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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

一つ前の記事で、私たちの目標は、ただ自分が何とか生き延びるといった低い次元にとどまっているべきではなく、キリスト者の人生は、ただ地上の必要を満たされて生きる、などという卑小なレベルをはるかに超えて、もっともっと自由で独創的なものであるべきだということを書いた。

これまで当ブログにおいては、信仰生活において、重要な役目を果たすのは、各自の望みであり、御霊と同労する生活においては、各自の望みこそ、無から有を生み出す原動力になって行くのだということを繰り返し強調して来た。

そして、その望みとは、神の国と神の義とを第一として生きることの妨げにならないならば、どんなものでも構わないのである。

聖書にはこうある、

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」( ピリピ2:13)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7-11)

今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。」(ヨハネ16:24)

「 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 」(マルコ11:22-24)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:7-8,11)

たとえば、筆者は珍しい鳥を探し求めている。そして、筆者のそのような趣味を「贅沢だ」と批判した人がいないわけではない。また、「福音の奉仕者となりたいならば、パウロのように自分をいつも身軽にしておくために、ペットなど飼うのはやめなさい」と忠告して来た人もいた。

しかし、筆者はそのような考え方が正しいものだとは思わない。伝統的なキリスト教では、あまりにも偏った禁欲主義や愛他主義が説かれており、それゆえ、クリスチャンが自分個人のために何かを望むこと自体が、まるで罪であるかのように教えられ、制限されている向きがあるが、その考えは誤っている。

クリスチャン生活とは、慈善事業ではない。大規模な福音伝道を行い、改宗者を増やすことや、困っている人々や、貧しい人々を助けることだけが、クリスチャンの目的なのではない。

もちろん、筆者は、豪奢な生活を送り、それを自慢したいがために、珍しい鳥が欲しいと言っているわけではない。庭つきの豪邸を手に入れ、そこに大型鳥のための部屋を作り、外国から特注の餌を取り寄せ、毎日のように鳥との触れ合いの写真をインスタグラムにアップする…そんな自己満足的生活を「神の恵み」として誇りたいがゆえに、以上のように言うわけではない。

もしも私たちが物欲を第一として生きるなら、その生き方は確かに根本的に間違っていると言えよう。しかし、神は地上のすべての生き物を人間のために造られ、すべての目に見える環境条件、物理法則を、人間のために造られたのである。

神はこの地上を、私たちのために恵みとして造られ、地上にあって、私たちが大いに主を喜び、その栄光を知ることができるように、万物を造られたのである。そして、それぞれの生き物に、他の種類とは全く異なる独自の生き方や個性を与えて下さった。それは人間も同じである。

キリスト者は、神にあって、自由と豊かさの中を個性的に生きる権利が与えられている。そこで、人前に敬虔な信者と見られたいがために、あれも望むまい、これも望むまいと、自分の望みを過度に制限し、あらゆる禁止事項で自分をがんじがらめにしながら、自分の心の必要を置き去りにして、人に批判されないかどかばかりを気にして、ただ他者の評価だけを求めて生きることが、クリスチャン生活の目的では決してない。

熱心に日曜礼拝に通い、奉仕と献金をし、伝道に邁進し、あるいは神学校に行くなどのことが、神が人に望んでおられる敬虔な信仰生活のモデルなのでは決してない。クリスチャン生活において、誰もが同じように指導者になったり、有名な教師やリーダーとなって人を教えることが、共通の目的では決してないのである。

信仰生活とは、もっともっと個人的なものであり、多くの場合、人がその人自身にしか分からない方法で、隠れた領域で、神と同労して生きることを指す。その中には、その人が真にあるべき自然でチャーミングな人として、誰とも異なる自分の人生をひそやかに生きて行くことも含まれる。
 
そこで、私たちは、それぞれに自分なりに他者とは異なる望みを抱いて、自分の人生を自由に個性的に生きて良いのであって、それは神の喜ばれる、神の御心にかなった事柄なのである。

そういう意味で、クリスチャンは、自分が心に抱く望みを、もっと尊重して良いのであり、大いにそうすべきである。

筆者は、そのように生きる中で、些細で個人的な望みであっても、主と同労して求めて行くならば、実にタイムリーで不思議な出会いが与えられ、それが実現の運びとなることを、幾度も経験して来た。

ただし、断っておかなければならないのは、目に見える物質的な何かを手に入れたいという願いは、人間が心に抱きうる願いの中で、あまり高い望みとは言えないことだ。どうせ願うならば、自分が何かを得て豊かになるだけで終わるような低く小さな願いではなく、もっともっと崇高で、達成困難な願いを持つべきである。ちょうど山上の垂訓のように。

ジョージ・ミュラーが信仰だけによって数えきれない孤児を養い、滅びる命を助けることに貢献したように、私たちも、一人の人間としての限界を大きく打ち破って、神の御心を大胆に実現するような、そういう願いを持つべきである。

だが、事の大小に関わらず、私たちの抱く望みこそ、人が御霊に導かれて生きるに当たり、霊的創造を行う起爆剤になるものだということは変わらない事実である。

当ブログでは、以前から、キリスト者は御霊と同労して「環境を創造する」ことができると書いて来た。各自の心に生まれる望みとは、最初はぼんやりした設計図のようなものであるが、設計図が描かれるや否や、御霊の中で、ただちにそれに沿った現実の創造が始まる。

たとえば、私たちが主にあって、何かを手に入れたいと心に願う。すると、それがどんなにかすかな願いであっても、また、私たちが現実に何もオーダーしていないうちから、霊的な世界においては、それがキリストのまことの命を経由して「発注」される。結果として、この世の物流・経済の中で、私たちの心のリクエストにかなったものが、私たちのそば近くまで呼び集められて来るのである。

そこで、私たちはそんなにも長い時間をかけて、ものすごい苦労を払って、望んでいる物品を探し出す必要がない。現実に何かをオーダーしようと決意するまでの間に、すでに願い求めたものは、私たちの近くまで送り届けられて来ている。必要なのは、所有権を移すための最後の手続きを信仰によってなしとげることだけである。

信仰生活とはこのようなわけで、神が恵みによって私たちのために用意して下さったものを、私たちが喜んで受け取り、それを自分の栄光、自分の満足のためだけに享受するのではなく、キリストにあって、御名の栄光のために、感謝して受け取り、喜び楽しむためのものである。そして、自分が満たされた分を、世の中に還元し、さらに御心を満足させるために、もっと大きな願いを心に抱いて進んで行くのである。

ヴィオロンは地上的な利益に憧れ、享楽的な生活を送りたいゆえに、今更のように「繁栄の福音」を語っているわけでなく、地上的な恵みを享受することの必要性を語るために、この記事を書いているわけでもない。

私たちクリスチャンの使命は、自らの望みによって、信仰によって無から有を呼び出して来る創造行為にあり、自分の願いを実現に至らせることによって、神の御心を満足させることが、私たちの人生目的なのである。そうして生きる時に、私たち自身にも、大いなる喜びと満足がもたらされる。そのことが、神が私たちに願っておられることなのである。

* * *

一つ前の記事で、尼僧になる夢をあきらめて、禅寺の住職の妻になったある人のことを書いた。それは、地上的には、何不自由のない幸福な生活であり、常識にもかなう、誰からも非難されることのない落度のない生き方であったろうが、それでも、筆者は、この人が自分の望みを中途で置き去りにしたことを、大変、遺憾なことだとみなしている。

筆者の考えによると、この人は、もしも自分の高い理想をあきらめずに最後までそれを貫徹して生きたならば、当然ながら、自分自身が女性住職となれたはずの人である。彼女こそ、最も重い責任を担うリーダーの役目を果たすにふさわしい人であった。それだけの評価は、彼女に早い段階で向けられていたはずである。

彼女の夫となった人は、彼女のように高い志を持っておらず、彼女のように誠意ある努力家でもなかった。しかし、彼は男性であるという利点を大いに活用し、彼女を妻として従えることで、自分にはない能力を補ったのである。

つまり、彼女が夫として、自分の主人として仕えた人間の理想は、彼女ほど高いものではなく、そのような人間が、自分よりも高潔な志を持つ人間を従えて、主人となるべきではなかったのだとさえ言えるかも知れない。

ところが、このようにして、本来、低い理想しか持っていない人間に、高い理想を持った人間が仕えさせられるということが往々にして起きる。そのために、崇高な目的が置き去りにされ、それが果たせずじまいとなるばかりか、かえって誰かの低い野望の実現の道具とされて行くのである。
 
このようにして、人が当初、抱いたはずの高い目標が、達成不可能に終わるばかりか、全くそれとは異なる悪しき目的のために利用されるという出来事が、あるべきことだとは筆者は思わない。

 (ただし、筆者はキリスト者であるから、禅寺に入って修行して悟りを得ることが、人の目指すべき崇高な目的だと言いたいがために、この記事を書いているわけではない。真理を探求する道に入った人は、答えを得るまで、決してその探求を捨てるべきでなく、自分が求めているもの以下の答えで満足することは、その人を道から逸らす誘惑になると強調しているのである。)
 
そこで、筆者はここで大胆極まりない仮説を提示しておきたい。それは、男であれ、女であれ、あるいは家柄や、血筋、財産などに関係なく、真に高潔で達成困難な志を持つ人間こそが、リーダーとして立つにふさわしいのであって、それ以下の望みしか抱かない人間は、むしろ、その人間に仕えるべきだというものである。

この世では、学歴、財産、性別、家柄、血統などによる差別が横行しているが、筆者は、人間の貴賎は、そのような要素によって決まるものではなく、かえってその人が抱く志の高さによって決まるものだと考えている。

ある人は、人間に貴賎などはない、と否定するであろうが、筆者はそうは思わない。志の高い人間と、そうでない人とが、同じだけのチャンスを与えられるべきで、同じ可能性を持っているとは考えない。しかし、志を高く持って生きることは、非常に高い代価を要求されることを意味し、それに耐えて目標を目指し続ける人間だけが、成果を勝ち取ることができる。そのため、その道を行くことのできる人たちはそう多くはない。

ヨセフと兄弟たちとの間に起きた確執はまさにそういう現象であった。ヨセフは幼い頃から、父に理由なく偏愛されたわけではなく、兄弟たちに抜きんでた志の高さを持っており、多くの賜物を与えられた人間であったからこそ、愛され、期待をかけられたのである。

しかし、そのように大きな可能性を与えられたがゆえに、その望みが実現に至るまでの間に、彼は厳しい代価を要求され、他の人々よりもつらく孤独な人生を送らなければならなかった。

筆者には、キリスト教と禅をごちゃまぜに論じるつもりはないが、高い目的を達成するために、厳しい試練が必要となることは、スポーツであれ、学問であれ、宗教であれ、どのような分野においても、変わらない事実である。
  
怠け者で自己中心な生き方をする人間ほど、努力を嫌い、自分を試されることを嫌う。そして、彼らは中途半端な努力で、大きな成果を得たいがために、自分以外の人間の誠実な努力を、自分の野心の実現のために大いに利用する。

高い志を持った人間が、そのような悪事に巻き込まれるべきではない。聖書には、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえがあるが、そこでは、賢い花嫁は、自分が真実な信仰によって蓄えた油を、怠け者の花嫁のために分けてやってはならないと教えられている。

それと同じように、志の高い人は、自分が厳しい代価を払って勝ちえた教訓や成果を、努力もせず、代価も払わなかった他人に、ただでくれてやるようなことを決してすべきではない。

人が代価を払うのは、自分の望みを実現するためであり、望む結果を実現することによって、社会全体にも、益をもたらすことができる。そうなるまで、その人は、決して自分の努力の成果を、他人に譲り渡してはならない。
 
勝ち抜いて最も素晴らしい賞を得ようとすることは、高慢さの証ではなく、真に厳しい代価なしには成し遂げられない偉業である。その偉業を一旦、目指したならば、最後までわき目もふらずに、その道を貫徹すべきであって、それを達成してこそ、人からも真の尊敬が得られる。
 
最も高い賞を勝ち取るだけの熱意も覚悟もなく、その努力も払おうとしない人間に、自分の成果を安易に与えるような態度では、その人は誰からも真の尊敬を得ることはできないであろう。
   
さて、ある宗教者が、霊的な世界においても、市場原理主義のような残酷な淘汰の理論が当てはまると吹聴しているため、筆者はこれに対し、反論しておきたい。もし霊的な淘汰の原則を振りかざすのであれば、それはまさに心の領域にこそ当てはまり、「志の高さによる淘汰」を主張するべきであると。

門地、家柄、血統、出自、学歴、性別、コネ、財産の有無、手練手管の有無などによって、人がこの世で淘汰されるかどうかが決まるのではない。極言するならば、志の低い人間こそが、真っ先に淘汰されて行くか、もしくは、志の高い人間に仕える僕の立場に置かれるにふさわしいのである。

それこそが、本来的に正しい霊的な秩序である、と言えよう。そして、この秩序が実現するためにこそ、クリスチャンは地上に置かれている。

しかし、多くの人は問うだろう、「ヴィオロンさん、それならば、なぜあなたの言う『あるべき秩序』とは正反対の現実ばかりが広がっているのでしょうか? なぜ正しい人々が罪に定められ、寄る辺のない者が虐げられ、悪者や暴君がほしいままに振る舞っているのですか。いつまでこんな時代が続くのでしょうか」と。
 
その問いには、クリスチャンが自ら目指している高い目的のために、いつまでも代価も払わず、世人と同じ目的しか目指さず、常に道を中途であきらめているからそうなるのではないか、と答えよう。どんな困難に直面しても、あきらめずに目的を目指して進み続ける人たちがあまりに少ないために、ここまで世の中が悪化した可能性を考えてみないのかと。
 
もしもクリスチャンが、神の国と神の義を第一とするという、最も崇高な価値のために、それ以外の価値をすべて二義的なものとして扱う態度を貫きさえするならば、その時、その信者の上に君臨していた横暴な主人は取り除かれ、かえって、そのクリスチャンの目的に、世人を含め、彼を取り巻くすべての人々が仕えさせられる結果となり、彼を憎んでいる敵でさえ、彼の目的に奉仕させられることであろう。

それはちょうどヨセフの作った束に、兄弟たちの作った束がお辞儀したのと同じである。愚かな人間が暴君となって民を支配している時代は、誰もにとって不幸でしかないが、高潔で憐れみの心を持つ君主が上に立てば、民は幸福になる。この地上において、真に高潔な人間が上に立って権威を担うことで、初めて霊的トリクルダウンが起き、自由と解放が行き渡るのである。
 
そのあるべき霊的な正しい秩序が実現するとき、見かけは全く平凡で弱々しい人間でしかないクリスチャンに対して、その内側におられるキリストのゆえに、この世のすべてのものが服従し、仕えさせられるという、実に不思議で逆説的な現象が起きる。

何の権威も持たない、か弱く平凡な人間に過ぎない者が、キリストと共に、すべてを足の下にするのである。しかし、それは決して、独裁者が強権的に暴力によって民を支配するような残酷な支配ではなく、自由と命による解放である。悲しむ者には慰めが与えられ、貧しい者は満ち足りて喜び、義に飢え渇いている者が正義を見て安堵する。

しかし、それが実現するためには、どのような試練が起きようとも、心の望みを決してあきらめず、自分の目指している栄冠を、決して誰にも奪われることなく、勇敢に目指して進んで行く人たちがいなくてはならない。私たちは、そのような光景を見るためにこそ、日夜、代価を払って奮闘しているのであって、その成果が着々と現れつつあることについては、追って書きたい。

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