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栄光から栄光へ、鏡に映すように、主の栄光を反映させながら、キリストの似姿へと変えられていく。

7.不透明な資金の流れと、人権侵害がつきものの村上密の反カルト脱会運動
 
さて、昔から、権力者は自分たちにとって不都合な言動を行う人間に「狂人」のレッテルを貼り、その言論を「狂言」や「ヒステリー」と決めつけてはその主張を退けて来た。
 
その方法は時代を超えて変わらない。そこで、昨今の牧師たちや、その信奉者たちが、不都合な信者を弾圧する方法も、これとそっくりになるのは当然である。

たとえば、当ブログに関して言えば、筆者が一審で勝訴した杉本徳久や、杉本と文通して筆者の個人情報を杉本に提供していたKFCの唐沢治が、これまで筆者の言に何とかして「精神異常」のレッテルを貼ろうと腐心して来たことにも、それは見て取れるし、むろん、筆者がかねてより反聖書的な運動を率いていると指摘して非難している村上密や、唐沢治と組んで杉本に筆者の個人情報を提供した坂井能大が、筆者の主張に「感情論」のレッテルを貼っては、己の責任から逃げようとしていることにも共通している。

この人々は、とにかく理詰めの勝負が苦手で、細かい議論を緻密に積み重ねる代わりに、浅はかなレッテル貼りによる印象操作に逃げ、早々に議論をおしまいにする傾向がある。

だが、読者には、このような印象操作に惑わされることなく、じっくりと物事を賛否両論から議論してみることをお勧めしたい。

たとえば、村上密の最新記事「捜す」を読んで、あなたは何を感じるだろうか?

この記事では、統一教会に入信して家族を捨てた青年を、村上がアメリカまで捜索に行き、居場所をつきとめて、家族との連絡を復興するのに役立った、という手柄話が披露されている。

この記事を読んで、複数の疑問が生まれなかった人は、よほどマインドコントロールを受けやすい人間だと言えよう。

第一に、この体験談には、事件が発生した年月日が記されていない。村上はこれを最新記事として書いているので、軽率な読者は、ここに書かれていることは、最近、起きたことだと勘違いするかも知れない。

だが、筆者は、この手柄話は、村上がさんざん擦り切れるまで繰り返してきた昔話でしかないことを知っている。それでも、年月日を書かずに最新の記事に掲載すれば、あたかも最近、こういう目覚ましい働きがあったかのように、読者は受け止めるかも知れない。

そういう誤解が生まれることを予め分かった上で、あえて年月日を記さずに記事にすることも、読者への印象操作の一つなのである。

第二に、この記事を読んで、あなたは村上がカルトに入信した青年をアメリカまで捜索に行くための資金を誰が出したのか、という疑問を持たれたであろうか?

この点に注意が向けば、あなたは勘の良い人間だと言えよう。「ふーん、それは良かったですね・・・」で終わりになってしまう人は、文章を注意深く読解する力のない、マインドコントロールに対抗する力がほとんど養われていない人である。

こうして、村上が行っているカルトからの脱会運動にまつわる不透明な資金の流れの話に筆者が水を向けると、早速、村上は「推論」だ、「臆測」だ、「創作」だ、と噛みついて来る。

これは村上が10年来用いている古典的手法で、村上は自らのブログ記事「村上密を「創作」3」でも、村上の運動を巡る不透明な資金の流れについて指摘した筆者を、あたかも「自分のブログに感情的に思いのたけを書きまくっている」だけで、根拠のない話を膨らませているだけであるかのような印象操作をしている。

村上が以前から、自分に不都合な事実を指摘される度に、批判者を人格攻撃することを繰り返して来たことは周知の事実である。

だが、筆者は根拠のない話を膨らませているのではない。教会というところを幼い頃から見て知っているので、比較的規模の大きい教会であっても、教会で捧げられる献金だけでは、海外まで人を探しに行く財源を得ることなど無理であることが分かっている。

だとすれば、教会員でもなく、ただカルトに入信したために、居場所が分からなくなった青年を探すためには、教会とは別に、誰かが特別な資金を村上に提供しなければならない。そして、そのようなことをしうる動機や手段を備えているのは、やはり、カルトに入信した信者の家族しかない、という結論がすぐに出て来る。

このように、村上密らの行っているカルトからの脱会運動には、昔から不透明な資金の流れがつきもので、そこには、教会の会計処理には決して上がってくることのない、莫大な資金がつぎ込まれて来た。この問題は、キリスト教以外の宗教では、はるか昔から指摘され続けて来たのであって、そのことを未だ知らないのは、キリスト教界のごく一部のお人好しだけである。

いわば、お人好しのクリスチャンだけが、こうした問題があることに気づかず、「カルト宗教から信者が取り戻されたなら、良かったことではないか」などと、うわべだけの成功談にまんまと欺かれ、当ブログの指摘を取り合う価値もない「創作」と決めつけ、嘲笑い、耳を塞いで来たのである。

さらに、このカルト脱会運動には、人権侵害という問題が、切っても切れない関係として結びついていることも、昔からよく知られた事実である。

ところが、キリスト教界の中では、このことはほとんど議論されることもない。

村上密らの率いる反カルト運動は、昔から、カルト宗教からの「拉致・監禁」による信者の強制脱会という形で、手柄を打ち立てて来た。

筆者はこの問題について、2008年に甲師の物語としてまとめたところ、村上密は早速、この物語にも噛みついて来て、これが自分を揶揄・嘲笑するために作られた「創作」だと、筆者を非難し始めた。

だが、問題は、甲師の物語が創作であるということではない。そんなことは最初から分かり切っている。

要するに、村上にとって致命的なまでに不都合だったのは、筆者がこの物語の中で、村上が決して指摘されたくなかった、村上の率いるカルトからの信者脱会運動にまつわる様々な問題――すなわち「拉致・監禁」という人権侵害や、信者の家族からの不透明な資金提供や、脱カルト運動そのものの異端性・反聖書性――を赤裸々に描き出したことである。

カルト宗教からの信者脱会を、手柄として誇って来た村上にとって、自分の運動が、不透明な資金提供と終わりなき人権侵害を前提として成り立つものだということは、決してキリスト教界の内部では、知られたくない秘密だったのである。

だが、村上がいかに筆者の論を「創作」と決めつけようと、村上ら牧師の行って来た脱会運動が、人権侵害の伴う強制的な脱会活動であり、そこで刑事事件に値するほどの犯罪が行われていた実態は、キリスト教以外の宗教においては、ずっと昔から周知の事実であり、大いなる非難の対象となって来た。むろん、信者を奪われた宗教の側から、いくつもの訴訟さえも起こされたのである。

たとえば、次のの記事は、信者を奪われた統一教会の側から、村上らの活動の暴力性・犯罪性に対して向けられた非難である。

ただ統一教会側からの非難だから、という理由で、目を背けないようにされたい。この記事を読めば、カルトに入信したというだけの理由で、村上らが統一教会の信者らに対してどれほど過酷な扱いを容認していたかが分かる。長いが全文引用しておきたい。
 

「洗脳」「マインドコントロール」の虚構を暴く

第五章 国内の「マインド・コントロール」の犯罪

国内の強制的改宗活動家たち

日本国憲法においても、第二〇条において信教の自由と政教分離が謳われているわけですから、この二つの助言書は日本においても有効なものであると考えられます。しかし日本においてはこうした米国の良識ある学者たちの見解は理解されていないばかりか、信教の自由や人権問題に対する意識があまり高くないために、拉致・監禁による強制改宗事件がいまだに跡を絶ちません。

 山崎浩子さんの拉致・監禁、脱会事件以降、統一教会に反対する活動家による統一教会信者への「拉致・監禁事件」は年間三百件以上起こっているにもかかわらず、それらは全くといっていいほど事件として扱われてきませんでした。

これらの「拉致・監禁事件」は、相手の自由意思を踏みにじったうえ、しかも身体的な自由を奪っての説得であり、絶対に許されるものではありません。しかし反対活動家は拘束の事実を認めたうえで、本来刑事および民事事件として扱われるべき事件の本質を、親子問題にすり替えることによって拉致・監禁を正当化してきました。

 現在の主要な強制改宗活動家としては、
<筆者注:文中記載の村上以外の牧師の氏名を省略する> 

村上密牧師(日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、七条キリスト教会)
<略> などが挙げられます。

これらの日本の活動家たちは、強制的改宗活動をいわば職業的に行っており、信者の父兄に働きかけて拉致・監禁の作戦と方法を細かく指導し、それによって多額の金銭を父兄から受け取っています。

彼らは両親や親族などを使って信者を暴力的に拉致しますが、そのとき彼らは絶対に直接手を出しません。反対牧師たちは「拉致・監禁」に対して、決まって異口同音に「自分たちは拉致・監禁を命じた覚えはない。あれは父兄たちが勝手にやっているのだ」と強弁しています。これは自らの手は汚さない、極めて「卑劣なやり方」であるといえますが、明らかに刑法第二二〇条「逮捕・監禁罪」の「教唆犯」(同六一条)に当たるものです。


拉致・監禁による強制的暴力改宗活動の実態

「反対牧師」が親や親族を操作して行っている拉致・監禁は、CANの活動と同様に非常に強制的・暴力的なものであり、明らかに犯罪性が認められることは多くの証言によって明らかになっています。

 一九九一年四月七日に、職業的な「脱会屋」である宮村峻氏らによって拉致・監禁され、八カ月にわたって拘束されながらも、奇跡的に脱出した鳥海豊さんの著書『監禁250日証言「脱会屋」の全て』(光言社)には、強制的な拉致の様子がはっきりと書かれています。

 「どうしてもダメか」
「どうしてもダメですよ。……」
「どうしても駄目なら、力ずくでも連れていく」
「……帰らせていただきます」

と言って出ようとした。そうしたら、

「そうはいかない」
と、突然そこにいた男性が、ダーと十人ぐらい来て、押さえつけてきた。こちらも暴れるけれども組み伏せられてしまう。折り重なってきて、体の自由がきかない。(『「脱会屋」の全て』16-17頁)

みんなあっちこっちから手をかけて、私は羽交い締めにされ、ワゴン車に押し込められた。(同書18-19頁)

さらに『週刊文春』(一九九三年四月二十九日号)に掲載された山崎浩子さんの手記にも、彼女が強制的に連れさられたことが書かれています。

 「『しまった、やられた』私のこわばった頬を、とめどなくあふれ出る涙が伝う」「みんなの視線が、私に突き刺さっている。逃げることはできない。いや、逃げてはいけないと思った」「姉達が拉致・監禁をするなんて――」

「私を真ん中にはさむようにして、姉と叔母がシートに身を沈める」「車はどこにむかって走っているのか、全然分からない。これからどうなるのか、それもまた、全く見当がつかなかった」

 元統一教会員で、現在は反対活動を行っている田口民也氏の『統一協会からの救出』(いのちのことば社)には、彼の指示によって両親から拉致・監禁されたN君の手記が載っていますが、そこには到底逃げ出せないような環境に無理やり連れて行かれた様子が描写されています。

そのうちに、あるアパートまで連れて行かれた。それが、逃げられないように頑丈にしてあるのを見て初めて、私はここまで来た意味がわかった。………こうして数か月間のアパート生活が始まったのである。

この本にはN君を拉致した父親の手記も載っていますが、そこには息子を拉致するためにロープやガムテープなどを用意したという生々しい記述があります。

親戚に初めて息子の状態を伝え、協力を願う。十名の協力を得ることができた。連絡があってから、一週間が過ぎる。移動用ジャンボタクシー、身につけるロープ、ガムテープなどそろえる。

これらは父兄が主体的に思いついてやるのではなく、明らかに牧師が事細かに指示してやらせているのです。

田口氏は著書の中ではっきりと、

「まず、体を集団ナルチシズム(集団生活および彼らの監視)から隔離する必要がある」

救出は、その組織から、体を引き離すことはもちろんであるが、体だけを統一協会からだしても、それで安心してはいけない。体だけではなく、心や霊までも解放しなければ本当の救出にはならない

と書いており、信者の改宗にはまず物理的な隔離が必要だとの主張をしています。そしてこの本には「第三章:救出のためのテキスト」と称して、牧師が親に出している具体的な指示が述べられており、これは改宗のためのプログラムが牧師によって作られたマニュアルに従って行われていることを示唆しています。

信者は監禁された状態のまま、反対牧師による長期間の棄教の強要と説得を脱会するまで受け続けます。長い場合は数カ月に及ぶこともあります。そしてまず現状では本人が拉致・監禁された場合の救出、あるいはそこからの脱出は不可能な状態なのです。

鳥海豊氏も、

「お前はもうここから出られない。ここから出るためには、落ちるしかない」(『「脱会屋」の全て』21~22頁)

と宮村氏に言われています。もし脱会の意思を表明すれば、直ちに半ば強制的に「統一教会脱会宣言書」なるものを書かされます。もし書かない場合は、書くまで何十日でも監禁状態を続けるのです。本来「脱会届」なるものは本人の自由意思によって書くものでありますが、反対牧師はそれをいわば改宗の「踏み絵」として利用しているのです。


刑事上の犯罪性と多額の金銭受け取り

そしてテッド・パトリック氏やスティーヴン・ハッサン氏が依頼者から多額の金銭を受け取っていたのと同様に、日本の「活動家」も信者の父兄から実費以上の多額の金銭を受け取っています。山崎浩子さんの脱会工作にかかわった杉本誠牧師は、著書『統一協会信者を救え』(緑風出版)において、横溝牧師、森哲牧師(日本基督教団小牧教会)、平良夏芽牧師(日本基督教団桑名教会)らが一回信者と面会するたびに、おのおの十万円ずつ受け取っていた事実を認めたうえで、

「私の経験からいけばそれぐらいのお金は当然掛かると思いますね。………私もやはりそれぐらいの形のものは親御さんから車代ということで頂いていますよ」

と言っています。

このように拉致・監禁による強制改宗の流れと手順を見てくるとき、そこには牧師が関与しており、教唆による拉致・監禁、身体拘束という刑事上の犯罪性が認められるということが分かります。しかし彼らは「カルト教団にマインド・コントロールされた子供を親が救出している」という理由を振りかざして事件の本質をすり替えることにより、自らの行為を正当化してきたのです。

事実、一九八八年に統一教会員の吉村正氏が監禁された事件で、教会側は裁判所に人身保護請求を出し、これが当然下りるものと信じて関係者一人が行っただけでしたが、共産党系の弁護士が百九十八人も名を連ねて反対し、この事件をうやむやにしてしまうということが起こりました。

彼らは人身保護請求が出ている裁判所に圧力をかけ、法を曲げ、事実を曲げて統一教会の主張を退けるようにし、このため本来一週間以内に下ろされなければならない人身保護令が大幅に遅れました。このようにして時間を延長させ、強制説得による棄教のための時間を稼ぐことにより、もしその間に被害者(統一教会員)が棄教し、脱会すれば、反対グループの行為が正当化できるからでした。そしてそうすれば親をはじめ元教会員を被害者に仕立て、法廷で証言させることにより、統一教会のイメージダウンを図り、世論を味方につけることができると考えたためなのです。


日本における世界にもまれな人権侵害の実態

このように日本の「反対牧師」による統一教会信者の強制改宗は、世界的にもまれに見る宗教迫害であり、深刻な人権侵害であるといわざるを得ません。

本書は、日本に真の民主主義と信教の自由が確立されることを願い、このような拉致・監禁事件が一日も早く根絶されることを願って出版されました。そのためにはこのような強制改宗の犯罪性を正当化するための理論である「マインド・コントロール理論」の欺瞞性が明らかにされなければなりません。

本書の後編においては、この問題に関する最も権威ある専門家の見解として、米国心理学会と米国キリスト教協議会がそれぞれ提出した「法廷助言書」の翻訳を資料として全文掲載しました。これを機会に、一日も早く日本においてマインド・コントロール理論の非科学性が厳密に論議される日が来ることを願ってやみません。


 
ちなみに、ここで明記されている「拉致・監禁」による強制的な脱会活動は、当時、反カルト運動の常套手段であって、ありふれた事例であったことを、筆者自身も、同年代の信者から、聞かされて知っている。

筆者自身、統一教会から村上らの運動を通じて強制的に脱会させられてアパートの密室に監禁されて村上から説得工作を受け、キリスト教に改宗させられたという同年代の信者の体験談を直接、聞いたことがある。

ただし、こうした強引な手法が疑問視されるようになってからは、村上らの反カルト運動は訴訟のリスクや刑事責任を問われるリスクを回避するために、多少、手法を変えたので、今日、ここまで強引な脱会活動はほとんど行われなくなっているものと思う。

だが、それでも、今日、掲示板において、村上密の擁護者が当ブログに対して繰り広げている異様なまでのバッシング(誹謗中傷・権利侵害)を見る限り、村上の運動に当初から流れていた暴力性は、今もしっかりと彼の活動の理念として受け継がれているように感じられる。

村上密は現在、杉本徳久による当ブログ執筆者に対する名誉毀損などの人権侵害や、掲示板で起きている暴力的な権利侵害には無関係を装っているが、以上の記事を読むと、それが事実であるとは到底、ますます思えなくなるだけである。

何しろ、この記事では、村上ら複数の牧師たちが、統一教会からの信者の脱会運動において、拉致・監禁という暴力行為によって、娘息子を取り戻すことを、信者の家族に具体的に指示する側に立っていたにも関わらず、彼らは、そういう犯罪行為に自ら手を下した形跡が残らないように、直接的には信者の親族にそうした行為を行わせ、暴力を陰から煽って来た様子が、記されているのためある。

いかにこの人々が悪しき運動に手を染め、これを率先して率いながらも、自分たちは直接的な責任を問われることのないよう、聖人君子然と「いいとこどり」の立場に終始して来たかがよく分かる記述だ。

さらに、以上の記事では、この脱会活動を巡って、信者の家族から牧師たちに多額の金銭が渡っていた事実も指摘されている。

また、以下に挙げる記事でも、以上の記事と同じく、信者の脱会活動には、実際に莫大な資金提供がなされ、闇から闇へと消えて行く不透明な資金の流れがあったことが指摘されている。

これはいわば弁護士に払われる「着手金」や「成功報酬」のようなものと考えれば分かりやすい。実際、アメリカまで捜索に行くような事例は、そう多くはないと見られるものの、捜索をしたり、拉致・監禁による説得工作を実行するためには、かなりの費用が必要になる。10万円ではとてもきかないだろう。

それでも、どうしても娘・息子を帰して欲しいとひたすら願い続ける親族は、藁にもすがる思いで、村上ら牧師に、こうした金銭を「謝礼」や「献金」といった名目で捧げ、毎回の脱会カウンセリングの度に多額の金銭を支払って来た事実があることが指摘されている。
 
以下のブログの記事では、統一教会の信者が裁判に提出した陳述書を引用して、村上が信者に対して行っていた強制脱会活動の暴力性が指摘されているため、長くなるが、該当部分を引用させていただきたい。
 

ブログ「火の粉を払え」記事から一部抜粋(記事末尾の脚注は省略する)

2)監禁の状況

 アパートのトイレの窓を含め部屋の中の手の届く高さの窓には全て特別な鍵がつけられて開きませんでした。
 玄関のドアは部屋の中から鍵をかけてチェーンロックをした上、そのチェーンを短くするために二個の錠前を取り付け、チェーンがはずせない長さに調整してありました。

 黒鳥栄牧師は1992年12月30日にやってきて、「私はただのカウンセラーで牧師ではないしあなたの味方です」などと話かけてきました。監禁状態は一目瞭然なのに、とがめる様子もなかったので、全てが綿密な計画の下に行われていたのだと思います。(注1)

 この部屋の窓につけられた特別な鍵は、私の両親が取り付けたのか、名義人になっている脱会者の母親・■■■■子さんが取り付けたのかどちらだか断定できませんが、ドアチェーンの鍵は、一番最後に父親が黒鳥牧師に返していました。(注2

(3)脱会の強要の状況

 7か月間に渡って監禁されているときに、黒鳥牧師の他に、尾毛佳靖子(かやこ)牧師、滋賀県の日本基督教団水口教会・清水与志雄牧師、茨城県の日本基督教団水戸中央教会・横溝洋三牧師、京都府の日本アツセンブリーオブゴッド教団七条キリスト教会・村上密牧師が来て脱会を強要されました。(注3)

 母は、清水牧師が来るたびに封筒を渡していましたが、封筒の裏に10万円と書いてあるのが見えました。(注4)

 私は、「何だ、奉仕でやっているなどと言いながら」と思いました。ドアの外で黒鳥が母に、「いいんですよ、お母さんそんな」という声も聞きました。脱会者の■■さんが来たときには、封筒を渡していました。1回4、5万円入れているところを見たことがあります。

 2月28日、借り主でない者たちが住んでいることが見つかり監禁場所を移りました。(注5)
 そこはワンルームだったので、牧師や脱会者が来る度に母が黄色い封筒を渡しているのが見えました。母の手帳の五月終わり頃の欄に「300万おじから借りた」と書いてありました。

 牧師たちは、父兄を前に、脱会させた別の父兄に「自分はいくらぐらい払った」という証言をさせます。このことは脱会者の人から聞きました。

 黒鳥牧師は連日と言っていいほど部屋に来て、3時間程話をして帰りました。
 清水牧師は2月中旬に3日間、2月末に1日間、合計40時間ほど、
 尾毛佳靖子牧師は、1週間で計20数時間、説得しました。
 村上密牧師は、黒鳥牧師と統一教会員の拉致監禁についての情報を交換し合っていました。村上牧師は1日8時間ほど脱会を説得しましたが、その時は両親も兄も一緒に聞いていたので、私を説得すると共に、両親や兄に対し徹底して統一教会を悪者に仕立て、監禁を正当化しました。

 4月に入ってから黒鳥牧師は横溝牧師を連れて来ました。
 黒鳥牧師が席を立って私と横溝牧師だけにしようとするので、「一緒に帰って下さい」と泣きながら訴えると渋々2人は帰っていきました。

 統一教会に反対するキリスト教の牧師は「拉致監禁はやらない。自分たちは親に頼まれて手助けをしているだけだ」と弁明しますが、その実態は統一教会の信仰をやめさせるために拉致監禁を正当化し、親たちを悪意に満ちた情報で教育し、背後で細部に亘って指示を出しているのです。

 事実、黒鳥牧師も私が脱会する気配が見えないので、「あなたの場合は、本当に親の教育が足りないのよね」とよく言っていました。「原理(統一教会)の事を通して家族のいろいろな問題をいじれるからやりがいがある」とも言っていました。(注6)

 1993年3月に父親はとうとう会社をくびになってしまいました。
 その時も黒鳥牧師は「娘さんのことより、仕事のほうがそれほど大事なんですか」と言って父親を叱り飛ばしました。

 黒鳥牧師は「もう家に帰る」と言う父親を許しませんでした。そして、「娘さんのために全部を捨ててしまわなければ、娘さんを救えない」と言って父親を極限状態まで追いつめました。
 父親は精神的に疲れ切って自殺しようとしました。
 これほどまでに苦しんでいる父親の姿を見せれば、私が統一教会から脱会するだろうと思って、黒鳥牧師はわざと両親を苦しめるのです。
(注7)

 1993年5月の中旬に横溝牧師が来たときには、私の母親に向かって、「親の苦しむ姿を見れば子供は統一教会から脱会をせざるを得なくなるんだ」と語気を荒げました。
 私はとても残酷とも言える牧師たちのやり方や、考え方に言葉を失ってしまいました。

 1993年6月7日になって、このままでは監禁が何年かかるか分からないと思ったのか、両親は私に暴力をふるって説得にかかってきました。

「いい加減に目をさませ」と大声で叫びながら母親が私の右頬を殴りつけました。
 父親が続けて左頬を殴りました。
 最後には2人で続け様に5,6回殴りつけて来ました。この時、殴られた際に右耳の鼓膜か破れてしまいました。

 2日後の6月9日は、母親が私の足を押さえ、父親が両腕をつかんで20回くらい殴りつけてきました。このときはとうとう右耳の鼓膜が完全に破れたようで血が流れ出してしまいました。(注8)

 私は親子の間に深い心の溝が出来てしまうと思い、一時的に統一教会から脱会するしかないと判断しました。しかし、私は「統一教会は脱会するけれども結婚はやめない」と話しました。

 6月7日に殴られて破れた鼓膜を診察するため病院まで外出を許されたのは、1週間後の6月13日でした。

 私は黒鳥牧師の手によって脱会した人達とは違って、弁護士を紹介して貰うことも拒否しました。私は1993年6月24日に統一教会の「脱会届」を太田教会に提出して、山梨の実家に帰りました。

 黒鳥牧師の教会に通うことになった統一教会脱会者が山口広弁護士らを代理人に立てて、脱会する前に所属していた関係部署に対して返金請求をしていることをだいぶ後になってから知りました。(注9)

 (4)渡韓

 私は1993年6月24日に監禁場所から山梨に両親と一緒に帰りましたが、親子関係をなんとか元の状態に戻そうと、家の炊事や洗濯等をして両親に尽くしました。
 母親は山梨の家に帰ってからも黒鳥牧師に電話をかけて状況を報告したり、指示を受けたりしていました。(注10)

 私は「このままでは、私の人生は台無しになる」と感じ、1993年8月の下旬に韓国に渡り、韓国から電話で「韓国の婚約者の所に来ている。心配しないで」と母親に電話を入れました。

第4・終わりに

 この7か月間は、両親にとっても私にとっても考えられない苦しみの日々でした。

 しかし、拉致監禁に耐えて、統一教会の信仰を捨てる事がなかったので、今では家庭を持ち、子供にも恵まれて幸せに暮らしております。(注11)

 私に対して統一教会からの脱会を強要した黒鳥牧師の他、4人の牧師と両親、また私を脱会させるために、戸塚教会からわざわざ山梨県まで出向き、拉致監禁を教唆し実行に手を貸した人に対し今でも許せない気持ちが残っています。
 なお、私が監禁されたときの部屋の見取り図を添付しておきます。

以上相違ありません。
                 1995年3月13日  
  

 
これを読者はどう思われるだろうか? ここには、はっきりと、村上密が統一教会の信者を強制的に脱会させるために、拉致・監禁の手法を用いることを容認し、実際に拉致・監禁していた信者の情報を、他の牧師らと共有していたこと、また、監禁された信者の説得工作に当たったこと、その工作の度に、信者の家族から、牧師らに多額の金銭が手渡されていた事実などが指摘されている。

しかも、この脱会活動は、信者の家族関係をボロボロにしたことも記されている。信者の親は仕事もままならなくなり、自殺寸前になるまで追い詰められ、家族は憎み合うがごとくに暴力を振るうようになり、家族関係は心のトラウマのために永久に失われる寸前まで行った。

そして、村上らがこのような暴力的手段を用いてまで脱会させようと説得した信者は、その痛手の分だけ、余計にキリスト教に不信感を抱き、結局、統一教会に戻って行ったのである。そして、統一教会に戻って結婚し、こんな恐ろしい脱会運動に帰依しなかったから、現在の幸福が手に入ったのだ、と語っている。

こんな脱会運動に一体、何の意味があろうか。いかに村上の活動が当初から悪質で暴力的な人権侵害を伴うものであり、カルトに入信した信者に対する徹底的な侮蔑に基づくものであったかをよく示す記述である。

現在、村上密の活動を批判する当ブログに対して、村上の支持者・擁護者らによって掲示板で行われている集団リンチは、身体的な拘束や危害を伴うものではないにせよ、以上の暴力的な脱会運動と精神的には非常に酷似しているように筆者は感じられる。

しかも、筆者はいかなるカルト団体にも入信したことのない、村上と同じ教団で幼少期を過ごしたキリスト教徒であるから、村上が筆者に対して説得工作を行う必要はない。

それにも関わらず、筆者が当ブログで村上の活動を批判したというだけで、村上がブログで筆者を非難し、著作者人格権を侵害した記事を発表し、果ては刑事告訴したなどという記事まで投稿し(すでに削除されている)、掲示板でも、筆者は村上の擁護者から、これほどひどい権利侵害に遭わされねばならないのであるから、いかにこの牧師の活動が、根本から歪んでおり、キリスト教徒に対しても、侮蔑的な、非聖書的なものであるかという事実がよく分かるだろう。

つまり、村上の活動は、もはやカルトに入信したことを理由に、信者を抑圧するものではなく、村上に盾突いたことを理由に、信者を抑圧するものとなっているのであり、彼らが権利侵害を繰り返す対象も、もはやカルトに入信した信者に限定されておらず、キリスト教徒を含めた、あらゆる宗教の信者にまで押し広げられているのである。

ちなみに、筆者は村上の活動がこのように暴走して行くであろうことを2009年からずっと予告して来た。

このような運動は、筆者から見て、まさにキリスト教の名折れでしかない。他宗教の信者らから、このような暴力的な活動に手を染める輩が、キリスト教徒の代表であるかのように見られることは、まさに我々キリスト教徒にとっても、恥としか言いようがない。

そして、今や村上の弾圧の対象は、我々キリスト教にまで――他でもなく筆者に――及んでいるわけであるから、これはもはや反カルト運動と呼ぶにすら値せず、キリスト教徒に対する真に悪質な迫害に転じているとしか言いようがない。

村上の正体を知らないまま、彼のマインドコントロールによって脱会させられた信者たちの中には、今も村上を神格化するがごとくに妄信している人たちの一群がいる。掲示板では、そのような信者らが、村上の手先のような役割を担って、今日も村上に不都合なキリスト者を集団でバッシングして葬り去る役目を果たしているのである。

もはやこうなると、「カルトと闘う」という大義名分もどこへやら、村上の活動は、あらゆる宗教に対するのべつまくなしの攻撃へ転じつつあると言って良い。そして、そうなったのも、この運動が初めから、キリスト教の皮を被っているだけの、聖書に立脚しない、御言葉に基づかない、悪魔的な運動だったからなのである。
 
* * *
 

 

   <続く>

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3.不利な判決から逃げ回る杉本徳久と、賠償金を支払えない株式会社メディアテラス

さて、杉本は、強制執行がなされたにも関わらず、未だ自主的に判決に従う態度も見せず、賠償金を支払ってもいないことを断っておかねばならない。

これは杉本の恐るべき怠慢および無責任である。杉本はブログで不祥事を起こした牧師を激しく非難し、彼らは民事、刑事できちんと責任を取るべきだと息巻いていた。たとえ国外に逃亡しても、その責任からは逃げ切れるものでないと非難していた。

なのに、自分が裁判で負けると、不利な判決からはとことん逃げる・・・。何という呆れるほどに卑劣な二枚舌であろうか、と筆者は憤りを覚えずにいられない。他人に向かっては、「市井の良識」などを上から目線で振りかざし、自分こそ他人に説教できる筋合いにあるかのように振る舞い、自分の考えに従わない者には、様々な権利侵害を予告して、脅しめいた圧力をかけつつ、命令口調で語っていた。なのに、自分自身はどこまでも法的・社会的な責任を負うことを拒否するとは。
  

 
第三債務者である株式会社メディアテラスの代表としての杉本の陳述書。極端に内容が手抜きで不誠実であるばかりでなく、判決にも自主的に従わず、強制執行されても、賠償金の支払い能力のないこの企業の信用が問われる。
 
だが、そもそも、判決言い渡し後、強制執行によって差押を実行せねばならないような相手は、まずまともとは言えない。その上、強制執行も空振りに終わるとなると、よほど悪質な相手と言える。真に資金繰りに苦労していることが考えられる。

これで、株式会社メディアテラスの実態も、杉本徳久という男の本質も、万人の目に明らかになったと言えよう。

こんな微々たる賠償金さえ、速やかに支払えない企業と取引することが、どんなに危険であるかは、今更、言うまでもないことである。しかも、判決に従わない人間が、一体、どんな人間の言い分ならば、聞くというのだろうか? 

筆者は、杉本に向かって、早く賠償金を裁判所に供託するよう強く要求する。いつまでも無責任かつ卑怯に逃げ回っていると、「逃亡の恐れあり」とみなして、こちらはより断固たる厳しい措置で臨むことになるだけだ。

そうなると、日常生活も完全に中断し、より多くの人々に失態が知れ渡り、その後、社会生活に復帰することも、難しくなるだけであろう。そうなる前に、早くこの問題を解決することである。

杉本自身の言葉を使うなら、「いつまでも逃げ回っていないで、市民として果たすべき責任を果たしなさい」ということだ。

この先、神の教会と贖われた人々を厚かましくも非難・断罪して来たこの男が、自らの責任からどこまで逃げ回るつもりか、見ものである。筆者は、杉本がこれまで教会に対してして来たことを思えば、彼は全世界に対する教訓となるのがふさわしいと考えているため、はっきり言っておくが、情けをかけるつもりはない。
   
こうして、判決を実行に移すためのすべての手間暇を、何もかも筆者にかけさせて、自分に不利なことは、何一つ自分から実行しようとしないところに、杉本徳久という男の利己的で甘えた性格がよく表れている。
 
これが今まで司法制度を使って、クリスチャンを脅かして来た男の本性である。自分から他者を訴えて来たにも関わらず、自分が債務から逃げれば逃げるほど、ますます不利になり、信用が落ちて行くだけであることを、分かっていないようである。
 
神はこの問題にもふさわしい解決を与えて下さるであろう。だが、杉本の名は、このようなことを繰り返せば繰り返すほど、恥に変わって行くことになる。
   
* * *
   
しかし、おそらく、このような性格は、杉本のみならず、掲示板で誹謗中傷を重ねているカルト被害者の擁護者全体にもきっと当てはまるものであろう。掲示板で権利侵害を繰り返して来た連中に、いざ訴訟に引っ張り出され、責任をきちんと担う覚悟があるとは到底、思えないからだ。
 
杉本もそうだが、この人々は、被害者意識というものが、人の人格を根底から腐らせてしまうことを示す生きた実例である。彼らは「被害者」の美名を利用して、ひたすら自己を美化し、自分だけを憐れんでいるうちに、全く他者のことをかえりみることのできない、どうしようもなく幼稚で甘え切った人間へと変わって行ってしまうのである。

筆者はこのような人々を見ると、彼らは何かしらの悪質な疑似宗教による重症のマインドコントロールに陥って、正常な意識を失っているのではないかという風に思えてならない。

筆者から見れば、それは戦前・戦中の軍国主義を彷彿とさせる出来事である。戦前・戦中の日本人は、自分が見たことも、会ったこともない天皇を神だと信じ、天皇を拝み、支持することによって、あたかも自分自身も、神々の子孫に高められるかのように思い上がっていた。

そして、彼らは自分たちが「神々」の子孫であると考えながら、天皇の名において、若者を特攻隊に送り、隣人を隣組により密告し、罪のない人たちを特高警察に売り渡し、侵略戦争を支持していたのである。それが己を「神々」であると自負するようになった人たちの忌むべき真の姿であった。

今、カルト被害者運動を支持する人々も、全く同様の誤謬に陥っているものと思われてならない。彼らにとって、詩織さんや、ビュン事件で被害を受けた人々や、その他の残酷な被害を受けた人々は、まるで「神々」のような存在である。

彼らは美化された被害者の像を、あたかも神聖なもののように伏して拝み、それに自分自身を重ね合わせることによって、あたかも自分も、何かしら神々しい存在になれるかのように思い込み、被害者意識を崇め奉ることによって、その高慢の中で己を滅ぼしているのである。

筆者から見れば、彼らは、被害者意識を擬人化して、これを神にまで祀り上げて拝んでいるだけである。だが、彼らが拝んでいる被害者意識の正体とは、生まれながらの人間の罪深いセルフ(自己)でしかない。そうであるがゆえに、彼らは自らが帰依している罪深い被害者意識に飲み込まれて、自らトラウマの権化のようになって、その中で自己を喪失して滅びてしまうのである。
 
我々はそろそろ、杉本ブログに集まる人々が、これまで盛んに自己を美化するために振りまいて来た「被害者」という美名や、彼らが作り出した耳に心地良い美談・お涙頂戴の物語の覆いを取り払って、その陰で、彼らが実際にはどれほどの無法を容認・助長して来たのか、現実を直視し、冷静に考え直すべき頃合いが来ているのではないかと思う。

さらに、掲示板の悪質な投稿は、村上密がブログに記事を投稿すると、早速、勢いづくという特徴があることにも、注目されたい。それを見れば、掲示板に最も影響を与えているのは、杉本ブログだけでは決してないことが分かるはずだ。

村上・杉本のブログは、カルト被害者救済活動という、聖書に反する冒涜的運動の一大要塞となって来た。それに、唐沢治も加えて、これら数名のブログの投稿は、キリスト教会を嘲り、聖徒らを侮辱することによって、神を冒涜し、教会の前進に打撃を与えるための攻撃拠点として、暗闇の勢力に存分に用いられて来たのである。
  
* * *
 
さて、杉本は第一審で、「自分はカルト被害者救済活動などしていない。」と主張した上、カルト被害者の裁判にも無関係を装っていた。
 
だが、ネット上で、誰がそんな言葉を信じる人がいるだろうか? 杉本ブログの主要なテーマが、杉本自身の裁判も含め、カルト被害者の裁判に関する情報の発表にあり、カルト被害者の裁判をきっかけに、不祥事を起こした牧師たちや教会を声高に非難・断罪することにあったことは、誰の目にも明白である。

カルト被害者の裁判の模様をいち早く発表していたからこそ、杉本のブログは世間の大々的な注目を集めて来たのである。
 
ところが、今や、過去に自分に成功をもたらしたその事実さえ、都合が悪くなると、自分で否定するほどまでになっているとは・・・。

ちなみに、杉本は今や自分のブログから、自分の名を消している。

あれほど「匿名のブログには信憑性がない」と叫んでいた杉本が、今や「匿名に隠れている」。

これは、形勢が不利になって、これ以上、訴えられると困ると考え、杉本がそそくさと自分の名を消したというだけでなく、杉本が自分の名を当ブログに奪われたことをも意味する。
 
これは昨年2月に筆者が杉本に対して民事調停を提起してから、その後、現在に至るまでの間に、杉本が自己のプロフィールをどのように書き換えたかを示す画像である。

1.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え前のプロフィール



ちなみに、ここで杉本が自分の氏名や連絡先を開示していただけでなく、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」などと、三島由紀夫を彷彿とさせるような発言を行っていたことも、注目に値する。一時は肉体を鍛えていたとも書いている。これは唐沢の理念とも共通するものであろう。

おそらく、このプロフィールが書かれた頃、杉本は若さと活気の絶頂にあったのではないかと見られる。様々な心のトラウマや不安、自信のなさが文章に見え隠れするものの、外見的には、これから未来を迎える若者として、それなりの自負を持っていた様子が伺われる。

だが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、聖書の理念とは決して相容れるものではない。筆者は、キリスト者の優先順位は、霊→魂→肉体であって、見えないものが見えるものを規定する、というものであることを再三に渡り、述べて来た。

ところが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、それをさかさまにするものであって、要するに、下部構造が上部構造を規定するという唯物論を指す。

別な言葉で言えば、健全な肉体とは、宮であり、器であって、これは神の神殿たる人間を象徴する。そして、健全な魂とは、人間の魂であるだけでなく、宮が迎える見えない神の霊のことを暗示している。

そのように考えると、以上の言葉は、神と人との聖書的な秩序を逆転させるものであって、神を迎える宮を立派に整えることで、そこに迎えられる神も立派になる、と言っているようなもので、結局のところ、人類を神以上に誉めたたえる異端的思想を暗示しているのである。

このプロフィールは、2005年に発表されたことになっているが、当時からこのように書かれていたのだとすれば、それはその当時から、杉本が聖書とは相容れない唯物論的思想を心に持っていたことを意味し、この「さかさまの思想」こそが、後に杉本を村上と共に「教会の破壊者」とし、破滅へと至らしめる暗い運命となったのだと言えよう。

2.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え後のプロフィール

 
 
書き換え後のプロフィールは、以上に挙げた、若さと活気にあふれた輝かしい自己紹介と比べると、惨めなまでに寂しい内容である。杉本の名も、連絡先も、消されているだけではない。「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉さえも、どこかへ消え去っている。

健全な肉体を造り上げることで、健全な精神を養うという、杉本流の神殿建設の試みは、不成功にしか終わらなかった。そして、プロフィールは圧縮され、ただ自分は年を取った、青春は過ぎ去った、と言わんばかりの哀惜の言葉で締めくくられている。

筆者は次の御言葉を思い出す。

人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、

 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

どんなに一時は勢いがあるように見え、輝かしい成功をおさめているように見えたとしても、それがもし束の間に咲き誇る花のようなものでしかないならば、その成果は一瞬で過ぎ去り、消え去って行く。

もしも主の御言葉に立たないならば、すべてはむなしく、存在しているように見えても、次の瞬間には消え失せてしまう。

健全な肉体が健全な魂を養うのではない。神から与えられた新しい霊が、私たちの心を治め、肉体をも治めるのである。この秩序を覆す者は、決して永遠の領域に入ることはできない。人間が己を神以上に高く掲げて、主の御前に立ちおおせることは決してない。

杉本と杉本のブログに今起きていることは、御言葉によらずして、神の教会を敵に回す者に、どのような運命が降りかかるかを万人の前で示したものである。

だからこそ、杉本は全世界の教訓となるだろうと筆者は述べているのである。
  
* * *

ちなみに、話のついでに、第一審でも論じたが、杉本が当初は村上密に対していかなる不信感を持っていたかについても、述べておきたい。

以下は、2005年に杉本が書いた記事であるが、今でも閲覧可能である。ここに、その当時、杉本が村上をどのようにとらえていたかがはっきりと記されている。



ここで杉本は、不祥事を起こした聖神中央教会がペンテコステ派に属していることを説明した上で、当時、聖神中央の事件で被害を受けた少女たちのケアに当たっていた村上密を指して、これは聖神中央の牧師と同じほど信用できない牧師であるとして、辛辣な言葉で村上を批判している。該当の記述を抜き出しておく。

「ちなみに今回、少女たちを救い出す役回りを引き受けている村上密(「むらかみひそか」と読む)牧師はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会にいる人だが、このアッセンブリーズという教団もアメリカ源流の福音主義的ペンテコステ派。そのスタイルは全くそっくりである。私はずっとアッセンブリーズ日曜学校に行っていたからよく解る。だから、犠牲者の少女達は彼に相談したのだろう。

私は間違ってもアッセンブリーズを異端だと否定はしないが、相当に深い問題を感じている。ちなみにこの村上氏、詳細はとても申し上げる余裕がないが、私個人は全く一切、信用していない人である自身がかつて統一教会のカルトにはまっていた時期があり、そこからの「脱会」経験を持っているので、「カルト宗教からの被害者信者の救済」をライフワークにしている人であるとだけこの場では申し上げておくに留めたい。」


さらにこの記事で、杉本は幼少期にペンテコステ派の教会で受けた心のトラウマについて、これを性的凌辱事件になぞらえつつ、それが自分にとって、生涯、払拭しがたいほどの被害体験であると語ていた。ここにも、杉本の暗い運命を予表するいくつもの言葉が並んでいる。

杉本にとって、幼少期から属していた教会は、彼を神に導く場所ではなかったようである。杉本はペンテコステ派の教会で受けたトラウマのことしか語らず、そこで神を知ったことの意味を語ることはない。

幼少時に牧師から性的に陵辱を受けるという、こうした経験をしてしまった人たちはいったい、どれほどのトラウマを今後引きずることか、気の毒でならない。私など、あの「異言」や「祈りの細胞」、「Devotion」などを幼少期から青少年期にかけて、ろくに客観的な説明もされずに目の当たりにさせられたことでものすごい打撃を食らっている。カルトといわれてもやむを得ない面を、紛れもなくペンテコステ派や福音主義派は持っているのである。
 
 彼らのスタイルを絶対に認めないとはいわない。しかし、子どもに対する接し方、あるいは女の子や女性に対する働きかけに知恵と配慮があって当然である。それが全然ないという場合が少なくない。はっきり言って連中はばかじゃないかと思う。だから、今持って彼らに対する不信感と軽蔑の感情が私の脳裏から消えてくれない。今のままのスタイルを一切の見直しなしに進めていったとしたら、やがてまたこうしたカルト的軋轢や性的なスキャンダル(牧師だけでなく、教会員どうしのそれも含めて)を生んでしまうだろうと私は思う。」

確かに、ペンテコステ派の教会に様々な偽りの霊が入り込み、混乱した運動が多数、生み出されて来たのは事実である。そういう意味で、杉本の指摘は全く的を外れているわけではない。だが、杉本はペンテコステ派を批判するばかりで、聖書の御言葉に立ち帰らず、神の真実性を信じない。それゆえ、彼は教会につまずき、彼が教会に向けた批判が、そっくりそのまま、杉本自身に跳ね返り、彼がカルト牧師と名指しした人物への非難が、杉本自身への非難となって跳ね返るという悪循環に陥るのである。

これが、聖書の御言葉に立脚せずに、自分の人間的な判断や価値観に基づいて、神の教会や贖われた信徒たちを敵に回すことの非常に恐ろしい結末であると筆者は考えている。

どれほどひどい不祥事を犯したように見える牧師たちを非難する際でも、私たちが注意しなければならないことは、その非難は、人間的な観点からなされてはならず、聖書に立脚したものとならなければならない、という点である。

相手は一度でも神のために献身し、福音の使徒となった人々であって、そうした人々に向けて、聖書の御言葉による裏づけなしに、つまり、神による守りなしに、ただ人間的な観点からのみ非難の言葉を向けると、非常に恐ろしい結果が跳ね返って来る。
  
福音の使徒に、人間的な思惑に基づいて立ち向かえば、待っているのは敗北のみである。私たちは常に御言葉によって武装しなければ、こうした問題に立ち向かうことはできない。

そういう意味で、杉本が人間的な正義感に基づいて、教会を告発して来た作業は、神の知恵に逆らう恐るべき高慢の上に成り立ったものだと言えるのである。彼を支持するカルト被害者の擁護者たちのしていることも同様である。
 
さて、筆者自身が、ペンテコステ派の教会で育って来た思い出を振り返っても、むろん、この運動には、実に多くの問題があることは確かであるだが、そういった問題の存在を認めつつも、筆者は常に神への信仰を持ち続けて来たし、神が真実な方であることを決して忘れたことはない。

だから、筆者は杉本と違って、ペンテコステ派で立ち直り不可能なトラウマを負ったなどと、考えることもできないし、その後、ペンテコステ派以外の様々な教会で見聞きした混乱も、何ら筆者の信仰を弱めるものとはなっていない。

話を戻せば、杉本がもっと辛辣な言葉で、村上密を非難した記事がある。

これも2005年に書かれた記事で、今も閲覧することができるが、この記事の中で、杉本は、村上密が統一教会時代に、神の語りかけを聞いて回心したという体験談を、全く信用できない眉唾物の作り話として、一刀両断に切り捨てている。



ここでも、杉本は聖神中央教会の牧師による性スキャンダルに触れつつ、被害者の信徒をケアしていた村上密が、全く信用できない人間であり、加害牧師も、被害者のケアに当たっている牧師も、どちらも本質は同じであって、偽預言者に他ならないという厳しい結論に至り着いている。

そして、村上密が信用できない人間であることを示すために、彼の眉唾物の回心体験を引き合いに出し、懐疑の念を示している。該当箇所を抜き出しておこう。

「この聖神中央教会の被害者のケアに当たっているのが、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会、村上密(むらかみ・ひそか)牧師であることはすでに何度も私も書いたことだが、彼が牧師に転身したきっかけは「神の声を聞いた」からだそうである。
 
 当時、教祖・文鮮明が率いるカルト的教団、統一教会(桜田淳子などが会員であり有名)の信者だったのだが、ある日、

 「密(ひそか)、密(ひそか)」
 
 と村上氏の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 「なぜお前は私を迫害するのか?」
 
 主イエス・キリストのお声だったと彼は言う。統一教会のドグマ(教義、教条)が誤りであることに「気づいた」彼は、カルトの悪夢から目覚めてキリスト教徒に変わったのだとされる。

 以前にもちらっと書いたが、私自身はそういう「神秘的経験、バプテスマ的体験」はいっさいしたことがない。「声」も「姿」も私の五感でキャッチしたことは一度もない。負け惜しみで言うわけではないが、 
 
 「使徒パウロでもあるまいし、そうそう簡単に神の声が聞こえてたまるか。あほらしい。」

 といつも思う。
 
 くだんの村上牧師の逸話は、修辞学の名手といわれ、新約聖書の多くを記述し、屈指の文才を持った使徒パウロが、まだ自ら進んで初代キリスト教会に迫害の限りをつくしていた時に経験した
 
 「パウロよ、パウロ。なぜおまえは私を迫害するのか。」

 という神の声を聞いて以後の人生を大転換したという使徒行伝の下り(これを「パウロの回心」という。)と全く同じ。いきなり統一教会の教えが間違いだと気がつき、劇的に真理を知ったという話の突飛な展開とも合わせ、どうにも私には飲み込めない話である。

 「神の声を聞いた」

 という人の中には、本当にそういう恵まれた幸運に身を置くことが出来た人もいるのだろうが、多くは詐欺師的、偽預言者的な虚偽が混じっているので重々気をつけるべきだと、少なくも私は申し上げたい。

実際に村上がこのような話を当時から人前で吹聴して回っていたことは、筆者も見聞きして知っているので、この記述は嘘ではないと言えよう。アッセンブリー教団では、この手の奇跡体験はまことに人受けが良い。

だが、同時に、村上はその頃から、自分が統一教会を脱会したのは、父親と親族によってほとんど半殺しの目に遭わされて、力づくで家に連れ戻され、脱会させられたからだ、というもう一つの体験談をも披露していた。

そこで、そうした体験談も考慮すると、筆者は杉本同様に、このような奇跡体験が本物であるとは全く信じる根拠がないものと考える。これは村上の「創作」であるとしか言いようのない話である。あまりにも痛ましい形で、統一教会への逃避行に終止符が打たれた村上が、その心の傷を覆い隠すために作り上げた物語なのかも知れないし、あるいは、このようなことが自分の身に起きたと、村上は今でも本気で信じ込んでいるのかも知れないし、受け狙いの自慢話を「創作」したのかも知れない。

だが、いずれにしても、人が神に出会うことは、このように突飛な体験ではあり得ず、もう少し、知的にも、論理的にも、説明のできる出会いになるのが通常である。なぜ統一教会が誤っているのか、自分自身で考え、少しずつ、気づきが始まり、まことの神が分かり始めるというのが、カルトからの脱会の通常のパターンであろう。

このように理屈を超えた何らかの神秘体験に力づくで圧倒されるがごとくに、いきなりすべてが180度転回して、それまでの生き方が誤りだったと劇的に分かる、ということはまずない。

いずれにせよ、この記事を通して、2005年の時点では、杉本は村上を詐欺師・偽預言者と言わんばかりの目で見ていたことが分かる。

さらに、杉本の村上への不信感は、「干潟は水が腐っているわけではない」という記事の中でピークに達する。この記事についての解説は、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という記事の中ですでに述べたので、繰り返さないが、この記事で杉本が指摘していることの中には、非常に重要な見逃せないポイントがあるため、なぜ杉本はこの時の自分の直観に従って、その後も、村上は信用できないという信念を持ち続けて生きることができなかったのであろうかと、筆者は首をかしげざるを得ない。
 
杉本は、この記事の中で、次の村上の言葉に猛反発していた。

 「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

当時の杉本の見解はこうであった、人の悩み苦しみは、断じて心の中に溜まった「悪水」などではなく、親身になって聞いてくれる人が現れ、その苦しみが取り除かれさえすれば、見栄えの悪い干潟は、整然とした街並みに置き換えられ、人の心は肥沃になり、ハッピーな人生を生きていける、などというお気楽で単純な結論は絶対にあり得ない。

それは、杉本自身が、アッセンブリー教団で心に抱えた言い知れないトラウマや、あるいは、人生で初めて被告とされた際に味わった裁判の屈辱が、決して誰にも打ち明けることのできない心の悲しみ、秘密として、永遠に捨てられずに持ち続けられるものとなることを、自分で予感していたためかも知れない。

人は誰しも、決して誰にも打ち明けることのできない心の秘密を抱えており、それは誰かに話したからと言って、決して解決に至ることはない。誰か良い聞き手を見つけて、自分の苦しみを吐露しさえすれば、話しただけで都合よく問題が解決するかのような村上の論は、あまりにも浅薄で、見当はずれであって、現実を無視しており、絶対に実現し得ない不可能事であることを、杉本自身が、自分の心の傷を振り返って、悟っていたのであろう。

それにも関わらず、杉本は村上を偽預言者としてきっぱり退けることに失敗するのである。

それは、ただ村上が、このような記述を不都合と思い、これを取り除くために、杉本を懐柔して行ったというだけでなく、杉本自身が、誰にも打ち明けられない自分の心の秘密を、黙って神の御許へ持って行き、神にのみ打ち明け、心を注ぎだして祈り、解決を求めることをしなかったためであると筆者は考えている。

むしろ、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という杉本の主張は、村上の論を嫌悪・反発しながらも、見栄えの悪い干潟はさっさと埋め立てて、公共事業により整然とした街並みを造ることこそ、人類の幸福であるかのような村上の論と響き合うものである。

これと同じことが、唐沢治と杉本との関係にも当てはまる。杉本は唐沢をも2010年当時は、偽預言者として非難していたが、結局、その主張を貫くことがないまま、自ら偽預言者呼ばわりしていた唐沢と意気投合するはめになる。

このように、杉本の心の中には、常に相矛盾する考えが同居しており、結局、杉本は何かを偽りだと見抜いても、その信念を最後まで貫くことができず、常に自分にとって安易な方を選んで妥協してしまうことを繰り返した。

それは、黙って根気強くただ一人の花婿だけを待ち望むことに耐えられず、手っ取り早く、自分を慰めてくれる理解者を求めて、幾人もの愛人で心を満たしたバビロンの姿を彷彿とさせる。

杉本は様々な教会の混乱を見るとき、そうした現象の背後にも、主の御手が働いておられることを見ようとしなかった。そして、混乱した有様だけを見て、信仰なくして教会をバッシングして、その手痛いツケがすべて自分に跳ね返って来ることになった。

杉本は自分が理解者であるかのように考え、飛びつき、手を伸ばした人々によって、さんざん欺かれ、利用され、人生を奪われ、滅ぼされてしまった。それだけではない。杉本が養おうとした健全な肉体も、健全な魂も、彼を裏切ったのである。そういうものは、何もかも、束の間に過ぎ去るものでしかなく、彼に栄光をもたらさなかった。

公共事業によって建てられた町並みは、人目には、堅固で、長持ちするように見えるかも知れない。だが、それは太古からの自然である干潟に比べ、あまりにも短命で、無内容の、薄っぺらい束の間の営みでしかない。公共事業の痕跡は、100年ほどで過ぎ去るであろうが、干潟は、何万年も残り続ける。

人と人との出会いや関係が、どれほど良好に見え、そこにどれほど大きな一大運動が出来上がり、自信と、輝きと、勢いがあったとしても、御言葉に立たないものは、すべて風のように過ぎ去り、消えて行くだけなのである。

杉本ブログの栄枯盛衰は、そのことを我々によく伝えている。御言葉を捨てて、人間の慰めにすがれば、すべての栄光はむなしく消え去るということをよく物語っている。
 
杉本は、筆者と当ブログに挑戦した時、自分の勢いによって、筆者を容易に打ち負かすことができると考えていたに違いない。だが、筆者は、御言葉によって武装していたので、彼を打ち破り、杉本によって人質にされていた筆者の像を彼の手から取り返し、逆に杉本の名を、杉本から奪った。杉本がブログから名を消したのは、当ブログに名を奪われたからであり、それはもはや杉本の存在そのものが、当ブログによって上書きされて、消えかかっていることを意味する。
 
これが神の教会の圧倒的な霊的優位性なのである。ものを言うのは、性別でも、外見でも、人数でもない。霊的優位性である――。この優位性を、筆者のみならず、教会全体が持っているのであり、今まで教会はさんざん杉本や村上の恫喝にも等しい非難によって圧迫され、また、唐沢の罵詈雑言によって嘲笑され、提訴の脅しによって、踏みにじられて来たように見えるかも知れないが、実際には、聖書の御言葉に立脚しないカルト被害者救済活動こそが、教会の足の下に踏みにじられるべき屑のような存在でしかない。それゆえ、その霊的事実は、間もなく実際として、この地上に引き下ろされることになる。
 
杉本が判決から逃げ回ることのできる期間はそう長くはない。遅かれ早かれ、彼はこれに従わざるを得なくなる。そして、杉本のみならず、杉本に深く関わって来たすべての牧師たち、信者たちも、彼と同じ罪にあずかり、彼と同様に、教会によって塵芥のように踏みつけられた上、外の暗闇の投げ捨てられ、恥をこうむり、足早に姿を消して行くことになると筆者は予告しておく。
 
これから杉本に起きることは、カルト被害者救済活動全体を震撼させる教訓となり、この運動を根底から揺さぶり、最終的には完全に瓦解させる効果をもたらすであろう。彼が教会や聖徒らに対して投げつけたすべての悪罵が、まさに彼の身の上に成就する時が来たからだ。

キリストを知らない、キリストによって贖われていない、聖霊を内に持たない人間が、生まれながらの肉の思いで、教会に手をかけることは、それほど恐るべき罪なのである。そのことは、アナニヤとサッピラの例を思い出すだけで十分である。

2019/04/23 (Tue) 神の義なる裁き

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、

 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を

 否むことができないからである。」(二テモテ2:11-13)

1.掲示板で起きた集団リンチと、カルト被害者救済活動の終焉
 ~神の承認を受けずに、人間が己の被害だけを訴え続けることの恐ろしい危険~


さて、味方のように装って登場しながら、陰でその人間を裏切り、勝手に人の名を使って騒ぎを無限に拡大して行く人間は、敵よりも始末が悪い・・・。

この結論は、これまで幾度となく実際に裏づけられて来たものである。

唐沢治も、当初は筆者の味方であるかのように装っていたが、実際には、筆者を自分のために都合よく利用し、筆者の事件をますますこじらせただけで、今や公然と筆者を敵のように断罪している。

この度、唐沢と同様に、これまでさんざん当ブログの名や主張を利用して、杉本徳久を挑発し、陰から対立を煽って来た坂井能大牧師に直接、メールを送ってみたところ、坂井は、当ブログをダシにして杉本を挑発した行為があったことを自ら認め、当該記述をすべて非公開にするか削除することに同意した。

筆者は、坂井が唐沢を通じて入手した筆者の転送メールを対杉本との裁判で利用した行為や、巧妙に筆者のブログの記述を利用して、杉本徳久を挑発するような内容の投稿を重ねたことが、どれほど筆者にとって迷惑であったかを告げて、二度とこのようなことを行わないよう、もしも杉本徳久に恨みがあるなら、筆者を利用せず、自分自身の言葉で、直接、杉本に呼びかけるよう求めた。

このことについて、坂井からは何一つ、反省も謝罪の言葉もなかった。ただし、投稿を非開示もしくは削除することを速やかに行ったことだけは、唯一評価できるポイントであった。(この他、事実かどうかまでは知らないが、坂井は唐沢と手を切ったことを明言していた。)

筆者から見れば、この人物が杉本との裁判に負けて以後も、杉本を嘲笑する投稿を続けて来たのは、自分の負けを認めたくないがゆえの、うわべだけのポーズに過ぎない。
 
結果はすでに裁判で確定している。なのに、坂井が当ブログの内容を利用して、杉本に宣戦布告していたのは、自分ではもはや杉本を訴えられないので、筆者の主張を利用するしか方法がなかったのであろう。

だが、坂井の場合は、杉本に敗れる以前から、そうした行動をしきりに繰り返して来たことから、坂井の行ったことは、結果的には、杉本を挑発することによって、筆者を重大な危険に陥れるものであったと言える。
  
実際に、そのとばっちりは、これまですべて筆者に向けられて来たのである。このことは、唐沢治が杉本徳久に民事提訴を予告しながら、これを実行しなかった際に、杉本の怒りの矛先が、筆者はエシュコルのようなKFCの信徒等に向けられたのと同様である。

筆者は、このような現象を、牧師たちの信用ならない内心を如実に示すものだとみなしている。牧師たちが、意識的にか、無意識的にかは知らないが、非常に巧妙な形で、信徒を陥れては、対立や紛争に巻き込んで、人生を失わせて来た様子がよく分かるように思う。
 
まるで牧師たちが気に入らない信徒を陥れるために陰からしかけているゲームのようにさえ見える。

唐沢治、村上密の両名が、現在、筆者に対してどういう態度を取っているかに加え、坂井能大牧師の行動を見ても、筆者が当ブログにおいて、決して牧師という連中を信用しないようにと呼びかけて来たことが、事実無根の主張ではないことが、読者に分かるのではないかと思う。

しかも、プロテスタントの牧師の幼稚さ、低俗な人間性が、これらの人物を通じてよく分かろうというものだ。(これらの人々がキリスト教徒としての全うな理念を持っているかという問題は別として、いかに牧師という連中が、人格的に未熟で幼稚であるかだけは、よく分かるはずだ。)

そこで、筆者は改めて、聖書の御言葉を信じる信者として生きることと、このような牧師たちの支配下に身を置いて生きることは全く訳が違うので、信仰を持つ者たちには、牧師たちとは一切関わらないで生きることをお勧めするのみである。
   
とはいえ、今回、坂井が書き込みを削除したことで、筆者の中では、今後、こういう出来事が起きた場合には、投稿者の本心を確かめるために、直接、その人物にコンタクトを取るのが一番良いという結論が判明した。

確かに、直接、コンタクトを取ることによって、罵詈雑言に満ちた返答が返って来て、騒ぎが大きくなり、事件が炎上する危険がないわけではない。とはいえ、たとえそうなったとしても、今回の裁判でも、筆者が2009年に杉本にコメント削除の依頼のメールを送ったことが、正当な要求であったと認められたように、相手が要求に応じないリスクを踏まえたとしても、もしそれが正当な根拠の伴う要求であるならば、きちんとした意思表示を、早い段階で直接、明白に行っておくことは重要なのである。

同じことが、掲示板の投稿者にも当てはまるであろう。

掲示板の匿名の投稿は、これまで、村上や杉本や唐沢を不必要に焚き付けて筆者と対立させるために、つまり、争いの火に油を注ぐために大いに役立って来た。

筆者は個人的に当ブログを使用して彼らに対する主張を投げかけているが、掲示板では、当ブログの主張に、尾ひれ背びれをつけ、これを無限大に歪曲・拡大するなどして、筆者が述べてもいない事柄を、村上や杉本や唐沢に対して述べたかのように記し、筆者を中傷しつつ、争いを激化する投稿が無数に続けられて来た。

さらに解せないことは、こうした内容の投稿が、筆者がパソコンから離れている時間帯、もしくはブログ記事を更新しようとしている時間帯に集中的に行われていることである。
  
本日も、掲示板において、筆者を中傷する投稿が重ねられたのは、筆者がパソコンからも、携帯からも、遠ざかっていた20時から21時までの間であった。21時を過ぎて、筆者が坂井に以上のメールを送ってやり取りを続けてから、中傷の投稿は一旦、やんだ。

それから、23時を過ぎて、掲示板を確認し、当記事を書き始めると、再び中傷(および著作権侵害)の投稿がなされた。
 
さらに、掲示板では、24時を回ると、翌朝4時~6時くらいまで、規則的に中傷の投稿がやむという特徴もある。(これは他の匿名掲示板では見られない現象ではないかと思う。)

このようなことが、これまでも終わりなく、繰り返されて来たのである。
   
掲示板における当ブログへの中傷の投稿は、明らかに筆者がオンラインにしていない時間帯を狙って集中的になされているとしか思えず、その目的も、内容も、全く一致した方向を向いており、しかも一定の時間が来ると、まるで業務終了のベルが鳴ったがとごくに中断する。

このような現象は、自然発生的に起きるものではない。 早い話が、掲示板の話題が、常にカルト被害者救済活動の支持者に不利にならないように、当ブログに対する攻撃に転じるように仕向ける、人為的な世論操作が行われているとしか思えないのである。
 
仮にこれが、筆者の過剰な推測であるしても、そう考えるなら、放っておけば良いだけである。

ところが、掲示板の投稿者たちは、躍起になって、筆者が監視されていると感じていることを、嘘だ、妄想だ、幻想だ、創作だと否定し、筆者が現存していると主張したわけでもない「サイバーカルト監視機構」の存在を、必死に否定していることは、筆者から見て、たとえようもなく不自然なことだ。

なぜ彼らはそれほどまでに「サイバーカルト監視機構」の話題にこだわり続け、それゆえ、筆者の感じていることを躍起になって否定せざるを得ないのか? 何度、議論をよそへ向けても、結局は、彼らの主張はそこへ戻って行く。そして、 「俺たちがヴィオロンを監視している事実などない!!そんなのは妄想だ!!」と合唱を続けるのである。

ついに唐沢でさえ、そうした主張に加担し始めたことは、筆者には驚くべきことである。
 
しかも、筆者はKFCを2012年に去ってから、KFCとは一切関わりのない数人の兄弟姉妹と交わりを行っただけで、その交わりすらも、兄弟たちの逝去などによって途絶え、それ以後、筆者は宗教界とは一切関わりのない生活を送っている。

そこで、信者の中には、筆者の容姿がどのように変化したかなどを詳細に知っている人間はいないはずであるが、それにも関わらず、これらの匿名の投稿者らは、非常に細かく筆者の外見的な特徴をあげつらい、それを材料に、筆者を中傷・罵倒していることは、不審極まりない事実である。

もちろん、そうした内容の中には、嘘もたくさん混じっているとはいえ、いずれにしても、掲示板においては、以上の通り、筆者自身や、筆者の行動を事細かに監視していなければ、とてもではないが、想像だけで、そこまで細部に至るまで、様々な特徴をあげつらいつつ、筆者を中傷したり、なおかつ、当ブログの更新を細かく見張りつつ、新しい文章が発表されるや否や、ただちに剽窃して悪質な投稿を繰り返すことはできない、と言えるだけの内容の投稿が、おびただしい回数、重ねられて来たのである。

そのような仕打ちを受ければ、筆者でなくとも、行動を監視されていると考えるのは、ごく自然な成り行きでしかない。
  
さらに、この掲示板で、筆者に対して中傷を重ねている人物は、全員が、唐沢治、村上密、杉本徳久のいずれか(もしくは全員の)擁護者であり、なおかつ、カルト被害者救済活動を熱烈に擁護する人物ばかりであることも見逃せない。

次の記事では、杉本徳久が未だ判決に従わず、賠償金から逃げ回っている事実と、カルト被害者を擁護する人たちが、被害者という美しいベールで自己を美化しながら、いかに暴虐に満ちた行為に手を染めて来たかについて語る予定であるが、筆者はそもそも2009年から、カルト被害者救済活動などという聖書の神に逆らう冒涜的運動とは、手を切らなければならない、と主張して来た。

被害者意識を隠れ蓑に、人間が自己を無限に美化し、己の罪なる本質から目を背けたまま、神によらない救済を目指し、自分自身が神に代わって裁き主になろうとするこの運動は、終わらなければならない。

筆者はそうした見解に立ちつつ、ずっと以前から、カルト被害者救済活動は、正義を失って、今や嘘の温床となり、無法地帯と化していると告げて来たが、今や掲示板を見れば、誰もがその事実を客観的に確認できるまでの事態となりつつある。

掲示板を見れば、カルト被害者を擁護する人々が、どれほど自分たちの被害を訴えることだけに熱心で、その被害を否定する人々に対して、残忍で、容赦のない制裁を加えずにいられない利己的で粗暴な人々と化しているか、いかに彼らが被害者意識に溺れるあまり、常識を失い、法令順守の精神をも失い、自分にとって不都合な事実は見ようともせず、自己を美化し、気に入らない人間に対してのべつまくなしに汚い言葉で罵詈雑言を浴びせ、執拗かつ徹底的な権利侵害を繰り返さないではいられないか、しかも、いかに彼らがその残忍な行動の責任を微塵も感じることなく、一人前の社会的責任を負うことから逃げつつ、ただ「藪の中から石を投げ」ては他人を傷つけるだけの卑劣で無責任な人間に成り果てているか、誰にでも分かるはずである。
 
筆者が幾度も予告して来たように、このように被害者意識に溺れて自己を失った人々は、反社会的になり、法を犯しても、良心の呵責もなくなり、それゆえやがて厳しく裁かれて、人生を失って行くことは避けられない。

彼らは未だに、あたかも筆者が妄想や幻覚に陥り、あたかも当ブログが犯罪的な内容となっているかのようにさえ示唆する記述を続けているが、かく言う彼らこそ、正常な意識を失い、現実と妄想の区別がつかなくなり、やがて反社会的な行動に手を染めて、それが犯罪行為として厳しく裁かれるに至るのである。
 
筆者は、この掲示板が、カルト被害者救済活動の悪質な本質を、また、カルト被害者を擁護する人々の隠されていた悪意に満ちた内心を、こうまで赤裸々に表してくれたのは、非常に幸いで、良いことだったと考えている。

おそらく、この投稿を見て、今後、カルト被害者を支援したいと願う人は、出て来ないだろう。筆者が2010年から2011年頃にかけて、いかにカルト被害者救済活動が反聖書的で、神に逆らう冒涜的運動と成り果て、法にも社会常識にも逆らう無法地帯と化しているかを述べていた頃は、まだこれほどまでには、この運動の悪質さを証拠立てる客観的な事実が揃っていなかった。

だが今や、当時、予告した通りの現象が起きつつあり、この運動の悪しき本質が、またとないほどはっきりと露呈したのである。
  
今、この掲示板で、筆者に向かって、味方を装い、僭越なアドバイスを行っている人たちや、悪質な中傷を行っている人たちに必要なことは、おそらく、現実社会に引っ張り出されて、自分の発言の責任を厳しく取らされることであろうと思う。

次の記事でも触れるが、かつてはあれほど筆者がペンネームでブログを執筆している行為を「匿名に隠れている」と非難していた杉本徳久が、今やブログからそそくさと自分の名を消して、「匿名に隠れている」事実も見逃せない。

これが彼らの本質なのである。他者に向かってはさんざん根拠のない要求を繰り返し、途方もなく厳しい非難や断罪を行うにも関わらず、自分に対しては、微塵も同じ基準を適用せず、自分だけは何をしても許されるかのように、一切の法的・社会的責任を負おうとしないのである。

今日、掲示板の投稿者の中で、一人でも、インターネットにとどまらない接触を、筆者と直接行って、公然と日の下に出て来て、自分が誰であるかを示し、さらに訴訟のリスクを背負いつつ、実名で責任を負って立つ勇気と覚悟のある人はいるのだろうか?

おそらく、そういう勇気を持った人間は、彼らの中には、一人もいまい。だが、筆者は彼らの思惑とは無関係に、そろそろ彼らと現実社会における接触が必要な頃合いが来たと感じている。

彼らの実名を特定し、法的・社会的責任を取ってもらうことは避けられないであろうと筆者は考えている。杉本も、かつてこれと全く似たような言葉を口にしていたが、杉本はそれをただ脅し文句のように振りかざすばかりで、決して掲示板の匿名の投稿者に対して、合法的かつ正当な方法で向き合おうとすることはなかった。

だが、筆者は、市民として許された合法かつ正当な方法で、このように悪質な権利侵害を繰り返す人々を、匿名の世界から、リアルな社会へと引っ張り出して来て、自己の行為の責任と向き合わせることは、この先、ぜひとも必要だと考えている。そのために必要な根気強い労を厭おうとは思っていない。

なぜなら、そうした時に初めて、彼らが一体、カルト被害者とどのようなつながりがあって、村上密や唐沢治といかなる関係にあるから、これほど熱心に彼らを指導者として擁護しつつ、筆者を中傷しているのか、分かるからである。
 
そして、この事実が明らかにならない限り、一体なぜ、この人々がいつまでも「サイバーカルト監視機構などない!!」と叫び続けているのかも、明らかとはならないであろうと思うからである。
 
* * *

2.第一審で提出された原告および被告の書面の分量比較

さて、村上密がまたも筆者を断罪する記事を書いている。またもや筆者が村上の像を「創作」しているのだという。だが、不思議なことに、この記事の中で、村上は、筆者が一体、村上の像をどのように「創作」しているのか、一切、触れていない。

これはおかしなことである。村上は筆者の記事をまるごと「創作」と決めつけているだけで、何をどう否定したいのかが分からないのだ。具体的な反論にすらなっていない。

以前には、村上は、自分が「教会の破壊者」と呼ばれていると、自慢げに吹聴していたことを忘れたかのように、筆者が村上の像を不当に「悪魔化」しているとして、筆者を非難していた。

だが、今回は、筆者の主張が「感情論」であるかのように決めつけているだけで、何を具体的に否定したいのかもよく分からない。

ひょっとすると、村上は、以下の記事で、筆者が、カルト被害者の裁判を支援する人々が、勝訴した被害者から、成功報酬のごとく、賠償金の何割かをキックバックされた可能性があると発言したことが、そんなにも気に入らず、「創作」だと言いたいのであろうか。

あるいは、村上がカルト被害者の救済のために全国各地を飛び回るための旅費が、どこから出ているのか分からず、ほとんどが被害者の自主的な負担となっているのではないかと、筆者が指摘したことが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、村上が筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表した上、その記事を一瞬で削除し、今や、控訴審で筆者から名誉毀損を主張されるはめになっていることが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、筆者が何を訴えたところで、村上の率いるセンターはびくともしないと、村上が記事でアピールしているように筆者が感じられたという印象を述べたことが、「創作」に当たると言いたいのか。
 
筆者は以上の事柄について、何一つ事実として断言していない。すべて単なる推測の域を出ない話としか書いていない。むろん、状況も、人物も、特定されておらず、それで名誉毀損など、成立するはずもないことである。それらが「創作」に当たると言いたいのであれば、なぜ漠然と十把一からげに作り話であると決めつけるのでなく、具体的に事実を摘示して、個別に反論しようとしないのか、不思議に感じられる。
   
さらに、村上は「一審で大量の準備書面を出したが、何の効果もなかった。」とぼやいている。

主語のないこの短い文章を読んだとき、筆者は、村上が「私はヴィオロンに反論するために大量の準備書面を出したが、ヴィオロンには何の効き目も無かった」と書いているのだと受け止めた。

そして、村上は、毎回の口頭弁論に、たった1枚~3枚程度の書面しか出していないのに、何を言っているのだろうかと笑った。

後になって、この文章について考えを巡らすと、村上はおそらく「ヴィオロンは一審で大量の準備書面を出したが、それによって私を追い詰めることはできなかった」と言いたかったのだろうと、ようやく合点が行った。
  
主語がないのだから、受け取りようによっては、正反対の解釈が成り立つ、誤解を招きかねない紛らわしい一文である。このような曖昧な表現では、意図したのとは正反対に解釈されたとしても、文句は言えないことであろう。

だが、その問題はさて置くとしても、ついでながら、ここに先日、判決言い渡し直後に、筆者が事件ファイルを閲覧して、原告側・被告側から提出された全ての書面のページ数を集計した結果を記しておきたい。
 
これを見れば、毎回の口頭弁論に、村上がどれほど少ない書面しか出さなかったかが読者によく分かるはずだ。

原告・訴状 149頁 30.5.25(日付)
原告・訴状訂正 4頁  30.6.4
訴状訂正(2) 10頁 30.6.12
訴状訂正(3)6頁  30.6.29
被告村上・答弁書 2頁 30.7.23
被告杉本・答弁書6頁 30.7.25
原告・訴状訂正(4) 3頁 30.7.25
原告・準備書面 52頁 30.7.30
原告・訴状訂正(5)2頁 30.7.30
原告・申立の趣旨変更申立書 2頁 30.7.30
被告村上・準備書面 2頁 30.8.31
被告杉本・準備書面 9頁 30.9.3
被告杉本・準備書面 11頁 30.9.10
原告・訴状訂正(6) 12頁 表2頁 30.8.26
原告・準備書面(2) 11頁 30.9.3
原告・準備書面(3) 171頁+5頁 30.10.14
被告村上・準備書面(3) 3頁 30.11.2
原告・準備書面(4) 80頁 30.11.21
被告杉本・準備書面(その4) 37頁 30.11.22
原告・準備書面(3・4)の訂正申立書 12頁 30.1.26
被告杉本・準備書面(その5)4頁 30.11.27
被告村上・準備書面 1頁 30.12.3
原告・準備書面(5) 151頁 30.12.10
被告杉本・準備書面(その6)3頁 30.12.20

書証(枝番号を除く)
原告・甲1号証~甲109号証
原告・証拠申出書 30.10.3
裁判所・調査嘱託 30.11.9
被告杉本・乙1号証~乙32号証
 
書証からは枝番を除いているので、枝番も含めれば、筆者が出した書証の数は、130はあるだろうと見られる。
 
この書面の分量の推移を見れば、村上と杉本が当初、唐沢治からの「不知」で通せとの助言に忠実に従ったのか、極端に枚数の少ない答弁書を出していたことが分かる。

その後、杉本の書面の分量は次第に増加したが、村上の反論は、依然として、1~3頁程度にとどまり、3頁を超えたことがない。また、村上の提出した書証はゼロであった。

筆者が100頁を超える準備書面や、100を超える書証を出していたにも関わらず、このようなことが、村上に可能であったのは、村上が杉本を盾のようにして筆者と全面対決させて、自分は傍観者的な立場に立っていたためである。

第一審では、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか、筆者の側で、これを明白に特定する証拠がなく、それが村上の不法行為であることを明白に証拠立てる内容が提示されていなかったので、村上は必至に自己防御する必要がなく、1枚の反論で事足りたのである。

その代わり、一審で杉本が筆者をあらん限りの言葉で誹謗中傷した、途方もなく支離滅裂な内容の書面を提出して、筆者と全面対決に及んだ。
 
そして、村上がこのように極端なまでに少ない枚数の反論しかしなかったことは、筆者にとって不幸中の幸いであった。もしもこの時点で、村上が杉本と同じほどに錯綜した内容の文書を、同じほどの分量で出して来ていたならば、筆者は、2名の被告に全力で反論するために、次回期日までの期間を倍にしてもらわなければならなかったからだ。

この一審を通して、筆者は、訴訟に立ち向かうためには、何よりも時間的余裕が必要であることを思い知った。どんなに優れた文章力があろうとも、優れた思考能力があろうとも、時間が用意されない限り、人はいかなる反論も行うことができない。

すでに書いた通り、この時間的余裕を得ることこそ、論敵に対して優位に立つために必要不可欠な前提条件なのである。
  
だが、限られた条件下で、時間的優位性を生み出すことは、まさに神の采配なくしてはできないわざであり、主だけがそのような采配がおできになることが、この訴訟において、筆者に関しては、見事に証明されたものと考える。

また、一審では、すでに述べた通り、ほとんど書面を出して来なかった村上も、終結前には、杉本と一緒に筆者に反訴の脅しをかけて来たため、筆者は準備書面を通して全力でこの圧迫を撃退・粉砕せねばならなかった。

反訴はそれ自体が権利なので、これを否定することはできず、従って、被告が反訴すると言っているときに、原告がこれを押しとどめることは、およそ常識で考えて容易に出来ることではない。そこで、この戦いには、まさに強力な御言葉の裏づけの伴う信仰が必要であった。
 
筆者の提出した最終準備書面を読めば、その内容はもはや訴訟というよりも、信仰による激しい戦いにふさわしいものとなっていた様子がよく分かるだろう。

実際、筆者はただ御言葉に基づく信仰だけによって、彼らの反訴の予告を空中で粉砕したのであった。そして、このように、第一審では、非常に広く深い信仰的な議論が展開されたからこそ、筆者にとって、これは限りなく深い満足を覚える、主の栄光となる訴訟だったのである。
 
だが、第二審は、もはや第一審ほどのリスクは伴わないであろう。

二審では、反訴のリスクはほぼ回避できるばかりか、それはもはや筆者と杉本ではなく、筆者と村上との争いになると予想される。しかも、明白な証拠の伴う村上自身の不法行為が争点となるので、村上には、一審のように薄っぺらい反論で、筆者の論に立ち向かうことは、不可能となることだろう。

村上がこれからその作業をどんな風に成し遂げるのか、お手並みを拝見したい。

筆者は弁護士という職業がどのようなものであるかを知っているので、弁護士相手の戦いを、一切、恐れていないが、相手方に弁護士がつくとすれば、それには筆者にとってもメリットがある。

それは、弁護士は裁判所の決定を軽んじたりは決してしないことだ。訴訟の相手方に弁護士がついている場合には、杉本が今しているように、自分に不利な判決からはどこまでも逃げ回るような悪質な態度を取ることはまず考えられない。

筆者が勝訴すれば、弁護士は速やかに判決に応じようとするはずである。
 
<続く>
 
補足:この記事は4月22日の深夜2時~2時半頃に投稿したものであるが、本来ならば、多くの人々が寝静まっており、当ブログの更新など全く気にかけていないはずのこの時間帯に、ただちに更新を察知して記事を閲覧しに来るIPアドレスが以下の通り、確認されている。
常時更新を見張っているIPアドレスの一つと見られるが、
訪問回数を見ても、管理人と見まごうほどに、おびただしい回数、当ブログを訪問している様子が分かるため、およそ善良な訪問でないことは推知できる。
ちなみに、杉本のIPアドレスも、4月21日の深夜に掲示板に中傷の投稿がなされる前後に確認されている。

 

2019/04/22 (Mon) 神の義なる裁き

村上密が挑発的な記事を書いている。

自分は全国行脚の旅に出ており、各地から引っ張りだこで、宗教トラブル相談センターへの相談は尽きないという。

筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表し、控訴審で名誉毀損を主張されても、仮に自分が刑事告訴されたとしても、そんなことでは、自分の率いるセンターはびくともしないと言いたいらしい。

まるで「ヴィオロンよ、俺の首を討ち取ってみろ、そんなことができるわけがない。センターは永遠だ」と言いたげな記事に感じられる。

だが、このような状況で、このようなことしか書けないとは、本当に愚かなことであると筆者は思う。こうした話には、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)との御言葉を繰り返すのみである。

村上はこれまで高慢さゆえに、ことごとく自らの言葉につまずいて来た。むしろ、筆者にとって、村上がこのような多忙状況に置かれていると知らされることは、まさに幸い以外の何物でもない。

ここ一年間、筆者は民事訴訟における戦い方を学んできた。次回期日までに一カ月程度の時間しかない中、複数の仕事をかけ持ちしながら、準備書面を用意することは、並大抵の苦労ではない。しかも、筆者はそれを2名の被告相手に、他の様々な煩雑な作業と並行して成し遂げて来たのである。

その作業が、これから村上に落ちかかることとなる。控訴審では、村上は本格的な防御に回らなければならないからだ。これまでのように、杉本を盾のように利用しながら、杉本と筆者との全面対決を傍観者的に見ていられる立場ではなくなったのである。

控訴審で村上とどのような議論になるか、そのロジックの基本部分は、判決では全く認められなかった杉本の書面からも十分に拝借できる。むろん、第一審でも、筆者はそれを利用したが、筆者はこれから杉本の主張を裏返しにして、村上に適用して行くことになる。まずは真実性・相当性の法理である。

村上は私人ではない。TVの記者会見に出演し、数多くのカルト被害者の訴訟にも支援者として関わり、宗教トラブル相談センターを率いて、自らカルト問題の専門家を名乗っている著名な牧師である。以上の記事でも、村上自身が、自分は全国から引っ張りだこになっているかを強調している通り、村上の活動は、社会の関心事であり、それゆえ、村上の活動を筆者が批判したとしても、その内容が公共の具体的な利害に関係しており、なおかつ、摘示した事実が真実もしくは真実であると信ずるに相当な理由があり、その批判の目的が、もっぱら公益を図ることにあれば、その批判が、村上の社会的な評価を低下させるものであったとしても、名誉毀損とはならず、違法性阻却事由に該当する。

それに引き換え、筆者は私人であり、筆者の執筆しているブログも限定されたテーマであるから、それに対する非難が公共性のあるものと言えないことは一審でも認められている。

そこで、村上はこの先、筆者の記事がなぜ違法性阻却事由に該当しないと言えるのかを自ら証明し、さらに、村上が発表した記事が、筆者に対する名誉毀損にも該当しないことを自ら証明するという二段階の論証をせねばならない。

その他にも、そもそも刑事告訴がなされたのかどうか、これを客観的に立証するのも、村上の仕事だ。

それに加えて、村上は4月1に発表した人格権の侵害が不法行為に当たらないことをも主張して、自己防御せねばならないが、こうしたことは、すべて相当な困難を極める作業となるはずである。

しかも、村上は一審判決が言い渡されるや否や、すぐに筆者の人格権を侵害しつつ、事件について触れた記事を発表し、さらに筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表し、それ以外にも、筆者を名指しで批判する記事を発表している。

こうした一連の記事に、筆者は当然ながら、反論する権利を有する。ただ反論内容が気に入らないということで、名誉毀損が成立するはずもない。

そこで、村上が主張している名誉毀損が、成立の条件を満たしていない場合には、当然ながら、虚偽告訴罪が視野に入って来ることになる。民事でまず村上の主張を崩し、次に刑事事件でこれを無効化し、最終的には、虚偽告訴罪を主張して行くという段取りになるだろう。

このように、村上が軽率にブログで蒔いたいくつもの種は、これからことごとく村上に極めて厄介な問題となって跳ね返るものばかりである。正直に言えば、今の筆者から見て、村上が今、専念すべきは、宗教トラブル相談センターの活動を自慢することではなく、この訴訟において、これだけ不利な要素を抱えながら、確実に勝利できる手立てを必死に考えることである。
 
筆者から見て、村上が以上に挙げた問題について、不法行為を主張されないための十分な反論を行うこと自体が極めて困難であるばかりか、村上が現在のように訴訟を見くびった態度で、他の仕事に専念している状態では、到底、勝つことはできない。

準備書面を作成するのは、ただでさえ全国を忙しく飛び回っている牧師には、相当な負担となるであろう。きちんとした論を展開するためには、まとまった時間が必要であり、何より自由に物事を熟考するための余裕が必要である。

いくつもの仕事の合間に、細切れに文書を作成することは、極めて難しく、思考がとぎれとぎれになり、主張が明確化できない。論敵に反論するのは、ただでさえ厭わしい仕事であるから、逃避の手段が他にあれば、すぐにそこから逃げてしまうのが人間である。

自分の考えもまとまらないうちに、下手に弁護士に丸投げすると、ますます支離滅裂で筋の通らない理屈を立てられ、敗北へと誘導されるだけである。

筆者は、訴訟が時間との戦いであり、主が采配して下さらなければ、このような戦いを完遂するための条件を、自力で整えることは不可能であることを知っている。

訴訟に勝つためのポイントは、まずは時間的制約という問題を取り払い、この問題において、論敵よりも圧倒的優位に立つことである。

別の言葉で言えば、その争いにどれほど強い思い入れがあり、自分の望む結果を得るために、どれほど時間と労力を惜しみなく投入できるかが、勝敗を分ける。勝つためのロジックは、まず時間的余裕があって初めて生まれる。時間と労力において、論敵よりも不利に立たされながら、訴訟で勝利をおさめることは、まず不可能なのである。

そこで、この時間的制約という厄介な問題を、可能な限り取り払うためには、何よりも、自由であることが必要だ。この問題は、訴訟だけでなく、すべての物事に共通する。自由こそ、勝利のための基礎なのである。

そこで、多くの人々から呼びつけられ、歓迎され、引っ張りだこにされていることは、「これだけ私は社会で必要とされているのだ」という満足感を本人にもたらし、自慢話の種にはなるかも知れないが、それは裏を返せば、自分の必要のためでなく、人々の必要のために、絶えず時間を費やさせられ、奔走させられていることを意味するから、自己を防御するための時間は、その合間にしか残らない。このような状態は、極めて無防備と言えるのであって、こちらから見れば、まさしく好都合でしかないのである。

村上が控訴審の議論も、A4・3枚で事足りると考えているのかどうかは知らないが、その「簡潔な」書面で、以上のような極めて複雑で厄介な問題をどのように整理できるのか、まずはお手並み拝見と言えよう。繰り返すが、弁護士に依頼したからと言って、本人がきちんと考えてもいないものを、弁護士でさえ補えない。唐沢治の弁護士が作成したような書面では、ほぼ勝ち目がないことは、はっきり断言できよう。

神の御前で本質的に重要な事柄をおざなりにしながら、自分の栄光のために東奔西走したとしても、それは滅びにしかつながらない。心を静かにして、御前に立ち止まり、人間の思惑から離れたところで、自分の問題をすべて主に委ね、心を注ぎだして解決を求める謙虚さが必要である。

* * *
 
さて、掲示板では、ビュン事件の性暴力の被害者もしくはその関係者と見られる信者(?)の女性が、当ブログをひどく中傷し、おびただしい数の権利侵害を繰り返しながら、当ブログが性被害事件に理解がないと責めている。

だが、こうした言い分に流されて、カルト被害者を巡る裁判に肩入れすることが、いかに危険であるかを考えてもらいたいと筆者は思う。

掲示板では、次のような趣旨の投稿があるのを筆者は読んだ。2009-2010年にかけて、「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と杉本ブログに書き込んだKFCの元信者が、当時、杉本ブログの関係者に被害を訴えて泣きついたところ、このブログに深く関わっていた黒幕のような人物から、唐沢に対して訴訟を起こせ、さもなくば、俺たちに金を払え、と脅され、元信徒は杉本ブログを取り巻いているヤクザのような連中に恐れをなして、彼らの陣営から逃げ出したのだと。

むろん、こういった話の真偽のほどは定かではないが、これは十分にあり得ることだと筆者は考えている。ここに、なぜカルト被害者救済活動の支持者らが、訴訟にこだわるのかという理由がよく表れているものと思う。

つまり、KFCの元信徒の訴えた被害は、カルト被害者救済活動の陣営にとっては、新たな訴訟を起こして賠償金をせしめる絶好のチャンスと映ったと考えられるのだ。彼らは元信徒の訴訟を助けるように見せかけて、これにたかり、賠償金をせしめようと考え、元信徒を訴訟に焚きつけようとしたが、元信徒がこれをためらったので、目当てとしていた金が手に入らないと踏んで、手のひらを返して彼を恫喝し始めたのである。まあ、ゆすり、たかりのようなものであろう。

安易にカルト被害者救済活動に接触すると、このようなひどい目に遭わされるという教訓である。また、訴訟を支援するように見せかけている人々の本当の目的が、被害の克服にではなく、訴訟で得られる金にある様子もよく見えて来る。

掲示板でも指摘されている通り、ビュン・ジェーチャンの事件では、被害者は民事で四桁の賠償を勝ち取った。むろん、性被害事件のすべてがこのような高額の賠償で終わるわけではない。むしろ、個人が性被害を訴えた事件では、被害の認定さえも行なわれないで、敗訴に終わるケースは少なくない。

その点、ビュン事件は、被害者が団結してメディアなどでも被害を訴え、世間から注目されていたことなど、様々な条件が有利に働いて、以上の結果が出た。もちろん、このような好条件が整えられたのも、カルト被害者救済活動の側からの効果的な演出によるもので、偶然ではないと見てよかろう。

だが、それゆえに、おそらくは、この事件で被害者に支払われた賠償金の何割かは、この訴訟をバックアップした陰の支援者たちに、「謝礼金」としてキックバックされたのではないかと考えられる。

むろん、こうした話は、闇から闇へと消えて行くものであって、確かな証拠を提示することは難しいとはいえ、業界の常識を考える限り、暗黙の了解として、そういうことが行われているのではないかと考えるのは妥当である。

たとえば、音楽の業界でもこういうことがある。バイオリンを習っている生徒が、新たな楽器を購入したいと考えて、自分の師匠に相談したとして、師匠が懇意にしている楽器商を生徒に紹介し、生徒がその楽器商から新たな楽器を購入すれば、その購入代金の3割程度が、楽器商から紹介した師匠にキックバックされる。

あるいは、労働紛争を考えてみれば、もっと分かりやすい。労働紛争を専門に担当している弁護士、NPO法人、ユニオン、組合などは、すべてボランティアではなく、成功報酬型の商売である。彼らは労働者を助けてやると言いいつつ、労働者の問題にたかって利益を得ている。労働者の訴訟を支援する代わりに、勝訴した場合の賠償金の少なくとも2割程度は、成功報酬として彼らに差し出される。

従って、労働紛争も、被害者ビジネスとして大いに利用されているのであって、訴訟の支援者たちは、成功報酬の一部を受け取ることで、それを利益としている。その中で、カルト被害者の裁判だけが、例外ということはまず考えられない。四桁の賠償金の2~3割となれば、相当な金額に上る。
 
つまり、カルト被害者の裁判は、これを陰から支援している代理人や支援者にとっては、実に美味しいビジネスになりうるということなのである。
 
筆者は、杉本徳久のような人物が、カルト被害者から恒常的にキックバックを受けていたと言っているわけではない。むしろ、杉本ブログは、特に初めの頃は、カルト被害者の裁判をビジネスの手段としている人々に、都合の良い宣伝広報係として、大いに利用されていた可能性があるものと思う。

このように、KFCの元信徒を巡る話を考えてみる限り、非常に強欲な勢力が、杉本ブログの背後に着いていて、金儲けのために、杉本にどんどん被害者の訴訟に関する記事を発表させたり、杉本ブログに助けを求めてやって来る被害者を食い物にしようと待ち構えていた可能性が、考えられないことではないのだ。

そこで、いかに真偽のほどは分からないとはいえ、訴訟を巡っては、実際に高額の金銭が動くのであって、表向きの美談だけを見て、カルト被害者の支援者を名乗る者たちが、正義の味方だなどと思い込むことは、極めて浅はかかつ危険であると筆者はみなしている。

カルト被害者の訴訟を、ビジネスの手段として利用している様々な勢力が存在している可能性があること、彼らが被害者の弱みにたかり、栄光と金をむしり取っている可能性があることを疑ってみなければならないのだ。
 
そしておそらく、2009年当時から、それがすでに実状となっていたからこそ、被害者意識が(加害者意識と表裏一体の)罪深いものであることを指摘し、これを聖書にさからう悪として、神の御前に投げ捨てる必要を訴え、被害者を一方的に美化する活動の危険を訴え続けて来た当ブログは、カルト被害者救済活動の陣営から見れば、非常に目障りだったのだと言えよう。

むろん、村上密も、カルト被害者の裁判に、支援者・代理人として関わっている。上記の記事で、村上は、「北海道の山々はまだ雪に覆われている。ここでの仕事が終われば沖縄での仕事が待っている。それから富山、茨城、神奈川、東京、大阪、奈良、石川、宮城、沖縄、東京、福島。宮城、奈良、東京、大阪、沖縄と二月間の巡回の予定である。」と記しているが、こうした活動も、基本的には、被害者の相談に乗ったり、被害者の会合に参加することを指しているものと見られる。

だが、一体、それだけの旅費・交通費はどこから出るのか、という疑問が湧いて来るのは当然であろう。まさか京都七條基督教会が単独でそこまで負担するはずもない。だとすれば、その旅費の大半は、おそらくは村上を招いた人々が自主的に負担しているのだろうと見られる。

もちろん、旅費のみならず、牧師を招聘し、メッセージやカウンセリングを依頼するとなれば、招聘した側の人々は、それにも謝礼を支払うであろう。だが、そうした献金は、活動報告と共に、京都七條教会の会計に上がって来ることはないものと考えられる。

従って、カルト被害者救済活動には、訴訟における賠償金のキックバックだけでなく、こうした日常的な活動においても、誰の目にも触れないところで、被害者から牧師に渡される極めて不透明な資金の流れがあることが予想される。

これは村上に限ったことではない。村上の登場以前から行われていた、統一教会からの信者脱会運動などにも同様に当てはまることである。カルト被害者の家族が、カルト宗教の信者となっている娘息子の脱会を牧師に依頼した場合、その牧師に、娘息子が取り戻されてから直接、手渡した謝礼金というものが存在するはずである。それは教会の一般の会計報告には上がって来ない、闇から闇へと消える金である。そして、おそらくは、この不透明な資金の流れこそが、一部の人々が、いつまでもカルト被害者救済活動から離れられない理由ではないかと筆者は見ている。
 
カルト被害者たちは、裁判を起こせば、勝訴した後も、被害者の会を結成し、いついつまでも、訴訟を支援した者に、「先生、ありがとうございました」と頭を下げつつ、定期的に支援者を自分たちの会合に招いて集会を持つ。彼らは、それが立ち直りのために必要なことであると考え、自分たちはこの先生に助けられてこそ、今の人生があると考えているので、招聘の度ごとに、食費、旅費、交通費、謝礼金などを喜んで負担する。その他、相談料、献金など、様々な名目で金銭の受け渡しや便宜供与が行われる。

もちろん、そのような会合を何度重ねたところで、彼らはキリストに至り着くことなく、心の解放を得られるわけでもない。むしろ、生涯に渡り、訴訟の代理人・支援者となった者と、心の癒着が生じ、受けた被害から離れられなくなって行くだけなのである。
  
今後の記事では、このようにビジネスとして他者から食い物にされないためにも、人が被害者意識そのものを捨てることの必要性について触れたいと考えている。特に、性被害事件のトラウマを引きずり続けることは、人間の男女の健全な関わりを生涯に渡って壊してしまう恐れがあるだけでなく、神と人との関係をも、根本から破壊する恐れがあるためである。

聖書によれば、神と人との関係は、小羊とエクレシアの婚姻になぞらえられている。そこで、性被害事件の被害者が、その事件のトラウマのために、地上における男女の健全な関わりのイメージが傷つけられ、穢され、壊されたままで、小羊とエクレシアとの婚姻の問題だけを、健全に考慮するということは、非常に難しいであろうと考えられる。

つまり、地上において受けた被害が、魂の傷となるだけでなく、霊的にも非常に深い傷となって残り、神との正常な関係を妨げ、傷つける恐れがあるのだ。

筆者は、何らかの事件に遭遇すれば、合法かつ正当なやり方で、これを解決することに反対するつもりはない。物損事故は、弁償されればすぐに終わるであろうし、名誉毀損事件も、賠償で終えられるかも知れないが、性被害事件のような事件のトラウマは、決して金銭で解決できる種類のものではない。受けた心のトラウマは、どれほど高額な賠償を得たとしても、それによって払拭されない。

そこで、受けた被害を神の御許に持って行くという行程が必要となる。だが、カルト被害者救済活動の支持者たちは、いついつまでも被害の思い出から離れることなく、決してその傷を神の御許へ持って行き、解消するよう促さず、かえって被害者であることを強調しつつ、まるで被害を記念するような会合を持ち続けている。

そのようなことをしている限り、彼らのトラウマは、消え去るどころか、ますます強化される一方である。そして、健全な自己イメージを回復できず、かえって傷つけられた自己イメージを、あたかも正常な自分自身であるかのように勘違いし、その結果として、地上における男女の健全な関わりが不可能になるだけでなく、神との関係においても、傷つけられた自己イメージを持ち続けることによって、恵みから疎外されることとなり、やがてその被害者意識が、キリストの完全性に悪質に逆らう罪にさえなって行く。

筆者の書いていることが厳しすぎると考える人々がいれば、掲示板で、今、カルト被害者を擁護する人々が、当ブログに対して、どれほど悪質な誹謗中傷を加えているかを見てみれば良い。このような汚い言葉を他者に向かって平然と吐き捨てることができる人たちが、本当に被害者の味方であろうか。また、仮に自身が被害者であったとしても、自分を憐れむあまり、他者に対してこうまで残酷となり、狼藉を加えることがどうして許されるであろうか。

しかし、当ブログでは10年ほど前から、カルト被害者を名乗る人々に接触し、彼らの中には、このようにまで自分の被害から離れられなくなり、自分は受けた被害のゆえに、自分は人々から無条件に憐れまれるべきで、何をしても許されると思い込むほどまでに、人格が腐敗し、幼稚化してしまった人たちが混じっていることを見て来た。

こうした被害者意識をこそ、私たちは主と共なる十字架において死に渡し、手放して行く必要がある。裁判で社会的決着が着いた後も、いついつまでも被害を記念すべき会合など持ち続けて、支援者を名乗る人々に束縛され、利用されている場合ではない。その被害の思い出そのものを、罪深いものとして手放し、きっぱりと捨て去って、新たな出発を遂げ、被害者であるというステータスと訣別しなければ、その被害は、やがて山火事のように、あなた自身を食い尽くすことになろう。

当ブログは、聖書の御言葉に基づく信仰に立つものであるから、性被害を訴えることが目的でもなければ、カルト被害者の裁判の模様を発表することを目的ともしておらず、カルト被害者を擁護することも目的としていない。それゆえ、カルト宗教における性被害の問題は、ほとんど取り上げることもなく、詩織さん事件などについても、これまで何も言及して来なかった。

筆者は、詩織さんの事件についても、深い懐疑の念を持っている。それは、詩織さんという一人の女性が、あまりにも美化され、彼女がまるで性被害事件の象徴のようになって、一人歩きしていることに、大いなる疑問を感じるからである。自分が遭遇した一過性の事件として、彼女がこれを解決するならば、それは大いにすれば良いことである。もちろん、弱さを抱えている若者を食い物にする現在の日本社会の問題も一緒に論じられることは構わない。

だが、当ブログが懐疑するのは、彼女に群がって、彼女を美化し、神話化し、象徴化し、生涯に渡り、彼女を性被害を受けた被害者の象徴として祀り上げ、これを存分に利用しようとしている実に数多くの人々や団体があることである。

そして、それに利用されれば、彼女は生涯に渡り、自分が受けた一過性の被害から抜け出ることができなくなり、自分の人生を失って、絶えず被害者の象徴として、無数の人々の被害を代弁しながら、悲劇の人として生きて行くことになるであろう。そして、そのような役割を、もしも彼女が喜んで引き受けるとすれば、そこには、ただ彼女を担ぎ上げた団体や人々の思惑が働いているだけでなく、彼女自身がこの事件に遭遇するよりも前から、心に持ち続けていた何かの問題、弱者性から抜け出ることのできない世界観が、影響を与えているのではないかと筆者は見ている。(彼女の世界観がどのようなものであるかは、彼女が制作した作品を見れば分かるであろう。)

つまり、当ブログでもずっと主張しているように、カルト被害者が、被害に遭遇したのには、何かの理由が存在するのであって、被害者はいかなる心の弱さが自分の側にあって、それが暗闇の勢力がつけこむ隙となったのかについて、よく考えてみなければならない。この問題を考えるよう促すことは、断じてセカンドレイプではない。なぜなら、弱さがあればこそ、被害者はつけこまれたのであって、そこには、当然、心の弱さも含まれており、その弱さを克服することができなければ、何度でも、同様の問題に巻き込まれることがありうるからである。

神はキリストにあって、私たちを完全にしようと願っておられる。そこで、私たちは、その完全性を受けとるために、自分の弱さを知り、それを神の完全に逆らうものとして手放しつつ、その弱さを主にあって補われ、克服できることを知らなければならない。自分は弱いかも知れないが、神の強さによって覆われる道が開かれているのだから、いつまでも弱さの中にとどまり続ける必要がはない。

事件に立ち向かうことを通して、自分自身の心の中にも、克服すべき弱さが存在することを知って、その領域を光によって照らされ、より完全な人としての自己意識へたどり着くことが必要である。
 
筆者が述べていることの意味がまだ分からないという人のために、別なたとえを述べよう。筆者が掲示板の誹謗中傷の書き込みを、名誉毀損の被害として訴訟で訴えたとして、それは単に一過性の事件に過ぎない。筆者はそれを機に、生涯、掲示板における誹謗中傷の問題を世に訴え、これと戦うために、活動家に転身しようなどとは全く思わないし、そのようなことは実に馬鹿げたことである。投稿者が判明し、賠償をさせれば、その時点で、何が書かれたにせよ、その問題は、以後、終わったものとして考えるだろう。

それなのに、一度、掲示板の投稿者を敗北に追い込んだことで、これをいつまでも掲示板への勝利の記念として、会合を開いては、そこにいかなる誹謗中傷が書かれたのか、つぶさに文言を読み上げて、自分がどれほどそれによって深く傷つけられたかを思い出し、涙を流すようなことは決してしない。むしろ、毅然と立ち向かったがゆえに、敵の嘘をきっぱり退けて、この問題を克服し、虚偽の投稿によって自分の心を傷つけられず、それを鵜呑みにすることもなく、心の平和を無事に保ったことをこそ、喜ぶであろう。

もちろん、そうなるまでには、多くの月日が必要かも知れないが、一旦、一つの問題を解決したならば、もはやそれは心に影響を及ぼすことはない。その後、筆者はまた別のより困難な問題に取り組むかも知れないが、それは、掲示板とは全く別の新しい問題である。筆者はその新たな問題をも克服して、前進して行くであろう。このようにして、絶え間なく前に進んで行き、そこで自分の心の弱さと取っ組み合って、これを打破し、勝利をおさめ、さらに前進して行くためにこそ、人は試練に遭遇するのだと筆者は考えている。

従って、一つの課題をクリアしたのに、その問題にいついつまでもとどまり続け、いついつまでもとらわれ続けることは、有害である。一つの問題を解決したならば、それを後にして、前に進んで行くべきなのである。

このように、起きた事件を一過性のものとして決着をつけることと、生涯、自分をその問題の被害者の立場に置いて生きていくことは、全くわけが違う。だが、被害者に群がって、これをビジネス化する人々は、被害者の像を無限大に美化し、神話のように祀り上げることによって、かえって被害者が生涯に渡り、その問題に束縛され、被害者としてのステータスから抜け出るチャンスを失うように仕向ける。

その結果、彼らは、神にあって約束されている健全さ、完全性を見失い、傷つけられた自己イメージを生涯に渡って持ち続けることになり、その中を生きるようになる。一つの問題を克服して、次なる次元に進むことさえ、できなくなって、生涯、一つの問題の中だけにとどまり、それにとらわれて前進することができなくなってしまう。そのようにして、被害者自身もそうだが、それに群がる無数の人々が、被害者の像を美化することで、被害者を「被害者性」の中に閉じ込め、永遠にそこから抜け出せないように仕向けて行くことは、神が約束された人間の自由と解放に悪質に逆らう行為であり、非常に罪深い行為であると筆者はみなしている。

* * *

さて、本日の当ブログのテーマに戻ろう。まず最初に、オリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの論説を挙げておきたい。この記事には、キリストと教会の結婚の奥義について、詳しく書いてあるからである。
 

 「キリストとの合一」第五章 夫婦の合一(4)


交わりと配偶

 これを二、三の単純な、自明と思われる点にまとめることにしましょう。最初のアダムの最初の夫婦関係という絵図・型に沿って、これに注目して調べることにします。そして、「これに関する神の御思いは何だろう」と問うことにします。そうするなら、それらの御思いを、あらゆる関係の中で最も幸いな関係の中にあるキリストと教会、キリストと私たちに適用することができます――確かに、これはキリストとのすべての関係の中で最も幸いな関係です。神の御思いは何だったのでしょう?

 まず第一に、聖書が示すところによると、神が女を創造してこの合一を生み出そうとされたのは配偶のためでした。「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)。これに尽きます。しかし、それには豊かな内容があります。これをキリストと教会に適用するのはおこがましく思われますが、それでも、キリストに対する教会の関係――教会はキリストの妻です――には、これを確証・証明する多くの他の要素や特徴があります。

これはこれだけではありません。旧約聖書の中には花嫁の型がとてもたくさんあり、その思想をキリストと教会に適用するに足る十分な証拠に満ちています。それらがキリストと教会を指し示している証拠や証しがふんだんにあります。今はその学びに取りかかるつもりはありませんが、確かにあります。証拠はたくさんあります。ですから、おこがましく思われるかもしれませんが、私たちはこの点を私たちの主との私たちの関係に適用することができます。すなわち、教会を神が創造されたのは、御子の益を促すためであり、御子のために配偶を願ってのことだったのです。

 地上におられた時の主イエスを見ると、彼がどれほど交わりを求めておられたのかを見落とすことはありえません。おそらく、彼が語られた最も悲しい言葉の一つは――「あなたたちは(中略)私を独り残すでしょう。しかし、私は独りではありません。父が私と共におられるからです」(ヨハ一六・三二)という言葉です。これによって彼の発言が弱まったり相対化されるわけではありませんが、「私は独りです」という彼の言葉には悲しい響きがあります。彼が常に配偶を求めておられたことは自明です。彼は人であり、他者の必要を感じておられました。それは神聖なものです。キリストは交わりを求めておられます――「交わり」というこの言葉を取り上げる新約聖書の方法は素晴らしいです。これは何と豊かな言葉でしょう!自分のコンコーダンスを調べてみてください。そうすれば、「交わり」というこの言葉の原語がわかります。そうするだけでも豊かな学びと黙想になります。確かに、とても貴重な経験になります。「あなたたちは御子の交わりの中に召されたのです」(一コリ一・九)

 これは、まず、夫婦の合一、配偶もしくは交わりの思想、観念を表しています。第一に、配偶に先立つ交わりは交わりにすぎません。この関係の最初の調べ、支配的調べはまさに交わりです。

 交わりとは何でしょう?交わりは生活と目的の一体化です。キリストは生活と目的が御自身と同じ人々、御自身の心と一つ心である人々を望まれました。あなたや私はそのような関係の中に召されました。あなたや私が主イエスに、御自身の生活や目的と一体化した人々を求める深い心の願いと願望を起こさせなければならないとは、高遠なことであり、聖なることであり、貴いことです。今述べるのはこれだけですが、これが夫婦の合一の意義の第一歩です。



ここに、キリストと信者(エクレシア)の交わりの本質は、「生活と目的の一体化」であると記されていることは、注目に値する。

なぜなら、数多くの信者が、キリストとの交わりとは、日曜礼拝に参加することや、甘美な讃美歌の調べに身を委ねること、説教を聞くこと、パン裂きの儀式に関わることや、兄弟姉妹と交流することなど、何か宗教的な名目のついた心地よい体験に浸ることだと勘違いしているからである。

もしくは、ある日突然、天から神の啓示が下り、キリストが自分に対して特別にご自身を現して下さり、何か尋常でない恍惚体験に浸ることを、神との交わりであるかのように勘違いしているる人々もいる。

確かに、神は信じる者に、ご自身を啓示して下さることがないわけではないが、オースチンスパークスは、以上のような感覚的な享楽や、恍惚体験が、神との交わりであるかのような考えをきっぱり退け、主との交わりとは、「生活と目的の一体化」であると断言する。

そこからも分かる通り、主との交わりとは、信者の生活のあらゆる場面が、ただ一つの目的――御国の前進、御心の実現――のために集約されて行くことを言う。別の言葉で言えば、それは信者が、自分の人生のすべてを神のために捧げ、神の満足のために生きることを言う。

それは決して信者が神学校に行って牧師になったり、伝道師や宣教師になったりすることを意味しない。

信者の人生の一瞬一瞬のすべてが、ただキリストのために、キリストの満足を目的として捧げられることを指している。

パウロは自分に与えられた人生の時間を、すべて主のために注ぎだしたいと考えた。彼はただ神の満足のために生きたいと願っていたので、それゆえ、自分の時間をそれ以外のことに費やすことを惜しんだのである。

もしもパウロが地上で妻を得れば、彼は伴侶を喜ばせるために、たくさんの気を遣わなければならなかったろう。子がいれば、多くの世話をしてやらねばならない。家庭を持てば、パウロ自身も、満たされることはあるかも知れないが、彼は感覚的満足と引き換えに、自分の時間と労力を、人間のために捧げねばならなくなる。だが、パウロは、自分の持てる時間を、自分の満足のためでなく、神の満足のために捧げたいと考えた。

パウロが誰よりも喜ばせたいと考えていた相手は、人ではなく神であり、そうすることが、他のどんな事柄りも尊い価値ある生き方であることを、彼は知っていたのである。

さて、オースチンスパークスの論説からも伺えるのは、神の悲しいまでの孤独、配偶を得たいと願われる切なる御思いである。

「人が一人でいるのはよくない」(創二・一八)――この言葉は、神の独り言と言って差し支えない。神は天地を創造され、人を創造された際、人(アダム)のために助け手(エバ)を造られた。しかし、ご自身はまだ助け手を得ておられなかった。

そこから、悲劇が始まる。人類は本来、神の配偶(助け手)として造られたのに、創造された次の瞬間、神を裏切り、悪魔の支配下に下った。

神は人類を滅びから救おうと、独り子を地上に遣わされたのに、弟子たちは主イエスが十字架にかかられる前、主を裏切って逃げた。

かの有名なイザヤ書53章には、イエスが地上におられた際の孤独が、どれほどのものであったかを伺わせる記述がある。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」

さて、筆者が、当ブログに対して向けられる中傷のすべてが、筆者個人に向けられたものではなく、実は、筆者の背後におられるキリストに向けられたものであることに気づいたのは、ここ最近のことである。

村上や杉本のような人々は、当ブログの内容が、かねてより「創作」であり、嘘に満ちたものであるかのように非難していた。

しかし、杉本がある時、はっきりと聖書は神の霊感を受けて書かれたものでなく、人間の書いた書物に過ぎないと告白し、人類の堕落も、ノアの洪水も、サタンも悪霊も暗闇の軍勢も、みなファンタジーのような比喩に過ぎないと書いたことにより、筆者は、この人々が、当ブログをファンタジーの産物であるかのように述べているのは、実は当ブログの記述の背後にある聖書の御言葉に対する攻撃であることに気づいた。

彼らは、当ブログを「創作」であるとみなしているだけでなく、その背後にある聖書の御言葉をも「創作」だと考え、その真実性を信じていないのである。

今、掲示板等で行われている筆者に対する人身攻撃もそれと同じである。上記の御言葉を参照するならば、キリストには、「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もな」かったのであり、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とある。

これは不思議なことである。一方では、キリストはそのまことの命を人々に分かち与えられたことにより、多くの人々から慕われ、大勢の群衆に囲まれていた。ところが、他方では、彼には、堂々たる風格も、人目を引く容姿もなく、むしろ、人々から軽蔑されて、拒絶され、顔を背けられ、孤独で、見捨てられ、嘲られていたとある。

人々は、自分にとって利益となるものを見いだせる間は、キリストに群がり、その後を追ったが、いざキリストが苦難を受けられると、自分は一切、関わりたくないとばかりに逃げ去って行った。

地上におられた時のキリストの圧倒的な孤独――これは、父なる神の孤独にも重なるであろう。十字架において死の瞬間に、主イエスが、「父よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、ただ罪のゆえに神と断絶して見捨てられた人類を代表する叫びであるだけでなく、配偶を失った父なる神の叫びにも通じるように思う。

神は人類をご自分の助け手として創造されたのに、人類は神を裏切り、見捨て、蔑んで去った。「私は、私の助け手、花嫁とすべく、人類を創造したのに、なぜ人類は、花婿なる私を見捨て、嘲り、踏みにじって去って行ったのか――」主イエスの叫びの中に、神の人類に対する言い尽くせない悲しい叫びが込められ、それが主イエスの言葉の中で、互いに響き合っているように感じられる。

だが、神は十字架の死と復活を通して、ご自分が望んでおられる新しい人を取り戻された。そして、主に連なる人々は、キリストと同じように、神の御心を満足させるために、この世から取り分けられ、召し出された人々である。
 
そのようなわけで、神は今日も人類をご自分のために招いておられる。私たちは、ある時、そのことに気づき、ふと立ち止まって、この召しに応えるかどうかを考えさせられる。

筆者は「わたしについて来なさい」という主イエスの呼び声に応え、神の満足のために身を捧げて生きたいと願う。ところが、ある人々は、これを幻聴だなどと言って嘲笑っている。神が最も願っておられることを嘲笑う――神が人類に与えられた最も貴い召しを嘲笑う――何と恐ろしい冒涜的な考えであろうか。

主の御心は、小羊の婚礼にこそあり、神はご自分の配偶を得て満足したいと願っておられる。神がまだ満足しておられないときに、どうして私たちだけが、地上で先に満ち足りて幸福になって自己満足してしまってよかろうか。

キリストが人々に拒絶され、蔑まれ、見捨てられ、踏みにじられ、栄光を傷つけられたままなのに、どうして私たちだけが、人々に受け入れられ、尊ばれ、喜ばれ、誉めそやされて、担ぎ上げられ、栄光を受けて良かろうか。

筆者が御国のために献身し、神の国の働き人となってから、筆者に対する暗闇の勢力からの攻撃は、以前にもまして激しさを増した。暗闇の勢力は、筆者の召しを嘲笑い、孤独を嘲笑い、容姿を嘲笑い、生活状況を嘲笑り、筆者に属する何もかもを、徹底的に罵倒し始めたのである。

だが、そのような罵倒は、上記の御言葉を見る限り、まさにことごとく主イエスが受けられた嘲りにそっくり重なる。

主ご自身は、地上で軽んじられ、嘲られ、拒絶された。犯してもいない罪のゆえに断罪され、奴隷としての死を担われた。そこで、筆者は、筆者に向けられたいわれのない非難や罵倒の中に、まさに主に対して向けられる非難や罵倒、冒涜の言葉を見ずにいられない。

そういうわけで、私たちは、今日も御名のゆえに、罵られたり、迫害されることにあずかっているわけだが、これはキリストの苦しみにあずかることであるから、実に幸いなことだと筆者は考えている(もちろん、これは誹謗中傷の罪が免責されるという意味ではない)。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

私たちは、こうして実に不思議な形で、キリストが地上におられた時に味わわれた苦難の一端を、共に担うという幸いにあずかることができるのである。

地上でも、親友の絆は、共に苦労を乗り越えた時に生まれる。夫婦の愛も、喜びと悲しみを共に分かち合うことによって深まるだろう。どんな人間関係であれ、苦しみを共に乗り越えた体験がなければ、深まらない。そこで、主イエスは、地上でご自分が経験された孤独や悲しみや痛苦しみみを、ご自分に従う人々にも、少しばかり、分かち与え、共に担って欲しいと願っておられるのではないだろうか。

だから、神との関係において、私たちは御手から、ただ喜びや、祝福だけを受けとるのではなく、神が感じておられるであろう悲しみや孤独、痛みや苦しみを、その片鱗でも良いから、託されることは、実に大きな信任のゆえではないかと思わずにいられないのだ。

これは決して、筆者が自分から余計な苦しみを求めていることを意味しない。筆者は苦しみを求めているわけではなく、ただ神の御思いをより深く理解するために、そのへりくだりにあずかり、主の御心の中心にあるものを知りたいと願っているだけである。

そこで、自分のためにではなく、主の満足のためにこそ、あえて孤独や、苦難や、迫害をも耐え忍ぶ価値があると考えるのである。そのような意味でこそ、パウロは地上で得られる利益のすべてを無価値とみなして投げ捨て、自分の生涯のすべてを神のために注ぎだし、捧げることを決意したのだろうと想像する。

筆者は、少し前に、バビロン王国をエクソダスし、エクレシア王国の住人となったと書いた。こうして、エクレシアに終身雇用される神の国の働き人となってから、筆者には毎日、なすべきたくさんの仕事がある。

その仕事の中には、決してここで報告することのない数多くの隠れた働きも含まれているが、それらはすべて、御心が天に成るごとく、地にも成るように、この地上に御国の秩序を引き下ろし、父なる神に栄光を帰するためになされるものである。正義、真実、平和、公平、公正を地にもたらすための激しい霊的戦いである。

この戦いに精通すればするほど、主と共なる生活は、他のどんなものとも引き換えにできない価値があることが分かって来る。

そして、主と共に生きることは、地上におけるすべての権威と支配を足の下にする、極めてダイナミックで壮大な生活である。

これは誇張でもなければ、ファンタジーでもない。私たちは、外見は全く弱々しく取るに足りない民でしかないが、御名の権威を授けられていることによって、絶大な権威と力を帯びているのであり、その権威を実際にこの地で正しく行使して、戦いに勝利して、神が満足される平和を打ち立てることが求められている。

神はこの地上全体を管理するために、人類を創造されたのであり、サタンの支配下から奪還されて、愛する御子の統治下に入れられた一人一人の信者には、当初の神の目的の通り、地上のすべてを治める権限を与えられている。

それが、神の国の働き人となることの意味であり、私たちはエクレシアに身を置き、主と共に天の御座から、地上の物事を管理する。主の御名には、地上のすべての支配と権威を足の下にする超越性、優位性があり、私たちは、御名にこめられた霊的優位性を行使して、敵を足の下にし、御座に住む秘訣を知らなければならない。

キリストにある霊的優位性により、私たちはこの世の喧騒をはるか下に見下ろし、高く御座に引き上げられる。

そこには圧倒的な心の平安がある。

それは決して戦いが止むことを意味せず、私たちが何もかも忘れて、ただ心地よい感情に漫然と浸ることを意味するわけでもない。

依然として戦いはある。苦しみもある。試練もある。だが、もしもキリストと共に苦しむならば、それは主の満足につながるのであり、その苦しみは、しばらくすると、慰めと、勝利の喜びに変わる。

私たちの霊は、たとえ試練の最中を通過する時でさえ、御座に高く引き上げられて、地上の喧騒をはるか足の下にしつつ、御座から流れる命の川々に浸され、神から注がれる清い愛に満たされて、深い満足を覚える。

こうして、私たちの心は、何が起きようと、動かされることなく、揺るぎない平安に住む秘訣を知る。生活の一瞬一瞬のすべてを神の満足のために費やすことには、はかりしれない大きな満足がある。そのように、自分をすべて主のために注ぎだすことを決意し、これを実行すればするほど、たとえ私たちが感覚的には主の臨在を感じておらずとも、あるいは、苦しみの中にあっても、主との交わりは、いよいよ強化されるのであって、私たちは神の愛の中に住み、自分の心を平和に保ち、御座から権威を持って、地上のもろもろの支配と権威に大胆に命ずる秘訣が分かって来る。

御名の権威が、すべての権威にまさるものである以上、地上のもろもろの支配と権威は、私たちの命に従い、これに服さざるを得ない。筆者の述べていることを嘲笑っている人々は、やがてその成果を間近に見て、驚愕させられることになろう。

私たちは御名の霊的優位性・この世に対する超越性によってこそ、暗闇の勢力に対して勝利をおさめ、彼らを凱旋の行列に捕虜として従えて、足の下にすることができるのである。

2019/04/19 (Fri) 神の国の働き人
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)

* * *

虚偽告訴罪(刑事告訴・告発支援センター)

「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に処する(刑法第172条)。 」

最新の記事で「霊的優位性」について書いたのは偶然ではなかったものと思う。

村上密が本日、ブログ記事で筆者を告訴したと発表している。この一報を最初に報じたのは掲示板であった。仮処分の申し立てを作成していなければ、気づかなかったかも知れないが、タイムリーに投稿があったので、リアルタイムに知ることが出来た。

 
*ちなみに、村上密はこの記事を投稿してすぐ削除した模様。
 悪ふざけなのか、本気で魔女狩り裁判を開始して、これから
 クリスチャンに有罪宣告を下したいという悲願を語ったものか、
 筆者には真意が完全に不明。

 控訴審できちんと釈明していただきましょうね・・・。
 もはやオーウェルのディストピアと化している宗教トラブル相談センター。
 人格権侵害と合わせれば、あまりにも重大な名誉毀損に該当するこの記事、
 信徒相手に、
普通に考えて、牧師としてヤバすぎでしょう・・・!?
 事実ならば、むろん、こちらも虚偽告訴罪で対抗するのみですが。


こうしてテレスクリーンに「ビオロンは人民の敵」との見出しが躍り、かの全体主義国では、筆者はゴールドスタインさながらの扱いを受けている。そこはすべてが鏡のようにさかさまに映っている。罪人が聖人に、聖人が罪人に置き換えられる・・・。

本日、筆者は、先にチェックをお願いしていた告訴状を、明日受理してもらうことで警察と合意していた。先週から人格権侵害の記事については、警察へ資料を提出、最終チェックと校正をお願いしていたが、明日には受理されると聞かされた。

従って、この情報が事実ならば、村上は筆者に先手を打とうとしたことになろう。

村上の告訴事実が何から成っているのかは知らないが、村上の記事内容から判断すると、村上は、筆者が訴訟において、村上と杉本から「反訴の脅しを受けた」と記していることが、名誉棄損に相当するという主張も含めているらしい。

しかし、村上が杉本と一緒に第一審において、筆者が彼らの提示する和解条件を飲まなければ、反訴すると筆者に主張したことは、まぎれもない事実である。そのことは、村上自身が、前掲記事で、「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている」と書いている通りである。

そこで、村上の主張は、筆者にとっては、まさに「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と主張したKFCの元信徒を彷彿とさせるものである。

筆者は当初、KFCの元信徒は、杉本のブログでありもしない虚偽の事実を主張したのだと考えていたが、後になって考えを翻したと書いた。従って、もしも筆者のその予測が的中しているならば、この信徒は、虚偽告訴罪を主張できたはずだということも、繰り返し書いて来た。

それは、虚偽の告訴に対しては、毅然と立ち向かい、その罪を相手にお返しすべきだという筆者の信念を述べたものである。
 
このような事情であるから、筆者は驚いてはいない。村上は筆者がこのニュースを聞けば恐れると考えたのかも知れないが、筆者自身が、告訴状が受理されて後、どういう顛末を辿るかを、実際に確かめて知っている。その上、筆者は、村上の行った権利侵害について、警察に相談を重ねて来たのである。
 
今、筆者は、4月1日にも、今回と同様のことが起きたのを思い出す。筆者は3月末日、コラム欄に、掲示板に実名を挙げながら村上密の家族に言及しているコメントがあるのを見て、こうした掲示板の投稿を整理して、村上密について書くつもりだと予告した。すると、それからわずか1時間も経たないうちに、村上は筆者の人格権を侵害する記事をブログに投稿したのである。
 
幾度も述べた通り、村上によるこの権利侵害がなければ、今回の訴訟は第一審で終わっていたはずである。筆者は、杉本徳久の記事が名誉棄損に相当することが認められただけでも、十分な成果だと考え、判決に不服を述べないために、一審で終了するつもりでいた。

ところが、神はこの紛争をここで終わらせず、第一審では出て来なかった不法行為の証拠として、村上に以上の権利侵害を犯させたのである。

村上はこの時、おそらく筆者に実名入りの記事を書かれる前に、先手を打ったつもりであったと見られるが、その焦りが、権利侵害を犯している事実を彼に見えなくさせた。筆者は、このことは、天の采配であり、この紛争を妥協せずに最後まで徹底的に戦い抜き、望む成果を勇敢に勝ち取りなさいという天の命令であると解釈した。

今回も、村上の主張を見る限り、これと同じ現象が起きているものと見られる。告訴状を提出するには、十分かつ入念なチェックが必要で、それがあったとしても、疑義や問責が生じる可能性は十分にある。

従って、自分の焦りできちんとした構成要件を満たさない告訴状を提出した場合、その不備が後になって重大な問題となって自身に跳ね返って来る可能性は大いにあると言えよう。

特に注意が必要なのは、匿名掲示板のように、誰が投稿したかも分からない投稿を告訴する場合ではなく、相手が分かっている場合である。

もしも誰かが、筆者の記述が真実であることを知りながら、これをあたかも虚偽であるかのように主張して、自分に対する名誉毀損であると主張して告訴した場合には、当然ながら、虚偽告訴罪に該当する可能性が出て来る。
 
上記した通り、虚偽告訴罪は重い罪である。従って、告訴人の言う告訴の事実に裏づけがなく、その理由に整合性が取れず、その訴えの真実性が証明できず、故意性が認められれば、いたずらに被告訴人とされた者は、告訴人に対してこの罪を主張しうる。

実を言うと、筆者は昨日まで、控訴審での戦いのポイントを思いめぐらし、かつ、明日受理される告訴状について考えながら、これではインパクトが足りないと考えていた。確かに、この告訴状には、受理される要件は整っている。そのことはお墨付きをもらっており、第二審においても、これが確かな材料となって行くであろうことは明白に予想できた。

だが、人格権侵害だけでは、いささか被害のインパクトが軽すぎる気がする。これでは起訴―有罪に持ち込む根拠とはならないだろうという予感がある。しかも、筆者の控訴状は、「未熟児のサイズ」と記した通り、昨日までの時点では、第一審で取りこぼしたわずかな記事と、人格権侵害の記事の削除および微々たる賠償を追加するだけのものでしかなかった。

むろん、手堅く事件を進めるためには、それで十分な主張なのだが、「小さく産んで、大きく育てる予定」と当初から書いていた通り、このような些末な理由で、二審を戦う結果には、きっとならないだろうという予感があった。こんな微々たる理由では、たとえ勝ってみたところで、御名を冠する戦いにふさわしい勝利と呼ぶには、いささかインパクトが小さすぎる。

そこで、今回起きたことも、やはり主の采配であると思わずにいられない。

筆者は二審について、大々的な注目を集めるつもりは全くなかった。だが、村上がこのような記事を出した以上、この戦いは、否応なしに注目を集めるものとなろうし、まさに筆者が2009年から主張して来た通り、反カルト運動の陣営による「魔女狩り裁判」の様相を帯びて来たのである。

筆者は2009年から、村上密の活動は、このような結果に至ることを幾度も予告して来た。今回のことは、その霊的法則性が成就しただけと言えよう。信者を解放するように見えて、人間の正義によって抑圧する反カルト運動の悪しき本質が、いよいよ正体を現したのである。

ところで、筆者は今回の裁判で、告訴が確かになされたという事実を客観的に証明すること自体が、かなりの苦労を伴うことを知った。

杉本は、筆者が告訴状を提出したことを否定していなかったが、あくまで事件化はされていないなどと主張していた。

村上と杉本が、一緒になって、筆者が警察を証人として呼ぼうとした行為をメールで嘲笑っていたことは、記事で記した通りだが、告訴状が受理されていることを客観的に証明するためには、確かにある種の苦労が伴うのである。

裁判官は筆者の申し出を調査嘱託に変えたが、それでも十分ではなかった。さらに、筆者はそれを補う証拠を提出したが、それでも、十分であったとは見られない。民事では、終結していない刑事事件の確かな進行状況を認定することは、およそ不可能であり、そのようなことを争点とするのも難しいのである。

そこで、結論から言えば、検察に事件が送付されて、きちんとした結末が出てもいないうちに、誰かに対する告訴の事実を名指しで公表することは、決して得策とも賢明とも言えない。そのようなことは、100%確実に勝算の見込みがある場合以外には、絶対にしてはならないと言えるほど、リスクの大きい行為だと言えよう。

筆者の事件では、今回は第一審において、はっきりと杉本による名誉毀損や侮辱の事実が認められたゆえに、刑事事件でも、ほぼ同等の結論が出ることを予想でき、それが大幅に覆ることはまずないとみなせる。それゆえ、以上のリスクは回避することができたし、筆者の論証も十分であった。
 
しかし、これがもし民事で名誉毀損が認められず、控訴審でその事実を争うとなった場合には、早まって人物を特定して刑事告訴を公表してしまった人間は、控訴審で窮地に立たされることになる。

たとえば、村上密自身が、五次元スクールから名誉毀損で告訴されたが、不起訴になったと得意げに記事に記している。そのような結果となったにも関わらず、それ以前に、早々と相手を告訴した事実を実名で発表してしまった場合、後になって、それは事実無根の主張として、重大な名誉棄損の罪に問われる可能性も出て来る。
 
しかも、ペンネームだけであれば、人権侵害には相当しないが、村上はすでにその条件を自分で破ってしまっているのである。

そこで、今回の村上の記事の発表は、筆者から見れば、勇み足と言うべき、村上自身にとって極めて重大なリスクをはらむ危険な行為であり、筆者にとっては、控訴審における主張を大いに補強する材料となる。

この記事は、筆者に対する人格権の侵害の記事と合わせれば、十分な名誉毀損行為に相当する要件を満たしているから、これこそ、控訴審を戦い抜く上で、御名を冠する戦いとするにふさわしい最も大きな被害のインパクトとなる。
 
さて、警察とのやり取りは、ものすごい消耗戦である。告訴状を出しさえすれば、後は警察が自動的に捜査をしてくれ、自分は何もしなくても、ただ待ってさえいれば、すぐに警察が犯人を逮捕してくれて、裁判が開かれ、犯人が有罪とされて事件が終わる・・・などという甘い世界はないことを、筆者はこれまで痛感して来た。

それは、民事でも刑事でも基本的に同じであるが、民事ならば、定期的に口頭弁論が開かれ、嫌でもいつかは審理終結が来るが、刑事事件の進展はまことに見えない部分がある。

そして、この壁を打破するために、筆者はものすごい苦労を払い、ようやくのことで、風穴を開けたのである(だからこそ、筆者の事件に、これ以上の遅延はないと断言できる)。
 
だが、刑事事件の進展が遅い場合、民事において、告訴されたこと自体を名誉毀損だと相手が主張して来た場合、告訴要件をきちんと満たしていることを立証することには、膨大な時間と手間を要する。

その作業を2名の被告を相手にしながら、筆者は一審で成し遂げたが、これから、その作業が、村上に課せられることになる。杉本と一緒になって、筆者が警察を証人に呼ぼうとしたことを嘲笑った村上である。どのような手法でそれを行うのかは、注目される。弁護士を雇ったとしても、唐沢治が出して来た陳述書のような理屈では、勝算の見込みは薄いであろう。
 
だが、それよりも、今回、注目されるのは、信徒を告訴したと自ら発表したことにより、村上密という人物の内面が、極みまで明らかになったことである。

かつて相談にやって来た信徒を告訴する牧師のもとに、これから身を寄せたいと願う信徒がいるとは思えない。そこで、村上の行為は、村上の率いる宗教トラブル相談センターに、致命的と言っても良いくらいの打撃を与えることであろう。

さて、筆者は、このようなことがあってもなくても、自分の果たさなければならない仕事を淡々とこなすだけである。

幾度も言うが、キリスト者の身には、神が許された事柄しか決して成就することはない。そして、神は信者の同意がないのに、突然、試練をもたらされるようなことはなさらない。

読者は知っている通り、2009年から、筆者は、村上が構想したカルト監視機構の危険性を世に訴えて来たのであるが、その時から抱いていた危惧が、このような形で成就するまでには、10年間という月日が必要であった。

本来ならば、10年もの月日があれば、記憶も薄れ、関わりも断たれ、かつてそんな主張がなされていたこと自体を、当人同士が忘れていておかしくない。だが、霊的な領域においては、記憶が忘却されるとか、主張が消滅するということは決してないのである。

だから、今回の出来事は、かねてより懸念されていた事柄が、実際となっただけであるが、そうなるまでの10年という月日は、筆者自身の霊的・内的訓練の期間であり、主は、筆者が当時から予想していた出来事に対して、十分な準備が出来るまで、待って下さったのである。

幾度も繰り返すが、筆者は個人の人権を守るためにここに立っているのではない。ここから先は、過越し――御名の主権がものを言う世界である。

今、カルバリで流された主の血潮の絶大かつ永遠なる効果のほどが、万人の前で問われているのであって、もしも筆者が罪に問われるようなことがあれば、それは主の名折れでしかない。

神はそのような方でないことを、筆者はこれまでの人生のあらゆる場面で実際に確かめて来て知っている。第一審でも、これと全く同じ、十字架の死を潜り抜けた。この事件に向き合うことを決めたときから、筆者の覚悟は固まっている。そこで、筆者にとって、このような出来事に対峙することは、日々の十字架でしかない。

神の救いは、一度限り、永遠のものであって、血潮の中に隠れる者を、罪に問える者は誰もいない。それにも関わらず、そのようなことを試みるなら、その訴えのすべてがその者自身に跳ね返ることになる。まさしく――虚偽告訴という罪として。

それが、過越しである。筆者は自分の家の鴨居に幾重にも小羊の血を塗っておく。そうしておけば、外に死の風が吹き荒れても、それは家の中の者に触れることはない。かえってエジプト人の長子が滅ぼされるのである。

神の御前で起きることに、何一つ偶然はない。そこで、なぜ村上が杉本と一緒になって反訴を言い立て、さらにこれを見送りながら、今、告訴を選んだのか、その理由は以下にあると筆者は見ている。

反訴には、どんなに虚偽の訴えを出そうとも、いかなる罪も伴わないが、告訴が虚偽だった場合には、罪に問われる。

それが、神が村上に告訴に及ばせたことの真の理由である。
 
* * *

さて、掲示板はこれまで、筆者が自分自身をエステル妃になぞらえているのを見て、さかんに嘲笑していたが、エステルは、モルデカイがハマンの策略によってユダヤ人が皆殺しにされようとしている計画が存在することを知ったとき、自分は死を覚悟して、王の前に進み出ると述べた。

すでに幾度も述べて来た通り、筆者は、杉本・村上からの反訴の予告をきっぱりと退けて、第一審を終えるだけでも、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。その時に、筆者の覚悟は決まったのである。

エステル記を読んでみれば良い。ハマンは自分の家の庭に、モルデカイを吊るすための絞首台を作った。その頃、モルデカイは、ハマンに手をかけることなど、考えてもいなかったであろう。

ハマンはモルデカイのみならず、ユダヤ人全体を殺害しようと考えていた。モルデカイ一人に対する憎しみをきっかけに、ユダヤ人全体に対する尽きせぬ殺意を抱いていたのである。

そして、ハマンは王の信任を得ていた。絶大な権限を持っていた。それにも関わらず、ハマンが作った絞首台は、ハマン自身の絞首台となった。

そうなるために、エステルが死を覚悟した勇気を振り絞ったからである。
 
筆者はこの物語に2018年の初め頃から、幾度となく言及して来た。それは、この戦いを貫徹するためには、筆者は、まさにエステルやモルデカイと全く同じ覚悟を固めねばならないことを初めから知っていたからである。

主はいつも筆者に問われる。「あなたはどのくらい本気ですか? 私のためにどんな代価を払うつもりがありますか?」

筆者は答える。「私は準備が出来ました。私はあなた以外に価値とするものは、何もありません。私はあなたがどういう方であるかを知っています。あなたが決してご自分のもとに身を寄せる者を見捨てられたり、失望に終わらせない方であることを、私は知っています。

私は自分のすべての利益に変えても、あなたご自身を現していただくことを利益と考えています。私が欲しているのは、私の正義以上に、あなたの正義、私の真実以上にあなたの真実であり、あなたの自由と解放、命に満ちた統治を得るために、自分の十字架を負うつもりです。たとえ、私が不真実であっても、あなたは真実な方です。あなたのおられるところに、私の命もあるのです。ですから、何が起きようとも、最後までご一緒いたしましょう・・・。」

これは宿命の戦いである。村上の思惑を忖度した信者らは、筆者が第一審で村上に勝訴できなかったことをさかんに嘲笑しているが、もしも村上密が、控訴審で必ず勝てると考えていたなら、このような措置を講ずる必要はなかったであろう。

筆者が控訴したことを、筆者よりも前に報じたり、筆者の告訴が完了する前に、筆者を告訴したと報じたりするところに、村上の恐怖心の表れを感じざるを得ない。

* * *

もう一度、エステル記(4:9-17、7:1-10)の以下のくだりを引用しておく。

「ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。


そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。
2019/04/16 (Tue) カルバリの十字架

さて、今回は少し違った話題を以下で書こうとしているが、初めに断っておきたい。

村上密の記事には重大な問題がある。些細なことで他人の揚げ足取りはしても、いつも一番肝心なことについて説明がないことだ。これは人々の不信感を誘う。

村上密は2015年3月27日の記事「残りの人生」で、「40代の牧師」に主管者を譲って、自分は退任すると宣言した。これは、「長澤牧師を後継に据え、若い牧師に道を譲る」と言っているに等しい。

この記事で村上は「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。私は4月で60歳になる。」と書いていた。この記事が書かれたのは3月末であって、そこから4月までは1ヶ月もない。つまり、主管者を退任した時点で、村上は60になるまで約1ヶ月しかなかったということである。

ところが、村上はこうして自分から「40代の牧師」に道を譲るとして、主任牧師を引退しておきながら、後継であったはずの長澤牧師を、ほとんど一瞬とも言える短さで、主任牧師の座から退け、若くもない自分の妻を牧師に据えた。なぜこんな事件が起きたのかについて、村上は今日まで何一つ理由を対外的に説明できていない。

主任牧師をわずかな期間で交替させるなどのことは、会社で言えばトップの交替に等しいため、対外的にも深刻重大な影響を及ぼし、極めて慎重な判断が下されなくてはならず、それだけの十分な理由が必要だ。なのに、村上の教会では、この事件について、合理的な説明が一切なく、村上のブログでも、この出来事が全く説明されていないのは、非常に恐ろしい、読者に不信感を呼び起こす出来事である。

特に、村上の後を継いで主管者になって間もなく、長澤氏のもとには、村上の教会の牧師たちの連名で、「あなたには神様の召しはありません!」という内容の通達が届き、それが主たる理由となって、長澤氏は主任牧師を降格させられたのだという。

とはいえ、長澤氏にはいかなる落度もなく、依然、信徒からの信任も篤いことは、主管者を降格させられた後も、長澤氏が未だに同教会で何事もなく奉職を続けている事実を見ても分かる。従って、長澤氏が主任牧師を降格させられたのは、不祥事による主管者の交替ではない。

ある人たちは、村上は初めから長澤氏を後継にするつもりなどなく、これは短期間の目くらましの人事だったと言う。村上は、長澤氏を長年、手足のようにこき使い、あらゆる雑務を任せた挙句、不当かつ不明な理由で、約束していた主任牧師の地位から速やかに退けたのである。

今回、当ブログ執筆者が提起した訴訟の第一審の準備書面の受け取りも、長澤氏がかなりやっていた事実は、事件記録のサインを見れば明らかである。そこに村上密の署名はない。

繰り返すが、教会の主管者の交替という、これほど深刻かつ重大な問題に、村上のブログで一切、言及がないのは、極めて不審な事態である。長澤氏はほぼ100%に近い信徒の総意で主任牧師に選ばれたが、なぜその長澤氏を降格させて、村上恵子を主任牧師に据えねばならなかったのか、世間を納得させられるだけの理由は、何ら提示されていない。

しかも、村上自身が「40代の牧師」に道を譲ると宣言した後で、なぜ他でもなく村上の妻が主管者とならなくてはいけならなかったのか、なぜそれが信徒の総意に反さないと言えるのか、いかなる説明もないのは、非常におかしな現象である。

村上はこの問題を指摘されると、自分の引退劇に話を逸らし、退任した時点ではまだ60を迎えていなかったとか、牧師職を降りたわけではないなどといった話でごまかしながら、長澤氏を降格させた理由を何とかして隠そうとする。こういう村上の主張は、不透明な人事を隠すためのスピンとみなされておかしくない。

だが、どんなに隠そうとしても、極めて異常で合理的説明もつかないこの事件は、村上が退任時の年齢を訂正するくらいのことでは隠せない。むしろ、そんな些細な事柄をあげつらって、躍起になって反論し、話題を逸らさざるを得ないほど、後継者問題は、村上にとってネックだったのだと自ら告げているようなものだ。
 
そこで、おそらく、この状況では、村上の記事を鵜呑みにして信じる人はほとんどいまいと思う。自分の主張が人に信じられる根拠とは、そういう些細な問題ではないということが、村上には分かっていないようである。

もちろんのこと、鳴尾教会の裁判で、村上が当事者になったなどと、当ブログでは一度も書いていない。なぜなら、村上が常に「代理人」という名を使って、他者の裁判に介入して来たのは、この業界では言わずと知れた有名な話だからだ。

しかしながら、鳴尾の裁判を陰からバックアップしながら、これに勝てなかったことが、村上の信用に致命的な打撃をもたらしたことは確かだと見られる。宗教トラブル相談センターの働き等に専念することは、主管者を降りるほどの理由とはならないからだ。
 
だが、村上が本当に「40代の牧師」に道を譲るために、つまり、教会の若返りのために、自主的に主管者を降りたというなら、まだ理屈は通るであろう。しかし、妻に主管者を譲るために、60前に引退せねばならない理由はなかったはずだ。従って、村上が主管者を引退せねばならなかった本当の理由は、それではないとみなされるのは当然である。

要するに、それほど地元では村上の信頼が失われていたということである。ところが、その話が表に出て来なかったのは、村上が自らの教会においても、当ブログ執筆者に対して現在そうしているように、少しでも自分に対して批判的な言動を見つけると、早速、名誉毀損だとか、裁判だとかをちらつかせながら、信者を心理的に圧迫・恫喝して黙らせて来たためであると、もっぱらの評判である。

筆者は、前々から、沖縄では、村上を批判すれば、村上の思惑を忖度した信者たちから、たちまち集団リンチに遭わされ、村八分にされるという噂を聞かされて来たが、この度、筆者が村上に訴訟を提起したことにより、掲示板で起きた筆者に対する連日連夜の誹謗中傷を見れば、以上の噂が事実であることは、今更、証明する必要もないほど、万人の目に明々白々になっただろうと思う。

掲示板には、当ブログ執筆者の個人情報があることないこと数多く書き散らされ、歪曲された人間関係が記され、家族や知人など数多くの関係者までが、一緒になって誹謗中傷されているが、その情報の出所は、ほぼすべてが村上の運営する宗教トラブル相談センターである(一部、唐沢治からのものもある)。このセンターに家族を連れて行ったがゆえに、今や筆者の家族までバッシングされているのが現状である。

こうして信者の家族関係まで徹底的に利用して、不都合な信徒を弾圧する材料とするのが、村上の宗教トラブル相談センターなのである。村上自身が直接関わっておらずとも、村上の思いを忖度した信者が、不都合な人間を自主的に片付けてくれるのだから、楽な仕事である。

そして、今やその信徒から裁判を起こされているというのに、村上本人が未だ信徒の個人情報を無断で公開しては個人的に権利侵害を伴う反論に及んだりしている状況であるから、こんなにもコンプライアンスの意識の欠落した恐るべきセンターには、終わりが近いのは当然と言えよう。というより、むしろ、このセンターこそ、宗教トラブルの根源だとみなされて当然ではないだろうか。

読者はよく見ておかれたい。この牧師には、個人情報を話せば話すほど、それが後に訴訟の材料として利用されたり、掲示板で誹謗中傷の材料とされるのだ。そんな恐ろしいセンターに相談に行くことは、自殺行為同然であるから、絶対に誰にもお勧めできない。

さて、京都教会では、数多くの牧師が奉職しており、英語礼拝なども行なわれているにも関わらず、牧師たちの名前が、ホームページでは公表されていない。これもおかしなことだ。

さらに、村上密、村上の息子、村上の義理の父(津村昭二郎)、村上の妻(恵子)と、この教会では、教職者のほとんどが、村上ファミリーで占められ、彼らの謝儀が献金の圧倒的大半を占め、他の牧師は生活もできないような貧しい謝儀しか与えられていない。

村上一家が教会から出て行った際には、現金で家を買ったという噂も出回っており、沖縄出張への費用がどのように賄われているかも不明だという。そもそも沖縄で、村上が何をしているのかも、出張報告書も出て来ないので、誰にも分からない。神学生のための特別献金など、名目をもうけては、通常会計に上らない献金が集められるものの、その使途も、管理方法も不明だという。

京都七條基督教会が、人事においても会計においても、世間の常識から並外れて不透明な教会となっていることは明らかである。、

最後に、村上は粘着気質により、自分がターゲットとした人間を延々と批判し続けるが、筆者はそのような動機から発言していない。筆者は自己の人権を守るために発言しているのではなく、聖書の御言葉に立って、神の教会の権益を守るために発言している。

すべての人間を自分の低いものさしに従ってしかはかれない村上は、心底、情けない男としか言いようがない。村上の記事には、神への愛もなければ、教会や、信者への愛もない。何よりも、聖書の御言葉による裏づけが完全に欠けている。神への愛、そして、聖書の御言葉への愛、信者への愛がないこと――これは牧師として、他のどんなことにも比べられない、たとえようのない三大悪のような恥である。


* * *

さらに、唐沢治についても、ひと言、追加しておきたい。一つ前の記事に掲載した唐沢の陳述書は、唐沢が弁護士を介して出して来たものである。

信徒を刑事告訴し、自分が訴えられると、弁護士を通じて回答する。このような牧師が、唐沢治なのである。三大悪ということでは、この牧師も同格である。
 
とはいえ、弁護士の作った文書も、唐沢の文書とほとんど内容が同じであったので、あえて掲載する必要もないと考え、割愛した。

筆者は常日頃から、弁護士とは詭弁を弄するために存在している職業だと考えている。従って、裁判では、弁護士をつけたから、勝算が上がるということもなく、特に、牧師が信徒に向き合うに当たり、弁護士を介さねばならないとは、実にみっともないことでしかない。その上、あれほど辻褄の合わない支離滅裂な回答では、不誠実な人間性は覆い隠すこともできず、弁護士をつけたことで、かえってますます評判が低下するだけだろうと思わざるを得ない。

筆者が第一審で分かったことは、やはり訴訟においては、首尾一貫した矛盾のない誠実な主張を通すことが、信頼を得る何よりの根拠だということである。法的根拠に基づき、白黒つけられない問題については特に、整合性の取れる主張を丹念に積み重ねて行くことが必要である。

村上は杉本と同様に、あたかも筆者の書面がいたずらに長いかのように嘲っているが、筆者は一度の反駁で、杉本と村上の2名の被告を相手にしたのであり、杉本の準備書面も、相当な分量に及び、非常に虚偽に満ちた内容であったため、これに反論するためには、どんなに少なくとも3倍近くの文書量が必要となった。

前々から述べている通り、誹謗中傷するのは1行で済むが、それに反論するためには、3~5倍程度の文章が必要となる。ただ反論するだけでなく、証拠の積み重ねが必要だからである。また、小さな文言の修正であっても、訂正を怠らないことも、誠実さの証しである。

さて、当ブログであえて村上密や唐沢治の書面を公開しつつ、これらの牧師たちの不誠実さについて言及しているのは、牧師という職業について、読者の幻想が徹底的に打ち砕かれることを、筆者が心から望んでいるからだ。

当ブログでは、2008年に始まった頃から、牧師という職業は、それ自体が、聖書に反しており、必要ないどころか、有害な偶像崇拝であるという見解を提示して来た。従って、以上に挙げたような出来事は、すべてその結論を裏づけるものでしかないと言えよう。

唐沢治は、かつて自分でも、エクレシアに固定的な指導者は必要ない、自分はKFCの指導者であり続けたくないので、一刻も早く牧師職を降りたい、などと述べていた。だが、それはポーズに過ぎず、唐沢のもう一つの側面は、決してこの集会を手放したくない、リーダーの座を折りたくないというものであった。

村上密が主管者を退任すると宣言した後も、自分はあくまで現役牧師であると言い張り、教会に対する影響力を手放せないでいることや、唐沢治がKFCから降りたいと言いながらも、この集会の牧師職にすがりついた姿の中に、我々は、自分から引退を口にして役目を終えたはずの人間が、いつまでも必要のない地位にすがりつくと、こうまで人間性が腐敗して行くという生きた実例を見て取れよう。

さて、掲示板のコメントを読めば分かるが、村上密・唐沢治をとりまく信者たちは、「自分は見捨てられた」という自己憐憫と被害者意識で一致団結している。そして、見も知らない当ブログ執筆者から、何の正当な根拠もなく、自分たちは見捨てられたのだという被害者の立場に身を置き、筆者に報復するために、集団で攻撃している。

だが、この被害者意識こそ、こういう悪しき指導者たちの吸引力の源であり、麻薬のように人格を腐敗させて行く根源なのである。杉本徳久もそうであったが、村上密に深く関わった人々は、皆、筆者の目から見ると、同じような被害者意識を抱え、それゆえ物事を正常に見られなくなって行く。
 
杉本徳久がかつて1件のコメントの削除を筆者から依頼されただけで、その依頼によって自分を完全に否定されたかのように思い込み、10年間もかけて、筆者を恨み続けたように、この人々は、少しでも他者から自分を批判されるような言動があると、早速、自分を否定した人間を(見ず知らずの人間であっても)許せない思いとなり、生涯に渡るほどの執念を持って反撃し続けるのである。(しかも、自分が批判されたのではなく、指導者が批判されたことに対して報復しているところが、より異常だと言えよう。)
 
この異常とも言える被害者意識は、人を完全に霊的盲目にしてしまう。これに感染した人は、どれほど自分が残酷な行動を取っていても、我が身可愛さのゆえに、全くその残酷さが自覚できなくなり、いつか限度を超えた報復行為に出て、それが犯罪行為として裁かれる結果に至る・・・。

被害者意識が、人の健全な意識を失わせ、まるで傷が人間全体を飲み込むように、人格を腐敗させて行く様子を、掲示板の人々に見て取れよう。

そこで言えることは、このような悪影響を信者たちに及ぼす指導者からは、すぐに離れなさい、ということだ。村上密の被害者意識によるマインドコントロールから離れなさい。自分は見捨てられた人間だとか、傷つけられて、打ち捨てられた哀れでみっともない人間だという意識から離れなさい。

真に神を信じて生きているならば、他者の言動に振り回されることがなく、他者との間で紛争が起きても、これを合法的かつ正当な手段で早期に解決できるはずだ。見も知らない他人を恨み続け、延々と匿名で掲示板に恨み言を書き連ねるような不毛な行為に至り着くはずがない。

ラスコーリニコフにもソーニャがいたわけだから、たとえ犯罪者になったしても、それで人生が終わるわけではない。真摯な悔い改めと誠実な心があれば、自分のソーニャを見つけ、いつからでも人生のやり直しは可能なのである。
 
ところが、この人々が、いつまでも自分を見捨てられた人間の立場に置いて、自己憐憫、自己卑下に明け暮れているのは、その心の根底に、「自分は神に見捨てられた」という被害者意識があるためである。このことを、当ブログでは、幾度となく説明して来た。それがグノーシス主義なのである。

実はこれこそが、最も厄介かつ深刻な問題であり、個人的な恨みや復讐心のレベルを超えて、人の永遠の命の問題を左右する問題である。だが、この問題については、長くなるので、別途、記事を改めることにしよう。

いずれにしても、被害者意識や自己憐憫から離れ、紛争が起きたなら、これを合法的で正当な手段を用いて早急に解決することをお勧めする。市民としての正当な権利がいくつも与えられているのに、掲示板になど深く関わっていれば、いずれあなたの人生が取り返しのつかないことになるだけである。
 
 
* * *

さて、前置きは終わったので、ようやく、今回の記事のテーマに入ろう。まず述べておかねばならないことがある。それは、キリスト者は御言葉に立つために、徹底的に霊的戦いを戦い抜かねばならない場合があるということだ。

筆者がなぜ戦いを続行しており、それによって何を掴もうとしているのかも、これによって説明できる。地上で己の利益を保って平穏無事に暮らすことだけを第一優先している肉的な信者は、「和」を尊び、争い事を敬遠することこそ、この世の知恵であると思い込むあまり、このような戦いの重要性を全く理解できなかった。

だが、筆者は繰り返し、この戦いは、筆者の人権を守るためではなく、神の国の前進のために必要不可欠なものだと述べている。筆者は、個人的な思惑に基づいて、訴訟を提起したりしているわけではない。

ここには、私たち信者が、迫害を受けた際、簡単に主の御名を捨ててしまうのか、それとも、どんな迫害に遭っても、信仰の証しを大胆に守り抜くことができるのかという、私たちの永遠の命に関わる問題がかかっている。

また、教会が、一人や二人の狼藉者のために、恐怖によって脅しつけられ、口を封じられ、証の言葉を大胆に述べられなくなるような、あるまじき理不尽な状況を容認するのかどうか、という問題もかかっている。

もし以上のような状況を容認するならば、教会は、死を打ち破られたキリストのよみがえりの命によって、自由にされた人々の集まりどころか、死の恐怖によって脅しつけられた捕われ人の集団となるであろう。

そして、そのような待遇に自ら同意した人々は、この先、一歩たりとも前進して行くことができず、ついに最後は、すべての自由と権利を失い、信仰の片鱗も見られなくなり、クリスチャンというより、ゲヘナの子と呼んだ方が良い有様にまで転落し、キリストの福音を全く知らなかった方がまだましな状態となって人生を終えるのではないだろうか。

一つの権利侵害に甘んじることは、百の権利侵害に甘んじることと同じである。不当な脅しに沈黙して、立ち向かわないことは、自分のすべての権利を自主的に放棄して、生きることを放棄しているも同然である。

そこで、聖書の御言葉の真実性を信じない人々による恫喝、嘲笑、侮辱の言葉を放置・容認するならば、それは彼らの信念に、あなたが自ら同意しているのとほとんど変わらない効果をあなたにもたらす。

神は、神の御名が汚されている時に、沈黙しているあなたを喜ばれるだろうか。むしろ、あなたの態度を恥じて、あなたの名が汚される時にも、あなたを守って下さらないだろう。

神を知らない人々にも、憤って立ち上がらなければならない瞬間があるように、クリスチャンには、断じて黙っていてはならない瞬間がある。

我々が侮辱されたから立ち上がるのではないのだ。聖書の御言葉が曲げられ、主の御名が冒涜され、神の教会が蹂躙され、我々の嗣業が脅かされているがゆえに、立ち上がって、これを取り戻さねばならないのである。

それができなければ、教会は、自分に与えられた尊い永遠の嗣業を失ってしまうだろう。約束の地にたどり着けず、荒野で倒れた民のように、神が約束された偉大な自由と解放に全く至りつけないまま、中途半端な妥協で人生を終えてどうして良いだろうか。

いみじくも、オリーブ園に掲載されているオースチン・スパークスの最新の論説が、この霊的戦いのテーマについて、はっきりと告げているので、まずはこれを掲載しておきたい。


 「キリストとの合一」第四章 創造的・種族的合一(10)
 
 さて、他の文脈でそうするのと同じように、私は次のことをあなたたちに思い起させて終えることにします。すなわち、嗣業はキリストと教会に対する戦いの鍵です。そして、相続人たる身分には二つの面があります。法的面と霊的面です。

新しく生まれた時、私たちは法的に相続人となりました。新創造の中にあるなら、私たちは法的に出生による相続人です。しかし、相続人としての法的身分と霊的に相続する行為とは非常に異なります。

後で見ることになりますが、聖書は他の文脈と同じようにこの文脈においても明確な区別をしています。ガラテヤ人への手紙はまさにこの思想を巡って構築されています。「相続人は子供である間(中略)父によって定められたその時が来るまで、保護者や家令の下にいます」(ガラ四・一、二)。この手紙はさらに続けます――子供であるなら息子でもあります。私たちはみな息子たちです。それは信仰によって、つまり法的にです。たとえ子たる身分すなわち嗣業の意義・価値を実際かつ霊的に所有していなくてもそうです。私たちは出生により法的相続人です。しかし、霊的成長によって私たちは嗣業の霊的所持者になります。


 これについてはっきりしているでしょうか?もし教えに関してはっきりしていないなら、実行と経験に関してはっきりしているかどうか自問して下さい。どれだけ多くのクリスチャンがこの嗣業を享受し、自分たちの嗣業を所有し、嗣業の保有に向けて前進しているでしょうか?多くのクリスチャンはそうしていませんが、それでも彼らは神の子供であり、法的相続人です。法的相続人から霊的相続人になるまでの間に、何かが起きてあなたはこの嗣業を失うかもしれません。

新約聖書は常に私たちに告げます。私たちは偉大な嗣業を持っているので、それを失ってはならないことを。私たちは偉大な数々の権利を持っているので、それらを放棄してはならないことを。私たちは永遠の過去からある事柄にあずかるよう召されています――しかし、しかと「あなたの召しとあなたの選びを確かなものにしなさい」。私たちの法的身分と私たちの霊的状態とは異なります。


 この新創造でも同じです。私たちは霊的学びをしなければなりません。一つの領域から他の領域に漸進的に渡らなければなりません。戦わなければなりませんし、争いの中に入らなければなりません。自分の救いのためではなく、キリストの中にある私たちの嗣業のためです。私たちは試され、試みられなければなりません。それは自分が良いクリスチャンであることを証明するためではなく、霊的優位性の何たるかを学ぶためです。こうして霊的優位性の中でこの嗣業の中に入ります。

無代価の賜物として受けることと、次にそれを受け継ぐべきこととに関する、これらの矛盾のように思われる事柄にあなたは心当たりがあるでしょう。すでに見たように、一方は法的地位であり、他方は霊的地位です。私たちは新創造の中にあります。その圧倒的大部分は彼方にあります。しかし、私たちは進み続けています。確かに、私たちが集会に集まる時は常に、その理由は主と共に前進したいからです。一つの領域から他の領域に移りたいからです。私たちの心は、主が御自身との合一に中に私たちをもたらされたその意義全体の上に据えられています。彼の恵みにより、私たちは切り抜けて前進します。



* * *

さて、このオースチンスパークスの論説を理解するためのキーワードは、「霊的優位性」である。以上の話を理解するために、もう一度、以下のガラテヤ書の御言葉に戻ろう。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)


私たちは、キリストの贖いを信じて受け入れているならば、約束の相続人である。これは来るべき国の無尽蔵の相続財産が、私たちに約束されていることを意味する。

だが、この相続人としての権利は、判決文のように、実行されなければ、効力の伴わない宣言で終わる。

法的権利を持っていても、これを実際に行使しなければ、自らに約束された権利を掴むことはできない。そこに戦いが起き、困難が伴う。あなたはその困難をすべて打破して、約束の権利にたどり着き、これを実際とせねばならない。

アブラハムに約束された子イサクは、信仰によって生まれたが、成長するまでは、肉によって生まれたイシマエルと同じ家に暮らしていた。

同じように、今日の神の教会にも、御霊によって生まれた神の子供たちと、新生を経ていない、肉によって生まれ、うわべだけクリスチャンに偽装しているだけの、偽りの霊に導かれる者たちが混在している。

この異質な両者は、まるで同等の権利を持つ者であるかのように、教会を我が物として活動している。

だが、これらの異質な者同士の間には、必ず、戦いが起きる。まず最初に肉によって生まれた者たちが、霊によって生まれた者たちを、神の教会から追い出そうとする。これが戦いの最初のステップである。

今日の時代には、肉によって生まれた者たちが、カルト化を監視するという名目を用いて、全教会の支配者となろうとする恐るべき理念を振りかざし、裁判を利用して教会に戦いをしかけ、気に入らない者を中傷し、諸教会を自らの支配下に置こうとしている(反カルト運動)。

反カルト運動は、表向きには、人々をカルトから解放するという正義と自由の旗を掲げているものの、実際には、恐怖による恫喝を手段としており、その真の目的は、教会を解放するどころか、むしろ、抑圧して支配することにある。

今やプロテスタントの多くの教会が、このほえたけるししのような連中の罠を見抜けず、恐怖に脅しつけられ、抵抗できなくさせられた。

だが、心配することがないのは、 私たちは、二度とそのような奴隷のくびきにつながれないためにこそ、救いにあずかっているわけであり、命の栄冠を誰にも奪われないために、不当な脅しに毅然と立ち向かってこれを撃退するならば、むしろ、肉によって生まれた者たちを教会から追放することが可能なのだ。

イサク(御霊によって生まれた子)が、イシマエル(肉によって生まれた子)をアブラハムの家から追い出せるようになるまでには、成長が必要である。イシマエルは、イサクよりも早く生まれた分だけ、イサクよりも先に力と知恵をつけているため、初めは強敵に見える。

だが、イサクもやがて成長して、イシマエルに自力で立ち向かうことができるようになる。そして、イサクが反撃に転じたことにより、肉によって生まれた者と、霊によって生まれた者との間に、激しい相克が起きる。これが第二のステップである。

第二のステップは、異質な者同士の間で起きる壮絶な争いである。むろん、サラとハガルとの間にも、争いが起きている。一体、どちらの陣営が勝利するのか、この時点では、はた目には分からない。肉は早熟であり、一時的な勢いがあるため、肉によって生まれた者の方に優位があるように見えるかも知れない。

だが、キーワードは「霊的優位性」である。

キリスト者は戦いに臨むとき、自らの勝利を十字架から引き出して来る。コロサイの信徒への手紙には、「キリストはすべての支配や権威の頭です。」(コロサイ2:10)と記されている。

これが、キリスト者の圧倒的な霊的優位性の根拠なのである。あなたが女性であろうと、この世で見下された無力な存在であろうと、世間からどんな風に見られていようとも、関係がない。もしもあなたがキリストによって新しく生まれた者であるならば、あなたは彼の御名のゆえに、彼と共に、すべての支配と権威を足の下にする権威を帯びているのである。

だから、私たちは敵に立ち向かうとき、この霊的優位性をフルに活かして、戦いを有利に進めなければならない。この霊的優位性の内実は十字架にこそある。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

二つ前の記事に、債権差押命令を提示したが、これはまさに債務を抱える者に対する強制的な取り立てを許可する令状である。

キリストによって贖われておらず、自由とされていない民には、罪という名の無限大の債務がある。それゆえ、悪魔は彼らに対して強制的に取り立てを行う権利を有し、日々、彼らを恫喝し、彼らの権利を剥ぎ取っている。

他方、贖われた者たちには、そのような債務は存在しない。従って、私たちには、誰からも恫喝されたり、取り立てられたりする根拠は何もないのである。

だが、肉によって生まれ、贖われていない者たちは、悪魔のみならず、神の子供たちに対しても、債務を抱える存在であると言えよう。特に、神の教会を迫害して来た者どもの罪は重く、神の子供たちは、彼らの罪を債務に変えて、実際に取り立てが可能なのである。

「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)というのは、そういう意味である。

そこで、私たちが暗闇の勢力に対して戦いを挑むとき、私たちはこの霊的優位性を活用する。贖われていない者は、罪という債務に縛られており、それゆえ、もろもろもの支配と権威による取り立てに服するしかない存在であるが、贖われた私たちは、罪という債務に縛られていないので、もろもろの支配と権威を従わせ、贖われていない者を支配下に置くことができる。

だが、筆者は、この戦いが簡単だと言うつもりはない。目的を達成するためには、想像を超えるほどの根気強さを持って、壁を打破して行かねばならない。

だが、それでも、私たちは、この戦いを貫徹するならば、自分たちが、本当にこの世のあらゆる支配と権威を超越したところに立たされていること、敵こそ、私たちの足の下に踏みつけられ、罪の負債を負って、我々の取り立てに服する義務を負った存在であり、我々の命令に服するしかなく、彼らはすでに十字架において霊的死の宣告を受け、裁かれており、恥をこうむって終わることを運命づけられていることが分かるだろう。

私たちの名のゆえでなく、キリストの御名のゆえに、この世のもろもろの支配と権威は、私たちに完全に服従しなければならない。そうなる時まで、私たちはこの戦いの中で、十字架を貫き通し、キリストの御名に込められている霊的優位性が、目に見える実際となって、この地にもたらされるまで、この戦いを容赦なく貫徹する。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(コリントニ10:4-6)

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

筆者はおそらく、自分のしているこの戦いが、神に栄光を帰するための信仰による戦いであることを証するためにも、キリストの御名以外の名を高く掲げることはないだろうと思う。

この戦いに勝利するために、私たちは死力を尽くさなければならないが、御名のゆえに与えられた霊的優位性、すなわち、神に由来する力は、敵の要塞をも打ち破るに足るものであり、敵の振りまくあらゆる嘘、詭弁、ごまかし、すりかえ、脅しを粉砕し、神の御言葉に逆らうすべての高慢を打ち砕いて、すべての人々の思いをとりこにしてキリストに服従させることができるものであるから、私たちは、すべてのものを足の下にしているキリストの絶大な御名の権威のゆえに、地上のすべてのものを足の下にする。

教会は、キリストを頭とする体であり、キリストが満ちておられる場であるから、主と共に御座に引き上げられ、地上のすべてを足の下に従えている。

そして、私たちは、すべてのものがひざをかがめて、「イエスは主である」と告白することが実現するためにこそ、この世から召し出され、この地に置かれているのである。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、精力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:20-23)

こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:10-11)

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

こうして、イサクは信仰によって成長し、強くなって、困難を忍びつつ、よく戦い抜いて、実際にすべてのものをキリストと共に足の下にする秘訣を学ぶようになる。

その時、イサクはイシマエルを打ち破り、肉によって生まれた子に対する霊的優位性を見事に証明することができるようになる。そして、第三のステップである平和が訪れる。

反カルト運動は必ず打ち破られて、恥をこうむり、神の家から追い出される日が来るであろう。

今や不従順な肉の子であるイシマエルは神の家から追い出され、イサクこそ、神の家の唯一の約束の相続人である。

イサクのためには、アブラハムが築き上げた無尽蔵の相続財産が約束されている。これがイサクの嗣業である。私たちは、キリストの命の中に隠されている無限とも言える自由と豊かさに、実際に至り着く必要がある。これが私たちの目指している新しい領域である。ただ贖われただけで終わるのではなく、激しい戦いを戦い抜いて、霊的に勝利をおさめ、敵を征服し、圧倒的な自由と豊かさの中に、実際に入らなければならないのである。

5.唐沢治が杉本徳久と交わしたメール(牧師としての秘密漏示)
 
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽預言者が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。
彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」(ペテロニ2:1-3)


彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(ペテロニ2:10-12)

当ブログ執筆者を日夜誹謗している掲示板には、多くの「杉本用語」「村上用語」「唐沢用語」が登場する。本人が書き込んでいるかどうかまではまだ不明だが、以下のコメントで使われている「脳内空転」という言葉も、唐沢治のお気に入りの用語である。



口汚い言葉で筆者を罵っているこのコメントに登場するこの言葉は、以下に示す通り、唐沢が杉本に宛てて書き送った、当ブログ執筆者を罵倒するメールにも登場している。

だが、今は掲示板について話す前に、まずは唐沢治がどのように杉本徳久の圧力に屈し、牧師としての守秘義務を破って、当ブログ執筆者の個人情報を杉本に売り渡し、筆者を陥れて、杉本を筆者に対立させるよう仕向けて行ったか、唐沢治が用いた巧妙な策略について、今回の裁判において新たに判明した事実を提示しながら、振り返っておきたい。

* * *

➀ 唐沢治が杉本徳久に2010年に民事提訴を予告した経緯

唐沢治は、KFCの元信徒が、杉本が2009年に当ブログをバッシングするために発表した記事のコメント欄に、「唐沢から密室で呪いの予言を受けた」という趣旨のコメントを書き連ねたことをきっかけに、2010年にこの元信徒を刑事告訴した上、その事件を自分に有利に解決するために、筆者に警察での証言を頼んで来た経緯がある。

さらに、唐沢治はこれと前後して、筆者に対するバッシング記事を取り下げさせることにより、都合よくKFCの元信徒の書き込みも削除させようという名目で、杉本に宛ててメールを送り、そこで筆者に(はおろか他の誰にも)何の断りもなく、一方的に杉本に民事提訴を予告するという暴挙とも言える行動に出た。

唐沢が杉本に提訴を予告した目的は、KFCの元信者の書き込みについて、杉本による幇助の責任を追及するためであったことは、杉本ブログに2010年8月23日付で投稿された記事「唐沢治からの民事提訴の通告」に、以下の通り、唐沢自身のメールとして公開されている通りである。



 

「また杉本さまにつきましては、メールや私に関する書き込みなどを当局に提出し、一応幇助罪の適用の可能性を検討していただき(あまり高くはないかと思いますが、掲示板管理人が書類送検された事案がありましたね)、また民事提訴させていただきます。法的構成は2ちゃんねるの西村氏と同じ立場になるかと思いますが、後ほど弁護士からご連絡させていただきます。

「容疑者検挙や事実関係の詳細などにつきましては、おいおい私のブログで公表してまいります。なお、私からの直接のご連絡はこれを最後とし、今後は弁護士経由でご連絡させていただきます。

ここに書かれている通り、唐沢はこの当時、杉本に対し、KFCの元信徒による書き込みについて、幇助の可能性を問うため、民事提訴を予告し、以後、杉本への個人的な連絡は一切控え、弁護士を通じて連絡する、と通告したのである。

繰り返すが、この提訴予告は、唐沢があくまで自らの権利を擁護する目的で、杉本に通告したものである。

それにも関わらず、唐沢は、誰にも何の説明もないまま、自ら行った提訴予告を実行に移さなかった。それゆえ、唐沢の提訴予告に激怒した杉本は、唐沢をブログで激しく中傷したのみならず、筆者や、エシュコル氏など、当時のKFC信者に宛てて、幾度となく、唐沢の提訴予告のことで、事の次第を明らかにせよと、信者をなじるメールやコメントを書き送った。

筆者は当時、このような杉本の行為に当惑させられていたが、唐沢はどこ吹く風といった態度であった。

なぜ唐沢は、誰にも何の説明もなく、杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかったのか。その理由として考えられるのは、唐沢は勇み足で杉本に提訴を予告したものの、その後、調べてみると、杉本ブログに投稿されたKFCの元信者のコメントについて、ブログ管理者としての杉本に幇助の責任を問うことは、ほぼ不可能であることが分かったのではないかということである。

ちなみに、本訴訟でも、コメント投稿欄に投稿された内容について、ブログ管理者は責任を負わないという判断が出ている。

つまり、唐沢は、杉本に提訴予告した後になって、先に通告した理由では、訴訟を提起しても、勝ち目がないことを悟ったのではないかと見られる。だが、そのことを、唐沢はプライドゆえに、決して誰にも明かしたくなかった。提訴を取りやめたと言うことさえ恥であると考えたのではないか。

それゆえ、なぜ提訴を実行に移さないのか、誰にも説明しないまま、唐沢は沈黙を決め込み、時間を稼いだのではないかと見られる。

だが、もしも唐沢が誠実な人間であったとすれば、先に通告した理由で提訴が困難と判明しても、別な手段で杉本に立ち向かう道が残されていた。それは、唐沢が自分自身への誹謗中傷を理由に、杉本を訴えることである。

なぜなら、提訴を予告されて激怒した杉本は、上記の記事で、唐沢治を「精神家きどりのやぶ医者ごっこ」をしているだけの「預言者気取りでエセ精神病理学の専門家」と呼び、「ある種の痛々しさ」は唐沢の病的な心理に潜んでいるものであろう。」とか、「こういう洗脳、心理操作の台詞をいともあっさり他人に対して次々に放って恐怖心を射貫き、心理的に相手を圧して支配していく手法。」などと記し、唐沢は、心理操作の手段として、杉本に提訴を予告したのであって、これはスラップ訴訟であると決めつけ、「これが独裁カルトの新興宗教、誇大妄想信仰の恐ろしさである。」などと、あらん限りの非難・中傷の言葉を唐沢に浴びせた上で、ついには「唐沢治のキングダムフェローシップチャーチ(KFC)は、見まごう事なき異様な独裁カルトである。」とまで結論づけていたからである。

杉本が唐沢の実名に対して向けた以上のすさまじいまでの記述は、当時、十分に名誉毀損に相当する不法行為となり得たのであり、もしここで唐沢が杉本を民事提訴していれば、杉本は一巻の終わりとなっていたものと見られる。

ちなみに、杉本がこのように誰かから非難を受ける度に、より深刻な権利侵害を行っては、罪に罪を増し加えて行った様子は、筆者と杉本との間に起きた紛争においても、共通して見られた現象である。

たとえば、2017年に筆者が杉本に脅しメールやバッシング記事について反省と謝罪を促し、念書を差し入れた時点では、杉本による不法行為は成立し得たかどうか分からなかった。脅しメールは過去のものであり、バッシング記事では実名も出ておらず、権利侵害が成立したかどうかが分からないためである。

ところが、杉本は和解を断っただけで終わらず、それを機に、筆者のメール等を無断で公開しながら、筆者に対する人格権の侵害、名誉毀損・侮辱に及んだ。この時点で、杉本による明白な不法行為が成立したのである。

さらに、筆者が杉本の不法行為の存在を知って、2018年2月に、杉本を刑事告訴の上、民事調停を提起した時点でも、まだ杉本による明白な不法行為は、2、3本の記事にとどまっていた。ところが、筆者が調停を提起した後で、杉本はさらに20本ほどのおびただしい数の名誉毀損に相当する記事を投稿し、自ら賠償を重くして行ったのである。それゆえ、杉本の不法行為は、まさしく訴訟にふさわしいインパクトを持つものとなった。

杉本が唐沢に対して2010年に行ったことは、それととてもよく似ている。当時、唐沢が杉本にぶつかって行ったことにより、杉本の内側に隠れていた罪深い内面が、思い切り外にぶちまけられたのである。

このことは、神の子供たちには、霊的な視力によって、自分に害を加えようとしている敵の不法行為を、それが実際に成し遂げられるよりも前に、察知し、彼らの本質を見抜き、これを明らかにする役割が備わっていることを示している。

我々が暗闇の勢力と接触する時、我々の宣言によって、暗闇の勢力の内実が明らかにされる。村上密の場合も、同様であった。筆者が村上を訴えた時点では、村上の不法行為の証拠は固まっていなかった。しかし、第一審が終結した時点で、村上は無罪放免されたにも関わらず、自ら不法行為に及んで、自分を不利に陥れたのであり、そうなったのは、筆者が村上と接触し、村上を糾弾したことにより、村上の内面が外に現れたのだと言える。

話を戻せば、仮に唐沢が杉本に提訴を予告した時点で、杉本の明白な不法行為が成立する要件が十分に整っていなかったとしても、だからと言って、唐沢は敗北すると決まっていたわけではなく、その提訴予告に激怒した杉本が、ブログで唐沢を誹謗中傷し始めた時点で、杉本には不法行為が成立する要件が十分に揃っていたのである。従って、その機に乗じて、唐沢が杉本に対して断固たる措置に出てさえいれば、杉本にまつわるすべての問題は、それ以上拡大することなく、終了していた可能性が高い。

ところが、KFCの元信徒を訴えることにはためらいがなかった唐沢が、自分自身の名誉と人権を守るために、また、自分の率いる集会KFCの正統性を守るために、杉本の主張に毅然と立ち向かうことをしなかった。

このようなことは、唐沢が当時から真理に生きていなかったからこそ、起き得たことであると筆者はみなしている。

唐沢が、自分に盾突いたKFCの元信徒には容赦のない措置を取りながらも、杉本を訴えることを躊躇したのは、唐沢の心の中に、杉本を「延命させておきたい」という願いがあったからだではないかと考えられる。

つまり、唐沢は、真のクリスチャンを抑圧するための手段として、杉本を残しておくことに価値を見いだしたのではなかと考えらえるのだ。少なくとも、唐沢があの当時、本気で杉本に立ち向かっていれば、杉本は簡単に倒されたことであろうが、そうなることは、唐沢にとっても、まずい事態だったからこそ、唐沢はそれを実行しなかったのである。

このようなことは、唐沢が真のクリスチャンであれば、起き得ない事態であり、むしろ、その逆であったからこそ、唐沢は杉本を上手く使えば、クリスチャンたちを弾圧する手段として利用できることを知っていたのではないかと予想できる。

また、筆者から見れば、唐沢は、自分が傷つけられたときに、正当な方法で、自らを擁護することができない性格であった。杉本も、村上も、唐沢も、みなこの点で共通している。彼らは、自分を脅かした敵に対して、いつまでも執念深く報復措置を加えることはあっても、どういうわけか、正当かつ合法的な手段を用いて、紛争を早期に終わらせ、自己の正当な権利を取り戻すために戦うことができない。

だから、彼らはどんなに戦っても、戦えば戦うほど、その成果が薄れて行き、何も成果が残らないのである。このようなことは、自己を非常に深いレベルで傷つけられて、自分を防御できなくなっている人々に共通する。
 
いずれにせよ、唐沢が杉本の主張に毅然と立ち向かうことをせず、その口を封じる行為に及ばなかったがゆえに、杉本が発した呪いのような言葉が、唐沢の身の上に徐々に成就して行くことになったものと筆者は見ている。


* * *

② 唐沢治自身が認めている2013年にKFCで鵜川貴範が起こした「クーデター」

筆者は2012年にKFCを去ったが、そうなるまでの間に、KFCは杉本が述べた通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」と呼ばれても、致し方ないのではないかというほどの惨状に陥っていた。

(とはいえ、2012年が来るまで、KFCには複数のメッセンジャーがいたため、独裁という言葉は当てはまらない。しかし、2013年にKFCが解体されて、2015年に唐沢がフルタイムの牧師になった頃には、まさに以上のような状況が生まれた。)

筆者は、2011年から2012年頃にかけて、KFCで起きたクーデター事件について、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」にまとめている。

この事件を要約すると、当時、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信徒であった鵜川貴範が、Br.Takaという名で、身元を隠してKFCに潜入、2011年頃にはKFCの中核的なメッセンジャーとなり、唐沢の信用を得た。

この頃、筆者は、他教団の信徒であるにも関わらず、身元を隠してKFCに入り浸る鵜川夫妻に多大なる疑問を持つようになり、唐沢にこの夫婦は何を目的にKFCに来ているのか分からないので、注意した方が良いと、クーデターの可能性を告げて警告したが、鵜川夫妻に心酔していた唐沢は、2012年になって、危険を警告した筆者を、夫妻と一緒になって非難、呪った挙句、KFCから追放した。

彼らは筆者を仕事の後で呼び出し、「悪霊に憑りつかれている」だの「そのままでは滅びる」だの、まさしく陳腐な呪いの予言としか言えない言葉を三人でかわるがわる浴びせて、筆者にKFCに来ないように求めたのであった。

この事件が起きたことにより、筆者は初めて、唐沢が「人を呪うような人間ではない」と考えていた以前の見解を改め、唐沢がKFCの元信徒を刑事告訴した事件でも、唐沢が嘘をついている可能性があると疑うようになった。

なお、鵜川のクーデター事件については、唐沢自身が2014年4月30日のブログ記事「お知らせとご注意」で、KFCで当時、確かに「クーデター」が起き、自分が一時、メッセンジャーを降格させられていたこと、鵜川の策略によって、KFCの会堂契約が無効になり、さらに偽サイトが開設されたままになっている事実を自分で記している。

この記事で、唐沢がクリスチャン・トゥデイに掲載された鵜川貴範に関する記事にリンクを貼っていることを見ても、この事件をおこしたのが、まさしくアッセンブリー教団所属の鵜川貴範であったことは明白である。

「*1:端的に言えば、2013年1月初旬、クーデターが起き、Dr.Lukeが一切の働きを封じられて追放された次第。
*2:チャペルに関してはそのまま彼らが使用したいとのことで、2013年9月末に私の契約解除を申し入れ、12月に彼らが契約することになっており、不動産屋との交渉も開始されておりましたが、12月になり彼らは突如チャペルから逃亡しました。こちらからと不動産屋の連絡に対しても一切の応答はなく(携帯もメールも遮断)、よって契約の意思なしとして、チャペルは契約解除され、もちろん彼らの契約下にはありません。よって「公式サイト」の記載は偽りですので、私宛の来訪者が一部おられるようですが、ご注意ください。」





以下は、唐沢が、KFCでクーデターを起こした「メッセンジャー」という文字に、リンクを貼っている鵜川貴範に関するクリスチャントゥデイの記事



このように、鵜川貴範によるKFCのクーデター(乗っ取り)事件は、唐沢治自身が、その存在を認めたものであった。

この事件のために、KFCは会堂を失い、一時は閉鎖に追い込まれていたが、KFCの残党がその後、結集して、また新たに唐沢治を担ぎ上げ、まるでエリコの町を再建するように、会堂がないまま、現在のKFCを作り上げたのである。

こうして再建されたKFCは、前よりも一層ひどいものとなり、唐沢は以前からサンダー・シングなどのオカルトに影響を受けていたことに加え、新しくリニューアルしたホームページの中では、ニューエイジ、禅など、ありとあらゆる非キリスト教的教えから無分別に影響を取り込んだことを隠し立てもしていない。

そして、唐沢自身も、以前は女学生から人気があると自慢するために続けていたような大学講師の職を、2015年に「神の啓示を受けた」として、KFCの牧師業に専念するため、自ら辞した。それによって、アカデミズムを去り、学術研究者としてのキャリアも捨てて、公に心理学の専門家を名乗ることのできた根拠をも自ら捨て去ったのである。

唐沢が大学講師の職を自ら辞したことは、KFCホームページに掲載されたプロフィール欄でも確かめられる。

 

* * *

③ 唐沢治が当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久に漏洩した経緯

・唐沢治が坂井―杉本裁判に当ブログ執筆者のメールを無断で提出(2013年)


筆者は、2012年にKFCを去って以後、唐沢とは何の関係もなくなっていたが、唐沢の方では、うわべは一切の関わりがなくなったように見せかけながら、水面下では、色々と筆者を争いに巻き込むために画策していたようである。

まず、唐沢は、杉本が2013年に坂井能大を民事提訴した際、坂井を支援するという名目で、筆者の了承を得ないまま、筆者の個人情報を含むメールを無断で坂井に書証として提出させた。

このメールは杉本の手に渡り、それが、杉本が筆者の個人情報を特定する根拠の一つとなったと、杉本は筆者との訴訟において認めている。

唐沢は、筆者があたかもメールの提出を許可したかのように述べ、また、筆者と坂井との間で、何らかの「協力関係」が構築されていたかのように弁明を重ねているが、それはすべて事実に反する。

筆者が、唐沢に坂井の裁判にまでメールの提出を許可したことは一度もなく、筆者は坂井とはいかなる協力関係にもあったことがなく、面識すらなく、連絡を交わしたことも一度もない。

しかも、杉本―坂井裁判が行われていた時、唐沢は筆者を呪った挙句、KFCから追放したのであって、筆者はすでにKFCを完全に離れ、唐沢の影響下にもなく、ブログも閉鎖しており、裁判のことも知らなかった。

それにも関わらず、唐沢は筆者の同意を得ないまま、あたかも筆者を遠隔操作で杉本との対立に引き込むかのように、筆者のメールを裁判に提出し、まるで筆者がこの裁判を支援しているかのように「演出」したのである。

この裁判で、坂井は杉本に敗れ(杉本の言葉によると、杉本の勝訴的和解に終わったという)、それによって、坂井と杉本だけでなく、坂井を支援していた唐沢と杉本との対立関係にも、終止符が打たれた。

唐沢は、こうしてもはや杉本の記事を、自分への名誉毀損だと主張する根拠さえ、自分から手放したのだと言えよう。

だが、唐沢は杉本に降伏したことで、KFCが杉本の予告の通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」へと転じる最後の歯止めを自ら外したのだとも言える。


・唐沢治が杉本徳久と交わしたメール文通(2016年―2018年)

その後も、唐沢は2010年に、杉本に対する個人的な連絡はこれを最後とし、以後、弁護士を通じてしか連絡を取ることはないと通告したことなど、全く忘れたかのように、杉本とのメール文通を重ね、そこで牧師としての守秘義務を破って、筆者の個人情報を次々とメールで杉本に提供するようになった。

その結果、唐沢が次々と筆者をいわれなく不利に陥れるような情報を杉本に伝え、杉本がそれを受けて、その情報を筆者を誹謗中傷する材料として使用するという「連携プレー」がなされた。

そのようにして、唐沢が信徒の個人情報を杉本に漏洩していた事実は、杉本が第一審で筆者に書証として提供した一連のメールを通して明らかになった。

杉本はおそらく唐沢に筆者を裏切らせたことが、よほど嬉しかったのであろうと思う。筆者を悔しがらせようと、あえてこの恐るべき悪事の証拠を自ら書証として公の場に持ち出して来たのである。

唐沢が2016年に筆者を指して「脳内空転」と罵った次のメールも、杉本が書証として出して来たものである。

 
1.唐沢が杉本と2016年に交わしたメール。この時点では、唐沢は筆者を「脳内空転」と罵っていたが、まだ秘密漏示には及んでいなかった。

ここで唐沢は、依然として杉本ブログには、唐沢を中傷する記事が掲載されているにも関わらず、杉本と対立する大義はもうなくなったなどと、杉本に対する事実上の和解宣言をしている。

さらに、このメールは、唐沢が、杉本を批判するために書いた記事の削除を、杉本から求められ、それに返信したものであるが、唐沢は杉本の怒りが自分に向かないように、巧妙に筆者の話に話題をすり替え、筆者を「脳内空転が強い」などという言葉で罵ることによって、杉本の注意を筆者に引きつけている。

杉本は、この悪口にも早速、飛びついたと見られ、あたかも筆者が精神異常に陥っているかのような根拠のない自説の裏づけとして利用して行った。

さらに、唐沢はまだこの時点では、秘密漏示には及んでいなかったが、その後も、杉本とのメール文通を重ねるうちに、ますます事実に基づかない、もしくは極度に誇張された情報を盛んに杉本に漏洩しては、杉本が筆者を中傷する行為を助長・容認するようになった。

唐沢はその過程で、杉本の怒りを自分から逸らすために、自分が過去に杉本に行った提訴予告すらも、まるで初めから唐沢の権利を擁護するためのものではなく、あたかも筆者の権利を守るために、筆者から促されて仕方がなく行ったものであるかのように、巧妙に主張をすり替え、その嘘を杉本に信じ込ませた。

そのことは、以前に書いた記事でも示した通りであるが、以下にも唐沢のメールを再掲載する。


2.2017年1月のメールでは、唐沢は杉本に対して虚偽の情報を提供しては、筆者を不利に陥れようと画策していたことが分かる。

唐沢は2017年1月に杉本に宛てたこのメールで、自分が無責任にも実行に移さなかった提訴予告のことで、責任を棚上げしようと、「彼女から提訴を何度も求められましたが、実名が出ておりませんので、彼女の件では動けなかったわけです。」などとうそぶき、2010年に自分が杉本に行った提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るために、筆者が唐沢に杉本を訴えるよう促したものであったかのように話をすり替え、虚偽の事実を杉本に伝えた。

だが、唐沢は以上で述べた通り、そもそもの初めから、KFCの元信者による書き込み幇助の責任を問うという、自分の権利を擁護するために杉本に提訴を予告したのであって、筆者が唐沢に杉本を提訴してくれ、などと頼んだ事実はない。また、唐沢は筆者の代理人でもないのだから、仮に筆者の権利が侵害されたとしても、それを理由に唐沢が杉本を訴えることなどもとより不可能である。

それにも関わらず、唐沢治がこのように虚偽の事実を杉本に伝えたのは、自分から杉本に(勝ち目のない理由で)提訴を予告したにも関わらず、これを実行しなかった自らの責任を、巧みに筆者に転嫁することで、杉本の怒りを筆者に集中させて、矛先を逸らし、さらに筆者を杉本との争いに全面的に巻き込んで行くための巧みな心理操作であったとしか言いようがない。

さらに、唐沢はこのメールで、2012年に筆者をKFCから自ら追放しておきながら、2013年になって、唐沢とは何の関わりもなくなっていた筆者が、あたかも坂井の裁判を「応援したい」と述べた事実が存在するかのように、虚偽の事実を杉本に伝えている。そして、あたかも、筆者の許可を受けて、筆者のメールを坂井に書証として提出させたかのように自己弁明している。

だが、筆者は坂井とは現在に至るまで、いかなる面識もないだけでなく、その当時、ネットから遠ざかっていたため、坂井と杉本の二人の間で、そのような裁判が行われていた事実さえも知らず、唐沢は筆者に坂井の裁判について伝えるメールを送ったと主張するが、そのメールを筆者は読んだ記憶もなければ、返信した事実もない。むろん、見ず知らずの坂井の裁判へのメールの提出を許可した事実などあるはずもない。

だが、杉本はこのような唐沢の巧みな心理操作に乗せられ、2013年に坂井を訴えた裁判で、筆者があたかも坂井+唐沢の援護射撃に回っていたかのように信じ込んだだけでなく、さらには、坂井の裁判までが、筆者が陰で糸を引いて、坂井を巧妙に焚き付けて杉本と衝突させたものであるかのようにまで信じ、そうした虚偽を、後にまことしやかにブログで吹聴しては、筆者を断罪し、名誉を傷つけたのである。

いずれにせよ、唐沢にとって、そうした嘘を杉本に信じさせるのは、全く困難ではなかったと見られ、こうして唐沢は、筆者について嘘を吹き込むことで、筆者を杉本との全面的な対立に至らせるきっかけを作って行ったのである。

唐沢が、常日頃から、「自分には人の気持ちが読める。人を操るなど簡単だ」と豪語していたことを思い出しても、このメールで、唐沢が「杉本さんが彼女を告訴する/しないは、もはや私が関与することではありません。」と、あえて杉本が筆者を告訴することを認めるような発言を行っていることも見逃せない。

この言葉から、唐沢が、できれば、杉本がヴィオロンを訴えてくれれば、非常に都合が良いのに、と考えていた様子がひしひしと伝わって来るように感じられる。
 
この他にも、唐沢は杉本に対し、秘密漏示に当たるメールを送信している。

 
3.2017年5月に唐沢が杉本に書き送ったメール。このメールで、唐沢はいくつもの信徒の個人情報を杉本に漏洩し、秘密漏示に及んでいる。

このメールで、唐沢は以前よりもさらに積極的に、杉本が筆者を中傷する材料を得られるよう、筆者に関する情報を捏造・歪曲する形で、杉本に伝えている。

唐沢が杉本に漏示した情報は次の通りである。
1.家庭の事情(何かしら深刻重大な事情があるかのような思わせぶりなニュアンス)
2.信徒の人間関係(兄弟姉妹と「総当たりでトラブルを起こしている」という虚偽の情報)
3.実家の所在地
4.家族構成
5.家族との人間関係(家族と対立しているかのようなニュアンスを含む歪曲された情報)
6.生活状況(生活苦に落ちっているかのようなニュアンスを込めた書きぶり)

こうした情報を伝えられた杉本が、それに飛びつき、これを利用して筆者を名誉毀損する記事を書き始めたのは周知の通りであるが、その直接的なきっかけを作ったのは、唐沢治なのである。

むろん、筆者はKFCにいた時、「兄弟姉妹と総当たりでトラブルを起こした」事実もなければ、実家と対立した事実があるわけでもない。実際に、この年、筆者は700km以上の距離を走行して実家へ旅していることからも、それは明らかである。

だが、唐沢から歪曲された情報を提供された杉本は、これを鵜呑みにして、2017年から2018年にかけて、筆者が至るところで対立を引き起こし、実家とも対立して絶縁状態にある、などとする中傷を書き記して行くことになる。

その後も、唐沢と杉本は親しくメール文通を続け、二人を批判する筆者に対する「対策」を共に練っていたようである。


 
4.2018年5月、筆者が杉本と村上に対して提起した民事調停が決裂に終わる直前に唐沢が杉本に送信したメール。

以上のメールで、唐沢は、筆者の書いた記事が虚偽であるかのように述べるだけでなく、訴訟のアドバイスまで丁寧に杉本に書き送っている。

「この種の人物は些細な兆候や事実を膨らませます。杉本さんと村上さんが連携して彼女を追い詰め、さらに私が寝返って関わっていると言うわけですよね。ですから、その兆候のヒントを与えると彼女がますます増長し、彼女を利するわけです。

ゆえに杉本さんの態度としてはあくまでも「不知」がベストなのです。こうして私とメールをやり取りしていることも彼女には利益となるでしょう。」

こうして、次々と筆者を不利に陥れるような歪曲された情報を杉本に与えて、個人情報まで漏洩し、杉本が筆者を中傷・攻撃するきっかけを作っておきながら、よくも以上のように主張できるものだと呆れるばかりだ。

唐沢はこの当時、まさかこのメールを杉本が訴訟に提出することになるとは予想していなかったであろうし、それを願っていなかったと考えられるが(だからこそ、唐沢は杉本に「不知」で通すよう、余計なことを話さないよう勧めている)、それでも、独特の直観で、このメール文通の存在が、筆者の目に隠しおおせず、必ず、彼らにとって不利な証拠として利用され、いつか白日の下に晒される日が来ることを予見していたようである。

杉本はこのメールの中で、「ヴィオロンから民事調停を申し立てられていますが、卑怯なことに住所を秘しているため、こちらから反訴ができない状況です。」と述べている。筆者の情報をどこまでも集めたいがために、手あたり次第、筆者のかつての知人にメールを送りつけ、情報を聞き回っていたわけであるが、唐沢の反応を見る限り、唐沢は筆者を陥れるために、知ってさえいれば、どんな情報であれ、喜んで杉本に伝えたのではないかと疑われてならない。

筆者の目から見て、唐沢が杉本に嘘を信じ込ませることで、杉本の筆者に対する対立感情を煽った手法は、極めて狡猾なものである。下手に心理学などを学ぶと、このように他者の愚かさや弱さに付け込んで、他人の心を操り、手玉に取る術ばかりを、常人以上に身に着けてしまうのであろうか?

杉本に情報を提供してやることで、杉本を思い通りに動かし、筆者に対立させることなど、唐沢にとっては全く問題ではなかったであろう。だが、唐沢の誤算は、筆者が(信仰ゆえに)杉本よりも強く、杉本が筆者に打ち破られて終わると予測できなかったことにあった。

いや、筆者は、内におられる方のゆえに、杉本だけでなく、唐沢にも打ち破られるとは思っていない。唐沢が聖書の御言葉に立たないならば、真実なクリスチャンの前に立ちおおせる根拠は何もないのである。

* * *

④ 唐沢治の嘘とまことの混在した整合性のない矛盾だらけの主張

現在、唐沢は、筆者がKFCで起きたクーデター事件について、自らのブログ記事とは裏腹に、U(鵜川)夫妻がKFCを乗っ取った事実はないと否定し、さらに、筆者とは「牧師と信徒の関係にはなかった」などという荒唐無稽な嘘を主張している。

唐沢の巧妙な印象操作と詭弁に満ちた主張は、以下の陳述書でも如実に見て取れる。




これは筆者が昨年に申し立てた仮処分の申立に対する陳述書であるが(仮処分は訴訟に転じる予定で一旦、取り下げている)、唐沢はここで筆者が「神の啓示を受けた」などとして、あてもなく突然、横浜に尋ねて来ては、自分の孤独を切々と訴え、唐沢に面倒を見てもらおうとし、それを唐沢は親切にもケアしてやっていたかのように、虚偽の情報を記している。

しかしながら、事実は全くこのようではなかった。筆者は、2009年10月に横浜へ移住した際、確かに神が奇跡的に筆者の祈りに応えて、大きな恵みを与えて下さったことに喜んでいたが、「神の啓示」により、移住したと述べたことは一度もない。むろん、それ以後、生活について、いかなる形でも、唐沢から支援を受けたこともない。

むしろ、筆者が横浜に移住してわずか数日後に、唐沢の20年来の知己であり、ローカルチャーチ時代からの親友であったMr.Sugarを名乗る年長の兄弟が、「唐沢は非常に危険な男であるから、近寄るべきではない」と筆者に向かって真摯に忠告したため、筆者はそれ以後、杉本によるバッシング事件が起きて、年末から年明け頃になるまで、KFCには近寄らなかった。

従って、筆者が唐沢に孤独な心中を打ち明けたとか、親切に面倒を見てもらったなどという事実はない。むしろ、杉本事件が起きてから、筆者が途方に暮れて唐沢のもとに相談に行っても、それに対して、唐沢が行ったことは、KFCの元信徒の事件を自分に有利に解決するために、筆者に唐沢に有利な証言を警察で行うよう求めることだけであった。

唐沢はその後、独断で杉本に提訴を予告して杉本を激怒させた上、その提訴を実行に移さず、さらにそうした理由さえも、いわれなく筆者にかこつけ、筆者をKFCから追放した上、筆者を中傷する情報を杉本に提供したことはすでに述べた通りであり、それを考えれば、唐沢が筆者のためになした良いことなど、ほとんど何も見当たらないと言えよう。

筆者は、唐沢の信仰的見解を非常に危ぶんでいたので、唐沢に助言や忠告めいた内容を伝えたことが、幾度となくあり、何とかして唐沢に正統な聖書的見解を取り戻せないかと試行錯誤し、話し合いの機会をもうける口実として、「横浜を案内して欲しい」と頼んだことがあった。

しかし、それに対しても、唐沢はただホームレス伝道が行われている教会へ筆者を連れて行っただけであり、筆者はその伝道風景を見て、あまりにも人工的であると感じて、気分が悪くなっただけであった。もちろん、筆者がそれ以外に唐沢から横浜案内を受けたことはない。信仰についてKFC以外の場所で話し合ったことはあるが、観光などの信仰とは関係のない事柄を共に行ったことはない。

筆者は杉本のバッシング事件において、唐沢からほとんど助力を得られなかったが、それとは別に、2012年にKFCを去るまで、唐沢が「セレブレーション」と呼んでいた礼拝に通っており、それゆえ、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」という唐沢の主張が荒唐無稽であることは言うまでもない。

唐沢が筆者の「カウンセラー」でなかったという事実は、何ら牧師と信徒の関係に影響を与えるものではない。

むろん、筆者が2012年に鵜川夫妻に口論をしかけた事実もなければ、鵜川夫妻が土下座したといった芝居じみた話も、事実ではない。大体、キリスト教徒が土下座などすると考える方がどうかしているが、鵜川夫妻は、当時、筆者が夫妻に疑問を感じていることを鋭く感じ取っており、2012年のある日の礼拝後、筆者が鵜川のメッセージを素直に聴かないと言って、他の信徒が見ている前で、筆者をすごい剣幕でなじった。そして、夫妻は、筆者が彼らに心を開かないことを責め立てたのであった。

唐沢は、その頃から、鵜川夫妻に入れ込んでいたので、彼らの肩を持って、その話を聞いていたのであろう。それからほんのわずかしか経たないうちに、3人で筆者を断罪し、KFCから追放したのである。

同じ頃、筆者がKFCを去る少し前に、エシュコルがKFCに対してブログで決別宣言を出し、集会を去った。だが、それについても、唐沢は「ヴィオロンがエシュコルを唆したに違いない。あんな人間に自分で物事の判断ができるはずがない」などという理由で、鵜川夫妻と一緒になって筆者を断罪し、さらに、礼拝後、信徒たちの目の前で、「彼は血潮を踏みにじり、赦されない罪を犯した。これから先、己が罪を生涯背負って、無意味な自己弁明を重ねながら生きて行くしかないだろう。」などと宣告していた。

こうした事件を目の当たりにした結果、筆者はKFCの元信徒が、唐沢から「密室で呪いの予言を受けた」と主張していたことを、全く嘘とは思えない心境に至ったのである。

その確信は、唐沢が現在、この信徒だけでなく、筆者をも事実に基づかない理由で断罪する以下の記事を公然とホームページに掲載しているところを見ても、さらに深まるばかりである。

 



この記事で、唐沢はすでに10年ほども前に、不起訴に至ったKFCの元信徒に対して、未だに尽きせぬ恨み節を向けながら、彼の家庭・精神が崩壊に至ったことを喜び、嘲笑するかのような言葉を浴びせている。

このような断罪記事には、唐沢の精神が余すところなく表れているのであって、このように信者を断罪できる唐沢が、この信徒に「密室で呪いの予言を浴びせる」ことなど、平気だっただろうという推測が生じるのは当然である。

唐沢はここで筆者についても、誇張・歪曲された事実をいくつも並べて、あたかも筆者がアッセンブリー教団で「挫折」したかのように述べたり、筆者が「現実と幻想の混濁した独自の世界観」の持ち主であるかのように、必死に印象操作をしようとしている。こうした記事が、杉本にどれほど好都合な材料となったか、あえて述べなくとも明らかであろう。

こうした唐沢の主張は、村上密が筆者に向けている非難にほぼ重なるものである。かつて唐沢は、自分から村上密を嘲笑する記事を投稿していた事実などすっかり忘れたように、ここでは筆者が村上を「憎悪」しているかのように、都合よく村上を擁護する側に回っている。

唐沢はかつてはアッセンブリー教団をも批判していたのである。しかし、2012年にアッセンブリー教団所属の鵜川夫妻がKFCでクーデターを起こして以来、唐沢はアッセンブリー教団を非難することができなくなった。唐沢が鵜川夫妻を公然と批判できないのは、鵜川夫妻と親しく交わりを重ねているうちに、夫妻に弱みを握られたためなのかどうかまでは、筆者は知らない。

いずれにしても、唐沢がこうして杉本徳久が筆者を名誉毀損することを促すかのように、格好の材料を次々と提供して行ったのは事実である。

こうした事実から、読者は唐沢という人間の極端なまでの利己主義、サイコパスのごとき冷淡さを見て取れるのではないだろうか。

とはいえ、筆者は、唐沢が筆者を呪ったり、杉本が誹謗中傷したとしても、全くその言葉には効果がないと確信している。なぜなら、私たちのためには、すでに木にかけられて呪いとなって下さった方が存在しているためであり、誰からの呪いも、十字架によって無効にされているからである。

ただし、それでも、唐沢は自らの行動の責任を取らなければならないことは確かである。

* * *

④ 偽預言者を待ち受ける破滅 異端的教説にはまることの恐ろしさ

最後に、以上のような事態が、唐沢治の内側で進行したのは、その間、唐沢治が、ニューエイジ、オカルト、東洋思想などの非キリスト教的思想をいくつも渡り歩いて、それに深く影響を受けたために他ならないと、筆者は考えている。

筆者はまだKFCにいた頃、こうした教えがどれほど危険なものであるか、再三、唐沢に忠告し、議論したこともあった。その当時、筆者は何とかして唐沢の心を変えて、正常な信仰を取り戻せるのではないかという甘い期待を持っていたのである。

しかし、唐沢はどれほど忠告しても、己が考えにしか従わず、聖書と異なる教えを捨てようとはしなかった。唐沢は自分にあまりにも自信を持ち過ぎていたため、むしろ、筆者がそれらについて警告すればするほど、筆者に対する嫌悪を深めて行ったのである。

当ブログでは、前々から述べている通り、東洋思想の基礎は、グノーシス主義にあり、グノーシス主義の本髄は、「対極にあるものを融合する」こと、すなわち、嘘とまこと、「然り」と「否」を統合し、究極的には「神」と「人」を一つにすることにこそある。

唐沢治がかつて属していたローカルチャーチでは「神と人とが混ざり合う」という異端的教説が教えられているが、唐沢はこの教えをかつては糾弾していたにも関わらず、結局のところ、自分自身がそこへ戻って行ったのだと言えよう。

唐沢治が現在、KFCにおいて、自分たちは「エロヒム(神々)だ」と主張し、「キリスト教からのエクソダス」を唱えていることは、彼らが、自ら神(々)になっていることを意味する。

生まれながらの人が、十字架の死を経ることなく、自力で神に到達すること――これは、あらゆる異端が目指している最終目的であり、神秘主義の極意である。

筆者は、目に見える教会組織や、目に見える指導者からの「エクソダス」を唱えたことはあっても、唐沢のように「キリスト教からのエクソダス」を唱えたことは一度もない。

しかしながら、禅とキリスト教の融合を唱えたり、「白いキリスト教の呪縛から解かれよ」などと唱える唐沢は、もはや自分をキリスト教徒であるとは認識していないことがよく分かる。

筆者は2010年当時から、KFCが世間からどのように見られているかを観察して来たが、もしも自分の職を捨てることがなければ、唐沢の言い分は、今でも心理学の専門家として、世間で通用したかも知れないものと思う。

しかし、今はその根拠もなくなっている。唐沢は筆者を指して「脳内空転」と嘲るが、その用語も、心理学の専門用語ではなく、唐沢が考え出した時前の罵倒語に過ぎない。そして、「脳内空転」では、告訴状は受理されず、民事での賠償命令も出ない。

年上の男性宗教指導者および信徒に対し、何の肩書もない年下で無名の女性の筆者の告訴状が受理されること自体、真に驚くべきことであるが、そのようなことが起きるほど、彼らの信用は失墜していると言うこともできよう。

実際には、キリスト教の信仰に「挫折」、「現実と幻想が混濁した独自の意味不明の世界観」を生きているのは、唐沢自身である、と筆者は断言する。さらに、唐沢はキリスト教を憎悪し、教会をも憎悪している。かねてより、キリスト教は人間に狂気をもたらすなどと述べて来たのも周知の事実である。

これまで繰り返し述べて来た通り、村上・杉本・唐沢が、筆者を陥れようとしたり、権利侵害を行ったりした背景には、彼らの聖書の御言葉に対する憎悪が存在する。ここには、単なる個人的な対立を超えた、霊的争いが存在し、彼らが滅ぼそうとしたのは、聖書に忠実な信仰であり、神の国の権益であって、個人としての筆者ではないのである。

*ちなみに、この記事を書いている最中、上記でリンクを貼った記事を、杉本は削除した模様だ。しかしながら、はっきりと物事の決着をつけておくためには、記事が削除されても、控訴審で改めてこうした一連の記事の削除を求めることは、続けて行かねばならない。また、記事を削除させるための別の強制手続きも続行中である。

だが、いみじくも、今回、断固として敵の嘘に立ち向かいさえすれば、正しい主張は通るのだという結論が出た。すべての信者には、暗闇の勢力による脅しに屈さず、毅然と立ち向かうことをやめないでもらいたい。そして、敵の要塞を打ち破ることは可能なのだと勇気を奮い起こしてもらいたい。

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。

あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテ二3:12-17)

3.株式会社メディアテラス 代表者杉本徳久に対する強制執行(債権差押命令)
  
さて、まずは次の事実から先に読者に報告したい。

判決に仮執行がついていれば、控訴中もしくは判決の確定前であっても、判決はただちに効力を有する。そこで、原告の賠償請求が判決で認められれば、その分は、被告の「債務」としてただちに取り立てが可能となる。

ここから先は、金融業界の人々が専売特許としている世界だ。おそらく悪魔と暗闇の勢力はこの分野を知り尽くしているはずで、ドラマに出て来る取り立て屋、地上げ屋などを思い出すだけで良い。

もちろん、良心的に判決に従ってくれる人々に対して、こんな強制命令は必要ない。代理人などがついている争いの場合であれば、判決言い渡しの後は、代理人同士で穏やかに解決が図られるのが常であろう。

しかし、本件が特異であるのは、杉本徳久という人物が、これまで、当ブログ執筆者の側から接触を図る度毎に、事を荒立て、筆者に対するさらなる権利侵害に繰り返し及んで来たという事実である。

過去を振り返っても、当ブログ執筆者が今回、被告として訴えた杉本徳久は、2009年に筆者がたった1件のコメントの削除を求めただけでも、これに応じず(杉本の行為は筆者に対する著作権侵害であると、判決でも認められている)、筆者が書き送ったメールの文面が、あたかも無礼極まりないものであったかのように主張し(これについても、後程筆者のメールを全文公開する)、かつ当ブログの内容を不服として、ただちに当ブログに対して1千件のコメントを伴うバッシング記事によって応酬した経緯がある。

その後も、杉本は当ブログから気に入らない記事を削除させようと、当ブログ執筆者の個人情報を無断でネット上に公表すると予告する嫌がらせのメールを大量に筆者に送りつけた(このことは過去の記事で指摘した通りである)。

さらに、杉本は唐沢治など、当ブログ執筆者にかつて関係のあった人物に接触し、当ブログ執筆者に関する情報を収集(これは次回以後の記事で詳しく指摘)、さらに、2017年に筆者の側から和解を申し入れるためにメールを送った際にも、これを無断で公開した上で筆者を名誉毀損し、その後、筆者の側から和解を目的とする調停を申し入れると、筆者を名誉毀損する記事を20本以上に渡って大量にブログに大量投稿(判決で20本以上の記事の削除が命じられた)、当然ながら調停は決裂して訴訟に転じ、その結果、今回の賠償が杉本に命じられたのである。

第一審でも、被告杉本が、被告村上密と一緒になって、原告に反訴すると脅しをかけていたことは幾度となく記した通りであり、当ブログ執筆者は、このように常に騒ぎを無制限に拡大しては、紛争をこじらせた挙句、事態の収拾に何の貢献もして来なかった被告杉本に対し、第一審の判決言い渡し後は、いかなる直接交渉も行なわないことに決めた。

読者にも、このような人物と接触することが何を自分にもたらすのか、よく考えることをお勧めしたい。
 
むろん、第一審の判決言い渡し後、杉本が筆者に賠償金の支払い方法をメール等で尋ねて来ることも一切なかった。個人情報を暴露すると言って一方的に人を脅したり、信仰生活について不当に干渉し、僭越な助言を行うメールを送りつけるときにはためらいがないのに、自分に不利な判決には、どこまでも知らぬふりである。
 
そこで、第一審の判決を実行に移すために、当ブログ執筆者は、強制執行により財産の差し押さえという方法を取ることにした。その申立てが許可され、裁判所の差押命令が届いたので、ここに掲載しておく。


株式会社メディアテラス 代表取締役を第三債務者とした裁判所による債権差押命令

むろん、これは第一回目の法的措置であるが、これは企業に対するものであるから、債務者である杉本がこれに従わず、あくまで「債務」から逃げようとするならば、こちら側では、個人としての杉本をも対象として、第二、第三の措置を講じなければならない。
 
だが、債務から逃げることが得策ではないと言えるのは、この種の措置は、繰り返せば繰り返すほど、より一層、企業の信用を低下させ、個人にとっても、ダメージとなるからだ。

判決が出ても、すぐに従わず、通常の企業から見て、さして高額でもない賠償金すら、ただちに支払う能力のないほどまでに、資金繰りが悪化しているとすれば、そんな企業とこの先、取引を行うことは、非常な危険であるから誰にも勧められない。

以前に杉本は、筆者がこの会社が幽霊会社になっているのではないかという懸念を記しただけで、激怒して筆者を罵倒・侮辱・名誉毀損しつつ、尊大な態度で、法務局に行って登記簿謄本を取れば、自分の会社が幽霊会社でないことくらいはすぐに分かるはずだと叫んでいた。

その頃、杉本は、自分の会社の資格証明書の取得代金が、後に債権差押の執行費用として、自分に請求されることになると、少しでも予想していたであろうか。

このように、気に入らない他人を誹謗中傷することだけは大いにしても、その後、自分に降りかかる事態を全く予想できないのは、まことに愚かであると言う他ない。

筆者が今、この記事を書き記しているのは、これと同様の現象が、掲示板で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている連中の誰に対してでも、起きうるためである。

ある日、IPアドレスから個人が特定されて、掲示板の投稿者であるあなたに訴状が届く。それを見たあなたの家族は、あなたが日夜、掲示板に他者を誹謗するコメントを投稿していたために、そのような事態が起きたことをどう思うであろうか。

債務は、逃げれば逃げるほど、さらに膨らむ可能性もそれなりに秘めている。杉本が、幽霊会社かも知れないと言われたことを実現させたくないならば、早期に対処しておくことが必要となろう。
 
今回は、企業の代表としての杉本徳久を第三債務者としているが、勤務先にこうした命令が届いた場合には、それ以上、穏便に勤務を続けられるかどうかは定かではない。

いずれにしても、騒ぎを煽るだけ煽って、自分に不利な判決が言い渡されるや否や、その事実から目を背けたり、事態を収拾する一切の努力を、すべて相手任せにするような人物や企業と、この先、取引をする価値があるかどうかは、各自がよくよく考えられたい。
 
メディアテラスの代表である杉本が、企業の代表として、この問題にどう手を打つのかが注目される。

* * *

4.杉本のみならず、村上密に忖度する信者を待ち受ける厳しい末路

さて、前から書いた通り、杉本徳久による2009年に始まった当ブログ執筆者に対する執拗なバッシングと、正当な理由のない個人情報の開示要求等の脅しの引き金となったのは、それより少し前に、村上密が当ブログ執筆者だけを標的として掲載した以下の記事であったものと見られる。
 
村上密は、2009年7月に17日に、当ブログ執筆者が、村上密が唱えた「カルト監視機構」の構想を悪魔的な発想であると批判したことに激怒し、同じ教団で育って来た信徒である筆者を個人的に非難するバッシング記事「ヴィオロンさんへ」を自らのブログに掲載した。

だが、何よりも注目されるのは、そこで村上が、当ブログ執筆者に対して、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方から早く卒業することです。」と記し、当ブログ執筆者がペンネームでブログを執筆している行為を、まるで許されないものであるかのように、正当な理由なく非難していたことである。

 

村上密が、自教団で子供の頃から育ち、村上の教会に身を寄せたこともある当ブログ執筆者から批判を受けたことを許せず、筆者を個人的にバッシングするために掲載した記事
 


 また、この記事が発表された時点から、村上密が、当ブログ執筆者が、村上の像を「創作」している(=悪魔化している)と主張していたことも、注目に値する。

だが、事実はどうであろうか?

通常のプロテスタントの牧師は、信徒を名指しで非難する記事をブログに掲載したりしないし、信者の著作者人格権を否定して、実名を公表せよと要求したりもしない。

もちろんのこと、全宗教界を取り締まる「カルト監視機構」などという恐ろしい機構の設立を提唱したりもしない。

さらに、被害者を募って、自分の所属しない教会に裁判をしかけたり、同業の牧師を誹謗中傷する記事をブログに投稿し続けるなど、他の牧師には類例のない行為である。

何よりも、村上密自身が、常日頃から、裁判をしかけられた側の教会の牧師や信徒たちから、自分が「教会の破壊者」と呼ばれていると、得意げに周囲に吹聴していたのである。

むろん、教会の破壊者とは、悪魔のことである。

このように、村上自身が、自分は裁判をしかけられた教会から、悪魔のようにみなされていると、自慢話のように喜んで吹聴していたのだから、それを信じる人が出て来ることを、村上が非難できる筋合いにはあるまい?

それにも関わらず、一体、なぜ村上は筆者のブログ記事だけを、村上を悪魔化した「創作」であると、躍起になって否定せざるを得ない理由があるのだろうか。実におかしなことである。
  
いすれにしても、この頃から、村上密が、当ブログがペンネームで執筆されている行為を、何の正当な法的根拠もなく、許しがたいもののようにみなして、暗に非難していたこと、そして、前回述べた通り、杉本も、村上によるバッシング記事のURLを、当ブログを非難した記事で引用していたことを見ても、杉本が当時から、村上の言い分が正しいかのように、鵜呑みにしていた様子が分かる。

杉本は、当ブログ執筆者に対する権利侵害に及ぶことで、あたかも自分が村上の思想の代弁者のごとく振る舞い、村上に代わって筆者に制裁を加え、報復しようとしたものとみなせる。
 
そのことは、何よりも、杉本が賠償を命じられた直後の4月1日に、今度は村上密自身が、当ブログ執筆者に対する著作者人格権の侵害に及んだ事実を通しても分かる。

杉本が口を封じられたので、いよいよ村上本人がお出ましになるしかなくなったのである。もしも杉本と村上との間に、いかなる思想的つながりも、連帯もなかったのであれば、杉本が口を封じられたからと言って、それを機に、村上が以上のような権利侵害に及ぶ理由はなかったはずである。

だが、実際には、村上が以上の行為に及んだことは、村上が2009年以来、何としても当ブログ執筆者の実名を暴いてやりたいという(杉本徳久同様の)執念を持ち続けていたことをよく物語っている。筆者から見れば、杉本はただ村上の執念を、忠実に体現して実行しただけなのである。
   
そこで、筆者は村上による権利侵害を不法行為として控訴、および刑事告訴を完了しようとしている。掲示板における村上忖度信者は、この事実をファンタジーか何かだと考え、筆者に勝利はないとしきりに吹聴しているが、村上自らが第一審では出さなかった不法行為の証拠を自ら揃えたのであるから、村上の今後は、これまでとは全く違ったものとなろう。
 
さて、杉本がどれほど村上の思惑を忖度して行動していたのか、村上から杉本に具体的な指示があったのかなかったのかは不明だが、いずれにしても、村上の記事が、杉本による権利侵害のトリガーになっていることは十分に確認できるのであり、同様のことが掲示板にも当てはまる。

掲示板でも、当ブログに対して、日夜、著作者人格権の侵害、著作権の侵害、名誉毀損等の権利侵害が行われているが、これらの書き込みはほぼ100%、村上密の支持者によるものである。

これらの信者は、村上が新たな記事を発表する度に、その主張を真に受け、村上を擁護する目的で、村上の政敵としての当ブログ執筆者を「悪魔化」して弱体化し、それによって、村上に代わって筆者に報復を加えるためにこそ、日夜、筆者を誹謗中傷し続けているのである。

しかし、実際に、悪魔と呼ばれるにふさわしいのは誰であろうか。筆者はいかなる法も犯しておらず、膨大な手間暇をかけて、自らの主張を合法的に立証すべく、正当な訴訟手続き、刑事告訴の手続きに及んでいる。

ところが、村上密を支持する掲示板の投稿者は、匿名で筆者を誹謗中傷し、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」を続けているだけだ。

信仰を持たない通常人であれば、これほど激しい誹謗中傷を受ければ、2日と持たないだろう。しかし、掲示板に溢れる村上忖度信者は、他者を死に追いやっても、まるで反省のないほどに、残酷かつ無慈悲な言動を続けている。ここまで人間性を失った異様さを見れば、彼らが、まるで教祖麻原のために大勢の人々を死に至らしめる犯罪行為を犯したオウム信者と同じようになって、すでにカルト信者と呼ばれるにふさわしいあらゆる特徴を備えていることが、読者には十分に見て取れよう。

筆者が警告しているのは、このようにまで正常な精神を失った信者の群れを「実」として生み出す宗教指導者は極めて危険である、という一言に尽きる。

常識を失い、法令を遵守する精神もなくなり、人としての思いやりもなく、まるでヤクザのように殺気立って、日夜獲物を探し求める獣のように、口汚い言葉で誹謗中傷するための標的を探し求める、異常な取り巻きが主たる支持者となっている牧師――そのような誹謗中傷を扇動するがごとくに自ら信者に対するバッシング記事を掲載してはばからない牧師――さらに、自身が、学校時代に級友に暴力をふるって退学に追い込んだり、「教会の破壊者」と呼ばれていることを、自慢話として吹聴する牧師など、プロテスタントのどこを見ても、村上密の他にはまず見当たらない。

村上密は、鳴尾教会との裁判に敗れてから、若い後継牧師(長澤牧師)に道を譲ると言って60代で引退したが(アッセンブリー教団の平均的な退職年齢は80代であると村上自身が書いていることを見ても、これがいかに不本意な早期の引退であったかは分かるだろう)、それにも関わらず、信徒総会の決議によらずに、後継牧師を勝手な理由で退けて、自分の妻(恵子)を主任牧師に据え、今も自分の息子を牧師として奉職させている。

ゆくゆくはこの教会を息子に継がせようという意図が透けて見えるが、このような現象をこそ、教会の乗っ取りと言うのではないだろうか? これはかつて鳴尾教会で、村上が義理の父である津村牧師と協力して、津村牧師の後継牧師夫妻を追い出した手法にそっくり重なる。その当時から、信徒総会の決議を経ずに、自らの一存だけで密室で事を進める村上の手法は全く変わっていない様子が見て取れる。その上、村上の家族においても、子供の不幸が相次いでいる様子を見れば、村上密という牧師がどれほど悪しき「実」を結んだのかを人々は如実に理解できよう。

このように、村上の主張はすべてがさかさまである。乗っ取られてもいない教会に「乗っ取り」の容疑を着せ、自分のしていることこそ、教会の乗っ取りであるとは認めない。自分が属していない他教会にまでも、裁判をしかけて、教会を弱体化させ、自分が悪魔化され、「創作」されている、などと言いながら、罪もない信者を悪魔化し、自ら権利侵害を犯し、誹謗中傷を容認・黙認しながら、信者を嘲笑することにためらいがない。

村上密が牧師であるにも関わらず、まるで訴訟を悪ふざけの場であるかのように、杉本徳久と共に(実行もできないのに)筆者に反訴の脅しをかけた様子を見るだけでも、信徒は、当ブログにおける村上に対する批判が、断じて筆者の「創作」などでないこと、このような悪しき牧師の本質が何であるかを、十分に知ることができるだろう。
 
このような事実が明らかになっても、まだこの牧師の言い分を信用するのは、まさしく愚行と言う他ない。村上の追随者には厳しい運命が待ち受けている。その最初の第一号が、杉本徳久なのであって、掲示板の投稿者たちも、杉本の今日は自分の明日であることをよく考えるべきであろう。

偽預言者の目的は、自分と共に破滅に追い込む人間を、一人でも増やすことにある。従った者には、厳しい報いが待ち受けているのであって、彼らは自分が「教祖」と拝んだ人物と共に恥をこうむり、悪事の報いを受けることになる。

彼らの行く末は火の池であるが、この世においても、切り倒されて火に投げ込まれるため、よくよく用心されたい。

偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶことできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ7:15-20)

2.サイバーカルト監視機構はない!と主張する人々の犯罪行為 等へ続く。

2019/04/13 (Sat) 神の義なる裁き

1.兄弟に「馬鹿」という者は最高法院に引き渡される。信徒を馬鹿にする村上密のメール


さて、 第一審の目的は、サイバーカルト監視機構がこの世に存在するかどうかを事実認定することにはなく、そのような機関が存在していないという事実認定が下されたわけでもない。

にも関わらず、一体、なぜ村上密がこの問題について躍起になって否定しているのか、筆者は理解に苦しむ。
 
とはいえ、読者には、次の事実をよくお考えいただきたい。

まず第一に、杉本徳久による当ブログに対するバッシングは、2009年に村上密が当ブログに対する批判記事を発表した直後に始まった。その頃、以下に示す通り、杉本は自らのバッシング記事の中で、村上の記事のURLを引用していた。

 

村上は2009年以降、自らのブログで、それ以上、当ブログを批判することはなかったが、それと入れ替わるように、杉本からの当ブログへの執拗なバッシングが始まった。

さらに、今回の判決で、杉本に賠償とブログ記事削除が命じられると、今度は村上が杉本と入れ違いに、自らのブログで、当ブログ執筆者を標的として非難し、権利侵害を行う記事を投稿し始めたのである。

このようなことを、読者はどう思われるであろうか?

また、第一審の口頭弁論は、昨年12月に終結し、それから判決言い渡しまで、3ヶ月の期間があったが、この間、インターネットでは、日夜、当ブログ執筆者に対する想像を超えるほどの激しい大規模な嫌がらせ行為(権利侵害)が行われた。

今もって続いている掲示板における当ブログに対する権利侵害の書き込みのほぼ9割近くは、村上密を擁護する立場から行われていることも注目に値する。

かつて筆者が親しく交わりを持っていたある信者(すでに他界)が、次のようなことを述べたことがある、

「主監者を見なくても、信徒を見れば、主監者がどういう人間かは大体分かる。」

まさしくその通りであって、ある宗教指導者がどういう人物であるかは、それを取り巻く信者たちの顔ぶれを見れば、おおよそ察しがつくと言って良い。

特に、その宗教指導者を批判した時に、何が起きるのかをよく観察してみる必要がある。ある指導者を批判すると、途端に、本人からただちに非難記事の掲載という報復措置があり、さらに、ヤクザのような無数のコメント投稿者が、寄ってたかって、掲示板で匿名で誹謗中傷を始めるなどの出来事があれば、そのような現象が起きる宗教指導者には、絶対に近寄るべきでないと言えよう。

この点で、村上密(および杉本徳久、唐沢治)を批判した際に起きるインターネット上の集団リンチは、他の宗教指導者には見られない特異かつ悪意に満ちた現象である。
 
村上密を批判した時に起きる、当ブログへのすさまじいネット上のリンチは、2009年から現在まで続いており、このように長期に渡る集団的な嫌がらせ行為は、他の宗教指導者には、全くと言って良いほど見られないものである。

掲示板では、現在も、村上の言い分を鵜呑みにした信者たちが、当ブログに対する批判のみならず、すさまじいほどの権利侵害を繰り広げている。

これほどガラの悪い取り巻きばかりが支持者・擁護者となっている宗教指導者は、プロテスタントではまず他に見たことがない。

こうした大規模なネット上のリンチに、村上密本人がどこまで関わっているのか、関わっていないのかは不明だが、いずれにしても、非常に大きな疑問に感じられるのは当然である。

ちなみに、筆者は今でも、杉本徳久の行為は、杉本が単独でやったものではない可能性が高いと考えている。

まず、村上は第一審において、杉本と共に、筆者を完全に馬鹿にしたメール文通を書証として提出して来た。

何とそこには、村上が欠席した昨年10月22日の口頭弁論に、被告側からは一人で臨んだ杉本が、筆者がこの弁論で述べた主張を歪曲・捏造して、「ヴィオロンが口頭弁論時に、被告らによって自分のパソコンがハッキングされたと主張した」などと、筆者が述べてもいない荒唐無稽な嘘を書き記して、二人で原告を馬鹿にした内容が書いてあったのである。

もちろん、原告はこの訴訟において、被告らが原告のパソコンをハッキングしたなどという主張を一度も提示したことがない。

だが、そのことをさて置いても、これは村上の人間性がよく分かるメールだと思う。
(一つ目以外の画像はすべて村上のメール。)





さらに、次の書面も、杉本が提出して来たものであるが、村上密が内心で、信徒をどれほど馬鹿にしているかがよく表れているメールだと言えよう。

ここでは、いみじくも、杉本と村上がまさに筆者を「馬鹿」と罵ったメールを、二人で示し合わせて訴訟に提出することで合意した様子が記されている。


このようなメール文通を書証として訴訟に提出するなど、筆者から見れば、とてもではないが、訴訟を単なる悪ふざけの場だと勘違いしているとしか思えない愚行である。

むろん、キリスト教徒としても、それは絶対にあるまじき行為である。
マタイによる福音書にはこうある。

「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:22-26)


さて、ここで言われている「和解」とは、被告らが唱えたように、提訴や反訴の脅しをかけることによって、自分に不都合な発言をする信者の口を封じようとすることではない。

この聖書箇所が非常に象徴的なのは、「早く和解せよ」と、御言葉が急を告げているにも関わらず、その忠告を退けるなら、裁判官は兄弟を罵った者に不利な判決を下し、その判決に従って、その者は「牢に投げ込まれる」と書いてある点だ。

これは非常に象徴的であると筆者は思う。なぜなら、このメールを提出した時点では、被告らの双方が告訴対象となっていたわけでもなければ、その後、双方に不利な判決が下されたわけでもない。ところが、今や時間の経過と共に、双方に同じ運命が降りかかろうとしているのである。

さて、話を戻せば、このようなメール文通の内容から、私たちは、杉本徳久と村上密がいかに意気投合して、原告である筆者を共に見下し、嘲り、罵っていたかをよく理解できよう。

しかも、二人が原告を罵っていた理由は、ありもしない理由であり、筆者の主張を捏造したものであるから、極めて不当である。また、この文通の内容からは、村上が筆者の提起した訴訟そのものを徹底的に嘲っていたこと、また、杉本の行為をいささかも不法行為であると認識していなかった様子がよく分かる。

このように、杉本は当初から、村上と歩調を合わせ、メールでは意気投合さえしていたのであり、その後も、村上と一緒になって、筆者が彼らの唱える和解条件を飲まないならば、反訴するとの脅しをかけていたが、第一審の最後の口頭弁論において、村上が反訴しないと分かると、「村上さんが反訴しないなら、私もしません」と、村上と歩調を合わせて、反訴を取りやめる態度を見せたのである。
 
第一審では、杉本―村上の明白な共謀関係は立証されていないとはいえ、もしそれが事実であるならば、このように杉本が村上に歩調を合わせて反訴を中止する必要はなかったはずである。

むろん、控訴についても同様のことが言える。村上が不法行為に問われなかったからと言って、杉本の控訴する権利が失われるわけではない。それにも関わらず、筆者が杉本の控訴はあり得ないと予想しているのは、ただ控訴によって、判決を覆せる見込みが薄いというだけではない。

これまで杉本が、常に村上を擁護する立場から筆者に反論し、村上の都合を理由に反訴を見送ったことを考えても、その杉本が、自らの控訴によって、村上を再び不利な立場に立たせるチャンスをわざわざ筆者に与えるとは思えないのである。

さらに不可解なことは、すでに述べたように、杉本の行為が不法行為であると認定されたにも関わらず、杉本が自らのブログで筆者を非難できなくなったことを皮切りに、今度は村上密本人がお出ましになって、自らのブログで筆者の権利を侵害したり、筆者を非難し始めたことだ。

もしも杉本と村上との間にいかなる共謀関係もないなら、なぜ村上は、杉本が当ブログをバッシングしていた間、ずっと沈黙していたのであろうか。なぜ杉本に賠償が命じられるや、長年の沈黙を破って、過去の記事について批判を始めたのであろうか。

こうした事実は、筆者の疑惑をますます深めるだけである。筆者から見れば、杉本は村上の思惑を忖度して行動していたに過ぎず、黒幕は杉本ではない。だが、その杉本が口を封じられたので、村上は仕方なく自分で当ブログ執筆者を非難するしかなくなったのだと見られる。

これまで一度でも村上密のもとに身を寄せたことのあるカルト被害者や、村上の教会にいる信徒らは、こうした現象を、よく見ておくことである。自分も村上から内心ではこのような目で見られている可能性があることをよくよく覚えてもらいたい。

村上の宗教トラブル相談センターとは、このような場所である。学歴があろうと、教養があろうと、同じ教団で子供の頃から育って来た信徒であろうと、村上は自分に盾突く人間を、こういう目でしか見られず、こういう扱いしかできない人間であることを、読者はよくよく覚えて置かれたい。

仮に現時点で、村上が法的責任を問われておらずとも、杉本と一緒になって、信徒をこのように見下し、嘲り、罵り、信徒からの提訴を受ければ、反訴の脅しをかけて、口を封じようとしたことが分かりながら(自分の無実を主張するために信者に反訴の脅しをかける必要はない)、この牧師のもとに身を寄せたいと願う信徒はもはやいまい。

誰がこんな恐ろしい牧師のもとに信仰の相談に行きたいと願うだろうか。行く前に、当ブログに起きていることを参考に、よくよく考え直すことをお勧めする。

村上のメールは、まさに掲示板の誹謗中傷のレベルと同じだ言わざるを得ない。何よりも、杉本があれほど筆者を誹謗中傷している最中、牧師として、いささかも杉本をいさめず、怒りを解くよう説得することもなく、誹謗中傷をやめるよう戒めることもなく、かえって杉本と共に、原告であった筆者を嘲笑する側に立ったことは、村上の牧師としての資質を根本から疑わせる事実であり、今後、宗教界での村上の信用を完全に失墜させる行為であると言えよう。

これを読めば、村上は、日夜当ブログを誹謗中傷している掲示板とも無関係ではないのではないかという推測が生まれるのも致し方ないことであろうと筆者は思う。

このような現象が起きていることを踏まえた上で、読者は、なぜ今、村上がしきりに「サイバーカルト監視機構はない」などと躍起になって反論せねばならない必要性があるのか(しかも、村上が挙げているのは、筆者が何年も前に書いた記事であって、第一審の争点でもない)、今一度、よくよく考えてみられたい。
  
掲示板にも、村上の忖度信者が溢れているが、掲示板のコメント投稿者も告訴対象となっており、間もなく捜査が及ぶことになるので、ここにおいても、村上を擁護する者はいずれいなくなるであろうと見られる。

どんなに最初は取り巻きが多くとも、最後は一人の勝負である。神と人との前で、たった一人で立ちおおせる力が、果たしてこの牧師にあるのだろうかと疑問に思う。

 
2.「サイバーカルト監視機構はない!」と主張する人々による犯罪行為 へ続く 

2019/04/09 (Tue) 神の義なる裁き
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

さて、日曜はゆっくり休んで、週明けになると、風邪もどこかへ去っていた。
  
週明けから暗闇の勢力に対して、予定していた厳しい措置を実行する。被告に法的措置を取るため、書類をしかるべき機関に宛てて送付した。これで「命令」を「実行」するためのすべての書類手続きが整ったことになる。

これは判決を得た以上、避けて通ることのできない過程である。筆者が人生で初めて足を踏み入れる新たな厳しい領域だ。
 
訴訟で負けた人には、様々なデメリットが降りかかる。仮執行は控訴によって実行を遅らせることはできない。従って、判決によって抱えた債務は、早々に整理しなければ、社会的に多くの負の影響をもたらし、ますます増えていく可能性すらもある。

被告はかつて「一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」と書いていたが、その言葉は誰よりも彼自身に当てはまるものとなることを考えてみたことがあるのだろうか?

聖書には、
 
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

とある通り、自分が他者に対して憐れみ深く接した人には、憐れみ深い態度が返って来るが、それをしなかった者には、いずれ自分が他人に行ったことが、そっくりそのまま跳ね返ることになる。

バビロンの崩壊が、今始まった。
 
掲示板の読者は特にそうだが、これから被告に起きる事柄を、読者にはぜひしっかりと見ておいて欲しい。なぜなら、掲示板において、匿名で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている者たちは、自分にだけは決して追及の手が及ばず、自分には苦しみは降りかかることはないと高をくくっているのであろうが、人物が特定されれば、だれでも同じような末路を辿ることになるのだ。

被告の今日は、掲示板の投稿者の明白であるから、警告としてよく見ておいて欲しい。そして、天に唾すれば自分の顔に落ちるように、自分が他人に向かって吐いた言葉は、いずれことごとく自分に返されることの意味をよく考えてみることをお勧めする。

彼らは自分には報いが降りかかることがないと確信しており、筆者が凡人ではないという事実を否定して嘲笑しているようだが、学者という職業の人々は、もともと物事を徹底して追及することに慣れており、またその方法論を知っている。掲示板に対しても、被告に対するのと同じように徹底した態度で臨み、必ず、権利侵害に及んだ人間に対しては、実名を公表の上、責任を追及することを予告しておく。
  
* * *

さて、筆者は今、思い出すことがある。それは筆者がアッセンブリーに所属していた子供時代に、キャンプで初めて村上密を遠目に見かけたときのことである。

あの頃、筆者は中学生で、村上は「先生」と呼ぶよりも、子供好きな「お兄さん」という若さで、筆者よりも少し年上なだけの子供たちを楽しそうに引率していた。

それを見て、筆者は「若い先生のいる教会はいいなあ」と考えたことを思い出す。筆者の所属していた教会は高齢化しており、筆者は子供心にも、教会が高齢化していることに寂しさを覚えていたのである。

その頃、村上密がどんな活動をしているのか筆者は知らず、筆者から見れば、村上はただ単にアッセンブリー教団に属する教職者の一人の「若い先生」であり、まさかその後、現在のような状況が起きるとは、予想だにすることもなかった。
 
そのキャンプでは他教会の人々とは話すこともあまりなかったので、筆者は大勢の人々とにぎわいを楽しむということはなかった。その代わりに、聖霊の存在を知り、おそらくその時、洗礼の決意を固めたのではなかったかと思われる。

キャンプの終わりに、証しをしたい人は名乗り出るようにと求められたので、筆者は手を挙げて講壇に立ってマイクを握り、何か証しの言葉を語った。何を言ったかは覚えていないが、生涯、神様に着いて行くつもりだといった決意を語ったように思う。そのキャンプに連れていってくれた引率者の信者(日曜学校の先生)が嬉しそうに頷いていたことを思い出す。

家に帰って洗礼を受けると親に報告すると、深い感動が込み上げ、涙が出て来た。嬉しいというのとは違う。筆者に対する神の深い愛を感じ、その決意が、筆者の生涯を分ける決断になることを理解していたためである。

しかし、それから、家ではバトルが始まった。我が家の宗教は分裂しており、父はアッセンブリー教団にも疑問を持ち、子供を早くから教会に所属させることに反対で、そこで、当然、洗礼を受けることにも反対であったため、それを押し切って洗礼を受けるには極めて大きな代償が必要であった。

このように、筆者の人生には、子供の頃から、神に従うために、代価を伴う「エクソダス」の過程があった。ただ単純に信じますと言って、それですべてが成就するような安易な状況ではなかった。神に従うために、筆者はまず最初に、自分の家族の情愛や理解を、心の中で後回しにせねばならなかったのである。

その他にも、この世との別離もあり、子供としての筆者は、非常に大きな苦しみを耐えねばならなかったと言える。その上、筆者はアッセンブリーの教会生活には全く満足していなかった。教会生活そのものが苦痛に近いものだったと言っても良い。その当時の教会の様子について、改めて書く必要もないとは思うが、そこには大きな問題があり、真の信仰はほとんど見られない状況であった。筆者には、教会生活は人工的なもので、本物ではないという違和感が心に絶えずあった。

だが、その頃から、筆者は、教会と信仰は別物であって、死んだような礼拝とは別に、聖書の神御自身は生きておられるという確信が心にあった。そこで、教会生活がどれほど形骸化していようと、教職者がどれほど信用できない人々であろうと、そのことは筆者の内心に影響を与えなかった。むしろ、筆者はこれほど大きな代償と引き換えに、従おうとしている存在は、筆者の全自分を捧げるだけの価値のある方であって、筆者の人生は、その方のために聖別されて、とりわけられていることを知っていたのである。

筆者は子供の頃から、幾度か親に向かって、筆者の人生の終わりは必ず普通でないものとなるだろうという予測を語ったことがあった。それは決して非業の死を遂げるという意味ではない。ただ筆者なりに、神に従って生き、神に従って召されるという、殉教の予感であった。

だが、そういう決意も、大学生くらいになると散漫になり、ある時が来て、何もかもが一変するまで、筆者の生活は世人とほぼ同じであった。しかし、そのような生活をしている時でさえ、筆者は自分の人生の終わりは、完全に主のためだけのものとなること、自分のために何か特別な召しが存在するということを、心に感じることがあった。

そして、筆者に与えられた人生の最期の瞬間が来るまで、神の愛は余すところなく筆者に注がれているということをはっきりと感じたのである。

不思議なことに、殉教の決意などなく、信仰すらもあるのか分からない暮らし方をしていても、筆者は神を離れていたわけではなく、神も筆者を離れられなかった。従って、筆者は、自分が神を選んだのではなく、神が筆者を選んだのだということを、今でも確信せざるを得ない。人は、自分の歩みを自分で決めていると考えているが、それを決めておられるのは神である。そう考える他には説明できない、あまりにも数奇な事件が、筆者の人生には多すぎる。

さて、筆者の父親は、人間洞察力に関してはピカイチで、筆者の人間観察眼も親譲りである。(筆者は論理的な思考と冷徹な観察眼を父から、豊かな情感を母から受け継いだ。)

その後、筆者は2008年になって、他教会で起きたトラブルを解決する目的で、村上の教会に向かい、そこに親を呼んで村上と対面させたことがあった。

筆者の父が、その時に村上から受けた印象を後になって述べた。父はアッセンブリー教団の非や、キリスト教についての意見を述べる前に、村上と筆者では人間のスケールが合わないということを真っ先に指摘した。彼は言った、「あれはヴィオロンを相手にできる人間だと思わない。だから、すぐに(ヴィオロンの方から)離れて行くだろうと思った。実際にその通りになった」と。さらに言った、「初対面の人間に向かって、家族カウンセリングのために、実家を訪れても良いとか、やたら熱心に自分の活動や親切心をアピールするところに、かえってうさん臭さを感じた」と。

筆者はこの感想を聞いた時には、すでに村上の教会からもアッセンブリー教団からも完全に離れ去っていたので、この印象は正しいと感じた。そして、たった一度、1時間にも満たないくらいのごくわずかな時間、会話しただけで、相手の人間性を的確に見抜ける父の洞察力に感心した。

もちろん、それは世間知らずの若い牧師に比べて、この世でもまれながら生きて来た年長者としての正しい判断と知恵でもあったろうが、それ以上に、我が親族には、父に限らず、一人一人に、何かしら非常にシビアかつ不思議な観察眼が備わっている。
 
だだ、父というものは、やはり、自分の子供の人間のスケールを直観的に理解・把握していると言えるだろう。筆者のようなタイプの人間は、通常人に理解できる域をはるかに超えた、とらえがたい要素を持ち(これも親譲りだが)、これを理解し、受け止めるためには、並々ならぬ特別な資質が必要となる、ということを、父はよく知っていたのである。

だからこそ、村上密には、筆者のために何もできないで終わるだろうことを、父は最初から分かっていた。筆者のリクエストに応えるという形で、村上の教会を訪れはしたものの、村上が、自分は経験不足の未熟者でありながら、他人の家庭に僭越に口を出し、自力で他人の家庭を是正するために家族カウンセリングに取り組むなど、もってのほかだということを、よく分かっており、口にこそ出さなかったが、最初から全く相手にしていなかったのである。
 
それよりも、村上が他人の心を癒すこともできないのに、一体なぜ、何を目的として、信者に向けて熱心にカウンセリングなどを勧め、そこに家族までも巻き込んでいるのか、父はその真の目的がどこにあるのか、当初から非常に疑問に思っていたと語った。

それから後、村上の人間性は、今やすでに余すところなく明らかになっているので、言及する必要もないと思うが、筆者は時折、「ではどういう人間ならば、父の目に適うのだろうか?」ということを考えてみることがある。筆者の父は、信仰者ではないため、価値観は全く共有できないが、親として、この人間になら、子を預けても構わないという人物が現れれば、多分、一目でそれを見抜く洞察力はあるに違いない。

だが、それだけのスケールを持った人間とは、一体、どういう人物なのだろうかと、筆者は疑問に思う。そして、今のところ、地上のどの人間の中にも、筆者はそれほどの器を見つけたことがない。

筆者から見れば、日本人は特にそうだが、男性はあまりにもナイーブで傷つきやすすぎて、女性からの絶えざるサポートや励ましを常に必要としているため、非常に厄介で面倒な側面を持った存在である。

多くの男性は、自分が強くて、大きくて、頼もしい、懐の深い人間であって、か弱い女性をサポートできることを、心の誇りとし、自信とし、よすがとしているので、女性の方が自分よりも強いことが判明した場合、それだけで打ちのめされ、自分を否定されたように感じ、侮辱を感じ、憤ったりする。女性が自分を少しでも上回っていると感じただけで、もはや愛も消え失せ、憎しみだけが残ったりもするのだ。

それはちょうど多くの男性が、自分よりあまりにも身長の高い女性と連れ立って歩くことを嫌うようなものである。学校時代、筆者の級友の中に、190cmは身長があろうかという女生徒がおり、筆者はその人を容姿端麗だと思っていたが、彼女は色々な苦労があることを話してくれた。もちろん、自分に合ったサイズの服や靴を見つけるのに苦労するだけでなく、特に、男性からの妬みのような蔑み、嘲りがひどいと嘆いていた。

このように、ただ女性の身長が高いというだけでも、男性はコンプレックスを感じるらしいのだ。つまり、多くの男性は、すべての面で、自分が女性に優っていることを確認できなければ、それだけで、心傷つけられたように感じ、侮辱を感じる非常にナイーブな生き物で、少しでも自分が女性から「見下ろされている」と感じることに、耐えられないと言えるのではないかと思う。

筆者はこのことを考えると、多くの人々がこのようにまで傷つきやすく、心が脆弱で、自信喪失しているために、自分のあるがままを認められず、それゆえ、他者のあるがままをも認められない状態に陥っているということは、非常に不憫で気の毒なことであると思わずにいられない。

さて、心の身長などというものは、誰にもはかれないにせよ、筆者の場合は、たとえるなら、見えない心の身長は190cm以上(場合によっては、200cmくらい)あるかも知れない。だが、そうなると、そういう人には、世界が他の人々とは異なって見えるのは当たり前のことである。むろん、理解者が減って行くことも、同じ価値観を共有できる人が減って行くことも、当たり前のことである。

強い女性は、自分のスケールに見合った、自分を守り、かばうことのできる、より強い男性をなかなか見つけられないどころか、男性も女性も含めて、多くの人々から、いわれのないやっかみや差別を受け、かえって心弱い男性を守る側に立たねばならず、苦労することになる。自分よりも心弱い男性たちのプライドを考慮して、絶えず、自己の強さを発揮せず、弱いふり、かばってもらっているふり、気遣われるふりをせねばならない。

これは非常に大きな負担である。何をどう言ってみたところで、大は小をカバーできるが、その逆は成り立たないからだ。かばう側には立っても、かばわれることができないというのは、恐るべき孤独である。

だが、最近、神はそういうお方なのだということが分かって来た。神は私たちがあまりにも心のスケールの小さい人間であることをよく理解して、私たちのプライドを完全にへし折って、私たちが生きて行く気力をなくすことのないように、非常に気を遣いながら接している。強く、頼もしく、大きいからこそ、絶えず私たちの限界をかばうために、ひたすら忍耐して私たちにつきあうしかなく、時には私たちがあまりにも自分のちっぽけな心にこだわりすぎるのを見て、怒り、苛立ちながら、私たちが新たな一歩をやっと踏み出すのを待っていて下さる。これは途方もない忍耐だということが分かって来る。

さて、筆者の父は、人の人間的な器の大きさを直観的に見抜くことができる人だったので、筆者のような人間は、村上密のような人間に何とかできるような存在ではない、ということを確実に知っていたし、筆者もその通りだと考えている。

だが、これは以下にも書く通り、ただ単に人間のスケール云々という問題ではなく、私たちがそれぞれ何に立脚して立っているのかという問題を伴う。

村上と筆者の立脚点は、完全に対極にあり、それ だからこそ、この争いは、村上の勝利で終わらず、控訴審に持ち込まれたのであって、そこで一審判決は覆されることになる。理解ある裁判官が下した良識的な判断でさえ、神の目には完全でないため、覆されることになる。この争いに、決着をつけられるのは、神御自身である。

筆者は、神の完全なることを証明するために立たされた人間であり、その召しに立っていればこそ、主は筆者の願うことに応えて下さるであろう。

だが、このようなことは、筆者に限ったことではない。杉本徳久がかつて書いていた「干潟」に関する記事を思い出せば分かる通り、杉本も、かつて村上とは対立関係にあり、その当時に書いた、村上をほとんど偽預言者扱いせんばかりの記事を未だ掲載し続けている。
 
この「干潟」に関する記事で、杉本は、村上がカウンセリングを通して、人の心に溜まった「悪水」を抜けば、その人はハッピーになれると書き、自分の活動を、干潟を埋め立てる公共事業にたとえて自画自賛していたことを痛烈に批判し、干潟は断じて人の心に溜まった「悪水」などではない、村上は初歩的な思い違いをしている、と非難していた。

まさしくその通りなのである。

もしかすれば、地上には、一人くらいなら、筆者よりも強く、懐の深い、頼もしい存在はいるかも知れないし、あるいはそういう人々は、十人か百人くらいはいるのかも知れない。そういう人々によりかかれば、筆者の重荷は軽くなり、筆者はより悩みなく生きて行けるように思われるかもしれない。

だが、筆者は、誰か自分よりも頼もしい人間によりかかり、支えられ、理解され、慰められて生きたいとは全く思わず、それが幸福だとも感じないのである。

仮に肉の父の目にかなう人間が十人、百人いたとしても、天の父の目にかなうのは、御子ただお一人だけである。

従って、筆者は他のすべてのものと引き換えにしてでも、ただ真に完全で価値のあるものだけを掴みたいと願っている。

筆者が何を言おうとしているかと言えば、私たちにとって、孤独や悩み苦しみは、取り除くべきものではなく、それ自体が、神に通じる十字架の道だということである。誰か孤独や悩み苦しみを埋めてくれそうな人間に手を伸ばせば、手っ取り早くそういうものは、なくなるように思えるかも知れないし、それこそが人間の幸福のように考える人々がいるかも知れないが、それは根本的な誤りである。
  
そこで、子供の頃、キャンプで遠目に他教会の子供たちの楽しそうなにぎわいの様子を見たときのことを思い出すにつけても、あの時、あの孤独の中にあって、まことに良かったと筆者は考えている。

あの時、村上とその教会の人々は、筆者から見て「対岸」のようなところで、陽気に楽しんでおり、筆者は、こちら側の岸で、自分たちの教会には若い人々が少なく、子供も少ないので孤独だと感じていたが、それは何ら嘆かわしいことではなく、まさしくそれで良かったのだと思わざるを得ない。

これは筆者の所属していた教会が正しかったという意味でもなければ、アッセンブリー教団を肯定するものでもない。ただすべての状況の中に、神の御手が確かに働いていたということに過ぎない。

その頃から、筆者には様々な重荷、様々な孤独、言い知れない苦悩があったが、筆者は、そのようにして、世から取り分けられたことは、非常に良いことであったと考えている。

投獄されたパウロなどは言うに及ばず、ガイオン夫人も、ウォッチマン・ニーも、すべての信仰の先人は、必ず望むと望まざるとに関わらず、不思議な状況の巡り合わせによって、世から分離されるという過程を辿ったのである。

そこで、自分が孤独や苦しみとは一切、無縁の、心の「悪水」などとは一切関係のない、絶えず楽しそうなにぎわいの中で騒いでいられる「あちら側の人間」の一人であれば良かったのにとは、筆者は全く思わないのだ。

人のにぎわいからは離れた静寂の中に、神の選びと、愛に満ちた眼差しがあった。死んだような教会、心の通わない信徒の交わりとは別に、神は確かに筆者に対して、筆者自身の心の願いにこたえて、個人的に語りかけ、働いて下さった。むしろ、そのような環境があったからこそ、主は筆者に応答して下さったのだと言えよう。(これは断じてそのような教会にとどまり続けることを勧めるものではない。)

あの時、神ははっきりと、筆者にしか分からない方法で、あなたを選ぶとおっしゃって下さり、そのことを、筆者はすべての人たちの前で証し、そして、それが人生の極めて重大な一歩となって行ったのだから、それで十分なのである。筆者はとにもかくにも、見せかけでないもの、束の間でないもの、一番大切なもの、永遠に残るものを掴んだ。そして、筆者の心からの決意は、神に重んじられ、聞き届けられたはずである。

このように、神は常に人を荒野に導いて、ねんごろに語りかけられる。神が好まれるのは、見栄えのしない「干潟」であって、整然と整備された街並みとしての「公共事業」ではない。神は人の心にどれほど「悪水」がたまっていようと、そのようなことは決して障害とはみなされず、そのすべてを自分が受け止めることができるから、私のもとに来なさい、とおっしゃる。

むしろ、忌まわしいのは、神の目に、人が己を完全に見せかけようと、自分を飾り、自己浄化しようとして、自分には罪などない、悪水などない、問題などない、自分は聖い人間であって、豊かで、乏しいことはなく、むしろ、自分こそ、他者の問題を解決してやれる能力を持っているのだ・・・、などと己を偽り、思い上がりに陥ることなのである。
2019/04/09 (Tue) 神の国の働き人

短い短い休息のひと時であった・・・。

不思議なことだ。人間的な判断と、霊的な判断はしばしば大きく食い違う。判決言い渡しと共に解放感を覚えていたのは、筆者のあくまで人間としての感情、知性、判断であった。

心の深いところで、筆者の霊的な判断は、戦いがこんな中途半端なところで終わるはずがないし、終わってはならないことを的確に知って、大いなる拒否反応を起こしていたのではないかと見られる。

そこで、判決言い渡しの前日から引きずっていた風邪は、新たな一歩を踏み出すまでの間、日に日に悪くなる一方であった。
   
しかしながら、今週初めが来るまで、判決言い渡しと共に、事件は終了したものと考えていた筆者は、早くも事件の後処理をすべく、民事部にいくつかの書類作成を依頼し、事件ファイルの閲覧を申し出た。そこには、訴訟費用の計算という目的も含まれていた。

訴訟費用の計算は面倒で時間がかかる上、そこには弁護士費用などの大がかりな費用も含まれておらず、さほどの利益が見込まれないためか、裁判に勝っても、訴訟費用の確定をする人は非常に少ないという。だが、一応、ひと通りの手続きを学ぶ必要があるし、できることは時間のある間にきちんとやっておきたいと思った。

だが、筆者が晴れ晴れとした顔で記録閲覧を頼んだのとは対照的に、書記官はいささか顔を曇らせていたように見えた。

「訴訟費用の計算をしたいんですが」
「まだ送達が完了してませんし、判決の確定まで待った方が?」
「今の時点で見ておいた方がいいんで。後になると面倒なんでしょう」
「今はまだ記録の整理中で。しかも、控訴があるかも知れませんよ?」
「ないですよ」
「分かりませんよ、まだ」
「そんなのないですってば・・・」
 
筆者は、これまで書記官が常に裁判官の判断に忠実に従って動いて来たのを知っていたので、まさか書記官が控訴によって、裁判官の下した判決が覆されることを望んでいるわけでないことは理解していた。だとすれば、何が書記官の心にひっかかっているのだろうと、腑に落ちないものを感じた。
  
しかも、筆者は控訴を無意味なものとして一審判決を確定させるべく、早々に書記官に様々な書類作成を依頼していた。(これは被告が控訴しても全くと言って良いほどに利益がないようにするための措置である。)
  
ところが、4月1日に被告村上の出したブログ記事ですべての状況が変わり、思いもかけないことに、原告側から控訴を考える事態となった。その事情を電話で詳しく告げてから、再度、記録閲覧を申し出ると、書記官の表情が曇り後晴れになっていた。

もう一度記録閲覧に出向くと、再び緊張モードに入った筆者とは裏腹に、今度は書記官が晴れ晴れとした表情をしていた。そして、気前よく大量のファイルを出して来てくれた。

ちなみに、訴訟費用などは、実際に、全く微々たるものでしかないが、このようにほんのごくわずかな費用であっても、負債は負債に違いないと言える。従って、筆者は、このような負債が、たとえどんなにごくわずかであろうと、神の子供たちに負担として生じることは、絶対にあり得ないことだと理解している。

(なぜなら、キリストは私たちにとって不利な債務証書を、すべて十字架で破り捨てられたのであるから、私たちには債務というものが存在しないためである。)

そういう意味で、筆者は裁判官の判断に異議を唱えるつもりはないが、一審の判決は、霊的観点から見れば、必ず覆されることが前提とされているような内容だったと言える。

さらに、どういうわけか知らないが、筆者は訴えを出すときに、訴訟費用の負担を、仮執行の範囲から外した。なぜそうしたのか、今になっては理由がよく分からないが、そうしたことにより、実際に、現時点で、不法行為に問われなかった村上の訴訟費用の負担が、判決確定前に筆者にかかって来ることは決してないという結果が出ているのである。

従って、現時点で、筆者にはいかなる「債務」もない。こうしたことは、まさに神の知恵であるとしか言いようのないことである。従って、それにも関わらず、筆者が訴訟費用の計算をしているのは、いずれこれを被告ら(後の被控訴人ら)に請求するための備えである。
  
さて、控訴状を事件係に持って行ったとき、早速、訂正があると告げられ、見栄えにこだわりたかった筆者が、まだ日にちはあるので書き直すと言ったところ、係がいつになく断固たる表情で首を横に振った。

「いいえ、一か所くらいの訂正なら、今ここで訂正した方がいいです。とにかく早く出した方がいいですから・・・。これで十分にきれいですよ」
   
何だか抗いようのない口調であったので、筆者はそれに従うことにした。筆者は別にその日でなくても良いと考えていたのだが、付与された番号を見ると、まさにこの日のために特別に用意されていたような数字の並びで、天には今日でなくてはならない何かの事情があったのだろうという気がした。
 
その後、分厚いファィルに埋もれて、記録の閲覧謄写をした。筆者は書類の山に埋もれると、自分のことなど何もかも忘れてしまうたちで、朝からずっと様々な書類を作り続けて、その時まで、ほとんど何も食べていなかったことに気づいた。それに加えて風邪が追い討ちをかけた。
 
本当は判決言い渡し後、せめて一週間くらいは、ゆっくり休まなければならない。記録の閲覧など後回しである。だが、こういう事件の場合、そうも言っていられず、事件の記録を一つ一つめくっていると、様々な思いが込み上げて来て、思っていた時間をあっという間に過ぎ、5時前に急かされるようにして庁舎の外に出た。

車に乗り込んだ時、突然、ふとこの事件を担当してくれた裁判官の気配を、まざまざとそば近くに感じたような気がした。それはちょうどまるで筆者の目の間に、事件ファイルを持った裁判官が現れたかのようで、人間の常識を超えて、何か切迫したメッセージを伝えられたような気がした。

実におかしな出来事であった。裁判官は異動して横浜地裁にはいないはずであり、もちろん、筆者が記録閲覧したことも知るはずがなく、今ここで起きていることに関心を寄せる理由があるとも思えないが、一体、何かが起きたのだろうか・・・と筆者はいぶかしく思った。

理由は帰宅してから分かったような気がした。村上密のブログに、まさに筆者が裁判所を出る直前の時間に、早くも筆者が控訴したというニュースが投稿されていたのだ。
 
村上密が筆者の行動を、筆者自身よりも早く報道しているとは、驚き呆れることであった。しかも、彼が「完全勝訴」と書いた同日の夕方、3時から5時にかけて、裁判所の業務時間が終了するまでに残されたわずかな時間の筆者の動きを、これほど正確に知って素早く報道しているとは、実に奇妙かつ不気味なことである。
   
まさにジョージ・オーウェルの世界を彷彿とさせる出来事である。双方向のテレスクリーンには、「祖国を捨てた人民の敵ビオロン、本日夕刻、ビッグ・ブラザーを控訴!!」などという文字が踊り、テレスクリーンには、その他にも連日のように、筆者を人民の敵として告発するニュースが新たに流されている。まるでエマニュエル・ゴールドスタインさながらの扱いを受けている気分だ。

筆者が約10年前に、ビッグ・ブラザーの支配するあの国を、秘密警察の暗躍する全体主義国と呼び、そこから国外亡命を遂げてからというもの、筆者はあの国では、まさに祖国を捨てたゴールドスタインさながらの狂人・罪人として扱われているのだ・・・。

なぜ杉本ブログに賠償が命じられて後、また、掲示板が大々的に刑事告訴の対象とされて後、村上が自らのブログで、当ブログ執筆者の実名を公表したり、当ブログを名指しで非難する記事を次々と書き始めたのか、そこに、筆者の言う「全体主義国」の有様を、読者は伺い知ることができよう。

一審では、村上―杉本の共謀関係は立証されていないが、筆者はこのような結果となることを前々から予測していた。つまり、杉本による権利侵害は、杉本が独自の判断により、単独でなしたことでは決してない――というのが筆者の以前からの推測なのである。もしそうでなければ、村上は、杉本が自らのブログで筆者を批判できなくなったことを皮切りに、今度は自分のブログで筆者を批判し始めることは決してなかったであろう。

二人はメール文通も書証として提出して来ているが、その内容は、二人が完全に気脈を通じていると言えるものであり、さらに、杉本に賠償が命じられても、村上は決してそのことを報道しない。このことか分かるのは、つまり、村上には、杉本がしたことが許しがたい人権侵害であるという認識が今もって欠けているということである。

そして、杉本が果たせなくなった役割を担うために、村上はずっと何年も前から当ブログに掲載されていた記事について、今になって自らのブログで批判を展開し始めたのである。(だが、村上が書いている控訴以外に関する記事については、おそらく刑事事件等の捜査が進み次第、筆者の主張の裏づけとして、証拠を提示しながら書いて行くことになろう。)
 
さて、話を戻せば、おそらく裁判所の関係者ならば、事件番号が付与された時点で、リアルタイムで控訴の情報を把握することは可能であろう。

だから、裁判官も(村上の記事はさておき)、控訴のことを知っていておかしくないと思われるが、書記官の態度を見る限り、裁判官にも、きっとこの控訴が、判決内容を不服としての控訴でないことくらいは、十分に理解してもらえるだろうと思う。むろん、二審の裁判官にもそれが分かるように、理由書をきちんと作成する予定である。

裁判官には、法的根拠に基づいた判決しか出せない。そこにはいささかの情も込めるわけにはいかないし、事実と異なる事柄や、推測に過ぎない事柄も書けない。しかしながら、彼らにも人間的な感情はあって、それは必ずしも、法的な解釈に沿うものとは限らないのだ。

しかも、一審でこの事件を担当してくれた裁判官と書記官の二人は、筆者が口頭弁論の際に、被告杉本・村上の双方から、提訴・反訴・控訴の脅しを受け、被告杉本からは徹底的な誹謗中傷を受け、どれほど二人から見下され、蔑まれ、踏みにじられていたかを、実際に、その目で見て知っている生き証人のような人々である。

さらにもっと言えば、被告杉本は、一信徒に過ぎない筆者を、宗教指導者と呼び、まるで筆者が魔女か何かででもあるかのように形容した書面を提出して来た。杉本が提出した準備書面は、杉本が公表したブログに輪をかけて、筆者に対する恐ろしいほどの誹謗中傷に満ちており、こうした常軌を逸した内容の書面は、裁判所の関係者の目に触れたのである。
 
裁判官も、書記官も、裁判所の権威を守る側に立っているので、誰かが判決に異議を唱えることを自分から望んだりはしない。むろん、争いが長引くことを望んだりもしない。それでも、筆者は、この人たちに限らず、筆者を取り巻く、雲のような無数の証人たちから、「ヴィオロンさん、あなたはもう戦いが終わったと喜んでいるようですけど、本当にそれで満足なんですか。本当にこれがあなたの心から納得できる答えなんですか。これがあなたが命をかけてまで、立証しようとした内容なんですか。あなたは自分が目的達成できたなんて、本当に思っているのじゃないでしょうね。あなたは安全になったわけでなく、依然として、立ち向かうべき危機の最中にあるのに、まさか本当にこのような結果で、満足して立ち止まってしまうつもりじゃありませんよね・・・」と迫られていたような気がしてならない。

被告杉本からの控訴はあり得ないと、筆者は今も判断しているが(なぜなら、村上が完全勝訴したと宣言しているものを、杉本が控訴すれば、かえって敵に判決を覆すチャンスを与えることになるからである)、そのこととは別に、筆者自身が戦うことをやめて立ち止まってしまうことに対し、無言の警告が投げかけられていたように思う。

ここで立ち止まることは、妥協であって、偽りの平和への安住であって、それを選べば、たとえ被告から控訴がなされなくとも、あなたは遅かれ早かれいずれ死へ向かうだけだと。

だが、そのことは、誰よりも筆者自身が霊の内でよく分かっていたと言えよう。筆者は人間的な判断としては、この成果で十分だと考え、それ以上、争いを続行する理由もなかったので、ひとまず戦いは終わったと喜んでいたが、その心情とは逆に、日に日に具合が悪くなって行ったことが、人間的な観点から見る事実と、霊的事実がいかに異なるかをよく示している。

筆者がようやく食べ物をまともに口にできるようになったのは、控訴状を出し、さらに刑事告訴の具体的な相談を警察と始めてからのことであった。

今では被控訴人となった村上密の内心が、まずはブログを通じて、余すところなくぶちまけられるのを待つのみである。まずは隠れていた事柄が明るみに出されなければならないためである。
 
筆者は、この道は、筆者が考えているよりもはるかに長く、ずっとずっと先まで続いていることを思い知らされている。人間的な休息は、霊的停滞をしか意味しないのかも知れない。
 
こうして、筆者はお世話になった民事部を後にして、人生で初めて得たまずまずの判決をも後にして、さらに遠くへ歩いて行こうとしている。たった一人で、どこまで歩いて行かねばならないのかも分からないが、待ち受けている何もかもが、見知らぬ世界なわけではない。

いずれにしても、すべては天の采配である。ここで立ち止まってはいけないのだと、筆者は警告されている。塩が塩気を失えば、誰がそんなものに注意を払うだろう。心から望む通りの目標に達するまで、代価を払うことをやめてはいけない。もっともっと深く井戸を掘りなさい。もっともっと高く、遠くまで歩いて行きなさい。リスクを取って自分の十字架を負い、日々、主と共に戦い抜いて、勝利と解放を勝ち取る姿あってこそ、人々からも、真の意味での理解や尊敬を勝ち得ることができるのだ・・・。
 
どうして女性が一人で戦わなければならないのか。筆者はこの深い井戸から何を汲み上げようとしているのか。筆者が争いのために争いを起こしているわけでないことは、今後の一連の記事の中でも、説明して行かねばならないし、きっとそれは可能だろう。

というよりも、筆者は己が利益のためにここに立っているわけではないのだから、この仕事を貫徹するのは、筆者だけでなく、神のなさる仕事であると考えている。これは主との共同作業である。そうである以上、この先は、もっと多くの気負いを手放して行かなくてはならない。そうでなくては、各種の重荷を負いつつ、軽快な足取りで先に進んで行くことはできないだろう。

ここではっきりと断っておきたい。二審で出る結果は、筆者からいかなる負債をも将来に渡ってまで完全に取り除くものとなるであろうと。たとえ数千円に満たない被告1名の訴訟費用であろうと、残らずそれらは取り除かれる。

今、筆者がせねばならない仕事は、この事件に限らず、目には見えないが、うず高く筆者の机の上に積み上げられた悲痛な嘆願書を、次から次へと処理することだ。これが筆者の「お仕事」なのだと、今は非常によく分かる。週末も、作成せねばならない書類が山積みだ。

かつてできるだけ見栄えの良い履歴書を作成しては、何とかして人々に良い印象を与え、誰かから出来合いの仕事を与えてもらおうと奔走していた頃は、こんな仕事が存在することに、心を留めたこともなかった。

誰からも振り返られず、打ち捨てられていた、目に見えない訴えを取り上げ、それを悪魔と暗闇の勢力を打ち破るために、大いなる武器として行使する。誰も述べなかった新しい言葉を述べて、社会をよりよく変える起爆剤とするために、戦いの武器として行使する。これは心から意義があると言える敬服すべき有益な仕事だ。

そういう仕事が、一つ着手すると、次から次へと入って来る。そして、どういうわけか、戦い続行するために必要な材料も、自然と向こうから集まって来る。

今、筆者が「干潟」にとどまって掘り起こしているこの「仕事」には、はかりしれないほど深い意義がある。そうである以上、その仕事を果たすための前提は、神が整えて下さるであろう。そもそもそれがなければ、筆者は第一審の判決にたどり着くことさえ不可能だったのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。

わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さを意味のないものにする。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
 
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:18-25)

  
判決というものは、言い渡されてすぐに確定するわけではない。
ちょうど熱して熔けた金属が鋳型に注ぎ込まれてから、徐々に冷え固まって行くように、時と共に確かな動かせないものとなって行く。

判決が動かせなくなるまでには期限がある。従って、これを変えたいと思うならば、固まってしまう前に行動を起こすことが必要である。

村上密は、判決正本が届いたのか、その内容を知るや否や、早速、ブログで自分は勝訴した、原告は敗訴したと、得意げな記事を綴っているようだが、判決の確定前にそのようなことを断定するとは、何と軽率かつ気の早いことだろうかと思わざるを得ない。

世では判決内容を不服とした控訴は無数に行われているが、裁判官が権威を持って宣言した内容を覆すためには、よほどの理由が必要であり、新たな証拠の提出等がない限り、ただ内容が不服というだけでは、控訴が受け入れられる見込みも薄く、事実認定を覆すことは困難で、心証が悪くなるだけだ。

そこで、筆者は裁判官の判断に異議申し立てをするつもりはなく、とりこぼした内容は新たな訴訟でカバーしようと考えており、今回、村上密が4月1日の記事を投稿しなければ、この判決は、少なくとも村上に関する部分は、確定していた可能性が高かったのである。

ところが、村上が早々と勝負は終わったと考えて、早速、当ブログ執筆者を標的に、個人情報を記して批判記事を投稿したことにより、すべての事情はガラリと変わった。

やはり、高慢は破滅に先立つという、聖書のあの御言葉は本当なのであろう・・・。

村上はあとから記事を書き変えたようだが、一旦、投稿した実名入りの記事は、あっという間にあらゆる検索サイトを通じて、全世界に拡散してしまった。むろん、掲示板等でも報告がなされ、おびただしいほどの数の証拠があるが、たとえば、書き変え後も、検索結果はこのようであった。



さらに、村上密は当ブログからの言及を知って慌てて内容を変えたのか、被告杉本徳久の名前も一時は公開していたようである。いずれにしても、覆水盆に返らず、である。



通常は、判決言い渡しがあったからと言って、早速、意気揚々と「勝ったぞ!」という趣旨の記事を投稿することは控え、しばらくは相手方の出方を静かに待つであろうが、このような軽率な記事を投稿したことが、あだとなって自身に跳ね返ることになったのである。

村上は今も自分はA43ページの準備書面しか提出せずとも、本人訴訟に臨んで勝ったのだから、それで良かったのだと、今回のことをまるで大いに自らの手柄のように吹聴する記事を投稿しているが、今回の訴訟で真に奮闘したのは、主イエス・キリストだけを弁護人として、複数の訴訟に直接・間接的に関わったことのある二人の被告を相手に、彼らからの反訴の脅しにも屈さず、掲示板での日夜の嵐のような誹謗中傷にも負けず、一人目の被告にまずは勝利を果たした原告であると言えよう。
 
だが、牧師や教師は、常日頃から、生徒や信徒の成功を自分の手柄のように誇っているから、こういう話が作られるのは不思議ではない。他人の紛争を日々の糧として生きる弁護士という職業も、似たようなものだと筆者は考えている。

ちなみに、弁護士は元が取れない事件には気乗り薄なので、取りはぐれがありそうな場合には、本人訴訟を勧めるのは当然である。それは「あなたなら一人で戦える」という太鼓判ではなく、採算が取れないので自分はやりたくないという意思表示でしかない。

被告らは、控訴があった場合には、弁護士をつけると豪語していたが、筆者には、このような事件につく弁護士がいるとは、到底、考えられない。それでも「暮らし向きの自慢」をしようと、見栄を張って弁護士に依頼すれば、負ければその費用はすべて自己負担だ。負けなくとも、そんな高額な費用が帰って来る見込みはどこにもない。そこで、まずは先立つ費用の計算が必要となろう。筆者から見れば、訴訟物の価格に照らし合わせても、それはあまりにも馬鹿らしいことである。

筆者の見えない弁護人はイエス・キリストであり、この方は、信仰と誉以外には、筆者に着手金も成功報酬も要求されない。しかも、カルバリで悪魔を打ち破り、最強の敵を打ち負かし、これまで一度も負けたことのない世界で最も信頼できる、最強かつ名うての弁護士である。

被告らの弁護人は誰だろうか。掲示板で日夜誹謗中傷する者たちの信奉している世界で最も毒舌かつ詭弁に満ちた悪名高い弁護士、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)だろうか。

筆者は、被告とされた人間の恐るべき慢心と油断を見ても、やはり、神は生きておられるのだと考えないわけにいかない。

筆者は、判決を手にしたのは、今回が初めてであり、二審、三審を戦ったことはないが、かつてふとしたことから、東京高裁を訪れたことがあったのを思い出す。そこは、まさに省庁の庁舎というべき、どんよりとした陰気な建物で、地下に郵便局とさびれた食堂があり、そこにはげんなりするようなメニューが並び、死んだようなまなざしの職員が黙々と食事していた。(霞が関の庁舎はどこもそんな雰囲気だ。)

横浜地裁は、それとは比べものにもならない、活気に満ちた場所である。明るい光が窓から降り注ぎ、窓から海を見下ろせ、建物も新しく、きれいで、職員も活気がある。何もかもが新鮮で陽気だ。待合室も明るく、法廷の扉でさえおしゃれで、心を陰鬱にさせる要素は何もない。

もちろん、建物の外に出れば、観光地のように、しゃれた店が立ち並び、海風が吹き、秋には銀杏の葉がこぼれおちる。ここから筆者の訴えの記念すべき歩みが始まったことは、まさに象徴的な神の恵みだ。

だが、筆者の訴えはこの海辺の町から空高く飛び立っていく・・・。
 
* * *

さて、判決を受ければ、そこから新たな手続きを始められることは、すでに書いた通りだ。これこそ、通常人はほとんど足を踏み入れることのない、まるで悪魔が専売特許として来たような世界である。

判決を受け取ったからこそ、できること、これが訴訟の極意と言っても良いものと筆者は考えている。それは、いわば「命令」と「実行」が一つになる世界で、この二つを一つにする方法を知らなければ、判決には意味がない。

今、この手続きに精通しておくことは、今後、何かもっと大きなことのために、必ず、役立つ時が来るという確信が心にある。
 
そこで、筆者は今、司法という大きなビルの暗い地下室に降りて、基礎構造を一つ一つ確かめているところだ。一体、この建物全体の中に、どのような機能が備わっているのか、可能な限り、自分自身の目で確かめてみなければならない・・・。

ここからが、戦いのもう一つの側面、本番であり、腕の見せ所である。これまでさんざん筆者を嘲り、罵って来た人間の身には、苦難が降りかかることになる。その人が筆者に対して投げつけたすべての言葉が、その人自身に跳ね返るステージに入ったからである。

そこで、これから何が起きるのか、注目されたい。バビロンの崩壊が始まる。今は具体的に書かないが、手続きが進み次第、随時、過程を公開して行くつもりである。掲示板で日夜、誹謗中傷を重ねている人々は、明日には同じことが自分の身に降りかかるかも知れないため、ぜひ今後の参考にしていただきたい。

* * *

さて、エクレシアの一員としての筆者の人生に関わり、筆者を助けてくれる人たちは、まるで水面に浮かぶうたかたのように、常に新しいメンバーに入れ替わる。これは、固定的な人間関係ができないように、感情的な癒着が生じないように、主がなされていることである。

もちろん、今回の事件を担当してくれた裁判官も、筆者の事件のために、休日出勤までして奔走してくれた警察官も、役目を果たすや否や、すぐに慌ただしく去って行った。裁判官は、異動が決定したことを書記官を通じて伝達してくれた。それは嬉しい伝言ではあったが、筆者はどこへ行くのか、尋ねることもしなかった。もう会うことは決してあるまいと思ったからである。
 
ある部署のお世話になった警察官からは、これまで連絡が来るのはほとんど休日で(何しろ、筆者の事件は最後の順番で、休日出勤する以外には、事件を処理する時間がなかった)、いくつもの告訴状を受理してもらった経緯もあるが、ちょっとしばらく連絡が途絶えたなと思っていると、ある日突然、当直時間帯に、異動になるという旨の連絡が電話であった。
  
だが、そのような連絡が来ること自体が稀なのである。通常は、警察官は異動が決定したからとて、市民に事前に何も知らせてくれない。むろん、行く先も教えない。異動が発覚した後で、本部に問い尋ねても無駄である。(ほとんどの場合は、面倒な事件に異動先でまで関わるなんてとんでもないとばかりに跳ねつけられる。)

だが、お世話になったその人は、持ち前の真面目さからか、数日後に起きることをきちんと予告してくれた。本来ならば、会って別れを告げるべきところ・・・などと、まるで目上の人間に対するかのように、非常に丁寧な口調で、話を切り出した。

ところが、筆者はあまりにも突然の連絡に動揺し、そして、せっかく手続きが前に進もうとしている今、急に担当者がいなくなり、すべてが膠着状態に陥りはしまいかと、非常に不安に感じ、思っているままを口にした。

そして同時に、そのように自分が衝撃を受けて、言っても仕方のないことを口走っていることに驚き、そのように自分が他人を当てにし始めていることこそ、最大の危険であるから、神がこのように采配されたのは当然であると心に感じた。

その警察官とは、手続きがまだ押しても引いても動かなかった頃には、かなり緊迫したやり取りがあった。何年か前から署におり、数年前からの相談記録も残っているはずだが、当初は、何の信頼関係もなかったどころか、互いにまるでいけ好かない奴だとでも、心の中で思っているかのような、よそよそしい関係しかなかった。

(むろん、これはその警察官が筆者に不親切な態度を取ったという意味ではない。事件がなかなか前に進まないことに、筆者の側でも、当時、焦燥感を覚えていたということである。数年前まで、特定の職員だけでなく、この署全体が、筆者にとって、きわめてよそよそしく、近寄りがたい場所に感じられていた。それが変わるまでには、相当な時間の経過と、やり取りの積み重ねが必要であった。)

だが、今回の訴訟が提起されてから、そうした状況が変わり始めた。ある時、筆者はどうしても民事で警察に証言してもらわなくてはいけない必要性を感じた。
 
関係する別の機関へこの問題を相談したところ、「何ですって? まだ刑事事件としての捜査も終わっていないのに? 警察を民事訴訟で証人に呼び出す? そんなの前代未聞ですよ。裁判所が許可したとしても、どこまで証言できるかどうか・・・」といった、まさに予想通りの返事が返って来た。

実際に、その通りなのだ。そんな事例が過去にあったとも思えない。だが、その頃には、この問題について、それ以外の立証方法は思いつかなかった。
 
結果的に、警察を証人に呼ぶ必要はなくなり、他の手段が取られることになったのだが、その頃からであろうか、その警察官とも、以前ほど緊迫したやり取りはなくなり、むしろ、次第に互いのペースがつかめるようになった。

もしかすると、民事訴訟を起こしたことで、やっとこちら側の本気度が警察に伝わったのかも知れず、あるいは、証人になってもらうことをお願いした弱みのゆえに、筆者が以前ほど強く出られなくなったことが影響していたのかも知れない。

理由が何であれ、明らかに以前とは関わりが変わり、やり取りが円滑になり、互いに好感が持てるようになった。そして、その警察官こそ、他部署に連携を取って多くの事件を進める陣頭指揮を執ってくれた人であった。

体格の良いその人は、相談室の椅子に座ると、別の警察官が、その後ろをお茶を運んで通るスペースも残らないほどであったが、そんな様子も微笑ましく感じられた。

そして、筆者がそう思うようになった頃から、よく気のつく人だったその警察官は、筆者が気づかないうちに、様々なことで、筆者の必要を先回りして察知し、整えてくれるようになった。

最後にその警察官に会ったのは、2月に調書作成のために来署した時のことである。その時の調書作成には、困難が伴い、土曜日と日曜日の両日が費やされた。

筆者が取調室には入りたくないと言うので、調書作成は講堂で行われ、我々は一つの長机を挟んで、向き合って座った。

その時、些細だが、重要な気づきがあった。1日目に、警察官と筆者とが、講堂に並んでいる机の一つを挟んで、両側に座るために、筆者が自分の椅子の向きを変えると、その警察官は、筆者がそうしたことを覚えていて、2日目には、筆者がまだ何もしないうちから、1日目に筆者がした通りに、筆者のために椅子の向きを変えてくれた。まるで自分がそうするのが当然だというように、何の他意もなく、無意識的にそうしてくれたのである。

後になって、この出来事を思い出すと、そういうことは、もう随分前から――数ヶ月ほど前から――始まっていたように思われた。やり取りがスムーズになったというより、いつの間にか、筆者はこの人の「守備範囲」の中に入れられ、無意識的に、多くの配慮を受け、気遣われる立場になっていたのである。

そして、そうなったのは、筆者の方でも、きっと、似たような注意を払っていたからであろう。つまり、初めのうちは、電話連絡さえ満足に取れないギクシャクした関係の中、ひっきりなしのすれ違いが続き、どのようにして関わりを打ち立てれば良いかさえ分からず、途方に暮れていたが、ようやく互いのペースが理解できて、互いの仕事を邪魔せず円滑に進められるよう、無意識的に、配慮し合っていたからこそ、いつの間にやら、そこに同僚同士か、もしくは、身内のような、ある種の親近感と、好感情が生まれていたのである。

だが、もしかすると、それは何よりも筆者が、民事で証人になってもらえるようお願いしようとしていたことに端を発していたのかも知れない。そのような件があったために、その警察官も、筆者の陥っている状況を、他人事でなく理解するようになったのかも知れなかった。

だが、もともと身内でもなく、同僚でもない人々の間に生まれたこのような協力関係が、長くは続くはずもなく、実際に、民事での協力は必要なくなったばかりか、ようやくスムーズに連絡が取れるようになったかと思うと、すぐに終わりが来たのであった。
 
この警察官と最後に調書作成の作業をしていたその日、交わした会話は、印象的なものであった。筆者はその時、KFCの元信徒に関する刑事事件について尋ねられたため、この事件の概要を説明してから、言った、自分はかつて9年ほど前に、この事件に関連して、ある宗教指導者のために、警察で証人になろうとしたことがあると。

その頃、筆者は、KFCの元信徒ではなく、指導者の言い分が正しいと考えていたため、困っている宗教指導者のために、有利な証言をすることが必要だと考えて、依頼に応えて、管轄の警察署に行った。ところが、そこには、多分、来ているだろうと思っていた指導者の姿はなく、筆者が語る前に、すでに調書の台本までも用意されており、その内容も、宗教指導者の身の潔白を証明するという事前の約束の通りではなく、ただ単に、起きた事件の何もかもをすべて筆者のせいにかこつけて終わりとするような身勝手な筋書きであった。

しかも、警察が印鑑を持って来るようにと、前もって告げるのを忘れたために、指紋を捺印せよと言われ、筆者が渋っていると、「この調書に同意を断るなら、あなたのお友達が速やかに助からないかも知れないが、それでもいいのかね?」などと言われ、とんでもなく不愉快な思いをさせられて帰って来たのだと。

その当時、筆者はこの出来事のために、ペテンにかけられたような思いとなって憤慨し、筆者に助力を頼んだ宗教指導者に苦言を呈したが、さらにもっと驚くべきは、もっと後になってから、事の真相は、その指導者の主張とはまるで逆であり、むしろ、指導者に訴えられた信徒の発言に信憑性があったとみなさざるを得ない状況が生まれたことだ。それは筆者自身が、その信徒と同じような目に遭わされて、初めて分かったことだったのである。

筆者は言った、この事件は、筆者にとって非常に手痛い教訓となったと。その当時は、あまりにもその信者の置かれている状況が尋常でなく悲惨に見え、行動も常軌を逸しており、主張内容が荒唐無稽と感じられ、それに引き換え、宗教指導者には学識があり、常識的な立ち居振る舞いがあると見え、言葉も巧みであったので、筆者はおろか、誰もその信者の言い分の真実性を信じようとは思わなかった。ところが、事実はそのような見かけには全くよらなかったのである。

教養ある立派な宗教指導者の言い分が完全な嘘であって、狂言で自殺未遂を繰り返しているような常軌を逸した信者の言い分の方に、まだごくわずかに正当性があったのである。
 
そこで、この事件は筆者にとって大いなる教訓となった。それ以来、筆者は、決して人の見かけや、教養や、社会的地位や、言葉の巧みさによって、人を判断しようとは思わなくなった。そして、物事は常に、最も力弱く、蔑まれ、世間で無価値のようにみなされている人々の立場から見なければ、正しい判断ができないことに気づいた。むろん、そのような人々の言い分も、常に正しいわけではないにせよ、世の人々から拍手喝采を浴びる権力者や有名人の言い分を鵜呑みにすることは、さらにもっと恐ろしい危険である。

このように、人の見かけなど、何のあてにもならない。私たちは、他者がどんな人間であるか、内心を知り得ない以上、誰についても何の保証もできはしないのだ。神以外の者には、人の内心を見極めることなど決してできない。そこで、筆者は、金輪際、誰のためにも、証言などしようと思わないし、その代わり、筆者自身のためにも、誰にも証言を求めるつもりはない・・・。

はからずも、筆者は以上の話を、自分のために、民事で証人になってもらえるように自分から依頼しようとしていた警察官に向かって、直接、語ったのであった。その時には、まだ自分の語っている内容が、いかに以前の依頼と食い違っているかに気づいていなかったが、実はその会話には、深い霊的な意味があった。その当時は誰もまだ知らなかったとはいえ、その会話自体が、筆者とその人との間にようやく生じた協力関係が、間もなく明白な終わりを迎えることを示唆するものだったのである。
  
おそらく筆者は、神以外の誰にも、筆者のために、証人になってもらおうとしてはいけないのであろう。それにも関わらず、証人になることを誰かにお願いしようとしたこと自体が、ある種の危険をはらんでいたのだが、神は、筆者が気づかないでしたことについて、責任を問われることはない。ただ静かに、誰にも何の問題も生じないうちに、裁判官の判断を用いて、この提案を却下されただけであった(とはいえ、裁判官は代わりにきちんと別の措置を講じてくれた)。
 
その後、この問題で助力してくれようとしていた警察官も、筆者に命を与える判決を書いてくれた裁判官も、共に筆者の人生の外へ連れ出され(おそらくは直接的な関わりとしては永遠に)離れ去って行くことになった。(むろん、彼らもその後、一度は関わったこの事件の行く末を、関心を持って見守ってくれているであろうことを疑わないが・・・。)

こうした別離は、人間的な心情としては、決して歓迎すべきものではないが、その背後には、主の深い采配が働いていることを、筆者は思わないわけにいかない。筆者は人々から職務としての必要な手助けを受けることは許されるが、その関係は常に一過性のものであり、決して職務上の範囲を超えない。それを一歩でも超えて、誰かから恒常的に助力や情けを受けるようなことは許されておらず、そのような個人的な関係が芽生えそうになると、ただちにその人は筆者から遠ざけられる。表向きの理由は色々あるが、結局のところは、主がそうされていると筆者は考えずにいられない。
 
なぜなら、主の御心は、決して地上に肉なる団体を築き上げることにはなく、筆者の心を常に主以外の何者にも依存させないように、自由にしておくことにあるからだ。

それは、筆者が地上のどんなものにもとらわれず、完全に独立して自由な判断を下すために、欠かせない前提条件なのである。

神の助けを受けるためには、神以外の何者にも栄光を帰さない生き方、神以外の何者にも頼らない生き方を継続することが必要である。どんなに心細いと感じられる瞬間にも、誰にも頼らず、ただ神だけを信頼して、自分のすべてをかけて、御言葉に沿う正しい判断を自分で選び取って行ける心の自由さと、独立性が必要である。

もちろん、職務上の範囲を超えないうちは、助けてくれる人々を、大いに信頼しても良い。だが、だからと言って、私たちは、決して、その人々の判断に自分を委ね、彼らに自分に代わって物事を決めてもらうまでに依存してしまうことは許されない。キリスト者の人生は、基本的に、すべての試練や困難を、常に神と自分との二人三脚で乗り越えて行かねばならないというものだ。神を置いて、誰もその間に入り込んだり、先回りして、筆者を助けることができる存在はいない。どんなに親切で善良な人間も、どんなに経験豊かな人々も、決してまことの助言者なる神の代わりを果たすことはできないのである。

だから、人々がどんなに大きな働きをしてくれたとしても、その働きは一過性のものであり、それが重要な働きであればあるほど、彼らは役目を終えると足早に去って行き、その代わりに、また新しい人たちがやって来る。こうして周りの人々は常に入れ替わるが、神はいつまでも永遠に変わらない筆者の最も信頼できる助け手である。
 
そこで、訴訟についても、筆者は誰からも教えてもらうことなく、自分自身ですべてを一歩一歩、確かめている。宗教指導者という存在が必要ないのと同様に、弁護士などという存在も、筆者には無用である。

本当に、民事訴訟からは学ぶことが無限にあり、一審は、言葉に言い尽くせないほどの貴重な学びに満ちたものであった。それはとてつもない人生経験であったと言える。スリルと、ドラマと、感動があった。だが、筆者は、ここですべての学びが終わったとは考えていない。この「干潟」に秘められた可能性、この巨大なビルの中に隠されている宝は、この程度では終わらないはずで、できる限り、そのすべてを発見し、掘り起こしたいと願わずにいられないのだ・・・。

「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、

目が見もせず、耳が聞きもせず、
 人の心に思い浮かびもしあかったことを、
 神は御自分を愛する者たちに準備された

と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(Ⅰコリント2:6-12,15-16)

2019/04/04 (Thu) 神の義なる裁き

4月1日 補記

●村上密が本日投稿した記事に、判決の前提を覆す可能性があることについて

(村上は一旦、当ブログ執筆者に関する権利侵害に及んだ上、後になって該当部分を伏せたらしいですが、記事は保存してあります。検索結果にも残っていますね。まさか書き換えるとは思いませんでしたが・・・。

今回、村上が杉本同様の権利侵害行為に及んだ上で、筆者が以下の記事を投稿したことを知るや、記事を書き換え、「実名を伏せた」と追記していることを、読者は決して忘れないで下さい。
  
刑事告訴の対象になるとしたら、まさにこのような人格権侵害の記事であり、筆者の記事が論評の域を超えることはありません。筆者がこの記事で述べている事実には、杉本・村上が自ら書証として訴訟に提出した数多くの証拠の裏づけもあります。それについては随時、説明して行きます。


(以下は、権利侵害が行われていた時点での村上の記事について)

 考えて見ますと、村上密が4月1日にブログに投稿した記事「判決」は、今回下された判決を根底から覆す可能性のある内容のようです。


なぜなら、今回の訴訟で、村上が2009年にブログに掲載した当ブログ執筆者に関する2つの記事が、不法行為に当たらないと認定されたのは、そもそもそれらの記事で、著作者人格権の侵害(要するに氏名の無断公表)が行われていなかったことを前提とするからです。

判決文
pp.28-29
(3)被告らの責任について
ア 被告村上のブログは、それ自体「ヴィオロン」がブログで表明した意見ないし論評を批判するものにすぎず、その言及も「ヴィオロン」を対象とするものにとどまり、原告個人に関する事実を公表するものではない。<略>以上によると、被告村上は、被告村上のブログを通じて原告のプライバシー、名誉権及び名誉感情を侵害したとは認められない。よって、被告村上の不法行為責任を認めることはできない。
pp.47-48
11 人権侵害に基づく作為等の請求について
(1)ブログの削除を求める部分について
 <略>なお、被告村上に対する請求は、被告村上による人格権侵害が認められない以上、前提を欠く。

このように、村上は「ヴィオロン」に関する評論を述べただけなので、人物の特定もできない記事に人権侵害が成立する余地はない、ということが、今回の判決の大前提だったわけですね。

むろん、「ヴィオロン」が執筆しているブログに関して、氏名を公表するかどうか(著作者人格権)は、筆者自身に属する権利であるため、それを侵害する行為は、不法行為に該当し、さらに、そうして人物特定可能な記述を行った上で、その人物をブログで誹謗中傷すると、名誉毀損や侮辱が成立してしまう可能性が生じるため、杉本のブログ記事における人権侵害が認められ、一連の記事削除と賠償が命じられる結果になったわけです。

掲載当初はペンネームだけしか記していなかったために、人物特定が出来ず、人権侵害が成立する余地がなかった記事についても、後になって、著作者人格権を侵害して、人物特定可能な情報を自ら公開すれば、人権侵害の発生の余地が生まれ、内容が、名誉毀損又は侮辱に当たると判断される可能性がある、ということは、以下の文からも分かりますね。

p.30
(1)緒論
ア 以下においては、被告杉本が掲載したブログごとに、原告が主張する不法行為の成否を検討する。なお、被告杉本のブログのうち、「ヴィオロン」が原告であることを公表する前に掲載したブログ<略>は、いずれもその掲載当初は原告に関する事実を摘示するものではなかったが、被告杉本自身による「ヴィオロン」が原告であることの公表の結果、上記の各ブログの内容は原告が「ヴィオロン」としてしたブログの掲載や電子メールの送信に言及するものとなったと認められるから、上記の各ブログについても、原告に対する名誉毀損又は侮辱に当たるかを検討する<略>。

ちなみに、筆者がこの記事で、村上密の記事に言及していることは、決して自ら著作者人格権を放棄していることを意味しません。また、筆者が自ら訴訟を起こしたことも、筆者が筆名で執筆しているブログについて、被告らが勝手にインターネット上に氏名を公表したする行為を許したことにも該当しません。

ですので、仮に村上がそうした行為(人格権の侵害)を行いますと、村上の書いた「ヴィオロン」に関する記事は、人格権の侵害に該当し、さらにプライバシー権その他の侵害にも該当する可能性が生じ、今回、村上に対して下った判決が、次回の訴訟においては、完全に覆る可能性が出て来るわけです・・・。

分かっていて故意にやったのでしょうか。それとも、自覚がなくやったのでしょうか。リスクを知らなかったのでしょうか。理由は分かりませんが、次回の訴訟の時に本人に確かめてみれば良いことですね。
 

  
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これまでは静かに判決を待つため、あえて記事では言及しなかったのだが、これからしばらく、当ブログを巡る裁判結果と、掲示板で続けられて来た権利侵害について、総括を述べていきたい。まずはかいつまんで短い報告から挙げておく。
  
昨夜、村上密についての記事を書くことをひとこと欄で予告すると、早速、それからほとんど間をおかず、村上密のブログから、当ブログ執筆者の提起した民事訴訟に関するものと見られる記事(断定を避けるためリンクを貼らない)がアップロードされていた。当ブログのコメント投稿欄の隅々に至る記述まで、おそらく目を通しているものと予想される。少しでも不利な内容の記事を書かれそうだと察知すると、先手を打って行動しようとする素早さにはいつも驚き呆れる。
 
村上密は、記事で都合の良い部分にしか触れていないが、この事件では、当ブログ執筆者が、村上密と共にブログ『現代の風景 随想 吉祥寺の森から』を執筆する杉本徳久を名誉毀損等の不法行為で訴え、杉本には、3月27日に言い渡された判決において、当ブログへの名誉毀損・侮辱、著作者人格権の侵害が認められ、賠償請求が命じられた。かなりの数のブログ記事の削除と、決して少なくない損害賠償が認められたのである。

ところが、村上は記事で杉本徳久に記事削除および賠償請求が命じられたという判決の内容には、一切、触れていない。もちろん、杉本徳久との共同不法行為(杉本に対する個人情報の提供)の疑いが、当ブログ執筆者から村上に対する訴えの重要な部分の一つであったという事実にも触れていない。

村上は自分は不法行為に問われなかった、記事の削除も命じられなかったという勝利に満ちた部分だけを報告したいと考え、この記事を投稿したのかも知れないが、村上はこの記事で、筆者の筆名と共に、杉本徳久が幾度となく権利侵害に及んで公表した筆者の個人情報まで明らかにすることにより、牧師として今まで以上に致命的な行動に及んでしまった。

(むろん、こうした情報だけでは、当ブログ執筆者の著作者人格権の消滅とならず、人物の特定にも至りつく根拠ともならないことを読者に断っておく。村上があえて法的責任追及を逃れるためか、ブログ標題や過去記事にリンクを貼っていない手法も注目に値する。)

なぜなら、この記事の発表によって、村上密は、今後、自分を批判する信徒が現れれば、誰であっても、裁判等を通じて信者の個人情報を入手し、それを全世界に向けて発表する用意があることを自ら世に示してしまったからである。

はからずも、この記事の公表が、裁判結果とは裏腹に、村上密という人物の内心を余すところなく証明するものとなったと言えよう。

筆者が知っている限り、村上密はこれまで信徒の実名を挙げて批判記事を書いたことはなかった。従って、この記事は、村上がこれまでとは異なり、一線を超えて、かつて自分のもとに相談に来た信徒に対する批判を、個人を標的に可能な限り人物を特定して開始したことを明らかに示すものである。
 
読者はこの事実をはっきりと見ておいて欲しい。筆者は2007年から2008年にかけて、メールおよび実際に村上密の教会へ幾度も足を運んで、村上に対して他教会で起きたトラブルの相談を詳しく行った。しかし、村上を通じて事件を解決することはできず、筆者は疑問を持ったまま、村上の教会を離れ、2009年に筆者が村上密の活動に対して批判的になるや否や、村上はネット上で筆者および当ブログに対するバッシングの態度に転じたのである。
  
このように、村上が信徒を実名で批判する記事の投稿を開始している様子を見ながら、村上密のもとに宗教トラブル相談に訪れたいと考える信徒は、今後、おそらくほとんどいなくなる可能性が高いと見られる。

筆者としても、それは到底、お勧めできる行為ではない。読者に言えることはただ一つ、どんなにあなたに宗教上の悩みが生じたとしても、この牧師に個人情報を告げることはやめておきなさい。後々、あなたをも標的として、以上のような記事が発表されないとも限らないからです。カルト被害者たちは、みな相談の際に自分の個人情報を詳しく握られたことがあだとなって、相談した指導者らを批判できない状況に置かれているのです。

さて、今回の裁判では、幾度も断って来た通り、裁判官の異動という出来事も手伝って、審理を早期に終結する必要が生じ、杉本に対するおよび掲示板に対する刑事事件の真相究明も間に合っていないため、当ブログで最も解明したいと考えていたインターネット犯罪ネットワークの責任追及に関する立証は十分でなかったと言える。

従って、今回、村上密に対する共同不法行為の責任追及が行えない結果になったのは、何ら予想外の出来事ではない。
 
しかし、そのことが、決して、村上密が杉本徳久による不法行為に全く関与していなかったことの証拠になるわけではなく、一体、杉本徳久による当ブログ執筆者に対する権利侵害行為に、村上密がどの程度関わっていたのか、関わっていなかったのかという点は、今も不明なままであり、掲示板のコメントを対象とする刑事事件の進展も待たれる。
 
ただし、大きな成果であったと言えるのは、この訴訟の最中、村上が杉本と共に筆者を罵るメールを書証として提出して来たことである。それによって、両者の間でメール文通が行われている事実、さらに、村上が杉本と意気投合して、事実でないことを根拠に、筆者を罵っていた事実も発覚した。
 
村上が提出した準備書面や、両者のメール文通については、次回以降の記事で具体的に触れる。

さらに、村上は裁判の最中、筆者の側からはまだ何も言わないうちから、自ら当ブログ執筆者を非難した2つの記事の削除を申し出たが、途中で、記事を削除しないと自ら提案を翻した。

そして、何より重要なこととして、村上が口頭弁論の最中、杉本と一緒になって、筆者に反訴すると言い立てたことも、むろん、村上の記事では全く触れられていない。

筆者は反訴などするのであれば、その前に、村上から提出されたすべての書面を公開すると応酬したため、二人は筆者に対する反訴を行わなかった(結審後、もし反訴状が提出されていたとしても、それは裁判官が却下している)。

そして、昨日まで、筆者は一つたりとも村上・杉本の実名入りで判決に触れる記事を書かなかった。ひとこと欄で、筆者が予告したのも、「ネトウヨが掲示板に書き連ねたコメントを引用して、村上氏に関する分析記事を書く予定」という言葉から分かる通り、掲示板における村上に関する投稿をまとめるということだけであって、判決を公表するとは述べていない。

筆者は、先の記事で、判決文は大きな代価を払って勝ち取ったものであるから、公開するつもりはないと述べている(読む価値は十分にあるので、ぜひ読むことをお勧めするが、希望者は山下公園まで料金を払って見に行かれれば良いことである。)

そこで、以上の投稿記事は、あくまで村上が先に判決の公表に及んだものであることも強調しておく。
 
いずれにしても、今回の村上密の記事の発表を通しても、読者は村上、杉本の両名が、これまで信徒の裁判に関係することにより、信徒の個人情報を入手しては、それを使って、自らに批判的な信徒を非難する(もしくはコントロールする)材料として利用して来た様子を伺えるのではないかと思う。

村上は、当ブログ執筆者が個人情報の公開を望んでいなかったにも関わらず、杉本徳久から執拗に個人情報を公開され、プライバシー権の侵害を受けたと主張したことが、判決で認められたにも関わらず、あえて以上の記事に公表に及んだ。
 
また、今回の裁判では、杉本徳久が、かつて2013年に杉本が坂井能大牧師を訴えた裁判において、唐沢治を通じて書証として提供された筆者のメールの内容から、筆者の個人情報を入手したと自ら述べた。(むろん、杉本はそれ以前から、筆者の個人情報の入手に及んでいた。)

こうした事実は、杉本が裁判を通じて、信徒の個人情報を入手した事実を物語っている。杉本がかつて自らのブログで、ネット上で個人情報を明らかにせずに情報発信していたカルト被害者に対して、個人情報を明かすよう要求していたことも興味深い事実である。
 
(なお、今回の裁判で、杉本徳久は、裁判以外の場でも、唐沢治にメールで接触し、当ブログ執筆者の個人情報を入手したことおよび唐沢が杉本の要求に応じて筆者の情報を杉本に提供したことを、唐沢とのメール文通を書証として提出することにより明らかにした。

むろん、唐沢治は、KFCの指導者として、当然ながら信徒に対して守秘義務を負っているはずであり、筆者は唐沢に裁判へのメールの提出を許可した事実もなければ、杉本への情報提供を許可した事実もない。

そして、唐沢治が、現在、自らの行為を正当化するために、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」と主張していることも、強調しておかねばならない。
  
なお、唐沢治は2010年に杉本徳久に自らへの権利侵害を理由として民事提訴を予告していたが、後になってから、その提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るための提訴予告であったかのように主張をすり替え、杉本に対して、筆者の実名が公表されていないから、提訴に及べなかったのだと筋違いの弁明をして、提訴予告を実行しなかった責任があたかも筆者の事件にあるかのように弁明していたことも、強調しておかねばならない事実の一つである。
 
唐沢には、一方では、KFCで「クーデター」があったことを自ら認めながらも、他方では、それが事実でないかのように主張して、筆者が記事で主張しているKFCで起きた事件の記述が嘘であるかのように主張しているという自己矛盾も存在する。この問題についても、また追って詳しく記述することにしたい。

このように、唐沢治も、多くの点で事実に反する主張を行っており、当ブログ執筆者を杉本と一緒になって非難し、かつ、杉本と情報交換して来た経緯があるため、今後、村上密と並んで、当ブログに関して非難記事を数多く投稿する可能性が十分に考えられる人物の一人であると言えよう。)
 
このように、2012年頃まで(ちょうど筆者がKFCにいた頃まで)は、唐沢は杉本に提訴予告をしており、杉本と対立関係にあったが、2013年に杉本が坂井能大を裁判で「勝訴的和解」により打ち破ったことにより、坂井を支援していた唐沢治も、共に杉本に敗れ、杉本との対立関係を解消するに至ったものと見られる(唐沢治はこの裁判の当事者ではないが、いわば、杉本が両名を打ち負かしたような恰好となった)。それ以後は、唐沢は杉本と一緒になって当ブログ執筆者を非難・中傷する立場に転じた。
 
杉本は、このように、自らが訴えられたために訴訟に関わったけでなく、自ら裁判を起こすこれによって、自分にとって不都合な発言を行う信者や宗教指導者を沈黙に追い込むことに成功して来た経緯がある。訴訟では不敗記録を更新し続けていたとのもっぱらの噂だが、少なくとも、当ブログ執筆者が杉本に不法行為で賠償責任を負わせたことで、その記録には終止符が打たれたと言えよう。

さらに、興味深い事実として、今回の裁判では、杉本は「自分はカルト被害者救済活動などしていない」と主張していたことが挙げられる。杉本は「カルト被害者救済活動」という言葉を否定するだけでなく、カルト被害者を支援するために裁判に関わっていた(傍聴・報道していた)事実すらも否定した(はぐらかした)のである。

そこで、筆者は杉本のブログから、実際に杉本が被害者を支援するために発表した数々の記事を、杉本がカルト被害者の裁判をブログで取り上げることにより、支援していたことの証拠として提出した。

このように、杉本はかつて自分が理不尽な訴訟で訴えられた経験から、カルト被害者が起こした裁判を放ってはおけないと、被害者の裁判に応援のための傍聴を呼びかけたり、自ら傍聴に駆けつけたり、盛んにブログでアピールしていた事実があるにも関わらず、今回の裁判では、自分がそうして被害者を支援してきた事実さえも、ないがごとくにとぼけるか、もしくは否定する立場に転じたことを強調しておかなくてはならない。

あれほど「被害者のために」と公然と訴え、被害者の権利回復を自らの信念のように掲げて活動していた人間が、「カルト被害者救済活動」に関わっているとみなされると不利な立場に置かれるかも知れないとなると、途端、被害者の裁判に関わった事実がないかのように、被害者を切り捨てるような主張をしたことに、筆者は心底、驚かざるを得なかった。

そこで、今後、筆者の提起した事件に対して、杉本徳久がどのように対処していくかという事実を見ることによっても、我々は、杉本という人物の内心を明らかにする大きな手がかりを得られることであろうと思う。自分自身も裁判を利用して他者を打ち負かしておきながら、自分にとって不利な判決だけは、認めない態度を取るのかどうかだ。
  
筆者は今回の判決を非常に妥当なものであるとみなしているため、誰かがこの判決に抗ったとしても、覆せる見込みはないであろうと考えている。そして、そのようなことが起きないための手立てを早急に始めているところである。
   
さて、村上が今回の裁判において、提出してきた準備書面は、毎回、A4たった3ページといった長さのものであり、短い時間でワープロ打ちしたようなその軽い内容は、これまで「訴訟のエキスパート」として知られてきた牧師には、あまりにもふさわしくないと思われるような、拍子抜けする印象のものがほとんどであった。

さらに、村上は自分がどの準備書面を提出したのかさえ覚えていないこともあり、そのことからも、この裁判をあまりにも軽視している(もしくは筆者を侮蔑している?)様子がはっきりと伝わって来た。また、杉本徳久の行為を、村上が当時、名誉毀損と認識していなかったことも、村上と杉本と一緒になって筆者を罵ったメールの内容からも明らかであった。
 
このように、村上には(自分を批判した信徒憎しという感情のためか)、法的根拠に基づいた客観的で公平な認識が当初から欠けており、杉本のしている行為に対して、現実的な判断が下せないでいたことは、筆者にとっても実に驚きであった。

以上のような事実および、判決の全体をきちんと踏まえず、自らにとって都合の良い点だけをかいつまんで説明しているという意味で、村上の記事は、今回の事件を公平かつ客観的な観点から分析したとは、到底、言い難いものである。

こうした記事内容の偏りだけを取っても、いかに村上が、杉本が賠償責任を負わされた現在になっても、未だに杉本徳久をかばう立場に立って情報を発信し続けているか、また、都合の良い偏った観点からしか、記事を書いていないかという事実がよく伺えると言えよう。
 
読者には、村上密のブログについては、そこに発表されている内容だけを鵜呑みにするのではなく、そこに書かれていない膨大な事実が存在することをまず疑ってみることをお勧めする。そして、この牧師が、自分を批判する者に対しては、約10年近い以前から、信徒であっても、容赦のない措置に及んできたことをよくよく心に留められたい。
 
さて、筆者はこの裁判を第一段階に過ぎないと考えている。今回の訴訟ではとりこぼした内容、もしくは、今回の訴訟で初めて明らかになった事実があり、それについては、今後の責任追及をしていかねばならない。この事件に関わってくれた人たちのためにも、今後、真相がどこにあるのかという情報を発信していくことは、当ブログの重要な仕事であると考えている。

だが、とにもかくにも、まずは村上が以上の記事を投稿したことは、彼の人格を全世界が判断するに当たり、非常に良い材料になったものと筆者は考えているし、当ブログを巡る大規模な嫌がらせ(権利侵害)がどこから来ているのかを判断するための重要な手がかりの一つになって行くだろうと思う。

杉本のブログに記事の削除と賠償が命じられたことによって、ようやく批判の舞台が村上のブログに移ったのである。当ブログを巡るバッシングは、2009年の村上のブログが最初のきっかけとなって始まっていることを考えれば、何らそれは不思議なことではない。

おそらくは、村上の信者を標的にした同様の行為は、今後も、何らかの形でエスカレートして行くのではないかと予想される。というのも、村上は自らのブログに、子供の頃から、親父に喧嘩の仕方を教わり、売られた喧嘩では、負けて泣いて帰宅することを許されず、「勝つまでやり直して来い」と言われ、負けたままでは、家に入れてもらえなかったと、繰り返し、記事に書いているからだ。

村上の行動パターンには、そうして父から教え込まれた喧嘩の教えがよく表れているのではないかと感じられる。「やられる前にやれ。」「やられたら倍返しにしろ。」「黙っているのは恥だ。負けることは許されない。」
 
もしもこうした筆者の予想が的中していれば、村上は鳴尾教会に対して執拗にいくつもの批判記事を投稿して来たように、今後、筆者と当ブログをも標的にして、おびただしい数の批判記事を投稿し続ける可能性も否定できない。

だが、仮にそうなったとしても、それも、村上密の人格を極みに至るまで明らかにするための、とても良い材料になると筆者は考えている。どちらにしても、隠れていた事実が明らかにされる行程が必要なのである。
 
幾度も書いて来たように、当ブログの目的は、批判をかわすことには初めからない。そして、筆者という個人が、ごくごく限られた権利を有するだけの取るに足りない人間であることを見ても分かる以上、誰がどれほどの誹謗中傷を筆者に向けようとも、それによって生じるダメージというものはごくごくわずかなものに限られている。

筆者にとって重要なのは、永遠に揺るぎない御言葉の正しさに生きること、神の国の権益を守ること、聖書の神の正しさを証明し、この方に栄光を帰することであり、筆者自身のこの世で過ぎ行く束の間の有様を必死になって保存しようとすることではない。そして、筆者がキリストと共にすでに十字架で死んで、よみがらされている以上、地上的な利益が失われることを恐れる理由は、筆者には何もないのである。

(どうして筆者がパウロのような生き方を勧めるのかを、読者には考えてみて欲しい。筆者は御言葉を第一として生きるためには、失われるべき利益を最初から神に捧げて、持たない生き方もあるものと考えている。)
  
そこで、批判を恐れることなく、これからしばらくの間、当ブログでは、今回の裁判を通して新たに発覚した事実について公表していくことにしたい。

その第一回目として、書きたいのは、杉本徳久・村上密の両名を被告とする裁判が、昨年末の12月に結審して、いよいよ今年3月の判決を迎える段階になってから、この数ヶ月間というもの、インターネットの掲示板で、当ブログへの夜昼を問わない、またとない集中的で激しい誹謗中傷が展開されたことだ。

こうした悪意あるコメントの投稿は、これまでにもなかったわけではないが、結審から判決言い渡しまでの期間、夜となく昼となく続けられ、苛烈を極めた。その掲示板は、もともと当ブログのために作られたものでもないにも関わらず(杉本徳久のブログを論じるために立てられたスレッドである)、当ブログだけが、そこで主たる標的とされ、筆者個人や、当ブログの記事の内容を徹底的に罵る投稿が、日夜、絶え間なく連続して続けられたのである。

そうした投稿内容の大半は、杉本徳久・村上密の唱えた説に深く共感し、筆者は訴訟に負けるに違いないと断言して、筆者を嘲笑い、誹謗中傷するものであり、筆者が当ブログに新たな記事を投稿する度に、記事内容を剽窃しては、無断で転載する著作権侵害のコメントが、おびただしい数、投稿された。その執拗さと、常軌を逸した敵意の集中は、想像をはるかに超えるものであった。
 
さらに、特筆すべきは、こうしたネガティブ・キャンペーンと言うべき掲示板での激しい中傷の多くが、筆者がかつて村上密の教会に赴いた際に、村上に対して直接、個人的に相談した際に伝えたトラブル内容や、今回の訴訟において、両被告に送付した書面に記載した筆者の個人情報を利用して、それを材料に筆者を叩き、嘲笑い、中傷するものだったことである。

そこで、こうした事実を見るならば、今回の裁判結果とは裏腹に、杉本・村上を擁護する立場から行われたこの激しい中傷と権利侵害に、両名が全く関与していないと見るのは自然ではないと言えよう。

共同不法行為が行われたのかどうかを立証するためには、直接的な関与を証明する証拠を入手することが急がれるが、そうした意味も込めて、この事件は、まだまだ最初の第一歩が踏み出されたに過ぎず、今後の解明が待たれる事柄が数多く存在するのである。

おそらく掲示板での悪質な書き込みは、判決の言い渡し前に、当ブログの評判を貶めることで、何とかして、判決によって、杉本・村上に及ぶダメージを少しでも最小限度に押さえることを目的としていたのではないかと見られる。

つまり、両者を日頃から支持して来た人たちが、筆者を集団で誹謗中傷し、精神的に圧迫することで、当ブログを閉鎖に追い込むことができれば、訴訟の結果が世間に知れることもないと考えて、予防策を張ったものではないかと見られるのだ。
 
掲示板で行われている大がかりな犯罪行為(権利侵害)は、ことごく刑事告訴の対象となっており、判決の言い渡しと同時に、かなり沈静化した。やはり、杉本徳久に賠償が命じられたことが、他のコメント投稿者にも大きな影響を与えたものとみられる。

そういう意味では、この裁判には、至らない点もあったとはいえ、初めの第一歩としては、まずまずの成果であり、何よりも、犯罪の抑止力としての大きな効果を持つものであり、これまで集団的に行われて来た当ブログに対する大がかりな権利侵害にも、かなりの程度、(正当な)萎縮効果を与えるものであったと言えよう。
 
* * *

ところで、本日(この記事を書き始めた3月31日)にも、筆者がひとこと欄にわずかに2、3行、文章を付け加えただけで、早速、掲示板に以下のような文章を掲載する者が現れた。

この投稿者は、どうやら日曜日に筆者がブログを更新した行為を責めたいらしい。
 


筆者は何も騒いでおらず、ただこの投稿者が筆者が、2、3行ひとこと欄を更新しただけでも、それを許せず、針小棒大に騒ぎ立てているだけのことに過ぎない。同調者もめっきり減っている。

むろん、筆者の関係者は誰一人としてこのような掲示板を見てもおらず、このような中傷を鵜呑みにする人がいるとすれば、筆者も、そういう人と関わろうとは願わない。

だが、筆者があえて今、この稚拙なコメント内容を引き合いに出すのは、この主張内容が、杉本徳久が当ブログに向けた名誉毀損に相当する非難に酷似しているのみならず、主イエスが地上におられたときに、律法学者やパリサイ人が、主イエスのわざに難癖をつける時に使ったものと全く同じであることに、驚かざるを得ないからだ。

主イエスは、安息日に人々の病を癒され、数々の奇跡を行われ、とらわれ人を解放された。ところが、律法学者やパリサイ人たちは、それを見て、長年不自由にとらわれていた人々が自由にされたことを喜ぶどころか、「イエスが安息日に労働をして、掟を破った!」と非難したのである。
 
そこで、イエスは言われた、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4) 「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27-28)

クリスチャンには、主日に他人を誹謗中傷して罪を犯して良いなどという努めはない。従って、こうした投稿者は、自らクリスチャンでないと告白している上、主日に罪のない他人を罵ることで、主日を穢して罪を増し加えているだけとなる。

今回、筆者が起こした民事訴訟では、すでに述べた通り、精神異常に陥ってもいない人間を精神異常者呼ばわりする記事内容が、名誉毀損に相当することがはっきりと認定された。

こうした判断は、筆者の知る限り、刑事事件でも、民事でもほぼ変わらない。それを考えれば、以上の投稿に示されているような汚い言葉を使って、他者を誹謗中傷した場合、もしも人物特定が可能と判断されれば、それは名誉毀損に相当するか、どんなに少なく見積もっても、侮辱に該当するという判断が下される恐れは十分にあるのだ。

一つのコメントの中で人物特定ができずとも、他のコメントと合わせて人物特定が可能と判断されれば、名誉毀損が成立する可能性があることは、かつて唐沢治がKFCの元信徒を訴えた際に証明されている。その信徒は、心神喪失により不起訴になったが、刑事事件としての処理スピードはかなり速く、病がなかった場合には、まさにどうなっていたか分からない。

そこで、民事裁判の結果が出ているにも関わらず、以上のような投稿を続けている者は、最後には非常に重い罪に問われることになるであろうと予告しておきたい。もちろん、他者の公表されていない親族関係を暴いたりすれば、それもプライバシー権の侵害として扱われる可能性があるし、刑事事件で個人が特定された後に、民事で賠償請求の対象となることも考えられる。

このように行き過ぎた誹謗中傷が大目に見られるのはネット上だけのことで、現実世界では厳しい判定が下されて来た。万一、名誉毀損で刑事告訴が成立しているのに、同一人物が再犯を重ねていれば、当然ながら、情状酌量の余地も減って行く。

さて、この投稿者は「キリストを知るという知識の香り」についても、どうやら、何も知らないようだ。おそらく、「キリストの香り」と言えば、誰にとっても、甘く、芳しく、心地よい香りに違いないと決めつけているのだろうが、あいにく、聖書にははっきりとこうある。

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

つまり、「キリスト(を知る知識)の香り」とは、救われない者(「滅びる者」)にとっては、「死から死に至らせる香り」、まさに「腐臭」のようなものだと、はっきりと聖書に書かれてあるのだ。

従って、当ブログの記述を「腐臭」としか感じないと告白しているこの人間は、自分で「滅びる者」に属すると告白しているに等しい。

さらに、キリストに従う道は、人を寄せつけない「狭き門」である。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

この御言葉を考えれば、当ブログの信仰告白が、万人受けするものとはならないのは、当然であろう。それは筆者が「狭い門」を通過しているからこそのことで、まさに当然の結果なのである。それにも関わらず、万人受けする内容であることだけが、あたかも内容の正しさの証拠であるかのように主張するこの投稿者は、自分はまさに大勢の人たちが好んで入って行く「滅びに通じる門」に入る人間だと自分で述べているだけである。

哀れ、この投稿者には、何から何まで救いに至らない条件が兼ね揃っているのだから、自分で予告した通りの結果を辿ることになるだろう!

ちなみに、以上の投稿では、復活祭についても触れられているが、筆者は、今回の民事訴訟では、結審からきっかり3ヶ月間、判決を待った。この3という数字は、当然ながら、イエスの死と復活を表す数字である。

ちょうど判決が出たのが、復活祭を目前に控えた今の時期であったことも感慨深い事実である。

これは筆者にとって非常に重要かつ象徴的な「葬りの期間」であったと言えよう。原告であっても、生涯で初めて受ける判決言い渡しは、それなりに緊張を伴うものであり、いかに裁判官を信頼しているとはいえ、まさか笑顔で聞くというわけにいかない。

さらに、3ヶ月も判決を待つことには、それなりの苦労が伴った。だが、この待望の期間こそ、筆者にとっては、まさに主と共なる葬りの期間だったのである。

判決は筆者にとって、それほど予想と異なるものではなく、それは筆者にまぎれもなく命を与える内容であったが、筆者はまだその解放を、これから受けるのであって、今も葬りの期間は続いている。

このように、今年は例年よりもさらに意味深い復活祭を迎えることができた。

筆者は今年、文字通り、主と共に死んでよみがえる経験を、いつになく深いレベルで体験でき、また、今もその最中にあるのであって、このように感慨深い復活祭を迎えることを、心から主の恵みとして受け取り、喜んでいる(ただし、筆者は祝祭日を祝おうとは思わないが)。
 
従って、このことを考えても、以上の投稿がいかに的外れであるかよく分かろう。さて、裁判の総括は、次回以降の記事でするため、今回は短い報告にとどめておく。

裁判が終わると、色々とせねばならない後処理も残っているが、これからが正念場である。そうした手続きの一つ一つに習熟することは、将来起きうるもっと大きな戦いに対する重要な予行演習であると感じられてならないため、これも感慨深いことである。

2019/04/01 (Mon) 神の国の働き人

ウォッチマン・ニーは、信仰とは天の目に見えない預金口座から、目に見える形で預金を現金化することに似ているとたとえた。これを聞いて、何という現金なたとえだろうかと思う人もあるだろう。あるいは、「そんなことが本当にあるはずがない。あれば、誰も苦労しませんよ」と笑う人もあるかも知れない。

ところが、そういうものが確かに存在するのだ。それは、イエスがスカルの井戸で出会ったサマリヤの女に語られた、尽きることのない命の泉である。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

このいつまでも絶えることのない命の水の泉、多くの人は、これを単なる比喩か何かだと考えている。命の水、クリスチャンはこの言葉が好きだ。しかし、多くの信者は、本当にそのようなものが存在するとは信じていない。

ところが、それはあるのだ。これは信じる者の内側で起きる御霊の働きである。御霊が、私たちの内側で、まさにとめどなく溢れる命の泉としての働きをなすのであって、それは目に見えない霊的秩序、天的な圧倒的な支配力として、私たちに必要なすべてを供給する。

御霊の命を供給する働き、それは、何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)との御言葉にもよく表れている。

この命の泉から汲み出すためには、神の国と神の義を第一に追求して生きる必要がある。それは、筆者自身の言葉で言えば、ただ神を心から愛し、神に栄光を帰し、御言葉の正しさを世に証明するために、全身全霊を捧げて、実際に御言葉に生きることである。

私たちの神は、正しい方であるから、神を愛し、その戒めを守って生きるとは、言い換えれば、真実を愛し、正義を愛し、慈しみを愛し、公義を行うことだと言うこともできよう。今、これらの言葉の定義について、長く説明することはしない。

信仰によって、神の御言葉に従い、神が喜ばれる生き方をするために、身を捧げるとき、その人は、天に直接雇用される。そして、その人が生きるための必要のすべてが、この世の方法によらない、不思議な方法で天から与えられる。

このことが、聖霊による命の泉が人の内側から湧き出ることの意味であり、その泉は、ただその人一人が生きるためだけの必要を供給するのではなく、やがて洪水のように溢れ、周囲を潤すようになる。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

私たちは、この泉を開拓しなければならない。今、筆者が「干潟」にとどまってやっているエネルギー資源開発が、ちょうどそれに当たるが、このように、この世を超越した不思議な方法で、私たちはとめどのない命の流れを汲み出す秘訣を実際に知らなければならない。

当ブログでは、数年前からこのことについて書いて来た。つまり、馬車馬のように生きることをやめ、生活の心配から解かれたいなら、真に正しいと心から信じられる目的のために、自分のすべてを捧げなさいと。御言葉の奉仕者となるために、自分を完全に捧げなさいと・・・。

地上の団体に雇用されて月給をもらっていれば、どんなにその月給が多いように思われたとしても、それは決して一定額を超えることはない。それはいつも人間の予想の範囲を超えず、あなたの必要に応じて変化して、伸び縮みすることもない。

何よりも、その給与では、ジョージ・ミュラーのように、信仰だけによって、5千人の孤児を養うにはあまりにも少ない。すべてが人間の定めた決まり事であり、予想の範囲内から一歩も外に出ず、そこには何一つ不思議も奇跡もない。

だが、信仰によれば、人間の予想の限界を大きく超えて、無からとどめようのない命の流れを汲み出すことが可能なのだ。もちろん、最初からすべてが一足飛びには行かない。だが、あなたはもしも本当に信仰があるなら、ぜひともこの方法を開発しなければならない。そうでなければ、イエスを信じた意味がない、と言っても差し支えない。

さて、こうした結論を当ブログでは何年も前から述べ、また、一部、実際に実行に移しながらも、筆者は今まで、完全には御言葉の奉仕者として生きず、世俗の所属先をかけもちし、バビロン化した経済体系からエクソダスしても完了していなかったゆえ、この命の泉の汲み出し方がまだ十分には分からないまま、現在まで来てしまった。

だが、今や筆者は、資本主義からも、プロテスントからも、本格的に足を洗わねばならないと考え、この度、やっとそれを実行に移すことができたと考えている(これは冗談で述べているのではないため、嘲笑しないでいただきたい)。これらはともに「バビロン」という一つの宗教に組み込まれた複合的な体系なのであり、その呪われた体系の一員として生きている限り、決して人には自由はやって来ないのである。

筆者は長い間、この体系の一員であったので、今やこのバビロンが本当に破滅に瀕していること、早急にそこを出て、真に御言葉の奉仕者として、天に雇用されて生きることによってしか、この先、生きる道がないという時代が到来していることを心から確信している。

当ブログを嘲笑っている人々は、そのような生き方が可能だとは全く考えないだろう。彼らは、筆者がいたずらに自分を王妃エステルや預言者エリヤになぞらえているだけだと言っては、筆者の裁判を嘲笑い、当ブログの信仰の証しを嘲笑して来た。

彼らは、筆者の生き様がこの世の常識から外れているため、筆者はただ破滅に向かって進んでいるだけで、筆者がより頼んでいる神は、筆者を助け得ないと言って今も嘲笑っている。ちょうどノアが箱舟を建設していた頃、人々が彼を嘲笑ったのと同様である。

ところが、結果はどうだったであろうか。神は生きておられ、エステルのように死を覚悟して、筆者が目に見えない王の前に進み出たところ、王は金の笏を伸べて「生きよ」とおっしゃり、筆者に命を提供して下さった。

また、現在も、筆者は、バアルの無数の預言者の前に、たった一人で立ち向かったエリヤと同様、一体、どこからこんなに湧いて来るのかと思うほど、名も知れない大勢の人たちから、夜となく昼となく、向けられる非難や中傷にも、一人で勇気を失わずに立ち向かっている。

筆者のたとえを嘲笑する人々は、このようなことが、冗談でできるはずがないことを知らないのだろうか。

彼らは、自分たちが「バビロン王国」の一員であって、立派な所属先として「バビロン株式会社」に就職していることを誇っている。彼らにとって、それはかけがえのない輝かしいステータスであるらしい。ところが、その国にも、会社にも、やがて間もなく倒産と破滅が決定していることを彼らは知らない。それは沈みゆく泥船であって、その「会社」や「社会」に仕えている限り、誠実な人は、何一つ築き上げることができないのが現状である。

あなたは「バビロン株式会社」の社員として、毎月、雀の涙のような給与と、負いきれない多忙なスケジュールの仕事を任され、それに押しつぶされそうになりながら生きている。その会社は、強欲な幹部や役員らによって支配されているので、あなたの売り上げがどんなに伸び、あなたがどれほど優秀な働きをしても、あなたの給与が増えることはなく、あなたに課せられる任務は、日に日に重くなる一方で、休みさえ満足に取ることができない。

あなたは、その会社の人間関係に疲れ果てるまでがんじがらめにされて、日々、取引先の接待に追われ、休日も携帯電話が鳴って上司に呼び出されることも稀でなく、いつか取れるという有給休暇に憧れているが、なぜかそれを取得した経験がない。賞与などというものも、約束されていたはずだが、一度も受け取ったことがない。むろん、昇進もするはずだったが、なぜかずっと平社員にとどめおかれている。

約束されていた夢のような待遇は、どれもこれも実現したことがないし、最も恐ろしいことに、当初は終身雇用と言われていたはずだが、今や雇用契約は一カ月ごとの更新である。給与も、当初は年俸制だったはずだが、すぐに月給制に変わり、今や時給制になっている。あなたは毎月、生きた心地もしないが、そうなったのは一体、なぜなのか、真剣に考えてみたこともない・・・。

ルターは、ピラトの階段を膝でのぼるうちに、このような精進を通してしか、人が罪赦されて聖化されて神に近づくことはできないというカトリック教会の教え全体が、全くのまやかしでしかないことに気づいて、その苦行を放棄した。

我々が生きるのは、自分の力で階段を上って精進するからではない。「義人は信仰によって生きる」(ヘブル10:38)からだと気づいたのである。

この御言葉が真実ならば、信仰は、我々が生きるためにすべてを供給するまことの命に直結しているはずである。すなわち、ただ一人の命なるお方が、私たちのためにすべてを成し遂げて下さったと信じることこそ、私たちのすべての必要が満たされる根拠なのだから、膝で階段を上るという苦行によっては、人が自分で自分を救うことはできず、自由も解放も得られないのは当然である。

この世で今、多くの人々が獲得しようともがいている安定や、社会的成功は、まさにこのピラトの階段を膝で上るのと同じ苦行でしかない。はた目には、成功例も、あるように見えるかも知れないが、その階段には終わりがなく、上に上って行くためには、あなたは今よりもさらに多くの理不尽な苦悩を耐え忍ばなくてはならない。そして、上に行けば行くほど、ますます解放されるどころか、自由がなくなり、あなたは自分の良心を殺して生きなくてはならなくなる。

さらにもっと言えば、ピラトの階段を上まで登りつめれば、待っているのは死だけであって、そこには約束された自由も解放もない。それはすでにイエスが私たちの代わりに上って下さった階段であって、その先にはゴルゴタの十字架がそびえたっているのであって、私たちはイエスと共にすでにその階段を信仰によって上り切ったのであるから、再びその苦行を身に負う必要はないのである。

従って、あなたが真に健全に、自由に、豊かに、幸せに生きたいならば、この階段を上に上るのではなく、できるだけ早くそこから降りて、このようなまやかしとは無縁の人生を生きなくてはならない。このような階段を他者と競争しながら、誰よりも早く上へと上って行くことが、あたかも正しい人生であり、成功であるかのような幻想と錯覚を、愚かしい誤謬として、一刻も早く捨て去らねばならない。

これが、資本主義とプロテスタントからのエクソダスの意味である。それは双方ともにヒエラルキーに組み込まれて、自分よりも上の階層に位置する人間に利益をもたらすための道具として生きることを意味し、エクソダスはそのような生き方自体をやめるという意味を持つ。
 
さて、天的な命の法則性を確かなものとして習得するために、このような生き方を選ぶことを、当ブログでは、少し前から宣言して来た。昨年の初め頃から、筆者はソドムとゴモラと化したこの地に嫌気がさしたので、ここから脱出するという考えを繰り返し述べて来たが、その脱出は、筆者がどこか地上の別な町へ逃れることを意味するのではなく、ただ地から天へ向かって逃れることを意味した。

筆者は、予めバビロン王国からの国外亡命の準備を整えていたので、まずはエクレシア王国の住人としての永住権を取得し、さらに、亡命後、安定した雇用からあぶれなくて済むよう、エクレシア会社に終身雇用されるための入社手続きも済ませておいた。
 
そして、ある日、信仰と名付けられた飛行機に乗って、ソドムを脱出したところ、離陸の際、バビロン王国とは、全体が一つの高い塔であって、ピラトの階段は、この塔にからみつくように、地上から天に届くほどまで渦高く続いている様子が見えた。ああ、あんなにも長く果てしない階段を膝で登らされようとしていたのかと分かり、そんな不可能事を可能であるかのように教え、自分をそこまで騙したバビロンへの失望と幻滅はさらに募った・・・。

さて、エクレシア王国に着いて、前もって入社しておいた会社へ挨拶に行くと、社長自らが出迎えてくれて、歓迎会を開いてくれた。「エクレシア無限会社」に就職するときには、入社時にただ一人の慈悲深い社長のもとで、社長に栄光をもたらす働きをするためだけに、終身雇用となる契約書にサインを求められる。

社長は言った、この会社では、すべての社員が、社長の直属の部下であるから、上司は、ただ一人しかいないのだと。そして、ダブルワークは禁止されているから、他の社長のためには、二度と働いてはいけないと。

実際に、この会社には、あの頭痛しかもたらさない尊大で横暴な幹部は一人もいなかった。同僚もいるはずだが、一人一人が全く違う部署にいて違う働きに従事しているため、競争や妬みが発生することもない。
 
不思議なことに、雇用契約書には、サラリーの規定がなかった。なぜなら、この会社では、社員のサラリーは、社員の必要に応じて、変化するからである。そして、サラリーという言葉の語源が塩であると同様、一人一人の社員の仕事も、「地の塩」としての役目を果たすことである。
 
 社長は、エクレシアへ脱出してきたこと自体が、あなたの果たした最初の仕事であると労をねぎらってくれ、最初のサラリーも、すでに見えない給与口座に払い込まれていると教えてくれた。
 
手渡された給与明細を見ると、そこには、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。」(箴言22:13)と書いてあり、それは、地上の人々の言葉では、判決という名で呼ばれていると告げられた。

社長は述べた、この会社では、すべての社員のサラリーは、必要に応じて十分な額が支給されることになっているが、それはいつも支給される時期も形態も異なる。ただし、常に目に見えない給与口座に振り込まれる仕組みになっているので、それを天の銀行で、「現金化」して持ち帰ることも、社員の重要な仕事の一つである。だが、それには困難も伴うことを覚えておいてもらいたい。仕事が常に容易だなどとは決して思わないでもらいたい。だが、信仰によってすべてを乗り越えられると信じなさい。あなたがそうしてミッションを果たすことにより、天には栄光がもたらされる・・・。
 
さて、最初のサラリーを現金化するこの作業がどのように成し遂げられるかを、読者はよく見ておいて欲しい。この世の人々は、筆者の述べていることは、愚かしいたとえ話でしかないと考えて笑うかも知れないが、これは決してたとえ話などではないからだ。

ウェーバーなどを引き合いに出すまでもなく、この世では、実はキリスト教の最先端の信仰回復運動こそ、目に見えない圧倒的優位を誇り、政治体制のみならず、経済をも支配してきた。それは、ピラトの階段を上る者こそ出世するというのが、この世の掟だからであって、それゆえ、この階段を上ったと自負する聖職者階級が、今日に至るまで、この世で最も大きな力を誇っているのは何ら不思議ではない。むろん、プロテスタントの牧師階級もその一部である。

プロテスタントの牧師たちは、信徒とは異なり、教会で俸給をもらい、特権的な地位についている。だが、何ゆえ、彼らと信徒との間に、そのような「格差」が生じるのかと言えば、それもピラトの階段ゆえである。牧師たちは、フルタイムで献身する御言葉の奉仕者を名乗っているゆえ、信徒よりも霊的に一段上の階層に立っているのである。

すなわち、この世の人々は、世俗の仕事に従事しており、世俗に生き、御言葉への献身度が低いために、牧師に比べて罪人であるから、その罪人らが月曜から金曜までフルタイムで汗水流して働いた労働は、牧師たちに捧げられ、彼らの俸給となるのは当然だというわけなのである。
 
筆者は、こんな理不尽かつ愚かしい制度に何ら賛同するつもりはないが、少なくとも、そこにも、「罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。 」という見えない法則が働いているのは確かなことであろうと思う。

このような制度を見ても、いかに神の御言葉を独占的に扱う者(御言葉の奉仕者)が、この世において、歴史時代や、国境や、制度を超えて、御言葉に奉仕しない他者に比べて、圧倒的な優位を占めて来たかが、垣間見えると言えよう。

だが、御言葉の奉仕者になる資格は、今日、信じる者には誰でも与えられているのであって、なおかつ、我々は、ピラトの階段を自力で上ることによって、ヒエラルキーの階段を上って行く必要はない。むしろ、信仰によって、この階段をはるか足の下にして、命の御霊の法則に従って、圧倒的な自由と解放を掴んで生きることが可能なのである。ただし、そのための唯一の手段は、「神の国と神の義を第一として生きる」こと、すなわち、「地の塩」としての役目をきちんと果たすことである。
 
このように、「天に直接雇用されて生きること」は、あらゆる時代の信仰の先人たちの証しを見ても、彼らに共通して必要なステップであったことが分かるだろう。ハドソン・テイラーなどもそうであろうが、多くの宣教師たちは、任地へ赴いた後、自分たちを任地へ派遣した所属団体を離れた。それは、組織に所属していることによって、必ず、心のしがらみが生じることを知ったからである。その後、彼らは、所属団体から俸給を受けとることによってではなく、天から直接、俸給を受けることによって生きることを余儀なくされ、それゆえ、信仰を試された。

今日も、神に従って生きる人々にとって、これは避けては通れない学びの一過程であると、筆者は考えている。

さて、今はバビロン王国を脱出したことにより、とりあえず最初のミッションを果たしたので、しばし休息が必要である。慣れない飛行機に長時間座るのは、やはり緊張が伴い、それなりの苦労もある。これから、次回以降の記事で、天のサラリーをいかにあらゆる困難を乗り越えて「現金化する」かという具体的な作業について、書いて行くことにしたい。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしていなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

裁判所との最終調整が終わったので報告しておきたい。

巨大なエクソダスが完了した。判決はまずまずの内容であり、不本意な和解を退けただけの甲斐は、確かにあると言えるものであった。

今回の判決では、まず被告1名(信徒)に対し、被告のブログにおける、当ブログ執筆者に対する名誉毀損、侮辱、著作者人格権(氏名公表権)の侵害、プライバシー権の侵害が行われた事実と、それに対する当ブログの側からの損害賠償請求、当該記事の掲載差し止め請求がおおむね認められた。

早い話が、ペンネームで執筆されている当ブログの執筆者の氏名を勝手に公表したり、当ブログ主の個人情報を調べて無断でネット上に公表したり、ネット上で人格障害者呼ばわりするような行為が権利侵害に該当するという、当ブログの主張が認められたということである。

その他、非常に重要な成果として特筆すべきは、当ブログと当該被告のブログとの間で2009年以来、起きた論争の発端は、そもそも被告が、当ブログ主から受けたコメント削除の依頼に、正当な理由なく応じなかったことにあることが、事実として認められた。

他者の管理するブログに投稿したコメントであっても、その著作権は投稿者自身にあるため、コメントの削除依頼を受けたのに、これを正当な理由なく拒むことは、公衆送信権の侵害に当たるという見解が示されたのである。

しかしながら、今回の裁判では、十分に立証が行えなかった点もいくつか今後の課題として残る。

その第一は、これまで幾度か断ってきた通り、今回の裁判は、急ぎ足で終了したということもあって、刑事事件の進展と、犯罪ネットワークの全容の解明が追いついておらず、被告らの共謀関係については十分とみなされうる立証が行えなかった点だ。

そのため、今回の紛争は、2名の被告のうち、宗教指導者である被告は、法的責任を問われない形で終了した。

だが、筆者の心には、事実はどうなのかという深い疑問が残る。もちろん、今回の訴訟でも、宗教指導者の関与が全くなかったという事実が立証されたわけではなく、推定無罪の原則が働いているのみである。

被告らは、この裁判の過程でも、当ブログ執筆者を馬鹿にしたメールを書証として提出したりもしており、宗教指導者である被告は、信徒として相談を行った当ブログ執筆者を個人的にターゲットとして非難する記事を約10年間もブログに掲載している。

そして、当ブログ執筆者に関する個人情報を、信徒である被告に伝えたのが、誰なのかを特定する作業は、いまだ完了していない。その上、掲示板で行われた当ブログに対する大々的な権利侵害を、誰が主導したのか、どのようなネットワークがその背後に存在するのかなどといった事項も、すべて今後、刑事事件の進展を待たねばならない。

従って、宗教指導者の被告は、罪に問われなかったことをもって、すべての疑いが晴れたとは決して言えない。特に、当ブログがこうむってきたほとんどすべての中傷は、筆者から見て、まさにこの指導者を擁護する立場から行われたものであることは極めて興味深い事実である。

このように、今回の裁判では、当ブログの請求のすべてが認められたわけではなく、十分な論証・立証作業が間に合わなかった主張も多々あるとはいえ、点数に換算するならば、60点から(甘くつければ)70点くらいの点数は取れ、まずまず及第点には達したと言えるだろう。
 
筆者から見て、この判決は、決して偏った、もしくは、筆者にとって極端に甘い内容でもないため、従って、感情に流されたものではない。むしろ、極めて冷徹かつ客観的な分析と、合理的な法的解釈に基づくものであるため、当事者の誰かが控訴したとしても、この判決を覆すことは、極めて困難なように思われる。

そのようなことは、単なる時間と費用の無駄にしかならず、報復以外に目的が見当たらないということで、(仮に被告が控訴しても)心証をより悪くすることにしかつながらないであろう。

そこで、筆者は、今回の判決でカバーされていない問題、そして、今回の訴訟の最中に新たに判明した事実については、今後、新たな係争の提起という形で責任追及を行うことを考えており、訴訟後の手続きも控えているため、戦略的に、今は言及を避けることにしたい。

だが、一つ、今回の裁判でつくづく分かったことがある。それは、やはり民事訴訟は、受けた損害を完全に償わせる手段としては、適切ではなく、ただ賠償請求だけが目的ならば、民事裁判は起こさない方が良いということだ。

特に、当ブログが過去10年間にも渡り、様々な嫌がらせ行為を受けて来たことを考えれば、筆者は今回の判決で言い渡された賠償金額(それは決して少なくはない)が3倍だったとしても、それも妥当であると考える。
 
だが、むろん、筆者は賠償金が少なすぎるなどと不満を述べているのではない。民事訴訟を起こすことの主要な目的は、決して金銭的な利益にはなく、そのような成果が目的であれば、裁判には期待薄である、ということを言いたいのである。

すなわち、個人の利害の対立という次元を超えて、正しい事実認定を行うことで、何が真実であるのかを世に公然と知らしめ、今後起きうる同様の犯罪の抑止力とすること、目に見えない正義と真実を追求することで、社会をより良く変えるきっかけを作りたいという強い使命感がなければ、このような戦いを個人で最後まで戦い抜くことは非常に困難であり、仮に弁護士を立てなかったとしても、到底、元が取れるようなものではないということだ。

だが、筆者は、この訴訟を提起したことに何の後悔もなく、その全プロセスに心から満足している。筆者自身にとって、今回の訴訟は、はかりしれないほど大きな学習の機会であった。これは他のどんな紛争にも比べられないほどの深い霊的意義を持ち、まさに全力投球して取り組む価値のある記念すべき紛争だったことは確かである。

筆者は今回の訴訟で、決して法的解釈にとどまらず、聖書に基づく自らの見解を、思うだけ主張・披露できたことに、非常に深く感謝している。事件を担当してくれた裁判官が、もしも宗教論争を一切、この紛争に持ち込まないようにと釘をさすようなことがあれば、それは決して実現できなかった願いである。

そういう意味で、今回の紛争は、他のもろもろのこの世の紛争とは全く違った意味合いを持つものであり、それだけに、こうした結果が得られたことは、聖書の御言葉の正しさを公然と世に証明するに当たっても、実に大きな成果だったと言える。
  
今回、裁判官が、その50倍はあろうかという書面を基に書き上げてくれた、分厚い本のような判決文は、それ自体が、筆者にとっては、示唆に富んだ、宝のような文面である。この貴重な判決文は、筆者が大きな代価を払って得たものであるから、万人に公開することは控えたい。

だが、重要なのは判決文だけではない。当ブログの側から提出した様々な主張書面、資料は、それ自体、記録として保管する価値のあるものであり、今後、教会を巡る裁判の問題を研究する際に、カルト被害者救済活動を批判的な観点から分析する資料として、大いに参考材料となりうるものと確信している。
 
今回は、裁判所という「干潟」を通して、当ブログの見栄えのしない「泥水」に光が当てられ、そこに神秘的な光合成が働いた結果、このような判決が生まれた。

だが、まだまだ今後の課題も多く残されている。そこで、少なくとも、一年か二年間くらいは、筆者と当ブログは、この「干潟」としての裁判所にお世話にならねばならないものと考えている。
 
数多くの戦いが控えているため気は抜けないが、とりあえずは、関係者に心から感謝を述べておきたい。

そして最後に、自己の信念は、きちんと主張しなければ、実現もできず、他者の努力に便乗して、自分の願いを実現することは、誰にもできない相談なのだということを断っておきたい。

日本社会には、長いものには巻かれろ式に、権力者におもねり、絶えず周囲の顔色を伺って、自分の主張を控え、周囲と波風立てないことが、あたかも正しいことであって、それさえやっておけば、自己の権利を保ち、幸福に生きられるかのような考えがある。

要するに、「和の精神」である。しかし、当ブログでは、これは偽りの平和であって、聖書の御言葉に立脚するものではなく、この精神に絡め取られてしまうと、自分自身を失い、まことの命をも失うということを述べ続けて来た。

今回、筆者は自らの信念に基づき、自分の主張を公の場に持ち出したことで、激しい批判と嘲りと中傷を浴びはしたが、それとは引き換えにならないほどの貴重な教訓を得たと思っている。それはやはり、この社会の中には、正義、真実、公正を愛し、良心に生きる人々が確かに存在しており、自らの信念を曲げずに、希望を捨てずに生きていれば、そうした人々に出会うことも、かつ、協力して、善良な願いを実現に至らせることもできると分かったことである。

すなわち、今回の紛争の最も大きな成果は、ただ有利な判決を得たということではなく、それ上に、これほどまでに激しい妨害や、徹底した誹謗中傷、敵意を向けられる中でも、筆者が、全くと言って良いほど、絶望に至らず、死へ追いやられることもなく、それどころか、以前よりも一層、御言葉の真実性を知って、喜びに溢れていること、また、筆者一人の力だけでは成し遂げられなかったであろう成果を、様々な人々との協力関係の中で打ち立てることができたことである。

このような成果は、人間の力にはよらないのであって、ただ神を賛美するのみである。筆者自身はネットワークを築こうとしたことはなく、人々の心に善良な願いを起こさせて下さったのも、すべては主の采配である。

もちろん、今回生まれた協力関係はほんの一時的なもので、長くは続かない。だが、筆者は、誰がどこへ去ろうとも、これからもこの地にとどまり続けるだろうと思う。そして、ここでバプテスマのヨハネがしたように、(もちろん、筆者なりの方法で!)、主の到来に地道に道を備えたいと願っている。

すなわち、この地が真に永遠に至る実りを結ぶ場所となり、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」と言えるようになるまで、どこにも去らず、ここで根気強く奮闘し続けたいと願っている。

キリストは、まことに筆者のためにも、神の知恵となって下さり、義と聖と贖いとになられた。この方の御名にのみ栄光を帰したい。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

2019/03/29 (Fri) 神の義なる裁き

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしていなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

裁判所との最終調整が終わったので報告しておきたい。

巨大なエクソダスが完了した。判決はまずまずの内容であり、不本意な和解を退けただけの甲斐は、確かにあると言えるものであった。

今回の判決では、まず被告1名(信徒)に対し、被告のブログにおける、当ブログ執筆者に対する名誉毀損、侮辱、著作者人格権(氏名公表権)の侵害、プライバシー権の侵害が行われた事実と、それに対する当ブログの側からの損害賠償請求、当該記事の掲載差し止め請求がおおむね認められた。

早い話が、ペンネームで執筆されている当ブログの執筆者の氏名を勝手に公表したり、当ブログ主の個人情報を調べて無断でネット上に公表したり、ネット上で人格障害者呼ばわりするような行為が権利侵害に該当するという、当ブログの主張が認められたということである。

その他、非常に重要な成果として特筆すべきは、当ブログと当該被告のブログとの間で2009年以来、起きた論争の発端は、そもそも被告が、当ブログ主から受けたコメント削除の依頼に、正当な理由なく応じなかったことにあることが、事実として認められた。

他者の管理するブログに投稿したコメントであっても、その著作権は投稿者自身にあるため、コメントの削除依頼を受けたのに、これを正当な理由なく拒むことは、公衆送信権の侵害に当たるという見解が示されたのである。

しかしながら、今回の裁判では、十分に立証が行えなかった点もいくつか今後の課題として残る。

その第一は、これまで幾度か断ってきた通り、今回の裁判は、急ぎ足で終了したということもあって、刑事事件の進展と、犯罪ネットワークの全容の解明が追いついておらず、被告らの共謀関係については十分とみなされうる立証が行えなかった点だ。

そのため、今回の紛争は、2名の被告のうち、宗教指導者である被告は、全く法的責任が問われない形で終了した。

だが、筆者の心には、事実はどうなのかという深い疑問が残る。もちろん、今回の訴訟でも、宗教指導者の関与が全くなかったという事実が立証されたわけではなく、推定無罪の原則が働いているのみである。

被告らは、この裁判の過程でも、当ブログ執筆者を馬鹿にしたメールを書証として提出したりもしており、宗教指導者である被告は、当ブログ執筆者をターゲットとして非難する記事を約10年間も掲載している。

そして、当ブログ執筆者に関する個人情報を、信徒である被告に伝えたのが、誰なのかを特定する作業は、いまだ完了していない。その上、掲示板で行われた当ブログに対する大々的な権利侵害を、誰が主導したのか、どのようなネットワークがその背後に存在するのかなどといった事項も、すべて今後、刑事事件の進展を待たねばならない。

従って、宗教指導者の被告は、罪に問われなかったことをもって、すべての疑いが晴れたとは決して言えないのである。

このように、今回の裁判では、当ブログの請求のすべてが認められたわけではなく、十分な立証が間に合わなかった主張もあるとはいえ、点数に換算するならば、60点から(甘くつければ)70点くらいの点数は取れ、まずまず及第点には達したと言えるだろう。

だが、筆者から見ても、この判決は、決して甘い内容ではなく、感情に流されたものでもなく、極めて冷徹かつ客観的な分析と、合理的な法的解釈に基づくものであるため、当事者の誰かが控訴したとしても、この判決を覆すことは、極めて困難なように思われる。

そのようなことは、単なる時間と費用の無駄にしかならず、報復以外に目的が見当たらないということで、(仮に被告が控訴しても)心証をより悪くすることにしかつながらないであろう。

そこで、筆者は、今回の判決でカバーされていない問題、そして、今回の訴訟の最中に新たに判明した事実については、今後、新たな係争の提起という形で責任追及を行うことを考えており、訴訟後の手続きも控えているため、戦略的に、今は言及を避けることにしたい。

だが、一つ、今回の裁判でつくづく分かったことがある。それは、やはり民事訴訟は、受けた損害を完全に償わせる手段としては、適切ではなく、ただ賠償請求だけが目的ならば、民事裁判は起こさない方が良いということだ。

特に、当ブログが過去10年間にも渡り、様々な嫌がらせ行為を受けて来たことを考えれば、筆者は今回の判決で言い渡された賠償金額(それは決して少なくはない)が3倍だったとしても、それも妥当であるとさえ考える。
 
だが、むろん、筆者は賠償金が少なすぎるなどと言っているのではない。民事訴訟を起こすことの主要な目的は、決して金銭的な利益にはなく、そのような成果が目的であれば、裁判には期待薄である、ということを言いたいのである。

すなわち、個人の利害の対立という次元を超えて、正しい事実認定を行うことで、何が真実であるのかを世に公然と知らしめ、今後起きうる同様の犯罪の抑止力とすること、目に見えない正義と真実を追求することで、社会をより良く変えるきっかけを作りたいという強い使命感がなければ、このような戦いを個人で最後まで戦い抜くことは非常に困難であり、仮に弁護士を立てなかったとしても、到底、元が取れるようなものではないということだ。

だが、筆者は、この訴訟を提起したことに何の後悔もなく、その全プロセスに心から満足している。筆者自身にとって、今回の訴訟は、はかりしれないほど大きな学習の機会であった。これは他のどんな紛争にも比べられないほどの深い霊的意義を持ち、まさに全力投球して取り組む価値のある記念すべき紛争だったことは確かである。

筆者は今回の訴訟で、決して法的解釈にとどまらず、聖書に基づく自らの見解を、思うだけ主張・披露できたことに、非常に深く感謝している。事件を担当してくれた裁判官が、もしも宗教論争を一切、この紛争に持ち込まないようにと釘をさすようなことがあれば、それは決して実現できなかった願いである。

そういう意味で、今回の紛争は、他のもろもろのこの世の紛争とは全く違った意味合いを持つものであり、それだけに、こうした結果が得られたことは、聖書の御言葉の正しさを公然と世に証明するに当たっても、実に大きな成果だったと言えるのである。

今回、裁判官が、その50倍はあろうかという書面を基に書き上げてくれた、分厚い本のような判決文も、それ自体が、筆者にとっては、示唆に富んだ、宝のような文面である。この貴重な判決文は、筆者が大きな代価を払って得たものであるから、万人に公開することは控えたい。

今回は、裁判所という「干潟」を通して、当ブログの見栄えのしない「泥水」に光が当てられ、そこに神秘的な光合成が働いた結果、このような判決が生まれた。

まだまだ少なくとも、一年か二年間くらいは、筆者と当ブログは、この「干潟」としての裁判所にお世話にならねばならないものと考えている。

数多くの戦いが控えているため気は抜けないが、とりあえずは、関係者に心から感謝を述べておきたい。

そして、最後に、自己の信念は、きちんと主張しなければ、実現もできず、他者の努力に便乗して、自分の願いを実現することは、誰にもできない相談なのだということを断っておきたい。

日本社会には、長いものには巻かれろ式に、権力者におもねり、絶えず周囲の顔色を伺って、自分の主張を控え、周囲と波風立てないことが、あたかも正しいことであって、それさえやっておけば、自己の権利を保ち、幸福に生きられるかのような考えがある。

要するに、「和の精神」である。しかし、当ブログでは、これは偽りの平和であって、聖書の御言葉に立脚するものではなく、この精神に絡め取られてしまうと、自分自身を失い、まことの命をも失うということを述べ続けて来た。

今回、筆者は自らの信念に基づき、自分の主張を公の場に持ち出したことで、激しい批判と嘲りと中傷を浴びはしたが、それとは引き換えにならないほどの貴重な教訓を得たと思っている。それはやはり、この社会の中には、正義、真実、公正を愛し、良心に生きる人々が確かに存在しており、自らの信念を曲げずに、希望を捨てずに生きていれば、そうした人々に出会うことも、かつ、協力して、善良な願いを実現に至らせることもできると分かったことである。

すなわち、今回の紛争の最も大きな成果は、ただ有利な判決を得たということではなく、それ上に、これほどまでに激しい妨害や、徹底した誹謗中傷、敵意を向けられる中でも、筆者が、全くと言って良いほど、絶望に至らず、死へ追いやられることもなく、それどころか、以前よりも一層、御言葉の真実性を知って、喜びに溢れていること、また、筆者一人の力だけでは成し遂げられなかったであろう成果を、様々な人々との協力関係の中で打ち立てることができたことである。

このような成果は、人間の力にはよらないのであって、ただ神を賛美するのみである。筆者自身はネットワークを築こうとしたことはなく、人々の心に善良な願いを起こさせて下さったのも、すべては主の采配である。

もちろん、今回生まれた協力関係はほんの一時的・束の間のものであった。だが、筆者は、誰がどこへ去ろうとも、これからもこの地にとどまるだろうと思う。そして、ここでバプテスマのヨハネがしたように、(もちろん、筆者なりの方法で!)、主の到来に地道に道を備えたいと願っている。

すなわち、この地が真に永遠に至る実りを結ぶ場所となり、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」と言えるようになるまで、どこにも去らず、ここで根気強く奮闘し続けたいと願っている。

キリストは、まことに筆者のためにも、神の知恵となって下さり、義と聖と贖いとになって下さった。この方の御名にのみ栄光を帰したい。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

2019/03/29 (Fri) 神の義なる裁き

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。

それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。

わが子よ ならず者があなたを誘惑しても
くみしてはならない。

彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
陰府のように、生きながらひと呑みにし
丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

金目の物は何ひとつ見落とさず
奪った物で家をいっぱいにしよう。
我々と運命を共にせよ。
財布もひとつにしようではないか。」

わが子よ
彼らの道を共に歩いてはならない。
その道に足を踏み入れるな。

彼らの足は悪事に向かって走り
流血をたくらんで急ぐ。

翼あるものは見ている。
網を仕掛けるのは徒労だ。

待ち伏せて流すのは自分の血。
隠れて待っても、落とすのは自分の命。

これが不当な利益を求める者の末路。
奪われるのは自分の命だ。

知恵は巷に呼ばわり
広場に声をあげる。

雑踏の街角で呼びかけ
城門の脇の通路で語りかける。

「いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。

立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。

しかし、わたしが呼びかけても拒み
手を伸べても意に介せず

わたしの勧めをことごとくなおざりにし
懲らしめを受け入れないなら

あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

恐怖が嵐のように襲い
災いがつむじ風のように起こり
苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

そのときになって
彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
捜し求めても
わたしを見いだすことはできない。

彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。

だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。

浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。

わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。 」(箴言第一章)

* * *

当ブログが始まった頃から述べて来たスローガンの一つに、「主を畏れることは知識の初め」という箴言1:7の御言葉がある。

この御言葉は、裏を返せば、「主を畏れないことは精神崩壊の始まり」となる。

あらゆる異端思想は、必ず、聖書の御言葉を歪曲するものであり、そのようにして御言葉を曲げ、これに逆らった人は、必ず、知性を狂わされ、精神の正常性を保てなくなり、やがては破滅に落ち込んで行った。

そのことが、今日、インターネットで、当ブログに敵対・挑戦して来た人々の人生において、確実に証明されつつあると言えよう。

ある人々は、かねてより、当ブログの主張を精神異常の産物であるかのように声高に非難して来たが、今日、そのような人々が、いかなる犯罪行為に手を染めているかを見れば、彼らがすでに正常な思考を狂わされてしまっていることは、誰の目にも明白である。

もしも彼らの非難している対象が、当ブログだけであったならば、そのような結果にはならなかったに違いない。だが、彼らは、当ブログを非難する際に、当ブログの背後に存在する聖書の御言葉につまずいた。それだからこそ、これらの人々はこのようにまで健全な思考を失って、犯罪行為にまで手を染めるに至ったのである。

私たちのまことの命は、御言葉なるお方であるキリストただお一人である。この方が私たちのすべてのすべてであり、生きるために必要なすべてを供給して下さる方である。

御言葉は、私たちの安全を確保するための最強の装甲であり、堅固な砦である。その外に出れば、私たちの命も、平安も、安全も、無事に保たれるものは何もない。

そこで、御言葉にあからさまに躓いた人々の結末は、とても悲惨なものとなる。彼らは、ただ信仰を失うだけでは済まされず、世人よりもはるかに悪い罪人となって、人生を破滅で終えることになる。そのような例に倣ってはいけない。

さて、当ブログでは、先週も掲示板で行われた犯罪行為について、警察署に告訴状を提出したばかりだが、本日も、ちょうど新たな分厚い告訴状を追加で警察署に送ったところである。これも週が明ければ間もなく受理されるだろう。

掲示板における犯罪的なコメントは、すでに30件以上、告訴対象に含まれている。著作権侵害だけでこれであるから、その他の罪状を含めれば、被告訴人の数は50名以上には達するものと見られる(同一犯の可能性はあるが)。

これが、当ブログの信仰の証しを、精神異常の産物であるかのように、非難し続けた人々の末路である。彼らは、自分たちの行っている行為が、犯罪であるという認識さえも失っているが、そのような事態は恐るべきことであり、彼らが当ブログに投げつけた精神異常との悪罵の言葉が、まさに彼ら自身に跳ね返ったことをよく表している。

筆者はこの犯罪ネットワークの全容を解明するために、これから約1年間ほどの月日が必要であろうと考え、そのために必要な時間と労力を提供するつもりでいる。警察署にも、犯罪行為が完全に終了するまでの間、随時、告訴状を追加で提出する旨を説明し、了承を得ている。

筆者は、ただ当ブログに対する権利侵害を明らかにするという以上に、こうした仕事は誰かが必ずせねばならないことだと考えている。
 
今回の裁判では、この犯罪ネットワークは、まだ全容が解明されていないうちに、判決を迎えることになる。だが、ちょうど裁判の終結間近に、掲示板における犯罪行為がここまで大々的に明るみに出て、誰もの目に触れたことには、非常に意義があったと言えるだろう。

おそらく暗闇の勢力は、判決言い渡し直前の「駆け込み」として権利侵害に及んだのかも知れないが、残念ながら、そうした行為によって、筆者が不利になることもなければ、筆者が信仰の証しをやめることもない。かえって、筆者が本訴訟において訴えていた事実が、ますます裏づけられるだけである。

さて、先の記事で、筆者は、今回の裁判を、非常に良心的で、事件に深い理解のある裁判官が担当してくれた旨を感謝しつつ書いた。これは主の采配である。被告らにとっても、裁判官が相当な努力を払って進めていた電話会議の様子はまだ記憶に新しく、おそらく、裁判所のすべての関係者の誰一人として、悪印象を与えなかったろうと思う。

だが、万が一、被告らがこれらの人々の労にあだで報い、これから言い渡される判決に不服を覚え、控訴などを考えるならば、当ブログでは、その際には、これまで被告らが送付して来たすべての書面をただちに公開する用意があることを改めて断っておく。

これまで当ブログで被告らの書面を公開しなかったのは、裁判官が静かに判決を考える邪魔をしたくなかったからであり、世論の風を味方につけることで、有利な判決を得ようとするような真似をしたくなかったためだ。(筆者は支持者の数によって有利な判決を得ようとは全く願っていない。)

だが、判決が言い渡されれば、被告らの書面の公開の妨げになるものは何もない。

さらに、もしも被告らが良心的な裁判官の公平な判決に不服を覚えて、一信徒を控訴審に引きずり出したいなどと考えるならば、被告らの活動は、完全に世間の理解を失って一貫の終わりとなるだろうと断っておく。

なぜなら、もしもどこかの牧師が、自分のところへ相談にやって来た一信徒を、ブログで批判されたからと言って、10年間もの間、インターネットで名指しでバッシングしただけでは飽き足らず、控訴審(場合によっては最高裁)まで引きずり出して争おうとするならば――そんな牧師の説教を、誰も聞きたいとは願わないであろうし、そんな恐ろしい牧師のもとに、身の上相談に行く信徒は、絶えていなくなることは明白だからだ。

被告らはかねてより、控訴審に争いが持ち込まれた場合には、弁護士に依頼すると予告していたが、そうなった場合には、弁護士費用は三桁に達する可能性もあり、一審と違って、冷酷無慈悲な裁判官が事件を担当して、訴えが棄却されれば、その費用はまさにドブに捨てることになるだろう。

また、控訴すれば、その間に、刑事事件の捜査も進展し、取り調べも進行するであろうし、掲示板において現在、おびただしく行われている犯罪行為への関与なども疑われたりすれば、さらに罪状も増える可能性がないとは言えない。

このように、控訴は誰にとっても何のメリットもなく、今回は、良心的な裁判官が、奇跡的なスケジュール上の都合で、最初から一年以外に判決の言い渡しを予定してくれていたことは、当事者の誰もにとって、極めて幸いな出来事なのだということを関係者は心に刻みつけるべきである。

特に、当ブログに対して行われた権利侵害が、約10年間の長きにも渡っている事実や、今回、原告側から提出された書面の尋常ならぬ膨大な分量を裁判官が考慮する手間、そして、あらゆる訴訟は一年以上長引くことが決して珍しくないなどの事情を考慮すれば、当ブログを巡る訴訟が、一年にも達しないうちに終了することは、まさに奇跡的とも言える幸運なのだということを、当事者はよくよく覚えておく必要があろう。

原告側には、事件の全容が解明されていないうちに審理を終結することに、デメリットがないわけではない。しかし、筆者は、この訴訟においては、努力の限りを尽くして、すべての論証作業を終えたと考えており、何一つ思い残すことなく、その上、神の憐れみに満ちた采配が大いに働いて、信仰を証しするチャンスも与えられたことに、とても満足している。

このように、一切の心残りなく、判決を迎えられることは、この上ない幸いであって、筆者は裁判官を信頼しており、不服を述べるつもりは一切なく、今、自分自身も判決に服する一人として、厳粛な気持ちで、深く頭を垂れるのみである。

今回の事件を通じて、神が信じる者にとって、どれほど憐れみ深い方で、真実で公正な方であるか、そして、地上においても、公正な裁きを見せて下さるか、それを多くの人々が知ることができればと筆者は願っている。

また、悪者にはしたたかな報いがあることが、明らかにされるべきだと筆者は考えている。

筆者はこれまで、悪者に懲罰を加えることや、強制的な判決によって、人の心を縛ることに大きな躊躇があった。

だが、その躊躇が、事態の一層の深刻化を招いた事実や、それから現在に至るまで、当ブログに対する尽きせぬ憎悪を持つ人々が、これほど執拗かつ激しい権利侵害を繰り返しているのを目にし、筆者は、考えを変えざるを得なくなった。すなわち、信仰を捨てた人々の中には、まるで騾馬のごとく、轡をかけられる以外の方法では、決して行動を変えられない人々が存在するのだと思わされたのである。

とはいえ、筆者は決して、自分自身の手で報復しない。ただ正当な法的手段を用いて、悪者への懲罰という仕事は、しかるべき権限をもった人々に委ねるのみである。

信仰を持った人々に対する裁きは、教会の外に持ち出されるべきではないと、筆者は今でも考えている。だが、信者に偽装しながら、御言葉の真実性を否定する人々は、この世によって裁かれても、何の不思議もない。この世のことは、この世が裁くのだから、当然である。

いずれにしても、神は今日も生きておられ、ご自分に頼る人々を決して見捨てられることはないという確固たる事実を、間もなく、多くの人々が知る結果となるだろうことを、筆者は心から確信している。

2019/03/25 (Mon) 神の義なる裁き

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 
そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

* * *


2019/03/21 (Thu) カルバリの十字架

「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
 主はこの地を圧倒される。

 地の果てまで、戦いを断ち
 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
 
力を捨てよ、知れ
 わたしは神。
 国々にあがめられ、この地であがめられる。

 万軍の主はわたしたちとともにいます。
 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(詩編46:9-12)
 
さて、判決が近づくに連れて、言い知れない喜びが心に込み上げて来る。そして、心静まって、これを厳かに待ちたいと願わずにいられない。神が私たちのためになして下さった勝利と解放のみわざが、どれほど偉大なものであるか、神がご自分を愛してその約束を忠実に待ち望む民に、どれほど不思議で驚くべき方法で応えて下さるか、生きてこの目で確かめ、その喜びを心に迎えるめに、自分自身を整えたいと思わずにいられないのだ。

上記の御言葉の11節は、口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とあり、こちらの訳は、全被造物が、神の偉大な裁きの前に、静まり、沈黙せねばならないことをよく表しているようで、筆者には耳慣れて、気に入っているフレーズである。

私たちの神は、偉大な神、力ある神、真実で、正義を実行される方、正しい者を力強い御手で苦難から救い出し、悪人には容赦のない裁きを宣告される方である。

今回の訴訟の決着には、主イエスの御言葉の正しさが、神の国の権益がかかっているわけであるから、どうして神がこの紛争をご覧にならず、これを心に留めず、見捨てて通り過ぎて行かれるようなことがあろうか。

そこで、筆者は、心から神を信頼して待ちつつも、まず筆者自身が、その大いなる正しい裁きに服する者として、深く頭を垂れて、厳粛に判決を待ちたいと思うのだ。
 
筆者は地上の裁判官の善良で情け深く親切な側面しか知らない。警察官についても同様で、筆者は彼らと常に市民として関わって来た。どんなにやきもきする瞬間があっても、彼らは筆者の目には、常に市民の権利を守る側に立っていたのであり、筆者は自分の思いのたけを彼らに告げることが許されており、彼らは筆者を威嚇したり、筆者の権利を否定し、これを取り上げて、追い払ったりするような恐ろしい人々ではなかった。

だが、権威を行使するということには、もう一つの恐ろしい側面が確かに存在する。筆者は彼らの手に、悪人どもへの裁きと報復を委ねた以上、これらの人々が、ふさわしい人々に向かって処罰を下すという恐るべき権限を行使することを願い出、かつ許したのである。

そこで、今、筆者は、改めて神の御前に心静まり、私たちの信じている神が、偉大な裁き主であって、恐るべき権威を持ち、しかるべき刑罰を下すことのできる方であることを思う。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)
 
もしかすると、今回の訴訟の最も大きな収穫の一つは、それであったかも知れない。つまり、これまで筆者は、この事件を自分自身で持ち運び、可能な限りの策を自分で講じ、また、悪事を働く者どもに対しては、その報いが、正しい裁きが確かに存在することを警告して来たのだが、今や、その裁きは他の人々の手に委ねられたのだ。

従って、筆者が受けた仕打ちのために誰よりも憤り、筆者の名誉を守るために毅然と立ち上がり、そして、筆者に害を加えた悪人どもに対して、容赦のない裁きの宣告を下す存在は、筆者自身ではないのである。

少し前の記事で、筆者は、私たちに加えられた攻撃が、キリストに加えられた攻撃とみなされるほどまでに、私たちとキリストとは一つにならなければならない、と書いた。

ただ個人が攻撃されているというだけでは、神は立ち上がって下さらない。神が本当に立ち上がって、これ以上、悪事を見逃しておくことはできないと、怒りに満ちて天から裁きの宣告を下されるためには、神の国の権益に触れる事態が起きていなければならないのである。

そこで、そうなるまでに、キリストの十字架は、私たちの肉を深く貫通していなければならない。私たちのセルフは死んで、それ以上に深い攻撃がなされ、もはや、私ではなく、キリストに対する攻撃がなされ、神の国の権益が害されていると言えるだけの根拠が必要になる。

そこで、今回、白昼堂々、掲示板で犯罪行為が行われたことには、おそらくは深い意味があるに違いないだろうと思う。こうしたことは、何年も前から行われて来たことなのだが、やっと今になって、誰もが知りうる客観的事実として明るみに出され、ようやく彼らに処罰されるだけの根拠が整った。

だが、同時にそれは、いわばこの訴訟の最後の総仕上げであって、この訴訟が、筆者のセルフ(生まれながらの古き自己)を擁護する目的のためでないことが、公然と証明されるために必要な段階でもあった。

つまり、これから読み上げられる判決は、筆者のセルフを擁護するためであってはならず、また、筆者が、自分の弁論の巧みさや、もしくは、生まれながらの頭脳や、知性、受けた教育、社会的地位などの優位性によって、勝ち取ったものであってはならず、それはただ純粋に、神の御言葉の正しさを擁護するためのものであり、また、御言葉に立脚するがゆえの正しい裁きでなくてはならないのである。

そこで、この訴訟において、栄光を受けるのが、微塵も、筆者の生まれながらの自己であってはならない。そのために、筆者の自己はさらに深く徹底的に主と共に十字架で死に渡され、いかなる肉的な要素も有利にならず、また、主の他には、誇るべきものが何もないという地点へともたらされることが必要だった。

そして、この段階まで来たからこそ、神が筆者を擁護して下さること、これから筆者に起きることが、神の御言葉の正しさを公然と証するものであって、神の誉めたたえられるべき栄光に満ちたみわざであって、断じて筆者の力によるものではないと言えるのである。
 
このように、真に神に味方していただきたいと願うならば、私たちは、もはや自分の生まれながらの自己には、何の弁明の余地もなく、それによって状況を有利に変える見込みが全くなく、ただ神に対する全身全霊の信頼と希望以外には、何一つ頼るべきものがないという地点まで、もたらされなければならない。

そうなったとき、神は初めて私たちを擁護するために、天を引き裂いて降りて来られ、大胆に力強く私たちを苦難から救い出し、私たちのために勝利を宣言して、汚れたものの一切の痕跡を、私たちから断ち切り、私たちの涙を拭い去って、滅びの縄目から完全に解放して下さるだろう。

さて、筆者はこれから判決言い渡しまでの間にも、作成せねばならない新たな書面がいくつもあるが、今回の民事訴訟においても、次の御言葉を引用して、いずれ掲示板で行われているような犯罪ネットワークの全貌が、万人の前に明らかにされる日が来るだろうと予告して来た。

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

今回、民事訴訟に関わってくれた人々も、おそらくは今起きている騒ぎを知って、筆者が訴訟において訴えていた事実を、より深く知ることになっただろうと思う。そこで、このタイミングでこうした出来事が明るみに出されたことは、決して偶然ではなかったと思うが、今後も、筆者はこの訴訟に関わってくれたすべての人々に向けて、さらに事実を明らかにし続けていきたいと考えている。

聖書においては、神は隠れたことをみておられる」(マタイ6:6)方であると記されている。

また、「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:16)とある通り、裁きの日には、神は人々の隠し事を明るみに出され、イエスを通して裁かれると予告しておられる。

だが、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」というのは、何も終わりの日のことだけを指しているわけではない。

今日、神をも畏れず、御言葉への反逆を続けている人々は、自分たちが暗闇の中で行っていることは、常に自分たちしか知らず、決して人々に知れ渡ることはないと高をくくっているのであろうが、そのような者に対する宣告は、次に記す通りである。

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。

これらの二つの事は一日のうちに、またたくまにあなたに臨む。すなわち子を失い、寡婦となる事はたといあなたが多くの魔術を行い、魔法の大いなる力をもってしてもことごとくあなたに臨む。
あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、「わたしを見る者はない」と。あなたの知恵と、あなたの知識とはあなたを惑わした。あなたは心のうちに言った、「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。
しかし、わざわいが、あなたに臨む、あなたは、それをあがなうことができない。なやみが、あなたを襲う、あなたは、それをつぐなうことができない。滅びが、にわかにあなたに臨む、あなたは、それについて何も知らない。 」(イザヤ47:7-11)
 

バビロンは、自分を神以上の存在であると思い上がって、「わたしは、とこしえに女王となる」と心に思っただけでなく、「わたしを見る者はない」とつぶやいて、自分の悪事が誰にも知られておらず、暴かれることは決してないと考えた。

だが、神は彼女の悪事を確かに見ておられ、しかも、その報いを彼女に二倍にして返すと宣言された。しかも、その日は盗人のように思いがけない形でやって来ると言われている。

さて、筆者はこれまでの記事で、暗闇の勢力からの言いがかりに対抗するための弁論を、ほぼ言い尽くして終了したと思うが、今言い足すことがあるとすれば、ごくわずかに次の通りである。

パウロはコリントの信徒への手紙で、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。」、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。」(Ⅰコリント7:7-8)と記し、あくまで主のために生涯を捧げるのが最善であって、娶ったり嫁いだりすることは、積極的には勧められないという考えを示している。

だが、すでに結婚している信者に対しては、「妻は夫と別れてはいけない」「また、夫は妻を離縁してはいけない」。」(Ⅰコリント7:10-11)と述べて、夫と妻が別れることを禁じた。だが、これにも例外がもうけられている。

「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと、妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(Ⅰコリント7:15-16)

信者であると言いながら、イエス・キリストが神の独り子であることを否定したり、あるいは、御言葉にそぐわない異端の教説を信じている者が、後者に当てはまるのは当然であろう。

このように、パウロは地上における結婚に全く積極的でなかったどころか、むしろ、それを地上的な移ろいゆく些末な事柄として奨励せず、それよりも、信仰にあって救いを保ち続けることの方が、はるかに重要であるとみなしていた。地上のどんな関係にも、信者の救いを失わせたりするほどまでの価値はないと彼は断言していたのである。

そこで、今、筆者は、地上の目に見える富や、自分を取り巻く擁護者の人数でなく、私たちのために天に用意されている恵みに満ちた栄光を思いつつ、次の御言葉を思う。

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブライ12:22-24)

むろん、筆者はまだこれらの言葉の具体的な成就を見ておらず、シオンの山も、無数の天使たちの祝宴も、長子たちの集会も、見たことはない。だが、それでも、自分が近づいている生ける神の都である天のエルサレムを思う度に、言い知れない喜びが込み上げて来る。その晴れやかな祝宴には、一体、どれほどの栄光、喜び、感謝が満ち溢れていることであろうか。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、私たちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ10:19-23)

前から幾度も書いている通り、地上の法廷は、天におけるまことの裁き主なる神の御座の絵図である。

そこで、筆者は、王妃エステルがすべての覚悟を決めて、王の前に進み出た時のように、塵と灰を被り、さらに入念にイエスの死を身に帯びて、王の王、万軍の主なる神の御前に進み出る。

前よりも随分、大きな苦難をかぶったために、やつれたかも知れないが、その分だけ、喜びも大きくなり、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)と言われる殉教者らの道に、また一歩近づいたと言えるだろう。

こうして、イエスがご自分を割いて開いて下さった「新しい生きた道」を通って、筆者は聖なる裁きの御座に進み出る。そこには、白い衣を身に着けた人々の大群衆はあっても、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)の姿はない。そこは聖なる場所であって、汚れた者はそこに立ち入れず、彼らのための余地は全くないのだ。

こうして、心は清められ、もはや良心のとがめはなく、体は清い水で洗われて、ただ神を信頼しきって、真心から、御前に進み出て、こう言うことができる。

全能者である神、主よ、
 あなたの業は偉大で、
 驚くべきもの。
 諸国の民の王よ、
 あなたの道は正しく、また、真実なもの。
 主よ、だれがあなたの名を畏れず、
 たたえずにおられましょうか。

 聖なる方は、あなただけ。
 すべての国民が、来て、
 あなたの前にひれ伏すでしょう。
 あなたの正しい裁きが、
 明らかになったからです。」(黙示15:3-4)

「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。

救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。

 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。

 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、
 世よ限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」

 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を来た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。
 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。

彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。


 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
 昼も夜もその神殿で神に仕える。
 玉座に座っておられる方が、
 この者たちの上に幕屋を張る。
 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
 太陽も、どのような暑さも、
 彼らを襲うことはない。
 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
 命の水の泉へ導き、
 神が彼らの目から涙をことごとく
 ぬぐわれるからである。」(黙示7:9-17)

我が主よ、あなたは正しい方、真実で、偉大な誉めたたえられるべき方。ご自分の約束を忠実に守り、あなたに頼る民を決して見捨てず、心砕かれた者を軽んじず、卑しめられた者を蔑まれない方です。あなたは永遠に変わらない、確かなお方であって、あなたを信じる民は、決して恥をこうむることなく、失望に終わることがありません。

ハレルヤ。主よ、来たりませ。私たちは喜びを持ってあなたを迎えます。栄光はとこしえにあなたのもの。力と威光と尊厳もあなたのもの。私たちの誉れと賛美はとこしえにあなただけに、ただあなたお一人だけに捧げられます。

我が主よ、あなたは私たちにとってどれほど偉大な喜びであり、かつ希望でしょうか。あなたはとこしえに私たちの主、そして私たちはあなたの民です。

2019/03/18 (Mon) 神の義なる裁き

「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)
 
* * *

さて、掲示板での騒ぎのために心痛めている人があるかも知れないので、一言書いておきたい。我々信じる者を巡って起きる対立は、人間的な対立ではない。その背後には、神の霊とそれに逆らう汚れた霊の対立がある。聖書には、次のように書かれている通りである。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

私たちが敵としているのは、目に見える肉なる人間ではなく、彼らを導いている悪の諸霊であり、暗闇の世界の支配者、それが率いるもろもろの支配と権威である。
  
はっきり言えば、私たちが敵としているのは、目に見える人間ではなく、彼らの吹き込む嘘偽りの教えである。

人間はたかだか100年ほどしか生きないが、おそらく霊には寿命というものがないのではないと思われる。創世記で蛇の姿をしていたサタンが、黙示録では、年老いた竜になっているところを見ると、サタンと暗闇の勢力にも、年を取るということはあるのかも知れないが、彼らには体がないので、寿命が来て死ぬことはなく、従って、世の終わりが来て、神の永遠の刑罰が彼らに下され、彼らが己が悪行の報いとして、火の池に投げ込まれるときまで、この諸霊どもは生き続けるものと見られる。

つまり、暗闇の勢力に属する悪の諸霊は、神の天地創造からこの方、ずっと変わり映えのしないメンバーで、人類を欺き、惑わし続けているのであって、彼らは自分の体を持たないために、常に宿主となる人間を探し出しては、その人間を通じて、堕落した惑わしの力を行使しようと、この人間を要塞として利用して来たのであって、悪の諸霊の吹き込む嘘を受け入れた人々が、その宿主となって来たのである。

従って、もう一度言うが、私たちが無力化して粉砕すべき対象は、目に見える人間ではなく、また、悪の諸霊それ自体でもなく、その霊どもが、人間を要塞化してそこから宣べ続けている「偽りの教え」である。

悪の諸霊は、人間の手によって根絶されることはない。これを最終的に裁かれるのは神である。従って、私たちの戦いの目的は、悪霊そのものを対処するというよりも、悪の諸霊の述べる嘘に満ちた偽りの教えを粉砕して、彼らの脅しを無効化することにあるということを、いつも覚えておかなければならない。
 
私たちが目にしている人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、もしも我々信者の証しを否定するために、立ち向かって来る人間があるとすれば、その人は自分の考えを述べているのではなく、彼らを導く悪霊の考えを述べているのであって、その究極の目的は、聖書の御言葉を否定することにあると理解しなければならない。
  
私たちは、どのような相手であれ、人に向き合うに当たり、彼らの述べている思想がどのようなものであるかを把握することによって、彼らがどのような霊に導かれて生きているのかを見分けることができる。

聖書が次のように教える通りである。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は、すべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)
  
 さて、当ブログでこれまでずっとグノーシス主義の構造を明らかにして来たのは、それが悪霊の教えの基本形だからである。基本形と言っても、これは聖書をさかさまにしたものであるから、悪霊にオリジナルの教えがあるわけではない。とはいえ、この基本形を知ってさえいれば、悪の諸霊が時代を超えて作り出すすべての思想は、すべてそのバリエーションに過ぎないことが理解できる。

たとえば、長年、当ブログに激しい攻撃を加え続けているカルト被害者救済活動の支持者の一人は、キリスト教徒を名乗っているにも関わらず、自らのブログで、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物ではなく、人間が書いたものに過ぎないとか、悪魔もなければ、暗闇の勢力も存在せず、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って現れて人類を惑わせたなどのことは事実でなく、ノアの洪水もなく、聖書の記述を文字通りに信じるなど、精神異常の産物であって馬鹿げている、という見解を公然と述べている。
 
当ブログでは、そのような見解からは、必然的に、乙女マリヤが御霊によって身ごもってイエス・キリストを生んだという聖書の記述などは、すべて「馬鹿げた作り話」という結論しか導き出せず、従って、このような人々は、うわべだけはキリスト教徒を名乗りながらも、結局、イエス・キリストが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定しているのだと示した。

このことから、彼らを導いているのは、反キリストの霊であると言える。そして、このように、彼らが、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、イエスが神の独り子なることを否定していることを理解した上で、改めて彼らが当ブログに投げつけている悪罵の言葉を見れば、その内容が、ほとんど彼らが聖書を非難している言葉とほぼそっくりであることも、すぐに分かるはずだと指摘した。

つまり、彼らは聖書が「嘘に満ちた作り話」であると確信していればこそ、当ブログの信仰の証しが「妄想の産物」であるかのようにみなして攻撃・中傷しているのであって、当ブログに向けられた非難は、それを通して、彼らが聖書の御言葉を否定し、聖書の神に敵対するための手段なのである。
 
さらに、彼らが「聖書の記述は嘘だ」と主張していることに加えて、彼らが何より広めたい第二番目の主張は、「神は唯一でない」ということである。
 
当ブログは、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。」(Ⅰテモテ2:5)の御言葉に基づき、聖書のただお一人の神以外の「神々」など存在せず、牧師などの指導者は、とどのつまり、キリストになり代わって信者の心を支配しようとしている偶像に過ぎないと主張して来た。

この主張こそ、彼らにとって最も許しがたいものなのである。なぜなら、この主張は、宗教指導者の権威を否定するのみならず、それに属する彼ら自身が、「神々」であることを否定するものだからである。
 
上記のような人々が、すでに心の内で、自分たちを「神々だ」と宣言していることは、これらの人々の一人が「神々の風景」という題名のブログを開設していたことや、当ブログにもかつて書き込みをしことのあるある集会の指導者が、今や「自分たちはエロヒム(神々)だ」と公言している様子を見てもわかる。これは決して偶然ではない。

彼らが言いたいのは、結局、「俺たちは神々だ! それを否定して、神は唯一だなどと宣言する輩は、俺たちの『神聖』を『冒涜』しているのであって、許せない」ということであり、自分たちこそ「神々である」と宣言するためにこそ、彼らは、彼らの考えに大いに水を差す当ブログを、何とかこの世から駆逐しようと、あれやこれやの言いがかりをつけては、当ブログの信仰の証しを否定しているだけなのである。

だが、恐れないでもらいたい。今、掲示板で馬鹿騒ぎを繰り広げている連中は、筆者に指一本触れることはできない(そのようなことは、彼らには許されていない)。彼らにできることは、彼らの偽りの教えを否定し、真実な信仰の証しを続けるクリスチャンに、あらん限りの罵詈雑言を投げつけることで、聖書に基づく信仰の証しを公然と続けることは、ためにならず、危険なことであるかのように多くの人たちに思わせ、信者を威嚇することだけなのである。
 
そこで、筆者は、このような卑劣な脅しには断じて屈しないようにと人々に呼びかけておく。

これまで幾度も書いて来たように、クリスチャンが信仰のために主に献げるものは、すべて前もって、神と信者との間で了承のもとに取り去られるものに限られている。従って、今起きていることは、将来起きることの予表ではあるにせよ、彼らは決して神が許した限度を超えて、クリスチャンに手をかけることは許されていないのである。
  
イエスが何を言われたか、思い出してもらいたい。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や楼に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

それはなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)


このように、クリスチャンが世から憎まれ、迫害を受けるのは、人々の前で立派に信仰を証する目的のためである、と主イエスははっきり言われた。

従って、私たちが迫害を受けたとき、せねばならないことは、人々の前で敵の嘘や詭弁に満ちた主張を、対抗弁論によって毅然かつ堂々と打ち破ることであって、彼らの脅しを恐れて退却することではない。

なぜなら、すでに述べた通り、私たちが向き合っているのは、あれやこれやの人間ではなく、悪の諸霊が吹き込む偽りの教えそのものであって、私たちがなすべきことは、すでに述べた通り、彼らの嘘を指摘し、聖書の御言葉が真実であることを公然と証明することで、大勢の人々に対して行使されている彼らの嘘による脅しと、惑わしの力を、無効化することだからである。

それが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉の意味なのである。

* * *

さて、今回は、「聖書の記述は嘘だ」という彼らの第一の言いがかりに加えて、「我々は神々である」という彼らの第二の嘘が意味するところについて、重点的に考えてみたい。

なぜなら、聖書のまことの神である唯一の神を否定して、自分たちが「神々である」と詐称することこそ、グノーシス主義思想の最大の目的だからだ。

福音書には、ぶどう園をあずかった悪い農夫たちのたとえ話が複数個所、登場する。

むろん、誰でも知っているように、この悪い農夫たちは、直接的には、ユダヤ人を指す。ユダヤ人たちは、神が自分たちのために遣わされた預言者たちを迫害して殺し、神が独り子なる救い主を遣わされたのに、これをかえって十字架につけて殺した。

そこで、救いはユダヤ人から取り上げられて、異邦人に与えられ、それだけでなく、主イエスを拒んだユダヤ人の都エルサレムは、やがてローマの進軍により滅ぼされ、神殿は石組一つも残らないほど徹底的に壊滅した。

実は、グノーシス主義の構造とは、まさにこの悪い農夫たちの策略そのものであると言える。そして、恐るべきことに、今日、目に見える教会には、まさに神と人とが主客転倒したグノーシス主義の教えが広まり、まさにこのぶどう園の有様が広がっているのである。

今回は、マタイによる福音書からそのたとえ話を引用しよう。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
 
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。


さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。

 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。


 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』

  だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイ21:33-46)

私たちは、このたとえを読んで、首をかしげるだろう。一体、なぜこの悪い農夫どもは、ぶどう園の主人の跡取り息子を殺したからと言って、農園が自分たちのものになると考えたのだろうかと。殺人によって所有権を奪うことなどできるはずもないのにと。

全くその通りで、そんな考えが荒唐無稽であることは言うまでもない。しかし、暗闇の勢力は、有史以来、殺人によって神の国(神への礼拝)を正しい人々の手から奪い取ろうとして来たのであって、カインはアベルを殺すことで、神への礼拝を奪い取れると考え、ユダヤ人たちも、キリストを殺せば、自分たちの教えだけが、正しいものとして残ると考え、自分たちが本当は神に受け入れられておらず、全くの罪人でしかないという事実を誰からも暴かれずに済むと思ったのである。

要するに、これらの人々は、本物を駆逐しさえすれば、誰にも本物と偽物との区別がつかなくなり、偽物である自分たちが、正体を暴かれることなく、公然と本物を名乗れるかのように考えたのである。

ここに、「唯一の神から、神であることを奪って、自分たちが神になりかわりたい」というグノーシス主義の究極的な願望が込められていると言える。

当ブログにおいては、グノーシス主義とは、被造物が主体となって、自らの創造主を客体に貶め、被造物が創造主の神聖を盗み出して自ら「神々」になろうとする「模倣と簒奪の思想」であると述べて来た。

要するに、グノーシス主義は、聖書の神と人とを主客転倒した「さかさまの思想」であって、神によって罪に定められ、神聖から排除された、堕落した生まれながらの人類が、自分たちを罪に定めた聖書の神に反逆し、神に復讐を遂げることを正当化するために造り出された思想なのである。そして、もちろん、その起源は、創世記において、人類を誘惑した蛇の教えにある。

グノーシス主義思想が、「擬制(フィクション)としての父の物語」だと言われるのもそのためで、この思想の持ち主は、神の国の後継者ではないのに、後継者であると詐称して、まことの神から、神であることを奪って、己を神としたいからこそ、彼らにとって「父なる神」はフィクションでなければならないのである。なぜなら、本当の父というものがあれば、彼らの嘘がすぐにバレてしまい、彼らは父の圧倒的な権威によって、家を追われることになるためである。
 
聖書において、父なる神は、「わたしは有る」(出エジプト3:14)と力強く宣言される方であって、断じてフィクションなどではない。

お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」(詩編2:7-9)

この箇所は、キリストを指したものであるが、父なる神が聖霊によって独り子なるキリストを生んだように、私たちクリスチャンも、バプテスマを通して下からの出自に死んで、御霊を通してキリストによって上から生まれた者たちである。

私たちはこうしてキリストによって、父なる神から生まれていればこそ、この父に、子として何でも願い求めることができるのであり、もしも私たちが「父が分からない」子だとするならば、私たちは信仰によって、何一つ神に願い出る資格を持たない者となる。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

と書かれてある通りである。

ここでは、神の子供であることを見分けるために、いくつかの条件が提示されている。まず、「神の霊」によって導かれていること。そして、その霊とは、人を恐怖によって奴隷とする霊ではなく、私たちが神の子であることを証する霊であること。

次に、私たちが神の子であるならば、キリストと共に「共同相続人」でもあること。これは私たちが、やがて来るべき新しい天と地で栄光に満ちた贖いに預かることを指している。

さらに、私たちがキリストと共に苦しみを受けることによって、栄光を受けることが出来ること。これはクリスチャンが地上で主の御名のゆえに負わねばならない苦難を指す。

また、非常に重要なこととして、神の霊によって導かれて生きるためには、「肉に従って生き」ず、かえって「霊によって体の仕業を絶つ」ことが必要になる。これは主と共なる十字架の死の効果が、信者の肉に対して絶えず及んでいることを意味するが、このことについては後述する。
   
ところが、被造物を主とするグノーシス主義は、「父なる神」をもの言わぬ「虚無の深淵」や「鏡」に貶め、「存在の流出」という考えにより、あたかも天地万物のすべての被造物は、父なる神の意志によらず、自動的に流出したかのように述べる。

幾度も述べた通り、ここには、父の意志というものが介在しないため、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」という父から子への明白な承認が全くない。それどころか、もの言わぬ「父」は、いるかどうかも分からない存在へと追いやられている。

このようにグノーシス主義は、「父なる神」から発言権を奪った上で、神の姿が水面に映って乱反射した映像から流出して出来たとされる被造物を「神々」として誉め讃えるのである。

このように、まことの神を骨抜きにして、その神から神聖なるリアリティを盗むがごとくに生まれた被造物を「神々」として賛美するという人類の自己満足、自己賛美のために造られた思想が、グノーシス主義である。

どこまでも人類の自己満足、自己賛美の思想であって、それを力強く承認してくれる者の存在がないからこそ、この思想には、この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。と言える「神の子とする霊」「証」の存在はなく、ただひたすら「俺たちの父祖は神だ!俺たちは神の子孫であって、神々だ!」という「自称」の世界が広がっているだけなのである。

しかし、彼らの自己満足にも、決定的に水を差す存在がある。それが、ソフィアの失敗作と生まれたヤルダバオートである。

グノーシス主義においては、地上を支配する醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)は、アイオーンたちのヒエラルキーを飛び超えて、単独で神の神聖を盗もうとして失敗したソフィアの過失の結果、生まれた悲劇の産物であるとされる。そして、これが聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されて、徹底的に悪罵と嘲笑の対象とされるのである。

私たちは、グノーシス主義とは、聖書の唯一の神を徹底的に憎悪し、悪罵・嘲笑することを目的に生まれた思想であることを覚えておく必要がある。

グノーシス主義がヤルダバオートを憎むのは、まず彼の存在そのものが、母としてのソフィアの企ての失敗(被造物の失敗)を示すものであることに加え、彼の外見が、自分たちは美しいと思って自画自賛しているアイオーンたちから見て醜く見え、さらに、何よりも、ヤルダバオートが「わたしの他に神はない」と宣言しているためである。

もちろん、ヤルダバオートのこの宣言は、「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。」(イザヤ45:5)などの聖書の神の宣言を、グノーシス主義者が皮肉り、嘲笑するために悪用したものである。
 
つまり、「神々」なるアイオーンたちから見れば、自分一人だけが神であるかのように宣言し、他の「神々」の存在を頑なに認めないヤルダバオートは、「高慢」で「無知」で「愚か」な悪神であって、許せない存在と見えるのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想は、至る所で、ヤルダバオートに聖書の唯一の神を重ねて、これを高慢で無知で愚かな神として、徹底的に嫌悪し、嘲笑の対象とするのである。

このように、グノーシス主義が最も憎んでいるのは、神は唯一であって、他に神はいないと述べている聖書の真理なのであって、この思想の持主の目的は、神が唯一であることを否定して、その代わりに、被造物を「神々」に据えることにこそある。

先に結論から述べるならば、掲示板において当ブログに盛んに悪罵の言葉を向けている人々が、当ブログの主張を「高慢」で「狭量」で「僭越」なものであるかのようにみなしているのも、同じ理由からである。

当ブログの信仰の証しを「妄想」や「精神異常の産物」として罵っている人々は、聖書の記述をも、人間に精神異常をもたらすだけの「作り話」だとみなして否定しているだけでなく、当ブログの信仰の証しを「高慢」だと罵ることにより、自分たちこそ「神々」であるとして、唯一の神を否定しているのである。

もちろん、彼らが神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いも認めていないことはすでに述べた。だとしたら、ただ一人の救い主を信じないのに、自分たちが救われていると自称している彼らは、自分たちが生まれながらにして「神々」だと詐称しているに過ぎない。
 
こうした悪罵の背景には、太古から続いて来た、聖書の神に反逆する思想があるということを、私たちは覚えておく必要がある。

グノーシス主義というのは、初代教会の時代に名付けられた呼び名に過ぎず、この思想それ自体は、もっと前から存在している。その起源は、創世記で人類をそそのかした蛇にさかのぼり、いわば、蛇の教えを体系化したものが、グノーシス主義なのであって、それが多くのバリエーションを作って、世界の宗教、哲学、政治思想などに受け継がれている。
 
結局のところ、世界の思想は、根本的に大別すると、キリスト教と非キリスト教(グノーシス主義)の二つしかないのであって、聖書の御言葉が真理であることを認めない思想は、すべてグノーシス主義のバリエーションとして分類することができるのである。

私たちは、このように、太古から、聖書の唯一神を徹底的に悪罵、憎悪し、神を誹謗中傷の対象として来た悪魔的思想というものが存在し、それが悪の諸霊によって、現代にも、惑わされた人々に連綿と受け継がれていることを理解しておく必要がある。

だから、掲示板における人々の当ブログに対する非難の根底には、グノーシス主義が存在しているのであって、当ブログがこの偽りの教えの嘘を体系的に明るみに出していればこそ、彼らの非難は苛烈を極めるのである。
 
とはいえ、私たちの神ご自身が罵られ、嘲られている時に、私たちがキリストの苦しみにあずかるのは当然であって、それによって、私たちは来るべき世において、主と共に栄光を受けることができるであろう。約束の相続人であるからこそ、キリストと共に苦しむという栄誉も与えられているのである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

話を戻せば、グノーシス主義には、もの言わぬ「虚無の深淵」とされているとはいえ、一応、形ばかりは「父なる神」が存在している。これは「神々」の誕生にほんのわずかなりとも口実を与えるために造り出された、骨抜きにされた沈黙する神であって、すでにフィクションのような存在である。

だが、東洋思想においては、このようにフィクションによって抜け殻と化した「父なる神」すらもなく、万物の生命の源は、公然と「母なる神」(神秘なる混沌)にあるとして、女性原理が神聖なものであるかのように誉め讃えられる。

この「母なる神」(老子によれば玄牝)は、言い換えれば、人間の肉の情欲そのもののである。詳しくは省略するが、東洋思想では、天地万物は、「神秘なる母胎」なるものから、情欲の交わりによって誕生したのだとされ、東洋思想の根本には、堕落した肉の情欲をあたかも神聖なものであるかのように誉め讃える思想がある。

幾度も述べて来た通り、このような思想は、ペンテコステ運動の中にも、「母なる聖霊」論などという荒唐無稽な形を取って入り込み、キリスト教の「父なる神」を骨抜きにし、堕落させようとして侵入しているのは言うまでもない。

このようなものは、要するに、唯一の神を否定して、「父なる神」の戒めなど完全に無視して、己の肉の欲望のままに、あらゆるものと奔放に交わり、無責任に子を生み出し続ける、忌むべき「母」バビロンのことである。

女は紫と赤の衣を来て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」(黙示17:4-6)

(ちなみに、今日、このバビロンが堕落した肉欲の象徴であり、偽りの教えの総体であることを否定する信者はほとんどいないであろう。そして、バビロンがどれほど豪奢に着飾っているかの描写が、次のパウロの言葉といかに対極にあるかもよく分かるはずだ。

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、髪を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(Ⅰテモテ2:9-11)

ところが、今日、ある人々は当ブログを非難して、このくだりの「婦人」とは、象徴を指すものではなく、文字通りの意味だと主張している。そして、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」(Ⅰテモテ2:12)という続くパウロの言葉を文字通りに解釈し、これを実行すべきだと述べて、彼らの教会の講壇に立っているわけでもない当ブログの記事が、ただ女性執筆者によるものだというだけの理由で、許せないなどと支離滅裂な非難を展開している。

だが、バビロンとの対比によっても、この「婦人」が象徴であることは明らかであり、そうでないと主張したい人は、まずは自分たちの教会の講壇から女性説教者をすべて追放すれば良かろう。そして、自分たちの娘にも、いかなる結婚式やその他の宴会でも、決して高価な着物を着させず、生まれてから一度も髪を編まず、金や真珠を一切、身に着けるのをやめさせると良いのである。そして、教会に足を踏み入れてから立ち去るまで、彼女たちには一言も口を利かないように教えるがよい。それが以上の御言葉を文字通りに受け取ることの意味なのだから、この人々は、まずは自分たちが信じるところを忠実に実践すべきなのである。)

このように、グノーシス主義における「神々(被造物)」とは、本質的にバビロンと同じく、堕落した被造物のうちに働く生まれながらの肉の欲望を「神聖なる女性原理」として誉め讃えたものであり、彼女の行いが悪いからこそ、グノーシス主義者は、「父なる神」には沈黙しておいてもらわなくてはならないのである。

彼らは「父」の戒めに従っていないからこそ、彼らにとって「父」はフィクションである方が都合が良く、むろん、バビロンの姦淫によって生まれた「子ら」にとっても、父が誰かなどといった問題は、タブーであって、放っておいてもらわなくてはならない問題なのである。

このような思想の特徴は、肉に対する霊的死がなく、心に割礼を受けていないという一言に尽きる。

だが、先の御言葉でも、正統な神の国の後継者には、「霊によって体の働きを殺す」という「一つの義務」が課せられている。

「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

これが、罪に対する赦しとは別の、キリストの十字架のもう一つの側面である。私たちの旧創造に属する堕落した肉を霊的に死に渡すことのできる絶大な十字架の効力である。

だが、グノーシス主義においては、罪もなければ、十字架もないため、この思想は、人間の肉欲を聖なるものであるかのように褒めたたえるだけで、それに対するいかなる処方箋も提示しない。

グノーシス主義では、天地万物の創造は、真の至高者が、水面に自分の姿を映し出すことによって、そこから「神々」の存在が、映像のごとく「流出」して生まれたとされる。

だが、この筋書きも、人間の自己愛の産物であって、ちょうどギリシア神話に登場するナルシス(ナルキッソス)が、水面に映った自分の映像に恋い焦がれて死んだのと原則は同じである。

ナルシスの悲劇は、「本体ではなく、映像こそが真のリアリティだ!」と宣言して、主客転倒して、本体からオリジナリティを強奪しようとするグノーシス主義者の願望をよく表していると言えよう(だからこそ、しばしばグノーシス主義の研究者らはこの物語に言及する)。

だが、ここで言う「映像」とは、堕落した被造物全体を指すだけでなく、人の肉の欲望そのもののことなのである。

ナルシスは、水面という鏡に自分を吸い取られることによって、本体は虚無であって、映像こそがまことのリアリティだという転倒したものの見方を提示し、その恐るべき思想の至り着く当然の結末として、自分を失って死んだのであるが、ここには、神は虚無であって、被造物こそがまことのリアリティだという転倒した思想が表れているだけでなく、被造物も、肉に対する霊的死など帯びる必要がなく、思う存分、肉欲に翻弄されて生きた結果、肉欲を「主」として、その持ち主たる人間(自分)を「従」として、肉欲に自分を吸い取られることにより、いずれ神にまで至れるとする完全に転倒したグノーシス主義の考え方がよく表れている(むろん、そんなことが起きるはずもなく、彼らを待ち構えている結論は、死だけである)。

ギリシア神話では、あくまで物語の主役は、まだナルシスにあったが、グノーシス主義は、そこからより進んで、主役(至高者)を完全に沈黙に追い込んだ上、ナルシスの自己愛を、水面に乱反射させるようにして「神々」という形で結実させる。そして、この「神々」の動向の方に巧妙に物語の中心を移していく。そして、東洋思想になると、形骸化して沈黙する「父」もいなくなり、被造物(「母」)だけが勝ち誇っている。

無限とも言えるほどにたくさんの鏡、数えきれない映像、それらがせめぎ合って、みな本体を押しのけては、自分たちこそ本体だと、真のリアリティだと叫ぶ――これは、東洋における八百万の神にも通じる考えであって、グノーシス主義のアイオーンたちの形成する世界と同じものであり、現在、掲示板で起きている現象そのものであると言える(彼らは無数の鏡を作り、そこに当ブログについても悪意ある歪んだ映像を作り出し、それがリアリティであるかのように叫んでいる)。

これらの「神々」は、すべて時期尚早に結ばれた肉の実、「ハガルーイシマエルーバビロン」の系統に属する、心の割礼を受けない堕落した人類の欲望を表している。

自己愛というのは、自己保存願望と同じである。そこで、「神々」などと言っても、結局、グノーシス主義における「神々」の正体は、煩悩とでも呼んだ方がふさわしい、数えきれない欲望を表しているだけなのである。それらの欲望の中で最たるものが、人類が自力で子孫を残し、自己保存することによって、神の永遠にまで至り着きたいという願望である。

その欲望が、老子の言う玄牝であり、東洋思想の神秘なる混沌であり、グノーシス主義における最初の被造物にして万物の母なるバルベーローであり、これらはすべて人類の肉の欲望の総体である「ハガル」を象徴し、最終的には「大淫婦バビロン」に至り着くものである。

旧約聖書におけるサラは、アブラハムの妻であったにも関わらず、自分に子が生まれないことに悩み、このままアブラハムの家の子孫が絶えては困るという考えで、肉なる力によって、アブラハムの血統を保存しようと、自分の代わりに奴隷のハガルをアブラハムに差し出した。

この時点では、サラは神の御言葉の成就を待てず、「霊によって体の働きを殺す」どころか、肉の思いによって、早々に実を結ばせようと、奴隷を主人に差し出して、苦しみを招いてしまう。

だが、ここで言う奴隷のハガルとは、罪と死の奴隷となって、絶えず死の恐怖に追い立てられている人類の肉欲そのものであって、何とかして死に至る前に、自力で死に打ち勝って、永遠に至り着きたいという、人類の焦り、恐怖を指している。

つまり、「ハガル」とは、罪と死の法則によって支配され、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」の象徴であると言えよう。

人類の肉の欲望は、何であれ、すべて究極的には、死の恐怖に追い立てられて生まれる自己保存願望である。

そこで、グノーシス主義とは、心に割礼を受けていない、人を奴隷として恐怖によって支配する霊、堕落した肉欲の実を結ばせようと願う「ハガル」という母胎を、あたかも神聖なものであるかのように誉め讃え、ハガルの生み出す肉の実によって、神に喜ばれる信仰によって生まれる聖なる約束の子を駆逐し、消失させようという思想であると言える。

そこで、ぶどう園の悪い農夫たちは、みな「ハガル」の子孫である、と言えよう。彼らは、アブラハムの正式な妻であるサラから生まれた約束の子を殺して、奴隷のハガルから時期尚早に生まれた子を跡継ぎに据えれば、神の国を強奪できるだろうと考えた。

彼らの言いたいのは、こういうことである、「本物を殺して、コピーだけを残せ。そうすれば、俺達がコピーであって模造品に過ぎないとは、誰にも分からなくなり、俺たちの犯罪行為はかき消される。」

「本物の信仰の証しを地上から消し去り、神の子供たちをインターネットから駆逐しろ。そうすれば、何が本物で、何が偽物かなどと、誰にも分からなくなる。本物の神の子供たちを教会から追い出せば、神の国の後継者を名乗れるのは、俺たちだけだ。俺たちは神々であって、神聖で侵すべからざる存在だ。俺たちを冒涜する者は、誰でも同じ苦しみに遭わせてやれ。」

それが、この悪い農夫たちの悪質な企みであり、いわば、悪魔の教えの根幹であると言えよう。そして、このような盗人・人殺しによって支配されるぶどう園の行く末がどうなるのかは、聖書に書かれている通りである。

今日、無数の「ハガルの子孫たち」が現れて、自分たちは神の国の後継者だと詐称しては、聖書のまことの神に反逆し、キリストに連なる神の子供たちを教会から追い出し、彼らに憎しみを燃やして迫害を繰り返している。そして、すでに地上の目に見える教会は、これらの詐称者によって占拠されてしまった。だからこそ、このような場所からはエクソダスせねばならないし、彼らの偽りの教えに加担してはならないと言うのである。

* * *

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)



「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

最後に、冒頭に挙げた御言葉は、私たちが神に従う上で、肉による下からの生まれに死ぬのみならず、肉による絆、魂の愛情にも死なねばならない時があることをよく示している。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。<略>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とある通り、時には、親族や、兄弟や、友人からさえも、迫害されて、厳しい試練を通過せねばならない場合がありうることが予告されている。

だが、それゆえに、イエスは
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)と言われ、迫害に耐え抜いたことに対して、大きな栄光があることを約束されたのである。

だが、ここには、妻と夫との関係だけは含まれていない。それは、妻と夫の関係は、血縁によるものではなく、キリストと教会を予表するものであるため、信仰による迫害によって捨てなければならないものの中に含まれていないのである。

しかしながら、冒頭に挙げた通り、「
天の国のために結婚しない者もいる。」と、主イエスははっきりと述べ、それを受け入れられる心のある人は、そうした心構えで生きるようにと勧められた。パウロも、これに準ずる考えを述べている。

ところで、夫と妻との関係を論じるに当たり、ある人々は、
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ19:9)というイエスの御言葉を取り上げて、聖書は絶対的に離婚を禁じていると主張しているが、「不法な結婚でもないのに」とある通り、イエスはそこに例外をもうけられたことに注意が必要であろう。

このことについて、終わりのない愚かしい議論を繰り返している人間どもがいるため、そういう彼らには、サドカイ派の人たちの質問を裏返しにして、お尋ねしたい。

たとえば、カルト被害者救済活動の指導者は、カルト宗教で、指導者が信者に「神の啓示」として命じた結婚は、解消しても構わないと触れ回っているが、それはイエスの言われた
「不法な結婚」に相当するのか、しないのか。

さらに、ある人が結婚して、二人か三人の子供をもうけた後に、自ら家族を捨てて、しばらく経ってから、誰か別の、誰とも結婚したことのない若い人をつかまえて、その人の無知と弱みにつけこんで、結婚したと仮定しよう。しばらく経ってから、その人は、その若い伴侶を捨てて、さらに別の若い人を見つけて結婚したとしよう。そうして、七度、その人は、家庭を築き、その度毎に、子をもうけるか、もしくはもうけないで、伴侶を捨てて、ついには独身になった。そのような場合に、その人が地上で築いた七つの家庭のうち、その人が離婚を禁じられた伴侶とは、誰(何人)を指すのか。

この質問にきちんと答えられる人が、他者に向かって石を投げつければ良いのである。だが、果たして、これに答えられる人間が、目に見える教会や指導者にしがみつき、それを己が神聖の根拠であるかのように主張している信者の中にいるのかと疑問に思う。

要するに、愚かでむなしい議論にははまらないことである。

エクレシアのまことの伴侶はキリストであるから、信者は地上の移ろい行くものに心を留めないで、真っすぐに神の国を見上げて生きるのが、最も賢明な策であることは、誰にも否定できない事実であろう。

「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい

兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を招集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。労苦している農夫こそ、最初の収穫の分け前にあずかるべきです。わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。

しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:1-13)

この御言葉は、まさに詩のように響く。

徴兵された者がどうして世俗の仕事を営めようか。競技に参加する者がどうして訓練をおざなりにして出稼ぎに出られようか。農夫がどうして自分の畑の収穫をすべて地主に与えてしまってよかろうか。

もしも私たちが本当に神によってこの世から召されたならば、神は必ず、私たちが自分で自分の命を維持するために、馬車馬のように労苦して暮らさなければならないような生き方から解放して下さり、心に平安を保つ秘訣を教えて下さるはずだ。

そこで、パウロが述べている言葉は、まさに筆者自身に対する個人的な語りかけのように響く。

たとえ私たちが不誠実であっても、主は誠実な方であって、ご自分の約束を否むことがおできにならない。だから、私たちが神を信じて待ち望むことをやめないならば、必ず、神は私たちを失望に終わらせず、速やかに助けの手を差し伸べて下さる。

だから、勇気を出しなさい、神の子供たちよ! 主にあって、強くなりなさい! イエス・キリストのために召された兵士として、主人を喜ばせるために、あらゆる苦難を立派に耐え忍び、栄光に満ちた褒賞にあずかる覚悟を固めなさい! あなたを召して下さった方が、あなたたがそのすべての訓練に耐えられるだけの必要を満たして下さいます…。

* * *

裁判所は筆者にとって特別な場所で、目に見える建物に近づく度に、見えない大地の奥底から、こんこんと命の泉が湧き出て、周囲を潤しているように思われる。

そこは、まさに「干潟」だ。人が目を背け、誰もが耳を傾けたくない、泥水のような紛糾した訴えが、毎日のように届けられる場所。虐げられ、踏みにじられ、かえりみられなかった人々の叫びが、あぶくのように、うず高く積み重なり、処理されるのを待って溜まっている場所。

いや、泥水は溜まっているように見えるが、それだけではない。ゆっくりだが、流れているのだ。毎日、裁判官らが紛糾した事件簿を人知れぬ法廷で紐解き、書記官らが新たな訴えを受理し、原告被告らが目を合わせずに廊下や待合室ですれちがう・・・。

誰も事件番号さえ知らない山のような訴えが、毎日のように人知れず処理され、当事者が誰も来ない法廷で、判決文が読み上げられる・・・。

この見栄えのしない、誰もができるだけ近づきたくないと思っている「干潟」を見る度に、筆者は、そこに注がれる神の正義の眼差しを思わずにいられない。

この世には不正な裁判官もいれば、不正な裁判もある。だが、そんなことは筆者にはどうでもよいし、関係もないことだ。この世に一つでもいいから、虐げられた者が、その訴えを届けられ、正義の実現を待ち望むための場所が残っていること自体、どれほど大きな恵みであるか分からないのだ。

どういうわけか、裁判所へ近づく度に、筆者はそこが、まるで生きた法の泉から、目に見えない命の流れが汲み出されている場所であるように思わずにいられない。

だが、この世の法体系よりも、さらに深いところに、我々の信じる神の御言葉の泉がある。そこにあるものは、この世のどんな法よりももっと完全な掟である。

だから、まことの命の流れを汲み出したければ、深く、深く、井戸を掘りなさい、神の御言葉の泉の前に、自分の心を注ぎだしなさい。

そこから汲み上げることができれば、それはこの世の法の基準も、御言葉の求める基準もすべて満たし、見えない神の御心に触れる訴えを作り上げることができる。あなたの心の叫びを、天におられる神のみもとへ届けることができる。

そのために、筆者は深い深い井戸を掘り、本当の命の泉の水脈に到達し、そこから水を汲み上げようとしている。それは、最初は汲み出せても、わずかな流れに過ぎないかも知れないが、次第に水量が増し、いつかは洪水のように溢れ出すはずだ・・・。

それは筆者の周辺だけでなく、もっともっと広域を潤すようになり、県内全域を覆うようになる。目には見えずとも、きっといつかは、この日本のすべての地域のうちで、唯一、神の名のついたこの都道府県から、果てしない広域に及ぶことであろう・・・。

この「干潟」は、筆者にとって不思議なエネルギー資源の採掘場だ。

泥水のようにしか見えない数々の訴えに、命の水が流れ込み、そこに上から光が当たって、神秘的な光合成が起きる。そして、汚水のようにしか見えなかったものが、神の光に当てられて、人間を生かし、潤す糧となって行く・・・。

筆者はその変化をまだ一度もこの目で見たことがないが、やがて来るべき変化を思うだけで、深い感動を覚えずにいられない。こんなにも深いスケールの戦いは、これまで見たこともなかったが、それだけに、その解決のためには、他のどんな恵みとも代えがたい、特別な答えが与えられると信じている。
 
筆者は初めて真の戦いと呼べるものの始まりに立っている。この戦いを通して、筆者は、この地に正義が実現されるためならば、筆者自身、どれほどの代価を払い、どれほど長い間、待ち望んでも、惜しくないと思った。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイ4:6)と主イエスが言われた通り、この地に正義がなされ、悲しむ者が慰めを得、義に飢え渇く者が心飽かされ、心の清い者が神を見、「正義と平和は口づけし」(詩編85:11)、正義が天から注がれるのを見るためならば、筆者は幾度、自分を完全に投げ出しても惜しくない。

それほど、神の義というものを、生きてこの目で見たいと熱望したのだ。

だから、筆者は、自分が待ち望んでいる判決を、まだ見てもいないうちから、喜びを持って迎えている。むろん、筆者の訴えはこれでは終わらず、まだすべては始まりに過ぎないのだが、筆者は己が人生で初めて受けとる判決を、神聖なもののように厳かに、そして、喜びを持ってすでに心に迎えている。

神の御心にかなう決定に、心厳かに、深い感動をもって、思いを馳せる。そして、その感動はきっと、生きている間中、なくならず、心に思い返す度に、主の恵みに満ちた御業を思い起こしては、感謝するものとなるのではないかという気がする。

山上の垂訓をもう一度引用してみよう。

心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3-12)

この目に見えない神の国の秩序がこの地に信仰によって引き下ろされることを、どれほど筆者は強く心に待ち望んでいることか。むろん、これは地上の法廷における判決のことだけではない。やがて来るべき神の完全な宣言に、どれほどまでに強く思いを馳せ、それを今から待ち焦がれていることだろう。

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)
  
我が神よ、悪人どもが、私について何を言っているか、あなたはご存じですね。
彼らは、私の神は、もの言わぬ、私を助け得ない神であって、
私はむなしいものにより頼み、いたずらに期待をかけて、
強がっているだけだと言って、私を嘲笑っているのです。

でも、私は知っています。
あなたは決して私を失望させる方ではないと。

主よ、あなたがどんな方であるか、私は生きてこれまでずっと確かめて来ました。
あなたは偉大な神であって、恐るべき方であると知っています。

あなたが私に下された自由の決定を覆すことのできる人は誰もいません。
あなたは正義と真実と平和を愛される方。
寄る辺なく、打ち捨てられた者の悲しみを慰め
虐げられた者を決して蔑まれることのない方。

主よ、あなたご自身が正義であり、真実であり、平和であり、
すべての問題に対する解決なのです。

ですから、この地のすべての生きとし生ける者の前で、
あなたの正義を現して下さい。

私は喜びを持ってあなたを迎えます。
見えないものを、見ているもののように、すべての苦しみを忍び通して、
あなたの解放のみわざを慕い求め、信じて待ち望むのです。

主よ、あなたはご自分を頼みとするすべての人々を
決して見捨てず、失望に終わらせない方です。
私はそれを固く心に信じており、かつ知っています。

来たりませ、主よ、
私たちはどんなにかあなたの義を慕い求め、
あなたの下さる平和を待ち望んでいることでしょう。

義に飢え渇いた民は、あなたの正しい裁きを知って、
ご自分の民のために、十字架で命を捨てて下さったあなたのはかり知れない愛に、
深く頭を垂れて、御名を讃え、とこしえに賛美し、感謝するでしょう。


* * *


「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。」
(エフェソ5:25-28)

パウロの言葉には多くの比喩がある。いや、比喩というよりも、二重の意味が込められている。先に挙げた「婦人」(Ⅱテモテ2:8-15)に関する箇所もそうであるし、以上のくだりも、夫婦に向けられたものである以上に、キリストと教会との関係を指す。

そのことは、パウロが次のように述べている通りである。

「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31)

自分が独身でありながら、パウロがこのように語っていたとは、驚くべきことのようだが、地上の夫婦は単なる絵図に過ぎず、真のリアリティは、キリストと教会にあるのだから、それを知っていたパウロが、このように述べたのは、不思議ではない。

キリストと教会との関係は、自己満足のためでない、肉の堕落が一切入り込む余地のない、清い愛の結びつきである。

それは神が先に独り子なるキリストを地上に送って、私たちの贖いのために十字架につけ、命を捨てて下さったその愛に、私たちの側からも、命をかけて応答する愛の結びつきである。

このような愛の中で、信じる者がキリストに固く結ばれ、離れることなく一つにされ、キリストの愛の中を生きることが、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」であり、それこそが、まさに私たちのテーマである、小羊の婚礼のために整えられた花嫁エクレシアの姿を指すのだ。

キリストはすでにみわざを成就されて、神の右に御座に座しておられる。次はエクレシアが信仰によって地上でキリストに応答してわざをなし、それによって、天に収穫をもたらし、天的な喜びの中で、主と共に生き、そして栄光の内に入れられる秘訣を学ぶべき時なのだ。

「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない」というのは、どういうことだろうか。

それは、罪の痕跡が一切なく、堕落して、汚れた、古き肉の痕跡の一切がない、全く清められ、聖なるものとされて、神の目に完成した花嫁のことである。

今、すべての被造物が、虚無に服し、産みの苦しみの中にあるのは、このように神の目に全く聖なるものとして完全に贖われるときを待っているからである。

黙示録には、新しい天と地が到来し、花婿なるキリストが教会を花嫁として迎えられ、その時には、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)とある。

だが、これはただ単に、私たちが空を見上げて待ってさえいれば、いつか主が天から降りて来て、私たちのためにすべての不幸を拭い去って下さる、というような受け身の意味ではない。

これは、私たちの側からの、贖いの成就に向けた信仰の前進によって勝ち取られるものなのだ。教会が、信者が、完全に贖われて、罪の痕跡がなくなり、すべてが新創造とされ、キリストの性質で満ちあふれるためには、私たち自身が、戦い抜いて、試練をくぐり抜け、大胆に前進して行かねばならないのである。

その程度に伴い、神は教会をご自分と同じ性質にあずかるものへと変えて下さるであろう。そのようにしてすべてが新しくされればこそ、サタンのわざが打ち壊され、この世を覆っている悲惨、不幸、災い、嘆きが取り除かれ、年老いた蛇が、天から投げ落とされ、私たちの自由の喜びが満ち溢れるのだ。

その新しい秩序は、すでに信じる者一人一人の中に来ている。だが、その贖いがどれくらい前進して完成に近づくかは、あくまで私たちの信仰にかかっている。

「でも、ヴィオロンさん、主は私たちのためにすでにすべてをなして下さったのではないですか?」と問われるだろう。

もちろん、そうだ。すべては主が私たちのためになして下さったことであって、私たちの側の努力によるものではない。だが、主がなして下さったことを、私たちは自分の手を伸ばし、自分の意志と行動によって、受け取る必要がある。

神の恵みを、御言葉の確かさを、自分の人生でどれだけ生きて実際として経験できるのかは、あくまで私たちの信仰による応答にかかっているのだ。

もちろん、地上にいる間には、完全な聖化には誰も到達しないが、それでも、神が私たちのために用意して下さっている完全に、近づくことはできる。主が求めておられる、古きものの痕跡が何も残らない、純潔の花嫁なるエクレシアの姿に、神の喜ばれるキリストのご性質を備えた新しい人に、限りなく、近づこうとすることはできるのだ・・・。

だが、そのために必要なのは、信者に対するより深い十字架の死の働きである。信者の存在が、真にサタンに取って恐るべき脅威となるのは、信者の堕落した肉に、完全に主と共なる十字架の霊的死の効果が働き、サタンの足場となるものが、その人の内に完全になくなる時である。

肉はサタンの作業場である。従って、それが生きている限り、私たちには、あの忌むべき堕落の痕跡がつきまとい、罪と死の法則が働き、私たちはこれに振り回されて苦しまねばならない。信者の肉に対して十字架の死の働きが成就していないうちは、サタンはいくらでも信者を利用することができる。

だが、主の十字架の死が、私たちの自己、堕落した肉に真に完全に及ぶ時、私たちはその時こそ、大胆にキリストと一つになって、暗闇の勢力に対して、御言葉の衝撃力を存分に行使し、そして神のみわざを体現して生きることができるようになるだろう。

このように、信者がどれくらいキリストと一つになっているかが、信者が、神の御思いをどれくらい現して生き、かつ、キリストのために、その信者の受けた苦難が、神の目の前に、大いなる信仰の従順として尊ばれるかの基準なのである。

私たちが信仰によって、キリストと完全に一つであると、はっきりと確信を持って言える時に、サタンが我々に対してなした攻撃は、我々個人に対しての攻撃でなく、キリストに対する攻撃であると、神はご覧になる。それに対しては、私たちの側から防衛する前に、神御自身が応答される。

そこで、 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と大胆に言える程度にまで、つまり、生きるにも死ぬにも、すべての瞬間が、完全に主のためであると、はっきりと言えるほどまでに、私たちは、霊において彼と一つにならなければならないのである。

そんなことができるのだろうか。いや、信仰によって、そのことを、切に知りたいと願うならば、主は必ず私たちに知らせて下さるであろう。

もう一度、以下の御言葉を繰り返しておく。

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)


 「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。
(Ⅱテモテ2:11-13)

2019/03/15 (Fri) 神の義なる裁き

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。


   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。
 
 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。
 
 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。
 
 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

先の記事でウェーバーを取り上げたとき、彼はその著書で、社会は、宗教すなわちキリスト教の最先端の信仰の運動が原動力となって動かされていることを指摘したのだと書いた。

ウェーバーは、マルクスのように下部構造(見えるもの)が上部構造(見えないもの)を規定すると考えることなく、むしろ、その逆に、見えないものこそ、見えるものを規定するのであって、その決定的要素となるものが、キリスト教であるとみなしたのである。

その考えはおおむね聖書の原則に合致している。現代人のほとんどは、宗教と社会の動きや、国際情勢は別物であって、キリスト教の最先端の信仰回復運動が社会を動かしているなどとは考えていないであろう。
 
しかし、聖書の原則は、すべてのものは、神の御言葉によって創造され、また御子によって支えられているのであり、目に見えるものは、見えないものから出来たのであって、見えるものが見えるものを生んだのではないというものだ。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)

すべての聖書に基づかない宗教や、あらゆる詐欺師・錬金術師も、毎日、何とかして少しでも労苦せず、無から有を生み出し、濡れ手に粟式に富が手に入らないかと考えを巡らせていることであろうが、私たちを真に命の豊かさに至らせる秘訣は、まことの命である聖書の正しい御言葉にしかない。

そこで、もしも私たちが、真に今、世界で起きていることは何なのか知りたいと願い、また真に無から有を生み出すような豊かで生産的な人生を送りたいと願うならば、まず第一に、聖書の神の御言葉をよく研究してこれを理解し、神の御心(関心事)がどこにあるのかをとらえることが必要となる。

そうして、私たちの関心が、神御自身の関心と重なるならば、次の御言葉が私たちの人生の上に成就して、どれほど多くの錬金術師・魔法使いが束になっても、彼らには絶対に生み出すことのできない本当の命の豊かさに、私たちはあずかって生きることができるだろう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
神の命の豊かさに支えられて、平安のうちに生きる秘訣は、神の国の秩序を飽くことなく追い求めて生きることにのみある。

先の記事で、終末へ向けての神の関心事は、小羊の婚礼にこそあると書いた。それはエクレシアが完成に向かい、人がキリストのための花嫁なる教会として整えられることである。

だが、イエスのたとえでは、婚礼に招かれたほとんどの人々は、自分の生活の心配、自分の命の心配であまりにも心がいっぱいだったので、神の関心事にはまるで注意を払わず、神に招かれていたのに、祝宴に出かけず、その喜びと栄光に共にあずかる機会を逸し、悪い場合には、神の使いに反逆して滅ぼされ、あるいは、準備が出来ていないのに婚礼に出席しようとして、外の暗闇に追い出されてしまった。

このように、神の関心事に全く心が及ばない人々が、御心の外を、計画の外を歩いていて、祝福にあずかるわけもない。だから、真に祝福を受けようと思うなら、信者は神の関心事の中に入り込まなければならない。

先の記事で、イエスが幼子だったとき、イエスの両親が彼を長子として主に献げる儀式を行うため、エルサレムの神殿に入ったとき、シメオンとアンナが出迎えたことを書いた。シメオンはもちろんのこと、アンナも、シメオンがイエスを腕に抱いて神を誉め讃えているのを見て、幼子がメシアであることをすぐに悟って、人々にその到来を告げに行った。

彼女について書かれたくだりは、次の通りである。

「また、アシェル続のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ2:36-38)

筆者は「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」というフレーズがとても好きである。この箇所は、ダビデの詩編の次の箇所を思い出させる。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り
 主を仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

  災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:4-6)

ダビデが願ったように、私たちも命のある限り、主の家に住むこと、すなわち、夜も昼も、神に仕え、神を賛美し、その御心を尋ね求めて生きことができる。

そのようにして、主の御心の中に入り込み、主の関心事が何であるのかを第一に追い求めて生きるならば、シメオンとアンナが幼子イエスを見た瞬間に、それがメシアであることが分かったように、私たちも、神のなさることの一つ一つの意味を、誰から説明を受けずとも、分かるようになるに違いない。
 
あらゆる宗教には、大抵、その宗教の聖典の研究だけに従事して生きる人々がいる。その人々は、一切、世俗の仕事をしないで、神の宮に仕えることだけを己が職業としている。
  
もしも私たちが真に願うならば、私たちも、自分を完全に主に捧げて、神の御心のためだけに自分を注ぎだして生きる人となることができるであろう。神はそのようにして御自分を待ち望む民を、これまでにも用意して来られたのであるが、これからも、そうした心意気の信者を歓迎して下さることを筆者は信じて疑わない。

これが、筆者がプロテスタントと資本主義を離れると言っていることの意味内容である。つまり、御言葉の奉仕者として、神に直接、養われて生きることは、いつの時代にも可能なのであって、その願いを持つ者は、ぜひそうすべきである。プロテスタントを離れる必要性については後述する。

* *  *

さて、聖書は、万物は、御子によって、御子のために造られたとしている。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:15-20)

神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座におつきになりました。」(ヘブライ1:3)

このように、御子は万物が創造される前からおられ、さらに、万物は御子によって、御子のために創造されたのであり、今でも、御子によって支えられているのだと分かる。

筆者は訴訟を進めるに当たり、法体系を調べた。その際に行った作業は、たとえるならば、まるでこの世という巨大な高層ビルの裏側に入り込み、人々が行き交う美しいエントランスや清潔なエレベーターではなく、誰も目にしない、立ち入ることもできないような、暗く、埃っぽい地下に降りて、むきだしのコンクリートの壁や、頑丈な鉄骨にじかに手を触れ、ビル全体の基礎構造を確かめているような具合であった。

人々は美しく整えられたビルの表面しか知らないので、その裏側や、ビルを支えている構造がどうなっているのかを知らない。法体系は、この世を支えている見えない秩序であって、いわば、ビルの基礎構造のようなものである。

むろん、この世では必ずしも定められた秩序の通りにすべてが動いているわけではないが、それでも、法は生きていて、この世に起きる諸事情を規定し、修正し、違反を罰することもできる。

だから、筆者は自らの訴えを書くに当たり、まずはその構造を調べに行き、その中に入り込んで、この基礎構造を支えとして自分の主張を作り上げた。そうすると、それはもはや単なる一個人の意見や主張のレベルではなくなり、しっかりとした基礎の裏づけに支えられる頑丈なものとなるのである。
  
この世の法体系は、世界を構成している見えない霊的秩序の絵図のようなものである。聖書は、イエスは神の御言葉そのものであって、万物はこの方によって生まれ、この方によって支えられていると言う。御言葉は、この世を規定している見えない秩序であるだけでなく、やがて来るべき秩序でもある。

そこで、私たちがこの世を生きるに当たり、自分の主張や生き様を、真に確かなものとしたいと願うならば、永遠にまで変わることのない、御言葉の堅固な基礎構造によりかかり、その裏づけを得て、これと一体化して、自分の歩みを進めるのが一番安全なのである。
 
私たち自身は、弱い被造物に過ぎないかも知れないが、御言葉と一つになることによって、それが私たちの強さとなり、力となり、私たちの主張が、神の御前に正しいと認められるために必要なすべての根拠を提供してくれる。神の御言葉こそ、全世界を成り立たせている基礎構造であり、私たちの個々の人生の中でも、基礎構造をなすべきものである。
 
しかし、万物は御子によって創造されたにも関わらず、アダムの堕落と共に、サタンに引き渡されて堕落していまった。それゆえ、現在の目に見える被造物全体は「虚無に服して」(ローマ8:20)いる。だが、神は被造物をこの虚無から救い出し、復活の輝かしい栄光の中に入れようとなさっておられるのである。

このことについて、オースチンスパークスの今日の論説は非常に興味深いので引用しておきたい。

 「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(6)

 さて、これはとても実際的なことです。イエス・キリストを経ないまま神に至ろう、とあなたは思っていますか?御父の定めでは、すべてが御子と共にあります。さて、これは包括的であって、被造物全体を網羅します。彼の中で、彼を通して、彼に至るよう、万物は創造されました。それゆえ、被造物全体についての神の定めは御子と共にありました。すなわち、神は御子という立場に基づいて、創造された万物に対応されるのです。

さて、被造物がその最初の君主であるアダムを通して神の御子の諸々の王権を破り、それらを敵対者であるサタンに手渡した時、神は何をされたでしょう?パウロの素晴らしい言葉によると、神はただちに、全被造物のまさに中心に、「失望」を書き込まれたのです。御子の嗣業に対する彼の妬むほどの情熱は、彼は御子の外の敵対者や反逆をご覧にならないことを意味します。パウロは「被造物は虚無に服した」(ロマ八・二〇)と述べています。

そしてその瞬間から、被造物の中心に失望があります。これは人にも言えます。人のいかなる達成、成功、偉業、発明にもかかわらず、最後の結末は失望です。私たちの周囲の被造物の中に魅力的で美しいものがあったとしても、それはそこそこ進んだ後、色あせて死んでしまいます。すべてが死と腐敗に服しています。これは失望です。定めは破られました。

栄光、豊かさ、究極的完成は、御子に対して定められました。御子の外側では、そのように定められておらず、すべてが失望です。そうではないでしょうか?どうして人々にはこれが分からないのでしょう?他の誰も知らなくても、私たちクリスチャンはそれを知っています。

しかし、神はほむべきかな、私たちは神の定めに戻って、この失望は一掃されました。神は私たちのもとに、御子における定めに、キリストとの合一に戻って来て下さいました。


 
 聖書は言う、すべての被造物は、贖われるときを待ち望んで、産みの苦しみを味わっていると。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。


見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

以上のくだりは、先の記事でも触れたパウロの言葉、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)とも重なる。

ここで「婦人」とは人類を象徴していることを説明したが、パウロがこのくだりで、「子を産むことによって救われます」と指しているのは、人類がすべての被造物と共に、体の贖いにあずかり、完全に滅びの縄目から完全に解放されて、主と共に栄光に輝く復活の自由に達すること、また、そうなるまでの間、「産みの苦しみ」が存在することを表していると言えよう。
   
従って、ここでは、「産みの苦しみ」を耐え忍んでいるのも人類(全被造物)ならば、その苦しみの結果として、新しく生まれて来るのも人類(全被造物)なのだと言える。これは新創造が生み出されるまでに、全被造物が耐え忍ばねばならない産みの苦しみであって、そうして、すべてが新しくされる時には、人はさらにキリストに似た者とされて、彼と共に栄光にあずかる神の国の共同相続人とされている。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:15-18)
 
そこで、現在、全被造物が味わっている「産みの苦しみ」は、被造物が完全に贖われてキリストと同じ姿に、主の栄光を映し出すものへと変えられるための過程なのであり、そのときには、もはや人類(被造物)は虚無に服するものではなくなり、本体なるキリストと同じ姿を持ち、同じ栄光を持つ者とされる。

今日でも、私たちはキリストにあって霊による一致の中に入れられているが、その時には、さらにこの一致が完全なものとなる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)
 
この約束を通して、どれほど神が人を愛し、人を重んじて下さっているかが分かるはずである。人はあくまで造られた被造物に過ぎないにも関わらず、神はキリストを通して、人に、ご自分を知ることのできる方法を備えて下さり、キリストはご自分を愛する人々に、御自身を現して下さり、ご自分に似た者となる道を開いていて下さるのである。

ここには、創世記で蛇が人類をそそのかしてささやいた、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)という、神の御言葉を排除して、人が神の性質を盗み取ることでしか、神に至りつけないという発想の入り込む余地が全くない。


  
図1 聖書における神と人との主従関係   
 
これに対し、依然として、蛇(サタン)が人類をそそのかすにあたり、述べたように、神は故意に、人をご自分よりも劣った卑しい存在として創造され、たのだから、人がこの劣った性質を克服するためには、神の意志に反してでも、神の神聖な性質を盗み取るしかないという考え(神に対するコンプレックス)に基づき、人が神の御言葉によらず、自分自身の意志と力で、神の性質を盗み、神と置き換わろうとしているのが、グノーシス主義だと言えよう。

グノーシス主義には一応、「原父(プロパテール)」という存在があり、聖書の父なる神に似たような存在が設定されている(真の至高者と同一)が、これはほとんど存在しないも同然の、形骸化した「お飾りの神」のようなものである。

すでに述べた通り、この至高者は、物言わぬ「鏡」であり、「虚無の深淵」であり、自らの意思によって力強く万物を生み出す存在ではなく、むしろ、被造物に受動的に自らの姿を映しとられて、自らの意思とは関係なく、信的存在を「流出」させることを、制御することもできない「神」である。

これは父としての権威と力を持たない「沈黙する神」と呼んでも良いだろう。この「沈黙する神」は、初めから他者から模倣され、自らのリアリティを侵害されて、神聖を簒奪されており、それに抵抗できない。
 
この思想では、「父なる神」が自らの意志に基づき、人を自分に似せた存在に創造したのではなく、神(至高神)の性質が「流出」(コピー)されることによって被造物が誕生している。すでに述べた通り、まだ「神々」なる被造物の誕生当初の段階では、この「流出」は「簒奪」と呼べるほどの故意性がなかったにせよ、それでも、誕生の段階から、すでに被造物の側からの至高神への浸食・侵害が起きていたことは確かなのである。

このことを見れば、グノーシス主義の思想の本当の主役は、神にあるのではなく、被造物の方にあるのだと分かる。つまり、これは「違法コピーを正当化し、偽物をオリジナルと置き換えるために造られたさかさまの思想」と言って良く、至高神の性質を盗み取るようにして生まれて来たあまたの被造物の存在を正当化するために造られた思想なのである。
  
グノーシス主義でも、原父(創造主―オリジナル)は父性原理を、被造物(被造物―コピー)は女性原理を代表するものとみなせるが、この思想は、母性原理(被造物―コピー)を「主」として、父性原理(創造主―オリジナル)を「従」とする、一言で言ってしまえば、神と人との主従関係を逆転して、目に見えるものを目に見えないものの根源に置き換える唯物論である。

これと同じ特徴が、万物を生み出す命の源は、女性原理にあるとみなして、女性原理を神とするすべての思想に流れており、むろん、「神秘なる混沌」「母なるもの」(女性原理)をすべての生命の源とみなす東洋思想にも、同じ発想が流れている。

従って、女性原理をすべての生命の源であると掲げているすべての思想は、要するに、見えるものを見えないものの根源としているのであり、根本的には唯物論だと言えるのである。

グノーシス主義では、至高者が「虚無の深淵」とされていること、すでに見て来たが、ここにも、神と被造物との関係を逆転させようとする聖書とは真逆の原則が表れている。聖書においては、被造物こそが堕落して虚無に服しているのであって、グノーシス主義はこれをさかさまにして、父なる神を虚無に服させたのである。

さらに、存在の流出に加えて、よりはっきりした形で、被造物が至高神の意志を無視・侵害して、神の神聖を模倣・簒奪したのが「ソフィアの過失」である。この事件は、ちょうどエバがエデンの園で、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」(創世記3:6)木の実を取って食べて、自ら神のようになろうとしたのと同様に、被造物が、己が情と欲に基づいて、自らの感覚を喜ばせることによって、神のようになろうとした企てとみなせる。

以上で確認した通り、聖書における「産みの苦しみ」とは、被造物の贖いが完成するまでのプロセスを指すため、これを考慮するならば、グノーシス主義のプロットにおいて、ソフィアが単独で子を産もうとした行為は、「被造物が、神(の意志)を抜きに、単独で己が贖いを完成しようとした」試みを指すことは明白となる。

ひとことで言ってしまえば、ソフィアの行為は、堕落した被造物が自分で自分を義とし、贖おうとしたこと、つまり、コピーに過ぎないものが、自らの力で本物のオリジナルに置き換わり、被造物であることをやめて、神の完全に達しようとした企てを意味する。

そして、グノーシス主義では、ソフィアの企てが、失敗に終わった後も、そのミッションは人類に受け継がれ、「母の過ち」を修正することが、人類の使命とされるのである。


   
図2.グノーシス主義における神と人との主従関係の転倒
  
こうして、グノーシス主義は、その骨組みだけを取り出せば、人が己の肉の情欲を満足させることによって、神へと至り着こうとする、聖書とは真逆の思想なのであって、そのために、この思想は、被造物の側から、創造主に対して、果てしない「模倣と簒奪」を繰り返すことを正当化するのである。
 
そこには、人類の罪も堕落もなければ、肉に対する十字架の死もない。だから、この思想に生きる人は、己が欲するままに生きた挙句、神の神聖に至りつけるかのように考えるが、それによって生み出されるのは、神とは似ても似つかない失敗作だけである。
 
このようなものが、女性原理を万物の生命の源とみなす思想の根本に存在するのであり、さらに極言すれば、そこには、人が己が情欲を「神」とする思想があるのだと言えよう。そのことを指して、パウロは次のように言った。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

「腹を神」としているとは、肉と欲を神としているという意味であり、「恥ずべきものを誇りとし」とは、罪に生きることをあたかも正しいことであるかのように唱道していること、「この世のことしか考えていません」とは、己の欲を満たしてくれそうな、目に見えるものだけにより頼んで生きていることを指す。

だが、パウロは、これに続けて、私たちキリスト者が目指しているのは、そのようなものでは断じてなく、私たちは、主と共なる十字架において、この世に対してははりつけにされて死に、自分自身の肉に対しても死に、罪と死の法則に従ってではなく、命の御霊の法則に従い、目に見える都ではなく、あくまで見えない都、見えない天を目指していると述べる。

私たちは、そこからキリストが再び来られ、最終的に、私たちが完全に贖われて、もはや二度と堕落した肉に支配されることのない、キリストと同じ栄光の体へ変えられることを待ち望んでいる。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)

そこで、結論として、これまで繰り返して来たように、今日、キリスト教における神への礼拝は、目に見える指導者、目に見える場所から解放される必要がある。

プロテスタントの牧師制度は、カトリックの聖職者制度や、荘厳で立派な礼拝堂を建設するための献金集めとしての免罪符の支払いから信者を解放した代わりに、今度は、目に見えないキリストを、目に見える指導者(牧師)に置き換え、聖書の御言葉を、信者がキリストではなく牧師を介在して受けとらざるを得ない状態にとどめたことで、改革を中途半端に終わらせただけでなく、最終的には、目に見える被造物(母性原理)を、創造主なる父なる神(父性原理)以上に高く掲げるという唯物論的逆転に陥ってしまった。プロテスタントの礼拝が、特定の教会の礼拝堂に固定化されていることも、同様の原則に基づく。

これでは結局、イスラエルの建国を促し、地上のエルサレムに再びユダヤ教の神殿を建設することで、キリストの再臨が促されると言っている人々と、原則はまるで同じである。
 
「目に見えるもの」が、贖いの完成へとつながる神聖な要素であるかのようにみなし、その発展を促すことで、人類の贖いが成就するかのように思い込んでいるという点で、これらはグノーシス主義と同じ、さかさまの理論であり、プロテスタントは牧師制度や教会籍制度を固定化することで、そこへ落ち込んでしまったと言える。
 
こうした「さかさまの理論」を主張し始めた人々は、「目が開け」るどころか、その顔に覆いがかかり、見えないキリストの栄光を映し出すことができなくなり、かえって、神を「虚無」に服させて、自分自身が神であるかのように錯覚するようになる。

そして、高慢になって、神の御名を自分たちの栄光を打ち立てるために利用し、己が肉の情欲を満たすことこそ、己が存在を神聖化する秘訣であるかのようにはき違えるようになる。
 
だからこそ、牧師制度からは離れなければならないのである。それはこの制度が、被造物を神と置き換えようとする思想の体現だからである。むろん、固定的な礼拝堂からも離れなければならない。その点で、カトリックからのみならず、プロテスタントからも脱出する必要があり、両者ともに信仰回復運動としての意義は失っている。

これを離れなければならないのは、そこにあるのが、被造物を父なる神以上に高く掲げ、目に見えるものを、目に見えないものの根源に置き換えようとする、本質的には唯物論と何ら変わらない聖書への反逆の思想だからである。
 
このような汚れた思想と分離せず、それを受け入れてしまうと、人は信仰によらず、己が情欲に従ってしか歩めなくなる。そして、このような転倒した教え、神不在の理論の中に身を置いていながら、同時に、まことの神を知りたいと願っても不可能なのである。

このことは、今日、当ブログが、目に見える指導者に従い、目に見える礼拝堂に通わないことを、恫喝と悪罵の言葉と共に非難し続けている人々が、どれほど常軌を逸した不法を働く者どもになり果てているか、その様子を見ても、よく分かると言えるだろう。

必至になって目に見えるもの(指導者、礼拝堂、儀式その他)を擁護し、あたかもそれが神聖であるかのように主張する彼らの姿は、いわば、目に見えるものを神とするプロテスタントの行き着く終着点なのである。今やプロテスタント全体が、このような不法の子らの恫喝を前に、抵抗する力を失ってしまったが、それはすでに述べた通り、プロテスタントが、教会がより本来的な姿へと回復されていく変遷の一過程でしかなく、その中には、過ぎ去らなければならない古き要素が含まれていたにも関わらず、これと訣別しなかったことの必然的な結果である。

今やプロテスタントの中の「目に見えるもの」(神への礼拝を目に見える牧師や礼拝堂の中に見いだそうとする制度)が、まことの神への礼拝の妨げとなっているのに、この宗派は、「目に見えるもの」を擁護して、これを神聖であるかのように保存しようとしたために、神の御言葉を退け、その結果として、上記のような不法の者たちと手を結び、行きつく先が同じとなってしまったのである。

プロテスタントであろうと、カトリックであろうと、神の御心から遠く離れたものを、あたかも神聖なものであるかのようにいつまでも擁護し続けていれば、誰しも、結局、サタンの虜となり、暗闇の勢力に引き渡されて行くのは仕方がない。

 
図3 キリストは神と人との唯一の仲保者であるから、エクレシア(教会)における兄弟姉妹はみな対等な関係にあるはずである。

図4 ところが、プロテスタントでは、牧師が神と人との唯一の仲保者であるキリストに置き換わってしまったために、神の栄光が反映しなくなり、神が無きに等しい者として形骸化した(唯物論的転倒)。
 
おそらくカトリックもプロテスタントも、ずっと前から、生きた信仰を見失って、目に見えるものを、目に見えないものに置き換える神不在の理論と化していたからこそ、その只中から、マザー・テレサや奥田牧師(もしくは遠藤周作)が唱えたような、人間を不条理の中に見捨てて「沈黙する神」のイメージが、発生して来たのだと言えよう。
 
このように人類の苦しみを見捨て、助けることもできないで、苦難の中に置き去りにして行くだけの、弱々しく沈黙する神は、聖書の神ではなく、御言葉からは、あまりにもかけ離れている。むしろ、これは人間が虚無に服させて自ら骨抜きにしてしまった神の姿であると言えよう。

しかし、人が目に見えるものの中だけを巡り続けている限り、まことのリアリティである神は決して見いだせない。その代わりに、このように人類を助ける力を全く持たない、無きに等しい神しか、見えて来るものはない。それは神というよりも、無力な人類が、自分自身の姿を、鏡に投影するようにして作り出した自己の似像に過ぎない。つまり、人間が自ら神を規定しようとした結果、彼らの神は、そのようにまで弱体化し、虚無にまで服してしまったのである。

だからこそ、こうした汚れた教えからは「エクソダス」せねばならない。そして、私たちは目に見えるものに従ってではなく、自分たちを本当に生かす力のある、目に見えない御言葉に従って、見えない都を目指して歩むのである。
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。<略>神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

さて、今回は、前回の続きとして、グノーシス主義および東洋思想といった、非キリスト教的異教の思想の中には、決まって「ハガル―シナイ山―バビロン」の原則が流れている、ということに触れておきたい。

ハンス・ヨナス教授が述べた通り、グノーシス主義思想とは、特定の時代に限定された特定の思想を指すものではなく、時代の様相が混迷を極め、人々の思いの中に悲観が広がり、政治的にも危機的状況となり、明白な希望が失われているような時代には、いつでもどこでも、発生しうるものであり、さらに、この思想は、独自の神話を持たないため、あらゆる宗教や思想の中にもぐりこみ、それを換骨奪胎しては、自分に都合よく変えてしまう性質がある。

グノーシス主義は、いわば、常に何かの思想や宗教哲学などを宿主として、そこに潜り込み、寄生して成り立つ模倣と簒奪の思想なのである。

グノーシス主義には、独自の神話はないが、一応、神話的なプロットの原型はあり、果てしない模倣と簒奪を正当化するためだけに存在しているこの思想では、その神話的プロットも、当然ながらその原則に沿ったものとなる。それが「存在の流出」という考え方である。

まず、グノーシス主義思想では、真の至高者なる神が存在するとされるが、その神はあまりにも神々しい存在であるため、(一部の説では「独り子」以外には)、誰も見たことのない「知られざる神」であるという。

それにも関わらず、どういうわけか、その「知られざる神」が、この思想では「虚無の深淵」や「鏡」にたとえられ、その深淵である「鏡」に至高者の姿が映し出されることによって、無数の神的存在(アイオーン)が流出したとされる。

だが、これは非常に奇怪千万な話である。至高者にも関わらず、グノーシス主義の神は、自分の存在が「流出」することを自分でコントロールできなかったというのだろうか。

このことから、グノーシス主義の「神々」(アイオーン)は、至高神自身の意志とは関係なく、至高神の存在を模倣・簒奪して、まるで神の神聖が盗み取られ、漏洩されるようにして「流出」したものであると言える。つまり、グノーシス主義のプロットの中では、至高者は、神であるにも関わらず、自己存在が、自己の意志と関係なく「流出」することを、自分で制御することができない存在なのである。

このことを考えると、グノーシス主義における「神々」(アイオーン)の誕生は、聖書の神が、被造物を創造された時のように、主体的で能動的な創造行為ではなく、むしろ、被造物の側から、至高者の存在を盗み取り、これを模倣して自らを生んだも同然のものであるとしか言えない。

その点で、グノーシス主義の「神」は、至高神という名とは裏腹に、最初から自己存在を他の被造物によって見られ、知られ、盗み取られる受け身の神であって、主体ではなく、客体なのだと言えよう。
 
こうして、グノーシス主義の「神」は、最初から客体として、他の被造物に存在を盗み取られ、侵害されているのであって、神と呼ばれるにはふさわしくない存在である。その受動性、沈黙、弱さ、非独立性は、聖書における神が、「わたしはある」と言われ、自らの意思によって被造物を創造し、被造物が神に背いて堕落した際には、被造物を追放したり、滅びに定めることのできる、強い権限を持ち、人格と意志を持った能動的存在であることとはまさに逆である。
 
グノーシス主義の「至高神」は、たとえるならば、「御真影」のようもの言わぬ神であって、無数の「神々」であるアイオーンの存在に神的位置づけを与えるためのアリバイ、もしくは、お飾りのような存在に過ぎないと言えよう。

この点で、グノーシス主義は、最初から、神と被造物との関係を逆転し、至高神という神を規定しながらも、その神を「知られざる神」とすることによって、至高神に「リアリティ」があるのではなく、むしろ、至高神の神聖を映し取って生まれた模造品である被造物なるアイオーンの方に、「リアリティ」が存在するとして、神と被造物の関係性を逆転していると言えるのである。
 
結局のところ、グノーシス主義とは、本体である至高神から、その神聖を流出させて、模倣・簒奪して、無数の影のようなアイオーンたち(模倣者たち)を作り出すことを正当化するために生まれた思想であると言える。(ちなみに、アイオーンの間にもヒエラルキーがあって、至高者から遠ざかるに連れて、質の悪いコピーのようになって行く。)

そういう意味で、グノーシス主義とは、終わりなき質の悪いコピペを正当化する模倣と簒奪の思想なのであって、本来ならば、万物の創造主でなければならない神に主体性を持たせず、かえって神を客体として、被造物の方に主体性を与える「さかさまの思想」だと言えるのである。

さらに、グノーシス主義思想において、当初のアイオーンの流出は、アイオーンの側から至高者の神聖を盗み出すために意図的に起こされた反乱ではなかったが、この思想においては、その後、「ソフィアの過失」というさらに決定的な出来事が起きる。

グノーシス主義の神的世界では、すべてのアイオーンは男性名詞と女性名詞のペアとなっており、そのペアからしか子供は生まれないとされているにも関わらず、最下位の女性人格のアイオーンであるソフィアが、単独で子を産もうと欲して、何かしらの禁じ手を使って、おそらくは至高者なる神を「知り」、その「過失」の結果として、醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)という子を生んで、この子を下界に投げ捨て、この悪神が、下界(地上)の支配者となって、悲劇と混乱に満ちた暗闇の世界がそこに創造され、悪神の子孫として人類が生まれたというのである。

ここで、ソフィアが単独で子を生んだことは、至高者の側からの願いに基づくものではなく、ソフィアの側からの意識的な反逆として、彼女が至高者の神聖を盗み取って、故意に流出させたものであるとみなせる。

このように、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、繰り返し、神の神聖が、被造物の側から盗み取られていることが分かる。そして、後になるほど、その盗みは、より意図的で、より悲劇的で、より悪意あるものとなって行く。

そして、そのように、至高神の意志を介在せずに、被造物の側からの違反によって、神の神聖が不当に盗み出された結果、グノーシス主義では、人類が誕生したとされているのであって、父を不明として、ソフィアの過失をきっかけとして生まれた人類は、初めから悲劇を運命づけられている。

それでも、この思想においては、どういうわけか、父不明のはずの人類には、至高者のものである「神聖な霊の欠片」が宿っているため、人類は、自分の直接的な父である悪神よりも知恵があり、悪神を否定的に超えて、真の至高者へ立ち戻ることができ、それによって、「母の過ち」を修正することができるとされている。

グノーシス主義では、悪神ヤルダバオートが、聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されるため、この思想では、聖書の神を徹底的に愚弄して、これを出し抜くことが、あたかも人類の正しい使命であって、人類を真の神に回帰させることにつながるかのようにみなされるのである。

だが、ここで人類の母とされているソフィアが、どうやって単独で子を生んだのかがはっきりしない以上、グノーシス主義においける人類が、真に至高神から神聖な霊の欠片を受け継いでいるとする客観的な根拠は何もない。何よりも、グノーシス主義思想それ自体において、至高神は、人類を己が子孫と認める発言を行ってないのである。

それにも関わらず、人類が、自分は至高神の子孫であると名乗り出て、自分を天界に認知せよと求めただけで、至高神に連なる者となれるとしていること自体が、これまたこの思想のどうしようもない模倣と盗みの原則をよく表していると言え、グノーシス主義の世界観の中では、誰かが「自称」しさえすれば、何ら客観的な根拠がなくとも、それが真実であるかのようにまかり通ることをよく示している。

このように、グノーシス主義思想とは、初めから、誰かが自分よりも優れた他者の性質を模倣し、盗み取り、本体を映したおぼろげな映像に過ぎないものを、本体と置き換える盗みと反逆を正当化する思想なのであって、そこには、神に逆らって堕落した人類が、不当に神の性質を盗み、これを模倣・簒奪することにより、聖書の神を否定して、自ら神であると宣言して、神と置き換わろうとする悪魔的思想が流れていると言えるのである。

ところで、この悪魔的思想の「模倣と簒奪の原則」は、インターネットの掲示板でも、顕著に見て取れよう。今日、掲示板は、そこに集まった悪意ある人々が、現実世界に存在する様々な事物の姿を歪めて映し出しては、存在を流出させてディスカウントするための「鏡」となっている。

そこで、悪意ある人々は、掲示板で、この世の事物をターゲットとして映し出し、そこで自分たちが盗み取って流出させた歪んだ映像の方が、本体を凌ぐリアリティであるかのように言いふらし、自分たちにこそ、本体を見定める資格があると主張して、本体のオリジナリティを侵害し続けている。

さらに、そうして存在を盗み取られた人々の一部も、ヴァーチャルリアリティである掲示板の方に、あたかも「リアリティ」があるかのような虚偽を信じ、掲示板に書かれた誹謗中傷を苦にして、自殺に追いやられたりまでしている。

こうして、本体とその歪んだ映像に過ぎないものの主従関係を逆転し、本体の質の悪いコピーに過ぎず、影に過ぎないものを、本体であるかのように偽り、出来そこないのコピーの大量作成によって、本体を凌駕し、駆逐することを狙っている点で、掲示板は、本質的に、グノーシス主義と同じ、見えない悪意による「模倣と簒奪の原則」に基づいて成り立っていると言えるのである。

さらに、グノーシス主義における、人類の悲劇の誕生は、先の記事で触れたハガルとイシマエルの運命にも重なる。

ハガルは、女主人であるサラの考えによって、アブラハムに子をもうけるために与えられた奴隷であるから、自ら反逆として、アブラハムをサラから奪ったのではなかった。

とはいえ、アブラハムはハガルの夫ではなかったわけであるから、やはり、ハガルの行為は一種の盗みのようなもので、なおかつ彼女が子を産んでから、奴隷であるにも関わらず、自らが女主人であるかのように思い上がって、サラを見下げるようになったことは、主人らに対する反逆であったと言えないこともない。

また、ハガルが子を生んだことは、肉の働きであっても、信仰によるものではなかったわけであるから、その点でも、ハガルの行為は、本来は至高者を知る権限がなかったにも関わらず、己が欲望に基づき、至高者の子を欲したソフィアの過失に極めて近いものであったと言える。

さらに、ソフィアがその「過失」ゆえに天界から転落しかかり、その子であるヤルダバオートが下界に投げ落とされたように、ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放されて、父のいない母子家庭になったという点も似ている。

そして、彼らは自分たちが行ったことが深い罪であって、自分たちが神の御心にかなわない不完全な存在であるとは決して認めたくないがゆえに、その後も、自分たちは神の家の正統な後継者であるかのように偽って、約束の子らを迫害し続けるのである。

このように見て行くと、グノーシス主義では、「信仰によらず、己が肉の力によって、神を知り、その実としての子を生みたい。」という、人類の肉の欲望を肯定する思想が、一貫して流れているのだと言えよう。

従って、これは一貫して、人類が自らの下からの生まれを、あたかも神聖なルーツであるかのように偽り、自らを神とする、聖書における大淫婦バビロンを肯定する思想だと言えるのである。

グノーシス主義は、どんな思想や宗教の中にでも入り込むものであるから、その発生は洋の東西も問わず、東洋思想において「母が脅かされている」とする考え方の中にも、これと本質的に全く同じものが流れていると言える。

東洋思想においても、万物を生み出す源は「神秘なる混沌」という母性原理にあるとされており、万物の生命の源は、「父」ではなく「母」にあるとされる。そこに我々は、被造物(女性原理=人類)と、創造主(父性原理=父なる神)との主従関係の逆転が起きている様子を見て取れる。

ちなみに、グノーシス主義思想の研究者である大田俊寛氏は、このような思想の発生を、古代社会においては、DNA鑑定もなく、母が誰であるかは明白であるが、父が誰であるかを確かめる術がなかったことに見いだし、「擬制(フィクション)としての父」という考えを提示している。

それに基づき、大田氏は、古代社会から家父長制から現代に至るまで、人類が父によって支配されるという考え方は、「フィクション」に過ぎないのだとし、そこから、聖書の父なる神もフィクションに過ぎないという考えを導き出すのである。

このことは、むろん、「父なる神」をフィクションどころか、「わたしはある」という絶対的なリアリティであると定義する聖書の真理に悪質に反する虚偽であることは明白であるが、グノーシス主義の核心を表すたとえとしては、言い得て妙である。

グノーシス主義では、ソフィアの過失が、具体的にどんな事件であったのかが全く明らかにされていないことを見ても分かるように、要するに、この思想においては、何らかの形で「子」が生まれさえすれば良いのであって、本当の父が誰であるかは、さして重要ではないのである。
  
もちろん、グノーシス主義は、このような考えが、聖書の唯一の神である「父なる神」を否定し、キリストと教会の関係に基づく一夫一婦制を否定するものであることを知っていればこそ、己が思想が、本質的に、キリスト教における、揺るぎないリアリティであるまことの父なる神に対する裏切り、反逆であり、キリスト教に悪質に敵対するものであることを無意識的に知っており、そうであればこそ、この思想の中には、潜在的にキリスト教(の「父なる神」)に対する恐怖、すなわち、いつか自分たちがキリスト教の「父なる神」によって罰せられることになるという恐怖が内包されているのである。

そのため、この思想には、父のいない母子家庭に生まれ、父からの正当な承認がないのに、神聖な神の子孫を自称(詐称)する人類が、いつか「父なる神」から罰せられることになるため、その御怒りから自分たちを守らなければならないという、自己防衛と被害者意識による連帯願望が流れていると言えるのである。

なお、東洋思想においては、この自己防衛の思想が「禅」という形で結晶化し、また、手段としての自己防衛は、「武士道(武術)」という形で結実した。武士道の根底にあるものは、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怒りと憎しみの感情であって、それは神の御怒りに満ちた裁きから身を避けようとする人類の自己防衛の手段であり、永遠から切り離されて滅びに定められた者たちの生んだ悲痛な「死の美学」であることも、すでに確認した通りである。

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 (上二つの画像は、映画『龍の正体』から)



筆者はこれと同じ自己保存・自己防衛の願望を、戦前・戦中の日本の国体思想に、またユダヤ教メシアニズムにも、見出さずにいられない。

第二次大戦中の日本の沖縄戦における集団自決、そして、マサダの集団自決などに流れる思想は、根本的に全く同じものであると筆者はみなしている。つまり、それは、まことの父なる神の承認によらず、父なる神を避けて、人類という「母子」が、自らの力で自分たちのルーツを浄化して、神からの恵みと承認によらず、自力で神の神聖に至り着くことができるかのように主張して、自己防御しようとした結果、必然的に行きついた悲惨な滅びなのである。

そこには、己の力で神に達しようとする者が、霊的に罰せられずには終わらないというバベルの塔と同じ原則が働いている。

おそらく今日、ホロコーストを生き延びたユダヤ人によって建設されたイスラエルでも、自己防衛のための団結の願望は、以前にもまして強いものとなっていることが予想される。それがパレスチナ住民たちに対する攻撃の激しさの中にも現れているのだろう。

なお、プロテスタントの宗教改革の指導者であったマルチン・ルターは、ユダヤ人をキリスト教に改宗させることができると望んでいた間は、ユダヤ人を擁護していたが、それが不可能であることが分かってからは、ユダヤ人を激しく批判したことも知られている。今日、ルターのそうした言説は、反ユダヤ主義を促すものとして非難の対象となることもあるが、いずれにしても、人は神の恵みによって、信仰によってしか救われないとするキリスト教の信仰が、人は律法を守ることによって救われるとしているユダヤ教の理念と相容れないことは確かであるから、ルターによるユダヤ人への批判の中には、不思議とは言えない部分がある。

こうしてキリストを拒んだがゆえに、都を破壊されて失い、さらにプロテスタントのキリスト教徒からも激しい非難と迫害を受け、全世界に散らされた歴史的過去は、今日のユダヤ人には、トラウマに近い感情を残しているのではないかと想像される。それだからこそ、その悲痛な歴史的記憶の只中から、より一層、強固な自己保存、自己防御の感情が生まれて来るのであり、それが彼らのメシア待望という、聖書の神に最終的に逆らう終末の反キリストを生み出す原動力となって行くのではないかと考えられるのである。

人は信仰によって何かを獲得するためには、神が定められた約束の時まで、忍耐強く御言葉の成就を待つことが必要とされる。それは、あくまで神の決定としての御言葉の成就であって、人間の側からの欲望に基づく思いつきではなく、その約束を成就して下さるのも神である。そして、神がご自分の約束の成就される時、それは決して人間の肉欲を満足させる形で成し遂げられることはない。

だが、人は肉の情欲によって、神の約束を待つことができず、性急に自分で自分を保存しようとする。そして、常に感覚的満足(快楽)を欲し、己が力で成果を勝ち取ることで、神を喜ばせることができると考える。
 
しかし、どんなにそこに悲痛なまでの幸福への希求の思いが込められていたとしても、神の御言葉に立脚しないものは、すべて真のリアリティを持たず、永続性がない。だからこそ、肉によって生まれる子は、霊によって(信仰によって)生まれる子よりも、先に勢力を増して勝ち誇るがものの、その勢いは、ほんの一時的でしかなく、肉によって生まれたものは、神の計画によらないため、初めから滅びを運命づけられ、すぐに消えて行くのである。
 
「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

そこで、当ブログでも、己が肉の力を誇り、この世の栄耀栄華を誇るクリスチャンに偽装する指導者らの唱える幸福が、草のようにしおれ、消失して行くのは当然だと主張している。

当ブログでは、とある宗教指導者の家庭に降りかかった様々な不幸のことにも言及したが、これもまさに、以上で述べた通りのバビロンに働く聖書の原則が成就したものに過ぎず、筆者が述べている個人的な見解ではない。

これに対する唯一の処方箋は、悔い改めて神に立ち帰ることである。

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

かつてイスラエルの家が責められているように、今、プロテスタントの神の家と呼ばれる教会やその牧者たちも責められているのである。

だが、彼らが依然として、悔い改めを退け、己が富、権勢、支持者の人数、家庭、所属団体の規模、安楽な生活などを誇り、貧しい主の民を蔑み、嘲笑し続ける限り、彼らの繁栄は束の間の風のように過ぎ去るであろう。

主イエスが地上の都エルサレムに対して下された宣告と、その後のエルサレムの歴史、そして人類の肉に対する滅びの宣告を、私たちは思い出すべきである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
  
だが、何一つ絶望する必要がないのは、エクレシアは最終的に、「夫ある女よりも多くの子を生む」と言われており、バビロンの栄耀栄華をはるかに超えて、永遠に至る栄光を約束されているからである。

だからこそ、私たちは地上にある間、己が権勢や、能力を誇らず、より一層、神の御前に「夫を持たない女」「やもめ」「子を生まない女」として、キリストだけを待ち望んで生きるつつましい純潔の花嫁、聖なる天の都を目指したいと願うのである。

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