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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
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2017/11/21 (Tue)

私たちは他人を理解しようと思うと、想像力を働かせなければならない。自分で経験しないことはなかなか分からない。だから、人は他人を理解する際に、自分の経験を参考にし、自分自身を参考にしようとする。自分の性格から他人の性格をおしはかろうとする。
だからこそ、優しい人には残忍な人が理解できない。善良な人間には悪人が理解できない。無欲な人間には権力欲にとりつかれた人間が理解できない。自分の性質にないものを、人はなかなか理解することができない…。

悪人の底知れぬ恐ろしさを、多くの人々が理解できないのは、悪人の持つ悪への異常なほどの執着、偏執狂的な権力欲を、自分の中にほとんど見出せないためである。

聖書に登場する裏切り者のユダについて考えてみよう。色々な時代の様々な人間が、何とかユダの人格を理解しようと苦しんできた。多くの人たちが、人類の中に、悪魔のような人間が存在していたとはどうしても納得できなかった。そこで、作家たちは特にそうであるが、彼らは自分に理解できるユダ、「人間的なユダ」の姿を思い浮かべようと苦心した。
彼らは考えた。きっと、ユダはそれほどまでに我々とかけ離れたような人物ではなかったはずだ…、ユダは決して特別に堕落した人間存在ではなく、我々誰にでもあるような長所と欠点を兼ね備えた、ごくごくありふれた人間だったに違いない、ただ、欠点に打ち勝てなかったために、彼は師を裏切るという恥ずべき行為に及んでしまっただけなのだ…。
そのようにしてユダの人間性を描き出し、彼の罪状を誰にでも理解できる平板なものとして描き出し、あまつさえ、人間的なユダの姿に同情を注ごうとさえした。

ある人々は、ユダにも救いの可能性はあったはずだと主張する。ユダの肉体は破滅的最期を遂げたが、神はユダの魂をきっと救われたに違いないとの主張もある。ユダはただ単純に弱者を現実に助けたいという思いが勝ったゆえに、イエスの活動の真意が理解できなかっただけであり、ユダはユダなりにイエスを尊敬し、イエスの唱える愛にいつも心惹かれながらも、同時に、金に対する執着心や、師に対する猜疑心や嫉妬にさいなまれ、その狭間で葛藤し、ついに誤った方を選んでしまっただけの可哀想な人間なのだ…。

だが、イエスはイスカリオテのユダを指してこう言われた、「そのうち一人は悪魔である」、「そのような人間は生まれて来ない方が良かった」。

この言葉の持つ衝撃的な意味を額面どおりに受け取る時、ユダにも救いの可能性があったとか、ユダもまた、心弱いだけの、どこにでもいるような人間であったとか、ユダにはユダなりの心の葛藤があり、善に心惹かれていたはずだ、などという想像は微塵に砕け散るのである。
ユダを我々にも理解できるそこそこ善良な心弱い小市民的人間として描き出そうとする一切の苦労が、イエスの述べたこの恐ろしい言葉の前に砕け散ってしまう。

いばらがあざみを生じるはずがなく、葡萄の木が野いちごの実をつけるはずがない。
良い幹からは良い枝が生じ、良い幹が悪い枝をつけることはありえないのだ。

だとすれば、毒麦の種は最初から毒麦であったのであり、良い種が途中で変質して毒麦に変わるということはまずありえないと分かる。
ユダは最初から裏切り者であった。イエスはそれを見抜いた上で彼を弟子に引き抜いたのだ。ユダは筋金入りの、職業的スパイであった。彼の行動は我々の想像を超えるほどのしっかりした信念と主義に基づいており、良心と欲望との狭間でのひ弱な葛藤などなかっただろう。

物事を考える際はいつでも徹底的に議論を掘り下げ、決して聖域を作らないことが大切だ。
悪人を理解しようとする際に、自分自身の信念のぐらつきやすさ、いい加減さ、性格のお人好しさ、行動の不徹底を参考にして、悪人の悪を情状酌量をして、か弱いものとして想像しても意味がない。悪人に情けをかける必要はないのだ。悪人はあるがままの悪人として理解することが肝要だ。

筆者はかねてから思って来たが、クリスチャンには二種類の人々がいる。
一つ目の種類は、キリストを信じて、心打ち砕かれて謙虚になり、ある程度の失敗はあったとしても、大体において、人格がキリストの似姿となるように、人生の試練を通して品性が練られる人々。人に仕える謙虚な人間として、人格が麗しく変えられる人々。

もう一つの種類は、キリストを信じたがゆえに、自分には罪がなくなったと安心して尊大にふんぞりかえり、自分は神に召し出された特別な人間なのだと誇大妄想的な自惚れを抱いて、自己の正当性を信じるがあまり、自分は絶対に間違いなど犯さないと自己の無謬性を確信するまでに至り、その不遜な自信とプライドの中で一切の自己反省能力を失ってしまい、他者に対して横柄で思いやりなく、自己顕示欲の強い、権力欲にとりつかれたプライドの塊のような人間になってしまう人々。

歴史的に、この二つの種類の人間がともにクリスチャンを名乗ってきた。キリスト教との出会いは、ある人々にあっては、人生を良く生まれ変わらせる転機になるが、別な人々にとっては、人生を破滅させる躓きのもととなってしまう。後者の人々は、キリストに「つまずいた」一群だ。ところが、キリスト教の歴代の宗教権力を構成してきたのは、大体において後者だったのであり、この種の人々は、イエスが「まむしの子らよ」と呼んだあの偽善者の学者たちの姿にそっくりである。

筆者は思う。きっとこのような人々は、イエスに出会わなかった方がずっと良かったのだ。キリスト教などというものに出会わない方が幸せな人生を送れただろう。救いを知った後の方が、救いを知らない前よりも、はるかに心の状態が悪くなってしまったのだ。可哀想な人たち。ユダもそうだが、キリスト教と無縁でさえいれば、彼らは善良な小市民として、世俗の世界で静かな人生を生きられたかも知れないのに。

キリスト教は、死後の裁きを待たずとも、生前のこの世で人々を真っ二つにふるいわける試金石になるらしい。この宗教はこれまで善良なクリスチャンたちと同時に、心底、性根の腐ったクリスチャンたちを生み出してきた。後者がどれほどの殺戮と、残虐行為などの歴史的悪事を積み重ねてきただろう。宗教裁判、異端審問、魔女狩り、戦争、十字軍、侵略、カルト…。
世間には、キリスト教に対して憎悪に近い感情を持つ人々が存在する。だが、その人たちが、もしも蛇の子孫としか思えないような根腐れした傲慢なクリスチャン、偽善的でふんぞり返ったクリスチャン、教義だけ知っていても何ら行いが伴わない似非クリスチャンたちのひどい姿を見て、この宗教を毛嫌いするようになったのであれば、それは無理もないという気がする。

筆者がこのように言うと、「私も似非クリスチャンです」と名乗り出る自信のないクリスチャンがいるかも知れない。だが、筆者が似非と呼ぶのはそういう人たちのことではない。
本当の偽クリスチャン(偽預言者、偽牧者)は、自分は誰よりも神に近い存在であるかのように錯覚し、周囲に対してもそのように振る舞い、自己の無謬性を心底、確信しているから、彼らが自分から己の偽善や誤りを認めて名乗り出るようなことは決してないだろう。

さて、筆者は今、ある恐ろしい疑惑について思いめぐらしている。以下の記事の中で、筆者は甲師という架空の人物に話を託して、カルト被害者救済活動に漂うある種のいかがわしさを強調して分析してきた。だが、その際、筆者もまた通常人の例に漏れず、手ぬるい描写に墜ちることによって、悪人に情状酌量の余地を与えてしまったらしい。

筆者は甲師を「まむしの子孫」として描くことはできなかった。なぜなら筆者は悪人を描くことが苦手で、登場人物を心から憎むということができないからだ。筆者は甲師に愛着のようなものさえ抱いていた。そこで、筆者は甲師をかつては心から主を崇めていた正しい牧師だったが、何らかのきっかけで道を踏み誤ってしまった牧師であるかのように描いた。

だが、それは筆者の描写が手ぬるかったのだと、今は解釈している。
その点では、大審問官を律法学者、パリサイ主義者たちの後継者、福音に敵対する徹底的な悪人として描いたドストエフスキーの作品の方がはるかに現実的だと言えよう。
だが、誤りが分かった時点で、「本当の甲師」はどのような人物なのか、筆者はそれを補足しておかねばならない。

それからもう一つ、殉死という考えについて、浅はかに殉死を美化していると受け取られかねない曖昧な表現を用いて、これに対する警告を発さなかったことをも筆者は訂正しなければならない。

本当はきちんと物語の続きを描写することによって話を補いたいのだが、あいにく、プロットを練っている時間がない。だから、ここでかいつまんで説明することをお許しいただきたい。改めて言う必要もないだろうが、ここに登場する甲師とは筆者の作った架空の人物である。
 

カルト被害者救済活動を推進する甲師のプロジェクトを
クリスチャンが決して支援してはならない理由

 反キリストは初めから反キリストであり、その本質は(彼の犯す悪事の規模が加速度的に増大することはあっても)最初から最後まで変わらない。甲師が正しい福音を述べ伝える牧師であったことはこれまでに果たして一度でもあったのだろうか。もしも甲師が偽牧者であったとするならば、彼のミニストリーには初めから何の正義もなかったと考えるのが妥当だろう。
 甲師はプロテスタントのれっきとした教団に属し、牧師という名誉ある職業に就き、それなりの功績を挙げ、社会から尊敬を集めている。甲にはすこしも横暴な態度がなく、人の話をじっくりとよく聞くタイプで、信徒から慕われている。こんな甲師を、なぜ我々はそこまで疑わなければならないのか?

 その根拠として、まず、甲師の回心の信憑性を吟味することから始めたい。甲師にはかつてカルト的宗教団体に入信していた経歴があることはすでに述べた。では、どうして甲はカルトを離れて、キリスト教に入信することになったのか。なぜそのような劇的な「転身」がありえたのか?
 甲自身はこのことについて次のように説明している。彼は「主の御声」を聴いて、悔い改めたのだと。ある時、カルト団体の奉仕にいそしんでいた甲は、突然、己の内に神からの語りかけを聴いた。それはパウロの回心とそっくりであった。声は言った、「甲よ、あなたはここで何をしているのか。私はあなたが迫害しているイエスである…」
 甲はその「御声」を聴いた瞬間、自分が今までカルト団体を本物の宗教だと思い込んで奉仕してきたことが、間違っていたと悟った。そして本当の救い主はイエス・キリストだと理解して、泣いて地にひれ伏し、カルトを抜けることを心に誓ったのだという。

 だが、今の曲がった時代にあって、ひたすら「しるし」を求めて騒いでいる聖霊派に属しているクリスチャン以外のキリスト教徒は、このような話を聞いて、いぶかしく思わない方がどうかしている。まず、甲が個人的に神の「御声」を聞いたということそのものが、本人以外の誰にも確かめようのない、検証不可能な事実であるだけに、第三者には非常に疑わしく感じられる。それが作り話ではないという証拠がどこにもないのである。実際に、多くのカルト化した教会の牧師たちは、常日頃から、直接、神の「御声」を聴いていたと証言している。

(パウロの回心の場合には、パウロが突如盲目に陥ったことにより、主が彼を討たれたことが第三者にもはっきり見える形での証拠となった。さらに、アナニヤがパウロの回心に立ち会うことにより、パウロに起こった出来事の証人となった。甲の劇的な回心の話には証人が一人もいない。)
 本人の証言だけでは、その人が本当に神を信じて神から遣わされたクリスチャンであることの十分な証拠にはならない。

 次に、仮に、甲の回心が偽物であったと仮定してみよう。では、回心していないのに回心したふりをし、信仰もないのにキリスト教の牧師を演じ続けている甲は、一体、何者なのだろうか。まさか、そんな無意味なごっこ遊びに精を出せるほど、彼の人生も暇ではあるまい?
 これに対して答えられる一つの可能性は、甲は今も隠れカルト信者であり、キリスト教を調査し、キリスト教界を崩壊させるためにカルトから特別に派遣されたスパイであるということ。
 二つ目の可能性は、甲自身がカルト団体を去り際だと思い、見切りをつけていたが、キリスト教界に牧師として一躍転身するために、自分に箔をつけてくれそうなもっともらしい召命の体験を捏造したということ。
 三つ目の可能性は、神の御声を聴いたということは、甲自身の想像の世界の出来事であったが、彼はそれを幻聴だとは決して思わず、今でもその正当性を確信し続けている病人であるということ。
 四つ目の可能性は、その「御声」は確かに存在したものであったが、その発信源は神ではない何者かであったということ…。

 いずれにせよ、この甲の劇的な回心の話は、非常にうさんくさい感じがするので要注意だ。
 そして、もしもキリスト教を本気で敵対視する宗教が日本にあるならば、キリスト教界を弱体化して骨抜きにするために、スパイとして偽牧師をこの組織に潜入させることくらいは朝飯前だということを覚えておく必要がある。
 何しろ、この業界には、牧師になるための資格試験がほとんどないのだ。本人が献身の決意を固めたということの他に、牧師となるために必要な条件がなく、誰もその献身の内容さえも本気で吟味せず、さらに、神学校さえ卒業しなくても、牧師を名乗ることが可能なのだ。
 これほど牧師になることが簡単な業界なのだから、仮に偽装牧師がもぐりこんだところで、誰も気づきはしない。
 まさか、そこまでする奴があるか? そんなのは想像の話だろう? と笑っている人があるかも知れない。
 だが、平和な市民団体のデモをぶっ潰すために、警察が団体にスパイを送り込んだりすることはいつの世の中でも当たり前に行われている。ただそれを我々市民が知らされていないだけの話だ。

 次に、前の記事で筆者は、カルト被害者救済活動は教界の遅すぎたペレストロイカであり、この教界そのものの滅亡を止めることはできない、従って、甲師のような人物は、一見、改革を進めているように見えても、ゴルバチョフと同様に、業界全体が沈没する時に一緒に失脚するだろう、という意味のことを書いた。
 だが、失脚してくれればまだ良い。失脚しない可能性も大いにあって、その場合、非常に恐ろしい事態となる。想像するに、甲師のように世故に長けた人間であれば、どう転んでも自分が不利にならないように予め布石を打っておくことだろう。

 民衆の暴動や一揆は、組織化されなければただの暴動で終わっていく。鎮圧されればそれまでとなり、暴動参加者は治安を乱したとして処罰される。
 だが、政治的に組織化された民衆の暴動は、もはや暴動ではなく、革命である。
 暴動は鎮圧されて終わるが、革命は、政権そのものを打ち倒して、体制を全く塗り替えてしまうため、犯罪行為とみなされず、むしろ偉業としてたたえられる。何度も暴動が起これば、現今の政権は揺るがされ、弱体化していく。そうして政権が弱体化したところを狙って、権力を奪取するための革命を起こす。革命が成功すれば、新しい政府が作られる。革命を起こした者は救済者として名乗り出て、民衆のリーダーとなり、弱者のためと銘打って、自分の望む体制を敷くことができる。

 甲師は今、全国のカルト化教会をぶっ潰すことによって、戦国時代の武将が敵の城を攻め落とし、日本地図を塗り替えたように、着々と己が領土を拡大し、日本のキリスト教界の地図を塗り替えている。これはキリスト教界におけるM&Aである。甲が一つカルト化教会を叩くごとに、その教会のみならず、教界全体が揺さぶられ、権威失墜し、弱体化する。関が原の決戦があり、最後の武将がいなくなれば、教界全体が崩壊して、次なる時代――すなわち甲幕府が成立する。
 甲はそれを狙っている。
 甲が目指しているのは、単にクリスチャン・ヴィレッジという、限られた小さな地域限定の王国を築くことではない。
 甲の夢はもっと大きく、全国制覇である。甲が欲しいのは、日本のキリスト教界全体を思うままに牛耳ることができる最高権力なのだ。

 善良な市民にはどうしても、悪人たちの恐ろしいまでの権力欲が理解できず、物事をどうしても表面的な主義主張のレベルで捉えてしまう。甲が日本にキリスト教を広めるために牧師をやっていると思うのは間違いだ。悪人にあっては、キリスト教を口実にして、己が権力を拡大することだけが伝道の真の目的なのだ。

 だが、甲の野望が実現するまでにはまだまだ時間がかかる。教団教派の対立がある限り、キリスト教界には戦国時代が続き、「幕府」など成立するはずがないから、甲はまずは教団教派の併合を待たなければならない。甲はすでに自分の教団内ではダントツの勢力を誇っており、甲の属している教団には甲に並ぶ者がなく、教団全体が甲の教会に吸収されていくのは時間の問題であるが、他の教団はまだ独立性を保っていて、甲の影響力の下にはない。そこで他教団も弱体化させた上で、吸収合併しなければならない。そうでなければ、甲は本当に日本のプロテスタント教界の覇者となることはできないだろう。

甲はまだ牧師の中では十分に若く、あと15年は少なくとも現役で勤められる。この間に、キリスト教界を思い切りぶっ叩き、ありとあらゆる教会を弱体化させ、カルトの疑いがあるところは徹底的に叩いて吸収し、行き詰まったら、カルトであろうとなかろうと、あらゆる言いがかりをつけて教会を破壊し、吸収していかねばならない。

だが、わざわざそんな手荒な手段に出なくとも、信徒の高齢化のために、どうせ全国の教会が経営難に陥るのは目に見えている。そうして弱体化した教会を次々併合するのは簡単だ。教団自体も弱体化するところが出て来るだろう。そうすれば、「この困難な時代ですからみんなで協力しましょう」と呼びかけて、できるだけ沢山の教団教派を吸収していけば良い。頑固で非協力的な牧師がいれば、カルトのリーダーとして首を飛ばすだけだ。唯々諾々として甲の言い分に従って来るようなひ弱な牧師しか業界には残さなければ良い。

こうして教界内でM&Aを繰り返した挙句、まるで銀行が次々合併したように、聖霊派、福音派を問わず、主義も主張も違うはずの様々な教団教派が合併を繰り返して看板をかけかえる。やがて「全日本統一キリスト教団」のようなものが生まれて来るだろう。どんな名前になるかはまだ分からないが、とにかく甲がそこでリーダー格の牧師となっていることは間違いない。何しろ、そこまで吸収合併を繰り返し、業界を統一再編したのは甲の手柄に違いないから。

そして全国の教団教派が一つの組織に統一された暁には、甲はそこに念願だった「カルト監視機構」を設立するだろう。それは一種のオンブズマンとして導入されるが、その監視機構は恐ろしい危険性をはらんでいる。そもそも、なぜこの機構の設立に対して、既存の教会の牧師たちがこれまで執拗に反対してきたのか、考えてみよう。そこには実は、耳を貸すに値するだけの十分な理由があったのだ。

 20世紀初頭に、ロシア革命によって帝政ロシアが崩壊し、「労働者と農民の国」ソビエト体制が成立した時、革命とほぼ同時に、チェーカー(反革命・サボタージュ取締り非常委員会)というものが国家機関の中に設立された。ソビエトの指導者レーニンは当初、新しく成立した労働者の解放的な国では、善良な労働者たちが国を導くので、悪事はほとんどなくなるだろうと考えていた。そこで、チェーカーは、かつての体制の下僕であった資本家の悪者たちを最小限度、処罰するためだけに設けられた小さな取締り機関になるはずであった。やがて取り締まるべき悪人もいなくなれば、その機関は役目を終えて消滅するだろうと指導者は安易に考えていた。
だが、組織というものは、ひとたび創られると、自分からは永久に活動をやめようとせず、むしろ生き残りをかけて肥大化していくものである。最初、最小限度の取り締まりのために設置された「非常」、つまり期間限定の委員会が、時と共に、恐るべき規模へと拡大発展していき、無期限の、史上最大規模の懲罰機関へと変わって行った。

 チェーカーはやがて常設の秘密警察(KGBの前身)となり、その秘密警察が市民に対してはかりしれない権限を行使するようになった。最初、旧い体制に仕えた悪者たちだけを処罰するはずだった秘密警察は、やがて膨大な数の無実の市民にテロリストの嫌疑をかけて、市民だけでなく大物政治家、大臣、役人を問わず、あらゆる人々に事実無根の罪状をでっちあげては、ひたすら犯罪者として人を処刑するか、あるいは強制収容所に引っ張っていく恐ろしい機関へと変わった。大した取調べもなく、強制的な自白だけを根拠に、大勢の人々が無実の罪で投獄された。犯罪者扱いされた市民は、強制収容所で「再教育」を受けさせられ、奴隷的労働に従事させられた。ソビエト体制が鎖国政策に走っていた間、囚人による奴隷労働がこの国の経済を支えていたのである。

 もしも「カルト監視機構」が日本のプロテスタントのキリスト教界全体を監視する常設の機関となったら、どんなに恐ろしい事態が持ち上がるだろうか。我々は上記の歴史的事例から学ばなければならない。
 牧師や信徒に対する抑圧的な監視機関が常設の機関となるということは、キリスト教界の中に秘密警察が設立されることに等しい。

 甲はその恐ろしさに何も気づいておらず、オンブズマンが設置されれば、業界の中でカルトに陥る教会が減って良くなるだろうと浅はかに考えている。だが、他の牧師たちは、自分たちの礼拝が隅々まで甲によって監視されることの恐ろしさや、信徒の悪質な密告によって、自分がいつ会議であらぬ罪に対して弁明を求められるか分からないこと、証明もできないような些細な疑惑のために、いつ自分がカルト的牧師というレッテルを貼られて首を切られるかも分からないような事態が持ち上がることに強い拒否感を示している。

 「カルト監視機構」――それは、どのくらいの権限を持って、どのような活動を繰り広げることになるのだろう。立法と司法と行政の全ての側面を同時に兼ね備えることになるのだろうか? 教界内にはいつでもカルトが存在しているとは限らない。もしもカルト化教会や牧師が教界から絶えていなくなったら、この機関はどこに活動の場を求めるのだろうか? まさか自然解体するとは思えない。
さらに、万が一、この機構が不正な活動を行った時、誰がその暴走を食い止められるのだろうか。オンブズマンといえども人間の集まりである以上、絶対に誤らないという保証はあるまい。もしも悪しき企みを抱いた何者かがこの組織を巧く使って自分の野心をかなえようとして実権を握ったらどうするのか? 「監視機構」そのものを「監視」する役目は誰が果たすのだろうか?
…誰一人として、このような疑問にはっきりした予測を持って答えられる者はいない。

牧師たちは、「カルト監視機構」が事実上、どんな牧師でも粛清でき、どんな教会でもぶっ潰すことができる無制限の権力となって、教界全体に恐怖政治を敷くことを恐れている。それが甲の独裁体制を維持する手足のような機関となることを恐れている。さらに、近い将来、甲よりももっと野心的な人物が登場して、その機関を自在に悪用することを恐れている。彼らの恐れには正当性があり、それはただ我が身かわいさだけから出た考えではない。

カルト監視機構とは、牧師と信徒に対するれっきとした抑圧機関なのであり、プロテスタントに設けられる一種の異端審問所となる。それは牧師や信徒を処罰したり追放したりするなど、業界内で何らかの拘束力を行使する権限を持つだろう。このカルト監視機構が常設機関となることは、キリスト教界内に秘密警察が設けられることに他ならず、秘密警察の初代長官には、甲師が就任することが早くも決まっている。それは甲師以外の牧師にとっては、まさに恐怖の時代が到来することを意味する。

だからこそ、甲師は決してプロテスタントのキリスト教界で政権を掌握してはいけないのだ。信徒は甲師の野心的プロジェクトに決して出番を与えてはならない。甲師はすでに自分の活動において「仮想敵」を設けて、敵を叩くことによって、教界の弱体化と内部崩壊をひたすら助長しているが、甲師の実権が拡大して、彼の勢力が教界全体を食い破って、教界を配下に治めるような日が来れば、教界全体が彼の唱える「カルトとの闘い」に飲み込まれて行くだろう。

今、日本を含め世界がアメリカの引き起こしたイラク戦争の後始末に奔走させられているように、甲師の権力が教界に君臨するようなことがあれば、教界全体がカルトとの闘いに引き込まれて行き、あらゆる教会がそのために大いなる犠牲を強いられることだろう。その時、「カルト」という言葉は今で言う「テロリスト」と同じように、まことに曖昧な用語として一人歩きするようになり、クリスチャンの誰もが「カルト」のレッテルを貼られて、甲師によって粛清される可能性に怯え、甲師とカルト監視機構に逆らえなくなり、「カルトとの闘い」という名目で、教界内に事実上の恐怖政治が繰り広げられることになるのは避けられないものと考えられる。

大勢の信徒や牧師たちがカルトの疑いをかけられて、教会をやめさせられる日が来るかも知れない。あるいは「一から教義を学びなおしなさい」と再教育を受けさせられる日が来るかも知れない。
確かに、カルト化教会は現実に存在しているし、それは放っておくことはできない問題だ。だが、解決方法は、甲師がやっているように、カルト化教会をぶっ潰して併合することにあるのではない。分裂ではなく、一致と協力の旗印のもとに、同胞に手を差し伸べ続けること、各教会の独立性を認めながら、その立ち直りを根気強く支えていくこと、自分もいつ道を踏み誤るか分からない一人の弱い人間として、他人を監視するのではなくまず己をこそ監視すること、決して自己の無謬性を確信して、自分自身が裁き手になろうとしないことが肝心だ…。

悪が他人の中にあると思って、それを根絶しようとして闘っている者は、必ず、最後にその攻撃の刃を自分自身に向けねばならなくなる。仮想敵の概念は必ず一人歩きするようになり、あらゆる人間がそこに含まれるようになる。
教界内のカルト化教会を仮想敵扱いして、それとの闘いを日常化するようなことはあってはならない。闘争を日常化することは伝道の本質からかけ離れている。伝道の本質は、闘いによって疑心暗鬼を増大させ、敵を滅ぼすことではなく、悔い改めと和解、そして愛による信頼の種を蒔くことにある。滅ぼすことと生み育てることは決してイコールにならない。「罪を憎んで人を憎まず」、敵のために祈りこそすれ、敵との闘争を日常化している人物を信用してはならない。

キリスト教界内でM&Aを繰り返すことによって勢力拡大してきた牧師を信じてはいけない。このような人物をさらに祭り上げて、教界の独裁者にしてしまうようなことはあってはならない。甲師のような人物は弱者の味方などではない。ただ弱者の暴動を巧妙に組織化することによって、己が権力を拡大する手段とし、教界内の政権奪取を狙っているだけなのだ。
そのことが分からず、彼が掲げている美的・解放的スローガンを文字通り信用してあっけなく騙されてしまうところが、善良なクリスチャンのどうしようもないお人好しさだ。だが、初めに言ったように、悪人の悪は善良な人々の想像を越えている。悪人は自分が提唱する美的スローガンなど少しも信じていない。彼らが信じているのは、ただ一つ、金と権力、それだけであり、スローガンは彼らが権力を握るための口実に過ぎない。

長くなったので、殉教の話は次項に譲ることにしよう。

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