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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

キリスト教界内の問題は今、激戦を極めており、宣戦布告につぐ宣戦布告がなされている模様ですが、こちらではこれ以後、その話題はお休みしたいと思います。

アンチ・テーゼは、それ以上のものには決してなり得ませんし、役目を果たし終えると消滅していきます。何かに対して石を投げるという作業は、建設のために石を積む作業とは違います。そのことを肝に応じておくために、私はこのブログを期限付きのものにしようと決意しています。
言うべき事柄を言い終えたら、自分の生きる場所で建設作業に向かうために、新しい仕事に取りかからねばなりません。そろそろこのブログも終わりに近づいているかと思います。

キリスト教界がもし自分自身の力で襟を正すことさえできれば、個人が自分の言葉で教界を批判する必要はありません。そのような自浄能力が教界にありさえすれば、誰しも裁判に訴えられる危険性まで考慮しつつ、この教界に向けて警告を発する必要はないことでしょう。

聖職者の中には、自分に不利な情報を載せられたからと言って、あちこちで個人の立ち上げたブログを叩いている人たちが一部、見受けられますが、反論されたいならば、自分自身の責任においてブログを立ち上げるなり、HPを作るなり、新聞やパンフレットを印刷するなりされればそれで済むことです。

ところが、自分が裁判に訴えられることを恐れるがゆえに、自分個人の責任では何も発言しようとせず、他者が書いたものに便乗して匿名で人を非難するような臆病な姿勢が多々見受けられることは残念です。それは、日々講壇に立って公に人を教える聖職者には全くふさわしくありませんし、世間一般から見ても、大変、卑怯な態度と見られておかしくありません。そのような行為を個人は控えた方が良いと私は考えます。

そして、何よりも、キリスト教界の中に適切な情報公開の場がないからこそ、クリスチャン個人が自分の力で情報を公開したり、情報を入手したりせねばならない現状があるのです。キリスト教界内に、中立的で、公平な報道ができ、客観的な立場からものを言うメディアを作り上げる努力が、今後、ぜひとも必要です。

カルト撲滅のための機関を作るよりも、各教団の中で、信徒からのフィードバックをちゃんと受けつけながら、透明性ある情報公開ができる場所を設けることの方が早急に必要とされているのではないでしょうか…。

さて、最近、「キリストのみが完成者である」ということを私は強く心に憶えました。「キリストの肢体」であるキリスト者の集まりに期待する気持ちは、カルト化教会に裏切られて以後も、私の心からなかなかなくなりませんでした。今でも、組織優先ではない、自由でさわやかなクリスチャンの集まりが地上のどこかにあって欲しいという願いは消えません。

けれども、どんなに小さな集団でも、人間集団である以上、間違わないという保証はどこにもないことも事実です。自分の心の中にある非現実的で身勝手な欲望を、権威者やリーダー、またはある集団に投影し、そのかなわぬ夢のために虚しく奉仕したり、誰かを現人神のように拝するという失敗は、一度で終わりにせねばなりません。

クリスチャンがよく使う、「私たちは」という言葉が、個人的に私にはとても嫌なものに感じられます。「私たちの群れは…」、「私たちの交わりは…」、「私たちの教会は…」、「私たちの信仰は…」、「私たちの教義は…」というような文脈で、「私たち」という言葉が使われるのを何度も聞かされてきましたが、これらの表現には、どうしても、この地球上に生きる人間を、「我々」と「あなたたち」の二種類に分別し、同じ考え、同じ雰囲気、同じ嗜好、同じ主義をもった「我々」だけで団結し、それとは違った傾向を持つ「あなた」をよそに追いやってしまおうとする力が働いているように思われてなりません。

主の祈りにおいて、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と私たちが唱える時の「我ら」は、決して「私たちの団体だけ」を指すのではありません。それは人類のことであり、神を信じる全てのクリスチャンを含んでいます。それは決して、「彼ら」への対立項としての「我ら」ではありません。

人には他人と群れたいという願望があり、人が集まると団体を作ろうとする力が働きます。何とかして、傷つくことなく、安全に、群れたいとの欲求から、人は自分と異質な人間を集団から排除しようとする手段に出ることがしばしばあります。
しかし人間というものは基本的に一人ひとり、全く違うものであり、同質の者、気の合う者だけで仲良くやろうというプランは決して実現できませんし、そのような考え方は集団のあり方を健全な方向へは導かないでしょう。

主はあえて私を打ち砕くために、全く異質な集団の中に私を遣わされたことが何度かあったのだろうと思いめぐらします。けれどそのような「テスト」の中で、私は常にテストの意味さえ分からないまま、落第点を取り続けてきただろうことも想像できます。
傷つきたくない、非難されたくない、失敗したくない、嫌な思いをさせられたくないという恐れのために、何とかして安全に群れられるその保証として、同質と思われない者は極力、避けようとする行為に走ってしまいがちです。

けれどそのような「同質を求める気持ち」が、ある集団の教義となり、主義となり、思想となり、信仰告白となり、教会の建物となり、団体の名前になり、バッジになっていき、さらに、それが極端な「バッジ主義」としての民族主義やら、排外主義やらにまで発展していくのです。「同じカラー」で染まろうとする人々、他人も同じカラーに染めなければ気がすまない人たちを見る度に、私の心に沸き起こる不気味な感じは消えることはありません。

健全な交わりを望みながらも、カルト化教会という最悪の場所に「導かれ」(不信仰ゆえの部分が大きいですが、それもまた最後には主のご計画の中で統合されるであろうと信じます)、怒涛のような日々をくぐり抜けて、都会を離れ、暮らしているうちに、最近、信仰とは極めて個人的なものであって、横のつながりによって維持できる部分は信仰のほんの一部でしかないということに思い至りました。

キリスト教界内の争いを見て、何一つ信用できそうなものが見当たらず、「一体どこの誰なら信用できるんだろう?」と暗澹たる気持ちで考えた時期もありましたが、そのようなことを思っている時に、心に迫ったのは、「完成者はただキリスト一人のみである」という強い言葉でした。

「完成者はただキリストお一人である。」
そのことに気づくまで、「誰も信用できない」と考えることにためらいを感じていました。「これは信用に値しない」と、どんなに理性で結論が出ていることがあっても、どこかで、そのような究極的な結論を出すことをためらい、あるいはそのような結論を出すことは、私自身が、人を信じられない疑心暗鬼な人間であることの証明とされるのではないか、という後ろめたさを覚えることもありました。「こんなに疑ってばかりではどこに希望があるのだろう?」、「そんな考えではどんな社会にも絶望するしかないのではないか?」と、どこからか私を試みる声が内側にありました。

けれども、「キリストだけが完成者である」ということを心に留めた時、疑心暗鬼を後ろめたく思う心は消えました。誰のことも無理に信用しようとする必要などないのです。人間は皆不完全で罪深い存在でしかないことを心に留めることの方が、安易に信用することよりはるかに重要です。
信用に値する人間が見当たらなくなった時、世の中がたとえどんなに真っ暗に見えたとしても、そこで無理に笑顔を取り繕って、明るく希望に満ちた言葉をそらぞらしく述べる必要はなく、ただ完成者であるイエスだけを見上げて生きて行く姿勢があれば良いのだと、頭では分かっていたことが、心でも納得でき、疑問が晴れました。

あらゆる宗教が、世界とは「苦」であると述べています。伝道の書もそう言いますし、仏教もそう言います。以前には、毎日を何の不安もなく、明るく楽しく暮らしている人々がいると、自分もそのようにならなければいけないと思い、世界を「苦」と感じるような自分の感覚こそが、おかしいのではないかと疑うこともありました。今は「苦」であるものを、あえて「楽」であるかのように見せかけることの方がおかしいのだと思います。

興味深いことに、仏教では、悟りの境地に達せられたのは釈尊のみであるが、釈尊も未だご修行中の身としています。釈尊すら「修行中」の身であるとは、何とも、驚きではありませんか! 仏教の悟りとは何と永遠にも近いものなのでしょう!?

けれども、私はキリスト教の人格的完成も決してこれに劣るものではないと思っています。私は個人的に、生命の本質は「永遠」と「変化」にあると考えています。つまり、生命は永遠という気の遠くなる時間の中で、常に新しく変化するものなのです。

人が死ぬということはこの地球上では数少ない絶対的な事実の一つです。にも関わらず、人間には生まれつき誰一人として、死ぬことを自然に受け入れられる心境が備わっていません。人類が何万年もかけて生成と死滅を繰り返しながらも、未だ死に慣れられないでいるというのは、何とも不自然な話です。それは、そもそも人間には、神に生み出されたあらゆる生命と同じく、「永遠」を思う気持ちが備わっているからなのではないでしょうか…。

あらゆる命は永遠を目指すのです。たとえ限りあるこの地上に、期限付きで生かされているだけの存在であることをどんなに理屈では知っていても、永遠を志向することをやめられないのが、生命なのです。それは生命は本来的に永遠だからだと私は信じます。
死というものは、聖書的に見るなら、人間の堕落後に入り込んできたものであり、生命の本来的姿ではありません。

「永遠」と言うと人には何だか退屈に思われることがあります。「天国とは人間が神を永遠にたたえる場所である」と言われると、敬虔なクリスチャンでさえ、思わず「永遠に神をたたえるなんて、退屈なイメージじゃないか…」と思うことがあります。それは、人間が決して一枚の静物画の中におさまりたくない生き物だからです。人間には常に「変化」を望む気持ちがあります。人間の感覚においては、天国にも変化があって欲しいのです。

そして私は、天国にも変化があるだろうと想像します。どんなものになるかは分かりませんが、この地球上で奏でられる交響曲の第一楽章が、短調のまま壮大なフィナーレに突入し、燃え上がって終わった後で、長調の、静かで美しいメロディーが二楽章をかなで始めるのです。どんな二楽章なのでしょうか? 判断材料はほとんど与えられていません。私たちはまだ一楽章の時を生きており、それを演奏するだけで精一杯なため、先のことを知る由もありません。でもきっとそれは最高に美しい、そしてドラマチックな二楽章になるに違いありません。

生命の本質はきっと「永遠」であり、「変化」なのでしょう。そこで、生命の源である神もまた変化する存在なのではないかと私は思うのです。ここで言う変化とは、不完全なものが完全になるための変化ではありません。イエスは人格の完成者であり、神は絶対者であり、「昨日も今日も永遠に変わらない」存在です。その神が「ご修行中」であられるということはあり得ません。けれども、たとえ神がその特徴において決して変わることがない完成者であったとしても、生命の躍動という意味においては、神ですら、常に変化する存在なのではないか…と私は考えるのです。

旧約聖書において神は、ご自分の計画を「思いなおしたり」することのある方として描かれています。幼い頃、このような神の性質は私には不可解で、「全知全能の絶対者が何かを後悔するなんてあり得ない」と思っていましたが、これは聖書の神が決して静止状態になく、常に変化し躍動しながら、人間と共にこの地上にも生きている存在だからではないかと思うのです。変化するということは、言葉で言い表すのは難しいですが、「生きる」ことそのものなのではないかと思うのです。もしもそうだとすれば、最高の完成者である神ですら、人と共に苦しんだり悲しんだりしながら、時間の中を進んでいるというのに、この世に生きる人間が何らかの完成形としての静止状態(絶対的幸福)に達することなどあり得ないことになります。

そこで、未完成かつ移ろいやすい人間を浅はかに信用しろと私たちに迫ってくる何者かがいたとすれば、その人の考えは非常におかしいものだということになりましょう。

この世はそれでも「人を信用しろ、権威には服従しろ、不満ばかりを述べていないで、生きる希望を抱け、幸福を模索しろ」と、ひたすらこの世の明く軽い側面ばかりを強調し、私たちに「生きることは苦しいこと」であることを忘れさせ、ただ元気で、笑顔でいることを強制してきます。けれどそんな世の中はどうかしているのです。あらゆる宗教が言うように、世の中が「苦」であるなら、無理に世の風潮に迎合して明るく振る舞うなんて、大した矛盾です。

だからこそ、イエスは「貧しい人は幸いです」という矛盾したメッセージをクリスチャンに送っているのです。クリスチャンが神にあって「喜ぶ」とは、「私はこんなに恵まれて、こんなにもお金に不自由なく、健康で暮らせて、祝福されて、やりたいことがいっぱいあって、家族がいて、楽しい生活が送れて、感謝だ!」というような、当然の理由があっての幸せを喜ぶこととは違います。クリスチャンが「喜ぶ」とは、本当は「不幸でありながらも、苦難の中にありながらも、人間不信の中にあっても、貧しさの中にあっても、孤独であっても、虐げられて、喜ぶ理由が何一つなくとも、ただ主を見上げて喜ぶ」ということです。それは虐待に遭っても歯を食いしばって我慢し続けてそれを喜べとか、貧しさを甘んじて受けろとか、現状がどんなに理不尽でも抗議してはいけないとか、そんな意味ではありません。

どのような状況であっても、神は人間と共におられるということを、あなたたちは覚えて、生きる希望にしなさいということをイエスは言われた、私はそう解釈しています。
ですから、私たちは不幸なとき、その不幸を偽って、幸福であるかのように装う必要もなければ、楽しみが何一つないのに、無理やり笑顔を作る必要もないでしょう。ただ、そんな時にも、神がクリスチャンをお見捨てにはなっていないこと、そのことだけを喜べば良いのです。

カルト化教会での事件があってから今日まで、私が過ごした日々は、カルト化教会への絶望はもちろんのこと、カルト救済活動にも幻滅し、被害者との関わりにおいても、今ひとつ納得できない部分が残り、自己の人生においても、絶望すべき事柄が山のように毎日、積まれ、誰も、そして何一つ信用できないということを徹底的に思い知らされた日々でした。

その日々は、私という人間が十字架につけられて死んでいく日々でもありました。まず、以前から持っていた夢が死んだだけでなく、教会への期待も死んで行き、希望に満ちた信徒の交わりへの期待も死に、信仰の定義も一旦、死ななければならず、個人生活もまた微塵に打ち砕かれました。それまで維持してきた空白のない履歴書という概念にも死ななければなりませんでした。これに耐えることは非常に難しいものがありました。

最も大変だったのは、私自身がそれまで人生で培ってきた理想というものを全て捨てることでした。そしてこの記事を書く段になって、ようやく、私はカルト化牧師があのようであってはならなかったと主張する自己の理想、自己のものさし、自分のヒューマニズムに死ぬことができた気がします。

残念なことですが、私は自分の言葉によって誰一人の運命も変える力はありません。私が悪徳牧師に怒りを抱いて、彼の言語道断な行為を非難して、彼を変えようとして頑張っても、恐らく、その努力は水泡と帰すでしょう。私は虚しいことのために努力していることになります。
彼はあのままであってはならないという、自分の理想を、私は手放さねばなりませんでした。相手の失敗のためにどんなに大きな犠牲を払わされたのだとしても、自己の理想に死なねばなりませんでした。

これまで記事を書き続ける原動力となったカルト化教会への義憤を主の前に捨て去ることは、人間的にはとてもつらいことであり、理性では納得できない事柄でした。悪を野放しにして、どんな良い結果が世に生まれるというのでしょう? けれど、理性が拒否する一方で、それがぜひとも自分に必要なことであるということを心で理解することができました。

キリスト以外のものを義として認めることは、たとえそれがヒューマニズムであろうと、自分が思い描いた究極の理想であろうと、忌まわしいことなのです。

また、カルト化教会の問題で私の力になってくれなかったり、突き放すような台詞を口にした人々に対する悲しみと義憤も次第に去っていきました。
全ての人々が私と同じような、罪人の一人に過ぎず、私は彼らを糾弾することに一生を費やすべきでなく、一人ひとりの行いに応じて、主が裁かれるということだけを確信していればそれで良いのです。

こうして、自己に死ぬこと数ヶ月を経て、ようやく「十字架の閉じ込め」の中で、私という人間が再生(新生)を許されつつあることを感じます。自分で引用した文章の中にも、ヒントがありました。そう、悪は他人の中だけにあるのではない。悪は人類全体の問題である。そして自分にも、その根があるのだと。

「他人の中にある魔物と闘っているうちに、自分も魔物にならないように」という、ある犯罪者の言葉を、私は一生、気に留めておくことでしょう。事実、その通りだからです。「私は間違わない」という確信に立ったが最後、どんなクリスチャンも、それまで積み上げてきたあらゆる実績をたちまち失って、人格が崩壊していくことでしょう。

どんな集団にも情報公開の作業は確かに必要です。個人の横暴に対しては、勇気を持って抗議すべき場面が往々にしてあります。黙っているだけではいけません。個人が正義を振りかざすことが僭越だとか言って陰に隠れている場合ではありません。個人の理想など巨悪の前には無意味だとか、卑怯なごたくを述べて沈黙すべきでない瞬間が人生には多々あります。
腐敗した教会の問題を見過ごしにせず、危険な情報があれば随時、一般に公開していくことは、クリスチャンに与えられた使命の一つでしょう。

正しいと信じることを主張することに何も問題はありません。非難すべきことを非難するということに問題はありません。しかし、何か一つのあるまじき事柄に抗議するということと、その抗議を全生涯をかけて実現すべき目標、信念、主義にまで発展させて、自己の無謬性を確信しながら、「あらゆる悪との闘い」に乗りだしていくことは、全く意味が違います。

強い理想を持っている人ほど、悪を見逃せず、悪との対決が全人生の課題となってしまうようなことがしばしば起こります。中には一見、自分の人生の課題に立ち向かっているように見えても、実は、巨悪との闘いに飲み込まれて、個人としての人生を奪われているだけの場合があります。人間は一人ひとり、自分が置かれた場所で、個人の人生を生きるべきです。「苦しみのない幸福社会」を目指して、生涯、悪事と闘う選択肢を選んだ者は、そのことで自分個人の人生を押しつぶしてしまいます。そういうことは良くありません。その意味でも、教界へのアンチ・テーゼであるこのブログはもう少しすれば役目を終えるでしょう。

被害者が被害者意識を手放すのは本当に難しいことであり、ハードルの高い要求です。けれども、私たち自身の内部にも、加害者が住んでいる可能性があるということを覚えておかねばなりません。

どんな人間にも完全な義はなく、ただ悪の五十歩百歩があるだけで、私たちは神の手にある駒のような存在に過ぎません。主はそれを思いやりを持って扱って下さいますが、時に、私たちの意図に反して、火に投げ込まれたり、地面にたたきつけて粉々に打ち砕かれるようなことも起きます。

私たちは闇の世界の中を進んでいるのであり、試練を全て回避することはできません。人間の心のもたらす無限の暗闇の中で立ちすくみながら、ただ遠くに輝く十字架を見上げて涙することしかできない時があります。
『風の谷のナウシカ』の主人公の言葉を借りるなら、私たちの「生命は闇の中にまたたく光」であり、人は闇に包囲されて一生を生きることを宿命づけられた存在です。時には、私たちの生命そのものが暗闇に飲み込まれてしまったかのように光を失ってしまうこともあるでしょう。

長くなるので引用はできるだけ避けますが、原作の『風の谷のナウシカ』のラストでは、人類救済計画を推し進めるシュワの墓所の主に出会って、ナウシカが彼の救済計画に徹底的に抗議します。墓所の主の言う「汚れない人類」の姿など、人類の本当の理想ではあり得ず、完成者となることによって神に成り代わろうと願う人間の思いあがりの他の何物でもないと彼女は見破るのです。

墓所の主:「虚無だ、それは虚無だ!! お前は危険な闇だ。生命は光だ!」
ナウシカ:「ちがう、いのちは闇の中にまたたく光だ!!」

人間の命とは闇なのでしょうか、光なのでしょうか。誰の心にも闇の部分があり、人間は光とも闇ともつかない存在です。人間は不完全であり、常に発展途上にある存在です。人間のその闇の部分をないがごとくに否定して、人類を完全な存在、善なる存在、光なる存在に変えようとするシュワの墓所の計画は、非現実的なものであり、究極の理想主義によって、現実の人間を全て断罪し、否定し、根絶することにしかつながりませんでした。

他方、ナウシカにとって重要だったのは、未来の人類が汚れない姿に浄化されることではなく、現在を生きる人々が、汚れて、苦しみもだえ、屈辱と、滅びの中にあっても、なお生きることを目指すことそのものだったのです。

「苦しみや滅びは我々の一部になっている」
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」
「生命は生命の力で生きている。その朝が来るなら、私たちはその朝へ向かって生きよう。私たちは血を吐きつつくりかえしくりかえしその朝を越えて飛ぶ鳥だ!!」

 人には血を吐きながら、くりかえし越えて飛ばなければならない朝がいくつもやって来るでしょう。なぜ、これほどの苦しみが?…と思う出来事が誰の人生にも幾度かはあるでしょう。そんな時、怒りと恨みに燃えて、ただ敵の破滅を願う感情に圧倒され、魂を食いつぶされてしまう瞬間も多々あるでしょう。私たちの魂が光ではなく闇と化す瞬間です。けれど、墜落しても、血を吐いても、やっぱり、飛んで行くしかないのです。神はそのこともご存知で、私たちを哀れんで下さるでしょう。
 
 クリスチャンの生きる目的は、人類の理想が勝利して、この社会に争いと対立がなくなり、腐敗と堕落がなくなり、人間が罪汚れない存在として、神の高みに引き上げられることでは決してなく、ただ、闇にまたたく光として、キリストを見上げながら、闇の世界においてかすかでもいいから、光を輝かせながら生きていくこと、それだけなのです。

 この世にあって、決して私たちは目的地に達することはないでしょう。勝利の日が来ることさえあるかどうか、ただ墜落死してしまうのか、予測できません。
 けれども、世の光であるとは、闇の中で、土の器に入れられて、風前の灯のようにゆらめきながら、くすぶり続ける燈芯であることを指しているのです。

 悲しみを否定することではなく、悲しみと共に生きる力こそが必要なのではないでしょうか。苦しみを避けようとするのでなく、苦しみと共に生きるすべを学ぶことが必要なのではないでしょうか。怒りと敵愾心と復讐心を持っていても、それを消火できる日まで必ず主は待って下さることを信じ、忍耐強く、自分自身の復讐の刃を、実力行使として振り上げないようにしていくことが重要なのではないでしょうか。

 その朝がどんなに遠く、耐え難いものであったとしても、何千回と挑戦しているうちに、いつかきっと、乗り越えることができる日が来るかも知れません。世は苦しみの場所で、人間は汚れており、人類には希望がありません。けれども、同時に、たとえ虚無の深淵を通らされても、そこからでも神が与えられる生命には、いたわりと友情をも生み出す力が与えられているのだと信じましょう…。

 この世の闇と虚無に飲み込まれ、今なおそれにとらえられながらも、それでも、一人ひとりの生命は消すことのできない輝きをこの世に放っているのです。解放されることが目的なのではなく、生きること自体が目的なのです。生きることがすなわち、闇の中に光を輝かせることそのものなのです。 

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