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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

1.教界のカルト化問題はアメリカ発の教会成長プログラムと密接な関係がある

教会のカルト化問題を考察しているうちに、筆者は日本の教会のカルト化という現象が、特にペンテコステ派、聖霊派の各教会に導入されたアメリカ発の最新の教会運営プログラムの失敗と切り離すことができない問題であることを痛感させられました。
一言で言えば、アメリカから随時、もたらされる新しい教会運営の流行のプログラムが、日本の教会に導入されるや、必ずと言っていいほど、何らかの問題を引き起こし、中には組織崩壊にまで至る教会が現れているのです。

従って、日本の教会のカルト化現象は、アメリカ発のペンテコステ派の新しい教会運営プログラムの理念と方法論における問題性を検証することなしには、決して解明できない問題であると、現時点で、筆者は考えています。教会のカルト化は、教界の最新流行のプログラムの弊害が教会にもたらした末期症状であり、その他にも、初期症状から始まって、中間段階の症状がいくつもあることが予想されるのです。

聖霊によるリバイバル、カウンセリング、個人預言、セル・チャーチ、弟子訓練、トランスフォーメーション等、米国のキリスト教界を出発点とする新しい運動は、今日でも随時、日本の教会にもたらされ続けています。それらのプログラムの問題性について、表面的に言及している日本のサイトはいくつかありますし、鋭い直観によって、これらのプログラムを警戒すべきだとする立場に立っている牧師たちも存在しますが、しかし、専門家の観点から、聖職者自身が、以上のようなプログラムの危険性について、詳細な分析に基づいて十分に指摘している書物を見つけることは困難であるように思います。

しかし、日本に導入されたプログラムが各教会で次々と問題を起こしている以上、この問題に対して早急な対応が求められます。現在、不祥事の話題でもちきりとなっているビュン牧師も推し進めていた「トランスフォーメーション」の行く末も非常に気になり、深刻な問題に陥らないうちに、警告を発することが必要であると筆者は考えます。
そこで、今回から何回かに分けて、ペンテコステ派が提唱してきたそれぞれの新しいプログラムの問題性を指摘したいと思っています。

筆者は神学に関する知識がないため、本来、この話題に深入りするための資格を十分に持っているとは言えません。けれども、同時に、教界自らが、この問題について鋭い切込みを行わない限り、問題は放置されたまま残り、さらに悲惨な末路を辿る教会が現れるという危惧も去らず、それをただ看過することはできません。そこで筆者のブログでは、警告を発することしかできず、十分な検証は、追って、牧師たち、神学の専門家によって行われる必要があることをお断りしつつ、皆様に記事を読んでいただきたいと思います。


2.ペンテコステ派の巨大イベントには真の信仰を見失わせる危険性がある。

幸か不幸か、聖霊派に属していた十数年間に、筆者はこの業界に現れた典型的な流行現象をいくつも間近で見聞きする機会に恵まれた。

1993年に開かれた、かの有名な全日本リバイバル甲子園ミッションの際、関西にいてアッセンブリーに属していた筆者は、当然のごとく大会に参加していた。何一つ、疑うこともなく、チケットを知人に配り歩くことさえしていた。

今でも覚えているが、この大会が開かれた時、「きっとキリスト教界に何かが起きる!」という熱い期待感や興奮がクリスチャンの間にあった。とにかく超教派的行事としては未曾有の規模の最初の大会だったのだから。大会では、聖霊派と福音派の対立があったことについて涙ながらに謝罪し、悔悟する牧師も現れ、「これからはキリスト教界内での争いをなくし、牧師同士が対立するのをやめ、各教会が提携して、日本のリバイバルのために団結しよう」という約束事がこの大会前後に何度も聞かれた。

1993年当時、多くのクリスチャンはこのような統一された行事がどこへ信徒を導くのかまだ分かっていなかった。概して、かつてない一致団結がキリスト教界に現れたことを単純に喜び、歓迎するだけだった。信徒が増えず、キリスト教界に変化が見られないことに、多くのクリスチャンが飽き飽きしていたことも手伝って、何か新しい刺激的な行事が、興奮が、熱狂が、現れて欲しいという期待がこの新しい行事に一心にこめられたのだった。

しかし、甲子園ミッションが掲げていた美しい理想の究極の到達点であるはずの「日本のリバイバル」が、何年間経っても、影も形も見えなかったことで、クリスチャンは失望に陥った。そしてリバイバル・ミッションという行事そのものが、一体何だったのだろうかということを、否応なく、多くの人が考えざるを得なくなった。それが、特にペンテコステに関わりのあった大勢のクリスチャンたちが、真の信仰とは何なのかを自らの頭で考え始めたスタートだったように筆者は思う。

期待していたリバイバルが起こらないという失意の中で、聖霊派の信徒のモチベーションをそれでも支え続けたのは、聖霊によるバプテスマや奇跡を盛んに強調する教えだった。「聖霊の力をこれまで軽視しすぎたために、今日の教会は力を失ってしまったのだ」という考えがそこにあった。
そこで、大勢のクリスチャンが聖霊に頼ることを学ぶことによって、閉塞感(信仰生活の盛り上がりのなさ)を打破できると考えた。覚えているが、アッセンブリーの中で、ベニー・ヒンの大会や著書は当時、さかんに宣伝されていた。ベニー・ヒン著『聖霊様、おはようございます』を始めとして、カルロス・アナコンディア、クラウディオ・フレーソン、ピーター・ワグナー、チョー=ヨンギ、デーブ・デュエルなどの、この系統に属する聖霊による奇跡やリバイバルを強調する本は、聖会などがある度に、受付などで販売され、筆者もそれを何冊か買って読み、実際に、それらの宣教師が何をしているのかを知ろうと、宣教師たちの開く大会にも参加した。

その頃、「宣教師の開いた大会で人が倒れるとか、奇跡が起きるなんて、あり得ない! そんなのやらせに決まってる!危険だ!」と主張し、はなから奇跡の存在を受けつけない福音派の信徒も大勢いることを知った。しかし、筆者が自分の目で確かめたところでは、確かに、それらの宣教師の周りでは、やらせではない「何らかの力」が働いていたようだった。奇跡など信じているとも思えない筆者の知人が、参加した大会で地にひっくり返されてしまうという出来事も目の前で起こった。

現在では、一部の宣教師によって、偽りの奇跡が行われていたことが立証されている。確かに、虚偽の奇跡がたくさんあったことは考えられる。だが、それでも、筆者自身は、その「力」自体が全て偽りであったとは思っていない。中には確かに存在した「奇跡」があるだろうと予想している。ただ、その魔法のような「奇跡」や「力」が、一体、どこから来たものなのか、それを検証し、吟味することこそが、私達に当時、突きつけられていた主要な課題だったのだが…。

キリスト教図書を販売している書店では、今日でもたくさん見られる、デイビッド・ウィルカーソン、チャック・ピアス、リック・ジョイナーなどの未来預言的な本にも、筆者は目を通した。ニール・アンダーソンの書いたカウンセリングに関する本も、かなり同意できない内容があるため、首をかしげながらではあったが、読んだ。

当時の筆者の一番のお気に入りは、マーリン・キャロザーズの『獄中からの賛美』だった(原題は"Prison to praise"であり、本来は『賛美のとりこ』と訳すのが望ましいと思われる)。デイビッド・ウィルカーソンの『十字架と飛び出しナイフ』は、推理小説のように面白く読めたし、「テレビは悪魔のブラックボックス」と訴えているウィルカーソンの著書を読んだ時は、筆者自身もそれに同意して、ある雨の日の晩、テレビのためにあまりにも人生の多くの時間を無駄に費やしすぎたことを神の前に悔いつつ、まだ営業している店をあちこち探し回って、山のようにたまった自宅のテレビゲームを売り払うことさえもした。(家族から文句が来なかったのが幸いだった…。)

これらの本はその頃、いずれも、一見、聖書的な内容に基づいたもののように筆者には見えた。本の内容は、今日的な教会の閉鎖性に警鐘を鳴らし、牧者優先の教会運営を改め、力のないこれまでの伝道のあり方を真摯に反省しているように見え、さらに、わくわくするようなスリリングな筋書きがそこにあった。

だが、そのような教えを素直に信じて実行に移し、自分の信仰生活と社会生活にも何かぱっとした展望が開けて欲しいと願った筆者の信仰の「青春の時代」が過ぎ、やがて正しい教会だと思った場所で、カルト化教会の問題に巻き込まれ、牧者の堕落を見、何が正義なのかさっぱり分からないという魂の暗闇を経た後、これら上記の教えそのものを改めて振り返ってみると、そこには、大いに疑い、検証してみる必要のある、怪しげな内容が含まれていたことにようやく気づくことができた。

わくわくするような筋書き、神秘体験、閉塞的な信仰生活に新しい展望を与えてくれそうな魅力的な計画…、そんなものにすぐさま飛びつくのでは、ニューエイジの運動、自己啓発セミナーに突き動かされる心理と何ら変わらない。
感情を排して、冷静に事実を振り返ってみた時、実際には、聖霊派が飛びついてきた様々なプロジェクトには、神の名を用いながらも、実際には、ニューエイジ的、オカルト的な神秘体験やら、ネズミ講に見られるような大衆扇動、自己啓発セミナーに見られるようなマインドコントロールを推進しているプロジェクトがいくつもあったことに気づかざるを得ない。

そしてそれらの「騒がしい背教」の対極には、「静かな背教」が広がっていた。神秘体験を強調しないなら、では、それこそが正しい教えなのかと言えば、そうとばかりは言えない危険があった。カトリックの聖職者たちの大規模な腐敗はアメリカではあまりにも有名になっているし、日本の福音派と呼ばれる教会の中でも、筆者が遭遇したように、不祥事は多々起こっている。
この記事の中では主に「騒がしい背教」としてのペンテコステ派の新しい教えの問題性を取り上げるつもりだが、聖霊派だけが疑問視されるべきではなく、全ての教えを疑ってみる必要があるだろう。教会内の不祥事を生み出す背景には、必ず、誤った教えがあり、誤ったプロジェクトや、歪んだ教会運営のあり方があることは間違いない。従って、キリスト教界全体で、不祥事が大きな広がりを見せていることは否定できない事実である以上、誤った教えがかなり根深く浸透していると感じざるを得ない。

「プロテスタントも腐敗して駄目、カトリックも駄目なら、ロシア正教に救いを求めれば良いのではないか」、と考える人がいるかも知れない。しかし、そのような安易な考え方もまたあまりお勧めできない。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場する修道僧のアリョーシャ・カラマーゾフが今も輝きを放っているため、今日、ロシア正教は日本人にとってエキゾチズムの対象という意味も込めて、親しまれており、警戒されていない。
しかし、日本人の多くが知らないだけで、ロシア正教にも歴史を振り返るなら、すさまじい異端迫害があった(たとえば古儀式派への厳しい弾圧)。さらに、恒常化したカトリックとの争い、そして「モスクワは第三のローマである」(=かいつまんで言えば、世界で唯一正しい宗教はロシア正教のみであるとする主張)などの怪しげな教えが存在した時代があり、帝政時代に政治的権力と結びついたロシア正教の宗教権力がどれほど傲慢な教えで人々を圧迫していたかは、L.トルストイなどの『アンナ・カレーニナ』などを読めば分かる。

ソビエト政権の弾圧を経て、今日、ロシア正教が甦ったことに希望を託そうとするクリスチャンもいるが、迫害の歴史があったからと言って、その宗教を美化し、その宗教こそが正しいと考える十分な裏づけにはならない。プーチン政権(プーチンは陰に一歩退きはしたものの、事実上プーチン政権が続行している)は今、ロシア正教を擁護することにより、国民の心を掌握し、中央集権国家を築く基礎の一つとしようとしている。だが、一つの宗教が政権に利用される時、そこには様々な問題が生じてくることは確かだ。

どのキリスト教の宗教勢力を見ても、結局、何らかの宗教宗派という「イレモノ、ハコモノ」だけによりすがって、どこかに所属することに正しさを見つけようとするような安易な考え方では駄目なのだ、という結論が出る。どの宗教、どの宗派に属しているかが問題なのではなく、本当は、ただ、キリストと直結しているかどうか、それこそが、クリスチャンの信仰的生死を分ける問題なのだと言えよう。
そういう意味で、筆者は特定の教団教派を名指しで危険視することはできる限り、したくないと思っている。

けれど、同時に、間違った方法論、間違った教えを推し進める団体に所属すれば、真に重要なことが何も見えなくなり、信仰そのものさえ失いかねないことは確かだ。
聖霊派においては、巨大なプロジェクトの推進によって、信仰成長がはかられるかのような誤った考えが盛んに吹聴されて来た。それは真の信仰とは何かをクリスチャンに考えさせる上で、大きな障害となった。人間集団が唱えるプロジェクトの内容如何は、個人の信仰を強める保障にはならない。それどころか、集団的なプロジェクトは個人の信仰の成長を奪ってしまう危険性が大いにある。巨大なプロジェクトを推進し、集団的行事だけを見つめるようになれば、個人は信仰の領域においては、ただ神にのみ目を向けなければならないということを忘れ去り、信仰の成長のための時間さえプロジェクトに奪われてしまう危険がある。だが、その危険性はペンテコステ派の内側にいる人々にはほとんどかえりみられることがなかった。


3.繁栄の神学の本当の狙いはネオ・リベラリズムに即した人間を作ることにあるのではないかという主張。ペンテコステ派の掲げる大志と自己啓発セミナーにおける思考変革の類似性


『ヤベツの祈り』などに今日、見られる「繁栄の神学」を推し進めるペンテコステ派の教えの危険性について、『ル・モンド・ディプロマティーク』の電子版2001年12月号において、アンドレ・コルタン氏の興味深い論稿『ペンテコステ派という繁栄の神学』を見ることができる。

筆者は、ここで政治学者コルタン氏が述べている主張を簡潔にとらえ直しながら、今日のペンテコステ派の問題を考察することを試みたい。
アンドレ・コルタン氏はラテンアメリカ諸国でのペンテコステ派の浸透を例に挙げながら、ペンテコステの神学と礼拝スタイルの問題点について分析を進める。

まず、ペンテコステ派とは何かということから説明すれば、この一派はプロテスタントをルーツとして20世紀初頭に生まれたものであり、1980年代から世界中で本格的な広がりを見せ始めた。ペンテコステ運動の広がりは、ピーター・ワグナーが1980-90年代に推し進めた「聖霊による第三の波」とも密接な関連があるだろう。ペンテコステ派の教義上の特徴としては、新約聖書の使徒行伝に書かれているような聖霊の賜物、異言、癒し、預言、悪霊追い出しの祈りといったものが現実に存在すると信じて、実行に移していることが挙げられる。

コルタン氏はペンテコステを「覚醒運動」という言葉で表現する。つまり、今日でもそうだが、カトリックや福音派と呼ばれる多くの信徒にとって、長年、新約の時代にイエスや使徒が行った奇跡は、クリスチャンにとっては単なる昔話であり、現代の時代にそぐわない、非現実的な記述のようにしか思われなかった。(多くのクリスチャンは今でも、奇跡が現代に起こるとは信じていない。)

ところが、ペンテコステ派の人々は、聖書に書かれている預言者らの奇跡や、イエスが行ったような一連の奇跡は「現代にも起こりうる」という「事実に目ざめた」。この意味で、ペンテコステは「覚醒運動」であり、あるいは「初代教会への回帰運動」、「原初回帰運動」と名づけることもできるだろう。とにかく、これはペンテコステ派の人々による聖書の再解釈の試みであり、忘れられていた事柄を発見して掘り起こし、その事実に「目ざめる」ことによって、信仰生活や人生そのものを劇的に変えられるという信念に基づいた運動であった。

このような新しいスタイルの神学は、長い間、伝統的なキリスト教からは新興宗教とみなされ、カトリックからは特に危険視されて来た。だが、1980年代を過ぎて、世界中にペンテコステ派は現実に流行拡大して行った。その裏に、アメリカ国家による財政的、あるいは政策的後押しがあったという確かな証拠はないものの、それでも、世界のペンテコステ派における礼拝スタイルが、必ず、アメリカのペンテコステ派の礼拝スタイルと一致するという点が注目に値する。

コルタン氏は述べている、ペンテコステ派が広がりを見せたラテンアメリカの国々で観察されるのは、「信仰スタイルと教義が米国モデルとまったく同様であることだ。アフリカやラテンアメリカの隅々で、これら諸派は大規模な十字軍(いわゆる"クルセード"のこと、筆者注)となってスタジアムで集会を開き、膨大な数の信者や見物人を引き寄せる。『神癒』を見せるテレビ番組が時には24時間体制で流されて、大衆に浸透していく。米国でベストセラーになった宗教本の翻訳は、どんな小さな村でも福音派の書店で手に入れることができる。これらの活動はどれもジミー・スワガート、パット・ロバートソン、ケネス・コープランド、ラインハルト・ボンケ、チョー・ヨンギといった著名なテレビ宣教師の名前と結び付いている。」

もちろん、このようなアメリカ型のペンテコステ派の礼拝スタイルが、ラテンアメリカだけでなく、日本や韓国の教会でも見られることに私達は簡単に同意できるだろう。アメリカ型のペンテコステ派の礼拝、そしてペンテコステ派の教義は書物の形でアジア及び、アフリカ、旧ソ連諸国にも広がりを見せており、今や世界中に伝播しつつある。

教義的な面でも、世界のペンテコステはアメリカのペンテコステ派をルーツとしているとコルタン氏は言う。「神は貧困を喜ばない(豊かになることは罪ではない)とする繁栄の神学」や、「我々の心身や国から悪魔を追い払わなくてはいけないという解放と霊の戦いの神学」、「キリスト教シオニズム」などは全てアメリカを出発点として生まれたものであると氏は述べている。

これらのアメリカ発の新しいペンテコステ的神学は、聖書における「世界宣教命令」を根拠にしながら、全世界のクリスチャンの心を制覇し、同じ信仰に目覚めさせることを公然と目的に掲げる一大運動となっている。フラー神学校で教鞭を執っていたピーター・ワグナーが唱えた「聖霊による第三の波」は、世界中のキリスト教界を覆う新しい霊的運動として提唱された。また、『ヤベツの祈り』を著したブルース・ウィルキンソン博士は、次のプロフィールによると、2001年にグローバル・ビジョン・リソーシズという団体を創設し、ビデオや教材を製作し、世界中の小売店、学校、宣教団体に非営利目的で配布している。「〔神の思いを〕米国にとどまらず世界中のすべての国に、ビデオやテレビやフィルムなどのメディアをとおして届けることが私の目標です」と、氏は世界中にこの繁栄の神学を伝播させることが目標であるとはっきり述べている。

このように世界中のクリスチャンの思考改革に多大な影響力を行使することを公然と目的に掲げて運動しているペンテコステ的な新しい神学が、確かに世界的な広がりを見せているその理由として、コルタン氏は、貧困や病にあえぐ人々の多いラテンアメリカ諸国において、見捨てられた社会の最下層の人々の目に、政治経済は全く希望がないように見える一方、ペンテコステ派の新しい宗教生活のスタイルは、毎日の閉塞的で貧しい生活からの魅力的な逃避の場を人々に与えているという要素があることを指摘している。
奇跡や繁栄を手っ取り早く約束してくれるペンテコステ派の宗教行事は、出口の見えない生活を送る貧しい人々に心のはけ口を与え、希望を与えるため、流行しているというのだ。

そうした意味で、「ペンテコステ派こそ第三世界におけるキリスト教の未来なのではないか」と考える神学者さえいるほどに、ペンテコステ派は比較的貧しい一般大衆に「受けている」現状がある。アフリカやラテンアメリカでは、改宗者があとを絶たないという。それはペンテコステ派の教義やスタイルが、「大衆の文化を反映している」からだと氏は言うのである。

さらに、ペンテコステ派の拡大には、ただ教義やスタイルが大衆の好みに合致しているという背景があるだけではなく、市場原理主義、ネオ・リベラリズムの政策と合致するという側面もあることを、コルタン氏は憂慮しながら、次のように述べている。
「従来のペンテコステ派や『ネオ・ペンテコステ派』と呼ばれる新しいペンテコステ派、それに同種の教会は、『貧しい人々』を市場の要求に適応させようとしている点において、米国帝国主義だけでなく勝ち誇るネオ・リベラリズムの『霊的部門』となっているのだろうか。集団としての労働者階級ではなく個々人(一般的には貧しい人々)に向け、世界的な布教の成功を告げる『語りの装置』を通じて、これらの宗派はまぎれもなく構造調整プログラムの衝撃を和らげる働きをしている。改宗者に与えられるのは、まさに世界銀行が望んでいるもの、つまり女性と男性へのエンパワーメント(権限付与)であり、自己を信じ、逆境を乗り越えることができると信じる力である。こうして社会から排除された人々が、押し潰されることはない、『再起』しなければいけないと感じるようになるのだ。」

経済学に明るくない筆者には、上記の難解な文章を説明するにあたって、経済学用語を排した、文系的な説明しか用いることができないが、ここでコルタン氏が述べていることを分かりやすくもう一度、噛み砕いてみよう。まず、コルタン氏の言う「勝ち誇るネオ・リベラリズム」とは何なのか。ウィキベディアの説明によれば、新自由主義(ネオ・リベラリズム)とはおよそ次のようなものである。

「新自由主義の政府は、新古典派経済学の経済モデルを無謬の規範ととらえる市場原理主義に基づき、構造改革(structural adjustment)の政策を実行し、それにより整えられた舞台の上で、経済主体を自由に競争させようとする。<中略>すべての個人が整えられた舞台の上で競争しうる原理的な市場主体となるよう、現実の人間を、利己的かつ合理的に行動して自己利益の極大化を図り、自己責任を受け入れる原子的個人に作りかえられようとする。これにより各人は、新古典派経済学が前提する人間類型を受容することが求められるようになる。」

こんな説明では、より分からなくなったという人がいるかも知れない。つまり、平たく言えば、各国が推し進める構造改革により、規制緩和を促進し、一国の自国の産業保護のための規制の枠組みを極力取り払った上で、世界的規模での自由競争をより可能な状態とすることを目標に掲げているのが市場原理主義である(それが世界中で人々を残酷に「勝ち組」と「負け組」にふるいわけ、「負け組」の人生を貧しいものとする、不幸な経済の仕組みであり、果てしなくもうけたいだけの人々の陰謀だという考え方は前々から指摘されている)。
この市場原理主義の掲げる厳しい世界競争に見合うよう、過酷な競争に対応できる強力な精神を持つ社会の成員、つまり、「強い個人」を意図的に作り出そうとする理念的試みが新自由主義であるととらえることができる。

世界規模で厳しい経済競争を推し進めていくためには、個人がよほど強くなければならない。なぜなら、競争が激化すればするほど、その衝突の過酷さに参ってしまい、精神的に、そして経済的に落ちこぼれる人々が多くなるのは当然の結果だからだ。だが、公共事業やサービスを縮小し、福祉にかける財政を切りつめ、小さな政府を作ろうとする市場原理主義の考え方から見れば、経済競争から落ちこぼれた「弱者」が増え続けることは好ましくない。なぜなら、政府が保護しなければならない「落ちこぼれ」が増えると、政府の重荷が増え、それだけ競争が妨げられるからだ。

公共の福祉をできるだけ切り詰めたい人々にあっては、現在の引きこもりやニート、自殺者のような、競争からはじき出された「負け組」の数をできるだけ減らすことがグローバル競争を実行して行く上で不可欠な条件となる。「負け組」が多くなればなるほど、競争はやりにくくなっていく。大体、参加者の圧倒的多数が負け組となるような競争には誰も参加したくないと初めから思うだろう。自分が得られる利益が元々少ないと分かれば、人々は闘う意欲を失い、世界競争は人々に見向きもされなくなる。

そこで、市場原理主義を推進する人々は、そのような事態を避けるために、とても正常とは思えない考え方を打ち出した。それが上記の説明に見られるような「(社会が)個人から得られる利益(労働生産性)を極大化する」という考え方である。「競争に耐えうる強い個人」を養成することにより、できるだけ競争から脱落する人を減らし、落ちこぼれ組を減らし、万人の万人に対する闘争から来る衝突を緩和して、果てしなく世界競争を推し進めようというのである。

もう一度上記の文章を引用してみよう。
すべての個人が整えられた舞台の上で競争しうる原理的な市場主体となるよう、現実の人間を、利己的かつ合理的に行動して自己利益の極大化を図り、自己責任を受け入れる原子的個人に作りかえられようとする。

…これは恐ろしい人間改造、思想改造の試みである。この文章が述べている新自由主義の目的は、世界を経済戦争の中に没入させ、一人ひとりの個人を経済的にいつまでも戦うことができる強力な戦士に変えてしまうことにある。どこまでも自分の利益を求めて人と争うことに耐えられる、強く、しぶとく、がめつい精神と、決して夢をあきらめない図太さ、利己主義を持った人間を理想的な「経済戦士」として育て上げ、そのような個人が、自らの強い生存本能と、無限の欲望に基づいて、他者と永遠の競争を繰り広げるような「戦場」を社会の理想とし、あまつさえ、その強い個人は、負けた時にはあっさりと「自己責任」を認めて引き下がれるような人間でなくてはならないと言っているのである。

もっと粗野な表現で言い換えるならば、これは世界を牧場に変えてしまい、人間を家畜化しようとする人たちによる悪しき試みにたとえられる。一匹一匹の個人から雇い主が最大限の利益を得られるよう、一匹一匹の個人を、仲間を向こうに追いやってでも、自分一人が率先してエサに食いつくようなあさましい性格に育て上げ、やがて屠殺される日に備えて、雇い主の利益に貢献するために、自分だけが肥え太ろうとするような愚かで利己的性格を養っておく。そうやって、己の夢の実現だけを貪り食って生き、他人のことなどには目もくれないような、思いやりのない、能天気な個人が養われる。どうせそのような個人が幸福に到達できないのは明らかだが、そうしておくことによって、競争に耐えうる個人が養成され、少なくとも、エサを与えられている間は、家畜(個人)は自分が家畜であることに気づかず、偽りの幸せを謳歌するので、できるだけ競争が長く持ちこたえられるだろうというのだ。

コルタン氏は上品な言葉で全てを説明しており、それに引き換え、筆者の言葉はかなり粗暴であることをお許しいただきたいが、要するに、コルタン氏が憂えているのは、市場という戦場において、個人という戦士から得られる利益の最大化をはかろうとして、個人の思いやライフスタイルを変革しようとするネオ・リベラリズムの恐るべき考え方と、ペンテコステ派の掲げる繁栄の神学や霊的戦略が、奇しくも目的が一致しているということである。

強い経済戦士を作るために個人を改造すると言っても、一人ひとりがもって生まれた能力には元々限界があり、それは外から変えようにもおのずと限度がある。というよりも、外から人を変えるためには教育の充実など、結局、福祉制度や教育制度の充実が必要となり、それは市場原理主義にそぐわない。そこで、一人ひとりへの社会からの投資を極力惜しみつつ、それでも、手っ取り早く人間を強力な存在に変化させるためには、内側から個人のモチベーションを高め、変化させることによって、競争に長く耐えうる忍耐力と希望を養うのが一番良いというのが、ネオ・リベラリズムの本当の狙いだと見られる。特に、精神的に変革が必要なのは、放って置いても気楽に生きていける「勝ち組」の人々ではない。どちらかと言えば「負け組」になった人たちのネガティヴなモチベーションや、低い自己意識を変革することが必要なのである。

別の言い方で言えば、「負け組」となった人たちが、ただ失意に陥って生きる気力を失い、社会のお荷物となって終わりとなるのではもったいないというわけである。その人々が自己を信じ、逆境を切り抜けられると信じ、自分たちは決して社会の不遇によって押し潰されることはないと信じて、絶望的な状況から、奇跡的なパワーを発揮してでも、「再起」し、再び健全な家畜、すなわち競争に耐えうる個人となって、競争の舞台に立ち戻ることができるなら、個人からは無限大の力が引き出されるようになるというのである。たとえ傷病兵でも、リハビリ期間を経れば、戦場に立ち戻れる。こうして、傷ついて弱り果てた戦士も、リサイクルされるなら、戦場から戦士がいなくなることはなく、戦争は果てしなく続行可能になるというわけだ。

そのために、弱くなった者たちへの「勇気づけ」を行い、つまり「負け組」への「エンパワメント」を確実に果たしている一つの流れが、ペンテコステ派だということをコルタン氏は示唆しているのである。
個人が自分の内に秘められた無限大の可能性を発見し、自分の中にある奇跡的な可能性に「目ざめる」ことさえできれば、どんな失意や挫折の中からでも、人々を立ち上がらせることができ、それだけ社会や国家が公共のサービスや福祉にお金をかけずに、個人から引き出せる利益を最大限まで大きくすることができるという、ネオ・リベラリズムの考え方に、ペンテコステ派の神学が大きな貢献を果たしているというのである。

ペンテコステ派だけではない。筆者が見たところによれば、このそら恐ろしい「個人の思考改造計画」は、自己啓発プログラムの中にも見出せるものである。
たとえば、誰でも知っているように、今はカルト的団体との類似性が指摘されて、社会でも相当に問題視されるようになった自己啓発セミナーなどで、まず参加者に最初に語られるのは、「自己の殻を打ち破る」、「本来の自分の可能性を発見する」、「大志を抱く」ことの重要性であった。その他、現在でも日本のビジネスマンなどに愛読されているナポレオン・ヒルの成功の理論においても、自分自身がまず大きな夢を抱いてそれを現実に実行可能と信じきることの重要性が、ビジネスや事業における成功の秘訣として説かれているようである。

これらの自己啓発的プログラムは、まず、個人のモチベーションを最大限に高めることによって、個人が巨大な可能性を発揮して、社会で「勝ち組」となることができると述べている点で一致する。これを、ペンテコステ派に置き変えれば、「奇跡は起こる」、「あなたの病も癒される」、「信仰によりクリスチャンは豊かになれる」などの甘い言葉を盛んに言い聞かせることで、クリスチャンが日常的に、自分は小さくて頼りない人間であり、自分にできることなどほとんどないと思って生きているその自信のなさや、過去の失敗体験から来る恐れ、卑俗な意識を脱して、それらの限界を打ち破らせて、巨大な夢に向かって奮い立ってもらい、目的のために最大限、働ける人間に変えていくということになる。

現実を打ち破るような、到底、かないそうにもないほどの大きな夢を個人に抱かせ、それを実現可能と信じ込ませて、人々を凡庸で限られた日常的な意識から脱却させ、大きな夢のために最大限、働くことのできる労働力に変えていくという目的がそこにある。そうする上で、何よりも重要なことは、人々が過去の失敗体験に基づいて、「こんなに弱い私には、この先もきっと何も大きなことはできないだろう、どうせ夢なんて抱くだけ無駄だ」というネガティヴな考え方を、いつまでもくよくよと持ち続けることをやめさせることである。

ペンテコステ派が盛んに信徒に信じさせようとする「大志」は、自己啓発のプログラムにおける自己への覚醒やブレイク・スルーに非常によく似ている。
「日本にリバイバルが起こる!」という、リバイバル・ミッションなどで提唱された巨大なスローガンは、まず、日本のクリスチャンたちに何よりも、この国にはザビエルが渡来して以来、何十年、何百年間とリバイバルなど起こったためしはなく、20世紀になっても、クリスチャンは「1%の壁も越えられないでいる」というネガティヴな現実を忘れさせる効果を持っていた。そして、クリスチャンは必ず1%の壁を越えられるどころか、やがて日本中が韓国のようにリバイバル化されるのだという、途方もない巨大な夢を抱かせることにより、今までクリスチャンが普通にとどまって来た「ちっぽけな信仰」、「ちっぽけな現実」の閉鎖性を打ち破り、巨大な夢に向かって奮起させることを目的としていた。

(次回へ続く)
 

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