忍者ブログ
栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

<つづき 1>

甲は牧師として申し分のない成功の中にあった。全国のキリスト教会にはどこでも、信徒の高齢化のために、概して、滅亡の危機が迫っているというのに、甲の教会にとっては、それさえ大した心配ではなかった。
何しろ、甲の教会には20代、30代の若者がたくさんいるのだ。礼拝賛美には魅力的なロック・バンドが使われ、礼拝には若者が詰めかけてきて、少々勢いがありすぎるほどだ。英会話クラスにはかなりの数の外国人と、留学中に英語がペラペラになったような、若く有望な日本人学生が沢山集って、お洒落な雰囲気になっている。

若者たちは、しょっちゅう、甲教会でパーティーを開いている。和やかな雰囲気のそのパーティーの席には、いつも新しい顔ぶれが見られた。さらに、甲教会の日曜学校にも活気がある。幼い生徒たちを率いているのはバイタリティのある若い教師だ。
音楽に秀でた者、語学に秀でた者、若い料理人、若者伝道に秀でた者…、多彩な才能を持つ若者たちが、たくさん甲教会には出入りしている。平日には勇士が集まって公園伝道にでかける。その路傍伝道は、かつての時代のような、通行人に見向きもされない、独りよがりな伝道ではない。若者がわいわいがやがや集まって、実に楽しい伝道を繰り広げるので、公園に来ている子供たちやママさんたちは、それを楽しみに公園にやって来るほどだ。

甲教会の若者だけでなく、甲自身の家庭の子供たちも順調に成長していた。甲の息子のうち一人は大学卒業間近だが就職の内定も決まっている。
甲の生活にはほとんど心配事がなかった。教会内の雑用のほとんどは若い伝道師たちがやってくれる。甲が自らの手を煩わせなければならないような雑用はほとんどなく、彼はカウンセリングや救出活動に専念することができた。
が、一つだけ甲牧師には不愉快なことがあった。最近、神学校を出たばかりの若い牧師が、甲教会を訪ねて来たのだが、その時の会話から受けた印象から、甲はなかなか立ち直ることができなかった。

それは年末が間近に迫る忙しい時期だった。
見慣れない風情の、みすぼらしいジャンパーを羽織った蒼白い顔の若者が、平日に、何の前触れもなく甲教会を訪れた。若者の額には、延びすぎた前髪がはりついて、融けた雪がその先から頬に滴り落ちていた。その日、この地方には珍しく粉雪が舞っており、若者は全身、雪にまみれていた。
 信徒がこの若者を甲牧師のもとへ案内して来た時、クリスマスの飾り付けを教会員と一緒にやっていた甲は、すぐには彼が誰だか思い出せなかった。どこかで会ったような気がするものの、毎日、たくさんの人々と面談している甲には、なかなか名前が思い浮かばない。

「お久しぶりですね、お元気でしたか、甲先生?」
 若者の声を聞いて、ようやく、甲はそれが三年ほど前に、神学校を卒業して、地方教会に赴任する直前に、自分のところへ挨拶に来た若者であることに思い当たった。彼が赴任したのは、どこかの片田舎の小さな教会だったはずだが、さてどこだったろう…?と、甲は心の中で首をひねった。甲は記憶力には自信がある方だったので、滅多に人に関する情報を忘れることはなかったが、この若い牧師に関しては、ずっと前に一度会った時のことしか、思い出せなかった。
「やあきみ、赴任して確か…、三年くらいだったよね。どうだい、きみの教会は?」
 壁に打ちつけようとしていたリースを信徒に手渡しながら、甲は若者に訊いた。

「ぼちぼちですよ。甲先生のところは相変わらず勢いがありますね。若い人たちがいっぱいいるし、賛美にも迫力がある。この調子なら、今後もどんどん成長していきそうですね…」
 若者は、礼拝堂で飾り付けをしているにぎやかな青年たちを楽しそうに見回した。

 若手牧師の誉め言葉に、まんざらでもなさそうに笑いながら、甲は彼を応接室に導いた。
「まあ、座りたまえ。そんなに雪まみれで、外は寒かったろう? コーヒーでもどうだい?」
「え、先生はご自分でコーヒーを淹れられるんですか?」
 若者はびっくりしたように訊いた。
「もちろんだよ。私には使用人なんていないからね。きみのところでは誰か信徒がお茶を入れてくれるのかい? それとも、きみは新婚なんだっけ?」
 若者は肩をすくめて笑った。
「ぼくは独身ですし、教会員は1名しかいません。何しろ、山小屋の教会で、電気も水道も通ってませんから、毎朝、山から薪を運んで来ては、囲炉裏に火を起こして、近くの川から水を汲んで来て、ようやく一日が始まるんです。
ペチカの上にアルミニウムの薬缶を置いて、それがしゅーっと音を立てて沸き始めた頃に、信徒が下界から教会まで登って来る。それも80歳になる農民のおじいさんです。彼が毎日、米やら野菜やらを携えて来てくれるんです。もちろん、ぼくも平日の天気の良い日には下界に降りて、村の田んぼや畑で農作業をやりますよ。その報酬として米や野菜をもらっているんです。そのおじいさんが、日曜になると、村の人を何人か誘って、ぼくの説教を聞きに来てくれます」

 甲はそれを聞いて、信じられないかのように驚いた表情をしたが、すぐにいつもどおりの笑顔に戻った。
「大自然の山暮らしかぁ。それはいいねえ。風情だねぇ。もちろん、苦労はあるだろうけど、そうやって世俗を離れたら、全てを主の御手に委ねきっている満足感があるんじゃないかい?」
「その通りですよ。初めは何もかも知らないことばかりで、一人では何もできませんでした。でも不思議と、全ての必要が整えられてきたんですよ。ご存知だとは思いますが、甲先生、ぼくの教会は、初めから山小屋にあったわけじゃなくて、初めは村の中に立派な礼拝堂を構えていたんです。小さな家の教会ではあったけれど、30人くらいは礼拝堂に入れたんじゃないかな…。

でも、前任牧師が突然に心臓発作で亡くなられた後、教会にはすごい借金が残っていることが分かって、信徒たちはみんな散り散りになってしまったんです。ぼくが赴任した時、教会にはただ借金の証書が残っていただけで、会員名簿もなかったし、教会の備品も一つとして置いてありませんでした。礼拝が行われなくなってから、誰が持ち去ったのか知りませんが、礼拝堂はただのがらん堂になっていて、パイプ椅子一つさえなかったんです。
ぼくは村中を回って、信徒を訪ね求めましたが、見つかった信徒はあのおじいさんたった一人きりでした。きっと誰も借金を肩代わりしたくなかったから、名乗り出なかったんでしょうね…。そこで、ぼくは礼拝堂を売り払いました。村の人たちには、教会が赤字経営に陥って、大勢に迷惑をかけたことをお詫びして、これからは借金のない教会運営を目指すことを約束しました。それで今、ぼくは山小屋に住んでいるんです」

 甲牧師は目を丸くした。
「ほう…、きみみたいに若い人が、牧会活動の初めからそんな困難に直面していたとはねぇ…。でも、若い身空で、そんな風に辛抱しながら、教会を立て直す気になったとは、感心だよ」
 若者はコーヒーを一口飲んで、ほっとため息をついた。
「…いいえ、ぼくなんてまだまだですよ。何しろ、学校を出たてで、独身ですから、どこへ行っても、若造扱いです。過疎化した村ですから、教会に来てくれる人たちは皆、ぼくの三倍以上の年齢で、中には、何とかぼくに見合いをさせようと、縁談ばかり持って来る人もいます。断わると角が立ちますしねぇ。
…それにあの村には昔からのお寺があって、村人は大抵、そこの檀家さんになっているんです。最初は大変だったんですよ。そこの和尚さんもかなり高齢の方ですが、以前は何かと、うちの教会の牧師とモメていたらしく、初めは、ぼくの存在をとても警戒していました。

 でも、ぼくが礼拝堂を売り払って、電気も水道もない山小屋に住んで、別にお寺の信者を奪うわけでもなく、村になじむための生活をゆっくり始めたのを見て、和尚さんはようやくぼくが敵じゃないことを分かってくれたらしいです。三年経った今では、村で行事があると、ぼくと和尚さんはどちらが行くべきか、連絡を取って相談するまでになりました。もちろん、お寺が取り仕切る行事の方が村では圧倒的に多いんですけど、それでも、ちらほらとぼくにも仕事が回って来るようになったんです。

 電話はちゃんと通じていますから、ぼくの方ではお葬式でも定礎式でも何でもいつでもOKです。伝道は農作業の合間に毎日やってます。ぼくと和尚さんは仲良くなりました。正直な話、ぼくは時々、お時へ行って、仏教の経典を勉強することもあるし、和尚さんが聖書を教えて欲しいと言ってぼくのところに来ることもある。何だか、笑い話みたいですけどね。
 この間、村人が一人亡くなったんですが、亡くなる直前に、枕元で信仰に導くことができました。本人はキリスト教の葬儀を望んだんですが、家族が反対したので、お葬式では、妥協案として、和尚さんがお経をあげたその後で、ぼくが祈ったんですよ、ねえ、信じられますか?」

 甲はできるだけ面白そうな表情で若者に頷いてみせた。
「…そうかい、それはよくやったね。まあ、色々大変だろうけど、今が辛抱だよ。きみはまだ若いから、可能性がある。そのうち信徒も増えて、もう一度礼拝堂を建てられる時が来るだろうよ。私も期待してるよ。この教団もきみのような優秀な人材にはすごく期待を寄せてるんじゃないかと思うよ。
 もしも牧会中に、何か嫌なことがあったら、私のところに来れば、カウンセリングをしてあげていいよ。
 …ここだけの話、牧師の中には、牧会活動で追いつめられて、私のところへ泣きに来る者もいるんだよ。残念なことだが、今の時代、牧会活動はとても難しくなっているんだ。中学や高校で学級崩壊があるみたいに、今、各地で教会崩壊が起こっている。…ほんとにここだけの話にして欲しいが、モンスター信徒なんてものも、中には出て来るようになった。きみも色々、気をつけなくちゃいけないよ、信徒の中にはほんとに変なのもいるからね」
「…そうですか、ご配慮いたみいります。甲先生」
 若者はそう言って、コーヒーを底まで飲み干した。

「おや、もう飲んだんだね? 美味しかっただろう、そのコーヒーは。これはある信徒が自分で豆を焙煎して、持って来てくれるんだよ。何だったら、おかわりをあげようか?」
「ありがとうございます。何しろ、外はとても寒くて、凍え切っていたものですから…。申し訳ありません、甲先生」
 若者は嬉しそうに言って、コーヒー・カップを差し出した。部屋を出がけに、甲はちらりと彼を振り返った。見ると、青年の着ているジャケットはかなり古ぼけて、煤けている。それなりに美男子で、精一杯めかしこんできたつもりだったのかもしれないが、若者の髪は、どこか油じみており、その上、煤がこびりついていた。手の甲は荒れて幾重もの皺が刻まれ、コーヒー・カップを握っていた節くれた指の爪先には、泥がいっぱいに詰まっていた。

他方、甲の方は、バリ島に旅行をしてきたばかりの信徒からもらった長袖の民族模様のシャツを着ていた。鮮やかな赤色が美しく、甲も気に入っていて、平日にはよく着ている。甲は若者の貧相で不憫な姿から思わず目をそらすと、部屋を出て行き、二杯目のコーヒーを台所で淹れて、戻って来た。

「それで…、きみ、今日は一体どうしたんだね? 何の前触れもなく、急に訪ねて来るなんて、何か深刻な相談事でもできたのかい? 前もって知らせてくれていたら、ちゃんと時間を取ったんだがなぁ…、ごめんよ、私には次のカウンセリングが控えていて、30分ほどしかきみのために時間を取ってあげられない。何だったら、夕方まで待っていてくれてもいいんだが?」
 甲が時計を見上げると、2時30分だった。若者は首を振った。
「そんなにお手間は取らせません。とても気になることがあって、ぜひ先生にお伺いしたいと思ってやって来たんです。突然、お邪魔して、ご迷惑でしたでしょうか?」
「…いや、そんなことはないよ。で、私に聞きたいことって、何だね?」

 甲はカウンセリングのことを思い出して、少し落ち着かない気持ちになった。あの丙教会で被害を受けた少女が両親と共に教会にやって来るのだ。これまでも何度かカウンセリングをして来たが、未だ少女には回復のきざしがない。何を聞いても、返事は帰って来ず、泣いてばかりだ。
 …とにかく、親子が来るまでに、この派手なシャツを着替えておかねばならない。でも、その時間があるだろうか、と甲は不安そうにもう一度、時計を見上げた。

 若者は甲の心配には少しも気づかない様子で、神妙な顔で話を切り出した。
「先生、ぼくらの教団には、牧師の転勤制度というものがありますよね? それはどういう由来で出来たのか、お伺いしておきたいんですが?」
 甲は目を丸くした。
「おや、そんなことなら、きみは赴任前にちゃんと説明を受けたはずだけどな。大切なことだから、必ず説明されるはずなんだけど…? まあいい、きみが忘れているだけかも知れないけど、もう一度、説明してあげよう。

 あのね、転勤制度というのはね、その昔、この教団にいた人たちが、一人の牧師が一つの教会にいつまでもい続けると、どうしても牧会活動がマンネリ化して、牧師が教会で我が物顔に振る舞うようになったりして良くないと考えて、そういうことを防止するために作った規則なんだよ。
 特に、若いうちは、牧師は定期的に教会を変わった方がいいとぼくも思うよ。教会を私物化してはいけないということを身を持って学んだ方がいいからね。
 まあ、とにかく、転勤制度は、そんな風に、牧師のための戒めの意味をこめて作られた規則なんだよ」

 若者は不安そうな表情で身を乗り出した。
「先生、それがぼくにはとても気になるんです。ぼくは三年かけてようやく自分の教会に慣れてきたばかりなのに、それでも、もし教団から転勤を命じられたら、行かなくちゃならないんですか?」
 甲はソファにふかぶかと背を埋めて、哀れむような表情で彼を見つめた。
「うん…、教団の規則だから、仕方がないと思うね。たとえ気が向かなくても、それも神様の御心、人生勉強だと思って、従えばいいと思うよ。御心ならば、後のことは神様が何とかしてくれるさ…」

 若者は不承不承、頷いた。甲はそれを見て心の中でいぶかしく思った。
 この若者は、まさか礼拝堂もなく、電気も水道もなく、信徒がたった一人しかいないような山小屋教会に未練があるのだろうか。普通だったら、そんな教会から転勤を命ぜられるなら、一刻も早く、喜んでどこへでも赴くと思うのだが…。教団の方でも、誰一人次の牧師のなり手がないような、そんな貧乏教会からこの若者を転勤させるとはとても思えない。その山小屋教会がつぶれでもしない限り、この先何年経っても、多分、この若者に転勤が出るようなことはきっとないだろう…。
 甲は続けた。
「確かにね、この転勤制度には色んな意見があって、それに反対している人もいるよ。この教団内では、一部、転勤が出ても命令に逆らって、自分の気持ちだけで教会に居残っている人たちがいたり、あるいは、無理やり教会ごとまるがかえで、教団を離脱してしまったりする牧師がいないわけじゃない。けれど、私はそういうやり方にはあまり感心しないな。組織に属するなら、規則にも服すべきだよ」

 若者は顔を上げた。
「じゃあ、甲先生も、転勤を命じられたら、この教会を置いて行かれますか? この教会の設計段階から、甲先生は関わっておられたと聞いていますが? それに、甲先生が来られたばかりの頃、この教会は荒れて大変だったという噂も耳にしています。甲先生の功績あってこそ、ここまで大きくなったのでしょう? それに、ここはカルト被害者救済活動の有名な拠点でもあります。それでも、ここを去られるお覚悟ですか?」

 若手牧師の大胆な質問に、甲牧師は一瞬、眉根を寄せて押し黙った。やれやれ、こんな風に、うかつに返事が出来ないような単刀直入な質問を投げかけてくるとは、この罪のない顔をした若者は、もしかすると、何かを探りにここへやって来たのかも知れない。
 今や政治家のような有名人となっている甲のもとには、時折、よからぬ魂胆を隠し持って近寄って来る人間もいた。同業者の中には、甲の何気ない台詞を悪質な中傷に変えて言いふらす者もいる。誰に対してでも、うっかり失言などしようものなら命取りになりかねない。同業者の間だからといって、気安く話したりせず、言質をとられないよう気をつけねばならない。

 甲は若者の質問に微笑んで答えた。
「…さっき言ったように、規則には従うべきだと私は思っているよ。この教団に属している限り、私もその規則に従って、転勤命令が出されるなら、行くのは当然だと思うね。慣れ親しんだ教会であればこそ、離れるのは寂しいだろうけど、仕方ないよ、教会は私の持ち物じゃないんだからね」

「じゃあ、もしそうなったら、先生のクリスチャン・ヴィレッジの計画はどうなるんです?」
 甲はその質問に肩をすくめて、天井を仰いだ。
「さあねえ…、蒔く人がいれば、刈る人もいる。私は種を蒔いただけだ、それを刈り取る役目は別の人のものかも知れないよ。今、クリスチャン・ヴィレッジのために、私は骨折っている最中だけど、そのプロジェクトが他の人に譲り渡させるなら、きっと後任者が何か良い手を考えてくれるだろうさ」

 若者はため息をついた。
「そうですか…、先生は転勤を覚悟しておられるんですね。でも、不思議ですね、どうして甲先生には転勤命令が一向に出ないんでしょう? もうかれこれ25年もこの教会にいらっしゃるのに?」
 甲は顔をしかめた。最近の若者は、随分と、大胆な口を利くようになったな…。コーヒー・カップをゆっくりと口に運びながら、甲は答えた。
「さあね、転勤は教団が決めることだからね、私にも分からないよ。
 でも、私の想像では、きっとそれは、私が救出活動で全国で有名になっているから、この教会にとどまって、この先もこの活動を続けていった方がいいと教団が判断しているからじゃないかな? もちろん、本当のところは私だってその理由を知っているわけじゃないんだけどね。
 それに、きみも知っているように、この私だって、もうちょっと若い頃には、一度、転勤させられているんだよ。だからこれはまんざら不公平というわけじゃない」

「そうなんですか…、分かりました。でも、お伺いしたいんですが、この教団では、ある牧師には数年で転勤が命じられますが、ある牧師には、何十年経っても、転勤が出されません。だからずっと同じところで牧会している牧師がいるかと思えば、教会を変わってばかりの牧師もいる。それって、何かおかしいんじゃないですか? 一つの教会に一人の牧師がいつまでもとどまってはならないという規則本来の趣旨に反しているじゃありませんか」

 甲は若者がいつまでもこの話題にこだわっていることに、内心、不愉快になりながら、腕を組んだ。
「それはどうかねぇ。私は、教団の決定は、ただの不公平ではなくて、きっと何か重要な理由があるに違いないと思っているよ。でも、きみがそれを不公平だと思うんなら、私に言うのでなく、直接、教団に聞いてみてはどうだい?」
 若者はしぶしぶ引き下がった。
「そうですね…。じゃあ、一度、直接、聞いてみます。それから、他にも質問があるんですが、甲先生、よろしいですか?」
 甲は時計の針を見上げた。なんと、さっきからまだたった2分と経っていない。
「うーん…、次のカウンセリングまでに支度をしなくちゃいけないから、実を言うと、少し時間が欲しいんだけど、でも、あと10分くらいなら大丈夫だと思うよ。それで? 質問は?」

「甲先生はカルト救出活動において大きな功績を挙げられましたよね。今、日本中で先生の存在を知らない人はいないほどです」
「そうかも知れないね。で、それがどうかしたのかい?」
「甲先生、先生は、大黒柱が腐って、屋台骨のぐらついたようなたくさんの教会を…、つまりカルト化した教会を取り壊して、ご自分の教会に加えられました。そこにいた信徒たちは、前のひどい牧師の圧迫から解放されて、甲先生の教会の一員になったことをとても喜んでいると聞いています。
 でも、先生はその人たちを以前の圧迫から救ってあげた代わりに、彼らの教会をご自分の母屋の離れにしてしまい、彼らから母屋に住む権利を取り上げてしまったことにお気づきでしょうか?」

 甲はさらに眉根を寄せて、じっと若者を見つめた。どういう了見なのだ、この若者は、こんなぶしつけなことをあからさまに訊いてくるとは。そもそも、この若者は、どういう動機でここにやって来たのかもさっぱり不明だ。私の救済活動に文句があって、非難しに来たのだろうか…。

 だが、甲は心の動揺を一切外には表さず、平静に落ち着いて答えた。
「もしかして、カルト被害者たちが、ここの教会の支部になったことを指して、きみがそういう風に表現しているのだったら、それは筋違いというものだよ。被害者たちは自分から望んでここの一員になりたいと申し出たんだ。別に、私がそれを強制したわけでも何でもない。
 それに、この件についてのきみの表現は不適切だと思うね。私は被害者たちの教会を、たとえ屋台骨がぐらついていたにせよ、決して、取り壊したりなんかしていない、むしろ、屋台骨を修復して、再建してあげたんだ。だって、カルト化した教会の被害者たちは、放っておいたら、教会を失っていたかもしれない、でも、私がいたおかげで、彼らは教会を失わずに済んだんだよ」

「この教会の支部になることが、彼らが教会を失わずに済んだことになるんですか?」
 若者は聞き返した。甲は苛立たしげに言った。
「何か勘違いをしているんじゃないかな、きみは。支部になるということには、決して、格が下がるとか、服従するとかいう意味はない。それは、きみの言うような、『母屋の離れ』とかいうような妙な意味合いじゃないんだよ。
支部になるということは、ただ、この教会と同じ理念を持っている人たちが、地理的には離れているけれども、同じ気持ちで同じ礼拝を捧げたいという思いで、私たちと一つの同じ組織に属するというだけのことなんだよ。
 …もともと私たちは皆キリストの枝なんだ。枝に優劣があるわけじゃない。この教会だって、本部というわけじゃなくて、枝の一つに過ぎない。全ての教会が平等にキリストに属している枝なんだ」

「でも先生、実際には、組織としては、この教会を本部として、その下に、支部があるわけでしょう? 北海道にはアイヌ民族が済んでいますし、琉球・沖縄はもともと日本本土とは別の国でした。その人たちの教会を、日本本土の教会に所属させて、その一支部にしてしまうことは、彼ら土地の人々の自主性と誇りを奪うことにならないでしょうか?」

 甲はあからさまにため息をついた。
「やれやれ…、きみには自分の山小屋教会があって、その心配をしていればいいのに、どうしてそんなにも真剣にこの教会の構成に関心を持つのか、私にはよく分からないねぇ…。けど、まあ、きみのような疑問を持つ人が他にもいなかったわけじゃない。その度ごとに私は、ちゃんと説明してきた。
 いいかい、この教会には北海道支部があるけど、それは何もアイヌの人々ばかりで構成されているわけじゃないし、沖縄支部だって、琉球人ばかりってわけじゃないよ。だから、北海道や沖縄の教会をこの教会に所属させることが、何も、彼らの民族としての自主性を奪って、日本本土優位の考え方を押しつけることにつながるというようなことは、私は少しも思っちゃいない。そういう主張は、何だか極端だと思うよ。

 それに何よりも、彼らが自分たちで望んでこの甲教会の支部になりたいと言ってくれたんだ。もしきみが言うように、そのことで誇りと自主性が奪われたりする危険があるなら、どうして彼らがそんなことを自分から願ったりするだろう? 自分たちのためにならないことなら、拒否していたんじゃないかな?」

「でも、被害者は長年に渡って、虐げられて、支配されてきた人たちです。その人たちが自信と誇りを完全に取り戻すには、時間がかかりますよね? 今までさんざん人に依存するように仕向けられてきた人たちが、真に回復しないうちに下した決断は、どうしても誰かに依存したものになりがちじゃないでしょうか…。
 そういう状態にある人たちの決断が、本当に心からの自由な決断や、公平で客観的な判断になり得るとは思えません。ですから、周りにいる人たちは、彼らの依存心の上にあぐらをかくことがないように、気をつけるべきではないのでしょうか?」

 甲は腕を組んだまま、ソファの背もたれにもたれかかった。
「きみはカルト被害者救済という活動のことをほとんど分かっていないようだな。素人ほど、そんな風な判断を下したがるものだ。本当は、物事はそんな風に杓子定規に進められるものじゃないんだよ」
「そうなんですか…、やっぱり、これは素人判断なんでしょうか、もしそうだったらすみません。ぼくにはよく分からないので、詳しく教えて下されば嬉しいんですが」
 若者は謙虚に引き下がった。それを見て、甲は少し安心して、態度を和らげた。

「確かに、きみの言う通り、被害者の心の回復には時間がかかるよ。彼らが本当に自主性を取り戻し、人に依存しないで、自信を持って、物事を決断できるようになるには、時間がかかる。
 『スタンフォードの監獄実験』の結果がはっきりと示しているように、たった数週間の虐待体験によって出来たトラウマでさえも、それを癒すのには何十年ものカウンセリングが必要になるんだ。それを考えれば、何年間もカルトにいたような被害者が、本当に回復するには、ものすごい時間がかかることは、当然だ。それはきみにも分かるね?

 でもね、だからこそ、焦っちゃいけないんだよ。被害者にすぐに完璧を期待しようなんて思っちゃいけない。たとえば、考えてごらん、繭の中で羽化しようとしているさなぎを、その変身が完了しないうちに、繭をこじ開けて外界に取り出したとしたら、どうなると思う? さなぎはただ死んでしまうだけなんだよ。
 いいかい、支部というのはね、ちょうど、さなぎを包んであげる繭のようなものなんだ。被害者が本当に自主性を取り戻すときまで、その道の専門家である私たちが、彼らを大切に守って、彼らが外界の厳しい風にさらされて、耐える力がないような試練に直面して、絶望したりしなくて済むように、何よりも、落ち着いた環境で回復に専念できるように、安全基地を作ってあげねばならないんだよ」

 若者は感心したように言った。
「へぇぇ…、そうなんですか。じゃあ、先生の教会の支部というのは、被害者をそっと包んであげる保護膜のようなもの、つまり、さなぎにとっての繭だというわけなんですね。それじゃあ、さなぎが羽化して、役目を終えたら、その繭はなくなるんですか?」
 甲は若者の終わりない質問に、うんざりしながらも、何とか平静を装って答えた。
「うーん、そうだね、多分、役目を終えたものは、なくなるかも知れないね…。それがいつのことか分からないけれど、もし北海道や沖縄の被害者たちが、私たちの支えなんてもう必要ないと判断する時が来て、この教会の支部から独立したいと願うなら、いつだって、それはできるんだよ。たとえ今すぐにだってね。
 もちろん、彼らが私たちと協力関係でいつづけたいと願ってくれるなら、それも喜んで受け入れるつもりだ。私たちはどちらだっていいんだよ。誰も彼らの意思決定を邪魔しないし、何かを強引に勧めたり、独立を禁止したりするわけじゃないよ」

 若者は首をかしげた。
「先生、真理があるところには、自由があると聖書は言いますよね。主権が完全に回復されないのに、自由はありません。だから、依存状態に自由はありませんよね。だとしたら、被害者は、人に頼っている依存状態では、自由ではないということになりますが?」
 甲は再び、ちらりと時計を見上げた。2時35分だ。今日はどうしてこうも時間が経つのが遅いんだろう。

「きみの話は何だか堂々巡りになっているみたいだよ。主権が回復しないのに、自由はない、そりゃそうだろうね。でも、それは一般論としてはそうであって、実際には、全ての依存が悪いものであるわけじゃない。人間は皆、助け合って生きている。皆、互いに依存し合っているんだよ。一人だけで独立して生きている人はいない。その助け合いは、ある角度から見れば、依存状態かも知れないが、でも、それは決して主権を脅かすような不健全な依存じゃない。
 いいかい、健全な助け合いは決して悪いものじゃないんだ。でも、その助け合いが、助け合いを超えて、相手の人格に対する支配になって来た時、その依存は主権を脅かす不健全なものに変わるんだ。
 私たちが被害者を保護しているのは、決して彼らの主権を脅かしたり、独立を損なうためじゃない、彼らに健全な依存の場を提供し、そしてこちらも助けてもらうという、協力関係を作っているだけなんだよ。被害者と私たちの関係は、協力関係なんだ。
 私は決して被害者をこの教会に不健全な形で依存させるつもりはないよ。私たちが提供している助け合いは、彼らを私たちに従属させるためじゃなくて、彼らを自由にし、本当の自信と自主性を取り戻させるためにこそ、提供しているんだ。それが支部の目的なんだ」

「つまり、支部にすることは、健全な依存関係を作り出すことであって、不健全に依存させたり、主権を脅かすことではない…、先生はそうおっしゃるわけですね?」
「その通りだよ。今言ったように、支部とは協力関係であって、従属関係じゃないんだ。確かに、この世の組織としてはタテのつながりがあるかも知れないが、私たちはキリストの枝として皆対等であるんだから、キリストにあっては、私たちにはヨコのつながりしかないんだよ」

 甲の返答に若者はどこかしら納得できないような表情だった。
「先生、それに関連して思うんですが、自由意志の下で選択したものでなければ、人間は、本当に自分で選んだものだとは言えませんよね? 強制のもとでの選択、もしくは自信喪失状態や、人権を奪われたところで行った選択は、自由な選択ではありませんよね?
 そこで、ある人がキリスト教に改宗したとして、それが監禁状態の下で選んだ教義だとすれば、それは到底、自由に選んだ教義とは言えないし、その人の心からの選択だとも、言えないのではないでしょうか」
「うーん、それは何かね、私たちの昔のカルト救出活動のことを指して言っているのかい? きみの話はえらく話題がころころ変わるから、面食らうなあ…」
 甲は呆れたように肩をすくめた。
「だが、まあ、いい。確かに、私たちの昔の救出活動には、色々と反省すべき点があったことは私も認めているよ。監禁というのは、やっぱり良くなかった。相手の身体の自由を奪うことだからね。確かにそういう状態で選ばせたものは、完全な自由の下での選択とは言えない。それだけに、せっかく説得して改宗してもらっても、私たちにとっても、成功の意味が薄くなってしまうのが残念だ…。
 でも、だからこそ、過去の反省に立って、今、私たちは穏やかな救出活動をしているんだよ。誰も強制的な方法を取っていない。だから、強制の中で押しつけた教義なんて今は存在しない。被害者たちは自由に教義を選び取っている。もし保護膜としての繭さえも要らないと彼らが判断するなら、すぐにでも、支部を拒否することができる。被害者たちは自由なんだ…」

 若者は甲が話し終えないうちに、反論を始めた。
「でも先生、たとえ人を監禁しなくとも、『あなたの信仰は間違っている』と断定して、その人がそれまで培ってきた知識や人生経験を否定して、価値がないもののように思わせて、つまり、その人の信念を侮辱して、その人に恥をかかせるという圧力を加えた上で、相手の信じてきた教えと生き方に代わる、新たな価値として、キリスト教の正しい信仰を教え込んでいくというのは、一種の強制であり、洗脳であり、マインドコントロールではないでしょうか。ぼくにはそう思えてならないんですが?」

 甲はそれを聞いて、苦々しい顔で、ソファにもたれかかった。
「先生、どうかされましたか? 何だか、お顔の色が悪いようですが」
 甲は若者の度重なるぶしつけな質問に苛立ちを募らせていたのだが、何とか自力で不愉快さを克服して、静かな口調で言った。

「…きみはカルトについて何も知らない。だからそんな風な考えになるんだよ。洗脳とか、マインドコントロールという言葉は、きみみたいに何も知らない人が、自分の思い込みだけで使っていい言葉じゃない。そこには複雑で専門的な定義があって、巧妙な仕掛けや段階が含まれているんだ。きみはカルトのことについて、もっともっと勉強しないと、とても私と対等な議論はできないよ」
「そうですか…、それは残念ですね。じゃあ、このお話はそろそろ終わりましょうか」
 若者は心からがっかりした表情で引き下がった。

 甲は若者の勉強不足と大胆な質問に、内心、呆れながらも、このまま、まずい雰囲気のまま話を切り上げたくなかった。それに、もう少しこの若者に、自分の活動の意義を理解してもらいたいという気持ちが甲の中に芽生えた。
「…でも、まあ、きみもせっかく来てくれたんだし、これから先、会う機会があるかどうかも分からないから、もう少しだけ、きみの疑問につきあってあげてもいいよ。ところで何かね、さっきから聞いていれば、きみはカルト被害者救出活動にえらく関心があるようだけど、もしかして、将来的に、そういうことをやりたいという希望でもあるのか?」
 若者は急に目を輝かせた。
「そうなんですよ、先生、ぼくには色々と知りたいことがあって、そのためには、まずその道の専門家であられる甲先生にお聞きするのが一番だと思ったものですから」

 甲は心の中でため息をついた。やれやれ、関心があるなら、まずは甲の著書や論文を一つでも読んで勉強すればいいのに。時間をかけてじっくり先行文献を読んで、専門知識を蓄えることはしようとせずに、すぐに人を当てにして、分からないことがあれば、何でも人に聞けば、教えてもらえると思っている。
 大体、アポイントメントも取らず、相手の都合も確かめずに、全くの手ぶらで、急に押しかけて来た上に、自分の聞きたいことだけを臆面もなく質問してくる、人に教えを乞おうとする態度がまるでなっていない。そんな礼儀もわきまえない若者の質問に、丁寧に応えてやらねばならない義務はどこにもないのだが…。

 だが、甲はその考えをすぐに思い直した。
 片田舎の山小屋に引っ込んで、苦労させられているこの若者にとっては、情報を入手する手段さえ、ひょっとするとないのかも知れない。新聞も雑誌もパソコンもないような毎日を送っていて、もしかするとこの甲との会話が、彼にとっては思いがけない清涼剤となっているのかも知れない。
 いや、たとえどんな事情があったにせよ、ここを訪ねて来る前に、断わりの電話一本くらいは寄越せたはずだ。しかし、まあ、いい。つまらないことにこだわるのはよそう…。

 甲はもう一度、同情的な眼差しで若者を見やった。彼はよれよれのジーンズに、底が薄くなった運動靴を履いている。信徒がたった一人の教会から、この若者が受け取れる給料はきっとないのに違いない。これだけ貧相な服しか着られないところを見ると、相当に貧乏で、多分、親からの仕送りに頼って生活しているのだろう。書籍を取り寄せる資金もないのだとしたら、この若者にカルトの先行文献を読めというのも無理な注文かも知れない。そうだ、若者に勉強の機会を与えてやることは、先達の義務だ。ここで、私が寛容であるところを見せてやらねば…。
 深く息を吸い込んでから、甲は言った。
「いいかい、今から言うことは、きみだからこそ教えてあげることだから、よく覚えておきなさい。

 私はね、正直な話、あらゆる説得行為には、きみの考える洗脳とか、強制のようなものが、一切含まれないわけじゃないと思っているんだよ。何しろ、説得とは相手の意志を変えさせる行為なんだ。強い力によって、人の意志を揺り動かそうとする何者かがいなければ、人は誰も自分から考えを変えようとはしない。いいかい、私たちがただ待っているだけで、相手が私たちと同じ考えを持ってくれることは永久にないんだよ。

 …だからこそ、人を説得する際には、相手の現実を揺さぶって、彼が今信じているものでは満足できなくなって、自分は変わらなくちゃならない、今とは違った考え方を、違った生き方を獲得しなくちゃならないと思うように仕向けなくちゃいけないんだ。
 今現在、相手が信じているものが、どれほどその人にとって価値があるものであろうと、私たちはそれを打ち砕き、そんなものよりも、はるかに良い価値、もっと正しい価値がこの世にはあって、そのより良い方を選ばなきゃ、彼にとって損だということを分からせてやるんだ。
 つまり、カルトの教義なんかよりも、もっと正しい教義がこの世に存在していて、それを信じた方がはるかに得だってことを、彼に分からせなくちゃいけない。

 いいかい、相手が今持っているベターを棄てて、ベストを選択するように仕向けること、それこそが説得の極意なんだよ。そのために、ベストにとって敵となるベターをまず駆逐しなけりゃいけない。ベターなんてものにすがりついているせいで、ベストを選べないでいる相手が、どんなに馬鹿らしく人生を浪費しているか、分からせてあげなくちゃいけないんだ。
 …でも、相手は自分が獲得したものが、ベターじゃなくてベストだと思い込んでいるから、自信満々で、彼のベターを私たちに見せびらかしてくるだろう。けれど、そんなみみっちい自信はこっぱみじんに打ち砕かなければいけない。相手が今信じているものは、本当は全く無価値というわけじゃないかも知れないけれど、単なるベターであって、ベストじゃないという意味においては、無価値なんだ。いや、無価値というよりも、有害なんだよ。
それは半面の真理であって、完全な真理じゃない。半面の真理は、完全な真理の敵であって、完全な真理の理解を妨げる有害な障害物なんだよ。
 何しろ、カルトを信じている限り、その人は本当の真理に決して到達できないんだから、そういう意味において、カルトの教えは真理を妨げる障害物でしかない。そういうものを残して置いちゃいけない。

 でも、それを私たちが力ずくで一掃するんじゃなくて、相手自身に分からせることが重要なんだ。彼がカルトの教えという、屑のような、おもちゃのような武器にすがりついて、そのデタラメな武器をめったやたらに振り回すのを自分から止めて、そのおもちゃに価値がないことを理解して、棄てるように話を持って行くんだ。その上で、もっとより良い価値を獲得したいと、彼が思うような方向に、私たちは話を運ばなきゃいけない。屑のようなおもちゃと引き換えに、もっと輝く、本物の武器を、本当の人生の遊び道具を、人生を幸福にするための鍵を、つまり、真理を手渡してあげるんだ。
 いや…、正確に言うなら、私たちが彼に真理を手渡すんじゃない、それが欲しいと思って、相手の方からこちらに手を伸ばしてくるように仕向けるんだ。いいかい、自分の手で掴ませるんだよ。彼自身に確信させて、選ばせるんだ。そうすれば、二度とその確信は揺らがない。人は自分で掴んだものに対しては、驚くほど執着するものだ。より良い真理を教え、人にそれを自分で掴ませる。それが説得というもののやり方なんだ」

 甲が自信たっぷりに、説得工作のやり方について長広舌をふるうのを、若者は不思議そうな面持ちで聞いていた。
「…つまり、先生は、カルトの教えが、キリスト教という普遍の真理の理解を妨げる障害物であることを、被害者自身に分からせて、カルトの教えの有害性と虚しさに気づかせることによって、彼が自分でそれに絶望して、教義を放棄して、新しい教義を掴もうとするようにしなければならない、とおっしゃっているんですね?」
「そうだよ、もう一度言うが、本当の真理とは何かという問題は、彼自身に考えさせるんだよ。私たちはそのための材料を提供するだけだ。
 ただし、重要なのは、その前に、一度、彼の妄信と過信に基づいた現実を揺り動かし、粉々に打ち砕いておかなければならないことだ。彼がすがりついてきた現実が、どんなに無意味であるか、愚かであるか、思い知らせなくちゃ、その先はないんだ。
 もしもそこで、私たちが黙っていたら、彼は永久に自分ではその誤りに気づかないだろうね。洗脳されているんだから。洗脳を解くことは生易しいことじゃない。だからこそ、私たち専門家の出番だ。
 私たちは容赦なく真実を語るよ。カルト信者には、自分たちが今まで信じてきたものの正体を知って、多少は、挫折感を味わってもらわなくちゃいけないし、惨めな思いもしてもらわなくちゃいけない。

 自分の誤りに気づいてもらうためには、ただ優しく話していただけじゃだめなんだ。今までの生き方、考え方に対しては徹底的に絶望してもらう必要があるから、強い口調で反論したり、いさめないといけない時があるし、何よりも、揺るぎない権威と自信を持って、相手の前に立つことができなくちゃいけない。もちろん、私たちは被害者の弱い人格に対する温かい配慮を、決して、忘れはしないけれども、それは誤った教義に対してまでも寛容に接し、生ぬるい態度で何でも大目にみるという意味じゃない。

 …でも、この説得のやり方を洗脳だ、マインドコントロールだと言ってしまうのは極論だよ。人の意志を変えさせようとするわずかな圧迫が働いたからといって、穏やかな説得行為まで含めて、全て洗脳だと言い切ってしまえば、人を説得することなんて、誰もやってはいけない犯罪行為だということになる。
 もしそんなことになれば、そもそも、どうやってクリスチャンは伝道するんだね? 人の意志を変えさせようと他人に圧力をかけることが全て罪だということになれば、誤った考えに陥って希望を失っている人や、過激な団体に人生を奪われている人に、誰がどうやって福音を述べ伝え、彼らをとらわれから解放するんだね? 人の意志を変えるために圧力をかけることがいけないというなら、宣教そのものができなくなってしまうじゃないか」

 若者はしばらく考え込んだ。
「そうですね、先生がおっしゃることももっともですね…。でも、甲先生、キリストは『全世界に福音を述べ伝えなさい』と命じられましたが、それは罪からの解放のニュースを人々に伝えよと言われたのであって、間違った教えを駆逐するために、自分と違う教えを信じている人たちと議論して、彼らを論破し、その矛盾と誤りを暴きなさいと言われたわけではないんじゃないかと思うんですが…。

 聖書はにせ預言者は警戒せよと呼びかけていますが、他の宗教の人たちに闘いを挑むようには言っていません。アブラハムも偶像礼拝をする人々とあえて闘おうとはせず、黙って、偶像礼拝のはびこる街を後にしたじゃありませんか?

 神はどの宗教のどの宗派を信じている人々に対しても、よほどのことがない限り、決して強制介入なさいません。聖書を見る限りにおいて、神が最も嫌われるのは、自分の欲望を神に祭り上げようとする人々や、キリストの名を語りながら偽りの教えを広める者、神の赦しなしに自らを義人だと誇る者、隣人に暴虐を行う者、不正を行う者、弱い者を躓かせて悪に導く者…。そういう人たちです。それ以外の、神が放置しておられる他宗教の信者に、ぼくらが切り込んでいくことは、何だか、分を超えているように思うのですが?」

 甲はすかさず答えた。
「…まあ、一般にはそういう考えもないわけじゃない。宗教同士の争いを嫌っている人たちは日本にもいっぱいいるからね。そういう人たちにとっては、ぼくらがカルト被害者の救出活動をしていることさえ、『信教の自由』を脅かす行為のように映ることがあるらしい。若者が何を信じようと、信じまいと、人の勝手じゃないか、それがたとえカルトの教義であっても、他人がとやかく言うのはおかしい、というわけだよ。
 でも、牧師である私がそれに賛成するわけに行かないし、きみの立場も私と同じはずだよ。私たちはクリスチャンでない人々に、自分から福音を伝えなければならない立場にある。なのに、きみは、神が放置しているのに自分が働くわけにいかないと言って、他の宗教の人々への伝道を否定するつもりかい?
 それとも、説得や議論という方法は全てマインドコントロールだと言って、ただ自分から教会に足を運んでくれる人たちだけを安穏と待って、その人たちだけに伝道するつもりなのか? それで信徒が増えると思うか? そんな消極的なやり方で、誤った教えの中で絶望しかけている人をどうやって助けるんだ? 困っている人たちにどうやって福音を述べ伝えるんだろう? そんな必要はないときみは思っているのかい?」

「いいえ、そういうわけじゃありませんけど…」
 若者は口ごもった。甲は勢いづいて話し続けた。
「…私が思うに、神が人に強制介入なさらないそのわけは、伝道が人の手に委ねられたわざだからだ。神は福音を伝えるという使命を、我々至らないクリスチャンにわざわざ召しとして託しておられるんだよ。召された限り、私たちは、その使命に忠実に応えなければならない。だから、人々に福音を述べ伝えるの私たちの義務だ、もちろん、カルトの中にいる人たちに対してもね」
 若者は相変わらず腑に落ちない表情のまま言った。
「先生、ぼくも困っている人々に福音を伝えることは悪いことではないし、ぼくらの義務だとも思っています。でも、それは、人々のそれまでの生き方や信念をあからさまに否定して、その愚かさを暴き出して相手に恥をかかせて、自信喪失させて、代わりに福音を押しつけるということではないと思っています。

 …つまり、伝道とは、愛と思いやりに基づいた行為であるべきで、相手の考えや生き方を否定することによって、人の心に消えない恥と罪悪感を抱かせて、それまでの生き方を放棄させ、それと引き換えのようにして、ぼくらが考える正しい教義を押しつけていって、理想的な、優等生のクリスチャンになってもらうという意味じゃないはずです…」

 甲はしばらく考えてから言った。
「私たちは…、誰にも恥をかかせたりしていないし、誰の生き方も否定しないし、人に教義を押しつけることもしていないよ。被害者には思いやりを持って接している。説得の最中でもね。ただし、さっきも言ったように、相手の人格に対して思いやりを持って接するということと、何が真理であるかを呵責なく追究していくということは意味が違う。
 真理を真剣に追究すればこそ、私たちは間違った考えはどんどん駆逐していかねばならないと思っている。たとえば、きみはオウム真理教のような宗教が、『信教の自由』という言葉のもとに保護されていいと思うか? 確かに、人には信教の自由はあるよ。でもそれは、その信念が、非人間的で反社会的なものでない場合にしか通用しない。自分自身を追いつめ、虐待し、社会に反旗を翻して多くの人たちを危険に晒すような教えを、信教の自由ということを口実にして擁護しようとする人たちを、ただ黙って放っておくわけにはいかない。
 だから私たちは、そういう信者に対しては、その教えがどんなに危険で、間違っているものであるか、目の前で容赦なく、その問題点を明るみに出して見せるよ。そうしなければ、その人たちがそのような教えを信じたことの間違いに気づいて、教えを放棄することなんてないんだからね。

 でもね、私はカルトの教え自体は許しがたく思っているけれども、でも、カルトに入った人たちの心に息づいている真理への探究心そのものは、とても評価しているんだよ。
 …いいかい、カルトの元信者たちは、みんな真理を探究することにとても熱心だ。その熱心さが余って、彼らはカルトに入ったんだ。その教えを放棄した後になっても、ほとんどの人たちが、自分から望んで、キリスト教の正しい教義を理解したいと思うに至る。
 彼らはまさか、きみが言うような、優等生的なクリスチャンになりたいがために、教義を学んでいるんじゃない。私たちだって、そんなことのために彼らに教義を教えているんじゃない。
 被害者たちは自分で真理を知りたいと強く切望しているんだよ。彼らは真理への探究心が人一倍強い人たちなんだ。だからこそ、私たちはその探求を応援してあげたいんだ。

 私はね、神は人が真理を追究する上で、道に迷っても、それをお赦しにならないような心の狭いお方じゃないと考えている。考えてもみてごらん、聖書には神に向かって一度も不平を漏らしたことのないような優等生クリスチャンなんて、一人もいやしない。いや、エノクとか、ダニエルとか、ほんの少しくらいは、いたかも知れないけどね…。
 ほら、あの使徒パウロにだって、ユダヤ教のカルトに入信していた過去があった。パウロもそれが真理だと信じ込んで、愚かにも、クリスチャンを迫害する側に回っていたことがあった。でも、そのパウロをも、神は回心させて、過去の罪を赦された。
 私は、パウロが真理を探究する上で、誤った道に足を踏み入れてしまった罪を、神が赦されたのと同じように、私たちもまた、被害者たちのカルト入信暦を赦すべきだと思っている。カルトの教えそのものは放棄させなくちゃいけないけれど、一旦、悔い改めた人たちの罪を、いつまでも責め続けるつもりは私には一切ないよ」
「本当に、そうなんでしょうか…」
 若者は納得しない表情のまま黙り込んだ。

 何て物分りの悪い奴なんだ、これほど丁寧に説明しても、まだ話が通じていないとは…!
 甲は腕を組んだまま、若者をじっと見つめ、彼が次に何を言い出すのか待った。

<つづく>

PR