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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

 現在、筆者はプロテスタントと資本主義、教会や地域における理想的な神の国の建設というアイディアの問題性と、グノーシス主義という異端について調べている。このような大きなテーマを述べるためには、できるだけ多くの文献に目を通し、それを整理することが必要となるため、まとまった記事を出せるまで、しばらく時間がかかってしまうことをお許しいただきたい。

 そこで、今回はこれまで述べてきたことの総括として、キリスト教界における聖職者による不祥事の解決として、裁判に頼ることが果たして有効かということを、聖書に基づいて、もう一度、はっきり述べておきたい。
 結論から述べれば、教会内不祥事に対する解決は、教会が、聖職者の懲戒免職を含めて、不祥事を起こした者に対する厳しい対応を取ることを除いて他にない。教会が、不祥事を起こした悪徳牧師をかばい続けるだけでなく、あまつさえ、被害者が裁判によって悪徳牧師を救済すべきだという教えを説き、被害者の力による裁判を、教会内不祥事の有効な解決方法として後押しすることなど、聖書は少しも勧めていない。教会内不祥事を司法の場に出てしか解決できないような弱体化した教会が、聖書で何と言われているか、そのことを、ここではっきりさせておきたい。

 教会内で起こった不祥事を司法の場に持ち出すことに関して、よく取り上げられるのは、パウロがコリントの教会に宛てた書簡、「コリント人への第一の手紙、第5、6章」である。そこから引用させていただく。

(第5章1~13節)
「現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。<中略>

 あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者<中略>などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。
 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない。食事を共にしてもいけない、ということであった。<中略>
 あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。

 パウロはこの書簡の中で、コリントの教会に起こった性的不祥事の対処方法について触れている。信徒の中のある者が、信仰を持たない人々でさえも及ばないような、乱れた性的放蕩にふけっており、信仰を馬鹿にし、社会規律さえ馬鹿にしている、それにどう対処すれば良いかという相談をパウロは教会の信徒たちから受けた。
 それに対して、パウロはまず、なぜそのようなスキャンダルを引き起こした信者が未だに教会の中に平然ととどまっており、信徒たちとの交わりを保っているのか、そんなことは言語道断だという調子で筆を進める。

 忌まわしいスキャンダラスな事件を教会内で平然と起こしているような者と、信徒はすぐに交わりを絶たねばならないというのがパウロの結論であった。目には見えないイースト菌が、パン全体を膨らませるように、悪を野放しにしていれば、やがて集団全体が汚染され、堕落させられる。誰か一人の邪悪な行為も、長い間、放置していれば、やがて教会全体を腐敗に陥れる。だからそのような邪悪なパン種が登場した時には、すぐに教会から取り除きなさいとパウロは信徒に忠告しているのだ。

 誤解がないように注意したいのは、ここでパウロが厳しく言及しているのは、「教会の中で公然と行われる悪事」のことであり、「悪を犯しても悔い改めるそぶりもない悪人」のことであるという点だ。これは信仰的にも弱いクリスチャンが、日々の生活の中で幾度もつまずき、罪を犯したくないと思いながらも、それでも自分や他人に罪を犯しながら、戒めを完全に守ることができないで、悔い改めの中に生きていることを指しているのではない。
 ここで言われているのは、どんなに忠告されても、悔い改めのない堕落した生活を送るような信徒、特に性的放蕩、金銭的なむさぼりを平然と、堂々と行い、習慣的に悪事を積み重ねるような信徒のことであり、そのような堕落した信徒(や牧師)の存在に気づいたならば、他の信徒は毅然と立ち上がり、彼を教会から放逐せねばならず、決して黙って目をつぶっていてはいけないということである。

 信徒や牧師を自称する者が、公然と、また習慣的に、恐るべき悪事を積み重ねている場合、それに対して、教会では過度な寛容は禁物である。恐るべき不道徳な生活を改めようともせず、信仰を馬鹿にして、悔い改めないような悪人は、もはや「兄弟姉妹」と呼ばれる資格はない、そのような者と信仰による交わりなど不可能である、パウロはそう言っているのである。
 パウロは、「悔い改めのない悪人とは関わりを断つ」という当然の事柄がコリントの教会で実行されていないことを嘆いている。コリントの教会がこの不祥事を持て余し、何ら自力で解決できないでいる無能力を戒めている。

 引き続き、第6章1~18へ。
 そのように教会が不祥事の解決を持て余しているような場合、司法の場、すなわち世俗的な裁判に問題を持ち込むことが望ましいものかどうかという問いに対するパウロの答え。

「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起こした場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、言うまでもないではないか。それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。わたしがこう言うのは、あなたがたをはずかしめるためである。

 いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
 そもそも、互いに訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。しかるに、あなたがたは不義を働き、だまし取り、しかも兄弟に対してそうしているのである。それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。
 まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔うもの、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。<中略>

 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。<中略>不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。」

 パウロはここで、クリスチャンを名乗る人たち、つまり、世俗的な暮らしを送る信仰のない人たちよりも、はるかに道徳的に優れていなければならないはずの「聖徒たち」が、司法という世俗的な場所に頼らなければ、自分達の内輪で起こった教会内不祥事さえ解決できないでいるという、呆れた無力さを戒め、非難している。
 クリスチャンは本来、その高い道徳性、律法と信仰に基づいた聖い生活によって、この世を超越している存在であるべきである。なのに、この世に頼らなければ、クリスチャンが善悪の判断さえつけられないでいるとは、一体、何事なのか。これは恥ずべき事態ではないか、とパウロは言うのである。

 このような無力、弱体化を公然と世にさらせば、クリスチャンは世の笑い者となるだけだとパウロは示唆している。もしもクリスチャンが内輪で起った争いを司法の場に持ち込めば、世の中の人々は、クリスチャンとは、日頃、神の名をしきりに唱え、正義を掲げていることとは反対に、実際には、内輪の争いさえも自力で解決できない無力な人たちなのだと思うだろう。それだけではなく、クリスチャンとは、「兄弟」と互いに呼び合いながら、お互いを愛し、思いやり、たとえ誰かから不当な扱いを受けても信仰に基づいて耐え忍ばないどころか、むしろ互いに率先して騙し合い、不義を行い、金を巻き上げ合うような、恐るべき人たちなのかと、世の中は考えるだろう。

 そこで、たとえ教会が悪事をなした信徒を裁判の場に引きずり出し、彼に勝訴してみたところで、「クリスチャンとは不祥事ばかりを起こして互いに訴え合うような人たちなのか」と世の中に思われることによって、クリスチャンは面目を失い、この世に敗北するのだ、とパウロは逆説的に論理を展開する。

 この個所は今日、よく誤解されて、特に聖職者によって、歪曲された形で、信徒による教会や牧師への裁判を牽制し、禁止する目的で引用されることが多い。教会内で不祥事の被害をこうむった人たちが、最後の手段として、教会や教会内にいる加害者に対して裁判を起こすことさえも禁じる文脈で、牧師がこの個所を引用することがあるが、それは正しくない。教会内で不祥事の解決を模索しても、何ら見出せず、同胞である信徒に見捨てられ、自らの権利を守るために、最後の手段として、被害者が裁判を起こさざるを得ない状態に陥った時のことを考慮して、このパウロの発言があるわけではない。

 何よりも、この文章をパウロは不祥事の被害者に向けて訴えているのではないことを見逃してはならない。パウロは教会全体、信徒全体に向けて言葉を発しているのだ。
 パウロがここで非難しているのは、教会内の不祥事を知りながら、黙ってそれを見逃してきた大勢の信徒達だ。教会にいる大勢の信徒たちは、教会の中で、不祥事の存在を知りながら、ただ沈黙を守ることで、問題を訴える被害者を見捨て、教会の腐敗を見過ごしにして来た(コリントの教会では特に被害者と呼べる人たちがいたという言及はない。被害者の代わりに、教会の不祥事を憂慮する信徒たちがいたと想像される)。
 不祥事を憂慮する信徒たちが、教会内で問題を解決するよう呼びかけても、ほとんどの信徒はそれに見向きもせず、対策も講じず、どこにも解決を求めようがなくなった一部の信徒たちが、結局、裁判に赴かざるを得なくなるのを、教会全体が、手をこまねいて見ている。そのような態度についてパウロは非難しているのだ。

 そうやって、事態を見逃せないと判断した一部の信徒たちだけが、悪人を世俗の裁判に訴えるのに任せて、他の大多数の信徒や、教会全体は、自分では何の努力もしようとせずに、問題に対して手をこまねき、ただ裁判が勝訴を勝ち取ることを心の中で期待しながら、一部の信徒と、司法の力だけに頼り切って、教会内の不祥事の解決をまかせきりにしているという態度を、パウロはあるまじき怠慢、無力さだと言っているのだ。

 被害者が司法に泣きつくよりも前に、大勢の信徒がしかるべき対策をきちんと打っていれば、裁判などになるはずがない。教会がきちんと機能していれば、司法の場に問題が持ち越されるはずがない。大勢の信徒たちには、裁判について検討するよりも前に、まず教会の中でなすべき処分があるはずではないか? …パウロはそう言っているのだ。

 パウロの視点に立てば、被害者はともかくとして、教会全体が手をこまねいて、教会で起った不祥事に何も対策を打たず、その解決をただ司法の場に任せようとすることは、教会が世に対して最低の無能さを証明することに他ならず、到底、勧められないという結論が出る。何よりも、そうなる前に、まず、不祥事を起こし続けている信徒を教会から放逐することが、教会の仕事である。キリストの肢体を聖く保つために、悪事を犯し続けている者を教会が除名することこそが、教会が真っ先になすべき仕事である。悪事を犯し続ける者と信徒が交わりを保つことは、キリストの肢体である教会を辱め、遊女にまで貶めることにつながる。

 教会内不祥事を司法の場に持ち出して解決することに対する、パウロの言及はここで終わっている。重ねて言うが、これは断じて、教会内で不祥事を解決できる見通しが一切なかった時に、被害者が最後の手段として司法の場に解決を委ねることを禁止している文脈ではない。そうではなくて、これは被害者以外の人たちに対する呼びかけであり、教会全体が不祥事の解決方法として、特定の人間に厳しい措置をとりたくないがために、司法の場に全てを任せようとするような、逃げ腰の態度を取らず、まず、自分達でしっかり不祥事を起こした人物を厳しく処分し、不祥事を教会の中で自力で解決する努力をし、キリストの肢体を聖く保つ方法をしっかり見つける努力をしなさいということが言われているのだ。

 だが、もしも、悪事を犯し続けている者を擁護し、その者と馴れ合い、除名する勇気さえ持たないような、極めて弱体化した教会があるならば、一体、どうなるのだろう? 不祥事が公然と見逃され、悪人が大手を振ってのさばり、聖職者も役員も彼らを除名するそぶりもなく、他の信徒たちも、関係ある牧師も、何を忠告しても馬耳東風で、弱い信徒は嘲られ、犠牲者が増え続け、被害者が自力で裁判を起こさなければ、何一つ解決できないような、恐るべき教会があった場合、どうなるのだろう?
 
 そういう疑問は、パウロの書簡では、あまりにも論外である問題のためか、全く考慮されていない。

 だが、そうした場合、信徒がどうすれば良いのかは、以上で挙げた文脈から容易に判断できよう。筆者がそのような悪徳教会に対して言えるのはただ一つ、「それはもはや教会とは呼べない」ということだけだ。そのような、邪悪なイースト菌を弄び続けた結果、全体が邪悪化し、遊女化したバビロン教会があるならば、そこでは聖徒は食事をすることも避け、交際を絶ち、自分自身が邪悪なパン種によって汚染されることを避けるため、ただ健全な教会を探して、そこを出ることだけが勧められる。

 たとえ遠くからでも、犯罪者顔負けの恐るべき放蕩や、金銭的むさぼりがあるという情報が聞かれる教会や、牧師や信徒が互いに互いを泥沼の裁判で訴え合っているという噂が聞こえるような教会があるなら、そこにはできる限り、信徒は近づかないのが良いだろう。

 邪悪なパン種を弄ぶような人間とは、信徒は関わりを断つべきだ、というのがパウロの勧めであって、キリスト者の使命とは、邪悪な生活を送り続ける元信徒や牧師を回心させ、更生させるために、自分の人生を丸ごと投げ出すことではない。堕落した者との関わりを続けていた場合、ミイラ取りがミイラにならないという保障がどこにあるだろう?
 一信徒の堕落であっても、厳しい措置を取るようパウロは勧める。まして聖職者が堕落した場合、教会がその聖職者のためにこうむる汚染、被害はどれほどの規模に達することだろう。それを考えるならば、邪悪な生活を送る聖職者が解雇されるのは当然である。

 キリストの肢体を遊女に貶めるようなことを、聖職者が率先してやっている教会がもしあるならば、信徒は全速力で、そのような教会から遠ざかった方が良い。誘惑を弄んではいけない、誘惑を避けなさいと聖書にも書いてある。

「まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔うもの、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」

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