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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それならば、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。

権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)
 
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい

あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:5-9)

奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。

主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ3:22-25,4:1)


* * *

前回、「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性について書いた。

聖書には「目を上げて・・・を見よ」というフレーズが幾度も登場している。

該当する聖書箇所を探そうと検索すると、以下のコラムが見つかった。特定の教会の宣伝のためではなく、これまでの記事内容に重なる非常にタイムリーな内容として、あえて引用しておきたい。

目を上げて遠くを見よ」(キリストの栄光教会 2015 年 4 月 25 日)

「聖書には、「目を上げて、見る」という表現がたびたび出てきます。

ヨシュアがヨルダン川を渡り、未知の敵地カナンに踏み込んだとき、偉大なる主の軍の将に出会ったのは、「彼が目を上げて見る」ことによってでした(ヨシュア 5:13)。その方は「抜き身の剣を手に持って」ヨシュアの前方に立っておられました。下を向いたり、自分を見つめたりしても、強大な敵と戦う力は受けられません。不安になるだけです。

詩篇の作者は歌いました。「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ」(詩 123:1)。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩 121:1)


なぜ高くそびえる山があり、広大な海があり、突き抜ける空があり、月星の世界があるのか。それは、私たちが目を上げ、遠くを見るためです。


アランというペンネームで知られるフランスの思想家エミール=オーギュスト・シャルティエがこう語っています。「抑うつ病にかかっている人に、わたしの言いたいことは、ただ一つしかない。『遠くを見よ』・・・人間の目というものは、書物との間の距離のような短い距離に合うようには作られてはいない。広々とした空間のなかで憩うものなのだ。星や水平線をながめていれば、目はすっかり安らいでいる。目が安らいでいれば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。身体全体がくつろいで、内臓までがしなやかになる。・・・自分のことを考えるな。遠くを見よ」(『幸福論』社会思想社)。


地上のことで悩むより、目を上げて、はるか遠くを見よ。今が苦しいのなら、天にある国籍を思え。やがて私たちのために完成され、住むことになる永遠の神の国に思いを馳せよ。日常のさまざまな出来事の只中にあって、目を上げ、主を見よ。そうすれば、何が大切かそうでないかが分かってきます。過ぎ行く事々に振り回されず、まず永遠を見つめましょう。」


 
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前回、「書類から人へ」の移行が、筆者の人生に徐々に起きつつあることを書いた。

先日、仕事中、書類とパソコン画面に見入っていると、現場を巡回していた上司が、さりげなく筆者の様子を気にかけて、声をかけて行った。

筆者が目を上げて書類から人へ視線を移し、自分の上に立てられた権威者を見上げる瞬間である。

滅多に会えるわけではない上司であるが、この人とも、第一審において、裁判所がくれた判決が筆者を出会わせてくれたのである。

その人は、一審を担当した裁判官と、どこかしらよく似た雰囲気と経歴を持つ人物であり、決して人を脅かしたり、上から権威を振りかざして人を威圧することなく、誰をも辱めることなく、誰に対しても、穏やかに、明朗に接することのできる不思議な能力を持っていた。

人の心の痛みをよく知る、砕かれて謙虚な心を持つがゆえに、そのようなことができるのだろうと感じさせられる。

こうして、会うたびに、この人に着いて来て良かったと思える上司は、存在自体が稀有であり、そのような出会いは、人生における大きな財産であると言えよう。
  
上司は、短い言葉で、筆者に向かって、仕事の様子を尋ねたが、言外にこう述べているかのようであった。

「今はすべてが過渡的な段階にあるため、あなたには環境に様々な制約があるように感じられることもあるかも知れません。でも、私はあなたに、自分で自分に制約をもうけないで欲しいのです。あなたにはすべての状況を乗り越える力があると信じています。あなたには私たちの期待に応えるだけの力があります。だから、できないとは言わないで下さい。私たちにはあなたの協力が必要なのです。私たちを信じて着いて来てくれますね?」
 
筆者はそれに頷いて言外に答える。「もちろんです。私はあなたの目指す方向を信じて、それに従いたいと思って、ここに来ることを望み、呼ばれて来たのです。ですから、環境の制約に目を留めることはもうしません。環境は、時間が経てば整うでしょう。でも、もしも初めからすべてが整っていれば、そこには私のいるべき場所はなく、果たすべき役割もなかったかも知れません。私はあなたを失望させないために、ここに置かれたのですから、あなた方に着いて行き、自分の役目を果たします」

むろん、以上のような受け答えが、文字通り、あったわけではなく、実際には、ただ二、三の短い言葉を通して、筆者の心が改めて問われたのであった。困難に遭遇したとき、どのような態度を取るか。権威に対して、どう接するか。自分のために、権威者にすべてを提供してもらうことだけを望むのか、それとも、彼らが望むことに従い、共に協力してすべてを作り上げて行くのか。穏やかで優しい問いかけではあっても、そこには深い意味が込められていたように思う。

筆者は、一審の最中、自分の上に立てられた権威である裁判官を信頼し、正しい裁きが得られることを信じて、その采配に身を委ねられるかどうかを試された。様々な波乱が起き、望ましくない出来事が次々と起きる中、信頼関係を断ち切られることなく、協力して物事を前に進めることの大いなる意味を学ばされたのである。

今はそうして得た判決を携えてやって来た新たな場所で、地上の権威としての上司を敬い、困難の中でも、彼らに従い、協力してすべてを成し遂げられるかを試されている。

聖書が教える通り、地上における権威者は、天におられる権威者を象徴している。だから、地上の主人に対して、僕である私たちが、真心を込めて従うかどうかは、非常に重要な選択であって、地上の主人に対し、様々な不満を心に抱えつつ、神に対してだけは、従順に従うということは、無理な相談であろうと筆者は思う。

職場に限らず、私たちは、この世に生きる限り、あらゆる場所で、実に多くの制約を負う。実に多くの、自分の願いとは合致しない、理想からはほど遠い、混乱した状況、あるいは、理不尽と見える状況にも遭遇する。

だが、そうして望ましくない状況に遭遇する時にも、そこに神の采配が働いていることを信じられるか、目に見える状況がどうあれ、神のご計画には、いささかの理不尽も、狂いもないことを信じ、上に立てられた権威を通して、主の御手が自分に働いていることを理解し、その采配に従うことができるかどうかを、私たちは常に試されている。

筆者の心は、いかなる不合理な事件に遭っても、いつも穏やかで、一切揺るがされないなどとは言い切れるものでないが、それでも、常に神の采配が万全であり、完全であることを信じ、主に従って歩みたいと願わされている。間違っても、状況の理不尽さだけに目を留めて、自分を犠牲者のように考えたいとは思わない。
 
だが、もしも私たちが、目の前にある制約や、望ましくない不合理な条件だけに目を留めて、神や、上に立てられた権威者は、自分に理不尽かつ不可能なことばかりを求めていると感じ、自分を不憫に思って、彼らに不信感を抱いて、彼らに従うことをやめ、前進をやめれば、そこで、主が私たちをそこに配置して下さり、始めようとしておられたすべてのプロジェクトも、終わってしまう。

私たちの心がそのような状態になって、自分の限界でいっぱいになってしまうと、地上における協力関係は断ち切れ、私たちを配置した権威者にも、もはやどうすることもできない。

むろん、権威に従うとは、私たちが自分の判断を一切放棄して、権威者の言うことにただ盲従することを意味せず、理不尽な命令にまで黙って従って、自分をいたずらにすり減らすことをも意味しない。あくまで判断は、私たち一人一人が自分でせねばならないのであり、誰からの指示や命令を受けた時であれ、限度を超えて、何かを行うようなことをしてはならない。

しかし、決して誰かの言い分にロボットのように従うのではなく、あくまで自分自身の判断を保なちながらも、様々な制約に直面しても、決してあきらめることなく、上に立てられた権威を心から敬い、主に仕えるように、真心からその人たちに仕え、彼らの指示や命令に従いながら、彼らと手を携えて、共に協力して困難を打破して、前に進んで行くことは可能なのである。

そうした協力関係が打ち立てられる時、そこからは、ただ単に何か自分の願うことを達成したと言うだけにはとどまらない、不思議な関係と効果が生まれて来る。山上の垂訓がまさに地上に引き下ろされ、神の御心がこの地に実現したと言う他のない、命の水の流れが生まれ、周囲が潤される。

困難に直面したとき、自分の限界から目を背けるために、不都合な事実から目を背け、互いに重荷を押しつけ合い、責任をなすりつけあって、責め合って終わるのか。それとも、様々な限界を背負ったままで、互いを信頼し、協力しながら、進んで行くことができるのか、どちらを選ぶかによって、人生は大きく変わる。

本当は、そのような協力関係を打ち立てるためにこそ、筆者は仕事をしている。ただ労働を提供することが、働くことの真の目的なのではなく、その働きを通して、あるべき秩序が打ち立てられて、人々が解放されることこそ、真の目的なのである。だから、筆者が人々に与えられる最大の成果は、労務を超えたところにあると、筆者は確信している。筆者が人々に提供できる最高のものは、正しく、価値ある尊い目的意識を共有し、そこに共に手を携えて向かって行くというビジョンである。

もしも裁判官が正しい裁きを象徴し、上司が部下に最高のねぎらいを与えてくれる主人を象徴するならば、筆者は、彼らの裁きと命令に従順に従い、その権威に服し、彼らの心を満たすことで、栄光を帰する僕を象徴する者であると言えよう。

僕の最高の役目は、主人に栄光を帰することにあり、その役目を果たし、正しい秩序に服し、あるべき関係をもたらすことこそ、筆者の本当の意味での「労務」なのかも知れないと思う。

つまり、筆者は、何かしら人々を圧倒するような輝かしい労働の成果を個人的に求められたがゆえに、ここに配置されているわけではなく、ただ僕としての役目を心から全うすることで、主人に仕え、主人の心を満たし、人々との間にあるべき秩序と関係をもたらすために、呼ばれて来たのである。それを果たすことこそ、真の意味で、筆者に与えられた「労務」なのであろうと思わずにいられない。
   
* * *
 
さて、法廷に入廷した当事者たちは、裁判官が法廷に入って来て開廷を宣言する瞬間を、沈黙のうちに待ち望む。そして、裁判官の姿を見ると、立ち上がって礼をし、裁判官が法壇に就いて事件ファイルを開き、発言し始めるのを一心に待つ。

当事者は、自分たちに下される裁きを気にかけていればこそ、裁判官から目を離すことができない。

裁判官は、法廷においては、一人の人間であるというより、裁きそのものの生ける象徴である。正しい裁きを恐れなく待ち望む者にとっては、切に待ち焦がれた解放の宣言の体現者であり、他方、己が悪事を明るみに出され、不利な裁きが下されることを恐怖する者にとっては、恐るべき権威者である。

むろん、地上における法廷は、信仰とは関係がないとはいえ、筆者は、正しい裁きが下されることを切に待ち望む者の一人として、地上の法廷に、天的な裁きの絵図を見いだし、地上の裁判官の姿に、まことの正しい裁き主の姿を重ね、判決を支える法にも、神の揺るぎない掟である御言葉を見ないわけにいかない。それゆえ、地上の法廷に、尽きせぬ畏敬の念を抱かずにいられない。

以前からずっと書いているように、筆者の思いは、この地上に正しい裁きをもたらす神秘的な干潟としての法廷に魅了されてしまい、審理が開かれていない間も、そこから思いが離れられなくなった。筆者の心の中心には、常に見えない法廷が置かれ、筆者の思いも、正しい裁きとそれをもたらす法の周りを常に行き巡っているような有様である。

そのような筆者の思いは、ダビデが詩編に綴っている思いとどこかしら重なる部分があると感じる。
 
私たちが今、この地上に生きている一瞬一瞬のすべては、あたかも天におられるまことの裁き主に対して、私たちが申し開きのために書き記している目に見えない「準備書面」や「陳述書」のようなものである。
 
詩編には、随所で、神の正しい裁きを願う作者の思いが綴られているが、私たちも、自分が人生で置かれている見えない法廷において、神に対して常に正しい裁きを願い求め、また、自分なりの申し開きをしている。

正しい裁きをもたらすために必要なものは、言うまでもなく、正しい掟、すなわち、神の御言葉であり、神を愛する心と、神の掟である御言葉を守り、それに従って生きたいと願う心は、一つである。

私たちは、神を信じると言っても、ただ漠然と知りもしないものを信じているのではなく、神の御言葉を信じ、これに従って生きていればこそ、神も私たちを裁きの時に擁護して下さる。それは、裁判官が、法を守らない当事者を、全く擁護できないのと同じで、正しい掟を守っていればこそ、正しい裁きを求め、それを受けることができると信じられる。
   
詩編第1編は、次の有名な言葉で始まっている。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
 
ダビデは、神を愛し、神の正しい裁きを待ち焦がれるがゆえに、昼も夜も、神の掟である御言葉に思いを馳せて、その教えから片時も注意を逸らしたくないと考えていた。

主の教え(神の掟、御言葉)とは、律法を指すが、今日の言葉に置き換えれば、法にたとえても良いかも知れない。

むろん、この世の法には、いかなる宗教的な意味合いもなく、それは神から発せられた御言葉そのものでもないが、この世の法もまた、神の掟の絵図であり、神の御言葉を守って生きることは、この世の法に従って生きることと決して矛盾しない。
 
そして重要なのは、うわべだけ法律の条文に精通して、自分を専門家のように見せかけることではく、その掟を生み出した精神そのものを愛し、正しい定めに従って生きることである。

正しい掟に従って生きるとは、命の水の湧き出る泉のほとりに住むのと同じで、必ず、その人の人生を潤し、繁栄をもたらしてくれる。正しい掟を守って生きている人が、悪人と一緒に、いたずらに罰せられ、死に定められることは決してない。

ダビデは、生涯を神の掟に従って生き、死ではなく、命を見たいと願い、そのことだけを日々思い続け、神の掟から逸れることがないよう、「むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。と主に願った。

詩編第119編の中盤にはこうある。

「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。
 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。

 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。

 あなたの道に従って

 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。

 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。

 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)

これはダビデの必死の懇願のように感じられる。彼は、主の教えを守り、そこから逸れることさえなければ、神がやがて来られて正しい裁きをなし、正しい命令を発して下さるときに、自分は必ず、すべての災いから救い出され、命と幸いを得ることができると信じ、それゆえ、昼も夜も、神の正しい掟と、その裁きに思いを馳せて、地上にありながら、神の御思いと一つになって、その只中を生きたいと願い続けた。

そのダビデの思いは、筆者にとっては、法廷において、当事者が何とかして裁判官の心の内を知り、その心をとらえたいと願い、その裁きによって生かされたいと願う思いを思い起こさせる。裁判官は、法の体現者であり、正しい裁きの象徴であるから、その裁判官の心を探ろうとすることは、当事者自身が法によって守られ、生かされようとすることと同じなのである。

筆者は判決を得ただけでは満足せず、もっと法そのもに近づき、より(まことの)裁き主の心を知りたいと考え、そのために、見えない裁き主の姿を追い、片時も正しい掟のそばを離れずにいられるように、法律の世界に足を踏み入れた。そうした筆者の願いは、神を愛し、昼も夜も主の教えを思い、これと一つになって生きようと願ったダビデの心と、共通する部分があると感じられる。

ダビデは、主の教えを追い求めつつ、一つの願いを心に抱く。それは、神の住まう家を建てるため、神殿を築きたいという願いである。

その神殿建設の夢は、神の願いに合致しており、神の御心を、非常に大きなスケールでとらえたビジョンであった。すなわち、地上の建物を建てることが、彼の終局的な目的なのではなく、ダビデは神が真に望んでおられることは、人がやがて完全に贖われて、神の住まう聖なる幕屋となり、神が人と共に住まい、神と人とが完全な一致に至ることであると、知っていたのである。その神の願いを地上において表現したものが、神殿建設であった。

その神殿は、ダビデの代で完成することはなかったが、神はダビデが絶えず自分の主人の心を探り、主人の心と一つになって生きたいと願っていたことを知っておられ、僕としての彼の思いを評価され、その存在を重んじられた。

さて、聖書には、キリストと人との合一、すなわち、人が完全に贖われて神の御心を満足させる新しい人とされ、神が人の内に住まわれ、花婿なるキリストと花嫁なる教会が、完全に一致の中に入れられるという、永遠の合一が予告されている一方で、それとは異なる、もう一つの「合一」がある。

それは、神を介さない、人間同士の偽りの集団的合一である。先の合一は、永遠性を持つが、後者の合一は、束の間でしかなく、やがて分裂に至り、跡形もなく消え去る偽りである。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」
(創世記. 11:1-9)

バベルの塔を建設した人々は、神の掟には思いを馳せず、自分たちの主人の栄光を求めるのではなく、僕に過ぎない自分たちの栄光を築き上げるために、一致団結して、天まで届く(永遠の不滅の)家を建てようと試み、一代でそれを築こうとした。

言い換えれば、彼らは自分自身を神として、自分のための神殿建設をしようとした試みたのである。彼らの連帯は強固であり、その作業は万全であった。

ところが、まことの主人の思いを抜きにした彼らの連帯は、分裂によって崩され、意思疎通が不可能になり、建設は途上に終わることとなる。
 
この二種類の建設の違いは何だろうか?

バベルの塔の建設に向かった人々は、うわべは連帯しているように見えたであろうが、実際には、最初から、めいめいがてんでんばらばらな願望を抱いて、その塔に自分勝手な欲望を重ねるために集まっていたに過ぎない、烏合の衆であったものと筆者は思う。

その塔の建設は、自己満足、自己義認、自己肯定、自己充足など、すべて神を抜きにして、人類が自分で自分の欲望を満たすための自己実現の試みでしかなく、人が大勢集まっているがゆえに、そこには孤独はなく、勢いがあるように見えたかも知れないが、実際には、そこにはただ人の思いがあるだけで、神からの承認はなく、人々の間でも、真実な連帯も、協力も、相互理解も、助け合いも、存在しなかったのである。

おそらく、信仰を持たない地球上の多くの人たちは、今でも、自分たちの思い、感覚、意志こそが、すべてに勝るリアリティだと考え、そこから一歩たりとも外へ出ることなく暮らしているものと思う。彼らは、自分たちが傷つけられた時の痛みには、非常に敏感で、神でさえ、彼らの言い分に耳を傾けるべきであると確信し、自分たちが力強く前進しているときには、その成果には、神も目を留めて下さり、よくやったとねぎらって下さらねばならないと確信している。

要するに、何をするにも、考えるにも、彼らの思いは自分を中心としており、神に対して何かを願うときにも、あくまで自分の願いが中心にあって、神は彼らの願いを承認するために、お飾りのように存在しているものに過ぎない。

もしも人の判断と、神の判断にズレがあることが分かったとしても、彼らは、自分たちには、神をさえ説得することが可能であると思い込み、神が自分たちの言い分に耳を傾けて下さらないと分かるや否や、そんな神は要らないと、神を踏みつけにして、自分たちの思いを遂げるために、めいめい好き勝手な方向へ前進して行くことであろう。

筆者が何を言いたいのかと言えば、人間は生まれながらに、自信満々で、常に自己充足しており、喜んでいる時も、悲しみ、打ちのめされ、失望落胆している時でさえ、常に自分の感情だけで、心をいっぱいにし、それを中心にして、自己充足しながら生きているのであって、神を必要としておらず、間違っても、自分たちが「誰かを待っている存在」であり、「誰かがやって来て、命を吹き込んでくれなければ、決して完全にはならない、他者の承認を待つだけの、命の通わない、空っぽで、死んだ存在」であるとは考えていないということである。

この人たちにとっては、自分の思い、行動、感情がすべてであり、自分こそが、リアリティであり、神は自分たちの言い分を権威付けしてくれるための添え物でしかない。そこで、彼らは、たとえ神の名を語っているように見える瞬間があっても、本当は、心の中で、神など全く必要としていない。

筆者はそういう生き方の無意味なることを知っていたが、第一審の最中、改めてそうした自己充足の殻の中から、外に連れ出され、自分自身から目を離し、自分を生かすことのできるまことの権威者だけを信頼して見つめるよう促されたのであった。
  
私たちの移ろいゆく思いの中には、リアリティはなく、私たちが確かな存在を見つめる時にだけ、私たちの存在も、確かなものになる。

だから、自分から目を離し、むなしいものを見つめるのをやめ、敵対者の言い分や、心を煩わせる様々な事象に惑わされることをやめて、揺るぎない信頼の中で、自分を生かすことのできるまことの主人だけを見つめるよう、絶え間なく促されたのである。

ほとんどの人たちは、おそらく、自分の人生の主役は、自分自身であると確信していることであろうが、実はそれさえも事実ではない。
  
人間の思い、感情、考えは、人から見れば、それこそがまさしく現実のように感じられるであろうが、それらは実際には、裁判官から認定されるのを待ってうず高く積み上げられている書面のようなもので、光が当てられて、まことの主人から認められなければ、その一切の思いはむなしく、リアリティを持たない、移ろいゆく影のようなものに過ぎない。

闇の中に咲く花は、朝日が昇らない限り、人々の鑑賞の対象となることはなく、存在していることさえ、誰にも気づかれないように、まことの主人がやって来られて、私たちの存在を認めて下さらなければ、私たちは存在そのものが、むなしく、闇でしかない。どんなに人が渾身の訴えを作り上げ、どれほど人としての思いを吐露しても、その感覚も、思いも、存在も、すべてがむなしく、生かされることなく、始めから無かったもののように、空中に消えて行くものでしかない。
 
神が私たちの訴えを取り上げて下さるからこそ、私たちの主張や存在が生きるのであって、それなしに自分で自分を是認することは、私たちにはできない相談なのである。

つまり、法廷の主が、当事者ではなく、裁判官であり、法廷に入って来た裁判官が、審理の場を完全に支配してしまうように、筆者が人生において呼び出されている目に見えない法廷の主役も、筆者ではなく、筆者を超える権威者が存在する。

その権威者の眼差しが、徐々に筆者をとらえ、筆者の存在を、自分中心から、まことの主人を中心とするものへと変えて行った。その時、筆者が頼みとし、よすがとしていた様々な力も、単独ではすべてむなしいことが判明したのである。
   
被造物の存在は、目に見えないまことの主人に認められ、評価されるためにこそある。そこで、まことの主人とのパートナーシップが成り立たないのに、被造物だけが単独で何を訴え、何を成し遂げたとしても、それは誰からも認められず、生きた現実とならないむなしいものでしかない。

私たちの人生は、まことの主人である見えない神に仕え、この方の権威に服し、その方を喜ばせるために与えられている。そのまことの権威者から是認されずして、私たちの存在が、リアリティを帯び、満たされ、生かされることはないのである。

そのことを、筆者は自分では知っていると思っていたが、審理を通して、改めて教えられた。すなわち、人は外側からの承認(神からの承認)を受けなければ、決して自力では完全になれない存在であり、それが被造物の変えることのできない性質であり、ある意味で、「女性性」と呼んでも良い性質であり、限界なのだと。
 
そうして、筆者は、自分の存在が影に過ぎないことを知らされたのであるが、それは決して、悲しんだり、落胆すべき出来事ではなく、むしろ、それは筆者に被造物たる人間の本質を、そして、私たちには、まことの主を待ち望むという使命が存在すること、主が来られたときにこそ、私たちの存在が完全になるという喜ばしい事実を、改めて教えてくれた。

それが分かったときに、筆者は自分の超えることのできない被造物としての限界が、とても喜ばしいものであって、筆者のまことの主人に栄光を帰するものであるという不思議が分かったのである。

僕は、僕であればこそ、主人に栄光を帰することができる。僕が主人のようになり、主人を超えようとすることには、何の意味もない。

時折、職場にやって来る上司は、裁判官と同じように、筆者は自分のために生きているのではなく、自分の上に立てられたまことの主人たる権威者の思いを体現し、その主人を喜ばせるために生きているという事実を思い起こさせてくれる。

これまで、自分のために働き、自分の望みに従って生きていた筆者は、自分の人生が、自分自身のためにあるのではないということが分かったときに、方向性を大きく転換した。

もちろん、筆者は信仰者として、死んでよみがえって下さった方のために生きていることを信じてはいたが、それでも筆者の人生には、まだ真の意味で、他者というものが訪れたことがなく、天におられるまことの主人を喜ばせるために、地上生活を送るとは、どういうことなのかを、具体的に知らされていなかったのである。

訴訟における審理が、早くとも月1回程度のペースでしか開かれず、裁判官に会うことも少なく、その時間も短いように、筆者に最初にミッションを与えてくれた上司が、職場に稀にしかやって来ないことにも、何か意味があるように思われてならない。
  
それは、主人の姿が見えないと、僕たちの心が一層、露わにされるからである。主人に観察されることを望まず、何事も自分の思い通りにしたいと望んでいる僕にとっては、主人の到着は、全く喜ばしい出来事ではなく、来ない方が良い瞬間である。

しかし、常日頃から、主人に仕えるために、心を砕いている僕にとって、主人の到来は、喜ばしい訪れであり、その眼差しは、決して厳しいものでも、不快なものでもない。

その主人は、私たちが用意もできていない時に、私たちを辱め、恐れさせるために、不意にやって来るのではないし、主人から目を留められ、働きを報告するよう求められることは、僕の労苦がようやく報われることを意味するから、忠実な僕にとっては、何ら戸惑うべきことではなく、むしろ、待ち望む瞬間である。

その方は、気づくと、もう私たちの心の戸口に立って、扉を叩いている。私たちがその求めに応じて、戸を開けるなら、彼は私たちの口から、嬉しい報告を聞くことを期待しつつ、静かに私たちのそばに立ち、笑顔で声をかけて、苦労をねぎらってくれる。
 
私たちが困難の只中にあることが分かれば、「私が着いているのだから、あなたにはきっとできるはずだ」と力づけ、励ましてくれる。

「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(コリントニ12:9)

 
こうして、目には見えずとも、私たちには、決して私たちを置き去りにしていくことのない真の主人が着いておられる。だから、僕としての限界、制約は、私たちにとって重荷とはならない。この方に仕え、その眼差しをとらえ、評価を受けようとして生きることが、どうして光栄でないはずがあろうか。

それに引き換え、ただ自分で自分を肯定するために、誰にも仕えず、誰にも承認されることのない、終わりなき一方的な自己主張を繰り広げながら、自己充足のために、自分で自分を栄光化する建物の建設を続ける作業は、大変、むなしく、報われない孤独な奮闘である。

自分のためにどんなに立派な神殿を建てても、そこに住まうのが、自分一人であれば、それは家と呼ぶべき場所ではなく、また、光栄であるはずもない。自分で自分をどんなに肯定してみたところで、そこから何が生まれて来るのだろうか。そびえたつ絶壁と、高い塔は、一見、人間にとっては、孤独とは無縁の、栄光に満ちた住まい、強固な守りの砦であるように見えるかも知れないが、それはどこまで行っても、人類の独りよがりでしかない、家とは呼べない、断崖のような孤独な住まいであり、そこで行われるすべての営みも、人類の自己満足に過ぎないものとして、誰からも認められることなく、やがて塔が崩れ去るときに、始めから無かったもののように、忘れ去られて終わるだけである。もともと自分しか認められない人間が、地上からいなくなったとて、誰がその人間を思い出してくれるのだろうか。
 
被造物は、神を抜きにして、決して完成に至ることはなく、人類だけでどんなに団結しようと、神からの承認がなければ、人の一切の営みは無意味である。

だから、筆者は目を上げて、自分自身の思いと、移ろいゆく地上の有様から目を離し、ただ一人の目に見えないまことの主人の到来を思いつつ、それを待ち望む。花嫁なる教会が、花婿なるキリストを待つように、天におられる方を仰ぎ望み、こう言わずにはいられない。「来たりませ」と。

その方が来られるとき、私たちには真の慰めと、栄光が与えられ、すべての労苦はねぎらわれ、豊かな満たしがある。

地上における日々は、見えない主人の到来を待ち望むために与えられた貴重な訓練期間である。
 
* * *
 
最後に、使徒パウロが、コリント人への手紙の中で、教会内で起きた紛争をこの世の法廷に持ち出し、この世の裁判官に裁きを委ねることに反対した背景には、キリスト教とは完全に異質な異教の神々への信仰を土台とするローマ法という特殊事情があることについて書いておきたい。

これを「特殊事情」と呼ぶのは、今日の我々の生きている時代の法と、パウロ存命当時のローマ法とは、その土台となる理念も概念も異なるためである。

当時、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の中でも一定の自治を保っていたようであり、その自治は、宗教的にも、ある程度認められていたものと見られる。それでも、ユダヤ人たちが、もしくは、異邦人も含め、教会内にいる信者たちが、自分たちの間で起きた紛争に対する裁きを、この世の法廷に訴え出れば、その紛争は当然、ローマ法に従って裁かれることになる。しかし、多神教への信仰を理念とするローマ法に従って、どうしてキリスト教会内で起きた紛争を裁けるのか。

しかも、以下で示す、パウロがコリントの信者たちに宛てて書いた忠告では、当時、教会内の信者たちが、およそ信仰とは関係のない日常的な事柄を巡って、争い事を起こし――たとえば、土地や、所有物や、金銭や、日用品や、食べ物などを巡って――多数のトラブルが発生し、そうしたこの世的な些末な争い事を、教会内では仲裁できる者もなく、誰もがこれを放置した挙句、結局、仕方がないから、その争いを世の法廷に持ち出し、そこでおさめてもらおうと、信者たちがこの世の裁判において、紛争を起こそうとししていた様子が分かる。

パウロはそうした争いのみっともなさ、矛盾を指して、そんな争い事を世に持ち出すことは、信徒の名折れであり、教会を辱めるものであり、それ自体が敗北以外の何物でもない、ということを述べたのである。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。

聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。

兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。」(コリント人への手紙一6:1-9)


今日、私たちは異教の神々を信奉する理念のもとに作られた法体系の中を生きているわけではなく、また、筆者は日常的な争い事をおさめるために、兄弟と呼ばれる教会の信者との争い事を、この世の法廷に持ち出しているわけでもないから、以上のくだりと、筆者の提起した訴訟との間には、多くの相違点があることは言うまでもない。
 
さらに、筆者は、この世の裁判所の人々は、私たちと同じ信仰者ではなくとも、同時に、異教の神々を信奉し、その理念に基づいて人々を裁く者でもないから、私たちは彼らを上に立てられた権威として尊重し、服すべきであるとみなしている。もちろん、裁判所のみならず、この世のすべての権威は、同様に敬うべきであると考えている。

とはいえ、以前にも書いたように、パウロはここで、キリスト者一人一人が「世を裁く者」、「天使たちをさえ裁く者」であると告げていることは重要であり、これは、信仰によって、想像を超えた絶大な権威が、私たち一人一人信じる者に与えられていることを意味する。

主の御名は、すべての名に勝る絶大な権威であるから、この方の御名の権威を与えられている私たちキリスト者一人一人も、地上のすべての物事を超越する存在なのである。この世のどんな為政者も、権力者も、私たちの中にあるまことの命を否定することはできないし、これを消滅させることもできない。地上のすべての物事は、一見、権威ある人々の発する命令から始まるように見えても、実際には、私たちが信仰によって抱く望みによって始まり、信仰によって完成させられる。
 
だが、そのように絶大な御名の権威を託されているからと言って、私たちはこれを人々に対して居丈高に振りかざし、他の人々の上に立って、彼らを威圧し、支配するようなことを決してせず、むしろ、主がそうされたように、僕として、己をむなしくして、この世の権威に服する。

パウロが殉教に向かったのは、異教の神々を信奉するローマ帝国内で、正しくない裁きが行われた場合であっても、この世の権威に逆らわず、それに服することで、十字架の死に赴かれたキリストにならうためであったろう。
 
今日の政治情勢下で、私たちが不当な裁きによって殉教を命じられるようなことはまずあり得ないことは幾度も述べたが、それでも、私たちには、日々、耐え忍ぶべき小さな十字架がある。

以下の御言葉は、信者に与えられた忠告ではあると同時に、幾分か、この世の人々との関係においても当てはまるものである。なぜなら、そこには,教会だけでなく、この世においても、私たちの権威や、栄光が、自分で自分を高く掲げることから来るのではなく、互いに自分をむなしくして、僕として仕え合うことから来るという原則が表れているためである。

自分一人だけが、他の人々に先んじて、知識を蓄え、他者を凌駕して、優位に立ったり、他者を圧倒するような力を身に着け、誰かを押しのけ、隅に追いやることで、栄光が得られるわけではない。

何度も言うように、被造物は、それ自体のために造られたのではなく、造った方を喜ばせるために存在しているのであって、その本来的な努めをまっとうするところにこそ、私たちの幸福がある。それにも関わらず、被造物同士が、互いに比べ合い、押しのけ合い、君臨し合い、凌駕し合い、優劣をつけ合うことによって、どんな栄光にもたどり着けるわけではないし、それによって自分の訴えの正しさや、優位性が認められて、他者に勝るリアリティを獲得できるわけでもない。
 
ただ私たちを選び、立てて下さった方からの承認だけが、私たちを生かす力なのであり、そして、その方に評価され、栄光を受けるための道は、十字架を通ることにしかない。ヨルダン川の川底に立ち、人々が安全に川を渡り終えるまで、契約の箱を支えて立つ、その仕事にしかない。

だから、己を低くして、互いに仕え合いなさい、とイエスは弟子たちに幾度も言われたのである。パウロも、信者が何か奥義的な知識を身に着けたとして、それを他の信者に対して吹聴することを戒めている。

そうして仕え合う関係は、信者が教会の人々に対して取るべき態度だけでなく、すべての人々に対して取るべき態度を表している。栄光は、人々に君臨し、圧倒し、支配することから来るのではなく、仕えることから来る。その原則は、いかなる場所においても、変わらない。主の御前で、主にならって、自分を低くする者が、高くされるのである。
   
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)

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2019/08/11 (Sun) 神の国の働き人