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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。
彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、
主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。
彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、
『あなたは平安を得る』と言い、
また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、
『あなたがたに災いはこない』と言う。」 エレミヤ書23:16-17

「あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という
偽りの言葉を頼みとしてはならない。」 エレミヤ書7:4
 

1.カルト化教会から脱出した被害者たちは悔い改めれば主の助けを得ることができる。

私たちは神に裁かれるよりも前に、自分で自分を裁くことをせねばなりません。そうすることによって、神の怒りから未然に身を避けることができます。それができる人は幸いです。
一つ前の記事に私は自分に都合の良い嘘を書きました。訂正せねばなりません。私を含め、被害者がカルト化教会に躓いたのは、信仰に対する迫害ゆえではなく、ほとんどは自らの不信仰ゆえの出来事だったと言えるでしょう。

自分の動機をすみずみまで思い返せば、私たち被害者は純粋に主に仕えようという思いだけで、カルト化教会に通ったのではなかったことが分からないでしょうか。
神に仕えようとして教会に通ったかのように自分では信じていましたが、実際のところは、己の欲望を追い求めていただけだったのです。

もしも私たちが真実の福音を知っていたならば、あのような偽教会に躓くことはありえなかったでしょう。主とは誰であるか本当に分かっていたならば、恥知らずな偽牧者の欺瞞に騙されることなく、彼らの正体を暴くことができていたでしょう。それができなかったことが、私たちにその頃、真の信仰がなかったことを何より証拠立てています。

多くのカルト化教会では、英会話や、留学、祝福と繁栄を約束してくれる魅力的な個人預言、同世代との楽しい集会や、イベント、コンサート、学校などでの名誉ある職業などといった、訪れた人を惹きつける様々な「ご馳走」が用意されています。被害者の多くは、そのような魅力的なエサにつられてそこに取り込まれてしまいます。さらに、カルト化教会では、義理人情によって人を縛り、集団から抜け出すことを難しくしていますが、私たちの多くは、人目を気にして、はみだし者や失格者とみなされたくないばかりに、その団体に仕えました。

日本人として幼少期から、集団の中で波風立てずに立ち回るようみっちり教育されたことが、カルト化教会ではあだとなって、仕えてはならない集団に仕えるという結果を生んでしまいました。人々のための思いやりや、礼儀といった、本来、美徳となってもおかしくなかった義理人情が、カルト化教会では、神への背信へとつながっていったのです。

私たちは人の目に、神に熱心に仕える者のように見られたかったがために、奉仕にいそしみました。偽牧者や偽宣教師などの権威者から寵愛を得て、人間集団の中で脚光を浴び、人から認められたいがために奉仕をしました。人間の愛と、自分の名誉を求めるあまりに、カルト化教会での悪しき奉仕競争の深みにはまって行ったのです。

私たちは主の愛を何よりも求めたのではありませんでした。神の名を語って、神のためと言いながら、結局、神を退けてまで、人間の温もりと自己の名声を求め、味気ない日々の生活を飛躍的に彩りあるものに変えてくれそうな面白い行事を求めていたのでした。
私たちが第一としていたのは、神ではなく、「自分を喜ばせてくれる何か」でした。神を第一とすることより自分を楽しませることを優先しようとしていた私たちのその弱点、エゴイズムを、カルト化教会の権威者は巧みに見抜いて、そこを足がかりにして、私たちを餌食として行ったのです。

カルト化教会に行っていた頃の私たちは、ナルシスが水鏡に映った自分の姿に恋をしたように、自分自身がそれぞれに思い描いた夢に魅せられていただけです。
神を愛していたのではなく、自分自身の夢に魅了されて、教会に通っていたのでした。
偽牧者、偽預言者たちは、私たちが心に思い描いた夢を察知して、あたかもその夢がその教会にいればかなうかのような幻を見せ、て私たちを魚のようにやすやすと釣り上げました。
厳しい現実に忍耐をもって直面するよりも、安易に自分の夢がかなって欲しいと夢見ていた私たちは、現実を退けて、自分に都合の良い幻、カルト化教会の権威者の甘言の方を信じることを選んでしまいました。

私たちの自己中心な夢と、詐欺師たちの欲望とが出会って化学反応を起こし、悪しき一致と連帯を生み出したのです。

結局、どんなに「神のために」という名目で奉仕をしていたにせよ、私たちが仕えていた対象は、本当は、神ではなく、自分の願望、自分の夢だったと言わざるを得ません。もちろん、初めからそうだったとは言いません。教会を訪れた初めは、純粋な信仰を願っていたかも知れませんが、悪しき教会に滞在しているうちに、徐々に、人間を中心とする誤った信仰の中に導きいれられて行ったのです。
カルト化教会での生活は、とても信仰とは呼べるものでなかったことは確かです。

もちろん、当時、私たちが真の信仰を持っていなかったことの全責任が、ただ私たちだけに帰されるべきではありません。誰からも真の信仰とは何か教えてもらえず、正しい教えを求めても、偽教師にしか出会うことができず、偽りの信仰だけを教え込まれ、曲がった道に強制的に無理やり引きずられて行ったことが、私たちだけの責任であるはずがありません。そのようにして人を邪教に導きいれる偽教師、偽牧者たちの罪は、聖書的に許されないほど重いものです。

けれども、私たちは他人の罪に言及するよりも前に、まず、自分自身を省みることから始めねばなりません。どんなに他人の罪をあげつらっても、それによって、自分の罪を少しでも軽減できるわけではないのですから。

被害者の皆さん、私たちは被害者でありながら、同時に、カルト化教会の悪しき繁栄を助長していた背教の民であったということを忘れてはなりません。私たち一人ひとりの抱いた身勝手な夢、人間に対する恐れや、自己満足や虚栄心から出た奉仕が、カルト化教会の繁栄を支えていたことを忘れるわけにはいきません。権威者に逆らえないという臆病さ、人に認められたい自己顕示欲、自分が選んだものが間違っていたとは思いたくないという自己正当化の思いなどが交じり合って、あのような集団への長期間の奉仕を生んでいたのです。

今となって、背信の教会を支えていた自分自身の責任を全く放棄して、ただ「私は被害者だった」という都合の良い立場に逃げ込むことはできません。

カルト化教会に仕えた日々は、不信仰の日々であり、人間崇拝、組織崇拝という偶像崇拝、神に対する裏切り、姦淫の日々でした。このような不信仰が厳しく罰せられるのは当然のことです。
私たちがカルト化教会で得た恐ろしいまでの経験は、真実の福音を曲げて背教に仕えていた私たちへの神の御怒りの結果であり、自業自得の罰だったと言っても過言ではないでしょう。

「あなたの悪事はあなたを懲らしめ、
あなたの背信はあなたを責める。
あなたが、あなたの神、主を捨てることの
悪しくかつ苦いことであるのを見て知るがよい。
わたしを恐れることがあなたのうちにないのだ」と万軍の神、主は言われる。」
エレミヤ書2:19(以下、特に記入のないものは全てエレミヤ書からの引用。)

けれども、私たちはあの恐ろしいソドム、エジプトを脱出して、平和な生活に戻ることが出来たことを喜んでいます。そしてあの時、真実を見抜けなかった自分の愚かさを悔いています。取り返しのつかない失敗によって人生を失ってしまった日々を嘆いています。神への心からの奉仕だと思っていたものが、恐るべき背信行為であり、虚偽に加担する重大な罪であったこと、神への真心からの献身だと思っていたものが、偽牧者の私腹を肥やすための奉仕でしかなく、神が最も嫌われる偶像崇拝であった…、それらのことが分かり、これ以上ないくらいに失意落胆しています。人生の大切な時期、若さ、宝であった諸々のもの、友人、名誉、貯金、家族、職業…、あらゆる可能性と富を失って、恥をこうむって、死を思うほどの絶望に落ち込みました。

被害者は失われた自分の人生を思ってよりも、神に背いたことを思って、嘆き、何夜も泣き明かしました。正しいと信じていた信仰が、愚劣な間違いであり、裏切られて悪事に加担させられていた罪を思って、激しく泣きました。けれども、こうして、罪を認め、打ち砕かれた被害者の魂に対して、神は必ずもう一度、顔を向けて下さり、私たちのために祝福を取り戻して下さると私は信じています。

「裸の山の上に声が聞こえる。
 イスラエルの民が悲しみ祈るのである。
 彼らが曲った道に歩み、その神、主を忘れたからだ。
『背信の子どもたちよ、帰れ。
 わたしはあなたがたの背信をいやす』」3:21-22

「『主は言われる、背信のイスラエルよ、帰れ。
 わたしは怒りの顔をあなたがたに向けない。
 わたしはいつくしみ深い者である。
 いつまでも怒ることはしないと、主は言われる。
 ただあなたは自分の罪を認め、
 あなたの神、主にそむいて
 すべての青木の下で異なる神々に
 あなたの愛を惜しまず与えたこと、
 わたしの声に聞き従わなかったことを
 言いあらわせと、主は言われる。
 主は言われる、背信の子らよ、帰れ。
 わたしはあなたの夫だからである。<中略>
 わたしは自分の心にかなう牧者をあなたがたに与える。
 彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う」3:11-15

私たち一人ひとりが、カルト化教会に仕えたことが罪であったことを言い表しさえするならば、神は私たちの背信を癒して下さいます。これまで、私たち自身が自分から背いて捨てて来たにも関わらず、主はもう一度、私たちの思いやり深い「夫」に戻って下さると約束して下さるでしょう。
「わたしはあなたの夫だ」と主はおっしゃって下さいます。
こうして、私たちには温かい「家庭」が戻り、病気の時や悲しい時に、私たちを思いやってくれ、生涯、楽しく、忠実に連れ添う魂の伴侶が与えられるのです。


2.神は堕落したニッポンキリスト教界の偽教会と偽牧師を撃ち滅ぼされる。

けれども、エレミヤ書では、背信を悔やんでいるイスラエルにはこのように赦しの約束が与えられる一方、ユダとエルサレムにいる人々に対しては厳しい警告(バビロン捕囚の予告)が発せられています。
なぜなら、後者は、イスラエルの背信を見て、身を正すどころか、ますます増長して自分も意気揚々と背信に落ち込んで行きました。そのような人々に、神はもはや悔い改めの機会を与えておられません。彼らには神の怒りが怒涛のように降り注ぎ、とてつもない困難が待ち構えています。

私は、このユダとエルサレムの人々に対する警告が、今日のニッポンキリスト教界全体に対する象徴的な警告であると受け止めています。なぜなら、真っ先に背信に堕ちたカルト化教会が、どれほど恥と苦しみをこうむったかを実際に目の前にしているにも関わらず、その教訓に学んで我が身を正すことを全くせず、躓いた同胞に助けの手を差し伸べることもせず、相変わらずカルト化教会とすこしも変わらない拝金主義的な偽りの神学、人に優しい曲った神学だけを説き続けているこのニッポンキリスト教界に、神の恐ろしい裁きが下らないはずがないと思うからです。

「わが民のうちに悪い者があって、
 鳥をとる人のように身をかがめてうかがい、
 わなを置いて人を捕らえる。
 かごに鳥が満ちているように、
 彼らの家は不義の宝で満ちている。
 それゆえ、彼らは大いなる者、裕福な者となり、
 肥えて、つやがあり、
 その悪しき行いには際限がない。
 彼らは公正に、みなしごの訴えをさばいて、
 それを助けようとはせず、
 また貧しい人の訴えをさばかない。
 主は言われる。わたしはこのような事のために、
 彼らを罰しないであろうか。
 わたしはこのような民に、
 あだを返さないであろうか。』5:26-29

「驚くべきこと、恐るべきことがこの地に起っている。
 預言者は偽って預言し、祭司は自分の手によって治め、
 わが民はこのようにすることを愛している。
 しかしあなたがたは
 その終わりにはどうするつもりか。」5:30-31 

これは今日のニッポンキリスト教界を支配する偽牧者たちの姿そのものではないでしょうか。
信者の目から隠された、教団教派の不透明な資金の流れが存在し、それによって聖職者が肥え太っています。信者の無償奉仕やなけなしの献金の上に聖職者階級があぐらをかく仕組みが全体として成り立っています。
律法は貧しい人たちややもめ、寡婦、外国人寄留者を丁寧に扱うように教えています。なのに、「みことばの奉仕者が教会から生活の糧を得るのは当然」と言いながら、その財源をみなしご同然の社会で孤立した人たちや、生きていくのもやっとの貧しい人たちの給料から出させた献金でまかなっている聖職者は、貧しい人たちを虐げていないと言えるでしょうか。貧しい者を虐げて得た富は、不義の宝と何の違いがあるでしょうか。

何人もの伝道師を侍従のように周りに侍らせ、自分では日用の雑事さえせず、お仕着せの贅沢な生活を送っている聖職者たちがいます。太鼓もちの信者に祭り上げられて、神の人のようにたたえられて自信満々になっている聖職者たちがいます。まるで牧師のファンクラブに成り下がったような教会があります。

多くの教会が、自分たちの権勢を世の中に見せ付けるためだけのビッグ・イベントに全勢力を費やしています。その虚しい興行のために信徒は骨身を削って献金や奉仕に駆け回り、へとへとです。

今日、そのような堕落した教会の忌まわしい風景は、別にカルト化教会でなくても、普通に見られるのです。神はこのうわべだけ美しく、内側は汚れきった墓のような偶像崇拝の殿堂を、不意に襲う災という形で焼きつくされないものでしょうか。

 「ベニヤミンの人々よ、
 エルサレムの中から避難せよ。
 テコアでラッパを吹き、
 ベテハケレムに合図の火をあげよ。
 北から災いが臨み、大いなる滅びが来るからである。
 わたしは美しい、たおやかなシオンの娘を滅ぼす。
 牧者たちは、その群れをひきいてきて、
 彼女を攻め、彼女の周囲に天幕を張る。<中略>

 万軍の主はこう言われる、
 『あなたがたは彼女の木を切り倒し、
 エルサレムにむかって塁を築け。
 これは罰すべき町である。
 そのうちにはただ圧制だけがある。
 井戸に新しい水がわくように、
 彼女はその悪を常に流す。
 そのうちには暴虐と破滅とが聞える。
 わたしの前に病と傷とが絶えない。<中略>

 夫も妻も、老いた人も、
 年のひじょうに進んだ人も捕えられ、
 彼らの家と畑と妻とは共に他人に渡る。
 わたしが手を伸ばして、
 この地に住む者を撃つからである』と主は言われる。
 『それは彼らが、小さい者から大きい者まで、
 みな不正な利をむさぼり、
 また預言者から祭司にいたるまで、
 みな偽りを行っているからだ。
 彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、
 平安がないのに『平安、平安』と言っている。
 彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。
 すこしも恥ずかしいとは思わず、
 また恥じることを知らなかった。
 それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。
 わたしが彼らを罰するとき、
 彼らは倒れる』と主は言われる。」6:1-15

空虚なイベントの連続、そのための無償奉仕と献金の要求という「圧制」に、信徒が苦しめられています。愛のない教会内では争いが絶えないために、「病と傷」を負って涙ながらに教会を離れる信徒が絶えません。井戸水がこんこんと湧き出るように、毎年、ニッポンキリスト教界はカルト化教会という悪を終わりなく垂れ流しています。カルト化教会の「暴虐と破滅」はこの教界を源として生み出されているのです。
カウンセリングと称して、聖職者たちは主の癒しに頼らず、「手軽に信徒の心の傷を癒そう」とします。神の愛と寛容さばかりを強調し、平安と祝福と繁栄の神学ばかりを語り、容赦なく罪を裁かれる神の聖なる怒りのことはほとんど説教で触れられません。

信徒を虐げ、貧しい者に助けの手を差し伸べず、むしろ彼らの命をむさぼり食いながら、ほとんどの聖職者がそれを「恥ずべきこと」だと思っていません。聖職者を神のように祭り上げているおべっか使いの信徒たちも、自分たちの愚かさにまるで気づいていません。こんなアイドル・タレントのファンクラブのように成り下がっている教会が主の宮を名乗る資格があるでしょうか? いや、そこに君臨しているのは権威を持った聖職者という現人神の偶像です。そんな忌むべき殿堂が主によって撃ち倒されずにおかれるでしょうか?

「地よ、聞け、見よ、わたしはこの民に災をくだす。
 それは彼らのたくらみの実である。
 彼らがわたしの言葉に気をつけず、
 わたしのおきてを捨てたからである。<略>
 あなたがたの燔祭はわたしには喜ばしくなく、
 あなたがたの犠牲もうれしくはない。
 それゆえ主はこう言われる。
 『見よ、わたしはこの民の前につまずく石を置く、
 人々は父も子も共にそれにつまずき、隣り人もその友も滅びる』6:19-21

 デイビッド・ウィルカーソン氏が著書の中で、早くから「ロックは悪魔の音楽」と訴え、賛美歌におけるロックの使用に警告を発していたにも関わらず、今日、特に聖霊派はその警告を馬耳東風と聞き流し、若者に媚びてますますロック調の新しい賛美歌を生み出しています。チャールズ・ウェスレーの作った美しい賛美歌には見向きもせず、今日の聖霊派の多くの教会の賛美歌の中では、騒々しいバンドが雄たけびを上げ、無意味で空虚な歌詞が空回りし、霊感のない、音楽とさえ言えないような単調な和音とメロディーの繰り返しが、ひたすら肉的な高揚感だけをあおります。そこには、自己満足的なエクスタシーのようなものはあっても、主の前に心鎮めて、洗練された芸術的な形式を用いて、静かに主に愛を語り、厳かに信仰告白を述べようとする調子は全く見られません。

 神はカインの捧げ物から顔を背けられたように、今日の教会の捧げる騒々しい賛美や拝金主義的な捧げ物からは顔を背けられることでしょう。今日の多くの教会は、主にとって単なる耐え難い重荷にしかなっていないのではないでしょうか。

 「見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
 あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、
 あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、
 わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、
 『われわれは救われた』と言い、
 しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。
 わたしの名をもって、となえられるこの家が、あなたがたの目には強盗の巣と見えるのか。
 わたし自身、そう見たと主は言われる。<中略>
 わたしはあなたがたに、しきりに語ったけれども、あなたがたは聞かず、
 あなたがたを呼んだけれども答えなかった。<中略>
 わたしは、あなたがたのすべての兄弟、すなわちエフライムのすべての子孫を捨てたように、
 わたしの前からあなたがたをも捨てる。
 あなたはこの民のために祈ってはならない。
 彼らのために嘆き、祈ってはならない。
 またわたしに、とりなしをしてはならない。
 わたしはあなたの求めを聞かない。」7:8-16

 新約聖書を通して、神殿を商売の場に変えた人たちに対するイエスの激しい怒りを知っているにも関わらず、私たちは何度、主の宮を強盗の巣に変えれば気が済むのでしょうか? 何回同じ過ちを繰り返せば学ぶのでしょうか?
しるしと不思議と奇跡のためのクルセード、牧師と信徒の自己満足のためにだけ催される騒々しいコンサートや興行的イベント、クリスチャンの究極的な自己満足的な幻想である一億総福音化、日本全国のリバイバルを目的として果てしなく催される巨大イベントのチケットが礼拝堂で貧しい信徒にノルマのように売りさばかれています。
世界各地で震災や紛争が起きる度に、礼拝では「義捐金」が募られ、教会は集めた金を誇らしげに教団に差し出しますが、そうやって対外的に見栄を張る一方、聖職者も信徒たちも、貧しい隣人を助けるためには自分の懐から一銭も出そうとしないのです。教界の身勝手な夢幻の売買と見栄の張り合いのために、礼拝堂は公然と商売の場に変えられています。

 「我こそはクリスチャン」であるかのようにふるまいながら、貧しい者の懐から献金を盗み、富と名誉欲との姦淫にふけり、隣人を軽蔑し、祝福された人を妬みながら、絶えず互いに足を引っ張り合っている信仰者とは何者でしょうか。一つの教会内でさえ相争い、信者同士、牧師同士が絶えず分裂していがみ合っているのです。
 「主よ、主よ」と盛んに信心深い台詞を使い、もっともらしく長々と祈り、「わたしは救われた!」と豪語して、救われていない人たちを哀れんで自己満悦に浸っていながら、心の中にはいかにしてもっと金を集め、自分の権勢を拡大するかという欲望だけがあって、隣人へのいたわりや愛が全くないのです。このような人々が礼拝を捧げている対象は、神ではなく、自分の欲望という偶像です。主はそのような不信の民をどうして捨てられないことがあるでしょうか。
 そのような人たちに約束されているのは、恐ろしい裁き以外の何だと言うのでしょう?

「主は言われる、ユダの民はわたしの前に悪を行い、
 わたしの名をもってとなえられる家に、
 憎むべき者を置いてそこを汚した。
 またベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、
 むすこ娘を火に焼いた。
 わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。
 主は言われる、それゆえに見よ、その所をトペテ、ベンヒンノムの谷と呼ばないで、
 ほふりの谷と呼ぶ日が来る。
 それはほかに場所がないので、トペテに葬るからである。
 この民の死体は空の鳥と地の獣の食物となり、これを追い払う者もない。
 そのときわたしはユダの町々とエルサレムのちまたに、
 喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声を絶やす。
 この地は荒れ果てるからである。

 主は言われる、その時ユダの王たちの骨と、そのつかさたちの骨と、
 祭司たちの骨と、預言者たちの骨と、エルサレムに住む人々の骨は墓より掘り出されて、
 彼らの愛し、仕え、従い、求め、また拝んだ、日と月と天の衆群の前にさらされる。
 その骨は集める者も葬る者もなく、地のおもてに糞土のようになる。
 この悪しき民のうちの残っている残りの者はみな、わたしが追いやった場所で、
 生きることよりも死ぬことを願うようになると、万軍の主は言われる。」7:30-8:3

 教会で催される終わりない興行的催しのために、生活を圧迫されてへとへとになっている信徒の家庭は、教会のために人身御供にされていると言えないでしょうか? 奉仕に疲れ果てて、自分の子どもたちの面倒さえろくにみられないでいる親がいます。そんな家庭では、子どもたちまでが、教会での奉仕に借り出されている始末です。(児童労働は法律で禁止されているのに、教会での無償奉仕ならば良いというのでしょうか?)
 このような風景は、かつて背教に陥った人々が、自分の娘や息子たちを人身御供として偶像の神にいけにえに捧げたことと何の違いがあるでしょう? 私たちは自分の家庭を壊してまで、教会に奉仕することによって、自分の家庭をまるごと偶像にいけにえに捧げているのです! 自分の家庭や社会生活が圧迫されて、伴侶や子どもが犠牲になるような形で、教会に仕えることなど、神は「命じなかったし、考えたこともなかった」と言われるに違いありません。それなのに、聖職者は信徒たちの重い負担を知りながら、その犠牲には目をつぶって、さらに過酷な奉仕を奨励しているのです。

 このようにして自分を喜ばせるためだけの終わりなき興行という自慰行為のために信徒の生活を食いつぶしてきた教会は、いずれ、廃墟とされるに違いありません。

「牧者よ、嘆き叫べ。
 群れのかしらたちよ、灰の中にまろべ。
 あなたがたのほふられる日、
 散らされる日が来たからだ。
 あなたがたは選び分けられた雄羊のように倒れる。
 牧者には、のがれ場なく、
 群れのかしらたちには逃げる所がない。
 牧者の叫び声と、群れのかしらたちの嘆きの声が聞える。
 主が彼らの牧場を滅ぼしておられるからだ。
 主の激しい怒りによって、
 平和な牧場は荒れていく。
 ししのように彼はその巣を出た。
 主のつるぎと、その激しい怒りによって、
 彼らの地は荒地となった」25:34-38

 この警告が特別に、「牧者」に向けて発せられていることに注意しましょう。牧者が神に背くという罪のとりかえしのつかない重さをよく語っています。背信の教会が破滅するその日、信徒にはまだ逃れの道が用意されているかも知れませんが、牧者と信徒のリーダーたちは、念入りに「選び分けられ」、「逃げる所なく」追いつめられていきます。
 主は「彼らの牧場」ごと滅ぼしておしまいになります。「平和だった牧場」は、激しい主の怒りという災難の前に、崩れ落ち、廃墟となります。これは教会が詐欺にかかったり、とてつもない災害に見舞われて、破産し、教会の土地や建物さえ買収されて、聖職者が仕事を失い、未曾有の苦難を経て、群れが離散していくということを暗示してはいないでしょうか。

 偽牧者に対するエレミヤ書の厳しい警告は、何よりもエゼキエル書34章のことばと響きあっています。

「わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。
 牧者は群れを養うべき者ではないか。
 ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、
 群れを養わない。
 あなたがたは弱った者を強くせず、
 病んでいるものをいやさず、
 傷ついたものをつつまず、
 迷い出た者を引き返らせず、
 うせた者を尋ねず、
 彼らを手荒く、きびしく治めている。
 彼らは牧者がいないために散り、
 野のもろもろの獣のえじきになる。
 わが羊は散らされている。
 彼らはもろもろの山と、
 もろもろの高き丘にさまよい、
 わが羊は地の全面に散らされているが、
 これを捜す者もなく、尋ねる者もいない。
 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
 主なる神は言われる、わたしは生きている。
 わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、
 その牧者はいない。
 わが牧者はわが羊を尋ねない。
 牧者は自分自身を養うが、わが羊を養わない。
 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。
 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、
 わたしの羊を彼らの手に求め、
 彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、
 再び牧者自身を養わせない。
 またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。<中略>
 わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、
 わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。<中略>
 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、
 傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、
 肥えたものと強いものとは、これを監督する。
 わたしは公平をもって彼らを養う。」エゼキエル書34:2-16

 ニッポンキリスト教界の様々な教会では、牧師が貧しい信徒をさらに貧しさの中に追いやるような厚かましい無償奉仕と、信徒からの献金の上にあぐらをかいて、自分を肥え太らせています。自分自身は教会から最上の利益(献金からの給料)をいただきながら、信徒には残り滓さえも与えようとはしません。信徒は無償でこき使われているだけです。

 「あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、
 また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、
 これは、あまりのことではないか。
 わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、
 あなたがたの足で汚したものを、飲まなければならないのか。」エゼキエル書34:17-19

 教会の中で躓き、群れを追われるように去って行った信徒に、牧師は何の連絡も取らないことがほとんどです。自分と対立した信徒と和解の作業をしません。教会内で不祥事が起こり、あるいは日常生活のトラブルのために、弱り果てている信徒がいても、ひたすら傲慢な態度で聖句を振りかざすばかりで、傷ついた心を愛で包むことをしません。教会で躓き、教会を去って行った元信徒は、新しく行った先の教会で大きなトラブルに巻き込まれたり、あるいは信仰の灯火を失って、世間で希望のない日々を送ったりしているのに、この教界には、離散した信徒を不幸な目に遭わせないようにと、優しく声をかけて呼び戻そうとする牧師はほとんどいません。どんなに信徒が大量に教会から離脱しても、牧師は離脱者に対しては厳しく接するだけで、我が身を振り返って、至らない点を反省しようとはしません。

 おびただしい数のクリスチャンが教会に躓き、教会から離れて、仲間からもはぐれ、各地で様々な苦難の餌食となっています。その教会で洗礼を受け、信徒として認められ、共に聖餐にあずかった同胞がどれだけいなくなろうとも、教会は彼らを呼び戻そうともしません。教会は、たくさん奉仕や献金をして、金づるとなってくれそうな信徒たちだけに媚びへつらい、自分たちに隷従せず、権威者に不満を持っているような信徒には見向きもしません。聖職者たちが自分を肥え太らせるためだけに信徒を集めているのです。自分たちに利益をもたらさないような貧しい信徒、病気の信徒、心の問題を抱えた信徒を、聖職者は滅びるにまかせます。
 こんなものは群れを養う牧者ではありません。むしろ羊を食う狼が牧者に扮装しているだけです。

 主はこのような偽牧者を、必ず、敵として滅ぼすと約束されないでしょうか。偽牧者の手から信徒を救い出し、二度と信徒を強欲な聖職者たちの餌食にさせず、偽牧者たちはこれまでのように羊を食ってのうのうと生き延びることができなくなる日が来ると言われないでしょうか。偽牧者たちは失職し、偽牧場は打ち壊され、廃墟と化すのです。そして離散して弱り果てている信徒には、主みずからが牧者となって下さることが約束されます。

「わたしは彼らと平和の契約を結び、
 国の内から野獣を追い払う。
 彼らは心を安んじて荒野に住み、
 森の中に眠る。<中略>
 わたしが彼らのくびきの棒を砕き、
 彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、
 彼らはわたしが主であることを悟る。
 彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめとられることなく、
 地の獣も彼らを食うことはない。
 彼らは心を安んじて住み、
 彼らを恐れさせる者はない。
 わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。
 彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく、
 重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。
 彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、
 彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、
 主なる神は言われる。
 あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。
 わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる。」34:25-31

 主は偽教会、偽牧場、偽牧者を必ず滅ぼされます。主の怒りの前にこのような堕落した教会が立ちおおせるはずがありません。そして追い散らされて、牧者を失って、失意のうちにある信徒たちは、再び呼び戻され、強められる時が来るのです。

 …何千年も前に預言者エレミヤとエゼキエルが神から受けた啓示を、文字通りに、現代の日本の教会にあてはめることができるものかと、食ってかかる人たちもいるでしょう。このような警告を、決して自分たちに対するものとして受け止めたくない人々は、その根拠として様々な学説を振りかざすことでしょう。私は神学者ではありませんから、そのような人々と議論するつもりはありませんし、それができるだけの専門知識も持ち合わせていないことは正直に告白しておきます。

 けれども、クリスチャンが聖書を理解するのに、必ずしも神学に関する専門知識は必要ないことは、聖書が教えています。聖霊みずからが私たちに教えてくださると聖書は言います。私たちがただ素直な心でこの聖書のみことばを読む時、ここに書かれている偽牧場の姿が、今日のニッポンキリスト教界の忌まわしい姿とそのままそっくり重なることに驚かずにいられるでしょうか。
 ニッポンキリスト教界には近々、恐ろしい災いが裁きとして必ずふりかかるだろうと私は予想しています。これは、多くのクリスチャンがすでにかなり前から警告を発していることです。たくさんのクリスチャンが同じ警告を教界に向けて発している、そのことだけで、教界にはそれに耳を貸すだけの十分な根拠があると言えるのではないでしょうか。

 ニッポンキリスト教界という偽牧場の崩壊と詐欺師的な聖職者の権威失墜、――そのような恐ろしい事態が起こるよりも前に、主の前に自らの罪を悔い、これまで争って傷つけてきた隣人と和解し、二度と強欲な生活に走ることなく、主の前に襟を正して生きていくことができるクリスチャンは幸いです。

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