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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12-14)
 
A教団を離れるに当たり、大きな苦労を払って、独立を勝ち取った教会が、間もなくNK教団に所属するという噂がある。
  
それが実現するかどうかは知らないが、実現すれば、プロテスタントのおよそすべての教会が、自分の身の安全と引き換えに、御言葉を曲げて教会を迫害するカルト被害者救済活動の吠えたける獅子のような咆哮に、膝を屈して、信仰の証しを捨てて、沈黙に入ったことになる。

つまり、日本のプロテスタントはこれで霊的に完全に終焉するということだ。前々から当ブログでは、プロテスタントからはエクソダスせよと述べて来た通りである。
   
筆者は以前から、偽信者、偽預言者らから投げつけられた悪罵の言葉は、単なる誹謗中傷ではなく、霊的効力を持つ呪いであるから、きちんと抵抗して、その呪いを跳ね除けて発言者自身にお返ししなければ、それは時と共に効力を発揮して現実となる、ということを再三、警告して来た。
 
これらの冒涜者は、キリスト者を中傷することで、神の神聖を穢し、キリスト者の贖いを奪い取ろうとしているのであるから、私たちが、これに毅然と立ち向かうかどうかは、ただこの世における名誉に関わる問題であるだけではなく、来るべき世における永遠の命にも関わる問題なのであると。
 
自分の教会や、神の家族である教会員らが侮辱されても、立ち上がりもせず、御言葉が曲げられている時に、沈黙している指導者が、どうして来るべき世において、神から託された羊たちをきめ細やかに世話したと評価を受けられるのか。

我々キリスト者は、外面的な強さではなく、内なる霊的な強さを帯びなければならない。それは御言葉に固く立って、何があっても揺るがされず、信仰の証を保ち続ける強さである。
 
どれほど体を鍛え、屈強な外見になっても、もしもその人が自分の家庭や信者を守れないようでは、この世においても、その力は認められることはない。まして、私たちが天から預かっているのは、神の家であり、指導者は、そこに身を寄せている信者らを守り切らなくてはならない。
 
だが、日本全国の教会の指導者の中には、教会が冒涜を受けても、もはや毅然と抵抗するところもなくなった。

なぜそのようにまでプロテスタントの教会は堕落したのか。それは、プロテスタントは、かつてカトリックがそうであったように、今や信徒に君臨する特権階級としての牧師階級を養うことだけを、第一の目的としているためである。

牧師たちの家庭を守ることが第一義的課題となっていればこそ、世と軋轢が生まれるのを避けたいと、プロテスタントの指導者は、教会が冒涜されても、争いを避けるようになったのである。
 
この点で、気に入らない信者たちをのべつまくなしにバッシングして沈黙に追い込むカルト被害者救済活動と、信徒を虐げていつまでも支配階級として君臨したいプロテスタントの牧師階級は、利害が一致している。

むしろ、すでに幾度も述べて来た通り、カルト被害者救済活動それ自体が、信徒を搾取し、食い物にするプロテスタントの牧師階級の悪の猛毒の副産物として生まれて来たものである。

それはちょうどブラック企業と、ブラック企業からの救済ビジネスが本質的に一つであって、共に貧しく、虐げられた人々をさらに食い物にするために存在しているのと原理は同じである。カルトとアンチカルトは同一であり、まさに車の両輪なのである。

さて、A教団を去って、NK教団へ移るとは、どこかで聞いたような話だ。その先に、さらにカトリックにまで霊的に後退して行った”先達”がいる。
 
NK教団のホームページを開くと、真っ先に目に飛び込んで来るのは、第二次世界大戦時、教団が正式に侵略戦争を是認したことへの懺悔のことばである。

戦時下でキリスト教の宗教団体がどのような状況に置かれていたかは、『戦時下のキリスト教 -宗教団体法をめぐって- 』(キリスト教史学会編、教文館)という書物に詳しいようだが、その書評「よみがえった反動的パワーに対峙するための基礎固めを」(石浜みかる)だけを読んでも、当時の状況がよく分かるので、抜粋してみたい。
 
戦時下で、国は宗教団体を国体思想の中に取り込んで戦争に協力させ、信者らの抵抗を抑えるために、宗教団体法を成立させた。そして、従う団体は優遇するが、従わない団体は弾圧するというアメとムチ作戦に出た。
 
 

 「宗教団体法」は、戦時下の一九三九年四月に成立し、日本の全宗教団体を横並びに串刺しにした戦時統制法です。宗教関係者にとって、法律は論じることの少ない分野ですが、憲法九条が揺らぐ今この時に、〈あの〉宗教団体法に焦点を絞った書籍が出たことは、まことに時宜を得ていると思います。本書のなかで研究者の方たちは、キリスト教界の代表的な五つの団体それぞれに、当時何が起きていたのかを(長らく語られなかった内部の状況もふくめて)、渾身の力を込めて語っておられます。

 三九年に成立した宗教団体法の草案が、文部省宗教局の高級官僚によって練られたのは、その四年前の一九三五年です。超国粋主義議員たちの突き上げにより、国会が「天皇陛下は憲法のもとで統治されるのではない。日本は現人神天皇陛下が、憲法を超越して治められる神国なり。皇国なり」と、古代のような「憲法の解釈変更」を決議したからです(三月二四日衆議院、天皇機関説排撃による国体明徴決議案可決)。

そして翌三六年の二・二六事件いらい、軍部が政治を掻き乱していき、日中戦争が泥沼化すると、国民のあいだに不安と厭戦気分がひろがり、国内秩序が崩れていきました。復古的日本精神を鼓舞する官製の「国民精神総動員運動」が始められますが、戦死者の遺骨はつぎつぎにはるか遠い中国大陸から戻りつづけます。お葬式を執り行う宗教界の絶対的服従が必須でした。超国粋主義者であった平沼騏一郎首相は、三九年二月、ついに宗教団体法案を貴族院特別委員会に提出し、「どんな宗教も、我が国体観念に融合しなければなりません。国家としては保護もします。横道に走るのを防止するために監督もいたします」と恫喝します。宗教団体法は可決されました。

  (第一条)本法において宗教団体とは神道教派、仏教宗派及び基督教其の他の宗教の教団(以下単に教派、宗派、教団と称す)並びに寺院及び教会を謂(い)う

 アメ(保護・懐柔)は「認可を受ければ所得税は取らない」という条項であり、ムチ(監督・強権)には、合法でない宗教行為には罰をあたえる、トップ解任もあるとの脅しの条項もありました。黙って「認可」を受ける指導者たちの無抵抗の従順さを見て取るやいなや、文部省宗教局官僚は一気に強制的大統合をすすめたのでした。こうして宗教界諸団体は、国体に融合し、「和」を保てという同調圧力に屈してしまったのでした。それは滅私報国・戦争協力への道でした。


 
 このように、キリスト教界においても、多くの団体が、「和」の精神という同調圧力に屈し、戦争への協力の道を選んだことは知られている。とはいえ、抵抗した者たちもいた。その当時、最も激しい弾圧を受けたのは、ホーリネスだったと言われる。
 

一番すさまじいムチを受けたのは、一部が日本基督教団にも統合された、ホーリネス関係者でした。法律が一つ成立すれば、関連法が「改正」されます(安保関連諸法の改正のように)。内務省の特別高等警察は、「改正」治安維持法を適用して一三〇名以上の牧師を粛々と検挙しました。七一名を起訴。実刑一四名、死者七名――。



 当時、国策としての戦争に協力を拒んだがために、検挙されたり、実刑を受けたり、処刑されたりしたクリスチャンは、まさに殉教者の名に値する人々であろう。

 翻って、NK教団は組織的な抵抗を何ら行うことなく、国体思想に従順に従い、今になって懺悔の言葉をホームページに掲載している。だが、それはただ戦争に加担したことへの懺悔を意味するだけではなく、この誤った国策に協力するために、罪のない牧師、信徒、神の家族を率先して売り渡し、陥れ、犠牲にしたことへの懺悔の言葉であることを忘れてはならない。

 抵抗できなかった、と言えば聞こえは良いが、要は、兄弟たちを売り渡し、見殺しにする側に回ったということなのである。

 A教団はこの恐るべき戦時下には、まだNK教団という母体の中におり、世に生まれ出ていなかった。従って、A教団は、今日、どれほど目にしたくないほどの多くの腐敗と混乱を抱えているにせよ、最も暗いこの歴史的時代に、後ろ暗い負の遺産を負わされずに済んだのである。

 それなのに、一体、なぜ、A教団の理念の誤りを見抜いた教会が、このような歴史的負の遺産を抱える団体へ後退して行かねばならないのか。

 表向きの理由は、教会を地域社会で存続させるためであっても、内実は、牧師階級を延命させるためのバーター取引であるとしか受け止められない。

 牧師たちが自力で教会を支えているのでは、万一、彼らが倒れた時に、教会がなくなってしまう恐れがあるという理屈は、ほんの表向きのものでしかない。NK教団に所属すれば、牧師たちには謝儀が保障されるかも知れないが、翌年から、教会は教団に負担金をおさめなくてはならなくなる。それは信徒らに落ちかかって来る事実上の年貢だ。
 
 筆者は、おそらくは当ブログの訴訟が決着するこの3月が、様々な意味で、筆者にとどまらない多くの兄弟姉妹にとっても、大きな分岐点となることを、前もって予想していた。これはエクソダスのために開かれた道である。そこで、この時点までに、プロテスタントの諸教会が、暗闇の勢力に毅然と立ち向かって、受けた侮辱を跳ね返し、聖書の御言葉の正当性を公然と守ることをしなければ、その後、おそらく二度と彼らにはチャンスがなくなるであろうこと、それどころか、必ず、著しい信仰的後退が起きるであろうことを筆者は予想していた。

 当ブログでは、牧師制度を無用なものと考えているため、いつまでも牧師制度を抱える教会や信者たちと、手を取り合って進むことが可能であるとは初めから考えていなかったが、それでも、筆者は筆者なりに、できる限りの努力を尽くし、そして、予想通りの結果が返って来た。差し伸べた手を握り返す力は次第に弱くなり、書面は次第に遅れがちになり、そこに断固たる要求の調子は見られず、さらに武道を習っているという話までも聞こえて来た。

 筆者は、「道」のつくものは、みな東洋思想を基盤としており、相反する概念の統合としての「和」を至高の価値とするものであるから、これは聖書の神に逆らう理念であって、大変、危険な影響であることを警告した。脳裏には、三島由紀夫を信奉していた指導者の姿がまざまざとよぎった・・・。

 さて、以上の話は、これまでにも何度も起きては立ち消えになったものであるから、実現するかどうか、筆者に問われても分からない。

 だが、もしも実現すれば、すでに書いた通り、プロテスタントの教会からは、最後のともし火が消え、地の塩としての役目がほぼ完全に消えることになる。なぜなら、長いものに巻かれず、独立性を保って、カルト被害者救済活動に毅然と立ち向かう教会が、地上から消え失せるからである。
 
 軍国主義の時代でもないにも関わらず、プロテスタントは、自らカルト被害者救済活動の前に膝をかがめ、神の福音を自分の生活の保障と取り替えたのである。
 
 そこで、もしも最後に残った教会までもが、かつて「和」の精神を唱えて同調圧力に負けて戦争に加担した教団を所属先に選ぶとすれば、それも極めて暗示的・予見的な出来事と言えるであろう。
  
 筆者は、プロテスタントの終焉という出来事が、いかに恐ろしい現象であるか分かっており、この宗教がこれから何の影響力の下に集約されて行こうとしているのかも想像がつくが、こうした有様に驚いてはいない。

 なぜなら、カルト被害者救済活動に恫喝されて諸教会が沈黙に入ったのは、すでに何年も前のことだからである。

 そして、神はプロテスタントの中から、筆者のように、すべての組織や団体を離れてエクソダスを成し遂げた信者をすでに各地に用意しておられることも信じている。

 そこで、筆者がせねばならないことも、後ろにあるものを振り向くことではなく、自分が失格者とならず、むしろ、賞を得られるように、前に向かって走ることだけである。  
 
   信仰の世界においては、本物でなければ、存続しない。だが、存続するための秘訣は、黙ってぼんやり受け身に待っていることではなく、神の御言葉を行い続けることにこそある。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24-25)

 神の御言葉を聞いて行うことをやめれば、その時点で、家の土台の強度は失われ、その家は砂地に建てた家と同じになってしまう。どんなに世と迎合して、様々な支えを得たつもりであっても、その支えが、基礎となる岩から来るものでなく、御言葉に基づくものでなければ、その家は、雨が降り、川が溢れ、風が吹いて襲いかかれれば、ひどく押し流されて、倒壊することになる。

 だから、どんなに時が良くても、悪くても、私たちは決して信仰の証しをやめてはいけない。私たちは一体、誰の目に、自分を認められることを願っているのか。何に支えを見いだすのか。頼るべきは、世なのか、それとも、ただ一人の見えないお方なのか。

 水の上を歩いたペテロが、一瞬の不安に駆られて、見るべきお方だけを真っすぐに見ず、足元を見た時のように、もしも私たちが、主イエス以外のものに自分の生活の安寧や保障を見いだそうとするなら、私たちの思いは、たちまち穢され、支えを失ってしまうことであろう。

 そこで、見るべきお方から、一瞬も目を離さず、自分を奮い立たせて、自分の関心のすべてをとりこにして、キリストに従わせ、目標に向かうために真っすぐに走るのである。
 
 神は愛する子供を懲らしめる親のように、信仰者を燃える炉の中に投げ込んで洗練するように鍛えられる。だが、忍耐して賞を勝ち取ることができれば、天に朽ちない栄冠が待っている。

 力弱くとも、最後まで忍耐して従えば、大きな栄誉が待っている。私たちは、自分の栄冠を誰にも奪われることのないよう、固く守らなければならない。
  
「わたしはあなたの行いを知っている。
 見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。
 あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
 
 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。
 実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。
 見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。
 
 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すために全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。

 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
 耳のある者は、”霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」(黙示3:8-13)

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