忍者ブログ
栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

4.宗教的「阿片」としてのペンテコステ派

 前回の記事から引き続き、ル・モンド ディプロマティークのアンドレ・コルタン氏による論説『ペンテコステ派という繁栄の神学』を引用しながら、ペンテコステ派の神学の問題性について説明したい。

 まず、誤解のないように、筆者の立場をきちんと断わっておかねばならない。筆者自身はあくまでクリスチャンの一人でありながらも、ここでペンテコステ派の推進して来た様々な新しいスタイルの神学や宗教行事に疑問を呈する側に立っている。だがそれでも、筆者自身は、聖霊のバプテスマ、異言、預言、神癒が現代のクリスチャンの信仰生活において存在する可能性そのものを否定するつもりはない。今日、イエスの時代に起こった癒しの奇跡などというものは、絶対に起こるはずがないとか、異言などというものは全てたわごとだと決めつける立場には、筆者は立っていない。

 ペンテコステ派が盛んに求めて来た「聖霊によるバプテスマ」(ペンテコステ派の由来でもある聖霊降臨)の概念はかなり歪められたものとされてしまっていること、特に、あまりにも異言が強調されすぎている点には大きな問題があると感じるものの、それでも筆者は、水による洗礼が存在するように、聖書では「火」にたとえられる聖霊による満たし(聖霊の油注ぎ、あるいは聖霊の油塗り)が確かに存在し、クリスチャンの信仰生活において欠かすことのできない、神から約束された賜物であることを信じている。

 この意味において、コルタン氏と筆者の立場は同じではない。なぜなら、論説を読む限りでは、コルタン氏は異言、預言、神癒の存在を信じていないように見えるし、はっきり書かれているわけではないにせよ、宗教的なものも含めて、あらゆる霊的現象を完全に否定する立場に立っているものと想像されるためである。もしそうであるなら、筆者は奇跡や霊的現象に関して、コルタン氏とは対極の立場に立っていることになる。信仰者として、筆者はあらゆる霊的現象を頭ごなしに否定するつもりはない。

 しかしながら、同時に、霊的現象を完全に否定しはしないものの、今日、神の名を用いながら、本当に神から来たのかどうか分からない、出所不明な怪しげな神秘体験、集団的陶酔状態、精神の錯綜を引き起こすような偽りの宗教行事が多数存在することも確かだと感じる。

 奇跡は、日常的でないからこそ奇跡なのだ。たとえ神が不思議な形で人間の祈りに答え、病を癒されることが現実にあるとしても、日常化された奇跡など、この世に存在するものではない。人間は誰一人として、いつ、どうやって神が働くのかを他人に向かって確実に保障することはできない。従って、ある集会や建物などの中、限定された時空間において、予め奇跡が必ず起こると約束され、人々に向かって予告されることなど、あり得ないのだ。「このクルセードに参加しさえすれば必ず奇跡が起こります」とか、「毎週、私達は水曜日の午後に奇跡の集会を開いています」などと呼びかけられるなら、ほぼ100%、そのような行事は偽りであり、奇跡の捏造であるから、そんなでっち上げの集会に参加する意味はないと断言して構わないと筆者は思う。

 とにかく、神秘体験をやたら誇張して、信者を集めようとするような傾向のある宗教行事は全て、目的がどこにあるのか疑ってみる必要がある。奇跡が真実であるか、虚偽であるかにこだわる以上に、「この集会の真の目的は何なのか」ということをクリスチャンは考えた方が良いと思う。
 聖書において、イエスは奇跡を行いはしたものの、奇跡に対する群集の反応(熱狂)には非常にシビアで慎重な態度を取られた。イエスは、ご自分が行われた奇跡のことを決して人に話してはならないと弟子に命じられたこともあるし、奇跡ゆえに、群集がイエスを信じてぞろぞろ着いて来ることを快く思われなかった。

 珍しいもの見たさに集まって来る群衆の心理を、イエスは決して、確かな信仰心であるとはみなさなかった。そして事実、移ろいやすい心を持った群集は、自分達に都合の良い奇跡を行ってくれた時にだけイエスを信じ、イエスが政治的に不利な立場に置かれたと分かった時には、権力者による扇動にあっけなく乗せられて、すぐにイエス反対に回り、十字架を要求したのである。

 クリスチャンに与えられた仕事は、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを刺激してくれる真新しい魅力的な宗教行事に安易に飛びつくことではなく、特に、奇跡やその他の霊的現象を売り物にして人々の好奇心を刺激するような行事に踊らされることではなく、その出所をしっかり吟味し、目的がどこにあり、大衆をどこへ導くものであるのかをよくよく確かめ、見極めることであると思う。

 そうした意味で、コルタン氏が述べている、ペンテコステ派は「新たな『人民の阿片』だろうか」という疑問に、私達は慎重に耳を傾けなければならない。氏は述べている。
 「『神癒』を信じてやまない信者たちは、(保健衛生面も含めて)あらゆる面で打ち棄てられた場所で新たな文化を編み出している。知的エリート層がそう認めないにせよ、大衆の文化と呼んでよいだろう。とはいえ、これは抵抗の文化である。そして同時に、はからずも支配的イデオロギーを再生産する文化である。その意味では、ペンテコステ派は人民の阿片であると言えるだろう。ここで再び、マルクスがこの言葉を発した文脈を思い起こす必要がある。それは、感動なき世界における感動である。 」

 国の福祉制度から見捨てられ、病気になっても、お金がないために、病院でまともな治療さえ受けられない貧しい人々が、最後の頼みの綱として、「神癒」の可能性によりすがるのは至極当然である。その意味で、社会福祉制度からこぼれ落ちた人々にとって、ペンテコステ運動は、生きるための最後の抵抗運動であるとさえ言えよう。しかし、同時に、このような抵抗が、貧しい人々の真の救いにつながることはほとんどないと、知識人は考えている。
 第三世界のクリスチャンが、奇跡を求める大会に日夜、時間を忘れて没頭し、神を求めて叫び、誰にも理解できない異言の祈りに明け暮れ、完全に日常生活から乖離して、痙攣状態に陥ったり、地に倒れ伏したり、七転八倒しながら、集団的熱狂、陶酔状態に陥っているのを見て、このような状態に大衆を陥れるペンテコステ運動を異常だとみなす知識人は多い。
 コルタン氏も論説の中で、キンシャサ・カトリック大学学長のムウェゼ教授の次の発言を取り上げている、「もし厳しい措置をとらずに10年も放置すれば、コンゴという国は堕落した人間、あるいは精神を病んだ人間の集まりになってしまうだろう」。

 一部の冷静な知識人から見れば、ペンテコステ派の熱狂的な宗教行事に参加している人々は、「精神を病んだ人間の集まり」でしかない。つまり、貧しい人々は救いにあずかっているのではなく、何かしら精神を異常状態に陥れる「阿片」に酔いしれているだけだというのだ。

 ところで、「宗教は阿片である」というマルクスの有名な言葉は、ソビエト政権による無理解な宗教弾圧のためもあって、今日、かなり誤解されて解釈されている節があるため、ここで改めてこの言葉の意味を振り返っておきたい。
 ウィキペディアの説明を借りれば、「宗教は阿片である」との言葉は、カール・マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』において述べた、次の文章が基礎となっている。
 「宗教は逆境に悩める者の嘆息であり、また、それが魂なき状態の心情であると等しく、無情の世界の感情である。つまり、それは民衆のアヘンである。」
 マルクスがこのような文章を書くヒントとなったのは、ドイツの詩人でマルクスの親友でもあったハインリッヒ・ハイネによる著作『ルートヴィヒ・ベルネ』(1840年)における「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的なアヘンである」という一節であると考えられている。

 この「宗教は阿片である」というマルクスの言葉の真意はどこにあったのだろうか。なぜ、レーニンなどのソビエトのマルクス主義者はこのマルクスの言葉を基にして、宗教を敵視する政策を取ったのだろうか。
 その答えは、マルクス主義者たちの目から見れば、あらゆる宗教には、民衆に現実の問題を忘れさせてしまい、民衆に不平等な現実からの逃避の場を与え、死後の世界を夢見ることによって、現実に立ち向かう力を奪ってしまうという効果があった点にある。
 マルクス主義者の観点に立てば、虐げられている人々が不当な搾取に気づいて立ち上がることこそが、社会における経済格差の問題を解決し、搾取のない、公平な社会を築くための決め手になるはずであった。ところが、革命の担い手となるはずの虐げられている貧しい人々が、宗教にうつつを抜かしている間は、彼らは永久に、自分達を苦しめている根源的な問題が、社会の経済的格差にあることに気づかなくなる。この世は不公平で不完全なものであるというあきらめ観や、逃避的な宗教行事や、死後の世界における救いに没頭することによって、民衆は自分達が置かれている現実の不平等や貧しさ、苦しみから目を逸らし、自分達を苦しめている真の敵が誰なのかを忘れてしまう側面があるということに、マルクス主義者は危険を感じていた。

 このような見方はある程度、的を射ていると言える。だが、ソビエト連邦崩壊後の今日、私達は、社会主義革命を通して人類の平等な幸福社会が実現できると考えたマルクス主義そのものもまた、他の宗教とほとんど変わらない、一種の「阿片」剤としての効果を持っていたという事実を見ている。
 社会主義国におけるマインドコントロール的な思想教育によって、自分達の国に、近い将来、共産主義ユートピアが到来すると、多くのソビエト国民が心から信じていたからこそ、彼らは極貧の生活を強いられても、なおそれをかいがいしく耐え抜き、ソビエト体制の不合理さに気づくチャンスを失ったのだ。共産主義ユートピアへの信仰が「阿片」となったために、スターリン体制以後、ソビエト体制はノーメンクラトゥーラと呼ばれる官僚が不当に利益をむさぼりながら国を牛耳って、民衆を搾取する不平等な社会となっていたにも関わらず、国民は政治の腐敗に気づかなくなり、その分だけ、体制の崩壊は遅れたのである。

 もしも、マルクス主義理論に基づいて、社会主義国は将来に共産主義ユートピアを生み出す母体となるという信仰が社会主義国の民衆に行き渡っていなければ、このような不公平な体制に人々が黙って我慢するはずもなく、ソ連邦はもっと早くに国民に見限られて崩壊していただろう。(もちろん、ソビエト権力による過酷な政治的弾圧が、このような事実をたとえ国民が発見しても決して口にできないように、人々を追いつめたことは確かであるが、同時に、心から国の未来を信じるがゆえに、体制の誤りを発見できなくなった人たちがたくさんいたことも確かである。)

 さて、アンドレ・コルタン氏が述べているのは、グローバル資本主義の進める世界的な競争、市場原理主義がかたや貧しい人々をさらなる貧しさの中に追いつめているというのに、肝心の貧しい人々は、ペンテコステ派という「阿片」に酔いしれているがゆえに、社会の不平等にますます気づかなくなっている、その意味において、ペンテコステ派は、貧しい人々を市場の要求に適応させようとする「米国帝国主義だけでなく勝ち誇るネオ・リベラリズムの『霊的部門』」として、市場原理主義のお先棒をかつぎ、世界銀行の望んでいる事柄を着実に実現するための、民衆への投薬となっているということである。

 もっとはっきり言ってしまおう。かつて大英帝国が中国を弱体化させて支配する目的で、阿片を用いて中国の民衆の意識を堕落させ、中国経済を破壊したように、今、ペンテコステ派という「阿片」を積極的に世界中の一般大衆に配り歩くことにより、誰にも気づかれないようにこっそりと、大衆の意識を真に重要な問題から逸らせて、神の名を冠した無意味な行事に没頭させることにより、大衆を弱体化し、より支配しやすくしている勢力があるのではないかということが、この論説では示唆されているのである。

 熱狂的な宗教行事は、大衆の目を彼らにとって真に重要な問題から逸らさせるための、意図的な意識のかく乱なのではないか。すでに社会の落ちこぼれ組、負け組となりつつある人々に、自分達が罠に陥れられていること、抜け出せない絶望に徐々に絡め取られていっているという事実に、決して最後まで気づかせないようにするための意図的な意識操作として、ペンテコステ派があるのではないか。

 本当は、ペンテコステ派だけでなく、自己啓発セミナー、創価学会、統一教会など、カルトの疑いがあるあらゆる宗教や教えがこの文脈に含まれるかも知れない。だが、今、この記事の中では、ペンテコステ派だけに的を絞って言及しよう。
 ペンテコステ派の活動は、何者かによって意図的に作り出された現実逃避運動であり、世界的な支配をもくろむ人たちの悪しき意図に、人々が決して気づかないようにするための意識のかく乱であり、あらゆる国の国民にこっそりと気を失わせて、各国を弱体化させるために配布されている「阿片」である危険性があるというのだ。

 それだからこそ、何年経っても、ペンテコステ運動は、掲げている美しいスローガンとは裏腹に、何ら有効な結果を人々にもたらさず、むしろ影響を受けた人々に対して、ただ精神病理的な効果を増し加えて行っているだけなのではないだろうか? 掲げている目的にかなった美しい教会を生み出さず、むしろ、スキャンダルにまみれたカルト化教会を多数、生み出して行っているのは、そのためなのではないか? 

 …要するに、コルタン氏の論文は我々にそういうことを示唆しているのである。

PR