・Eden Mediaが推奨する偽りの「人類超人化計画」(アセンション)の危険性について
6.錬金術とグノーシス主義は同一である ~なぜフリーメイソンは石工団体なのか?~
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)
悪魔の目的は、神の能力、支配権を奪い取って、神を超えることにある。そこで、悪魔は人類をそそのかす際にも、自分が望んでいるのと同じ欲望を吹き込もうとする。
そのやり方は、人類誕生の当初から今日までも変わらない。私たちは、Eden Mediaの動画を通して、東洋神秘主義が目指していた悪魔的な超人思想(=人を神のように変容させる術)が、今やニューエイジ思想の中に最も先鋭化した形で受け継がれているのを見て来た。
これまで見て来たように、神秘主義は、ただ思想であるだけではなく、人体を変容させるための方法論でもある。たとえば、古代中国の錬丹術などがまさにその方法論に当たり、何らかの刺激や訓練(修行)を通して、人体を変容させて、眠っている力を引き出し、神のような超自然的な能力を備えさせようとするのである。
その意味で、錬金術も、ただ卑金属を金に変えることだけを目的としていたのではなく、ここにも、人類が不老不死を手に入れ、悟りの智慧を得て神に等しい者になろうとする悪魔的な欲望が込められている。
「錬金術における最大の目標は賢者の石を創り出すことだった。賢者の石は、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられた。また後述の通り、神にも等しい智慧を得るための過程の一つが賢者の石の生成とされた。」
「中国では『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれている。厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術である。」
Wikipedia「錬金術」から
現代人は、「賢者の石」などという言葉を聞けば、すぐさまハリー・ポッターの映画などを思い出し、ファンタジーだと一笑に付して終わりたくなるかも知れないが、この概念は、歴史上数多くのグノーシス主義者が追い求めた悲願を意味し、これまでオカルト研究者、魔術師、錬金術師のみならず、自然科学者の関心さえも惹きつけて来た。今日では、万有引力の法則の発見で知られるアイザック・ニュートンも、膨大な労力を錬金術(オカルト)の研究に注ぎ込んでいたことはよく知られている。
あらゆる錬金術師の至上命題は、卑金属を金に変える至高の物質とされ、かつ、治癒不可能な病や傷をさえ瞬時に治す「神の物質」とされていた「賢者の石」の製造と、それによる金の錬成にあった。
ニュートンの死後に残された蔵書のうち、数学・自然学・天文学関連の本が16%であるのに対して、神学・哲学関連は32%を占めていることを見れば(アイザック・ニュートンのオカルト研究)、いかに彼が生涯をオカルト研究に費やしていたかが分かるだろう。
ここで言う「神学」とは、正統な神学のことではなく、錬金術に集約される異端的オカルト研究を指す。ニュートンは、聖書の中に、何とかして錬金術の根拠を探し求めようと、ソロモン神殿などの研究を行っていたが、彼はそもそも三位一体を信じていなかったので、キリスト教徒としての正統な信仰に立っておらず、「神学者」と呼ぶのは全くふさわしくない。ニュートンの名誉をおもんばかって、後世の人々がオカルト研究を「神学・哲学研究」と言い換えているだけである。
ニュートンの錬金術師としての研究の主要な目的は、まずは「賢者の石」の発見、次に賢者の石と同一か、もしくはこれを液体化したものと考えられている「エリクシル」の発見にあった。
また、心理学者ユングも錬金術に注目していた。彼は心理学と錬金術との関係性を研究し、そこから「いっさいの神秘主義は、対立しあうものの結合を目指している」という結論を引き出したという。
心理学者カール・グスタフ・ユングは、錬金術に注目し、『心理学と錬金術』なる著書を書いた。その本の考察のすえにユングが得た構図は、錬金術(のみならずいっさいの神秘主義というもの)が、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである。
Wikipedia「錬金術」から
結局、錬金術とは、何とかして卑金属(≒人間)から金(≒神)を生み出し、両者を「統合」させることで、生まれながらの人類という堕落した卑しい種族の中から、聖なる全知全能の「神」を作り出そうとするまさにグノーシス主義的な異端の(詐欺的)試みであったと言えよう。
ちなみに、あらゆる錬金術師の悲願が「賢者の石」を作り出すことにあると考えれば、なぜフリーメイソンが「石工」集団の名で呼ばれているのかも、おのずと理解できるのではないだろうか?
そして、錬金術が、大きく見れば、人体の外にある物質を通して「霊薬」としての「仙丹(=賢者の石)」を作り出し、これを摂取することで、人間が不老不死に到達しようとする外丹術であるならば、人が座禅や瞑想や呼吸法などの修行を通して、体内の丹田(腹)に「気」を集めることで「仙丹」を練り、不老不死に到達しようとするのが、内丹術である。
今日、神秘主義の探求者の間では、錬金術のような外丹術よりも内丹術の方が主流になっているように思われるが、ヨガや、座禅や、瞑想、気功、武術には、人が自らの力で「気」を集めることにより、人体を変容させて永遠に到達しようとする内丹術が受け継がれている。
もちろん、「気」などというエネルギーが実在するという科学的証明は一切ない。そのような超自然的エネルギーがもしあるとすれば、それはただ悪霊に由来する魔術のような力でしかないことはすでに述べた。従って、「気」を引き出すことで、人間が超自然的な力を得て、自ら神を乗り越えようとする内丹術は、聖書の神に反逆する魔術でしかないことも、すでに説明して来た通りである。
だが、神秘主義者らは、今日も変わらず、人間を「神のように」するために、「気」を汲み出すことで超人的な人体の変容を目指しているのであり、それを彼らは「悟り」とか「覚醒」と呼ぶ。
東洋思想における「悟り」(=般若)とは「覚醒」と同義であって、これはただ単に人間の頭の中だけで理解される「知恵」ではない。彼らの言う「悟り」の概念には、人間が神のように変容するための具体的方法論としての修行が含まれており、東洋思想における「悟り」とは実質的に超自然的な能力の「覚醒」を伴うものなのである。
そして、そのような意味での「覚醒」こそ、創世記で蛇が人類に吹き込んだ「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようにな」るという「偽りの知恵」だったのであり、それこそが、鈴木大拙の言う「知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになる」結果として生まれる「行を支配する知」(もしくは「行」と一体化した「知」)なのである。
そう考えると、なぜキリスト教に偽装したグノーシス主義の媒体に"Eden Media"という名称がつけられたのか、その意味も見えて来よう。私たちはこの媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、キリスト教の信仰を装いながら、その実、聖書とは決して相容れないものをキリスト教と合体させようとするグノーシス主義的な偽りの「統合」に根差していることをすでに見て来たが、”Eden Media” の意味する "Eden"とは、「入不二界」と同じであり、要するに、鈴木の述べた「第二の林檎を食べ」た後に出現する人類の楽園を意味しており、すべての神秘主義者が飽くことなく目指している人類の地上における幸福社会、第二のエデン、すなわち、「道」との一体化のことなのである。
私たちクリスチャンは知っているはずだが、真のキリスト者であれば、エデンに回帰することなどを決して目指したりしない。私たちの到達目標は、失われたエデンではなく、神の聖なる都としての新エルサレム、新しい天と地である。しかし、グノーシス主義者には、必ず時間軸を逆行して、人類が創造される前の状態に自力で回帰することで神と一つになろうとする、原初回帰という特徴がある。
「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。
アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)
むろん、鈴木大拙の以上の主張も、すでに説明した通り、錬金術のような詐術であって、これは徹底的に神不在のグノーシス主義である。アダム、エバのいたエデンには、聖書の神の言葉を人間がわきまえ、それに従うという「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」だけが存在したわけではなかった。そこには、「知」と「行」が一体化した世界があったのである。ところが、鈴木はそこから「神の言葉を知るという知」を除き去り、エデンには聖書の神の言葉も、それをわきまえる「知」もなく、ただ「行」だけがあったことにしてしまっている。
その後、蛇に由来する偽りの「知」が出て、失楽園が起きたのであるが、鈴木は、失楽園の原因となった悪魔的な「知恵」をも、聖書の神の言葉を知る「知恵」とすりかえ、人類が自ら神に逆らったため、神の言葉を知る「知」から排除されたことを棚に上げて、知性(聖書における神の言葉に立脚する知性)が二分性を帯びており、人間を罪に定めたり、排除したしりするから、表面的で薄っぺらなもので、人間の本質たり得ないと決めつける。
そこには、聖書の神の御言葉が、ただ人間を排除するものだという決めつけがあるだけで、聖書の御言葉が本来的に目指しているのは、キリストの十字架を通して、人間を神に立ち帰らせることだという神の側からの救済の観点が完全に抜け落ちている。
そして、鈴木は、そのようにして、すりかえと歪曲とごまかしと決めつけに立脚して、「神の言葉を知るという知」を全面的に退け、人類は失楽園の原因となった蛇に汚された偽りの「知」を保存しつつ、これをもとの「行」と一致させることで、第二のエデン(「入不二界」)に復帰できるというのである。
これが禅者の言う「悟り」の本質である。要するに、蛇に由来する偽りの「知」と「行」を一致させることで、人類が聖書の神の言葉を退け、神から疎外されたまま、神不在の状況の中で、「二度目の林檎を食べ」て、隠れた内なる目を開眼させて、自分だけの力で神のような超人の世界に足を踏み入れることができるという教えである。二度目の林檎を食べるとは、要するに、人類が再び、蛇に由来する偽りの知恵に基づいて、「内なる目を開眼させる=悟りを得る=覚醒する」ことを意味する。
これは、結局、創世記において、蛇が「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と人類に言ったことの発展・繰り返しであり、「目が開ける=第三の目が開眼する」、「神のようになる=覚醒して超人的能力を身に着ける」、「決して死なない=不老不死に到達する」、「善悪を知るようになる=悟りを得てすべての物事を聖書の神の秩序とはさかさまに被造物を中心に見るようになる」と理解できる。
大仏像などが、常に座禅のポーズを取っているのは、「覚醒」が起きるための修行中であることを表す。そうして彼らが得ようとしている「悟り」は、頭の中だけで得られる知識ではなく、人体を変容させるための「行(修行)」を含んでいる。つまり、「悟り(般若)」とは、単なる思想ではなく、人類が「神のように」変容するための方法論なのである。
7.座禅(ヨガ)は蛇(クンダリニー)による「覚醒」によって人類を超人化する偽りの「道」
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鎌倉大仏殿高徳院 PHOTEK
日本人は、至る所で、座禅を組んで修行をしている仏像などを見ているものの、あまりにも何気なくそれを通り過ぎているため、自分たちが一体どのようなシンボルに取り囲まれているのか、それにどれほど危険な思想が込められているのかを理解することはほとんどない。
人類が自らの内にある悪魔的能力を開発することによって自ら神に到達するという「アセンション」の概念は、比較的最近になって生まれたわけではなく、実質的に、古代からずっと絶え間なく存在していた。そこで、今回、改めて、神秘主義思想家らの言う「悟り」が、蛇の教えによる「覚醒」と不可分の関係にある大変に危険な思想であることを、鎌倉の大仏の座禅のポーズなどが根本的に何を意味するのかを通して考えて行きたい。
今日、仏教の寺などで一般向けに行われている座禅は、精神統一の方法であるなどと教えられており、そこでは、「悟りを得て神のようになる」という神秘主義思想の本来の中核となる超人思想の要素はかなり薄れているか、あるいは抜け落ちている。
だが、禅は、もともとサンスクリットの dhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、もしくはその音写としての禅那(ぜんな)から来る名称で、日本の禅宗も、中国禅から来たものであり、その始祖はインド人で中国で禅を広めた菩提達磨(ボーディダルマ)であるとされる。また、座禅とヨガの根源は同じであり、インドの古典哲学「ヨーガ・スートラ」に由来する。
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(月岡芳年画『月百姿 破窓月』Wikipediaから)
だるま人形のモデルともなった菩提達磨。手足がない人形に模されるのは、達磨が偽りの知恵に基づき、修行によって「覚醒」した(=「悟り」を得た)結果、自らの思念によって肉体を制圧し、肉体の限界を超えて、手足を使わなくても、まるで霊だけであるかのように自在に動き回り、「神のように」超能力を行使する術を身に着けたことを意味する。
このように、座禅とヨガは基本的に同じ概念でり、同じ目的を目指していると言える。そのことを理解した上で、前回、取り上げた、Eden Mediaの「ニューエイジ思想の呪縛 / ヨーガ 」の中で触れられていたヨガの危険性を改めて振り返りたい。
この動画では、ハタ・ヨーガにのめり込んでいたとする解説者が、ヨガの危険性について語る。むろん、Eden Mediaは、すでに述べたように、ニューエイジ思想を非難しているように見せかけながら、実質的には、人々をニューエイジの只中に誘導するという悪しき循環のシナリオになっているため、視聴者はこれがキリスト教の信仰に立つメディアではないということにはよくよく注意して、これを鵜呑みにしないようにしなければならない。ただし、ヨガの起源が悪魔的思想にあるという指摘そのものは事実であるため、一体、座禅やヨガの意味するところが何なのかを理解するために、その危険性が指摘されている部分だけを取り出して見てみたい。
ハタ・ヨーガは”月と太陽””光と闇””男と女”
主要目的は内部の対極をバランスさせることです。
しかし、この概念は間違いであり、
別の機会に取り上げる予定です。
ここでは詳しい内容は述べませんが―
根源はオカルトであり、悪魔的です。
(注:対極にあるものを融合するとはグノーシス主義の概念であるから
オカルト的であり、悪魔的であるという指摘は正しい。)では”ヨーガ”の意味は?
グーグルで”yoga”の意味を調べてみます。
すると現れる定義は、
「ヒンドゥー教の霊的な禁欲苦行」
「主な手法は呼吸法、簡単な瞑想、そして様々なポーズである」
まず気付くのが「ヒンドゥー教の霊的作法」
肝心なのが、そのルーツが間違った宗教にある事です。
私はヒンドゥー教徒の聖典「ハガヴァッド・ギーター」の勉強を行いました。そして認識すべき事は一つ一つのヨーガのポーズは
ヒンドゥー教の神に対する礼拝になると言う事です。
ヨーガを始める多くの人は、この事実について全く知りません。
ナイーヴな状態です。
しかし、霊的な根源は間違った宗教にあり、
関わるべきではありません。
私が深くのめり込んだのが”クンダリーニ・ヨーガ”でした。
クンダリーニ・ヨーガは
ヨーガの種類の中でも、最も悪魔的です。
主要思想は、背骨の最下部に
休眠中の蛇がいると言うものです。
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そこで体験するのが”クンダリーニ覚醒”です。
クンダリーニ覚醒では、螺旋の蛇が背骨を上昇します。
チャクラを経由し、松果体に到達します。
そこはクラウン・チャクラであり、”神意識”が芽生えるのです。蛇が上昇し、頂点に到達すると―
”悟りの目”と言われるサードアイに達します。
そこであなたが神であると説得します。
ヨーガの最終段階は、神に到達する事だからです。
自分が神であると認識し、すべてが神となるのです。
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この解説から、結局、ヨガが目指しているのは、「アセンション」つまり、「人が神のようになる」ことなのだと分かる。そのためには「サードアイ(隠れた第三の目)」の開眼が必要であり、蛇の助けを借りねばならないというのである。
聖書の創世記では、蛇の姿をした悪魔が、外側から人類に忍び寄って偽りの知恵を語りかけて欺いたように思われるが、「クンダリーニ覚醒」では、その蛇が人体の中に侵入し、人を内側から「覚醒」させるというのであるから、これは恐ろしい修行である。
だが、聖書において、人類が神に食べることを禁止されていたにも関わらず、取って食べた「善悪知識の木の実」は、実質的に「蛇の卵」だったとのかも知れないという推測も生じる。人類が神に背いて堕落してしまった時に、人類は悪魔の支配下に落ち、その際、霊的な文脈において、悪魔的な種子がすべての人類に植えつけられたのだと考えることもできよう。
(*ちなみに、Eden Mediaの動画には、以上のような不気味な映像や、ぞっとさせるような表現が満ちている。ある意味ではそれらの指摘は当たっているのだが、それでも、明らかに、この動画が単なる警告という目的を超えて、あらゆる箇所で不気味さを強調し、このような異常な悪魔的シンボルを人々に見せつけるために作られていることをも感じさせる。)
さて、ヨガという言葉には、「従わせる」という意味が込められているが、これが何を意味するのかを考えてみたい。この語は、もともとは牛馬などの家畜にくびきをつけてつなぐ、という意味を持つ。「十牛図」でも、グノーシス主義的な意味での「神的自己(真の自己)」を牛にたとえ、人類が「真の自己」を発見し、これを制する(一体化する)ことによって、世界(永遠)との合一を目指すという過程が描かれる。
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「十牛図」
ここで「牛」がモチーフとして使われているのは、ヒンドゥー教では、牛が聖なる動物として崇拝の対象となっていることにちなんでいるだけでなく、牛は、「神的自己」でありながら、同時に、人体にもなぞらえられていると考えられる。
すなわち、ヨガにおいては、人間が自らの思念によって、自分の肉体にくつわをかけて、自在に引き回すがごとくに、己のすべての肉体感覚をないがごとくに滅却する能力を身に着け、肉体の限界を超えて、肉体を離脱して、あたかも霊だけになったかのように、自在に超自然的な働きをなす前提を整える。
「十牛図」の真の意味もそこにあり、一般向けの理解や解釈がどうあれ、この神秘主義思想の本来的な意味においては、ヨガのような修行によって、人間が体を完全に制圧する術を学ぶことによってしか、彼らの考える(偽りの)完全な「悟り」を得て、人が「神意識」に目覚め、「永遠」と一体化して「神のようになる」ことはできない、という意味が込められているものと考えられる。(まさに以下に引用するペンルイスの指摘の通りである。)
「十牛図」から。
この図は、人が「真の自己」(牛の姿で表される)を発見し、これと一体化して「悟り」に至る過程を絵図で表したとされる。上記の四~六の図では人が思いのままにならない「牛」を制御する方法を会得し、「真の自己」と一体化する過程が描かれている。各画像の出典は、四、五、六。
ヨーガ (योग) は、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞根√yuj(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、牛馬を御するように心身を制御するということを示唆しており、「くびき」を意味する英語yokeと同根である。『ヨーガ・スートラ』は「ヨーガとは心の作用のニローダである」(第1章2節)と定義している(ニローダは静止、制御の意)。
森本達雄によると、それは、実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、自らの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中する(結びつける)ことを通じて「(日常的な)心の作用を止滅する」ことを意味する]。
Wikipedia「ヨーガ」より
先に引用したように、ペンルイスは、東洋神秘主義の導師(グル)たちが、思念によって肉体感覚を完全な制圧し、服従(=Yoga)させて、すべての肉体感覚を滅却する術を身に着けているがゆえに、邪悪な超自然的な力を発揮できると記している。
「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる」
「この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。
「インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」
「クンダリーニ覚醒」とは、このようにして、人が自分の肉体を完全に制圧して、その限界から離脱することで、「神意識」なるものと融合するための前提条件だと考えられる。
さらに、そこで、言われている「チャクラ」なる概念も、非科学的で全く実在が証明されておらず、古代インドの神秘主義に由来する概念に過ぎないが、それが「円盤」や「輪」を意味するものであるということを心に留めておきたい。
「チャクラ(梵: चक्र, cakra; 英: chakra)は、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する語である。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。
輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。」
「身体エネルギーの活性化を図る身体重視のヨーガであるハタ・ヨーガでは、身体宇宙論とでもいうべき独自の身体観が発達し、蓮華様円盤状のエネルギー中枢であるチャクラとエネルギー循環路であるナーディー(脈管)の存在が想定された。これは『ハタプラディーピカー』などのハタ・ヨーガ文献やヒンドゥー教のタントラ文献に見られ、仏教の後期密教文献の身体論とも共通性がある。
現代のヨーガの参考図書で述べられる身体観では、主要な3つの脈管と、身体内にある6つのチャクラ、そして頭頂に戴く1つのチャクラがあるとされることが多い。この6輪プラス1輪というチャクラ説は、ジョン・ウッドロフ(英語版)(筆名アーサー・アヴァロン Arthur Avalon)が著作『蛇の力』 (The Serpent Power) で英訳紹介した『六輪解説』 (Ṣaṭcakranirūpaṇa) に基づいている。」
Wikipedia「チャクラ」より
さらに、「クンダリニー」とは一体、何を意味するのか調べてみよう。すると、Wikipedia「チャクラ」を参照すると、それは「蛇の姿をした女神」であることが分かる。第一から第六までの「チャクラ」なるものについての詳細は、ここでは細かく引用しないため、上記ソースを参照されたいが、これを見ると、背骨の下にあるとされる「第一のチャクラ」において、「蛇=クンダリニー」が「休眠」しているということになっており、「覚醒」とは、この蛇が活性化し、次第に頭部まで昇りつめ、人間の全身を制御することで、超人的な変化をもたらすことを指す。「悟りの目」なる「サードアイ」が開眼するのは、この蛇が眉間にある「第六のチャクラ」まで到達した時だとされている。
「クンダリニー(蛇)」の正体とは何なのかさらに調べると、それは「人体内に存在する根源的生命エネルギー」であるとされる。
クンダリニー(Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、人体内に存在する根源的生命エネルギー。宇宙に遍満する根源的エネルギーであるプラーナの、人体内における名称であり、シャクティとも呼ばれる。クンダリーニ、クンダリニと表記されることもある。
クンダリニー・ヨーガなどにより覚醒させられると神秘体験をもたらし、完全に覚醒すると解脱に至ることができるとされているが、覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じる様々な快・不快の症状をもたらすと主張している。
Wikipedia「クンダリニー」より
「クンダリニー」とは「プラーナ」とも呼ばれているため、「プラーナ」が意味するところも調べてみると、以下の通りである。
プラーナ(梵: प्राण、prāṇa) は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。Wikipedia「プラーナ」より
これでほとんどの謎が解けたのではないかと思う。武術や座禅や瞑想や呼吸法などの修行によって引き出される「気」というものは、まさに「クンダリニー」すなわち蛇に由来する悪魔的な力だったのである。古代インド哲学や、それを継承する東洋神秘主義思想は、蛇に由来する堕落したパワーをすべての生命の「根源的エネルギー」であるかのようにみなしているということである。
ここで蛇(クンダリニー)が女神とされているのは、おそらくは、サタンも神の被造物(霊的女性)であることから来ているものと思われる。グノーシス主義では、ソフィアの過失なども含め、女性人格の側から男性人格への簒奪が行われるが、それは結局、被造物から神への反乱という意味合いを持つ。
クンダリニーは離れ離れになったシヴァ神(ヒンドゥー教の最高神)と再結合を果たすために、人体に侵入しており、この堕落したエネルギーの活性化により、休眠状態を解いて頭頂部にまで上り詰めるというが、それが果たされれば、堕落した肉的エネルギーが人間の精神を制圧し、人体を完全に操ることになる。
このことは、人間の全身がグノーシス主義的思想によって占められることを意味し、結果として、霊的に「頭のない体」が出来上がる。なぜなら、人間の内側で、精神が肉体をコントロールするのではなく、肉体に由来する本能的で悪魔的なエネルギー(「気」、もしくは「思念」)が、人間の肉体ばかりか精神までも完全に制圧し、知性・理性を駆逐してしまうことは、人が理性を失った状態になることと同じだからである。
これが、グノーシス主義が目指している「嬰児的回帰」の具体内容である。老子が説いている「道への復帰」としての「精→気→神→虚の逆行」の過程も上記と同じことを指しており、人間が知性を退け、彼らが「万物を生み出す根源的なエネルギー」であるとみなす「精、気」に自ら立ち戻ること(嬰児的回帰)を通して、人類が自ら創造された過程を自力で逆行して、すべての創造の根源であり永遠の生命とされる「道」まで昇り詰め、「天地造化の秘密を奪う」ことを終局的な目的としているのである。(人体におけるクンダリニー上昇の過程は、人類の天までの上昇の過程と重なるであろう。)
クンダリニーは、神話を研究したソヴァツキーによれば、受精後の肉体の形成にはじまり、人間を終生にわたり成熟・進化させる究極の力であるという。また、フランスのエミール・デュルケームはあらゆる種類の神々の原料のことを集合意識と述べているが、クンダリニーはそれに該当する可能性があると主張する。
Wikipedia「クンダリニー」より
『老子』第十六章は「帰根復命」によって、道への復帰をいう。内丹術はこれらに基づいて、「道生一、一生二、二生三、三生万物」という天地万物の生成の「順行」に対し、修煉によって、「三は二となり一と化し道に帰る」という「逆行」に進むことができるとする。人間においては、神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだすという「神→気→精」が順行の経路であり、「精→気→神→虚」の逆行が根源への復帰であるとした。これが内丹道の説く天地造化の秘密を奪うことである。この「逆修返源」の方法は「順成人、逆成仙」の原則となり、性と命が虚霊である「元神」(本性・本来の真性)にたち帰り、迷いを去り道を得る、万物と感応し道と交わる、永遠の生命たる道まで昇り一体となる修道(中国語版)の基礎理論となった。
『老子』は神秘思想を語った章があり日本では哲学と考えられていたが、現在では何らかの修行を伴ったとする研究者が増えている。『荘子』は道と一体になる手段として「坐忘」「心斎」を説いている。それを承け紀元前から紀元2世紀の『淮南子』までの初期道家で、虚に至る高度な瞑想実践が行われたとする説も発表されている。
Wikipedia「内丹術」より
一体、彼らが、こうした修行によって到達できるとしている「神意識」なるものは、何なのだろうか。それを人類の「集合意識」だととらえている説もあるから興味深い。そう考えると、なぜグノーシス主義者が個人の悟りでは満足せず、集団的覚醒を促そうとしているのか、その理由も見えて来るだろう。
さて、このように座禅やヨガにおける「悟り」や「覚醒」は、蛇(悪魔)の偽りの知恵に由来するグノーシス主義的な悪しき概念であり、邪悪なエネルギーによって人間の内なる「神的自己」(本当はそのようなものは人間の内に存在しないので、これは邪悪な生まれながらの自己を肥大化したものである)を「覚醒」させて、人間を「神のように」変容させようとする手段であることを理解したい。
その上で、Eden Mediaが出している直近の動画「【4月】全能の目・松果体のお話。」や「悟り」を見てみると、この媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、むしろ、反キリストの到来に備えて、人類超人化計画(集団的アセンション)の達成に奉仕しようとするものであることが分かる。
Eden Mediaが真の目的としているのは、人類が「クンダリニー(蛇=悪魔)」の力によって「覚醒」し、「サードアイ」を開眼し、超能力を身に着けて、「神のよう」になって、存在し得ない地上の楽園たる「第二のエデン」に自力で回帰することであり、これはキリスト教に偽装しようとしてはいるものの、その本質は完全に偽りの神秘主義思想を「布教」する媒体なのである。
<続く>