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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

結論: 教会から脱出せよ。最後に残るのは借金。教会を見舞う詐欺。

かつて、ニーチェやドストエフスキーが20世紀を目前にして、来るべき世紀の大衆社会が行き着く先はファシズムであると予見した。その後も、資本主義の末路がファシズムであることは多くの人々によって指摘されたが、資本主義に対抗すべく生み出された社会主義もまた全体主義という同じ破滅の道を辿った。
すなわち、20世紀の大衆社会は、経済体制に関係なく、その社会の末期症状としての全体主義、ファシズムという副産物を生んだのである。

これまで見て来たように、「教会のカルト化」という問題は、ニッポンキリスト教界の歪んだ社会そのものに根があり、いわば、カルトはニッポンキリスト教界の歪んだ社会が必然的に生み出す副産物であることを我々は理解した。
ここから、さらに議論を一歩進めれば、カルト化はニッポンキリスト教界全体が避けて通れない運命的な末路であると言うことができる。

あらゆる証明段階を省いて、ただ結論だけを述べるなら、ニッポンキリスト教界全体にはカルト化以外の将来は全くない。カルト化はニッポンキリスト教界全体の運命的な末路である。だから、今、教界に関係しているクリスチャンは、この組織から逃げなさい。教界全体がファシズムに至らない前に、まだ選択の自由が残っているうちに。それが筆者が「教会のカルト化」問題に関してクリスチャンに言えることの全てである。

多くの信者が、実際に教会を離脱するに当たり、さまざまなしがらみを感じてためらう。教会に置いているたくさんの「荷物」、そのしがらみを断ち切らない限り、組織との縁を切ることはできない。

ウォッチマン・ニー氏が真の信仰とは何かを考えた際に、教団教派の存在を否定し、聖書的根拠を持たない教団と訣別すべく、教会籍を抜いたことは知られている。(時代の先見者ウォッチマン・ニー 「宗派を離れ去る」参照。「…わたしはこの会話から、自分がメソジスト教会の会員として、一種の協力関係にある、ということを知りました。たとえメソジスト教会のいっさいの制度に、事実上、加わっていなくても、名義上では、関係がない、と言うわけにはいきません。もし主に従いたいなら、ただ行ないの上でメソジスト教会の会員にならないだけでなく、名前をも、メソジスト教会から取り除かなければなりません。」)

筆者もここしばらく、教界に置いてきた「荷物」である自分の教会籍のことを考えていた。
筆者はアッセンブリーで洗礼を受け、長い間、アッセンブリー教団の信者であったが、その後、フリーメソジスト教団によって教会籍を半ば奪われてしまったような状態にある。
多くの信者が、カルト化した団体を離れる際には、脱会の手続きを取る。村上密氏は記事(2008年12月8日)の中で、脱会は信者からの強い抗議の意志表示であるから、信者が脱会の手続きを取ることで、その団体にある程度の打撃を与えることができるとしている。

確かに、脱会しない限り、筆者はその教会の人員に数え続けられることになるのかも知れない。そうすると、そのひどい教会に対しても、筆者は何がしかの共犯関係にあることになるのだろうか? そのことで、目に見えない道義的な責任を負うことになるのだろうか?
「教会籍」というカルト的教団に置いてきた荷物を整理するために、筆者はあの団体にもう一度、戻り、彼らと接触すべきなのだろうか?
だが、それ以前に、そもそも「教会籍」とは何なのか、そのことから改めて考えてみよう。

この「教会籍」については、ずっと前から、筆者は考えさせられて来た。今から10年以上前、アッセンブリーにいた頃、筆者はこの教会籍制度のために、多くの信徒が不当に苦しめられているのに気づいた。当時、筆者がいた教会の中でも、信徒の教会籍を、牧師が信徒の自由を奪って教会にとどめ置くために、脅しのように利用している現実が見られた。

身勝手な牧師たちは、決まって、一旦、自分の教会に獲得した信徒を失うことに、強い拒否反応を示す。それは信徒を失うことが、自分の権勢を縮小することにつながると彼らが解釈しているためである。
信者が転会を希望しても、牧師が承諾しないことはままある。転居などのやむを得ない理由や、他教会への出張奉仕を目的とする転会であるならば、牧師は拒絶しないことが多いが、牧師と真っ向から対立して教会を去っていくような信徒に対して、牧師がスムーズに転会の手続きに応じることはこの教界ではまれである。

むしろ転会を申し出た信者への嫌がらせと、転会を阻止する意味を込めて、牧師は信徒の教会籍をいつまでも手中に握り続け、決して返そうとせず、信徒が転会を希望する先の教会へも送ろうとしないことがよくある。当時、そうやって教会籍を失ったまま、泣く泣く転会していかなければならなかった信徒の例を筆者はいやというほど見聞きしてきた(自分もまたそうなるとは予測できなかったが…)。

さらに、多くの「幽霊信徒」の存在が教会内にある。とうの昔に、何かの理由のために、教会に来なくなっているのに、いつまでもその教会に登録されたままの幽霊信徒たち。このような人たちの籍とは、一体、誰のために教会内に存在しているのだろうか。

さらに、教会に残っている多くの信徒たちは、「きれいな教会籍」を残しておくために、別の教会に移りたいと願いながらも、その決断をためらっていた。教会をあちこち変わると、それが籍に記載されて残ってしまうことを彼らは気にしていた。まるで戸籍に関する日本人の古来の考え方のように、教会を転々とすると、「教会籍が汚れる」という考え方をしている人々がいた。
また、「ジプシー・クリスチャン」という言葉も、その頃、まるで転会を希望する信徒への聖職者側からの脅し文句のようにあちらこちらで耳にした。それは、「複数の教会をジプシーのように勝手気ままに渡り歩きながら、結局、どこの教会にも定着できずにいる無責任でわがままな信徒。キリスト教社会のはみ出し者」というような侮蔑的な意味合いを込めた呼び名だった。

教会のみならず、色々な場所で、組織に定着できないことが、個人のわがままであるとしか見られないような時代だった。「ジプシー・クリスチャン」と教界から見なされることを恐れるあまり、転会したくてもできない信徒たちが現実にいたことを筆者は知っている。

今から9年程前、筆者はアッセンブリーのある伝道師に、このような教会籍という制度のあり方はおかしいのではないかと質問した。結果、得られた回答は、教会籍は、欧米の教会にはない制度であるにも関わらず、キリスト教を伝統文化の土壌に持たない日本においては、キリスト教布教のためにこの制度がぜひ必要であると判断されて早くから導入された、今となってはいかんともしがたい、というような内容であった。

その後、筆者の身近でも、教会籍を理由にした問題が起こった。ある知り合いは、アッセンブリーのとある教会で信仰に導かれ、洗礼を受けようと決心したが、教会で受けた洗礼前講座で、洗礼を受けるための心構えの一つとして、洗礼前に洗礼誓約書を教会に提出し、その教会の教会員となる誓約をしなければならないと説明された。彼は洗礼を受けることが、なぜ教会に会員登録することに直接、結びつくのか理解できず、そのことで牧師と議論したが、牧師側からは彼にとって何ら明確な回答と思われる返事が得られなかったため、結局、洗礼も誓約も両方、断念するに至った。この話を聞いた時、筆者は随分、やるせない気がした。

多くの教会では、教会で洗礼を受けることが、すなわちその教会の会員になることに等しいと、まるで当たり前のように説明されている。
教会員になると、日曜礼拝への出席義務から始まって、奉仕の義務や、献金の義務など、組織としての教会を維持していくために信徒として協力する義務が生じる。
では、教会員になることで、信徒に何か権利が生じるのだろうか。それに対する答えはあまりに貧弱だ。
一般的に、在籍年数が少ない信徒には、役員になる道が開かれておらず、教会内で意志決定権を求められる場が(年一回程度の信徒総会の他に)ほとんどないことを考えれば、会員になったからといって、特別に生じる権利は(投票権を置いては)ほとんどない、と言えよう。

教会をただ使用するだけなら、会員でなくとも可能である。教会はノンクリスチャンにも開かれているし、礼拝堂を使うことも、礼拝に出席することも、聖餐式に出席することも、聖書勉強会に参加することも、ゴスペルなどの活動に参加することも、他の信徒と交流することも、牧師の指導を仰ぐことも、会員でなくてもできる。
願い出るなら、会員でなくとも、教会の収支報告を閲覧することもできるであろうし、牧師の理解を得られれば、週報棚に自分の場所を作ってもらうことも十分に可能だ。

従って、教会員になって、教会籍を持ったからといって、何か特別に大きなメリットが信者の側に生じるということは全くない。むしろ、まるで重いローンの返済が始まるように、教会員になった途端、教会への諸々の義務が発生してくるのだ。

本来、キリストを信じて洗礼を受けることと、特定の社会団体の一員になるということは、全く無関係の出来事であるはずだと筆者は思う。にも関わらず、洗礼を受けることと教会員になることが、直接イコールで結びつけられている現状に、疑問を抱かない方がおかしいのだが、このことに聖書的根拠を見つけることは不可能なのではないかと筆者は考えている。

一般的に言って、洗礼を受ける前後の信者の気持ちというものは、生涯を通じて、最も信仰的に純粋な時期であろう。それは人の心が最も無垢で、打ち砕かれている時であり、逆にいうと、非常に無防備になっていて人を信用しやすく、不安定で危ない時期でもある。
イエス・キリストの十字架への感謝の気持ちや、自分を信仰に導いてくれた信仰の仲間たちへの信頼、今までの身勝手な自己に死ななければならないという決意、そして回心してから始まる新しい生活への期待…、そういった楽観的で夢のような期待が膨らみ、逆に自分の現実生活は変容を迫られるべきであり、大したものではないと感じている。教会や信徒に夢を抱くあまり、人間に対する警戒心は極端に弱まっている。

このようにして、ある人が神に対しても人に対しても、最も深く心を開いて信用する方向に傾いている時に、教会は彼にただ洗礼という恵みの素晴らしさを語るだけでなく、彼が気づかぬようにこっそりと、そこに本来、信仰とは関係ないはずの、教会組織への忠誠の誓約という「要らないオマケ」を忍ばせる。

洗礼と同時に、彼は教会を維持する義務を負うことへ同意するよう求められる。
多くの人はこの仕掛けに気づかず、当然のこととしてそれにサインする。
そして後になって、内容のない虚しい礼拝や、堂々巡りの会議への出席義務や、終わりなき興行的催しを支えるための消耗する奉仕や、黒字が決して信徒に還元されることのない教会財政を何とかするための多額の献金という、予想よりもはるかに重い年貢を払い続ける義務が、いつの間にか、自分に課せられていることに気づいて、首をかしげねばならない。

もちろん、全ての教会が洗礼を必ずしも教会への会員登録とワンセットにして提供しているわけではない。アッセンブリーの中でも、このことについては異論があるかも知れない。
だが、信徒の方から特に疑問を持って、自分から拒否でもしない限り、この教団の多くの教会では、洗礼を受けることが教会員になることと同一視され、当然のように信徒に課せられていることは事実である。いや、それはアッセンブリーに決して限らない話であろう。

多くの教会は、その団体の教会員となることが非常に有意義なことであると信徒に思わせている。信徒の交わりに正式に受け入れられることは名誉なことであるとされ、教会組織のために奉仕することは、すなわち、神に仕える名誉ある仕事であるとされている。
だが、名誉ある信徒の交わりは、会員が教会に通い続け、金を払い続けている限りにおいてしか保たれない。すでに述べたように、「カネの切れ目が縁の切れ目」であり、会員が教会に通わなくなると、たちまち、教会からの連絡は途絶え、週報と諸通知の郵送さえストップする場合も少なくない。あるいは献金袋だけが送られてくる例もある。
幽霊会員になった会員には、信徒総会があっても、何の通知もないのが当然であるし、礼拝へ出席しなくなってどんなに年数が経った信徒に対しても、信徒が自分から望まない限り、教会から彼に教会籍が返却されることはまずない。
こんな薄っぺらい関係が、聖書の言う「信徒の交わり」の実態であるはずがない。

神は時空間を越える存在である。従って、その神の力により、血肉を越えて霊的絆によって結ばれたはずの兄弟同士であるキリスト者たちは、本来、時空間にとらわれない絆によってつながっているはずであり、そこで、信徒たちが互いに、特定の時空間に制限されたつきあいしかできないというのはおかしい。
ところが、今日のニッポンキリスト教界では、キリスト者を時空を超越した神の力から引き離し、ひたすら限定された時空間へ閉じ込めようとする強力な力が働いている。

同じ会堂で、キリストの身体として、同じパンを共に裂き、イエスの血であるぶどう酒にあずかった信徒たちは、互いに同じ血流の流れる同じ細胞を持つキリストという身体の肢体であることを互いに確認し合ったはずである。
そうであるならば、本来、信徒がどこへ行こうとも、何を考えようとも、これらの信徒が、キリストの身体としてつながっている事実は永遠に変わらない。

にも関わらず、キリストの身体であることを確認しあったはずの同胞の交わりの永遠性を、今日の教界は少しも認めていない。一つの会堂、同じ礼拝という限られた時空間にもはや身を寄せなくなった信徒に対して、他の信徒たちはあまりにも簡単に同胞意識を捨ててしまう。
教会という限定された時空間の中でしか、信徒の交わりは有効性を持たず、その時空間を離れた信徒に対しては、まるで彼が「別の縄張り」に寝返って敵となってしまったかのようなよそよそしい態度を取る。そして「別の縄張り」に手を出すことを恐れているとしか思えないような逃げ腰な態度で、かつての同胞にコンタクトを取るのをやめてしまう。

このようなかつての同胞信徒たちの態度が随分冷たいものに思われるために、傷つく人がいても無理もない。だが、このことは、今日の教界における信徒の交わりが、一個の教会という限定された時空間の中で演出された、その敷地内でしか効力を発揮できない一種の虚構であり、ショーであり、仮想現実であると考えれば納得できるだろう。
ディズニーランドやUSJで行われるショーは、その施設の中にいるうちはまるで現実のことのように感じられ、楽しめるが、公園の敷地を一歩外に出れば、厳しい現実の中に、幻のようにはかなく消えてしまうヴァーチャル・リアリティの世界だ。それらのショーは限定された時空間の中で、人を酔わせるために、相当に計算ずくで様々な演出効果を用いることによって、かなりのリアリティを持った仮想現実に仕上げられている。

礼拝を始めとして、今日の教界で行われる様々な催しや交わりは全て、このような仮想現実に相当、近いものである。キリストの無限の力によって自由な交わりを作り上げるのでなく、計算されつくした人為効果を様々に駆使して作り上げる一種のショーになってしまっているからこそ、教会組織の外に一歩出た途端、あったはずの信徒の交わりさえ幻のように消えてしまうのだ。

人が現実の様々な物体から精巧な模型を作り出すように、様々な行事という仮想現実の舞台を演出することにより、キリストによる自由で永遠の結びつきを持つ信徒の交わりの模型を作り出しているのが今日の教会の姿である。模型は模型であって、決して物本来の用途に用いることはできない。どんなに美しく精巧に出来ていたとしても、しょせん、しばらくの間、本物であるかのように人を欺くことができるだけで、それによって人が満たされることは決してない。

このことについては、Mr.Sugar氏がブログ「山暮らしのキリスト」の中であまりにも見事な表現を用いて問題の核心を突いているので、ここに彼の文章をそっくり引用することをどうかお許しいただきたい。

「安定でなく唯一点キリスト」(2008年3月5日)
"人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。
即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能
が働いているのです。

その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。
<中略>
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。
そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。



教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

「臨機応変、伸縮自在、進出鬼没」(2008年7月20日の記事)
"エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。
そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です。

このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。 "

(太字は筆者による強調)

ニッポンキリスト教界は、教会籍制度を導入することにより、信徒を限定された時空間に固定しようと努めているだけでなく、信徒を数値化し、人格を持った存在としてではなく数として背番号をつけるかのように扱い、さらには幽霊信徒を作り出すことによって、相当に、信徒数を水増ししてどこへやら報告しているものと考えられる。
現在、日本ではクリスチャン人口は総人口の1%以下と説明されているが、そのパーセンテージさえ、多くの水増しを含んだものである可能性がある。一体、事実上のクリスチャン人口はどれくらいなのだろう。

このような教会籍制度というものの存在は、多くの信徒にとって躓きの源となってきた。
教会籍制度は、一言で言えば、教団組織の生き残り策として導入されたものであり、教団側にとってだけ都合の良い性質のものであり、もちろん、聖書的根拠はない。それは元々、信徒のために導入されたものでなく、信仰的な意味合いから導入された制度でもないのだから、それが信徒に不当な圧迫や苦しみをもたらしたとしても不思議ではない。
多くの信徒が、この教会籍のために、まるで農奴制時代の農奴のように、移転の自由を奪われて、居たくもない教会に不当に留め置かれているのが現実なのだ。

さらに恐ろしい問題として、筆者はアッセンブリーに在籍していた時に、多くの高齢信徒が教会を離れたくても離れられない理由が、墓地にあることに気づいた。
高齢の信徒にとっては、特に、死後、教会の墓地に入ることが、手放すことのできない目前の利益となっているのだ。無縁仏になることを恐れるように、高齢のクリスチャンたちは教会を離れると、入るべき墓を失ってしまうことを恐れている。
そして教会はそのような信徒の恐れを巧みに利用して、高齢信徒が教会から離れられないように仕向けている。死んだ後の処遇への恐れが、生前の信仰生活から自由を奪っているのである。何という恐ろしいことであろうか。

筆者は自分の教会籍が悪徳牧師によって奪われてしまった時、アッセンブリー内の教会に相談をもちかけ、随分な犠牲を払って遠い教会にまで足を運んだが、それにより筆者の問題は何一つ解決に至らなかった。それどころか、筆者の側から転会を望んだにも関わらず、現在、教会に通えない状態にある筆者に、その教会から一通の週報さえ送られて来ることはなかった。
これは仲間とみなされていないという通告に等しい。

アッセンブリーは筆者が洗礼を受けた教団であり、長年、関わってきた教団だが、アッセンブリーの方で、筆者を大切にしようとする動きはこれまで全くと言っていいほど見受けられなかった。
筆者が子供の頃から、長年、仕えてきたN教会は、約10年前、T牧師の罷免騒動という事件のために信徒が真っ二つに分裂、信徒の大量離脱が起こり、教会組織は半ば崩壊しかけた。今もこのN教会はその事件の余波から立ち直っていないが、T牧師を辞職に追い込んだこの教会の「謀反人信徒ども」への教団側の眼差しは極めて冷ややかなものであると感じざるを得ない。

教団にとっては、教会も信徒もただの金づるであり、収入源でしかないのだろう。長い間、奉仕と献金という形でN教会に忠実に仕えてきた信徒たちを、教団側はただ捨て置いただけであり、そして今も見捨て続けている。筆者だけではない。筆者の親族と知人も含め、この教団と教会の存続のために、どれだけ大勢の人たちが、何十年間、膨大な月日と労力と資金を投入してきたことだろう。
なのに、この教団が現在、そういう古参信徒のためにしてくれていることは何一つない。離散した信徒を呼び戻そうとの動きも一切見られない。ただ巻き上げるだけ巻き上げて、尊敬も払わず、感謝もなく、これ以上、搾り取れないと判断したら、ポイ捨てしただけ、いや、初めから使い捨てにする目的で信徒と関わってきたのか、そう見られて全く不思議はない。

アッセンブリー教団には、一度、牧師への謀反に関わった疑いのあるような信徒は、誰一人、二度と、この教団には要らないという不文律でもあるのだろう、そう想像せざるを得ない。

T牧師と深いつながりがあるアッセンブリーのある牧師は、筆者に面と向かってこう言った、「ああいう事件があったおかげで、日本社会には危険な教会もあるということが分かって、あなたはかえって勉強になったんじゃない?」
全く、何という呆れた情けない台詞であろうか。夜道で暴漢に襲われた人に対して、「これで世の中の恐さが分かって、あなたも勉強になって良かったでしょう」と言う人があるだろうか?
そして10年ぶりにT牧師の姿を筆者は見ることができたが、彼は親族の取り計らいにより、まだ教職を続けていただけでなく、「私は証になるような死に方がしたい」と豪語していた。それを聞いた時、筆者は心の中に寒々とした風が吹きぬけるような思いがした。

あなたは、まだそうやって己の力によりすがって生きているのか。
未だに己の力によりすがった信仰しか、持てないでいるのか。
あなたの自己中心性のせいで、どれほど多くの信徒が教会を失い、信仰の灯火さえも失いかけて、悩みと孤独のさ中でさまよわなければならなかったか。
T牧師よ、あなたが「証になるような生き方」をできていれば、こんなにも大量の信徒があなたに躓くことはなかった。
私は教会に躓いたことで、自分を石に打ちつけられ、粉々に砕かれた。
自分のそれまでの信仰がいかに間違ったものであったか、教界に騙されたことによって直視せざるを得なくなった。N教会の多くの信徒がそうであっただろう。
だが、信徒の躓きの原因を作り出したあなたは未だに、人には、自分の力で「証になるような」生き方も、死に方もできないということが分かっていないのか。未だ自分は人の模範となるべく召しを受けた人間だと思い込み、存在しない崇高な自己を隠れ蓑に使って、本当のあるがままの自己の惨めさから目を背け続けているのか…。

キリスト者の歩みとは、己の決意と努力によっては、何一つ良いものを生じ得ないことを理解して、己を捨てて、キリストに委ねることの連続でなければならないはずだ。なのに、死を間近にしても、自分の力にしがみつき続け、自分の力を過信している牧師とは一体何なのであろうか。その自己中心主義こそが、彼の牧会生活に破滅をもたらした最大原因であるというのに!

一つや二つの教団が腐敗に陥っているだけでない。今、教団教派を問わず、このキリスト教界全体が、偽りの教えの風に惑わされ、恐ろしいまでの人間の数値化と拝金主義に堕ちてゆき、堕落の中で最期の時を迎えようとしている。なのに、組織の側に立っている人間には、誰にも、その破滅が確かなものとして見えていないのだ。
アッセンブリーとフリーメソジスト、二つの教団に、筆者は沢山の「荷物」を置いてきた。
もはや取り返すこともできない歳月と多くの労力。人生のたくさんの行事と大切な記憶。教会籍。

だが、筆者はこれらの「荷物」を力ずくで取り返すことはやめようと考えている。
もしも教会籍が残されているために、筆者とあの教団との間に何らかの目に見えないつながりが今でも生じるとするなら、そのつながりに応えるべきは、筆者のみならず、教団側もまた同じであるはずだ。
教会籍のために、筆者に教団に対する何らかの義務が生じるとするならば、教団側にもまた筆者に愛を示し続ける義務が生じているはずだ。教会籍とは、本来、そういう双方通行のものでなければおかしい。
従って、神の前に、教会籍のことで責任が問われるとすれば、それは教団もまた同じはずなのだ。

いつか、教団の要職にある人々が、神と人との前に、果たすべきであった義務を問われる時が来るだろう。信徒の義務だけを一方的に強調し続けてきた牧師たちが、主の前で、あるいは社会の前で、牧者としての自分自身が果たすべきであったにも関わらず、果たしてこなかった大いなる義務について責任追及される時が来るだろう。その時、大量の幽霊信徒たちの教会籍が、彼らにとってまことに不利な証拠となるに違いない。

かつてソビエト体制が崩壊した時、あの国から大量の国家機密文書が流出したことは今もまだ記憶に新しい。過去にソビエト国家が市民に対してどれほどの悪事を働いてきたかをつぶさに示す公文書が終わりなく発見され、国家によって不当に粛清された人々の悲劇の運命も、その公的記録には含まれていた。

同じように、いつか、ニッポンキリスト教界が崩壊する時、そこから大量の公的記録が流出する日が来るだろう。その中に、筆者の教会籍も含まれているかも知れない。
誰が牧者であり、誰がハイエナだったのか。それが人々の目に公然と明らかとなる日が来よう。
その日が来るまで、裁きは主の御手に委ねたい。

真の信仰者の国籍は天にある。その輝かしく自由な国籍は、永遠の権利として信徒に保障されているのであり、地上の国籍のように限られた時空間にしか通用しない有効期限付きのパスポートではない。
それを確かに手にするまでの期間、クリスチャンはこの世のどこにも定住することができない寄留者であり続けるだろう。彼の姿は、時に勇敢な遊牧民のように見え、時に打ち捨てられたやもめのようであり、風雨にさらされても帰る場所を持たない哀れなジプシーのように見えるかも知れない。
だが、この世にあっては寄留者であり、どのようなパスポートによっても地にとどめおかれないことは、クリスチャンの本質である。

教界がどのように信徒の固定化のために教会籍を用いようとも、信徒に与えられた信仰の火はそんなものによって決して消されることもなく、押しつぶされることもないことが証明されよう。
主はくすぶる燈芯をも消される方ではない。限定されたルシファーの時空間から、同胞であることを否定されて叩き出され、失意のうちにある兄弟姉妹たちの心の灯火が、この終わりの日に、人間の努力によってでなく、主の力によって息を吹き返すであろうことを筆者は信じている。
砕かれた骨に命が吹き入れられるように、教団側から死んだとみなされた信者たちの信仰が蘇る日が来よう。

そして、繰り返すが、ニッポンキリスト教界が崩壊するその日まで、決して、善良なクリスチャンがこの教界の中にとどまっているようなことがないように、筆者はもう一度、呼びかけたい。
筆者がすでに耳にしているところによれば、多くの教会はすでに深刻な財政危機を目前にしている。現時点で、全国の教会を見渡しても、立派な会堂の建築ローンが赤字として残っていない教会の方が少ないものと思われる。そしてこれらの経営赤字の重荷が、いずれ信徒の肩に直接、のしかかってくることは当然のごとく予想できる。

ある教会は、礼拝堂のローンを終わらせるために、教会債の発行に踏み切ったと聞いている。教会が信徒に一口何万円かの教会債を分担して買わせることにより、信徒たちにワリカンで借金を負担させ、ローンを完済したのである。

だが、教会債とは何なのか。それは法的には何の有効性も持たない紙切れであり、信徒が将来的に教会債を換金しようと教会に働きかけても、その時、教会に金が残っている保証はどこにもない。その時点で、教会がすでに財政破綻していれば、その借金は永遠に返済されないだろう。つまり、教会債という建前で、信徒は教会のローンを自腹を切って支払っていることになりかねないのだ。

教会債などというものを信徒は買ってはいけない。不当な借金を負わされる前にそこから逃げなさい。義理も人情も関係ない。この世の組織としての教会と一緒に心中しなければならない義務は信徒にはないのだから。人間関係がおかしくなって、牧師が独裁的になっているような教会に、自分の気持ちを無視してまでも、信徒が残らなければならない義務はどこにもない。教会籍も、在籍年数も関係ない。役員としての義務も、墓もまた関係ない。裸一貫になってもいいから、そこから逃げなさい。

主よりも組織を優先するような信仰になってはいけない。主の前に正しい生き方をすることよりも、人々に義理立てすることを優先するような人間中心の信仰になってはならない。組織への信仰は偶像礼拝の第一歩である。あなたが主の前に心清らかでいられさえすれば、あなたの全ての必要を整えるのは主ご自身の仕事である。牧師があなたの未来を握っているわけではない。人の全ての必要を満たしてくださる方は主の他にはない。組織ではなく、主への信仰に戻りなさい。
ニッポンキリスト教界の教会から逃げなさい。
筆者が教界の中にいる善良なクリスチャンに言えることはそれだけである。

最後に、恐ろしい予測がある。財政危機に追い込まれたニッポンキリスト教界を、最後に、詐欺が見舞うというシナリオである。Dr.Luke氏が彼のミニストリーに送られてきた手紙をブログで公表しており、このようなことがすでに各地で起こっているので、知恵ある者は注意されたい。
今、悪しき企みを抱いている何者かが、日本の教会がどれもこれも深刻な財政赤字にあることを見抜いた上で、そこにつけこもうと海外から狙っている。クリスチャンを名乗る何者かから、またはどこかの由緒あるキリスト教団体から、多額の金額の寄付の話が教会にもちかけられる時は要注意だ。
本当に財政危機にあって困っている教会は、藁にもすがる気持ちで、その提案に飛びつきかねない。いや、多くの日本人がこの嘘をすでに見抜いているので、相手は次回から、もっと巧妙な方法を使って来るだろう。
このような提案は、ニッポンキリスト教界が今後、避けては通れない一連の苦難の前哨戦としての大がかりな詐欺がすでに始まっていることを意味する。

財政難の上に、詐欺で生じた借金まで信徒が負わされるいわれは全くないから、ニッポンキリスト教界のような団体から信徒は早く離れた方がよろしい。今まで信徒をむさぼり食ってきた教界は、自身が何者かによってむさぼり食われることによって最期を遂げると考えられる。「悪者どもは騙し、騙されながら、悪道に堕ちていく」のだ。そんな恐ろしい時が来るまでこの団体に残っていてはいけない。

宇宙の星たちが役目を終えると爆発して死んでいくように、この世のあらゆる組織や団体は、社会において何らかの役目を果たし終えると、崩壊し、消えていくと筆者は考えている。会社ならば倒産しておしまいになる。会社が消えゆく場合にも、そこには社長や社員の自殺、未払い賃金や、夜逃げ、家族の崩壊など、あらゆる個々の悲劇のドラマがある。一つの社会全体が末期状態に陥った時、それはファシズムという末期症状を生み、そこで悲運に巻き込まれる人は数知れない。

ニッポンキリスト教界はすでに爆発前の末期段階に入っている。日本からキリスト教組織全体がすっかり消えてしまうことはないと思われるが、少なくとも、現在のような形態の教界は来るべき時代の試練に決して耐えることができず、一旦、根こそぎ焼きつくされるだろう。そう、Salt氏が記事(12/02 No.1772「復活」)に書いているように、「世俗的教会にはこの世で自己実現できない極めて魅力の乏しい人たちが身勝手な救いを求めて群がるので、神はこれをゴキブリホイホイのように館ごと焼却されるだろう。」 そうだ、限られた時空間に閉じ込められ、もがいているうちに、信仰の息吹を失ってしまった信徒の死骸がいっぱいに詰まった「ゴキブリホイホイ」が、やがて家ごと焼きつくされる時が来る。その後で到来するであろうキリスト教組織は、前のものよりも、もっと恐ろしいものになると筆者は考えているので油断がならないが、とにかく、組織に対する信仰は死ななければならない。

クリスチャンの方々、どうかホイホイと共に焼きつくされるゴキブリにならないで下さい!!



補足:
「教会のカルト化」問題」を考察するにあたって重要な参考資料として引用します。
「Mr.Sugar氏のブログ「山暮らしのキリスト」の記事「家々 Vs. シナゴーグ」(2007年6月28日)
「人の命はライフ、生活もライフ、人生もライフ、みな同じライフである。
神は明らかに、とりすましたワンセットの 時間と場所が固定された
日曜礼拝などではなく 人の普通のライフが好きなのだ。
無制限な復活のキリストが
礼拝堂の中 日曜日の10時半からの1時間のみに
限定されることなど決して無いのである。」

同上、「集まりに見る復活のキリストVs.固定化」(2008年5月2日)から引用。
「復活のキリストの表現としての当時のエクレシヤと集会の姿は 
現今のキリスト教に見られるようなあり方とは全く
似ても似つかないものであった事は誰の目にも明らかです。
しかし、私達が決して看過出来ないポイントは その両者は 極端な対極に
さえ位置していると言う事実にあるのです。今日 大手を振ってまかり通って
いる「固定化現象」はどうでもよい問題ではなく、神と復活のキリストに
真っ向から対立する何物かである、と言うことです。」

最後に、何の申し合わせもなく、筆者が記事を上げたのとほぼ同時期に、山谷少佐がブログの記事(12/25)の中で、悪魔による三つの誘惑に触れられ、また、Salt氏がプロテスタンティズムの問題点に言及(12/16 「主の前の独り」No.1285)されていたことは、本当に驚くべきことでした。

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