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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
2.ニッポンキリスト教界全体が徐々にカルト化しているのはなぜか。

さて、日本のキリスト教界のカルト化の抑止力になりそうもない裁判や、「カルト化教会被害者の救済運動」是非を問うよりも前に、まず、何よりも、カルト化教会の腐敗には見てみぬふりを決め込み、被害者の痛みには何ら注意を払おうとしない多くの「同胞クリスチャン」の冷酷さについて書いておかねばならない。
教会のカルト化という病理は、すでに書いたように、日本のキリスト教界全体に蔓延しつつある。だが、そのことについて、最も責められるべき存在が、もちろん、被害者であるはずがない。たとえ裁判にあまり効果がないように見えても、なけなしの力を振り絞って裁判に赴いている被害者を責めるのは、あまりにも思いやりに欠ける言語道断な行為である。さらに、今でもカルト化教会から脱出できずにいる信徒たちが、「相変わらず、真実に気づかず、愚かにも騙され続けている」といって、非難したり、笑い者にする態度にも大きな問題があろう。

教会のカルト化という問題に最も大きな責任を負っているのは、問題の渦中にある被害者ではなく、それをそ知らぬ顔で、「対岸の火事」として、暢気に眺めては、消火活動さえしようとせずに、ただ、あ~でもない、こ~でもないと議論ばかりしている無数の大衆クリスチャンである。
中でも、最大の責任を負うのは、自らの保身にしか関心がなく、同業者が堕落してもそれを見てみぬふりして、止めようともしない臆病な聖職者たちであり、さらに、被害者が「公に立ち上がる」ことだけを期待して、自らは何の痛みも支払わずに、沈黙の中に引っ込んでいるキリスト教界の「普通のクリスチャン」たちにも責任があろう。

全国にあるプロテスタントのキリスト教会の中で、教会のカルト化という問題に対して(ここで言うカルトとは、他宗教を含まず、キリスト教界内のカルト化した教会のことを指す)沈黙を破っている教会はまことに少ない。
同じキリスト教界で傷つき、躓き、難民となってカルト化教会から流れ出た信徒に、安らぎと回復の場を提供するために、門戸を開いている教会はまことに少ない。カルト化教会の被害者を支援しようと動いている教会はごくわずかであり、実に多くの教会がその「被害」の存在さえ否定する。
カルト化教会で被害を受けた信徒が、他の教会の牧師に相談しても、その痛みに同情してもらえるどころか、「赦しなさい。誰にでも欠点や弱さはある。牧師を訴えてはいけない」などの言葉で冷たく追い払われることが多い。多くの教会は、ただ権威者をかばい、長いものには巻かれろ式の態度を取るだけで、被害者の存在には「他人事」と、知らぬふりを決め込んでいる。

なぜ教会の不祥事がこれほどまでに明るみに出てさえ、多くの牧師が被害者の痛みを否定し、被害者を支援しようとしないどころか、問題牧師を擁護するような発言を繰り返すのか? なぜ一部の教会の腐敗の問題に、他の教会は概して真面目に取り合わず、目を背けるのか?

その理由を指摘する前に、まず前もって説明しておかねばならない事実がある。それは、このキリスト教界全体が今、どういう現状にあるかということである。
端的に言うならば、ニッポンキリスト教界は、癒着となれあいによって成り立つ一種の利権団体であり、ほとんどの教会の牧師が、己が利益を失わないでいたいがために、他教会の牧師を敵に回すような発言を控えたいと思っている。
大学なども同じであるが、キリスト教界内の「センセイ」同士の間では、よほどひどい問題が起こって自分がとばっちりでもこうむらない限り、お互いの仕事には口出ししないという暗黙の鉄則がある。どんな若手であろうと、神学校を出たてであろうと、人間的に未熟であろうと、一旦、センセイになってしまった人間を、同業者は、プロの職業人、専門家として丁重に扱うべきというのがこの「業界」のルールなのだ。

だが、それならば、「センセイ」同士は協力関係にあるからこそ、お互いにかばいあい、馴れ合っているのだろうか。同じ聖職者としての保身の思いから、強い連帯で団結しているのだろうかという疑問が生ずるが、実はそうではない。

宗教という美しいベールを外して、物事を見てみれば、容易に分かることがある。
仮に教団を株式会社にたとえてみよう。教団が親会社であれば、教会は教団のミッションの下請けとなる子会社、あるいは代理店窓口である。牧師はその代理店の運営を任されて、本社から代理店に出向、もしくは天下った営業マンとみることができる。
全国津々浦々にたくさんの代理店があり、それらがみんな「キリスト株式会社」を名乗っている。同じ宗教に属しているのだから、それらの教会は一見、同じ目的のために協力して活動する、「キリストの身体」であるように見える。だが、実際にはそうでないところがミソなのだ。

たとえば参考までに、携帯電話の販売代理店を例にとって、その仕組みを説明してみよう。今、全国津々浦々、日本のどんな地方のあらゆる隅々にまで、あらゆる携帯電話会社のショップが建てられている。ドコモ、au、ソフトバンク…。都市部なら、あらゆる会社の窓口がまるでコンビニのように街中にひしめいているのを見ることができよう。同じauの代理店でも、一丁ほど歩けば、もう別の店の看板に突き当たる。
重要なことは、これらの店が全てお互いに協力関係になく、競争関係にあるということだ。ドコモとauが競争関係にあるくらいのことなら、誰にでも想像できよう。しかし、重要なことは、同じ会社の代理店同士であっても、それらは競争関係にあり、少しも仲良くやってはいないということだ。同じauの代理店同士で、客の取り合いがある。近所の目と鼻の先ほどにある、同じ会社の代理店が、不倶戴天の敵となる。地域に密集した代理店同士の間で、すさまじい客の争奪合戦が繰り広げられる。新たな代理店が建てられ、代理店が過密状態になればなるほど、競争は激化する。一丁先にある同業他社代理店、同業自社代理店が最も恐るべき敵になる。

このような末端に至るまでの競争システムの導入によって、今、携帯電話会社は売上げを伸ばしている。代理店同士を激しく対立させ、競争させることによって、会社は自らの手を汚すことなく、全体の成績を上げることができる。業績の伸びない代理店は、取り潰すだけのことだ。ノルマを課し、達成したところには報償をくれてやる。代理店は生き残るために、何が何でも客を増やそうとする。その結果が、闇雲で客のことを考えない、違法な販売活動になったり、または不正な契約書偽造、過剰な違約金の請求になったりしている。

携帯電話を解約する時に違約金を払わされたという苦い経験をお持ちの方は多いだろう。あの違約金というものは、代理店と顧客との間の契約によって結ばれているのであり、親となる会社は直接、そこに関与していないことになっている。そのため、もしも顧客が違約金の支払いに納得せず、またはサービスに何らかの不満があって、訴訟を起こしたとしても、そこで訴えられるのは代理店であって、サービスを提供している本社ではない。現場の汚れ仕事を全て、前線兵士としての代理店に任せることで、親となる会社は後方に退き、自分には一切火の粉のかからない高みから、その熾烈な戦闘を悠々と見物しているのである。

これと同じ構図は社会の至るところに見出せる。たとえば、偏差値教育、受験教育がそうである。もしも国が優秀な若い人材を確保したいと本気で願うならば、本来、文部科学省がスウェーデンのような充実した教育制度を我が国に実現させれば良いだけである。ところが、国は労力を払って教育制度を充実させる代わりに、ただ子供同士に過酷な競争を強いることによって、学校の子供たちの間に見えない戦争を起こし、その戦いを勝ち抜いていく人間だけを「優秀」だと認め、優遇しようとする。競争において、落伍者となりたくない、馬鹿にされたくないとの思いから、皆はそのしかけに気づかず、必死に勉強をする。偏差値という物差しによる競争に踊らされている子供にとっては、クラスメートが敵だ。隣の机にいる子は友達ではなく、競争相手だ。ママさんたちにとっては、近所の子が競争相手だ。こうして社会は戦々恐々とし、子供同士が張り合い、家と家が張り合い、世帯が互いに比べあって、地域社会全体が競争意識に生きるようになる。

だが、競争による成長は長くは続かない。それは絶えざる戦闘状態であるから、追い立てられた人の心を荒廃させ、やがて社会の疲弊を招く。そして人を競争相手としてしか見られなくなり、愛する能力を育くめなかった人々の深刻な心の闇が、やがて様々な凶悪事件に形を変えて、日々、明るみに出るようになる。今日、受験システムによる競争の弊害は、誰にも否定できないほどまでに広く我が国で認識されている。(たとえば文部科学省中央審議会でさえ「過度な受験競争の緩和」の必要性をはっきりと認めている。)

さて、話を戻せば、この競争システムと同じ原理が、日本キリスト教界にも導入されている。同じ教団に属しているからといって、牧師と牧師が協力関係にあると思ったら、間違いである。同じ会社の代理店同士が競争相手であるように、同じ教団に属する各教会がやはり競争関係にある。こうして、日本全国津々浦々の教会が、牧師が、互いに競争状態にあるというのが、今のニッポン・キリスト教界の現状である。教団同士が対立するというのなら、まだ話は分かるが、同じ教団に属する教会さえも互いに競争しているというのが、ニッポンキリスト教界のどうしようもなく嘆かわしい現状なのである。

今日、キリスト教界において一般的に考えられている牧師の成功のイメージとは、教会という己が牙城をどれほどビッグにできるか、という一言に尽きる。真の信仰者から見れば、まことに馬鹿らしい、お粗末な発想でしかないのだが、要するに、それはサイズの問題であり、規模が大きく、権勢さえ大きくなれば、それが成功とみなされるのがキリスト教界における一般的考え方である。
そこで、そのような物差しに従って、教会同士が我勝ちに「売上げ」を伸ばそうと、熾烈に競争する。どれほど多くの羊(信徒)を獲得できるか、どれほど多額の献金を集められるか、どれほど献身者を増やし、神学校へ送りこみ、教団へ献上する金を増やして、教団のおぼえめのでたい教会となれるか。要するに、顧客数と収益を伸ばし、自己組織を拡大できるかどうか、それが牧師が世の中に成功者として名をはせ、上からの覚えのめでたい教会の運営者になれるかどうかの分かれ目である。

あらゆる競争の背後に仕掛け人がいることを思えば、このようにして、牧師の自己顕示欲や名誉欲、持ち物の誇りなどという原始的欲求をたくみに刺激しながら、牧師同士の競争を煽って激化させ、それぞれの教会を目いっぱい拡大させることによって、利益を得ている存在があることが分かろう。それは教会の背後に存在する教団である。
教会が大きくなると、誰が一番利益を得るかを考えれば、全ては単純明快、一目瞭然だ。通常、献金が増えれば牧師の収益が増えるという単純な発想になりがちだが、それだけにとどまらない。教会から収益の一部を確実に吸い上げているのは教団であり、それぞれの教会が目いっぱい成長した時、教団は各教会から莫大な利益を吸い上げることができる親会社になるのである。一言で言えば、教団がより肥え太るという目的のために、教団は各教会の競争を煽っているのである。

それでも、一見、教団内の牧師の間には穏やかな協力や、友好的なつきあいがあるように見えるかもしれない。牧師や牧師夫人は定期的に集まって、和やかにテーブルを囲み、互いのために祈りあっているように見えるかも知れない。だが、それは見せかけであり、事実の半面に過ぎず、その裏には壮絶な妬みや争い、足の引っ張りあいが隠されている。プロテスタントの聖職者階級の世界は、ヴァチカンと同じくらいに、嫉妬渦巻く、闇に覆われた世界であり、江戸時代の大奥以上にドス黒いものがそこには存在していると言って良い。

だが、争ってばかりでは家は立ち行かない。従って、ある程度、社会的に成功した牧師に対して、教団は必ず優遇策を取る。そこでお家制度のようなものが確立する。
どんなに自分が成功者となっても、いつ他人に妬まれ、足元をすくわれるか分からないのでは、人は心休まる時がない。そこで、何とか自分の地位を強化し、同業他者からの憎しみと妬みをかわそうとして、人が取る作戦は、いつの時代も同じである。
強力な他者と親戚関係になることによって、友好条約を取り交わすのである。

牧師の世界にも、今や二世、三世がひしめき、多くの聖職者がお家同士のつながりを持った上で、講壇に立っている。聖職者の妻帯が禁じられていないプロテスタントにおいては、カトリックに比べ、特にこのような面での俗化の動きがはなはだしい。いまやキリスト教界も政治と同じく、地盤、鞄、看板の世界になっている。

キリスト教界の牧師たちの中には、自分の息子や娘たちを、できれば神学校へ送り出したいと考えている者が多い。自分の子供には、神学校で適当に見合いをさせ、できるなら優れた牧師の家庭から、立派な娘や息子たちをめとらせたい。神学校に来るような人の中には素行不良な者はまずいないから、神学校は最高の結婚相談所となる。そうやって、見合いさせてできた息子娘夫婦が、神学校を卒業すると、今度は、若く魅力的な牧師夫妻になって、新たに業界へ送り出される。このようにして、同業他者と親族同士の契りを結びながら、永遠に自分たちの家系から牧師を量産することによって、牧師たちは馴れ合いの構図をより強固なものとし、自分たちのお家を強化して、争いをなだめ、対立を免れようとしているのである。

キリスト教界における聖職者たちの血縁化、政略結婚はどのくらい進んでいるのだろうか。仮に、一つの教団や、教団を超えて、キリスト教界の中で家系図のようなものを作ってみればよい。驚くほど多くの牧師たちが親戚、縁戚関係にあることが分かるだろう。彼らはそれを自由恋愛だと主張するかもしれないが、そこには、その昔、様々な大名が自分の娘を、他の有力者に政略結婚のための道具として差し出していたのとほぼ同じ構図が見られる。

神学校というところは、今やこうして、若い献身者がキリストのことを第一に考えて節制に励み、自己鍛錬の修行を積む場ではなく、卒業後、いかに有利にこの業界で世渡りをしていくかを画策する者たちが、その第一歩を踏み出そうと、自分の地位を強化してくれそうな有力なお嫁さん候補、お婿さん候補を探すための、単なる結婚相談所のように成り果てている感が強い。
だが、そうやって有力者の娘や息子をもらえる人々は、幸運な方だろう。そのように聖職者の家と親族関係を結ぶことによって自らの立場をより強固にしていくことができない献身者は、コネという防波堤のない実力勝負の競争の舞台に、神学校卒業後、最初から立たされることになる。

さて、このようにしてニッポンキリスト教界は、末端に至るまでの競争原理によって成り立っている。各教会同士が熾烈な競争関係にあるからこそ、この業界ではどんな事柄においても団結や一致というものが全く見られないのであり、特にプロテスタントはそうであるが、未だに各教団教派が互いを否定しあって、多重分裂といがみあいに終始している。

この業界では、牧師は絶えず「営業成績」を気にかけていなければならない。少なくとも、同業他者が業界にひしめいて競争しているような現状では、他者に競争心を持つなと言われも無理である。よほど達観した、世俗を超越したような牧師でなければ、自分の教会の「規模」を一切気にかけず、人からどうさげすまれたり、無能扱いされようとも、ただキリストのように無我無私に神に仕え、人に仕えることだけを念頭において、黙々と働き続けることはできない。自分の教会が成長しなければ、自分は優秀な働き手でなく、プロジェクトに失敗したのだと自信を失いかけるのが人の心である。ましてや他者の成功の前には、自分の無力を思わされることであろう。

だが、経済成長にさえ限りがあるように、長年に渡って、クリスチャン人口が総人口の1%を超えないような日本においては、キリスト教界が教会成長をいくら叫んでみたところで、おのずと限界がある。どんな最新のメソッドを導入しようと、どんなマニュアル本に従おうと、教会成長にはあまりにも大きな限界が立ちはだかっているのは明らかである。日本においてクリスチャン人口はこれまで決してマジョリティになったことがなく、リバイバルは何十年と起きたためしがない。この国の国民がこぞって、キリスト教を求めたことは、歴史上、一度もないのだ。
そんなところで唱えられる「一億総福音化」、「福音村の建設」、「リバイバル」などというものは、はっきり言ってしまえば、日本の現実をきちんと見据えることもできず、過去の歴史から教訓を学びとることさえできないでいるクリスチャンの、まことに能天気でお気楽な夢である。

夢は夢であり、どんなに題目だけ唱えていたところで、絵に描いた餅が腹を膨らませてくれることはない。
そこで、成長しない売上げを伸ばすためには、何か過激な手段をとるしかない。
同業他者があっと驚くような成長ぶりを示してやるためには、何か、他の人が思いつかないような手段をとるしかない。今まで通りのことをやっていたのでは駄目なのだ。

カルトは、実は、ここから出て来るのである。

すなわち、過酷な競争が過激で違法な活動を生み、それがその活動を支えられるだけの過激な思想を生み出していくのである。
ヒトラーが、第一次世界大戦後のドイツの荒廃の中から生まれて来たように、過酷な取立て、苛酷なノルマ、過酷な重圧と競争こそが、ファシズムや全体主義を生みだす源となるのである。

つまり、一部の教会がカルト化しているのは、決して、一部の教会だけの問題ではない。
日本キリスト教界が末端の教会に至るまで、「教会成長」という偏差値に踊らされ、過酷な競争原理の中で争っているからこそ、その中から、他の教会を出し抜いて、違法な活動によって、抜け駆け的に、収益を上げようとして、過激な活動に走って自滅するカルト化教会が登場してくるのだ。

多くのクリスチャンは、カルト化は堕落した一部の教会だけに特有の問題だと思っている。ニッポンキリスト教界に属している限り、カルト化の根となるものが、あらゆる教会にれっきとして存在しており、自分の教会も決して例外ではないのだとは、夢にも思ってみない。
ほとんどの信徒はこう思っている。
「うちの教会だけは正しい。今も将来も決して間違わない。うちの先生は立派な人だ。あんなよその教会の悪徳牧師とは全然違う。私たちはこの教会に導かれて、とても恵まれている。あんなカルト化教会に通って、騙されなくて本当に良かった…。」

そんなことは大嘘である。
多くのクリスチャンたちのそのような態度は、「主よ、私はあの卑しい取税人のようでないことを感謝します」と祈った聖書の金持ちの姿そのものである。カルト化教会の問題は、本当は、あらゆるクリスチャンにとって他人事ではない。
「主よ、私だけは、正しい信仰を維持することによって、あの人たちのように、騙されなかったことを感謝します」という祈りは適切ではない。
神の目に義とされるのは、このような自己過信的なクリスチャンではなく、騙されて悪事の片棒をかつがされたことにより、主の前に自分が罪を犯したことを悟って深く恥じ、涙ながらに頭を垂れて、途方に暮れている被害者たちの方だろう。

教会が、「自分たちだけは正しい。決して間違うはずがない」という夢物語の中でまどろんでいる限り、カルトという危険は、知らないうちに、彼らに忍び寄る。そして気づいた時はもう遅すぎる。
来たるべき危険に、決して目を覚まさないように仕向けている勢力がある。どこか高いところで、自分たちは決して手を汚すことなく、地上の人々に「教会成長」のノルマを課しては、過酷な競争を強いて、互いを争わせて戦争状態にし、それによって売上げを伸ばしている人たちがいる。
このようなやり方に疑問を持たない限り、教会がカルト化の危険と縁を切ることはできないであろう。

「カルト化問題なんて、他人事。うちの教会には全然関係ない」と、牧師や信徒に信じ込ませることで、自分たちがすでに陥っている危険な罠のカラクリに、絶対に気づかせないようにしている勢力がある。これは狡猾な策略である。
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