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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。
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2017/11/21 (Tue)

⑤ペンテコステ・カリスマ運動に基づき、キリストの十字架の贖いを否定するDr.LukeのKFC(Kingdom Fellowship Church)の異端性

少し本題から逸れるが、ここで、KFC(Dr.Luke's kingdom fellowship church)のメッセージに顕著に表れているペンテコステ・カリスマ運動の異端性について見てみたい。十字架を抜きにしたグノーシス主義的手法によって彼らがどのように神との合一に達しようとしているかを振り返りたい。

次の2015年8月16日の動画には、KFCの理念の異端性が余すところなく表れている。わざわざ他の動画を見て分析する必要もなく、この動画だけで、KFCの現時点でのほぼ全ての主張をカバーできるのではないかと思われるほど、盛りだくさんの内容である。
このメッセージを少し聞いただけでも、聖霊と異言の価値を強調するこの団体がペンテコステ・カリスマ運動の深い影響を受けていること、そして、この団体がすでにキリストの十字架を完全に見失い、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えており、自分たちを「神々だ」と自称するまでに至っている様子が誰にでもすぐに見て取れるからだ。

視聴は全く勧めないが、KFCがすでに異端化していることを示す明白な証拠としてここに挙げておく。



 



・原罪とキリストの十字架の贖いの否定

Dr.Lukeはこの動画において、人間の罪という問題を完全に否定して、生まれながらの人間が神の中に生きていると述べている。魚が水の中に生まれ、暮らしているように、人はみな神の中に生まれ、生きているのだと。

人にとっての神とは、魚にとっての水のようなもので、たとえ人がどんなに神を否定しても、その人が神の中に生まれ、生きている事実は変わらないというのである。
 

「魚ってたぶん水の中にいる意識ないんですよ。でしょ?ないですよ。そこがもう全てですから。ぼくらは空中にいて水の中っていう区別がるから、あ、今、水の中だって分かるんだけど。生まれた時から水の中にいる人にとっては水の中だってことが分からないんですよ。そうでしょ? でも感じることはできますよね。こうやってやると、水、抵抗もあるし。

神も同じです。使徒行伝の、あれ、パウロが、エペソでしたっけ、パウロがあのしじ、しじ、詩人の詩を聞いてさ、「人はみな神の中に生きている」って言っているわけ。
我々は神の中に生まれていたんです。人ってのは、ぜんぶ神の中に生まれているんです。だから神の存在が分かんないんですよ。

世の中の人もね、信じてない人も、神の中にいるんです。パウロもそういっているもの。あの「名前も知らざる神のために」っていう詩人のあれを引いてさ、あなたがたはこういう感受性がおありだと。

我々は神の中に生きている。人はみな神の中に生きている。我々は神の中に生きている。神の中に生まれていた。世の中に「神はいない」と言ってる人も、ほんとは、神の中にいるんです。
魚も同じです。」(2:16:48-2:18:27)


むろん、これは神と人との断絶という聖書の真理の事実上の否定であり、人の原罪の否定、同時に、キリストの十字架の贖いの否定である。

パウロが引き合いに出した「知られない神に。」と刻まれた祭壇(使徒17:23)は当然ながら異教の神々を奉じるギリシア人の汎神論的な考えを引き合いに出しただけであり、彼らの考える神の概念を肯定したものではない。また、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:28)というパウロの言葉も、確かに人は神に創造され、神の栄光を表す被造物に囲まれて生きているという点では、自分で自覚せずとも、被造物を通して神の栄光を見ているわけだが、だからと言って、その言葉を拡大解釈して、被造物全体の堕落という聖書の事実を無視して、物質世界に生きている全ての人間が、キリストの十字架での罪の贖いを信じることなくして、神の子孫になりうるかと言えば、そのようなことは決してない。

パウロはギリシア人の神についての熱心さを利用して、まことの神に注意を向けさせようと語ったのであって、異教の神々を信じるギリシア人が、キリストを知らなくとも、知らずに拝んでいる神によって救われているとか、すべての人が信仰なくして「神の中に生きている」と言ったわけではない。

別の個所でパウロははっきりと述べている、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)

「罪過の中に死んでいたこの私たち」(エペソ2:5)
という言葉が示すように、聖書によれば、キリストの贖いを信じない人間は、みな「罪過の中に死んでい」るのであって、「神の中に生まれて」もいないし、「神の中」にもいない。それどころか、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」、神に対しては無価値で死んだ、神との交わりを全く持たない「生まれながらに(神の)御怒りを受けるべき子ら」なのである。人はいかに神の創造としての物質世界に生まれ、生きていたとしても、罪によって神と断絶しており、己の罪を悔い改めて、十字架の贖いを信じて受け入れることによってしか、神に立ち返る道はない。

ところが、Dr.Lukeはこのような聖書の基本とクリスチャンの初歩的な認識さえも失って、人間の原罪を否定する。そうすると、当然ながら、人類の罪を認めないのだから、人類の罪を贖うためのキリストの十字架の意味も否定されることになる。このメッセージ全体を通して聞いても分かることであるが、Dr.Lukeはすでにキリストの十字架には全く言及していないのである。彼の「キリスト」からは十字架の贖いが完全に消し去られているのである。

このことから、Dr.Lukeはもはや人が罪によって神と断絶しているという聖書の事実を認めない立場に立っていることが分かるのである。もし十字架が語られていたとしても、そこにはもはや罪の贖いとしての意味はない。そして、人は神を認めようが認めまいが、キリストの救いを信じようが信じまいが、みな「神の中に生きている」と言うのである。これは、人がキリストの十字架の贖いを通さずとも、自力で神に回帰する道があり、人は本来的に神と同一であるとするグノーシス主義の教えである。



・汎神論的かつ東洋的な「慈愛の神」の概念


さらに、Dr.Lukeは、「神」の概念を、「魚にとっての水」にたとえる。同氏の言う「神」とは、人格を持ったお方というよりも、人間を包み込む環境全体、もしくは人間を浸すプールの水のようなものに近い。そうなるのは、Dr.Lukeがこの「神」を人格を持った父なる神、子なるキリストとしてではなく、むしろ「聖霊」としてとらえているからである。明らかに、KFCはペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けて、「聖霊のバプテスマ」を重視し、「聖霊に浸される」という経験を、「神の中に生きている」ことと同一視しているのである。
 

「魚も、生まれつき水の中ですから、自分が水の中にいるなんて意識はないんです。だけど水がないないって言ったって、水の中にいるだろうと。同じ。神がいないいないと言ったって、あなたは神の中にいるでしょう。そう、神の中にいるのが、感じられると言ったわけ。

神がここに満ちている。神は遍在されるお方でしょ。<中略>ダビデは「あなたの霊、どこへ行けば、あなたの霊から逃れることができましょうか。どこへ行っても、あなたの霊の中にわたしはいます」と。もう我々は神の霊の中にいるんですよ。」(2:18:18-2:19:13)


 そのように、人が水の中に浸されるように、どこへ行っても、神は満ちておられ、人は神の霊の中に包み込まれ、神の慈愛の中に浸されて生きている、という認識は、聖書の神ではなく、むしろ、東洋的な神の概念に合致するものである。Dr.Lukeは続ける、
 

「神はそれくらいに近いんです。主は近い。ぼくらはこの神の中にいて、神のいつも慈愛を感じるんです。神のfavourを感じている。あなたのことをいつも見ている、あなたのことをいつも思いはからっている、あなたの人生をすべてわたしが導いている、わたしはあなたの主である、あなたの父であると。この感覚がこっから伝わってくるわけよ。危ないねえ。」(2:19:47-2:20:25)


 こうした「慈愛に満ちた神」の概念には、人間を罪定めしたり、罰したり、懲らしめ、訓戒したりする厳格な父なる神の性質、裁き主、贖い主としての神の側面はない。そこで、これは聖書の神の概念というよりも、むしろ、「東洋的な神」のイメージであり、ちょうど国家神道における「神と人との和」、「人と自然との和」で語られている「神」の概念に驚くほど酷似している。
 
『国体の本義』の「神と人との和」における東洋の神の定義をもう一度読んでみよう。
 

更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。<中略>

我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は<中略>、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。」


 要するに、これは万物には神が満ちているという汎神論的な考えであって、すべてのものはみな同じ神から生まれ、神の中に調和しており、世界は神の中に一つであり、人もその中に一つとなって調和して生きているという考えである。

これが東洋思想における「神」の概念であるが、Dr.Lukeもこれと同じように、聖書にはっきり記されている人間の罪を語らず、神と人との断絶を語らず、キリストの十字架を語らず、神の裁きを語らず、神をただ人間にとって優しく親しみ深い、常に慈愛を垂れ、感謝される、人間にとって恐ろしくもなければ、脅威ともならない存在へ変えてしまう。そして、そのような慈愛の神があらゆるところに満ちて偏在している、と言うのである。そして、聖霊を通して、人はそのような神の愛に浸され、神の御言葉の実体にあずかれると言うのである。

サンダー・シングも全く同じような形で、汎神論的な概念で神の遍在性を主張している。
 

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にあるこのことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態いあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(『聖なる導き インド永遠の書』、林陽訳、徳間書店、p.304-305)


 



・キリストの贖いと、キリストの完全な神性と人性の否定

だが、そんな考えでは、キリストは一体何のために地上に来られたことになるのか? Dr.Lukeは言う、父の独り子が「わたしたちと共有点を持つために人となった。」と。

「イエスは本質的にももちろん、神の独り子です。ですよね。ロゴス。初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。ですから、永遠の初め、あの初めっていうのは、創世記の初めとは違うよ。創世記の初めは時間の始まり。だからこういう、立ってる端っこです、時間の端っこ。だけど、ヨハネの言う初めは、時間とか空間がなかった初めです。
永遠に。その時からもうロゴスはすでに父の懐の中にいた。父の独り子だった。だから、この点においてイエスはユニークです。

だけど、わたしたちと共有点を持つために人となった。幕屋を張った。書いてあるよね、あの「人となられた。肉体となった」というのは原文では、「幕屋を張った」です。幕屋を張って、
その幕屋は私たちと全く同じ、人間。そして、その中におられた聖霊は、人間生活を経験して下さった霊なんです。だからただ単なる旧約における神の霊としてではなく、人間、イエスの中にいて、人間性を知っておられる霊なんですよ。」(2:29:17-2:30:17)


 だが、当然のことであるが、聖書は、キリストが「人間であるわたしたちと共有点を持つために人となった」とは全く言っていない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。 これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

神がその独り子を世に遣わされた目的は、人類の罪の贖いのためである。イエスは神の御前に永遠の贖いとして供えられた小羊である。ところが、Dr.Lukeはキリストの受肉から、十字架の贖いという目的を取り去って、全く別の説明をはめ込む。

つまり、キリストが人となられたのは、人間と共有点を持つため、つまり人間に近しい存在となるため、だというのである。このような考えは、以下のサンダー・シングの主張にぴったり重なる。
 

わたし(筆者注:イエスのこと)は、人のために人となった。彼らが神を知るようになるためである。恐ろしい異質な者としてではなく、愛に満ちた、人に似たものとして世に現れた。人は神に似て、神の姿に象られたからである。

人はまた、自分の信じている神、自分を愛してくださっている神に会いたいという、自然な願いをもっている。だが、父を見ることはできない。父のご性質は人の理解を超えているからである、父を理解するには父と同じ性質をもたねばならないからである。一方、人は理解できる被造物であり、それがため神をみることはできない。だが、神は愛であり、その同じ愛の力を人にお与えになっているため、愛の渇きを満たすために、神は人に理解できる存在の形をとられたのである。こうして、神は人となった。(『聖なる導き インド永遠の書』、p.200)


サンダー・シングのこの記述は、「西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、<中略>我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」という国家神道が述べる東洋的な神の概念にも合致するものである。

こうして、Dr.Lukeは、聖書の神の概念を東洋的な慈愛に満ちた神へとすり替えることによって、キリストの受肉の意味をも、人間にとって極めて都合の良い概念へと変えてしまったのである。すなわち、キリストの受肉の目的は、ただ神が人間に近しい存在となって人間と共有点を持つことにあったとすることによって、キリストがその十字架の死において、父なる神から人類に対する刑罰を身代わりに受けられることによって、その贖いを信じる者を永遠の滅びと裁きから救われたのだという事実を覆い隠し、人類の罪を否定し、その罪に対する神の刑罰としての十字架を否定し、信じない者に定められている永遠の滅びも否定する。そして、聖書の神から、このような「恐ろしい側面」を全て除き去って、人間にとってひたすら心地よく、都合の良い、人間を脅かさない「慈愛に満ちた神」の概念を作り出すのである。

Dr.Lukeは言う、キリストが人となられた肉体(幕屋)は「私たちと全く同じ、人間」であると。しかし、この言説も、誤りである。カルケドン信条には、キリストの人性について、「人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」」と定義されており、ここに「罪の他は」という、決して見落としてはならない極めて重大な相違点がある。

カルケドン信条のこの箇所は、聖書の次の御言葉を基本としている。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

このように、人間にはキリストにはない「罪」が存在する以上、キリストは「私たちと全く同じ人間」であるとは言えないのである。にも関わらず、Dr.Lukeが言うように、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられたとするならば、キリストは罪人となられたということになってしまう。

サンダー・シングはこの点でもっと大胆に、「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.292)と明言する。これはキリストの神性を否定し、キリストを罪人の一人へと貶める記述である。前にも述べた通り、サンダー・シングはここでキリストの十字架を、冤罪によって殺された無実の人間の死と同じように解釈し、キリストは罪人たちへの愛のゆえにすすんで罪人と同化しようと、喜んで濡れ衣を着せられて処刑されることに同意したのだ、と主張する。
 
他方、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏も、養子論的キリスト論に基づいて独自の主張を展開し、キリストは元来、単なる人間に過ぎなかったが、聖霊を受けることによって、神性を帯びたのだ、としている。
  

「養子論的キリスト論は『霊のキリスト論』とも呼ばれ、それは聖霊論的キリスト論です。つまり、人間なるイエスがある時を境にして、聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられたというのが、“養子論”の一般的な理解である。 このいわゆる養子論の系譜にありつつも、その生涯の発端から聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられていたというのが『霊のキリスト論』であり、養子論的でありつつ、いわゆる養子論とは異なる使徒教父たちに強く見られるキリスト論である。
そして“受肉論”が神とキリストの連続性を見ているのに比べて“養子論”の場合はむしろキリストと私達の連続性、しかも聖霊の役割の大きさということが注目される。
(『続 キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』、手束正昭著、キリスト新聞社、1989年、p.17)

 

ペンテコステ・カリスマ運動の影響を強く受けたDr.Lukeの言説も、今や、手束氏と同様の意味を持つものであると言える。まず、罪の問題を曖昧にしたまま、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられた、と主張することは、事実上、キリストを罪人の一人に貶めることに等しい。もしそうだとすれば、我々と全く同じ人間として生まれたキリストに、後天的に神性を付与したのは誰なのか、という問題が生じる。それが手束氏が言うように、ペンテコステ・カリスマ運動では、聖霊の役割だとみなされるのである。



・神の戒めを守ることよりも、正体不明の「霊」に浸される恍惚体験を「礼拝」にすり替える

Dr.Lukeは、以上のように、ペンテコステ・カリスマ運動がしきりに強調する異言を特徴とするいわゆる聖霊のバプテスマと同様の体験を通して、信者が水の中に浸されるように、「霊」の中に浸され、「神のfavour」(愛顧)を感じながら、フワフワした恍惚体験の中に自己放棄し、自分でも理解できない言葉をしゃべり続けながら、一種の神がかり状態に陥って悦楽に浸ることが、神との交わりであり、礼拝である、と言う。

Dr.Lukeは自分自身の「神」観が、以前とは全く違うものに変わったことを、自ら告白している。

以前には、明らかに、同氏の信仰はまだ、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)という認識にとどまっていたが、いつの間にか、それが汎神論的な意味において「どこにでも偏在しておられる神」という概念にすり替わり、「魚が水の中に生きるように、私たちは神の霊の中に浸け込まれている」という感覚的なものに変わって行ったのである。

そして、「神はここにおられる。ここに。ほら」と、自分たちは神のうちにいて賛美しているのだと言うのである。
 

「最近ね、ぼく変なんですよ。前はほら、内側に主がいてね、平安とか安息とかは内側で満たして下さるって。今はここなんですよ。とにかくね、ぼくね、おかしいって言われるほど 見えるわけよ。神が見てくれてる。父が、ほら、感じるわけよ、ここに。もう父が迫るわけ。」(2:16:10-2:16:48) 
神はここにおられる、ここに。もう、ほら、こう近寄って来られる。我々が賛美している時には、神は喜んで下さっている。これが、ここで感じられるわけ。私たちは、神のうちにいるんです。そして、神の愛顧、favourにあずかっている。神の愛が、みなさんの中に絶えず注がれている。これがあまりにも当たり前になっちゃってると、感じられなくなっちゃうんですよ。水の中にいる魚は感じないでしょ。

だけどある時ふってこう主のところへ向くわけですよ。水の中で手を動かしてみると、あ、水の中にいる。神の中にいる。だから、手を挙げるってことはものすごく大事。前回も言ったけど、これはsurrenderです。

そうすると、神がふってこう近寄って来るわけ。ふわってこう触れてくれる。そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。

そのために、浸けてくれるわけ、ご自分の霊の中に。みなさんを浸け込んでくれてるんですよ。
だから、worshipでsurrenderしてパ~っと委ねちゃうとき、チューニングして、自然と祈りも出る、声も出る、異言も出る。自然と内側が満たされる。そういう経験をそれぞれが味わってるわけ。これが、礼拝なんです。

こんなもんじゃないですよ。祝祷とか言ってね。ああいう儀式じゃないんです。ハレルヤ。生ける神との関係ですから、生ける神が皆さんを満たすことですから、そのお方に感謝と賛美を捧げることが、celebrationです。」(2:20:25- 2:22:54)


こうなってはもう完全に荒唐無稽な主張である。Dr.Lukeがやたら多用しているカタカナ英語にも注意が必要なのは、そこには大抵、聞きなれない用語で人の思考を煙に巻こうとするがごとくに、概念のすり替えが満ちているためである。

たとえば、上記のメッセージでは、「明け渡す、委ねる、服従する」(surrender)という言葉の意味は、御言葉への従順を通して父なる神の御旨に従うことではなく、ただ単に「手を挙げる」という、ほとんど何の意味を持たないアクションにすり替えられており、信者が手を挙げさえすれば、神の方から近寄って下さる、と言う。

多くの場合、Dr.Lukeはこのように人の行動とその背景にある動機や意味をバラバラに切り離して、ほとんど何の意味も持たない表面的な現象や行動の重要性だけを強調することによって、人が自ら御言葉に基づいて自分の行動を決め、一貫性をもって行動することの重要性を覆い隠してしまう。

つまり、現象と行動の重要性ばかりをひたすら強調し、その意味を軽んじることによって、信者が深い意味の裏づけなしにただ行動することを促すのである。異言の重視も、後述するように、その一環であり、意味不明の言葉を語り続ける重要性をひたすら強調することによって、言葉というものが、本来、意味と一体である事実を見失わせる。聖書の御言葉は神の命令であり、当然、一定の目的と意味を帯びている。意味を持たない御言葉というものは一つもない。だが、誰にも理解も解釈もできない異言という、意味を持たない音声の羅列を「神の言葉」として弄ぶことによって、言葉と意味を切り離し、何の目的も思考の裏づけもない、歌詞もなければ旋律もない歌のような無目的で空虚な音声作りに時間を費すのである。

礼拝についても、Dr.Lukeは神への崇敬の意味を強く持つ「礼拝」(worship)という言葉を意図的に避けながら、「祝賀、祭典」と言ったお祭り的な意味合いの濃い”celebration"を多用する。早い話が、感覚的高揚感ばかりを強調して、非日常的なお祭り体験、神がかり的な自己陶酔に、信者が理性を眠らせて身を委ねることが、神への礼拝であり、神との交わりだというのである。

こうして、人に自分で物事をきちんと考え、吟味することをやめさせ、信者の思考や知性を意図的に眠らせて、信者が疑うことや、警戒心を持つこと、識別力をもって自分で物事を考察し、行動を注意深く律する努力を自ら放棄させて、幼子のように無防備・無分別の状態になって、自分を開放して何者か分からない「霊」の導きに受動的に身を委ねるようにさせるというのは、礼拝というよりも、原始宗教レベルの「祭り」と呼んだ方がふさわしいと思うが、こうした神がかり状態を作り出すことは、ペンテコステ・カリスマ運動には極めて特徴的であって、それがこの運動では「聖霊のバプテスマ」と呼ばれ、聖霊が降臨した状態だとされるのである。

Dr.Lukeの言う「霊の中に浸け込む」というのも、「聖霊の(中に)バプテスマ(する)」という意味である。つまり、「聖霊のバプテスマ」を通して(彼らが)「神のことば」(とみなしている)異言を語りながら、恍惚状態となり、現実逃避のように自己放棄した一種のトランス状態に陥ることを通して「生ける神との関係」を持つことができ、神との合一体験を味わい、神に「感謝と賛美を捧げる」ことができる、というのである。

だが、次に述べるように、ペンテコステ・カリスマ運動の「聖霊のバプテスマ」のように、人の理性的思考を眠らせて、感覚的高揚感、陶酔感、恍惚体験に受動的に身を委ねさせる教えは、まさに人の主権を放棄させてそこに入りこもうとする悪霊の欺きのテクニックなのである。

神の聖霊は決して人が理性や知性を眠らせて、自分の主権を放棄し、全ての現象の源を御言葉に照らし合わせて吟味・識別することなく、正体不明の霊のもたらす感動体験にただ受け身に身を任せるよう促すことはない。なぜなら、聖書は、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)とあるように、信者が目を覚まして、自分の理性を働かせ、すべての霊が本当に神から来たものであるかどうか、自ら吟味し、識別するよう教えているからである。

悪霊も奇跡を行うことができる。人に好ましい感覚体験をもたらすからと言って、それが神から来た霊なのかどうかは調べてみなければ分からない。玄関のドアを無施錠で開放しておけば、泥棒も詐欺師も自由に入って来るであろう。そんな無防備な状態が信者にとって理想のはずがない。



・羊を「juicyでfreshなステーキ」にして味わうことを欲する貪欲な狼

しかし、Dr.Lukeのメッセージでは、常にキリスト教界に対する嫌悪と共に、プロテスタントの礼拝に顕著に見られる、信者が御言葉を朗読しながら、自分の知性によって御言葉の意味を理解する過程は脇に追いやられ、キリスト教界の礼拝儀式は真の礼拝ではないとして否定され、特にキリスト教神学は強い嫌悪をもって退けられる。上記のメッセージでも、Dr.Lukeは、キリスト教の神学理論にことさらに強い嫌悪感を示し、「肉汁の抜けて乾燥した筋だらけの肉」にたとえ、無価値なものとして一蹴している。

同氏は、神学及びキリスト教界のクリスチャンは「肉汁の抜けたステーキ」のように「筋だらけでパサパサで、美味しくない!」のだと揶揄する。そして、クリスチャンの人生は「juicyで美味しい」ものでなければならない、と言う。
 

「クリスチャンの人生は、美味しい人生です。これね、最近、いいたとえを思いついたの。ステーキで、ほら、肉汁が抜けちゃったステーキってあるじゃないですか。パサパサの、筋だらけのやつ。ね? 神学だとか、ね、何とかだとか、筋だけなんですよ。あんな何とか神学だとさ、バルトとか、ブルトマンだとかさ、あんなの読んでみなさん、内側が潤されますか? 筋です。美味しくない! 

ステーキが美味しいのは、肉汁が、juicyなステーキが、美味しいんでしょ。そのjuicyさを生み出すのは、聖霊です。聖霊が流れるとき、我々の内側に流れるとき、それが甘さであったり、平安であったり、喜びであったり、私の内側に、神の愛の実体、神の愛のサブスタンスを私の経験にして下さっているわけですよ。それがjuicyなんです。美味しいんです。

美味しいクリスチャンになりましょう! 筋のクリスチャンはもういいから。筋ばっかり…。美味しくない! 我々はjuicyにね、流すんです。美味しく、juicyなオーラを醸すんです。Amen? 」(2:11:43-2:13-27)


 

そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。」(2:21:12-2:21:58)


 果たして、このような主張にどんな聖書的裏づけがあるのだろうか?
美味しい」という表現は、当然、食べる主体がいてこそ成り立つものであるため、この文脈では、クリスチャンは誰かに「食べられる対象」だという事になる。

では、信者を「食らう」のは誰なのか。信者を「美味」だとか「不味い」とか判断するのは誰なのか? 信者は誰のために「美味しいクリスチャン」になるべきだと言うのか? Dr.Lukeは、「神が食べたいのは、juicyなステーキです」と言う。しかし、聖書の神はそんなことを信者に一度も要求してはおられない。

聖書が一貫して信者に教えるのは、御言葉に従うことによって、信者が父なる神の戒めを守ることである。キリストの愛の中にとどまることは、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが言うような「霊のバプテスマ」の中で自己陶酔に陥ることによるのではなく、ただキリストのいましめを守ることによってのみ可能である。

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)
 
主イエスは、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:1)と言われる方であり、ご自分の羊を食い物にされることはない。聖霊もそのようなことを信者に求めない。にも関わらず、Dr.Lukeは、こうした御言葉を全て無視して、神が願っておられるのは、信者が神にとって「juicyなクリスチャンになる」ことだと言う。だとすれば、同氏の言う「羊を食する『神』」とは、一体、何者なのか?
 
そこで、真っ先に思い浮かぶのは、次の御言葉である。

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い気は悪い実を結びます。」(マタイ7:15-17)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)
  
つまり、羊を食らい、なおかつ、羊が「肉汁の抜けた筋だらけのパサパサの肉では不味いから嫌だ」と不平を言い、羊は「肉汁たっぷりのjuicyでfreshなステーキでなければならない」と注文をつける者は誰かと言えば、むろん、羊を食い物にするためにやって来た貪欲な狼以外にはない。つまり、偽預言者である。

従って、Dr.Lukeが、「神」という言葉で指しているのは、自分自身なのである。次稿でも確認するように、Dr.Luke及びKFCは自己を神としているのであって、つまり、自分を満足させる餌食となるために、信者は「美味しいクリスチャンになれ」と言っているわけである。

そんな偽預言者としてのDr.Lukeが、キリスト教神学に嫌悪を催すのは当然であろう。なぜなら、たとえ昨日クリスチャンになったばかりの信者であっても、キリスト教の教義の初歩の初歩に目を通しただけで、人間の罪も認めず、キリストの十字架の贖いも否定し、信者を食い物とみなすDr.Lukeの言説が「滅びをもたらす異端」であり、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ものだということは、火を見るよりも明らかだからだ。
 
そこで、Dr.Lukeのキリスト教神学に対する憎しみの動機となっているのは、聖書の正統な教義そのものへの憎しみなのだと言える。正統な教義に照らせば、自分の言説がことごとく異端であることがすぐに暴かれると分かっていればこそ、同氏はキリスト教とその教義全体に強い嫌悪と拒否感を示さずにいられないのである。

その背景にあるのは、聖書の御言葉そのものへの憎しみである。同氏は御言葉の意味を可能な限り、歪曲するか、除き去りたいのである。神学は、人が解釈したものとはいえ、聖書本体の形を多少はとどめている。Dr.Lukeは自分自身が本当は偽クリスチャンであればこそ、神学、礼拝、キリスト教全体に向かって、絶えず嫌悪と呪いの言葉を吐かずにいられないのである。



己の欲に従って生きるために聖書の御言葉の二分性を否定する

Dr.Lukeの神学蔑視・軽視の姿勢はサンダー・シングにも合致する。サンダー・シングもまた、聖霊から力を付与されて神の実在との交わりを個人的に楽しむことこそが、信者に最も必要なことであり、それがキリストの証人になる秘訣であって、この単純な生き方を複雑な哲学的教えに変えてしまうような者は、不信仰であり、病にかかって死ぬ、と述べる。サンダー・シングは聖書学者たちを批判して次のように述べる。
 

「彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特徴といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。

 これに対して、真の実在の探求者は、聖書にまったく異なる取り組みをする。彼は実在との交わりのみを願い、いつ、誰の手によって福音書その他が書かれたかというような、ささいなことにはとらわれない。使徒たちが聖霊に動かされて書いた神の言を手にしていること、その真理たる証拠は歴史や論理に拠るものではないことを、彼らは知っている。<略>彼が求めるのは実在のみである。神との交わりの中に彼は真の生命を見出し、神における永遠の満ち足りをみる。
(『聖なる導き インド永遠の書』、p.426-427)

「<略>単純な信仰を持つ人は単純な心の糧を食べて、神の言葉、聖霊から力をいただく。彼らは人を助け起こすことに人生を費やし、完全な健康と幸せ、平和の中に生き続ける。しかし、このような単純かつ普遍的な心理と実在を、複雑な哲学的教えに変えてしまう者は、疑惑や不信仰といった消化不良にかかりやすい。どれほど魅力的にみえようと、このような哲学は栄養過多で心の糧とはならない、それを食べる者は、実在と交わる体験を楽しむこともなく病にかかり、ついには死ぬことになる。」(同上、p.427-428)


確かに、神学の中には無駄なものもあろう。キリスト教界の儀式的礼拝にも無駄はあろう。
 
しかしながら、そうしたキリスト教界の不備を指摘するという意味合いをはるかに超えて、Dr.Lukeやサンダー・シングの言説が持つ重大な危険性は、「実在と交わる体験を楽しむ」とか、「神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。」などと、信者が自分にとって都合の良い、感覚的に好ましい非日常的恍惚体験ばかりを強調することによって、そうした体験の出所を吟味し、それが本当に神から来たものなのか、悪魔に由来するものではないのか、御言葉に照らし合わせて識別する作業まで退けてしまうことにある。

これまでにも、鈴木大拙や、『国体の本義』などを例に挙げて指摘して来た通り、もともと東洋文化の中には、西洋のように分析的・知的に深く考えることを厭い、直観的・行的にものごとをとらえようとする性質がある。

東洋には、知的な分析や、深い考察を「難しい」という一言で退け、全く受けつけようとしない風潮さえある。もっと言うならば、鈴木大拙が述べているように、そのような知性による把握は人間の本性に反するという考えがある。そのため、知的分析や考察に無意識のうちに嫌悪を示す精神性が受け継がれて来たのである。
 

これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。」「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.195)


 そこで、Dr.Lukeやサンダー・シングやペンテコステ理論のように、聖書の御言葉を知性によって分析し、深く考察することなく、ただ「神との交わり」を感覚的・直観的にとらえて楽しむことこそ信仰生活の要であるとする主張は、もともと東洋人の以上のような感性に合致しているため、非常に好ましく響くのである。特に、常日頃から深く物事を考えることを嫌っている人たちには、このような主張は、自己弁明、自己正当化の意味も合わせて、まことに都合が良いのである。

そのような人々は、ペンテコステ理論のような話を聞くと諸手を挙げて賛成し、ほとんど思考停止と言って良い受動性に陥り、今までよりも一層、自分の感覚を中心に全てをとらえるようになり、御言葉に従ってすべての物事を吟味、識別するために、「目を覚ましている」ことをやめてしまう。

その結果、何が起きるかと言えば、「理性的、知性的、分析的」なものを嫌い、「情性的・意欲的、直観的、行的」なものばかりを重視するようになり、常に自分の情と感覚を頼りに物事を把握しようとして、自分にとって感覚的に好ましいものだけを「良い(=正しい)」ものとして受け入れ、自分の感性にとって不快と感じられるものを「悪い(=誤っている)」と決めつけて退けて行くことになる。そうなると当然、物事の判断が極めて主観的、短絡的、幼児的、自己中心的にならざるを得ず、受け入れる物事の範囲も極端に偏り、狭まって行く。判断力も著しく低下して、自分の感性を喜ばせてくれないものにはすげなくそっぽを向きつつ、情と感覚に訴えるしかけさえあれば、安っぽいメロドラマのような作り事の筋書きにも、疑うことなく飛びついては欺かれるということの連続になる。どんな物事をも疑いをもって慎重に吟味し、識別することをやめて、自分の感覚の奴隷となるので、理性・知性のブレーキが全く効かなくなる。

次の御言葉は、そのように自分の感性を満足させてくれる教えばかりを求めて、聖書の真理から空想話へ逸れて行く人々について警告している。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

ペンテコステ・カリスマ運動の言う「聖霊のバプテスマ」や、サンダー・シングの語る様々な英雄譚のような逸話などは、まさに「空想話」の筆頭格に該当する。それは人の五感には心地よく響き、何らかの高揚感や、感動、恍惚感を実際にもたらすかも知れない。だが、最も重要なのは、果たして、それが神から来た真理なのか、それとも悪魔から来た偽りの影響力なのか、という区別である。

東洋思想は、「人間の本質は、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」として、聖書の御言葉の二分性に基づく知的な分析や考察が、あたかも人間の本質にかなわないものであるかのように主張する。だが、本当にそうであろうか?

聖書はむしろ、最初から最後まで、人間の情や思いや感覚の方が、よほど欺きに満ちていることを教える。人類に対する悪魔の最初の誘惑は、人間の感覚的欲望に訴えかけることを通してもたらされたのである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」


そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったそれで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3:1-6)

エバが蛇にそそのかされて取った、食べてはならないとされた木の実は、他の木の実に比べても、とりわけ"juicy”かつ"fresh"で、「美味しそう」に見えなかったろうか?

人類が自分の感覚にとって好ましいものを「是」とした時点で、神のロゴスから感覚への転換が人に起きたのである。人は神の御言葉によって生まれ、神に離反するその決定的瞬間が来るまでは、神の御言葉の戒めを守ることによって命を得て生きていた。人を生かしていた命の源は、自分の感覚的満足ではなく、神の御言葉を守り、そのうちにとどまることにあった。しかし、悪魔の誘惑は、人が生きる命の根源を、神の戒めを守ることにではなく、自分にとって何が好ましく感じられるかという感覚的満足(欲)にすりかえたのである。

そうして自分の欲におびき出されて御言葉の外に誘い出された瞬間から、人は神から切り離されて、命の源を失い、自分の欲に従って罪の中を迷いながら生きるしかなくなった。サンダー・シングが言うように、難解な神学や哲学が病と死をもたらしたのではない。人間の感覚に基づく欲望こそが、人に命を与えることなく、かえって罪と死に至らせる原因となったのである。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」(ヤコブ1:14-18)

御言葉は人の命の源であり、御言葉はすべてを二分する。神が「光あれ」と言われたことによって光が造られたように、人は神の御言葉によって創造された。その御言葉の切り分けの区別を退けて、人が自分の感覚(欲望)に従って世界を一元化し、自分にとって好ましいものを全て良いものだと判断しようとしたときに、堕落が起きたのである。しかも、悪魔はそのように人が己の欲に従って、神に代わって勝手な判断を下すことを、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と言って人類をそそのかしたのである。

<続く>

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