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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

私は警告します。クリスチャンの皆さんが、カルト被害者救済活動を安易に信用しないように。
このように申し上げると、被害者側から多くの反論があるだろうと予想しています。でも、どうかすぐに結論を出そうとせずに、私の言い分を最後まで聞いて下さるようお願いします。

私は決して、カルト化教会の横暴な牧師や頑なな聖職者の側に立って、被害者の痛みを無視し、聖職者による不当な権力濫用を擁護しようとしてこれを書いているのではありません。
カルト化教会が誰からも非難されずに末永くこの世に存続することを願って、これを書いているのではありません。

私自身もカルトの被害者でしたので、被害者の痛みは想像できます。
純粋に、神に仕えようとして教会に通ったのに、教会に騙され、聖職者の権力欲のために犠牲にされた信者が、一時は死を思うほど絶望を味わったその苦しみを、私自身が知っています。

プロテスタントの教界に「カルト被害者救済活動」があったおかげで、カルト化教会からかろうじて救い出された被害者がいることを私は知っています。
十分の一どころか、五分の一献金や、食うや食わずの集団的奉仕などの酷い生活を強いられていた被害者は、もしこの活動がなかったならば、今もカルト化教会で生きるか死ぬかの絶望的な生活を強いられていたかも知れません。

けれども、カルトの被害者が一部、救い出された、その事実だけを持ってして、カルト被害者救済活動を信用してしまうのは、あまりにも浅はかな考えです。そのことを私は皆さんに警告せねばなりません。

どうか思い出して下さい。かつて、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリン、毛沢東、昭和天皇がほぼ同時期に台頭し、世界中の国々で恐ろしいファシズム、全体主義が支配していた時、ヨーロッパのほとんどの国々は戦争に巻き込まれ焦土化していましたが、唯一、本土決戦を行わなかったアメリカが、第二次世界大戦を終わらせるために大きな貢献をしました。
アメリカが原爆を日本に投下して、日本の軍国主義時代には終止符が打たれました。

アメリカが終戦のために果たした役割は大きく、日本に軍国主義時代が続いていれば、もっともっと多くの日本人が絶望的な戦争続行のために、「一億玉砕」の犠牲となって死んで行ったことでしょう。
でも、だからといって、戦争を終わらせたアメリカは、日本にとって真実の解放者であり、信頼に値するパートナー足りえたでしょうか?

同じように、アジアの国々へ行けば、今でも、旧日本軍が大陸に進出したことにより、植民地の隷属状態から解放されたと喜ぶアジア人たちに私たちは出会うことができます。でも、これらの少数のアジア人の感謝があるからといって、日本がかつて大陸で犯した残虐行為を少しでも正当化し、日本がアジア諸国にとって真実、信頼できるパートナーだったと言い切ることができるでしょうか?
いいえ、たとえ少数の人々が解放されたことが事実であるにせよ、そのために日本が取った卑劣な手段を私たちは決して正当化することはできません。

同様に、たとえ戦争を終わらせるためと言う名目であったにせよ、アメリカが日本への原爆投下という手段に出たことは、日本人にとって到底、肯定・容認できる事柄ではありません。
この原爆投下が、放射線が人体にどのような影響を与えるかを調べるための実験をかねていたことはよく知られていますし、さらに、当時、アメリカ人ですら、この原爆には疑問を持っていた人たちがいたのです。たとえば、日本に原爆を投下したパイロット、、クロード・イーザリーは後になって、この原爆投下が道徳的に見て大きな罪であり、恐るべき間違いであったと悟り、その罪悪感をアメリカ社会に向けて声を大に主張しましたが、アメリカ国家により彼は狂人とみなされて、精神病院に監禁されて社会活動の場を失いました。

そして戦後、社会主義国ソビエトと資本主義国アメリカとの間で熾烈な冷戦が繰り広げられ、アメリカは、何よりもソビエト連邦の脅威に対抗するためという名目で、軍事力を拡大し、世界平和の見張り番として力をつけていきました。
確かにソビエト連邦は人類史上稀に見るほどのひどい国でした。あらゆる悪事に手を染め、数え切れぬ無実の人々に「テロリスト」の汚名を着せて強制収容所に送り込み、そこで奴隷労働に従事させました。ソビエト体制によって不幸に追いやられた人の数は計り知れません。この体制そのものが人類の敵であったと言って過言ではありません。もちろん、天皇を現人神としていた日本の軍国主義体制も、やっぱり人類の敵であったでしょうけれども…。

けれども悪魔のような社会主義国、ソ連に対抗するためにアメリカが取った手段は、果たして正当なものだったと言えるでしょうか?
アメリカはソビエトと一緒になって世界中で民主主義を脅かす卑劣なスパイ合戦を繰り広げただけではありません。ソ連を凌駕するためといって、世界を滅ぼせるほどの軍事的脅威を身に着けました。そしてソ連崩壊後の今になっても、他国には決して自分と同等の軍事力を身に着けることを許していません。
アメリカは本土決戦をせずに(自分の身を切らずに)、世界中のあらゆる戦争に介入し、戦争という軍事産業を経済基盤として、自国の経済発展の手段としてきました。
アメリカ経済を発展させてきたその一番の原動力は、いつでも、戦争、戦争でした。

紛争解決を口実にアメリカは世界の国々に乗り込んで行き、頼まれてもいないのに、その国の監視人かつ後見人となって、その国の自治を奪い、事実上、その国を属国化してきました。
けれど、中には属国化されているのに、そのことに気づいていない愚劣な国もあります。
その最たる例が日本です。

日本は今でもアメリカに占領されています、心理的に、多分、世界中のどの国よりもひどく。アメリカによって日本は精神的に占領され、マインドコントロールされ、支配されているのです。
アメリカは日本を軍国主義から「解放してやった」と言いながら、今になっても決して日本に独立国家としてのプライドを回復させようとはしていません。

日本がアメリカに守ってもらうためとして結んだ日米ガイドラインでは、日本は有事の場合にはアメリカの「後方支援」に回ることが約束されています。このガイドラインは、一言で言うならば、アメリカが戦争をしたいと思った時、いつでも日本を戦場にして良いし、日本全土を米軍基地化して良いということを定めた取り決めです。
これはアメリカ本土を決戦の場にせず、世界の中心、アメリカ本土が被害をこうむらないように、都合よく、極東というアメリカにとってはどうでも良い最果ての国、日本を戦場にするために設けられた規則であり、やがてアメリカの思惑通りに日本国憲法が改正されれば、日本人兵士を都合よく前線で死に追いやるためにガイドラインが利用されることは疑いの余地がなく、これが日本を守るための条約ではないことは火を見るよりも明らかです。にも関わらず、それが自国を守るために設けられた約束事であるように思っている日本人は、心底、アメリカにマインドコントロールされて、自分を見失っているとしか言いようがありません。

こうしてアメリカは戦争終結やら、平和を口実にして、他国を事実上、属国化しているだけでなく、自国の兵士をも使い捨てにする政策を取っています。ベトナム戦争、イラク戦争への介入時には、アメリカ国内でも大きな反戦の議論が巻き起こりました。戦争は泥沼化し、アメリカ兵は大きな打撃をこうむりました。けれどこれらの兵士が戦争で負った後遺症に対して、アメリカはきちんとした償いをしたことがありません。

9.11の事件が、イラク戦争を無理やり導入するために、アメリカが自らでっちあげであった捏造事件であった可能性が高いことが、ネット上で指摘されています。かなり信憑性の高い情報です。もしそうだとすれば、貿易センタービルで亡くなった人たちは、アメリカの同胞によって計画的に殺されたことになります。
戦争によって肥え太ってきたアメリカは、ついに、無実の自国民を殺してまで、戦争を推し進めなければならないほどになっているのでしょうか?

アメリカがイラク戦争を引き起こす大きな口実となった「大量破壊兵器」の存在は、ついに、フセイン政権崩壊後も、裏づけが取れませんでした。
「大量破壊兵器」という忌まわしい脅威を取り除くための、つまり平和のための戦争であったと言いながら、その「脅威」は存在していたかどうかすら、今も分からないというのです。
そんな曖昧な話のために、現在、イラクの一般市民は、たとえ平和な市民のめでたい結婚式の最中であっても、花嫁、花婿も問わず無惨に殺されているのです。こんな馬鹿な話があるでしょうか。

そして9.11以降、「愛国者法」が制定されたため、アメリカ国民はこのアメリカの無茶苦茶な政策に対して異議を唱えられなくなりました。「愛国者法」は軍国主義時代の日本の「治安維持法」と機能的にはほとんど同じです。国の政策に従わない人間を「非国民」として粛清するための法律なのです。
現在、アメリカ国土には反政府的な思想傾向を持つ人間を投獄するための大がかりな強制収容所が建設されているという噂がネット上で流れています。もしそれが本当であるならば、この「自由の国」アメリカはかつて自分があれほどまでに敵対視していたソビエト連邦とほとんど同じ国にまで堕落してしまったことになります。
ついに、アメリカはかつての敵と同化してしまう一歩手前まで来ているのです。

ここには、とにかく戦争をしたい、戦争がなければ生きられない、というアメリカの死に物狂いの姿があるだけです。そしてそのようなアメリカの戦争欲は、イラク戦争によるアメリカ国民の大量の犠牲を生み出しただけでなく、ついにアメリカの内部崩壊、アメリカがこれまで経験して来なかった本土決戦(=内戦)の一歩手前まで近づいています。

闘争を糧に生きる人たちの末期症状をここに見ることができます。闘争で生きる者は、闘争なくしては生きられず、平和の中では生きられないのです。
平和のために闘争する、敵を根絶するために闘うと言いながら、彼らの中では、目的と手段が逆転し、現実に、永遠の闘争だけが目的となるのです。
平和であっては彼らは生きられないので、平和が来ないように、あえて闘争の火種を起こし続け、それを恥知らずにも「平和のために」やっているように見せかけるのです。
そうこうしているうちに、だんだん、闘いは卑劣なものとなり、最後には敵と一体化するまでに非人間的な体制が出来上がるのです。

こんな国が世界平和の守り手であるはずがありません。
そしてそのような無限の闘争本能にとりつかれた国は、やがて食い者にする相手を失って、我が身をずたずたに切り裂くところまで行き着くでしょう。

カルト化教会にいた被害者の皆さん。
一体、この話がカルト化教会の問題と何の関係があるのかと、首をかしげておられる方があるかも知れません。今、きちんと脈絡を説明しますから、待って下さい。

被害者の皆さん、皆さんが「全体主義教会」、「ファシスト教会」としか思えない恐ろしい教会の支配から助け出され、解放されたことは良いことでした。
あのまま、恐ろしい教会に皆さんが居続けた方が良かった、人生を奪われ続けていた方が良かったなどと言うつもりは私には毛頭ありません。
拝金主義的な牧師、性的に堕落した牧師、福音を曲げ、狼のように信者の金や生活をむさぼる偽牧者たち、そんな恐ろしい人たちが君臨するカルト化教会を擁護するつもりは私には微塵もありません。
そんな体制は一刻も早く崩壊すべきだと思います。

でも、だからと言って、被害者の皆さんは、あなたたちを誤った教会から助けてくれた人物を早々に救世主扱いしたり、その人が決して間違うことのない善良な人間だと心から信用するのはまだ早すぎるということにどうか気づいて下さい。

助けられたからといって、助けてくれた人の奴隷になる必要はありませんし、その人に精神や生活を支配される必要もありませんし、その人の個人的プロジェクトを生涯かけて支援し続ける必要もありません。これからの人生でもずっとその人に依存し続けて生きる必要はありません。

被害者は、自信とプライドを取り戻し、独立して、人の指図に従うのでなく、主の導きの中で、自分の人生を生きていくことが何より望ましいのです。
いつまでも誰か一人の権威者によりすがり、その人に仕え続けて、彼に絶対的な忠誠を誓って生きるのでは、カルト時代の隷属状態と何ら変わりありません。

忘れないで下さい、あなたを助けてくれた人も、間違いやすい一人の人間に過ぎないのです。
助けてもらったからといって、その人に絶対的に帰依するとか、その人のプロジェクトなら何でも賛成するといった愚かな立場を取らず、何事も色眼鏡を外して、普通の批判精神を忘れないで見るようにして下さい。

解放されたことを喜び、感謝するのは良いですが、それを解放してくれた他人のイメージの無制限な美化の根拠としたり、解放者への依存、妄信、隷従のきっかけにすることがないよう注意してください。
どんな人間をも、私たちは現人神のように祭り上げてはいけません。カルト化教会の牧師たちも、そのように信徒によって祭り上げられたからこそ、恐ろしい腐敗と権力濫用に落ち込んで行ったことを思い出さなければなりません。支える人がいないのに、一人で独裁者になれる人間はいません。
クリスチャンは決して人間不信になる必要はありませんが、あらゆる人間に対する健全な疑いを忘れてはなりません。人を神に祭り上げて無条件に信じることは偶像崇拝です。

そしてもう一つ、どうか覚えておいて下さい。闘いは政治家にとっていつでも手っ取り早い出世の手段であったことを。
戦争という軍事産業を糧に成長して来た国があるように、人間間の闘争、集団間の闘争は、いつでも、出世を望む政治家たちの格好の餌食とされてきました。

善良な人々には、想像もできないでしょうけれども、自分の権力を拡大しようとたくらむ人たちは、いつでも弱者を餌食にしてこそ台頭して来たのです。
弱者を餌食にするとは、弱者を身体的、金銭的に虐げることだけを意味せず、弱者を解放してやるという名目で、大勢の社会的弱者を味方につけて、自分の勢力拡大をはかることもまた、弱者を餌食にする手段の一つなのです。

ある運動が、弱者の痛みに同情的で、弱者の権利をたくさん擁護し、弱者の側に立っている優しい思いやりある運動のように見えるからといって、その運動が正当なものであると判断するのは早すぎます。
むしろ、歴史を振り返ると、弱者を擁護する政治運動というのは、途中で道を誤って恐ろしいファシズムに堕ちていったことの方が圧倒的に多いのです。

あのソビエト体制も、虐げられた弱い労働者を不当な搾取から解放するという名目で生まれました。
ヒトラーも、第一次世界大戦で荒廃したドイツの再興、平和を掲げて登場して来ました。
カンボジアで大殺戮を行ったポル=ポトも、やはり弱者の解放を掲げました。
旧日本軍も、植民地化されていたアジアの解放を掲げて、大陸を侵略しました。

世界中の恐ろしい非人間的体制のほとんどが「弱者の解放」という名目で台頭して来たこと、弱者を擁護するためと言って、大勢の人間に抑圧を加えて来たことを思い出しましょう。有史以来、弱者を解放せねばならないということを理由に、これまでどれほどの侵略や戦争や干渉や殺戮や占領や支配が正当化されてきたか分からないことを、私たちは決して忘れてはなりません。

「弱者の解放運動」というものは、歴史を振り返れば、恐ろしい危険をはらんだ運動だったことの方が多いのです。初めのうちは、確かにそれによって解放された人々がいたように見えたかも知れません。初めのうちは、それは人類を解放に導く夢のような改革に見えたことでしょう。けれど、そのような運動が、やがて大量殺戮を生み、日常的な戦争状態が、弱者を擁護するため、という口実で人々の生活を押しつぶしていったのです。

私たちは、弱者をかばうという言葉が持つ神々しさ、救済という言葉の美しさに惑わされることなく、どんな運動であろうと、真実をじっくり見極めるようにしなければなりません。

カルト化教会の被害者の皆さんは、自分たちに同情的に接してくれる運動だけをすぐに信用しようとする心の衝動を抑えて、感情ではなく、理性に立って、物事を判断するようにしなければなりません。
「私たち被害者の痛みに同情してくれるから良い運動、私たちに同情してくれないから悪い運動」というような、浅はかな決めつけをしないようにしなければなりません。

今、キリスト教界で「カルトとの闘い」を推し進める上で、敵への先制攻撃という考え方が普及しています。これは、カルト化教会の横暴な権力者たちに、被害者がこれ以上攻撃されることを防ぐために、横暴な権力者を被害者が先に告訴してしまえという考え方です。
けれども、この考え方は、ただキリスト教界に泥沼のような疑心暗鬼の訴訟社会をもたらすだけに終わらず、さらなる危険へとつながっていきます。

私自身の体験から言わせていただければ、カルト化教会の権力者たちが虐待の被害者を黙らせるために、被害者を次々告訴するという手段に出ることは滅多にありません。なぜなら、黙らせるべき被害者の数が多すぎるために、牧師が一人ひとりに訴訟を起こしていれば切りがないという理由があることに加えて、カルト化教会の権力者たちは、自分たちが悪事を行っていることを内心でよく知っているために、なかなか公の場に出て来て勝負をしようとはしないからです。

それでも、もしもカルト化教会の権力者が本当に自分の身をかばおうと、被害者を不当に起訴したとしましょう。確かに、キリスト教界の権力者によって不当に起訴されたクリスチャンはすでに存在します。けれども、そのようなことが起こった時は、相手の不当な言い分に打ち勝つために、被害者は堂々と自分を弁護して闘うことができます。山谷少佐や杉本氏などは、不当な告訴を恐れることなく、堂々と法廷で自分にかけられた悪意の濡れ衣を退けています。

確かに、訴訟を起こされることは誰にとっても気持ちの良い話ではなく、特に、カルト化教会内ですでに様々な打撃を受けて、精魂尽きて弱り果てている被害者にとっては、耐え切れないような最後の重荷になってしまう可能性があります。
そのような方々にとっては、私が申し上げていることは非常に残酷な主張のように聞こえるかも知れません。

けれども、どうかそれでももう一度、よく考えてみて下さい。自分が悪徳牧師によって起訴されないために、先に悪徳牧師を起訴してしまえば良い、という先制攻撃の考え方は大変危険です。それはアメリカが「テロの脅威」を口実にしてあらゆる国々に戦争を起こし、世界中の紛争という「有事」に介入しながら、他国での紛争を着々と自国の発展の手段として利用しているのと、一つ間違えば、全く同じ行為になってしまうのです。

本当にあるかどうか分からない危険性への恐れを払拭するために、他者と闘うという選択肢を選んだ者は、しばしば、必要以上の自己防衛に走って、相手に対して過剰な攻撃性を発揮してしまうことがあります。それに闘いを日常化しているうちに、本当の平和を作り出すことの大切な意味を見失ってしまう危険があります。

どうか気づいて下さい、私たちは特定の人間への不信感を、訴訟という先制攻撃によって払拭することは決してできません。悪徳牧師を起訴したからといって、悪徳牧師からの嫌がらせの可能性を完全になくすことは決してできないのです。人への不信感をなくすためには、日頃から地道に信頼関係を築き上げるしか手段はありません。
信頼関係を築き得ないような相手に対しては、たとえどのような方法を駆使しようとも、不信感をなくすことはできないし、その相手からの報復や嫌がらせの可能性を完全に滅却することもできないのです。

この曲がった時代にあって、私たちは日常的に恐怖や不信の中で暮らしています。けれども、人間の脅威から私たちを守ってくれるのは、先制攻撃としての訴訟ではなく、何よりも、主の守りの力であることを再確認しましょう。

どうか目を開いてよく確かめて下さい。今、まるで自分が日本のキリスト教界の平和の守り手であるかのように、キリスト教界の全ての「有事」に干渉しようとしている者がいないでしょうか? 「カルトの脅威」を理由にして、あらゆる教会の紛争に介入しようとしている存在がないでしょうか? そのような存在は、本当に弱者を助けるために有事に干渉しているのでしょうか? それとも、もっと他の目的がそこには隠されていないでしょうか?

他国の脅威に対抗するため、攻撃を未然に防ぐためという理由で、先制攻撃に走ってきたアメリカが、今、どのような状態にまで堕ちているかを考えて下さい。
私たちはこのアメリカと同じ態度を取るべきではありません。敵との闘争を日常化して生きていくべきではないのです。

クリスチャンの皆さん、しもべは主人以上のものではないと聖書は言います。私たちの主人であり、長兄であられるイエスが福音のために徹底的に不利な立場に立たされたにも関わらず、イエスに従う私たちが、真理のために不当に追い込まれることを免れられるはずがないのではありませんか。

クリスチャンにとって、迫害とは、決して人生で無縁のものではないはずです。私たちは迫害を恐れ、脅威を恐れ、自分が不利な立場に立たされることを何とかして未然に防ごうと、そのことだけに汲々として生きるべきではありません。たとえどのような脅威があっても、毅然と立って、たとえ不利な状況に立たされることがあっても、心から主に信頼して生きられるように努力すべきではないでしょうか。

繰り返します、恐れに突き動かされて自己防衛のための攻撃に走ってはいけません。弱者解放のスローガンを掲げている運動があるからと言って、安易に信用してはいけません。それが本当に弱者の側に立った運動であるのか、それとも歴史上生まれて来たあまたの運動のように、人々をさらなる隷属状態に陥れてファシズムを生むものでしかないのか、私たちはじっくりと時間をかけて見極めなければなりません。
歴史的教訓を踏まえて、表向きの美辞麗句だけを浅はかに信用しないようにしなければならないのです。

被害者の皆さん、自分が助けられたからといって、「カルト被害者救済活動」全体を美化するのは早すぎます。
この運動は元々、キリスト教以外のカルト宗教との信者の奪い合いという、政治闘争を糧に生まれて来たものです。敵(カルト)を抑圧することを目的に活動している一種の懲罰運動なのです。敵を成敗することを柱にしている闘争であり、現代日本の宗教戦争であり、宗教裁判であり、異端審問なのです。

思い出して下さい、中世の十字軍や異端審問が人類に何らかの平和をもたらしたでしょうか?
いいえ、戦争と平和は決してイコールで結ばれることはありません。

闘争によって生まれた者は、闘争によって生きるしかなく、最後まで、終わりない闘争を繰り広げることしかできません。そして闘争の中で自滅していくしかないのです。それはこのような運動全てに働く絶対法則のようなものです。
そのような運動にあっては、平和のためにと、どんなに表向き唱えていても、それは見せかけだけに終わり、運動は必ず、平和そのものに敵対する運動に変わっていくのです。

初めはもっともらしい、誰もが認めるような「敵」と闘っていたかも知れませんが、敵がいなくなると、新たな闘争を作り出すために、でっちあげてでも「敵」を作り出さなければならなくなり、そうやって、闘いによって利益を得る少数の人たちのために、永遠に、終わらない闘争が引き起こされ、圧倒的多数の無実の人たちが魔女狩りのような宗教裁判によって粛清されていくことになるのです。

どうかこの恐ろしさに気づいて下さい、平和のために、と言っている運動が、実は、平和そのものを敵として闘う運動に変わるということが歴史上、実際に幾度も起こってきたのです。
今また「カルトとの闘い」という名目で、同じようなことが起こるのは避けねばなりません。この運動が拡大していき、全国の教会を飲み込むようなことがあれば、大変なことになると私は懸念しています。

繰り返しますが、私はカルト化教会を擁護しているのではありません。
カルト化教会は悪です。カルト化教会は存在すべきではありません。
けれども、悪の破滅を願うあまり、私たち自身が悪と同化するようなことは避けましょう。
情報を公開し、警告は発しましょう、けれども自らの力で相手を抑圧し、相手の首をしめることは私たちの仕事ではないと思います。
悪人を成敗すること、それは必ず主がして下さいます。何よりも、時代錯誤な悪徳教会には、もとより長く生き残る道などあるはずがありません。カルト化教会にはしょせん破滅が運命づけられているのです。私たちはただ一刻も早く、焼け落ちる火宅からは身を避けて逃げ延びるだけです。

何よりも恐ろしく、気をつけるべきは、カルト化教会だけではありません。一つの悪を成敗するという口実で、別の種類のもっと恐ろしい悪が台頭することです。そのようなことがないように、私たちは、気をつけて見張っていなければなりません。

被害者の皆さん、どうか忘れないで下さい、私たちが真に心を尽くし、人生を費やすべきプロジェクトは、この世から抑圧や苦しみをなくすための解放運動ではありません。
抑圧のない世界、苦しみのない世界を願うことは人間に本来的に備わっている欲求ですが、この世においてそれは実現不可能な願いです。

どうか気づこうではありませんか、たとえ苦しみから抜け出せなくとも、たとえ意味の分からない苦しみの最中にあっても、たとえ世の中全体から負け組として見捨てられたように思えても、私たち一人ひとりが主の計画の中で確実に生かされている事実に変わりはありません。

苦しみが取り去られることを願うこと自体は決して悪いことではありませんが、それだけが人生の目標にならないように注意しましょう。どんな環境にあっても、主への信頼に生きることができ、どんな条件下でも、主の導きを理解することができる賢明さを私たちが持つようになることが、恐らくは、信仰生活において一番肝心な事柄であり、主の御心にかなった事柄なのだと私は信じます。

主はヨセフが牢の中にいた時にもお見捨てにはなりませんでした。私たち被害者は、カルト化教会という牢獄の中で、なぜ人生を理不尽に奪わなければならなかったのか、そのことの意味を、生きているうちに、完全に理解することはきっとできないでしょう。けれども、主にあってはそのことに意味があったのだと信じましょう。
私たちは自分の苦しみを(ただ主にあって)喜びこそすれ、それを恥ずべきものとして否定して、そのようなことが二度と誰の身にも起こらないようにという理由で、キリスト教社会からあらゆる抑圧をなくすための政治闘争に飛び込んで行くべきではないと思います。

私たちは、カルトの危険について警告を発し続けながらも、カルト化教会がいち早く滅びてなくなるようにとそのことだけを願いながら生きるのではなく、何よりも、主の御心が地になされるようにと祈りましょう。

被害者の皆さん、カルト化教会の惨状について多くの人たちに警告して下さい。他の人が知らずにこんな恐ろしい教会に近寄らないように、警告を発してください。
けれども、カルトをめぐって今、教界で繰り広げられている闘いにはどうか一線を画して下さい。闘いを生きる手段とする人たちの口車に乗せられてカルト撲滅運動に生涯を捧げないで下さい。

自分自身がカルト被害者でもある私の目から見て、現在のカルト被害者救済活動のあり方は非常な危険をはらんでいます。教界によって虐げられた弱い信徒たちを大勢味方につけることによって、今、この教界内で、新しい勢力が台頭しようとしています。その勢力は、抑圧を武器に、闘争を武器に成長して来た勢力です。敵を成敗することで成長してきた運動なのです。歴史を振り返って、そんな運動が、掲げている公約をちゃんと守って、平和で幸せな世の中を作ったことは一度もありません。

被害者の皆さん、どうか慎重になってください。一つの教会で人生を奪われた上、この上まだ誰か野心的な人間に都合よく利用されることだけは避けようではありませんか。
人間と組織がいかに信用できないものであるか、それを思い知らされるためにこそ、私たちはカルト化教会をくぐり抜けて来たのではありませんか?
人や組織に仕えるのでなく、主に仕えて人生を生きようではありませんか。

人を自由にする真理を私たちは授かったのです。この上、組織や個人の下僕となることは必要ありません。
キリスト教界全体が今、とても危険な場所になっていることを多くの人たちが指摘しています。カルトとみなされているかどうかに関係なく、様々な教会にあらゆる疑惑が持ち上がり、さらに、カルトからの救出を唱えている組織ですら、私の目から見れば、大変危険なのです。

あまりにも悲しいことですが、今、十分に信頼に値すると言えるキリスト教的組織を私はここに一つも挙げることができません。カルト被害者救済活動の行く末も、私たちは慎重に見守らねばなりません。もしも危険な兆候が現れれば、重症にならないうちに、声を大にして反対しなければなりません

被害者の皆さん、不当に抑圧されたことに、黙っていられない気持ちは皆同じです。けれども、どうか復讐や怒りなどの感情に安易に流されて今再び誰か権力者の闘争の材料とされて生きることがないよう、知恵を駆使して、理性を働かせて、静かに注意深く事態を見守りながら、主にあってそれぞれの生活を穏やかに生きましょう。
被害者の回復と立ち直りを心から願います。

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