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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

最近の日本は思想統制に向かって確実な歩みを進めているように思うのは筆者だけでしょうか。しかも、それは昔にあったようなはっきりした乱暴な形での「言論統制」ではなく、もっと目に見えにくく、真綿にくるむようなやり方で、じわじわと「言葉狩り」が身に迫ってきているように感じられます。

例えば、ここ1~2年で、筆者は警察による交通安全の取り締まりが異常なほど強化されているように感じ、不安に思うことがありました。え、それが思想統制とどんな関係があるのかって? まあ、ゆっくり聞いて下さい。
数年前、筆者が通勤に車を使っていた頃、「ネズミ捕り」がしかけられている場所は限られており、道を通いなれたドライバーはどこでスピードを落とすべきか、よく分かっていたものです。

ところが、近頃、監視の場所が、車だけしか走行しないような道路から、ショッピング・モールの近くなど、人がよく集まる場所に変わって(広がって)来ているように思うことが多々ありました。もちろん、地方によって事情は様々に異なると思いますが、筆者が特にここ数年で不審に思ったのは、歩道を走っている自転車への取り締まりでした。
始めの頃は、「盗難自転車でないかどうか、調べている」と人々の間で噂されていましたが、法改正とも関係があったと考えられます。

平成20年6月1日の道路交通法改正により、現在、歩道を通行できる自転車は、非常に限られたものとなっています。
 ★自転車及び歩行者専用の標識が無い歩道では いままで通り車道通行。
 ★ただし以下の場合は通行可能になります。
  ・普通自転車の運転者が13歳以下及び70歳以上の人、身体障害者。
  ・車道走行が危険な場合(路上駐車が多い、交通量が多く危険など)やむを得ないとき。
  ※警察官等が歩道を自転車で通行してはならないと指示された場合は指示に従う。

しかし、この改正の内容は非常に曖昧です。
日本では道交法により、自転車は軽車両の一部とみなされており、原則、車道通行が定められていますが、ご存知のように、日本の道路はどれも道幅が狭く、車でさえ窮屈な思いをして走っていることが多く、自転車が安全に通行できる車道などほとんどありません。自転車は原則、車道通行という法内容そのものが、ある意味では、自転車の安全走行を全く考慮に入れていない、時代に合わないものだと言えるでしょう。

ですから、自転車は実際には車道でなく歩道を走っている場合が多いのですが、それについてはこれまで曖昧な規定しかありませんでした。一体、どのような場合であれば、自転車が歩道を通行することが公に認められるのか、20年6月1日に改正された道交法こそ、はっきり述べているだろうと期待しても、実際には、一向に明確になっていません。

最近、知ったところでは、日本における自転車事故の80%は車がからむもので、乱暴な自転車運転による歩行者との接触などの事故は、自転車事故の2割以下程度であるそうです。
つまり、自転車運転の最大の危険性は車との接触にあるのです。

ところが、歩道における自転車を取り締まろうという動きが近年、見られます。警官が帰宅途中の中学生を歩道で呼び止めて、自転車をチェックしていたりする風景に筆者はある時期、毎日のように出くわしました。これは一体、何なのでしょう。何を取り締まっているのでしょうか。筆者にはよく分かりません。
道交法とは全く別のところで、別のねらいがあるように思われてならないのです。

さて、田原総一朗氏が「田母神論文」に関するコラムの中で、「実は今、自衛隊、そして警察が非常にいら立っている」と書いています。
 なぜ、警察や自衛隊が苛立っているのか?
 結論から言えば、それは、国民の不満がたまりにたまって、まず言論的クーデターが起こり、「この言論クーデターが、遠くない将来本物のクーデターになるのではないか、という危機感がある」からです。
「今は、昭和一ケタの時代に似ている」と氏は述べています。つまり、国中に貧しさが溢れ、閉塞感が満ちており、経済的にも、精神的にも新しい需要を開拓するために大陸侵略へと、戦争へと乗り出して行こうとしていた戦前の時代に、今の時代の雰囲気はとてもよく似ているというのです。

 筆者も記事の中で再三に渡り、現在の社会の動向の危険性について述べてきました。このまま社会不安、経済不安が続けば、国民的暴動が起こる可能性がある、革命が起こる可能性さえ十分にある、ということも書きました。昭和一ケタの時代では、戦争という国家的大事業がガス抜きの役割を果たしたのですが、21世紀には何がその役割を果たすのでしょうか…。
 とにかく、鬱憤だけがたまりにたまっていき、それがどこへ向かうかはけ口が未だ分からないことが、警察や自衛隊を不安に陥れて、国民の暴動への恐れから、過剰な取り締まりに追いたてている傾向が見られるのです。

 田原氏の前述の記事の中には次のような事実も書かれています。「(2008年)10月26日に、雨宮処凛さんという女性が『麻生首相の家を見に行こう』と呼びかけ、ニート・フリーター・派遣労働の人たちを中心に約50人と行進を行った。
 事前に渋谷警察の警備課長から、『車道を歩かない、スピーカーを使わない、横断幕を広げないように』と言われた。これらを使用すればデモになるからだ。さらに、『麻生首相の自宅の区域に入ったら50人一塊ではまずいので、5、6人に分かれて歩くように』とも忠告を受けていた。
 彼らはこの忠告に従って行進を始めたわけだが、歩き出して間もなく、麻生首相の自宅区域に行くまでもなく、3人の若者が公務執行妨害の容疑で警視庁公安に逮捕された。僕は、逮捕時の映像も見たが、公務執行妨害もなにも、プラカードを上げとたんに捕まっている。
 渋谷警察の警備課長の忠告通りにやっても逮捕された。この様子を見て、公安も相当いら立っているな、と思った。」

 もちろん、首相官邸への行進ですから、世間からの注目もあり、警戒がされないはずはありませんが、それにしても、危険行為などまるきりないのに、逮捕とは、まるでかつての学生運動を見るようです。国民によるデモを今、どれほど国側が警戒しているか、その緊張と過敏さが見受けられます。

 このようなことの他にも、国民投票法案、裁判員制度等、これまでになく国民の意志が監視されることになりそうな危険のある政策が次々、推し進められています。いずれ、酒鬼薔薇聖斗事件などについても、じっくり書ければと思っているのですが、厳しい法改正の傾向はもっと前から始まっていました。

 ところで、このブログにはアメリカ政策への批判、教界への批判等、トピックだけでも深刻な、誰も話題にしたくないし、考えたくないような内容がたくさん書かれています。今後もそのようなきわどい内容を掲載していくことになるでしょう。
 しかし、そんな内容のためか、筆者自身が検索エンジンを試してみても、このところ、ブログはひっかからないことが多く、今後は検索エンジンそのものからブログが削除される可能性も大いにあるのではないかと筆者は考えています。 (すでに何度かGoogleからは検索から外されているようです。)

 これは相当に深刻な言論統制が進んでいるなと憂慮せざるを得ませんが、もしも言論統制が日本にとって避けられない未来であるならば、筆者はそれに命かけてまで対抗しようとは思っていません。筆者は政治家ではないため、政治運動のために命を捨てるよりも前に、なすべき仕事があると思うからです。
 筆者はもとより自分の投げかけたスローガンにより、人々が突き動かされて、署名運動や、新しい宗教改革運動や、政治運動、何らかの組織的デモが起こるようなことを全く望んでいません。そこで、もしも筆者がここに書いたような内容にたとえ同意して下さる方があったとしても、そのような同志が集まって、特定の団体に対して、何らかの運動に至ることには、断固、反対の意志を表明します。

 教界の問題に関しても、筆者は最後まで、徒党を組むことなく、門外漢の立場を捨てずに、一信徒としての立場から問題を訴えるにとどまるつもりです。
 元々、神学の専門家でない筆者の言い分には、賛否両論あって当然です。ですから、聖職者側からの反論は当然あるべきなのです。聖職者がこのような問題の存在に気づき、このブログが訴えているような、耳障りな警告、不愉快で、暗い問題に対して、何らかの対策を早急に講じる必要があることを感じ、自分自身のホームページやブログや、講壇などの場所で、必要な弁明や改革を行い、教会を主の御心にかなうきれいな場所にしようともっと努めてくれればそれだけで筆者の目的は達せられます。
 筆者のように被害に遭う信徒が教会からいなくなれば、それで良いのです。
 筆者は教界の破滅が避けがたいように感じ、そのように書きながらも、それでも、一個人としては、何とかして主の憐れみにより、教界が福音に立ち直り、真の信仰に戻る道はないだろうかとも願っています。

 そして仮に、たとえ問題が一切、改善されなかったとしても、筆者は教界に立ち向かうことを人生の目的にしてブログを書き続けるつもりはなく、カルト被害者というレッテルを生涯ぶらさげて生きていくつもりもありません。被害者運動を生きがいとし、生きる糧とするつもりもありません。
 すでに書いてきたように、筆者は現在、教界内で行われているカルト被害者救済運動の中に正義を見ていません。この運動は被害者を決して救済していないどころか、被害者をさらなる危険に陥れるものであると判断しているため、被害者はこの活動にはできるだけ関わらない方が良いということを述べてきました。教界によって傷つけられた被害者の救済の方法としては、とにかく教界から一刻も早く離れた方が良いという、まことに貧弱な解決しか今、筆者は提示することができません。
 筆者自身も教界の問題に巻き込まれた一人ですが、このブログは自分の問題に何らかの解決を模索するために書いているのではなく、問題の所在を訴えるために書いており、市井の人として、書くべきことを終えれば、自分の生活に戻るつもりです。ブログの目的はあくまで、クリスチャンに教界の問題について広く考えてもらうきっかけを作ることにあり、この問題に関して、筆者は最終判決を下す立場にはないことを忘れたくないと思います。

 このように、当ブログは社会運動とはまるきり関わりがないものですが、それにしても、筆者の意見は、教界から見ても、今日の日本社会の動向から見ても、完全に「異端児」に属しているものと思われますので(信仰にあっては、決して異端児でありたくありませんが)、もしも「ヒコクミン」と見られるおそれがあると困る、言論統制が進んで行ったとき、このブログのためにとばっちりを食うなんてごめんだ!と思われる方々は、このような思想的に危険なブログへのリンクは決して貼らず、場合によっては、訪れることさえも警戒された方がよろしいかも知れません。

 「光の天使の罠」は元来、教界のカルト化の問題を訴えるために作った期限つきのブログです。どうしてサヴォナローラの名前がサイトに入っているかと言えば、それは筆者は問題を提起するだけにとどまり、具体的な改革に決して加わらないということを自分自身に言い聞かせるためもあります。
 聖職者でない筆者は教界を導いていく立場にありません。そしてその資格がないことを自分にはっきりと言い聞かせておかなければ、古い体制を破壊して、新しい体制を築こうと言う人たちが現れたとき、うかつにも、自分にもそのような資格があるかのように錯覚し、そのような運動に加わろうとするかも知れないからです。

 カルヴァンの恐怖政治のようなことがなぜ起こるのか。以前の問題だらけの体制を打ち壊して、よりよい新しい体制を立てようとする人たちが、なぜ前よりも悪い恐怖政治に陥っていくのか。
 そのことを記事の中でも少しずつ考えて来ましたが、一言で言えば、問題提起をする人と、建設する人はあくまで別者だということです。
 筆者の役割は平信徒としての問題提起にとどまります。もし筆者がそれを忘れて、暴動を起こそうと考える人たちに与したりすれば、たちまち、それは教界を改革するどころか、もっと悪い場所へ変えてしまう恐怖政治へと結びついていくことでしょう。

 安易に破壊することではなく、最後まで、立ち直りの道を模索することこそが必要なのです。努力しても、駄目なものは駄目かも知れませんが、教界の腐敗という問題に立ち向かうために、答えを考えるのは、クリスチャン一人ひとりの仕事です。教界をより良い場所に変えていく工夫を行うのは、何よりも、リーダーである聖職者たちの仕事であるべきです。
 ニッポンキリスト教界の明日を作っていくのは、この教界に属している一人ひとりのクリスチャンです。希望ある明日を作ることができるのか、それとも、破滅が待っているだけなのか。その答えを作り出し、対策を打ち出し、実際に未来を作り上げていくのは、一人ひとりの仕事です。

 それは筆者が頭で考えて、導いていけるような事柄ではありません。また、聖職者たちだけが決めることでもなければ、誰か一人やもしくは数人の優秀なブレーンとなるクリスチャンの頭で計画して運ぶことができるような事柄でもありません。立ち直りの鍵は、個人が真剣に救いに立ち帰り、一人ひとりが真の信仰に立ち戻ることにあり、何らかの集団的な運動を起こすことが教界を救うのではありません。ですから、筆者は教界に対して運動を起こすつもりはありません。

 それがいつになるかはまだ分かりませんが、時期が来れば、このサイトを閉じ、別のサイトに移ることになります。それまでにこれまで書いた文章をもう少し整理していきたいと思います。今後の予定をざっと述べておけば、今後こちらのブログには、国策としてのマインドコントロール、そして教界での弟子訓練、トランスフォーメーションなどのプログラムの危険性について、詳しく分析する内容を挙げていきたいと思っています。

 弟子訓練、繁栄の神学、トランスフォーメーションについては、これまで「危険だと思う」という意見や、「近づかない方が良い」という警告はありました。けれども、何がどのように危険なのか、何がどう聖書から外れているのか、詳細に渡って明確に分析している書物が未だ存在しないように見受けられます。

 筆者は神学者でないので、述べられる事柄は極めて限られていますが、しかしトランスフォーメーションなどの比較的新しい用語は、まだこの教界において実行されて間もないですので、このようなプログラムのためにカルトに陥る教会が現れるより前に、それが危険だと思っているなら、何がどう危険であるのか、きちんと分析し、明確に理由を示すことによって、誰かが警告しておく必要があると思います。
 本当は、筆者のような門外漢がそれをするのでなく、牧師たちがそのようなことを公の場で論じてくれるのが、一番良いと思っていますが、まだまだ、そのような反対の動きが見られないどころか、ますますこのプログラムが推進されていく気配があるため、微力ながら筆者はそれに一石を投じようと思います。

 さて、最後に「言論的クーデタ」の危険について一言書いておきたいと思います。
 政治的なクーデタが起こる時には、いつでも、その理由付けが必要となります。すなわち、何のために前の政権を打ち倒して、新しい政権を成立させる必要があったのか。その理由付けとなる美しい理念、理想、つまり「建国神話」が必要となります。そのために、前の政権がどれほど悪く、民衆を苦しめていたかを説き、それが打倒される必要があったことを人々に説き、新しい政権は、旧政権という怪物を打ち倒した正義の人たちに率いられているのだと、正義の錦の御旗を掲げることによって、クーデタを人々に容認させる必要があります。

 同様にして、クーデタや革命だけでなく、あらゆる社会変革運動が起こります。
 近年は、「心の時代」とも呼ばれるように、これまで傷つけられ、捨てられてきた社会的弱者が利権を回復する風潮が見られます。かつて黒人の権利運動、女性の権利運動がそうであったように、社会的弱者のためのアファーマティヴ・アクションが社会の至るところで、要求されているのです。

 高齢化社会にあっては、ある意味、若者を高齢者のエゴから守るシステムがなくてはなりません。自然の法則だけにまかせておけば、どうしても人数的に多い方の世代が自分に有利な社会を作ろうとすることは避けられないからです。
 老人だけにとって都合の良い社会ができないように、人数の少ない若輩者の世代を、特別に保護するための何らかの政策や法律が必要となります。
 若者を守るためのアファーマティヴ・アクションが今、早急に必要とされています。それを実施するためには、理念的裏づけのある運動が必要となりますが、今はまだ、高齢化社会を生き抜くための若者の権利運動は(残念なことに)ほとんど形さえ見られません。
 けれども、弱者のパワーで社会を変革するという気運があらゆるところに満ちていますので、その中から近いうちに必ず、若者の権利運動がきっと起こることでしょう。

 このように、社会運動においては、虐げられてきた弱者の側からの何らかの正義が提唱されるのが常です。
 ですが、正義とは何なのでしょう。クリスチャンは聖書のことばは絶対的な正義であると考え、御心が天に成るように、地にも成就するようにと祈ります。しかし、聖書的に見ても、終末を終えるまで、この地上も人間も不完全なものにとどまり、神の御心が完全にこの地上に成就することは決してありません。

 つまり、クリスチャンは鏡に見るように、おぼろげに神の言葉を理解し、おぼろげに御心を理解することはできたとしても、この地上に生きる限り、決して、絶対的な正義にはたどりつくことができない存在であり、地上の人間社会には正義は完全な形では存在しえないということを聖書は言っているのです。(ここからも、「地上に神の国を建設できる」と言う人たちの誤りを見ることができます。)

 なぜキリスト教界がここまで腐敗し、堕落したのかという問題を考える上でも、重要なヒントとなるのは、この正義の問題です。教壇に立つ聖職者たちが、自分たちの信じることが、正しいと思い込むあまり、クリスチャンはこの世にあって、不完全な信仰、不完全な正義しか持ち得ない、理解の足らない者であることを忘れてしまい、自分の正しさに自惚れるあまり、自己を省みて、反省し、自己の誤りを自分自身で検証することを忘れてしまったからこそ、このような腐敗が起こったのではないでしょうか。

 同じように、傷つけられた弱者だからと言って、その言い分がいつも正しいとは限りません。弱者の巻き返しのパワーを使って運動を作り上げることはそう難しいことではなく、歴史上も何度も起こって来たことですが、数を頼みとして、あるいは怨念を頼みとして、自分たちの主張のまずさをかえりみることもなく、浅はかな正義を掲げて運動に走っていくことは避けなければならないと思います。

 ある人が、人間の振りかざす相対的な正義を、絶対的な正義だと思い込んでしまうことの危険性を、非常に確かで優れた言葉で警告しているサイトがありますので、引用させていただきます。
「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ、検証を拒否する全体主義的正義について」 

「2ちゃんねらーの言動の傾向を俯瞰してみると、確かに正義感を裏付けとしたものも少なくないように感じる。では、その正義感の実体とはいかなるものか…と分解してみる。松永氏も指摘しているが、2ちゃんねるの話しに限らずおしなべて正義感とは徹頭徹尾後ろ暗いものなのだ正義はその対として悪を以って成り立つ存在であり、本人自身(或いはその意見の立脚点)を正しくするには悪の悪たらしめる要素を比較対比し責め立てることをおいて他ありえない

翻ってみれば、正しさとはそれ自身の検証も当然必要な概念である。正しさはそれを言い出した段階では海のものとも山のものともつかない。もっと突き詰めて言えば、未検証の正しさは疑われて然るべきであり、既に検証された正しさは更に執拗な検証に耐える試練を進んで受け入れるべきものだ。正しさはそういう苛烈な検証を経て少しづつマシになることを信じられて*1いるものである。生まれ落ちたら最後その過ちが認められない限り、疑われ続けるべき宿命を負っている。

『みんなが言っている正しさ』という正しさはこの検証をさせないようにする圧力として作用することが多い。絶対正義である。しかし、この絶対正義と言う奴は危険なのだ。何故危険か?『みんなが言っている正しさ』とは別名をファシズムと言う全体主義的・排外的理念はその性質として、検証を排除することによってファシズムを産み落とすのだ。そして、ファシズムは自らをファシズムと名乗ることは無く『正義』を自称し、足場を固めることに余念が無く、みんなを代表する誰か(もしくは一部少数の複数人)の欲するままに暴虐の限りを尽くす。

繰り返すが、正しさとはそれ自身の検証が必要な概念である。それくらい正しさと言うものはあやふやで儚い。そうであるが故に正しさは追求され、叩きのめされるプロセスを常に辿る必要がある。間違えても空気などに流されてはいけない空気はコミュニケーションの肝要であると同時に、ファシズムの母胎にいつでも成り代わる。検証なき正しさは即ち悪だとみなすくらいで丁度良い。それくらい懐疑的に扱わなければ簡単に流されるのだからゆめゆめ油断は出来ない。」
(太字は筆者による)

 学問の世界では、学問は日々進歩しているものと考えられています。どんな優れた研究者によって書かれた論文も、必ず後学の書いた論文によって凌駕され、乗り越えられていきます。しかし、それは先行研究が間違っていたとか、意味がなかったということではありません。
 先人の到達したものを後学が乗り越えることによって、学問的進歩は成り立つのです。一人ひとりの踏み固めた足跡が重なって、一つの道が出来上がるようなものです。

 2チャンネラーの正義だけが疑問視されるべきではありません。筆者の書いたことも、必ず、検証にかけられ、ボロボロになるまでふるいにかけられ、打ち倒され、残されるものだけが残っていかねばならないのです。そして要らない部分は容赦なく切り捨てられる必要があるのです。
 読者の皆さんには、筆者の書いた内容を大いに疑っていただきたいと思っています。筆者は決して無責任にいい加減なことを書いておいて、後は「読者におまかせ」と言って退場していくつもりはありませんが、それでも、筆者に自分で気づけない部分があるならば、筆者の盲点に気づいた人が容赦なくそれを暴き出すのは当然でしょう。
 とにかく、どのような人の意見も、討論の場にかけられ、批判され、試されなければなりません。

 クリスチャンの信仰も、学術論文と同様に、批判によって試されなければならないと筆者は考えています。信仰という、何かよく分からない、目に見えない、定義しにくい領域だからといって、正論らしき事柄を振り回しておけば誰もが黙って拍手してくれるというものではないでしょう。牧者も、信徒も立場は同じです。自分の意見を確信を持って述べることは悪いことではないですが、どんな意見も、批判されることで、検証に耐えうるまともな論理であることを、世に対して証明する必要があるのです。

 ですから、「空気読めない」という恐ろしい言葉によって、その場の「空気」だけが正しいかのように錯覚し、議論を避けて、雰囲気だけで物事の決着をつけることは何としても避けたいと筆者は思っています。その意味で、このような「異端児的」な「檄文ブログ」が、あえて、この社会の空気を打ち破る耳障りな一石となり、空気に流されることへの筆者自身の抵抗となれば良いと思っています。

 しかし、そのように言いながら、もしもその「空気」を作り出すのが、筆者の一石であったりしようものならば、それはまさに最悪なパラドックスとしか言いようがありません。
 ですから、筆者は言葉巧みに一定方向へ向けて大衆を扇動するという愚かな過ちに陥らないために、このブログを期限付きにするだけでなく、このブログに書いているような内容を軸として、人と集団を作ることは絶対にすまいと思っています。現実の世界では、もちろん、筆者も人間としてクリスチャンや人との交わりの中で生きていきますが、イデオロギーや主義を中心として人と団結することは避けるつもりです。

 教界の問題は、一人ひとりのクリスチャンに与えられた課題です。この問題に関して、聖職者には重い責任が伴うでしょう。しかし、この教界の問題の解決を考えるにあたり、クリスチャンは誰かの意見に惑わされて、聖書に登場する豚の群れのように、扇動されて一定方向へ突進していくことが必要なのではありません。誰もが自分自身で考え、自分なりの答えを出し、それを人生において細々と、けれど確かな足取りで実践していくことが大切なのです。 
 そこで、筆者の書いた言葉は参考として、それぞれのクリスチャンが自分自身で物事を考えるためのたたき台としていただければ幸いです。
 問題は誰にでも提起できます。けれど、答えはあくまで「この星が決めること」なのです。

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2009/02/11 (Wed) 社会問題