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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「大乗仏法の通弊は、善悪の因果も修証の因果も無視して、無事平等の邪見に堕しているところにあります。すなわち弥陀はわれわれ凡夫に代って骨折って成仏して下すった、弥陀の成仏はすなわち我が成仏であるから、このうえさらに修行する必要はない、ただ報恩のお念仏さえ唱えていればよいのだと誤解し、また釈尊は三袛百大劫という長い間、お骨折り下すって、一見明星によって大悟大徹なされ、衆生本来成仏なりと獅子吼遊ばされた。だからわれわれは本来成仏底なのだから、いまさら修行の必要はない、ただ報恩の行持さえつとめ得ればよいと、妄解している、何というタワケ共でありましょう。

 いったい他人(弥陀、釈迦)のたべた飯の味が、たべない自分(未悟者)にわかりますか。そんな都合のよいことは断じてありえぬのです。

 また、まだ悟らぬものには、念仏の意義も報恩の意味も行持の精神も、絶対にわかるはずがないのです。いわんや念仏、報恩の実行をやです。
 現代はこのような狂者共が大手を振って横行している時代ですから、御用心が肝要です。
 さらに多少か修行したものの病気は、小悟、小見、仏見、法見を妄認して、大悟大徹なりと誤り、軽心、慢心、放懶、堕着をもって解脱自在なりと誤り、もって自分をも他人をも邪道にひき入れ、仏法を破壊してしまうものです。これも修行者の用心を要するところです。」

原田祖岳著作集(一)『禅と人生』、原書房、pp.80-81.

この冒頭の文章は、筆者が恐れ知らずにも仏教を語ろうとして持ち出したものではない。ただ、どこの宗教の世界も同じなのだなぁ…とこの本を読んでいてつくづく感じさせられた。上記の文章をキリスト教用語に翻訳してみると、大体、このようになるだろうか。

「今日のキリスト教にあまねく見られる弊害は、善行に励む必要性も、キリストの似姿となるべく自己に死ぬ必要性をも無視して、ただ平穏無事に座していれば良いとの邪見に堕しているところにあります。すなわち神が私たち罪深い人間に代わって私たちを救って下さった、神の救いはイコール私たちの救いであるから、この上さらに努力する必要はない、ただありがたく聖句さえ信じていればよいのだと誤解し、また、イエス・キリストが苦しんで断食して祈り、十字架を背負って死に、私たちの罪の身代わりとなられた。だから私たちはすでに罪赦されて神の子になっているのだから、いまさら自己鍛錬の必要はない、ただありがたく礼拝にさえ通っていれば良いと、妄解している、何というタワケ共でありましょう。

 いったい他人(イエス)のたべた飯の味が、たべない自分(信徒)にわかりますか。そんな都合のよいことは断じてありえぬのです。

 また、日々の生活の中で己の十字架を背負うことをしないものには、聖句の意味も恵みの意味も礼拝の精神も、絶対にわかるはずがないのです。ましてその聖句を実践し、恵みを生かすことなどできるはずがありません。
 現代はこのような狂信者たちが大手を振って横行している時代ですから、用心が肝要です。
 さらに、多少なりともキリスト教を聞きかじった者の病気は、未だ浅はかな理解、浅はかな知識しかなく、神に対するおぼろげな理解と、教義に対するおぼろげな理解しかないものを、まるで大それた知識や理解を持っているかのように思い誤り、自分自身には軽薄さ、慢心、放埓、惰性しかないのにそれをキリストの与えたもうた自由であるかのように誤解し、そのように説くことにより自分をも他人をも邪道にひき入れ、キリスト教を破壊してしまうものです。これも求道者の用心を要するところです。」

原田祖岳師は昭和36年に92歳で亡くなったそうだ。仏教の悟りは凡夫(悟りのない一般大衆)には一生かかっても会得できないかも知れない大変なものだそうだが、ろくな修行もせず、ろくな悟りに達しないうちに、何もかも悟ったように自惚れて、にわか知識をひけらかして教えを垂れる偽教師が仏教の世界にも多いということを、師は幾度もこの著書の中で訴えて嘆いている。
仏教界においても、早くから、そのような警告がすでに発せられていたのだなと感慨深かった。

わずかな知識を得ただけで、何か物事の真髄を悟ったかのように思い込み、大したものでもない知識を他人にひけらかしては自己満悦に至るだけでなく、あまつさえ、その浅はかな理解をもって他人に教えを垂れようという態度に出る…、そのような人間が教師になったなら、生徒にとってはまことに最悪の事態である。
だが、仏教のように時間をかけての悟りを要求されず、托鉢に出ることも、丁稚奉公をして人生の刻苦を思い知る必要もなく、わずかな年数で神学校を卒業すれば誰でも牧師になれるプロテスタントのキリスト教界には、あまりにもこういう連中が多い。まあ、いつの時代のどの宗教でも事情は大差ないのかも知れないが…。

聖書の引用文を使ってしか、人と話せないクリスチャンがいる。
他人の文章をいくら大量に引用したからといって、それは決してその人自身の人格に根ざした言葉にはならないし、その人の信念の証にもならないというのに。
引用を多用すればするほど、本文の価値は薄れる。
聖書に登場する悪霊たちも、多くはみことばを知っていて、みことばを語っていたことを考えれば、みことばを引用しただけで言説に説得力が増し、権威が生じると思うのは大した誤解だ。

人の言葉には、本来、それぞれの文体があり、リズムがある。言葉はその人自身の奥深いところからから流れ出て来るものであり、その人の魂の吐息のようなものだ。
神は人間に言葉を与えたもうた。それは決して、人間が聖書の文句だけをちりばめて、聖書的知識をひけらかしながら、印籠で人を脅すように、聖句を用いて会話することを目的としてのことではなかった。

キリスト者は皆、イエスの似姿を目指しながら、己の十字架を背負って生きている。己を捨てて自分の十字架を背負うとは、決して、自分自身としての生活や、個性や、果てはDNAまで放棄して、自分でない何者かに成り代わろうとして虚しく努力することを意味しない。
キリストのために自分を捨てるとは、自己の生まれ持った性質を根こそぎ放棄して、自分でない何者かになることを目指したり、自分自身として語ることをやめて、ひたすら聖句の暗唱に終始するという意味ではない。

自分を捨てるためには、まず、自分を獲得していることが前提となるが、現代人のどのくらいの人が、自分自身と真面目に向き合うことをしているだろう?
ソクラテスは「汝自身を知れ」と言ったが、それはやはり古代ギリシアにも己を知っている人間は少なかったということなのであろう。
自己探求はあらゆる哲学と宗教の始まりであり、その道は奥深い。
まず、自分を知るためにもがき、あがいたことのない人間に、獲得していない自分を捨てることなどできようはずがない。

そして自分を捨てるとは、一旦、獲得した自分自身に頼ることをやめて、キリストへの信頼の上に立って、自分としての毎日を送るということを意味する。
それは決して、自己を放棄してキリストに成り代わろうとすることを意味しない(それは事実上、不可能なだけでなく、恐るべき思いあがりである)。
ただ、キリストへの全面的な信頼の上に立って、自分に与えられた小さな限界の中で、キリストを見上げながら生きていく道をあえて選ぶということだ。

キリスト者として生きることは、よく誤解されているように、肉的な自分を捨てて、何かしら高邁な存在となるために、自分としての性質を根こそぎ否定し捨て去ろうと努力することを意味しない。個人の生活を捨てて、どこか山里の奥深くに隠居して苦労することを意味しない。または、誰しもが牧師になるために自分の夢や人生をあきらめることをも意味しない。

キリスト者として生きるとは、むしろ自分自身としての性質に深く立脚しながら、ただ、神のご計画に信頼して人生を委ねて生きることを意味するだけだ。
その時、キリスト者の中では、その人の個性が圧迫されるどころか、十分に輝き出すだけでなく、何かその人の個性を越える普遍的なものが同時に輝き出て来る。
聖フランチェスコにも、シュヴァイツァーにも、ヘレン・ケラーにも、エミー・カーマイケルにも、マザー・テレサにもあった、キリストの似姿としての普遍的な輝きが、どのキリスト者の人格の中からも香り立つように流れ出て来るだろう。

ベートーヴェンの音楽は、彼の個性が十分に発揮されていながら、その個性の強さが決して音楽全体を損なうようなものにならず、むしろ彼の音楽性を普遍的レベルにまで高める要素の一つとして調和している。そのために、彼の楽曲は彼の個性の枠を超えて、さらに時代の好みも超えて、今もなお価値あるものとして残っている。
キリスト者の信仰生活とは、同じように、個人の個性を土台にしながら、なお個性を超える、そして時代をも超える、キリストの似姿としての普遍性を同時に持つものであるはずだと、筆者は考える。

ところが、キリスト者になりながら、その人自身の個性が十分に発揮されず、むしろ圧迫されて死滅していき、その人の人格的魅力がキリストの人格の衣を着て十分に外に輝き出ることがなく、その人本来の命の息吹がますます死滅していくような人がいる。
筆者自身もそのような道を歩んでいたことがあった。だが、そのような信仰生活は決定的に何かがおかしいのだ。

キリスト者を名乗る者の中には、「献身」を本来の自己、真実の自己からの逃避のために利用している者たちがいる。
自分が本来持っている低い自己評価(自信のなさ)から逃れようと、夢のような「献身生活」を思い描き、実際に献身することにより、飛躍的に神に近づき、人生の諸問題が解決し、自己価値が向上するかのように考えている人たちがいる。
神学生や牧師たちが「献身」への強い思い入れを語る時の、あの恍惚とした表情、自己陶酔感、自己満悦、そうしたものには筆者は早くから非常に強い疑念を抱いて来た。
そうした「献身者」たちは、自分が「特別な、神に選ばれた存在」であり、一般信徒とは別格の貴い存在であるとの確信があることで共通している。そして、その確信に立って、一般人には薄気味悪く感じられるほどの自信とプライドを抱いている。実際にはそれは何の根拠もないものなのだが…。

のっぺらぼうの言葉、文体を持たない言葉でしか語れないクリスチャンがいる。
聖書の引用文を使ってしか人と話せないクリスチャンたちの文章には、魂が感じられず、文章の背後にある人格がまるで感じられない。
そういう人たちは、実際に接してみれば分かるが、個人としての喜怒哀楽の感情を豊かに表現することができず、人格が空洞化していることが感じられる。彼らはただいかなる瞬間にも「クリスチャンとしていかにあるべきか」ということだけを念頭に置いて生活し、理想的クリスチャンを演じ続けようと必死に努力するあまり、自分自身であることをとうに放棄してしまっている。そしてそうやってひたすら自己の滅却に努めることが、信仰的なことであると誤解している。

筆者はこういうクリスチャンに出会うと、まるで遠くから何者かにリモコン操作で操られているサイボーグ戦士を見るような、非常に不気味な感覚を覚える。
本人と話していても、その人本人が、その人の中に不在なのである。

イエスが「まむしの子らよ」と呼ばれた律法学者やパリサイ主義者たちは、聖書に精通していた立派な学者たちだった。彼らが持っていた知識は、アダムとエバが蛇に騙された時に手に入れたものと同じ、人の魂を決して生かすことのできない知識であった。
クリスチャンと名乗り、宗教知識には通じているが、人格的な内容が不在のまま突っ走っているような人たちは、実は、全くキリスト者ではなく、上記のような人たちの子孫なのかも知れない。そしてそのことを彼らは無意識のうちにも知っているのではないだろうか。
このような人格不在のクリスチャンたちは、必死になって「選び」を強調する。自分たちは神に選ばれた存在であり、常に神の召しに応え続けている至高の存在であり、ただの信者に勝って、高く掲げられるべき存在であると彼らは絶えず主張している。

だが、「先の者が後になる」ことは聖書ではよくあることだ。カインの捧げものは、アベルの捧げものにかなわず、神に受け入れられなかった。長子であったエサウが弟ヤコブに出し抜かれ、父に忠実に仕え続けた放蕩息子の兄が弟の前で面子を失い、選民であったはずのユダヤ民族が十字架を理解できずに、異邦人たちに先に福音が伝えられ、高位聖職者であったはずのユダヤ教の祭司たちが、無学な大工出身のイエスにすっかり追い抜かれてしまった…。

「選び」の上にあぐらをかいて、自己満悦に浸っているような人たちは、聖書では、必ずと言っていいほど、誰かに出し抜かれて歯噛みしなければならない。
「選び」は「信仰」に勝らない。選ばれた人が皆、救いにあずかるわけではない。死に物狂いで、時には人への遠慮や、礼儀作法さえかなぐり捨てて、人の恨みを買い、人生の谷間のどん底に突き落とされながらでも、ただ最後までキリストにすがり続けた人たちが、結局は、神のそば近くに進み出ることができるのだろう。

献身とは、かつてのある日、礼拝の最中に、牧師になるようにとの召しを心に受けたとか、ある時、牧師になることを決意して神学校へ行ったとか、そんな単純なことを決して意味しない。
献身とは、日々、土の器としての自分の限界を担いながら、時には転び、まろびつつ、それでも地に足をつけた歩みの中で、キリストの似姿となることを実践しながら生きていくこと、ただ、それだけである。
献身とはこの教界で、フルタイムの牧師になった人たちが盛んに自慢げにひけらかすような専門的タームではない。献身という何か特別な行事が、人生に存在しているかのように思ったら、それは間違いだ。献身という言葉に特別に崇高なイメージを抱いて、それが自分の人生を劇的に変えてくれる行事のように思っているとすれば、それは大きな間違いだ。

人間はたった一つの行事によって、己から逃れられる(己を劇的に変えられる)ほどに単純な存在ではない。人はどのような難行苦行を経ようとも、生まれ持った自己からは死ぬまで逃避することはできない。にも関わらず、献身により、自己を放棄できたと本当に信じて、そのことを誇っているような人々は、何か考え方が根本的に誤っていると言えよう。
キリスト者の生活は、本来、その人の個性に深く根ざしたものであり、優等生的なクリスチャンを演じ続けることによって、自己から逃避することとは正反対である。
仏教の悟りと同列に並べることはできないにしても、キリストへの献身とは、本来、人が生涯かかって成し遂げるべき大仕事なのだ。自分自身でありながら、キリストの似姿として生きるとはどのようなことか、一生かかって学び続けなければならない。宗教的知識を持っていることは、決して、必ずしも、その人が本当にキリスト者として歩んでいることを意味しない。

自分の教会から、そして世間からどんなに尊敬を集めて、高い地位にあろうとも、社交的で、礼儀正しく、温厚に見える人物であろうとも、暇な時間、ネットの前に座り、自分の名前を検索サイトに打ちこみながら、自分に対する世間の評判をいち早くチェックして、不都合な言動があれば、サイトの管理人に真っ先に苦情を申し入れようと、人々の言論を監視しているような牧師には要注意だ。
自分のみてくれに多大な気を配り、「選ばれた存在」である「神への奉仕者」としての自分自身の崇高なイメージを誰にも汚されまいと、日夜、信徒たちの言動に細かく気を配っているような牧師には要注意だ。

土の器としての人間の性質は一生消えることはない。その惨めな性質も、無力も、一生消えることはない。だが、その限られた可能性の中で、あえて無限の神の力を束の間の閃光のように内側から輝かせることが、キリスト者の生活であり、キリスト者の醍醐味である。
なのに、信徒の個性をただ罪深いものとして全面的に捨てさせようとする牧師がいるとすれば、そのような態度は根本的に間違っている。
個性的な人生を奪われ、感情さえも滅却してしまった上で、奉仕と献身にひたすら突き進む無感覚なロボットとして生きることが、神への麗しい献身であり、信仰生活であるとうそぶく人たちに騙されてはいけない。
教会で奉仕にいそしみ、メッセージを語り、教会で開かれる聖書勉強会に足しげく通っていれば、信仰が前進するかのような思い込みを抱かされてはならない。

信仰者の生活とは、もっともっとその人の個性に根ざした、その人しか生きることのできない生活を指している。献身とは日々の暮らしの中で、その人がキリストを見上げることそのものである。

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