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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしていなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

裁判所との最終調整が終わったので報告しておきたい。

巨大なエクソダスが完了した。判決はまずまずの内容であり、不本意な和解を退けただけの甲斐は、確かにあると言えるものであった。

今回の判決では、まず被告1名(信徒)に対し、被告のブログにおける、当ブログ執筆者に対する名誉毀損、侮辱、著作者人格権(氏名公表権)の侵害、プライバシー権の侵害が行われた事実と、それに対する当ブログの側からの損害賠償請求、当該記事の掲載差し止め請求がおおむね認められた。

早い話が、ペンネームで執筆されている当ブログの執筆者の氏名を勝手に公表したり、当ブログ主の個人情報を調べて無断でネット上に公表したり、ネット上で人格障害者呼ばわりするような行為が権利侵害に該当するという、当ブログの主張が認められたということである。

その他、非常に重要な成果として特筆すべきは、当ブログと当該被告のブログとの間で2009年以来、起きた論争の発端は、そもそも被告が、当ブログ主から受けたコメント削除の依頼に、正当な理由なく応じなかったことにあることが、事実として認められた。

他者の管理するブログに投稿したコメントであっても、その著作権は投稿者自身にあるため、コメントの削除依頼を受けたのに、これを正当な理由なく拒むことは、公衆送信権の侵害に当たるという見解が示されたのである。

しかしながら、今回の裁判では、十分に立証が行えなかった点もいくつか今後の課題として残る。

その第一は、これまで幾度か断ってきた通り、今回の裁判は、急ぎ足で終了したということもあって、刑事事件の進展と、犯罪ネットワークの全容の解明が追いついておらず、被告らの共謀関係については十分とみなされうる立証が行えなかった点だ。

そのため、今回の紛争は、2名の被告のうち、宗教指導者である被告は、全く法的責任が問われない形で終了した。

だが、筆者の心には、事実はどうなのかという深い疑問が残る。もちろん、今回の訴訟でも、宗教指導者の関与が全くなかったという事実が立証されたわけではなく、推定無罪の原則が働いているのみである。

被告らは、この裁判の過程でも、当ブログ執筆者を馬鹿にしたメールを書証として提出したりもしており、宗教指導者である被告は、当ブログ執筆者をターゲットとして非難する記事を約10年間も掲載している。

そして、当ブログ執筆者に関する個人情報を、信徒である被告に伝えたのが、誰なのかを特定する作業は、いまだ完了していない。その上、掲示板で行われた当ブログに対する大々的な権利侵害を、誰が主導したのか、どのようなネットワークがその背後に存在するのかなどといった事項も、すべて今後、刑事事件の進展を待たねばならない。

従って、宗教指導者の被告は、罪に問われなかったことをもって、すべての疑いが晴れたとは決して言えないのである。

このように、今回の裁判では、当ブログの請求のすべてが認められたわけではなく、十分な立証が間に合わなかった主張もあるとはいえ、点数に換算するならば、60点から(甘くつければ)70点くらいの点数は取れ、まずまず及第点には達したと言えるだろう。

だが、筆者から見ても、この判決は、決して甘い内容ではなく、感情に流されたものでもなく、極めて冷徹かつ客観的な分析と、合理的な法的解釈に基づくものであるため、当事者の誰かが控訴したとしても、この判決を覆すことは、極めて困難なように思われる。

そのようなことは、単なる時間と費用の無駄にしかならず、報復以外に目的が見当たらないということで、(仮に被告が控訴しても)心証をより悪くすることにしかつながらないであろう。

そこで、筆者は、今回の判決でカバーされていない問題、そして、今回の訴訟の最中に新たに判明した事実については、今後、新たな係争の提起という形で責任追及を行うことを考えており、訴訟後の手続きも控えているため、戦略的に、今は言及を避けることにしたい。

だが、一つ、今回の裁判でつくづく分かったことがある。それは、やはり民事訴訟は、受けた損害を完全に償わせる手段としては、適切ではなく、ただ賠償請求だけが目的ならば、民事裁判は起こさない方が良いということだ。

特に、当ブログが過去10年間にも渡り、様々な嫌がらせ行為を受けて来たことを考えれば、筆者は今回の判決で言い渡された賠償金額(それは決して少なくはない)が3倍だったとしても、それも妥当であるとさえ考える。
 
だが、むろん、筆者は賠償金が少なすぎるなどと言っているのではない。民事訴訟を起こすことの主要な目的は、決して金銭的な利益にはなく、そのような成果が目的であれば、裁判には期待薄である、ということを言いたいのである。

すなわち、個人の利害の対立という次元を超えて、正しい事実認定を行うことで、何が真実であるのかを世に公然と知らしめ、今後起きうる同様の犯罪の抑止力とすること、目に見えない正義と真実を追求することで、社会をより良く変えるきっかけを作りたいという強い使命感がなければ、このような戦いを個人で最後まで戦い抜くことは非常に困難であり、仮に弁護士を立てなかったとしても、到底、元が取れるようなものではないということだ。

だが、筆者は、この訴訟を提起したことに何の後悔もなく、その全プロセスに心から満足している。筆者自身にとって、今回の訴訟は、はかりしれないほど大きな学習の機会であった。これは他のどんな紛争にも比べられないほどの深い霊的意義を持ち、まさに全力投球して取り組む価値のある記念すべき紛争だったことは確かである。

筆者は今回の訴訟で、決して法的解釈にとどまらず、聖書に基づく自らの見解を、思うだけ主張・披露できたことに、非常に深く感謝している。事件を担当してくれた裁判官が、もしも宗教論争を一切、この紛争に持ち込まないようにと釘をさすようなことがあれば、それは決して実現できなかった願いである。

そういう意味で、今回の紛争は、他のもろもろのこの世の紛争とは全く違った意味合いを持つものであり、それだけに、こうした結果が得られたことは、聖書の御言葉の正しさを公然と世に証明するに当たっても、実に大きな成果だったと言えるのである。

今回、裁判官が、その50倍はあろうかという書面を基に書き上げてくれた、分厚い本のような判決文も、それ自体が、筆者にとっては、示唆に富んだ、宝のような文面である。この貴重な判決文は、筆者が大きな代価を払って得たものであるから、万人に公開することは控えたい。

今回は、裁判所という「干潟」を通して、当ブログの見栄えのしない「泥水」に光が当てられ、そこに神秘的な光合成が働いた結果、このような判決が生まれた。

まだまだ少なくとも、一年か二年間くらいは、筆者と当ブログは、この「干潟」としての裁判所にお世話にならねばならないものと考えている。

数多くの戦いが控えているため気は抜けないが、とりあえずは、関係者に心から感謝を述べておきたい。

そして、最後に、自己の信念は、きちんと主張しなければ、実現もできず、他者の努力に便乗して、自分の願いを実現することは、誰にもできない相談なのだということを断っておきたい。

日本社会には、長いものには巻かれろ式に、権力者におもねり、絶えず周囲の顔色を伺って、自分の主張を控え、周囲と波風立てないことが、あたかも正しいことであって、それさえやっておけば、自己の権利を保ち、幸福に生きられるかのような考えがある。

要するに、「和の精神」である。しかし、当ブログでは、これは偽りの平和であって、聖書の御言葉に立脚するものではなく、この精神に絡め取られてしまうと、自分自身を失い、まことの命をも失うということを述べ続けて来た。

今回、筆者は自らの信念に基づき、自分の主張を公の場に持ち出したことで、激しい批判と嘲りと中傷を浴びはしたが、それとは引き換えにならないほどの貴重な教訓を得たと思っている。それはやはり、この社会の中には、正義、真実、公正を愛し、良心に生きる人々が確かに存在しており、自らの信念を曲げずに、希望を捨てずに生きていれば、そうした人々に出会うことも、かつ、協力して、善良な願いを実現に至らせることもできると分かったことである。

すなわち、今回の紛争の最も大きな成果は、ただ有利な判決を得たということではなく、それ上に、これほどまでに激しい妨害や、徹底した誹謗中傷、敵意を向けられる中でも、筆者が、全くと言って良いほど、絶望に至らず、死へ追いやられることもなく、それどころか、以前よりも一層、御言葉の真実性を知って、喜びに溢れていること、また、筆者一人の力だけでは成し遂げられなかったであろう成果を、様々な人々との協力関係の中で打ち立てることができたことである。

このような成果は、人間の力にはよらないのであって、ただ神を賛美するのみである。筆者自身はネットワークを築こうとしたことはなく、人々の心に善良な願いを起こさせて下さったのも、すべては主の采配である。

もちろん、今回生まれた協力関係はほんの一時的・束の間のものであった。だが、筆者は、誰がどこへ去ろうとも、これからもこの地にとどまるだろうと思う。そして、ここでバプテスマのヨハネがしたように、(もちろん、筆者なりの方法で!)、主の到来に地道に道を備えたいと願っている。

すなわち、この地が真に永遠に至る実りを結ぶ場所となり、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」と言えるようになるまで、どこにも去らず、ここで根気強く奮闘し続けたいと願っている。

キリストは、まことに筆者のためにも、神の知恵となって下さり、義と聖と贖いとになって下さった。この方の御名にのみ栄光を帰したい。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

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2019/03/29 (Fri) 神の義なる裁き