャンに委ねておられる。

 これが、私たちが地上に置かれていることの意味なのだ。私たちが戦わずにただ沈黙していて、福音がこの地上で前進し、成就することはない。私たち自身が福音の旗を掲げて、霊的な戦いを命をかけて真剣に戦い抜き、新しい陣地を勝ち取り、サタンのわざを打ち壊して前進して行かなければ、神の国の前進はないのである。

 神の国を前進させるとは、多くのクリスチャンがそう信じているように、地上で座って楽しく飲み食いし、気に入った信徒だけを周りに集めて、お気に入りの讃美歌を歌い、耳に心地よい歓談にふけりながら、それを「聖徒らの交わり」と称して誇ることでは断じてない。そのような瞬間が、場合によってはクリスチャンの交わりにないわけではないとしても、激しい霊的戦いを戦い通さねば褒賞を得られないことも事実なのだ。

 先の記事で、筆者は不当解雇された人が、裁判で地位確認請求を行って権利を取り戻すことに触れたが、その際に、決定的に重要な証拠となるのが、雇入れ時に労働契約を明示した書面が労使双方の間で取り交わされているかどうかであると述べた。

 このことをクリスチャンに適用するならば、我々が神の国の正統な後継者として神の教会に残り、狼藉者を追い出す根拠となるのは、神と我々との間に結ばれた契約、約束の御言葉である。

 イサクは、神との約束を生まれる前から持っていたが、イシマエルにはその約束は与えられていなかった。それゆえ、イサクには正統な跡継ぎであると主張できる根拠があったが、イシマエルにはそれがなかった。

 今日、神の教会に連なるための条件は、キリストの贖いを受け入れ、罪赦されて神の子供たされたという、聖書の御言葉に基づく信仰であって、教会に対する怨念や被害者感情ではない。むろん、人受けのする性格や見栄えの良い外見でもないのは言うまでもない。

 ところが、カルト被害者救済活動の支持者らは、神の約束に基づかず、神との契約によって結ばれていない人々を、全く不当な理由で、教会に受け入れるよう迫っているのであるから、こうした人々は、正統な神の国の相続人ではないのに相続人を詐称する不法者として、教会から追い出されて当然である。
 
 このように、まず最初に約束の契約が与えられなければ、クリスチャンは神にも教会にもいかなる地位をも主張できない。だが、約束が与えられているなら、それに基づいて、大胆に権利を主張し、天に対して「地位確認請求」を出すことが重要である。

 創世記(21:9-14)を読むと、神の国の前進のためには、サラの意志表示が決定的に重要な意味を持っていた様子が分かる。

「サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。 

この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。

神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです
しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。」

 ハガルは奴隷にも関わらず、自分が先に主人の子を産んだことで得意になり、早くから女主人のサラを見下げていた。それゆえ、サラもハガルを相当いじめていたようだが、それでも、一定期間、ハガルとサラは一つ屋根の下で暮らし、イシマエルとイサクも兄弟のごとく過ごした。

 おそらく、アブラハムはイシマエルもイサクもどちらをも息子として愛し、ハガルとサラも何とか折り合いをつけてやって行けるかのように考えていたのであろう。

 だが、サラの堪忍袋の緒が切れる時が来た。これ以上、ハガルとイシマエルを一つ屋根の下に置いておけば、彼らはかならず、サラとイサクを押しのけて、家の跡取りになろうとしてクーデターを起こすだろうことが、彼女にはっきり予測できたためである。そこで、彼女はアブラハムに明白な意志表示を行う、奴隷とその子を家から追い出してくれと

 神はアブラハムに言われた、「サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。」そして、アブラハムは神の約束に従い、サラの要求を聞き入れ、奴隷とその子を家から追い出した。

 アブラハムにとってはつらい決断だったろう。以後、彼は二度とイシマエルを見なかったのだから。だが、人間の肉に基づく関係、生まれながらの魂の情愛は断ち切られ、御霊に基づく関係だけが残らねばならなかった。

 今日、神の聖徒らは、約束を持たない奴隷の子らに向かって、同じように言わねばならない。「奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない」と。

 このように、我々が神と人との前で、明白な意志表示を行うことがぜひとも必要なのである。自分たちの「あるべき地位」をきちんと請求するための訴えを天に対して、神と人との前で起こすことが重要なのである。おそらくサラも一度や二度ではなく、アブラハムに願い出たに違いない。

 今、神の教会を荒らし回り、御霊によって生まれた子たちをいわれなく迫害する者たちを、クリスチャンが一致団結して、神の家からきっぱり断ち切り、追い出す覚悟を固めるべき時が来ている。イエスが強盗たちを、憤りを持って宮から追い出されたように、聖徒らは、激しい憤りを持って、神の教会と聖徒らをあざけり、冒涜し、呪う者たちを、容赦なく福音の敵として神の家から追い払うべきなのである。
 
小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで御国を与えてくださる。」(ルカ12:32)






~教会の不祥事をきっかけに、キリスト教を欠陥宗教のように非難するDr.Lukeと村上密の主張の類似性について~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③」の続きである。

さて、カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャン同士に分裂・分断工作をしかけ、互いを憎み合わせ、争わせることで、キリスト教界を弱体化させる手段として来たことはよく知られている。そうした分断工作の結果、以前にはブログ上でも活発に重要な意見交換をしていた筆者と唐沢との間にも、くさびがうち込まれたのは事実である。

しかし、それだけがすべての原因だと筆者は言うつもりはない。結局は、そうした出来事が試金石のようになって、個人の心の中にもとからあった要素が外に露呈し、個人個人が、神の御言葉の前で「ふるいわけられた」だけなのである。

筆者が唐沢について不審に思うのは、以上のように、唐沢が村上と全く同様に、自分への批判を受けたからと言って、信徒である筆者の利益を害する行動に出たというだけが理由ではない。

そもそも2010年の初めに、唐沢が杉本に向かって、筆者や当ブログをバッシングする記事を取り下げるよう働きかけた後、杉本が唐沢をもバッシング対象とし、自身のブログで誹謗中傷するようになったことは、周知の事実である。

むろん、杉本のこうした行為が許し難いものであることは明白である。これは杉本がクリスチャンや教会を断罪する新たな材料として、まずは筆者を、次に唐沢を獲物のように捕らえたというだけでなく、唐沢と筆者とのクリスチャンとしての親交を冒涜して、クリスチャン同士を引き裂くために行った分断工作であったと見られる。
 
そのバッシングの際、杉本は、唐沢と唐沢の集会にも、「偽預言者」「独裁カルトの妄想教組」「まごうことなき新興カルト宗教団体」などとあらん限りの罵倒を浴びせた。
 
ところが、唐沢は、その当時から、そうした冒涜の言葉の数々に対して一言も反論しなかった。ただ杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかっただけではない(名誉毀損は親告罪であるから、もともと唐沢が筆者の件を理由として杉本を訴えるなど不可能であり、唐沢にできるのは、自分が誹謗中層されたことで杉本を訴えることだけであった)。

唐沢は杉本からの主張に、具体的に論拠を示して反論せず、記事の削除に必要となるアクションを取らなかった。当時、社会的地位もあった唐沢がしかるべく行動を取ってさえいれば、杉本のバッシング記事は速やかに削除されて、それ以上の広がりを見せることなく、事態はおさまっていた可能性が高い。それをしなかったことが、唐沢の目に見える妥協の始まりであった。そして、唐沢がこのようにしてグレゴ氏を「有罪」と決めつけながらも、杉本を「免罪」しようとしたことは、唐沢の内面の二重性と深い関係がある。
 
唐沢が杉本の行動を非難しているのは、うわべだけのポーズであることに加え、ただ「人間的な感情の観点」だけからの非難である。杉本の行動は、人の心を傷つけるから許せないというわけである。しかし、そのような主張はすべて感情論でしかなく、実に些細な事柄であって、本質的な議論は、全く別のところにある。
 
唐沢は、杉本の主張の反聖書性を立証し、杉本によって自分が偽預言者と呼ばれて非難されていることについてこそ、反駁し、疑惑を晴らさなければならなかった。グレゴ氏に立ち向かうくらいならば、杉本に対してはもっと毅然と立ち向かって、とことん疑惑を晴らし、身の潔白を主張せねばならない立場にあった。何より、聖書の御言葉に基づく信仰そのものを守らねばならなかったのである。

にも関わらず、唐沢は杉本には反論せず、その主張に立ち向かいもしなかったのであるから、それは裏を返せば、杉本の主張を自ら容認しているも同然である。うわべだけは対立しているようなポーズを取りながら、その陰ではどんどん紛争が拡大して行くような行動を取り続けたのである。
 
その後、唐沢がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒に欺かれ、坂井氏と杉本との裁判においても、筆者のメールを無断で提出するなどあからさまに不審な行動を取った挙句、坂井氏ともどもに敗れたことは周知の事実であり、こうして唐沢がどんどん深みにはまるようにして、カルト被害者救済活動の陣営の圧力にますます屈して妥協(「転向」)させられて行った様子が分かる。

だが、そうなる前から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒らは(KFCの乗っ取り事件を起こした人物だけでなく、別の人物も)KFCの集会に深く影響を及ぼしており、サンダー・シングの教えなど、明らかに聖書に反する教えを、集会に公然と持ち込んでいた。唐沢はこれについても、サンダー・シングを異端として退けるどころか、かえってサンダー・シングを読んでいた信徒に同情の涙を注いで擁護し、筆者および筆者の警告を退けたことはすでに書いた通りである。ここでも、唐沢が振りかざしたのは「同情論」であり、聖書の御言葉に基づく議論ではなかった。

上記アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者は、筆者が唐沢と知り合うより前からKFCに関わっており、KFCに通えるところに居住していなかったとはいえ、唐沢の長年の知り合いであり、事実上、この集会において極めて重要な役割を担っていた一人であると見られる。
 
唐沢の言動には、このように、「身びいき」や「情」に基づく偏った判断はあっても、御言葉による「切り分け」が存在しなかった。唐沢は当初から、一方では、キリスト教界を激しく非難しながらも、他方では、キリスト教界を離れず、離れようともしていない他教団の信徒と積極的に交わり、人情に流されるあまり、自分に親しく関わろうとする信徒に入れ込み、何が異端であるかを識別しようという姿勢すらも失っていた。

唐沢は当初から、聖書の御言葉を基準とせず、人間の情、自分の感覚や感情を基準として物事の是非を判断し、自ら情に流されて、自分が心地よく感じるものを正しい教えであるかのようにみなし、自分が「可哀想」と感じる信者らにどんどん肩入れして行った。その信者らに自分たちのリーダーがあり、それぞれ所属する教団があっても、お構いなしであった。

そのようにして御言葉の「切り分け」を曖昧にし、異端の教えを吟味もせずに受け入れ、自ら批判していたキリスト教界の信徒らと親交を続けた結果、唐沢の教えはすっかり混合物となり、以前にあった主張の鋭さは失われ、「セルフかキリストか」とあれほど問いかけていたにも関わらず、自ら「セルフ」を選んで、聖書の御言葉の敵となり、ついには筆者をも、敵のようにみなすようになったのである。そのような被害者感情に引きずられやすい情に流されたものの見方は、村上と完全に一致している。

さらに、重要な点として、唐沢は、ニッポンキリスト教界を非難・糾弾する過程で、あたかもキリスト教そのものに根本的な問題(欠陥)があるかのように、早くから自らのブログ等で幾度も述べていたが、この点こそ、唐沢の主張と村上の主張との最大の共通項であるため、読者は注意されたい。
 
教会に様々な不祥事が起きるとき、それを聖書の御言葉への信仰や、キリスト教からの逸脱として訴え、改めて聖書に立ち戻るよう呼びかけるのか、それとも、そうした事件を、あたかもキリスト教の理念そのものの「欠陥」が引き起こした歪みであるかのように訴えて、キリスト教全体を断罪するのかでは、主張が180度違ってくる。そして、まさにこの点こそ、その人間が神の民であり続けられるのか、それとも、偽預言者となって終わるのか、命運を分ける分水嶺である。
 
筆者は、唐沢および村上の信用ならない人柄を見るにつけても、聖霊派特有のナルシシズムの弊害とでも言うべきものを常に感じざるを得ないが(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、牧師だけでなく、信徒の中にも、うわべを飾って「良い子」を演じることに生涯の情熱を費やしている人々があまりにも多い。そして美化された自己像にすっかり溺れて、真の自分が見えなくなっているのである)、それに加えて、両氏の主張の問題点を論じるに当たっても、やはりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念がどんなに危険なものであるか、幾度となく強調せざるを得ない。

(ちなみに、キリスト教界全体を口汚く罵っていた唐沢が、筆者が「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で挫折した」と語っている様子には、思わず笑ってしまう。一体、唐沢はどの口を持って一方ではキリスト教界全体を罵りながら、他方では、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護できるのであろうか。こうした主張は身びいきと言う他ないだろう。

むろん、筆者がこの教団で挫折した過去などなく、筆者がこの教団を離れた直接的なきっかけは、津村昭二郎氏の牧会に失望幻滅したことにあり、津村氏が不祥事事件で引責辞任に追い込まれ、かつその疑惑に相当な根拠があることについては、教団配布の様々な証拠資料と共に具体的に記事に記した(津村昭二郎・村上密が共同して鳴尾教会から津村氏の後継者となるべく招かれた伝道師夫妻を追放した事件)。唐沢が「転向」されられて以後、津村・村上ファミリーおよび杉本を擁護するために、筆者を中傷して以上のような嘘を述べているのは明白である。)

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を率いる聖霊派の理念の誤りは、大きく見れば同じ聖霊派に位置づけられるカリスマ運動の指導者である手束昭明氏の著書を引き合いに出して詳しく論じた通りである。要するに、キリスト教には「父性原理ばかりが強すぎて、母性原理が足りない」と、あたかもキリスト教にはバランスが欠けているかのように非難して、もともとキリスト教にあるはずのない「母性原理」という新たな要素(要するに、異端思想)を巧妙に付け加えようとするのである。
  
異端思想はこのようにして、まずはキリスト教に何らかの「重大な欠陥」が存在するかのように「ケチ」をつけるところから侵入口を得る。(被害者を募って教会に「ケチ」をつけては裁判をしかける手口と同じだ。もちろん、彼らは信徒に対しても同じように振る舞う。異端思想を見分けてこれとの分離を訴える筆者のような信徒が現れれば、「非難された人が可哀想」と同情論を唱え、「愛情や同情心に欠ける」などと人格攻撃を浴びせ、こうして人柄に「けち」をつけることで人物像を歪め、すべてを人間的な対立の話に置き換えることで、聖書の御言葉に関する議論から逃げ、物事を曖昧にごまかそうとするのである。)
 
だが、聖霊派が「キリスト教に補われるべき」と主張しているこの「母性原理」こそ、東洋的な母性崇拝に起源を持つ、キリスト教に根本的に敵対する悪魔的な思想であることは幾度も述べた。洋の東西に関わらず、母性原理を「神」として崇める非キリスト教的な宗教は、「慈愛」とか「慈悲」とかいった言葉を悪用しながら、「和をもって貴しとなす」式に、人間の感情が満たされ、傷つけられないことだけを最終目的としながら、すべてを情に基づいて判断し、物事に白黒つけることを嫌い、光と闇を明白に切り分ける聖書の御言葉に悪質に対抗する。そして、人間を高く掲げながら、最終的には聖書の神に敵対し、キリスト教に敵対し、クリスチャンに敵対する運動を生んで行く。

キリスト教の異端は、こうした母性原理を崇める思想が、巧妙にキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込んで来ることによって生まれる。そこで、筆者は、「父性原理」に立つのか(御言葉の切り分けを保持するのか)、「母性原理」に立つのか(情に流されて御言葉の切り分けを曖昧にするのか)という議論は、本質的に重要なものであって、クリスチャンが、人間の感情が満たされることだけを最終目的に掲げて、すべてを明白に切り分ける御言葉の「父性原理」を退ける道を選べば、待っているのは破滅だけであると確信する。信者は、人間の感情が根こそぎ傷つけられても、聖書の神の御言葉に従い、御言葉が成就することだけを最終目的として、御言葉の「父性原理」(切り分け)に服さねばならないと考える。どちらの立場を取るのかによって、信者の人生ははっきりと明暗が分かれてしまう。

村上と唐沢の主張の非常によく似ている点は、両者がキリスト教の教会で起きる様々な事件を糾弾する過程で、被害者感情に寄り添い、自称被害者たちの言い分を盲目的に信じて肩入れして行くうちに(実は被害者に寄り添うことで、彼らは自分自身の心を慰撫しているだけなのであるが)、そうした事件があたかもキリスト教そのものに原因があって引き起こされたかのように述べて、自分と被害者を一体化させる形で、キリスト教全体を敵視し、クリスチャンを敵視する発言を何度も行い、諸教会を断罪し、自分たちの傘下に身を寄せた信徒や同僚を次々と売り渡すような行動に出ながら、それでも、自分たちだけが正しい教えに立っているかのように主張している点にある。

両者ともに、自分たちが偽預言者と呼ばれて非難されても、人格攻撃のような形で論敵を貶めながら、話の矛先を逸らそうとするだけで、決して真正面から反論しようとはしない。彼らには、論敵と対峙するに当たり、そもそも教義に関する議論を避け、自分たちの「見てくれ」で勝負しようと試みるという特徴が共通して見られる、要するに、自分たちは優れた人好きのする外見を持っていて、つきあい上手で、取り巻きも多いが、自分たちを非難する人間は、見栄えの悪い、欠点だらけの人物で、誰からも好かれていないかのようなネガキャンを行うことで、論敵の人格について印象操作を行って議論から逃げようとするのである。

このようなものは稚拙な印象操作であって、議論とは呼べない。だが、果たして、そこまで言うのならば、彼らにはそれほど誇れる立派な「外見」が本当にあるのだろうか?という疑問も生じる。大体、家庭内暴力などを振るう男たちは、決まって外面だけは良いのを自慢とするが、唐沢の例に至っては、以前から自分が大学の守衛から不審者のように見られたと述べたり、何より「自分は真っ赤な偽牧師だ」と至る所で自嘲していたような有様なので、これで誇れる立派な外見があると言うのはあまりにもお粗末である。
  
そもそも自分で自分を「偽牧師だ」と自称しているような人物の言葉に、信憑性があるのかどうかは、読者の目には明らかであろう。

以前に持っていたそれなりに尊敬される社会的地位までも自ら捨ててしまったとあれば、外見を誇りながら、その外見と社会的地位によって人を納得させる道すら自ら絶っているも同然である。さらに、この世の裁判でも杉本に敗北したとなれば、唐沢の主張は、この世の実社会においても、認められなくなりつつある様子が分かる。次々と何らかの事情のありそうな信徒を周りに集めては、その信徒を助ける風を装って、同情をきっかけに、信徒に感情的に肩入れして行き、その後、その信徒らから訣別を言い渡されると、今後はその信徒の人生を破滅させるような行為に手を染めるのだから、全体として見れば、誰一人としてきちんと育った「教え子」がいないわけで、信頼が失墜するのは無理もなかろう。このような点でも、唐沢は村上と同じである。
  
杉本との裁判に敗北して妥協させられて以後、唐沢は村上のみならず杉本ともあからまさにそっくりな主張を展開するようになっている。どちらも、自分にとって不都合な真実を見ないでいるために、罪もない人間に罪を着せて、虚偽を言いふらしているだけである。

唐沢はこうして自分を偽牧師と罵る杉本の主張の前にひれ伏し、ひざまずいたのである。それは唐沢が主イエスの御名を裏切って、信徒の血を代価として、神と人との前で公然と行った行為であるから、この世だけでなく来るべき世でも、二度と撤回はできまい。
   
このように、村上も唐沢もともに、キリスト教の本来的な信仰から逸脱している不信者らの被害者感情に寄り添うあまり、キリスト教そのものを敵に回すような活動に手を染め、そうしたがゆえに、御言葉の敵となり、教会の敵となり、信徒の敵となってしまったのである。

欺かれてはいけない。事の本質は、決して弁舌の巧みさや、カリスマ性のある外見や、取り巻きや支持者の数や、おべっかやお追従を受けているかどうかや、人好きのする性格、うわべの行動のそつのなさ、立ち回りの器用さ、老練さ、老獪さがあるかどうかなどの外見や手練手管にあるのではない。
 
そうした性質をすべて備えているのは、詐欺師だけである。そして、そういう派手な外見とうわついた甘言にやすやすと欺かれるのも、愚か者だけと相場は決まっている。物事を深く考察せず、見た目で判断せよと迫って来る人間の中に、真実はまずない。このことは世人でさえ否定しないであろう。
 
クリスチャンは、あの有名なイザヤ書53章で、主イエスの外見について、聖書に何と書かれているか、立ち戻ってきちんと朗読されたい。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

このように、主イエスには、「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさも」なかった。奇跡を行っても、人々に受け入れられず、人を癒しても、感謝もされず、多くの町々で、まるで不審人物のように追い払われた。最後は罪を犯していないのに、十字架にまでかけられ、殺された。
 
主イエスが、きらびやかな外見や、弁舌の巧みさ、弱者救済のお涙頂戴のスピーチなどで、人の注目を集めたなどという記述は聖書には全くない。数多くの取り巻き連に担ぎ上げられて、おべっかや、お追従を受けて自己満悦されたなどの記述も全くない。

そこで、我々は、以上のように、キリスト教に敵対する人々が、クリスチャンの外見のみすぼらしさ、貧しさ、弱さ、不器用さを嘲笑しながら、得意げな自己アピールによって、自分こそ正しく信頼に値する人間であるかのように吹聴している有様を見れば、彼らの主張が、主イエスの生き様とはまさに正反対であることを知る。

キリスト教の不祥事などを口実に、あたかもキリスト教が欠陥宗教であって、キリスト教そのものの理念に重大な問題があるかのように吹聴し始めた人々は、その主張がことごとく聖書と真逆になって行く様子がよく分かるのである。
 
唐沢のメッセージでは、もはや十字架の死と復活という言葉も聞かれず、キリストの十字架そのものが消え失せている。これは筆者から見れば、極めて恐ろしい、ぞっとする事実である。
 
信者たちは、決してこのような例に倣うことなく、たとえ外見はどんなに弱々しく、みすぼらしく、不器用で、力もないように見えても、内心では決して揺るがされることなく、最後までキリストの十字架に堅く立って、人間の義ではなく、神の義を主張し続けたい。

<⑤に続く>


~Dr.LukeことKingdom Fellowship Church(KFC)の唐沢治も守秘義務を破り、対杉本の裁判において当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久へ提供・漏洩したと見られる事実について~


この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②」の続きである。

さて、杉本は、筆者の個人情報(名前)についてだけは、Dr.Lukeこと唐沢治と坂井能大氏が行った裁判で坂井氏側から提出された資料を通して入手したと述べている。

おそらくこの記述は事実であると考えられる。ただし、杉本はそれ以前から筆者の氏名を別のルートでも入手しており、それゆえ、筆者に名前を記した上で脅しメールを送って来ている。

杉本対坂井氏の裁判が行われた当時、筆者は以前の記事にも記した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻が、他教団の信徒であるという身元を隠してKFCに潜入し、集会をかき回し、会堂契約を失わせ、筆者を断罪・追放し、唐沢をもメッセンジャーから降ろすという出来事があったことを機に、唐沢と完全に親交を絶ち切っていた。

筆者は唐沢に前もってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団および鵜川夫妻の危険性を告げていたが、同氏はその忠告を全く信じようとせず、鵜川夫妻に感情的に(ほとんど盲目的と言っても良いほどに)入れ込んでおり、集会が終わるたびに三人だけで場所を移して長時間に渡り話し込んでいる有様だった。

筆者は彼ら三人からKFCの集会中での「態度が悪い」(?)とか「面従腹背である」(???)などを理由に断罪され、ほとんど「呪いの予言」と述べて構わない言葉の数々を浴びせられた挙句、KFCから追放されたのであるが、この馬鹿馬鹿しい事件については「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」 にも詳しい。鵜川夫妻がどれほど信用できない人物であり、その二人を信用した唐沢がどんなに愚かで人を見る目がないかも分かる出来事である。

以前にも書いたように、筆者はそうした出来事を真に受けず、その足でまっすぐ唐沢のことを長年知っている別な兄弟姉妹のもとへ行き、この事件をどう思うか尋ねてみた。すると、彼らは異口同音にKFCの異常性を述べ立て、このような異常な団体に関われば、上記のような事件が起きるのはまさに当然であって、彼らの吐いた言葉にはことごとく根拠がないと述べ、一切唐沢との親交を絶ち切るように告げて来たので、筆者はそれを聞くまでにも彼らと同様の見解を持っていたが、やはりそうだったのかと納得した。

筆者自身が当ブログにおける議論の中では、唐沢のコメントを通して大いに実りある収穫を得たとはいえ、唐沢には何かしら非常に不穏な存在感を覚えていたため、もし杉本によるバッシング事件がなければ、おそらく横浜に来ても、KFCや唐沢のもとに足を向けることは決してなかったであろうと思う。

以上のような経緯があったため、筆者は、唐沢にも完全に愛想を尽かし、KFCの欺瞞にもうんざりしており、唐沢が支援したという坂井氏の裁判には全くと言って良いほど関わっておらず、筆者が書いたメールを、そこで唐沢が裁判資料として提出することに同意した事実も全くない(一体、誰がそんなことに同意できようか)。

要するに、唐沢は筆者をKFCから自ら追放しておきながら、その事実がなかったかのように隠した上、筆者には無断で、筆者の個人情報の記載されたメールを裁判資料として提出したのである。

そのようなことを唐沢が行った理由として、筆者の証言という援護射撃を受ければ、坂井氏の裁判を有利に進められるだろうという考えがあったことが推測される。
 
唐沢はニュッサのグレゴリウス氏を刑事告訴した際にも、筆者ともう一人のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団出身の信徒に、自分に有利な証言をさせている。

唐沢は2010年当時、グレゴリウス氏が杉本のブログ等で「Dr.Lukeに呪いの予言をされた」などと書き連ねていたことに、相当に頭を悩ませていたらしく、その件で、筆者に力になって欲しいと、自ら頼み込んできた。

その当時、筆者は唐沢のことをよく知らず、また、筆者自身が杉本のブログで激しいバッシングを受けて、その件で困り果てていたこともあり、唐沢がまるで杉本のバッシングの件で筆者の相談に乗ってやる交換条件のように、グレゴ氏の件で支援して欲しいと話を持ちかけて来たとき、筆者自身が唐沢という人物とほとんど直接接触したことがなかった情報の少なさも手伝って、そこで聞かされた内容を疑ったり、断ることができなかった。

唐沢は2010年に、杉本によるバッシングの件で途方に暮れて唐沢のもとを訪れた筆者に向かい、「KFCに関わるつもりがあるなら、グレゴ氏の事件のことも、含んでおかなくてはいけないよ」などと述べて、グレゴ氏のことなど一切知らない筆者にも、まるでこの事件の解決の責任があるかのように図々しく主張した。

だが、筆者はグレゴ氏が誰なのかも知らず、当時のKFCの様子も全く知らず、唐沢とグレゴ氏の間に何があったかも全く知らず、その事件の解決のためにできることもほとんどなかった。
 
にも関わらず、唐沢はこの事件に無関係であった筆者の存在を、事件を自分に有利に「解決」するために最大限に利用して、グレゴ氏に対する和解の呼びかけを何度も書き直させたり、自分に有利な証言を行わせたりして、自分一人、難を逃れるための手立てをいくつも講じた。

筆者はその当時、紛争の経緯は知らなかったものの、グレゴ氏と唐沢との早期の和解を心から願っていたために、唐沢が送って来た和解の呼びかけの文章にも目を通し、効果的な呼びかけに必要と思われる数々の助言を行った。だが、筆者がそのようにして、どうすれば二人の間に和解が成立するかと、真剣に頭をひねっていた間にも、唐沢は「あくまで扉は開いているということをアピールするためにね」と述べて、その和解案が、単なる表向きのポーズでしかないという意図を明白に表明した。

唐沢はおそらくその頃から、グレゴ氏の自分への「裏切り」を許し難いものとみなして、グレゴ氏を刑事告訴して有罪に追い込むことだけを目的に据えており、初めから和解する意図はまるでなかったのではないかと推測される。筆者は、それより少し前に、唐沢があまりにもその事件のために悩んでいる様子であり、筆者にできることもなかったので、被害届でも出したらどうか、という意味で、「警察に相談したらどうですか」と水を向けてみたことがあった。

しかし、唐沢はその言葉の意味を、筆者の述べたのとは全く違った意味内容として受け取ったらしく、グレゴ氏に対する報復を果たす手段が手に入ったと考えたのか、その後、早速、グレゴ氏を刑事告訴することに決めたと告げて来た。ちなみに、この行為については、実に数多くの信徒が唐沢を非難し、「杉本を告訴するならともかく、なぜ元信徒を告訴するんだ」と反対した。筆者に対しても、「ルークを止めて欲しい」と言った依頼がなされたし、後に筆者のもとにやって来て、面と向かって、「あの時、自分の集会に通っていた元信徒を告訴したことで、ルークは指導者として決定的に信用を失った」と述べた信徒もいた。

そうした経緯もあって、筆者自身も、当時は、唐沢に何とかして思いとどまってグレゴ氏と平和的に和解してもらおうという意図のもと、話し合いを提案し、自らそれに赴こうとさえしていた。すでに述べたように、結果としてその計画は成らなかった。唐沢が「あなたがそこまで言うなら、あなた自身が話し合いに同席して下さい」と(厚かましくも)筆者に頼み、筆者が土産物まで用意して、グレゴ氏のもとへ向かおうと、唐沢が筆者をピックアップした直後、警察から制止が入って、話し合いによって和解を求める計画は中止となったのである。筆者はこれを、筆者がこれ以上、事件に深入りすることのないように助けられた神の采配であったと考えているが、その結果、筆者はグレゴ氏と対面したこともなく、グレゴ氏が誰なのかも知らず、以後、その事件のなりゆきには、全く関わっていない。

さて、唐沢はグレゴ氏を刑事告訴したと筆者に告げた際に、「Dr.Lukeは人を呪うような人間ではない」という趣旨の証言を、筆者にもしてもらいたいと頼み込んで来た。

筆者はその頃、あまりにも未熟で愚かな信徒であったので、唐沢の心中を疑うことができず、まさか筆者同様に高い学歴を持つ教養人であるはずの唐沢が、「呪いの予言」などを口にするなど、あり得ないことだと考えて一笑に付していた。とはいえ、この依頼のことで、筆者は後に、唐沢に面と向かって、非常識な行動の数々を責めることになった。まず、唐沢が自分から人に証言を頼んでおきながら、面倒なことには一切関わりたくないとばかりに、自分自身は警察署に足を運ぼうともせず、自分のために証言してくれた他人の労をねぎらおうともしなかったこと、証言と言いながら、台本まで首尾よく用意していたことなどから始まり、筆者はこの事件で罠にはめられたように感じ、この事件を巡る唐沢の行動があまりにも非常識であり、不信感を呼ぶものであることを面と向かってかなり率直に責めた。

その当時、筆者はよく唐沢と口論のような喧嘩をしていた。以上のような事柄だけでなく、信仰に関わる事柄についても、兄弟姉妹に関わる事柄についても、あまりにも数多くの点で、唐沢には不信感を呼ぶ行動が見られたため、誰も決して言わないであろう耳の痛い苦言を、筆者は何度も唐沢に向かって述べた。

唐沢は当初、嫌そうな顔をするでもなくそうした叱責や忠告を聞いていたが、筆者が、唐沢はただ人の心をいたぶったり、弄んだりしながら時間を稼いでいるだけであって、真心からのいかなる忠告も、一切功を奏することのない対話者であると分かったのは、それからかなり月日が経ってからのことであった。

本来ならば、裁判や事件で、自分に有利な証言を行ってくれた人間は、恩人にも等しい存在であるから、一生、頭が上がらなくなるものと思う。だが、唐沢には、そういう考え方はまるでなかった。唐沢は、筆者を理由もなくKFCから追放し、筆者がKFCを公然と批判するようになった後では、筆者が唐沢のために証言した事実など全くなかったかのように沈黙し、かつての恩も忘れ、掌を返して筆者を中傷しているのであるから、大した「恩返し」である。

こうして、筆者は唐沢のために有利な証言を行ったが、唐沢は筆者のために不利な証言しかしなかった。むろん、杉本のバッシングの件でも、唐沢は筆者のために何の力ともならず、実行するつもりもない民事提訴の予告をしたりして、事件をより一層こじらせただけであった。

そして、その当時から、唐沢は筆者に向かって、次のような話も得意げにしていた。杉本が信頼して心を打ち明けて、クリスチャンをバッシングする計画を逐一相談している牧師がいるが、その牧師が杉本に恐れをなして、杉本が送って来るメールをすべて唐沢に転送しているため、杉本の計画は、すべて唐沢には分かっているのだと。

筆者はそれを聞いた際、ますます唐沢という人物に不信感を持ち、「あなたはどうしてそうやって人の裏をかくような、スパイみたいな活動に手を染めるんですか。どうして自分が予告した通りに、民事裁判のような開かれた場所で、正々堂々と勝負しないんですか」と尋ねただけで、その牧師とは誰であったのか、唐沢が掴んでいる杉本の情報とは何なのか、尋ねようという気にもならなかった。

むろん、その後、唐沢がそうして得られた情報をもとに、杉本がしようとしている計画を筆者に事前に告げて、気をつけるよう警告して来たことは一度もなかった。今となっては、唐沢はただ自分一人だけ他の人々には及ばない情報を握り、高みに立って、大勢の無知な人々を惑わせ、争わせて楽しんでいたようにしか、筆者には見受けられないのである。

このようなことから、筆者は大きな教訓を学んだ。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 」(エレミヤ17:9)と、聖書が言う通り、人の心の中で起きていることは、誰にも分からず、決して誰をも弁護しようと思ってはならず、他者の証人になってもいけない、ということである。

唐沢のために弁護してやる価値がなかったことは確かであり、こういう利己的な人間の正体を見抜けなかったことは(当時は唐沢との親交も短く、様々な事件のために混乱しており、状況そのものが極めて異常だったとは言え)やはり愚かであったとみなさなければならない。

だが、以上のような事柄は、決して唐沢一人に当てはまるのではなく、例外なくすべての人間に当てはまるのである。外見がどうあれ、社会的地位がどうあれ、他の人々からの受けがどうあれ、つきあいの長さがどうあれ、どれほど思い入れがあろうとなかろうと、人間というものは、一人の例外もなく、弁護に値しない存在だというのが、聖書の教える真理なのである。

だから、人間については決して早まった判断をしてはいけない。うわついた賛辞や、耳に心地よいおべっかや、お世辞、人々の人間性について太鼓判を押すような言葉は極力控え、ただ辛辣な批判だけを述べている方が、よほど真実には近く、無難であるとさえ言えるかも知れない。そのようにして、人間を高く掲げず、賞賛もしないことは、世の中の考えとは真逆であろうが、実際には、それが聖書の最も真実に近い態度なのである。
 
今となっては、村上同様に、唐沢の利己主義、ご都合主義、非常識にも、呆れ果てるのみで、二人は悪党同士、良い仲間だと言えよう。
 
また、グレゴ氏の言い分には、かなりの割合で、事実が含まれていたものと筆者は考える。特に、唐沢が「呪いの予言を行った」とする同氏の言い分は、少なくとも、筆者自身に起きた事柄に照らし合わせても、事実であった可能性が相当に高い。

だが、だからと言って、それでは、グレゴリウス氏は一方的な犠牲者であるのかと言えば、そうも言えない。唐沢をかばうつもりは筆者には微塵もなく、唐沢が指導者としての地位や権威を利用して、グレゴ氏を圧倒的に有利な立場から叩きのめした行為は非難されてしかるべきであると思うが、グレゴ氏がその非難から身を守れなかったのにも、それなりの理由がある。

グレゴ氏は、唐沢の呪いの予言などを真に受けず、まずきちんと聖書の御言葉に立って、それに対抗しなければならなかった。そのようなことを「被害」として主張すべきでなく、ましてそれを杉本ブログ(しかも杉本が筆者と当ブログをいわれなくバッシングしている記事)に書き込んだりすべきでもなかった。唐沢に不信感を抱いたとしても、唐沢と筆者とが別人であることを理解した上で、面識もない筆者を同様に扱うべきではなかったろう。さらに、病と手を切り、自分が完全に健康であることを主張して立ち上がるべきであった。

結局、悪魔からどのようないわれのない非難を受けたとしても、キリスト者は堅く信仰に立って、身の潔白を主張して、応戦せねばならないのであって、もし神が味方して下されば、キリスト者には、必ず、どのような状況でも、自分を守り通す方法はある。不当な主張には徹底的に抵抗し、立ち向かわねばならない。それは相当に骨の折れる作業ではあるが、信仰によって貫徹すれば、必ず、身の潔白は証明される。なぜなら、神の義に立っている信徒を守って下さることは、神の仕事だからだ。

そのことは、筆者自身が、たった一人で杉本からのいわれのないバッシングや、刑事告訴の脅し、また、唐沢や鵜川夫妻の三人から受けた「呪い」の言葉の数々や、杉本や村上や唐沢の取り巻き連中からの心ない言葉や、呪詛と呼ぶにふさわしい言葉の数々も含めて、すべての圧迫に、ただ聖書の御言葉だけを武器に、一人で立ち向かったからこそ、言えることである。
 
こうして、グレゴリウス氏を巡る事件は錯綜しており、誰にどれだけの責任があるのかは、まさに神のみぞ知る領域であって、安易に決めつけることはできないが、少なくとも、その事件が起きる中で、唐沢が自分だけ都合よく難を逃れるために、無関係に等しい筆者を最大限に利用したことは確かである。

こうしたことがあったために、筆者は今、自分自身のためには、誰の証言も求めないのである。筆者のための証人としては、最も確かな証言をして下さる聖霊がついておられるから、それで十分である。それ以上の保証人はどこからも探し出して来ることはできない。


筆者が正しい人間なのか、そうでないのか、神の御言葉に忠実に従っているのか、そうでないのか、生きた人間の中には、誰一人として保証できる者はいない。筆者は、そのことを十分に分かっており、最後まで自分のための弁護を、ただ神お一人にだけ依頼するつもりである。自分のしていることや、歩んでいる道に、他人を巻き込むつもりはなく、誰からの理解や援護も求めるつもりはない。困難が深ければ深いほど、筆者は自分のための弁護を決して神以外の方に委ねず、神がついておられなければ、勝利もないという状況にあえて立とうと思うのである。だが、このように神以外の一切のよりどころを持たないからこそ、神自身が筆者の潔白を証明して下さると確信している。(こんな風に神に頼る人間を見捨てれば、神の名折れである。)
 

ただそうは言っても、読者はここに筆者が述べていることも含め、それぞれの主張を見比べて、誰が本当のことを言っているのか、真剣に吟味・判断してもらいたい。

さて、唐沢は、一度目の成功に味をしめたので、坂井氏の裁判の際にも、筆者の証言が得られれば、有利に事を運べると踏んだものと見られる。もしくは、何とかして筆者をもその裁判に引きずり込みたかったのであろう。

だが、愚かなことである。本人不在の中で、裁判にメールなど提出してみたところで、何の信憑性があるというのだろう。裁判で証言を行うためには、陳述書という形を取るのが通常である。しかし、唐沢は自ら鵜川夫妻と一緒になって、筆者をKFCから追い出す側に回った以上、筆者から陳述書を取れる状態にあるはずもなかった。

唐沢はそうした事情を、おそらくすべて坂井氏に隠した上で、あたかも依然、筆者の味方であるかのように振る舞いながら、筆者のメールを裁判に提出したのだと思われる。

本来、メールは私信であるから、本人の承諾なく裁判資料として提出するなど考えられない行為である。しかも、唐沢は杉本に敵対する立場として、裁判に臨み、杉本が筆者を憎み、中傷していた事実も十分に知っていたわけであるから、そのような状況で、杉本に筆者の個人情報を提供することが、どれほど危険な行為であるかを知らなかったはずがない。

それ以前にも、唐沢は2010年に杉本に自ら民事提訴の予告をしておきながら、それを長い間、理由も示さずに、実行せず、そのせいで事態は余計にこじれ、杉本がそのことで激高して筆者を非難したため、とばっちりはすべて筆者に及んだ。その上、唐沢は筆者に悪意を持っていることが明白な人物に、筆者の個人情報を流出・漏洩させて、裁判に負けた後では、筆者一人を矢面に立たせ、自分だけはあたかも杉本と和解したかのようにちゃっかりと装っているわけだから、もはや唐沢の信用ならない性格や、唐沢の心に筆者への善意や筆者を守ろうという気持ちが微塵もなかったことは明白だと言えよう。

こうしたことは、唐沢も、村上と同様の人間であることをよく物語っている。自分が批判されると、その批判を交わすために、信徒を陥れることなど平気であり、自分の身を守るためならば、真実でない主張も、平然と繰り広げられるのである。保身のためならば、守秘義務違反、信徒のプライバシーの侵害、個人情報の漏洩などの行為を犯すことにも、まるでためらいがない。彼らにとって大切なのは、自分の美しい外見的イメージが傷つけられず、見栄を保つことだけなのである。

今や、唐沢は、以上のような悪事を自分が行ったことを隠すために、都合よく立場を翻し、杉本同様に、筆者の書いていることが夢想であるかのように述べて、筆者に人格攻撃を行っている。それによって、筆者の主張の信憑性を読者に疑わせようとしているのである。インテリの何も値しないどうしようもない見かけ倒しの人間で、弁護する価値など全くなかったとしか述べる言葉もない。

筆者は、唐沢の集会を去って以後、唐沢のブログを読むこともほとんどなかったが、この度、標記事件について調べる過程で、唐沢が2011年2月19日の記事に追記する形で、自分をかばうために、筆者の人格を貶めて中傷したり、「ヴィオロン氏と杉本徳久氏の争いに関して、2009年当時はヴィオロン氏が私の元にいたので間に割って入ったが、2012年以降私とは関係ない状況にあり、またニュッサの件も真実が明らかにされ、杉本と争う根拠は消失した故、一切手を引いている。」と記していることを知った。

こうして、唐沢は一方の口では、筆者について「2012年以降私とは関係ない状況」、「一切手を引いている。」と言いながら、もう一方では、その記述を自ら裏切る形で、筆者には無断で、筆者の個人情報を裁判資料として提出したり、あるいは、かつては筆者のブログで自分も中心的存在となって、村上密を糾弾する立場に立っていたにも関わらず、そうした事実が全くなかったかのように、筆者が個人感情ゆえに一人で村上に対立しているかのように述べながら、筆者を貶め、杉本が筆者の人格を誹謗中傷する格好の材料を提供しているのだから、全く呆れ果てるばかりである。

もちろん、「ニュッサの件」で唐沢が真実を闇に葬る側に回ったことも、それから、杉本に依然として自分が偽預言者扱いされているにも関わらず、それに立ち向かおうともせずに「杉本と争う根拠は消失した」などとうそぶいていることにも、呆れ果てるだけである。(唐沢は裁判に負けたために、杉本の主張にやむなく妥協させられたという不都合な事実を隠すために以上のように述べているだけである。)

「一切手を引いている」と言いながら、よくこれだけの嘘をついて、事態の悪化に関与し続けられるものである。このように、唐沢の言動は全く不誠実であり、首尾一貫性がなく、自己矛盾に満ちている。だが、そのことは、唐沢の集会の信徒たちも十分に知っており、唐沢が嘘つきであることを承知しながら、彼らはリーダーへの心酔をやめられないのである。村上の信奉者の場合と同様である。

今や唐沢が杉本を非難しているのは、ほんのうわべだけのポーズでしかなく、実際には、唐沢は次々と杉本を利する行動に出ては、坂井氏を含め、多くのクリスチャンを杉本に敗北させる結果へと追い込もうとして来たことは明白である。

これも牧師制度というものの闇を見る格好の事例であろう。一旦、宗教指導者となって信徒の上に君臨してしまった人間が、どんなに人格を狂わされ、見栄だけがすべてとなって、自分を守るためならば、真実を平然と売り渡し、信徒を裏切るかという事例である。

唐沢も、エクレシアの兄弟姉妹は対等であるべきで、リーダーは要らないと述べて、公然と牧師制度に異議を唱えていたが、それにも関わらず、自分が指導者となって集会を支配し、神を差し置いて、信徒らの前に栄光を受けてしまった罪は重い。

唐沢の様々な相矛盾する言動から、読者は唐沢の信用ならないご都合主義的な性格や変心を十分に伺い知ることができよう。

 
<④に続く>






~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密が守秘義務を破って杉本徳久に当ブログ著者の個人情報を漏洩したと見られる事実について~
 
さて、この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀」の続きである。

杉本徳久は当ブログの著者と直接の面識がないため、第三者から情報提供を受けない限り、当ブログ著者を誹謗中傷する材料となる筆者の個人情報を入手できない。そこで、杉本がどのような経路で筆者の個人情報を入手したのかが問題となるが、そこで、杉本に情報提供した疑いが極めて高い人物として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が浮かび上がって来ることについてはすでに述べた。

なぜなら、杉本は自らのブログにおいて、筆者の「両親」があたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのような虚偽の情報をブログに公然と記している。

だが、そうした杉本のブログには多くの虚偽が含まれており、まず第一に、鳴尾キリスト福音教会というのは、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離れて以後の名称であるから、筆者を含め、筆者の家族の誰一人として、鳴尾キリスト福音教会に通った事実は存在しない。

第二に、筆者の母はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の会員でなく、他教団の信徒であり、鳴尾教会では客員であり続けた。また、筆者の父に至っては、クリスチャンでさえないため、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のいかなる教会のいかなる集会にも通った事実が全く存在しない。

それにも関わらず、杉本徳久は筆者の「両親」がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのようなデマを勝手にまき散らしているのだが、そのようなデマは、杉本が一人で考え出したとは思えず、その根源となる偽情報を杉本に伝達した誰かがいるためだとしか思えない。

そして、そのような誤った情報を杉本に伝達しうる人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師以外には、誰一人として存在しないのである。

なぜなら、杉本に以上のようなデマ情報を提供するためには、以下の条件が必要となるが、その条件にすべて当てはまっている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないからだ。

➀当時の鳴尾教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(鳴尾教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(鳴尾教会の信徒はその事実を知らない)
④杉本が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでも杉本に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような心卑しい人間であること(そんなことをする信徒は鳴尾教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密が、自らのブログで、杉本よりも以前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

もっとも、そのような村上の行為自体が、牧師として考えられないほどに幼稚で、牧師の職業倫理にもとる行為であることはすでに述べた。通常の牧師であれば、一度でも自分の教会に通ったことのある信徒については、信徒が教会を去った後でも、決して個人情報を口外せず、まして、信徒の信用を貶めるような情報を口にすることはない。

たとえその信徒が牧師と対立して教会を去った者であったり、牧師の活動を公に批判している信徒であっとしても、牧師は公人であるが、信徒は私人であるため、牧師はその信徒に報復を果たすために信徒の個人情報を公にしたり、信徒を中傷して信用を貶める内容の記事を公表したりすることは決してない。

そのようなことは牧師の職権を濫用したパワハラに該当し、プライバシー侵害や名誉毀損その他の責任追及を受ける可能性も出て来るが、何よりも、その牧師と牧師の教会の評判を著しく落とすため、そのような中傷合戦のようなことに通常の牧師が手を染めることは決してない。

だが、村上密には通常の牧師であれば、誰しも備えている品格、常識といったものがまるでないのである。

さらに、当時の鳴尾教会を知る信徒たちは、筆者の両親がそろって教会を訪れるところを誰一人目撃していないため、筆者の両親が共に教会に通っていたなどという誤解を抱きうる人間もいない。

津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がいかなる伝道集会にも決して出席しなかった事実を見失うとは思えず、こうしたことは、村上が一度でも津村氏に確認していれば、生じなかった誤解である。

次に、筆者の両親は、津村氏が不祥事により引責辞任してから何年も経って、遠方の地に引っ越した。そこで、筆者の両親がどこに引越し、何を営んでいるのかといった事柄について、当時の鳴尾教会の信徒たちは知らない。

しかし、村上密はこうした情報を握っていたのである。なぜなら、2008年、筆者は村上密の率いる宗教トラブル相談センターを訪れた際、村上の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上と面会させたことがあるためだ。

その時に、村上氏が筆者に送って来たメールが以下である。ちなみに、このメールは村上の記名が入っているが、伝道師の長澤氏のアドレスから送信されている。

このことは、2008年当時から、村上には信徒の個人情報に関する守秘義務という概念が全くなく、村上が伝道師と全ての情報を共有していた様子を物語っている。

2008年7月22日に村上密が「家族カウンセリング」を名目にヴィオロンの父と連絡を取った証拠

そして、実際に、筆者の両親は、筆者の依頼に基づき、村上の教会を訪れているのだが、村上はその際、筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも一緒に教会に通っていたのだと早合点したものと見られる。

また、村上は、その際、筆者の両親がどこに住んで何をしているかなどの情報も、二人から個人的に聞いて確かめている。

このように、杉本徳久が筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたとか、どこに住んで何をしているかなど、嘘をまき散らしているのは、いつものように、村上密の「強烈な思い込み」を伝授されてこれを真に受けた結果としか考えられないのである。

村上密と杉本徳久のブログは、このように、不確かな伝聞だけを頼りに、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を書き記す点で一致している。

そして、村上密が自身のブログで、これまでどれだけ大勢の同僚の牧師や信徒らの個人情報を悪用して、そうした情報を、村上の活動を批判するようになった元同僚や、信徒たちを誹謗中傷する材料として利用して来たかを思えば、あえて筆者が以上のように事細かく説明せずとも、村上が宗教トラブル相談センターを訪れた信徒らの個人情報を平気で漏洩しうる精神の人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんどいまい。

 さらに、それに加えて、杉本自身が、筆者の情報について、村上密に問い合わせたと自らのブログで述べているのである。その際、村上が、杉本をいさめて、誹謗中傷をやめるよう説得したとか、信徒のプライバシーに触れる情報は一切提供できないと断ったなどの記述は全くない。

むしろ、杉本よりも前から、筆者に悪意を抱いていた村上は、杉本からの問い合わせを受けて、渡りに船とばかりに、筆者に関する情報を提供したのではないかと考えられる。

いずれにしても、そのような問い合わせを杉本から受けた際、村上が杉本を制止しようともせず、筆者の個人情報を漏洩したと見られる行為が、どこからどう見ても、牧師の道に完全に外れたあるまじき行動であることは言うまでもないだろう。

村上が杉本よりも先に筆者や当ブログについて書いた中傷の記事が、悪質な虚偽であることは、すでに幾度も述べて来た通りであり、筆者は杉本のみならず、村上にも記事の削除を求めているが、村上がそれに同意して記事を取り下げたという話を今の時点で全く聞いていない。

これで今でも牧師を名乗っているというのだから、心底、呆れ果てるのみだ。まさに牧師の名を穢すだけの、キリスト教徒を名乗る資格のない牧師である。杉本も村上も両者ともにゲヘナの子であるとしか言えない。

<③に続く。>





~ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実~

さて、読者のために誤解のないよう断っておきたい。

この度、当ブログに対して長年に渡り、おびただしい回数の嫌がらせを行って来た「現代の風景 随想 吉祥寺の森から」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)および「神々の風景 ーreligious sceneー」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)と題するブログの著者杉本徳久氏およびその共犯者たちが刑事告訴された(この名は本人が公開したプロフィールから得たもの。情報は以下参照)。

上記のブログの著者とその共犯者たちが、2009年以来、当ブログに対してどんなに執拗かつ陰湿な嫌がらせと誹謗中傷を重ねて行って来たかについては、幾度も当ブログ記事で詳しく証拠を提示して記して来た通りであるので、これについては過去の記事を参照されたい。
  
杉本徳久氏への公開書簡」には、当ブログが、杉本なる人物から、本人の住所氏名連絡先を記した上で、送りつけられたおびただしい数の嫌がらせメールを公開している。当ブログは、そこで、杉本にとって気に入らない記事を一方的に削除するよう迫られたり、その不当な要求に応じなければ、当ブログ執筆者の個人情報を無断で暴露すると脅されたり、その他にも様々な嫌がらせを予告されて来た。
 
こうしたすさまじい陰湿な嫌がらせ行為を受けて、当ブログ執筆者が幾度も警察に報告・相談を行った結果、杉本および共犯らは、去る2月23日に神奈川県警察に名誉毀損罪により刑事告訴された。さらに、杉本は名誉毀損の他にも、つきまとい等の迷惑行為防止条例違反で警察から警告を受けている。

杉本は当ブログ執筆者が警察に相談していることを事実だと考えなかったのか、あるいは、それが事実であると大変不都合であると考えたのか、当ブログが警察に相談しているという事実が根拠のない虚偽であるかのように吹聴していたようだが、実際には、杉本の行為は刑法に触れる罪であって刑事事件にまで発展している。

さて、当ブログでは、何年も前に、「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」と題する論文を掲載し、そこで、杉本が何の公的資格にも基づかず、自らの義憤だけに基づいて、「教会のカルト化を監視する」として、自らのブログで、様々な教会やクリスチャンに関する不利な情報を集めては、教会や信者をブログでバッシングする記事を発表していることに、何の正当な根拠もないこと、また、杉本ブログに掲載されている情報が虚偽の温床になっていることを指摘した。
 
その記事の中で、杉本は、以上のようなクリスチャンや教会に対するいわれのない迫害の当然の報いとして、必ず刑罰を受けねばならなくなるだろうと予告した。

今回、まさにそうした予告が現実になった形であるが、やはり、聖霊に導かれるキリスト者の述べる事柄には、一つ一つ、本人が自覚している以上に深い意味があるのだと考えさせられる。

ちなみに、当ブログでは、2012年頃からすでに各種の掲示板等に投稿された嫌がらせのコメントに対して刑事告訴が可能である旨を警察から告げ知らされていた。ただし、杉本本人につながる確たる証拠が出て来るのを待ちたいという筆者の意向があったために、告訴がなされなかっただけである。

このように、現代という時代は、個人のブログであろうと掲示板であろうと、いずれにしても、書き込み者を特定して責任追及を行うことは十分に可能な世の中であるから、読者はよくよく熟慮してコメントを投稿されたい。
 
さて、筆者は杉本とは面識が全くないので、杉本徳久という名前がペンネームなのか本名なのかも知らない。杉本の年齢は、ブログの情報によれば、40代の男ということになろう。

杉本の職業は、本人が自らブログで社会福祉士であると述べていることから、ブログだけでなく、実生活においても、社会的弱者の救済をライフワークにしている様子が伺える。

しかし、それにしては、杉本は自らのブログで、筆者のような健康な人間を何の根拠もなく精神異常呼ばわりして嘲笑った挙句、精神異常者の社会への適応困難な状況や、就労困難を嘲笑するような内容の記事を書き、社会的弱者を罵倒しているわけであるから、人目につかないところで、そのような社会的弱者へのイジメのような行為にコソコソ手を染めていたことが発覚すれば、当然ながら、職場も解雇される恐れが十分に出て来る。

何よりも、刑法に抵触する行為の報いとして罰を受ければ、社会福祉士の国家資格を剥奪されることが十分に考えられる。

たかがブログと考えて、自分よりも弱そうな社会的弱者を鬱憤晴らしに貶めるような行為に手を染めれば、その報いとして、現実生活に数多くの不利益がふりかかることになるという見本のようである。何度も当ブログではそういう事態になることを警告していたのに、耳を貸さなかったのだから、愚かとしか言いようがない。
 
さて、杉本の住所は、「随想 吉祥寺の森から」および「神々の風景」および、さらに同じ人物が主催者となっているサッカーチームのブログ「Soccer team - FC弥生- Yayoi football club」の三つのブログで公開されているプロフィールを手がかりにすると、以下の通りである。

ちなみに、これらのプロフィールは未だに閉鎖されることもなく無防備に閲覧可能な状態で放置されている。(著者に自分が訴えられたことの自覚がまるでない様子を伺わせる。)

株式会社メディアテラスという会社が実在しているかどうかについても、筆者は知らない。ネットの情報によれば、何年も前から幽霊会社になっているという説もある。もしそれが事実だとすると、杉本に社会的弱者を笑っているような経済的余裕が本当にあるのかどうかも疑わしい。
 

   

 

http://d.hatena.ne.jp/religious/about

 

 

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/cat_50012366.html


 

http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi/20070112

さて、このブログの杉本徳久なる人物は、以上のプロフィールの連絡先に、警察からの連絡を受け、本人確認を済ませた上で、自ら以上のブログを書き、当ブログに対する嫌がらせ行為に及んだ事実を認めたものの、人権侵害に該当する記事の削除や、ブログの閉鎖を求められると、強硬に拒んでいるという。

この度、当ブログはプロバイダを通じても、杉本がブログの削除を拒否している旨の通知を受け取っている。事件になった以上、削除は本人の意志の問題でないことも、まるで分かっていない様子だ。そこには、一秒でも長くクリスチャンを害する情報をまき散らしたいという本人の悪しき願望を見るだけである。
  
きちんとした弁護士がついてさえいれば、杉本とてこのような愚かな行為に至ることはなかっただろう。何しろ、警察の警告にも耳を貸さないとなれば、悪印象が募り、本人がこの先、情状酌量を受ける余地がますます減って行くだけだからである。

このように、他人に迷惑をかけても一切の自覚がなく、法律を遵守しようとの姿勢もなく、自ら行った行為の犯罪性の認識が皆無で、刑法に触れる記事を削除するつもりもなく、被害者に謝罪する意志や、反省の態度も微塵も見られないとなると、やがて本人の意志に関わりなく、処罰を受けることでしか反省してもらう余地はないね、という結論が、関わった人々から異口同音に出て来るのは避けられないであろう。

ちなみに、一般には、不当な理由で告訴された人には、虚偽告訴という形で対抗することが可能であるが、杉本徳久の場合には、それは当てはまらない。なぜなら、杉本の嫌がらせ行為は、あまりにも大勢の人々が知り得る場所で行われており、十分すぎるほどの目撃者と証拠の蓄積があることに加え、杉本はこれまで一年間もかけて当ブログを刑事告訴しようと試みたにも関わらず、武蔵野警察署がそれを受理せず、杉本の訴えを棄却した経緯があるからだ。

そういう事情を考慮すれば、この先、警察が杉本の虚偽告訴を受理する可能性は、今まで以上に低くなったと言えるだろう。そのようなことをすれば、武蔵野警察が先の告訴を受けなかったことが誤りであったと認め、また、神奈川県警察の仕事を否定するも同然の格好になってしまう。
 
さて、筆者は、約9年間という長きに渡り、不当な嫌がらせによって損害を受けたことに対し、杉本に対し、民事においても責任追及する所存である。

杉本の虚偽(というより妄想)に溢れた「創作物語」に対する当ブログの公式な反論及び民事上の責任追及については、詳細を以下に公表するつもりであるが、情報の公開までは少しだけ待たれたい。

杉本の当ブログに対する主張が何から何まで完全に虚偽であることについて

さて、筆者はここで、杉本ブログで同様の被害に遭われたすべてのクリスチャンが、決して泣き寝入りすることなく、本人に対してしかるべき責任追及を行うよう呼びかけたい。

杉本はこれまで自分がクリスチャンや教会を訴えることに何のためらいもなかったわけであるから、自ら他者に対して行ったことを、自分自身の身に受けるのは、至極当然である。

事態を大きくすることをためらう必要はない。このような種類の人間は、強制力を行使して、捕えられ、世間からの強い圧力がかかることがなければ、決してクリスチャンをターゲットとして嫌がらせを続け、苦しめることをやめないであろう。

信徒は、住所や連絡先を公開せずとも、刑事や民事での責任追及は可能であるから、時効を迎える前にきちんとアクションを取られたい。
 
当ブログの読者であれば、杉本が長年に渡り、当ブログにしかけて来た争いが、当事者同士で解決できるレベルをはるかに超えており、筆者が個人でそれに対応しなければならない理由もなく、筆者自身にも市民としての措置を取る権利があることには同意してくれるだろう。

しかも、筆者がそうしたアクションを取るまでには、長い長い年月が経過している。その間に、杉本自身が、当ブログを刑事告訴すると息巻いていたことや、杉本から行われたあらゆる嫌がらせにも関わらず、筆者が杉本に幾度も和解を呼びかけては嫌がらせをやめるよう警告を行ったこと、むろん、警察に相談している事実があることも本人に知らせた上で、万策を尽くした事実があるわけだから、今更、以上のような措置に出たところで、遅すぎるという非難は受けたとしても、誰もそれに反対する者はいまい。

今後、事件の捜査および進展の過程で、新たな情報が出て来れば、それもまたここに掲載したいと考えている。
 
筆者はこれまで第三者を介した話し合いの場で、それまで居丈高に高圧的に振る舞い、暴言を吐き続けて来たような人間が、まるで捕えられた獣のように急におとなしくなり、何も言えなくなる瞬間を何度も目撃して来た。

筆者は弁護士という職業が好きではないが、あまりにもプライドに凝り固まり、真実が見えなくなり、感情的で、理性を見失った人間を相手にする場合には、向こうに弁護士がついている方が都合が良い場合もあることを知っている。なぜなら、弁護士は当事者よりもはるかに現実的に物事が見えており、裁判官の助言も重んじるため、当事者が感情に走りすぎている場合は、ちゃんといさめてくれるからだ。

弁護士にとって、紛争が長引けば得になると書いたのは、あくまで取りはぐれのない企業などが依頼人になっている場合であって、個人の争いが長引いても、弁護士に得になることはない。紛争が長引く間に、その個人が自己破産でもしようものならば、収入の見込みも途絶えるため、弁護士は個人の紛争をいたずらに長引かせず、裁判官の判断には基本的に従う。
 
そこで、当事者は、感情的になっていても、裁判官と自分の依頼した弁護士の両方から説得を受ければ、最終的に折れざるを得ない。紛争を第三者の前に持ち出すことの意味はこうしたところにある。

<②へ続く>

「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」(黙示13:5)

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:6-8)

<追記>

2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実



 
  
オリーブ園にちょっと不思議な記事が掲載されている。

これまでずっとオースチン-スパークスの連載が続いていたのだが、途中に以下のエバン・ロバーツの記事が掲載されているのだ。
 

戦いに関する光

悪魔の白旗に注意しなさい!それは戦いを停止させるための休戦の旗なのです。悪魔は出来ることなら何らかの方法で入り込み、まさにカナン人がヨシュアにしたように、教会を自分に妥協させようとします。危険なのは戦いが終わる前に妥協して、戦いをやめることです。暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。

 悪霊どもは知性と交信することができますが、接触するのは霊です。霊に接触し、知性と交信するのです。これがあなたが大いに警戒しなければならない理由であり、あなたが大いに戦わなければならない理由です。悪霊どもは足がかりがあろうとなかろうと、実際に霊に接触します。あなたがあなたの霊の中にあればあるほど、ますますあなたは悪霊どもと接触するようになります。あなたの霊を守りなさい。あなたが自分の霊を正しい状態に保つなら、あなたの霊はまさに船の緩衝材のように働きます。船が港の岸壁に衝突しても――緩衝材がその衝撃を散らしてくれるのです。

 悪霊どもの大目的は悪です。悪霊どもがある人の外側にいる時、悪霊どもが行いたいことをその人が理解し、願い、遂行するという保証は彼らにはありません。しかし、もし悪霊どもがその人の中に入り込むことができるなら、悪霊どもはその人に自分たちの行いたいことを行わせることができます。悪霊どもの大きな願いは、その人に自分たちの意志を遂行するよう強いることです。悪霊どもが人に取り憑く時、その主な現れは強制です。あるいは、悪霊どもが取り憑く主な目的はこれなのかもしれません。取り憑くことにより、悪霊どもは安堵するのです。

エバン・ロバーツ


 この記事は前後の記事がないため、言わんとしていることの具体的な意味がそれほどまでに明瞭ではないが、筆者はこの記事の内容に心を留める。

 以上の記事が具体的に何かを指して言われたのかどうかは分からないが、筆者は、カルト被害者救済活動の偽りと対峙する時、「暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。」という忠告は、まさに当てはまるものだと思う。

 このところ、カルト被害者救済活動の支持者には、警察から、刑法に違反し、人権を侵害する記事を取り下げるよう、連日、警告が行われていた。ところが、当初は記事を取り下げることに同意していたその人物は、その後心を翻し、記事を掲載し続ける意向を示している。

 ついに、警察の忠告にまで逆らう意向を示したのだ。だが、そうしたことも、いわば、織り込み済みの事実であったと言える。なぜなら、この人々は今までずっと「市民社会の掟」を振りかざしては、クリスチャンが非常識な存在であるかのように断罪して来たとはいえ、本当は、彼らの正体こそ、最も非常識かつ反社会的な勢力だからだ。

 神の教会に敵対して立ち向かいながら、この世の社会にだけは色の良い顔をすることは不可能なのである。

 もうしばらくすれば、彼らは警察に対しても正体を現し、彼らがこれまで何か貴いものであるかのように振りかざして来た「市民社会」そのものを冒涜し、踏みつけにするだろう。そして、自らの強情さによって、可能な限りの手下を滅びの運命に道連れにしようとするだろう。

 しかし、彼らの計画は中途で打ち砕かれる。

 まだ終わりの時は来ていない。バベルの塔の建設が完成に至ることはなく、必ず、それは離散で終わると相場は決まっている。

 従って、今回、彼らが警察の忠告まで振り切って行動したことは、神のご計画の範疇なのである。つまり、神ご自身が、彼らの心を頑なにされたことをよく示している。

「この民のところへ行って言え。
 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍くなり、 
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」(使徒28:26-28)

 これまで幾度も述べて来たように、神は、ご自分で癒そうと考える者の心を柔軟にし、癒すつもりのない人間の心を頑なにされる。

 心を頑なにされた人間には、悔い改めて神に立ち返って罪赦される可能性が失われる。人間的な観点から見ても、情状酌量の余地がなくなり、その後は徹底的な滅びへと向かって行くだけになる。
  
 筆者は、こうした事態を見ながら、やはり悪魔と暗闇の勢力は、自分の手下となった人物に対する使い捨ての法則を貫き、その人物から情状酌量を受ける余地を完全に奪い去り、徹底的な破滅へ追い込むものだという確信を強めている。

 こうして、また一つまた一つと彼らの新たな罪状書きが増えて行く。だが、それでも筆者は知っているのだ、彼らが何を考え、どう行動し、何を宣言しようと、結論は最初から決まっていると。

 結論が決まっているからこそ、彼らは当初から、筆者やクリスチャンに対してこれほど激しい憎しみを燃やし、自分の運命に抵抗して来たのである。

 それは、筆者自身の中にある神の御霊が、彼らの目から見てそれほどまでに重大な脅威だったためである。
 
 ところで、筆者は以前にある人が刑事告訴され、逮捕されたいきさつを間近で見ていたことがあるため、そういう事件の進展の仕方と、訴えられた人がどうなるのかも知っている。

 その当時の筆者は、まだとても未熟な信者で、人間的な対立を可能な限り避けて、すべてを当事者同士の話し合いで解決できるものと信じていた。だから、最後の最後まで、事件などにはせず、何とか話し合って和解できないかと、関係者に呼びかけていたのである。

 すると、告訴人に当たる人物が、筆者に向かって言った、「ヴィオロンさん、あなたがそこまで言うのなら、あなた自身が私たちの話し合いに立ち会ってもらえませんか?」

 それは何度目かの和解の呼びかけがすべて拒否された後の出来事であった。

 今から考えれば、筆者にはその提案を受ける筋合いはなかったのだが、筆者はその当時、あまりにも未熟であったがゆえに、どこかに和解の道が残っているに違いないと信じ、彼らを思いとどまらせるべきと考えていた。そして、自分としてできることをすべてしようと思い、説得する材料となりそうな土産物まで持って、車に乗り込んだのである。

 ところが、我々の出発直後に、警察からストップがかかった。「行ってはいけません。ここから先は我々に任せて下さい。」

 まさにそれは天の守りもしくは介入だったものと思う。その当時、いかに筆者が未熟で愚かな信者であったにせよ、神は筆者を守って下さり、筆者が超えてはならない一線を踏み越えて、足を踏み入れるべきでない領域に介入することがないよう、すべてを采配して下さり、筆者を力づくでその事件から遠ざけたのであった。

 結局、筆者はその当事者に会うこともなく、説得に赴くこともなく、その人物が誰なのかさえも知らないまま、時が過ぎ、その人物が間もなく逮捕されたことを聞かされた。その逮捕が当人にとってどれほど測り知れない衝撃であったかも知らされた。

 いわば、事件になったその時から、筆者が何を言ってみたところで、そういう顛末を辿ることは最初から決まっていたのだと言える。話せばきっと思いは通じるだろうといった浅はかで子供じみた感情的な次元の対立ではなかったのである。

 この出来事を通して、筆者は初めて、人が力づくで拘束されることや、それによって生活を奪われ、社会的名誉も失い、自分の書いたもののすべてが強制的に削除され、以後、どこにも何一つ意見発表できなくなり、完全な沈黙に追いやられ、人としての活動を失うということの意味を、傍観者の立場を通してだが、はっきりと目撃したのであった。

 現在の日本社会では、男性にとっては特に、容疑を受けて身柄を拘束されること自体が、社会生活のほぼ完全な破滅を意味すると言っても差し支えない。人々は自分が告訴されたと分かっただけでも、職場を辞めたりする。その後の顛末がどうあれ、関係者に迷惑をかけないためである。冤罪事件で逮捕された人も、後になって、それがどんなに自分の生活に重大な悪影響を及ぼす出来事であったかを繰り返し語る。

 筆者は、以上の事件には、話し合いで物事を解決する道がなくなって以後、全くと言って良いほど関与もしておらず、もっと言えば、最初から何の関係もなかったのだが、関わらなくなって以後も、以上の事件で逮捕された人が、立ち直ったという話を二度と聞かない。本人のみならず、関係者からも、その人が一体、どうなったのか、全く話を聞かない。生きていたとしても、死んでいるも同然のごとく、噂が全く絶えてしまったのである。

 だが、そうなったのは、以上の事件だけがきっかけではなかったものと思われる。その人は、有罪になることを免れる目的もあってか、心神喪失を主張していたらしいが、その過程で、多分、自ら主張した病が現実になってしまったのだろうと思われる。

 これまでに何度も警告して来たことであるが、クリスチャンは、絶対に自分から病にかかっているなどと宣言してはいけない。病は火遊びの相手としてはあまりにも危険すぎ、断固、拒否しなければ、些細な入り口から侵入して、全身を燃え上がらせて灰にしてしまう。

 だが、その人には初めから、病に徹底的に立ち向かう姿勢が見られなかった。それだけではなく、呪いに対しても、毅然と立ち向かう姿勢がなかった。その結果、自ら信じたことがその身に成就してしまったのである。

 信仰に立って最後まで抵抗すべきであった。自らを被害者の立場に置くのでなく、神がすべての呪いを身代わりに背負って下さったことを信じて、抵抗すれば、すべての縄目は絶ち切れていたであろうし、むろん、早期に和解もできていたに違いない。
 
 この出来事は、筆者にとって、非常に暗示的であり、教訓的であった。それまでの筆者は、この事件に限らず、強制力を用いて人間の意志が打ち砕かれる瞬間を、一度も見たことがなかったためである。

 また、病が徐々に人を滅ぼして行くように、ある時点まで、普通に行動していた人間が、ある時点を境に、強制的に社会から隔離され、生活を送れなくなるまでに追い込まれるという現象も、見たことはなかった。しかも、信仰者の世界では、なおさらそんな事件は目にしたこともなかった。

 だが、そうした事件を目撃しつつ、筆者が思わされたのは、罪人に対する神の裁きの容赦のなさであった。この世には永遠に至るまでの刑罰はないが、それでも地上の刑罰にも、永遠の予表としての意味はある。

 神は罪人、悪魔、暗闇の勢力に対して、最終的には、容赦のない裁きを宣告されて、彼らを強制的に隔離・排除・処分される。

 神はしばらくの間、人に猶予を与えておられ、選択の自由も、行動の自由も与えておられるが、人がその自由を悪用し、いつまでも福音に背を向け、聖徒らの説得に全く耳を貸さず、神を冒涜し、神の教会やクリスチャンを冒涜し続ければ、その人の末路は悪魔と同じようになるであろう。

 筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らが、筆者を呪い、いわれなく罰し、社会から隔離しようと企んでいたその悪意をよくよく知っている。彼らは罪もない筆者を、いわれのないことで呪い、罰したかったのであるが、その計画は成らなかった。

 筆者は神の義に立っているためである。

 筆者はずいぶんたくさんのいわれのない悪意や、彼らの発する呪いの言葉に直面したが、それでも、筆者のために呪いとなって木にかかって下さった方を知っているため、そういう呪いの言葉が、筆者に対して効力を持たないことをよく知っている。
 
 そして、実際には、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者らこそ、罰せられるにふさわしい人たちなのだということも知っている。筆者がそのことにはっきりと気づいた以上、彼らは、この先、その運命を免れることはできない。

 そのことは、筆者が何年も前から当ブログで予告して来た通りである。筆者は何年も何年も前から、彼らは刑罰を受けなければならない、ということを主張して来た。一緒になって罪を犯して来た者たちも同様である。その当時は、そうした日が来るとは、多くの人たちは思っていなかったかも知れないが、実際に、その言葉は現実に成就するであろう。
 
 彼らの自らの罪を認めようとしない強情さ、頑なさが、人間の理性や常識や思いをはるかに超えていることを見るにつけても、筆者は日一日と確信するようになっている、この人たちは間もなく拘束されて、強制的に排除されることを免れられないだろうと。

 以上で挙げた事件の際にも、警察の制止が入ったことにより、その人物が完全に筆者の手の届かないところに隔離され、その後、永遠に関わることがなくなった時と同じように、今、この時点を境として、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者から霊的に隔離され、筆者は彼らの運命を何とか取り戻そうと、これ以上、説得したり、呼びかけたり、関与することのできない立場に置かれたのである。

 それは、彼らが暗闇の勢力に連行され、外の暗闇に投げ込まれることが確定したためである。

 彼らの心をそこまで頑なにされたのは神である。それは、彼らの末路が悲惨なものとなることが、いかなる情状酌量の余地もなく、公然と世に表されるためである。

 神は彼らの心を徹底的に頑なにされることにより、神と教会とクリスチャンに立ち向かう人々の末路が、たとえようもなく悲惨なものであり、そこには情け容赦の余地が一切なく、後戻りの可能性もないことを、公然と世に示されようとしているのであり、また、神の容赦のない裁きが、現実に存在することを、信仰を持たない人々も含め、この世のすべての人々の見ている前で、証明されようとしているものと筆者は思う。

 悪魔と暗闇の勢力に立ち向かう戦いの中では、いかなる妥協、憐れみ、同情も持ってはならない。そのような激しい決戦が行われるために、筆者の助言も忠告も和解の呼びかけも、何一つ彼らには届かず、彼らの目は曇らされ、その耳は聞こえなくなり、背は曲がり、心は頑なにされたのである。それは彼らが誰からもいかなる憐れみも受けず、一切の免罪の可能性を奪われるためである。

 以前にも、筆者は当ブログにおいて、彼らを「サタンに引き渡す」と宣言した。それは「あなたのしようと思うことを今すぐしなさい」という言葉と同じ意味である。その後、間もなく、その宣言は現実になり、彼らは一線を超えて自分自身の人生を破滅させる行為を行った。だから、今回の宣言も、間もなく実現するだろう。

 筆者はここでいかなる情け容赦もなく、カルト被害者救済活動の支持者らを、暗闇の勢力に引き渡して連行させ、二度と聖徒らの世界に手を触れることのできないところに隔離すると宣言しておく。

 筆者が「暗闇の勢力に引き渡す」と言っているのは、この世の強制力は、本質的には、堕落した力であり、神に由来するものではないことを知っているからだ。以前に、現代の世の中で、誰かがステパノを石打にして殺せば、石打にした人々は殺人罪に問われるだろうと書いた。このように、この世のことは、この世が裁くのである。はっきり言えば、この世の裁きには、神の裁きのような容赦がないので、この世の裁きに服するよりは、神の裁きに服した方が、圧倒的に生きやすい。
 
 手続きは放っておいても粛々と進んで行く。病が徐々に進行して、人の肢体から自由を奪うように、砂時計の砂が徐々に落ちるように、時を追うごとに、彼らの自由は失われる。病が進行すれば、病人はいずれ口もきけなくなるように、彼らの発言には何の効力もなくなり、お伺いを立てる者もいなくなる。

 彼らのためには、この先、真っ暗な闇が用意されているだけだ。それは彼らが聖徒らのいかなる猶予にも和解の呼びかけにも全く応答しなかったためである。

・事実上の共産主義国と化した日本――残された時間で全力で国の破壊にいそしむ安倍独裁政権――
 
安倍政権による日本破壊が続いている。政策にも外交にも全く成果が出ず、アベノミクスの破綻が明らかになって、いよいよ終わりが近いことを悟った現政権は、残された時間でこの国に対するありったけの破壊行為にいそしむつもりだと思われる。

国会でろくな審議もなしに凶悪な法案を次から次へと強行採決しているのはそういう意図を込めてである。もはやこの国の民主主義はほんの建前だけ、うわべだけのものとなった。前々から国会での審議など予定調和的な出来レースだと言われてきたが、かろうじて民主主義国の保たれていたうわべだけの体裁もかなぐり捨てて、今はあからさまな安倍の自民・官僚独裁体制へと移行している。

原発の爆発のツケは国民に回し、GPIFによる年金の運用損も国民に押しつけ、消費が活発化しない分は、カジノ法案を通し、ギャンブルで国民から巻き上げようという所存である。

10年を超える休眠預金はすでに国有化されることが決まった(「貧困対策や若者支援に活用=「休眠預金法」が成立」gooニュース 12月02日 12:20)。この「忘れ去られたお金」は500億~600億ほどは存在するという。貧困対策や若者支援など、これまで政府が一度たりとも本腰を入れてやったことのない政策へ活用するというのだから、そんなことは国民の資産を国が奪うための単なる口実に過ぎないのは明白である。この休眠預金の国有化は来るべき預金封鎖へとつながる初めの第一歩になるのではないかと囁かれている。

これから先、肥大化した官僚機構に率いられる国家権力が少子高齢化(と原発事故の影響による人口の著しい減少から生じる)財政難を乗り越えるために、いかに国民財産のありったけを強制的・合法的に収奪できるか、国会はただそのためだけの法整備の場所へ変わるものと見られる。
 
筆者は、この国はずっと前から事実上の共産主義国であると述べて来たが、いよいよ一人のカリスマ(というのにはあまりにも力不足だが)政治指導者のもとで、事実上、独裁化した中央集権が国民を徹底的に抑圧し、収奪するという、共産主義国には欠かせない政治形態が整ったと言える。もはや天皇さえも国家権力による抑圧のための飾り物のようにされてしまっている。
 
安倍は「美しい国」という偽りの夢(存在しないユートピア)を口実に、とことん人を騙し、国を滅ぼして来ただけで、何一つとしてこの国にリアルな成果を提供することはできていない。

安倍晋三を率いているのは、共産主義や、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道を率いる悪霊と同じ種類のカルトの霊であって、これは偽りの父である悪魔から出て来た霊である。
 
安倍の政策は、ペンテコステ運動などと同じく、そもそもの最初から最後まで徹底的な詐欺の仕掛けなのである。その嘘の仕掛けは、かつてソ連が共産主義という、絶対にやって来ない夢を担保にして、とことん国民を騙し、巻き上げたのと同じである。
 
強行採決は、この偽りの霊が、安倍晋三というリーダーを現人神化し、残された時間内で、この人物を通して、とことん民主主義を破壊し尽くすという意志表示である。これを放置していれば、この国は暗黒時代に突入するだけである。


・偽りの北方領土返還の夢――無い夢を担保に、米国とロシアの二国にATM扱いされる悪夢をこの国はどう防ぐのか――

安倍は「強いロシアを取り戻す」というスローガンを掲げるロシアのプーチン政権に自分と同じ思想を見いだし、それゆえ親和性を感じ、個人的な親交を結ぼうとして来たわけだが、日ロの首脳会談は、今やまるで狐と狸の化かし合いのようになって来ている。

むろん、両方が精神性においては詐欺師と言って差し支えないのだが、こういう場合は、悪がより強い方が勝つと相場は決まっている。悪が強い方とはむろんロシアのことであって、この国の闇の深さは、これまで70年間平和を保って来た我が国の想像をはるかに超える。

一説によると、本物のプーチンはすでに死亡しており、現在のウラジーミル・プーチンは替え玉によるなりすましだと言う。プーチンの別れた元妻さえ替え玉であると証言しているというのだ。

長い間、筆者はそんな話はロシアを悪魔化するためのプロパガンダに過ぎないと考え、取り合わずに一蹴して来たが、最近になって過去の動画を比較してみると、確かに、以前のプーチンとは声も顔も違う。身体的特徴も異なれば、声のトーンも違う。


 

若い頃のプーチンには表情にどこかしら敏感で神経質そうな個人的特徴があったが、現在のプーチンには、それが見られず、物腰は訓練された工作員そのもので、電話機や銃を持つときの仕草にその特徴がよく表れている。面長だったプーチンの顔の特徴が丸く変わっており、目の色も変わっていると言われている。かつては流暢に話せたはずのドイツ語では、通訳を介さなければ意思疎通ができなくなった。

 

(秋田犬ゆめ、飼い主から撫でられそうになると顔を背け、逃げ去る)

プーチン死亡・替え玉説という話は深入りせず、この辺でさて置くとしても、こういう話を冗談として一蹴できない国がロシアなのだ。

話を戻せば、安倍が拙速なトランプ詣でをしたことによって、以下のニュースにも見るように、北方領土の返還は、ますます一層、遠のいたと言える。もはや日本は完全にロシアにいいようにあしらわれている様子がよく分かる。
 

岸田外相、プーチン大統領と会談 交渉の難しさ露呈フジテレビ系(FNN) 12/3(土) 1:14配信、から抜粋

岸田外相は、ロシアのプーチン大統領との初めての会談に臨んだが、2時間という、大遅刻の洗礼を受けた。
さらに、ロシア側との交渉の難しさが露呈する出来事が、次々に起こった。1時間50分遅れで始まった会談では、待たされていた岸田外相の前に、笑顔のプーチン大統領が現れ、会談は30分で終わった。
これに先立ち行われた国内行事で、プーチン大統領は、会談の予定開始時刻を1時間すぎても、雄弁に演説し、あわてる気配はない。
 思いがけないハプニングは、これだけにとどまらず、日本時間2日になって、ロシア側から日本側に、会談の出席者を4人から3人に絞るように要請があり、ロシアを担当する欧州局長が協議に入れない事態になった。


 筆者は必ず、こういうことになるだろうと前もって告げておいた。北方領土問題には、1%も希望などもともとなかったのだが、それでも、領土問題に進展がないのだと分かれば、即座に経済協力をひっこめ、プーチン大統領の訪日も中止するくらいのしたたかな駆け引きが日本の首相にぜひとも必要だった。しかし、安倍にそのような決断が出来るはずがない。

仮にもしもここ数年間に起きた日ロの急接近の中で、北方領土返還のチャンスが1%でも我が国にあったとしたならば、それはただロシアが米国に睨まれて国際的に孤立し、悪魔化されて包囲されていた他ならぬその時期だけであったと言えるだろう。だが、その間に安倍政権はロシアに近寄ることなく、むしろ、公然と対ロ制裁に加わった。そして一時はあわや世界大戦勃発に至るかと見られた米国とロシアとの対立も、今はトランプが次期大統領に選出されたことによって、ロシアにとっては緊張緩和の見込みが開けている。そんなバラ色の期待が高まっている今の時期のロシアにとって、わざわざ米国の傀儡に過ぎない日本の安倍政権に自ら歩み寄り、助けを求めねばならないような必然性はまるでない。

むしろ、この先は、米国とロシアとがタグを組んで可能な限りこの自立できない卑屈な属国を踏みつけにして、カモれるだけカモろうという態度を明白にしないように、釘を刺しておかなくてはらない時期に入ったのだ。確かに、安倍氏はそのようなことをされて仕方がないだけの卑劣な二枚舌外交を発揮して来た。自分が最も困難に陥った時期に、敵に回り、信頼と友情を確固として示さなかった人間に、誰がその人間が困ったときに救いの手など差し伸べるであろうか。そういうやり方は、人間関係にも通用しないが、外交としては完全な失敗である。

しかしながら、筆者は、たとえこの国のトップが狡猾な外交作戦を展開できうるだけの頭脳を持っていたとしても、やはり安倍政権の存続中に北方領土が返還される見込みは、初めから1%も存在しなかっただろうと考えている。そのようなことがもし起きうるとすれば、それはこの国が米国のくびきを断ち切って、完全に自立を成し遂げたその後のことである。

もともとロシアから見て、今の日本は米国の延長のようなものに過ぎない。そして、米国はロシアにとってずっと前から仮想敵なのである。日本が米国と共に対ロ制裁に加わった事実は、日本が自ら米国の手足に過ぎないと名乗り出たも同然であり、その記憶はロシアからこの先も決してなくなることはないであろう。いざとなればいつでも敵に変わり得るような国と見えているのだから、そんな国に、どの国が1ミリたりとも領土を明け渡すことがあろうか。そうでなくとも、どの国も自国の領土は1ミリでも大きい方が良いと考えるはずだ。普通に考えさえすれば結論は最初から見えている。

実際は、北方領土返還のテーマもまた国民を欺くための安倍のトリックに過ぎなかったのだが、安倍自身も、それが偽りの夢でしかないことに気づいていなかった可能性がある。

だが、こうした楽観の結果、日本は米国のみならずロシアからもATM扱いされ、国際的に自立できない国として蔑まれ、孤立して行く危険性に直面しているのだと言えよう。だが、ヘタレ国家のヘタレ政権には、そうなってもまだ、このくびきを跳ね返すだけの勇気も力もなく、自分たちが屈従を強いられている分の腹いせを、これから先、すべて国民に向け、国民をいたぶることで晴らそうとして来る可能性がある。それが最悪の結末である。


・強制集団化の始まり――原発事故処理の収束という天文学的負債を国家の破綻を経ずに乗り越えるには、国家が国民を徹底的に抑圧するしかないという悪夢――
 
いずれにしても、少子高齢化の中、半永久的に終わらない原発事故処理という天文学的な負債を抱え、これから先、財政難へと急落して行くことが目に見えている国である。その限りない負債をやりくりするために、この国では、この先、私有財産の国有化がなされ、徹底的に国民の資本と労働力を収奪するための強制集団化が始まるものと見られる。(ただし、こうした現象が起きるであろうという筆者の予測は、実のところは、日本だけでなく、米国やロシアにも当てはまるのだが、そのことは今は置いておく。)

さて、強制集団化とは何か。それは国民の労働力と財産を最後の一滴に至るまで搾り取って国の財産へと変えるための制度づくりである。安倍による農協潰しは、コルホーズ・ソフホーズの建設を思い起こさせる。マイナンバーも、国民財産と労働力を合法的に収奪するために活用されるであろう。いずれマイナンバーは体内埋め込み型のマイクロチップに取って変わり、その刻印を受けた人々はみな「マトリックス」に奴隷として拘束される仕組みが完成すると考えられる。

さて米国では、このほど、時期米国大統領に選出されたトランプの支持者であり、同氏の選挙チームの有力メンバーでもあった人間が、第二次世界大戦中の日系人強制収容所を手本として、米国で移民向けに強制収容所を建設することに言及したという(「「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言」The Huffington Post 投稿日: 2016年11月18日 17時15分 JST   更新: 2016年11月18日 17時31分 JST)

以前からネット上では、全米各地に大規模な強制収容所の建設が進んでいるといった話や、大量の棺桶が用意されているなどの怪しい話が飛び交って、国民に対する大規模な弾圧が行われると言われて来たが、こんな発言を見ると、以前には都市伝説や、流言飛語と思われても仕方がなかったような話が、いよいよ現実味を帯びて来たように感じられる。

つまり、米国は未来のトランプ政権下で、いよいよ本格的に戒厳令国家へと変貌しようとしているのではないかという予想が起きて来るのである。実際、米国民が最も懸念している点はそこであろう。移民抑制など単なる口実に過ぎない。まずは人権抑圧の最初のターゲットとなるのが、トランプが幾度となく憎しみを向けて口撃して来たマイノリティであるというだけで、最終的にはトランプ政権にとって不都合なすべての米国民は、みな強制収容所行きとなる危険を覚悟しなければならないような世の中になるのではないか。それがトランプ一人の治世で終われば良いが、米国の政権の特徴として後戻りできない形で浸透してしまう危険が考えられる。
 
そうなった場合、米国との腐れ縁を断ち切らない限り、我が国も、米国に続いて戒厳令国家へ突入することを免れられなくなるであろう。なぜなら、これまでの歴史的経験から、米国で起きたことは、数年遅れて、我が国の現実となって来たということが言えるからだ。たとえば、官僚だけがヒーローとなって、国民は恐怖に逃げ惑うか、もしくは移動も制限されて、家屋に閉じ込められて、TV画面を通じて報道される大本営発表を固唾を飲んで見守るしかない、という『シン・ゴジラ』のストーリーなども、未来の予表として描かれたものであるように思われてならない。

だが、一体、なぜ国家がそのような戒厳令下の世の中を用意せねばならないのか? 何のために国民の人権を抑圧するのか? それは、いよいよ国家が財政難その他のために経済的にも道徳的にも落ちぶれて行き詰まり、信用を失って崩壊の危機に瀕し、己の生き残りだけが全てとなって、いよいよ犯罪政権としての性質と正体を隠せなくなって来た時に、それでも滅亡を免れるためには、国民から収奪を強化し、手ひどいやり方で反対を封じ込めるために、国民の人権を大規模に抑圧することしか、残る方法はないからだ。

かつての一億玉砕と同じである。国の面子が保たれ、国体が護持されるためであれば、国民が残らず死んでも構わないという発想である。そのような発想の下では、国民は文字通り、犯罪性を帯びた政府と心中させられることになる。
 
だが、人は通常、自分自身の幸福のために生きているのであり、誰も強いられない限り、「お国のために」生きようなどとは考えない。だから、国民の財産と労働のすべてを国家のために合法的に供出させる仕組みを作るためには、まず、国策に反する者は誰であれ、権力の判断で恣意的に逮捕でき、人権(財産権を含む)を放棄させるような仕組みを作らなければならない。強制集団化のような過酷な政策の実施は、流血を伴うのであり、まずは国策に従わない国民から人権を奪って強制的に収容所に送って奴隷労働に従事させるなどの恐怖政治の仕組みを作らない限り、実行できない。
 
だが、初めから、権力のために国民の人権を抑圧しますなどとは、おおっぴらに言えないので、緊急事態や、外敵の脅威を口実に、国内で恐怖政治を常態化させるのである。しかも、最初から国民全体を縛るためにと言っては誰も同意しないので、最初はあくまでごくごく一握りの社会にとって不都合な、国民全体にとって脅威となりうる集団だけを取り締まり、排除するのだと言って、人権抑圧の仕組みを作り、作った後で抑圧の対象を無限大に広げて全国民を取り締まるのである。こうして戒厳令国家の仕組みが成立する。


・国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた――ASKA逮捕の事件から見えて来る監視社会――

ところで、筆者はCHAGE&ASKAのファンではなく、この事件にそんなに興味もないが、この度のASKAの逮捕という出来事は、以上のような文脈において、実に象徴的・暗示的であったと思うので触れておきたい。

このほど、二度目に逮捕された歌手のASKAは、本人の言によると、盗聴盗撮の被害を訴えて警察に被害届を出そうと通報したところ、その言い分が「薬による幻覚」であるとみなされて、自身が逮捕されてしまったという。
 
芸能人であるとはいえ、政治家でもない人間が、何らかの犯罪被害を訴えて警察に通報したことがきっかけとなって、逆に自分が疑われて逮捕されたというわけだから、これは人々を震撼させる出来事であり、この日本社会の大きな曲がり角である。

ASKAは週刊誌では脳が壊れたなどとしきりに笑い者とされ、危険な薬中毒患者だから何をされても仕方がないかのような報道がされているが、世論はASKAにかなり同情的で、この行き過ぎたバッシングに拒否反応を示し、真相を疑っている。

実のところ、ASKAに起こったことは、明日には国民全体に誰でも起きうる現実である、と言える。それが分からずに、ASKAを特別な人間と考えて笑い者とし、人権侵害を正当化している人間は、よほど愚かである。

ASKA逮捕が、当局によって周到に仕組まれた計画のもとに行われた罠であったろうことは、逮捕前からメディア中ですでに逮捕の予告が公に報道され、乗ったタクシーの映像まで勝手に公開されるという異常な状況から容易に推測される。

つまり、ASKAが逮捕されるはるか前から、警察、メディア、民間企業などが連携プレイを行って、本人に対する監視体制を作り上げ、網で魚を捕えるように、ただ逮捕の機会を伺っていただけであるとみなさなければ、そういう事態は起き得ないのだ。
 
(「ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口」 LITERA2016.11.28.などを参照。)

このようにメディア・警察・民間企業の見事な連携プレーを見せられると、「盗聴・盗撮されている」というASKAの言い分が、逆に正しかったのではないかと見えて来るのも当然である。
 
ちなみに、タクシー内の映像ではしっかりと運転手と話をし、料金を支払っているASKAの姿が映っているようなので、覚せい剤の影響で脳が壊れたとの公式発表を完全に否定する証拠となっている。

もちろん、ASKAの逮捕が、年金カット法案や、廃炉費用の国民負担や、カジノ法案の強行採決など、政府の実行しようとしている恐るべき凶悪な国民の権利抑圧の政策を覆い隠すためのスピン報道として存分に用いられたことは疑いの余地がない。だが、この事件は、スピンだけが目的の全てではなかったものと思う。

ASKAはこの逮捕がなければ、活動を再開する準備が整っており、今回の二度目の逮捕は(一度目の逮捕に至る経緯も周到に計画されたものであった可能性が高いが)、社会復帰を妨害する上で重要な役割を果たした。中でも、特に、ASKAが執筆しすでに公刊が近かったとされる『盗聴国家・日本』の出版を妨げるために極めて重要な役割を果たしたのは見逃せない。

(「ASKA容疑者 著書執筆中だった テーマは「盗聴国家・日本」」 スポニチ 2016年11月29日 05:30参照)

ちなみに、今でもごく普通の生活レベルで人々が接触する街の交番や警察署のお巡りさんは、道に迷った人にも親切で、気前も良く、そんな街のお巡りさんだけを見ていたのでは、警察が凶悪な組織だという印象は持ちにくいであろうが、しかし、それはあくまで警察組織の最下層の話であって、組織の上層部はこれとは全く異なる性質を持っているものと考えられる。国家権力の一部としての警察組織が恐るべき腐敗・犯罪性に陥っている可能性については、たとえば、神戸の児童連続殺傷事件についての少年A君冤罪説に関する一連の記事の中でも触れた。

今日、国民の誰かが仮に自転車盗難などの被害を訴えて交番に赴いたからと言って、自らが窃盗容疑で逮捕されるようなことはないと思うが、ASKAの事件は、これから先、平凡な国民が、本気でこの国の闇・タブーに触れるような何かの事件を告発する側に回ると、それをきっかけに、警察を含め、国家権力全体から監視対象としてマークされ、社会活動が不可能となるような妨害を受け、警察に何かを相談しても、かえって疑われ、狂人扱いされ、逮捕され、隔離されるきっかけとされるような、恐ろしい社会が到来しようとしていることをよくよく物語っているように見受けられてならない。

筆者はASKAをかばいだてするためにこう言うのではなく、国民に対する権利侵害に鈍感でいると、それがいずれ全国民の身に降りかかって来ることになると言っているのである。芸能人だから、再犯を疑われたから、自分とは扱いが違うとみなすのは誰しも早すぎるであろう。
 
仮に今、ASKAが訴えた盗聴・盗撮の被害は事実であり、この度のASKA逮捕は、この組織的犯罪を隠すための国策逮捕であったと仮定しよう。

すると、浮かび上がって来る疑問は、これら二つの間には密接な関連性があって、集団ストーキングは連携プレーによる逮捕と同じく、国家権力が不都合な人間を抑圧し、追い込むための闇の統治手段ではないのかということだ。

集団ストーキングという用語は、ネット上で調べると、カルト宗教から脱退した人への報復措置として言及されていることが多く、ネット以外の世界では、そういう話は、ほとんどが薬による幻覚か、もしくは、統合失調症のもたらす妄想として片付けられて終わっているようである。いずれにしても、現実世界はこのような問題の存在自体を頑なに否定しているのである。

だが、盗聴・盗撮という問題を単純に妄想と片づけるのは極めて愚かなことである。何より、ソビエト・ロシアの歴史を知っている者として、ここではっきり言えるのは、国家権力による盗聴・盗撮は、何世紀も前かられっきとして存在しており、いわば使い古された手段であって、何ら個人の妄想の産物でもなければ、新しい発想でもないということである。

全体主義政権は、いつの時代も、自らの政策の異常さ、残酷さ、誤りを、民衆の心に単純に訴えかけるアートの形で発表されることを何よりも嫌がった。そこで、政治家だけでなく、詩人、作家、音楽家など、芸術家をとりわけ厳しい監視対象としたのである。

たとえば、19世紀ロシアの詩人レールモントフは次のような詩を書いた。
 

Прощай, немытая Россия,
Страна рабов, страна господ,
И вы, мундиры голубые,
И ты, им преданный народ.

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.



この詩には違うバリエーションもあるようだが、今はこの詩に正確かつ芸術的に完成された訳をつけることは目的とせず、単に意味を大まかに理解するだけに専念したい。もし逐語的に訳せば、次のような意味になるだろうか。

さらば、*無割礼のロシアよ、
奴隷らの国、ご主人様らの国、
おまえたち**青い制服にも、
奴らに忠実な民衆にも。

(注*無割礼と訳した言葉は、原語では「洗礼を受けていない」の意味、つまり、野蛮な、下品な、といった意味合い)
(**青い(空色の)制服とは、帝政ロシアの憲兵の制服)
 
ひょっとして、*コーカサス山脈の向こうまで行けば、
おまえの**官憲から逃れられるかも知れない、
奴らのすべてを見通す目から、
奴らのすべてを聴く地獄耳から。

(注*=僻地への兵役や流刑の方が都にいるよりもはるかにましだという意味)
(**原語では、パシャというオスマン帝国軍司令官の称号、複数形)
 
レールモントフがこの詩の中で激しい侮蔑と嫌悪感を示して糾弾しているのは、帝政ロシアの巨大な権力機構によって国民の間に徹底的に張り巡らされた監視・密告・検閲体制である。当時、ロシアの帝政権力による検閲は、ただ単に政治的な出版物やパンフレットの検閲だけでなく、あらゆる分野の出版物に及び、国民のあらゆる会話の監視・盗聴と、それに基づく密告が行われていた。貴族であっても、この監視体制から逃れられる者はいなかった。

このような徹底的な監視・密告・検閲体制は、ロシア国家の不治の病として、この国の歴史に深く刻まれ、ソビエト体制にも受け継がれる。帝政ロシアが権力を批判する文書を細部に至るまで統制し取り締まっていたと同様、特にスターリン体制になって以後のソビエト権力は、国内のすべての文書を厳しく事前検閲して取り締まりの対象とし、国民のあらゆる会話を盗聴し、国民同士による盗聴・密告体制を作り上げて、国家にとって不都合な人間を排除する手がかりとした。ソルジェニーツィンが収容所群島と呼んだ強制収容所には、国民同士の密告に基づいて「人民の敵」とのあらぬ嫌疑をかけられて秘密警察により逮捕され、証拠もなく有罪にされた数知れない人々が送られた。

だが、ソビエト体制になるよりもずっと前に、レールモントフが自らの詩に描いたのが、まさにこれと同じ世界であった。この詩人にとっては、それこそが「ロシア」であり、ロシアとこの盗聴・密告・監視システムは切り離せないものとして一体化して機能している。しかも、その奴隷のシステムは国家権力だけが独断で作り上げたものではなく、民衆の自発的協力と一体になって成立しており、そのようにして権力に自ら迎合し、媚びへつらい、屈従する国民の卑屈さ、精神的奴隷ぶりが、この誇り高い詩人には我慢がならなかったのである。

今日のロシア人は、この詩はシニカルに過ぎるものとして否定したがるかも知れない。そのような卑屈な奴隷根性を国民的歴史としては認めたがらないであろう。だが、これはロシア国家の不治の病であり、今日もそうした体質は変わらない。ロシアという国に対して幻想を持つのは早くやめた方が良いであろう。

筆者はかつて半数ほどがロシア人から成る小規模な仕事場で働いたことがあったが、そこで、毎日、毎日、ロシア人の集団と顔を合わせているうちに、普通ならば、国際結婚でもしなければ見えて来ないような彼らの国民性の負の部分を間近で観察することになった。その結果分かったのは、ロシア人には自分たちは虐げられているという被害者意識による団結力はあるが、それがあだとなって、自ら監視・密告体制を作り、信念を持たず、浮草のように力の強い者から力の強い者に流れ、何度でも寝返りながら、本心を隠して媚びへつらうという無節操ぶりであった。ロシア国民の大半はこのような無節操な人々から成ると見て良い。筋を通して権力に戦いを挑む真のインテリなど極めて稀である。

そのようなわけで、我が国の現状を相当に辛辣に批判する数多くの人々が、米国嫌いの反動のためか、今もロシアには甘い点をつけ、淡い期待を託している現状を、筆者は残念に思う。

たとえば、兵頭正俊氏でさえ「南スーダンの黙示録」(2016年12月1日)において次のように語っている。
       
 

2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチが日本にきている。

11月28日に、東京外国語大学で講演して、「日本には抵抗の文化がない」と発言した。福島第1原発破壊の福島を視察して、被災者から国の責任を追及する声が少ないことに驚いたものである。

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません」という言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。ロシアは、世界史に残るロシア革命を成し遂げ、またその革命が裏切られると、ソ連邦をも倒した

 
隣の芝生は青く見えるのであろう。だが、アレクシエーヴィチはロシアという国を十分に知った上で、以上のように発言しているのだ。それは知らない者に否定できる見解ではない。さらに、ロシア革命は、今日の言葉で言うカラー革命の一種であり、ソ連崩壊も同じことである。それらは決してロシア人の勇敢な抵抗の精神を物語る立派な歴史的事実ではない。とにかく、ロシアを色眼鏡で見て甘く評価することは、相当に危険である。この国の流血の歴史に比べれば我が国の方がまだ幾分か罪が軽いとさえ言える。
 
またもや話がロシアに飛んだので、ASKAの話に戻らねばならないが、ASKAが訴えている盗聴・盗撮などといった手法は、以上に記したように、何世紀にも渡り、国家権力が国民を取り締まり、統治を強化するために実際に用いて来た闇の手段なのであり、何も病人による筋の通らない戯言ではなく、さらに、公権力を批判する者が「狂人」や「病人」扱いされるという歴史も、今に始まったことではないのである。

いつの時代にも、国家権力は、人々が何千ページもある難解な論文や報告書を書いて政権を批判することよりも、絵画や、音楽や、詩などの、人の心に単純に訴えかける、民衆に広く理解される単純な形式による政権批判の方を目の敵にして取り締まって来た。
 
何千ページにも及ぶ論文は、読む人も限られるが、わずか数十分のプロモーション・ビデオなどは、誰でも容易に理解できる。

筆者が何を言わんとしているかもう分かる人もいるかも知れない。ASKAが訴えたような執拗かつ大規模な集団ストーキングが、もし国家権力と結びついたものであった場合、一体、それは何を理由として始まったのか。何がきっかけで、同氏はそれほど激しい妨害にさらされることになったのか。
 
誰でもすぐに思いつく重要なきっかけの一つは、 CHAGE&ASKAがかつて宮崎駿監督のスタジオ・ジブリの制作により、反原発をアピールする以下のプロモーション・ビデオ"On your mark"を作ったことである。「ああ、またもや、原発反対派による国家権力による陰謀説か。そんなものは聞き飽きた」と一笑に付すのは簡単だが、少し待ってもらいたい。
  


このプロモーション・ビデオは、Wikipediaの記述によれば、最初に公開されたのは1995年で、その後も、コンサートツアーで使われたり、2005年にはスタジオジブリのDVDにも収録されたりして、問題なく公開されていた様子なので、その事実を見る限り、最初からこのビデオが問題作として当局からの攻撃の対象となったという事実は全くないものと考えられる。

おそらく、福島原発事故が起きるまでの間は、かなりディープな問題提起がなされているとは言え、それほど物議を醸すことのない比較的無難な作品であったように思われる。

しかしながら、3.11後、権力にとって、このプロモーション・ビデオは、それまでとは全く違った意味合いを持つものとなった。すなわち、原発推進という「国策」に真っ向から逆らう、「権力に盾突く」深刻かつ見過ごせない内容の「危険作品」になったのである。

特に、当のASKA自身が明白に反原発のプロパガンダの意味を込めてこの作品を利用しようとしたことが、余計に当局の反発を買ったのではないかと予想される。

このプロモーション・ビデオのタイトルは、CHAGE and ASKAのライブとしては6年ぶりに予定されていた再始動の意味を持つスペシャルライブ2013“On Your Mark” にも大々的に利用されていた。このライブは、ASKAに「一過性脳虚血症の疑いがある」という理由で延期され、その後、完全中止になったが、この時につけられた病名が本当に正確な診断であったのかどうかについては色々な憶測が飛んでいる。

ASKAが最初に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたのは、2014年5月17日であり、この逮捕の影響により、それから約1か月後の6月18日に予定されていた上記のビデオの「宮崎駿監督作品集」の特典映像としての収録が中止になった。

筆者は、ASKAの覚せい剤使用の容疑が全て捏造であったと言っているのではない。おそらく一度目の逮捕の容疑は事実だったのだろうと想像する。だが、芸能人と暴力団や薬の使用との結びつきは、ASKAに限らず、あまりにもありふれた話でしかなく、当局はそのようなことはすべて知った上で、いつそれを大々的な事件として取り扱うかということだけに焦点を絞っていた可能性が高い。

当局は、有名人CHAGE and ASKAの華々しい再デビューと、反原発のプロパガンダのビデオが一つに結びついて、大々的に国民感情を揺さぶる現象を引き起こすことを何より恐れ、一計を案じたのではあるまいか。これを防ぐために、ライブの中止に向けて逮捕を計画しただけでなく、ASKAの名誉を徹底的に貶める執拗な報道によりビデオの信憑性を国民に疑わせ、その普及を阻止すべく手を打ったのではないかという見方が可能である。
  
さらに、上記のプロモーション・ビデオの他に、当局の恨みを買うきっかけとなったもう一つの事件が、ASKA自身が、(おそらくは国家権力と結びついた)大規模な盗聴・盗撮のシステム(集団ストーカー)の存在を告発しようとしていた事実である。

集団ストーカーの存在は、これまでネット上の妄言とされるばかりで、芸能人や著名人がその存在を認めることはほとんど無かった。影響力の大きい著名人の発言だけに、余計にそれが社会的に認知される前に早々に闇に葬る必要があったと見られる。

ASKA本人の手記によれば、同氏がこの問題に深入りするきっかけとなったのは、身近な他者が集団ストーカーの被害に遭い、自殺したという事件から生じた慙愧の念と義憤だったようである。同氏の手記を額面通りに受け止めるなら、他者の無念を晴らそうと、自らその事件に深入りしているうちに、組織的な盗聴・盗撮集団の存在を突き止め、これを追跡しているうちに、自身がターゲットとされたということになる。

だが、ASKAの手記を読むと、同氏は人を信じやすく、正義感が強く、疑うことのできない人柄の持ち主であったように見受けられてならない。そういう性格の人間を闇の中に誘導して陥れるには、親しい知人を痛ましい事件に巻き込むだけで良い。だから、真相は分からないとはいえ、監視集団の真のターゲットは、初めからASKAだった可能性も考えられる。

こうしたことは、栩内香澄美容疑者についてもあてはまる。ASKAはこの女性をも疑うことができないでいる様子だが、パソナにおける会長秘書という役職を考えるとき、おそらくこれは普通の人間ではないだろうという印象が拭い去れない。彼女はもともと一定の目的で派遣されたエージェントであった可能性が考えられる。道連れに逮捕されたのは目くらましで、当局の真のターゲットはもともとASKA一人だったのではないだろうか。
  
今回、二度目に逮捕される直前、ASKAは盗聴・盗撮集団の存在について、次のように言及していた。
   

  「ASKA容疑者 謎の言葉「ギフハブ」とは?」daily sports 2016.11.30 によると、
 
「同容疑者は警視庁に28日に逮捕される約5時間前に宮根誠司キャスターと電話で話し、その模様を29日に同番組で放送した。その際、同容疑者は「組織があるんですけど、ギフハブっていう。そこが組織を作って今…」などと自分の行動が監視されていると訴えていた。」



そこでASKAの語った具体的な内容は次のようなものだったという。
 

「ギフハブ」っていう組織があるんですけどそこが組織を作って。
今AR(拡張現実)っていう仮想現実なんですけど僕のいるところを映したりして。
携帯の中にそのアプリが埋め込まれてたんですよ。その証拠もとってるんですね。」


この秘密組織の存在は、様々な場所で、ASKAの妄想と幻覚を示す証拠のように嘲笑されているが、本当にすべてが作り話と決めつけられるであろうか。

何しろ、スマートフォンを含む携帯電話が、人々の位置情報、通話内容を含め、音声の盗聴及び盗撮に利用されうること、携帯電話を通して得られた情報をすでにCIAなどの大規模組織が大がかりに利用していることは、エドワード・スノーデンなどもすでに指摘していることであり、何ら新しい情報ではない。

それはあくまで米国の話だと我が国の人々は思って安心している。しかしながら、もしASKAの証言により我が国においても、同様の大規模監視集団の存在があることが明るみに出れば、人々はパニックに陥り、携帯電話を二度と使わないと決意するであろう。そのようなことを防ぐために、こういう話は早めに「妄想」と決めつけるのが手っ取り早い。病気でないなら、薬による幻覚、脳の破壊ということにして、「妄想の持ち主」を徹底的に見せしめに嘲笑すれば、そんな「作り話」は誰も口にしなくなる。

ところで、ARを作って、そこに現実の人物を置くことで、現実世界のパラレルワールドを作り、人間を監視するという、ASKAの語る監視手法は、上記のプロモーション・ビデオの中にもヒントがある。

"On your mark"のストーリーは、すべてがパラレルワールドから成り立っているとも言える。まず、そこでは、現実世界は放射能に汚染されて、人が住めなくなっており、人々は地下に現実を模した人工都市を作って、そこをあたかも現実世界のように思って生活している。それは人々を人為的に閉じ込める一種の「マトリックス」である。

この自由なき地下社会を支配しているのは、現実世界を放射能に汚染させて人が住めないようにした犯罪者政府であり、その犯罪者政府が、いかがわしいカルト宗教と手を結んで人心を統治しているというのが、このビデオの動かせない「現実」である。



ちなみに、このカルト宗教の掲げる標語"God is watching you"「神はあなたを見ている」は、この宗教の第一目的が、全ての人々を「監視する」ことにあるとよく物語っている。要するに、「おまえらはみな監視されているぞ」という脅し文句である。この宗教はフィクション版のフリーメーソンであり、そこで言う「神」とは悪魔を指す。

このすべてが裏返しのフィクションにおいて、主人公は、警察官の職に就いている友人同士の二人である。だが、二人がカルト宗教団体に突入するというストーリーの始まりは、そこからしておそらくはすでに幻想であり、妄想であると筆者は思う。

本当は、この世界においては、犯罪者政府とカルト集団による支配から逃れられる者は誰一人いない。現実における主人公は、カルト宗教・政府の手先としての「官憲」でしかないであろう。だが、ちょうど映画「マトリックス」がそうであるように、現実の欺瞞に気づき、これに耐えられなくなった主人公が、この「マトリックス」を脱し、勇敢に巨悪と闘うる正義の味方となるという「夢」を一人、空想の内に思い描くのである。

この「夢」の中で、主人公はカルト宗教にとらわれていた一人の翼ある少女を救出するというミッションを帯びる。が、何度も失敗しては、また最初からやり直しになる。ゲームのように、一度失敗すると、オールリセットして、また新たな策を練って、初めから出直しとなる。このストーリーでは、少女を救出して解放することが、人類全体の自由を取り戻すことと同義になっている。

その救出作戦の途中で、研究資料として政府に連れ去られた少女の位置情報を探り出すために、主人公はパソコンに向かう。パソコンの上には、不思議の国のアリスに登場するウサギを思わせる置物が置かれている。

少女の位置情報は、パソコンの向こうの仮想現実の中で見つけられる。「マトリックス」の世界に存在するすべては、コンピュータープログラムによって監視され、記録されているので、システム上で探り出すことが可能である。

CHAGEを思わせるもう一人の主人公が作ったものは、無線機のようにも見えるが、少女が監禁されている装置のロックを解除するためのリモコンであるらしい。





 
  
なぜこの少女は国家による研究材料にされて、試験管のような装置の中に閉じ込められたのであろうか?

推測に過ぎないが、この少女にはおそらく、放射能を無害化する特殊能力があるのだと思われる。そのことは、このストーリーの最後に、汚染された町で、少女一人が生き生きと羽ばたいて空へ向かっていく様子からも理解できる。

犯罪者政府とカルト宗教は、放射能を無害化する技術が一般大衆に知れ渡ると、地球が再生され、自分たちが人々を脅し、「マトリックス」である地下都市に監禁する口実がなくなるので、自分たちの支配が永遠に続くように、少女を隔離することによって、その技術を政府が独占し、外へ知られないように手を打ったのである。

むろん、この少女は存在自体が、主人公の「妄想」の産物である。実際には、この少女はカルト宗教に捕われて、無残に犠牲にとされた信者(もしくは奴隷)の一人に過ぎない。その犠牲者の少女に、地球再生の鍵が秘められているというのは、主人公の「夢」でしかない。

だが、その「夢」においては、政府と宗教団体の犠牲となって閉じ込められている一人のか弱い少女を救出して、汚染区域に解き放つことは、少女一人だけでなく、地球全体が救出される道である。少女が持つ放射能を無害化する力によって、汚染区域は、長い時間をかけて、再生の道を辿り、それによって地球は再び人の住める場所となり、未来の人類に、犯罪者政府とカルト宗教による支配から逃れる道が開かれるのである。

つまり、一人のか弱い人間を救うことが、地球全体の救済へとつながっているのであって、それを成し遂げることが、主人公が真の英雄へ至るミッションである。主人公二人は、汚染区域に入ったことによって、死ぬ羽目になるが、少なくとも、自己を犠牲にして、地球を汚染から解き放つ方法を提供することで、真の英雄になれたのである。

このビデオはフィクションとはいえ、現実世界の歪みを鋭く暴いて糾弾する意味を持っている。それは放射能の脅威(だけでなく人類の直面するあらゆる問題)を逆手ににとって、その脅威を悪用して人々を脅しつつ、カルト宗教と結びついて、人々の自由な暮らしを奪いながら、恐怖によって人心を支配する政府の存在を指摘していることである。その犯罪者政府にとって、放射能汚染という恐怖は、永久に取り除かれずに存在していた方が、むしろ、好都合なのである。

3.11以降、このフィクションに込められた現実の矛盾を暴きだす力が、あまりにも強烈なメッセージになったがゆえに、当局はこれをお蔵入りとし、闇に葬る必要があったのである。

そのために、フィクションの物語を裏返しにして、ASKAを模した主人公が、現実世界においてはスキャンダルと恥辱にまみれた「容疑者」となり、決して「英雄」にはなれず、少女も飛び立てず、再生の道が絶たれるように、悪意を込めて物語の事実をひっくり返したのである。

この悪意ある監視集団は、そのために現実とは別のもう一つの仮想現実であるARの世界をコンピュータ内に作り、そこでASKAを監視の対象、さらし者にした。そのARにおいて、彼らはどうやって同氏を罠にかけ、貶めるかを話し合ったのであろう。そして、その悪意が現実世界にも及ぶように、周到な計画を練ったのである。現実世界において、同氏をどんな風に罠に引き込んで凋落させるかを話し合ったのであろう。

「落ちて行くだけのコインは二度と戻らない」とか「流行りの風邪にやられた」などの歌詞を彼らは弄び、悪い事柄だけが現実になって降りかかり、作品自体が本人を嘲弄する手段となるように粋を凝らしたのである。

この犯罪者集団は、おそらくはASKAの他にも自らの脅威となりうる人間に対して、ずっと同じ方法で監視を繰り広げ、その人物が真の社会的脅威となる前に、あらゆる方法を使って社会から排除されるよう、引きずりおろして来たものと想像される。小沢一郎、植草一秀、鳩山由紀夫などの政治的大物は言うまでもないが、影の政府にとって不都合な人間を欺き、その人間性を貶め、周到に罠にかけるのが彼らの仕事であり、今やその手法はただ単に社会的な大物だけでなく、一般人にまで及ぼうとしている・・・。

しかしながら、こうした恐るべき推測を一旦、脇に置いても、このビデオは宮崎駿の作品にしては、随分、不吉な印象である。特に、この翼ある少女には、宮崎作品に登場する多くの女性主人公のような主体性があまり感じられず、彼女はただ受動的に救いを待っているだけの、意志を奪われた無力な人間であり、どちらかと言えば、『風立ちぬ』に登場する女性のように、悲しい犠牲者の風貌をしている。このストーリーの中では、本当の彼女はきっと、翼もなく、ただ痛ましい犠牲となって死ぬおびただしい屍の一人に過ぎないのであろう。この犠牲者としての風貌の中には、汚染された地域の被災者の悲しみのすべてが、隔離された人類全体の悲しみが投影されている。

この哀れな犠牲者の少女を解き放つために、結果的に、二人の主人公も命を失う(としか思われないのだが)というエンディングもかなり悲愴である。話の運びのテンポは良いが、『風立ちぬ』もそうだが、エンディングが、ハッピーエンドなのか、悲劇なのか分からないという消化不良を観た者に引き起こす。『風立ちぬ』の主人公は、明らかに体制側についた人間であり、自らの想像力を悪なる戦争のために利用され、妻を救う手段も見つけ出せなかった無力な人間である。彼には妻の愛情に報いる術もなく、彼女が死の床についてから、病める時も、人生を共にしてやるという伴侶のつとめを果たせず、むしろ戦争の大義を優先したような非力で無能な男性である。それとほぼ同じように、このビデオの中でも、主人公が英雄になれるのは、自分の空想の中だけである。

もしかすると、このあたりが、現在の日本人一般男性の思考と能力の限界かも知れないと思う。何しろ、この国は、真の意味での精神的自立を成し遂げたことが今まで一度もないのだ。だから、これまで、この国で生きるということは、多くの人々ににとって、マトリックスの一員、体制側の人間として生きることしか意味しなかった。特に、男性が、社会に認められようと思ったときに、完全に反体制的人間として、マトリックスを告発する側に立つことはほぼ許されなかった。こうした意味で、我が国の遅れて閉塞的な文化的・精神的な状態はロシアに非常によく似ているのである。

だから、この国の男性たちはおおむね誰もが自分の魂をどこかで置き去りにし、権力に売り渡しながら生きて来たのであり、それが悪であることは、本人の魂が重々知っている。だが、それより他の生き方を選択できないので、その人々は自分の心の本当の願いを、フィクションや、仮想現実や、空想に託すしかない。上記のプロモーション・ビデオも、ある意味では、良心を曲げられ、屈従を強いられた人間の慙愧の念と良心の叫びから出て来る「妄想」や「幻覚」に近い現実逃避としての「夢」のように見受けられる部分がある。

しかし、ASKAはおそらくこの仮想現実の物語を地で生きようとしていたのであろう。カルト宗教団体に捕われ、犠牲となった少女を見捨てておけなかった主人公のように、集団ストーカーの犠牲となった死んだ友達をも放っておくことができず、原発事故被害を見過ごしにすることもできず、犠牲となった人々を助けたいという生来の義憤と同情から、深い暗闇に自ら首を突っ込んで行き、自分自身もその犠牲となったのである。

だが、その同情と義憤にこそある種の非常な人間観の甘さ、お人好しさがあったのだと言える。結局、人間が自分の手で人間を救おうとする試みは必ず頓挫し、犠牲は犠牲の連鎖を生むだけで、どんなに美しく見える人の良心も、愛情も、義憤も、決して人を生かす真の力とはならない。人間の救いは神にしかなく、人間自身には義はないからである。犠牲の連鎖を抜け出る新たな生き方が必要なのである。

「その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。」
 (詩篇第68篇5-6節)

  
神はどんな状態からでも信者の家庭や生活を回復できる。神は信者のどんな失われたものをも回復できるし、無から有を作り出すことのできる方である。

むろん、家のない人に家を供給することもできるし、生活の糧も与えることができる。家族のない人に家族を与えることもできる。

神は絶望の淵にいる人々に希望を与え、仕事を失った人たちに良い仕事を与え、主に信頼する者たちに、生きるために必要な全ての糧と、未来の希望を用意することができる。

我らの望みを実現して下さる方は神である。
我らの万軍の主、ただお一人の神である。
  
神の助けを受けるためにただ一つ必要な条件は、神のみを頼りとすること、主イエス・キリストの御名のみにより頼み、キリストのみに栄光を帰すること、人間の助けに頼らないことである。
 
さて、上に書いたような一つ一つの恵みは、私の人生を通しても豊かに立証済みである。

他方、カルト被害者救済活動なるものに関わり、自分自身を被害者と考えて、神と教会や牧師や、他のクリスチャンを訴えることだけに精を出している人間の人生には、この先も、永久に何の解決もないだろう。

100%保証するが、自分を被害者だと自称している人が、神の幸福にあずかることは決してない。
 
しかし、私自身は、この活動と完全に縁を切って、アッセンブリーズ教団や、村上密氏や、彼を支持する人間たちと訣別してから、家庭のすみずみに至るまで、幸福が回復されたのである。

父は以前よりももっと話をじっくり聞いてくれるようになったし、姉妹関係も回復した。 悩みの時には、親族だけでなく、助けてくれる人たちが常に用意されている。

たとえば、友が必要だと主に願い出れば、神が友を送って下さる。
専門の仕事が必要だと願い出れば、神がこれを与えて下さる。
生活の糧も、ペットも、家も、何もかも、主に願って与えられて来たのである。

そして、私自身の安全も、我が実家も、常に守られている。

これは、私の仕事が常に順調で、私に特別な才覚があって、人並み以上に恵まれた生活を送って来たから言うのではなく、むしろ、私は仕事を変えたり、願いが変わったり、明日の保険などという考えとは無縁のところで生きて来た。

が、それにも関わらず、毎日、毎日、必ず、神が必要の全てを備えて下さり、私の人生を守って下さり、しかも、豊かに守って下さることを、これまで一日、一日、しっかりと確かめて来たのである。
   
カルト被害者救済活動なるものにまだ接触があった頃、私は結局、この活動に何らの希望も解決も見いだせず、将来への展望も何も見いだせないまま、その頃に住んでいた家を手放して、実家に帰らざるを得なくなるという出来事があった。

いよいよ郷里に帰るというその時、筆者が当時、助けを求めて通っていたアッセンブリーズ京都教会の村上密牧師の夫人が、筆者に向かってこう言い放った。

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」

耳を疑うようなこの言葉を聞いたとき、どれほどこの婦人が心冷たい人間であるかを筆者はよくよく思い知った。そして、このような人物から離れられることは幸いだと確信したのである。

つまり、村上牧師夫人は、「あなたがいなくなって寂しくなるわ」と、お世辞でも別れを惜しむでもなく、「なかなか会えないけど、元気で頑張ってね」と励ますでもなく、

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」と、それだけ冷たく言い放ったのである。要するに、そこには、「あなたがいなくなってせいせいするわ、二度と戻って来ないでね」というニュアンスが、はっきりと込められていたのである。

実際のところ、この夫人の冷酷さについては、カルト被害者救済活動に関係していた被害者たちの間でさえ、定評がある。まるで氷の人形のように冷酷で無慈悲かつサディスティックだというのである。

村上夫人の旧姓は津村である。筆者はこの女性の父親である牧師の人柄をよく知っている。その牧師を筆頭に、元津村ファミリーの人間は、大体みなそうなのだが、この女性も、まるでサイボーグ戦士のように無感覚で、他人の心の痛みというものを、およそ理解したり、慰めたりできるような繊細な心の持ち主ではない。

だから、もし誰か心傷ついている時に、相談相手が欲しいと願うなら、絶対に、村上夫妻に助けを求めることだけは、やめておいた方がいい。問題が解決するどころか、彼らの餌食とされ、下手をすれば、それをきっかけとして、死へ追いやられることになるだけであろう。

特に、夫人には何も打ち明けてはいけない。まだ癒えない傷を、切れもしない鈍い刀で無理やりグイグイとこじあけられるように、傷口を押し広げられ、徹底的に痛めつけられることは請け合いである。村上夫妻はサディストなのではないかと感じずにいられないほどのやり方である。

言っておくが、これは筆者が一人だけで主張していることではなく、被害者の間での定評なのである。
 
おそらく、カルト被害者の中では、このような悪質な「カウンセリング」の結果、死に追いやられた人たちもいるのではないかと想像せずにいられない。

こうして、筆者はこれらのサディストたちの親子の両方から逃れて来たことになるが、もうすでに彼らと手を切って何年になるか分からないのに、未だに筆者には、この教会と牧師の関係者とおぼしき連中からの嫌がらせが続いている様子を見れば、一般の人々にも、ここで筆者が主張していることが、嘘とは言えないことがよく立証されるであろう。

沖縄の被害者は村上ファミリーによってもっとひどい恫喝の下に置かれているともっぱらの評判である。
 
このような事実があるわけだから、クリスチャンはどんなに不安を覚える出来事に遭遇しても、カルト被害者救済活動なるものには決して関わらないことをお勧めする。アッセンブリーズ教団にも決して足を向けてはいけない。
 
さて、上記のような牧師夫人の捨て台詞と共にその教会を去ることになる前に、一度だけ、筆者は、関西での生活に不安を覚えたことを、この牧師夫人に打ち明けたことがあった。

当時、筆者はバイクで通勤していたので、もし通勤中に交通事故に遭ったならば、どうすれば良いかという不安が心によぎった。もし自分に万一のことがあると、親族が近くにいないので、すぐに誰かに助けを求められないという不安を語ってしまったのであった。

その時に、この牧師夫人が筆者に答えた言葉が、これまた典型的なサディストとして非常に奮っていた。彼女は表情を変えもせず、こう言い放ったのだ。

「遺書を書いて携帯しておけばいいじゃない。『もし私に万一のことがあったら、村上に葬儀をして下さい』って」

筆者はこの答えを聞いたとき、一体、これが牧師夫人の言葉だろうかと絶句した。

「大丈夫、通勤の道も、神様が必ず守ってくれるわよ、それを信じましょうよ」と励ますでもなく、「私たちがついているわよ。何かあったら、すぐに私たちに電話してね」と言うでもなく、

「もし不慮の事故で自分が死んだ時には、村上密に葬儀をして下さい、と遺書に書いて、その遺書を常時、懐に携帯しておけばいいじゃない」

と言ったのである。

まるで筆者が事故死しても当然であるとでも言いたげなこの死に対する消極的かつ絶望的で不信仰で投げやりな答えと、筆者がまだ何も言わないうちから、筆者の葬儀が京都アッセンブリーズ教会で行われることを当然視しているかのようなこの答えには、本当にドン引きしてしまった。

そして、筆者はあまりにもこの牧師夫人の答えに呆れ果てたので、夫人には面と向かって何も言わなかった(言っても無駄であろう)が、その時、心の中で、「絶対に筆者は死なないし、こんな冷酷人間の思い通りになって、こんな連中に葬儀を頼むようなこともしない」と決意したのであった。
 
大体、そんなことが起きたのでは、神の名折れであり、地獄の笑い者にしかならないであろう。一体、そんな死に方のどこに信仰の意味があると言うのか、信仰者の名が泣く。神の助けを信じると言いながら、悪魔の吹き込む嘘の不安に負けて、犬死するなど言語道断であり、絶対にそのよう悪しき前例を作ってはいけないと、断固、決意したのであった。

当時、筆者の信仰はまだ人間に頼ったり、他者に不安を打ち明けたりするほど未熟で、神の守りの万全さを自ら決意するまでには至っていなかったが、それにしても、そんな当時の筆者にも、上記の牧師夫人の答えは、クリスチャンとしてあるまじき言語道断なものであり、そこには死に対する力強い抵抗もなく、死を打ち破る信仰の勝利もなく、もしかけらほどでも信仰を持っていれば、絶対に出て来るはずのない臆病者の悪魔的・敗北的回答だと理解するだけの力はあった。

だから、神への信仰そのものを全否定し、弱い者たちを冷酷に突き放し、人が死ぬことを当然視してそれを助長しこそすれ、死に対して全く抵抗しようともしないこの牧師夫人の不信仰で冷酷な言葉を、筆者は人に生きる力を失わせるための悪魔の策略としてきっぱり退け、夫人の勧めに従って遺書を書くことを拒み、なおかつ、村上密に葬儀を頼むという言語道断な提案をも退けて、その当時、筆者が親交を結んだ信頼できるクリスチャンの名と携帯番号をノートに記して、「万一の際は、この人物に連絡してください」というメモだけを携帯し、絶対に、何があっても、村上密には連絡が行かないように布石を打ったのであった。

むろん、アッセンブリーズ教団と京都教会といかなる縁も持たない今、筆者に関して、この牧師が乗り出して来ることは決してない。

だが、今ならば、筆者は信仰が成長したので、たとえ上記のような状況に置かれても、もう不安を覚えることはないし、誰にも助けを求めることはないであろうと言える。そもそも、筆者は自らの死に備えて、わざわざ遺書など携帯することはない。それは、筆者の死がもし避けがたいものとして近づいて来る時には、必ず、神が知らせて下さると確信しているからである。

それに、第一、クリスチャンが、携え上げや殉教を願うこともなく、ありふれた事故死や、畳の上での死を当たり前のように受け入れているようでは、信仰者としてもう終わりである。

クリスチャンにとっての死とは、生と同じく、神への証でなければならないのだ。それはありふれた出来事ではなく、主への献身の完成でなければならない。

今、筆者はバイクだけでなく車も運転する。必ずしもいつも近くに駆けつけてくれる誰かが常にいるという状況ではない。

しかし、筆者が乗っているのは、信仰という乗り物であり、その同乗者は神である。神が私の保険であり、私の最も注意深い同乗者であり、助手席のナビゲーターである。だから、私は「もし事故に遭ったなら・・・」などという想定を考えることさえなく、困ったことがあれば、「主よ、どうしましょうか?」と相談する。

これは筆者が格別に熟練したドライバーで、腕に相当の自信があるから言うわけでもないし、筆者の車が特別頑丈にできているためでもない。道に迷うことから、機械のトラブルに見舞われることから、日常生活で、全く相談事が生じないことは決してない。だが、それらはすべて主に持って行くのである。実際、筆者が長年のペーパードライバーから特別な講習もなしに一直線にドライバーに戻った時にも、すべて主のみが守り、助けて下さったのである。

頑丈で確かなのは車でもなければ筆者の腕前でもなく、主の確かな守りである。

さて、こんな有様だったので、カルト被害者救済活動と訣別したことに、筆者は何のためらいも後悔もありはしない。あんな風に冷酷でサディスティックで生きる希望を持たない敗北的な連中と関わっていれば、信者はいつしか最初に持っていたはずの生きる望みさえ奪われて、彼らの嫌がらせの果てに精神的に殺されて本当に死者にされてしまうだけである。

別の記事に書いたが、当時、アッセンブリーズ教団に属していた鳴尾教会で、村上夫人の父である津村牧師に関わってボロボロになるまで使役され、マタハラにも遭い、大切な子供を失った伝道者夫妻の話も今日に伝わっている。だから、筆者が上記のように書いたからと言って、それは決して誇張ではないと確かに言える。
 
神でないものに助けを求めれば、悪魔がつけこんで来るだけである。その挙句の果てに行き着く先は、死でしかない。だから、生きていたいという望みがわずかでもあるならば、一刻も早く人間の指導者に助けを求めることをやめて、そんな敗北の道は早々にお断りするにこしたことはない。

さて、この運動を離れたのはもうはるか昔のことであるが、筆者には、それ以来、家を失うなどということは、一度も起きたことがない。
 
かえって、アッセンブリーズ教団に残った信徒が家を失ったという話を聞くばかりである。

その信者は、かつて筆者がカルト被害者救済活動と対立していたことを、まるで筆者の人徳のなさの結果であるかのように責め、嘲笑していた。要するに、筆者が不器用だから人と対立しているのであって、皆と仲良くしていれば、そんな対立は起きるはずなく、筆者はこの運動の支持者とも和解すべきと彼女は言うのであった。
 
彼女には、自分なら決してそんな対立に巻き込まれはしないという自負があって、自分の八方美人性によほどの自信があったのであろう。何しろ、アッセンブリーズ教団の人間なのだから、そう考えたとしても、不思議ではない。そして、筆者を支援するように口では言いながら、陰では多くの信者たちに、筆者に対する侮蔑的な見方を植えつけていた。
  
だが、筆者はその八方美人的な自称信者の上から目線で自信満々な忠告を聞かなかった。
 
何しろ、神に敵対する人間たちと仲良くすることが信仰の道ではないのである。主に対して不忠実で、聖書の御言葉に従わない人間とは、袂を分かたない限り、自分自身にも彼らと同じ呪いを招くことになるだけであることは、その頃には、もう十分に理解していた。

汚れたものとは分離せよ、それが聖書が随所で信者に警告している原則である。

だから、筆者にはアッセンブリーズ教団に戻る気もなかったし、カルト被害者救済活動に戻る気もなく、その信者の助言を聞く必要もないと分かっていた。さらに、その信者と関わる必要もなかったのである。その最後の点だけが、その頃には分かっていなかった点であった。筆者はその人も「信者」だと思っていたからだ。
 
さて、神に祝福されるための道は、御言葉に忠実に従い、神に従わない悪人どもと手を切ることである。人に好かれ、世の覚えめでたい人間になることなどが信仰生活の目的では決してないのである。そのような生き方を推奨し、神にではなく、世に色目を使って媚びる人間とは早く訣別することが肝心である。
 
さて、話を戻せば、筆者の「貧しさ」や「不器用さ」ゆえの苦労を、さんざん他人事のように嘲笑し、自分ならばもっとうまくやれると上から目線で見下しながら、忠告を繰り返していたその信者は、自分と同じ病院で治療を受けていた自分の障害者の友人にも、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから、あなたとはさよならする」と言い放って、その病院を去って行った。

しかし、その言葉通りに彼女はその後、豊かな生活を送るどころか、かえって夫の給与が下がって、家を手放して、郊外にある実家に戻らざるを得なくなったのであった。

夫を持たない天涯孤独かつ重度の障害者である闘病生活の仲間と、筆者の悩みと孤独の多い信仰生活を、まるで不器用さの証であるかのように、さんざん上から目線で嘲笑した信者の行く末であった。

もしそのアッセンブリー信者の筆者への忠告が正しかったのならば、決してそんな結末にはならなかったであろうと筆者は確信している。設備の良い病院で治療を受けると同時に、より良い家に住み替えるくらいのことができたであろう。

何しろ、どんなに些細なことがきっかけであれ、信仰者がやむなく生活を縮小し、持ち物を手放し、家を失う、という結末は、悪魔を大喜びさせるだけだからである。それはあたかも神の助けが不十分であり、なおかつ、信者が不信仰であることの現れのように世には受け取られる。

だから、もし本当に神を信じているならば、信者は決して自殺によって犬死になどしてはならないし、どんな持ち物も安易に手放してはならないし、世の情勢が悪くなったからと言って、それに影響されて貧しくなって行くこともない。

どんな窮地に追い込まれても、そこから神の偉大さを、信仰を通して立証できるだけの勝利をつかみ取らなければならないのだ。
 
ところが、彼女は、人前で自分の裕福さと器用さ(立ち回りの上手さ)を誇って、自分ほどに器用に生きていない人間を見下して嘲笑していたにも関わらず、時代の趨勢の通りに、より貧しくなっていくという結果を避けられなかったのである。それは、その信者の誇っていた世渡りの才覚が、何ら世の情勢の悪化に立ち向かう力とはならなかったことをはっきりと物語っている。

世と馴れ合う人間は、世が「豊かになれ」と言ってくれる間は、豊かになるが、世に「貧乏になれ」と言われたら、それに全く立ち向かう力を持たないのである。そのような人間は、もし世から「死ね」と言われたら、本当に死んでしまうのに違いない。つまり、彼らが信者を名乗っているのはほんの口先だけのことで、実際には貧しさや病や死の圧迫に対して、信仰によって立ち向かう術を全く持たないのである。一体、そんな信仰に意味があろうだろうか?

我らの神は、そんな時にこそ、我らの力強い助け主となって下さる方である。我らの神は、やもめや、みなし子や、よるべのない者たちを見捨てず、彼らが追い詰められた時の最も力強い砦、最強の保護者である。我々が最も弱く、最も策なく、窮地に追い込まれているようなその時こそ、我らの神の出番があり、神の全能の力が現れる。我らに神以外の全ての助けが断たれるその時にこそ、神の力強さが最も大胆に現れるのだ。
   
それなのに、アッセンブリーズ教団にいるこの人々たちの主張の何と弱々しく敗北的なことだろうか。彼らの言う「信仰」なるものは、この世においてあらゆる死の圧迫に大胆に立ち向かうために全く役に立たない非力なゴミ・ガラクタでしかなく、むしろ、速やかにあの世へ渡って自分を慰めるためのパスポートでしかない。悪魔は大喜びであろう。そのようなものは断じて信仰と呼ばれるべきではない。

だから、そんな様子を見るにつけても、アッセンブリーズ教団やカルト被害者救済活動を擁護することは、誰に対しても、呪いに満ちた悲惨な結果しか招かない、と改めて筆者は確信している。この運動は、世の方しか向いておらず、神の方を向いていないからだ。悪魔と世のなすがままである。それでいながら、どうやって天に蓄えられた宝を信仰によって地上に引き下ろすことなどできよう。こんな運動に関わりながら、神に祝福された人生を送るのは無理な相談である。
 
村上密は、自殺した人間を責めたり、罪に問うのは残酷であって、自殺者は神に拒まれ、天国へ行けないという考えは、クリスチャンの偏見だ、などという趣旨の記事を繰り返しブログに書いているようである。要するに、自殺者も天国に行けるし、神に受け入れられるかのようなデマの流布に加担しているのだ。

このような屁理屈は、死に対する何の抑止力にもなりはせず、死を願う人たちの心の願望をいたずらに助長するだけである。

「自殺しても、罪にはなりません。天国にも行けるし、神様も分かってくれます」
 
そんな風に、人々の自殺願望に太鼓判を押し、死へ向かって背中を押すような、むなしい自己安堵の言葉を、自称「被害者救済活動」に携わる牧師が投げかけているのだから、世も末、言語道断、笑止千万な話である。しかも、それが牧師を名乗っている人間の言葉なのであるから、全く呆れ果てる。

そこに、一体どんな「救済」があるというのか? 死が救済だとでも言うのであろうか?
 
そのような主張から透けて見えてくるのは、この牧師夫妻に関わったために、実際に死に追いやられた被害者が相当数存在するのだろうという暗黙の事実だ。

彼らは、自分たちが救えなかった被害者への無念、自分たちの非力さ、不信仰という罪を覆い隠すために、上記のように自殺者を擁護し、自殺を後押しするような主張をしているだけである、筆者にはそうとしか見えない。
  
だが、キリストは、死に打ち勝った方であり、信じる者に豊かに命を供給される方である。

キリストは、カルバリで悪魔を打ち破り、我々を悪魔のもたらす全ての死の恐怖から救い出し、我々を死の奴隷状態から実際に解放して下さった方なのである。
 
だから、一体、この方への信仰を持っているのに、なぜ、我々が依然、死に怯えて暮らさねばならない理由があるのだろうか。いや、我々は死に立ち向かい、これを断固拒否し、撃退しなければならないのである。
  
筆者自身の確かな経験に立って、ここに警告しておくが、人間に過ぎない村上密に助けを求めた人間は死ぬだけであろう。彼らは救済にもあずかることはないし、受けた被害も回復されない。むしろ、持っていたものまで取り上げられる。

しかし、主イエス・キリストに助けを求める人間は、これらすべてを回復され、単に死に打ち勝つどころか、神の満ち満ちた命の豊かさに至る。
 
だから、筆者は、カルト被害者救済活動に失望し、一旦は、郷里に帰ったが、その後、信仰によってまた新たな家を手に入れて独立できたし、仕事も与えられているし、関西の地を去って後、今度は関東にやって来ることが出来たので、前よりも大きなチャレンジに至った。

まだまだ、このチャレンジは続くのである。むろん、郷里は自然が豊かで食べ物が美味しく、いつでも帰りたいという誘惑はあるが、キリスト者の道は「出て来たところに戻る」ことにはなく、「前に向かって身を伸ばし」、常にまだ見ぬ地へ、天の都を目指すことにある。
 
こうした事柄は、もし筆者がアッセンブリーズ教団や被害者運動などというものにすがっていれば、絶対に起きなかったことばかりで、目に見える人間に助けを求めて、見えない神に従わないことの不毛性をよく物語る事実である。
 
だから、貧しい者はただ主イエス・キリストの御名にすがり、神にのみ助けを求めるが良い。もし本当に神だけに栄光を帰するならば、主は御名に信頼する全ての人たちの願いに応えて、豊かな命を与えて下さる。

神の家族に加えられた人々は、もはやみなし子でもなければ、やもめでもない。神が保護者なのだから、地上の誰にも増して富んでいる人間であり、キリストと共に、天の相続財産が約束された御国の後継者である。

福音書の中で、放蕩息子が帰宅した時に、父親が彼に新しい服を着せ、履物と、指輪をはめてくれたように、神はあらゆる贈り物で、信じる者たちの人生を満たして下さる。
 
だから、真に恵まれて豊かで幸福な人生を生き、人間として地上に生まれて来たことの醍醐味を味わいたいならば、カルト被害者救済活動などという汚れた運動とはさっさと手を切り、被害者をダシにして自分の栄光を求めるような牧師への期待は、可能な限り早く捨てることである。

そして、まことの創造者たる神に立ち返り、神だけに栄光を帰して生きることである。

この唯一の神、我らのまことの造り主なる神を退け、神と教会とクリスチャンを訴える道を選んだ人間には、破滅しか降りかかるものはない。

村上密の最期は、自身の予告にふさわしいものとなるだろう。つまり、彼が自殺を擁護しているのは、自殺した被害者のためではなく、実のところ、自分自身の未来への自己弁明のためなのではないかと思わずにいられない。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。」(ローマ8:6)

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る
  

さて、前稿「カルト被害者救済活動の反聖書性について キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③」では、プロテスタントにおける御言葉中心主義を「思い上がりに基づく傲慢な排他主義」として非難することで、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを見て来た。

そして、こうした人々は、プロテスタントにつまづいているのでも、信者につまづいているのでもなく、実際には、聖書の御言葉の持つ「切り分け」や「二分性」につまづいているのであり、とどのつまり、「狭き門」であるキリストの福音そのものにつまづいていることを見て来た。

そうである以上、聖書の御言葉の持つ「二分性」や「排他性」を否定する人々が、やがてキリスト教そのものを拒んで神に敵対するに至るのも不思議ではない。

だが、上記のようにあからさまな御言葉の否定に至らずとも、ペンテコステ運動のように、人間の感覚的陶酔をしきりに強調することによって、「人の五感にとって心地よい福音」を作り出し、御言葉に基づく厳粛な分離や切り分けを曖昧にし、信者が御言葉を守り、御言葉のうちにとどまる必要性をおざなりにする主張も存在している。

キリスト教そのものを破壊することが目的であるかのように、諸教会を訴え、信者を裁判に引きずり出しては、盛んにキリスト教にダメージを与えて来たカルト被害者救済活動が、まさにペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは実に興味深い事実である。

カルト被害者救済活動は、ペンテコステ運動を率いる最大の宗教団体であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役の牧師である村上密氏と、かつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に所属し、同教団の信仰生活につまづいて他宗派に去りながらも、依然として、同教団の村上牧師を支持する杉本徳久氏が中心的に率いて来たことで知られる。
 
杉本徳久氏が「神々の風景」という題名のブログを執筆していることなど、様々な点から判断して、同氏が到底、キリスト教の正常な信仰を持っているとは言い難いことを当ブログではすでに幾度も指摘して来た。(おそらくは、「神々」という言葉も、彼ら自身(生まれながらの人間)を指しているのだろうと筆者は推測している。)

だが、同時に、キリスト教界の偽りを告発し、被害者運動とは明確に一線を隠しながらも、杉本氏らとの争いを通じて、信者を裁判に引き込む役割を果たしたKFCのDr.Lukeも、実際には、彼らの活動を補完する役割を果たしたことも、当ブログでは幾度も指摘して来た。(記事「キリスト教界と反キリスト教界は同一である~KFCはどのようにキリスト教界と同一化したか~」参照。)

KFCのDr.Lukeのミニストリーもまた、ペンテコステ運動の深い影響を受けたものであることは、一見してすぐに分かる。Dr.Lukeへのペンテコステ運動の影響は、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒であったBr.Takaこと鵜川貴範氏をメッセンジャーに据えるよりも前から始まっていた。

そこで、上記の人々は、それぞれに立場は異なっているが、みなキリスト教界に何らかの形でつまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して尽きせぬ憎悪と敵意を心に持ちながら、キリスト教界を告発することを生業とし、なおかつ、今日に至るまでペンテコステ運動と深い関わりを持っている点で共通している。
 
同時に、自らは聖書の二分性を否定するか、曖昧にし、御言葉を守っていないにも関わらず、キリスト教界の誤りを糾弾し続けている点においても一致している。

彼らの言動は、すべてにおいて「どっちつかず」の「いいとこどり」である。すなわち、一方では、自ら信者を名乗ることによって、クリスチャンの善良なイメージを大いに利用して、世間の信頼を勝ち得て、人前に栄光を受けようとする。ところが、他方では、キリスト教界に起きる様々な不祥事をあげつらっては、キリスト教界を断罪し、信者の無知をひどく嘲りながら、キリスト教の「不備」や「欠点」を暴き出しては強調し、このの宗教のイメージを貶める。

彼らは、自分には一般の信者以上に物事が分かっていると考え、信者を見下しては、断罪するか、あるいは上から手を差し伸べることにより、常にキリスト教界に対して優位に立とうとするが、結局のところ、彼ら自身が、全く御言葉を守っておらず、その中にとどまっていないのである。

KFCの「セレブレーション」の内容の偽りに関しては、東洋思想に関する論稿が終わり次第、分析を進める予定であったため、今まで筆者は内容を詳細に振り返ることがなかったが、しかしながら、改めて内容を分析するまでもなく、以下のような標題を見るだけで、ここまで病状が進行していたのかと驚くばかりである。善良なクリスチャンには、この集会がどれほどひどく聖書から逸脱しており、どんなに恐ろしい結末へ向かっているかが見て取れよう。

以下は杉本徳久氏の「神々」と同じく、極めて恐ろしい告白である。これこそ御言葉の二分性を否定し、キリスト教の「病理」を主張する者たちの行き着く先であり、こうしてアダムを神格化して自ら神と名乗ることこそ、ペンテコステ運動の霊的な本質なのだと言えよう。

悪魔の願望は、神を押しのけて、己を神とすることにある。以前、筆者は記事「カインの城壁 旧創造を弁護するために現実を否定して滅びを選ぶというグノーシス主義者の末路」において三島由紀夫の末路と重ねて、KFCの行く末について述べたことがある。下記のような告白をDr.Lukeと共に行った者たちには、厳しい末路が待ち受けていることであろうと思う。筆者はとうにこの集会を去っていることを改めて神の憐れみに満ちた采配として喜びたい。
  
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの芽が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:4-6)
 

  

ここまで「病理」が進行すると、
もはや解説も不要であろう。
ローカルチャーチの教えとペンテコステ運動と
心理学とサンダー・シング等々、すべての教えの
「いいとこどり」をした結果の結論である。
むろん、聖書についても「いいとこどり」をしたのである。
 このメッセージの冒頭で、ルーク氏はキリスト教界の
罪による癒着という「病理」を批判しているが、
最後には自ら同じ罠に落ちていることに気づいていない。
すなわち、「神が人となって下さった」点だけを強調する
ことにより、キリストを罪人のレベルにまで引き下げ、
人(アダム)が十字架の死を通らなければ、
神に受け入れられない事実を巧妙に覆い隠している。
アダムの神格化という、ペンテコステ運動と
ローカルチャーチの誤りを引き継いで、ついに
自ら神と宣言するにまで至ったのは恐ろしいことである。

 
  



10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。


さて、これからいよいよ上記の恐ろしい各種の運動のように、御言葉の「二分性」を否定し、十字架の切り分けを曖昧にする思想が、「神は唯一である」という聖書の真理に逆らって、自ら神になりかわろうとする試みであり、その根本に横たわるものは、聖書の神に反逆する東洋思想(グノーシス主義)であることを見ていきたい。
 
さて、聖書は初めから最後まで分離と切り分けに満ちている。天と地、光と闇、神と悪魔、造物主と被造物、堕落したこの世と来るべき世、霊と肉、男と女、父と子・・・。

聖書の御言葉の持つ二分性は本来的にすべて「神は唯一である」という事実に由来する。すなわち、神は絶対者であって、創造主であり、すべてを切り分ける主体である。他方、唯一の神以外の全てのものは、すべて神によって「造られた者」であり、神に「知られる者」という客体である。
 
このように、「神は唯一である」という事実が聖書のあらゆる「二分性」の根源となっている。どこまでも絶対者である主なる神と、それによって造られ、統治される客体である被造物との主客の区別が、キリスト教の「二分性」の根源なのである。

御言葉は、ただ創造主である神と、神によって造られた被造物との区別を生じさせるだけでなく、被造物の堕落後、キリストの十字架を通して、神に属する新創造と、滅びに定められた旧創造を峻厳に区別する。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

神は唯一です。また、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)

わたしが神である。ほかにはいない。

 わたしのような神はいない。」(イザヤ46:9)

「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
  あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
」(出エジプト20:2-3)

ところが、すべての異端思想は、「神は唯一であり、神と人との仲保者も唯一である」という聖書の事実に激しく逆らう。それは、異端思想は、神の地位を奪おうとした悪魔の欲望を正当化し、悪魔とそれに従う暗闇の勢力が神に対して罪を犯したために神と断絶し、神に永久に見捨てられて滅びに定められているという事実を覆い隠して、主と客を転倒させて、神を罪に定め、悪魔と悪霊たちが自分たちを無罪放免して名誉回復するために作りだした秩序転倒の教えだからである。

そこで、堕落した暗闇の勢力は、神に反逆した自分たちが未来永劫、破滅を運命づけられているという事実を否定し、これを人の目からも覆い隠すために、聖書をさかさまにして、「唯一の神」という聖書の真理を、「傲慢で愚かな悪神の思い上がり」として否定する。そして、神と人との唯一の仲保者であるキリストの十字架をも退けて、聖書の御言葉への信仰を否定して、キリスト教そのものを傲慢な排他主義だと主張して退ける。

今日でも、異端の教えは、キリスト教の持つ「二分性」を「傲慢さ」や「狭量さ」として非難して、御言葉による十字架の切り分けが、愚かで荒唐無稽なカルト的思考であるかのように信者に思わせることで、御言葉を退けて、救われていないこの世を擁護し、神に反逆して堕落した罪あるものを無罪放免し、神を押しのけて悪魔を名誉回復しようとするのである。カルト被害者救済活動は、あたかもキリスト教を装って始まったが、実際には、上記のように、キリスト教そのものに根本的に敵対する運動であることはすでに述べた通りである。
 
当ブログではこれまで、すべての異端思想の根源は、グノーシス主義思想にあることを述べて来たが、グノーシス主義の教えが、自らを唯一の神とする創造主を「悪神」として非難していることを思い出したい。グノーシス主義思想は、この目に見える物質世界を作った神は「狂った悪神」であるとし、この世を不幸に陥れている元凶であり、思い上がりゆえに「妬む神」となって「自分こそが唯一の神である」と宣言したのだとして非難する。たとえば、次のような記述は、グノーシス主義思想の基本を解説したものである。
 
 

グノーシス主義はこの世が悪の支配にゆだねられている理由を、この世を作った神が実は「偽の神」であって、それゆえに「悪の宇宙」、狂った世界が生まれた、と説明する。それはどういう意味かというと、もともと至高神(「真の神」)の作った世界はプレーローマ(充溢)した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスDemiuruge(プラトンの「ティマイオス」に登場する造物主)あるいは、ヤルダバオートYaldabaothという狂った神を作った。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚している。このヤルダバオートの作った世界こそ悲惨に満ちた人間の生存している悪の宇宙である。従って、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻す。(反宇宙主義)

グノーシス主義~悪の臨在
より引用



東洋思想には、「唯一の神」を否定するための物語があるわけではないが、事実上、グノーシス主義と同じように、唯一の神という概念が否定されている。

以前にも、当ブログで引用したことのある鈴木大拙氏は、著書『東洋的な見方』(岩波文庫)の中で次のように述べている、すなわち、西洋思想における「二分性」の原則は、知性を発展させて文明の発達に寄与はしたはいいが、それは同時に、力の論理を生み、果てしない分裂と闘争、疎外に結びついたと。そして、鈴木氏はこの悪しき「二分性」の源が、キリスト教にあるとみなすのである。
 
「ラテン語でdivide et imperaというのがある。英語に訳すると、divide and ruleの義だという。すなわち「分けて制する」とでも邦訳すべきか。なんでも政治家軍事上の言葉らしい。相手になるものの勢力を分割して、その間に闘争を起こさしめ、それで弱まるところを打って、屈服させるのである。ところが、この語には不思議に西洋思想や文化の特性を剴切に表現している。

 分割は知性の性格である。まず主と客とをわけるわれと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(p.10-11)
 
鈴木大拙氏は、西洋思想における知性による分割の「二分性」の根源はキリスト教にあり、そして、この二分性こそ、「キリスト教の著しい欠点」であると主張する。

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。<中略>

 西洋では造物主と所造者とを峻別する。造物主をゴッドという。天地万物はこの能造者から出て来る。造られて出る。そうして能造者自身は造られないものである。絶対者である。それがまた所造者として統率している。それから出る命令は至上命令で、これを乗り越えるわけにいかぬ。二分性は人間に与えられたところのもので、これから脱離不可能だ。能造と所造とを分けてかかると、それから次々とあらゆる対蹠が出てくる。自分と汝、善と悪、罪人と聖者、黒と白、はじめと終わり、生と死、地獄と極楽、運と不運、味方と敵、愛と憎しみ、その他、あらゆる方面に対立が可能になる。こんなあんばいにして、まず二つに分かれてくると、それから無限の分裂が可能になってくる。その結果は無限の関係網がひろがって、人間の考えが、いやが上に紛糾する。手のつけられぬようになる。ある意味で、われらは今日のところ、この紛糾せる乱麻の間中に出没している。それで、手や足やが、彼方にひっかかり、此方にひっかかりって、もがけば、またそれだけ、幾重にもまつわってくるという次第である。一遍ひっかかると、手がつけられぬといってよい。枝葉がはびこると、自然に根本を忘れる。二分性の論理はそういうことになるのが、常である。」(p.169-171)
 
鈴木氏によるキリスト教の持つ「二分性」への非難は、今改めて読んでみると、まさにこれまで当ブログ記事で示してきたような、「キリスト教の排他性」を非難して、キリスト教から「脱福」した元信者や、カルト被害者救済活動の支持者らによる信者に対する非難の言葉にぴったり重なるように思われる。特に、元信者によるキリスト教に対する非難の言葉を思い出したい。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」
 
鈴木氏もこうした人々と同様に、キリスト教の「二分性」をあるまじき「排他性」「主我性(言い換えれば、自己愛!)」として非難し、この「二分性」こそ、キリスト教を「不完全」にしている最大の欠点であるとみなし、キリスト教はこの「二分性」を克服して、もっと「包容性」を補わなければならないと言うのである。

鈴木氏のキリスト教に対する非難の言葉を見ると、今日、福音を拒んでキリスト教に敵対している人々の主張が、何ら新しいものではなく、彼らの使う「自己愛」や「ナルシシズム」や「病理」といった言葉でさえ、古くからあるキリスト教批判の焼き増しに過ぎない事実が見えて来る。
 
こうした人々のキリスト教に対する非難の根源となっているのは、「主客の区別」、すなわち「創造主」と「被造物」との区別、「知る者」と「知られる者」との区別などの「二分性」である。そして、彼らはこの主客の二分性を撤廃することによって、キリスト教はその残酷な排他性という著しい欠点(もしくは「病理」)を克服せねばならない、と主張するのである。

だが、彼らの言うように、主客の区別を撤廃することは、被造物に過ぎない者が、自らを造った神に対して、神であることをやめよと言うのと同じであるから、とてつもない傲慢であり、まさに神に対する反逆なのだが、彼らはそのことは全く理解しない。

鈴木氏は、聖書の「唯一の神」から生まれる主客の区別を「キリスト教の不完全性」として退ける一方で、東洋思想の長所と称して、神と人との断絶が生じる前の「主客未分化」の状態へ回帰するべしと提唱する。すなわち、無限の分離を生み出すだけの知性に基づく父性原理にではなく、善悪の区別なく全てを包容する母なる混沌へと回帰せよというのである。

「主客未分化(善悪未分化)の母なる混沌」――これこそ、あらゆる種類のグノーシス主義が一様に原初のユートピアとして回帰を唱えるものの正体である。

さて、鈴木氏の提唱する「主客未分化」の状態とは、神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、光と闇とが分離されない状態、つまり、善も悪もなく、神と、神に反逆して堕落した永遠の犯罪者である悪魔と暗闇の勢力との区別すらもない混沌とした状態である。

同時に、鈴木氏の言う、神が「光あれ」と言われる前の未分化の状態とは、分割する知性によってあらゆるものが識別される前の状態、すなわち、人が自分自身と、自分を取り巻く世界を明確に区別し、理性によって周囲の物事を分析しわきまえる必要が生じるより前の状態を指している。これは人間の知性による一切の分析や識別自体が存在しない状態である。
 
あたかも暗い母胎のような場所で、人が嬰児のごとく、受動的に世界に包まれて養われており、自分が誰であるのか、これから何が起きようとしているのか、自分を包んでいる世界とは何なのか、どこまでが自分で、どこからが自分でないのか、それさえ分からずに、ただ世界と一体化して無防備に混沌に身を委ねて漂う、一切の自我意識が生じる前の、無意識のような、忘我の境地のような状態を指している。

さらに、重要なのは、この混沌が「母なるもの」と女性形で呼ばれていることである。鈴木氏の言う知性による区別が存在しない「主客未分化(善悪未分化)の混沌」、これこそ、あらゆる東洋的な「母なるもの」の正体であり、グノーシス主義思想が唱えるユートピアとしての「原初回帰」なのであるが、これを説明するために、長いが、鈴木氏の言葉をそのまま引用したい。

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向を示すが、それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに眩惑せられた結果である。畢竟ずるに眼光紙背に徹せぬからだ。

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。この玄に触れないかぎり、知性はいつも浮き足になっている。現代人の不安は実にここから出て来る。これは個人の上だけに表れているのではない。国際政治の上にもっとも顕著な事象となって、日々の新聞に報ぜられる。

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。名をつけると、それに相応した何かがあるように考える。それで、まだ何とも名をつけず、何らの性格づけをしないとき、かりに、これをいまだ動き始めぬ神の存在態とする。老子は、またこれを「天下谿(てんかのけい)」とも「天下谷(てんかのたに)」ともいう(第二十八章)。谷も谿も同じだ。またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(p.13-14)
 
以上の鈴木氏の言葉を読めば、同氏がキリスト教の持つ「二分性」(あるいは「分割する知性」そのもの)を、「律法と義によって統御する」狭量な「父性原理」として退け、むしろ、善悪の切り分け自体が存在しない、何もかもを無条件に許し包容する(知性発生以前の)「母性原理」の境地に嬰児的に回帰することが、東洋思想の醍醐味であり、長所であると述べていることが分かるのである。

だが、実は、このような「母なるものへの回帰」は、大変、恐ろしい思想なのである。

 



11.聖書の原則である「分離」や「切り分け」を否定して、主客未分化の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する思想は、個人を全体にからめ取り、離脱を許さない恐ろしい支配を生む。

「主客未分化」、「善悪の区別のない母のような包容性」とは、一体、何を意味するのか。
「受容」や「包容」と言った甘い言葉の響きに欺かれることなく、「人が永遠に胎児のままで母胎から抜け出られない世界」とはどういうものか、想像してもらいたい。

「分割する知性が発生する以前の善悪未分化の状態」とは、人が自分で物事を考えることも、識別することもできず、むろん、行動や選択の自由もなく、自己決定権というものが一切、存在せず、ただ与えられるものを無条件に受け入れて、自分を何者かに完全に委ねて明け渡し、自分よりもはるかに強い何者かに包み込まれ、支配されてしか、生きられない状態を意味する。

それは、「母なるもの」の支配から決して人が分離することのできない、永遠に離脱の自由のない、がんじがらめの世界である。

これが決して行き過ぎた表現でないことは、東洋思想に基づいて作られた戦前の日本の国家主義が、個人が共同体(家族、社会、企業、国家)から離脱する自由を一切認めない恐ろしい思想であったことによく表れている。

それは、「神と人との断絶はない」(神と人とが和合している)という思想ゆえに、生まれて来た発想であった。

すなわち、神と人との断絶を認めず、人が神によって造られた被造物であり、なおかつ、堕落しているがゆえに神と切り離されているという聖書の事実を認めないと、主客の区別が消滅し、その結果、全体と切り離された個人という概念も否定されるのである。そうなると、個人として認められない人間は、自分を取り巻く環境から離脱する自己決定権を永久に奪われることになるのである。(記事「東洋思想とは何か。~その柱は何を再建しようとしているのか~」参照。)

こうして、東洋思想が「分離」や「切り分け」を悪いものであるかのように否定して、個人としての人間の自己決定権をも退けて、切り分けの存在しない状態である「善悪未分化」「主客未分化」の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を目指すのに対し、聖書の原則は常に、人が自らの知性を完全に働かせて、大人として能動的に識別し選択する「分離」や「切り分け」を奨励する。
 
聖書には「分離」や「切り分け」を否定的にとらえる発想はない。神に属さないものとは「分離せよ」というのが、聖書の教えの基本である。

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
 キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らは私の民となる。
 それゆえ、彼らの中から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14-18)


キリスト者は、この世からの分離によって、キリストの霊的統治の中に召し出された者たちである。キリストと共なる十字架の死を通して、自らの古き自己に死んで、肉なる家族からも分離を遂げて、神の霊的な家族へと加えられた。このように、キリスト者の信仰の歩みは絶えざる「エクソダス」であり、「分離」であって、その目的は「出て来た故郷」に戻ることには決してない。

聖書の分離の原則は、母胎のような未分化の混沌への回帰とは正反対であり、「父母からの分離」も、聖書の原則の一つである。「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」(マタイ19:5)

ここでイエスの語られた御言葉は、男女の結婚を指しているのみならず、キリスト者の信仰の歩みにもあてはまる。つまり、人はキリストへの信仰を持つことにより、生まれながらの自分の出自に死んで、生まれ落ちた家庭を離れ、神の霊的な家族の一員として加えられ、キリストの花嫁なるエクレシア(教会)として召されるのである。信者が教会として召されることは、この世からの分離なくしては決して成り立たない。

ヘブル書11章には、信仰の先人たちの地上での歩みがことごとく神に属さないものからの絶えざる「分離」であったことが記されている。

「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟りしたがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。」
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造りその箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました
 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続する遺作やヤコブとともに天幕生活をしました
 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み
はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
 信仰によって、彼は王の怒りを逸れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎを行ないました
 信仰によって、彼らはかわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

このように、「分離」や「切り分け」は、キリスト教から決して外すことのできない大原則であり、信者はこの御言葉の切り分けの機能に基づいて、何が神の御心であり、何がそうでないのかを自ら識別する。そして、神に従う道を選び取るために、堕落したこの世の故郷と自ら訣別して、まだ見ぬ天の故郷へ向けて旅立って来たのである。

しかしながら、今日、キリスト教にも、御言葉の「分離」や「切り分け」を巧妙に否定する異端思想の危険が迫っている。東洋思想における「何もかも包含する母の愛」なるものが、あたかもキリスト教のような仮面をつけてこの宗教に入り込み、「神は愛だから罪人を裁いたりなさらない」などと言って、人の罪を否定して、神と人との断絶を否定したり、神の裁きを否定したりしている。(記事「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(1)」参照。) あるいは、ペンテコステ運動のように、御言葉の切り分けを曖昧にして、信者が自ら霊的な識別力を放棄して、恍惚状態に受動的に身を委ねることを奨励するような教えが流行している。

東洋思想は、「主客未分化」や「すべてを包含する母なるもの」などの言葉で、神と人との断絶を否定し、光と闇とが分離される前の(悪魔が罪を犯して神に反逆する前の)状態への回帰を主張する。こうして、キリストの十字架を介さずに、「主」である神を退けて、生まれながらの人間が神に至る道を見つけようとする。

このような思想はあらゆる点から見て反逆的なのであるが、何よりもまず、被造物である人間が「神に造られたもの」であって、神に「知られる者」という客体であるという事実を否定する点で、反逆的である。そして、被造物は、自らを造った神に従うのが当然であるという秩序をも否定する。そして、「目に見えるもの」と「見えないもの」の秩序を逆転し、主と客との立場を逆転して、自分が「主」となり、神になり、創造主の神秘を極めようとする。

こうして、東洋思想は、グノーシス主義と同様に、聖書のまことの神を退けて自ら神になろうという悪しき願望を述べるのだが、その反逆的な動機の悪質さを隠すために、「キリスト教は残酷で排他的で不完全な宗教だ!」とか「包容性が足りない!」とか「キリスト教の二分性は争いを助長する!」とか「キリスト教の信者の主我性は自己愛だ!」などと、ありとあらゆる方法で聖書の二分性を非難して、何とかして善悪の区別を廃し、神が唯一であるという聖書の事実を否定して、神に呪われて退けられた堕落した勢力をもう一度、復権し、神にまで至らせようと試みるのである。

その主客転倒(主客未分化ではなく主客転倒!)の試みが、東洋思想においては「善悪未分化の状態である母なる混沌への回帰」となって現れ、グノーシス主義思想においては「唯一の神」を宣言する創造主を「傲慢な悪神」として貶めて断罪するという考えになって現れるのである。

こうした思想を信じる人々は、自ら聖書の御言葉を曲げて神に反逆し、神になりかわろうとしているのであるが、その反逆の意図を隠すためにこそ、「キリスト教の危機」をしきりに訴えては信者の心を揺さぶり、キリスト教を「不完全で短所だらけの排他的で病理的な宗教」として印象づけようと努力し、キリスト教の教義や、聖書の御言葉に立脚した信仰生活が、あたかもカルト的・反人間的な思考に基づくものであるかのように描き出すことで、聖書の御言葉の信用を毀損し、聖書の御言葉の真実性を信者に疑わせて、「思い上がって狭量な信仰」に対する自己反省を迫り、十字架における「切り分け」を否定することで、本来、救われるはずのない人々、罪に定められている堕落した世界を「救済」しようと試みるのである。

結局、こうした人々は、キリストの福音を否定して、罪の悔い改めもなく、キリストの十字架の贖いを信じることもなく、アダムに対する十字架の死の宣告を受け入れることもなくして、誰もがありのままで救われ、神に至ることができるようなヒューマニスティックな「広い道」をよこせと叫んでいるのである。しかも、聖書の御言葉を否定して、自ら神になりかわろうとする忌まわしい欲望を、「キリスト教によって被害を受けた被害者を救済する」などと述べて、人類愛や弱者救済などの美辞麗句で覆い隠そうとしているのである。

これらの思想は、形は違えどその主張の根幹は同じであり、要するに、その根底には、聖書の神に対する反逆の思想がある。このような思想こそ、神に対する「高慢」と「自己愛」と歪んだ「ナルシシズム」の「病理」として非難されてしかるべきであろう。

だが、鈴木大拙のように、キリスト教とは関わりのない他宗教の信者がそのような批判を繰り広げるならば、まだしも理解できるが、キリスト教の内側から、キリスト教に偽装して、そのように福音を曲げる主張が生まれて来ることには驚きを禁じ得ない。

こうした人々を生む土壌となっているのが、カルト被害者救済活動であり、さらに、このカルト被害者救済活動を生み出す母体となっているものが、ペンテコステ運動である。

そして、ペンテコステ運動も、御言葉の切り分けを否定して、生まれながらの人を神に至らせようとする聖書に対する反逆思想の土壌となっていることに注意しなければならない。(たとえば、「偽キリスト」現代における背教:「人が神になる」という偽りの教え---ペンテコステ・カリスマ運動の場合―」参照。)
  
このような主張をする人々は、たとえクリスチャンを装っていたとしても、その思想形態から判断するに、とてもではないが信者とは呼べない。むしろ、こうした人々は、十字架の切り分けの存在しない東洋思想(グノーシス主義)をキリスト教の中に持ち込んで、キリスト教を内側から乗っ取り、この宗教からあらゆる区別を撤廃することで、キリスト教を全く異質なものへ変質させようという大変、危険な試みを推進しているのだと言えよう。

だが、こうした異端思想がどれほど流行しようとも、「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」(ルカ16:17)とイエスが言われた通り、聖書の御言葉の真実性が少しでも揺らいだり、キリストの十字架の「分離」や「切り分け」が消滅することは決してない。

たとえキリスト教界の中に、悪党のような嘘つきが入り込み、どれだけ声高に偽りの福音を叫んだとしても、聖書の御言葉は永遠に堅固として不変であり、人間の勝手な必要に応じて変えることはできず、まして堕落した時代の要請に基づいて変えることはできない。

従って、どんな理屈を用いていたとしても、十字架の分離を否定し、神に呪われた旧創造を無罪放免しようとする人々は、聖書の事実に逆らうことによって、神に敵対しているのであり、その試みは、歴史を振り返っても分かる通り、最期は悲惨な自滅に終わるであろう。

聖書はこのような人々の考え方に対して言う、

ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
 造られた者が、それを造った者に、
「彼は私を造らなかった。」と言い、
 陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」イザヤ29:16)
 
  「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

 さて、次回は、「母なる混沌」のもたらす支配の恐ろしい本質により迫って行きたい。

<続く>

さて、あまりにも愚かしい政治スキャンダルがこのところ連続しており、ほとんどが記事にする気にもならなかったが、2020年の東京オリンピックはいよいよ開催できそうにもない様相となってきたので、そのことに触れておきたい。


いよいよ幻に終わりそうな東京五輪

昨年夏に、筆者はこのオリンピック開催は不可能であると述べた。また、戦前の軍国主義時代に幻に終わった東京オリンピックの二の舞となるだろうと記事に記した。

それはこのオリンピックには人の心を引きつけ、歴史を前進させるための一切の大義が存在しないからである。大義がないだけでなく、安倍首相による「福島原発事故はコントロールされている」との偽証によって勝ち得た忌むべき利権でさえある。

さらに、「神の国」発言で失脚した森喜朗元首相が率いていることにもよく表れているように、皇国史観に基づく悪しきイデオロギーがその根底にある。このような誤ったイデオロギーにはすでに歴史の鉄槌が加えられたのであり、再び同じことを試みても、国の名折れにはなっても、成功に至る見込みはゼロに等しい。

オリンピックにまつわる「造られた流れ」に、もはや国民の関心はついて行っていない。利権のために嘘と悪事に邁進するにしても、もう少しましな新しい理念を提唱しないと、単なる過去の焼き増しだけでは、暗闇の勢力もいよいよカードが尽きたと思われるだけであろう。

さて、当記事には字数制限があって、筆者は常に字数との戦いを強いられており、全文引用するわけにいかないので、どれほど今回の五輪が国民に歓迎されていないかについては、以下の記事を参照されたい。

「東京五輪中止、ロンドン開催」の可能性が本格浮上。もはや 「誰も望まない五輪」への変貌と、森喜朗会長の「戯言」(ギャンブルジャーナル 2016.05.17.)


植草一秀氏「賄賂を贈ってまでの五輪開催求めてない日本国民」(2016年5月17日)
 

さらに決定打となるようなニュースが流れている。それは皇族利権とも言われるオリンピックで、今回の東京への招致の中心的役割を果たした日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長なる人物の驚くべき人物像が過去を通して明らかにされたことである。

東京五輪招致の裏金問題で“厚顔”答弁…JOC竹田恆和会長に自動車事故で女性を轢き殺した過去が!
LITERA 2016.05.18

 
日本オリンピック委員会(JOC)公式サイトより  2020年東京オリンピック招致に際しての裏金賄賂疑惑をめぐり、16日の衆議院予算委員会に、招致委員会で理事長を務めていた日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恆和会長が参考人として出席した。

 既報の通り、招致委員会はシンガポールにあるブラックタイディングス社の代表イアン・タン氏にコンサルタント料として2億円超の大金を支払っていた。しかし、イアン氏は国際陸連前会長で国際オリンピック委員会(IOC)の選考委員で、大きな力をもつラミン・ディアク氏の息子と深い関係にあり、この金がブラックタイディングス社を通じて賄賂として渡ったとの疑惑が浮上。フランスの捜査当局が捜査を開始する事態となった。

 これに対して、竹田会長はこの日の国会で、BT社への2億2000万円の支払いを「コンサルティング料」「正当な手続き」としたうえ、選考委員の息子との関係を知らなかったと言い張った。また、このブラックタイディングス社がペーパーカンパニーだという疑惑についても、完全否定した。

 しかし、その説明はとても納得できるものではなかった。そもそも、2億円というのはコンサル料として巨額すぎるし、BT社への支払いは、13年7月に9500万円、10月に1億3500万円と二回に分けて行われているが、そのうち、10月の支払いは IOCの総会で東京での五輪開催が決まった後のこと。名目は「勝因分析」と説明していたが、選ばれた後の分析に1億円支払うなんていうのは明らかにおかしい。これはどう考えても、招致の成功報酬として渡されたものだろう。

 また、ブラックタイディングス社の所在地は、築50年近く経った古い公営住宅の一室で、どこからどう見てもオリンピック招致に関する高度なコンサルティング業務を行えるような会社ではない、典型的なペーパーカンパニーである。

 これで「正当な手続き」などといいはるのだから、竹田会長の態度はもはや厚顔としかいいようがない。というか、そもそも竹田会長は、まともな調査などまったくしていないペーパーを朗々とした調子で読み上げているだけで、この問題に対する当事者意識も、疑惑をきちんと調査しようという姿勢もまったく感じられなかった。

 竹田恆和氏といえば、あのネトウヨタレント・竹田恒泰氏の父親ではあるが、旧皇族・竹田宮家の生まれで、明治天皇のひ孫、今上天皇とははとこにあたる。01年からJOCの会長を務め続けており、人望も厚いといわれていた。それが、まさかこんな不誠実な姿勢を示すとは……。

 しかし、この人の不誠実や厚顔はもともとのものなのかもしれない。その一端がかいま見えるのが、竹田氏が起こした不祥事とその対応だ。

実は、竹田氏は40年ちょっと前、若い女性を轢き殺す交通事故を起こしたことがあるのだ。

 当時、竹田氏は馬術の選手で、国体の試合に出るため会場に車で向かう途中のことだった。この事故について、1974年10月23日付の読売新聞夕刊が〈五輪馬術代表の竹田選手 女性はね死なす〉という見出しで記事にしているので、全文を紹介しよう。

〈茨城国体に出場する東京都の馬術選手の乗用車が、二十二日夕、会場近くの茨城県稲敷郡新利根村で歩行者をはね、死亡させた。このため、東京都は、二十三日以降の全馬術競技の出場を辞退した。
  二十二日午後五時ごろ、新利根村角崎の県道を歩いていた同村××××、会社員××××さん(二二)は、茨城国体馬術競技東京都代表、竹田恆和選手(二六)(東京都港区高輪三の一三の一)の乗用車にはねられ、頭を強く打って近くの病院に収容されたが、二十三日午前零時過ぎ死んだ。江戸崎署の調べでは竹田選手が対向車のライトに目がくらんだのが事故の原因。
  竹田選手はIOC(国際オリンピック委員会)委員の竹田恒徳氏の三男で、馬術のミュンヘン・オリンピック日本代表。茨城国体には、二十三日午後の一般飛越競技に東京都の代表選手として出場するため、会場の同郡美浦村の馬術会場近くの合宿所に行く途中だった。
  竹田選手の事故責任をとり、東京都チームは二十三日朝、この日以降の全馬術競技の出場を辞退することを決定、大会本部に連絡した。〉

 40年以上前の話とはいえ、こんな重大事故を引き起こした人物が、今、日本の五輪組織のトップに君臨しているというのも驚きだが、問題だと思うのはこの事故の後の竹田氏の身の処し方だった。

 新聞報道によれば、明らかに竹田氏側の過失だと思われるが、竹田氏は重い刑事責任を問われることもなく、ほどなく馬術競技に復帰。事故から2年も経っていない1976年に開かれたモントリオールオリンピックに出場しているのである。

 通常の会社勤務なら、死亡事故を起こすと解雇になるケースも多いし、スポーツ選手では、最近、バトミントン五輪代表選手が違法カジノに出入りしていただけで、無期限の競技会出場停止になり、リオ五輪の出場権を剥奪された。それらと較べれば、雲泥の差だろう。

「被害者と示談が成立したというのもあるでしょうが、竹田氏の場合はやはり宮家の威光というのが大きかったようです。周辺の政界人脈が動いて、事故の影響を小さくし、すぐに復帰できるようにお膳立てしたようです。復帰した時もほとんどマスコミには叩かれなかったようですね」(スポーツ関係者)

もちろん、交通事故は過失であり、人を死なせた人間にも人生をやり直すチャンスは与えられるべきだ。しかし、これだけの大事故を引き起こしていたら、やはり五輪のような華々しい表舞台からは身を引くのが普通の神経だろう。ましてや、竹田氏の場合は、事故の影響で東京チームが連帯責任をとって、国体の出場をとりやめているのだ。それが、本人がすぐに五輪出場とは……。

 しかも、竹田氏はこの後、1984年のロサンゼルス五輪で日本選手団コーチ、92年のバルセロナ五輪で日本選手団監督と、JOC内部でどんどん出世していくのだ。そして、2001年にはとうとう日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任し、以来、16年という長い期間にわたって、JOCトップに君臨し続けている。

「JOCでの力は完全にコネですね。竹田さんの父である竹田宮恒徳王が戦後、JOC会長、IOC委員を務めており、JOCは以前から竹田家と縁が深かったんです。それで、父君の時代の側近たちがお膳立てして、息子の恆和さんのJOC会長への道筋をつけたんです」(前出・スポーツ関係者)

 つまり、竹田恆和という人物は、どんな不祥事を起こしても周りがカバーしてくれて、出世の段取りをしてくれるという環境の中で生きてきたのだ。そして、本人も無自覚にそれに乗っかっていく。

 そういえば、2020年のオリンピックの開催地を決めるIOC総会前の会見で、外国人記者から福島原発の影響を聞かれて、竹田会長は「福島は東京から250キロ離れており、皆さんが想像する危険性は東京にない」と発言。まるで福島を切り捨てるような、あまりに他人事な発言に批判が殺到した(といっても、海外メディアとネットだけで、国内マスコミはほとんど批判しなかったが)。

 ようするに、こういう人物だから、今回のような贈収賄に問われる重大事態が起きても、まったく当事者意識がなく、問題解決ができないのだろう。いや、今回のことだけでなく、これまで起きた国立競技場やエンブレム問題などもそうだ。竹田会長の当事者意識のない無責任な姿勢が森喜朗氏や電通の暴走を許し、さまざまなトラブル、不祥事を誘発してきたともいえるだろう。

 こんな人物がトップにいるかぎり、東京五輪の混乱がまだまだ続くであろうことは間違いない。
 (井川健二)


記事は五輪の混乱はまだまだ続くとしているが、こうなっては、さすがにそろそろ終わるのではないかという予感が漂う。何しろ、このあたりで終止符を打っておかなければ、もっと取り返しのつかない決定的な醜聞が持ち上がることになろう。それも含めて、根こそぎ日本の闇が明らかにされる必要があるのかも知れないが…。
 




伊勢志摩サミットに暗い影を落とす米軍基地がらみの事件

さて、5月の伊勢志摩サミットにも明らかに暗い影が忍び寄っている。以上に挙げた竹田氏の事件ではないが、前途有望な若い女性を巻き込んだ、明らかにこのサミットに悪影響を与えるであろう痛ましい米軍記事がらみの事件がまたしても沖縄で起きた。

サミットにかこつけて、各国首脳を伊勢神宮に参拝させたことにしたい日本会議のような勢力、オバマ大統領の広島訪問を実現させて、被爆者という弱者を思い切り利用して、手柄を立てたい思惑を持つ安倍首相のような人々にとっては、極めて不都合な事件である。

しかも、小泉元首相が「トモダチ作戦」で被爆した米兵の健康被害は見過ごせないと涙を流したニュースが流れるとほぼ同時期のことであった。福島原発労働者や、基地の犠牲となる沖縄県民の犠牲をよそに、強者の利益だけに寄り添おうとする日本の政治家が、真に涙を流し同情すべき相手を完全に間違えていることを明らかにした事件だったと言えよう。

再び、植草氏のブログから。

謝罪なき広島訪問を政治利用する「ゲスの極み」
2016年5月20日 (金)  から一部抜粋

<前略>

「原爆投下によって無辜の市民が一瞬にして数十万人単位で殺戮され、その後もおびただしい数の放射能被害者を死や苦しみに追い込んだ。
このことに日本政府は抗議せず、米国は謝罪していない。
この現実に手を付けぬまま、オバマ大統領の広島訪問だけが実行されようとしている。
欺瞞に満ち溢れていると言わざるを得ない。」

米国の原爆投下を日本政府が抗議せず、米国も謝罪していない。
では、オバマ大統領は何を目的に広島を訪問するのか。
原爆の威力がどの程度あったのかを、自分の目で見物するために広島を訪問するとでも言うのか。

 沖縄では、20歳の女性の死体を遺棄した容疑で、米軍属の米国人が逮捕された。
このタイミングでオバマ大統領が来日することになる。 沖縄の過大な基地負担と米国軍人による凶悪犯罪の多発について、オバマ大統領がどのような謝罪を行うのか注目しなければならない。

このような凶悪犯罪に見舞われている沖縄県民に対して、さらに基地負担を押し付ける考えを述べるのだろうか。

米国大統領選で共和党候補者に指名される可能性の高いドナルド・トランプ氏は、日本が米軍駐留費を全額負担しないなら、米軍は日本から撤退することを検討すべきだとの考えを示している。

日本にとっては千載一遇のチャンスになる。

日本が無条件降伏を受け入れたポツダム宣言には以下の条文が置かれている。

ポツダム宣言第十二条
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

また、日本の国際社会への復帰根拠となったサンフランシスコ講和条約には以下の条文が置かれた。

サンフランシスコ講和条約
第六条
(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。

日本の独立回復後、占領軍は日本から撤退することが義務付けられた。

ところが、サンフランシスコ講和条約第6条にはただし書きが付けられた。

「但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」

さらに、同講和条約第3条には次の規定が盛り込まれた。

「第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

つまり、米軍は日本の独立回復後、すみやかに日本から撤退することが定められたが、日米両国は日米安全保障条約を締結し、米軍の駐留が継続され、現在に至っている。

そのなかで、沖縄は1952年4月28日の日本の独立回復と同時に、日本から切り離され、米国施政下に置かれた。
そして、日本本土にあった米軍基地は沖縄に移設され、現在では日本に存在する米軍専用施設の74%が沖縄に集中している。
第2次大戦で地上戦が行われ、沖縄は本土防衛のための捨て石にされた。
敗戦後は、日本から切り離された。
そして、日本復帰後も、過大な基地負担が押し付けられたままになっている。
そのなかで、米兵による凶悪犯罪が後を絶たない。

この状況下でオバマ大統領は沖縄に謝罪することもせず、沖縄の米軍基地建設推進を強要するのか。
無辜の市民を大量虐殺した現地を訪問して、国際法違反の行為について、謝罪もせずに観光のために訪問するというのか。
心ある日本国民は、オバマ大統領の「謝罪なき広島訪問」に連帯して抗議の意思を表明するべきである。


天木直人氏も次のように述べている。

米軍属による沖縄女性殺害事件の衝撃 
2016年5月20日 から一部抜粋
 
沖縄で行方不明になっていた女性が在日米軍の「軍属」によって殺害されていたというニュースがかけめぐった。

 このニュースを聞いた私はこれは見えざる神の手のしわざではないかと思った。
 辺野古移設を強行し、オバマの広島訪問で日米同盟強化の喧伝を目論む日米両政府にとって、このタイミングで、このような事件が起きた衝撃は、はかりしれないに違いない。

<中略>

 思えば、在日米軍撤退の気運が盛り上がるのは、きまってこのような不幸が起きた時だ。

 そして、最後は何も変わらないまま、その抗議は抑え込まれてしまう。
 なぜか。
 それは、日本が講和条約を結んだ後でも日米安保条約によって主権を放棄して来たからだ。
 主権を放棄して来ただけではなく、米軍による軍事占領を認めて来たからだ。

 今度の報道で、「軍属」という、およそ日本語になじまない言葉が存在する事を我々は知った。
 これは、日米安保条約の事実上の主役である日米地位協定に出てくる言葉だ。
 
すなわち、米軍基地内で働く軍人以外の米国職員と言う意味だ。
 
米国人は軍人だけでなくすべての者が、軍用機で自由に日本の米軍基地を往復できる。
 
入国審査を一切受けることなく、誰もが米国軍用機に乗れば米国本土と在日米軍基地を往復できる。
 
そしていったん在日米軍基地に降り立てば、そこから日本のどこにでも自由に行き来することができる。
 
日本で不祥事を起こしても、在日米軍基地に逃げ込めば、日本の主権は及ばない。
 
犯罪でもスパイでも何でもできるのだ。

 
なぜ、このような、世界でも異例の二国間関係がいまでも対等であるべき日米間で厳然と存在するのか。
 
それは、日本政府が、国民に知らせることなく、日米安保条約の交渉の過程で米国に譲歩して合意したからだ。
 
それがこの国の戦後70年の日米関係なのだ。
 

 <中略>

 なぜ小泉元首相が米国にまで行って、日本の被爆者よりも先に、トモダチ作戦に派遣された元米兵に涙を流して謝罪したか。
 なぜオバマの広島訪問が謝罪ではなく日米同盟の強化のための訪問になるのか。
 なぜ今度の選挙で、共産党を含めた野党共闘は、安倍打倒を叫んでも、日米安保問題を棚上げするのか。
 なぜ少女暴行事件で盛り上がった普天間基地返還が、いつのまにか辺野古新基地建設にすり替えられて、強行される事になったのか。
 なぜ今度の沖縄女性の米軍属による殺害事件が起きても、それがケネディ大使に対する大衆抗議や、オバマの広島訪問ボイコットに発展しないのか。
 なぜメディアの報道ぶりがここまで抑制的なのか。
 すべてが理解できる。
 我々はそろそろ米国から自立すべき事に気づかなければいけない。
 真実を知れば、そのあまりの従属ぶりに怒りが彷彿する。
 大衆の怒りこそが政治を動かす。
 日本国民は真実を知って怒らなければいけない。
 その怒りで、政治を自分たちのものにしなければいけない。

<後略>

 

沖縄には日本の国家主権を巡る最前線の闘いがあり、そこに我が国の病理が凝縮されている。しかし、その病理は、もともとは沖縄に、あるいは日本に固有のものではなく、外から持ち込まれたものである。ところが、国民は、この病理の源を排除することをせず、むしろ同胞が同胞を犠牲者として売り渡し、互いに攻撃し合うことで、真の病理の元凶を隠し、かばって来たのである。

米軍基地がらみの全ての事件は、いずれも「宗主国」の「属国」に対する優越感をよく示すものであり、その根源は本来、対等であるべき二国間に結ばれている不平等な条約にある。このような条約は、一方の国からの圧力だけでは結べない。そこには明らかに、日本国民の目からは隠れて、米国との不平等な条約を密約として結び続けて来た日本政府の存在がある。

なぜ日本政府はそのように国の主権を積極的に売り渡すようなことをして来たのか? そこには明らかに、上記のJOC竹田会長にまつわる事件にも見られるように、天皇制から始まって、旧宮家や財閥などに代表されるような、戦前の日本に作られた利権構造を、国民の目から隠れて密に温存したい人々の思惑があったとしか思えないのである。
 
つまり、日本という国が、真に国民が平等な国になっては困る人々が、国民が決して自分たちの置かれている理不尽な状態に気づいてこれを拒否して自立して立ちあがることのないように、しかも、自分たちの悪しき支配が表に出て国民の敵意を呼び起こすことのないように、米国の庇護を隠れ蓑に自らの支配を正当化して来たのだとしか思えないのである。

そのために、彼らは米国と手を携えてあらゆる解放運動の芽を潰して来たのであり、支配階級を敵視する共産主義思想が脅威になったのは言うまでもない。安保闘争が盛り上がった時、マルクス主義に影響を受けた学生運動を潰すために、宗教に名を借りて実質的には皇国史観を思想的に温存する生長の家などが学生運動を瓦解させる工作に一役買ったことは知られている。しかし、共産主義思想はもともとはキリスト教の焼き増しのようなものでしかなく、人を自由と解放に至らせることのできる真の衝撃力としてのキリスト教もまた彼らの目に見えない弾圧と監視の対象であった。(以下の記事で、興味深いことに、兵頭氏はキリスト教が暗闇の勢力の奥の院にさえ最も鋭く切り込むことのできる唯一の衝撃力であると認めている。)

さて、日本が、真に主権を取り戻すためには、米国からの自立を叫ぶだけでなく、国を売り続けて来た戦前の遺物との完全な訣別が必要となる。

戦前の遺物をブランドのようにありがたがる国民性から脱し、長い物には巻かれろ式に、自分はどれほど踏みにじられても、強い者には決して物申すことなく、自分よりも弱い同胞を踏みつけにして鬱憤晴らしをするだけのプライドも気概もない属国国民性を捨て、偽りの優越感によって買収されることなく、真の対等と自立を目指すことができるのか、我が国は再び重要な分岐点に差し掛かっているのだと言えよう。



沈黙のうちに再び見殺しにされる長崎のクリスチャンの犠牲者たち

ところで、なぜオバマ大統領は、広島訪問をして、長崎を訪問しないのか? その理由について、兵頭氏が、以下の記事で実に興味深い説を述べている。

 広島への第二の原爆投下
2016年5月17日 [USA] から一部抜粋

5月14日、安倍晋三は、オバマの広島見物(謝罪しない宗主国のトップは、見物にくるのである)に関して、「歴史的な訪問にしなければならない」と述べた。

それにしても、それほどオバマの広島見物はすごいことなのか。実は、それはすごいことなのである。なぜなら謝罪なしの広島見物をやってのけ、日本の政権も謝罪を要求しないという意味で、実にすごいことなのだ。

安倍は「世界で唯一の戦争被爆国の首相と、世界で唯一核兵器を使用した国の指導者が共に犠牲者に哀悼の誠をささげることは、核のない世界に向けての一歩になる」と語った。米国へのヨイショが身に染みついているのである。

戦後の日本の1%は、民族の負の遺産を語るのが好きだ。「世界で唯一の戦争被爆国」、「失われた10年」、「失われた20年」、「失われた30年」(どこまで失い続けるのか。いっそ「永遠に続く喪失」とでもしておけばいいのだ)「阪神・淡路大震災の教訓」、「東日本大震災の教訓」、「福島を完全にコントロール」……。すべてに失政が深く絡んでいるのだが、それさえわからなくなっているのだ。

だいたい不幸や悲劇は、誇らしげに他人に語るものではない。それさえわからなくなっているのである。

<中略>


結局、オバマは謝罪せずに今月27日に広島を見物して帰るということに落ち着いた。
なぜ長崎は見物さえしないのだろう。

<中略>

原爆投下された1945年当時の長崎は、500年以上も続いた日本キリスト教の中心地であった。米国は、市の中心部に投下した広島とは違って、長崎では、わざわざ軍需工場の三菱造船所を外し、浦上天主堂があった市の北西部を狙っている。

米国はすでに戦後を考えており、神としての天皇がいなくなった間隙をキリスト教が埋めることを潰しておく必要があった。極東の場末の神道などどうでもいい。欧米からはあらかじめ場末のカルトとして排除されている。しかし、キリスト教は世界への発信力がある。フリーメイソン(その奥の院としてのイルミナティ)への反撃力もある。

長崎は、米国も恐れる日本のバチカンであった。その象徴としてキリスト教大聖堂を狙ったイルミナティの、反キリスト教の戦略が長崎への投下を隠し続けるのである。

広島・長崎への原爆投下を、米国は戦争を終結させるためのものとして語る。しかし、この当時の日本に戦争継続の余力はなかった。昭和天皇裕仁はすでに戦犯免責を求めて画策していた。すでに制空権は奪われ、好き放題に大都市は焼き払われていた。

広島と長崎とで、違う原爆を市民に対して使ったのは、明らかに人体実験のためである。広島では爆弾の燃料としてウラン235(TNT火薬換算15kt)が使われた。

長崎では、破壊力が強力な最新のプルトニュウム239(TNT火薬換算22kt)が使われた。広島の1.5倍の威力である。

技術的な意味においても、政治的な意味においても、米国1%にとっては、広島より遙かに長崎の方が位置づけが重いのである。だから長崎は隠されるのだ。

フリーメイソンのトルーマン大統領は、原爆投下の指示書にサインしたとき、周囲の閣僚に向かって笑い、「獣(のような人間)に対処するときは、彼らを獣として扱わなければならない」と言い放ったといわれる。おそらく、そのときのトルーマンは獣の顔をしていたのだろう。

<中略>

オバマ大統領が広島を尋ねる訳だが、これを機会にアメリカが原爆を落としたのは、アメリカがわざと日本にパールハーバーを攻撃せざるを得なくさせたのと同じように日本政府がアメリカに原爆を落とさせた面がある事を指摘したい。日本に原爆を落とさせたのは当時の安倍政権の様な日本政府だった。

<中略>

2004年の民主党大会の基調講演でオバマは「進歩のアメリカと保守のアメリカとがあるのではない―アメリカ合衆国があるのみだ。黒人のアメリカが、白人のアメリカが、ラテン系人のアメリカが、アジア系人のアメリカがあるのではない ―― あるのはアメリカ合衆国だ」と語った。

この空虚な美辞麗句に人々は酔いしれた。この嘘は現実がすぐにあばいた。

<中略>


オバマ大統領誕生の意味は、黒人を差別し、排除してきた白人の偽善が、過去を免罪しようとしたのである。

その動機は広島でも実行される。広島見物で実現されるのは、広島・長崎への二度目の原爆投下であり、原爆ホロコーストの免罪であり、謝罪なしに広島見物を実現したという米国の最終的勝利の勝ちどきなのである。

<後略>


兵頭氏の見解によれば、オバマ大統領の広島訪問は、日米両政府が手を携えて米国による原爆投下を正当化し、それを追認する目的でしかないことになる。

このことは、キリスト教界とカルト被害者救済活動とが同根であるという筆者の主張にも通じるところがあるように思う。つまり、被害を生み出したまさに張本人(キリスト教界)が、かりそめの被害者救済運動を繰り広げることによって、その中にある支配構造(牧師制度)を肯定しながら、あたかも被害者に「同情」しているふりをして、上から目線で涙を注ぐことによって、被害者をより一層、被害者意識から立ち上がれないようにして自立を阻み、半永久的に被害者を踏み台にして自らの罪を正当化するのとよく似た構図を見る。被爆者への同情は、支配を正当化し、より強化するための口実でしかない。そんなうわべだけの「同情」に満足している人々がいるとすれば論外である。
 
さらに、兵頭氏は、長崎が注目もされないのは、長崎への原爆投下によって殺害された多くがキリスト教徒であったからだと述べる。すなわち、長崎への原爆投下は、予め戦後の日本において起きるであろうと見られた真のキリスト教の高揚を抹殺することが、本来的な目的であったのだというのである。

当時の軍国主義日本がキリスト教徒を抹殺したというならまだ理解できるが、表向きにはキリスト教国のように見えた米国が、日本のキリスト教徒の抹殺を積極推進したというのである。信仰を持たず、神に反逆するファシストの兵士を殺害したというならば、まだ弁明もあるかも知れないが、同じ信仰に立つ無害な一般市民である兄弟姉妹を殺したのだから、それは「兄弟殺し」であり、これに対しては弁明は成り立たない。このことは、連合国の側にも、実は大義がなかったことをよく表している。

(しかし、米国による日本のキリスト教徒への支配は戦後も続けられる。それはたとえば、戦後の日本の開拓伝道期に日本各地で起こり、当時は自由な教会であったものが、後には米国によってコントロールされる教団に組み入れられて行く様子にも見て取れる。プライス師の時代には教団に属していなかった鳴尾教会が、米国と深い関わりを持つアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属して以後、起きた事件については言うまでもない。この教団を離脱するために同教会は多大な苦しみを通らねばならなかった。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の推進するカルト被害者救済活動は、「教会のカルト化の危機」を口実に、日本のプロテスタント全体を監視下に置こうとしているが、そのようなことが起きる背景にも、以下で引用する記事にあるように、長崎への原爆投下を当時から正当化しつつ日本のキリスト教界に打撃を加えることを肯定していた米国の異常なキリスト教界が、今でも日本のキリスト教界を完全にコントロール下に置いておこうとする明らかな思惑が働いているように見受けられてならない。)

長崎の原爆投下によって殺されたクリスチャンについては、以前にも、「マスコミに載らない海外記事」から引用したことがある。以下の記事は長崎への原爆投下を明確に「キリスト教徒によるキリスト教徒の殺害」として告発し、この出来事に神と信者に対する冒涜的な意図があったことを記している。また、原爆投下の時点で、日本の敗戦は決定的なものになっていたのであり、それは戦争を終わらせるためというよりも、米国が日本人を実験台として、ソ連に先んじて自らの軍事力を見せつける意味も持っていたことを示している。

長崎原爆投下70周年 : 教会と国家にとって歓迎されざる真実
Dr. Gary G. Kohls
Global Research
2015年8月4日

洗礼と堅信礼を受けた、このキリスト教徒航空兵達は、致命的な突然のトラブルがいくつもあったにもかかわらず、戦時の命令に一字一句従い、業務を能率的に行い、軍人としての誇りをもって、任務を完遂した。1945年の大半のアメリカ人なら、もしボックスカー乗組員の立場になっていたら、まさに同じことをしていただろう。そして、もし、我々が、地上で、原爆が引き起こした人々の苦難を実際に目にせず、聞かず、臭いを嗅がなければ、そして後に、英雄として処遇されるのであれば、遡及的に、一般に、戦争犯罪と見なされるようになったものに参加したことに、精神的苦痛もほとんどなかったろう。

実際、戦争の歴史において、あの極悪非道の大量破壊兵器使用は、後にニュールンベルク裁判で、国際的な戦争犯罪、人類に対する犯罪として定義された。

もちろん、任務当時、乗組員がそれを知る方法など皆無だった。<略>

日本を降伏しにくくさせる

それは、原爆が広島を滅ぼした8月6日から、わずか3日後のことだった。長崎での原爆投下は、ファシスト軍事司令部が、いかに名誉ある降伏をするか議論すべく、天皇との会議を始めたばかり- すでに何ヶ月も前から、戦争に負けたことを理解していて、それゆえ戦争を終わらせる方法を模索していた東京における混沌、混乱のさなかに行われた。両国の軍と民間人指導部は、もう何カ月も、日本が戦争に負けたことを知っていた。

降伏に対する唯一の障害は、連合国諸国が、日本人が神と見なしていた天皇裕仁が、日本における名目上の長の立場から排除され、恐らく、戦争犯罪裁判にかけられる可能性を意味する、無条件降伏を主張していたことだった。この要求は、天皇を神と見なしている日本人にとって、耐えがたいものだった。

ソ連は、その一日前、8月8日に、40年前の(ロシアにとって)屈辱的な日露戦争で、日本に奪われた領土を奪還することを狙って、日本に対し、戦争を宣言し、スターリンの軍隊は、満州を前進していた。ロシア参戦は、ロシアより、アメリカに降伏するほうがずっとましだと考えている日本にとって、戦争を早急に終わらせる為の強い動機となった。そして、もちろん、アメリカは、いかなる戦利品も、ロシアと分け合いたくはなく、ロシアに対して、アメリカが、この世界における新超大国だという初期の冷戦メッセージを送りたがっていた。

ロシア参戦は、 7月16日、ニュー・メキシコ州での原子爆弾実験成功を知る前に、トルーマン大統領が奨励したものだった。

だが今や、トルーマンと彼のブレイン達は、スターリンの助けなしに、原子爆弾で日本を降伏させられるのを理解した。それで、ソ連と戦利品を分け合う意図は皆無だったアメリカは、アメリカが地球上の新たな超大国だという初期の冷戦メッセージをロシアに送りたかったので、天気が良く、原爆が利用可能になり次第(実際は、四発目の原子爆弾を製造する為に使える核分裂物質はもはや無かったが)原子爆弾使用の方向で進めるようトルーマンは、爆撃機司令部に命じたのだ。

<中略>

トリニティー実験

最初で、唯一の原子爆弾実地試験は、冒涜的なことに(明らかにキリスト教用語の)“トリニティー=三位一体”というコード名がつけられていた。この実験は、原爆投下に先立つこと三週間、1945年7月16日に、ニュー・メキシコ州アラモゴルドでおこなわれた。結果は見事に壊滅的だったが、爆風は、不運なコヨーテ、ウサギ、ヘビや他の砂漠の害獣を絶滅させただけだった。アラモゴルドの、プルトニウム原子爆弾は、長崎原爆と同じものだった。

トリニティー実験では、予期せず、後に“トリニタイト”と呼ばれるようになった、膨大な量の新たな鉱物をもたらしたが、これは原爆爆破地点上空の太陽温度の二倍もの強烈な熱によって生み出された