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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「どころで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。
 造られた者が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子と呼ばれる。」

また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。

それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラのようにされたであろう。」」(ローマ9:19-29)

* * *

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:14-17)

* * *

 
本当は別の記事を書く予定だったのだが、非常に重要な話だと思われるものを先にまとめておきたい。

聖書の神は、愛されなかった者を愛される者と呼び、見捨てられた民を選ばれた民とされ、人の目から見て、最も無価値で、使い物にならないと判断されたものを大胆に用いられる。

モアブ人だったルツは、ユダヤ人からは祝福とは無縁の呪われた民とみなされていたが、キリストの系譜に加えられており、ダビデに夫を殺された上で、ダビデの妻とされたバテシェバもそこに加えられている。

キリストご自身が、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」(詩編118:22)と言われる通り、人に捨てられた石であった。御子の誕生は、誰もが知る通り、ベツレヘムの馬小屋、つまり、生まれた時から、主イエスはこの地上に居場所がなく、人間として数えられていなかったのである。そして、地上での生涯においては、神の独り子であったにも関わらず、十字架の死に至るまで、己をむなしくして、父なる神に従順に従われた。

このように、私たちの神は、人の目から見て、蔑まれ、全く価値のないように見える器を用いられる。むしろ、人の目から見て、有用性があると思われ、自分により頼んでいるうちは、神の目には全く使い物にならないのだと言えよう。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。


それは、だれ一人、神の前で誇ることが無いようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

さて、筆者がキリストのみに身を捧げて生きたいと書く時、そこには、人間的な一切の力により頼みたくないという意味が込められている。

筆者にも、人間的に誇ろうと思えば、何がしかのものがあったであろうし、今もあるであろうが、キリストがそうであられたように、筆者は、世の前に一切栄誉を受けない生き方を願うのである。

ところが、このように書くと、ことさらに嘲り、怒り出す人々がいる。このような考えは、人類を拒むものだとか、男性の価値を認めないものだと言って、まるで自分が否定されているかのように、怒り出すのである。(一体なぜ彼らは自分とキリストを同列に比べようなどと考えるのであろうか?)

こうした人々は、おそらく、女性の価値は、男性に仕え、男性を満足させることにのみあると思いたいのであろう。特に、宗教指導者はそうである。彼らは信徒から仕えられることによってしか、自己価値を確認できない哀れな人々である。

自分が誰かからかしずかれ、敬われ、仕えられていないと、片時も、自分の価値を感じられない心貧しい人々は、自分の周りにいる信者がただキリストだけに従うなどと言い始めた日には、まるで妻に離縁されようとしている夫のように、半狂乱となり、何とかして、人間の指導者から去って行かないようにと、あの手この手で引き留めようとする。

この世の男性の中には、自分は女性よりも優れていると思い込み、ただそれだけを、自己のステータスと考える者たちが存在する。だが、それはちょうど、江戸時代の人々が、えた・非人を見下すことで、自分がつらく貧しい生活の中で、誰からも十分にかえりみられることもなく、抑圧されている不満を忘れようと、自分の思うがままに痛めつけられる下の階級を求めたのと同じことである。

だが、女性は、男性に属することで初めて価値が生まれるものではない。男であれ、女であれ、誰かよりも強く、優れているから、その人間に価値が生まれるわけではない。

キリストに属していなければ、みな人類は罪深い堕落した人間でしかなく、無価値なのである。

従って、私たちが、堕落した被造物としての限界から贖われる道は、自分よりも強い者に帰属することで、自分の弱く蔑まれたルーツを否定することにはない。

むしろ、主は、この世で無力で見下されている人々を常に積極的に選んで、憐れみの器として、ご自分の栄光を表そうとなさったのであるから、私たちは、そうして神の強さが現れる契機となった自らの弱さを蔑むどころか、むしろ、これを誇るべきなのである。

話が突然、変わるように思われるかも知れないが、かつてある女子フィギュアスケーターがオリンピックで困難なジャンプに挑んで派手に失敗し、それがトラウマになって、オリンピック恐怖症になった。

そのスケーターは、世界的な実力の持ち主であったが、多感な少女時代に自分の失敗を週刊誌で書き立てられて、無責任なオジサンたちに笑いものにされたことで、深い心の傷を負った。結局、それがトラウマとなって、二度とオリンピックに真正面から挑戦できず、その挑戦から逃げるように、未婚の母となった。

こうした事例は、心弱い女性が、自分よりも強そうなオジサンたちの無責任な冷やかしに負けてしまった典型例と言えよう。彼女が未婚の母になることを決断したのは、自分を笑いものにしたオジサンたちの眼差しを逆に征服することで、自分が受けた心のトラウマを否定的に乗り越えようとしたものと見られる。

しかし、このような方法では、トラウマを乗り越えるどころか、かえってオジサンたちの好奇な眼差しに負けて、自分の貴重な可能性をみすみす手放したことにしかならない。

確かに、十代の多感な少女を週刊誌でバッシングした連中は、極めて罪深い所業に手を染めたと言えるとはいえ、それでも、オジサンたちの眼差しには、本当に彼女を打ち負かすほどの力があったのだろうか? 答えは否である。

彼女にはその当時、ジャンプが決まりさえすれば、世界一になれる可能性があった。それはオジサンたちには逆立ちしてもできないわざであり、彼女は、それによってしがない連中の噂話など完全にものともせずに、足の下に踏みつけることができたのであって、オジサンたちの無責任な思惑などに振り回されず、自分の道を行くべきだったのである。

そして、目に見える遺産ではなく、目に見えない遺産を打ち立てることに心を集中すべきであった。それができていれば、一人の女性としての限界を超えるほどに大きな栄光を手にすることが出来ていたであろうし、ふさわしい人々との出会いもその先に待ち受けていたものと思われる。

さて、以上の話はもちろん比喩である。筆者がここで語ろうとしていることは、人類は、霊的に女性であるということである。その意味で、女性のみならず、男性も、女性と同じような弱さ、脆さ、不完全さを背負っているのである。

ここで言う、人類が霊的に女性であるとは、人類が神の宮であることを意味する。人類は神を迎えるための神殿であり、神の助け手として造られたという意味で、霊的に女性である。

こうした文脈で、人類は、男であれ、女であれ、みな自分一人だけでは決して完全にはなれない「女性性」を抱えている。すなわち、自己の不安定さ、不完全さ、弱さ、脆さ、有限性などの哀しみを抱え、絶えず自己の不完全性に脅かされて生きている。

そういう意味で、女性的な弱さは、何も女性だけの専売特許ではない。それは言い換えれば、人類全体の弱さ、有限性、不完全さそのものに通じるのである。

そこで、このような自己の不安定さ、孤独、弱さのゆえに、人類は絶えず何かにすがろうとする。特に、自分に弱さや不完全さや恥を感じさせた相手を憎みながらも、何とかして、自らの弱さを否定し、そこから目を背けるために、何とかしてこれ以上批判を受けまいと、その相手にすがりつく。だが、ほとんどの場合、そうして人類が抱き着く相手は、人類を辱めた悪魔なのである・・・。

この地上においては、弱い者が、強い者にすがりつき、その者の庇護を受けたからと言って、決してそれによって、自己の弱い本質を克服することはできない。

女性が一人でいるのは心細いと考えて、自分よりも強い男性の庇護を受けたとしても、その女性はそのことによって、いささかも強い者に変化するわけではない。

この地上における、男女の支え合いは、ほんの束の間でしかなく、必ず別離が来て、誰かが一人で取り残される。その時が来るまで、もしも弱い者が、強い者に全面的によりかかって生きていたならば、支えがなくなった時点で、倒れるだけである。そのようなものは強さではない。

人類も同じで、自分が霊的に女性であり、一人では立てない不完全な存在であるという弱さを、何とかして打ち消そうと、自分に弱さや惨めさを思い知らせた強い者にすり寄り、その者の強さに威を借りようとしたとしても、そんな手段によって、自己の弱さを克服することも、完全な存在になることもできない。

要するに、人類が、自ら宮であることを捨てて、単独で神のようになろうとしたところで、それは何ら人類が自己の弱い本質を克服する手立てとはならず、人類が霊的な「女性性」を克服して、自ら男性のように強くなる手段とはならない。

むしろ、神が願っておられるのは、人類がそのような方法で、自分で自分を何とか補強して別人のように強くなろうとすることではなく、弱いままで、信仰によって、その弱さの中に神の強さが注ぎ込まれ、本当の意味で、神と人との同労が行われることなのである。

ここに、なぜ今の「恵みの時代」に、人類は、神との完全な合一なしに地上に取り残されており、エクレシアは、花婿キリストを待つつつましい花嫁なのかという秘密がある。

人類は花婿を待つ花嫁のごとく、地上をつつましく生きており、花婿を待っている花嫁だからこそ、そこに孤独があり、弱さと、不安と、不完全さがある。

しかし、それは決して、悲劇的で絶望的な要素でない。なぜなら、「彼女」には、すでに花婿との婚礼という輝かしい栄誉が約束されており、信仰によれば、すでに花婿と結ばれており、彼女の孤独と不安は、いつまでも続くものではないからである。

それはちょうど愛くるしい若いスケーターが、自分の娘らしい楽しみを全て捨てて、ただひたすら試合で勝つために、わざを磨き練習に励むのと同じで、霊的な女性である人類には、まずは達成しなければならない困難なミッションがある。彼女の栄光と安息は、その達成の後にやって来るものなのである。

すなわち、自分の心の恐怖に打ち勝って、幾多の試練を乗り越えて、賞を勝ち取れば、その先に、ふさわしい栄光が待ち受けている。

そういう意味で、今日、エクレシアの美は、未完成の状態にあり、彼女はまだ大きな成果を勝ち取る試練の最中にある。それにも関わらず、彼女が自分が未完成であることを、まるで恥ずべきことのように思い、自分を完全であるかのように見せかけるために、他者から賞賛を受け、愛でられ、慰めを受けて、自己の人生に満足して立ち止まってしまってはいけないのである。

この聖なる花嫁なる娘が、栄誉を受けて満たされるのは、次の時代のことであって、そうなるまでに、通過しなければならない試練が幾多も残っている。

その栄誉を勝ち取る前に、聖なる花嫁が、不安に駆られて、一人ではいられないと、花婿たる資格を持たない、無数の無責任なオジサンたち(暗闇の勢力に率いられる堕落した被造物)に身を委ね、その賞賛を受けて満足してしまえば、「彼女」は、もはや前進して、定められた褒賞を勝ち取ることができなくなる。

しかも、そのようにして己が恐怖心に負ければ、彼女は勝負にも失敗した上、おそらくは、未婚の母になるしか選択肢はないであろう。なぜなら、その無責任なオジサンたちは、彼女の不安につけこんで、ますます彼女を辱めることしかできず、彼女のために、真にふさわしい庇護者となって、しかるべき家庭を与え、母子を庇護するだけの力が初めから全くないからである。

聖書に登場するバビロンは未婚の母である。なぜなら、バビロンには愛人はたくさんいるが、夫は一人もいないからである。

かくて、妻子を養う力もない無責任な愛人たちの甘言に耳を貸さず、彼らの庇護という名の辱めを拒んで、しかるべき花婿からの賞賛だけを待ち望むためには、花嫁なる女性の側にも、それなりの勇気と覚悟が必要となる。

その覚悟とは、自分が待ち望んでいる崇高な目標以下のどんなものでも、決して満足しないという強い決意である。そして、その目標へたどり着くまでの間に、どれほどの弱さや、恐怖や、心細さや、不安を感じなければならないとしても、自分は崇高な目的に値する人間であるから、必ずすべての試練をくぐりぬけて、目標に達することができると信じ、片時も、そこから目を逸らさないで、真っすぐに進むことである。

このように、望みうる最高の目標を心に抱き、それに達して賞を勝ち取るまであきらめない決意と、ただ一人なる聖なる花婿を待ち望むことの間には、密接な関係がある。

聖書を読み解くならば、花婿なるキリストが再び来られるまでに、教会(エクレシア)は非常に激しい試練を潜り抜け、これに打ち勝っていなければならないことが分かるだろう。

つまり、キリストは、信者がただぼんやり受け身に待ってさえいれば、再臨するということはなく、キリストの再臨は、教会の激しい努力と忍耐と苦難の末に、教会による暗闇の勢力に対する目覚ましい勝利の結果として初めて訪れるものなのである。

いわば、教会が信仰によってすべての苦難と試練を耐え抜き、信仰を立派に守り通したことへの褒賞のごとく、聖なる花婿はやって来るのである。

こういうわけで、人類史にはシンデレラ・ストーリーなるものはなく、霊的女性である人類は、自分が一体、誰を待っているのか、自分で決めなければならない。

「彼女」が獲得したいのは、誰の眼差しなのか。自分に真の栄光をもたらすことのできる神なのか、それとも、弱さと恥と貧しさしか与えられない悪魔なのか。

それは人類が自分自身で選び取る決断である。もしも人類が、一刻も早く安楽な生活が送りたいだけならば、これ以上、無責任で堕落した無数の連中に、好奇の目で見られることのないように、目指している高い目標をあきらめ、本気の勝負を捨てて、オジサンたち(世)に愛想を振りまいて、彼らを黙らせればよい。

しかし、それでは満足できず、本物の栄光にたどり着きたいと願うならば、世人の思惑は一切、気にせず、ただ自分が真に待ち望み、心から価値あると確信でき、自分に栄光をもたらすと信じられる目標だけを、ひたすら追い求め、まことの主人と呼ぶに値するただ一人の花婿が現れるまで、それ以外の誰にも心を傾けずに生きるべきなのである。

途中で目標をあきらめてバビロンとして堕落しないためには、エクレシアは、自分に栄誉を与えることのできない悪魔と暗闇の勢力の好奇な眼差しの前に、いささかもたじろがず、揺るがされることなく、ただ真実なる花婿なるキリストが、必ず、ふさわしい時にやって来て、彼女に賞賛と栄光をもたらしてくれることを心から信じて、ただ一人からの賞賛の言葉だけを求めて、信仰によって力の限り、戦い抜いて、勝利をおさめるべきなのである。

その戦いを乗り越えたとき、真に花婿が姿を現すのであって、教会はその時が来るまでに、すべての恐怖に打ち勝って、死の力を打ち破り、花婿に栄光を帰し、かつ共に栄光を受ける準備が整っていなければならない。花婿はそれまで遠く離れているわけではなく、信仰によって、すでに花嫁と一つとされており、神は人と同労して、十字架で打ち立てられた解放の御業を地上で実際として下さるのである。

従って、キリストの再臨は、人が受け身に待っていればやって来るようなものではなく、教会が自らの信仰によって勝ち取り、引き寄せるものであると言えよう。

神はエデンの園に人類を置かれたその時から、地上で起こる事柄を人類の意志に任せておられ、人の地上での生活は、人自身が自ら選び取って行くものとして与えられている。すなわち、教会史は、人類(教会)が自分を何者と考え、自分がどれほど高い目的に値すると考え、それに向かって必要な犠牲を具体的に払うかによって、結果が変わり得るものなのである。

そして、教会史においては、弱く、蔑まれ、見捨てられて、希望がないと思われた者たちが、かえって信仰によって大胆に強められて立ち上がり、自分よりもはるかに強いと思われる者たちを打ち負かし、悪魔のわざを打ち壊し、すべての恐怖に打ち勝って、主と共に、目覚ましい勝利を打ち立てる。そのように、この世で寄る辺なく貧しく弱い者たちが、信仰によって、主と共に、力ある富む者となり、大胆な勝利をおさめ、父なる神に栄光を帰することは、神の御心にかなうことなのである。
 
とはいえ、神は私たち人間が、非常に脆く弱い土の器に過ぎないことも知っておられ、私たちが耐えられないほどの試練に遭わせることはなく、ご自分を待ち望んでいる者たちを助けるために、速やかにやって来られ、遅れることはない。

そこで、当ブログに対して行われている陰険な嫌がらせに対しても、神は速やかに助けの手を伸べられるであろう。そして、聖なる花嫁エクレシアの使命をせせら笑ったバビロンとその愛人たるオジサンたちは、みな恥辱のどん底に突き落とされて終わる。

神の聖なる花嫁なるエクレシアをあざ笑い、神の教会に払拭しがたい汚点があるかのようにささやく者は、聖なる花婿ではなく、間違いなく悪魔である。従って、そのような者のささやきには、断じて耳を貸してはならず、彼らから好意を受けようなどとは、断じて考えてはいけない。

私たちは、数回転のジャンプで世界一を勝ち取ることはなく、むしろ、主と共に天に携え挙げられることを望んでいる。その日、聖なる花嫁は、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来る」(黙示21:2)。そして、花婿花嫁が共に再び地を踏みしめるとき、そこは新しい天と地となっているであろう。

それ以後は、神と人とが引き離されることはない。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に隅、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)
 
だが、今の時代はまだそのような安息の時ではない。私たちは、信仰によって、心の内では安息を得ているかも知れないが、実際に教会が花婿を得て安息すべき時にはまだ至っていない。エクレシアのためには、未来に言い尽くせない栄光が用意されているが、その日が来るまで、教会にはまだ労苦して果たさねばならない仕事が数多く残っている。そして、その労苦の実も、私たちが現に見ている成果ではなく、見えない天的な成果なのである。

現在、被造物が産みの苦しみを味わっているのは、目に見える成果を生むためではなく、死と滅びから完全に贖われ、朽ちない人であるキリストを上から着るためである。私たちの地上での労苦はすべて、手にすればすぐに消えてしまう目に見える束の間の地上的利益のためではなく、いつまでも永遠に残る天的な利益のためであり、要するに、すべては見えないキリストを生むための苦労なのである。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

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