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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
1.裁判は、日本キリスト教界のカルト化の抑止力となるだろうか。

現在、すでに紹介したような、いくつかの道徳的に退廃した教会では、被害を受けた元信徒が立ち上がり、牧師に対して裁判を起こすなどしている。筆者は自分自身が教会で受けた仕打ちについて、どう対処すべきか考えているうちに、これらの人々と接触を持つことになった。
カルト化教会の被害者が、教会や牧師に対して裁判を起こすように奨励している人々がいる。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏などがその代表だ。

だが、筆者は、村上氏の教会へ赴き、牧師とも話し、カルト化した教会に長年在籍した被害者であって実際に裁判に加わられた方からも話を聞いたが、その情報だけをもとに判断すれば、残念ながら、裁判という方法が、教会で虐待を受けた信徒が心身ともに回復するために非常に効果的な方法であるという印象は受けなかった。その上、村上氏が裁判の他に、被害者のための確かな立ち直りの方法論を持っているように見受けられなかった。
それだけでなく、後に詳述することになるが、なぜ、同じキリスト教界に属している牧師が、別の牧師を訴えるというやり方を支持しているのか、それによってどのような解放が生まれているのかが全く不明であり、「カルト化教会被害者の救済運動」という活動そのものに、非常に腑に落ちないものを感じながら、筆者はその教会を後にすることになった。

今、限られた力を尽くして裁判を起こしている被害者にはまことに申し訳ない気持ちになるが、裁判によって、カルト教会の被害者が十分に報われることはまずないと考えて良いだろう。
なぜなら、裁判のためにかかる膨大な費用、時間は動かせないものである。が、それに対し、裁判を通して、被害者が受け取ることができる補償額は、受けた被害の大きさに対してあまりにも小さい。
裁判は、被害者への十分な金銭的賠償を保障しないだけではない。裁判は、心のケアをも保障しない。被害者が、道を誤った教会に在籍しているうちに失った年月、家族や友人との絆、キャリア、心の平安、社会常識、信仰…、そういったものを裁判によって取り戻すことは事実上、不可能であり、それらを回復するための複雑極まりない心理的プロセスを耐え抜いていくことは、ひとえに被害者自身の今後の前向きな努力によるしかない。

さらに、傷ついた人たちは、まず、その傷が癒されなければならない。回復には時間が必要である。その回復がなされない前に、新たな闘いに赴くのは心理的に危険である。だが、裁判を起こすことを考え始めるならば、時効という壁があるため、被害者は自分の心の十分な回復を待ってから行動を起こすわけにはいかない。
このようにして、裁判という手段を選ぶことは、傷ついて弱くなり、立ち上がれなくなっている弱者が、十分な回復期間も経ないまま、並々ならぬ力を振り絞って、活動に赴くことを意味する。弱者は、自らが踏みにじられた弱者であることを証明するためだけにも、なけなしの力を振り絞って、裁判という闘いに赴かなければならない。争う力がない者は、自らの無実を証明することさえできない。
これは、弱肉強食の競争原理が隅々まで行き渡った我々の社会のどうしようもない残酷さである。

カルト化教会の被害者が、裁判を通じて、受けた被害を公然と世に訴えれば、そのことが教会のカルト化の抑止力になると主張する人々がいる。だが、本当にそうだろうか。

世間は往々にして、犯罪被害者にこう言う。「あなたが真実を公に語ってくれればねえ。あなたの証言が、二度とこのような事件を誰も起こさないための、歯止めになるのよ。あなたの証言には、社会を是正する力があるのよ」
だが、このように、主として被害者の力によりすがって、社会悪を是正し、改革を成し遂げようとすることには、大きな問題がある。一つの団体が、裁判沙汰になってから、ようやく初めて、自分の団体内の不祥事や、権力者による犯罪の存在に気づいているようでは、対応が遅きに失するというものだ。裁判になるよりももっと前に、ごくごく小さな火種のうちに、メンバーが危険性を察知して、適切に警告を発したり、批判したりし、対策を講じてさえいれば、あるいはメンバーでなくとも、そばにいる人々がその危険に気づいてさえいれば、傷つけられてボロボロになった被害者が、自分の回復もままならないうちに、ただ犯罪の存在を訴えるという最低限のことのために、最後の力までも振り絞って、裁判に赴かなければならないような状況は避けられるのである。
裁判という方法でしか、物事を解決できなくなっている時点で、もはやキリスト教界にはどうしようもないほどの弱者への無関心と、専横、冷酷さが満ちていると言えよう。

裁判とは、被害者の力によりすがって、物事を是正しようとする動きである。従って、力のない者には裁判さえ起こせない。カルト化教会で深刻な被害を受けても、それに裁判を起こすことができる被害者は、全体のごく一部である。どんな犯罪の場合でもそうであるが、最も深刻な被害を受けた弱者は、往々にして、自分が受けた被害を自分で世に語る余裕も持たない。

歴史上あらゆる犯罪事件に共通して言えることだが、最も深刻な被害は、決して世の中に公表されたことはなく、裁判で表ざたになることもなく、手記に著されることもなく、ただ被害者の胸のうちだけにしまわれ、暗闇から暗闇へと消えていき、天だけがその証人になるしかない。
善良な人間は、被害者が公に被害を語るのを待ってから動いているようでは、その善良さも敏感さも大したものではない。被害者の力によりすがって社会を是正しているうちは、その活動は残酷なものであり、決して本来の意味を発揮することはないだろう。


受けた被害を、口にすることができないほどに、追いつめられた人々がいる。
その人たちにさえ、死力を尽くして、裁判を起こさせるように仕向けなければ、事件を解決できないような世の中は、到底、ノーマルな社会だとは言えないし、善良で思いやりある人々は、そのような残酷な要求を被害者に対して突きつける前に、自分自身が死力を尽くしてやるべき課題があることに思いをはせるべきである。

さらに、そこまでの力を振り絞って被害者が裁判を起こしても、追いつめられた悪徳牧師や悪徳役員らが心から謝罪したという例をほとんど聞いたことがない。裁判に悪人を更生させる力がないことは、残念ながら、歴史上、様々な人物が様々な場面で証言して来た。
つまり、カルト化した教会にいた信徒が裁判を起こしても、端的に言えば、被害者は報われる可能性が極めて少ない。裁判によってさらに資金と労力を失いながら、それでも、自らの傷を癒し、回復していくための努力を地道に続けるしかない。

このような悲しい現状に鑑みて、筆者が思うことは、Dr.Luke氏をはじめとして、かなりの人々がそう主張するように、ニッポンキリスト教というこの危険な業界からは、ただ速やかに離れ去ることだけが、この「業界」から受ける害を最小限におさえるための最善の道だということだ。

神の声さえ退ける悪人の心を自分の努力によって正せると思うな。聴く耳のない者に向かって真実を語るのは、豚に真珠だ。豚は真珠を踏みつけて、こちらにくるりと向き直り、突進して噛み付いてくるだろう。真実は、声をかければふり向くだけの耳のある人に向かって、語るべきだ。
家の中に置いてきた高価な着物を取りに戻ろうとするな。取りに戻っているうちに家屋が焼け落ちて、下敷きになるかも知れないから。

筆者にも、教会という家屋の中に置いてきた持ち物がある。だからそれを取り返せるなら取り返したいという気持ちは痛いほど分かる。教会籍もそうであるし、何よりも、教会にかけてきた長年の月日や、献金、奉仕、そこで築いてきた人脈、傷つけられたプライド…。だが、今はこのソドムとゴモラから脱出するにあたり、そのような置き去りにしてきた自分の財産に未練を抱いている場合ではないのだと思う。ましてやそれらを取り返すために画策している場合でもないだろう。

近い将来、一つ、二つの裁判ではもはや誰も対応しきれないような末期的事態がこの「業界」に到来することだろう。腐敗がこれでもかと明るみに出る日が来よう。その時、「ニッポンキリスト教界」は教団教派を問わず、業界ごと炎上し、腐った屋台骨もろともに焼け落ちて、瓦解するだろう。そのようにして、いわば、この業界に天罰が下る時が来る。だが、その時に、最後まで家屋の中に残っていた人々は大きな痛手をこうむることになろう。この団体と関わってはいけない。中にいる人は一刻も早く、外へ逃れ出るべきである。荷物を取ろうとしてふり向くべきではない。

被害者は、裁きを主に向かって要求すればよい。本当に神を信じるならば、努力によって是正できないことは、御心に任せるしかない。主は復讐の神でもあり、傷つけられた人の心の叫びに長く耳をふさがれるような方ではない。辱められ、いたぶられ、嘲られる苦しみは、イエスご自身が誰よりも、ご存知なのだ。神は被害者の味方である。

我が身を省みる力さえ持たないような、堕落しきった悪人にいつまでも関わりあうことが、善良なクリスチャンに任された使命ではない。ましてや、教会内にキリストの名を騙った背教を広めているような「まむしの子孫」にあえて関わっていては、自分の命さえも危うくなると思った方が良いだろう。
カルト化教会に、たとえ裁判を起こしても、それで取り戻せるものはまことに少ないのだ。それなのに、限られた力を尽くして、裁判を起こすことが、被害者にとって有意義であるかのように思わせている牧師たちには、よくよく注意されたい。なぜ彼らは同業者を訴えるような裁判を助長し、他の教会が破滅する後押しをしているのであろうか。そのことを次の項で書きたい。
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