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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

3.ニッポンキリスト教界のカルト化の最たる原因は、教会内の階級制度にある。

「教会のカルト化」という現象が世間をこれほど騒がせているにも関わらず、様々な教団教派の上層部がこの問題をほとんど放置し、取っている対策があまりにもお粗末である理由は、一体、どこにあるのだろうか。
 
かつて、教会のカルト化監視のために共同機関を設立しなければならないという訴えが、キリスト教界の中から提示されたことがあった。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が行っているいわゆる「カルト被害者救済活動」である。

あたかも、教会のカルト化を食い止めるために、必要な活動だといわんばかりの勢いで、当時は、次々と教会の不祥事を暴いては、自分たちの活動の正当性をアピールしていた。(たとえば、ブログ吉祥寺の森から 記事「ORCの儀間盛夫と関わった人たち」参照)。

そして、村上密氏は、プロテスタント全体のカルト化現象を食い止めるために、カルト監視機構が必要だという説を、述べていたのである。(村上密Blog 記事「カルト化予防対策」参照)

しかしながら、当記事を書き始めてから、しばらく後に、筆者は、カルト化教会も問題であるが、カルト対策を銘打って、教会に裁判を挑み、悪徳牧師や信徒を次々と法廷闘争に引きずり込み、なおかつ、プロテスタントの諸教会を一元化するために、カルト監視機構を提唱しているカルト被害者救済活動も重大極まりない恐ろしい運動であるという事実に気づいた。

そこで、筆者は、村上密氏及び杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動及びカルト監視機構の重大な危険性をブログで訴えることになったが、筆者がこの活動を批判してから、村上・杉本両氏は、長年に渡り、筆者に手先を使っては批判や嫌がらせを加えるに至り、そのことを通して、このように正義の味方の仮面を被っている人々の自惚れ、残酷さ、凶悪さ、嘘が余すところなく明らかになった。詳細は以下の記事にも記しているので参照されたい。

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展 
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~

罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか

――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

現時点での筆者の確信として言えることは、カルト化問題の解決は、信徒が聖書に立ち戻ることにしかない、ということである。聖書に立ち返ることなしに、キリスト教界の危機をしきりに世間に訴えては、この世の力を借りて、クリスチャンを裁判等に引きずり出して懲罰を加えることによって、キリスト教界の是正を目指している上記の運動を通して、神の家である教会の腐敗を取り締まるのは無理である。

何よりも、それは人間の利益の観点から繰り広げられる活動であって、神を満足させることを初めから目標としておらず、また、御言葉に立脚していない以上、それは聖書にかなう、真に神を満足させる教会の秩序を打ち立てる方法とは決してならない。

ましてこの世の裁判等を使って、信者が信者に制裁を加えるという活動では、教会内により深刻な混乱をもたらすだけであり、そのように教会内のスキャンダルを次々と暴き出すことによって、キリスト教そのもののイメージダウンをはかり、教界を弱体化させ、さらには、その弱体化に乗じて、カルト監視機構というプロテスタントを一元化する暴力装置の設立を狙っているような、村上密氏率いるカルト被害者救済活動の動向には、極めて重大な危惧を感じざるを得ず、改めて、この運動には深刻な懸念を覚えるのみである。
 
しかしながら、では、信徒に対する支配と搾取の構図から抜け出せないキリスト教界に対して、信徒はどう行動すべきであるのか、という問いに対する答えは、やはり、そこからエクソダスした上で、主の御前に真に聖書に立脚した信仰生活を模索することであろうと思う。

なぜなら、教会で発生している支配と搾取とは、結局、キリスト教界における牧師制度に全ての原因があるためである。

牧師制度は、信徒間に差別と支配の階級を作っている点で、根本的に聖書に反している。以下、当記事に寄せられたコメントに対しても反論を補足しているので、それを参照されたいが、聖書は決して教職者がいつまでも信徒の献金によって生計を維持すべき固定化された階級になるべきとは教えていない。さらに、聖書には神学校とか牧師といった職業そのものが存在しない。

神学校の卒業証書を得て、より先輩の牧師から按手礼を受けたからと言って、その人がキリストの証人として立てるわけではない。キリストの御霊から生まれていない者、神によって遣わされていない者が、どんなに人から承認を受けて送り出されても、キリストの福音を宣べ伝えることはできず、みことばの奉仕者となるわけでもない。にも関わらず、神学校という牧師養成所を作り、そこで牧師という職業に就く人々を大量生産するというやり方は、聖書に何ら合致しておらず、そのようにして「みことばの奉仕者」を名乗るようになった人間が、本当に神から遣わされた人間であるかどうかは定かではないのである。

従って、神から遣わされた者を支えるために献金を払うというならばまだしも、単に人の承認を得たにすぎず、人の作り上げた組織の中で、勝手に「みことばの奉仕者」を名乗っているだけの人間、しかも、世の中の人々のように汗水流して労働することを厭い、職業訓練もさして受けておらず、人生経験にも乏しいにも関わらず、自分は「神に選ばれた者」であるという自負に基づき、高みに立って人に真理を教えたいという名誉欲から牧師になったような人間を、信徒が自らの生計を犠牲にしてまで支えなければならない理由はなく、またそのようなことが聖書が教えている信仰生活のあり方でもないのである。
  
村上氏及び杉本氏らのような上記の活動者の最たる自己矛盾は、彼らが決して信徒間に不当な差別を敷くキリスト教界を離れようとせず、その制度の中に身を置いたまま、彼らがキリスト教界の腐敗を訴えることにある。これは自分で自分を滅ぼし、自分で自分の基盤を破壊するのと同じ行動である。
 
なぜそのようなことが起きるかと言えば、彼らの繰り広げるカルト被害者救済活動が最初からマッチポンプ型のビジネスだからである。キリスト教界は他方では、その支配と搾取の制度によって必然的に多数の犠牲者を生み出さざるを得ない。ところが、もう一方ではこれを「是正してあげる」という名目で、救済者を装って取締運動を掲げているのである。
 
そのように自分の業界内で起きた腐敗を糧として、ビジネスチャンスに変える人々に正義を見いだせるはずもなく、腐敗を発生させる側も、それを取り締まる側も、源は一つなのである。このような腐敗の循環の中を堂々巡りしている限り、どれほど正義を掲げて、キリスト教界の問題を告発・糾弾する人々が現れたとしても、その人々によって解決が打ち立てられることは決してないであろう。

聖書の原則は、「汚れたものとは分離せよ」というものである。間違っていると分かっているものに関わり続けて得られるメリットなどどこにもない。まして業界全体を告発しながら、そこに身を置き続けて利益を得ている人々に正義はない。カルトからもアンチカルトにも真実はないと悟り、きっぱりと離れ去る覚悟が必要である。

カルト化教会の問題は、主として、信徒による内部告発の形で世間に露呈している。しかし、こうした教会で「被害を受けた」とする人々を組織して、教会に対する挑戦を挑んでいるカルト被害者救済活動の側も、村上密氏のように、自分自身が牧師である以上、彼らが本気でキリスト教界の差別的制度の問題性にまで切り込んで、教界の改革を目指すはずがないことは火を見るよりも明らかである。

どちらかと言えば、カルト被害者救済活動は、キリスト教界の牧師制度そのものが誤っていることから人々の目をそらすための火消し役だと考えた方が良い。

 今日、ニッポンキリスト教界の多くの牧師たちには、牧師館舎に住み、教会からの献金に依存して生活しているという共通点がある。そのような彼らにとっては、自分の教会を失うことは、即、家を失い、生計を立てる手段を失うことを意味する。たとえどんなに教会を成長させることができたとしても、しょせん、教会は牧師の所有物ではない。そのため、ほとんどの牧師は、たとえ多くの信徒から尊敬され、権勢を誇っていたとしても、教会を追われる恐怖を完全に拭い去ることはできない。

教団に勤務するか、教育機関などで教鞭を執るか、あるいはテレビのパーソナリティになる、国会議員になる、または文筆業で生計を立てるなどして、何らかの副業を持っていない限り、牧師は自分の教会を失えばただの失業者である。

正真正銘、神により頼み、教会からの収益に頼らず生活を維持している牧師も、日本に一部はいるであろうが、そのような良心的な聖職者を除き、教会から吸い上げる献金によって生計を維持している大多数の牧師たちは、信徒によるクーデタや、内部告発を恐れないはずがなく、何とかしてそのような、自分の地位と生活を脅かすような告発や追求は未然に防ぎたいと思って当然である。

日本におけるプロテスタントのキリスト教界は、概して、下からのフィードバックを赦さないトップ・ダウン式の構造となっている。このような風通しの悪い業界に、権威者として長くとどまっていると、どうしても性格が独裁者的になり、我が身を客観的に振り返る能力が失われていくことは避けられない。

牧師「センセイ」方の中には、保身だけしか念頭になく、自分を奉ってくれるイエス・マンの取り巻き信徒だけを無意識に求め、可愛がり、反対意見は容赦なく駆逐し、反対者は教会から追放することによって、教会を私物化し、自らを客観的に振り返って反省し、他人と協調しながら生きていく能力を全く失ってしまっているような人間があまりにも多すぎる。

牧師や牧師夫人の異常な性格については、以前から幾人もの人々に指摘されてきた。(例えば、Dr.Luke氏の分析を参照。「今日、<教職と信徒>という構図が一般的であり、ニッポンキリスト教には信徒が自分のことを「牧師先生」と呼ばないと怒り出す御仁もいるようです」。)

だが、そのようなことは、たまたま特定の人々が人格を病んだがゆえの結果ではなく、そもそも、牧師という職業自体が、人の立ってはならない地位だから起きることなのである。

神と人との間には、キリスト・イエス以外の仲保者はないということは、聖書の根幹である。それにも関わらず、神と人との間に牧師という職業を置いて、人間の仲介者、取次役を立て、その人間が神の栄光を盗み、信徒の心を支配するところに、人間の側からの神に対する悪質な反逆があるのだと言える。

そのようにして神から救済者としての役割を奪い、栄光を盗むことの必然的な結果として、牧師という職業に就いた人間が心を狂わされて行くのである。

このことは、カルト被害者救済活動の支持者とて同じである。彼らも牧師である以上、本気で牧師という階級を訴えることができるはずがないのは明白である。

さらに、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の提唱する「教会成長論」が、カルト被害者救済活動の母体となっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のペンテコステ運動と密接な関係があることに注意が必要である。

「教会成長論」においては、神と人との間に牧師という仲介者を立てることを正当化するために、聖霊を「母なる霊」としてとらえ、「父・母・子」の異端的三位一体論が提唱され、これにならって信徒も霊の家族関係を築くべきだとされる。

むろん、聖書にはそのような三位一体論は存在しない。だが、このような異端的な三位一体論を基礎として、「教会成長論」は、牧師夫妻を信徒が「霊の父母」として崇め、それに子として従うことを奨励するのである。これれがどれほど反聖書的で危険な教えであるかは、以下の一連の記事で示している。

・教会をカルト化させ、牧師への個人崇拝を生む教会成長論

教会成長論というむさぼりの教え

偽牧師、偽教師、偽預言者からは離れ去りなさい

教会成長論が生む牧師への個人崇拝

教会成長論という強盗の教え(1)

教会成長論という強盗の教え(2)


・手束正昭氏の養子論的キリスト論の誤り

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(3)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(4)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)


・宗教指導者を「霊の父母」とし、信者が「子」としてそれに従う家族モデルを全人類に普及させることで地上天国を目指すというのは、あらゆる異端に共通する基礎である。

統一教会と教会成長論の類似性、宗教指導者を霊の父母として地上天国を目指す異端思想の家族モデル

カリスマ運動における「父・母・子」の三位一体論のグノーシス主義的起源

父を持たない母子家庭と私生児の教え、原初回帰により世界の一元化を目指す危険な運動


カリスマ運動と国家神道の類似性、宗教指導者を霊の父母として地上天国を目指す異端思想の家族モデル

 
キリスト教界は、こうした異端的な「父・母・子」の三位一体論に基づき、牧師制度を導入し、信徒が直接、神に従うのではなく、牧師夫妻に聞き従って、その「子」となって霊の家を築き上げるという家族モデルを提唱している。

だが、
牧師は羊(信徒)を牧し、豊かな草原に導くという建前とは裏腹に、実際は、羊を支配し、羊を搾取することによって、自分の階級を成り立たせている集団である。

そのような集団を正当化する根拠は聖書にはない。この歪んだ家族モデルは、統一教会、国家神道と全く同型のものであり、その起源はグノーシス主義にさかのぼる。

聖書によれば、真の牧者は主イエス以外にはいないのである。

だとすれば、キリスト以外に「牧者」を名乗っている人間は、みな偽り者なのだという結論しか出て来るものはない。

たとえ牧師という名称を用いずとも、メッセンジャーとなって信徒らに君臨して立つというだけで、すでに立ってはならない地位に立つことを意味し、兄弟姉妹の関係を壊しているのである。そのことは、Dr.LukeのKFCで立証されるに至ったのである。Dr.Lukeはキリスト教界の牧師制度を悪しきものとして告発していたが、結局、自らがメッセンジャーとしての栄光を受ける誘惑を手放すことができなかったために、ペンテコステ運動(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)と霊的に内通し、団体が乗っ取られるという事件が起きたのである。
 
カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~
 
クリスチャンの方々よ、どうか目を覚まして、よく考えて欲しい。
 
キリスト教界のカルト化の原因は、牧師と信徒との階級制度にこそある。
これを廃さない限り、この教界には希望がなく、この事実を見ずして、他教会の腐敗だけを訴えている運動はみな偽りであり、目くらましに過ぎない。

カルト化問題を提唱する側も、牧師である以上、カルト被害者救済活動には見込みがなく、これらはマッチポンプの活動でしかない。

結論として言えることは、カルト化問題から逃れるためには、聖書に立ち返り、これらの偽りの搾取と支配の制度から脱し、人間の指導者に栄光を帰する生き方と訣別することにしかないのである。
  

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みことばの奉仕者

使徒の働き
6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

第一コリントで使徒パウロは、こう言っています。
9:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。
9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。

使徒たちは、「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」と言っています。
また主は、「福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」

祈りとみことばの奉仕に専念するため、福音を宣べ伝える者が、生活の支えを得るのは、聖書が教えていることです。
カヴェナンターさん / 2008/12/27(Sat) / 編集
Re:みことばの奉仕者
後日付記及び訂正。
以前、この人にかなり丁寧な反論のコメントを返信し、質問を投げかけましたが、この投稿者からは一方的な言いっぱなしで一切返答がなかったので、マナー違反の投稿として、上記のコメント者のIPアドレスをここに公表しておきます。
softbank218132193073.bbtec.net

ここから、この投稿者が誰であるかを突き止めるのは他の人々にも容易になるでしょう。なぜ上記のようなコメントをこのブログに投稿したのかも、それによって明らかになるでしょう。カヴェナンターとはカルヴァン派に属する改革長老派教会の始まりとして知られていますが、同時に、上記のコメントは、手束正昭氏の「教会成長の勘所」の牧師夫人論の内容に全く合致するものです。この「教会成長の勘所」とは、「父・母・子」という異端的な三位一体のモデルにならって、牧師夫妻を「霊の父母」として信者が「子」として連なることによって教会が成長し、地上天国(リバイバル)が成就するという異端の教えです。

「みことばの奉仕者」という題名からも、この人の「自分は他の信者とは別格の存在であり、御言葉の御用に当たるという他の仕事とは違うもっと貴い仕事に従事しているのだ」という一種の自惚れ、自己陶酔が透けて見えて来ますね。

パウロは聖書において、「子のために親が蓄えるべきである」と述べており、御言葉の奉仕者として当然、彼が受け取っても良いはずの報酬を信徒から受け取ることさえ拒否したことが明白になっています。

パウロは何としても信徒らに負担をかけたくなく、また、神の天の富の豊かさを証したかったので、自分の手で働き続け、他の信徒によりかかって自分の生計を立てることを拒否したのです。それは彼が他の信徒の模範となるために行ったことであり、また、神の御前に賞賛を受けるためにしたことです。

また、「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くない」ということで、給食問題をきっかけに7人の執事が選ばれた際にも、この執事が後に役員となったり、固定化された階級になって行ったという記述は聖書にはありません。執事という役職は聖書に登場しますが、それが教会から報酬をもらって成り立つ職業になっていたという事を裏づける記述はありません。

ところが、今日の牧師階級は、献金を受け取らないで自ら働いたパウロの行いを真似ることなく、彼の言辞の一説だけを切り取って、自分たちはみことばの奉仕であるがゆえに信徒らから献金という形で報酬を受け、それによって生計を成り立たせるのは当然だ、としています。

しかしながら、パウロの述べた言葉を含め、聖書では、教職者が信徒から報酬を得るという独自の「支配階級」となることを是正するようなことは一切述べられていません。

また、兄弟姉妹が食べるものもなくて飢えている時に、彼らから献金という形で牧師が金を巻き上げて良いという教えも聖書にはありません。さらに、牧師一家の生活のみならず、牧師の見栄のために立てられる巨大な礼拝堂や荘厳で大規模な催し物ために多額の献金が信徒に要求されるようなことは、聖書のどこにも肯定されていません。

にも関わらず、前掲の手束正昭氏の「教会成長の勘所」が公然と、牧師夫妻(牧師一家)が信徒らの献金によって養われることを当然視し、牧師と教会の見栄のために信徒が率先して犠牲になるべきと教え、このような著書が「バイブル」のごとく諸教会に広められたことにより、日本全国の教会の中には、信徒の生活を完全に破綻に追い込んでまで、献金を収奪するところも出現し、月定献金にノルマの金額が記載された献金袋が信徒に配られ、一度の礼拝で二度も三度も献金が行われるという極端な例さえ生じているようです。もうこうなってはとことん信者を脅してお布施を要求する悪徳商法と同じですね。

教える者という役割があること自体は、聖徒らの役割分担の一つとして肯定できたとしても、それも固定化された役割ではなく、役割分担が変わることは十分にあり得ます。7人の執事がその後、どうなったのか聖書に記述がないように、教職者という職業も、一生のものとは言えず、ましてそれが必ず信徒の献金から報酬を得ることによって生計を維持すべき職業だということを肯定する文脈は聖書にありません。さらにそれが現役のメッセンジャーである時だけでなく、引退後の生活にまで及び、牧師のみならず、妻も子供もみんな献金で養われるという話になって行くと、言語道断ですね。それだけの資金を余裕で捻出できるような教会はまずほとんど存在しないでしょうから、当然、そのような考えだと、信徒の生活を食いつぶして牧師の生計が成立することになります。れっきとした搾取です。

そもそも聖書には神学校もなければ、牧師という職業もありません。そういうものは後世の人々がキリスト教に見せかけて後から捏造して作り出しただけのものです。御霊によって上から生まれなければ誰もキリストを証できないのであり、神学校を卒業したから教職者にふさわしくなるのではありません。そのことは、カルト被害者救済活動を率いている牧師が教会の破壊者であり、「教会成長の勘所」なるものを著した牧師も、完全に異端の教えを奉じていることからも分かります。どんなに牧師を名乗っていても、この人々はキリストの弟子ではない。

キリストの御霊によって生まれることよりも、学校を卒業して卒業証書さえ手にすれば、牧師が量産されるという人工的な制度によって成り立つキリスト教界そのものが聖書に反しており、このように神からの承認を受けず、人からの承認によって神の御言葉を取り次ぐ教職者として立てると思っていること自体が、大きな勘違いであり、そのように神から承認を受けておらず、神に遣わされていない人々を、信徒らが自らの生計を犠牲にしてまで支えねばならない理由はありません。こういう連中は、はっきり言って、羊の皮を被った貪欲な狼であり詐欺師です。

さらに、私は神の御言葉の奉仕をしている者が直接、「天によって直接養われる」ことが可能であることを先人の例から学びましたし、自分自身でも、幾度も経験して来ました。

当ブログを書くという作業もそうですが、これは片手間にできることではなく、重大なテーマを扱う時には、どうしても時間的な余裕が必要となります。そこで、一定のミッションが生じた時には、この世の常識的な方法によらず、また、一定の信徒を集めて献金で養われるのでもなく、コネを頼るでもなく、実に不思議な方法で、御言葉の御用のために、神が天から資金を供給して下さるということが起こり得ます。そういうことがなければ、当ブログはここまで存続してはいません。筆者の観点から見れば、これもまぎれもなく「御言葉の御用」なのです。

ただし、このように天から供給を受けるための唯一の秘訣は、その方法を神にのみ依存し、神にのみ承認していただくことです。つまり、そのやり方は決してこの世の方法論で固定化されたものではなく、毎回、違った方法であり、なおかつ、大々的なプロパガンダ等によって人に自分の活動の正当性を主張し、慈善事業のように誰かの窮状をアピールしては他人の財布を開かせるという方法ではないのです。

つまり、一切の自己宣伝なし、人の思惑や、巧みなアピールや、この世の計算の届かないところで、その場その場でただ神のみが働かれる余地を作り、神によって供給を受けるのです。ハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーなども、ただ祈りによってのみ他者を動かす方法を学びました。毎回、彼らのプロジェクトを支えて下さったのは主であり、他の人々の栄光を受ける余地がないところで、主ご自身が彼らに不思議な方法で必要の全てを満たされたのです。

エリヤが烏を通して神に養われた時も、一過性です。このように、御言葉の奉仕者を養われるために神の取られる方法は常に同じではなく、人間の考えによって予め想定可能なものでもないのです。そこで、たとえ仮に御言葉の奉仕者が、労働によらず、神に直接、養っていただく方法があるとしても、それは毎回、自分に必要な献金の目標金額を記載した献金袋を信徒らに配ることによって、目標額を効率的に信徒から巻き上げ、それによって月収を得るというような姑息なものではないことは言うまでもありません。


 (2016/06/27)