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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

4.「カルト被害者救済活動」はプロテスタント固有のクルセード(十字軍)であり、それはプロテスタンティズムのDNAに組み込まれた「分裂抗争」遺伝子が仕掛ける戦争でもある。

一度、これまで見てきたことを振り返ろう。まず、ニッポンキリスト教界全体がカルト化の危険に陥っていることを筆者は指摘した。そしてカルト化とは、教会間の激しい拡大競争が生み出した現象であること、教団が主導し、積極的に推し進めている、自己組織拡大としての教会成長プロジェクトが、副産物としてカルト化教会を生んでいるということを指摘した。言い換えるなら、今日のキリスト教会の構造的基盤となっている、聖職者階級による信徒階級への支配と搾取という構図が、そもそも信徒の資材化という発想を生んでおり、そのような考え方こそが、カルトの理念の基盤となるものであり、そのような考えある限り、教会が次第にカルトへと結びついていくのは必然であるという見解を示した。

ここで「聖職者階級制度」という言葉を筆者は用いているが、それは決して、筆者が独自に生み出した造語ではない。例を挙げるなら、すでに半世紀近く前に、ウォッチマン・ニー氏(1903-1972)が、キリスト教のあらゆる宗教組織に特有の聖職者階級の存在は、聖書の理念に明らかに反しているという見解を示している( 「ニー兄弟が受けた啓示、12、聖職者制度と宗教組織。13、普遍的な祭司職」参照。歴史を遡れば、同様の見解は、他のキリスト教徒の中にも見出せよう。

このようにして、聖職者階級の存在こそが、教会の腐敗の最たる原因なのであり、カルト化の根源なのである。しかし、そのようにカルト化の原因を自分たちが作り出してきたことを見たくないがゆえに、すなわち、ニッポンキリスト教界に行き渡っている不平等を崩したくないがゆえに、教界の聖職者たちのほとんどが、カルト化の問題に対策も講じず、ただ知らぬふりを決め込んでいる。
このような無責任な人たちの罪がいずれ問われることになるのは言うまでもない。

だが、それでは、次に、「カルト化教会の被害者救済」を看板に掲げ、被害者の奪回と回復を積極的に支援しているように見える、ニッポンキリスト教界のごく一部の教会や牧師についても、同様に、考えてみなければならない。
この教界の大部分が、カルト化教会の被害者をただ見捨てているだけなのに対し、そのような一部の教会は、早くから被害者に支援の手を差し伸べてきており、その行為は同胞を助けたいという、温かい志ゆえであったように思われる。

だが、この「救済運動」の実態は何なのか。
それは、本当に被害者の人生を救う運動だったのかどうか。
あるいは、表に掲げる看板とは裏腹に、別の目的が隠されているのではあるまいか。
…この問題を提起することこそが、本稿の主要目的であり、議論の核心部分である。

そこで、いよいよ本題に入るために、カルト化教会で被害を受けた人々の奪回と回復、裁判を助長している勢力について考えてみることにしよう。

まず、被害者による裁判について、もうう一度、言及する。
最初に述べたように、筆者は教会でこうむった被害を解決する手段として、一時、裁判について検討したが、受けた被害に対して、裁判が有効な解決をもたらしてくれるという結論には至らなかった。その理由は、決して、裁判によって得られる報いが少なすぎたためだけではない。

裁判というものは、およそこの世の政治闘争であり、力の闘いである。
裁判が政治的な権力闘争の場である限り、そこに正義だけを期待することには無理がある。弁護士という職業一つを取っても、彼らは裁判に正義があるからという理由では働かず、何らかの利益が自分に得られるとみなさない限り、被害者の弁護には応じない。

さらに、当事者でないのに、裁判の周辺にむらがってくる、ウンカのような群れがいるが、それは裁判によって得られる利益があるからこそ、集まってきているのである。
裁判の当事者でなくとも、裁判によって利益を得ている人たちがいる。
たとえば、「被害者代表」がそれである。

裁判を通して得られる利益とは、決して、金銭だけではない。
目には見えにくいが、(原告・被告などの当事者以外の)人たちが、裁判を通して得られる最大の利益とは、社会的名声である、と筆者は考えている。
つまり、裁判に間接的に関わることによって、自己の美名を広く世に知らしめようとする人たちがいる。自分は弱者の痛みを見過ごせず、弱者のためにかいがいしく立ち働く勇気を持った自己犠牲的人間であり、救済者であり、正義の味方であると世間に思わせ、そのような美名によって、自らの権力を高めようとする人々がいる。

このような現象は何も裁判に限ったことではない。
歴史を振り返ると、あらゆる侵略戦争の口実に、「正義のための闘い」というスローガンが使われてきた。歴史上あまた起こってきた「弱者救済運動」は、多くの場合、政治闘争や侵略戦争に結びつき、暴力と流血なしに終わったためしがほとんどない。どんな性質のものであろうと、弱者救済運動は、政治的な闘争を呼び起こす原動力となり、出世をたくらむ野心家たちの権力奪取のために、巧みに利用されて来たのだ。

「虐げられてきた弱者を解放する」という美名のもとに、歴史上、人類は大量の血を流して来た。それだけでなく、「弱者解放」のスローガンを唱えることによって、政治的権力を拡大してきた人たちが無数にいることを思い出す必要がある。

権力闘争があるところには、膨大なエネルギーが渦巻いているため、その磁場に生じる力を利用して、「濡れ手に粟」式に利益を得ようとする人物が必ず現れる。虐げられた弱者が、次第に力を持ち始め、マイノリティからマジョリティへと転換し、弱者から強者へと変わる時、今までの抑圧を公然と覆し始めるような時、その下克上のパワーを巧く利用すれば、圧倒的な政治権力を手に入れて、政治指導者の地位にまで上りつめることが、実際に可能だったのである。
弱者が弱者でなくなる時、そこには時代を覆すほどの大きなパワーが生まれる。そのパワーを、己が利益のために利用しようと、運動の周りに群がるハイエナのような人々が、いつの時代にも存在してきた。

「弱者救済物語」が、政治的出世をたくらむ人々にとって、どんなに「美味い話」に化けるか、最近の例をとって説明しよう。
北朝鮮の拉致被害者「救済」活動により、一躍、脚光を浴び、「政界のプリンス」とまで呼ばれた安倍元首相のことを覚えておられるだろう。
日本国家は拉致問題を長い間、放置し、見殺しにして来た。官僚も政治家も、拉致被害者に関わりあっても、何ら利益がないことが分かっていたからこそ、そうして来たのである。
ところが、小泉政権下で、どういうわけか拉致被害者が急に帰国し、突然、拉致問題が世間の注目を浴びて、弱者たる被害者に国民の余りある同情と関心が集まるや否や、国策は急に昨日までと正反対のものになり、外務省の中には拉致問題の対策室が作られ、さらに、そのような国策の変更と、弱者に集まった同情票にあやかり、自分が拉致被害者の「救済者」として脚光を浴びようと、急にスポットライトの下に這い出て来る政治家が現れた。
こうして、拉致被害者を勇敢に救済する「白馬の王子様」として名乗り出た「政界のプリンス」の実体が、いかにお粗末なハリボテに過ぎなかったかは、歴史によって証明されているので、今更、言うまでもないだろう。

さらに別な角度から注目しよう。この「プリンス」が無能だったおかげで、飛躍的に出世した別の一群がいた。安倍政権時代に、首相の欠点に歯に衣着せぬ痛烈な批判を浴びせたことが国民に受けて、一躍、メディアに引っ張りだこになり、世論にもてはやされる有名人となった政治家がいたことを覚えておられるだろうか。

ところで、日本国民は「正義の仕置き人」の物語が大好きだ。日本のテレビでは、何十年間と相変わらず、『水戸黄門』や、『忠臣蔵』や、『暴れん坊将軍』のドラマが定期的に放映されている。特に、年末になると、必ず新しいバージョンに模様替えされて、繰り返される『忠臣蔵』の物語に、何かしらの疑問を覚えた人もいるかも知れない。何が日本国民をこれほどまでにこのような物語にひきつけているのだろうか。
この事実が物語るのは、このような勧善懲悪の物語が、一種のカンフル剤として定期的に日本国民に投与されているということであり、その効き目は抜群で、この投薬がなければ、この国民はストレスのあまりやけくそな暴動に走るかも知れないほどである。

日本だけに限ったことではない。どこの国でも、庶民は常日頃から、無能で横暴な上司に苦しめられている。だが、とばっちりを恐れるがゆえに、上司にもの申せず、鬱憤だけがたまっていく。そこで、誰か強い人が自分の代わりに、勇気を持って、誰も彼もからも恨みを買っているような横暴な権力者に、一太刀浴びせてくれないだろうかと思う。それがたとえテレビドラマであっても、国民はそれにカタルシスを感じて、気分爽快となる。そして、そのように自分の鬱憤を代弁してくれる人間が現実に現れると、その人はきっと「正義の味方」なのに違いないと、民衆はあまりにも簡単に思い込み、すぐに一票を投じようという気になる。彼の正体をきちんと確かめたわけではない。本当はとんでもない野心家かも知れないのに、「勧善懲悪」というスローガンを聞くと、人々は疑う心さえ、あっけなく失くしてしまうのだ…。
(このことを何より顕著に証明した最近の例は、小泉元首相が投げかけた「郵政民営化」というスローガンに対する国民の反応なのだが、今はそのことは脇に置いておく。)

このように、勧善懲悪物語には、日本国民の警戒心を眠らせる「催眠効果」と、「カンフル剤」としての側面があるが、そのような効果を巧みに利用して、人気を集める政治家がいる。すでに没落しつつある権力者を痛烈に批判したからといって、本当は、大した危険は伴わないのだが、権力者批判を恐れている庶民には、それさえすごい勇気の賜物のように思われる。そこで、野心家は、「どうだ、こうして仕返しも恐れず、大胆に正義を語るオレ様は、すごい勇気の持ち主なんだぞ。意気地なしのおまえらの代弁をしてやっているのだ」と、信じ込ませ、恩に着せることができる。
そのような、大した犠牲も伴わない舌先三寸の批判によって、国民の人気を集め、正義の人をきどることは簡単に可能である。安倍批判により出世を遂げた政治家は現在、軒並み大臣になっているが、中には以前には一度も大臣になったことのない議員もいた。上司の無能ぶりをこれでもかと暴き出した彼ら自身には、果たして、どのくらいの力量があるのだろう。それはこの先の歴史が証明するだろう。

弱者救済の物語や、勧善懲悪の物語がメディアに登場して来た時、クリスチャンはその表向きの筋書きにとらわれず、よくよく注意して物事の実態を見極める必要がある。
弱者救済運動のパワーにあやかって政治的出世を遂げる人物は、本当に救済者なのだろうか。無能な権力者を痛烈に批判している人が本当に実力者なのだろうか。

くどいようだが、「てこの原理」を上手く使いさえすれば、誰にとっても、出世することはさほど難しいことではない。要するに、シーソーの片側に自分が立ち、もう一方の端に重い荷物をドーンと載せれば、自分の立ち位置が飛躍的に上昇するだけのことである。この原理を政治の世界で応用することができれば、誰でも、実力なしに、簡単に出世の階段を駆け上ることができる。

荷物は重ければ重いほど良い。問題は大きければ大きいほど良い。
腐敗がひどければひどいほど、「仕置き人」の需要が高まる。世間を騒がせるようなひどい事件が起これば起こるほど、「救済者」を求める人々の気持ちは高まる。
うんと需要が高まったところを見計らって、「救済者」の看板を掲げて誰かが登場してくる。
民衆は救いをあまりにも渇望しきっているので、看板をみただけで、あっけなく騙される。
没落あるところに、上昇あり。この歴史的原則を覚えて、物事を慎重に判断されたい。

さて、あまりにも道草が長くなったので、本題に戻らなければいけない。
教会のカルト化という問題を見過ごしにし、被害者をただ見殺しにするようなクリスチャンも問題だが、では、もう一方で、弱者救済というお涙頂戴物語を巧みに利用して、飛躍的に自分の名声を高めてきたような人たちが、本当に弱者の味方なのだろうか。

世間を揺るがすような腐敗教会が現れた時、その腐敗に対していち早く立ち向かう人は、「正義の仕置き人」のように見える。世間から同情を集めている弱者を救済するという名目で裁判に関われば、その人の名声は高まるだろう。だが、そういう勧善懲悪物語を自己の出世の手段としている者たちがいないかどうか、そのことについてクリスチャンはよくよく考えてみなければならない。

このような意見を提示すれば、恐らく、次のような非難が筆者に向けられることだろう。

" 現在、カルト化した教会で被害を受けた信徒の「救済活動」に携わっているクリスチャンは、善良な動機でそれをやっているのです。その活動は、ニッポンキリスト教界を道徳的堕落から救うために、行われている正義の活動なのです。
大体、同業者から憎まれながら、何のもうけにならないボランティアで骨折って、弱者の味方として活動しているというのに、その動機がまるで野心的なものであるかのように疑われなければならないとは、情けないことです。
腐敗した教会が現れても、ただ見てみぬふりをする普通のクリスチャンに比べて、私たちははるかに勇気を持って良心的に行動しているし、一部の被害者は、それをまさに待ちに待った救いのように受け取っています。なのに、なぜその活動が悪いかのように言われなければならないのでしょうか?

なぜ、救済活動に関わる人々の動機を、あなたは疑うのでしょうか?
そのようなクリスチャンが非難されて、その活動が否定されなければならないとしたら、では、他の誰が被害者のために働き、彼らをカルトから救い出すというのでしょうか?
何の恨みがあって、あなたは我々の救済活動を否定するのでしょう?"

だが、結論を下す前に、じっくりと物事を冷静に考え直してみて欲しい。できる限り冷静に、客観的に、筆者はこの先、救済活動の本質が何であるかを、誰にでも分かるように説明したいと考えている。

そもそも、キリスト者は、「救済者」と世間からみなされる人物に対して、心底、慎重に接する必要がある。それがどこから来たものなのか、彼の活動の真の目的は何なのか、出所をよく吟味しようともせず、ただ自称「救済者」の語る大義名分を聞いただけで、安易に信用することは避けねばならない。

繰り返すようだが、ヒトラーが第一次世界大戦により荒廃し、傷つけられていたドイツ国民のプライドを「回復する」という名目で登場してきたことを思い出さねばならない。
「虐げられたプロレタリアートの解放」というスローガンを提唱してこそ、レーニン、スターリン、毛沢東は多大な権力を手にし、血みどろの闘争を可能にすることができた。

宗教について言えば、カトリックが免罪符の売買を始めとして、多大なる腐敗に落ち込んで権威失墜していたからこそ、同業他者の自滅をバネに、プロテスタントが台頭した。
そして、このことは後にも詳しく触れることになるが、同じ宗教の別の宗派に対抗する必要性から生まれて来たプロテスタントには、「対抗せよ!」という遺伝子がDNAにまで組み込まれている。

兄カトリックに絶縁状を突きつけて生まれた弟プロテスタントが、今日、己が家族のメンバーに次々と絶縁状をつきつけ、互いの教義を否定し合い、互いに勘当しあって、多重分裂に陥り、内部抗争に終始しているのは、全く驚くに当たらない。そもそも、一致ではなく分裂を基本理念として生み出されたプロテスタントには、最初から最後まで、多重分裂と内部抗争が運命づけられていると言っても過言ではない。分裂抗争が遺伝子レベルで徹底しているプロテスタントには、分裂以外の将来は何もないだろう。たとえカトリックとロシア正教が事実上の和解と提携に至ったとしても(それもまた考えにくいが)、そこにプロテスタントはまずいないものと考えられる。

今日、プロテスタントのクリスチャンにはこの宗派の輝かしい側面だけが強調されており、闇の側面は隠されている。だが、歴史上、プロテスタントが創立100年も経たないうちに、カトリック同様の腐敗に落ち込んでいる事実は見逃せない。カルヴァン、サヴォナローラのような、プロテスタントの原理主義的指導者は、彼らが唱えた輝かしい教義とは裏腹に、信徒に残酷な恐怖政治を強いた。
プロテスタントもカトリック同様、魔女狩り的な宗教裁判を行い、「異端」と断定した信徒を火刑などに処してきた。(詳しくはシュテファン・ツヴァイク著、『権力と闘う良心―カルヴァンと闘うカステリオン―』を参照。)

こうして、歴史上、堕落した権力が没落するに当たり、それに代わる「新しい正義」を唱える勢力が登場してきたが、それらが前の主人よりも優れた主人になったという例は、筆者が覚えている限り、ほとんど見当たらない。むしろ、そのような善悪の闘いはすぐに流血へと結びつき、新たな恐怖政治と、政治的対立を生み、それがゆえに、世の中は前よりももっと悪くなってしまったという例の方が多いことだろう。

普通に教理を学んだクリスチャンならば、誰でも知っていることであるが、真実の救済者は、人間ではなく、キリストただお一人である。にも関わらず、もしも神ではなく、限られた能力しか持たない人間が、「人民の救済者」を自称したり、「弱者の救済運動」を宣言して、腐敗した権力に闘いを挑むことを目的に掲げて活動しているならば、それらの人々の正体が何であるのかを、よくよく注意して見極める必要がある。

さて、プロテスタントの「カルト被害者救済運動」に話を戻せば、この運動は、元を辿れば、キリスト教以外の「カルト宗教」からの信者奪回運動がそもそもの始まりであった。つまり、プロテスタントのキリスト教界が「カルト」と断定した他宗教から、信者を奪回し、奪い取る運動がその始まりだったのである。

プロテスタントのキリスト教界では、数十年前から、このような「カルト救済十字軍の遠征」が始まっている。牧師たちが、様々な家庭から要請を受けて、創価学会、統一教会、エホバの証人、ヤマギシ会などの「カルト宗教」へ、信者を奪回するために赴く。そして説得工作によって信者を奪回し、キリスト教に改宗させる。
だが、キリスト教界から「カルト」呼ばわりされ、信者を力づくで奪い取られ、闘いを挑まれた他宗教の側から見れば、それは正義の運動どころか、クリスチャンの独りよがりに基づいた単なる「侵略行為」でしかなかったであろう。

筆者は、この「カルト被害者救済活動」は、要するに、プロテスタントの十字軍であったと解釈している。
その昔、カトリックの十字軍が、正しい宗教を広めるとの名目のもと、イスラム文化圏に出かけて行き、イスラムの文化の富を略奪し、イスラム教徒を無理やりキリスト教に改宗させたのと同様のことを、20世紀のプロテスタントもやっていたのである。さらに、ここにはプロテスタンティズムのDNAとしての他宗教に対する根深い対抗意識も含まれていたことだろう。

「カルトの圧迫と支配から、犠牲者を解放する」という表向きの美名とは裏腹に、この「プロテスタントの十字軍」の本質的な目的は、プロテスタントに新しいフロンティアを開拓し、新しく領土と領民を奪取すること、他宗教に戦争と侵略をしかけることによって、他宗教の富を奪い、プロテスタントの領土を拡大し、教会成長を実現させることにあった。
今日のプロテスタントの「カルト救済十字軍の遠征」は、主として、他宗教ではなく、キリスト教内部のカルトへとシフトしている。だが、そもそもの始まりは他宗教からの信者奪回運動であったことを覚えておく必要がある。

さて、ここから先、「カルト化教会の被害者の救済運動」の歴史に関して筆を進めるが、その際、架空の物語を引き合いに出すことをお許しいただきたい。この先に書かれていることは、筆者が一般論から導き出した、フィクションの物語である。

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