さて、筆者は訴訟を巡る一通りの手続きに、ぜひとも習熟したいと考えている。弁護士でも知らないか、もしくは弁護士でもなかなかできないような手続きであっても、全部、一通り自分で経験したいと願っている。
筆者はもともと弁護士という職業を好かない。だが、それでも、筆者はこれまでたくさんの文書を書いて来たことはあっても、弁護士に匹敵する訴訟の経験はないため、まずは基礎的な学習として、昨年に代理人なしで訴訟を起こし、これを通して訴訟手続きを知ろうとしたのであった。
訴訟を起こすまでの間に、ADRを経験していたので、それが十分な予行演習となってくれた。訴訟に踏み切るまでには、訴訟というもの自体に非常に大きな心理的抵抗があったが、実際に経験してみると、ADRの方がずっとプレッシャーが大きかったことが分かった。舞台としては訴訟の方がはるかにスケールが大きく、ADRと比べものにもならない大きな満足感があったと言えるだろう。
だが、訴訟を通して得られる満足感のことなど、語る人は少ないかも知れない。そして、筆者が語っている「満足感」というのは、普通の人々が考える判決内容、すなわち、賠償額や、認定された事実などだけを指すものではない。
何よりも、訴訟は、裁判官との付き合いも長くなり、1、2回の審理で終了するADRに比べ、当事者とのリアルな関係を経験することができるため、人間観察の貴重な機会が与えられる。
期日を設定するための原告被告の巧妙な駆け引きや、書面の出し方、スケジュールに追われる裁判所関係者との良好な関係の築き方、もしくは、たとえ反感を買っても、断固として主張を述べなければならない時に、どう勇気を奮い起こして発言すべきか、口頭弁論で議論すべきか、書面で主張を戦わせるべきか、その他、様々な裏技のようなテクニックに至るまで、長く続く審理の間に、学習できることは無限にある。
筆者は、ADRの経験しかなかった頃は、とにかく紛争を早く終わらせるために、短期間に圧縮して書面を出し切ってしまうことが最善であるという考えを持っていた。1回か2回で審理が終わり、もう二度と会うこともない関係者にとっての読みやすさなど度外視である。だが、訴訟においては、書面の出し方が全く異なることが分かった。
訴訟は、初めから、非常に小さな事件を除いて、じっくり、ゆっくり時間をかけて当事者に向き合い、少しずつ、物事を明るみに出していくことになるため、短期間で圧縮して書面を出し切ったから早く終われるという結果には必ずしもならない。
そして、何よりも、訴訟で出される書面は、ただ紛争を有利に解決したいがために、自己の主張を一方的に述べるものではなく、要するに、裁判官に宛てたラブレターのようなものだということが、次第に分かって来た。
むろん、書面には、被告に対する反論、説得、非難、叱責、懇願、求釈明などの意味も込められることになるが、何よりも、裁判官の心を動かすことを目的として書かなければ、誰に何を訴えるために書いているのか、意味を失ってしまう。
そういう意味で、明らかに、書面は生きた人間に宛てた手紙のようである。論敵と激論を戦わせることにばかり目が行っていると、裁判官に判断を仰ぐという一番重要な目的を見失ってしまう危険があることも分かった。
そこで、書面の出し方(内容や形態)は、それが裁判官にどのように受け止められるかを最も重視して決めることになる。ADRではそのような配慮はそれほど大きくものを言うとは思われなかった。それは、長期に渡る紛争だからこそ、生まれる人間関係への配慮である。
また、一見、書面を短期間で出し切り、紛争が早期に解決する方が、人間にとっては利便性が高い解決策に見えるかも知れないが、時間をかけて主張を争うことにより、物事が非常に深いレベルまで明らかにされ、その結果として、心に深い満足を得られることが分かった。
筆者は今回、訴訟の他に、強制執行や、間接強制の手続きも学ぶことができ、いわば、無からお金を作って行く方法を学んでいると言える。
これは知れば知るほど実に面白い手続きだと思わざるを得ない。なぜなら、学術論文はどれほどの分量を執筆しても、それ自体はお金にならず、著書として売り出すでもしない限り、利益には結びつかないが、訴訟手続きにおいては、自ら執筆する一文一文が、まさに請求の根拠となって行くからである。
こんな風に、文章が請求に直結するという分野を、筆者は訴訟以外では見たことがほとんどなかった。そして、訴訟においては、様々な権利侵害の事実の有無が争われ、幾分か抽象論も展開されるが、判決確定後は(仮執行も含め)、判決をいかにして実際に金銭に変えるかという「命令」の「実体化」とでも言うべきプロセスが手続きのメインとなる。これが訴訟につきものの、もう一つの顔としての各種の強制執行の手続きである。
今回は強制執行と供託から配当までの流れを理解したので、この分野で、筆者はまだ経験していないものは動産執行、不動産執行の手続きである。
筆者が見たところ、今の段階では、当ブログを巡る紛争のスケールは、賠償額の大きさから判断しても、不動産執行に値するものではない。せいぜい全店照会をして口座を特定して強制執行に及ぶか、勤務先を特定し、給与の差押に及ぶ程度のものだ。
だが、筆者の心には、実はこの先、もっと大きなスケールの差押をしてみたいという願いがかねてよりある。そして、やはりそのスケールの大きな差押の最たるものは、不動産執行でないだろうかという気がしている。
この事件で、そういうことが将来的に起きるのかどうかは知らないが、いつか必ず、その過程を学ぶことになるだろうと、筆者は前々から心に確信している。小さな元手で、最大限のものを獲得する、言葉によって、最大限の実体をつかみ取る、そのための方法がこれなのである。司法制度以外の場所では、言葉を用いた主張を駆使して、最終的にこのような結果を勝ち取る手続きはまず存在しないだろう。
不動産の話はさておき、当ブログを巡る事件は、筆者にとって、まさに筆の力を使って、無から有を生み出すための摩訶不思議な世界に足を踏み入れるための、うってつけの学習に相当した。これはあらゆる点で、筆者の望みに沿っていた。
訴訟を起こすまで、当ブログは完全に無料ですべてを筆者のコストとして執筆されるものでしかなかった。このブログによって何かの権利を獲得するとか、利益を得るとか、もしくは損害の補てんを得るといった考えは、筆者には全くなかった。
ところが、そのブログが、人生で大きな紛争の舞台となるだけでなく、権利侵害の事実を通して、金銭的賠償を得る根拠となった。これは筆者が当初全く意図してさえいなかったブログの全く別の効果というか、威力のようなものである。
当ブログを巡る事件は、そのスケールが、長い時間をかけて、実に小さなものから、実に巨大なものへと、雪だるま式に拡大しつつあるところも、実に不思議である。
そもそも、事の発端はからし種のような紛争でしかなく、始まりはただ1件の筆者が投稿したコメントであった。
2009年に筆者が杉本に依頼した1件のコメントの削除を、杉本がすんなりと聞き入れて、これを削除していれば、このような訴訟が起きることは絶対になかった。
この1件のコメントを削除するとかしないとかいった問題は、その当時、実に些細な事柄でしかなかったように見えた。にも関わらず、それが年々、より大きな紛争に発展し、ここまでのインパクトを持つものとなったのである。
それでも、筆者が昨年、杉本に調停を申し入れた際には、杉本が投稿していた明白な権利侵害の記事は、まだごくわずかに2、3本程度でしかなかった。
この時点で、杉本がこれらの記事を速やかに削除して、微々たる賠償金を支払っていれば、事件は速やかに終わっていたであろう。だが、民事調停での和解は困難となり、筆者が訴訟に転じると予告すると同期に、杉本は20本以上のあからさまな筆者に対する名誉毀損の記事を投稿、まさに訴訟にふさわしいスケールの権利侵害が生じ、賠償額があっという間に膨らんだのである。
今また筆者が一審判決で命じられた賠償金を杉本に供託で支払うよう求めたところ、杉本がこれを拒否する回答を寄越した。このことは、二審に大きく影響するだろうと筆者は見ている。そもそも一審判決に従わない人間が、控訴してみたところで、印象は極めて悪く、裁判官がこれを合理的な訴えとみなすことはないと筆者は思わずにいられない。
だが、それ以上に、杉本に対する賠償金の取立がこれほど困難を伴うことが一審で分かってしまうと、二審でも、裁判所による調査嘱託等の方法を用いて、予め勤務先を特定するなどして、二審判決を実現に移すための布石を打つことが認められる可能性が高まる。
従って、探偵その他を使って勤務先を特定するのが得策でない場合であっても、どんなに遅くとも、二審の途中で、そうした事情は判明すると考えられるのだ。さらに、来年には民事執行法の改正が予定されており、債権者がある程度、債務者の勤務先や口座情報を特定できるようになる。
記事「【民事執行法 改正見込】相手の口座や勤務先不明で諦めていた養育費が取立てしやすくなります」を参照。
これによると、来年4~5月あたりに民事執行法が改正されて、「第三者からの情報取得手続」という制度が新設されて、債権者が裁判所を通して市町村や年金事務所に照会をして、債務者の勤務先を調べられるようになるという。また、裁判所から銀行の本店に照会をして、債務者の銀行口座や預金残高等まで把握できるようになるのだという。
むろん、こうした手続きはすべての訴訟に適用されるわけではなく、また、これらの手続きは、誰もに100%結果を出せると保障するわけではないにせよ、賠償金の踏み倒しを許さないための大きな進歩となることは間違いなく、その改正が間近に迫っているのだ。
そういう意味でも、当ブログを巡る事件は、まさに学習にはうってつけの機会である。このように、筆者はこの紛争を聖書に基づくキリスト教の理念を巡る争いであると考えているが、それだけでなく、訴訟という一連の手続きに習熟するためにも、実に良い学習の機会なのである。
なぜこのような学習の機会が与えられているのかは知らないが、何か深い意味があるのだと筆者は考えている。
筆者から見れば、杉本がたった1件のコメント削除を拒んだのを機に、筆者に対しておびただしい呪いの言葉のような権利侵害の記事を投稿した結果、ついには職も失えば、家も失い、有罪判決を得るといった究極的な自滅的結果へ向かっているように見えるのは、実に驚くべきことである。
おそらく、こうした自滅行為は、賠償額の拡大とも密接に関連しているものと思う。だから、おそらく今、一審判決にさえ従おうとしない杉本には、二審ではもっと支払いが困難な額が言い渡される可能性は否定できない。
一見すると、事件がただこじれにこじれているだけに見えるかも知れないが、筆者はこのような運びになっていることには深い意味があると感じており、そこから実に多くの学びを得て、論敵の脅しを粉砕する方法のみならず、受けた損失を具体的に取り返すための実効的な手段を着々と学び、手に入れている。
上記した通り、この事件は、たった1件のコメントを巡って始まったのであり、いつ終わってもおかしくない小競り合いのような内容であったのに、未だに究極的な結論へ向かって拡大し続けていることは、驚くべき事実である。こんな事件は、地上では、お目にかかろうと思っても、そうそう滅多に起きることではないだろうと思う。
筆者自身も、杉本が悲劇的結末に至らなくて済むよう、猶予に猶予を重ねて来たというのに、杉本はわざわざその合理的選択肢をことごとく蹴って、自滅の方向へひた走っている。これぞ悪霊のなせるわざとしか言いようがない。それと共に、紛争の規模――受けた権利侵害のインパクトも、さらに拡大し続けて、筆者が最も厳しい措置を取ることさえ十分に想定されるような方向へ向かっているのである。
杉本は今、勤務先にしがみつき、筆者の取立が、精神的苦痛であり、心理的に追い詰められているなどと、不満をつらつらと書き連ねては、賠償金の支払いを拒んでいる。だが、筆者は杉本に電話番号を通知しておらず、杉本は筆者からの電話に全く出ておらず、通話も成立していない以上、杉本が、筆者の電話による取立の「権利侵害」を主張できる証拠はどこにもない。
非通知の電話がただかかって来たというだけでは、通話記録も出せず、迷惑電話も主張できない。なぜ着信音が鳴らないようにするなど、自分でそれなりの対策を講じなかったのですか、と首をかしげられるだけであろう。
筆者から見ると、杉本は絶えず雨漏りがし、隙間風が吹く家で、修理もせずに、我慢し続けながらその家に住んでいる住人のようなものである。やたら文句ばかり言って、すべての負の出来事を回りのせいにして、自分以外の人ばかりを責め続けて生きているせいで、自分で取るべき対策が何一つ見えず、自分で自分を守るための工夫が全くできないまま、今に至っているのである。
だから、杉本が職場が大切と、仕事にしがみついているのも、自分のためではなく、何が人生で一番大切であるかが分からないために、人に自分を認められるという二義的な満足を最優先して生きているからであるとしか思えない。おそらく、そうして何が本質的に重要であるかを根本的にはき違えているせいで、この先、健康も職場と一緒に失いかねない危うさを非常に感じるのである。
目先の利益にしがみつくと、こういう本末転倒な結果になるのだ。職場を守るためにも、本来は、一審判決に速やかに従うべきである。健康を守るためにも、早く賠償金を支払うべきである。職場が駄目になっても、健康が駄目になっても、どちらもいけないのだから、二つとも守るためには、まず判決に従うことがベストである。
ところが、杉本は最も優先すべき事柄を後回しにして、二義的な利益だけを守ろうとすがりついているから、結局、それらはすべて失われて行くことになるのである。
だが、筆者は、早期に取立を終わりにすることで得られる利益もさることながら、かえって、これを機に、一通りの強制執行をみんな実行してみるのも悪くないと考えている。
何しろ、そんなことをやろう、やっても構わないと思う悪質な相手には、まずお目にかかれない。普通の人たちを相手に、そこまでのことをしようとは、筆者もさすがに思わない。だが、このような貴重な機会はまたとない人生経験である。何のために役立つのかは知らないが、今、できる限りの学習を積んでおくことは悪くない。
筆者は再三に渡り、杉本にとってダメージの少ない方法を提案して来たにも関わらず、向こうがそれをことごとく拒んでいるわけだから、筆者がより厳しい、いわば、最後の手段に出たとしても、そうせざるを得ないだけの事情があったことは、誰でも分かってくれるはずだ。もはや非難する者はあるまい。
* * *
さて、杉本が筆者に供託を断って来て後、ただちに村上密がまたしても愚かかつ的外れな記事を投稿した。そして、村上が記事を投稿すると、間髪入れずに、杉本が当ブログを訪問して、「マーキング」していく。こうした現象が、彼らの間では、もはやお決まりのパターンと化しているのだが、そういうところを見ても、二人の間の悪の連帯の強さを筆者は感じざるを得ない。
さて、村上の記事の何がおかしいのか、どれほど多くの間違いがあるかを見ておこう。
「名前はいつか分かる」