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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

1.日本に体制崩壊の日が近づいている。

2008年6月8日、秋葉原で派遣社員、加藤智大による無差別殺人が起きた時、とある地方都市にいた筆者にとっても、事件は他人事ではなかった。

社会の底辺に近い身分へと追いやられ、貧しい給料で、何の創造性もない末端の末端の仕事しか与えられず、そこからほとんど這い上がる見込みを持たない派遣社員たち。何の将来の希望も持たず、ただ今という時をやり過ごすためだけに、馬車馬のように働くしかない派遣社員たち。
彼らの間に渦巻く、共通した怨念のようなもの――それがあのような事件に集約されたのだということは、多くの人たちによってすでに指摘されてきた。当時、筆者自身も派遣社員の身分であったが、その職場内においても、何かしら目に見えない、言葉にならない、この先どこへ向かうやらも分からない、危なっかしい怨念のようなものが人々の間にひしひしと漂っていることが感じられた。

「日本には近い将来、組織化された若者のテロが現れるに違いない」と、秋葉原の事件当初から筆者は確信していたが、その後、元厚生省官僚の暗殺、大学教授の暗殺などが起こり、これらの個別の事件がやがて大々的な反政府的活動へと結びつき、組織的テロ活動に変わるのはほとんど時間の問題だと思われる。

今から約一年前、アキバ事件よりも数ヶ月前、筆者は帝政ロシア末期からソビエト体制の成立時点にかけてのタイムスパンをカバーする学術論文を完成させた。それを書いているうちに、現在の日本社会と、19世紀末―20世紀初頭の帝政ロシアの社会との間に非常に類似した構造があることに、気づかないわけにいかなかった。

多くの人々を貧困に陥れる、時代錯誤と言う他ないような、大きな経済的格差。
ますます開いていくばかりの貧富の差は、昔ながらの旧い体制によって生み出されたものである。だが、一つの時代の価値体系が、大多数の人々を非人間的に追いつめるようになると、旧来の体制がもたらした不平等を解消するために、新しい時代の道徳的理念を振りかざして、旧来の体制に闘いを挑む人たちが現れる。すると、古くからの価値観と、新しい時代の理念とが社会において激しくぶつかり合い、混乱を生む。

旧来の価値観が没落し、新しい価値観が登場しようとする時、時代の転換の予兆として、社会にはある共通した特徴が見られる。すなわち、伝統的な身分制度の崩壊と、全ての価値観のファジー(曖昧)化である。旧来から守られて来た伝統や、しきたりが軽視される一方で、型破りで奇抜な流行や、新しい身分制度が登場する。社会で伝統的に維持されて来た職業的身分が崩れ、人々の社会的身分が不安定化するだけでなく、ファッション、音楽、芸術など、文化の様々な分野においても、価値観の曖昧化・多様化が起こる。
いわば、社会の全ての要素が不安定化し、まるで融けてしまう寸前のチョコレートや、砕け散る直前の波頭のように、形を失って、曖昧化するのだ。

筆者は論文を書きつつ、ひしひしと思った。帝政ロシアが崩壊したように、現在の日本の社会体制も遠からず必ず崩壊するだろうと。その予兆として、終身雇用制度の崩壊や、派遣という身分の登場があるのだ。

ロシア国家の体制崩壊を見て、日本にも同様のことが起こると予見した人に、故石井絋基衆議院議員がいる。彼はソビエト体制下ロシアに留学した経験を持ち、当時の体験をもとに、日本の社会を観察した結果、日本にも必ず国家体制の崩壊が起こるだろうと予想した。
日本政府が何らかの対策をきちんと打ち出さない限り、癒着と腐敗にまみれたこの国は、やがて機能不全に陥って、崩壊し、国民は未曾有の混乱の中に投げ出されると彼は考えていた。

筆者の予測も大体、石井議員の予想と似たものである。ただし、筆者は現在の日本をソビエト体制にではなく、その一つ前の帝政ロシアに重ね合わせる。そして、現在の資本主義に基づく「帝政」が崩壊した後に、恐ろしい「社会主義政権」が到来するだろうと予測している。

現在の日本の画一化教育、集団社会、官僚政治などを指して、日本はすでに社会主義国になっていると主張する人々も多いが、筆者は、この日本社会は社会主義をこれまで一度も経験したことはないと判断している。言い換えれば、社会主義というものの恐ろしさを、日本人は現実にはまだ一度も味わったことがない。

石井議員は、日本国の崩壊を食い止めようと、政治の腐敗を正すべく活動した。彼は特に、宗教がらみの政治的腐敗というこの国のタブーに切り込んで行ったため、その結果として、闇の勢力によって謀殺されたのではないかという見方が根強い。(たとえば、弁護士紀藤正樹氏の「真相の究明に全力を」参照。)

議員としての石井氏の活動には十分な敬意を払いつつも、しかし、筆者は、今、この国の上に黒雲のように垂れ込める闇の宗教勢力とまともにぶつかり合うことは誰にも勧められない相談だと考えている。(ニッポンキリスト教界内での泥沼化した訴訟にも、クリスチャンはできるだけ近寄らないことをお勧めする。個人の力では闇の勢力全体に太刀打ちすることは到底、無理だからである。ただ神の裁きに委ねるのみ。)
石井議員が予測したような、日本の体制崩壊への歴史的流れは、個人の力によっては変えようのないものであり、防ぐ方法はない、筆者はそう考えている。


2.今後、日本では若者によるテロが増加の一途を辿ると予想される。

19世紀、帝政ロシアの社会では、国民間の経済格差があまりにも明白となっていた。当時、人口のほとんどを占めていたのは、貧しさの中に留め置かれた無学な農民であり、その上に、ほんのわずかな特権的貴族(貴族の中でも選りすぐりの富豪である上流階級)が、農民の血と汗と涙を吸い上げて成り立っていた。上流階級は全く働かないで生きていけるような人たちで構成されていた。農民には学識がなかったため、自分たちが置かれている状況の不当さを客観的に認識する能力を奪われていた。

だが、不当に抑圧されている本人がたとえ認識できなくとも、あまりにも不平等かつ時代錯誤な体制は、歴史的に、没落していくのが必然である。
このようなロシアの不平等社会に問題提起を投げかけた人々がいた。ロシアは文化的・政治的立ち遅れを解消し、農民を重いくびきから解放すべきだと叫んで、立ち上がった人々がいた。
インテリゲンツィヤと呼ばれる教養ある貴族青年男女たちであった。

インテリ(知識人)という言葉には、今日でも、権力による圧制に立ち向かう良心の人々、という意味合いが込められている。帝政ロシアでは、不公平な世の中をいかに改善すべきか、知識人は様々な方法を駆使して考えた。文筆家は自分の作品を通して、政治家は政治を通して、画家も自分の作品を通して、俳優も演技を通して、どう世の中を改善すべきか、教養人は皆それなりの方法で考え、訴えようとした…。

そのような教養ある人々の層の中から、一部、現行の体制を暴力的テロによって襲撃し、体制ごと破壊してしまうべきだと考える人々、革命家が現れた。
だが、そのような考えを持つ革命家、活動家は、インテリの中のごくわずかであった(いや、革命家はインテリではないという見方もあるだろう。)また、革命家の中にも、暴力否定論者もおり、テロの擁護者は革命家全体の中のごく一部であった。

帝政を崩壊させて農民を解放することを目的として、19世紀ロシアに最初に起こされた大がかりな政治的反乱であるデカブリストの乱を起こしたのも、教養ある貴族青年たちであった。この反乱は鎮圧され、参加者は大量に処罰されるだけに終わった。

20世紀に入ると、ロシアには反体制的な思想傾向を持つ人々が非常に増加して行った。それは当時のロシア政府がいかに、経済格差を是正し、国民的不満を抑えるのに無能だったかをよく物語っている。政府は国民の経済格差を解消するために何ら有効な策を打ち出さないままで、ただ言論の自由を封じ込め、反政府的な思想傾向を持つ者たちを手荒に処罰することだけに専念した。こんな荒っぽい政策を推進する政府が国民から愛想を尽かされ、支持を得られないのは当然のことであった。

弱体化した政府に、各方面から、国民が襲いかかった。
(外国からもまた打撃が加えられたが、今はそのことは脇に置いておく。)

貴族のみならず、町人、商人などのあらゆる社会層に革命家が現れるようになった。警察に追われ、亡命して潜伏し、偽名を使い、職業を偽り、逮捕や流刑の恐怖と隣り合わせで暮らしながら、命懸けで、自分の命を地下活動に捧げるような筋金入りの活動家たちが多数、現れた。それらの活動家の中には、現在のイスラム原理主義の自爆テロ犯のように、信念のためなら命も惜しまず、どんな行為にでも飛び込んでいく、狂信者のような職業的テロリストたちが含まれていた。

20世紀初頭のロシアは、このような筋金入りの革命家や、狂信的テロリストたちがのべつまくなしに大臣や官僚、議員などを殺害する混乱した世の中になっていた。初め、テロリストは非常に高潔な信念(?)に基づいて、限定されたテロだけを実行していたが、テロの暴走、泥沼化と共に、テロは何の志もない、ただの無差別殺人とほとんど変わらないものにまで落ちぶれた。

社会全体に殺人が蔓延したが、当時、ロシア世論はこの殺人に対して感覚麻痺していた。暗殺に対する危機感はほとんどなく、それどころか、悪評高い大臣が殺された折には、世論はそのニュースに歓喜していたくらいであった。

自分たちの代わりに、悪代官を成敗してくれるテロリストに、大衆は同情的だった。テロがあると人々は胸のすくような思いさえ味わった。このような懲罰ムード、浅はかな勧善懲悪に基づく私刑を容認、歓迎していれば、やがてどんなに恐ろしい世の中が到来するか、大衆は分かっていなかった。

極左テロリストがいるかと思えば、極右テロリストもいた。「革命を起こそう」と呼びかける極左勢力の傍らには、「お国のために、皇帝陛下のために命を捧げよう」とする右翼勢力も現れた。両者がターゲットとみなした人々に法律を無視してリンチを加え、闘争が泥沼化した。

最近、日本では厚生省元官僚が暗殺されたが(この事件の真相は謎に包まれているが、それはさておき)、この事件に対する国民の反応は、上記の帝政ロシアの大衆のテロに対する歓迎的なムードを筆者に思い起こさせる。新聞報道などの公式発表を除き、ネット上などの世論では、元官僚の暗殺に対する抗議がほとんどなく、むしろ「さんざん不正を働いて来た官僚が殺されるのは自業自得」というムードが強かった。

日本の世論は、官僚が殺されてもそれに同情できないほどに、現政府に飽き飽きしている。次の段階になれば、大衆自らがテロを望むまでになるだろう。
自民党が民主党と政権交代をすれば世の中は変わる、ということに期待をつないでいる人が、今やほとんど見られなくなった。そんな小手先の対策ではおさまりがつかないほどに、怒りと不満が国中に渦巻き、誰も彼もが政府に愛想をつかしている。年金問題や、警察の裏金作りの問題を始めとして、国家機関の要となる組織がこれほどまでに大がかりな不正と癒着にまみれてしまえば、もはや政府の建て直しは不可能で、一旦更地にするしかないという見方もあるだろう。

弱腰の態度を取り続けている政府は、将来、革命的蜂起によって打倒され、解体されてしまう危険性が大いにある。


3.大政奉還が有効に機能すれば、革命と内乱は回避できるかも知れない。

だが、それにしても、歴史上、日本にはこれまで革命というものは一度も起こったことがない。それには、革命を起こすほどに日本人が市民としての成熟した自覚を持たなかったという理由もあるだろうが、他に、日本の歴史においては、政治的混乱が収集がつかなくなると、いつでも内乱を防ぐために、平和的な解決手段として、「天皇への大政奉還」が持ち出されて来たという理由もある。

江戸幕府の終焉もそうであるが、弱体化して没落しつつある政治勢力が自ら撤退する代わりに、天皇に政権を返還し、天皇が新しい政治勢力を任命することによって、平和的に権力の委譲が行われるのが日本史の常であった。そうしておけば、流血を避けて、平和裏に政権が交替できるからだ。
「大政奉還によるリセット」、これにより、どんなに政治が混乱しようとも、日本史は流血の革命を回避して来られたのである。

第二次世界大戦後、日本を占領したアメリカも、この大政奉還の驚くべき「リセット効果」に注意を払った。もしもGHQが天皇を戦争責任者として追求し、天皇が処刑されるようなことがあったならば、日本国民は求心力を失って、戦争の責任を互いになすりつけあって、万人の万人に対する闘争としての内乱へ突入していたかも知れない。

実際に、多くの旧植民地諸国では、第二次大戦後も長い間、政治的混乱が続いた。経済は荒廃したままで、同士討ち的な内乱が絶えず、民主主義は機能せず、国土の復興が遅れた。

だが、日本では、天皇という求心力が取り払われなかったことにより、驚くほどの短期間で、国民は戦争のショックから立ち上がり、(戦争の記憶をリセットし)、経済復興した。
東京裁判で責任者として裁かれたのは、軍国主義を政策として推進してきた政府であり、天皇ではなかった。こうして、軍国主義という政治勢力が敗退し、見えない形で、天皇に再び権力が返還され、天皇は差し戻された権力に基づいて、新しい民主主義的勢力を任命した。

つまり、戦争終結もまた一つの目に見えない「大政奉還」であったと考えることが可能である。
アメリカは、占領下の日本を早く復興させて、そこから経済的利益を得たかった。そのために、あえて天皇制というリセット・システムを残して、日本国民をまとめるための求心力として機能させたと考えられる。

だが、いつでも混乱を収拾する方法として、大政奉還が可能かどうかは分からない。もしも今後、世界同時不況がより一層日本人を圧迫するようになり、そこに明治維新のような形で、何らかの革命的騒乱が起きたと仮定し、さらに、天皇の登場による平和的解決が失敗した場合、残る選択肢は、国民同士が相争う流血の内戦のみとなる。
それはアメリカなどの外国勢力の軍事的介入による鎮圧を招くであろうし、そのような外国勢力の排除を謳って、日本にも、ミャンマーのような軍事政権が樹立したり、あるいは排外的民族主義政権が成立してしまう危険がある。

とにかく、未曾有の経済危機を乗り越えるにあたり、一体、日本がどんな策を講じるのか、誰の目にもまだ不明である。それに、今のところ、現政府を打ち倒すほどに強力な政治勢力もまだ登場してはいないように見える。だが、このまま政治的・経済的混乱が続くと、日本にも近い将来、組織化されたテロが出現し、無能な政府の排斥を掲げて、政府要人に打撃を加えることが予想される。国民を暴徒化させないために、政府が平和的解決策を打ち出すことが、今、早急に必要とされている。


4.大量失業をきっかけに、国民の不満が全国的な暴動につながる危険性がある。

国民の暴徒化という意味において、最も大きな火種を抱えているのは、ロスト・ジェネレーションと呼ばれる30代世代だ。20代で就職氷河期に直面して正社員になる機会を失い、以後、アルバイトや派遣社員という低い身分で食いつないできたロスジェネ世代が、今、人口の中核となる年齢に差しかかっている。
社会の中で、これまでいわば捨て駒とされて来た世代だが、彼らはまだ若く、強力な潜在的なパワーを持っていると見られる。この世代が、世界不況を機に、今後、一大勢力として結集する可能性は大いにある。

2009年度半ばまでに首を切られる予定となっている労働者の数は異常なほど多い。もしも、これらの人が一斉に路頭に迷うようなことがあれば、即、失業者が暴徒化して革命的な騒動に走りかねない。政治も思想もへったくれもなく、ただ今日の宿と明日の食い扶持を求める本能だけに基づいて、人々が闘争に走るかも知れない。
もしそのようなことが起きた場合、暴徒化した失業者が怒りの矛先を向けるのは、当然、それまで自分たちを苦しみの中に捨て置いてきた政府や、官僚、政治家、富裕なサラリーマン世代だろう。全国で一揆、商店街への襲撃、焼き打ちなどの騒乱が起きない保証はない。

かつて団塊の世代によって引き起こされた学生運動は、学内でしか力を発揮しなかったことが弱点となって、短期間に鎮圧されて終わった。だが、もしも今回の同時的失業をきっかけに、暴動が全社会的な広がりを見せるようなことがあれば、政府がそれを鎮圧するために断固たる策を講じられるかどうか分からない。

高齢化している日本社会は、今、若者たちの間に政治運動が起こっても、それを厳しく弾圧して、彼らを切り捨てることができない。若者の層を味方につけることなくして、今後、日本は国力を維持していくことができないからだ。若者を切り捨てることは、子孫断絶と、この国の破滅を意味する。

だが、もし大規模暴動が起こり、それを警察と自衛隊が食い止めることができなければ、この国は内戦状態に陥る。ゼネストが起こり、鉄道はストップし、送電は停止し、民営化された郵便局も機能停止し、全国的なストライキによって経済が麻痺状態に陥ることが考えられる。そうすれば、アメリカと北朝鮮と中国が、待ってましたとばかりに、「平和維持活動」と称して、この国に軍隊を送って来るだろう。

こんな明々白々の危険に対しても、政府は明瞭な解決策を何一つとして打ち出せていない。これではまるで暴動を起こして下さいと政府自ら国民に頼んでいるも同然である。


5.ロスジェネ世代の政治化が進んでおり、過激で急進的な政治団体が登場する危険性がある。

さて、昨年末、筆者は知人から、鳥肌実という芸人のライブが若者の間で話題となっている事実を知らされた。「欲しがりません勝つまでは」、「一億玉砕」…、そんな軍国主義時代のスローガンをちりばめた軍服を身につけ、軍国主義グッズを販売し、政治色の濃い演説で人気を集めているこの人物のもとに、派遣労働者が喜んで通っているそうだ。このことからも、筆者はこの先、日本に待ち受けている未来が相当に暗いものであることを思わざるを得なかった。

ほんの少し前まで、派遣の若者たちはジャニーズのライブなどのために惜しみなく給料を使っていた。ところが、今では右翼のようないでたちの芸人の政治色の強いアジ演説を聞くために、わざわざ金を払っている。
鳥肌氏は自称芸人であり、右翼思想の持ち主ではなく、政治的な話題は単なる話芸のネタであるとしているらしい。だが、このような芸人の登場には、それだけでは済まされない何か不穏な雰囲気を筆者は感じた。鳥肌氏を知らない人は一度、興味本位で良いので、彼の公式サイトを覗いてみられたい。

若者たちにとっては、きっと何でも良いのだろう。日頃の鬱憤を吐き出させてくれそうな集会や活動さえあれば。右翼だろうと左翼であろうと、この社会の不平等に対する怒りを吐き出すにもってこいの活動がありさえすれば、若者が手当たり次第、殺到するような時代が来つつある。

若者だけでない。今、国民全体が憤っている。「後期高齢者」として切り捨てられた年配世代も不満を抱えているし、貴重な年金を国家によって泥棒された人たちも怒っている。主婦も食品偽装に怒っている。赤ちゃんを産むために病院をたらいまわしにされる危険の中にある妊婦たちも怒っている。「障害者自立支援法」によって切り捨てられた身体障害者も怒っている。「ホワイトカラー・イグゼンプション」によって残業代をカットされようとしたサラリーマンも怒っている。ルーズソックス、ミニスカート、携帯電話、援助交際などの流行が作り出されたために、さんざん大人たちの餌食にされて来た弱い10代の少年少女たちもまた、口で言い表せない憤りを持て余している。

この社会に渦巻く行き場のない怨念のエネルギーを吸収して、巧みに政治勢力に変えようとする政治団体がこの先、必ず現れるに違いない。その団体が、民衆の不満を煽り、民衆の鬱憤を政治闘争のエネルギーへと変えて行き、民衆を剣に盾にして我が身をかばいながら、着々と自分たちの野心をかなえていき、政権の座に上りつめていく事態となることが非常に心配される。だが、もし政府がそのようなことを恐れるあまり、強硬で弾圧的な態度で国民の監視と統制に乗り出せば、より一層、支持率が落ち、政府の寿命が縮まるだけである。
このような、たまりにたまったマグマのような国民的不満に火がつき、ある日、何かのきっかけで国民全体がキレて暴走して行った場合、その恐るべき破壊のエネルギーを誰が食い止めることができようか。


6.一種の社会主義化なくして、日本は世界同時不況を切り抜けることはできない。

とにかく、今、歴史的に見て、価値観の大きな転換が起ころうとしていることは確かである。
これまで日本社会が推し進めてきた弱肉強食の市場原理主義においては、「負け組」となった人間は、貧乏のどん底に突き落とされ、周囲から軽蔑され、社会福祉制度からあぶれても、当然とみなされて来た。誰もそのような社会の最下層民をあえて救おうとする者はなかった。

不遇が嫌ならば、闘え。勉強して、良い成績を取り、良い大学に入り、良い会社に入り、会社の中で同僚に勝って、出世しろ。金儲けをしろ。有名になれ。それができないなら落ちぶれて当然だ。
それが今までの社会の価値観だった。

だが今、勝ち組よりも、負け組の方が圧倒的多数になろうとしていることにより、このような自由競争によるバランスが保てなくなった。市場原理主義そのものが悪として打ち捨てられようとしている。しかもそれが日本国内だけでなく、世界規模で起ころうとしているのだ。

競争原理の敗退は、受験競争の見直しや、「国民に犠牲を強いる構造改革」の問題が明るみに出ることによって、少しずつ進んできた。今、世界経済の成長率がゼロに落ちることによって、それに最後の一打が加えられようとしている。資本主義的市場経済によりすがった社会のあり方そのものが揺さぶられているのだ。

富の公平な分配と、高齢化社会への対応は、これまでのような市場経済における自由競争に頼っていては維持できず、社会主義的計画経済のような、国家による強制介入なくしては、成り立たないということが徐々に明白になって来ている。

このままではいずれ、多くの国民が飢え死にに追いやられる。このまま手をこまねいていたのではいけない…。
だが、富の公平な分配を行うためには、私有財産の不可侵性という考え方に手をつけるしかない。個人の私有財産に国家が何らかの形で介入し、それを個人から没収した上で、「公平に」再分配する他はない。それが分かっていればこそ、誰もがそこで恐怖を感じ、二の足を踏むのだ。

所有権、つまり、市民の私有財産の不可侵性は、資本主義の根本原則だ。もしも国家が貧しい人たちを救うためにと言って、富裕な人々の私有財産に手をつけ始めると、つまり、格差を是正するために市民の財産を没収したり、土地を国有化したり、巨額の税金などの形で、個人資産の強制的徴発を始めたりして、国家による土地と財産の再分配のようなことを行うなら、そのような社会はもはや資本主義社会ではない。

何かせねばならないと誰もが感じつつも、社会主義が到来することには誰も同意できないため、人々は口をつぐんでいる。


7.新しい時代を率いる勢力はプレカリアートであるが、彼らの作る世の中に期待できることは少ない。

日本が世界同時不況をどのような方法で切り抜けるのか、それはまだ分からない。いずれにせよ、マルクスが提唱した弁証法的歴史観が述べているように、これまで相対的に善とみなされて来た市場原理という価値観が今、没落し、悪として排斥されつつあることは確かだ。だが、それに代わって登場する新しい価値観とは何であろうか?

実は、新しい時代の価値観を知るのはそう難しいことではない。新しい価値観を知るためには、新しい時代の担い手に注目すれば良いのだ。
20世紀には、プロレタリアートの解放を掲げて、諸国で社会主義革命が起きたが、そこではプロレタリアートの解放こそが、革命を支える理念となった(現実にその仕組みが機能したかどうかは別として)。

そのような歴史に鑑みるなら、市場経済というこれまでの価値観が没落するに伴い、これまで市場経済の仕組みによって虐げられてきた社会的弱者が、新しい勢力として台頭すると考えられる。そしてこの勢力こそが、新しい時代の理念の担い手、新しい理想の体現者になるだろう。

それはつまり、これまで弱肉強食の社会によって打ち捨てられてきたニート、引きこもり、ネットカフェ難民、ワーキングプア、派遣労働者、フリーター、ポスドク、ホームレス、パラサイト・シングル、シングル・マザー、母子家庭の子どもたち、身障者などの「社会的弱者たち」が、新たに時代を率いる勢力となって台頭することを意味する。(これらの人々は、その収入の不安定さから、別名、プレカリアートとも呼ばれている。)

彼らが政治的に団結することを待たずとも、高齢化社会においては、今まで熱心に働いて来たサラリーマン世代が老後に追いやられるにつれ、否応なく、ニート世代、ロスト・ジェネレーション世代が台頭してくることは避けられない。

だが、このような予測は暗澹たる印象を我々にもたらす。新時代は、ニートと引きこもりが率いる? ニート政権ができる? 嘘だろう? ニートに、一体、どんな理想があるというんだ? 引きこもりにどんな希望があるというのだ? 彼らにどんな世の中が作れるというのだ!?

今まで社会参加の機会を奪われ続けて来たがゆえに、異なる世代に対する恨みと怒りに燃え、満足な職業訓練も受けず、場合によっては、教育も中途半端にしか受けておらず、社会経験を持たないために、人間が未成熟で、人間関係を築くことを十分に知らない者たち。
もちろん、職業訓練や、教育を受ける機会を十分に与えられなかったことは、決して、彼らの罪に帰されるべき問題ではないが、それにしても、そのことの結果として、彼らが、知識と経験の不足のために、社会を率いる即戦力とはならないことは誰にも否定できないだろう。にも関わらず、そのような人々が実権を握って、社会を動かすようになれば、どんな世が出来上がるだろうか?

…そんな世の中には、ほとんど何も期待できない。そのことはほぼ誰もが同意するだろう。ロシアのプロレタリア政権がどのような末路を辿ったかを見ても、そのことは明白だ。これまで筆者が再三に渡って訴えてきたように、政治的な弱者解放運動というものは、歴史上、初めの初めこそは解放的な輝きを発していても、結局、弱者を真実の解放に導いたことは一度もない。解放という名目で、ただ恐ろしい未来が待ち受けているだけである。

だがそれでも、このような価値観の転換、勢力の転換は、歴史的に見て、避けられないもののように筆者は感じる。市場原理主義が価値を失う以上、それによりすがって生計を立ててきた人たちが同時に権威失墜することもまた避けられない。
ワーキング・プアやロスジェネたちの不満をこれまでろくに受け止めて来なかった政府と国民に、これを防ぐ手立てはない。本当は、強い者は、弱い者をかばうためにこそ、己の権力を行使するべきであった。だが、弱い者を見捨て続けてきた強い者が、今更、平和を唱えても、誰も耳を貸さないに違いない…。


結論: それでも日本の体制崩壊は避けられない。

今、ロスジェネ世代の政治化が進んでいる。一方には、鳥肌実のような、帝政ロシア末期に現れた極右勢力、「黒百人組」を思い出させるような右翼的スローガンを利用する人々と、もう一方には、「ロスジェネ」を創刊したような左翼的な人々がある。
今は平和的に活動しているこれらの団体や人々をすぐに危険視するのは過剰反応というものだろう。だが、若者の政治化が進んでいけば、やがて思想と行動力の双方を備えたもっと先鋭的な団体が登場してくると予想される。そこから原理主義組織のようなものが出て来る可能性が大いにあるので、注意が必要である。

もしも政府が経済対策に無能であり続ければ、必ず、そのような極端で先鋭的な組織が政権を奪取しようとする日が来るだろう。大規模暴動に見舞われた日本が、軍事国家となるか、中国に占領されて属国となるのか、あるいは引きこもりとニートとワーキング・プアに率いられるプレカリアート社会主義政権が樹立することになるのか(ほとんどブラック・ジョークだ)、いずれにせよ、暗雲垂れ込めるような未来予想図があるだけである。

本来、こんな時こそ、キリスト者は社会に希望と平和を訴えるべく活動すべきなのだが、腐敗まみれで弱体化したニッポンキリスト教界には到底、そんな役目を果たす力がないことは明らかなので、クリスチャンはせめて個人の生き方を通して、少しでも世の光となるよう努力する他ない。

聖書的に見ても、神に由来する絶対的な善の他、どんな価値観も、時代と共に移り変わる相対的なものでしかないことが分かる。ある時代が寵児としてもてはやした価値も、次の時代になれば、無価値なものとして捨てられる。歴史はそのような運動を繰り返して来た。

これまで誇らしげに栄えてきた価値観全体が地盤沈下しつつあり、やがて没落していくことは避けられない。それはニッポンキリスト教界の没落であり、公的機関の没落であり、政治の没落であり、市場原理主義の没落である。あらゆる分野に渡って、社会の「模様替え」が要求されるような時代に、今、私たちは入りつつある。

横暴な支配を繰り広げてきた勢力には、近い将来、一種の歴史的制裁の斧が振り下ろされるかも知れない。どこかの教界の偽牧師のように、貧しい者を虐げ、不当に甘い汁を吸ってきた自覚のある者たちはご用心だ。
 

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2009/01/17 (Sat) 社会問題