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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

<つづき 2>

 若者は熱心に語りだした。
「先生、問題は、誰が赦しを与えるかということにあると思うんですよ。
 パウロの回心の時には、人間は誰もそこに介在していなかった。パウロの自己義認を打ち砕いたのは、ただ神ご自身だけでした。しかも、神は長々とした説得によってパウロの言い分を論破されたわけじゃない。ただ、悲しみに満ちた御声で、『なぜ私を迫害するのか…』と言って、ご自身を示されただけです。

 パウロはその一瞬で、自分が今まで正義だと信じてやって来たことが、神に敵対する行為だったと分かって、きっと、呆然としたことでしょう。そして、深い深い絶望に沈んだことでしょう。
 …でも、だからといって、そこに誰かクリスチャンがやって来て、『ほら、あんたのやっていたことはこんなに間違っていたんだ、私たちに謝りなさい、見えるように悔い改めなさい』と、傷口に塩を塗りこむようなことを言って、彼を辱めたわけじゃありません。アナニヤもそんな話し方はしなかった。

 パウロの心が回復するまで、彼は光を失って、主と二人きりでいました。アナニヤに会って、パウロの回復期間は瞬時に終わりました。その後も、パウロが失意のどん底にあったという記述は聖書にはありません。ユダヤ教徒パウロが、使徒パウロに変わって大胆に福音を語り始めたとき、彼は過去を反省してはいましたが、誤った過去のために、クリスチャンの前で卑屈な態度を取ることは一切ありませんでした。
 もちろん、一部、パウロの回心を疑って、陰でごちゃごちゃ言うクリスチャンはいたかも知れません。けれど、ほとんどのクリスチャンは、パウロの告白を信用し、彼が本当に信用に値する人間かどうかを、目に見える形で確かめようとして、彼に公の場で懺悔を求めたり、彼の回心の真偽を試したり、過去のことでパウロに卑屈に振る舞うよう要求することはしませんでした」

「そうだね、それはきみの言う通りだと思うけど、それが何だい?」
 甲牧師はだんだん若者の反論を面白く感じ始めていた。
「…ところが、現在、カルトに入っている人たちをカルトから引き出すに当たって、多くのクリスチャンたちが、まるで彼らの言質をとろうとでもするように、元カルト信者の誤った過去や、間違った教義理解を強調し過ぎると思うんです。
 たとえば、洗礼を受けようとしているクリスチャンたちに、ぼくらは、過去の誤りを公然と認めるように求めたりするでしょうか。確かに、神を信じなければ、取り除くことのできない罪が人間にあることについて、ぼくらは語りますが、だからといって、これからクリスチャンになろうとする人々に対して、『福音を知らなかった頃の身勝手で恥知らずな生き方について』、赤裸々に告白するよう求めて、その人たちに恥をかかせたりしません。
 ところが、異端的教義に陥った信者に対しては、ぼくらクリスチャンの目はあまりにも厳しすぎるような気がするんです。

 正確に言うなら、異端的教義そのものに対するクリスチャンの態度が問題なんです。異端に対して、クリスチャンがこれまで取ってきた態度は、歴史的に見ても、あまりにも厳しすぎるように思えてなりません。カトリックの魔女狩りだけじゃありません。プロテスタントがこれまで色々な異端的な宗教や教えに対して向けて来た、非難がましい態度の中にも、ぼくは何か恐ろしいまでの自己義認や、敵愾心、そういうものが含まれているように思えてならないんです。

 カルトに入っていた人たちは、ぼくらクリスチャンのそういう目線を無意識のうちに感じて、恐れています。ですから、彼らは自分たちの過去を語る時、今でもそれを非常に引け目に感じているように見えますし、時には、上目遣いにこちらを見ているように見える時があります。
 特に、強い力で説得されて、改宗させられた人であればあるほど、クリスチャンの仲間入りをしても、過去を恥じている一種の卑屈さのようなものが、未だに態度に感じられることがあります。だからこそ、その過ちを何とか拭い去とうとして、彼らは今、熱心にキリスト教を学んでいるのではないかと思われるんです。

 一言で言えば、彼らにとっては、カルトにいたことが、過去になっていないことが問題なんです。
 パウロの回心は一瞬のものだったのに、一部の元カルト信者は今に至るまでも懺悔し続けていて、その懺悔が未だ終わっていないんです。
 さらに、そのようにしていつまでも彼らに懺悔を続けさせようとしているクリスチャンがいるような気がします。カルトに入っていた人たちに、いかにその過去が愚かなものであったか、繰り返し語らせることによって、いつまでもその人たちの『誤り』をほじくりかえし、まるでおどすようにして弱みを思い知らせ、いつまでも彼らの心をカルト時代に引き戻しては、そこから救ってやった自分たちへの恩義を語らせようとするクリスチャンが多いように思います。
 その一方で、そうやって、元カルト信者の傷をほじくり返し、プライドを傷つけ続けている自分たちの浅ましさ、残酷さには気づきもしないのです。

 他宗教や異端的教義の愚かさをどんなに暴いても、それによって、キリスト教の優位性を逆説的に証明することはできません。なのに、異端的な教えに入っている人たちの非を責めて立てることによって、自分たちの信仰の正当性を証明しようとするクリスチャンがあまりにも多すぎます。そのことにぼくはとても心穏やかではいられないんです」

 若者の感情の波に押し流されまいとしながら、甲は静かに言葉を返した。
「きみが言っている意味は、私にも分からないでもないよ。まあ、それは異端問題というよりも、あらゆる犯罪につきものの、二次被害というやつなんじゃないかと私は思うけれどね。
 被害者たちはもとより悲惨な過去のために相当、傷ついているのに、残念ながら、彼らを本当に温かく、優しく受け止めるのに、十分な理解がクリスチャン側にあるとはまだまだ言えない。この教会の中にだって、一部、被害者たちを色眼鏡で見て、見下すような人たちが全くいないわけじゃない。
 そうなると、被害者たちは最初に受けた傷の上に、周囲の人たちの心ない行動や、無神経な発言によって二重に傷つく危険があるわけだ。

 …でもねえ、そういう問題を食い止めるのは本当に難しいよ。被害者と同様に、被害を受けなかった者たちが精神的に成長しなければいけないからね。両者が成長して、初めて、そういう問題は防げるようになる。それには時代が進歩する必要があるから、時間がかかるよ」

「先生、さっきも言ったように、問題は誰が赦しを与えるかというところにあると思うんです。パウロの罪を赦し、パウロの心の傷を癒し、パウロに安心を与えたのは、神ご自身であって、人間の誰かではありませんでした。
 今の心理学的な見地から見れば、何十人ものクリスチャンの殺害に加担したパウロが立ち直るためには、どれだけの年数のカウンセリングが必要だったか分かりません。随分、長い間、治療に通わなければいけなかったことは確かでしょう…。
 でも実際には、彼のためにカウンセリングをしてあげたクリスチャンがいたわけじゃありません。パウロの罪からの赦しと解放は、彼が十字架を知った途端、瞬時に訪れました。彼が自分の罪を十字架に重ねた時、罪は全て赦されたのです。そしてパウロはその赦しを完全なものとして受け取ったからこそ、以後、罪悪感に苦しめられて、クリスチャンの前で卑屈な態度を取るということがなかったのです」

「それはそうだよ。でも、今は聖書の時代とは違って、医学も進歩しているんだ。マインドコントロールを受けた被害者の立ち直りは、一瞬で終わるようなものじゃないってことは、学問の世界ではとうに常識になっているよ。カルトの影響力のために、奥深くまで思考を歪められて、あらゆる物事に対して正常な判断が下せなくなっている被害者たちには、まず、彼らに自分の思考や認知の歪みに気づかせてやり、そこから抜け出るように助けてあげる専門家がいなくては、とても彼らは立ち直れないどころか、日常生活にすら戻れないんだ。

 回復のためには、どうしても被害者の過去に遡って、治療する必要がある。どの時点でその人がどのように騙されて、コントロールされて、利用されていたのか、本人に気づかせてやることが大事なんだよ。過去を振り返らずには、治療はない。そこがこの種の治療の本当に難しいところなんだ。
 それをただ『過去の傷をほじくり返すのはいけない』なんて言って、過去に蓋をしてしまったら、被害者たちが植えつけられた思考の歪みや、認知の歪みから抜け出すことは永久に解決不能になると思うね」

「本当にそうなんでしょうか…? ぼくには、心理学の専門家からそのように言われるなら、まだ話は分かるのですが、ぼくらの仕事は牧会であって、心理学的なカウンセリングがぼくらの専門ではありません。医学はその時代によって進歩しています、言い換えれば、時代特有の限界のようなものが医学にはあるわけですが、福音の本質は2000年前から変わりません。
 医師とは違う立場に立っていればこそ、ぼくらは医学的限界にとらわれることなく、物事を自由に考えられる可能性を与えられているんじゃないかと思うんですが…。

 甲先生、そもそも、マインドコントロールとは何でしょうか。それを受けているのは、カルトの被害者だけと言えるでしょうか。
 先生、ぼくらは絶えざるマインドコントロールの中にいると言っておかしくありません。受験教育もそうですし、就職戦争もそうですし、会社での出世競争や、牧師間の競争もまた然りです。和をもって尊しとなす、という昔ながらの日本社会の精神風土そのものもそうです。各時代によって、ぼくらはその『時代の価値観』を強烈に押し付けられ、それによってマインドコントロールされ、大きく踊らされながら、人生を生きているんじゃないかと思いますよ。

 日本人は他人の目線を気にするように幼い頃から躾けられて育てられています。他人の目線、特に、親や学校の教師や、先生と呼ばれる色々な人々…、つまり、地位や力のある立派な人たちの目線にかなうように振る舞うことを、幼い頃から美徳として教え込まれています。
 そういう、他人からの目線という、外から押しつけられた価値観と評価に従って、ぼくらは泣いたり、笑ったり、得意絶頂になったり、自信喪失して自殺を思ったり、とにかくあらゆる激しい反応をして生きています。学校で取ったテストの一点が、子供の生死を分けることもあります。

 そういう反応を、ぼくらは自分の心の中から出て来た自由な行動のように思っていますが、実は、社会の中に仕掛けられた大がかりな装置によって計画的に生み出された反応であるとは、気づいていません。あたかも自分で選んだように思える行動さえも、選ばされた結果なのであって、本当に個人の自由な選択だと言えるような行動は、ぼくらの行動の中には何一つとしてないか、あってもごくごくわずかだということに、大半の人たちが気づいていません。

 外からの評価は、たとえるなら、個人のサイズに合わない、だぶだぶの服や、窮屈な服のようなもので、それを無理やり着せられても、そういうものが個人の幸せに役立つことはありません。
 他人から押しつけられた物差しは、本当にその人自身を幸せにするために役に立ちません。それなのに、その自分のためにならない物差しにすがりつき、それなくしては生きられないように感じ、その窮屈な物差しの上で失格者とされることを死ぬほど恐れて、過酷な競争の中で身をすり減らし、競争の結果に一喜一憂するように踊らされて、人生を狂わされながら、生きているのがぼくら現代人の姿なのです。

 『人はうわべを見るが、神は心を見る』と、聖書は言います。キリスト者の目線は、本来、世の中の評価、つまり、自分の外面的な評価だけを重んじるようであってはなりません。キリスト者の生涯は、神の目線とこの世の目線との狭間での闘いです。けれども、ぼくらは心底、時代の風潮に毒されているせいで、自分の心の中から、自分には合わない、必要もない、絶望的な物差しを取り払うことがどうしてもできないでいるんです。

 先生、ぼくにはこう思えるんです。今のこの世の中全体が、巨大なカルト的社会であって、ぼくら市民は、そこでマインドコントロールされながら、それに気づきもしないでいる愚かな信者だと。ぼくら自身がマインドコントロールされていることに気づいていないのに、どうやってカルトの信者の心だけを取り扱うことができるでしょう。このように言っても、決して言いすぎではないように、ぼくは思うんですけれど…」

 甲は面白そうな表情で問い返した。
「何だか、話が随分と、壮大なテーマになってきたね。面白い話だが、残り時間はあまりないから、きみの言いたいことを簡潔に言いなさい。もし世の中全体がカルトだと仮定して、要約すると、きみの話はどういう結論になるんだい?」

「先生、『盲人が盲人を手引きすれば二人とも穴に落ちる』と聖書は言っています。マインドコントロールに心底毒されているのは、被害者だけでなく、ぼくらも同じです。いや、カルトの元信者は、奪われた人生の大きさに気づいた分だけ、ぼくらよりはまだましと言えるかも知れません。
 キリスト者として、ぼくらは人間的な物差し、社会の物差しに踊らされるマインドコントロールとは絶えず闘わなければなりません。でも、ぼくらはこの闘いの中では、一生かけても、勝利者になれるかどうか分からないんです。

 先生、人の力にはあまりにも限界があります。ぼくらの肉的な思いは人間社会が提示する利益にとても弱くて、自力でそれに打ち勝つことはとてもでないけれどできません。そこでは、己の力に絶望して、主の力にただよりすがる他ありません。
 けれども、今ぼくらの教界が行っているカウンセリングとは一体、何なのでしょう?
 聖書は『泣く者と共に泣け』と言っています。つまり人の傷と痛みによりそうことを聖書は勧めていますが、でも、癒す力は神のみにあって、最高のカウンセラーは聖霊ご自身であるとしています。赦しと癒しについて、人が人に頼るように聖書は教えていません。

 ぼくは疑問に思うんですが、牧師がカウンセリングを通して、信徒の弱みを引き出し、その傷口を手当てしてやるようにふるまって、あたかも自分の力で信徒の罪悪感と痛みをなだめてやれるかのように見せかけて、信徒の心を徐々に自分に向けさせ、自分に力があることを信徒に信じ込ませていくということは、聖書的に見て、肯定されうる行為なのでしょうか。
 ひどい場合には、牧師がカウンセラーの資格をひけらかし、自分にはあたかも人の心を癒す力があるかのように世間に見せかけています。でも、それは、真実、癒す力を持っている主に対する冒涜行為ではないでしょうか? それは真実の癒し主とは誰であるかということを、大勢のクリスチャンに忘れさせてしまう、間違ったやり方のように思えてならないのですが…」

 甲はしばらく黙り込んだが、やがて静かな口調で話しだした。
「…まあ、きみは色々と深い疑問を提示してくれたよ。そのことについて私も考えなければならない点があるように思うよ。ただ、私には一つ聞きたいことがあるね。きみはカルト被害者でもなければ、救出活動に関わっているわけでもない。それなのになぜそこまで、この活動にこだわるんだね? そもそも、きみは何のためにここへやって来たんだ?」

「ぼくは、主が弱い人たちによりそわれたように、ぼくらが弱い人たちによりそうとは、どういうことを意味するのか、本当に知りたいと思っているんです。それを考える上で、今のこの教界がやっているカルトの救出活動には、どうしても納得できない点があるのです。それを申し上げたくて、ぶしつけにも質問させていただきましたが、ご無礼をどうぞお許しください」
 若者はそう言って、甲に頭を下げた。

「それで、何かい、きみの聞きたかった疑問に、私は十分に答えられただろうか?」
 甲は腕を組んで、彼を斜めから見下ろした。何だか、気持ちが落ち着かなかった。
「あらかたのことはお伺いしました。でも、もう一つだけ、聞きたいことがあります。お時間は大丈夫でしょうか?」
 若者には少しも遠慮する気がないらしい。甲は不愉快だった。彼はため息をついて、ちらりと時計を見た。
 一体、どういうことだろうか。時計の針はまだ2時38分を指している。さっきから5分も経っていないではないか。いまいましいことだ、多分、電池切れなんだろう…。甲は腕時計を見やったが、驚いたことに、腕時計もやはり2時38分を指していた。

 どうやら、今日は時間がとことん若者に味方しているらしい。甲は苛立ちを抑えて言った。
「それで、最後の質問とは何だろう? 早く話しなさい」
「ありがとうございます、お忙しいのに、甲先生」
 若者は笑顔を見せた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて質問させていただきます。甲先生の教会はすでに様々な教会を併合して巨大になっています。全国に支部を持つようになって、やがてはそれを拠点として、クリスチャン・ヴィレッジを作って、日本にキリスト教徒のコミュニティの名を知らしめることを先生は目指しておられます。でも、それが本当に神の御心であり、神の御名を告げ知らせる行為だと、先生は思っていらっしゃるのでしょうか?」

 甲はカチャンと音を立ててコーヒー・カップをテーブルに置いた。
「…きみが何が言いたいのか、よく分からないんだが、要するに、私の運動に反対だということを言いたいのかい?」
 若者は黙っている。甲は腕を組んで、彼を見下ろすような姿勢のまま続けた。
「…まあ、きみだっていっぱしの牧師だから、自分のポリシーがあっても悪くない。別に、私のやることなすこと、きみの賛成をもらおうなんて思っていないよ。若い時は、誰しも理想主義者で、年配者に対して、なかなか挑戦的な発言をするものだ。
 いいかい、私に質問をぶつけて、試せるものがあると思っているなら、何でも試せばいいよ。私は人の反対意見には寛容だからね。でも、実際には、人に聞くだけじゃなく、自分でやってみないと分からないことが山ほどあることはきみも分かっているだろうね?
 それで? きみの言いたいことを続けなさい」

 若者は真面目な表情で身じろぎもせずに言った。
「先生、神は遍在しますが、悪魔は偏在するでしょうか?」
 いきなり質問の矛先が変わったので、甲は面食らいながら答えた。
「…そういうことは、きみは神学校で学んできたんじゃないのかね? いいかい、悪魔は偏在しないし、人の心を読むこともできない、私はそう解釈しているよ」
「そうですよね、それにはぼくも同感です。それじゃあ、悪魔は神のように偏在したいと願っていないでしょうか?」
「やれやれ、きみの質問は少しも一つで終わらないじゃないか…。まあいい、そうだね、悪魔は神に対抗することを願っている存在だから、きっと当然、神のように遍在できたらと願うだろうね」
「やっぱり、先生もそう思われますか? では、偏在できない者が、偏在するためには、どうすればいいか、甲先生には何かお考えがありますか?」
「さあねえ…、そんなことは考えたこともないから、聞かれても分からないよ」
 甲は眉をひそめた。こんな質問がいつまで続くのだろう。若者は何が言いたいのだろうか。甲はじれったくなった。

「甲先生、『ユビキタス・ネットワーク・ソリューション』という言葉をお聞きになったことはありますか?」
 出し抜けに若者が言った。
「いいや、聞いたことないが、何だね、それは?」
「先生、ぼくが献身前にIT関連の会社で働いていたことは、先生もご存知だと思います。ユビキタス・ネットワーク・ソリューションというのは、通信業界では広く使われている用語なんです。昔、電電公社が日本国中に電信柱を建てて、末端の離島に至るまで、広く電話による通信網を整備したように、今、携帯電話、パソコン等の端末を通して、誰がいつどこにいても、インターネットなどの通信網にアクセスできるように、世界中で通信網を整備しようという計画が進められているんです。それが『ユビキタス・ネットワーク』であり、日本でも、国の政策として、あらゆる通信会社を通して進められているんですよ」
 甲はぽんと手を打った。
「そうだ、それで思い出したよ、ユビキタスというのは、ラテン語で『偏在する』という意味だったね。そうだ、神は遍在するという意味だ。神学用語として昔、習ったよ」

「そうなんですよ。ですから、『ユビキタス・ネットワーク』というのは、個人が時空間を越えて不特定多数の人間にアクセスし、影響力を行使することができるようになる、そういうネットワークのことを言うんです」
 若者はそう言って、甲を見つめたまま、黙った。
「ふうん、誰でもいつでもどこからでもアクセスできるようになる…か。それによって、世の中はますます便利になるだろうね。便利なツールは一度手にしてしまうと、なかなか手放せないのが人間だ。ネットワークが整備されれば、この教会も、もっと多くの支部に礼拝を同時中継できるようになって便利だろうね」

「甲先生はご自分の礼拝を、今でも支部の方々が同時的に見れるようにインターネットで中継していらっしゃるのですよね?」
「そうだよ、インターネットを通して、同じ礼拝を、時空間を越えて、皆で共有することがすでに可能になっているんだ。まだ全ての支部に行き届いているわけじゃないけどね。いずれはそうなるはずだ。これはとてもいいことだよ。日本にリバイバルが起これば、今以上に、もっと多くの人たちが、ぼくらと同じ礼拝を共有することができるようになる」

 若者は表情を曇らせた。
「先生、それは長年起こらなかったリバイバルが、もしも将来、この日本に起こったならばの話ですよね。逆にいうと、もしも万が一にもそういうことが起きたなら、全国のあらゆるキリスト教徒がたった一つのネットワークに統合されていき、その群れに加わらない信徒は輪から締め出され、信者であるとは認められず、迫害される…、そういう時代になりかねません」
 甲はいぶかしげな表情になった。
「それはどうかな? 本当にそんなことになるかなあ?」
「甲先生、先生はご自分でお作りになっているものが何であるか、少しも、分かっていらっしゃらないんだとぼくは思います」
「何、それはどういう意味だね?」
 若者の無礼な言葉に、甲はつい、きつい語調で聞き返した。若者は恐れる様子もなく、まっすぐに甲を見つめて言った。

「先生、さっき、偏在するのはただ神のみ、という話をしましたよね。人がどこにいようとも、個人の心や行動をことごとく把握できるのは、神様お一人だけです。時空間を超越した存在は、この世に神だけなんです。なのに、その偏在性を、神でない何者かが、または誰か人間が手に入れようとしているのだとしたら、それは恐ろしいことだと思われませんか?」
 甲は不思議そうに眉をひそめた。
「甲先生が建設しようとしているのは、地上の王国であって、それは空中の権を持つ者、すなわち悪魔が見せる幻であって、神から来たものではないんですよ…」

「何だって、 一体、どういう根拠できみはそんなことを言うんだね…?」
 甲は驚いて聞き返した。
「キリストが荒野で悪魔から受けた誘惑のことを、クリスチャンなら誰でも知っています。先生、悪魔がイエスに提示した第三の誘惑は何だったでしょうか?」
「…きみが私に何を言いたいのか、さっぱり分からないよ。悪魔の誘惑が何だったか、そんなことは、きみ自身が知っているだろう。私に聞くようなことじゃない。それがどうかしたのかね?」
 甲は苛立たしげに訊いた。

「先生、悪魔は荒野で断食して祈っていたイエスをつかまえて、三つの誘惑で惑わそうとしました。一つ目の誘惑は、石をパンに変える奇跡を起こして、試練を避けて取ってはどうかという提案でした。もう一つは、高い崖から飛び降りて、ひと思いに人生を終わらせ、この苦しい試練から逃げ出してはどうかという誘惑でした。神がイエスを本当に愛しておられるなら、命かけてイエスが試練から逃げ出しても、必ず助けてくれるだろうと悪魔はそそのかしたのです。三つ目は…」
「栄耀栄華を極めた王国の幻を見せて、私に跪くなら、それを全て与えると悪魔は言ったよ」
 甲が口を挟んだ。
「そうです、その最後の誘惑に、先生は負けてしまわれたんです」
「そりゃ、随分と、聞き捨てならない話だ。一体、どういう根拠があってそう言っているんだね?」
 あまりにも突拍子もない若者の話の展開ぶりに、甲は呆れて、さっきまでの苛立ちはどこかへ消えていた。あまりにも荒唐無稽な話だ…、こいつは冗談でも言っているんじゃないだろうか、内心、甲はそう思った。

 だが、若者は大真面目に話し続けた。
「甲先生、第一の誘惑に先生はひっかからなかった。石をパンに変える奇跡を、先生は立派に拒否なさいました。
 近年、アメリカの様々な宣教師たちが来日しては、奇跡のクルセードと銘打って、しるしと不思議と奇跡を売り物にする集会を盛んに開くようになりました。教団の多くの牧師たちが、そのような奇跡の売買を歓呼して迎えたのに対し、甲先生は早くからその危険性を指摘し、反対なさいました。
 人の欲望を満たす目に見えるパンを売り物にして、大衆を惑わすような伝道は間違っている、目に見えない命のパンを与えるという地道な伝道を選ぶべきだと先生はおっしゃいました。そこで、甲先生の教会は奇跡を売り物にする興行的なイベントには関わっていません。これは立派なことだったと思います。

 それから、第二の誘惑にも、先生は打ち勝たれました。先生の教会が色々と苦しいところを通ってきたことや、先生が同業者からたくさんの不当な非難を浴びせられたことをぼくは知っています。でも、先生はそこから逃げ出そうとして人間的な解決に頼ることはせず、貧困や、同業者から憎まれ、孤立するという苦難をも忍ばれました。先生は繁栄の神学を拒絶なさいました。アメリカの宣教師も日本の牧師も、今日、多くが、キリスト教の『ご利益』を盛んに強調しながら伝道しています。けれど、先生はご利益信仰を訴えることで信者を増やそうとすることはありませんでした。

 先生が貧しかった時、苦労していた時、先生は主なる神の愛を悪用してまで、その試練を回避し、ご自分の豊かさと安全を得るために、神の愛を試みようとすることはありませんでした。そして先生の教会は、現世利益のメッセージによってではなく、ひとえに主の祝福により拡大していきました。

 けれども、最後の誘惑が来た時、先生はそれに負けてしまわれたのです。大勢の信徒が自分を跪拝する地上の王国…、そこに誘惑があることを甲先生は見抜くことができず、その計画に魂を売ってしまったんです。奇跡と、繁栄には背を向けることができた先生が、名声と権力と、苦しみのない幸福社会というものの前に、すっかり目がくらんで、それに跪いてしまったんです」

 甲は何も言えずにおし黙った。こんなひどい中傷をされて黙っているわけにはいかない。だが、甲の頭の中では言葉が空回りするばかりで、何と言って反論すれば良いか分からなかった。

<つづく>

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