忍者ブログ
栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

・ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神とする東洋的異教の母性崇拝(「イゼベルの霊」)に支配される運動である。
 
さて、これまでにも当ブログでは、ペンテコステ運動とは、イゼベルの霊(一言で言えば、異教的母性崇拝の思想)に導かれる運動である、ということを再三に渡り、述べて来た。はっきり言えば、ペンテコステ運動とは、異教に由来する非キリスト教的な思想に基づく「神の家の乗っ取り運動」なのである。
  
ペンテコステ運動にははっきりした教義体系が存在せず、教義体系を明らかにする文献も少なく、ただ「聖霊のバプテスマ」を受けて「異言」を語るなどの超常現象ばかりを重んじるため、自然と、この運動の問題について語られる場合にも、現象面の分析で終わりがちであり、教義面からこの運動の根本的な危険性を洗い出す議論は少ない。

とはいえ、それでもペンテコステ運動の教義の基礎を明らかにしていると見られる文献はいくつか存在し、それを手がかりにこの運動の異常性を教義面から論証することは可能である。

そうした文献の一つが、大きく見れば、ペンテコステ運動の中にひとくくりにできるカリスマ運動の指導者である手束正昭氏の言説である。当ブログではすでに幾度も述べて来たように、手束氏は、すべての物事にはっきりとした区別をつけて、何が善であり、何が悪であるかを峻別する聖書の二元論を非難して、キリスト教は、このようにすべてに区別をもうけようとする父性原理ばかりが強すぎて、すべてを慈愛によって包容する母性原理が足りず、それゆえ、バランスが取れていないため、キリスト教は精神異常や狂気を生むなどと主張する。

ペンテコステ・カリスマ運動にもし「教義」というものがあるとすれば、それはこのように伝統的なキリスト教にあたかも「重大な欠陥」が存在しており、それゆえ、キリスト教が「人を精神異常に追い込む狂気の根源」となっているかのように主張し、それを口実に、あたかも聖書の御言葉だけでは不十分であるかのように、キリスト教の中に聖書にはない「何か」を巧みに持ち込み、つけ加えることにあると言えよう。

彼らがキリスト教につけ加えようとしているその「何か」とは、聖書の二元論という「父性原理」を骨抜きにするための「母性原理」である。
 
彼らの理屈によると、キリスト教では、何が善で何が悪であるかを厳しく区別する父性原理の二分性が人間を苦しめ、狂気に追いやっているという。そして、「キリスト教は、あまりにも厳しすぎる区別をもうけたがために、人間を狂気や精神異常に追いやる宗教となった。そこで、そのようなことの起きない、人にやさしいキリスト教を新たに作り出さねばならない」と主張し、そのために、キリスト教は父性原理の二元論を廃し、物事に区別をつけずにすべてを慈愛によって優しく包容する、母のような寛容さを補うべきである、と言うのである。

こうして、ペンテコステ・カリスマ運動は、まずはキリスト教を「ディスカウント」し、もともと聖書にはない「何か」を、あたかも聖書の教理に補われるべき要素であるかのように主張して、「慈愛」や「慈悲」などの美しい言葉を口実に、キリスト教を骨抜きにするような、すべてを曖昧にして包容する「母性的要素」を、キリスト教につけ加えよと要求するのである。
 
だが、当ブログの読者であれば、このような形でキリスト教に「母性原理」をつけ加えると、どういう恐るべき結果がもたらされるかは、あえて説明しなくとも了解しているものと思う。

それでも、キリスト教の「父性原理」に、キリスト教にはない「母性原理」をつけ加えようとすれば、何が起きるのか、それを「家庭内紛争」にたとえながら、あえて説明したい。

家庭の中で、父は、一般的に、規則や権威を象徴する存在である。そこで、ある家で、父親が子供に向かって「宿題はかならず毎日夜の8時までには終えて、夜9時には就寝しなさい」というルールを定め、子供がルールを破った場合には、罰を受けなければならないと定めたとしよう。

しかし、子供がルールを破り、父親が叱責と罰を加えようとする度に、母親が飛んで来て、「お父さん、あなたの決めたルールはあまりにも厳しすぎて理不尽で、それを理由に子供を罰するなんて、残酷すぎます。そんなにまでも、すべてをはっきりさせる必要が本当にあるんでしょうか。あなたはいつも小さなことで目くじら立てては、子供を叱っていますが、あなたのやり方では、子供は委縮してしまってのびのび成長できません。教育上有害です。」などと言って、毎回、子供をかばったら、その子はどのように成長するだろうか。

母親は子供をかばってさらに言う、「お父さん、今日、この子は宿題をまだ終えていないのに、あなたは9時だからもう寝なさいと言いますね。でも、それじゃあ、この子は明日、学校で、宿題を忘れたと言って、友達の前で、自分だけ恥をかかされ、先生から怒られなければいけなくなるんですよ。あなたはこの子が友達の前で恥ずかしい思いをして、それが原因でいじめられるようになっても、何とも思わないんですか? あなたはそうやって、いつも規則を守ることの方が、人間の感情よりも優先されるべきだと言いますが、あなたは私から見れば、規則を口実にして、ただ子供に対して威張り散らして、鬱憤晴らしをしたいだけなんです。そんな動機で、可愛い我が子を危険にさらすことは私には許せません。この子の宿題は私が代わりにやってあげますから、あなたは何も言わないで下さい。私はあなたの定めたルールにも、罰をもうけることにも反対です。」

母親がこんな風に主張すれば、家庭の秩序は成り立たなくなる。おそらく、子供は父の権威を侮るようになり、父を平然と見下げるだけでなく、父は自分の幸福を願っておらず、いたずらに権威を振りかざして自分を威圧し、罰しようとしているだけなのだと考えて、父を憎むようにさえなるだろう。そして、自分が恥をかかず、心傷つけられず、罰せられないで済むように、自分に都合の良いことを言ってくれる母の言うことだけを聞くようになり、母にべったりと甘え、そのうち、自分はどんな過ちを犯しても、決して罰を受けることなどないと高をくくるようになり、一言で言えば、途方もなく甘やかされて、駄目になってしまうに違いない。

このように、ルールを定め、それによって物事の是非をはっきりさせて、ルールを破ったものには罰をもうけるという、父性原理に基づく二元論的な考え方と、何もかも白黒つけずに「母のような慈愛によって」包含しようとする母性原理に基づく考え方は、決して相容れない。このことからも、キリスト教に「父性原理」と「母性原理」を同居させようとする試みは、決してうまくいくことがないと言える。そのようなことをすれば、キリスト教は骨抜きにされ、崩壊するだけである。
 
にも関わらず、ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教の「父性原理」が悪の根源であるかのように主張して、これを否定して、そこに「母性的な要素」をつけ加えることで、キリスト教の「残酷さ」や「偏狭さ」を改革できると言うのである。一見、その言い分は、「愛」や「憐れみ」にカモフラージュされているため、人の耳には心地よく響くであろうが、その教えを受ければ、信者はもはやキリスト教徒ではなくなり、異端の教えによってすっかり自己を肥大化させられた、およそ信者と呼べないばかりか人としても駄目な人間になってしまうだけである。
 
一言で言えば、ペンテコステ・カリスマ運動は、それ自体が、キリスト教に偽装しつつも、キリスト教を骨抜きにして崩壊させるために登場して来た異端の教えなのである。そして、この運動が主張する「母性原理」なるものの起源も、東洋的な非キリスト教的異教にある。

これまで確認して来たように、ペンテコステ・カリスマ運動がキリスト教に足りないと言って導入しようと試みている「母性的要素」とは、もとを辿れば、非キリスト教・異教的な宗教哲学から受け継がれた母性崇拝に由来する。

多くのオリエント・東洋宗教哲学においては、キリスト教のように、「父なる神」が万物を生み出したとは考えられておらず、万物の生命の源として、女性原理の象徴である「神秘なる母性」が讃えられる。(この「母性原理」は、様々な宗教神話において「女神」の形を取って現れたり、あるいは、必ずしも人格を持たない万物の生命の源として「神秘なる母性」、「神秘なる混沌」などと呼ばれる。老子はこれを「玄牝」と呼んだ。)

早い話が、ペンテコステ・カリスマ運動とは、 このように異教に由来する原則を、公然とキリスト教の中に持ち込もうと試みているだけであって、この運動は、西洋的な伝統的なキリスト教と、東洋的・オリエント的な母性崇拝を混ぜ合わせて出来上がった混合宗教なのである。
 
このことを理解すれば、我々は、なぜペンテコステ運動の只中から生まれて来たカルト被害者救済活動のような運動に影響を受けた人々が、クリスチャンに向かってしきりに「精神異常者」のレッテルを貼って中傷しようとしているのかを理解できるだろう。

彼らは、たとえば、完全に健康な筆者に向かっても、何の根拠もなく、「立ち直り不可能な人格障害に陥っている」かのような決めつけを長年に渡って行って筆者を中傷しているのだが、こうして彼らがクリスチャンに「精神異常」というレッテルを貼りたがる背景には、そもそもペンテコステ・カリスマ運動が、「伝統的な西洋的キリスト教は、人間を狂気に陥らせる宗教だ」とみなして非難していることが挙げられる。

つまり、この運動が、聖書に基づく純粋なキリスト教そのものにあたかも重大な欠陥があって、それがために「父性原理ばかりが強すぎるキリスト教が、人を狂気に陥れている」かのように主張しているからこそ、その運動の支持者たちは、キリスト教だけでなく、聖書に忠実に従うクリスチャンたちにも、「狂気の宗教」を信じる「精神異常」のカルト信者といったレッテルを貼り、さかんにディスカウントしているわけなのである。

ペンテコステ・カリスマ運動は、あたかもキリスト教の一派のように、プロテスタントの中で座を占めているが、以上のようにキリスト教をディスカウントして聖書にはない新たな要素をつけ加えるよう主張している人々が、クリスチャンであろうはずなく、この運動は、ただキリスト教に偽装して、キリスト教を内側から骨抜きにして破壊するために登場して来た、根本的に異端の教えなのである。

彼らは、(彼らに言わせれば)「狂気を生み出す根源」でしかないキリスト教の父性原理(二元論、御言葉による切り分け)を攻撃して否定し、御言葉に忠実に従うクリスチャンに狂気のレッテルを貼って、真にクリスチャンを駆逐したいがためにこそ、日夜、以上のように根拠もない印象操作や人格攻撃にいそしんでいるだけなのである。そのような異常な一群を生み出すペンテコステ・カリスマ運動が、聖書を土台にしていないことは明々白々である。

しかし、終末においては、このようにキリスト教の装いをした忌むべき混合宗教が、世界規模で登場することになると予告されている。それが聖書の黙示録に登場する「大淫婦バビロン」であり、彼女が「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも、バビロンとは、キリスト教と、それとは異質な異教的な要素の混合物であることが分かる。

その「混ぜ物」こそ、東洋・オリエント的異教に由来する母性崇拝の原理であって、ひいては、人間を神とする反逆の思想なのである。


・ペンテコステ・カリスマ運動は、「母」の罪を擁護し、私生児として生まれた「父なし子」を「神の家の後継者」であるかのように詐称するグノーシス主義神話に基づく「神の家の乗っ取り運動」である
 
さて、ここで、非キリスト教的異教が「母性崇拝」を掲げていることは、決して意味のないことではないと断っておきたい。

聖書によれば、万物を生み出したのは「父なる神」であって、母性原理は生命の源ではない。

聖書では、キリストを生んだ処女マリアを例にとっても、彼女はあくまで聖霊によってみごもったのであり、彼女の「女性原理」がキリストを生んだわけではない。イサクを産んだサラも同様で、父なる神の「約束」があって初めてイサクが生まれた。黙示録には、龍に迫害されながら、男の子を生む女が登場するが、この女も、諸説あるとはいえ、母なるエルサレムや、エクレシアを象徴していると考えられており、エクレシアがキリストに属する御霊の実を生むにあたっても、やはり単独で子供を生めるわけでなく、必ず、そこには御霊による働き、御言葉に基づく約束がある。

聖書において、これらの女たちが幾度も「夫のない女」「一人残された女」「産まず女」などと、蔑称のような言葉を用いて、霊的に独身・未婚であると強調されているのは、彼女たちには、キリストを抜きにして自分の力では決してまことの生命を生み出す力がないことをよく表していると言える。

つまり、聖書においては、生命を生み出す根源は、常に神の側にあり、被造物それ自体には、キリストとの結合なくして、自力でキリストに属する産物を生むことは決してできないのである。

ところが、カリスマ運動の指導者の手束正昭氏は、すでに見て来たように、聖霊を「母なる霊」と定義することによって、「父なる神」と「母なる聖霊」と「子」の「三位一体」という、聖書には全く記されていない異常な教理を主張し、あたかも、キリストが「父なる神」という父性原理の象徴と、「母なる聖霊」という母性原理の象徴との結合の結果として生まれたかのようにみなし、「母なる霊」という呼び名で、異教に由来する母性崇拝の原理をキリスト教に偽装して持ち込もうとする。

このような異端的な教説では、まだ「母なる霊」が単独で子を産み出したまでは言い切られていないが、聖書にはない「母性原理(母なる霊)」がつけ加えられることによって、神の独り子であるキリストが、あたかも「母なる霊」によって生み出されたかのように主張されている。

こうして、手束氏の考える「キリスト教」には、東洋・オリエント的母性崇拝の思想が公然と持ち込まれ、それによって聖書の教理までがすっかり変質させられているのである。

そして、これまでにも書いて来たように、このように生命を生み出す根源が、あたかも「母性原理」にあるかのように唱える主張は、異教に由来するだけでなく、もとを辿れば、グノーシス主義に起源がある。

グノーシス主義には、すでに述べたように、共通して、女性人格が単独で生命を生み出すという神話的プロットがある。そこで、万物の生命の根源があたかも女性原理にあるかのように唱える異教的な思想は、大きく見れば、すべて根源的にグノーシス主義を土台にして成り立っていると言える。

このように、異教的な思想が、「父性原理」よりも「母性原理」を高く掲げるのは、神と被造物との主従関係の逆転するためであり、結論から言えば、異端とは、唯物論的な被造物崇拝の教えなのである。
 
聖書によれば、神は人類をご自分に似せて、ご自分の助け手として創造された。そこで、人類は神に対して霊的に女性の立場にある。また、聖書においては、男が先に創造され、男をもとに女が造られている。

だが、すべての異端的思想は、この正当な秩序を覆し、神によって創造された被造物に過ぎない人類(霊的に女性)を、あたかも創造主であるかのように主張し、神以上に高く掲げる。

東洋的な異教が「女性原理」を「父性原理」よりも高く掲げようとするのは、その背景に、「本来は神に似せて、神から生み出された被造物に過ぎない人類を、創造主である神以上に高く掲げたい」とする欲望があるためである。

フェミニズム神学(およそ異端なので本当は神学という名に値しないが)は、「女が男から造られた、男よりも弱い被造物だという聖書の記述は、女を男の付属物に貶める男尊女卑の考えであって、誤りである」などと主張して、聖書の記述を否定する。

母性原理を高く掲げる異教的な思想もこれと同じ理屈を用いて、「人類が神によって、神に似せて創造された被造物だという考え方は、人類を神よりも劣ったものとみなしている点で、人類に対する許しがたい差別・蔑視であって、事実ではない。我々はキリスト教の神による人類へのこのような蔑視を決して認められない」と主張して、神と人類との関係を逆転しようとしているのである。

このように、東洋的な異教の思想において誉めたたえられている「女性原理」とは、文字通りの女性を指すのではなく、被造物全体、もっと言えば、神の被造物としての人類全体を象徴しているのだと言える。そして、ペンテコステ・カリスマ運動のような思想が、キリスト教の「父性原理」の中に「母性原理」を持ち込むことで、両者を競合させ、最終的には「母性原理」によって「父性原理」を骨抜きにし、駆逐して行こうとしていることにも、創造主と被造物との関係を逆転させようという意図が込められている。

そこで言われる「父性原理」とは、父なる神を指している一方、「母性原理」は人類全体を指しており、結局、ペンテコステ・カリスマ運動も、神によって創造された被造物に過ぎない人類を、神と対等か、神以上に高く掲げ、人類を神と同一視して、聖書の父なる神に反逆して、創造主と被造物の関係を逆転させようとしている教えなのである。
 
このように、東洋思想が「女性原理こそ万物の生命の源」であると主張していることには、結局、「我々人類は、誰の手にもよらずに単独で生まれた独立した存在であって、誰の被造物でもない。そして、我々自身が、神のように、単独で生命を生み出す力を持つ、神に等しい存在なのだ。」という主張が込められているのである。

そして、このような東洋的な母性崇拝をキリスト教に混ぜ込んで出来上がったペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた人々は、その教えがもたらす当然の結果として、聖書が教える「人類は神によって造られた被造物に過ぎず、創造主である神に服する義務がある」という基本原則に反抗して、被造物である自分自身を「神」として最高の地位につけようと高く掲げるようになり、自画自賛に溺れて行くのだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教にそのような悪しき結果をもたらす致命的な毒素としての「女性原理」を受け入れよと迫っているのである。

(ちなみに、筆者はペンテコステ・カリスマ運動のみならず、「エクレシア崇拝」に陥ることも、以上と同様の反聖書的な考え方であるとみなしている。クリスチャンが自分たちの集会を絶対化したり、賛美するようになれば、それ自体が偶像崇拝に該当する。エクレシアであろうと、何であろうと、被造物に過ぎないものを、キリスト以上に高く掲げることは、すべて「女性原理の崇拝」と同じなのである。)

さて、これまで、グノーシス主義には「女が単独で子を産む」という聖書に反する考え方があると記した。グノーシス主義には神話はないが、神話的プロットと呼んでも差し支えないような共通の筋書きがあり、大きくまとめると、それは以下のようになる。

➀ 万物を生み出す「まことの父(真の至高者)」の能力を見て、「女性人格」がそれを嫉み、自分もその能力が欲しいと願う
② その結果、「女性人格」が規則を破って、「男性人格」の参与なく、単独で子を産む
③ 「女性人格」はその違反の結果として天界から転落しかかり、違反の結果生まれた「子」も転落して醜く愚かな「悪神」となって下界を支配する
④ しかし、「女性人格」が単独で生んだ「子」(悪神)の子孫である「人類」は、悪神よりも賢く、知識の啓示を受けて、自分には「まことの父(真の至高者)」に由来する「神聖な霊の欠片」が受け継がれており、自分の本当の父は「悪神」ではなく、「まことの父」なのだと気づく。
⑤ 人類は、こうして自分が「まことの父」の子孫であると自ら名乗り出ることによって、「母の過ち」を修正し、「母子」ともに天界へ復帰する。

このような物語では、第一に、女性人格が単独で子を生むという違反を犯すことによって、万物の生命を生み出す力は、誰にあるのか、「父なる神」にあるのか、それとも、「母なる神」にあるのかが全く分からないという混乱が持ち上がる。

そして、さらに、人類は、女性人格が単独で生んだ子の子孫であるとされることによって、人類は事実上、父がいないも同然の存在(父を喪失した存在)となる。

だが、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生んだということは、より深い文脈では、グノーシス主義が、「人類とは、聖書の神によって創造された被造物などでは決してなく、誰にも創造されることなく、自力で生まれた独立する存在なのだ」と言わんとしていることを意味する。

グノーシス主義は、旧約聖書における神を「悪神」とみなし、これをヤルダバオトとか、デーミウルゴスなどと呼び、無知で愚かな神として徹底的に侮蔑する。グノーシス主義のプロットによれば、この「悪神」こそ、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生むという違反に及んだ結果生まれた、醜く、愚かな、出来そこないの「神」である。

この「悪神」は、出来そこないの醜い産物であるにも関わらず、身の程知らずな思い上がりに陥って、自分こそ至高の神であり、他の神はないと思い込み、「わたしの他に神はいない」「わたしは妬む神である」などと豪語しながら、「神」の称号を不当に独り占めしていると、グノーシス主義は言う。そして、悪神であるがゆえに、彼の創造した被造物はすべて醜く不完全で、それゆえ、地上は不幸に満ちていると言うわけである。

グノーシス主義はこのようなフィクションを作り出すことにより、聖書が「神は唯一である」と述べていることを嘲笑し、聖書の神が「妬む神」であって、決して神という称号を他に明け渡すことがないという事実を徹底的に否定・侮蔑・嘲笑しながら、聖書における神を、醜く愚かな「悪神」にたとえて冒涜する一方、その悪神の子孫であるはずの人類を、悪神よりも賢く高貴な存在として描き、人類こそまことの「神」の子孫であるから、悪神を否定的に超えて天界に復帰できると主張するのである。

だが、このようなものは随分虫の良い身勝手な話であって、額面通りに受けとる方がどうかしていると言えよう。

グノーシス主義の以上のような神話的プロットでは、いくつもの論理破綻と言っても良い規則破りが犯されている。

まず第一に、グノーシス主義においては、あらゆる概念が「対」としてとられ、単独では完全でないとされているにも関わらず、女性人格であるソフィアが、対となるべき男性人格の了承なくして、単独で子を産みたいと願い、実際にその行為に及ぶ時点で、「対」の原則が破壊されている。

次に、その「母」である女性人格は、単独で子を産むという「違反行為」を犯したわけだから、普通に考えれば、その結果、生まれた「子」は、誰を「父」としているのか分からず、それを立証する手立てもないはずである。要するに、その「子」は私生児である。

グノーシス主義の一部の物語によれば、人類は、女性人格が違反を犯して単独で生んだ悪神から生まれた子孫であるだけでなく、悪神が自分を生んだ母を知らずに凌辱して生まれたのが人類だという。単なる「私生児」であるだけでなく、あまりにも悲劇的な生い立ちである。

にも関わらず、グノーシス主義においては、そのような「悪神」によって創造された素性も知れない「人類」(ソフィアが違反の結果生んだ愚かで醜い「悪神」の子孫)が、どういうわけか、悪神よりも上位の神の似像として造られ、その息を吹き込まれているため、悪神を超える存在であり、「神聖な知識の啓示」を受けて、自分は天界にいる「真の至高者(真の父)」のDNA(「神聖なる霊の欠片」)を受け継ぐ神聖なる存在であると気づくことによって、「真の父」の後継者であると自ら名乗り出て、「母の過ち」を修正して、「母子」ともに天界に復帰するのだというのである。

このような話を聞いていると、この「母子」はどこまでも得体の知れない存在だと思わずにいられない。

なぜなら、グノーシス主義が、「人類」は「真の至高者」の子孫であると主張していることには、いかなる客観的な根拠も存在せず、その神話的なプロットの中でさえ、「真の至高者」の側からの「子」への承認や賛同(認知)はなく、「人類」が自分は「真の至高者」の子孫であると主張しているのは、完全に自称の域を出ない、思い込みのような話でしかなく、極言するならば、詐称と呼んで差し支えないほどに疑惑に満ちた主張だと言えるからなのである。
  
そして、人類が本当に「真の至高者」の子孫だというならば、「真の至高者」がそのプロットに登場して、自分の子として人類を認知しないのは一体、なぜなのかという疑問が生まれよう。しかし、グノーシス主義における「真の至高者」とは、そもそもそれ自体が、あたかも人格を持たない虚無の深遠、混沌のような概念であるため、この神話は初めから「真の至高者」の存在や意志など全く無視して出来上がっていると言えるのである。

こうして、グノーシス主義の神話的プロットでは、どこまでも「父」がないがしろにされ、「母」だけが重んじられる一方的なストーリーが展開されるが、こうして、「父」からの承認や応答を一切抜きにして、「違反」を犯した「母」と、「知識の啓示」を受けたと自称する「子」だけが、何一つ客観的な証拠のない、思い込みのような主張により、自分たちは「まことの父」の正当な子孫であるから、神の家に復帰させよと主張して、「母の過ち」を正当化し、母子ともに名誉回復して幸せになろうと目指す、というのが最終目的なのだから、こんな話はあまりにも眉唾ものと思われるのである。

一言で言えば、この話は、家の相続権を巡る争いであるが、一目見ても、これほど素性の分からない「母子」に本当に「真の至高者」の子孫として名乗り出る資格があるのかという疑いが生じるのは当然である。
 
さらに、このような出生の汚点を抱えて生まれた「子」としての人類は随分、不幸な存在である。まず、「母」が極めて身勝手な存在であり、「母」は自分の過ちによって、不幸な出生の「子」を誕生させた上、自分の名誉を挽回するために、「子」を生涯、自分の欲望の道具として束縛してしまう。「子」は、「母」をかばって自分のルーツを正当化し、出生の汚点を取り除くためには、「母の過ち」を修正するために生きるしかなく、証拠があろうとなかろうと、自分が「真の至高者」の子孫であると名乗り出るしか手立てがないという状況に置かれている。この「母子」は不幸な運命共同体であって、こういう状況に置かれている限り、「子」には「母」から自立できる見込みは全くない。

この物語では、「母」の過ちによって、すべてが狂わされたにも関わらず、その過ちがとがめられることもなく、罰せられることもなく、その後、屁理屈のような主張が延々と積み連ねられることによって、「母の過ち」修正して正当化することが最終目的であるとされ、そのために、人類が存在するとされ、連綿と不幸が生み出されているのである。

この物語だけを眺めても、本当の「犯人」は決してグノーシス主義が徹底的に侮蔑する「悪神」ではないだろうと思われて当然である。なぜなら、この「悪神」も、ソフィアの過失のために誕生した不幸な産物に過ぎないためである。にも関わらず、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、その「悪神」だけが悪者とされ、ソフィアの過ちが咎められず、人類の使命が「母の過ちを修正する」ことにあるとされているがゆえに、この物語はどこまで行っても不当な主張に満ち溢れた荒唐無稽な内容なのである。
 
このように得体の知れない「神話」が、キリスト教に偽装して、キリスト教の中に公然と入り込んで来ると、当然ながら、真にキリストによって生まれ、神の国の正統な後継者たる神の子供たちが、迫害される結果になるのは避けられない。信仰もなく、キリストによって生まれた事実もなく、場合によっては、聖書の父なる神をさえ信じていない、全く素性の明らかでない人々が、公然と神の家(教会)の後継者を詐称して、神の子供たちであるクリスチャンたちを脅かし、駆逐するようになるのは避けられない。

「父」を裏切ってひそかに誰の子とも知れない子を産んだ「母」と、誰を「父」としているのかも分からない「子」がタグを組んで、自分たちこそ神の正当な子孫であって、神の家の正当な後継者であるかのように主張して、天界に復帰を企てるというグノーシス主義的な「神話」が、キリスト教の中に入り込むと、結局、真に聖書に従うクリスチャンたちを迫害し、教会から追い出して、神の家を乗っ取ろうとする運動が生まれるのは当然である。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教に「母性原理をつけ加えよ」と主張することによって、以上のような悪しき目的を果たし、正当な資格がないにも関わらず、不当に神の家を乗っ取ろうと目論んでいるのだと言える。この運動は、本来的にキリスト教に属さない、聖書の神に属さないはずのものを、あたかも正当なキリスト教であるかのように主張して、神の家を乗っ取り、堕落させるために生み出された運動なのである。

だからこそ、カルト被害者救済活動などという恐るべき忌むべき運動も、ペンテコステ・カリスマ運動の只中から生まれて来ているのである。

カルト被害者救済活動が目的としているのも、結局は、「母の過ちを修正すること」、すなわち、人類の罪を、人類が自力で修正することなのである。

この運動は、何らかの原因があって、教会生活につまずき、信仰生活につまずき、聖書の神への信仰を捨て、教会やクリスチャンに恨みを持った人々が、信仰がないため、本来は、教会の一員となる資格もないにも関わらず、自分たちの被害者意識を口実にして、教会を責め、クリスチャンに罪悪感を持たせることにより、自分たちを教会の一員として受け入れよと迫っているのである。

教会はキリストの十字架の贖いを通して罪赦され、贖われた人々のものであるはずなので、信仰のない人々には無縁であるはずだが、この人々は、贖われていないか、贖いを自ら否定しているのに、被害者意識を口実に、自分たちが神の家に入り込む資格があると主張して、自分たちを神の子として「認知」するよう、クリスチャンに迫っているのであるから、このようなものは、神の家の乗っ取り運動である。

このように神の家の正当な相続権を持たない「私生児」が、信仰もないのに、教会を占拠し、正当な相続権を持つ神の子供たちであるクリスチャンを脅かし、迫害し、負い出しているのである。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動の教義の異端性を考えるなら、この異端的運動の只中から、こうした極めて異常な歪んだ「救済運動」が生まれて来たのも、まさに必然と言える。

さて、ここまでは、これまでの記事においても幾度か述べて来た内容と重なるが、ここから先は、「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション」(大田俊寛著、春秋社、2009年)という、このテーマを掘り下げるに当たり、議論の材料を与えてくれそうな極めて興味深い文献なども参考にしながら、ペンテコステ運動のグノーシス主義的起源をめぐる議論の中核にさらに迫っていきたい。

だが、結論から述べておけば、「父性原理を重んじ、母性原理をないがしろにする伝統的なキリスト教の二元論が、人間を狂気に追い込む原因となっている」などというペンテコステ・カリスマ運動の主張は、完全な偽りであって、笑止千万な荒唐無稽である。

むしろ、真実は、それとは全く逆であり、以上のような論理破綻したグノーシス主義的「神話」こそ、人間の精神を著しく害し、精神異常に追い込む狂気の根源なのである。

すでに述べたように、母性崇拝(女性原理の崇拝)の思想とは、被造物である人類が、あたかも創造主であって、自分自身が神であるかのように唱え、まことの神に反逆する反聖書的な思想のことなのであるが、グノーシス主義はまさにそのような聖書に対するすべての反逆的思想の土台となる思想である。

そして、グノーシス主義の「神話」とは、罪を犯した者が決して己が罪を認めず、過ちの責任も取らずに、本来、罰せられて然るべきにも関わらず、罰を免れて自己正当化をはかり、堕落したルーツしか持たない者が、そのルーツをごまかして、自分を神の子であると詐称して、自己正当化をはかるために作り出された終わりなき嘘であるため、この「神話」では、一つの嘘をごまかすために、次の嘘が作り出され、そうして人類が自分のルーツをごまかすために、果てしなく嘘で塗り固めた「創作神話」が述べられ続けているのである。

そのような荒唐無稽な神話に没入して行った挙句、その人の精神の正常性が保たれることはまずない。

繰り返すが、聖書の二元論が人を狂気に追い込むのではなく、グノーシス主義的荒唐無稽な神話が、人を狂気に追い込むのである。だからこそ、この異端の影響を受けたペンテコステ・カリスマ運動からは、至る所で、眉をひそめるような混乱が引き起こされ、また、カルト被害者救済活動のように、信仰を持たない人間から見ても、全く異常であるとしか言えない運動ばかりが登場し続けているのである。

<続く>

PR