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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

⑤ Dr.LukeとKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-3)

・魂の力によって人が自力で神に至ろうとする自己高揚の教え 東洋的神秘主義とキリスト教の混合としてのペンテコステ・カリスマ運動

先人の文献を辿って行くと、ペンテコステ・カリスマ運動がしきりに強調しているような「偽物の聖霊のバプテスマ」や「偽物の異言」、つまり、人間が正体不明の「霊」を受けて、これと親しく交わることによって、生来の自己の命を刺激して、超自然的な力を帯び、何かしら高次の存在(「神のような存在」)に高められるかのような偽りの教えは、かなり昔からキリスト教界に偽装して敬虔なクリスチャンたちの中に侵入を試みていた様子が分かる。

これまでにも書いて来たことであるが、人がキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることなく、自己の生まれ持った力を用いて神と合一できるという考えは、神秘主義思想であり、これは根本的にはグノーシス主義と同一で、もともとは蛇(サタン)が人間に吹き込んだ偽りの思想を原点としている。

そうした神秘主義思想は、西欧諸国ではキリスト教によって封じ込められていたので、主に東洋世界で発展して来た。インドの修行僧や、異教の霊的指導者などは、人の内に眠っている生来の潜在的な力を引き出すために、祈りに加えて、断食や、修行、瞑想などに励み、その結果として、彼らが「神との合一」と呼んでいる神秘体験にあずかるだけでなく、空間や、自分の肉体の限界を超えて、世界の多くの人々や事象に霊的影響力を行使する秘訣を会得するのである。

暗闇の勢力は、人が特別な修行や瞑想や祈祷などを経験することによって、生まれながらの人間の自己の中に眠っている潜在的な能力を引き出し、人間が通常の人間の及ばない超自然的な力を手にするのを助ける。

そのような超自然的な悪魔的な力を帯びた「霊的指導者」が、インドやアジアの国々の中で影響力を行使するだけでなく、キリスト教世界にも影響を及ぼそうと試みていることについて、すでに一世紀近く前に、ジェシー・ペン-ルイス (1861–1927)などが著書において鋭い警告を発していた。

聖書は、主イエスが悪霊にとらわれていた人々を解放されたように、神の聖霊に超自然的な働きをすることができると同様、悪魔とその率いる堕落した諸霊も、偽りの奇跡を行うことができることを示している。

特に、偽預言者、偽キリストなどの、聖書の教えを曲げ、神に反逆する異端者は、自分たちがあたかも神の使いであるかのように見せかけるため、様々な超自然的な惑わしの力を魔法のように駆使して、人々を欺くと警告する。

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。」(マルコ13:22-23)

ペン-ルイスは、このように、御言葉に背く人々が神の聖霊によらずに、人間の中にもともと存在している堕落した魂の力を発揮して行う超自然現象を、聖霊に由来する「霊の力」と区別して、「魂の力」と呼んだ。(ここで言う「魂」とは、人の生まれ持ったアダムの命のこと。)
 

「魂の力」とは何でしょう?それは「生まれながらの人」が用いる生来の潜在的な力であり、神の霊からではない力です。それでは、「霊の力」とは何でしょう?それは「霊」なる神ご自身の力であり、霊の人を通して働く力です。霊の人は御霊から生まれ、御霊によって歩み、カルバリの血の根拠に立って神に祈ります(たとえば、黙示録八章三~五節参照)。」
(『「魂の力」対「霊の力」』、ペンールイス著、「第一章 終わりの時代の危険に関する洞察


こうした「魂の力」を発揮する秘訣を会得した神秘主義者たちは、今日も、独自の「祈祷」を通して、魂の力を動員し、彼らの願いを現実にすべく、日々祈願を重ねている。従って、こうした人々の行使する「祈り」とは、ただ単に存在しない神に捧げられる無意味な所業というよりは、悪霊の力を動員して、その影響力を標的に向かって行使するための呪術的な要素を帯びたものと言えるのである。
 

「『魂の力』という言葉の魅力や魔力は、東洋でだけ知られています。東洋では、マハトマのような聖人はこの力を行使することができると信じられています。彼らは過去数世紀にわたってインドの霊的指導者でした。そして、昔と同じように今も、超自然的な力を持つと信じられています。彼らは人を強める力を持つだけでなく、人の意志をコントロールする力も持つと言われています

インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」

私たちの周りでも、意識的・無意識的に、この魂の力が発達・行使されつつあるのです。目に見えない悪の軍勢は、この「魂の力」を利用することができます。」


「イスラム教徒はみな、世界を動かす力の秘訣は祈りにあると信じています。そして、彼らは信じることを実行します。彼らは『祈り』、ヨーロッパ諸国の議会が覆されることを信じます。これはキリスト教国に対する何という教訓でしょうか!」


「ヒンズー教徒とイスラム教徒は、祈り――瞑想行為――によって結ばれて、共に『魂の力』を生み出す働きに従事しています。彼らは、東洋における西洋諸国の権力や威信を失墜させるために、『魂の力』を西洋諸国の上に投影しているのです。これは歴史上最大の反乱です!……」(同上)


ここではヒンズー教やイスラム教のことしか触れられていないが、禅、仏教、国家神道の礼拝なども、全てここに含まれる。たとえば、なぜ安倍首相が公務の合間に、政教分離の原則に反して、神社参拝を繰り返しているのかも、そこから理解できよう。政治指導者が己の支配を強化するために、オカルト的な力に頼ることは、東洋諸国では珍しいことではないのである。

悪霊に由来する呪術的・超自然的な力は、瞑想、断食、祈祷と言った特別な修行を通して引き出され、そうした方法で、導師と呼ばれる霊的指導者は、己の肉体を超越して多くの人々に影響力を行使する秘訣を会得する。
 

「この『魂の力』は、祈りや、断食や、宗教的な瞑想によって開拓されると信じられています。」

「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる」

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」

「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」

「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」(同上)


このように、人が生まれ持った自己、すなわち、「魂の力」を高揚させ、啓発することによって、超自然的な力を帯びるという、「偽りの霊性」は、主に東洋世界で受け継がれて来たが、ペン-ルイスは、こうした悪霊に由来する力が、あたかも神の聖霊の働きを装って、キリスト教界に公然と流入しようとしている危険性に気づき、警告を発していたのである。

ペン-ルイスは、今日、キリスト教界で流行し、あたかも聖霊の賜物であるかのように誇示されている「聖霊のバプテスマ」や「異言」の多くが、上記のような堕落した「魂の力」であると指摘する。

 

「ですから、今日流行している「魂」の力は「霊」ではありません。なぜなら、それはまったく、人の堕落した性質に属しているからです「魂の能力」を発達させることは、「生まれながらの人」の中に眠っている能力を引き出して、働かせることです。」

魂の力を完全に発達させるには、超自然的力が必要なようです。そして、堕落以降、魂の力は神の力によってではなく、サタンの力によって発達させられています。こう考えると、これまで説明できなかった多くのこと――ここ数年の間に神の子供たちの多くが経験した、悪魔の超自然的働きの台頭――を説明することができます

これはまた、神からのものであると思われた「力のバプテスマ」が、どうして、深い謙遜、砕かれた霊、人々に対する優しい愛情、自己放棄を生み出さずに、個人的な力を誇示する「利己主義」という結果になりえたのかをも説明します。
(同上、第五章 魂的なものを「霊的」と呼ぶ危険性」)


以上のような警告を踏まえると、なぜ今日、Dr.LukeのKFCなどを含む、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、自分たちは聖書の神を信じていると言って、「聖霊のバプテスマ」をしきりに主張しながら、他方では、公然と己の肉欲に邁進して、特権的で贅沢な生活を人前に見せびらかしたり、誰にも理解できない「異言」を人前で滔々と披露したり、他の人々を床に倒れさせたりするような、圧倒的な超自然的力を誇示することにより、自分たちが他のクリスチャンに比べていかに優れた存在であるかを誇示して自己満悦に浸り、自分よりも弱い信者を攻撃し、踏みつけにしては、隅に追いやろうとしているのかが理解できる。

それは彼らが受けた「霊」が、神の聖霊ではなく、人の内にもともと眠っている堕落した力に由来する自己高揚を目的とする偽りの霊だからである。

神の聖霊は必ず、人の自己をカルバリの十字架の死へもたらす。そこにあるのは悪魔的な高慢や、自惚れや、自己宣伝とは対極にある、キリストと共なる自己の死という究極の謙遜である。十字架は人の生まれ持った自己の欲望、自惚れ、自己義認、プライドなどに対する死の判決であり、これを経由した人にのみ御霊は注がれる。

主イエスが「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)と言われた通り、御霊はただキリストを証し、キリストに栄光を帰するのであって、人間の栄光を求めることは決してない。

このように、真に神の聖霊を受けた人々が、ただキリストだけが栄光を受けられるようにと願い、決して自己を証せず、自分自身の栄光を求めないのに対し、神の聖霊ではなく、悪魔に由来する「この世の霊」を受けた人々は、自分を高く掲げ、己の賢さ、裕福さ、他の人々にはない優れた賜物や、恵まれた特権的な地位などを誇って、自分がいかに他の信者に比べて別格の存在であるかを強調する。
 
それは自己高揚、自己栄化、自己義認、自己満悦などにより、人の自己を肥大化させて、神と人への反逆に至らせる高慢の霊である。
 
そのような偽りの霊を信じて受け入れた人々は、他者を押しのけて肉欲に邁進するだけでなく、必ず、やがて自分を神以上に優れた者とするという高慢に至る。彼らは、聖書の教義を歪曲し、贖い主であるキリストを否定して、自ら救いから除外されて行くだけでなく、やがて最終的には、「自分は神である(私はキリストである)!」と名乗ることによって、神の地位を乗っ取り、人々にまことの神ではなく自分自身を拝ませて、滅びの道連れにして行くのである。

こうした人々が神の裁きを免れて滅ぼされないで済むことは決してない。

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
」(Ⅱペテロ2:1-3)

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)



「東洋的な偽りの霊性」の危険 インドの行者サンダー・シングの霊に自己を乗っ取られたDr.Lukeとcandy氏

これまでにも述べて来たことであるが、聖書に登場する終末の背教の象徴であるバビロンとは、キリスト教と東洋的神秘主義思想の混合を指しているように筆者には思われてならない。

終わりの時代の背教においては、インドやアジアの「霊的指導者」たちの間で開拓されて来たような、人の生まれながらの「魂の力」に由来する偽りの「霊性」が、あたかも神の聖霊の働きであるかのように偽装して、キリスト教界に潜り込み、キリスト教との一大混合物を形成することが、大きな特徴をなすものと考えられる。

そのようにして「西洋キリスト教と東洋神秘主義思想とを合体」させようとする試みの一つが、「キリスト教には父性原理の排他性ばかりが強すぎて、受容する母性が足りない」などと主張して、あたかもキリスト教そのものに欠陥があるかのように述べて、これに東洋的な母性原理をつけ加えることによって、聖書の御言葉を骨抜きにしようとする運動である。

(ここで言う「母性的要素」というのは要するに「造られたもの(被造物)」としての人類(男から造られた者が女であるのと同様に、神から造られたものとしての人類)を象徴的に指しており、従って、これは堕落した被造物としての人類を神に「つけ加えよう」とする思想なのだと言える。)
 
すでに確認した通り、ペンテコステ・カリスマ運動はその一つであり、カリスマ運動の指導者である手束正昭牧師は、養子論的キリスト論を唱えてイエスの定義を歪曲し、聖霊を「母なる霊」とみなし、「聖霊のバプテスマ」を受けることによって、信者が高次元の存在に引き上げられ、「ナザレのイエスのように質の高い人生を生きることができる」かのように教える。

このような教えは、聖書の三位一体の概念や、イエスの概念を歪曲し、神の聖霊ではない
「異なる霊」との交わりを通じて、信者が神との合一に達しうると教える偽りの教えであり、もとは東洋的神秘主義に由来する「偽りの霊性」に信者を駆り立てる教えである。
 
(「神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(箴言40:6)
と聖書にあるにも関わらず、聖書や、聖書の神ご自身に不備や欠陥があるかのように主張して、何かを「つけ加えよう」とする者たちの精神の何と高慢で御言葉に逆らっていることか。)

さて、同様の危険が、サンダー・シングの教えにある。聖書の御言葉の知的学びを軽視し、「神(実在)との交わり」という個人体験を何よりも重視するサンダー・シングの教えは、ペンテコステ・カリスマ運動と基礎を同じくするものだと言える。

Dr.Lukeとサンダー・シングとの接触は、2008年頃に始まったものと見られ、同氏は「ニッポンキリスト教vs.サンダー・シング」(2008年1月12日)、「サンダー・シングの霊性」(2008年1月14日)、「サンダー・シングのことば」(2008年1月17日)などの一連のブログ記事で、愛知家のさっちゃん(名古屋のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒、現在は「十字架の恵みが溢れて2」を執筆するcandy氏)の紹介を通じてサンダー・シングの教えに傾倒して行った様子を自ら記している。

Dr.Lukeはサンダー・シングの教えを「東洋的霊性」として高く評価し、これを聖書に照らし合わせて検証・批判することなく、無批判にその教えを取り入れ、さらに標題からも分かるように、サンダー・シングの教えを霊的な潤いを失ったニッポンキリスト教界に対比させて、キリスト教界を非難する格好の材料として利用した。
  

「インドを愛したシング師は、西欧流のキリスト教ではなく、東洋の霊性に通じるイエスを再発見し、自分の生活と伝道のスタイルに、インドの行者サドゥーの形式を採り入れました。」

「西洋キリスト教ではなく、東洋的な霊性をキリストに見出したというあたりは、ウォッチマン・ニーとも通じる感じがしますし、私的には大いに惹かれるところです。」サンダー・シングの霊性」より抜粋


このように、Dr.Lukeがサンダー・シングの教えに無批判に傾倒して行った最大の原因の一つは、それが人の五感に巧みに訴えかける魅力的で「良さそうな教え」だったことに加え、サンダー・シングの教えの根底に、伝統的なキリスト教に対する敵意と侮蔑があって、個人的な神秘体験を通して、通常のクリスチャンにはかなわない霊的高みに到達し、それによって伝統的キリスト教を超越することができるかのような偽りが述べられていたことであったと見られる。

つまり、伝統的なキリスト教に対するサンダー・シングの容赦のない蔑みと非難の感情が、ニッポンキリスト教界に対するDr.Lukeの嘲笑と非難にぴったり重なったのである。

サンダー・シングは、インドの裕福なヒンドゥー教徒の領主の家に生まれ、幼い頃からサードゥーを目指してインドの古典的哲学やコーラン等の教えに通じ、また、ミッションスクールで教育を受けるなど、恵まれた英才教育を受けた。しかし、キリスト教に回心して後に、すでに書いたように、同氏は西欧キリスト教の「傲慢さ」や「排他性」に幻滅し、それ以後、東洋諸国の人々を対象に、「神は愛だから誰をも裁いたりなさらない」という、聖書とは全く異なる「愛と受容の(母性的)福音」を宣べ伝えた。

幼い頃よりヨーガやサマーディ(瞑想)などを習得していたサンダー・シングは、キリスト教徒を名乗るようになった後も、瞑想を通じて霊界と交信し、「神(実在)との交わりを楽しむ」ことを強調して、多くの神秘体験を経たことを著書に記している。同氏の著書『聖なる導き インド永遠の書』の約半分は、霊界における死霊との交流というオカルト的な話題に割かれており、こうしたサンダー・シングの教えは、明らかに、キリスト教と、東洋神秘主義が合体した混合の教えである。

Dr.Lukeは(candy氏もそうであるが)、その時期、時期によって複数の霊的先人の教えを積極的に取り入れては、その受け売りを繰り返しており、もともとそれらの引用のすべてが本人の内なる信仰と結びつかない、表面的な借り物に過ぎなかった可能性が高い。

場合によっては、それらのアイテムは、偽りの霊が自分自身を敬虔なキリスト教徒に偽装するために寄せ集めた飾りのようなものであった可能性も考えられる。
 
偽りの教えを信じる人々は、初めから自分たちが神やキリストであると名乗って反キリストとしての正体を現したりはしない。こうした運動の支持者たちは、信者たちの信用を得るために、自分たちが宣べ伝えている教えが、あたかも聖書に合致するキリスト教であるかのように見せかけるために、敬虔な信者たちの告白など、様々なツールを駆使する。

だが、彼らには一つの特徴があって、そのようにして、一方では、自分はクリスチャンの仲間であり、とりわけ熱心に聖書の真理を探究しているかのように振る舞いながらも、他方では、従来の伝統的なキリスト教全体に対する嫌悪や侮蔑を示して、自分たちは凡庸な信者たちの決して知ることのない霊的高みを実際に知っている別格の存在なのだと自分を誇示するのである。

すでに書いたように、筆者もcandy氏からサンダー・シングの教えを紹介されたが、この著書の危険性に気づいたため、candy氏とLuke氏の両氏に、このような聖書に反する偽りの教えを言い広めることは重大な罪に当たり、それを奉ずれば、自身の救いをも失う危険があるため、この偽りの教えを公に撤回して放棄することを強く勧めた。放置しておけば、必ずや、異端者の霊に人格全体を乗っ取られるであろうと判断したのである。

だが、時すでに遅く、同氏らはあまりにも深くサンダー・シングの教えに魅了されていたので、筆者の忠告を真に受けることなく、むしろサンダー・シングを擁護して筆者に異端者の濡れ衣を着せ、この危険な教えと公に手を切ることをしなかった。

その結果、何が起きたのかと言えば、両者ともに、聖書から公然と逸脱して、自分自身をキリスト(神)と同一視し始め、自己の神格化という現象が起きたのである。

以下にも述べるように、Dr.Lukeのメッセージには実に多くの点で、今日もサンダー・シングとの共通性が見られる。明らかに、サンダー・シングの霊に人格が乗っ取られて行く様子が、Dr.Lukeのメッセージ内容の変化から見て取れるのである。

Dr.Lukeがウォッチマン・ニーの教えに熱中していた頃には、同氏はまだ人類の罪や、キリストの十字架の贖いを公然と否定するまでには至っていなかった。しかし、同氏がサンダー・シングの教えを受け入れた後には、同氏の中からは、人類の罪や、贖いとしてのキリストの十字架と言った、生まれながらの人間にとって都合の悪い概念が消え失せ、サンダー・シングと同じように、自らを罪人と一体化するために死んだという、人間の罪を指摘しない、人間にとって都合よく歪曲された「異なるイエス」像と、「感覚世界において神の臨在を味わい、神との交わりを楽しむことによって、人は神と合一できる」という、サンダー・シングとペンテコステ運動に共通する神秘主義思想だけが残ったのである。

今日、サンダー・シングはすでに死んでいないが、その著書を通して、悪霊に由来する力を未だ読者に行使することが可能であるため、信者は注意しなければならない。以前にも書いた通り、サンダー・シングの文体には、東洋人の感性に巧みに訴えかける強力な影響力があり、その影響力は、ただ単に同氏の巧みな文章力から来るものではなく、サンダー・シングが生前に開拓した悪霊に由来するオカルト的な霊的影響力であるため、注意が必要である。
 
今日、悪霊どもは、サンダー・シングの文章を通して、サンダー・シングに見せたのと同じような、「偽りの霊界の幻」を、読者たちにリアリティであると信じさせようと狙っている。それと知らずに、信者が彼の著書をキリスト教の書物だと考えて手に取り、そこに描かれている魅力的で「良さそうな」幻想の世界に没入して行くと、サンダー・シングを導いていたのと同じ高慢の霊を、自分の中に取り入れてしまうことになりかねない。

サンダー・シングに限らず、鈴木大拙もそうであるが、東洋思想家の著書を引用するときは、特に注意が必要である。もし、その文章を聖書に照らし合わせて、その偽りを論破して、影響力を封じ込めることをせず、無批判に引用すれば、信者はその影響力を肯定して自分の内に取り入れてしまうことになる。
 
そのようなことが起きると、信者の内側に入りこんだ偽りの霊は、聖霊に偽装しながら、長い時間をかけて、宿主を欺き、徐々に宿主の人格と一体化して行く。悪霊は、時間の経過と共にその影響力を増し加え、やがて、時が来ると、宿主の人格を完全に乗っ取り、これを食い破る形で、聖書に反する自らの主張を公然と示し、可能な限り大勢の関係者を欺きに巻き込みながら、本人もろともに、神に対する反逆へと駆り立てて、破滅に至らせるのである。

そのようなことが起きないためには、信者は常日頃から自分の行う信仰告白の内容や、他者から聞いた教えを、良さそうだからといってすべて無批判に肯定することなく、常に聖書に照らし合わせて、御言葉との矛盾がないかどうかを点検・吟味し、聖書にそぐわない教えを拒み、これと訣別を宣言する必要がある。その作業をやめた場合には、たとえ信者であっても、次のようになることは避けられない。

「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住み着くのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(マタイ12:43-44)

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」(Ⅱペテロ2:21)

<続く>

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