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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

さて、非常に意義ある一週間を過ごした。相変わらず、裁判所と警察と数多くの書類のやり取りを重ねており、その作業はこれからも続く。だが、控訴理由書を書き上げるために、主が特別に与えて下さった最後の自由時間が終わった。

数ヶ月をかけて書き上げた理由書が、ようやく筆者の手を離れると、主はたちまち新しい進路を筆者のために指し示された。

筆者が書類を自分で運んで行くことに決めて、霞が関駅へ向かっている最中、日比谷線の六本木駅あたりで、電話が鳴った。天はすべてを見ている。いつ筆者の仕事が終わったのか、いつのタイミングで新たな課題を与えるべきか、主はすべてご存じなのである。

こうして、御国への奉仕が一つ終わると、次の新たな仕事が与えられる。筆者は前回の記事で、自分の専門を去り、残る生涯を、見栄えのしない「干潟」としての紛争処理というフィールドにとどまり、この干潟から、可能な限りのエネルギーを汲み出して生きようと決意したと書いた。

これは決して筆者が法廷闘争に生きることを意味しない。裁判所で働こうとしているわけでもない。だが、筆者は、法律家ではない立場から、困っている人たちのために自分の経験を役立て、法律をパートナーに新たな人生を生きようと決意したのである。

かつての専門は、筆者とはついに相思相愛の関係にはならなかった。これは不幸な片想いの道で、このパートナーは、利己的で、横暴で、筆者に幸いを与えることもほとんどなかったが、新たな道連れは、どうやら非常に気前が良く、豊かで、何より正義と真実に溢れており、筆者を守ってくれることができるらしいと分かったのである。

そこで、筆者はこの新しく頼もしい道連れと、常に一緒にいられて、一瞬たりとも離れないで済むように、また、いつでもこのパートナーに頼んで、自分のみならず、他の人々のためにも、必要な命を汲み出すことができる働きをして生きることに決めたのである。

筆者には、まだまだこの「干潟」にとどまってなさねばならない仕事がたくさんある。

そうして、筆者が自分の興味関心ではなく、真に価値ある正しい目的のために、多くの人々を利する目的のために生きようと決意した途端、これまでとはうって変わって、ただちに生きる心配など全く無用な立場に置かれた。日常のために、あれやこれやと心を煩わせる心配もなくなったのである。

さらに、この一年間、筆者が取り組んでいた別の難問も、向こうから筆者を手放し、立ち去って行こうとしている。

筆者はこれらの問題について、どういう解決策を選ぶべきか、自分では分からず、まだまだ取り組む必要があるのかと覚悟を固めていた。しかし、自分だけの思いや判断で、誤った選択をしてしないように、神が願われる事柄が実現するよう、祈り求め、手探りで進んでいたところ、神は「もうよろしい。あなたの任務は終わりました」と言われるように、これらの問題に終止符を打たれたのである。

改めて、主の御心の中心は、当ブログを巡る訴訟――というより、筆者が最後まで、信仰の証しを守り通し、十字架上で約束された復活の命を通して、キリストにある新しい人として生きることを、どのくらい実現できるのか、というテーマにあるように感じられる。それ以外のすべての問題は、些末なものでしかなく、この戦いにおいて最後まで勝利をおさめるためにこそ、すべての時間と資金が采配されていると思わずにいられなかった。

だが、その戦いとは、要するに、筆者自身が、すべての恐れと圧迫に打ち勝って、神が約束された新しい人としての内なる尊厳を完全に取り返すための戦いなのである。

一審判決の前後、筆者に時間的余裕が与えられていたことには、非常に深い意味があった。この時に、ネット上で起きている事柄に注意を払っていなかったならば、当然ながら、控訴のタイミングも逸したであろうし、紛争は中途半端なまま終わっていただろう。

しかし、神はそのようなことが起きないよう、時間的余裕をもうけて下さっていた。その間、ネットで起きていた議論は、すべて控訴理由書の土台となるものであった。その当時に記事にしたためた内容を、正式な書面の形で書き表すために、数ヶ月を要した。

古書として破格の値段で入手した室井忠著『日本宗教の闇 強制棄教との戦いの軌跡』手元に届いたのは、理由書を提出しようとする前日であった。

今回、どうしても訴えねばならなかったのは、カルト被害者救済活動の中心には、こうしたプロテスタントの猛毒の副産物と言うべき強制脱会活動が脈々と流れているということである。

当ブログでは、カルトと反カルトは本質的に同じであって、どちらも牧師制度の悪から出て来るものだということを幾度も書いた。プロテスタントは、カトリックのような聖職者のヒエラルキーと、聖職者による聖書の独占という問題から、信徒を解放したものの、その解放は、牧師制度を残すことによって、不完全に、中途半端に終わっているのであり、今やプロテスタントからの「宗教改革」が必要とされているのである。

プロテスタントが、もはやかつてのような新鮮な御霊の息吹を失って、形骸化した歴史的遺物となり、さらに有害なものにさえなりつつあることが、様々な現象を通して、確認できるのが、今日という時代なのである。

そこで、この度、筆者はプロテスタントそのものを脱出することにした。

筆者のもらった判決は、見えない紅海を渡って、新たな復活の領域に到達するために、なくてはならない「エクソダス」の道を指し示すものであった。
 
数ヶ月前に、筆者は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)」という記事を書き、そこで、バビロン王国を去り、エクレシア王国の住人になったと書いた。

そのエクソダスは、理由書を書き上げている数ヶ月の間にいつの間にか完了していた。

エクレシア王国は、復活の領域であるから、そこに生まれながらの自分自身(セルフ)から出たものは、何一つ持って入ることはできない。

そこで、筆者はバビロン王国を脱出し、エクレシア王国の永住権を得るに当たり、➀プロテスタント、②資本主義、③筆者のかつての専門、この三つを「セルフ」に属するものとして捨てねばならなかった。

さらに、筆者は営利を目的としないエクレシア会社(企業ではないので、エクレシア法人としておこう)に雇用されるに際して、最初の給与は、判決という名の手形として支払われるから、これを現金化する方法を学びなさいと、ただ一人の主人から命じられたと書いた。

筆者は、それはあたかも取立によって債権を回収しなさいという意味であるかのように考えていたが、実はそうではなく、判決は、天の尽きせぬ富を引き出すための手形であり、目に見えない「干潟」から利益を汲み出す方法を知りなさいという命令だったのである。

地上の判決は、被告に対しては、永遠の断絶を言い渡し、天から新たな宝を引き出すための根拠となるものであった。
 
だが、それは死んだ文字だけにとらわれていれば、決して見えて来ない事実であった。

そこで、筆者は、見えない法の世界への招待券に書いてある、目に見えない地図に従って、しかるべき団体に出向いた。すると、そこに実際に、筆者が地上で果たすべきミッションを示す契約の書類が用意されており、それに対する報酬も約束されたのである。

地上の判決には、まだ補うべき点が存在しているが、そこには、それ以上に、もっと深い、尽きせぬ霊的な意味が込められていた。それ自体が、汲んでも汲んでも汲み尽くせない命の泉のような、終わりなき「支払い」を筆者に約束する手形だったのである。

しかも、それは筆者のためだけに命を与えるものではなく、いつの間にか、他の人々に命を分け与えるためにも役立つものとなっており、それが、筆者の新たなミッションとされていたのである。

ただし、その支払いは、純粋に天から来るのであって、地上のものに依存しておらず、地上の被告とは関係がなく、地上の人々に対して行使するものでもなかったのである。

その手形を天に向かって行使することが、天の富を地上に引き下ろす方法であって、これが天のサラリーを「現金化」する方法だと初めて分かったのである。

もしも判決を地上的方法で行使していれば、そこに死んだ文字として書かれたもの以上のものは決して得られない。ところが、筆者が得た天の報いは、使えば尽きてしまうようなものではなく、終わりなき富であり、新たな世界での筆者の身分を保証するものであった。

このようなことをどう表現すれば良いかよく分からない。多分、比喩としてさえほとんど理解されないのではないかと危ぶむ。

筆者はかつて裁判所は家のようなものだと書いた。筆者の目から見ると、そこは正義の実行される場所、真実が何であるかが明らかにされる場所、虐げられて、弱り切った人たちが、ようやく正しい裁きを得て、休息と安堵にたどり着く場所であった。

むろん、これは筆者の理想化に過ぎないと考える人たちは多いだろう。この世には、裁判所に正義など見いだしておらず、むしろ、不当判決ばかりの世界だと考えている人たちもいるかもしれない。

しかし、筆者はそうは見ていなかった。筆者にとって、そこは要塞であり、砦であり、真実と、正しい裁きが生まれて来る場所であり、それが与えられると信じないことには、そもそもそこに助けを求めて近づくわけにもいかなかったのである。

そのような望みを抱いてやって来た筆者の目には、まるで裁判所の地下に、見えない命の泉があって、そこから、人々を生かし、潤す命の流れが、こんこんと湧き出ているようにさえ映った。

ところが、いざ自分が判決をもらってみると、いつの間にか、その泉は、筆者の内側に移行していた。筆者は、「あなたは解放された。自由になって生きなさい」との宣言を受けたが、気づくと、その自由は、筆者自身の内側に書き込まれ、根づき、筆者自身が、与えられた命を持ち運び、これを他の人々に分かち与える存在となっていたのである。

判決を通して、筆者に分与された不思議な命は、筆者が地上の債権を回収しようとむなしい取立を行っている最中も、日々刻々と生長し、いつの間にか、それなりの分量に達して、筆者自身の内側から外へ川のように流れ出して、周囲を潤すものへと変わっていた。
 
それはまだ小さな川なので、気づくか気づかないという程度であろう。だが、それがやがて大きな川となって流れ出す時が来る。それが筆者に地上で与えられた真のミッションなのである。

一体、どういうわけでそういうことが起きたのか知らないが、まるで蝋燭から蝋燭へ火が灯されるように、筆者が飽くことなく求めて来た正しい裁きは、筆者の中に種のように蒔かれ、気づかぬ間に発芽し、他の人たちに向かって、新たな命をもたらす小さな種として伝播するようになっていた・・・。

こうして目に見えない終わりなき命の連鎖が始まった。それは地上におけるいかなる人間関係にもよらない、それを飛び越えた領域で起きる不思議な命の伝授である。
 
そうした立場を得たことで、筆者は内側で、あるべき尊厳を回復し、自分が何者であるかを、よりはっきり自覚するきっかけを得た。筆者は、自分があるべき場所、果たすべき使命に相当に近づいたことを感じている。

人の高貴さは、その人が抱いているミッションの気高さと大いに関係がある。聖書に登場する霊的先人たちはすべて神の解放のみわざに従事し、民を自由に導こうとする主の御旨を体現する人々ばかりであった。ヨセフは幼い頃から、おぼろげながらに自分に与えられた使命の大きさを知っていた。だが、そこへ到達するためには、様々な苦い試練を味わい、徹底的にへりくだらされねばならなかったのである。

それが十字架の道である。すべての先人はその道を通った。だが、へりくだる人に神は恵みを注いで下さり、試練がその人の糧となり、ますます高貴で栄えあるミッションを与えてくれる。その栄光、高貴さは、生まれながらのその人自身から来るものではない。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

「顔の覆い」とは、罪による隔てを意味する。地上の判決は、被告との間に打ち立てられた「永遠の遮蔽の措置」であると書いた。
 
その隔ては、裁判官と原告との間にはない。これは、あたかもまことの裁き主なる神と、贖われた人との関係を指すかのようである。

これらはすべて予表である。

地上における判決は、カルバリの十字架において破り捨てられた私たちの罪の債務証書を予表している。それは悪魔によって、私たちに転嫁されていたあらゆる不当な責め言葉や呪いを断ち切って、これを負うべき者へと投げ返すものである。

カルバリの十字架における宣言を根拠に、私たちは顔の覆いなしに、何の隔てもなく、まことの裁き主である父なる神に、子として近づき、大祭司なる方の恵みの御座に大胆に進み出て、必要なものを何でも願い出ることができる。
 
同時に、「顔の覆いなしに」とは、花嫁のベールアウトの瞬間のようなものである。花嫁の顔を覆っていたベールが取り払われるのは、結婚式のことであり、そこで花婿と花嫁とが初めて「顔と顔を合わせる」。

以上の御言葉は、キリストとエクレシアとが、ついに婚礼によって顔と顔を合わせる、人の贖いの完成の瞬間を指したものである。その時、神と人との間には、すべての隔てが取り除かれる。罪による隔てが、完全に取り除かれる日が来る。こうして、隔てが取り除けられたとき、人は神の栄光を映す存在となり、人は創造の当初、神に似せて造られたその目的と使命を完全に回復する。

人は神の助け手として創造されたのであり、人の役目とは、神が宣言なさることに対し、「アーメン(その通りです)」と答えることにある。第一審判決に対しては、筆者はまだ完全に「その通りです」と言えない部分が残っているがために、それを補うために控訴に及んでいるものの、このことは、あたかも、人の贖いが、地上にあっては、まだすべては完成されていないことを指すかのようである。

私たちには、完全な約束が与えられているが、その贖いの完全な成就は、来るべき世を待たねばならない。

とはいえ、そのことは決して、この地上において、私たちが目的に近付けないことを意味しない。むしろ、逆であり、筆者は、その瞬間へ向かって、一歩一歩、あるべき姿を確かに取り戻している。

ただし、それは純粋に筆者の内なる尊厳の回復であって、外見のことを指すわけではない。筆者の滅びゆく地上の人としての外見は、年々、ますます取るに足りない、見栄えのしないものとなっていくだけであろうが、主の御手の下にへりくだらされた人は、まるで外なる人に反比例するがごとく、内側では、栄光と尊厳がますます増し加わって行く。

その高貴さ、尊厳は、やがて隠しようのない不思議な魅力、権威、力となって、その人の内側から外へ溢れ出し、かつ他の人たちにも分け与えられて行くことであろう。

十字架で一度限り永遠に下された判決は、私たちに一生、必要なものをすべて与え、さらなる自由を、尊厳を取り戻させてくれる。もはや後ろを振り返る必要はない。

第二審は、より完全な贖いの成就を予表するものとなり、キリストにある新しい人の出現を、さらにはっきりと約束してくれるものとなるだろうと筆者は見ている。だが、それと並行して、筆者には、それと同じくらい重要なミッションがあって、今や自分だけではない多くの人たちにも、自由に至るエクソダスの道があることを告げ知らせ、自分に与えられた解放を、他の人々のために役立てたいとの願いがある。

その成果が一定の分量に達したときに、さらに大きなミッションが与えられることになるだろうと筆者は前もって感じている。いずれにせよ、筆者はなさねばならない仕事、新たな課題の只中に置かれたのであり、それを果たせることは、筆者にとってはかりしれない光栄である。

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2019/07/14 (Sun) 神の国の働き人