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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

4月1日 補記

●村上密が本日投稿した記事に、判決の前提を覆す可能性があることについて

(村上は一旦、当ブログ執筆者に関する権利侵害に及んだ上、後になって該当部分を伏せたらしいですが、記事は保存してあります。検索結果にも残っていますね。まさか書き換えるとは思いませんでしたが・・・。

今回、村上が杉本同様の権利侵害行為に及んだ上で、筆者が以下の記事を投稿したことを知るや、記事を書き換え、「実名を伏せた」と追記していることを、読者は決して忘れないで下さい。
  
刑事告訴の対象になるとしたら、まさにこのような人格権侵害の記事であり、筆者の記事が論評の域を超えることはありません。筆者がこの記事で述べている事実には、杉本・村上が自ら書証として訴訟に提出した数多くの証拠の裏づけもあります。それについては随時、説明して行きます。


(以下は、権利侵害が行われていた時点での村上の記事について)

 考えて見ますと、村上密が4月1日にブログに投稿した記事「判決」は、今回下された判決を根底から覆す可能性のある内容のようです。


なぜなら、今回の訴訟で、村上が2009年にブログに掲載した当ブログ執筆者に関する2つの記事が、不法行為に当たらないと認定されたのは、そもそもそれらの記事で、著作者人格権の侵害(要するに氏名の無断公表)が行われていなかったことを前提とするからです。

判決文
pp.28-29
(3)被告らの責任について
ア 被告村上のブログは、それ自体「ヴィオロン」がブログで表明した意見ないし論評を批判するものにすぎず、その言及も「ヴィオロン」を対象とするものにとどまり、原告個人に関する事実を公表するものではない。<略>以上によると、被告村上は、被告村上のブログを通じて原告のプライバシー、名誉権及び名誉感情を侵害したとは認められない。よって、被告村上の不法行為責任を認めることはできない。
pp.47-48
11 人権侵害に基づく作為等の請求について
(1)ブログの削除を求める部分について
 <略>なお、被告村上に対する請求は、被告村上による人格権侵害が認められない以上、前提を欠く。

このように、村上は「ヴィオロン」に関する評論を述べただけなので、人物の特定もできない記事に人権侵害が成立する余地はない、ということが、今回の判決の大前提だったわけですね。

むろん、「ヴィオロン」が執筆しているブログに関して、氏名を公表するかどうか(著作者人格権)は、筆者自身に属する権利であるため、それを侵害する行為は、不法行為に該当し、さらに、そうして人物特定可能な記述を行った上で、その人物をブログで誹謗中傷すると、名誉毀損や侮辱が成立してしまう可能性が生じるため、杉本のブログ記事における人権侵害が認められ、一連の記事削除と賠償が命じられる結果になったわけです。

掲載当初はペンネームだけしか記していなかったために、人物特定が出来ず、人権侵害が成立する余地がなかった記事についても、後になって、著作者人格権を侵害して、人物特定可能な情報を自ら公開すれば、人権侵害の発生の余地が生まれ、内容が、名誉毀損又は侮辱に当たると判断される可能性がある、ということは、以下の文からも分かりますね。

p.30
(1)緒論
ア 以下においては、被告杉本が掲載したブログごとに、原告が主張する不法行為の成否を検討する。なお、被告杉本のブログのうち、「ヴィオロン」が原告であることを公表する前に掲載したブログ<略>は、いずれもその掲載当初は原告に関する事実を摘示するものではなかったが、被告杉本自身による「ヴィオロン」が原告であることの公表の結果、上記の各ブログの内容は原告が「ヴィオロン」としてしたブログの掲載や電子メールの送信に言及するものとなったと認められるから、上記の各ブログについても、原告に対する名誉毀損又は侮辱に当たるかを検討する<略>。

ちなみに、筆者がこの記事で、村上密の記事に言及していることは、決して自ら著作者人格権を放棄していることを意味しません。また、筆者が自ら訴訟を起こしたことも、筆者が筆名で執筆しているブログについて、被告らが勝手にインターネット上に氏名を公表したする行為を許したことにも該当しません。

ですので、仮に村上がそうした行為(人格権の侵害)を行いますと、村上の書いた「ヴィオロン」に関する記事は、人格権の侵害に該当し、さらにプライバシー権その他の侵害にも該当する可能性が生じ、今回、村上に対して下った判決が、次回の訴訟においては、完全に覆る可能性が出て来るわけです・・・。

分かっていて故意にやったのでしょうか。それとも、自覚がなくやったのでしょうか。リスクを知らなかったのでしょうか。理由は分かりませんが、次回の訴訟の時に本人に確かめてみれば良いことですね。
 

  
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これまでは静かに判決を待つため、あえて記事では言及しなかったのだが、これからしばらく、当ブログを巡る裁判結果と、掲示板で続けられて来た権利侵害について、総括を述べていきたい。まずはかいつまんで短い報告から挙げておく。
  
昨夜、村上密についての記事を書くことをひとこと欄で予告すると、早速、それからほとんど間をおかず、村上密のブログから、当ブログ執筆者の提起した民事訴訟に関するものと見られる記事(断定を避けるためリンクを貼らない)がアップロードされていた。当ブログのコメント投稿欄の隅々に至る記述まで、おそらく目を通しているものと予想される。少しでも不利な内容の記事を書かれそうだと察知すると、先手を打って行動しようとする素早さにはいつも驚き呆れる。
 
村上密は、記事で都合の良い部分にしか触れていないが、この事件では、当ブログ執筆者が、村上密と共にブログ『現代の風景 随想 吉祥寺の森から』を執筆する杉本徳久を名誉毀損等の不法行為で訴え、杉本には、3月27日に言い渡された判決において、当ブログへの名誉毀損・侮辱、著作者人格権の侵害が認められ、賠償請求が命じられた。かなりの数のブログ記事の削除と、決して少なくない損害賠償が認められたのである。

ところが、村上は記事で杉本徳久に記事削除および賠償請求が命じられたという判決の内容には、一切、触れていない。もちろん、杉本徳久との共同不法行為(杉本に対する個人情報の提供)の疑いが、当ブログ執筆者から村上に対する訴えの重要な部分の一つであったという事実にも触れていない。

村上は自分は不法行為に問われなかった、記事の削除も命じられなかったという勝利に満ちた部分だけを報告したいと考え、この記事を投稿したのかも知れないが、村上はこの記事で、筆者の筆名と共に、杉本徳久が幾度となく権利侵害に及んで公表した筆者の個人情報まで明らかにすることにより、牧師として今まで以上に致命的な行動に及んでしまった。

(むろん、こうした情報だけでは、当ブログ執筆者の著作者人格権の消滅とならず、人物の特定にも至りつく根拠ともならないことを読者に断っておく。村上があえて法的責任追及を逃れるためか、ブログ標題や過去記事にリンクを貼っていない手法も注目に値する。)

なぜなら、この記事の発表によって、村上密は、今後、自分を批判する信徒が現れれば、誰であっても、裁判等を通じて信者の個人情報を入手し、それを全世界に向けて発表する用意があることを自ら世に示してしまったからである。

はからずも、この記事の公表が、裁判結果とは裏腹に、村上密という人物の内心を余すところなく証明するものとなったと言えよう。

筆者が知っている限り、村上密はこれまで信徒の実名を挙げて批判記事を書いたことはなかった。従って、この記事は、村上がこれまでとは異なり、一線を超えて、かつて自分のもとに相談に来た信徒に対する批判を、個人を標的に可能な限り人物を特定して開始したことを明らかに示すものである。
 
読者はこの事実をはっきりと見ておいて欲しい。筆者は2007年から2008年にかけて、メールおよび実際に村上密の教会へ幾度も足を運んで、村上に対して他教会で起きたトラブルの相談を詳しく行った。しかし、村上を通じて事件を解決することはできず、筆者は疑問を持ったまま、村上の教会を離れ、2009年に筆者が村上密の活動に対して批判的になるや否や、村上はネット上で筆者および当ブログに対するバッシングの態度に転じたのである。
  
このように、村上が信徒を実名で批判する記事の投稿を開始している様子を見ながら、村上密のもとに宗教トラブル相談に訪れたいと考える信徒は、今後、おそらくほとんどいなくなる可能性が高いと見られる。

筆者としても、それは到底、お勧めできる行為ではない。読者に言えることはただ一つ、どんなにあなたに宗教上の悩みが生じたとしても、この牧師に個人情報を告げることはやめておきなさい。後々、あなたをも標的として、以上のような記事が発表されないとも限らないからです。カルト被害者たちは、みな相談の際に自分の個人情報を詳しく握られたことがあだとなって、相談した指導者らを批判できない状況に置かれているのです。

さて、今回の裁判では、幾度も断って来た通り、裁判官の異動という出来事も手伝って、審理を早期に終結する必要が生じ、杉本に対するおよび掲示板に対する刑事事件の真相究明も間に合っていないため、当ブログで最も解明したいと考えていたインターネット犯罪ネットワークの責任追及に関する立証は十分でなかったと言える。

従って、今回、村上密に対する共同不法行為の責任追及が行えない結果になったのは、何ら予想外の出来事ではない。
 
しかし、そのことが、決して、村上密が杉本徳久による不法行為に全く関与していなかったことの証拠になるわけではなく、一体、杉本徳久による当ブログ執筆者に対する権利侵害行為に、村上密がどの程度関わっていたのか、関わっていなかったのかという点は、今も不明なままであり、掲示板のコメントを対象とする刑事事件の進展も待たれる。
 
ただし、大きな成果であったと言えるのは、この訴訟の最中、村上が杉本と共に筆者を罵るメールを書証として提出して来たことである。それによって、両者の間でメール文通が行われている事実、さらに、村上が杉本と意気投合して、事実でないことを根拠に、筆者を罵っていた事実も発覚した。
 
村上が提出した準備書面や、両者のメール文通については、次回以降の記事で具体的に触れる。

さらに、村上は裁判の最中、筆者の側からはまだ何も言わないうちから、自ら当ブログ執筆者を非難した2つの記事の削除を申し出たが、途中で、記事を削除しないと自ら提案を翻した。

そして、何より重要なこととして、村上が口頭弁論の最中、杉本と一緒になって、筆者に反訴すると言い立てたことも、むろん、村上の記事では全く触れられていない。

筆者は反訴などするのであれば、その前に、村上から提出されたすべての書面を公開すると応酬したため、二人は筆者に対する反訴を行わなかった(結審後、もし反訴状が提出されていたとしても、それは裁判官が却下している)。

そして、昨日まで、筆者は一つたりとも村上・杉本の実名入りで判決に触れる記事を書かなかった。ひとこと欄で、筆者が予告したのも、「ネトウヨが掲示板に書き連ねたコメントを引用して、村上氏に関する分析記事を書く予定」という言葉から分かる通り、掲示板における村上に関する投稿をまとめるということだけであって、判決を公表するとは述べていない。

筆者は、先の記事で、判決文は大きな代価を払って勝ち取ったものであるから、公開するつもりはないと述べている(読む価値は十分にあるので、ぜひ読むことをお勧めするが、希望者は山下公園まで料金を払って見に行かれれば良いことである。)

そこで、以上の投稿記事は、あくまで村上が先に判決の公表に及んだものであることも強調しておく。
 
いずれにしても、今回の村上密の記事の発表を通しても、読者は村上、杉本の両名が、これまで信徒の裁判に関係することにより、信徒の個人情報を入手しては、それを使って、自らに批判的な信徒を非難する(もしくはコントロールする)材料として利用して来た様子を伺えるのではないかと思う。

村上は、当ブログ執筆者が個人情報の公開を望んでいなかったにも関わらず、杉本徳久から執拗に個人情報を公開され、プライバシー権の侵害を受けたと主張したことが、判決で認められたにも関わらず、あえて以上の記事に公表に及んだ。
 
また、今回の裁判では、杉本徳久が、かつて2013年に杉本が坂井能大牧師を訴えた裁判において、唐沢治を通じて書証として提供された筆者のメールの内容から、筆者の個人情報を入手したと自ら述べた。(むろん、杉本はそれ以前から、筆者の個人情報の入手に及んでいた。)

こうした事実は、杉本が裁判を通じて、信徒の個人情報を入手した事実を物語っている。杉本がかつて自らのブログで、ネット上で個人情報を明らかにせずに情報発信していたカルト被害者に対して、個人情報を明かすよう要求していたことも興味深い事実である。
 
(なお、今回の裁判で、杉本徳久は、裁判以外の場でも、唐沢治にメールで接触し、当ブログ執筆者の個人情報を入手したことおよび唐沢が杉本の要求に応じて筆者の情報を杉本に提供したことを、唐沢とのメール文通を書証として提出することにより明らかにした。

むろん、唐沢治は、KFCの指導者として、当然ながら信徒に対して守秘義務を負っているはずであり、筆者は唐沢に裁判へのメールの提出を許可した事実もなければ、杉本への情報提供を許可した事実もない。

そして、唐沢治が、現在、自らの行為を正当化するために、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」と主張していることも、強調しておかねばならない。
  
なお、唐沢治は2010年に杉本徳久に自らへの権利侵害を理由として民事提訴を予告していたが、後になってから、その提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るための提訴予告であったかのように主張をすり替え、杉本に対して、筆者の実名が公表されていないから、提訴に及べなかったのだと筋違いの弁明をして、提訴予告を実行しなかった責任があたかも筆者の事件にあるかのように弁明していたことも、強調しておかねばならない事実の一つである。
 
唐沢には、一方では、KFCで「クーデター」があったことを自ら認めながらも、他方では、それが事実でないかのように主張して、筆者が記事で主張しているKFCで起きた事件の記述が嘘であるかのように主張しているという自己矛盾も存在する。この問題についても、また追って詳しく記述することにしたい。

このように、唐沢治も、多くの点で事実に反する主張を行っており、当ブログ執筆者を杉本と一緒になって非難し、かつ、杉本と情報交換して来た経緯があるため、今後、村上密と並んで、当ブログに関して非難記事を数多く投稿する可能性が十分に考えられる人物の一人であると言えよう。)
 
このように、2012年頃まで(ちょうど筆者がKFCにいた頃まで)は、唐沢は杉本に提訴予告をしており、杉本と対立関係にあったが、2013年に杉本が坂井能大を裁判で「勝訴的和解」により打ち破ったことにより、坂井を支援していた唐沢治も、共に杉本に敗れ、杉本との対立関係を解消するに至ったものと見られる(唐沢治はこの裁判の当事者ではないが、いわば、杉本が両名を打ち負かしたような恰好となった)。それ以後は、唐沢は杉本と一緒になって当ブログ執筆者を非難・中傷する立場に転じた。
 
杉本は、このように、自らが訴えられたために訴訟に関わったけでなく、自ら裁判を起こすこれによって、自分にとって不都合な発言を行う信者や宗教指導者を沈黙に追い込むことに成功して来た経緯がある。訴訟では不敗記録を更新し続けていたとのもっぱらの噂だが、少なくとも、当ブログ執筆者が杉本に不法行為で賠償責任を負わせたことで、その記録には終止符が打たれたと言えよう。

さらに、興味深い事実として、今回の裁判では、杉本は「自分はカルト被害者救済活動などしていない」と主張していたことが挙げられる。杉本は「カルト被害者救済活動」という言葉を否定するだけでなく、カルト被害者を支援するために裁判に関わっていた(傍聴・報道していた)事実すらも否定した(はぐらかした)のである。

そこで、筆者は杉本のブログから、実際に杉本が被害者を支援するために発表した数々の記事を、杉本がカルト被害者の裁判をブログで取り上げることにより、支援していたことの証拠として提出した。

このように、杉本はかつて自分が理不尽な訴訟で訴えられた経験から、カルト被害者が起こした裁判を放ってはおけないと、被害者の裁判に応援のための傍聴を呼びかけたり、自ら傍聴に駆けつけたり、盛んにブログでアピールしていた事実があるにも関わらず、今回の裁判では、自分がそうして被害者を支援してきた事実さえも、ないがごとくにとぼけるか、もしくは否定する立場に転じたことを強調しておかなくてはならない。

あれほど「被害者のために」と公然と訴え、被害者の権利回復を自らの信念のように掲げて活動していた人間が、「カルト被害者救済活動」に関わっているとみなされると不利な立場に置かれるかも知れないとなると、途端、被害者の裁判に関わった事実がないかのように、被害者を切り捨てるような主張をしたことに、筆者は心底、驚かざるを得なかった。

そこで、今後、筆者の提起した事件に対して、杉本徳久がどのように対処していくかという事実を見ることによっても、我々は、杉本という人物の内心を明らかにする大きな手がかりを得られることであろうと思う。自分自身も裁判を利用して他者を打ち負かしておきながら、自分にとって不利な判決だけは、認めない態度を取るのかどうかだ。
  
筆者は今回の判決を非常に妥当なものであるとみなしているため、誰かがこの判決に抗ったとしても、覆せる見込みはないであろうと考えている。そして、そのようなことが起きないための手立てを早急に始めているところである。
   
さて、村上が今回の裁判において、提出してきた準備書面は、毎回、A4たった3ページといった長さのものであり、短い時間でワープロ打ちしたようなその軽い内容は、これまで「訴訟のエキスパート」として知られてきた牧師には、あまりにもふさわしくないと思われるような、拍子抜けする印象のものがほとんどであった。

さらに、村上は自分がどの準備書面を提出したのかさえ覚えていないこともあり、そのことからも、この裁判をあまりにも軽視している(もしくは筆者を侮蔑している?)様子がはっきりと伝わって来た。また、杉本徳久の行為を、村上が当時、名誉毀損と認識していなかったことも、村上と杉本と一緒になって筆者を罵ったメールの内容からも明らかであった。
 
このように、村上には(自分を批判した信徒憎しという感情のためか)、法的根拠に基づいた客観的で公平な認識が当初から欠けており、杉本のしている行為に対して、現実的な判断が下せないでいたことは、筆者にとっても実に驚きであった。

以上のような事実および、判決の全体をきちんと踏まえず、自らにとって都合の良い点だけをかいつまんで説明しているという意味で、村上の記事は、今回の事件を公平かつ客観的な観点から分析したとは、到底、言い難いものである。

こうした記事内容の偏りだけを取っても、いかに村上が、杉本が賠償責任を負わされた現在になっても、未だに杉本徳久をかばう立場に立って情報を発信し続けているか、また、都合の良い偏った観点からしか、記事を書いていないかという事実がよく伺えると言えよう。
 
読者には、村上密のブログについては、そこに発表されている内容だけを鵜呑みにするのではなく、そこに書かれていない膨大な事実が存在することをまず疑ってみることをお勧めする。そして、この牧師が、自分を批判する者に対しては、約10年近い以前から、信徒であっても、容赦のない措置に及んできたことをよくよく心に留められたい。
 
さて、筆者はこの裁判を第一段階に過ぎないと考えている。今回の訴訟ではとりこぼした内容、もしくは、今回の訴訟で初めて明らかになった事実があり、それについては、今後の責任追及をしていかねばならない。この事件に関わってくれた人たちのためにも、今後、真相がどこにあるのかという情報を発信していくことは、当ブログの重要な仕事であると考えている。

だが、とにもかくにも、まずは村上が以上の記事を投稿したことは、彼の人格を全世界が判断するに当たり、非常に良い材料になったものと筆者は考えているし、当ブログを巡る大規模な嫌がらせ(権利侵害)がどこから来ているのかを判断するための重要な手がかりの一つになって行くだろうと思う。

杉本のブログに記事の削除と賠償が命じられたことによって、ようやく批判の舞台が村上のブログに移ったのである。当ブログを巡るバッシングは、2009年の村上のブログが最初のきっかけとなって始まっていることを考えれば、何らそれは不思議なことではない。

おそらくは、村上の信者を標的にした同様の行為は、今後も、何らかの形でエスカレートして行くのではないかと予想される。というのも、村上は自らのブログに、子供の頃から、親父に喧嘩の仕方を教わり、売られた喧嘩では、負けて泣いて帰宅することを許されず、「勝つまでやり直して来い」と言われ、負けたままでは、家に入れてもらえなかったと、繰り返し、記事に書いているからだ。

村上の行動パターンには、そうして父から教え込まれた喧嘩の教えがよく表れているのではないかと感じられる。「やられる前にやれ。」「やられたら倍返しにしろ。」「黙っているのは恥だ。負けることは許されない。」
 
もしもこうした筆者の予想が的中していれば、村上は鳴尾教会に対して執拗にいくつもの批判記事を投稿して来たように、今後、筆者と当ブログをも標的にして、おびただしい数の批判記事を投稿し続ける可能性も否定できない。

だが、仮にそうなったとしても、それも、村上密の人格を極みに至るまで明らかにするための、とても良い材料になると筆者は考えている。どちらにしても、隠れていた事実が明らかにされる行程が必要なのである。
 
幾度も書いて来たように、当ブログの目的は、批判をかわすことには初めからない。そして、筆者という個人が、ごくごく限られた権利を有するだけの取るに足りない人間であることを見ても分かる以上、誰がどれほどの誹謗中傷を筆者に向けようとも、それによって生じるダメージというものはごくごくわずかなものに限られている。

筆者にとって重要なのは、永遠に揺るぎない御言葉の正しさに生きること、神の国の権益を守ること、聖書の神の正しさを証明し、この方に栄光を帰することであり、筆者自身のこの世で過ぎ行く束の間の有様を必死になって保存しようとすることではない。そして、筆者がキリストと共にすでに十字架で死んで、よみがらされている以上、地上的な利益が失われることを恐れる理由は、筆者には何もないのである。

(どうして筆者がパウロのような生き方を勧めるのかを、読者には考えてみて欲しい。筆者は御言葉を第一として生きるためには、失われるべき利益を最初から神に捧げて、持たない生き方もあるものと考えている。)
  
そこで、批判を恐れることなく、これからしばらくの間、当ブログでは、今回の裁判を通して新たに発覚した事実について公表していくことにしたい。

その第一回目として、書きたいのは、杉本徳久・村上密の両名を被告とする裁判が、昨年末の12月に結審して、いよいよ今年3月の判決を迎える段階になってから、この数ヶ月間というもの、インターネットの掲示板で、当ブログへの夜昼を問わない、またとない集中的で激しい誹謗中傷が展開されたことだ。

こうした悪意あるコメントの投稿は、これまでにもなかったわけではないが、結審から判決言い渡しまでの期間、夜となく昼となく続けられ、苛烈を極めた。その掲示板は、もともと当ブログのために作られたものでもないにも関わらず(杉本徳久のブログを論じるために立てられたスレッドである)、当ブログだけが、そこで主たる標的とされ、筆者個人や、当ブログの記事の内容を徹底的に罵る投稿が、日夜、絶え間なく連続して続けられたのである。

そうした投稿内容の大半は、杉本徳久・村上密の唱えた説に深く共感し、筆者は訴訟に負けるに違いないと断言して、筆者を嘲笑い、誹謗中傷するものであり、筆者が当ブログに新たな記事を投稿する度に、記事内容を剽窃しては、無断で転載する著作権侵害のコメントが、おびただしい数、投稿された。その執拗さと、常軌を逸した敵意の集中は、想像をはるかに超えるものであった。
 
さらに、特筆すべきは、こうしたネガティブ・キャンペーンと言うべき掲示板での激しい中傷の多くが、筆者がかつて村上密の教会に赴いた際に、村上に対して直接、個人的に相談した際に伝えたトラブル内容や、今回の訴訟において、両被告に送付した書面に記載した筆者の個人情報を利用して、それを材料に筆者を叩き、嘲笑い、中傷するものだったことである。

そこで、こうした事実を見るならば、今回の裁判結果とは裏腹に、杉本・村上を擁護する立場から行われたこの激しい中傷と権利侵害に、両名が全く関与していないと見るのは自然ではないと言えよう。

共同不法行為が行われたのかどうかを立証するためには、直接的な関与を証明する証拠を入手することが急がれるが、そうした意味も込めて、この事件は、まだまだ最初の第一歩が踏み出されたに過ぎず、今後の解明が待たれる事柄が数多く存在するのである。

おそらく掲示板での悪質な書き込みは、判決の言い渡し前に、当ブログの評判を貶めることで、何とかして、判決によって、杉本・村上に及ぶダメージを少しでも最小限度に押さえることを目的としていたのではないかと見られる。

つまり、両者を日頃から支持して来た人たちが、筆者を集団で誹謗中傷し、精神的に圧迫することで、当ブログを閉鎖に追い込むことができれば、訴訟の結果が世間に知れることもないと考えて、予防策を張ったものではないかと見られるのだ。
 
掲示板で行われている大がかりな犯罪行為(権利侵害)は、ことごく刑事告訴の対象となっており、判決の言い渡しと同時に、かなり沈静化した。やはり、杉本徳久に賠償が命じられたことが、他のコメント投稿者にも大きな影響を与えたものとみられる。

そういう意味では、この裁判には、至らない点もあったとはいえ、初めの第一歩としては、まずまずの成果であり、何よりも、犯罪の抑止力としての大きな効果を持つものであり、これまで集団的に行われて来た当ブログに対する大がかりな権利侵害にも、かなりの程度、(正当な)萎縮効果を与えるものであったと言えよう。
 
* * *

ところで、本日(この記事を書き始めた3月31日)にも、筆者がひとこと欄にわずかに2、3行、文章を付け加えただけで、早速、掲示板に以下のような文章を掲載する者が現れた。

この投稿者は、どうやら日曜日に筆者がブログを更新した行為を責めたいらしい。
 


筆者は何も騒いでおらず、ただこの投稿者が筆者が、2、3行ひとこと欄を更新しただけでも、それを許せず、針小棒大に騒ぎ立てているだけのことに過ぎない。同調者もめっきり減っている。

むろん、筆者の関係者は誰一人としてこのような掲示板を見てもおらず、このような中傷を鵜呑みにする人がいるとすれば、筆者も、そういう人と関わろうとは願わない。

だが、筆者があえて今、この稚拙なコメント内容を引き合いに出すのは、この主張内容が、杉本徳久が当ブログに向けた名誉毀損に相当する非難に酷似しているのみならず、主イエスが地上におられたときに、律法学者やパリサイ人が、主イエスのわざに難癖をつける時に使ったものと全く同じであることに、驚かざるを得ないからだ。

主イエスは、安息日に人々の病を癒され、数々の奇跡を行われ、とらわれ人を解放された。ところが、律法学者やパリサイ人たちは、それを見て、長年不自由にとらわれていた人々が自由にされたことを喜ぶどころか、「イエスが安息日に労働をして、掟を破った!」と非難したのである。
 
そこで、イエスは言われた、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4) 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

クリスチャンには、主日に他人を誹謗中傷して罪を犯して良いなどという努めはない。従って、こうした投稿者は、自らクリスチャンでないと告白している上、主日に罪のない他人を罵ることで、主日を穢して罪を増し加えているだけとなる。

今回、筆者が起こした民事訴訟では、すでに述べた通り、精神異常に陥ってもいない人間を精神異常者呼ばわりする記事内容が、名誉毀損に相当することがはっきりと認定された。

こうした判断は、筆者の知る限り、刑事事件でも、民事でもほぼ変わらない。それを考えれば、以上の投稿に示されているような汚い言葉を使って、他者を誹謗中傷した場合、もしも人物特定が可能と判断されれば、それは名誉毀損に相当するか、どんなに少なく見積もっても、侮辱に該当するという判断が下される恐れは十分にあるのだ。

一つのコメントの中で人物特定ができずとも、他のコメントと合わせて人物特定が可能と判断されれば、名誉毀損が成立する可能性があることは、かつて唐沢治がKFCの元信徒を訴えた際に証明されている。その信徒は、心神喪失により不起訴になったが、刑事事件としての処理スピードはかなり速く、病がなかった場合には、まさにどうなっていたか分からない。

そこで、民事裁判の結果が出ているにも関わらず、以上のような投稿を続けている者は、最後には非常に重い罪に問われることになるであろうと予告しておきたい。もちろん、他者の公表されていない親族関係を暴いたりすれば、それもプライバシー権の侵害として扱われる可能性があるし、刑事事件で個人が特定された後に、民事で賠償請求の対象となることも考えられる。

このように行き過ぎた誹謗中傷が大目に見られるのはネット上だけのことで、現実世界では厳しい判定が下されて来た。万一、名誉毀損で刑事告訴が成立しているのに、同一人物が再犯を重ねていれば、当然ながら、情状酌量の余地も減って行く。

さて、この投稿者は「キリストを知るという知識の香り」についても、どうやら、何も知らないようだ。おそらく、「キリストの香り」と言えば、誰にとっても、甘く、芳しく、心地よい香りに違いないと決めつけているのだろうが、あいにく、聖書にははっきりとこうある。

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

つまり、「キリスト(を知る知識)の香り」とは、救われない者(「滅びる者」)にとっては、「死から死に至らせる香り」、まさに「腐臭」のようなものだと、はっきりと聖書に書かれてあるのだ。

従って、当ブログの記述を「腐臭」としか感じないと告白しているこの人間は、自分で「滅びる者」に属すると告白しているに等しい。

さらに、キリストに従う道は、人を寄せつけない「狭き門」である。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

この御言葉を考えれば、当ブログの信仰告白が、万人受けするものとはならないのは、当然であろう。それは筆者が「狭い門」を通過しているからこそのことで、まさに当然の結果なのである。それにも関わらず、万人受けする内容であることだけが、あたかも内容の正しさの証拠であるかのように主張するこの投稿者は、自分はまさに大勢の人たちが好んで入って行く「滅びに通じる門」に入る人間だと自分で述べているだけである。

哀れ、この投稿者には、何から何まで救いに至らない条件が兼ね揃っているのだから、自分で予告した通りの結果を辿ることになるだろう!

ちなみに、以上の投稿では、復活祭についても触れられているが、筆者は、今回の民事訴訟では、結審からきっかり3ヶ月間、判決を待った。この3という数字は、当然ながら、イエスの死と復活を表す数字である。

ちょうど判決が出たのが、復活祭を目前に控えた今の時期であったことも感慨深い事実である。

これは筆者にとって非常に重要かつ象徴的な「葬りの期間」であったと言えよう。原告であっても、生涯で初めて受ける判決言い渡しは、それなりに緊張を伴うものであり、いかに裁判官を信頼しているとはいえ、まさか笑顔で聞くというわけにいかない。

さらに、3ヶ月も判決を待つことには、それなりの苦労が伴った。だが、この待望の期間こそ、筆者にとっては、まさに主と共なる葬りの期間だったのである。

判決は筆者にとって、それほど予想と異なるものではなく、それは筆者にまぎれもなく命を与える内容であったが、筆者はまだその解放を、これから受けるのであって、今も葬りの期間は続いている。

このように、今年は例年よりもさらに意味深い復活祭を迎えることができた。

筆者は今年、文字通り、主と共に死んでよみがえる経験を、いつになく深いレベルで体験でき、また、今もその最中にあるのであって、このように感慨深い復活祭を迎えることを、心から主の恵みとして受け取り、喜んでいる(ただし、筆者は祝祭日を祝おうとは思わないが)。
 
従って、このことを考えても、以上の投稿がいかに的外れであるかよく分かろう。さて、裁判の総括は、次回以降の記事でするため、今回は短い報告にとどめておく。

裁判が終わると、色々とせねばならない後処理も残っているが、これからが正念場である。そうした手続きの一つ一つに習熟することは、将来起きうるもっと大きな戦いに対する重要な予行演習であると感じられてならないため、これも感慨深いことである。

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2019/04/01 (Mon) 神の国の働き人