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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
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2017/11/21 (Tue)

(1/9に改定)

年明け早々に、「カルト化教会」の疑惑リストにまた新たな教会が続々と浮上しているという情報が、筆者の目にも飛び込んで来た。(ブログ「吉祥寺の森から」記事「卞在昌(ビュン・ジェーチャン)の性的猥褻行為 」村上密blog記事「Kの問題」、参照)。
現在、これらの教会で多大な被害に巻き込まれ、困惑している方たちには申し訳ないが、一傍観者の立場から発言させていただくならば、こうして、際限なくカルト化教会を生み出し続けている「ニッポンキリスト教界」にはほとほと呆れ果てるし、愛想が尽きると言う他ない。

毎年のように、新たなカルト化教会という汚物を生み出し続け、カルト被害者救済活動組織という専門的廃棄物処理班の助けを借りなければ、存続さえも危ういニッポンキリスト教界。
カルト化教会とは、もしかすると、この業界の副産物どころか、主力商品だったのかも知れない。

これが「キリストの肢体」を名乗っている組織の実態である。「肢体」が「死体」となってあたり中に腐臭を撒き散らしていると言う他に、どんな表現がふさわしいだろう。腐敗にまみれたニッポンキリスト教界は、泥舟に乗って今しも沈もうとしている「かちかち山の狸」さながらに、破滅の一歩手前にある。これが果たして、神の名を語るにふさわしい組織なのかどうか、それが結んでいる実を見れば、三歳児でも判断できよう。

悪魔がしばしば光の天使の形を取って現れることはクリスチャンならば誰しも知っている。悪魔的なものが必ずしも奇形・異形の姿を取り、ぞっとするような悪鬼の姿で人の前に現れるとは限らない。むしろ優しい物腰しと、麗しい外見、五感を楽しませてくれる巧みな演技と、滑らかな言葉とを駆使しながら、致命的な毒素はひた隠しにして人前に登場する。
しかも、悪魔が用いる毒には即効性がなく、アダムを滅ぼした死の力同様に、その毒は人を緩慢に破滅させていくものであるため、毒を盛られた本人には自分が滅びへ向かわされていることが最期の最期になるまで分からない。欺かれていることが分からず、むしろ祝福へ、繁栄へ向かっているのだと信じて疑わない。このような目くらまし的な時間稼ぎの間に、毒素は人の全身に回り、確実に死の力にとらえられた人間が、気づいた時にはもう手遅れである。

「欲がはらんで罪を生み、罪がはらんで死を生む。」

古くから知られるこの聖書のみことばに従って、誤った欲望を抱いた時点で、そこに働く死の力を見分けることができていたならば! 大がかりな悪事に加担して、到底、一人では負いきれない裁きを刈り取るよりも前に、まだ小さな躓きに過ぎないうちに、自分の誤りに気づいて引き返すことができる人は幸いだ!

人が滅びに向かって踏み出す初めの第一歩は、極めて小さなものである。自ら望んで犯罪を犯すような人はこの社会には稀であるから、ほとんどの人たちは、別に悪事を犯そうと思って、悪事に引き込まれていくわけではない。
いつの時代も騙しのテクニックは同じだ――人々が神の目の前に正しい事柄を選び取るのではなく、人の目から見て麗しいもの、つまり、自分に「良かれ」と思う事柄を選び取ること――、それこそがいつの時代も相変わらず、人が滅びに至る最初の第一歩なのだ。自分への「良かれ」は、人の目に最初は少しも悪事のように見えないどころか、極めて美しく、理知的で、時にかなった、思いやりある選択のように見えるだろう。

この終わりの時代にあっては、詐欺は、人類を救うためと銘打って行われることに注意しなければならない。人に優しい、人類救済的な、美的スローガンを謳って、大勢の人々を救ってやるように見せかけながら、その裏で、想像もできないような非道・残虐行為を堂々と行うこと――それが当世風の詐欺の手法だから、クリスチャンは美的スローガンに対してはよくよく用心が必要である。

最初はごくごく小さな人間中心主義であったものが、時と共に膨らんでいき、大規模な悪事へと発展する。個人の横暴が集団的サディズムとなり、業界全体の大がかりな腐敗に変わり、やがて集団そのものの自滅を導く。キリストの愛を語って、人間の救済を訴えてきたキリスト教界が、羊頭狗肉の代物となって久しい。ニッポンキリスト教界は長い時間をかけて現在の末期症状まで辿り着いた。あまりにも多くの善良な信徒を偽りで惑わし、傷つけ、食い者にし、引き返せる橋をとうに越えてしまった。後は一旦滅亡を待つしかなかろう。イエス時代のユダヤ教の神殿がそうであったように、今日の日本におけるキリスト教的宗教組織の宮においても、中心を占めているのは、キリスト者ではない何者かである。

福音を受け入れることができないこの世の堕落した性質は、イエス時代から今に至るまで何一つ変わってはいない。そのこの世を出発点として、大々的に「人類救済」や「人間の浄化」を訴える何らかのイデオロギーや、社会運動などが登場して来る時、その運動の真の終着駅がどこにあるのか、クリスチャンはよくよく考えて用心する必要がある。

クリスチャンなら誰しも知っているように、人間の悪を根絶するためには、ただイエスの血潮によるきよめによる他に道はなく、人間から罪なる性質を消し去ることができるのはただ十字架の力のみである。
従って、何らかの組織が、十字架による個人の救いとは別に、組織改革によって大がかりな悪の根絶や、弱者救済を謳っている場合、それは十字架を介さない救いとして、真実の救済とはむしろ正反対の目的へ人を導くだろうことを予想して警戒しなければならない。

いずれもう一度、別の記事の中で引用するつもりであるが、悪とは何かということを考える上で、有力な参考となる、ある人物の文章をここに抜粋しておきたい。これを書いた人物は犯罪者である。多分、読者はご存知だろう。

 "大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、
 事実は全くそれに反している。
 通常、現実の魔吻は、本当に普通な“彼”の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、
 実際、そのように振る舞う。
 彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう…
 ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみや、プラスチックで出来た桃の方が、実物は不完全な
 形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや挑はこういう風でな
 ければならないと俺たちが思いこんでしまうように。"

この文章は、恐るべき虚偽が大手を振って横行している今の"詐欺"時代にあって、事物を判断する際に、決して外見に頼ってはならないことをわざわざ私たちに教えてくれているのである。
大から小にいたるまであらゆる集団が詐欺にふけっているような今の時代にあって、筆者自身もまた、自分の小さな人生において、見せかけが正反対の二つのものが、根底では同じ一つの悪の根に通じているという状況に、幾度も、遭遇させられた。

たとえば、訪れた求職者に対して、懇切丁寧に、謙虚な物腰で応対する派遣会社もあれば、横柄でぶっきらぼうな態度しか取らない派遣会社もあるだろう。だが、表面的な物腰が正反対だったからと言って、両者が、労働者の低賃金からさらに上前をはねるハイエナのような派遣会社の実態から少しでも遠ざかっているということがあるだろうか。看板が美しかろうと、醜かろうと、社員の態度がどうあろうと、派遣会社である以上、会社としての実態はほぼ変わらない。個性的な包装紙の下には、労働者をいつでもクビ切れるモノ同然の状態でやり取りし、生活さえままならない低賃金で人を搾取する人身売買的な組織という中身があるだけである。

同様に、ニッポンキリスト教界にも美しい教会と醜い教会の両方が存在するだろう。だが、それがニッポンキリスト教界という、教団教派の作り出す幻想的なショーに包まれた虚構の世界に属している以上、真の信仰者にとってそのような組織が危険な存在であることは疑いがない。

今日、正真正銘、キリストの身体である教会を信者が見つけ出すことは極めて難しく、そのような教会を見つけたいならば、組織の掲げる看板に頼るのをやめて、「実によって見分ける」ことを始めるしかない。しかもその「実」を見分ける作業すら、困難を極める場合がある。「徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう」ような立派な団体や人物さえもが、悪に通じている可能性があるなどとどうして疑うことができるだろう?

このように、実を見分けることさえも困難な絶望的な時代であるが、さしあたり、少しくらいは何かの役に立つかも知れないので、筆者自身が理解した、堕落した宗教組織に共通する骨組みを以下に記しておく。

・堕落した宗教組織においては、悪魔に服している下っぱの悪霊的存在たちが、それぞれ限られた一定の時空間内に、ある種の「結界」を作り出し、そこで支配力を行使する。彼らの縄張りの中心には「牙城」としての組織、建物があり、その城が彼らの権威を象徴している。
 一定の時空間を支配する悪霊的な力は、そのパワーの由来が「正当」なものであることを主張する。たとえば、その集団が神によって特別に召し出された人々の群れであると主張する。その組織全体や指導者がどれほど「正しい」理念に導かれて有益な活動をしているかを、訪れた人たちに説くことにより、人々が彼らを信用して、その霊の支配下に進み出るよう仕向ける。メンバーとなった人間に対しては、その悪霊的影響下から外へ出さないように、縄張りの中で多くの時間を過ごすよう仕向ける。教会を中心として、絶え間なく催される聖書勉強会、セミナー、サークル、聖霊待望会等。今日の教界における組織中心、空間中心主義の信仰生活がこれである。

・その集団内でしか通用しない独特のヒエラルキーと政治闘争がある。
 栄光に包まれた「先生たち」で構成される上層部と、その下に、誇りを奪われて使役されるだけの下々の人々という階級が存在する。上層部の繁栄と権力拡大のために下層階級は経済的に使役されているが、その搾取は上層部に「神から委ねられた権威」という形でカモフラージュされているため、下々の人間はその不当さに気づかない。祭り上げられた上層部の人々は、自己に対して不遜なまでの誇りをもっており、しばしば一般人以上に優雅で贅沢な、現実から解離したような生活を送っている。が、必ずしも彼らが事実、有能で、その功績が世間で評価されているとは限らない。この上層階級の先生たちの中には、一般人以下の能力しか発揮しないのにふんぞり返っているような傲慢な人々が多く見られ、謙虚に人に仕える者たちはほとんどいない。上層部の中では絶えず権力争いがあるが、その熾烈さ残酷さは、下々の目からは隠されている。

・組織が仮想敵を持っている場合が多い。
 ある特定の集団を敵対視し、「正義のための闘い」を恒常的に繰り広げることによって、メンバーの心に「自分たちは正しい」という誇大妄想的な自信と、現実にはない力を錯覚させ、愛によらない団結心を養っている。

・人間が使い捨てにされている。
 個人にはかけがえのない価値があり、その人がいなくてはキリストの肢体は全体として機能しないという事実が否定されている。下層メンバーは特に取り替えの効く人材として扱われる。組織のルールに従わなくなったメンバーはどんなに功績があっても切り捨てられる。政治的に失脚した上層部の人間もまた恥をこうむる。利用価値がなくなった人間は誰でも即座に捨てられる。

・人の個性や個性的人生の価値に目を向けさせない。
 下層メンバーは、自分は無力で、自分個人の人生など無価値だと思わせられているか、あるいは自分の人生に対する関心が薄れるほどに組織の用事に没頭させられているために、組織のヒエラルキーの中で自分がどれほど重要な役割を果たすかが、人生の至上課題であるかのように錯覚している。自分個人の人生の重要性を見失っているため、個人としての人生にほとんど進歩がないまま堂々巡りを繰り返している。にも関わらず、社会から隔離されたような小さな組織における自分自身が、真実の自分自身なのだと錯覚している。
 メンバーの生活は組織を中心に回っており、たとえ日曜日にしかその組織の中にいないとしても、そのために多大な犠牲を払わされており、たとえ家庭があっても、家庭ごと組織に飲み込まれているか、あるいは家庭や社会において個人が果たす役割が軽視されている。組織のヒエラルキーの中で上に上がっていくことだけが優れた働きであるかのように奨励される。
 メンバーの家庭や職場で問題があっても、それは組織内で全く取るに足りない出来事として注意を払われないため、メンバーは現実の人生の問題が何も解決しないのに、ひたすら組織に通いつめている。組織はメンバーの足腰を強めて社会に送り出すための場所ではなく、メンバーにとって、苦しい現実からのただの避難所のように機能している。

・メンバーがその組織から離脱することに後ろめたさや恐怖を感じるように仕向けている。
 メンバーが自分勝手に別の「縄張り」に移動しないように、組織は何らかの囲い込み政策を取っている。たとえば籍を置くことによって人員を固定化しようとする。あるいは、主人(リーダー)を幾度も変えるのは不道徳であると思わせたり、集団を離脱すると何らかの「祟り」や不名誉があるかのように信じ込ませている。

・組織が地域限定の影響力しか持たない。
 大宣教命令などの世界的規模のスローガンを掲げている割には、その組織の活動範囲は狭い。組織を離脱すると制裁を受けるとメンバーに信じ込ませているが、実際には、そのような制裁が加えられることは稀である。縄張りを離れたメンバーは別の悪霊的存在の支配下に入ったものと考えられて、新しい主人(リーダー)の裁量に委ねられるため、前の支配者が離脱者に何らかの制裁を加えようと、深追いしてくることは滅多にない。むしろメンバーが組織から離脱した途端に、全てが夢だったかのように、かつての集団との一切の縁が切れてしまうことがよくある。

・一旦、組織を離脱したことのある人間は、前科者として扱われる。
 組織を離脱して、二度とその業界に関わらないでいる限りにおいては、元メンバーは安全でいられるが、再び何らかの関係が生じて業界に立ち戻るとき、そのメンバーは「転向者」として差別的に扱われ、その裏切りに対して留保されていた制裁を受けることがある。転向者の情報はブラックリストに掲載され、目に見えない形で初めの縄張りから次の縄張りへと伝えられる。前の主人(リーダー)が追いかけて来ない代わりに、新しい主人がその人間に罰を加えるのだ。一つの組織から離脱した経験のある者は、その負い目があるがゆえに、次の組織からなかなか離脱できない。一旦、自分たちへの忠誠を放棄し、組織を裏切った「前科者」を決して許さず、二度と信用せず、二流の扱いしかしないことが、堕落した宗教組織共通の性質である。

このような性質に鑑みるならば、一旦、ソドムを脱出したならば、二度とそこへ戻ろうとしない方が賢明である。苦労して脱出したのに、エジプトに還ろうなどという気を起こさない方が良い。教界を脱出したなら、二度とその結果に足を踏み入れないがよろしい。さもなくば、筆者の身に起こったようなことがあなたの身にも起きるかも知れない。どんなに慣れ親しんだ環境であっても、そこはあなたの故郷ではないのだ。長年、記憶に馴染んだ礼拝形式、耳に馴染んだ賛美歌を退けるのはためらわれるかも知れないが、教界に対する里心など無用である。「故郷」に戻ろうと後ろを振り返り、国境を越えた途端に、「国外逃亡の罪」を着せられ、再教育のための更正施設に送られるのがオチだろう。一度目の逃亡は簡単にできても、二度目の逃亡は命懸けになり、そして三度目はもうないかも知れない。

記事の本題に戻れば、この「業界」で現在、行われているカルト被害者救済活動は、業界全体の滅びを食い止めるにはあまりに無力であるだけでなく、これは教界が決して自ら開けてはならないパンドラの箱であったことが、間もなく明らかになるだろう。
前述したように、ある体制が非人間的な悪事をたくさん行い、その残虐性が一定限度を越えると、その体制は「橋を越える」。つまり、引き返すことも、軌道修正することも不可能な地点を越えてしまい、組織は崩壊へ向かうしかなくなるのだ。いつニッポンキリスト教界が「橋を渡った」のか、筆者は知らない。いずれにせよ、多くの信徒を躓かせて、群れを離散させ、聖職者が肥え太るために、容赦なく信徒をただ働きさせて、食い者にしてきたこの教界の悪がすでに限界に達するほどに満ちていることだけは確かであろう。

フルシチョフがスターリン批判を行い、ゴルバチョフがペレストロイカを行ったが、そのような小手先の修正によっては、ソビエト体制のそれまでの歴史的悪事を覆うには、もはや手遅れであった。それどころか、この「善良な(?)」軌道修正があだとなって、世界中の市民がソビエト体制の悪事への批判精神に目ざめてしまい、結果的に、ソビエト体制はそれまでの巨悪を隠しおおせることができなくなって、市民の名誉回復など全ての作業を放り出したまま、道徳的な荷の重さに耐え切れなくなって、自ら潰れた。

カルト被害者救済活動は、キリスト教界が自ら行っているペレストロイカ(立て直し)である。だが、時すでに遅く、このショック療法によっては、この業界を救うことはもうできないものと思われる。むしろ患者をさらなる末期的けいれん状態に追い込み、ついには息の根まで止めてしまうことになるだけであろう。
世間はもはやこのペレストロイカに期待を寄せていない。グラスノスチ(情報公開)によって終わりなく明るみに出されるキリスト教界の不祥事に、世間がどれほどうんざりしているか、それが業界全体の信用をどれほど貶めているか、活動に従事する人々には分からないのだろうか。
ニッポンキリスト教界によるグラスノスチは、一部の教会の不祥事を暴き出すにとどまらず、この教界の巨悪を浮き彫りにするだろう。それによって、教界の権威と信用そのものが揺るがされ、業界全体の破滅を導く導火線に火がつけられる。それはこの業界が滅ぶべくして滅んでいくプロセスの一つである。

善良な牧師や信徒たちは、このような事柄には関わらない方が賢明だと思われる。政治闘争から手を引き、伝道という本来の仕事に専念するのが無難だろう。もしも野心があってどうしても政治闘争に参加したい先生たちがいるならば、創価学会員がやっているように、選挙に立候補して、議員センセイとなって国会へ赴けば良いではないか。そうすれば、カルト救済活動などよりもはるかに大きな、この国全体を「救済」する活動に着手できて良いだろう。

人は必死になって敵と闘っているうちに、いつの間にか暗い谷間に誘い込まれ、援軍を失って、孤立することがある。政治闘争に関わっている人たちは、"人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、 真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた"、ということにならないように気をつけられたい。
ある組織が、外部の人間を仮想敵として闘っているうちはまだいいが、攻撃が己が組織の内部に向けられるようになれば、内部崩壊が間近だというサインである。

"今まで生きてきた中で、“敵”とはほぼ当たり前の存在のように思える。 
 良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。 
 しかし最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。
 そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆けめぐった。
 人生において、最大の敵とは、自分自身なのである。"

カルト被害者の救済活動、解放運動に関わっている人たちは、どうかよく気をつけてもう一度、考えられたい。本当に、敵は己の外にいるのだろうか? あなたたちが敵視すべきはカルト化教会だけなのだろうか?
悪の根は、外部の組織だけにあるのだろうか? いや、あなたたちの組織の中にこそ、腐敗の根が潜んでいたのではあるまいか? あなたたちの手法にこそ、敵が使ったのと同じ卑劣なやり方が潜んでいたのではあるまいか? 「魔物」は他人の中にではなく、自己の内にこそ住んでいるのではないか?

他人の心の中にある「魔物」を根絶しようと闘っている人たちは、しばしば、攻撃の対象がいつの間にか、己の内なる敵にすりかわっていることに気づく。身近な例を引き合いに出すなら、初めはウサマ・ビン=ラディンと、アルカイダに限定されていたはずの「テロとの闘い」が、いつの間にか世界中のテロリストとの闘いへとすり替わっていることの異常さにあなたは気づかないだろうか。「テロとの闘い」はビン=ラディンとフセインが死んでも終わらないどころか、今ますます闘いが激化していることをいぶかしく思わない人がいるだろうか。

「テロとの闘い」はいつの間にか、最初の小さな概念を離れて一人歩きするようになり、無限に拡大解釈されて、国家間の戦争まで引き起こし、終わりなき国際協力事業となっている。今、世界のイスラム教徒たちは、原理主義とは無関係な穏やかな信仰を維持している人々でさえ、自分たちがキリスト教文化圏から「仮想敵」とみなされていることに怯え、命の危険を感じて、この「テロとの闘い」に抗議を申し入れている。

「テロとの闘い」を名目とするイラク戦争で殺された一般市民は数え切れない。テロとの闘いは、一部のテロリストを滅ぼすだけでなく、全世界を疑心暗鬼に陥れ、罪もない一般市民を巻き添えにする流血の惨事に拡大している。「テロとの闘い」という「魔物」が、食い尽くすべき者を求めて世界中をさまよっている。

日本もすでにこの闘いのために多額の協力資金と出動を要求されているが、やがてそのうち、テロリストは日本にも上陸して活動しているという疑惑が持ち上がることだろう。そして全社会的警戒態勢が敷かれるだろう。あと10年も経たないうちに、日本社会にもそこかしこにテロリストが潜伏しているという話になるものと思われる。

「仮想敵」がいつの間にか、膨大な規模に押し広げられて一人歩きし、人々の生活の隅々にまで入り込んで、身近な隣人への恐ろしい疑惑へと変わっていく…。どいつもこいつもテロリスト、みんなで摘発しようテロリスト…、そんな恐ろしい時代が間もなくやって来る。その時代には、かつてテロリストがアルカイダだけを指していた頃が懐かしく思われるだろう。
いや、そもそも本当にアルカイダなんてものは、存在していたのか? 誰一人、その実態を詳しく知ってはいない。かつてスターリン体制下で、「テロリスト」という汚名を着せられて、どれほど多くの市民が無実にも関わらず粛清されただろうか? そのような市民の「テロ活動」は、国家ぐるみで生み出された大がかりな嘘であった。独裁者が権力を拡大し、大勢の市民を粛清して恐怖に陥れるために、「テロリスト」というレッテルが口実として使われたのだ。

初めは小さな闘いであったものが、膨大な規模に押し広げられて、全世界を恐怖に陥れる。
闘争が日常となり、平和のための闘いであったはずのものが、終わりなき混乱を生み出していく。
いつまで経っても平和は来ない。ただ闘いだけが続き、戦争という産業が、食い尽くすべきものを求めて、終わりなく世界をさまよう。

「テロとの闘い」、それは誰かが人類の中に終わりなき闘いと疑心暗鬼の種を蒔くために作り上げた口実だったのだろう。「9.11」や「アルカイダ」といったものは、永遠の戦争を引き起こしたい人々が作り出した都合の良いきっかけであり、たとえ事件そのものがあったことは否定できないにせよ、それらの事件は誰かに都合よく脚色されて、大がかりな犯罪的計画の実現のために着々と利用されているシナリオの一部に過ぎない…。

"魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、 その深淵もこちらを見つめているのである。"

「仮想敵」を軸にして人々が団結し、ある組織の中で、外部の敵との闘争が日常化する時、その闘いは、いつしか内部抗争に転化する。外なる敵ではなく、内なる敵への攻撃にすり替わる。その内部抗争は組織そのものを同士討ちに陥れ、疑心暗鬼のために組織は内部崩壊する。
根絶すべき悪が、己の外にあると思って他人と闘っていたら、いつしか最後に、自分自身を敵として滅ぼさなくてはならなくなるのだ。

このことは歴史によって幾度も証明されて来た。カトリックの異端審問然り、プロテスタントの異端審問然り、日本における学生運動然り、ソビエト体制然り、カンボジアのポル=ポト体制然り、現在のアメリカの「テロとの闘い」然り…。

いつの時代にも、どんな運動の中であれ、「仮想敵」は一旦作り出されると、無限に拡大解釈されるようになって、あらゆる人々の命と生活を脅かす根拠となっていく。善良なスローガンの下で、ある集団を「悪」と断定して、特定の人間に闘いを挑むような運動を信用してはならない。人類の中のある種の集団を「仮想敵」として扱い、二項対立的な善悪の闘いを挑む運動が、人類そのものに攻撃を加えるに至らなかったことが今まであっただろうか?

浅はかな善悪の二項対立を掲げる政治運動に巻き込まれてはならない。それは必ずや非人間的粛清を生む。十字架なしに人間の中にある悪を根絶するためには、人類そのものを全滅させるしか方法がないのだ。
(このことをまだ十分に知らない人は、どうかジョージ・オーウェルの著作や、アーサー・ケストラーの著作を参考にされたい。)

「カルト被害者救済活動」の歴史をじっくり眺めると、あらゆる二元論的な構図を持った闘争につきものの「外ゲバから内ゲバへの転化」という変化が、すでに起こっていることが分かる。最初はキリスト教界以外の他宗教という外部カルトに闘いを挑んでいた活動が、すでに教界の内なるカルトを敵対視して攻撃するようになっている。次なる段階では、それがカルトであるか否かを問わず、激烈な同士討ちという内部抗争に火がつき、教界全体が疑心暗鬼に陥って、最後には、組織全体が滅茶苦茶な混乱の中で崩壊するだろう。この活動は徐々に、同士討ちによる内部崩壊という最期のシナリオへ近づいているのだ。

(内ゲバとは内部抗争を指す。ゲヴァルトとはドイツ語で暴力の意、団塊の世代が引き起こした学生運動で使われた用語)。

信徒が使い捨てられるような教界では、牧師もまた使い捨てである。A教団は、これまでカルト被害者救済活動を推進することによって、そこから利益を得て、組織の美名を高める材料としてきたが、この救済活動が、ひとたび組織の権威そのものを揺るがし、組織を内部分裂の中で瓦解させてしまう危険があると判断すれば、教団はその活動から手を引き、今度はそれを切り捨てにかかってくるだろう。

一時は正義の人のように世界から喝采を受けてペレストロイカを進めていたゴルバチョフが大統領の座を追われた時のことを思い出そう。軌道修正さえすれば、ソビエト体制そのものは存続させられると考えていたことが彼の誤算であった。ソビエト体制の枠組みの中でしか、政治家としての手腕を発揮できなかったことが、ゴルバチョフの限界であった。だが、彼のペレストロイカが喝采を浴びていた最中に、あの体制の崩壊を間近な現実として理解していた人がどれくらいいただろう?
 
ニッポンキリスト教界を軌道修正しようと闘っている牧者=政治家センセイたちは、この体制と共に自分が失脚しないように注意が必要だ。残酷なようだが、かちかち山の狸の乗った泥舟に救いはないのだ。滅ぶべくして滅んでいくものを誰も止めようがない。

こんな時には、闘争からは身を引き、主の前に心を鎮めて、真の信仰に立ち戻り、小さくても穏やかな自分の生活の一区画を守りながら、神を愛し、隣人を愛して生きることに徹したい。そうしていれば、どこでいつどのような体制が崩壊しようとも、決して奪われることのない平安がその人の心にあるだろう。

どうか、この記事を読んでいる人たちが、ここにある批判をよりどころとして、カルト被害者救済活動をしている人たちに直接、闘いを挑むようなことがないように注意を喚起したい。筆者は教界内で政治運動を組織するつもりは全くない。闘争からは極力、退いて、日々の生活の中で、自分の信仰を穏やかに養うことに注意を向けよう。

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