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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
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2017/11/21 (Tue)

1.ペンテコステ・カリスマ運動をめぐる対立について

このブログの最後の課題に、議論がいよいよ近づいて来たのを感じる。
教会成長論、ペンテコステ運動については、まとめるのにもう少し時間がかかる。長い間、待っていただいて申し訳ないが、もう少し経ってから、詳しく内容を書いていく予定だ。いつかその内容を整理し、紙面にて発行することができれば幸いだ。

ペンテコステ・カリスマ運動、弟子訓練などのプログラムの問題性については、筆者自身、以下の記事の中で「阿片」というあまりにも厳しい言葉を使って表現した。だが、それでも、筆者自身がペンテコステの流れを汲む一派に属していたことがあり、そこから汲み取った良い経験もあるという過去を踏まえて、筆者はこの運動をただ「臭いものには蓋」式に、病原菌のように毛嫌いして遠ざけさえすれば、それで事が済むとは思っていない。

「ペンテコステ・カリスマ運動などという胡散臭いものにはとにかく近づかなければ良い」、という立場があるが、筆者は、信徒はともかくとして、専門家である聖職者までが、多くがそのような立場を取って、議論や分析を避けているのでは、何一つ問題は解決できないと思っている。第一、ペンテコステ・カリスマ運動に関わっていないからと言って、その教会が正しいという証拠には少しもならない。

ここでも何度も書いてきたように、今、キリスト教界全体が危機的状況にある。ペンテコステ・カリスマ運動の流れを汲んでいる教会だけが危うい状況にあるのではなく、ほとんど宗派を問わず、どこの教団教会に属していても、カルト化という問題にぶち当たる可能性は十分にあるのだ。

従って、教会のカルト化という問題をただペンテコステ・カリスマ運動のせいにだけして終わりにしようという議論は不毛である。「吉祥寺の森から」の記事でもしきりに話題になっていたように、もしペンテコステ・カリスマ運動の問題性を語ろうと思うならば、この運動の内容を十分に知って吟味した上でなければ、話にならない。何よりも、この運動がこれほどまでに世界的に広がりを見せたのか、その背景に何があるのか、それが大衆クリスチャンのどのようなニーズと合致しているのかをよく考える必要がある。

そもそも、このような運動が世界的な広がりを見せたのには、既存のキリスト教界に決定的に不足しているものを補おうとする意味があったことを忘れることはできない。
ペンテコステ運動が、既存の教会の弱体化、教義の形骸化、教会中心・儀式中心の行いの伴わない信仰生活、伝道における力不足、何よりも伝道の原動力となるはずのクリスチャンの人格的魅力の欠如を、由々しき問題としてとらえたことは正しいことであり、評価に値する。

歴史上、あらゆる社会運動は、必ず、大衆の潜在的ニーズによって支えられてきた。社会のニーズがないのに、ただ宣伝だけで運動を起こすことは誰にもできない。
従って、「ペンテコステ」が登場してきた背景には、既存のプロテスタントのキリスト教界の弱体化があるのだ。その事実を考えることなく、この運動をただ毛嫌いして、それと関わりのない既存の教会に身を寄せさえすれば、それで事態が解決するという考えは、甚だ甘いと言わざるを得ないし、時代の流れに逆行するものだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動をめぐる対立を、かつての冷戦時代における、資本主義と社会主義の対立にたとえるのは、ちょっと乱暴かも知れないが、一言言わせていただきたい。資本主義体制に対するアンチテーゼとしての社会主義は、ソビエト体制の70余年ではっきりと結果が出た。社会主義は短命に終わった。(中国や北朝鮮やキューバの体制は、社会主義の残滓として、今は除外する。)だが、ソビエト連邦という社会主義の「お手本」がひどい腐敗に陥って、早々に崩壊したからと言って、私達は敵の敗北を持ってして、資本主義が勝利したと言うことができるだろうか。

社会主義に正義はなかったし、それが人類の新しい歴史を切り開く進歩的体制でなかったことは、ソ連邦の崩壊によって証明されたと言えよう。だが、社会主義が一旦、没落した事実が、すなわち、資本主義に正義があったという証拠になり得るだろうか? 「資本主義の末路はファシズムである」と言った社会主義者たちの言葉には、何の真実性もなかったということの裏づけになるだろうか?
いや、もしも資本主義に正義があったのだとしたら、一体、今日の日本社会におけるこの荒廃状態は何なのだろうか? 高度経済成長期にあれほど達成してきた豊かさが、社会の進歩としての福祉制度の充実が、今日、ただどぶに捨てられるようにして失われて行っている現実をどう説明できるというのだろうか?

体制としての社会主義に正義はなかったかも知れないが、理念としての社会主義には、せめても半面くらいの真理はあっただろう。社会主義は資本主義の悪を克服するために登場してきた。資本主義の悪い側面を糾弾し、これを克服・凌駕することができる、社会の次なる進歩的形態として、この体制は提唱された。それはあいにく、掲げていた目的とは正反対のものしか生み出すことはできなかったし、理念にもそもそも大きな問題があったことは確かだが、それでも、社会主義者が早くから訴えてきた、資本主義の弊害は、今日も少しも変わることがないのである。

これと同様に、ペンテコステ・カリスマ運動が登場して来たのは、既存の教会における欠落を補うためであったという点を忘れることはできない。たとえペンテコステ・カリスマ運動の弊害が続々と明らかになったとしても、既存の教会の欠点が消えない限り、それを補おうとして、また新たな別の運動が出現するだけだろう。

私達は何かを語る際に、まるで試合のように、「どっちが正しいか」という比較的観点から、決着をつけようとする姿勢を捨てねばならない。ペンテコステ運動に関わった教会と、関わらなかった教会の、どちらに正義があったのかを議論するのは時間の無駄である。「どこの組織が正しいか」、勝敗をつけるために議論をするのは不毛である。あらゆる社会体制に問題があり、あらゆる教会組織に問題が起こり得、あらゆる社会の形態が不完全なものでしかなく、この人間社会においては、究極の正義などどこにもなく、究極の社会形態などどこにもありはしないということを忘れないようにして、馬鹿げた優劣のつけあい、序列のつけあいから遠ざからなければならない。

それに、キリスト教の正統な教義を信じている人ならば、誰しも、三位一体の神を認めることだろう。なのに、そこから聖霊だけを除外しようというのは言語道断だ。聖霊降臨、異言には聖書的な根拠がある。なのに、ことさらに聖霊を否定し、異言を病原菌ののように毛嫌いする態度にも、それらを強調しすぎるのと同程度に、問題があると言えよう。

プロテスタントによく見られる多重分裂と、異なる意見に対する不寛容さ、そして他派への軽蔑と、毒々しいまでの対立を、筆者は本当に嫌に思っている。ペンテコステ・カリスマ運動をめぐって、対立がさらに激化してきたことにも、飽き飽きしている人は多いだろう。プロテスタントのキリスト教界がお互いに分裂し合い、互いを軽蔑し合って、それぞれが新しい群れを主張し、そこで自分達を高めあうための独自を教義を作り、そこからこぼれ落ちた信徒がいれば、勘当して追い出し、残った少数の者たちだけで、独自の村社会にしか通用しないようなルールを作ったからと言って、そこに何の進歩や達成があるだろうか。

こんな風に分裂していがみあっている最中に、もしも我が国に悲劇的な天災でも起きようものなら、クリスチャンはどうやって団結してそれに立ち向かうことができようか。

直感と感情だけで物事の決着をつけたり、やたら対立と分裂に至るのはよくない。一つの運動が登場する背景には、必ず、社会的ニーズがある。ペンテコステ・カリスマ運動が教団教派を越えて広がりを見せたことは十分に注目に値し、それだけ見るならば、それは少なくとも分裂分派の運動よりは、評価できる動きであったと言えよう。筆者自身は、この運動をかなり否定的に評価しているが、それでも、私達はこの運動が起こった背景にある理由を慎重に探っていかなければならないと思う。その運動を登場せしめるに至った社会のニーズを十分に踏まえた上で、その運動の是非を論じて行くのでなければ十分な議論にはならない。
 

2.ビュン・ジェーチャン氏の事件を通して教界の自浄能力が問われている

今、世間を騒がせているビュン氏の事件については、相変わらず、筆者は何の関わりもない傍観者だが、事件が社会に投げかけた波紋の大きさと、社会からの反応の素早さには本当に驚かされるばかりだった。まだ司法の場に問題が持ち出されておらず、警察による捜査さえも入らない段階で、世俗のメディアがこの事件を全面的に被害者側を擁護する形で取り上げたことは、未だかつてない事態として受け止めた。

パワハラ、セクハラの被害者がただ泣き寝入りを強いられることが多かった時代が過ぎ去っただけではない。キリスト教界内で被害を受けた信者たちの訴えが、ただ黙殺され、見殺しにされる時代が、確かに過去のものとなりつつあるのを感じた。この事件の世間における反響の大きさが、これまでカルト化の問題を無視し続けてきたキリスト教界に、重い腰を上げさせるきっかけとならないだろうか。

被害者はもう弱者ではなくなりつつあるのかも知れない。未だ社会における格差増大の勢いはおさまらないとは言え、それでも、社会構造を逆転させるような弱者のパワーがすでに台頭しつつあることが感じられる。社会体制が実際に改革されるまでにはまだ時間がかかるだろうが、それでも、現場では確かに、時代を変える風が吹き始めている。一つの価値観が終わりを告げようとしている。弱肉強食の時代が終わって、弱者による巻き返しの時が来ており、これまで力にまかせてやりたい放題して来た人々にとっては、粛清の風が吹き始めていると言って良かろう。

だが、こうした見方は楽観的に過ぎるかも知れない。事件を無責任に騒ぎ立てるだけの人たちは、何か問題が起これば潮が引くように去って行く。そして逃げ去ることができず、現場に取り残され、最もとばっちりを食わされるのはいつも被害者だ。ビュン氏が、問題をセンセーショナルに取り上げたメディアでなく、ブログでもなく、他ならぬ被害者を告訴する準備を進めているという記事を読んで、筆者はため息をつかざるを得なかった。またしても、被害者が余分な荷を負わされるのか…?

教会のカルト化の問題に対して、筆者は裁判という手段が解決にそれほど有効だという感触を今まで持ったことがない。裁判を起こして良かったと述べる被害者もいるので、筆者の意見は少数派である可能性がある。だが、ただでさえ、心理的に多くの問題を抱える被害者にとって、裁判は耐えられないほど心身を圧迫する重荷となりかねず、さらに裁判では必ずしもモラルにのっとった判決が出るとは限らず、裁判が被害者の立ち直りにどれほど有効なのかは不明だ。

今回の事件でも、被害者は告訴されるかも知れないというニュースにショックを受けているかも知れない。だが、それでも、この事件を単に端から見ている筆者には、加害者からの裁判という脅しを、被害者はそれほど恐れることはないように見える。以下が筆者の勝手な、個人的予測だ。

セクハラの加害者とされた人間が、被害者を名乗る人物に対して、名誉毀損を主張するためには、「セクハラの事実は無かった」と法廷で立証することが不可欠となるだろう。だが、セクハラの冤罪事件を通してすでに明らかになっているように、加害者とみなされた側が、セクハラの事実を否定することは、極めて難しいのだ。なぜなら、セクハラとは、受けた方がセクハラと感じただけで、セクハラと認定されてしまうような性質のものだからだ。ここでは被害者の個人的感情が極めて重視される。そこで、被害者側からのセクハラの訴えを、加害者が無罪であると主張し、さらに、名誉毀損であるとまで主張して、被害者の有罪性を立証することは、極めて困難な作業となるものと予想される。だからこそ、実際に裁判となれば、違った戦略が出されるかも知れないが…。

さらに、今回の事件では、ビュン牧師の形勢があまりにも不利すぎるように見えるのだ。筆者はここ数日、彼の身柄の引き渡しが行われるのではないかとさえ思っていた。そして警察が被害届を受理すれば、そこから刑事事件としての捜査が始まる。場合によっては、逮捕も予想される事態となる。
刑事捜査の手が及んだ時点で、実際に裁判を起こすことはとても難しい状況となるのではないだろうか。

それに、これまで教会をカルト化させた責任のある外国人牧師・宣教師が国外逃亡して、欠席裁判となった例があることを見ても分かるように、教会を破滅に導いた牧師たちが、裁判に登場しても、あまり勝算はないと言えよう。にも関わらず、教会を崩壊させた責任を自ら取ろうとするどころか、教会を置いて母国へ帰り(実質上の逃亡)、セクハラの被害者を国外から逆に訴えようという行為に及ぶことは、言語道断と判断されて、世論のひんしゅくを買いかねない。

これまでの経緯を振り返って、サラン教会による謝罪声明が早々に出されており、韓国側からビュン氏を擁護する動きが今、ほとんど公に見られないこと、そして幾人かの日本の牧師たちによるビュン氏との断絶宣言がすでに出されていること、そして今回、世俗のメディアさえもがこの事件を被害者側に立って取り上げた事実などを合わせると、たとえ今の捜査前の段階では、ビュン氏に冤罪の可能性を100%否定することはできないとしても、あまりにもビュン氏の形勢が不利となっていることは明白なように思う。

特に、気がかりなのは、日本の世論全体にこの事件の波紋がどれほど広がっているか分からないことだ。1月以来、この事件の世間への衝撃は少しもおさまらないどころか、ますます広がる趣を見せている。残念なことだが、ビュン氏が韓国人であったことが、日本人男性のナショナリスティックなプライドを悪い意味で刺激して、火をつけてしまった可能性がある。"韓流ブーム"、"ヨン様現象"によって、すっかり置いてきぼりにされた日本人男性の複雑な心理が、今回のメディア報道による"キリスト教界における韓流カリスマ"バッシングに向いてしまった可能性も、完全に否定することはできない。ひょっとして、それが今回の報道の素早さの最たる原因だったのではなかろうか…、と考えるのは、小説の読みすぎかも知れない。

いずれにせよ、今、一番必要なことは、第一に、被害者の心身を守ること。そして第二に、キリスト教界全体が、このような不祥事を二度と出さないために、また、これ以上、キリスト教界の評判を落とさないために、何が必要なのかを連帯して考え、協調して解決に当たっていくことだ。

世間にはあまり知られていないことだが、これまでに、教会のカルト化の問題のために、亡くなった被害者が幾人も出ているのだ。金銭も体力も搾り取られ、ボロボロになるまで搾取された上で、教界組織からポイ捨てされ、その上、他の無理解な牧師や信徒によって、受けた被害さえも否定され、裁判に訴えようにもそれさえ不可能となり、心身ともに追いつめられた信徒たちが、自分を責めながら、信仰にも教会にも絶望して、自殺に至る例があったのだ。

どうか、教会のカルト化という問題の深刻さを見逃さないで欲しい。無神経で残酷な言葉や態度で、被害者を追いつめないで欲しい。被害者が教界を救う使命を負っているのではない。被害を受けていない私達同胞クリスチャンこそが、被害者と教界を救う使命の両方を負っているのだ。これ以上、死者を出してまで、教界がカルト化の問題に蓋をし、全てを被害者の自己責任として片付け、教界の腐敗の全てのしわ寄せを被害者にだけ押しつけることにはどんな意味もないことを理解して欲しい。

あってはならないことであった今回の事件が、今度こそ、教会が自浄能力を取り戻すための重要な布石となってくれればと願う。

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