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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

プロテスタントの「カルト被害者救出活動」の問題点を示すための一つの寓話

昔、といっても、今から四半世紀ほど前のことだが、日本のプロテスタントのキリスト教界の中に、甲という教会があった。そこの主任牧師である甲は、ある時、カルト化した団体の信者のために、救済活動をしてあげようと思いついた。実は、甲がそのような動機を持ったのには理由があった。

以前、甲自身が、キリスト教界からはカルトと名指しされている、ある宗教団体に入信していた。甲の幼い頃、家庭内には暴力があり、青年時代、甲は荒れて、人生の意味を模索するために、様々な教えを訪ね求めた。そのうちにカルトに勧誘され、短い間であったが、甲はそこに入信していた。
甲はカルトから足を洗った後になっても、ずっと思っていた。前途ある若者がカルトに走らなければならないような日本社会はおかしい。家庭にも社会にも希望が持てず、カルトに惹かれていく若者たちの心の痛みは、甲にとって、自分の体験から想像して、同情に余りあるものだ。だが、カルトにいる限り、若者に幸せは来ないことも分かっている。彼らは福音を知らない限り、解放されることはないのだ。そこで、甲は自分と同じような若者を助けてやりたいと思っていた。

初め、若かった甲は、同じようにカルトからの救出活動をしている牧師の見習いから入った。自分が以前に入信していたような他宗教の「カルト」から若者を救出することが、彼の活動だった。その頃、プロテスタントのキリスト教界では、キリスト教が「過激なカルト」であると断定したいくつもの宗教団体から、信者を救出する活動が、れっきとした公の活動の一部になっていた。教団もそのプロジェクトを推進していた。
そんな時、オウム真理教の起こしたサリン事件が世間の大反響を呼んだ。この事件をきっかけとして、カルトからの救出活動の看板を掲げているキリスト教会には、多くの支持者ができただけでなく、「カルト」に走って疾走した子供の親たちがさらにたくさん駆け込んで来るようになった。
もちろん、子供と言っても、カルト団体に勧誘されるくらいだから、もう立派な青年である。大半が20代の前途ある若者だ。

「うちの子が統一教会に…」「創価学会に…」「エホバの証人に…」「ヤマギシ会に…」「パナウェーブ研究所に…」「オウムに…」「アーレフに…」と、親たちは涙ながらに牧師に泣きついてくる。「どうしたらいいんでしょう? あの子はもう家にも帰って来ないし、どこにいるのかも分からないんです。最後に話した時には、ヤクザのようなすごい目つきで睨まれ、私たちは悪魔の手下だから、たとえ親といえども、これ以上、関わるわけにはいかない、もう縁を切る、探さないでくれと言われました。話しても、我が子のようでなく、わけのわからない言葉を振りかざすばかりで、話が通じないんです。このままではあの子はどこかへ行ってしまって、二度と戻らなくなります。私たちは何とか我が子を取り戻したいんです。お願いですから、協力してもらえませんか?」

そんな風に泣きついてくる両親が、甲のところにも現れた。甲は彼らにまずお説教する。「あのね、子供がカルトに入るのは、まず親に問題があって、家庭に問題があるからなんですよ。何かに対する抵抗という意味合いがなければ、子供はカルトになんか入りません。ですから、まずあなたたち親が、その子を追いつめるような、居心地の悪い家庭を作ってしまったことを反省して、考え方を改め、家庭のあり方を改めないことには、子供を取り戻すことなんてできませんよ。本気で子供を取り戻したいなら、あなたたちがまず反省して、罪を悔い改めなさい。どうです、聖書は人間は皆、罪人と言っています。まずは聖書をしっかり学んで、自分たちがして来たことが何であったのか、振り返ってはどうです…?」

そうして、甲は親の「再教育」に着手する。親にキリスト教の勉強をするように言い渡し、キリスト教の書籍を購入させ、礼拝に来るよう言いつけ、聖書勉強会へ呼び、できるなら、洗礼まで導いていき、クリスチャンになってもらう。その上で、彼らと共に、カルト団体に入って共同生活を送り、社会から姿を消してしまった息子や娘たちへ接触する方法を練る。

「救出」のための説得工作の方法は、大まかに次のようなものだった。
何人かの牧師や伝道師、信徒たちと協力して、甲はカルトに入信した若者を宗教的な共同生活の場から一般社会におびき出す。その際の理由は何でもいい。家族から子供に手紙を書いてもらい、会ってくれるよう頼む。親族でなければ処理できないような重大な相談事がある。どうしても子供がいなければ決められないことなのだ。少しの時間を割いてくれるだけでいい。議論することが目的でないので、宗教の話はしないし、家族以外の人は同席しないから、話し合いに応じて欲しい…。

家族の話し合いの場に、喫茶店を指定する。本当の目的は気取られないように隠して、子供をおびき出す。そして偽の話し合いが終わって、カルトの共同生活に戻るために、喫茶店を出てきた子供を、路上で待ち伏せしていたクリスチャンたちが、羽交い絞めにして捕まえて、用意しておいた車に無理やり押し込む。子供は叫び声を上げ、抵抗する。通行人が不審に思って警察に通報すると厄介なことになるから、できるだけ早く、子供を拉致して、連れ去らねばならない。連れ去る先は、鉄格子が窓にはまった密室のアパートだ。叫んでも隣に声が聞こえず、どこにも逃げ口がないように、部屋は一つで窓の少ないところを用意しておく。それも予め教会が借りておいたアパートだ。

カルト団体から急に密室に連れて来られた子供は、暴れる。暴れる。自分が悪魔の集団に狙われて、真理から引き離す目的で、かっさらわれたのだと本気で信じているので、命懸けの脱走を企てる。隙を見ては逃げ出して、何とか仲間のもとに、真理のもとに、カルトの共同生活に戻ろうとする。
いや、多分、カルト団体にいようといまいと、誰でも、突然、路上で見知らぬ得体の知れない団体に力づくで拉致され、車に押し込まれ、窓に鉄格子のはまったアパートに連れて来られて監禁されたりすれば、力の限り、抵抗しようとするのが当たり前だろうが…。

だからこそ、そこで子供にとって一番身近な存在である両親が登場せねばならない。何のためにこんな手荒な方法を取らざるを得なかったのか、目的は何なのか、両親が説明する。子供を24時間、監視し、カルトから出るよう説得するのは主に両親の役目だ。アパートに交替で泊り込み、一切外出させず、トイレに行くときでさえ監視せねばならない。子供が抗議のために自殺する恐れもあるので、自殺できる道具は全て取り上げねばならない。電話はないし、ラジオもテレビもない。外界との通信や接触は全て制限されて、四六時中監視された、独房のようなアパートで、両親は心を鬼にして、我が子という囚人を監視する看守にならねばならない。

この監視の中に、牧師やクリスチャン・カウンセラーが時折、交替でやって来て、子供の説得に当たる。子供が入信したカルト団体の教義がどんなに間違っているか、その教義がどんなに支離滅裂で、矛盾に満ちた、非人間的で、反社会的なものかを延々と語る。そんなところにいれば、人生が破滅するだけだということを分からせる。子供の反論があれば、ことごとく論破する。
子供の気持ちはすぐに変わらないことは分かっている。だからこそ、時間が勝負だ。毎日、毎日、根気強く説得し続け、いかにカルトの教えが間違っているかを説き、ねじ伏せる。何ヶ月もがそうやって過ぎていく。両親はこの監視生活と説得工作のためにへとへとだ。会社からアパートに直行するサラリーマンの父親も、仕事どころではない。毎日子供のための食事と生活用品を用意して、家とアパートを行き来する母親も、疲れ切っている。皆がへとへとだ。だが、ここであきらめてはならない…。

何ヶ月も時が経って、半年、そして一年が過ぎようとする頃、初めは両親をあれほど猛烈に敵視し、牧師を敵視して、絶対に信念を曲げまいと頑なに抵抗し、脱走のことだけを考えていた子供に変化が現れる。彼は根負けして、自説を折る時が来る。
大体、そんなにまで時間をかけて、しかも大勢で説得されれば、よほど意志強固な人間以外は、自説を曲げざるを得ないのが当然だろう。そんな方法に頼るなら、きっとおよそどんな洗脳でも可能になるに違いない。もしかすると、世界中のあらゆるスパイ組織が、洗脳されたスパイを作り上げるために、同じ方法を駆使しているかも知れない…。
何しろ降伏しなければ、外に出ることもできないのだ。自説を放棄して、用意された「踏み絵」を踏まねば、自由に知り合いに電話したり、好きな本を読むことさえもできないのだ。要するに、「転向」しないことには、一般市民としてのまともな生活がないのだ。どのくらいの人々が、そのような監禁状態の中で、信念を守り続けることができるだろう…?

だが、子供が単に回心したふりをしているだけの場合もあるから、彼の降伏が偽装でないのかどうか、周囲はよく注意せねばならない。子供が正真正銘、心からカルトの教義を棄てた、それは偽装ではなく、心からの回心であって、もはや彼には両親のもとから逃亡する恐れはなく、カルトに戻る恐れもない、そう判断した時に初めて、甲は密室の監禁を解いてやり、子供をアパートから青空の下へ連れ出す。
ああ、子供にとっては、何ヶ月ぶりの青空だろうか。彼はまるで病み上がりの病人のように、呆けたような表情で、空を、街を、行き交う人々を見つめている。甲はすかさず彼をキリスト教会に連れて行き、そこで礼拝に出席させる。子供にとっては何もかもが新しい。白紙に戻された子供の頭に、そこにまだ何も埋め込まれないうちに、彼の思考が柔軟で、甲に対して彼が心を開いているうちに、甲は彼の心と頭にキリスト教の教義を教え込んでいく、今度こそ、絶対に、変わることがないように、どんな悪質な団体によってもその真理が奪われることのないように…。

これは間違った行動ではない、と甲は思っている。キリスト教は世界で唯一正しい宗教であり、この世の真理なのだ。カルトで人生を奪われるしかなかった子供の人生を、まだ将来があるうちに救い出し、彼を通常の社会生活に戻してやり、両親との愛を育めるように家庭に戻してやり、誤った教義を棄てさせて、正しい真理を教え込んでいくことは、正しい行いであり、神の目にかなう活動であるはずだ、従って、自分たちが非難される筋合いは全くないはずだ…。

親は子供が家庭に戻って来たので、涙ながらに牧師に感謝する。説得工作中も、ことあるごとに「お車代」などと称して、牧師に金を献上する。彼らにとって、牧師やカウンセラーは命綱なのだ。手術前の患者が、藁にもすがるような気持ちで、医者につけ届けを渡すように、彼らは牧師に熱心に金を捧げる。
「いや、謝礼なんて、要りませんよ。これは正義のための、神様のための働きであって、私の生活のための仕事ではありませんからね…。私たちはこれをボランティアでやっているんです、教会員にもそのように説明して理解を得ています。ですから、お金なんで要らないんですよ」

初めは、そう言って断わっていた牧師の方でも、二度、三度、四度、五度と親から金を渡されているうちに、だんだん、受け取らざるを得ない心境になる。子供がカルトの教義を放棄した時、歓喜の涙にくれている親が、何とかして牧師に礼を受け取らせようとするのは、人として当然の心理だ。金が駄目でも、物なら良いだろうと思った親たちは、タクシー券を持って来たり、高価な果物や、デパートの商品券、ブランドものの時計や衣服などの形で、「感謝の気持ち」を表そうとする。子を思う彼らの親心を誰が押しとどめることができよう。

両親たちはまた、教会に来ては、礼拝中に莫大な献金を捧げる。礼拝中に捧げられた献金は教会のものだが、それ以外の献金は、全て手ずから牧師へ渡っているため、世間の誰もその存在を知らない。時には、礼拝中の献金でも、「牧師一家の必要のために」と封筒に書かれて捧げられることもある。
そうだ、甲牧師は心のうちに思う、私たちだってそれなりに努力したのだから、少しくらいは礼を受け取ることはできるはずだ。必要経費だって、それなりにかかっているのだから。ボランティアだからといって、経費代も交通費も受け取ってはならないという法はないだろう…。

こうして、莫大な金額が、子供の知らぬ間に、親から牧師へと渡って行った。そのことは牧師と親以外に、地上の誰も知らない。教会も知らない。なぜなら、甲たちが講壇から語る説明しか聞いていない信徒は、馬鹿正直にも、「カルト被害者救出活動はボランティアです」という甲の言い分を額面どおりに信じているからだ。
本当は、世の中には、差し引きゼロのボランティアなどというものは何一つ存在し得ないということを、彼らは知らないのだ。ボランティアと銘打つ活動にだって、必要経費は生じる。もしその経費代がどこからかまかなわれなければ、ボランティアも赤字に陥り、続かなくなる。なぜボランティアが続いているのか、それは裏を返せば、ボランティアに金が支払われているからに他ならない。
この世には本当は、「無償のボランティア」などどこにも存在しないのだ。だが、そんな細かいことは世間は知らなくてよろしい…。

甲牧師は他の牧師たちの下で、このようにして、プロテスタントのキリスト教界による「カルト被害者救出活動」に関わってきた。だが、この活動には深刻な問題点があることが分かった。「救出」のやり方が荒っぽすぎるのだ。路上での拉致、アパートへの何ヶ月にも渡る監禁、それは暴力行為とみなされておかしくなかった。この説得工作がきっかけで正気を取り戻せた信者もいるにはいたが、そうでない信者もいて、後者の場合、弊害が大きすぎた。
一つの密室のアパートを拠点にして、そこに何人もの信者を入れ替わり連れて来ては、まるで使いまわしの代用監獄のように、そこで説得工作を行うというやり方にも、問題があった。身体の自由、思想と良心の自由を力づくで奪われ、自尊心を傷つけられ、暴力で押さえ込まれて、拉致監禁された信徒には、その恐怖が消えないトラウマとなって、自分をそのように扱った両親と牧師、カウンセラーを生涯、許すことができなくなった者もいた。牧師と両親の荒っぽい仕打ちのために、人間不信となり、一生、家族との和解が不可能となっただけでなく、果ては、こうした「救出活動」が基本的人権を脅かす憲法違反の重大犯罪であるとして、両親と牧師を訴える裁判を起こす信者も現れた…。

さらに、それに追い討ちをかけるように、強奪に近い形で信者を奪われた「カルト団体」の方でも、威信を傷つけられて、黙ってはいなかった。「カルト団体」の側から、キリスト教界による強硬な信者奪回に対して抗議がなされ、やっぱり、裁判が起こされた。キリスト教界はこうして、カルト団体と、元信者の両方からの訴えにより、板ばさみ状態に追い込まれた。

他宗教という「カルト」からの信者奪回という「救出活動」が行き詰まりに達しているのは火を見るより明らかだった。甲牧師は運よくまだ誰からも訴えられていなかったし、訴えられた他の牧師が窮地に陥っているのを見て、自分だけはもっと上手く立ち回らねばと思った。そこでほどほどのところで、甲はこの荒っぽい「救出活動」から手を引いた。その時、それに代わって、甲の視界に入ったのが、他宗教の「カルト」ではなく、キリスト教の中の「カルト」を扱うという選択肢だった。

気がつけば、他宗教の「カルト」を目の敵にして闘っているうちに、どういうわけか、キリスト教界の中でも、カルトとしか言いようのない教会が現れるようになっていた。弟子訓練、セルチャーチ、聖霊によるリバイバル、カウンセリング…、キリスト教界が取り入れたアメリカ発の最新のプログラムが、全国の教会に導入され、浸透していくや否や、どういうわけか、それらの「良薬」のために、必ずといっていいほど、何らかの「ひきつけ」を起こして、機能不全に陥る教会が現れるのだ。
「弟子訓練のためと言われ、うちの教会では、こんなにもひどい圧迫的な奉仕が要求されています」、「セルチャーチでは、セルリーダーによってあらいざらい罪を告白するよう強要されるので、プライバシーが保てません」、「カウンセリングと称して牧師から性生活を報告するよう求められ、性的虐待を受けました」、「リバイバルのための聖会で、『あなたは悪霊にとりつかれている』と名指しで非難され、何人もの信者に寄ってたかって、悪霊追い出しの祈りをされ、ひどい目に遭いました…」

そんな相談が続々と甲に寄せられるようになった。甲はこれらの事例を教団につぶさに報告した。だが、教団はなかなか問題を認めず、対策に着手しようともしない。次々と導入したアメリカ発の新しいプログラムが日本の教会でどのような効果を生んだのか、何の反省もせずにおいて、むしろ問題を提起した信徒たちの方を、胡散臭い目で見て、彼らが教会に居られなくなるよう追い込んでいる牧師もいた。甲牧師は、このような状態を見た時、自分が活動すべき場所はここだと感じた。

諸教会から、落伍者のごとく冷たく見放され、自教会を追い出されるか、あるいは失ってしまっている信者たちを、自分の教会に導いて、信仰を養ってあげねばならない、甲はそう思った。
そこで甲は、カルト化教会の元信者たちを呼び集めて、「正しい聖書教育」を開始した。説得の方法は、以前の救出活動で十分に学んで来た。元カルト信者の「間違った」聖書の読み方を指摘し、根気強く、彼らの思考の論理的矛盾に気づかせてやり、反論を論破するのだ。
さらに、失意のうちにある彼らにカウンセリングもしてやり、悲しみと痛みに満ちた記憶から立ち直らせねばならない。甲は、カウンセラーの資格も取り、キリスト教の元カルトに騙されていた信者を、正統なキリスト教徒に立ち返らせるための、「奪回救出カウンセラー」として、キリスト教界内で知られるようになった。

他宗教から信者を奪回することに比べ、キリスト教内のカルトの方がはるかに扱いやすいことに甲牧師は気づいた。カルトと名指しされた教会の牧師から恨みを買うのは避けられないが、それは他宗教の権力を敵に回すほどの大変な闘いにはならない。キリスト教界全体は甲の働きにおおむね同情的だ。従って、孤立無援の闘いを強いられているのは、甲ではなく、カルト化教会の牧師の方なのだ。

さらに、カルト化教会の信者たちは聖書の「正しい読み方」は知らなくても、聖書自体はよく知っており、勉強熱心だ。概して、カルト化教会に長くいたような信徒は、信仰に関して、通常のクリスチャンの何倍も熱心なものだ。何しろ、以前にいた教会で尋常でない量の奉仕を任されてきたのだから、真面目に働くことをよく知っている。
そこで、カルトから「こちらの世界」に戻って来ても、やっぱり、彼らは人一倍、熱心なままだ。聖書を熱心に勉強するし、自分から勉強会にも出て来るし、奉仕もたくさん引き受けて、次々に色んなことを学んで成長して行こうとする。それに、カルト化教会が目をつけただけあって、何と言っても、年齢がまだ若い。本当に有望な若者たちなのだ。間違った教えから脱しさえすれば、これほど信仰熱心で模範的なクリスチャンは他にいまい。

甲牧師が助け出した信者の中には、人生のやり直しが十分に利く20代前半の青年Aもいる。彼は甲牧師の再教育を受けた後、神学校に通って牧師になりたいと言って献身した。青年Bは、自分が助けられたように、他のカルト信者たちを救出するために働けるようになりたいと願っている。救出カウンセラーを目指すCも現れた。これらの青年たちの誰もが、甲牧師が自分の人生を救ってくれたことに心から感謝の意を示している。
「私はあのままカルトにいたら、どうなっていたか、分かりません。きっと人生が破滅していたでしょう。この教会が、甲先生が、早いうちに私を助けてくれて、真理を教えてくれて、本当に良かったと思っています…」

けれども、その一方で、彼らはカルトから甲教会に救出されたばかりの頃、甲牧師の説得から受けたひどい印象については、一様に黙っている。甲牧師があの時、まだカルトに「洗脳」されていた彼らに対して、どれだけ高飛車に、彼らの「間違った信仰」を指摘し、「間違った教義理解」を看破し、彼らの意見を打ち破って、「真理」を主張し、彼らの論理的矛盾を次々と赤裸々に明るみに出したことだろう。

「ほうらね、分かったでしょ? きみはこれまで少しも聖書をちゃんと読めていなかったんだよ。どんなに熱心に勉強してきたつもりでも、きみが今まで教えられたことは全部、間違った荒唐無稽な教えだったんだ。ね、だからこそ、ちゃんと聖書を学びなおす必要があるって、今こそ分かったでしょ? もう一度、この教会で、一から、先入観を取り払って、聖書を読むことを、きみは学ばなくっちゃいけないよ。信仰において、今までのキャリアを棄てて、一から出直し、再出発することが必要なんだよ。ちょうどいい、この教会できみに聖書の読み方を教えてあげられる人がいるから、勉強会に出なさい。もっと学びたかったら、私が知っている聖書通信講座KTKを紹介するから、そこに申込書を送りなさい…」

元信者は、自分たちが愚かな嘘を信じ込まされていたことを、甲牧師からあからさまに指摘されて、それを認めざるを得ないと思う。だが、その時、どんなに恥ずかしい思いをさせられただろう。今までの自分たちの熱心さが、人生をかけてやって来たことが、何にも役に立たない、愚かで間違った活動であったことに気づかされ、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、全身の力が抜け堕ちるような絶望的な思いを味わわされた。

だが、若者らしい反骨精神が彼らを絶望から奮い立たせる。このままで終わってなるものか、このまま間違った教義を教え込まれた間違ったカルト信者という屈辱の中だけで、人生を終えてよいものかと、彼らは奮起する。もう一度人生をやり直したいとの強い願いから、甲牧師に言われたとおり、「聖書を学び直し」、甲牧師の教会の勉強会に熱心に参加し、「信仰の再出発」への一歩を踏み出す。そして優秀な献身者になり、神学生やカウンセラーの卵になって、ようやくほっとする。
初めは「カルト出身の信者」という色眼鏡でしか彼らを見ようとしなかった甲教会の信徒たちも、若者たちがそこまで優秀に「立ち直った」のを見て、優しい応援の態度に変わっている。だが、元信者たちは時々、苦々しい気持ちで思い出す、自分たちの「誤り」があれほど徹底的に暴露されたときの、あの恥ずかしい気持ち、プライドを傷つけられたという感じ、憤り、屈辱…。そして、彼らは思う、誤った教えに足を踏み入れて、反社会的な活動をしていた自分たちに非があったことは確かだが、自分たちが真理から逸れていたことは確かだが、それにしても、元カルト信者の「誤り」を指摘し、元カルト信者を「正しい教え」によってねじ伏せていく時の、甲牧師の目に浮かんでいた、あの満足そうな笑みは、目の端にきらりと光る輝きは、何だったのだろうか…。

こうして、キリスト教の元カルト信者たちの「再教育」に成功した甲教会は、積極的な奉仕者を何人も手に入れることができた。元カルト信者から多数の献身者や神学生が出たので、甲牧師は誇らしげに、教団にそれを報告することができた。だんだん、教団内での甲の立場は変わってきた。初めは、同業者を敵視するかのような甲の活動を、冷ややかな目で眺めていた牧師たちも、態度が変わって、甲の活動を丁重に扱うようになった。甲牧師は気づいた。教界は全く注意を払わなかったが、元カルト信者は、実は、大変有益な働き手に変身する可能性を秘めた、宝石の原石のようなものだったのだ、そうだ、私は金の卵を拾っていたのだ…。

さらに、甲牧師は、カルト化して崩壊した教会の跡地を訪れた。そこにあった乙教会は、セルを導入したが、あまりにも過激な活動があだとなって、支持基盤を失って、崩壊寸前の状態になっていた。信徒の群れは離散し、セルは空中分解し、牧師は逃亡して、いなくなっていた。飼う者のいなくなった乙教会の哀れな羊の群れに、甲は心を痛めた。

自分たちの教会がカルトに走って滅亡したことを深く悔やみながら、行き場もなく途方に暮れている乙教会の群れに同情した甲牧師は、自分が彼らの牧者になってやることを考えついた。甲牧師の提案を聞いて、取り残された羊たちは、主を失った心細さも手伝って、大喜びした。
こうして、甲の教会に、乙教会が合体し、甲教会の乙支部というものが出来た。乙教会は甲の教会から随分、遠いところにあったので、乙教会の信徒が甲教会に通うことはできず、そこで彼らは甲教会の地方支部となることに同意したのだ。
だが、教団内には甲教会の他に、支部を持っているような教会はなかったから、他の牧師の中には、なぜ甲は乙教会を新しい教会として教団に登録せずに、乙教会の独立性を失わせてまで、甲教会に併合し、支部化しなければならないのかという批判の声が上がった。
だが、甲牧師はそれを無視した。自分が奪回した信者たちを自分の教会に登録して何が悪い? それは信徒たち自身が望んだことなのだから、誰も文句を言う筋合いにあるまい。それに、今までカルト化教会の信徒を黙って見捨ててきた牧師たちが、今更、文句を言うのはおかしいじゃないか・・・。

甲が見渡すと、北海道、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、鳥取、九州、沖縄…、全国の都道府県に、カルト化して崩壊したか、もしくは崩壊途上にあるキリスト教会は数限りなくあった。甲牧師はできるだけたくさんの教会を訪れて、元信者から話を聞いて、失意にある彼らを慰めてやり、取り残された信者たちを、次々、自分の教会に招いて、転会に導いてやった。

こうして、甲教会には多数の支部が出来た。東京支部、大阪支部、山口支部、熊本支部、沖縄支部…。
人も随分増えた。世の中のノンクリスチャンたちにただ普通に伝道しているよりも、「カルト化教会信者救出活動」をしていた方が、随分早く、信徒数が増加することが分かった。初めからそれを予期して始めた活動ではなかったものの、「救出活動」は、甲教会に思いがけない「教会成長」をもたらしてくれたのだ。

さらに、ある思いがけない事件によって、甲は世間の脚光を浴びることになった。丙という教会で起こった出来事は、キリスト教界だけでなく、世間全体を震撼させた。丙教会の丙牧師は、何十人という幼い少女たちに次々と性的暴行を行い、献金1億円以上を教会から横領し、自らをキリストの再来と名乗り、自分を信じねばクリスチャンは皆地獄へ堕ちるという、どうしようもない異端的教義を振りかざし、それによって信徒に恐怖を抱かせて、自分の教会に奉仕させ、虐待に応じさせていたことが明らかとなった。この丙教会の堕落ぶりが大々的にメディアに取り上げられ、世論によってバッシングされたため、それに伴い、甲牧師の活動も一躍、脚光を浴びたのだ。

丙教会の腐敗ぶりがメディアに報道された時、甲牧師は真っ先に、そこの信徒を助けようと名乗り出て、現地に赴いた。それは他の牧師にこの仕事を取られないためでもあった。甲の「救出活動」を初めは非難していたような牧師の中にも、それに効果があることが分かると、甲の真似をしようとする者が現れていた。甲はそのような同業者たちの右へ倣え式の態度が嫌だった。彼には、「カルト被害者救出活動」の第一人者は自分だという自負があった。世間を揺るがせるような大規模事件を扱えるのは、今までこの活動にずっと従事して来た自分の他にはいない。経験も浅い他の新人にこの「シマ」を奪われてなるものか…。

甲牧師は、丙教会の事件の被害者にカウンセリングを行うのは自分だと、同業者の誰よりも早く宣言した。待ち構えていたテレビのニュース記者のフラッシュが、甲を迎えた。甲の発言はニュースに取り上げられた。「被害を受けた少女たちの救済に取り組むことを、いちはやく、甲牧師が宣言しています…」

それがきっかけとなり、甲牧師の活動は、キリスト教界の枠組みを越えて、全国的にあまねく知られるようになった。「あんなひどい教会があるなんて、許せません。私はクリスチャンではありませんが、可哀想な少女を救うために、ぜひこれからも頑張って欲しいので、献金を送ります」
そんな激励の手紙が、クリスチャン以外の人からも、続々、甲に寄せられるようになった。

こうして甲の「救済活動」は全国的に有名となった。甲が後押しして、カルト化教会の被害者による大々的裁判が各地で繰り広げられるようになり、それが各新聞雑誌に取り上げられることで、さらに甲の知名度は増して行った。裁判がある度に、甲は「被害者代表」として現地へ飛び、判決後の記者会見に姿を見せて、記者の前でコメントを述べる。
甲は被害者ではないし、原告の一人でもない。弁護人でもない。何ゆえ、甲は裁判に関わっているのだろう。甲の立場とは一体、何なのだろうか。だが、そんな細かいことにこだわる人はほとんどいない。甲はいまや公に認められた「救出カウンセラー」であり、甲の「救出活動」は、現実にはかりしれない名声を彼にもたらし、甲の教会の大いなる成長の原動力になって来たのだ。

「カルト被害者救出活動」、それはもはや甲にとって、決して手放すことの出来ないライフワークとなっている。

今、人生の円熟期を迎えている甲には新たな野心的プロジェクトがある。それは、甲教会を中心として、周辺地域に「クリスチャン・コミュニティ・ヴィレッジ」を築くことである。クリスチャンの学生が安心して住める学生寮、ミッション系の大学や専門学校、キリスト教主義の病院など、様々な施設を誘致し、要するにキリスト教的な一大都市を建設することが彼の次なる夢なのだ。

甲の教会は巨大化して、教団の中で一大勢力を誇っている。もはや教団を食い破ってしまいかねないほどの成長力だ。教団の中ではもう正面切って、甲に反対する者は誰もいない。甲ほど有名になった牧師も他にいない。それに、甲がカルト化教会をたくさん取り潰してきたため、甲ににらまれることを恐れて、何も言えなくなっている牧師たちが、同業者の中にかなりいる。

全く、弱々しい教団だ…、と甲は思う。きみたち牧師は知らないだろうけど、この教団にも、随分、危ない教会がたくさんあるんだよ。「うちの教会はカルトです」と、私に内密に泣きついて来るような信徒が、この教団内にも大勢いるんだよ。まあ、牧師たちにとっては、そういうことは、知らぬが仏というものだろうけどね。
全く、我が身をかえりみて、反省する能力のない牧師の行く末は、まことに惨めなものだということに、いい加減、気づけばいいのに…。信徒の高齢化が進んで、ただでさえ牧会活動が行き詰まりを見せているというのに、この教団には、ろくな方向転換さえできないどころか、未だ自分のちっぽけな牙城にしがみついているだけの、先の見通しが全くない牧師ばかりがごろごろしているんだ。
やれやれ、これでは全く、先が思いやられる、と甲は思う、だからこそ、私のような先見の明のある者が、教団全体をしっかり導いてやらねばいけないのだ…。

<つづく>

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