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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。
 
そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。
 
このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)
 
さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。

日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する


この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。
 
そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。
 
このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。
 
そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。
 
今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。
 
政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。
 
神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。
 
聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。

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