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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。



 




 

~ 奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④」の続きである。

 さて、そろそろ、神の教会は、キリスト教と教会と信者全体を冒涜し、呪うような狼藉者たちに、団結して立ち向かうべき時が来ているのではないかと筆者は思う。

 前回、取り上げた村上密の最新の記事には、次のような一文がある。

「権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。」

 この文章から読み取れるのは、村上が何とかして教会にケチをつけ、教会に打撃を与えるチャンスを伺い、教会財産を一銭でも減らし、教会を貧しくしようと、教会に恨みを持つ不信者(こんな人々は信者とは呼べないが)をけしかけては、教会に対する裁判を起こすチャンスを狙っている様子だ。

 同氏が牧師であるにも関わらず、何とか口実を見つけては教会に争いをしかけ、教会財産を不信者のもとに移したいと願っている様子が伺える。

 自浄作用が働かないから裁判に出るというのであれば、見込みのある裁判をせねばならない。
 
だが、「法の力を借り」たとしても、村上の言うような裁判には、勝ち目がないことが明白であることはすでに述べた。従って、村上の主張は、「聖なる法」である教会規則になじまないばかりか、「この世の法」に照らし合わせても、非現実的な世迷いごとでしかない。
  
「自浄作用」をなくしているのは、村上密と同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であって、それ以外の教会ではない。
 
村上自身の言葉を使えば、事実は以下の通りとなるだろう。

「村上密は、自らのブログにおいて、かつての同僚、「同じ釜の飯を食った」牧師たちであっても、教団と袂を分かった者については、個人情報を漏えいし、それを歪曲する形で、彼らを誹謗中傷する材料としている。また、同氏は、かつて自分の教会に相談に訪れていた信徒であっても、気に食わなくなれば、信徒の個人情報を漏えい・悪用しては、信徒を中傷している。

このようなことは、同氏の牧師としての倫理の徹底的な欠如を証明しているだけでなく、牧師としての守秘義務違反、信者のプライバシーの侵害、パワハラ、個人情報の漏洩などの深刻重大な人権侵害に相当する可能性が大である。


となれば、当然、村上の行為によって被害を受けた信徒や牧師には、村上密に対して精神的・もしくは物質的な損害に対する賠償請求を行う道が開けて来る。村上は牧師を名乗っているのだから、本来、牧師の活動を正すのは教会や教団であるべきで、この世の法を用いることは適当でない。しかしながら、自浄作用が全く働かなくなっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、牧師としての職務から完全に逸脱しており、クリスチャンとしての信仰の欠片も見られない村上についてだけは話は別である。兄弟姉妹としてのいかなる忠告も、話し合いも効果のない人間の行動を押さえるためには、当然ながら、この世の裁判を考慮に入れる必要が出て来る。」

このように、損害賠償、慰謝料請求は諸教会に対してでなく、村上牧師とその活動に「悪のり」して兄弟姉妹を誹謗中傷する者たちに対して行われるのが最もふさわしい。

村上は、元信徒を裁判に焚き付けては教会から受けた被害を取り返すよう主張して来たのだから、その主張は同氏自身にも全くその通りに適用されねばならない。自分は人を訴えておきながら、自分が訴えられれば、逃げ回るというのでは、あまりにも往生際が悪い。

筆者は、村上とその活動の支持者らが行って来た人権侵害に対して、被害を受けた牧師や教会や信徒らは、黙っておらず、必要な法的アクションを取ることを強くお勧めする。取れる手段は色々ある。この人々は、キリスト教を断罪しているのだから、兄弟姉妹として扱う根拠がなく、法的措置以外の方法で、このタイプの人々に主張の誤りを認めさせたり、責任を取らせることは決してできないと筆者は考える。

クリスチャンは世の光なのであるから、虚偽の訴えに対して沈黙していてはならない。偽牧師、偽預言者、偽信徒だなどといわれなく非難されて黙っているなど論外である。おくびょう者の行き着く先も、地獄の火の池なのだから。
 
今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて、
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」
(黙示12:10-12)

さて、最後に、ハガルとイシマエル、サラとイサクの話をつけ足して記事を終わりたい。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。

 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:21-31)
 
カルト被害者救済活動は、幾度も述べて来たように、生まれながらの人間の正義を掲げるものであって、神の義に反し、御霊に基づく運動ではない。「肉によって生まれた」運動である。

ところが、これまで、信仰に基づかないこの偽りの運動が、全教会を圧迫し、信者を無差別的に迫害して来た。「肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。

しかも、多くの信者たちが自らこの悪しき運動に降伏宣言し、汚し言を言う獣のような彼らの主張の前にひざまずき、彼らの軍門に下った。それによって兄弟姉妹を売った。だが、このようなことに対して、聖書は何と言っているか。

奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである

 さて、女奴隷とその子が追い出されるためには、サラとイサクが成長して強くならなければならない。その時、初めて、肉にあるものと霊にあるものの関係が逆転し、御霊によって生まれた子らが「しかるべき地位を取り返す」のである。

 この仕事を、神はクリスチャンに委ねておられる。

 これが、私たちが地上に置かれていることの意味なのだ。私たちが戦わずにただ沈黙していて、福音がこの地上で前進し、成就することはない。私たち自身が福音の旗を掲げて、霊的な戦いを命をかけて真剣に戦い抜き、新しい陣地を勝ち取り、サタンのわざを打ち壊して前進して行かなければ、神の国の前進はないのである。

 神の国を前進させるとは、多くのクリスチャンがそう信じているように、地上で座って楽しく飲み食いし、気に入った信徒だけを周りに集めて、お気に入りの讃美歌を歌い、耳に心地よい歓談にふけりながら、それを「聖徒らの交わり」と称して誇ることでは断じてない。そのような瞬間が、場合によってはクリスチャンの交わりにないわけではないとしても、激しい霊的戦いを戦い通さねば褒賞を得られないことも事実なのだ。

 先の記事で、筆者は不当解雇された人が、裁判で地位確認請求を行って権利を取り戻すことに触れたが、その際に、決定的に重要な証拠となるのが、雇入れ時に労働契約を明示した書面が労使双方の間で取り交わされているかどうかであると述べた。

 このことをクリスチャンに適用するならば、我々が神の国の正統な後継者として神の教会に残り、狼藉者を追い出す根拠となるのは、神と我々との間に結ばれた契約、約束の御言葉である。

 イサクは、神との約束を生まれる前から持っていたが、イシマエルにはその約束は与えられていなかった。それゆえ、イサクには正統な跡継ぎであると主張できる根拠があったが、イシマエルにはそれがなかった。

 今日、神の教会に連なるための条件は、キリストの贖いを受け入れ、罪赦されて神の子供たされたという、聖書の御言葉に基づく信仰であって、教会に対する怨念や被害者感情ではない。むろん、人受けのする性格や見栄えの良い外見でもないのは言うまでもない。

 ところが、カルト被害者救済活動の支持者らは、神の約束に基づかず、神との契約によって結ばれていない人々を、全く不当な理由で、教会に受け入れるよう迫っているのであるから、こうした人々は、正統な神の国の相続人ではないのに相続人を詐称する不法者として、教会から追い出されて当然である。
 
 このように、まず最初に約束の契約が与えられなければ、クリスチャンは神にも教会にもいかなる地位をも主張できない。だが、約束が与えられているなら、それに基づいて、大胆に権利を主張し、天に対して「地位確認請求」を出すことが重要である。

 創世記(21:9-14)を読むと、神の国の前進のためには、サラの意志表示が決定的に重要な意味を持っていた様子が分かる。

「サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。 

この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。

神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです
しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。」

 ハガルは奴隷にも関わらず、自分が先に主人の子を産んだことで得意になり、早くから女主人のサラを見下げていた。それゆえ、サラもハガルを相当いじめていたようだが、それでも、一定期間、ハガルとサラは一つ屋根の下で暮らし、イシマエルとイサクも兄弟のごとく過ごした。

 おそらく、アブラハムはイシマエルもイサクもどちらをも息子として愛し、ハガルとサラも何とか折り合いをつけてやって行けるかのように考えていたのであろう。

 だが、サラの堪忍袋の緒が切れる時が来た。これ以上、ハガルとイシマエルを一つ屋根の下に置いておけば、彼らはかならず、サラとイサクを押しのけて、家の跡取りになろうとしてクーデターを起こすだろうことが、彼女にはっきり予測できたためである。そこで、彼女はアブラハムに明白な意志表示を行う、奴隷とその子を家から追い出してくれと

 神はアブラハムに言われた、「サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。」そして、アブラハムは神の約束に従い、サラの要求を聞き入れ、奴隷とその子を家から追い出した。

 アブラハムにとってはつらい決断だったろう。以後、彼は二度とイシマエルを見なかったのだから。だが、人間の肉に基づく関係、生まれながらの魂の情愛は断ち切られ、御霊に基づく関係だけが残らねばならなかった。

 今日、神の聖徒らは、約束を持たない奴隷の子らに向かって、同じように言わねばならない。「奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない」と。

 このように、我々が神と人との前で、明白な意志表示を行うことがぜひとも必要なのである。自分たちの「あるべき地位」をきちんと請求するための訴えを天に対して、神と人との前で起こすことが重要なのである。おそらくサラも一度や二度ではなく、アブラハムに願い出たに違いない。

 今、神の教会を荒らし回り、御霊によって生まれた子たちをいわれなく迫害する者たちを、クリスチャンが一致団結して、神の家からきっぱり断ち切り、追い出す覚悟を固めるべき時が来ている。イエスが強盗たちを、憤りを持って宮から追い出されたように、聖徒らは、激しい憤りを持って、神の教会と聖徒らをあざけり、冒涜し、呪う者たちを、容赦なく福音の敵として神の家から追い払うべきなのである。
 
小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで御国を与えてくださる。」(ルカ12:32)

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