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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)

* * *

虚偽告訴罪(刑事告訴・告発支援センター)

「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に処する(刑法第172条)。 」

最新の記事で「霊的優位性」について書いたのは偶然ではなかったものと思う。

村上密が本日、ブログ記事で筆者を告訴したと発表している。この一報を最初に報じたのは掲示板であった。仮処分の申し立てを作成していなければ、気づかなかったかも知れないが、タイムリーに投稿があったので、リアルタイムに知ることが出来た。

 
*ちなみに、村上密はこの記事を投稿してすぐ削除した模様。
 悪ふざけなのか、本気で魔女狩り裁判を開始して、これから
 クリスチャンに有罪宣告を下したいという悲願を語ったものか、
 筆者には真意が完全に不明。

 控訴審できちんと釈明していただきましょうね・・・。
 もはやオーウェルのディストピアと化している宗教トラブル相談センター。
 人格権侵害と合わせれば、あまりにも重大な名誉毀損に該当するこの記事、
 信徒相手に、
普通に考えて、牧師としてヤバすぎでしょう・・・!?
 事実ならば、むろん、こちらも虚偽告訴罪で対抗するのみですが。


こうしてテレスクリーンに「ビオロンは人民の敵」との見出しが躍り、かの全体主義国では、筆者はゴールドスタインさながらの扱いを受けている。そこはすべてが鏡のようにさかさまに映っている。罪人が聖人に、聖人が罪人に置き換えられる・・・。

本日、筆者は、先にチェックをお願いしていた告訴状を、明日受理してもらうことで警察と合意していた。先週から人格権侵害の記事については、警察へ資料を提出、最終チェックと校正をお願いしていたが、明日には受理されると聞かされた。

従って、この情報が事実ならば、村上は筆者に先手を打とうとしたことになろう。

村上の告訴事実が何から成っているのかは知らないが、村上の記事内容から判断すると、村上は、筆者が訴訟において、村上と杉本から「反訴の脅しを受けた」と記していることが、名誉棄損に相当するという主張も含めているらしい。

しかし、村上が杉本と一緒に第一審において、筆者が彼らの提示する和解条件を飲まなければ、反訴すると筆者に主張したことは、まぎれもない事実である。そのことは、村上自身が、前掲記事で、「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている」と書いている通りである。

そこで、村上の主張は、筆者にとっては、まさに「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と主張したKFCの元信徒を彷彿とさせるものである。

筆者は当初、KFCの元信徒は、杉本のブログでありもしない虚偽の事実を主張したのだと考えていたが、後になって考えを翻したと書いた。従って、もしも筆者のその予測が的中しているならば、この信徒は、虚偽告訴罪を主張できたはずだということも、繰り返し書いて来た。

それは、虚偽の告訴に対しては、毅然と立ち向かい、その罪を相手にお返しすべきだという筆者の信念を述べたものである。
 
このような事情であるから、筆者は驚いてはいない。村上は筆者がこのニュースを聞けば恐れると考えたのかも知れないが、筆者自身が、告訴状が受理されて後、どういう顛末を辿るかを、実際に確かめて知っている。その上、筆者は、村上の行った権利侵害について、警察に相談を重ねて来たのである。
 
今、筆者は、4月1日にも、今回と同様のことが起きたのを思い出す。筆者は3月末日、コラム欄に、掲示板に実名を挙げながら村上密の家族に言及しているコメントがあるのを見て、こうした掲示板の投稿を整理して、村上密について書くつもりだと予告した。すると、それからわずか1時間も経たないうちに、村上は筆者の人格権を侵害する記事をブログに投稿したのである。
 
幾度も述べた通り、村上によるこの権利侵害がなければ、今回の訴訟は第一審で終わっていたはずである。筆者は、杉本徳久の記事が名誉棄損に相当することが認められただけでも、十分な成果だと考え、判決に不服を述べないために、一審で終了するつもりでいた。

ところが、神はこの紛争をここで終わらせず、第一審では出て来なかった不法行為の証拠として、村上に以上の権利侵害を犯させたのである。

村上はこの時、おそらく筆者に実名入りの記事を書かれる前に、先手を打ったつもりであったと見られるが、その焦りが、権利侵害を犯している事実を彼に見えなくさせた。筆者は、このことは、天の采配であり、この紛争を妥協せずに最後まで徹底的に戦い抜き、望む成果を勇敢に勝ち取りなさいという天の命令であると解釈した。

今回も、村上の主張を見る限り、これと同じ現象が起きているものと見られる。告訴状を提出するには、十分かつ入念なチェックが必要で、それがあったとしても、疑義や問責が生じる可能性は十分にある。

従って、自分の焦りできちんとした構成要件を満たさない告訴状を提出した場合、その不備が後になって重大な問題となって自身に跳ね返って来る可能性は大いにあると言えよう。

特に注意が必要なのは、匿名掲示板のように、誰が投稿したかも分からない投稿を告訴する場合ではなく、相手が分かっている場合である。

もしも誰かが、筆者の記述が真実であることを知りながら、これをあたかも虚偽であるかのように主張して、自分に対する名誉毀損であると主張して告訴した場合には、当然ながら、虚偽告訴罪に該当する可能性が出て来る。
 
上記した通り、虚偽告訴罪は重い罪である。従って、告訴人の言う告訴の事実に裏づけがなく、その理由に整合性が取れず、その訴えの真実性が証明できず、故意性が認められれば、いたずらに被告訴人とされた者は、告訴人に対してこの罪を主張しうる。

実を言うと、筆者は昨日まで、控訴審での戦いのポイントを思いめぐらし、かつ、明日受理される告訴状について考えながら、これではインパクトが足りないと考えていた。確かに、この告訴状には、受理される要件は整っている。そのことはお墨付きをもらっており、第二審においても、これが確かな材料となって行くであろうことは明白に予想できた。

だが、人格権侵害だけでは、いささか被害のインパクトが軽すぎる気がする。これでは起訴―有罪に持ち込む根拠とはならないだろうという予感がある。しかも、筆者の控訴状は、「未熟児のサイズ」と記した通り、昨日までの時点では、第一審で取りこぼしたわずかな記事と、人格権侵害の記事の削除および微々たる賠償を追加するだけのものでしかなかった。

むろん、手堅く事件を進めるためには、それで十分な主張なのだが、「小さく産んで、大きく育てる予定」と当初から書いていた通り、このような些末な理由で、二審を戦う結果には、きっとならないだろうという予感があった。こんな微々たる理由では、たとえ勝ってみたところで、御名を冠する戦いにふさわしい勝利と呼ぶには、いささかインパクトが小さすぎる。

そこで、今回起きたことも、やはり主の采配であると思わずにいられない。

筆者は二審について、大々的な注目を集めるつもりは全くなかった。だが、村上がこのような記事を出した以上、この戦いは、否応なしに注目を集めるものとなろうし、まさに筆者が2009年から主張して来た通り、反カルト運動の陣営による「魔女狩り裁判」の様相を帯びて来たのである。

筆者は2009年から、村上密の活動は、このような結果に至ることを幾度も予告して来た。今回のことは、その霊的法則性が成就しただけと言えよう。信者を解放するように見えて、人間の正義によって抑圧する反カルト運動の悪しき本質が、いよいよ正体を現したのである。

ところで、筆者は今回の裁判で、告訴が確かになされたという事実を客観的に証明すること自体が、かなりの苦労を伴うことを知った。

杉本は、筆者が告訴状を提出したことを否定していなかったが、あくまで事件化はされていないなどと主張していた。

村上と杉本が、一緒になって、筆者が警察を証人として呼ぼうとした行為をメールで嘲笑っていたことは、記事で記した通りだが、告訴状が受理されていることを客観的に証明するためには、確かにある種の苦労が伴うのである。

裁判官は筆者の申し出を調査嘱託に変えたが、それでも十分ではなかった。さらに、筆者はそれを補う証拠を提出したが、それでも、十分であったとは見られない。民事では、終結していない刑事事件の確かな進行状況を認定することは、およそ不可能であり、そのようなことを争点とするのも難しいのである。

そこで、結論から言えば、検察に事件が送付されて、きちんとした結末が出てもいないうちに、誰かに対する告訴の事実を名指しで公表することは、決して得策とも賢明とも言えない。そのようなことは、100%確実に勝算の見込みがある場合以外には、絶対にしてはならないと言えるほど、リスクの大きい行為だと言えよう。

筆者の事件では、今回は第一審において、はっきりと杉本による名誉毀損や侮辱の事実が認められたゆえに、刑事事件でも、ほぼ同等の結論が出ることを予想でき、それが大幅に覆ることはまずないとみなせる。それゆえ、以上のリスクは回避することができたし、筆者の論証も十分であった。
 
しかし、これがもし民事で名誉毀損が認められず、控訴審でその事実を争うとなった場合には、早まって人物を特定して刑事告訴を公表してしまった人間は、控訴審で窮地に立たされることになる。

たとえば、村上密自身が、五次元スクールから名誉毀損で告訴されたが、不起訴になったと得意げに記事に記している。そのような結果となったにも関わらず、それ以前に、早々と相手を告訴した事実を実名で発表してしまった場合、後になって、それは事実無根の主張として、重大な名誉棄損の罪に問われる可能性も出て来る。
 
しかも、ペンネームだけであれば、人権侵害には相当しないが、村上はすでにその条件を自分で破ってしまっているのである。

そこで、今回の村上の記事の発表は、筆者から見れば、勇み足と言うべき、村上自身にとって極めて重大なリスクをはらむ危険な行為であり、筆者にとっては、控訴審における主張を大いに補強する材料となる。

この記事は、筆者に対する人格権の侵害の記事と合わせれば、十分な名誉毀損行為に相当する要件を満たしているから、これこそ、控訴審を戦い抜く上で、御名を冠する戦いとするにふさわしい最も大きな被害のインパクトとなる。
 
さて、警察とのやり取りは、ものすごい消耗戦である。告訴状を出しさえすれば、後は警察が自動的に捜査をしてくれ、自分は何もしなくても、ただ待ってさえいれば、すぐに警察が犯人を逮捕してくれて、裁判が開かれ、犯人が有罪とされて事件が終わる・・・などという甘い世界はないことを、筆者はこれまで痛感して来た。

それは、民事でも刑事でも基本的に同じであるが、民事ならば、定期的に口頭弁論が開かれ、嫌でもいつかは審理終結が来るが、刑事事件の進展はまことに見えない部分がある。

そして、この壁を打破するために、筆者はものすごい苦労を払い、ようやくのことで、風穴を開けたのである(だからこそ、筆者の事件に、これ以上の遅延はないと断言できる)。
 
だが、刑事事件の進展が遅い場合、民事において、告訴されたこと自体を名誉毀損だと相手が主張して来た場合、告訴要件をきちんと満たしていることを立証することには、膨大な時間と手間を要する。

その作業を2名の被告を相手にしながら、筆者は一審で成し遂げたが、これから、その作業が、村上に課せられることになる。杉本と一緒になって、筆者が警察を証人に呼ぼうとしたことを嘲笑った村上である。どのような手法でそれを行うのかは、注目される。弁護士を雇ったとしても、唐沢治が出して来た陳述書のような理屈では、勝算の見込みは薄いであろう。
 
だが、それよりも、今回、注目されるのは、信徒を告訴したと自ら発表したことにより、村上密という人物の内面が、極みまで明らかになったことである。

かつて相談にやって来た信徒を告訴する牧師のもとに、これから身を寄せたいと願う信徒がいるとは思えない。そこで、村上の行為は、村上の率いる宗教トラブル相談センターに、致命的と言っても良いくらいの打撃を与えることであろう。

さて、筆者は、このようなことがあってもなくても、自分の果たさなければならない仕事を淡々とこなすだけである。

幾度も言うが、キリスト者の身には、神が許された事柄しか決して成就することはない。そして、神は信者の同意がないのに、突然、試練をもたらされるようなことはなさらない。

読者は知っている通り、2009年から、筆者は、村上が構想したカルト監視機構の危険性を世に訴えて来たのであるが、その時から抱いていた危惧が、このような形で成就するまでには、10年間という月日が必要であった。

本来ならば、10年もの月日があれば、記憶も薄れ、関わりも断たれ、かつてそんな主張がなされていたこと自体を、当人同士が忘れていておかしくない。だが、霊的な領域においては、記憶が忘却されるとか、主張が消滅するということは決してないのである。

だから、今回の出来事は、かねてより懸念されていた事柄が、実際となっただけであるが、そうなるまでの10年という月日は、筆者自身の霊的・内的訓練の期間であり、主は、筆者が当時から予想していた出来事に対して、十分な準備が出来るまで、待って下さったのである。

幾度も繰り返すが、筆者は個人の人権を守るためにここに立っているのではない。ここから先は、過越し――御名の主権がものを言う世界である。

今、カルバリで流された主の血潮の絶大かつ永遠なる効果のほどが、万人の前で問われているのであって、もしも筆者が罪に問われるようなことがあれば、それは主の名折れでしかない。

神はそのような方でないことを、筆者はこれまでの人生のあらゆる場面で実際に確かめて来て知っている。第一審でも、これと全く同じ、十字架の死を潜り抜けた。この事件に向き合うことを決めたときから、筆者の覚悟は固まっている。そこで、筆者にとって、このような出来事に対峙することは、日々の十字架でしかない。

神の救いは、一度限り、永遠のものであって、血潮の中に隠れる者を、罪に問える者は誰もいない。それにも関わらず、そのようなことを試みるなら、その訴えのすべてがその者自身に跳ね返ることになる。まさしく――虚偽告訴という罪として。

それが、過越しである。筆者は自分の家の鴨居に幾重にも小羊の血を塗っておく。そうしておけば、外に死の風が吹き荒れても、それは家の中の者に触れることはない。かえってエジプト人の長子が滅ぼされるのである。

神の御前で起きることに、何一つ偶然はない。そこで、なぜ村上が杉本と一緒になって反訴を言い立て、さらにこれを見送りながら、今、告訴を選んだのか、その理由は以下にあると筆者は見ている。

反訴には、どんなに虚偽の訴えを出そうとも、いかなる罪も伴わないが、告訴が虚偽だった場合には、罪に問われる。

それが、神が村上に告訴に及ばせたことの真の理由である。
 
* * *

さて、掲示板はこれまで、筆者が自分自身をエステル妃になぞらえているのを見て、さかんに嘲笑していたが、エステルは、モルデカイがハマンの策略によってユダヤ人が皆殺しにされようとしている計画が存在することを知ったとき、自分は死を覚悟して、王の前に進み出ると述べた。

すでに幾度も述べて来た通り、筆者は、杉本・村上からの反訴の予告をきっぱりと退けて、第一審を終えるだけでも、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。その時に、筆者の覚悟は決まったのである。

エステル記を読んでみれば良い。ハマンは自分の家の庭に、モルデカイを吊るすための絞首台を作った。その頃、モルデカイは、ハマンに手をかけることなど、考えてもいなかったであろう。

ハマンはモルデカイのみならず、ユダヤ人全体を殺害しようと考えていた。モルデカイ一人に対する憎しみをきっかけに、ユダヤ人全体に対する尽きせぬ殺意を抱いていたのである。

そして、ハマンは王の信任を得ていた。絶大な権限を持っていた。それにも関わらず、ハマンが作った絞首台は、ハマン自身の絞首台となった。

そうなるために、エステルが死を覚悟した勇気を振り絞ったからである。
 
筆者はこの物語に2018年の初め頃から、幾度となく言及して来た。それは、この戦いを貫徹するためには、筆者は、まさにエステルやモルデカイと全く同じ覚悟を固めねばならないことを初めから知っていたからである。

主はいつも筆者に問われる。「あなたはどのくらい本気ですか? 私のためにどんな代価を払うつもりがありますか?」

筆者は答える。「私は準備が出来ました。私はあなた以外に価値とするものは、何もありません。私はあなたがどういう方であるかを知っています。あなたが決してご自分のもとに身を寄せる者を見捨てられたり、失望に終わらせない方であることを、私は知っています。

私は自分のすべての利益に変えても、あなたご自身を現していただくことを利益と考えています。私が欲しているのは、私の正義以上に、あなたの正義、私の真実以上にあなたの真実であり、あなたの自由と解放、命に満ちた統治を得るために、自分の十字架を負うつもりです。たとえ、私が不真実であっても、あなたは真実な方です。あなたのおられるところに、私の命もあるのです。ですから、何が起きようとも、最後までご一緒いたしましょう・・・。」

これは宿命の戦いである。村上の思惑を忖度した信者らは、筆者が第一審で村上に勝訴できなかったことをさかんに嘲笑しているが、もしも村上密が、控訴審で必ず勝てると考えていたなら、このような措置を講ずる必要はなかったであろう。

筆者が控訴したことを、筆者よりも前に報じたり、筆者の告訴が完了する前に、筆者を告訴したと報じたりするところに、村上の恐怖心の表れを感じざるを得ない。

* * *

もう一度、エステル記(4:9-17、7:1-10)の以下のくだりを引用しておく。

「ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。


そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。
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2019/04/16 (Tue) カルバリの十字架