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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なお、その上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)

* * *
   
最近、筆者の周りに少しずつ増えつつある信者以外の知り合いは、時折、筆者自身がはっとするほど鋭い助言をしてくれる。筆者はクリスチャンだが、筆者自身は、信仰を持つ人々よりも、信仰を持たない人たちの方に、バランスの取れたものの見方、的確な判断を見ることが多い。

むろん、神を信じて何一つ後悔することはないし、聖書の神が生きておられ、信じる者を教も守って下さることを疑わないが、それでも、筆者の出会った信者の中に、こうした助力や助言を適宜、行える人たちがほとんど見つからなかったという現状は、どういうことなのだろうかと思う。

筆者から見ると、ほとんどのクリスチャンたちは、現実で起きる様々な問題に対処する知恵と力があまりにも乏しい。そういった背景があればこそ、カルト被害者救済活動が登場して来て、諸教会に裁判などをしかけ始めると、多くの人たちがこの活動の前にひるんで沈黙してしまったのではないかと思う。

だが、クリスチャンがそのように世人に比べ、圧倒的に世の事柄に疎い状態ではいけないと筆者は思う。次のように言われている通りである。

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:16-20)
 
この「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という命令が、反キリスト・偽預言者たちの策略に負けないように、という文脈で記されていることは興味深い。暗闇の勢力には蛇のような狡猾さがあるが、それに劣らぬ知恵が霊的戦いには必要となると言われているのである。

筆者が人生最初に経験した訴訟が、これほど難易度の高いものとなっていることも、見逃せない事実である。訴訟と債権回収は一つであって、債権回収が成立しないならば、訴訟を起こす意味がない。どんなに勝訴判決を得ても、それが机上の空論でしかないならば、すべては時間と労力の空費でしかない。

だから、「言葉」と「実行」を一つに結びつけることが必要なのであるが、その方法を、筆者は、とことん学ぶ機会を与えられていることも、神の恵みであろうと思う。すでに強制執行や間接強制の手続き方法はひと通り理解した。後は取立を成功させる秘訣を学ぶことである。

さて、昨日、筆者は杉本の件で警察に相談してみた。すると、杉本に会うことは、安全のために決して勧められないので、行かないでもらいたいと制止を受けた。むろん、それは予想の通りの助言であった。杉本の取り調べも近日中に予定されているのだから、警察に任せなさいということである。
 
随分、警察が心配してくれるようになったが、そのような円滑な関係が打ち立てられたのも、筆者の内心の変化と、一審判決が下されたことが大きいであろう。今回、非常に鋭い指摘を受けた。それは、筆者が杉本のメールに憤り、これに触発されて、杉本に直接交渉したりすれば、彼と同じレベルに堕ちる危険があるからやめた方が良い、というのである。相手の幼稚さ、俗悪さ、卑劣さに引きずられることなく、自分の人生をしっかりと大切にしなさい、というのであった。
 
考えてみれば、刑事事件に明白な進展が訪れたのは、杉本の書いた一連の記事が削除されてからのことである。やはり、事実無根の名誉毀損の記事であっても、霊的な領域においては、呪いの効果を持っている可能はあるだろう。それが削除されたことにより、警察との関わりも前とは違ったものになり、刑事事件もよりスムーズに進むようになったのである。

むろん、杉本が今回、筆者に送って来たメールのあまりにも利己的かつ幼稚で無責任な内容、サッカーチームの試合予定、さらに、以下の杉本による事件の閲覧記録と、村上密のブログにおける唐沢の記事の投稿などについても、すべて事情を伝えておいた。
 
二審が始まってみなければ、まだ確定的なことは言えないとはいえ、一審判決から現在に至るまで、相当に村上を不利に陥れる証拠が増えたことは確かである。

村上密のブログからは、以前はあれほど頻繁に見られた「完全勝訴」の響きが消えて、かえって、「変節」の記事に見られるように、筆者が村上に対して裁判を起こしたこと自体に、ぼやきに近い不満を示すかのような調子が見られるようになった。

「クリスチャンが裁判することに強く反対していた人が、裁判の原告になったのを聞くと、ご都合主義に思える。何人もこのような人を見たり聞いたりしてきた。」
 
本当にそうだろうか。何人も見て来たのか? しかも、これはどういう紛争の話なのか、全く説明がない。クリスチャンといえども、この世で起きた紛争に関して、原告となることが禁じられているわけではあるまい? 土地の境界線に関する隣人とのトラブル等から始まり、労働紛争、交通事故、その他、いかなる紛争も、クリスチャンは訴えを起こすことが禁じられているなどといった話ではないだろう? だが、あまりにも文章が短すぎるため、前後の文脈もなく、説明不足すぎて、読者に誤解を招きかねない表現だ。

さらに、言葉の使い方も間違っている。

「他人がしているときは、高邁な自説を主張し、わが身になると手の平を返す、これを国語辞書では変節という。変節の自己弁護を聞くことほど嫌なものはない。だれでも裁判権を持っているのだから、初めから裁判を否定しなければよい。しかし、裁判権を知っていながら、激しく裁判を否定していた人が、法的手段に血眼になっているを聞くと、いったいあれは何だったのかと問いたい。私はクリスチャンでも裁判を行使してよいと勧めてきた。コリントの第1の手紙(6:1~7)から裁判を否定するのは間違った解釈である。教会で扱うプロセスを飛び越えて、早々と世の裁判に訴えることをパウロは咎めているのである。裁判そのものを否定しているわけではない。   」

正しくは「これを国語辞典では「ご都合主義」と言う。」だろう。変節というのは、転向とも似ており、信念そのものが変わったことを指す。だが、他人の裁判だけを非難して、自分の裁判は正当化するという態度は、ただご都合主義的に意見をころころ変えているだけで、信念そのものの変節には当たらない可能性が高い。
 
そして、もしこの非難が筆者を指すものであるならば、筆者は裁判権を否定したことなど全くない。筆者は聖書に沿って、クリスチャンがクリスチャンに対して訴えを起こし、教会内の問題をこの世に持ち出すべきではないと述べているのだ。その点で、筆者は教会に対して争いを起こしたことは今に至るまで全くないので、信念が変わった点は何一つない。

だが、長年に渡る緻密な観察と分析により、村上密、杉本徳久、唐沢治の三人は、キリスト教徒ではないという判断が筆者の中では下っている。相手がクリスチャンではない場合、この世に訴えを持ち出しても、何ら問題とはならないのである。

このように、筆者の信念は何ら変化していないので、村上から非難される筋合いなど全くない。むしろ、村上こそ、カルト被害者が裁判を起こした際には、被告とされた牧師たちを強く非難し、信者に損害を与えた牧師は、賠償に応じるべきだなどと叫んでいたのだから、今回の一審判決で、杉本に下された賠償命令を、杉本がきちんと受け入れ、判決に従って支払いをするよう、牧師として促すべきではないか?
 
自分たちが人を訴える際にだけ、声高に賠償を要求しながら、自分たちが敗北して賠償せねばならない立場になれば、詭弁を弄して支払いから逃げようとする。このような行為こそ、御都合主義として非難されるにふさわしい。司法の悪用と言っても差し支えない。

さて、裁判所に確かめたところ、唐沢の陳述書を閲覧・謄写したのは、杉本徳久であることが分かった。むろん、それで入手の経路を100%断定はできないにせよ、村上が、この陳述書を杉本経由で入手した可能性が高まったことになる。

 

杉本が閲覧謄写している日が4月26日にであることを見ても、村上の投稿以前なので、辻褄は合う。陳述書本文は筆者が公表している。公表されていない書証の部分だけ、杉本が複写して、これを村上に提供し、村上がそれを読んで一連の記事の発表に至った可能性が濃厚である。

筆者は、村上が唐沢とメールで直接、やり取りをして、直接、唐沢から陳述書の掲載の許可を取った上で、掲載しているはずだと考えていた。当然ながら、牧師同士の配慮として、了承も得ていない当事者の文書を、無断で入手して公開するなどの可能性は全く考えもしなかった。
 
おそらく唐沢から村上に対して、これを公開して欲しいといった黙示・明示のリクエストがあって、初めて村上が公開に及んだのだということを疑わなかったのである。
 
だが、村上が唐沢本人から提供を受けていたのであれば、杉本が閲覧・複写する必要はないことであろう(なぜなら、以前から村上と杉本との間ではメール交換等も行なわれているためだ)。そして、唐沢は「没交渉」と言って、そのような事実を示唆しておらず、さらに村上は許可を得て掲載している旨も説明していない。
 
むろん、入手経路の釈明は二審で求めることとなろうが、村上が、筆者が当事者としてすでに公表している唐沢の陳述書について、入手の経路さえ明らかにせず、まるで自分が未発表の事実をつきとめ、これを発表することで、手柄を立てたとでも言うかのように、「唐沢治氏の陳述書」などとして記事を公表し、唐沢を弁護する目的で、筆者が強要罪を犯しているかのように示唆しながら、筆者を断罪したことを、読者は覚えておかれたい。

筆者は、村上のブログに働いているのは、常に自分が他者よりも優れていることを誇示して勝ち誇ろうとする自己顕示の霊、自己栄化の霊である(別の言い方をすれば「マウンティングの霊」)であると指摘して来た。

記事「そっとしておこう 」も同様である。村上が通りすがりに、失業して喫茶店で何度も時間を潰すしかない状況にある青年を頻繁に見かけたが、あえて声をかけないでやったという内容である。一見、思いやりに満ちた内容のように見えるかも知れないが、決してそうではない。

これは自分と比べて不遇の境遇にある人を、上から目線で哀れむ牧師の自慢話に過ぎない。本当に「そっとしておこう」と思うならば、どんなに人物が特定できない形でも、記事になど書くべきではないだろう。しかも、青年はすでに就職しているようであるから、今になって、本人さえも忘れているかも知れないその当時のことを思い出し、「俺はおまえの失業を知っているぞ」と今更のように強調する必要はない。

人の見られたくないところ、知られたくない姿を見た時には、それは見なかったことにして一切、心の中から消し去り、忘れることだ。たとえ忘れなくとも、決して人前でその秘密を明かしたりはしないことだ。それが他者への思いやりというものだ。

そうでなければ、村上が年老いて妻に先立たれ、会話する相手もいなくなり、日々、喫茶店で時間を潰すしかない老人になった時に、誰かがそのことを記事に書くかも知れない。

「友達と一緒に移動してるときに、よく通る道にある喫茶店で、ぽつんと座っている老人がいるのを何度か見かけたの。ねえ、あれ、村上先生じゃない?、寂しそうだから声をかけようかな?と思ったんだけれど、何だか声をかけづらくて、きっと先生ももうすぐ天国に行かれるでしょうから、地上で最後の休息を取ってるだけだろうし、邪魔しないでそっとしておいてあげようと思ったの。そしたらね、ほんとにそれから間もなく、召されたみたいだった。」

そんな風に言われたいのだろうか? だが、村上が、普通の人間の心さえ分からなくなっているのは、彼がまさに「マウンティング」を目的に記事を書いているからだ。自分が他者よりもいかに秀でており、優位にあって、他者の弱みを数多く握っているか、それを自分に言い聞かせることで、自己を慰めるために記事を書いているためである。
 
話を戻せば、この自己顕示の霊は、パクリの霊でもある。他人の手柄を自分のもののように横取りし、ライバルを駆逐して、自分だけが勝ち誇りたいという霊である。

村上は、筆者の手柄を横取りし、なおかつ、筆者を断罪して濡れ衣を着せ、ネットから葬り去る目的で、唐沢治の陳述書の公開に及んだ。

村上の最新の記事「牧師が解釈を独占 」でも、村上が鏡に映った自分に見惚れるように、検索を繰り返し、自分の記事がいかに上位にヒットしているかを確かめ、悦に入っている様子が分かる。

「今日「解釈を牧師が独占」と「牧師が解釈を独占」を検索したら、上位3件が同じく村上密ブログの記事だった。一部を抜粋してみた。このような表現はほかに検索の結果が出なかった。どうやら2014年6月9日の記事が、今まであまり表現されてこなかった言葉で、教会のカルト化に警鐘を鳴らし始めたことになる。」

まるで「鏡よ、鏡、世界で一番偉いカルト専門家はだあれ?」と尋ね、「それは俺様だろ!」と自問自答する姿を有様を見るように、村上のナルシシズムを強く感じさせる内容である。

こういう牧師は、もしも検索サイトという「鏡」が望ましくない答えを返し、村上以外の誰かが上位にランクしていることを告げて来たら、きっと、「そんなはずはない!俺の満足する答えを返せ!正しい答えが出るまでやり直すぞ!」と、鏡を打ち壊して、新しい鏡を必死で作るのだろう。

そうなるためになら、自分の支持者たちが、掲示板でライバルを集団リンチし、誹謗中傷をまき散らすことで、検索サイトに悪評を反映させ、順位を下落させ、駆逐して行くことをも黙認・容認するのであろう。

その上、それだけでは飽き足らず、とどめを刺すために、ライバルを刑事告訴したり、自分でも盛んに中傷を書きなぐるなどの入念さを見せるのであろう。実際、村上がしてきたのはその通りの行為である。

当ブログには、村上や杉本にとって不都合な記事を検索結果から駆逐しようと、毎日のように、大量の読者が押しかけて検索結果の操作が繰り返されている。従って、筆者は、検索結果など意図的な操作によりいかようにでも変わり得るものであること、それが事実を示しているわけでないことを疑わない。

村上は「牧師が解釈を独占」という独自の用語で検索した結果、そうした発想がまるで自分の考案したものであるかのように自慢げに主張しているが、筆者は、2009年来、同様の主張を当ブログで展開して来た。

当ブログでは、開設当初からどれほどの回数、牧師が信者の霊的生長の妨げとなっているかというテーマについて、触れて来たか分からない。ただし、牧師制度の悪について触れるに当たり、筆者は幾度も分析の方法や、用いる言葉や、注目する観点を変えて来た。当初は、牧師制度は個人崇拝の制度であるというところから始まり、グノーシス主義との関連性、ペンテコステ運動との関連性、牧師が「御言葉を取り継ぐ者」とみなされていることの反聖書性などに言及した。
 
しかし、言葉の違いはどうあれ、当ブログ始まって以来、決して途絶えたことのないメインテーマの一つが、牧師制度の悪を訴えることにあった。牧師制度こそ、すべてのカルト化現象の元凶なのであり、この制度ある限り、プロテスタントの腐敗はなくならないというのが、当ブログの変わらない主張である。
 
現在、筆者は次のように主張している。「信仰回復運動は、常に聖書そのものの一般への解放と密接な関係があった。プロテスタントの牧師制度は、牧師だけを御言葉を取り継ぐ者として、信者自身に聖書を解釈させないことにより、聖書を牧師の独占物として来た。新たな信仰回復運動は、牧師制度から聖書を解放し、聖書を万人に開放し、万民祭司の原則を打ち立てること以外にはない。」
 
* * *

さて、当ブログがどれほど早くから牧師制度と独占という言葉を結び付けて論じて来たか、いくつか過去記事を抜粋してみよう。最も古い時期のものは、手束正昭氏の著書『教会生活の勘所』が異端的教説に基づいていることを分析した以下の記事であろう。

教会成長論が生む牧師への個人崇拝」(2009年5月12日)

4)教会成長論が生み出す牧師への個人崇拝


 さて、『教会成長の勘所』に話を戻そう。第一部では、教会役員はいかにあるべきかが述べられているが、この部の最も核心的な話題は、実は、教会役員にあるのではなく、牧師への個人崇拝にあると見て良いと私は思う。だから、そこから話を始めよう。

人格的象徴としての牧師

 『祈りの精神』という日本でもよく読まれている書物を書いた英国の神学者フォーサイスは、その書物の中で『牧師とは礼典的存在である』と主張している。礼典的存在とは、私の言葉で言えば人格的象徴ということである。『象徴性を担った人間』ということになる。
つまり、その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在ということである。
神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。<略>
宗教的象徴ということについての理解の不足は、信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねないということは明らかである。」(p.21-22)

 この短い文章を読んだだけですぐに、ある人々は、この書物がキリスト者をいかに破滅的な異端に誘い込む危険な内容であるかを察するだろう。
 よく読んでみよう。牧師は「礼典的・象徴的存在」であると手束氏は言う。

 確かに、あらゆる団体のリーダーとなる人物には、群れの模範、代表、シンボルマークの役割を担う力が必要になる。リーダーには確かにグループのシンボルとしての役割がある。そのことには異論はない。しかし、手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」の意味は決してその程度の軽いものでは終わっていない。

 氏は言う、礼典的・象徴的存在とは、「その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在」であると。つまり、牧師を通して、信徒は神の恵みと祝福、命と力を受け取るというのである。
 確かに、敬虔なクリスチャンは誰でも神の愛と恵みを隣人に届けるための通り良き管となれるだろう。そのことに私は反対しない。私たちがキリスト者として、愛に基づいて隣人を助ける時、私たちは神の祝福の通り良き管となっているのである。従って、もしも優れた牧師がいるならば、彼は神の恵みを多くの人々に届ける管になるだろう。

 しかしながら、氏はこれでも終わらない。そこからさらに進んでこう言う、「神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。」
 ここまで来れば、どんなに鈍感な人でも、この文章の危険性に気づくのではないだろうか。私たちはこれをきちんと字義通り解釈しなければならない。この文章は、三次元の世界に住んでいる信徒は、神のおられる四次元の世界には「直接的には交わり得ない」、従って、「四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在」、つまり、「人格的象徴」である牧師を通さねば、事実上、信徒は神と交わることができず、神の恵みを受け取ることもできないと言っているのである。
 牧師を通さねば、信徒は神との直接対話は不可能だと言うのがこの文章の意味である。そして、そのことの重要性を見落とし、「宗教的象徴」についての理解が不足すると「信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねない」と氏は言うのである。

 眩暈がするような文章ではないだろうか。善良なクリスチャンにこれ以上の説明は不要だろう。しかし、これだけではまだこの論理の異常性が分からないという人がいるかも知れないので、念のために、最後まで、分析を進めよう。[四次元問題については、末尾の注を参照。]

 上記のような「人格的象徴としての牧師説」は、事実上のイエス・キリストの否定である。

 聖書を見よう、イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 クリスチャンが真理に至るため、あがないを得るため、永遠の命を得るため、父なる神の御許に至るために、唯一与えられている通路は、イエス・キリストただ一人である。象徴的存在としての牧師ではない。いかなる人間も、神と人とをつなぐために、イエスの代理人となることはできない。

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:11-12)

 イエスは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われた。そこで、クリスチャンは今日、「イエスの御名によって」祈るのである。
 旧約聖書時代には、預言者を通さなければ、民は神の御言葉に接することができなかった。だが、十字架によるあがないのおかげで、クリスチャンがイエスの名を通せば、直接、神を礼拝し、神に願い求めることが可能となった。これは聖書理解の基本中の基本である。だが、『教会成長の勘所』はそこからしてすでに真理から逸れている。牧師が事実上、イエスの役割を代行する者として名乗り出ているのである。そのことは、続く文章を読めば、さらによく分かるだろう。

「ところで、象徴というものにはそれに対する信頼と尊敬があってこそ、その機能を発揮できるという性質がある。たとえば、聖書は只の古典ではなく、象徴としての書物即ち神の言葉である。それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。
ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。あのナザレのイエスにおいてさえ、故郷の人々が尊敬と信頼を持たなかった時、奇跡を行うことができなかったのである」(p.22)

 この文章をよく読めば、著者手束氏が「象徴」という言葉をどのような意味で用いているかがよく分かるだろう。
 聖書は「象徴としての書物」であると氏は言う。つまり、神の御言葉が、見える形となって現われたものが聖書だという意味である。神の霊的な御言葉が、現実の地上世界の言語に表され、翻訳の不手際なども指摘されつつも、それでも可能な限り正確に文章化されて、見える形でクリスチャンの手元に届けられた。その見える形の聖書は、ただの物質ではないから、私たちはそれを小説や雑誌のようにではなく、神の言葉としての尊敬を払いつつ読まねばならないということが言われているのである。そのこと自体に異論はない。だが、それと同様に、牧師も「象徴」であるから尊敬を払われなければならないと氏は言うのである。

 不明なのは、牧師が一体、「何の象徴として」信徒から尊敬されなければならないのかという点である。教会の象徴としての牧師? 正しい教えの象徴としての牧師? この文章からはよく分からない。
 もう一度文章を読んでみよう。

「それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。」
 
 奇怪な文章である。信徒が聖書に尊敬を払うならば、「ましてや」人格的象徴である牧師には「更に」尊敬と信頼が必要だと言うのである。つまり、人格的象徴である牧師には、聖書に対する以上に、信徒からの尊敬と信頼がなければならない、と言うのである。牧師が事実上、聖書より高い位置に置かれていることが分かる。
 これはどういうことであろうか。ただの群れのリーダー、聖書を教える教師、教会の統率者が、聖書以上に尊敬と信頼を受けなければならない理由はない。従って、はっきりした説明はないものの、手束氏が「象徴的存在」である牧師が聖書以上に尊敬されてしかるべきだと述べているその根拠とは、「牧師とは御言葉の象徴であり、神ご自身の象徴である」と氏が考えているからだと受け取るのが、何よりも自然であろう。

 だが、さすがに「牧師は神と御言葉の生ける象徴である」とまで言い切ることはためらわれたのであろう。そこで、何の象徴であるのかを明確にしないまま、ただ「牧師は礼典的・象徴的存在である」という曖昧な説明でお茶を濁しているのだろうと想像される。
 結局、牧師は御言葉と神ご自身の人格的象徴であるから、聖書そのものにまして、信徒から尊敬と信頼を受けなければならないということが暗に言われているのである。

 ここで、イエスがユダヤ人に言われたことを私たちは思い出さなければならない、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。<略>わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の何よって来るならば、その人を受けいれるのであろう」(ヨハネ5:39-43)

 もしもこの地上の人間の中に、御言葉や、聖書の人格的象徴と言える存在があるとすれば、それはイエス・キリストお一人だけである。父なる神の名によって地上に遣わされたのはイエスだけであり、それ以外の人々は全て「彼自身の名によって来た」のである。だからこそ、聖書を敬いながら、イエスを信じようともしないユダヤ人に、キリストは上記のように言われたのである。聖書自体が、イエスについてあかしする書物であり、イエスの存在は御言葉そのものである。にも関わらず、どうして肉なる人に過ぎない牧師が、イエスに成り代わって自分が御言葉の象徴となり、聖書に対する尊敬以上の尊敬をクリスチャンに要求することができるのだろうか。

 手束氏の言う、「人格的象徴」なるものが、事実上、牧師がイエスに成り代わり、聖書以上の権威を身に帯びて、自分を通さねば神からの恵みを誰も受けることができないと主張し、自分に対する個人崇拝を信徒に要求するものであることは、明らかである。

* * *

また、同じ頃、書いた記事を土台に、後に内容を多少書き加えたものが以下の記事である。

牧師制度という個人崇拝の悪―偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望と失望」(2009年3月19日)

これまで、キリスト教界に問題が起きるのは、牧師制度が原因である、ということについて述べて来た。なぜ牧師制度はあるべきでないのか。聖書では、主イエスは次のように語られた。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

このように、聖書はキリストを信じる信者の間に序列があるべきでないこと、信者にとっての教師とは、見えないキリストただお一人だけであることをはっきりと示している。

それにも関わらず、主イエスの御言葉に反して、信者が信者の上に立ち、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定し、押しのけてまで、他の信者の教師、模範、指導者となり、他者を教えることを、制度化することによって固定化しているものが、牧師制度である。

このようにキリストの御言葉の根幹を否定して成り立っている牧師制度がある限り、キリスト教界には問題が起き続け、是正は不可能であろう。むろん、カトリックであれば、プロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、神の代理人としての法王が立てられているわけだから、プロテスタント以上に深刻な問題が存在することは言うまでもない。

<略>

ペンテコステ運動にも同じことが言える。
  
神と人との関係は、原則的に、一夫一婦制である。神は唯一であり、神と人との仲保者はイエス・キリスト以外にはいない。にも関わらず、その一夫一婦制の原則を破って、人間の指導者がキリストとエクレシアとの間に割って入って、エクレシアの心を盗もうとするならば、必ず、その指導者と、神への貞潔を捨てた信者たちに、ひどい末路が降りかからないわけにはいかないのだ。
 
つまり、カルト化現象は、何かしらの難解な教義的な逸脱の結果として起きることではなく、一部の教会や指導者が悪に傾いたために起きるものでもなく、信者が唯一のまことの神だけに従う信仰を捨てて、目に見える人間の指導者を含め、神でないものを神としたことによって起きる当然の結果でしかないのである。

だから、キリスト教にはカルト化という問題は存在しない。あるのはまことの神を神としないで、神でないものを神とする人間の罪と背教だけである。

* * *

また、2015年頃からは、筆者はグノーシス主義とからめて牧師制度の悪を論じることが多くなった。グノーシス主義は霊的階層制を取っており、必ず、真理の仲介者として目に見える指導者を必要とすることを明らかにし、プロテスタントの牧師制度は、聖書に合致するものではなく、むしろ、グノーシス主義的な背景を持つものであることを指摘した。

神の代理人を詐称する牧師制度と公務員を詐称する官僚制度の闇」(2015年6月21日)

さらに、グノーシス主義は人間を救済するために、こうして人間の仲介者(グルのような存在)を肯定するばかりでなく、聖書に反して、真理を教えるためには指導者に聞く必要があるとして、教える者と教えられる側の区別を作り、信徒の間にヒエラルキーを作り出します。

聖書はもともと「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)

と、神のみ前に兄弟姉妹が平等であることを説き、教師や指導者を名乗る信徒が、他の兄弟姉妹の信徒を指導し、支配するという階層制を認めていません。

しかしながら、グノーシス主義は徹底したピラミッド構造を持っており、少数のエリートの指導者層による大多数の信徒への「教育」や「指導」(=「支配」)を肯定します。一握りの「悟りを開いた」エリート集団が、その他大多数の「愚かな」平信徒を指導するというピラミッド型の差別構造が、異端の教えには必ず伴います。ですから、グノーシス主義を取り込んでしまった宗教団体は、ネズミ講のような上意下達式の組織を持つことになり、それが支配と収奪のシステムとして機能し、指導者は偉くなって君臨する一方、末端の信徒は虐げられるということになります。

こうして、異端の教えは、巧みに神の名や、人の救いを口実として利用しながらも、神への服従ではなく、「神の代理人」や「みことばを取り継ぐ人」を名乗る人間の指導者の権威への服従を説くことにより、平信徒が少数のエリートに依存し、服従するようなシステムを作り出します。これに反すれば、指導者に逆らうことは神に逆らうことと同一視され、「地獄へ落ちる」、「悪魔に心を奪われた」、「悪霊に取りつかれた」などと批判して、追放します。

しかし、このように人間が人間の上に立ち、人間を支配するシステムは聖書の真理に全く反しており、そのようなシステムは奴隷化をもたらすだけで、決して本物の救いをもたらさず、人を解放することも、幸福にすることもありません。最も虐げられるのは、子供や、社会的弱者です。しかし、ヒエラルキーの中で上位を占める人々は優遇されている旨みのゆえに、その偽りに気づくことはないでしょう。

また、グノーシス主義には常に出来合いの宗教組織をのっとるという特徴があります。グノーシス主義そのものが「のっとり」(横領、盗み)の思想だと言って差し支えありません。グノーシス主義はもともと宗教ではなく、神話を持たない哲学的な思想体系なので、様々な既存の宗教に仮装して、宗教思想を装って組織の内側に入り込み、自分の寄生した宿主としての宗教を内側から破壊して行くことにより、転覆させる(組織ごとのっとる)働きをします。ですから、グノーシス主義はあらゆる革命思想、クーデタの思想の始まりだと言っても過言ではありません。

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2016年中は、ペンテコステ運動とグノーシス主義と牧師制度の悪という問題を関連付けて論じることが多くなった。必ずしも、牧師という存在だけが、現人神となるのではない。牧師に率いられる集団ごと、そのような理念に陥ることがある。

相模原で起きた障害者の大量殺傷事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(2) 」(2016年7月29日)

KFCに関わる人々のすることは何もかもすべて、彼ら自身の見栄と自己顕示のためである。たとえKFCを陰では悪しざまに非難していたとしても、これと公に訣別宣言をしないならば、彼らの仲間同然なのである。

彼らの活動は全て、自分たちがいかに他者よりも優れており、特権を享受している幸福な人間であるかを誇示するために行われるものでしかない。すでに書いた通り、信者の結婚式さえも、その目的のために存分に利用されたのである。そして、その結果、起きたことは、とても痛ましい出来事であった。

聖書は、もし宴席に誰かを招いてもてなすならば、立派な金持ちではなく、貧しい者たちのように、返礼できない相手を招きなさいと教えている。そうすれば、主がその隠れた親切に報いて下さるというのである。本当の親切とは、見返りを求めず、隠れたところで行われるものである。だが、KFCは常に、自分たちの恵みを、自分たちの仲間内の狭い集団の中だけで誇示することで、すべての栄誉を自分たちだけで独占してしまい、他の人々に分かち与えることをしなかった。その独占を、自己の優位性とみなしたのである。

そのような彼らの態度は、常に閉ざされていて、内向きで、何もかもが、自分たちのためであり、そのような態度が、主の御前に喜ばれることは決してあり得ないと筆者は今でも確信している。彼らは地上にいる間にすべての報いと栄誉を受けてしまったのである。

Dr.LukeとKFCは、カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏とほぼ同様に、決して自己の本当の弱さや醜さや限界と向き合わなくても済むように、自分がいつでもヒーローとなって人前に脚光を浴びていられるような、偽りの「マトリックス」の世界を作り出し、それを信仰生活とはき違え、その幻想の中で、ついに自分たちは「神である」と宣言するところまで行き着いた。

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イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち」(2016年11月29日)

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

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牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~」(2018年4月1日)

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り次ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。

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さらに最近になると、筆者ははっきりと村上密、唐沢治、杉本徳久の名を挙げながら、反カルト運動は、一見、牧師制度の暴走を許さないための歯止めとして登場して来たように見えるが、根本的には、カルトと同じかそれ以上に、牧師制度の悪を集積して生まれて来た最も危険な運動であると指摘するようになった。

村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質
(2018年3月30日)

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

<略>

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。


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近年になると、筆者は、牧師制度の悪を、グノーシス主義的背景だけから論じるのではなく、信仰回復運動の観点から論じることが多くなった。すなわち、プロテスタントは、カトリックの統一的なヒエラルキーから信者を解放し、聖書を一般に解放したという点では、功績を果たしたが、牧師制度を取ったことにより、その改革が中途半端に終わり、今やプロテスタント自体が新たな信仰回復運動としての聖書の一般へのさらなる解放を妨げる障壁になっていると指摘したのである。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。」(2019年3月5日)

さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り次ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

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<続く>

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