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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(ヘブライ4:14-16)

前回、オースチンスパークスの論説が、御霊によって、御国の法則を示したものだと書いたが、そのことをもう一度、強調しておきたい。オリーブ園の記事「私たちのすべてなるキリスト 第四章 開かれた天(1)」を参考に挙げておく。
 
今回は、これを踏まえつつ、時宜にかなった助けを受けることの必要性について語りたい。

私たちと神との関係は、御子が地上におられたときの、御霊にあっての御父との関係と同じだという言葉はまさにその通りである。

御霊を通して、私たちは神に向かって「父よ」と呼びかけ、その御前に子として進み出ることが許されているのであり、あらゆる必要を希う権利が与えられているのである。そして、主イエスは地上におられた間、絶えず隠れたところで御父に祈りを捧げられ、御父からまことのいのちの供給を受けられた。

私たちはこの権利を地上において行使する必要がある。この天につづくはしごを活用して、絶えず天を地に引き下ろさなければならないのである。

ただ、その作業のためには、積極的に願うこと、平安の中で願ったことが必ず実現に至ることを信じること、大胆に目的へ向かって進んで行くことが必要となる。

特に重要なのは、平安を失わないことである。平安が基礎とならないと、神に願いを申しあげても、それが実現すると信じることさえできない。そして、信仰に基づいて確かな足取りで歩んで行くことができないのである。
 
筆者は、かつてすべての教団教派を離れ、約1年ほどかけて、幼い頃から受けたキリスト教の教育で学んだ経験や知識もすべて脇において、まことの神ご自身は一体、どういう方なのか、聖書の御言葉が意味するものは何なのか、個人的に熱心に尋ね求め、そして神ご自身がそれに応えて下さり、直接、神を知った時から、筆者が神の子供として受け入れられている事実、神が今日も生きて働いて下さる事実を疑ったことはないし、信仰をなくしたことは一度もない。
 
その時から、人間の生きる目的のすべては、神を知ることにあり、自分自身の利益のためでなく、神のために生きるという一事のためにあることを確信して来た。

それは明らかに筆者自身の力によって得られた信仰ではなく、御霊を通して与えられた信仰であったと言える。なぜなら、筆者は教会生活を送っていた頃に、そのような確信を得たことが一度たりともなかったからである。

しかし、それでもその後の信仰生活には波乱がなかったわけではない。そして、最も大変な時に、一度だけ、果たして自分が本当に子として神の御前に恵みを求めて進み出ることが許されているのか、何かひどい疑いのようなものがついて回ったことがあった。

筆者は、これは暗闇の勢力からの攻撃ではないだろうかと感じ、それにどう抵抗すれば良いのか考えあぐねた。その頃、想像を絶することが次々周囲で起き、それはどれを見ても、まさにすべて暗闇の勢力からの攻撃としか言えない現象ばかりであった。

しかし、そうした疑惑は、それでも自分の心を頼りとせず、御言葉への信仰により頼みつつ、一定期間を過ごした後に、まるで暗いトンネルから抜け出て光のもとに出るように、あるいは霧が晴れるように取り去られ、気づくと以前と同じような大胆な確信の中に入れられていた。不明な圧迫に対しては、御言葉に基づき、とことんまで抵抗することで、暗闇の勢力との戦いが打ち破られて、重荷が取り去られたのであろう。
   
クリスチャン生活の中には、あまりにも戦いが激しく、防衛戦で手一杯となり、積極的に新たな霊的領土を征服するための攻撃戦に出て行くことができなくなり、何かを願うことさえ不可能に近い心理状況に追い込まれることがありうることは、幾度か書いて来た。

それはちょうどイエスがゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたという場面にも重なるかも知れない。むろん、私たちの誰一人、そのようなまでの苦境を通らされたことはないが、その時、主イエスの願いは、ただ十字架という杯を避けられるかどうか、という一事に絞られ、それまでのように、御父との優しい絶え間のない交流を得て、慰め、励まし、助けを得、すべての必要を父に満たしていただくために祈られたわけではなかったのである。

そういう、心の最後の平安までも失われたかに見える激しい心の戦いが、クリスチャン生活にないとは言わない。時には、神の御旨と自分の意志との間にずれが生じ、言い争いのようなことが起きることがないわけではない。
 
しかし、ほとんどの場合、私たちの祈りは、御父に向かって、自分の心の中にあることを穏やかに告げて、神の御心を示して下さいと率直に求め、神の御旨を信頼して自分を委ね、必要な助けを求めることである。

大きな試練の中にあって、何かしら神の取扱に納得できない事柄があったとしても、私たちの祈りは、最終的には、自分のすべてを神の御手に委ねて、御心の通りになさって下さいと申し上げる形で終わる。

そして、私たちが御旨に従うからこそ、必要な助けが与えられるのである。

平安は、その明け渡しの作業が完了した時にやって来る。大胆に恵みの座に進み出て、時宜にかなった助けを受けるとは、あれやこれやの自分の必要性を神に訴え、助けて下さいと願うことも含んでいないわけではないが、何よりも、この心の平安――私たちが確かに父なる神によって子として受け入れられ、贖われ、愛され、キリストの中にあって、聖霊によって、助けを得ているという確信――もっと言えば――すべての戦いは十字架においてキリストの勝利により決着がついており、その勝利は私たちのものであるという確信――を得ることである。言い換えれば、その十字架を通して、御父、子、聖霊の交わりの中に、私たちが確かに入れられているという確信を得ることである。

その確信が基礎となって、初めてすべての必要を神に願うことが可能になる。まず、子としての立場がなければ、何一つ御父に願う資格すらもないためである。

そして、子としての平安に満ちた確信は、私たちが神にあって、自分の全てをこの方に委ね、神の御心に従って生きることに同意することによって得られるのである。

地上のサラリーマンの給与は、企業などの団体に所属して、その団体の利益に奉仕することによってしか得られないであろう。しかし、天の御国の収穫のために、天に奉仕する働き人は、神の御旨に奉仕することによって、必要のすべてを満たすことのできる目に見えないサラリーをもらっている。もちろん、働きとは関係なく、子として養われている分もあるが、その上に、働きに応じた報酬も存在するのである。

私たちの本当の雇用主は、こういうわけで、天の父なる神なのである。
 
このことは幾度も書いて来たが、私たち信者が、真に天の御国の権益に関わる事柄に奉仕する時、それに必要なものは何もかも上から添えて与えられる。そこで、どうやって生きるかということだけを最優先課題として、地上の生活を第一に心配し、そのせいで御国への奉仕を後回しにする必要がなくなるのである。神が承認されたプロジェクトには、神がそれを完遂するために必要なすべての手段を与えて下さる。
 
そこで、神は何をするにしても、まずは私たちの動機を問われる。

「あなたのしようとしていることは、あなた自身のためなのでしょうか。それともわたし(神)の栄光のためなのですか。」との動機が問われるのである。

神は、聖霊の見えない証印が押され、確かに神の栄光のためになされたことでなければ、後押しされないし、責任も負われない。人間が自己の判断で自分の利益のために行ったことについては、神は決してこれを守ったり、ご自分から出たことであるかのように擁護し、責任を負って下さることはないのである。

だが、私たちは多くのことを自分の必要を満たすために行っている。いちいち御心を問うこともしていない。そして、そのすべてが、御国の収穫のために行ったとどうして言えるだろう?

ところが、そう言える根拠が存在するのである。パウロは、食べることや飲むことまでもすべてキリストのために行うと述べている。同様に、私たちは日常で行っているすべてのこと――それがたとえ直接的には神の栄光に関わりがないように見えても――をすべて神の栄光のために行うことができるのである。それは私たちの全き献身、自分のすべてを神に委ね切ることから始まる。

神への明け渡しは、繰り返すが、「私はあなた(神)の栄光のために生きます」と宣言し、自分のすべてを神に委ねることである。

たとえばある企業が、より大きな企業に吸収合併されれば、その名も、資産も、すべてが合併された会社に属するよう変更される。資産だけでなく、赤字も、合併した企業のものになる。

私たちが絶えず神への献身を行って行くとき、同じようなことが起きる。私たちの諸々の行動の中には、果たしてその出所が定かでないことも含まれているかも知れない。知識が足りないがゆえに及ばなかった行動があったり、私たちが何が神の御心であるかを自覚できていないまま、それが神の御心にかなうと一方的に考え、あるいは誤解していたような事柄さえも、含まれているかもしれない。後になってみれば、何と考えが足りなかったのだろうと思われることが多くあるかも知れない。
 
それはいわば赤字である。

だが、それも含めて、私たちが自分のすべてを正直に心から神に委ねる時、神が私たちの人生に対して最終責任を負って下さるのである。赤字をたくさん作って、にっちもさっちもいかなくなってから、自分よりも大きい企業に身売りをするのは、あまり良いやり方ではない。しかし、立ちゆかない経営を続けて倒産し、すべての従業員と家族を路頭に迷わせるよりはましであろう。

私たちのために重荷を担われる主、と聖書にある通り、十字架において人類のすべての負債を身代わりに背負うことのできた方には、今日も、私たちの抱えているすべての重荷を負って下さることができないはずがない。

だが、もちろん、神に都合よく重荷だけを押しつけ、自分は恵みにだけあずかりたいというような生き方は、初めて悔い改めて神に立ち帰る信者なら許されても、いつまでもそのようなことを続けていれば、誠実な献身とは言えないだろう。
 
私たちの主人に重荷ではなく、収穫をもたらすために、良い僕として働き、共に同労するという道があるはずである。

私たちは地上にある間は、神から離れて生きている。心には聖霊を通じてキリストが住んで下さっても、体は神から離れている。そして、この神から離れている部分は、私たちを絶えず、さらに神から引き離そうと圧力を加える。

しかし、私たちは自分たちの霊の内側で、それとは逆のベクトルの力を行使して、自分の体を霊に従わせる。飲み食いは体の仕事であるが、それも神のために明け渡すことで、体の働きをも聖別することができる。

こうして、自分自身を絶え間なく神の御旨の中に委ね、すべてのことを自分個人のために行うのではなく、神の栄光のために行うことを告白し続け、自らのあらゆる行動の動機を神に委ね続けるのである。

何かひっきりなしの異言の集会や、訳の分からない恍惚体験に身を委ねるのではなく、人の見ていない隠れた場所で、はっきりとした自覚を持って、自分自身の人生が、もはや自分のためにあるのではなく、神のために存在することを告白し、自分について、自分で把握できていることについても、把握していないことについても、すべてを神に委ねるのである。

その時、神があなたの人生に最終責任を負って下さり、どれほどあなたの人生に複雑に錯綜した幾多の問題があろうとも、神が必ずそれを最後まで解決へと導いて下さるという明確な平安が心に訪れる。その時から、あなたの心に秘密はなくなり、神との間に言い争いもなくなり、あなたはすべての問題について、神と同労しながら進んで行くことができるようになる。

そして、重荷が去った暁には、願うことを自由に口にできるようになる。

保護者の許可がないと多くのことができない子供には、願っても実現できない数多くのことがあるが、大人になれば、自分で行きたいところへ行って、したいことができる。大きな事業も始められる。
   
神はあなたがキリストにあって成人となり、自らの意志で神に従うことを選びつつ、神に栄光をもたらす多くのことができるようになるまで、ずっと後見人として付き添って下さる。御父が望んでおられるのは、信者が暗闇の勢力との戦いでへとへとになるまで、ただ防衛戦だけをいつまでも繰り広げることではなく、あらゆる圧迫を大胆に打ち破って、その先に、自由の中で、勝利の生活を打ち立てることにある。そして、その法則を、自分だけで楽しむのではなく、多くの人々に伝え、他の人々を自由へと導くことにある。
  
その時、あなたの祈りが、あなた個人だけでなく、あなたを取り巻く社会に対しても、影響を及ぼし、兄弟姉妹にも影響を及ぼし、祭司としての働きが始まるのである。それは決して、あなたが福音伝道をして何人がキリスト教に改宗したかといった問題とは関係ないことである。あなたが周囲に影響を及ぼしていることは、あなたには分かっても、他の人々にはほとんど分からず、そのことがあなたに栄光をもたらすこともない。

しかし、それでも、不思議なことに、あなたは周囲の人々に仕えながらも、彼らがあなたのために仕えているという逆説的な現象があることに気づくだろう。あなたの中におられるキリストが、あなたを通して、あなたを取り巻く社会に対しても、中心的影響力となっておられることに気づくだろう。そして、キリストこそ、全ての中心であり、万物を足の下に支配される方であることを知るようになるだろう。

私たちに与えられている時宜にかなった助けは、ただ自己保存という目的のためだけにあるものではなく、御国の法則を地に引き下ろすため、御国の拡大という霊的前進のために与えられているものである。

その前進に伴い、山上の垂訓が、信者の生活の中に確立し、生ける水の川が、信者の人生の中で、渇いた土地を肥沃にしていくということが起きなければならない。私たちは、御父に受け入れられたまことの大祭司なるキリストを通して、私たち自身も祭司となって、御前に進み出て、神の憐れみ深さ、愛の深さ、恵みの豊かさが、私たちの自己満足のためでなく、神の栄光のために、目に見える実際となって現れ、自由がもたらされるよう、絶え間なく、恵みの座に進み出て、飽くことなく懇願し、これを追求し続けなければならないのである。
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2018/10/13 (Sat) 神の国の働き人