忍者ブログ
栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

1.ビュン氏事件に見るカルト化問題への韓国教会の素早い対応と、弟子訓練の危険性

大分前に記事の中で、筆者は「吉祥寺の森から」ブログの記事「卞在昌(ビュン・ジェーチャン)の性的猥褻行為 」にリンクを張った。以来、今に至るまで、ここにはビュン氏関連のニュースはほとんどないというのに、異常現象として、ビュン氏の名前でのアクセスが後を絶たない。

しかも、ブラウザの言語が「韓国語」であるアクセス、日本外(恐らく韓国)からのアクセスであろうと思われるものがいくつもあった。最初のうちは、数日も経てば潮が引くように減少するに違いないと考えていたが、今になっても、「ビュン(氏)」の検索用語で辿り着いて来る人々が後を絶たないのには、正直、不気味な感じさえ覚えている。

このような関心には、2月8日の「クリスチャン新聞」によるビュン氏事件の報道の影響もあるかも知れないが、それだけではない。報道以前から、この事件の行く末を非常な関心を持って追い続けている一大勢力がある。しかも恐らく最も熱い関心は日本国外から注がれているものと見られる。今後、日本において韓国のキリスト教勢力はどのように活動すべきなのか、今後の方針を検討する意味合いもこめて、日本人クリスチャンがこの事件に対して示している反応を詳しく調査している人たちがいると思われる。

いずれにせよ、ビュン氏の引き起こした不祥事に対して、韓国クリスチャンの対応は素早かった。この事件に関する詳しい事情を今現在、知らずにいる筆者は、ただ「吉祥寺の森から」に全面的に頼って判断することしかできないが、当該ブログによれば、事件報道後、1ヶ月と経たない1月25日に、ビュン氏への支援を行ったサラン教会の主任牧師兼、国際弟子訓練院院長である玉漢欽(オク・ハンフム)氏が声明文を出し、関係者からの報告を吟味した結果、事件の「信憑性の極めて高いことと事案の深刻さ」をはっきりと認めた。

玉氏は、そこで、「この度の性的な不祥事はあくまでも卞牧師個人の過ちであり、弟子訓練とは何ら関係のないもの」として、自分の組織が推進してきた弟子訓練のプログラムや理念と、今回の不祥事はあくまで別物であるとして切り離しながらも、しかし、「サラン教会自体もまたこの事件による大きな被害者であることは確かであるとは言え、卞牧師の犯した不祥事による害悪が広まってしまったことについて、私たちは彼に対する監督責任をこの間十分果たせなかったという責めを、免れることはできないでしょう」と、自分達の教会に監督責任があったことを認め、「その意味で、痛みを負われた被害者たちやそのご家族、また信徒の方々に、私は心から深くお詫びを申し上げたいと思います」と謝罪している。

もちろん、弟子訓練のプログラムそのものに何ら欠陥があるわけではないという玉氏の主張には疑問の余地が大いに残ると筆者は考えている。弟子訓練の問題性については、今後、専門的な観点からの詳細な議論が不可欠であり、その議論を省略して、ここで性急に結論を下すことはできないが、それでも、玉氏自身が触れているように、弟子訓練というプログラムを導入した日本の教会の中には、大いなる腐敗に陥ったものが少なくない。
「大変心が痛むことには、日本で弟子訓練を標榜している牧師・宣教師たちの中で、卞牧師だけでなく、他にも何人かの不心得者が、真の弟子訓練牧会とは程遠い、誤った方法で教会形成をしており、それが日本における弟子訓練の評判を、著しく下げているという情報にも、現在接しています。」

問題は、日本の諸教会における弟子訓練プログラムの度重なる失敗を、一部の「不心得者」だけの責任として片付けることができるかどうかである。この問題については、今後、我々は議論を深めていかなければならない。

弟子訓練の導入により、想像を絶するような悲惨な結果がもたらされた教会の実例として、京都シティ・チャーチが挙げられる。ヒッピー出身の宣教師デローは、京都シティ・チャーチにおいて、弟子訓練と称して、幾人もの若い献身者に極貧の集団生活を強いて、強制的な奉仕や献金を行わせて信徒からの利益をむさぼり尽くした。事件が社会に発覚した後は、国外逃亡して行方をくらました。この教会で弟子訓練という名目で、どのような恐ろしいことが行われていたかは、被害者が自身の体験に基づいたブログ「コアラさんのブログ-CURURU」において、詐欺的マインドコントロールのステップを17段階に分けて詳細に分析しているので、最初の記事を紹介しておきたい。


2.カルト化の問題に対する日本キリスト教界の自浄能力の欠如と、被害者の力によって教界が無力を補おうとする矛盾

さて、韓国サラン教会の声明文の内容は今後、専門家の検討にまかせるとしても、この教会の取った不祥事への対応の迅速さは評価に値する。不祥事があっても隠蔽するばかりで、自浄能力が欠如しており、身内の悪徳牧師をかばい続けて絶縁宣言をする勇気さえ持てず、裁判で牧師への判決が確定してなお、言い逃れを続けているような日本のプロテスタント界とは、雲泥の差があると言えよう。

筆者は、自身がアッセンブリーに在籍していた事情も手伝って、この教団が行ってきたカルト化対策問題を参考にしながら、これまで日本の教会のカルト化対策について考察して来た。だが、日本の教界のカルト化対策の稚拙さ、対応の遅れには、今も呆れるばかりである。
アッセンブリー京都教会牧師であり「宗教トラブルセンター」の代表である村上密氏は、ブログにおける記事「教会の自浄能力」の中で、各教団の理事会などの組織は、概して、刑事事件、重大な民事事件を扱いなれておらず、不祥事を解決する能力が不足していることを認めている。氏は、「キリスト教会が自浄力に乏しいというのが私の感想です」と述べた上で、では教界内不祥事を解決する役割は、誰が担うべきなのかという問題に対して、次のように述べている。

「罪と向き合わない牧師は、罪を犯し続けます。もはやその暴走を止めることのできるのは、弱い立場だと思われている被害者です。弱い立場でも、被害が明白であれば、出るところ(裁判)に出れば勝訴します。裁判は加害者に罪と向き合わせ、罪に伴う罰と賠償の大きさに気づく機会を与え、来たる最後の審判までに悔い改めの機会を与え、魂を救済する方法なのです。」

だが、上記のような論法があまりにも大きな矛盾を抱えていることは明白である。教界に自浄能力が欠如しているその責任は教界自身にあるのであって、このことに関する具体的な責任者は、あくまで理事などの役職についている聖職者である。そのことは誰にも否定し得ない事実だ。ところが、教界側の怠慢という問題の解決を第一義的な優先事項とせず、むしろその問題の解決を差し置いて、加害者の暴走を食い止める役割を、よりによって被害者に期待することは言語道断な行為ではないだろうか。

不祥事を起こした聖職者が教職を即刻、離れ去るべきであることは言うまでもない。しかし、そのような断固たる処置を取らないでいる教界の怠慢に対しては、何ら有効な策を打ち出さないでおきながら、被害を受けた信者自身が、あくまで個別の裁判という方法を通して、自腹を切って、加害者である聖職者の人格的立ち直りに貢献することが望ましいと、被害者に訴えかける主張は、滅茶苦茶であり、被害者サイドの限界を無視して個人に過大な要求をつきつけるものである。

仮に英語が分からない教師が教壇に立って生徒に英語を教え、生徒から授業が理解できないと苦情を受けていたとしよう。教師はいつまで経っても自分が能力不足の教師であることを認めようとせず、学校も教師をかばうばかりで、このひどい教師を解雇しようともしない。そのことで生徒から相談を受けた他の教師が教室にやって来て、被害を受けている生徒たちを焚きつけて、このまま学校側の対応だけを待っていたのでは何にもならないから、生徒自らが立ち上がって、授業を中断して裁判所へ行き、教師の解雇を要求する裁判を起こすよう勧め、あまつさえ、英語を理解できる生徒が、英語を教えるとはどういうことかを、裁判を通して、この能力不足の教師に証明してやらねばならないと言うのだとしたら、そんな学校はまさに異常と言う他ない。

「弱い立場にある生徒こそが、能力不足の教師に自らの欠点と向き合い、教鞭を取ることに伴う責任の重さと、生徒に与えた損害の大きさに気づく機会を与え、教師としての出直しの機会を与え、彼の生涯を破滅から救済してやれるのです。」
そんな論理が成り立つだろうか?

能力不足の教師は教師としての訓練を受け直す他なく、生徒側の努力によって教師の人生を「救済してやる」ことなど不可能である。そんな支離滅裂な主張は、あまりにも生徒を馬鹿にしている。それでは、一体、教師という職業の専門性の意味はどこにあるというのだろうか?

本来、聖職者こそが、人間の罪に対して最も敏感であり、罪を犯さないよう人に教える存在でなければならない。ところが、その聖職者が罪に対して最も鈍感になっている場合、そのような聖職者は、牧者としての訓練を一から受け直す他ない。神学校からやり直し、牧師としての再教育を受けるべきであり、それができないなら教団や役員会の決定により教会を解雇されて当然である。
一体、そのような能力不足の牧師を、信徒が救済してやらねばならない理由がどこにあるのだろう?

さらに、悪徳牧師が裁判によって回心する可能性が極めて低いことはすでに裁判によって実証されている。裁判は、何らかの犯罪行為が存在したことを社会に知らしめる手段になりえても、加害者の魂や人格を救済する場には決してならない。

虐待的傾向のある牧師は、自己愛性人格障害のような深刻な障害に陥っている可能性があり、その場合、専門家による治療が必要とされる。だが現実問題、このような心理的障害に対しては、医学さえもはっきりした治療法を提示していないのだ。犯罪者の更生は、専門家の知恵を必要とする科学的にも未知の仕事であり、どうしてそれを医療関係者以外の門外漢、ましてや被害者が扱えるだろうか。

何よりも大きな矛盾は、本来、人の魂の救済の道を教える専門家であるはずの聖職者に、なぜ伝道の訓練も受けたことのない信徒が、「来るべき最後の審判に備えて」、聖職者に「悔い改めの機会を与え」、「魂の救済の方法」を模索してやらねばならないのかという点である。
「倒錯かくも極まれり」と、筆者も叫びたくなる。教会というところでは、信徒の熱心なはからいによって、堕落した牧師が悔い改めの機会を得て、魂を救われることが期待されていようとは! これでは牧師の職務の意味は一体、どこにあるのだろう? まるで、八百屋の主人が、大根を買いに八百屋に来た客から、大根を買おうとしているような笑止千万な話である。 

このような恐ろしい問題ある限り、ニッポンキリスト教界には近寄らないことが信者にとってはやはり最善の道であると筆者は主張する他ない。
たとえ百歩譲って、仮に裁判が村上氏の言うように、加害者が「罪と向き合う」有効な手段になりえる場合があったとしても、そもそも教会とは、堕落した聖職者を命がけで信徒が救済してやらねばならない場所ではないはずだ。信徒はあくまで自分に合った、道徳的に正しい教会を探し、誤った教会と、そこで起こる無意味な争い事からは一刻も早く離れ去った方が良いと筆者は思う。

もしも裁判で人の魂が救える可能性があるなら、何のために教会が地上に存在する意味があるのだろう。そんな方法が真実、有効だと信じるならば、牧師は裁判官に職を譲って、さっさと辞職すればよろしい。

カルト化教会の被害者が、悪徳牧師を更生させるための裁判という絶望的な取り組みに、一生をかけて関わる価値は全くない。むしろ、聖書のたとえに登場する愚かな花嫁のように、人の救いにかまけているうちに、自分の救いを失うことがないように、信者は注意し、愚かな人々の問題に巻き込まれて、人生を滅茶苦茶にされないうちに、問題のある教会からは離れた方が良いだろう。


3.専門家としての役割が果たせない牧師は辞職すべきである。

上記のような問題を語ると、ある信者は言った。「自浄能力がないから他浄?そんなこと言っているようじゃ、牧師は本当に総辞職するしかないわね。」
…とうごまの木の下で自分の預言が外れたことを嘆いたヨナのように、神の憐れみにより、筆者の予測が裏切られ、教界というゴモラの街にも、再生の道が与えられればどんなに良いだろうかと筆者は考える。だが、どんなに期待をこめて眺めても、この教界の落ち込んでいる腐敗はあまりにも深く、到底、立ち直りの可能性が見出せないということを、絶望的な思いで筆者は感じるばかりだ。

非常識な牧師たちに総辞職という挑戦状が突きつけられることは、少しも新しい現象ではない。がん患者に対する新しい医療のあり方を医師の側から打ち出して、全国的に有名になったクリスチャンの樋野興夫氏がかつて教界に向けて同様の主張を打ち出したことがあった。関西出身で、アッセンブリー教団とも親交があった牧師中川健一氏が主催するハーベストタイムミニストリーズ出版から出された、『がん哲学から人生を読み解く』という彼の著書が偶然、我が家の本棚におさまっていたので、そこに掲載されている中川健一氏と樋野氏との次のような興味深いやり取りを抜粋しておきたい。 

"「牧師は総辞職せよ」の真意

中川 <略>二年ほど前に、私が先生に初めてお会いした集会でしたが、あの時、「牧師総辞職論」というのを打ち上げられましたね。あの会議では、他のことは忘れましたが、これだけは覚えているのですが、非常に衝撃的で、チャレンジを受けて、納得出来たのです。
 しかしメディアで取り上げられた時に、どうもその言葉だけが独り歩きして、多分に誤解された面があったように感じるのですが、今日は先生に、弁明の機会を与えたいと思っております。「牧師総辞職論」の真意を教えていただけませんか。

樋野 あの時は、干されましたね。キリスト教系の新聞の一面に出ました。「牧師は総辞職せよ」とですね。みんな言いますよ、「信徒の分際で何を言っている」とか。その時、「牧師総辞職論」だけを言ったわけではないんです。五つのことを言いました。
 まず「宣教師はがん細胞になれ」と言ったのに、それは無視されましたね。それから「ビジネスマンは胆力(たんりき)を持て」とも言ったのです。キリスト教系の新聞に「新渡戸稲造、南原繁、内村鑑三、矢内原忠雄の特集をせよ」と言ったのですが、これも無視されました。生き残ったのが、「牧師総辞職論」です。
 私も教会に行っていますから、牧師を個人的に攻撃しているわけではないんです。これはビジネス社会で言えば、会社が赤字続きであれば社長はクビでしょう。その会のテーマは「日本は何故一%の壁を破れないか」ということだったから、戦後ずっとこの状態なのだから、それなら牧師が総辞職したほうがいいと言ったのです。<中略>
 もう少し教会のあり方というか、牧師のあり方とかを考えるべきですね。一般的には、牧師には受けは良くなかったようです。クリスチャンや一般の方からはメールが来て、「良く言ってくれた」と言っておりましたが、牧師から見れば腹が立つでしょう。
 問題は、「今の時期に、牧師も考えよ」ということです。そうすれば、少しは変わるでしょう。

中川 牧師の側から言うと、こういう発言があった時に言葉尻、あるいは言葉の表面をとらえるのではなくて、どういう意図で、どういう深みからそういう言葉が出て来ているかということを感じ取れるセンスが必要です。それを表面的に反応していると、いかにも子どもっぽいという感じがします。<略>"
『がん哲学から人生を読み解く』、樋野興夫著、ハーベストタイムミニストリーズ出版部、2006年、pp.42-45.

この著書からは、筆者が読んだ限りでは、クリスチャン向けに平易に書き下ろしたためか、あるいは紙面に限りがありすぎるためか、樋野氏のライフワークである肝心の「がん哲学」の主張があまりはっきりとは見えて来ないように思われたのが残念であった。また、抜粋からも分かるように、「弁明の機会を与えたい」とか、「干されました」、「信徒の分際で」など、風通しの悪い業界における聖職者たちの横柄な態度、平信徒への不遜な目線がはからずも、一般人にまで透けて見えてしまうような表現がしばしば見受けられた。

ニッポンキリスト教界の牧師たちが伝道の主要目的に「日本のリバイバル」や「教会成長」を掲げるようになって久しい。だが、そのような目的を掲げて牧師たちがプロジェクトを推し進めるのであれば、目的が達せられなかった場合、自分たちのマーケティングの方法に問題があったことを素直に認めて、牧師が何らかの責任を取るのは当然である。
元々、信者数の増加しか念頭に入れないような浅はかなビッグ・イベントに精魂を費やすこと自体が、伝道の本来的な目的から著しく逸脱していると筆者は思うのだが、その問題をさし置いても、一旦、目標を打ち出したのであれば、一定期間で成果が上がらなければ、方法論の見直しを行い、失敗の責任の所在を明らかにして、プロジェクトを実現不可能とみなして終わらせることは不可欠だ。

その意味で、牧師が信徒の増加計画を本気で推進するなら、プロジェクトが失敗した場合に、進退をかけて責任を取る覚悟を固めるべきだという樋野氏の主張は、一般人から見れば、至極もっともである。
だが、そのような樋野氏の常識的な主張に対して、教界の聖職者たちがどれほど巨大な反発を示したかは、上記のやり取りから容易に想像できよう。

中川氏は対談の中で、一見、業界の一部の聖職者の子どもっぽい反発を嘆いているように見えるが、その実、対談そのものが、一信徒の極論に対して聖職者があえて「弁明の機会を与え」てやるという形になっていることは見逃せない。このことからも、ニッポンキリスト教界において、聖職者と平信徒との間に、いかに越えがたい深淵が横たわっているかが垣間見える。

樋野氏は現在もハーベストタイムミニストリーズと密接なかかわりがあるようで、同出版社の月刊デボーション誌"Clay"の巻末にも論説を寄せている。だが、一旦、業界から「干された」と自ら述べている樋野氏をハーベストが「拾い上げた」ことに、何かしら穏やかならぬものを感じるのは、筆者だけであろうか…。

カルト化問題に際しても筆者はさんざん感じてきたことだが、この教界は、一旦教界にたてついた信者を決して赦そうとしない古くさい体質をいまだに引きずっている。さらに、一部の聖職者には、たとえカルトの被害者であろうと、利用できる信徒からは、奉仕・献金という形でとことん生き血を吸い上げようという恐るべき傾向さえ見られる。恐ろしいことだが、教界と悶着があった人物は、そのトラブルから「救ってやる」との名目で、教界に再利用されてしまう危険性が多分にある。

そこで、一旦、教界から危険視されたことのあるような信者は、この教界によって永遠のリサイクル資材とされないために、二度と教界に関わらない方が良いと筆者は考える。
ハーベストタイムミニストリーズには、イスラエル情勢(シオニズム問題)、カルト対策問題、中川氏の盛んな執筆活動など、クリスチャンの議論が集中しそうな問題が複雑に絡み合っており、今は言及を避けたいが、今後の動向が注目される。とにかく、これまでにも各界の著名人を招いて番組の視聴率を上げ、支持基盤を作り上げてきたハーベストタイムが、「がん哲学外来」の提唱によって今や日本の医療において時の人となっている樋野氏との関わりから得られるものがことさらに大きいことは確かだろう。


4.とんびに油揚げをさらわれないためにも、教界は同士討ちをやめて我が身を正すべきである。

さて、最初の話題に戻れば、日本のキリスト教界には長年かけて韓国勢力が浸透してきたが、その真の目的がどこにあるのかを考えたことがあるクリスチャンはどのくらいいるだろうか。筆者の属していたアッセンブリー教団でも、かつて幾度にも渡り、韓国人の若い伝道師たちを日本に招聘して、日本人信徒との交流の場を設けたことがあった。さらに最近は、「韓流ブーム」のあおりを受けて、日本のキリスト教界には韓国勢の活躍が盛んになっている。多くの韓国の若い伝道師たちが、日本宣教のために母国を離れ、この国に来て生活しており、韓国語などを教えるサークルを開きながら、若者伝道を繰り広げている。

A教団にいた当時、筆者は韓国との交流イベントに何の疑問も持たない子供であったが、今となっては、そのような「文化交流」の大義名分だけを無邪気に信じることはできない。
ただし、こう言ったからと言って、途端に、筆者が排外主義的なナショナリストの視点に立って、韓国人のキリスト教勢力を日本から撤退させよと叫んでいるとか、キリスト教界における日本人による民族自治を掲げて単一民族(もちろん、そんなものは日本に存在しない)に基づく教会運営を目指しているとか、浅はかに決めつけないでいただきたいと思う。

かつてフランシスコ・ザビエルが日本に派遣され、日本にキリスト教が伝来した昔から今日に至るまで、他国からこの国に遣わされた宣教師が、ただ日本人にキリスト教を布教することだけを純粋に目的として活動していたことはなかった。たとえ宣教師自身は、私心抜きに民衆への伝道を目指していたとしても、彼を派遣した元の団体には別の政治的意図があった。

ザビエルが属していたイエズス会は、ローマ教皇の権力に絶対服従することを誓った修道会であり、イエズス会の当時の重要な任務の一つは、カトリックに攻撃を挑んで来るプロテスタントの勢力拡大を食い止め、プロテスタントに打ち勝つために、世界のできるだけ多くの地域をカトリックの影響下に取り込むことだった。一言で言えば、プロテスタントとの勢力争いに勝って、カトリック宗教権力が拡大するために手足となっていた組織がイエズス会であり、その目的のために、イエズス会は、派遣した先の国や地域に大きな影響を与えることができるような優れた修道士の育成に力を注いだ。そこで、教養高く、学問と芸術に秀で、人格的にも優れており、高い志を持って、献身的に地元の民衆に仕えることのできるような人材が育成されて、現地に派遣され、優秀な宣教師たちは、派遣先の国の民衆の信頼を勝ち得て、その地域に密着して活動しながら、その社会に関する詳細で多岐に渡るデータを集めた報告書を本国に送った。

欧米の国々では歴史的に、よく知らない国々の政治・経済・文化を調査するにあたり、まず、斥候のように宣教師を遣わすというのが慣わしであった。日本だけでなく、どこの国の民衆も、宗教権力には弱いものだ。神の名前を持ち出されると、民衆は畏れの気持ちを抱き、相手に対する敵愾心や、疑う能力をなくしてしまう。そこが民衆の愚かさであり、謙虚さでもある。だが、そうして修道士や僧侶が派遣された裏にある目的は、派遣元の国や団体が、やがてその地域で思うままの影響力を行使するために、まず地域に関する情報を集め、愛想の良い宣教師の笑顔によって、地元民の警戒心を解かせることにあった。

宣教師の派遣という形での、日本における諸外国の偵察、影響力拡大は、歴史を通して行われて来たことであり、キリシタンの殉教なども、その文脈を離れて、ただ信仰の問題としてだけ論じることはできないと筆者は考えている。殉教の問題に関しては、いずれ稿を改めて詳しく考察することができれば幸いである。

とにかく、宣教師の派遣は外国の情報収集と影響力拡大のためにこの国で古くから用いられた手段であり、現在の日本における韓国人キリスト教勢力の活動だけが例外であるとみなす理由はどこにもない。

韓国は大陸にあって、人々はいつ他国から侵略されて国が消滅するか分からない危険の中で暮らして来た。さらに、米ソという超大国の軍事的脅威のために、南北分断という悲劇まで味わわされた苦い歴史があるだけに、韓国人は、日本人に比べ、したたかで、シビアだとよく言われる。一見、感情的なように見えて、物事に本音と建前があることをよくわきまえている。
他方、島国の鎖国状態の中で長く歴史を過ごして、他国に侵略されることもなく、モンゴルの襲来さえも「神風」で撃退したなどと、信じがたいことをかなり長い間、大真面目に吹聴してきた日本人には、大陸の諸民族のしたたかさを理解できず、すぐにアンフェアだ、ずるさだと決めつける傾向さえ見られる。

だが、外国人に対してまで自国の伝統的コミュニケーション方法を押しつけ、それが上手く行かない場合には相手ばかりを非難して終わりにするのには無理があろう。日本人は、本気で国際化するつもりがあるなら、英語を学習しただけで満足して終わるべきでなく、外国人のしたたかさの裏を読むほどに、狡猾にならねばならない。

侵略された歴史を持たず、戦後も、経済復興だけを目標に、平和ボケの中にまどろんできた日本人には、ユーラシア大陸に暮らすあらゆる民族が持つ逆境に立ち向かう不屈の精神、図太さ、政治的な計算に長けた狡猾さなどに太刀打ちできるだけの強さが養われなかった。あからさまに人を出し抜くことや、非難が表ざたになることを嫌い過ぎるがゆえに、対立を避けて何事も闇の中の談合によって予め決定するというような悪しき伝統も、日本人の精神的ひ弱さに追い討ちをかけた。談合は、狭い島国にひしめいて暮らさざるを得ないことから生まれた日本人の当然の生活の知恵である一方で、外国人とのやりとりにおいてはそれが裏目に出て、不利な結果を負わされることも多い。

確執や対立が表面化しない、無菌室のように守られた世界で生きることに慣れすぎている日本人は、一旦、燃え上がった対立の中に身を置きながら、紛争を粘り強く解決していくために必要となる不屈の意志を持たない。それどころか、一旦、確執が表ざたになると、臆病に逃げ出したり、詭弁を弄して問題から逃げたりして、驚くほどの解決能力の無さを露呈する場合がある。

馴れ合いと癒着の中で不祥事を続発しているプロテスタントのキリスト教界が、聖職者の不祥事に対して未だに決然たる策を取れないでいることにも、そのような日本人の臆病な姿勢が見える。教界内部にいる人たちには色々な言い訳があるのだろうが、しかし、自分達の組織内で起こった不祥事の責任さえはっきり取れないでいる彼らの姿勢は、外から見れば、駄々をこねている赤ん坊のように幼稚なものとしか映らないだろう。

今日、内紛により弱体化している日本のキリスト教界には、様々な外国勢力や新しい理念が流れ込んで、混乱にさらに拍車がかかっているような状況だ。アメリカのキリスト教界の流行を浅はかに取り入れ、内政干渉の排除を主張するできるだけの自主性も持たなかったニッポンキリスト教界は、アメリカの教界が転ぶたびに、自らも道連れにされ、手痛いツケを支払わされて来た。

そして、民主主義的な情報公開の努力をサボり、重要な事柄のほとんどが密室での談合により決められているこの教界は、今や、一個人の努力の賜物であるブログに全面的に頼らなければ、クリスチャンが教界の動向を知ることもできないほどに、非民主的運営に堕している。たとえば、韓国人クリスチャンが、日本のキリスト教界の動向を判断するに当たって、各教団のホームページを見るよりも、「吉祥寺の森から」などの個人のブログの情報により多くの時間を割いているとしたら、それは、何という情けない事態だろうか。そうなったのには、情報公開の作業を長年サボり続けてきた教界の怠慢以外に、どんな理由があるだろうか? それなのに、個人の力による情報公開を未だに非難し続けている聖職者がいる。情報公開に踏み切った個人を訴訟に訴えたり、悪質な書き込みを続けたりしている聖職者は、それがどんなに時代錯誤な行為であるかに気づいていない。

聖職者たちが自分達の利権を守ることしか考えずに、阿吽の呼吸で馴れ合って教会運営をしているうちに、ここまで腐敗が進行してしまった。樋野氏の表現を借りれば、「一%の壁も越えられない」でいるくせに、これほど不祥事を多発し、それに対する自浄能力の欠如を牧師自らが公然と認めるほどに弱体化している教界が、「日本のリバイバル」などをいくら唱えてみたところで、世間の失笑を買うだけに終わることは目に見えている。

歴史的に見て、様々な宗教団体によるスパイ合戦やら、勢力拡大運動は日常的に繰り広げられてきた。プロテスタントのクリスチャンも、我が身にだけはそのような戦争は起こらないと高をくくっているわけにはいかない。キリスト教界は、聖職者階級だけを守ろうとして、同士討ち的な内輪もめに精力を費やしているうちに、外からあっけなく城を攻め落とされ、捕囚とされるようなことがないよう用心が必要だ。日本における外国のキリスト教勢力の拡大が、純粋にこの国へのキリスト教の布教だけを目的としていると思っているクリスチャンがいるとしたら、それはよほどのお人よしだと言わざるを得ない。

日本の聖職者たちはいい加減に自立して、我が身を自分で正せるようにならなければいけない。自分の靴下さえも使用人に履かせてもらいながら、天下国家を論じていたオブローモフのように、講壇ではさんざん正論をぶっておきながら、自分の襟すら、信者に正してもらわなければ生きられない牧師がいるという矛盾を何とかすべきである。被害者の力をあてにせず、聖職者が自分たちの不始末を自力で解決できる能力を持たずして、教界に生き残りの可能性はない。

PR