忍者ブログ
栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

 今から約10年前に、『アメリカは日本を世界の孤児にする』という本が初版された。ビル・トッテン氏によるこの著書は、「アメリカは世界で最も危険な国である」と述べ、戦争を自国の発展の手段とするアメリカ政策の危険性を指摘する。そして、アメリカの政策に引きずられる限り、日本はアメリカの引き起こした戦争の後処理に奔走させられ、やがて自分も戦争に巻き込まれることは避けられず、その時、アメリカは日本を無慈悲に使い捨てるだろうと述べている。
 まだバブル崩壊後間もなかった出版当時、この本が日本人にそれほどまでに深刻な危機感を呼び起こしたとは思えないが、10年経った現在、トッテン氏の危惧はますます現実味を帯びてきている。

 ただ一つ、ビル・トッテン氏が執筆当時それほどはっきりと予測せず、著書の中に述べなかった事実として、超大国アメリカが予想外に早く没落に向かっていることが挙げられる。ブッシュ政権に向けられた世界中からの非難を見ても、日本よりも、アメリカの方が先に世界の孤児に凋落しそうな勢いだ。『世界の孤児アメリカが日本を道連れにする』と、本の題名を言い変えた方が良いかも知れない。

 アメリカの凋落は、すでに述べたように、アメリカ映画の筋書きにも如実に反映している。アメリカ映画は、かつてはアメリカの威信を世界に見せつけるプロパガンダの役割をかねていたが、最近、映画の中でアメリカ絶対主義的な筋書きが薄れつつある。アメリカ国家の威信の揺らぎ、アメリカ人の自信喪失や、アメリカが幾多の戦争により抱え込んだ歴史的罪悪感が、映画の筋書きにも反映するようになって来た。

 映画『ラストサムライ』もそのような例の一つである。この映画は2003年12月に日本公開され、渡辺謙などの日本人俳優を観に、大勢の人が映画館につめかけた。この映画を観た当初、筆者はこの映画には強い現代的メッセージがこめられているように感じた。すなわち、これは没落していくアメリカ政策の言いなりになるのをやめ、グローバル経済、市場原理主義の理念から早く離れるようにとの、アメリカから日本人に対する最後の良心的警告なのではないかと感じた。今日、筆者はその危機感をますます強めているので、ここでそのことを述べておきたい。

 話が脱線するようだが、文学作品を作る際の一つの手法として、二重のメッセージを筋書きにこめるというやり方がある。それは今日的な政治情勢に鑑みて、率直に公言することがはばかられるようなきわどい内容を、作者があえて述べようと思うとき、小説をおとぎ話の形にしてみたり、時代設定を大昔にしたりすることによって、本当は今現在のことを主張しているのだとは、読者にすぐには分からないようにするというやり方である。あからさまに語ると危険すぎるか、野暮になってしまう内容を、分かる人にしか分からないよう、曖昧にぼかすモザイクのようなものだ。

 例を挙げれば、『権力と闘う良心―カルヴァンと闘うカステリオン―』という本がある。一度記事の中でも取り上げたが、著者シュテファン・ツヴァイクはこの著書の中で、プロテスタントの原理的指導者、カルヴァンの独裁、教義の絶対化、異端の粛清などの政策に見られる残酷さを徹底的に非難している。
 ジャン・カルヴァンという、プロテスタントの教界で今日もたたえられている宗教改革の指導者の実体が、カルト的な傾向を持つ危険な独裁者であり、カルヴァンが異端者を火あぶりにさえしていたという事実をはっきりと今日に伝えている点で、この著書は非常に価値が高い。しかし、同時に、カルヴァンに対するツヴァイクの非難の口調があまりにも強すぎるために、この本はツヴァイクならではの面白さがあまり発揮されておらず、文学作品というよりは、政治演説のように見えるという欠点があることも否めないだろう。

 小説を書く際には、通常、登場人物を初めから「善玉」、「悪玉」と決めつけたりはしないものだ。そんなことをすると、筋書きが見え透いた平板なものになってしまい、読者の退屈を誘う。ところが、ツヴァイクは従来の文学的手法に逆らって、カルヴァンに対するあからさまな憎悪を少しも隠そうとせずに筆を進める。カルヴァンはこの小説においては、ほとんど長所を持たない史上最低の悪役のように描かれている。

 ツヴァイクは本来、悪役を面白く描く力量を持った作家であった。『ジョゼフ・フーシェ』の中で、自分の利益のために幾度でも変節し、政敵を次々売り渡し、信念を鞍替えするフーシェを、彼は最後まで飽きの来ない見事な表現力で描き切った。ところが、それほどの表現力の持ち主であるツヴァイクが、悪役カルヴァンを描く際には、非難に力が入りすぎた。そのようなことが起きたのは、ツヴァイクがこの本を執筆当時、ヒトラー政権を避けて故国オーストリアを離れ、英国に亡命していたという事情を考えれば理解できるだろう。

 英国に亡命中、ツヴァイクは悪化していく英独の関係のために、身の置き所のない、不便な外国暮らしを強いられていた。亡命生活の苦しさ、やるせなさ、そしてドイツ=オーストリア、いやヨーロッパ全土の人々に未曾有の苦難をもたらしたヒトラー政権に対する尽きせぬ憎しみを、彼は著作にぶつける他なかった。(亡命生活の苦悩は、後にツヴァイクを自殺にまで追いやっている。)作家としての彼は、ヒトラーへの憎悪を政治演説として述べるのでなく、自分の作品の中で昇華させようと試みた。そこであえて現代を離れて、昔の時代に逆戻り、宗教改革の時代に託して、自分の主張を表現することに決めた。

 この小説には、従って、そのようなただし書きはないものの、二重の時代設定がされている。主役カルヴァンが、裏側ではヒトラーの仮面をつけており、カルヴァンの時代の裏には、ヒトラーの時代が隠されているのである。

 このような時代設定の二重性、筋書きの二重性は、創作においてはまま使われる手法だ。そして、『ラストサムライ』にも同じことがあてはまる。

 映画『ラストサムライ』は明治維新の時代を描いているが、実在の人物を登場させずに、わざわざ架空の人物を創り上げている。それを見れば、この映画の主たる目的が、決して、史実を語ることにないのは明らかだ。架空の世界を創り上げることには、おとぎ話のような印象を視聴者に与える効果がある。この映画が明治維新という歴史的モチーフを扱いながら、あえて、おとぎ話のような世界を創り上げているのはなぜだろうか? 筆者が判断するに、それは「昔の時代に託して、現代を語る」という二重性をこの映画が帯びているためだ。

 つまり、結論から言えば、『ラストサムライ』は明治維新の物語ではなく、明治維新に話を託して、実は、現代政治について語っているのだ。映画が真に述べたいのは、現代日本人に対する警告である。筋書きを具体的に追いながら、筆者がそのように考える理由を説明していこう。

 明治維新。それは江戸幕府という200年間以上も続いてきた昔ながらの伝統的な文化価値が没落し、日本がそれまで慣れ親しんできた幕府による統治に代わり、西欧物質主義文明、産業文明という、新たな文化価値、経済価値が日本に到来しようとする瀬戸際の時代であった。産業文明に支えられた世界経済の仕組みは、大津波のように世界中の国々に伝播し、その土地の昔ながらの暮らしを駆逐し、世界の国々を次々、近代国家という同じ色に塗り替えた。黒船の来航と共に、その文明の波が、ついに日本にも到達した。

 どの時代でも、新旧二つの体制や価値観が交替する時には、たとえ表面的には平和的に交替が進むように見えても、水面下では、激しい衝突を生む。

 確か、司馬遼太郎が『坂の上の雲』の中で述べていたように思うが、日本人は歴史的にいくつかの場面で、驚くべき変わり身の早さを発揮してきた。明治維新もその一つである。
 自分に有利なものを取り入れる際に、日本人は驚くほどの順応性を示す。日本人が明治維新で示した欧米文化への素早い順応性は、一見、日本人が合理的性質を持っていることの証拠のようにも見える。産業文明の圧倒的な威力を見せつけられた時、日本人の多くは旧い価値にしがみつくことなく、新しい時代の力を素早く自国に取り入れ、発展を目指した。

 ペリーの黒船の威力を見せ付けられた時から、江戸幕府は世界経済の威力の前に没落していくことを運命づけられていた。そして、この封建的体制の没落と共に、それまで誇らしげに栄えてきた江戸文化、そして日本の伝統的な価値観がひっくり返されることも避けられなかった。
 しかし、日本人の中には、新しい力の前にいち早くひれ伏し、明日の利益のために、昨日までの生き方をあっけなく捨ててしまうような順応性(いや、むしろ、レミング的な集団変心)を示すような者が多くいた一方で、今までの生き方に誇りを持っているがゆえに、それを駆逐するような新しい時代の到来を何とか食い止めようと、命と名誉をかけて、明治政府の掲げる近代化に立ち向かって、絶望的な死闘を繰り広げた者たちがいた。映画では、それは、政府軍と闘った勝元らに代表される不平士族たちである。

 映画は、没落を運命づけられた旧い文化の側に立って、破滅に立ち向かって闘った不平士族らを主役にして描いている。つまり、『ラストサムライ』は、歴史的勝者の物語ではなく、敗者の側に立った物語なのだ。

 不平士族が命をかけて守ろうとした旧い文化は、武士道に集約される。
 武士道は日本人にとっての伝統的な戦さの方法であっただけでなく、人生哲学であり、美学であった。剣術は人の生き方そのものであった。何百年間と、日本では時間をかけて磨かれた方法論に基づいた戦いが行われていた。しかし、文明開化の波がこの国に押し寄せると、刀を用いた戦さは、鉄砲や大砲という、工場で大量生産された文明の利器を用いた戦争に代わり、伝統的な美学に基づいた戦さの方法は、大量破壊兵器による無差別殺人に近い戦争という、何の美学もなくロマンもない、無味乾燥な戦闘方法へと取り替えられた。

 明治維新は、一見、日本の遅れた国家体制を近代化し、風通しの悪かった日本の風土を文明開化するという進歩的な目的を成し遂げたかのように今でも宣伝されている。そして江戸時代の鎖国は、日本人の精神性に閉鎖性という負の影響を与え、日本の国際化を大きく妨げる要因となったかのように評されることが多い。だが、実際のところはどうだったのだろうか。

 実は、西欧文明文化が日本に取り入れられたのには、国の発展という表向きの理由とは別に、裏の理由があった。それは、外圧を出世の手段として利用したい日本の売国奴政治家たちが、日本の文化と政治を外国に進んで売り渡すために企んだ策略だったのである。

 先に挙げた『アメリカは日本を世界の孤児にする』の中で、著者は次のように述べている。
 「外圧の危険性を語るときに、私は幕末に黒船で日本にやってきたペリーのことに例えて説明することにしている。あのとき、いくらペリーが進んだ武器を持っていたにしても、日本に上陸してしまえば多勢に無勢で命の保障はなかった。少なくとも、ペリーが無理なことを要求してきたら、追い返すこともできたはずである。だが、それができなかったのは、日本国内に黒船という外圧を利用して幕府を転覆しようという集団がいたからにほかならない。その集団のおかげで、ペリーは丁重に迎えられて、アメリカに有利な条約を結ぶことができたのである。」  
 『アメリカは日本を世界の孤児にする』、ゴマ書房、1998年、p.80。

 トッテン氏が述べていることによれば、日本の現代政治はただアメリカなどの大国の思惑によって引きずり回され、骨抜きにされてきただけでなく、積極的に外圧に屈して国をすすんで売り渡そうとした日本の売国奴的政治家たちの策略によって駄目にされてきたのである。

 ラストサムライの冒頭でも、トッテン氏が述べたような、外圧に祖国を売り渡す売国奴大臣が登場する。産業文明、世界経済の威力という「黒船」の前に喜んで跪き、国を西欧化しようとする大臣、大村である。
 大村は天皇に影響力を持っており、ヨーロッパの優れた兵器や軍隊秩序を我が国に積極的に取り入れることによって、日本を近代化させるべきだと天皇に進言する。だが、大村の真の目的は、日本の国力をヨーロッパ並みの水準に引き上げることにはなく、西欧の軍事産業とのコネを結ぶことによって自分の政治力を確たるものにし、日本における軍事産業の発展の中で漁夫の利を得ることにあった。

 大村は確か英語を流暢に話し、タキシードを着込み、あたかもヨーロッパ的紳士のように振る舞っていたように筆者は記憶している。西洋文明の流行をいち早く取り入れたように振る舞う大村は、見かけは先駆的な人物に見えたかも知れないが、実際には、日本文化を死滅させ、日本人を死の危険に売り渡す兵器を我が国に進んで取り入れようとする売国奴であった。

 先の記事で引用した『風の谷のナウシカ』の原作でもそうだったが、野心的な政治家の手っ取り早い出世の手段は、いつでも、国民を死に追いやる兵器産業に手を染めることだ。国の安全を守るため、国防のためと言いながら、国民を最も危険にさらすような恐ろしい兵器を我が国に売りつけ、兵器産業の繁栄によって漁夫の利を得る政治家は、我が国の防衛のために働いているのではなく、己が利益のために国民の安全を売り渡している売国奴なのだ。

 『ナウシカ』ではシュワの墓所から流れ出るバイオ技術をめぐって、地上の人間が相争い、新兵器開発技術を奪い合うために戦争を繰り広げていた。シュワの墓所は人類を救済するという崇高な目的を掲げて一大宗教のメッカとなっていたが、そこに隠されているバイオ技術という英知を知る墓の守り手たちは、その技術により人類を救済するどころか、人類全体を滅ぼすような兵器を開発する知恵として、バイオ技術を少しずつ、卑しい人間に売り渡し、人間と取引することによって、その宗教勢力を保持していた。シュワの墓所が知恵をもらしたからこそ、人類には巨神兵というおぞましい兵器が開発され、トルメキアとドルクが血で血を洗う戦争を開始しようとしていたのである。  

 さて、ラストサムライに話を戻せば、大村は、日本を近代化するという名目で、ヨーロッパ式の軍隊秩序を自国に学ばせるために、欧米から軍事教官を招聘して武器の使い方を日本人に教え、日本軍に戦闘の訓練をさせようと計画していた。だが、それは日本人が世界に対抗できるだけの武力を身につけ、国際的に認められる国になるという建前とは裏腹に、武器商人の思惑に従って、日本人自身を死の危険にさらす大量破壊兵器を国に導入することを意味していた。
 武器は敵を滅ぼすことにも、我が身を滅ぼすことにも使われうる。抑止力としての武器など本当はどこにも存在しない。武器は全て使われるために存在している。

 大村の後押しにより日本にもたらされた兵器は、後になって、政府軍と不平士族の戦いという日本人同士の血で血を洗う戦争に使用されることになっただけでなく、映画には含まれていないが、その兵器産業は、やがて日本を植民地争奪戦のための帝国主義戦争という愚かな争いの泥沼の中に引きずり込んでいくことになる。

 アメリカの軍人ネイサン・オールグレンは、大村の招聘で日本軍を近代化させる仕事に携わるために来日した。大村は日本軍を世界レベルに引き上げてくれる優秀な「戦場の英雄」を雇ったつもりでいたが、彼の思惑とは裏腹に、オールグレンのような人間が雇われたことは、日本に送り込まれた欧米の軍事教官が、実際の欧米社会では、落ちぶれて使い物にもならない、屑のような人間たちであったことを意味する。

 欧米社会が自国の最新技術を日本のような小国にやすやすと売り渡すはずがない。日本が近代化するために真面目に協力するような親切心を列強が持っているはずがない。そこで、本国ではどこにも雇用の道が閉ざされたような「社会の屑」を食わせるために、欧米は日本への教官の派遣を許したというのが実態だった。

 インディアンとの闘いを勇敢に闘った英雄であると大村が盛んに持ち上げたオールグレンは、戦争後遺症としてのPTSDにかかり、トラウマを紛らすためにアル中となってやけくそに生きていた、英雄どころか、人格破綻者に近い傷痍軍人であった。

 オールグレンはかつてのアメリカ映画に盛んに登場していたような、勇敢な正義漢ではない。彼は罪悪感を抱え、トラウマに冒された弱いヒーローである。
 しかも、驚くべきことに、オールグレンの記憶の中では、インディアンとの戦争は、これまでアメリカの西部劇が誇らしげに描いてきたような、「正義の戦い」ではない。ネイサンにとって、インディアンとの戦争は、残酷な、力にものを言わせただけの、卑怯で、非道な、正義のない戦いであった。オールグレンはこの戦争に参加して、罪もない女や子供まで殺さねばならなかったことに、拭い去れない負い目を感じていた。

 オールグレンは、アメリカ人にフロンティアをもたらすという大義名分で行われた戦争が、軍人である彼の誇りを奪う、偽りの戦争だったと感じていた。南北戦争とインディアンとの戦争が、軍人としての彼に誇りを失わせた。開拓者たちが肥え太る目的のためだけに、何の美学もなく、罪なき、声なき、弱い者たちを殺し、彼らの住まいを力づくで奪い、彼らの文化を野蛮な風習として禁止し、廃止し、武力を備えた者の文化だけが正統で、優れた文化であり、強い者だけがこの地球に堂々と住居をかまえる権利があるかのようにふるまったことは、軍人の道に外れる行為であり、戦争の美学に反しているとオールグレンは感じていた。

 彼は軍人としてあるまじき卑怯な戦いを戦ったことに罪悪感を感じ、そのことで自分を恥じ、PTSDに苦しみながらも、「では、どうすればその罪の意識を払拭し、軍人としての誇りを取り戻せるのか?」という課題に、答えを出せないでいた。彼は自暴自棄になってアルコールに走り、ただ金さえもられば良いという甘い考えで、明治政府のお雇い外国人として来日した。
 
 筆者が知っている限り、アメリカ映画が「フロンティア精神」をこれほどまでに明らかに反省し、悔い改める作品を作ったのは、これが初めてである。このようなアメリカ国民の心理の大きな方向転換の陰には、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争などがあることは否めないだろう。つまり、オールグレンの罪悪感は、現代アメリカ人が、近年に参加した戦争に対して抱えている歴史的罪悪感を暗示しているのだ。

 オールグレンは日本軍の訓練に携わったが、その頃、明治政府軍は全く戦う体勢が整っておらず、近代化に対抗して攻撃をしかけて来た不平士族、勝元らの兵に敗退する。ネイサンと共に軍事教官として来日したガントは戦死し、オールグレンは捕囚となって、勝元の村に連行された。
 その後、捕虜とされたことをきっかけに、オールグレンがどのようにして勝元や村人と親しくなり、武士道の精神や、日本の伝統文化を次第に理解していくかは、映画で詳しく描かれているため、省略する。

 オールグレンは村に滞在して日本人の昔ながらの暮らしぶりを見つめているうちに、次第に、明治政府が掲げている近代化の概念が歪んでいることに気づいた。廃刀令が出され、勝元らのような士族の誇りであった帯刀は違法として禁止された。かつてオールグレンがインディアンの文化を「野蛮なもの」として排斥したように、日本に古来からあった文化は、今、時代に合わない、無秩序で、劣ったものとして、政府によって排斥されようとしていた。だが、ネイサンが実際に目のあたりにした村人たちの暮らしは、決して「劣ったもの」ではなかった。そこには独自の高い文化があり、誇りがあり、自給自足の暮らしがあり、秩序があり、人生哲学や、美学があった。技術が一人ひとりのの生き様と一体となった暮らしがあった。

 武士道は、戦術を知ることが、生きることそのものだと教えていた。ただ優れた武器を手に入れただけで、戦いの方法を知ったかのように思うことは、幼稚な考えであり、人間の思いあがり以外の何物でもない。武器は、それを持つ人の生き様と一体にならなければ意味がなく、ただ強力な武器を手に入れるだけで、人が進歩することはない。道具は、道具を使う人間の優れた人格と一体となって初めて、その力を発揮できる。人がその生き様を示すために多くの道具を手に入れることは必要ない。ただ刀の一本がありさえすれば、抱えきれない武器弾薬によって己の力を誇示するような虚しい生き方は必要ない。武器は人が力を誇示するためにあるのではなく、自分の生き様を少しでも高め、人格の錬成を目指すためにこそある。武器は自分を高め、最後の手段として使うものであって、人を一人でも多く殺すために使うものではなかった。

 オールグレンは士族との暮らしの中で、刀が人生の美学と一体になっていることに気づく。髷や、袴などの装いも人々の暮らしの欠かせない一部となっていた。だが、そのような伝統が、日本人を欧米の新しい文化にできるだけ早く慣れさせ、旧来の価値観は忘れてもらいたいと考える大村たちには都合が悪かった。大村には、日本人が刀の魅力に気づくよりも前に、欧米の武器の威力にひれ伏すことが肝心だった。日本人の目を欧米の文化の魅力に釘付けにしておかねば、新しい武器をこの国に大量に買わせることはできない。そこで大村の勢力は士族の文化を禁止し、帯刀や髷を違法としただけでなく、自分たちの文化を守ろうと政府軍に闘いを挑んでくる厄介者、勝元を暗殺しようと企んだ。

 勝元は天皇に謁見して、売国奴大臣大村が心の内で思い描いている策略をぶちまけ、彼らを信用して日本を売り渡すようなことがないようにと、天皇に忠告した。うわべは「法律を遵守することの大切さ」というきれい事を主張しながら、暗闇で刺客を送り込んで人を暗殺しようとするような大村の態度と異なり、勝元は命をかけて、相手に自分の生き様を示すことによって、自分の言葉に耳を傾けてもらおうと試みる。武力によって、相手を威嚇し、力づくで言うことを聞かせることは、武士の美学に反する。力でねじ伏せるのでなく、生き様によって影響を与えることが彼らの目的である。勝元は天皇の判断に全てを委ね、もしも提案が拒否されれば、死を選ぶことも覚悟の上であると述べる。
 だが、勝元の気迫に気圧されながらも、天皇は優柔不断さから、自分では何も決定しようとしない。

 初めはゲリラ的急襲によって明治政府軍に打撃を加えていた勝元らは、天皇への説得が失敗したことにより、大村との対決、明治政府軍との正面衝突は免れられないと悟る。だが、その頃、明治政府軍はすでにかなりの武器を手に入れ、近代的な軍隊として体勢が整い始めていた。欧米の兵器を知っているオールグレンには、刀を用いた伝統的な騎馬戦では、とても政府軍に勝てる見込みがないことが分かっていた。

 しかしそれでも勝元とオールグレンは、自分たちの生き方を否定する近代化を食い止めるために、勝ち目のない戦いにあえて赴くことを選んだ。それは、戦いに勝つことを目的とした戦争ではなく、戦いを通して、同族である日本人に自分たちの生き様の価値を見せることにより、何が本当に正しい、価値あることなのか、彼らに気づいてもらい、できるなら、日本人がそれまでに培って来た伝統文化に立ち返ってもらうことが目的であった。

 オールグレンは勝元と共に戦うために、鎧兜に身を包み、騎乗の人となって現れる。それはかつてインディアンの「劣った」文化を否定し、それを根絶する側に回ったネイサンが、今度は日本人という「新しいインディアン」の文化を理解し、擁護する側に立つことを意味した。そうすることによって、日本の土着の文化が、欧米の文化に比べて、少しも遜色ないものであり、根絶される理由などどこにもないことを、彼は身をもって証明しようとした。

 それは、過去に滅ぼしたインディアンに対するオールグレンの贖罪行為であった。彼はそれまでよりすがってきた西欧文明の優位性を否定する立場に立ち、たとえ力弱くとも、個人が自分の選んだ生き方を守ろうとするのは当然の権利であり、誰もその生き方を力づくで奪う資格など持たないことを主張しようとしていた。

 勝元ら不平士族の軍勢の前に、近代化された明治政府の軍隊がずらりと整列した。それはヨーロッパ化され、最新の武器と、一糸乱れぬ軍服と、軍隊秩序を身に着けた日本人たちの姿であった。文明開化に魅せられたお役人たちの命令に従って、刀を捨て、髷を切り、それまでの生き方を時代遅れなものとして捨て、刀の代わりに、銃を構え、美しい制服に身を包み、「当世風」のいでたちをした日本人たちだった。
 しかし、その軍隊は、よく見ると、誰も彼もがまるで人形のように同じ服装、同じ表情をしており、まるでロボット兵士が整列しているような、無味乾燥で、異様な軍隊であった。

 それは、短期間で大量に工場生産されたような、個性のない、にわか兵士から成る軍隊だった。長年かけて、剣術の腕を磨くことも、武道を学ぶこともなく、ただ銃という文明の利器を持たされただけで、生きながらの殺人兵器に仕立て上げられた人たち。
 同じ制服を着て、同じ銃を構え、人を殺すことの意味すら分からないまま、無表情に行進していく、同じ顔をした兵士たち。勝元らの目から見ると、それは軍人でもなければ、人間でさえない、ただの人間機械でしかなかっただろう…。

 筆者の目には、このロボット軍隊のような明治政府軍が、高度経済成長期の企業戦士サラリーマンたちの姿に重なり、また、就職氷河期のただ中で、黒烏のような真っ黒なスーツを着てずらりと就職面接に臨んで自己PR文を述べていた若者たちの姿に重なった。受験教育、就職戦争、どれほどの戦争が日本にこのような無表情な軍隊を作り上げてきただろうか?

 騎馬にまたがって鎧兜に身を包み、刀を構えた勝元とオールグレンは、この無表情な政府軍の前に立って、同胞の一人ひとりに向けて、無言のうちにこう訴えているかのようであった。
 「いいか、よく目を開いておれたちを見ろ、おれたちの服装を、武器を、戦い方を見ろ!
 これがおれたちの生き方なんだ! おれたちは誰にも迷惑をかけていない! 自分の信念に従って、自給自足の生活をしたいだけなんだ。
 なのに、時代に合わないというだけで、どうしてこの生き方が否定されなければならない理由があるんだ!?

 見ろ、おれたちは自分たちが作り上げた伝統を守るために、命を懸けようとしている。
 この弓も、刀も、鎧も、兜も、馬も、全ておれたちが工房で厩で丹精込めて作り上げてきたものだ。何百年もかけて、祖先から受け継いできた技術だ。

 おれたちに対抗している、軍隊のおまえらも、やっぱり、命を懸けて戦おうとしているのだろう。
 だが、考えてみて欲しい、おまえたちは、おれたちを殺すことによって、何を得るのか? 何を守ろうとしているのか?
 その制服は、その銃は、その武器は、おまえらが工房で精魂込めて作り上げたものなのか?
 そこに立って命令している上官は、おまえらを長年かけて鍛え上げてくれた人生の師匠なのか?
 おまえらを守るためなら、死んでもいいと思ってくれる勇敢な指導者なのか?

 おまえらは気づかないのか? その教官たちの生気の抜けた顔や、横柄で不遜な態度に。
 そいつらは臆病者で、命かけておまえらを守る気なんか少しもなく、自分の命令一つで、おまえらを無慈悲に死に赴かせようとしているだけなんだ!

 いいか、おれたちは、自分の生き方を守るためなら、死んでも構わないと思う。
 自分の信念を貫いて死ぬなら、それは恥ではなく、むしろ、誇りだ。
 だが、ただお上の命令に考えもなく機械のように従って、同胞であるおれたちに銃を向けているおまえらは、戦場で死んだ後に、一体、何が残るというのか…?

 答えてみて欲しい、おまえらは、西欧文明万歳と言って、西欧文明のためなら、同胞を殺し、自分も命を捨てられるというのか…?
 自分の命が、そんなことのために使い尽くされていくのを情けないと思わないのか?

 いいか、思い出せ、日本人は古来から、権力に従順で、規律をよく守る人たちだった。だが、その規律正しさは、個性を抹殺するために用いられるものではなく、むしろ、個性を守り、豊かに実現する暮らしを作るためのものだったはずではないか?

 日本人にとっての秩序とは、馬鹿馬鹿しい戦争で一億玉砕してでも、『お上万歳』と叫ぶような愚かな信仰ではなかったはずだ。
 思い出せ。武士道は、効率的に殺人をし、道具を使って人を支配するためのマニュアルではなかったはずだ。武士道は人が人として生きるための美学だった。
 
 どんな人間も、一夜にして生産されたりはしない。
 人が人として生長するために、どれほどの鍛錬を積まねばならないことか…。武士道は日本人が生きるにも死ぬにも、美学を持たせてくれた。

 道具は生き様と一体になってこそ価値があるものだ。
 なのに、強力な武器を持たされただけで、ひとかどの人間になったと思いあがっているおまえらは何者なのか? 文明の利器を巧みに扱い、外国語を流暢に話し、試験で高得点を取り、流行の粋な服装をし、ヨーロッパ式の礼儀作法を守ってさえいれば、人格が向上すると、おまえらは本気で信じているのか?

 もう一度、目を覚まして、ちゃんと自分の頭を使って考えてくれ。なぜ刀を持つことが許されなくて、銃ならば許されるんだ?
 なぜ日本人がこれまで育んできた文化や伝統が、別の文化に照らし合わせて、劣ったものとして否定されねばならないのか?
 日本人全体が、外国におもねって自国の文化を恥じ、画一化された軍隊秩序を強いられることが、この国の幸福につながると、おまえらは本気で思っているのか?
 人が自分の望む生き方をすることが、罪悪とされるような社会とは何なのだ?
 人が人に対して生き方を強制することができるとおまえらは本気で信じているのか?

 よく考えてみろ。こんな風な個性を捨て去った画一化、誇りさえ消えうせたような西欧化が日本にとって本当に望ましい道なのか。
 欧米崇拝に陥って、外国人教官の指揮の下で働かされ、日本人としての誇りを奪われてまで、外国の力の前にひざまづくことが、おれたちにとっての幸福なのか。
 
 いい加減に、気づいてくれ。産業文明の威を借りて、成金になることを夢見た財閥と政治家たちが、おれたちの文化を売り渡したんだ。奴らは日本人の従順さと適応能力を、己が利益を得るために、悪用したんだ。
 騙されるんじゃない、文明の力をかさにきて、おまえらに自国の文化を軽蔑させて、無理やり大国のやり方に従わせようとしている日本人は、おれたちの味方なんかじゃない!

 近代化のため、富国強兵のため、グローバル競争に耐えるため、日本の国際化のため、国防のため、安全のためと言って、その実、奴らはますますおまえらを殺すための武器を、この国に大量に売りつけている。そしておまえらをまるで蝿のように次々と戦争で殺していく腹づもりなんだ。
 奴らが企んでいるのは、この国の文化の破壊、この国の自立の破壊と、植民地化だ。産業文明の狙いは、人間の機械化、人間の大量生産、人間の大量使い捨てであって、それは決して、おれたちの幸福に奉仕するものじゃない!

 目を覚ませ! そんな無味乾燥な軍隊がおまえたちを幸福にしてくれることはない!
 目を覚ましてくれ! 道具を使うのは人間であって、道具が人間を使うんじゃないんだ! おれたちが力ある武器の前に跪いたが最後、その武器の所有者は、おれたちの命を最後まで使い捨てにしようと、この国を支配するだろう!
 誇りを取り戻してくれ! おれたちの人生はおれたち一人ひとりのものだ。
 どんな大義名分があろうと、おれたちが自分の人生を奪われるいわれはない。
 おまえら、誇りを取り戻すんだ! 人に人生を使い捨てられることに慣れるな!」

 勝元らは最後まで、自分の生き方を命懸けで提示することによって、政府軍にいる同胞が、自分たちの生き方に理解を示してくれるとの希望を持ち続けた。
 だが、古くさい武器しか持たない勝元らの軍を、文明の利器で武装した政府軍はあっけなく打ち破った。
 政府軍の兵士たちは初めこそ、命がけで銃を構えていたが、勝元の軍隊の隊列が崩れた後は、まるでオルゴールのネジでも回すように、銃弾を発射する機械の取っ手を、自動的に、無表情に回していただけだった。

 一人一人の人間の、命をかけた叫びが、ただのスイッチの一押し、ネジの一回しの前にあっけなく押し潰されて行った。人間一人ひとりが、ごま粒のように、すりおろされ、殺されていった。
 しかも、機械の取っ手を握っているのは、人を殺すことの意味さえ分かっていない、一夜漬けで操作マニュアルを教え込まれたにわか兵士だ。

 第一次大戦が起こった時、兵士らは大量殺戮兵器を用いた機械戦争の不合理さを初めて認識した。その時が来るまでは、あらゆる国々で、戦争はロマンとして語られ、戦争には美学があった。将軍は英雄であり、兵士らの行進は少年達の憧れの的だった。作曲家も軍隊にちなんだ曲を数多く作った。
 しかし、第一次世界大戦によって、大量破壊兵器がこの世界にもたらされた時、人が人ではなく、モノのように殺されていく戦争からは、どんな理想も、尊厳も、美学も、ロマンも奪われた。
 文明の利器は、戦場を無差別殺人の場に変えた。かつての英雄談は、戦争から消え去った。戦争は、人間の尊厳をただ貶め、人間を道具にするだけのものに変わった。

 勝元らの軍勢は政府軍にモノのように殺されていった。だが、その死が逆説的に、機械戦争の不合理さを訴えた。感情豊かな人間が、ゴマ粒以下のような最期を遂げなければならない戦いの不合理さを訴えた。
 勝元は死んでいくことによって、大量破壊兵器による大量殺戮を助長する産業文明が、人類に幸福をもたらすことはあり得ないという事実を逆説的に示そうとした。そのような戦争が「国防のため」であり、「文明開化」による進歩の成果であるという説が、真っ赤な嘘であることを示そうとした。

 政府軍の武器は不平士族を容赦なく殲滅したが、それでも、彼らの死に様が兵士らに何かを感じさせた。
 勝つために戦うのではない。殺すために戦うのでもない。ただ生きるのにも死ぬのにも、自分の生き様を一心に込めること、自分の身体と心の奥深くから沸き出て来る、自分個人の信念のありように基づいて、生きて、死ぬこと――それを目指した勝元らの人生の美学、信念が、同胞日本人の心を打った。

 兵士らは勝元らの生き様と死に様に敬意を表して、頭を垂れた。
 そしてオールグレンはこの戦いに参加したことによって、インディアンの文化を陵辱した罪悪感からようやく解き放たれて、軍人としての誇りを取り戻した。

 生き残ったオールグレンは、勝元の遺刀を、天皇に託すため天皇に謁見する。その時、映画ならではのあり得ない事件が起こった。
 あの優柔不断で幼かった天皇が、なんと、勝元らの生き様と死に様に勇気づけられて、アメリカとの条約の批准を断わったのだ。それが日本のためにならない、アメリカから押しつけられた不平等条約だと気がついて。
 その日米条約の具体的内容は、映画では不明であるが、その条約が日本の国防のためを装いながら、その実、日本を食い物にしたいだけの成り上がり者の政治家による売国的戦略であることに、天皇は気づいたようだった。

 ここで天皇が拒否した不平等条約とは、日米安保条約や、日米ガイドラインを暗に示しているものと考えられる。

 つまり、映画は我々に、あらゆる不平等条約を、勇気を持って破棄するよう教えてくれているのだ。
 日本よ、目を覚ませと言っているのだ。これ以上、アメリカのマインドコントロールに負けるな、文明開化という甘言に騙されるなと…。
 資本主義的グローバル経済は日本を幸福にしない。欧米文化崇拝は日本を幸福にしない。欧米崇拝音頭に踊らされるのをやめて、日本人は自分たちの伝統文化の価値に立ち返る必要がある。自分たちの文化の独自性に誇りをもち、自らの文化を恥じて、それを捨てようとするのをやめなければならない。なぜ日本人は明治維新からこれまで、自分に合った服装を捨てて、自分に合わない他人の衣装ばかりを借りようとするのか?
 日本人よ、誇りを取り戻しなさい。自国のためにならない押しつけ条約と、押しつけ文化を拒否するだけの勇気を持ちなさい。大量破壊兵器という「黒船」の前にあなたたちはこれ以上、跪かなくてよろしい! …映画はそう言っているのだ。

 この映画は、とどのつまり、日本人に対するアメリカ人による良心的平手打ちであった。日本を食い物にする大国の思惑と、売国奴的政治家に騙されないようにとの良心的忠告だった。
 アメリカ映画の方が、日本について、日本の政治よりはるかに自由にものを言っている。これは恥ずべきことであり、情けないことではないだろうか。

 映画は暗黙のうちに、世界経済の枠組みから落ちこぼれた人たちに希望を与えている。
 フリーター、引きこもり、ニート、パート労働者など、軍隊的な日本の学校や企業から不適格者の烙印を押され、落ちこぼれた全ての人々が、そのことで失意に陥る必要は全くないと教えてくれている。
 グローバル経済、市場原理主義という画一化した「軍隊」に入隊することが、文明開化の証であり、人生の進歩だと思ったら大間違いだ。日本を「近代化」させようと企む人たちの真の目的は、人間を大量使い捨てにし、殺人兵器をこの国に輸入し、さらに新しい兵器を売りつけるために、戦争の危険を煽り、無差別殺人のような戦争を絶え間なく起こすことにある。

 筆者は思う。日本人はこれ以上、人生を使い捨てられることに慣れてはいけない。西欧文明の利器を見せびらかされさえすれば、疑うことなく釣られるカモになってはいけない。
 たとえ「時代遅れ」と罵られ、レミングのように流行に突進する大勢と違う道を行くことになっても、人は自分が信じる生き方を守れば良いのであり、自分の生き方を他人によって奪われるいわれはないのだ。

 オールグレンの贖罪は、アメリカの贖罪にそのまま重なる。映画が主張しているのは、いかに文明の力が大きく、その威力が否定できないものであるにせよ、ただ力があるというだけで、文明の覇者が、自分の生き方を正義のように弱い人々に押しつけることは間違っているということだ。社会が「時代に会わない」と決めつけたというだけの理由で、なじみ深い伝統文化が否定されなければならない理由はない。
 価値観や文化は、力によって外から押しつけられるものではない。自分たちの中から生まれ、自分たちが育んできた来たものこそが、伝統であり、文化なのだ。

 「国際化」とか、「グローバル化」とかいうモノサシに踊らされるのはもうやめなければならない。この国にゆかりのものが、何か古くさい、時代遅れな、無価値なものだという考えを植えつけようとする人たちに騙されて、自国の文化を自ら売り飛ばして、外国文化に踊らされるのはもうやめよう。

 文化は自分たちで育むものであり、外から輸入するものではない。生き方は個人の奥深くに根ざしたものであり、外見によって整えることはできない。そして個人が確立した生き様を、外から奪う権利など誰も持ってはいないのだ。
 近代化という名目で、人間の命を使い捨てにしようとする権力者たちの甘言に、これ以上、この国の人々は騙されてはいけない。日本人は、兵器産業という黒船の前に跪くのはもうやめなければならない。そのことをアメリカ発の映画が日本人に対して警告しているのだ。

 ラストサムライは、未だ黒船信仰から目覚められないでいる日本人に対するアメリカ人による良心的平手打ちであった。

PR
2009/02/02 (Mon) 社会問題