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「読者よ、悟れ。」光と闇を切り分け、時代に警鐘を鳴らす。

近年、日本における(特に)プロテスタントのキリスト教界全体が、危機的状況に陥っている。
現在の日本のキリスト教界は、何かがおかしい、この「業界」は、根本から何かが狂っている、もはや手の施しようのないほど霊的に病んでいるのではないか…、という危機感を帯びた説がネット上で散見されるようになった。

「ニッポンキリスト教界」全体への危機感は、特に、キリスト教とつながりのない人々ではなく、主に、キリスト教徒自身の側から、いわば「内部告発」として問題提起されていることが注目に値する。このような、普通に信仰を持つクリスチャンの側から見た、「業界」全体への切迫した危機感は、ネット造語とも言える「ニッポン・キリスト教界」というカタカナ用語に象徴的に表れている。(キリスト教界の不祥事にはうんざり顔で筆を進めていたDr.Luke氏でさえ、最近は「ニッポンキリスト教会から可及的速やかにエクソダスせよ!」という主張を、だんだん他人事でない迫真性をもって、あらゆるキリスト教徒に呼びかけるほどの異常事態となっている。)

このような危機感はどこから来るのか。なぜ普通のクリスチャンたちが、キリスト教界全体が危機的状況にあって、取り返しのつかないほど病んでいると判断せざるを得ないのか。
その原因として、まず筆頭に、相次ぐ教会の不祥事の代表としての「教会のカルト化」という問題が挙げられる。教会を覆う闇については、今後様々な角度から分析していくつもりであるが、まずはカルト化の問題を連続して特集することにしよう。

最近では、「アエラ」2008年7月28日号や「ハーザー」2008年9月号に、ハレルヤ・コミュニティ・チャーチ(浜松)、沖縄リバイバル・チャーチ、沖縄キリスト福音センター美浜教会における呆れた乱脈運営の実態が特集として掲載された。つまり、牧師による教会の拝金主義的な乱脈経営、女性問題、献金の横領着服など、これらの教会の陥った想像を絶する道徳的退廃ぶりが、様々な事件の形を通して大々的に明るみに出た。(ブログ「吉祥寺の森から」などでも盛んに議論が繰り広げられているので参考となる。)

だが、キリスト教界での不祥事は遡ればもっとたくさんある。主の十字架クリスチャンセンターのカルト化、京都シティ・チャーチのカルト化と訴追された宣教師の国外逃亡、聖公会京都教区の司祭による女児への性犯罪事件(当該司祭は未だ職を辞していない)、日本基督教団東海教区の会計担当者による献金約6900万円の着服事件(2007年)などなど。
このようにして、今、教団教派を問わず、一つならずのキリスト教会が、一般常識からかけ離れた違法な集金、集客活動に走ったり、その結果として、組織全体が行き詰まり、反社会的活動に陥り、あるいは恐怖政治に陥って機能しなくなり、崩壊したり、もしくは崩壊直前と言うしかないような「末期的」様相を呈したりしている。

教会がこのような違法で、非道徳的で、反社会的かつ非人間的な支配や、集金活動に走り、また、そのような過激な活動を支えられるだけの過激で極端な理念を創造し、それを権威者がマインドコントロールの手法をたくみに用いながら、恐怖政治によって信徒に教え込んで行き、実践するよう強要していくこと、教会が大なり小なりそうした傾向に陥っていくことを総称して、「教会のカルト化」現象と呼ぶ。

(ここではカルトという用語の専門的定義について詳細に議論するつもりはないので、定義の問題については概略的説明にとどめておく。筆者が今後説明しようとしている様々な現象に関しては、ひょっとすると、「キリスト教会の全体主義化」という表現の方が、「教会のカルト化」という表現よりもふさわしいかも知れない。だが、今日のキリスト教会の道徳的腐敗傾向を示す用語として、「教会のカルト化」という言葉がすでに一般に普及しているため、この用語で統一することにしたい。)

想像するに、「教会のカルト化」現象は、日本のキリスト教界全体に忍び寄っている危険である。どの教会もその危険を完全に免れられてはいない。裁判で起訴され、世間に波紋を呼ぶほどの大事件に至らなくとも、潜在的なカルト、つまり「準カルト」、「準々カルト」の状態にある教会は日本全国にはかり知れないほど多いと考えられる。
それはキリスト教界全体の根っこに存在する制度的欠陥が、カルト発生の源となっているからであると筆者は考えているが、制度の問題については、後日に筆を譲ろう。

このような問題意識が、どれほど現実に根ざした、事実無根のものでないかを説明しておくために、まずは筆者自身が教会で実際に体験して来た恐ろしい事実のことを書いておこう。
筆者は、聖霊派アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のとある教会で幼少期を過ごした。クリスチャンホームに育ったボーンクリスチャンではないにしろ、筆者は幼少期から教会というところの空気を吸い続けて育った。その筆者が通っていた教会に勤務していたT牧師は、教団内では要職についていたが、教会内の信徒たちの間では、下からのフィードバックを許さない、独裁的な教会運営を繰り返すということで評判が芳しくなかった。

20年以上、そのようなやり方でT牧師は一つの教会に勤務した後、ついに信徒からの道徳的追及によって辞職にまで追い込まれた。その際、使途不明金の存在も指摘されたが、教団はこの事件全体に関して信徒に納得のいく説明は行わなかった。そしてT牧師は、辞職に追い込まれ、教会を失った。当該教会は教団に別の牧師の赴任を要請したが、希望した人物には次々と断わられ、現在当該教会に赴任している牧師夫妻のもとでも、ひどい独裁運営ぶりが繰り広げられているという話を筆者はそこの信徒から聞いている。T牧師は辞職に追い込まれたとはいえ、教団内で親戚関係となっている別の牧師の教会に引き取られ、かなりの高齢となって聴覚にも衰えが見られるようになった今でも、まだ教職活動を続けている。

筆者はこの事件が起こった当時、キリスト教界全体に対して問題意識を持つほどの判断力はなかった。そのため、この事件にただ精神的に痛手を被っただけであり、教会という組織とは何なのかという疑問をこの事件をきっかけに深く考えようとすることはなかった。一言で言えば、それは筆者がたまたま通った一つの教会が、偶然、腐敗に陥ったに過ぎないという風に受け止めており、キリスト教界という「業界」全体が、これに類似する道徳的な腐敗という病魔に同じようにとりつかれているかも知れないなどとは考えもしなかった。幼い頃から「日曜礼拝を守る」ことの重要性を教え込まれて育った筆者は、教会の権威、教会の存在意義自体に疑問を持ったわけでなく、しばらく信仰生活そのものから離れていたが、そのことにさえ後ろめたさを覚えており、その良心の呵責を振り払うために「日曜礼拝を守る」ことができる別の教会を探し続けた。

端的に言えば、その頃の筆者は、キリスト者の信仰生活は教会と不可分のものだと思い込んでおり、その教会とはこの世の宗教法人としての教団や教会を意味するという非常に狭い考えを持ち、そのような宗教法人としての教会を離れては、自分のような弱い者は、到底、一人では信仰を維持できないという自信喪失状態に陥っており、そのことを奇妙だと思うことさえないほど、未熟であった。

そうして、その後、とあるきっかけから、福音派のフリーメソジスト教団のある地方教会に通い始めたが、そこで前の教会よりもさらにひどい事件に遭遇させられ、日本の教会のあまりにもお粗末な現状に、目を覚まさせられることになった。筆者は悪徳牧師としか言いようのない男に遭遇した。筆者はこの頃、クリスチャン、特に聖職者と呼ばれる人々の中に、このように嘘つきでどうしようもない恥知らずな人間が混じっているとは想像も出来なかった。そこでこの悪徳牧師の言うことを信用した挙句、さんざんに裏切られ、騙された。奉仕を強要され、約束は破られ、牧師の恥知らずな嘘と厚かましい要求に振り回され、人生で大きな痛手を被った。

この牧師は何食わぬ顔で今も当該教会に勤務し、教鞭も執っているので信徒はよくよく注意されたい。(参考のために彼を仮名で、金蓄勝蛇(カネチク・カツミ)牧師と記しておく。知恵のある人はこの名前から読み解いていただき、絶対にこのような人物には近寄らないように警戒していただきたい。さらに、この牧師はヤクザともつながりがあるので要注意である。)もしこれを事実無根の誹謗中傷と解釈し、この事件を筆者による捏造、デッチアゲ、虚偽と考える人がいるならば、筆者に公の場で議論を申し込でいただければ、証拠資料を持参してそれに応じたいと希望する次第である。その時こそ、S教会の問題だけでなく、フリーメソジスト教団の問題をも世に知らしめることが可能となろう。
そしてこの金蓄牧師は、彼のいる関西北摂の教会(金蓄は主任牧師ではない)を詐欺教会と考えた筆者が、そこを去って、転籍を要求したにも関わらず、筆者の要請を無視し続け、今に至るも、書類さえ返送しないでいる。教団側に筆者はもちろん、この恥知らずな牧師の起こした事件について抗議しを申し入れたが、何らまともな対応がなかったため、筆者はフリーメソジスト教団そのものが機能不全に陥っており、良識に基づいた判断はこの教団には到底、望めないものと結論を下した。

筆者が遭遇した事件を詳しく述べることがこの論説の目的ではないので、実体験はこの程度にとどめておくが、このように、たかが地方の目立たない小さな教会でも、権威者、つまり聖職者の側からの不祥事、信徒虐待の例は枚挙に暇がないのである。

そこで筆者自身の判断によれば、「アエラ」、「ハーザー」誌に特集されたような牧師の横暴、「教会のカルト化」の例は、日本キリスト教界の氷山の一角でしかない。現在、名も知れない全国の多数の教会が、カルト化の初期症状から末期症状に至るまで、様々な形態で、堕落と崩壊の途上にあり、ほとんどの場合、教会や教団内での自浄作用は働かず、被害者はただ泣き寝入りを強いられているものと思われる。
そして仮に新聞雑誌に取り上げられるほどの大々的な不祥事にまで発展しなくとも、横暴で専横的な牧師がいるような教会では、牧師の横暴に泣かされている信徒は数知れず、下手に牧師に口答えして対立関係に陥ろうものなら、その信徒は牧師によって公然と冷遇され、叱責され、やがて教会にいられなくなって、事実上、追い出されたも同然に教会を失い、他の信徒との友情までも失い、別の教会へ転会しようにも、牧師が転籍を許さないため、あるいはその牧師との接触がはばかられるため、転籍すらままならないような現状に陥っているということは日常茶飯事である。

ほとんどの教会は、信徒を「主にあって結び合わされた永遠の兄弟、仲間」だとはみなしていない。自分から教会を去った信徒に対しては、牧師はほとんど連絡を取ろうとせず、たとえ正会員であったとしても、まるで初めから何の関係もなかったかのように、関係を絶ってしまうのが通常である。たとえ連絡を取るにしても、それは一方的な言い分を告げるのが目的であって、信徒が何に躓いたかを探り、その原因を作ったことを反省するためではない。そのような牧師の冷たい態度に、他の大多数の信徒も大方、右へ倣えする。信徒は教会の催しに足を運び、献金を払い続けている限りにおいてしか、仲間とみなされない。「カネの切れ目が縁の切れ目」なのだ。

今、日本のキリスト教会には、無数の「死せる魂」(幽霊信徒)が登録されているはずである。かつて何かのきっかけで信仰を持ち、その教会で洗礼を受けたり、転会式を済ませ、純粋な思いで信仰を守ろうと決意したクリスチャンたち。かつてその教会から同胞として迎えられた人たち。しかし、何かのきっかけで教会の人間関係に躓き、その団体に疑問を持って、去って行った人たち。そこには様々な苦悩があり、ドラマがあっただろう。だが、教会はこれらの「失われた羊」に対して、何の関心も払わず、ただ去るにまかせ、なぜ彼らが去らなければならなかったのか、考えることすらせず、何の対策も取ってこなかった。
歴史的に見て、今日の教会は大量の離脱者が出てもなお我が身を省みることのできない、愚かで独善的で客観性に乏しい組織と成り果てている。それは、信徒を人としてみておらず、家畜や資源のように利用することしか考えて来なかったことの当然の結果なのであるが。これが日本キリスト教界で一般的に見られる日常風景である。

さて、「教会のカルト化」という言葉は、キリスト教会の急激な組織拡大の試みに伴う道徳的堕落の危険に警鐘を鳴らすための用語として、十数年前から、使われるようになった。だが、「教会のカルト化」への警鐘は、ニッポンキリスト教界全体の堕落を食い止めるに十分な効果を発揮しなかった。それは筆者自身の体験によっても断言できるし、また、キリスト教会の堕落と崩壊の例が、未だに後を絶たないどころか、ますます世間を騒がせるような大規模で報告されるようになっていることで実証されている。

筆者の予想では、そうした過激化、カルト化の報告例は今後ますます増えるはずである。
ニッポンキリスト教界全体が、もはや道徳的に崩壊前夜に瀕しているといっても過言ではない、いや、事実、そうなのである。
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