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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

 グノーシス主義のことをもっと知る目的で、映画『マトリックス』を観ていたのだが、筆者はそこで当然すぎるほど当然かつ重要な事柄に、今更のように、改めて気づいた。
 皆さんは、決定論を信じるだろうか。クリスチャンは多かれ少なかれ、皆決定論者であると言えるだろう。なぜなら、クリスチャンは、世界が全体として滅びに向かっていること、終末に向かっていることを信じ、十字架を除いては、人類の未来に希望がないこと、終末には全世界的な巨大な悪の王国が誕生するであろうことなどを、聖書に基づいて信じているからだ。

 しかし時折、この終末論こそが、クリスチャンを悪に対してあまりにも無力にしてしまい、個々人から悪に立ち向かう力を奪ってしまう。そして、クリスチャンでなくとも事情はほとんど変わらない。
 私達は日々、社会の中で、自分の無力を思い知らされながら生きている。幼い頃から経験させられた過酷な受験戦争、学閥による差別、男女差別、若いがゆえに経験する様々な差別、職場での不当な扱い、世間からの不当な扱い…。
 特別に優遇される一握りの「勝ち組」をのぞいて、一般大衆はいつも自分の無力を思い知らされながら生きている。私達はこの社会の中で、いつもいつも、自分には出来ることが少ないと思い知らされる。そして、その無力感のために、いつの間にか、自分にはどうやっても社会を変えられるはずがないと思い込むようになっている。そのため、この世に悪がはびこっているのを見ても、私達はもはや立ち向かう気持ちさえ起こらず、ただ手をこまねいて冷笑しているだけの傍観者になりがちである。

 だが、そのようであってはいけないのだ。もう一度、自分に平手打ちを加えて、悪に対して立ち向かうよう目を覚まさなければならない。何のために信仰があるのか、思い出さねばならない。筆者は以下の論稿の中で書いた。生きることは変化することだと。言い換えれば、生きているとは、自分をも他人をも含めて、世界にまだ影響を与え、変化させる力が残っているということだ。たとえ自分一人の力がどんなに小さくとも、信仰とは望んでいる事柄を、まだ見ていない事柄を信じる力ではないか。なのに、なぜ私達は、しかも、クリスチャンが、まだ起こっていない事柄、まだ決まっていない事柄について、どこかからか押しつけられた悲観的な予想を無抵抗で、無条件に受け入れなければならない理由があるだろう?

 かつて筆者は以下の記事の中で述べた。イラク戦争を引き起こしたアメリカの国家政策は、次にイラン戦争を引き起こそうと画策している可能性が極めて高いと思われると。また、アメリカ国民に対して、将来、核が使用される可能性があるのではないかと危惧されると。そう書いた当時、筆者はほとんどそれが避けられない未来であると考えていた。
 9.11事件以来、アメリカ国民はあまりにもひどく欺かれているように見える。今でも、筆者の予測では、9.11という偽のテロ事件をアメリカ国民に対して事実であると信じ込ませ、貿易センタービルの中にいた自国民を犠牲にしてまで、イラク戦争を勃発させた悪しき勢力がいるならば、彼らは次なるターゲットとして、イランを狙い定めているだろうことはほぼ間違いない事実であるように感じる。

 そして実際に、学者たちの中からもすでに、イラン戦争が勃発する可能性を指摘する声が上がっている。
 さらに、クリスチャンとして何よりも憂慮すべき最悪な事態として、アメリカのプロテスタントのキリスト教界の中では、イランの国家元首を悪者呼ばわりして、アメリカ国民の心理をイラン戦争へと誘導するような発言がすでに聞かれている。アメリカのクリスチャンたちはそのような「預言者」に誘導されて、イラン戦争が起こるのは時間の問題だと感じているかも知れない。

 何とかして、次なる戦争を引き起こそうと、世論を誘導しようとする作戦がすでに始まっているという兆候は、随所に見出せるのだ。

 しかし、それに調子を合わせるかのように、筆者はかつての記事の中で、ほとんどあきらめの調子で、この戦争がほぼ避けられないものであるかのように述べた。だが、多くの人命を危険にさらすかも知れない深刻な問題に対して、そのような無責任なあきらめと冷笑的な調子は到底、容認されるべきものではない。そこで、ここでそのような傍観者的姿勢を撤回し、本来、その時、言うべきであったことを改めて述べたい。

 イランでの戦争はまだ起こっていない。今ならまだ止められる可能性は十分にある。もし私達が真実に気づいて、悪だくみを悪だくみであると見抜き、数え切れない無実の人々に残酷な苦しみをもたらす卑怯な作戦を白日の元にさらし、それにノーを突きつけることができるならば、だ。

 筆者は皆さんに伝えなければいけない。イラク戦争がどんな悲惨をイラク国民にもたらしたか、私達は今日、知っている。大量破壊兵器が開発された第一次世界大戦以後、あらゆる戦争はただ悪となった。今や戦争に正義はない。結婚式の最中に、花嫁花婿さえ無惨に殺されるような戦争を、どうして聖戦であるかのように私達は呼ぶことができようか。
 
 残念なことに、イラク戦争を私達は止めることはできなかった。だが、イラン戦争なら、まだ止められるかも知れない。
 9.11の事件はあのように不意に起こり、私達はその時、それが欺瞞であることを見抜くための心の準備がまるで出来ていなかった。テレビ画面を通して流される悲惨な映像にまんまと騙され、「テロ事件」により亡くなった人々に同情し、そのようなテロを画策した恐るべきグループが本当にあるのだと信じ、そのようなテロを生み出した母体となる国を警戒せねばならないと信じ、その映像が全世界の信じやすい人々を陥れる恐るべき罠であるということを想像するだけの心の準備ができていなかった。

 当時、世論をたくみに利用して戦争を誘導しようとする悪しき作戦を見抜き、来るべき戦争に反対するだけの心の準備ができていなかったために、私達はイラク戦争の勃発に対して全力で立ち向かうことができなかった。その結果、イラクの国土は世界経済の繁栄のために、あのようにめちゃめちゃにされてしまったのだ。

 もし今、再び同じことが起こるのをただ黙って見ているだけなら、筆者も含めて、未来の歴史においては、来るべき戦争に対して黙っていた皆が卑怯者と呼ばれるだろう。
 イランでの戦争に向けて今後どのような形で導火線が引かれるのかまだ分からない。しかしもしも現在、幾人もの人々が予測しているように、イラク戦争と似たような何らかの形で、世界の世論が次なる戦争へ向けて煽り立てられるとするならば、私達は今から、イラン戦争が起こることに断固反対し、イラン戦争を是認するような発言や風潮をことごとく虚偽として退けていかなければならない。

 たとえアメリカに強制収容所が建設されていようと、50万人分の棺桶が用意されていようと、どんな準備がなされていようとも、どこまで邪悪な計画が進んでいようとも、世界で唯一の被爆国として、日本人はアメリカ国民はもとより、世界のどの国民に対しても、核が使用されることに対して、断固反対の意を示さなければならない。
 クロード・イーザリーが被爆によって亡くなったからと言って、アメリカ国民までが同じ道を辿らなければならないということはない。たとえ罪を犯すことによって人が我が身に滅びを招くことがあるとしても、私達は無実のアメリカ国民が、原爆投下というかつてのアメリカの国策の重い責任を取らされることに同意することはできない。
 
 核爆弾は世界のどの国民に対しても使われてはならないものだ。それだけに、アメリカであわよくば核を使用しようとしている何者かがいるかも知れない可能性に、私達は目を開いて、注意しなければならない。核爆弾の爆発を茶の間のテレビから、お茶受け話として放送するような卑劣な作戦に対して、目を開いて、警告を発しなければならない。もちろん、アメリカ国内だけではない。イラク戦争でも劣化ウラン弾を始めとして核兵器が使われた可能性があることが指摘されており、再び戦争が起これば、そこでもやはり核兵器が使われかねない。

 私達は平時であろうと戦時であろうと、核兵器の使用に対して断固反対の意を示し、どこかで核兵器を使用しようという悪しき意図を持って計画を進めている者がいる可能性があるならば、その正体を可能な限り、明るみに出し、そのようなことが将来起こるかも知れない危険性に対して、声を大にして警告を発し、決して、その計画が実現しないように最後までストップをかけ続けねばならない。

 まだ事件は起こっていない。まだ次なる戦争は起こっていない。まだ何も決まってしまったことなどないのだ。たった一人の力では抵抗することが難しい作戦でも、大勢が欺瞞を見破って立ち向かえば、どんな作戦でも失敗に終わる。世界中の人々の心を自在に操り、全世界の人々に無力感を抱かせて、国や社会を思うがままに支配しようとするような人たちが唱える決定論に騙されてはならない。変えられない未来などどこにもないのだ。

 一つ前の記事の中で、筆者は宗教的阿片としてのペンテコステ派ということについて書いた。クリスチャンは今、どうせ起こるはずもない馬鹿げたリバイバル論、人数だけにこだわる教会成長論にうつつを抜かしたり、虚しいイベントのために走り回ったり、あるいは他国の大統領を「気が狂った男」と呼んで、次なる戦争に向けて世論を扇動しようとする者の言い分に浅はかに煽り立てられているようであってはならない。
 クリスチャンは、自分の生活にも郷土にも何の利益ももたらさない虚しい行事と計画を離れて、目を覚まして、今、自分達の目の前で、現実に起こっていることを見なければならない。

 そして、悪を見つけたならば、勇気を持って立ち向かわなければならない。
 クリスチャンの使命とは、決して、自分の卑小な生活の中だけに閉じこもって、自分一人だけ救いを謳歌して、世界中で泣き叫ぶ他人を見殺しにしながら、平和な生活を送ることではないだろう。

 勇気を持って悪に立ち向かおう。そうすれば悪は逃げ去るに違いない。
 筆者はイラク戦争同様、イラン戦争を是認しない。イラン戦争を是認するようなムードへと世論が煽り立てられることそのものを警戒する。
 特に、クリスチャンが戦争を是認するようであっては、キリスト教界の信用もお終いだ。
 そのことをもっと早くに書いておかなかったことについて、筆者に責任がある。
 日本でもアメリカでも、クリスチャンの真の使命は、アメリカの国家政策に安易に同調することではなく、目を覚まして、どのような戦争、どのような殺人行為に対しても断固、反対することだ。

 遅ればせながら、はっきり述べておこう。筆者はいかなる戦争をも容認しないし、核の使用をも容認しない。
 従って、次なる戦争や、核の使用を画策している者たちがこの世界にいるだろうことが予想されるので、決してそのような者たちの悪しき計画が実現しないように、今後、機会あるごとに、警戒を呼びかけていくつもりだ。
 筆者自身が何かの政治運動を起こすつもりはないが、ただ、もしここに書いてある内容に同意して下さる方がいるならば、どうか身近な人々に警戒を呼びかけて欲しい、今後、この日本や世界に、浅はかな戦争歓迎の世論が決して形成されることがないように。

 私達は9.11のような恐るべき欺瞞がこれ以上繰り返されることがないように、目を覚ましていなければならない。人殺しを推し進めようとする人たちの安易な計画にやすやすと乗せられたり、でっちあげの事件に、これ以上、浅はかに騙されたりしないように自戒し、そのような可能性に対して目を覚ましていることができるように、自分にも、社会にも警戒を訴えていかねばならない。

 真実、クリスチャンを名乗るつもりならば、誰しも、戦争反対を唱えるべきなのだろう。聖書を一度でも読んだことがある人なら誰でも知っているように、主は「殺すなかれ」と人に命じられたのであり、イエスも、歴代預言者も、弟子たちも、剣を取って敵を滅ぼそうとはせず、むしろ、福音を受け入れなかった世にたとえ憎まれ、殺されても、それでも御心に従順であることを選んだ。
 そこで、私達もそれにならうべきである。神の名を用いた聖戦などは地上に存在しない。なのに、どこかの国のプロテスタントのキリスト教界がもしも戦争を是認する動きの中で「気絶」してしまっているならば、彼らの代わりに、日本のクリスチャンは戦争反対を訴えていかねばならない。

 当然すぎるほど当然のことであるが、戦争を含め、あらゆる殺人に反対を訴えることは、クリスチャンに与えられた使命の一つなのだ。

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2009/02/19 (Thu) 社会問題